18
ケレタロは、メキシコシティの北西222km、標高1815m に位置する都市で、ケレタロ州の州都である。豊かな自然 と温暖な気候に恵まれ、今日では自動車関連・食品加工・ 家電製造などの産業が発達し、その人口は59.6万(2005年) を数える。ケレタロの地名は、先住民プレペチャ人の球戯 場という意味に由来する。この地には古くからプレペチャ 人、トルテカ人、オトミ人、チチメカ人などの先住民が住 んでいたが、1531年、スペイン人が入植を開始し、植民都 市となった。17~18世紀にかけては商工業が発達し、メキ シコ第3の都市にまで発展した。19世紀にはイダルゴによ る独立運動など、メキシコ近代史の重要な舞台ともなった。 旧市街地を歩くと、サンフランシスコ教会(写真①)を はじめとして、多くの教会を見ることができる。植民都市 時代のケレタロは、フランシスコ会の修道士によるアメリ カ南西部と中央アメリカへの布教の拠点都市としても機能 したと考えられている。旧市街地をほぼ南北に走るコレヒ ドーラ通りを境として、西側はスペイン人居住区として開 発され、碁盤目状の道路に沿ってメキシコ・バロック様式 の建造物が建ち並ぶ。東側は先住民居住区で、曲がりくね った道路が特色となっている。 1996年、世界遺産に登録されたケレタロ歴史史跡地区の 東部には、18世紀につくられた有名な水道橋が延びている (写真②)。廃水などにより川の汚染が進み、飲料水不足が 深刻であった当時、この町の資産家ウルティア侯爵は新し い水源を求めて調査を実施し、ケレタロ東部の山麓の集落 ラ・カニャーダに泉を発見した。彼はスペインのセゴビア 水道橋を思い出し、この泉から取水する計画を立案、1738 年にサンタクルス修道院を終点とする水道橋を完成させた。 その長さは地下水路の部分を含め約5km(水道橋は約4 km)に達した。終点には、「水の箱」(写真③)と呼ばれる 水汲み場が設けられ、長らくケレタロの住民に飲料水を提 供してきた。その後、新たな上水道の整備などが進み、老 朽化した水道橋は大部分が壊されたが、現存する水道橋は 砂岩と煉瓦を漆喰で塗り固め、見事に修復されている。そ れは長さ1280m、最も高い箇所が23mで、74個のピンクの アーチを有する(写真④)。修道院の87歳の神父によると、 この水道橋の水は1953年まで流れていたという。 展望台から眺める水道橋は雄大で、まるで町を見渡すよ うに架けられた長い陸橋のようである。水道橋の下を歩い てみたくなったが、時間不足で実現することができなかっ た。今となっては残念でならない。 (愛知県立東海南高等学校 柿原 昇ケレタロと水道橋 地理の写真館 このコーナーの「カラー写真」を募集しています。 海外巡検などで撮影された地理的写真を、資料編集部 「地理・地図資料」係までお送りください。

ケレタロと水道橋 - 帝国書院...① ② ③ ④ ケレタロは、メキシコシティの北西222km、標高1815m に位置する都市で、ケレタロ州の州都である。豊かな自然

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  • ●① ●②

    ●③ ●④

     ケレタロは、メキシコシティの北西222km、標高1815mに位置する都市で、ケレタロ州の州都である。豊かな自然と温暖な気候に恵まれ、今日では自動車関連・食品加工・家電製造などの産業が発達し、その人口は59.6万(2005年)を数える。ケレタロの地名は、先住民プレペチャ人の球戯場という意味に由来する。この地には古くからプレペチャ人、トルテカ人、オトミ人、チチメカ人などの先住民が住んでいたが、1531年、スペイン人が入植を開始し、植民都市となった。17~18世紀にかけては商工業が発達し、メキシコ第3の都市にまで発展した。19世紀にはイダルゴによる独立運動など、メキシコ近代史の重要な舞台ともなった。 旧市街地を歩くと、サンフランシスコ教会(写真①)をはじめとして、多くの教会を見ることができる。植民都市時代のケレタロは、フランシスコ会の修道士によるアメリカ南西部と中央アメリカへの布教の拠点都市としても機能したと考えられている。旧市街地をほぼ南北に走るコレヒドーラ通りを境として、西側はスペイン人居住区として開発され、碁盤目状の道路に沿ってメキシコ・バロック様式の建造物が建ち並ぶ。東側は先住民居住区で、曲がりくねった道路が特色となっている。 1996年、世界遺産に登録されたケレタロ歴史史跡地区の東部には、18世紀につくられた有名な水道橋が延びている

    (写真②)。廃水などにより川の汚染が進み、飲料水不足が深刻であった当時、この町の資産家ウルティア侯爵は新しい水源を求めて調査を実施し、ケレタロ東部の山麓の集落ラ・カニャーダに泉を発見した。彼はスペインのセゴビア水道橋を思い出し、この泉から取水する計画を立案、1738年にサンタクルス修道院を終点とする水道橋を完成させた。その長さは地下水路の部分を含め約5km(水道橋は約4km)に達した。終点には、「水の箱」(写真③)と呼ばれる水汲み場が設けられ、長らくケレタロの住民に飲料水を提供してきた。その後、新たな上水道の整備などが進み、老朽化した水道橋は大部分が壊されたが、現存する水道橋は砂岩と煉瓦を漆喰で塗り固め、見事に修復されている。それは長さ1280m、最も高い箇所が23mで、74個のピンクのアーチを有する(写真④)。修道院の87歳の神父によると、この水道橋の水は1953年まで流れていたという。 展望台から眺める水道橋は雄大で、まるで町を見渡すように架けられた長い陸橋のようである。水道橋の下を歩いてみたくなったが、時間不足で実現することができなかった。今となっては残念でならない。

    (愛知県立東海南高等学校 柿原 昇)

    ケレタロと水道橋地理の写真館

    写・真・募・集 このコーナーの「カラー写真」を募集しています。 海外巡検などで撮影された地理的写真を、資料編集部 「地理・地図資料」係までお送りください。

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    ダールフール問題と二つのアフリカ

    大阪大学大学院教授

    地図にみる現代世界

    栗本英世

    ダールフール問題とはなにか

     2003年に勃発したダールフール紛争は、アフリカ連

    合(AU)や国連などによる調停と介入にもかかわら

    ず、2009年10月の時点でも平和的解決への展望はひら

    けていない。2004年に国連の担当責任者によって「世

    界最悪の人道危機」と形容された状況は、現在まで継

    続している(『新詳地理資料 COMPLETE 2009』p.165

    「クローズアップ 21世紀最大の人道問題 ダール

    フール紛争」、『新詳 資料地理の研究』p.213「蘯ダー

    ルフール紛争」などを参照)。

    村人に対する大規模で広範な攻撃と掠奪を繰り返して

    きた。スーダン政府はこれを放置あるいは教唆した。

    これが、300万人に達する大量の難民と国内避難民が

    発生した原因である。

     ダールフール問題の根本原因としては、スーダンと

    いう国家の構造のなかで、この地方の人々が政治・経

    済的に疎外され放置されてきたことがあげられる。ス

    ーダンでは、1955年から1972年までと、1983年から

    2005年までの2度にわたって内戦が戦われた。南部の

    政治・経済的な疎外と周辺化が、内戦の根本原因であ

    るといわれている。ダールフール地方は北部に含まれ

    るが、疎外と周辺化の程度は、南部より深刻である。

    インフラの整備、行政が提供する教育・医療などのサ

    ービスの状況は、南部より劣悪なのである。ダールフ

    ール地方の政治的指導者たちは、平和的な手段で事態

    の改善をはかった。その試みがことごとく失敗し、対

    話による政府との交渉の余地がなくなった時点で、反

    政府勢力は武装蜂起したのであった。

     もちろん、ダールフール問題をトータルに理解しよ

    うとすれば、こうした説明だけでは不十分である。隣

    国であるチャドやリビアとの関係や、アメリカ合衆国

    や中国との関係を含む国際関係も重要な要因である。

    これには、ダールフールに埋蔵されるといわれる石油

    などの天然資源の問題も含まれる。より深いレベルで

    の理解を求めるなら、アフリカ大陸という広大な空間

    と、長期的な時間の枠組みのなかにダールフールを位

    置づけることが不可欠である。

    二つのアフリカ─サハラ以北とサハラ以南─とサヘル地帯

     世界の陸地面積の5分の1以上を占める広大なアフ

    リカ大陸は、サハラ以北のアフリカとサハラ以南のア

    フリカとに大別される。これは、第1に地理上の区分

    である。サハラ以北のアフリカは、地中海沿岸の一部

    が地中海性気候であることを除くと、内陸部は砂漠気

    候である。サハラ以南のアフリカは、サバナ気候を主

    要な特徴とし、赤道付近には熱帯雨林気候、東部と中

     武力紛争が発生した時点に戻って、紛争の当事者を

    確認しておこう。反政府の武装組織としては、「スーダ

    ン解放運動/スーダン解放軍」(SLM/SLA)と「正義

    と平等運動」(JEM)の二つがあった。この二つの組

    織のゲリラ部隊が、政府軍と政府が組織した民兵「ジャ

    ンジャウィード」との戦闘を開始したのが、武力紛争

    の発端であった。その後、SLM/SLAとJEMは分裂を

    繰り返し、新たな反政府組織も名乗りをあげたため、

    状況は錯綜しているが、ダールフール出身者の諸反政

    府組織対政府軍および政府系民兵という対立の基本的

    構図は一貫している。

     民兵「ジャンジャウィード」は、一般市民あるいは

    『新詳地理資料 COMPLETE 2009』p.165

  • 2 3

    部の高原には温暖冬季少雨気候がみられる(『新詳高等

    地図 初訂版』p.109「気候(一)」など参照)。第2に、

    二つのアフリカは、歴史、文化、民族・人種上の区分

    でもある。図式的に単純化すると、サハラ以北は民族

    的にはアラブ人、宗教的にはイスラームが優越した地

    域であり、地中海世界や中東との歴史的なつながりが

    深い。それに対して、サハラ以南のアフリカは、きわ

    めて多様な言語=民族集団から構成されているが、「サ

    ブサハラアフリカ」あるいは「ブラックアフリカ」と

    よばれるように、黒人の世界である。宗教的には、キ

    リスト教、イスラームおよび「アニミズム」(自然崇

    拝、精霊崇拝)ともよばれる伝統宗教が混在している。

    サハラ以北の影響を受けた、西アフリカや東アフリカ

    では、ムスリム(イスラム教徒)の割合が高い(『新詳

    地理資料 COMPLETE 2009』p.132「珈世界の宗教

    分布」、p.163「珎アフリカの民族(2 アフリカの言

    語分布と内戦)」、p.164「玻アフリカの宗教」、『高等

    学校 新地理A 初訂版』p.104-107「玻中央アジア・

    西アジア・北アフリカの生活・文化」、p.108-111「珀

    サハラ以南のアフリカの生活・文化」、『新詳 資料地

    理の研究』p.208-209「珎世界の人種・民族・宗教」、

    p.247「玳アフリカの歴史・民族・宗教」、p.249「玻

    北アフリカの国々」、p.250「珀アフリカ中部の国々」、

    p.251「珥アフリカ南部の国々」など参照)。

     サハラ砂漠の南側には、サヘル地域が大西洋から紅

    海まで帯状に広がっている。サヘルとはアラビア語で

    「岸辺」を意味する。この地域はまさに、サハラとい

    う「海」を越えてたどり着く岸辺であった。サヘル地

    域は、古来より二つのアフリカが接触し、混交する舞

    台であった。サハラ砂漠を南北に縦断する交易は、紀

    元8、9世紀頃から活発になり、北からは塩やガラス

    製ビーズ、宝貝などの交易品が、南からは金、奴隷、

    コーラの実などが北方に送られた。こうした長距離交

    易でもたらされた富は、11世紀から13世紀にかけて、

    ガーナ王国やマリ王国が繁栄する基盤となった。これ

    らの国家は、多民族から構成される広域を支配したた

    め帝国ともよばれている。ニジェール川沿いのジェン

    ネやトンブクトゥは、交易都市として発展し、北から

    伝わったイスラームが西アフリカに浸透していく中心

    地となった(『地歴高等地図-現代世界とその歴史的

    背景- 最新版』p.34-35「漓西アジア・北アフリカ・

    地中海」など参照)。

     サヘル地域は、人々の東西の移動の回廊でもあった。

    西アフリカのムスリムは、サヘルを東進して現在のス

    ーダンに至り、紅海を渡って聖地メッカに巡礼したの

    である。この巡礼は、現在も継続している。

    ダールフールという歴史地理的空間

     サヘルの東部に位置するダールフール地方は、西ア

    アフリカの宗教分布

    『新詳地理資料 COMPLETE 2009』p.164

    アフリカの言語分布と内戦

    『新詳地理資料 COMPLETE 2009』p.163

    ホワイトアフリカホワイトアフリカ

    ブラックアフリカブラックアフリカ

  • 2 3

    フリカのサヘルと同様、二つのアフリカの境界地域で

    ある。この地方では、17世紀に、のちにダールフール・

    スルタン国とよばれることになる王国が勃興した。西

    アフリカの諸王国と同様、この王国もサハラを縦断す

    る交易によって繁栄し、18世紀には西方のコルドファ

    ン地方にまで勢力を拡大した。「ダール」とはアラビア

    語で土地のことであり、「ダールフール」は、フール人

    の地を意味する。フール人はスルタン国の支配階層を

    構成した民族である。彼らは、標高3000mを超す主峰

    を有するマッラ山の周辺に居住している。降雨に恵ま

    れた山麓は、サヘル地域では例外的に農業に適した豊

    かな地域である。

     ダールフール地方は、人々の東西および南北の移動

    のいわば十字路に位置していた。したがって、この地

    方はいわばアフリカの縮図であり、住民は様々な時代

    に移住した多様な民族から構成されている。スルタン

    国という名称が示すように、フール人はイスラーム化

    していたが、アラブ化はしていなかった。ダールフー

    ルのアラブ人は牧畜民であり、スルタン国の社会階層

    においては、下層に位置づけられていた。

     現在のスーダンにおいて、ダールフール地方は政治・

    経済的に疎外されており、それが2003年以降の武力紛

    争の根本原因であることはすでに述べた。しかし18世

    紀の時点では、ダールフールはむしろ中心地だったの

    である。エジプトとは、ナイル流域を経由せず、サハ

    ラを縦断する交易ルートによって直接結ばれていた。

    19世紀以降は、ナイル流域がスーダンの政治・経済的

    中心になり、ダールフールの地位は低下していく。

    1874年には、スルタン国はエジプトの支配下に入り、

    政治的独立を失った。しかし、1898年に王国は再興さ

    れ、イギリスの軍門に下った1916年まで存続した。

     ダールフール紛争を考えるとき、かつてこの地域が

    繁栄した王国の支配下にあり、その社会はフール人を

    頂点としつつ多民族から構成されていたこと、アラブ

    人やイギリス人による干渉に抵抗して、王国の独立を

    20世紀の初期まで維持したという事実は重要である。

    サヘルの砂漠化とダールフール

     1960年代以降、サハル地域はたびたび干ばつに見舞

    われている。砂漠化の進行、つまりサハラ砂漠の南方

    への拡大は、深刻な環境問題となっている(『新詳地理

    B 初訂版』p.302-303「2 進行する砂漠化~サヘル

    を例に~」、『新詳 資料地理の研究』p.50-51「珀砂

    漠化」、『新詳高等地図 初訂版』p.35「滷サヘルの砂

    漠化と都市への人口集中」などを参照)。

    サヘル周辺の家畜の増加率と砂漠化の激しい地域

    『新詳地理B 初訂版』p.302滷

    ルルヘヘササ

    『新詳高等地図 初訂版』p.35

     ダールフール地方も、1984年に大規模な干ばつと飢

    餓に直撃された。これに対して、当時のスーダン政府

    が無策であったことが、住民の反政府感情を高める原

    因のひとつとなった。継続する自然環境の悪化は、人々

    の社会・経済的な関係にもおおきな影響を及ぼしてい

    る。それまでの共存・共生的な関係が崩れ、農業と牧

    畜にとって必須の資源である土地と水をめぐる争いが

    激化したのである。ダールフール紛争が、「アラブ系牧

    畜民」と「アフリカ系農耕民」とのあいだの、資源を

    めぐる争いであると説明されることが多いのはこのた

    めである。

     ただし、この図式は事態を単純化しすぎている。世

    界各地の他の武力紛争と同様に、ダールフール紛争の

    要因は複合的であり、歴史地理的条件、民族間関係、

    国家との関係、国家間の関係、さらには国際社会の介

    入といった諸要因の総体のなかでとらえる努力が必要

    であろう。

  • 4 5

    世界の今知りたい!

    中国の食卓にのぼる日本の高級農産物東京農業大学教授 菅沼圭輔

     今世紀に入り日本の農産物輸出が伸びている。表1に示

    したように2007年の農林水産物・食品の輸出額は、2002年

    の1.6倍になっている。国・地域別の輸出割合を見ると、香

    港の18%に続いて、アメリカ合衆国(以下、アメリカ)へ

    16%、韓国13%、中国13%となっている。

     日本の農産物は、おもに所得水準の高い国へ輸出されて

    おり、台湾や香港へは贈答品向けなどとしてりんごやぶど

    うの輸出が伸びている。米は寿司などの日本食ブームによ

    りアメリカ、台湾、香港への輸出が増えている。

     本稿で取り上げる中国への輸出も2002年の1.9倍となっ

    ている。中国は、1990年代半ばからGDP(国内総生産)の年

    平均伸び率が9.3%と、高い成長を実現しており、首都で

    ある北京や上海など都市部では高所得者層が現れ、2008年

    秋の世界金融危機以降においても8%という高い経済成長

    率を維持しようとしていることから、「世界の市場」として

    注目されている。

     日本から中国への中国向けの農産物・食品の輸出が増え

    ているのは、こうした中国市場の成長を背景としている。

    表1 日本の農林水産物・食品の輸出額(単位 : 億円)

    農林水産物の食品の輸出額

    対前年増加率

    うち農産物の輸出額

    2001年 2,514 ̶ ̶

    2002年 2,759 9.7% 1,646

    2003年 2,789 1.1% 1,588

    2004年 2,954 5.9% 1,658

    2005年 3,310 12.1% 1,772

    2006年 3,739 13.0% 1,946

    2007年 4,337 16.0% 2,220

    資料:『食料・農業・農村白書参考統計表 平成20年度版』p.60、61

     中国市場で日本産農産物が受け入れられるようになる背

    景には、都市住民の食生活の変化と「日本ブランド」とも

    いえる日本製品の高品質イメージの浸透がある。

     都市の食生活には大きな変化が起きている。表2に示し

    たように食費が家計費に占める割合(エンゲル係数)も1990

    年代後半に50%以下になり、2008年には都市部で37.9%に

    なった。北京、上海はそれを下回り、それぞれ32.2%、35.5%

    都市部における消費生活の変化と「日本ブランド」

    「世界の市場」として注目される中国

    であった。

     同時に人々の食生活の中身にも変化が現れた。都市部の

    食費支出に占める主食向け支出をみると、2007年には7.7%

    と1割を切り、主食よりも副食を食べるようになっている。

    北京では6.4%、上海では5.4%とさらに低い。主食の内容

    について見ても、従来小麦粉を主食としていた北京などの

    北方地域でも米が中心になり、 長江(揚子江)流域以南の南

    方地域では粘り気の少ないインディカ米を消費していたが、

    現在ではジャポニカ米や食味のよいインディカ米の消費が

    拡大している。近年では野菜の残留農薬問題や牛乳へのメ

    ラミン混入問題といった社会問題の発生を背景に食の安全

    性に対する関心・危機感が強まってきた。

     さらに食費に占める外食費の割合も増え、1995年には

    9.1%に過ぎなかったが、2005年にはじめて20%を超えた。

    北京でも23.8%、上海は28.1%となっている。都市ではスー

    パーマーケットや飲食業が拡大し、大都市のオフィス街で

    働くサラリーマンが昼食時や帰宅途上に食事やショッピン

    グをしたり、共働き世帯が休日に安売り広告を見て大量に

    買い物をしたり、さらに一人っ子政策により一人しかいな

    い子どもと親子三人連れで休日に一種のレジャーとして街

    に出かけたり、さらに結婚披露宴をホテルのレストランで

    催したりするという新しい都市生活スタイルを生み出して

    いる。

     このように市民は、食の安全・安心と簡便性・レジャー

    性を重視するようになってきた。

     中国人の日本製品に対する高品質イメージは1980年代の

    輸入自動車や家電製品から始まっている。当時の国産品が

    壊れやすかったため、高性能で長期間使っても壊れない日

    本製品は高い評価を得ていた。

    表2 都市住民の食生活の変化

    年次 エンゲル係数食費の内訳

    主食費率 外食費率

    1990年

    1995年

    2000年

    2005年

    2006年

    2007年

    2008年

    54.2%

    50.1%

    39.4%

    36.7%

    35.8%

    36.3%

    37.9%

    12.2%

    14.8%

    9.6%

    8.3%

    7.9%

    7.7%

    ̶

    ̶

    9.1%

    14.6%

    20.8%

    22.2%

    21.0%

    ̶

    95~07年変化比率 -13.8% -7.1% 11.9%

    (出所)中国国家統計局編『中国統計年鑑』各年版、中国統計出版社。

  • 4 5

     また、日本から米やりんごなどの品種が導入されて国内

    で栽培されるようになり、高い評価を得ている。さらに、

    テレビ報道や、日本渡航者の増加などを受けて、寿司や刺

    身といった日本の食文化を知る人が増えてきた。食の安

    全・安心という点では、2008年9月にメラミンが混入した

    粉ミルクを摂取した乳幼児に健康被害が発生した後に、中

    国に進出した日本メーカーは「自社農場で一貫生産」「日本

    の先端技術で管理」という点を強調して安全な牛乳の供給

    を拡大している。

     このように近年では、中国市場において、「高品質、高性

    能」「安全、安心、おいしい」という「日本ブランド」への

    信頼が築かれてきた。これが日本産農産物の輸出の大きな

    動機となっているのである。

     日本産農林水産物や食品の輸出拡大のために、日本政府

    は「21世紀新農政2007」で平成25年までに輸出額を1兆円

    規模に伸ばすために、検疫、PRなどの面で支援を行うこ

    とを決定した。さらに、2007年にはNPO法人日本食レスト

    ラン海外普及推進機構(JRO)が設立され、日本食レスト

    ランの信頼度を高め、日本食の普及を通じて、日本食材の

    日本産農産物の輸入と中国市場での評価

    輸出促進を図る動

    きが活発化してい

    る(図参照)。

     その中で、北京や上海などの大都市は有力な市場とみな

    されており、わが国の東北・中国地方の各県でもりんご、

    もも、なし、ぶどうなどの果実や野菜、日本酒、水産物の

    輸出に取り組みつつある。

     中でも注目を集めたのが日本産米の輸出である。2007年

    6月には新潟産コシヒカリと宮城産ひとめぼれの計24tが

    輸出され、売り切れとなった。その後、100tが追加され、

    北京、上海など13都市で販売された。しかし、その後、売

    れ行きが落ちて、2008年上半期で約30tが売れ残ってしま

    った。

     日本産米のおいしさについてのイメージが定着している

    にもかかわらず、売れ残ってしまったのは、価格が高すぎ

    たからである。中国は近年50~70万tの米を輸入している

    が、そのほとんどはタイからのインディカ米によって占め

    られている。国内でも東北地方を中心にジャポニカ米や日

    本品種の栽培が拡大している。こうした高品質の米と比較

    しても、日本産のコシヒカリやひとめぼれの価格は、10~

    表3 中国における精米小売価格(単位:円 /kg)1kgあたりの価格日本円換算

    新潟産コシヒカリ 1,500宮城産ひとめぼれ 1,400中国産一般品種  40~50中国産高級品種  90~110中国産日本品種  うちコシヒカリ 170  あきたこまち 140タイ産香米    190~230

    資料:農林水産省総合食料局食糧貿易課「日本産精米の輸出について」平成20年6月24日

    注:北京・上海での店頭調査

    20倍となっている(表3参照)。

     2004年に上海市民の高所得世帯184世帯を対象に行った

    アンケート調査によると、日本産米を購入したことのある

    世帯は、おいしさと安全性を評価しているが、購入しなか

    った世帯は価格が高すぎる点を指摘している。ただ、日本

    産米の価格が普段購入している米の価格4元(60円)/kgの

    2~3倍程度まで下がれば購入するかもしれないと答えて

    いる。

     米に限らず果物・清酒など日本産食品は、おいしさや高

    級感の面で高い評価を得ているが、価格の高さがネックと

    なっており、日本産米の売れ行きの停滞の原因となってい

    るのである。

    中国への日本産農産物の輸出の課題と展望

     日本産米の高さと売れ行きについて、輸出に関わった流

    通業者から「日本産米は贈答品向けなので、販売価格は下

    げないほうがよい」という意見と、「継続して販売するため

    には価格の引き下げが必要」という意見とが出されている。

     生活レベルがすでに高く、普通の人にはなかなか手が出

    ない「日本ブランド」を手に入れたい高所得者層にターゲ

    ットを絞るのであれば、価格面でも高級感を維持すること

    が必要であろう。しかし、多くの人々は、みんなが認める

    有名ブランドを手に入れて、生活レベルの上昇を実感した

    がっている。「日本ブランド」がそうした需要にこたえるに

    は、手頃な価格で大量に提供することが求められる。上記

    の二つの意見は、新興市場の中国に「日本ブランド」が今

    後どのように切り込んでいくかの分岐点に立っていること

    を示している。

     日本の高級農産物の輸出が、両国の食料需給に影響する

    ことはあり得ない。日本について見れば、2006年の農産物

    の全輸出額は国内の農業粗生産額の2.3%にしか過ぎない

    し、中国から見ても、年間の米消費量1億2,800万t、輸入

    量70万tに比べれば、日本からの米輸入はほとんど意味を

    もたない量にとどまっている。しかし、生産者の高齢化と

    国内販売の停滞に悩む日本の農業にとっては、新しいビジ

    ネスチャンスの一つであるといえよう。

    参考資料:菅沼圭輔編著『中国・上海の市場と福島県食品の展望』 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所 福島県国際経済交流協議会、2005年3月農林水産省編著『食料・農業・農村白書参考統計表 平成20年度版』 社団法人時事画報社 2008年9月

    図 日本の農林水産物・

    輸出促進マーク(英語

    版)(左)と日本食レス

    トラン普及シンボルマ

    ーク(右)

  • 6 7

     私は9年間日本に住んでおりますが、国籍はウクラ

    イナです。ウクライナという国の名前は日本の皆さん

    もよくご存知だと思います。しかし、ウクライナの生

    活・文化、たとえば、習慣、暮らしなどについてはあ

    まり知られていないのではないでしょうか。

     そこで、今回いくつかのおもしろい例をあげてウク

    ライナの生活・文化についてご紹介したいと思います。

    1.ウクライナの旗(прапорУкраl‥ни)*

     ではまず、ウクライナのシンボルである旗について

    ご説明しましょう。

     ウクライナの旗の公式の誕生は、1992年1月28日で

    す。その図柄は実にシンプルで、幅3:高さ2の長方

    形が中央で二つの色に分割されています。配色は上が

    青、下が黄です。

     このように非常にわか

    りやすい色柄なのですが、

    その意味は実はひととお

    りではありません。由来

    からご説明します。

     ウクライナ国旗の図柄は、もともとはキリスト教の

    伝統的な様式に由来しています。そこでは、黄色は火

    を、青色は水を象徴していました。現代では黄色は、

    豊かな小麦畑を象徴しており、その上に美しい青い空

    があるというように考えられています。さらに、哲学

    上はまた別の定義です。ここでは黄色のストライプが

    「知恵」、青のストライプが「意思」のように考えられ

    ています。

     ウクライナ国旗の出番として記憶に新しいところで

    は、サッカーの2006年ワールドカップです。ウクライ

    ナが出場したことは皆さんも覚えていらっしゃること

    かと思います。あの時、われらがシェフチェンコをは

    じめとする代表選手たちが身に付けていたユニフォー

    ムは、そう、青×黄のカラフルなものでした。このよ

    うにいろいろな意味を持ったウクライナ人のシンボル

    は、国民に愛されており、いろいろな場面で登場して

    くるものです。

    2.春の祭りイースター(пасха パスハ)と

    女性の日(жiночийдень ジェンスキイデーニ)

     次に、特徴的な二つの春の祭りについてご紹介しま

    しょう。

     まずイースター(パスハ)です。皆様もご存知のと

    おり、イースターはハリストス(キリスト)の復活の

    日です。信心深いウクライナ人にとって大事な祭りの

    一つです。ハリストスは私たちのために亡くなり、自

    らの復活をもって死と罪の力から人々を救助しました。

     さて、実際のイースターの日にちですが、ロシア正

    教のカレンダーによって毎年異なります。だいたい4

    月の終わりか5月のはじめ頃です。復活祭の日のお祝

    いとしては、もちろん、教会に訪れたり、お祈りした

    りします。ただし、生活文化という観点で興味深いの

    は、それにまつわるいろいろな習慣です。各地で、特

    別なプレゼントを贈り、特別な飾りでテーブルを彩り、

    特別な食事を用意します。

     とくに必ず“クリーチ”というイースターパンを作

    ります。これは甘くて、高さがあるパンです。また、

    有名なイースターエッグはほとんどの家庭で作ります。

    子どもたちが喜んで卵にさまざまな色を付けていきま

    す。オリジナルイースターエッグもできます。また、

    ちょっと手抜きさんのために、ビニルシートにきれい

    な色柄がついたものも売られています。これをゆで卵

    にかぶせてお湯をかけるとビニルが縮んでぴったりと

    卵について、カラフルな卵に変身!というわけです。

     作った卵はそのまま家で飾ったり、またはほかの友

    だちと交換したりします。子どもたちにとってはとて

    も楽しい1日となります。

     そしてもう一つご紹介したいのは春の祭り、「女性

    の日(ジェンスキイデーニ)」なのです。「女性の日」

    ↑ウクライナ国旗

    ↑クリーチ ↑イースターエッグ

    *ウクライナでは、公用語はウクライナ語ですが、一般的にはロシア語も通用します。ウクライナ語もロシア語もキリル文字を使っていますが、使う

    文字が違っています。

    世界を歩こう

    ロシア料理コーディネーター タチヤーナ・クジコーヴァ

    私の故郷̶ウクライナ(Украl‥на)

  • 6 7

    というのは日本ではまったく定着していないようです

    が、ウクライナに限らず、ヨーロッパではとても一般

    的なものです。

     この時期になると、春もまだ完全に来ていない街で

    花束をよく見かけることになります。「女性の日」に限

    らず、日本では男性が女性に花をプレゼントする習慣

    があまりないようですが、ウクライナの男性たちはご

    く普通のシチュエーションで、女性に花を贈るもので

    す。この習慣が日本でももっと定着してほしいもので

    す。ちなみに、この「女性の日」は国の祝日(3月8

    日)なので、ウクライナの人々にとって忘れることの

    できない日なのです。

     「女性の日」は特別に女性が大事にされています。

    おしゃれしたり、男性から花束やプレゼントをもらっ

    たり、さらには料理まで作ってもらったりしているの

    ですよ! というわけで、その日は女性たちが仕事や

    家事などから解放され、ゆったりとすごしています。

    若いカップルにとって、とてもロマンチックなタイミ

    ングですね。プロポーズをするタイミングとしても実

    に絶好の機会でして、その日に成し遂げる男性も少な

    くありません。

     この二つの春の祭りを過ぎるといよいよ本格的な春

    が訪れ、そして夏を迎えることになります。

    3.ダーチャの生活(дача ダーチャ)

     次に、「ダーチャ(別荘)」とそこでの生活について

    ご紹介しましょう。

     もともと伝統的に春から秋の休日をダーチャで過ご

    すというのは、ウクライナに限らず旧ソ連圏で一般的

    なものなのですが、最近では都会の喧騒とストレスか

    ら逃げてダーチャで過ごす方が多いようです。とくに

    年配の方にはたいへん人気があります。

     「ダーチャ・シーズン」は5月に始まり、9~10月

    に終わります。その間に自分の畑で野菜、果物、花を

    植え、自然とともにゆっくりとくつろいでいます。夏

    の間ずっとダーチャで過ごす人も少なくありません。

    なんと、これらを背景として、「ダーチャ協会」という

    ダーチャを取り仕切ってくれる団体まであるほどです。

    この「ダーチャ協会」のメンバーになると正式にダー

    チャ管理をしてもらうことができます。こんな感じで、

    ダーチャの「スローライフ」が今後もますますはやっ

    ていくと思われます。

    4.街の市場(ринок 市場)

     最後に、ウクライナ人が大好きな街の市場について

    お話しましょう。

     なぜウクライナ人がこんなにも市場が大好きなので

    しょう。それは、スーパーより食品が新鮮で安いとい

    うひじょうに単純明快な理由からです。市場は朝早く

    から開き、午後3時くらいにはしまってしまいます。

    また、土曜日と日曜日に開いています。その日は大勢

    の人でにぎわいます。

     また、土曜日、日曜日の夕方にはフリーマーケット

    があちこちでよく開かれます。ノミの市と昔から呼ば

    れています。スポーツよりも、ギャンブルよりも、そ

    して観光よりもフリーマーケットのほうが楽しい、と

    よくいわれます。フリーマーケットで国民性がよくわ

    かります。実のところ、これはお店ではないかもしれ

    ません。商品には決まった値札もついてないし、きれ

    いに並んでいません。ここでは同時にアンティーク家

    具、食器類、衣装、書籍などいろいろな時代のものを

    手に入れることができます。歴史色いっぱいのものと

    の出会いはとてもエキサイティングで楽しいものです。

    外国人の観光客にはフリーマーケットに訪れることを

    お勧めします。ただし、泥棒と迷子にはくれぐれも気

    をつけて!

     いかがでしたか? ウクライナは距離的には遠い、

    あまりなじみのない国かもしれませんが、いろいろ興

    味深い習慣もあります。また、実は多くのウクライナ

    人が日本に住んでおり、親しみやすい国だと思います。

    ぜひ一度訪れてみることをお勧めしたいと思います。

    ↑新しいウクライナ正教会 →市場にて↑花束を選ぶ男性

  • 8 9

    島根県立浜田水産高等学校 阿部志朗

    いきいき授業実践 (平成21年度 『高等学校 新地理A 初訂版』) (平成21年度『図説地理資料 世界の諸地域NOW 2009』)

    (平成21年度『世界の諸地域 NOW 2009』)写真から地理的情報を読みとるスキル

     最近の教科書や市販の資料集は、よくできすぎてい

    て、かえって教材として扱いにくいことがある。なぜ

    なら教科書・資料集の図表・写真の多くは、詳細なキ

    ャプション(説明文)が添えられており、それを読め

    ば図表・写真に込められた意味、意図することがよく

    わかるので、それ以上のものを読みとったり、考えた

    りすることは案外難しいからである。

     しかし、現実の場面、日常生活にはキャプションは

    ない。初見で出くわすデータ・場面・あるいは風景か

    ら、いかに大切な情報を読みとることができるか。そ

    れが地理学習で育成すべきスキルであるなら、キャプ

    ションに頼らない教科書・資料集の見方、使い方に「ひ

    と工夫」が必要になる。

     ここでは教科書・資料集の「写真」教材に焦点を絞

    り、その「ひと工夫」について紹介したい。

    1.はじめに

    2.同じ題材の違う写真を見比べる 教科書や資料集には、同じ題材の複数の写真が、違

    うテーマ(あるいは違う地域)で、別々のページに散

    らばっていることがある。それらをまとめて見比べる

    ことで、他地域との比較や、一つの写真の理解を深め

    ることができる場合がある。

     たとえば、「茶」の栽培を題材にした写真は、『高等

    学校 新地理A 初訂版』(以下、教科書)にはp.102漓

    ダージリンの茶畑(A)の写真があり、キャプション

    には「…(前略)労働生産性は低く、収穫は手作業で行

    われる。」とある。「労働生産性」は地理学習では頻出

    の用語であり、きちんとその意味をおさえておきたい

    ところでもある。そのためにはダージリンの「茶」栽

    培と他の「茶」栽培地域との比較が効果的である。

     そこで、生徒に資料集で他に「茶」栽培の写真が

    ないか探させてみる。『図説地理資料 世界の諸地域

    NOW 2009』(以下、資料集)p.27潸には、「温帯の気

    候C」のテーマで中国ユンナン(雲南)省の茶畑の写

    真(C)、p.77に「南アジアの農業」のテーマで教科

    書と別の澀ダージリンの茶畑の写真(B)、p.95「中

    南アフリカのモノカルチャー経済」のテーマで濳ケニ

    アのプランテーションの写真(D)、さらにp.181には

    日本の「中部地方」のコーナーに潼静岡の茶つみの写

    真(E)が散見される。それぞれの写真は別テーマの

    コーナーにあるが、これらを同時に見比べてみよう。

     いずれの写真も人が多く写っており、「茶」はいず

    れの地域でも人の手による栽培が中心であることがわ

    かる。次に、写真に写っている人物の年齢や性別に注

    目すると、インドの写真はおもに女性が働いており、

    中国は男女とも若年(子ども?)の姿が確認できる。

    ケニアの写真では年齢層は確認しにくいがマサイ人の

    労働者であることがわかり、日本の写真では明らかに

    高齢者が働いているようすがわかる。これらの比較か

    ら「労働生産性」の意味を考えたり、それぞれの地域

    の農業が抱える実情に迫ることができる。また、ケニ

    アの写真では働いている人々が光沢のある黄色い共通

    の作業着(ビニルあるいはゴム引きの素材か?)を身

    につけていることが象徴的で、企業によるプランテー

    A インド ダージリン C 中国 ユンナン(雲南)省

    ・A:『高等学校 新地理A 初訂版』p.102漓、B、C、D、E:『図説地理資料 世界の諸地域NOW 2009』p.77澀、p.27潸、p.95濳、p.181潼

    B インド ダージリン

    「茶」の栽培の写真

  • 8 9

    ションの姿の一端を見ることができるし、日本の「茶」

    栽培では収穫用の小型機械が使用され、省力化が進ん

    でいることなども見逃さずにおきたい。一方、静岡の

    写真を除きいずれも「傾斜地」での栽培であることも写

    真からわかる(静岡の写真もキャプションには「…水

    はけのよい台地や丘陵の斜面を中心に…」と書かれて

    いる)。「茶」栽培に重要な「傾斜地」という立地条件

    も視覚的におさえることができる。最後に地図帳でそ

    れぞれの地域の位置を確認することを忘れずにいたい。

     同様の学習活動は、小麦栽培、稲作、綿花栽培、家

    畜(牛・豚・羊)の飼育などの農業に関わる写真につ

    いて、いくつもの応用例が想定される。

    3.写真の「光」と「陰」に着目する 教科書p.61「技能と発展のコーナー 写真から読み

    とれる情報」には、「潺モーゼル川沿いの村のようす」

    の写真が示され、地理的情報を読みとるテクニックが

    4つの着眼点としてすでに詳細に述べられており、こ

    れ以上の学習活動は難しい。しかし、このページの学

    習活動にはないけれど、モーゼル川河畔の生活を読み

    とる際、欠くことのできない視点として、「方位」の

    読みとりがある。

     ドイツワインの産地が一目でわかる『ドイツワイン

    アトラス』によれば、モーゼル・ワインの産地形成と

    モーゼル川流域の地形との関係について次のような記

    述がある。「複雑な角度で蛇行する水路(モーゼル川)

    は、船頭には困難でも、葡萄栽培者には無限の恵みに

    なった。流れが変わるたびに、川の両側には太陽を真

    正面から受け止められる無数の南向きの斜面が現れる。

    それで、モーゼルには『ゾンネンウアー(日時計)』が、

    あちらこちらに見られる。」このように、ドイツのワ

    イン用ぶどう産地形成には太陽と正対する南向きの斜

    面が大事な立地条件となる。このことがこの教科書の

    写真から読みとれるだろうか。

     ここで写真の「光」と「陰」に注目したい。写真に

    写る村の家々や古城のようすを見ると、手前側が明る

    く、やや左奥の方向に「陰」がある。写真正面(奥)

    側が北よりの方角であることが推測できる。対岸の斜

    『高等学校 新地理A 初訂版』p.61

    山のようすからわかる

    ことは?

    山のようすからわかる

    ことは?

    川のようすからわかる

    ことは?

    川のようすからわかる

    ことは?

    町のようすからわかる

    ことは?

    町のようすからわかる

    ことは?

    栽培されている作物

    は?

    栽培されている作物

    は?

    図 モーゼル川中流のぶどう畑(赤色がぶどう畑)『ドイツワインアトラス』p.10より

    D ケニア(プランテーション) E 日本 静岡

  • 10 11

    面のぶどう畑が南向き斜面であることが考察できる。

     同様に、資料集p.33澆にある同じモーゼル川流域の

    写真からも対岸の丘陵上部の森の「陰」や河畔の木々

    の「陰」から、正面のぶどう畑が北よりの斜面(南向

    き)であることが推測できる。これらの写真からドイ

    ツ・モーゼル河畔におけるぶどう栽培の重要な立地条

    件が理解できる。さらに地図帳でモーゼル川の位置を

    確認すれば、そのイメージはさらに定着するだろう。

     やや高度な写真の見方のようにもみえるが、実際に

    自分で屋外の風景写真を撮影するときのことを考えれ

    ば、よほどのことがない限り、太陽と正対し逆光にな

    る写真を撮ることは少ない。多くの風景写真は太陽を

    背にした東~北~西方向の写真が多いことは、指導者

    として頭の片隅に入れておきたい(北半球の場合)。

     実際のモーゼル川流域はどうかというと、確かに北

    斜面にぶどう畑が多いが、上述の引用のような川の蛇

    行の影響もあり、東~南~西斜面にもぶどう畑は分布

    する。しかし、「光」と「陰」についての視点は、現

    実に見知らぬ土地に訪問する場合の方向感覚を養う点

    でも重要であると考える。これは日常生活におけるい

    わゆる「方向音痴」を減らすことにもつながるので、

    地理学習でトレーニングしておくべき大事なスキルと

    いってよいだろう。そのトレーニングにとって上述の

    モーゼル川の写真などは効果的な教材である。

     ただ、このようなトレーニングを心がけている成

    果?であろうか。かつて資料集p.119「爰高緯度のた

    め低い太陽」と同様の写真で、高緯度地方の白夜の

    説明をしたところ、ある生徒が「朝の写真ではないの

    か?」と質問した。確かにこの写真は、南中高度が低

    い高緯度地域の「昼」を意図したものであろうが、そ

    れならどこかに撮影時の「時間」がわかる何かが示さ

    れていなければならない。生徒にとって普通の「冬」

    の朝の写真に見えたのも当然である。生徒の質問に

    「はっ」とし、写真と地理的見方との関係の大切さを

    再考した失敗例である。しかし実におもしろい。これ

    だから地理教員はやめられない。

    4.恩師の「一枚の写真」から 高校時代の地理の恩師が、授業中にインドの「ター

    ジ =マハル」で撮ったという写真を見せてくださった

    ことを思い出す。そこには「タージ =マハル」は写っ

    ていなかった。氏によれば「タージ =マハルは皇帝が

    最愛の后のために造った墓。皇帝の気持ちや思いは、

    タージ = マハルの方から見ないとわからない。」とい

    うもの。写真には「タージ =マハル」か・ ・

    ら撮った庭園

    とこちらを見ている人々の表情が写っていた。そのと

    きはよくわからなかったが、教員となった今、恩師の

    写真の意味が少しずつ理解できるようになった。

     地理学習で写真を見る際には、その写真の中に入り

    込むことが大切である。そのためには視点を変えるこ

    とが必要で、撮影した人の目線、あるいは撮られてい

    る側の気持ちになって写真を見ることも大切である。

    時には写真の枠外、あるいはこちら側(カメラの後ろ)

    にあるものを想起させるのもよいのではないか。前述

    の「茶」栽培の写真も、それぞれの写真でこちら側か

    ら一緒に見ているのは家族か、社長か、それとも観光

    客か…。そう考えるだけで、写真への理解、さらに地

    理的情報を読みとるスキルはずいぶん向上すると思う。

    5.おわりに 最近、テレビのバラエティー番組で、芸能人が一枚

    の写真を見てその場所を探す、というコーナーをしば

    しば見る。実に「地理的な」番組であるといつも感心

    し、興味深く見ている。

     私も、地理学習でこのような活動ができないか、と

    思いチャレンジするが、いつも最後は挫折する。それ

    は教科書・資料集の写真にはいつどこで撮ったかとい

    う詳細な情報がないからである。

     しかし、仮に答えがなくても一枚の写真を見て「お

    そらくこうではないか?」と考え、地図帳と照らす作

    業は実に楽しい。本稿で紹介した実践はその過程から

    生まれた。この積み重ねの中で身につく「ひと工夫」

    こそが、写真から地理的情報を読みとるスキルにつな

    がるものと信じ、生徒とともに写真と地図を眺め続け

    たい。

    『図説地理資料 世界の諸地域NOW 2009』p.33澆

     参考資料:有坂芙美子著、伊藤眞人監修 『ドイツワインアトラス ドイツワイン13生産地域』 ドイツワイン広報センター 1998年(第2版)

    ぶどう畑

    モーゼル川モーゼル川

  • 10 11

    石川県立金沢桜丘高等学校 竹中隆司

    いきいき授業実践 (平成21年度『新詳地理B 初訂版』) (平成21年度『新詳高等地図 初訂版』)

    (平成21年度『新詳 資料地理の研究』)

    アフリカの生活と文化~動態地誌と開発教育-受験に対応できる地理スキルを身につける-

     平成25年度から導入される新学習指導要領・地理B

    における一つの特徴として「地誌学習の充実」をあげ

    ることができる。現行学習指導要領では「世界の国家

    を事例として幾つか取り上げ」としているのに対し、

    新学習指導要領では「様々な規模の地域を世界全体か

    ら偏りなく取り上げるようにする」としている。また

    「歴史的背景を踏まえて」地域の変容や構造を考察す

    ることや、「それらの地域にみられる地域的特色や地球

    的課題について理解させる」ことが新たに加えられて

    いる。かつての静態地誌中心のとらえ方ではなく、む

    しろ動態地誌に力点を置いた授業展開を意識的にやや

    先取りし、さらに開発教育を盛り込んだ授業を実践し

    てみたい。

    はないユニークな特徴をつかむように質問を交えて生

    徒に考えさせる。その際、資料集p.246のアフリカ大

    陸の断面図や「アフリカとヨーロッパにおける高度別

    面積比較」の表を用いて考えさせることが有効である。

    『新詳 資料地理の研究』p.246珈アフリカの地形

    BA

    A B

    AB

    ドラケンスバーグ山脈ドラケ

    ンスバーグ

    山脈

    ドラケンスバーグ

    山脈

    アトラス山脈

    アトラス山脈

    標 高

    3000m以上

    2000~3000

    1000~2000

    500~1000

    200~500

    200m以下

    平均高度

    アフリカ ヨーロッパ

    1.0%

    2.7 

    19.5 

    28.2 

    38.9 

    9.7 

    750m

    38.938.9

    0.0%

    2.0 

    5.0 

    15.2 

    21.2 

    52.7 

    340m

    〔理科年表 昭和33年〕〔理科年表 昭和33年〕

    1.はじめに

    2.アフリカを知る ヨーロッパやアジアの地誌学習では、生徒は系統地

    理的考察で多くの「予備知識」を得ているが、アフリ

    カについては農業や工業などの産業学習でも国レベル

    で扱いが少ないため、地誌学習の重要性は大きい。

     そこでひととおり自然環境や産業などを俯瞰した

    うえでアフリカ独特の文化や生活を考察し、アフリカ

    の今日的課題につなげていく。アフリカの経済状況や

    人々の生活レベル、さらに政治情勢の混乱状況などは、

    実に深刻である。そうした現状をふまえて難民や食料

    援助などを含む貧困問題につなげていくことができる

    単元でもある。ユネスコが提案した「持続可能な開発

    のための教育」を意識しつつ、限られた時間の中でア

    フリカから世界に通じる、できるだけ多くの学びを考

    えていきたい。

    3.アフリカの貧困の根源 自然環境の面からアフリカの既習事項を整理してい

    く。『新詳 資料地理の研究』(以下、資料集)p.246の

    「珈アフリカの地形」や『新詳高等地図 初訂版』(以

    下、地図帳)p.33~36を見ながら白地図におもな山脈

    や河川を書き込んでいく。ここでは細かい名称を覚え

    ることを強調せず、むしろアフリカ大陸の他の大陸に

     気候については気候区分を思い起こさせることも大

    事であるが、それだけを強調するとアフリカ大陸をさ

    ながら仮想大陸の模式図のごとく頭の中で「色分け」

    し満足させてしまうことになる。そこで資料集p.246

    の「盪気候の成因」をもとに、アフリカ大陸の赤道か

    ら高緯度地方に向けて、Af→Aw→BS→BW→BS

    →Csと移り変わっていくことの背景には気圧帯の変

    化があり、太陽の回帰との関連があることをあらため

    て考えさせたい。またアフリカ大陸の広さや範囲、砂

    漠の成因と中緯度高圧帯のポジションを考慮すると、

    『新詳 資料地理の研究』p.246 玳(2)気候の成因

    Cs

    BS

    BW

    BS

    Aw

    BSAw

    Af

    AwAm

    BW

    BSCs

  • 12 13

    結果としてこのような気候区分になることを地図帳で

    確認し、そのうえで気候区別面積割合においてアフリ

    カの熱帯は38.6%、乾燥帯は46.7%であることを想起

    させる。

     こうして自然地理的に見てもヨーロッパなどと比較

    して自然条件が過酷であることを押さえ、それも貧困

    の根源の一つであることを心に留めさせる。

     アフリカの歴史の流れを知ることは、現在のアフ

    リカの状況を知るうえで大変重要である。まず資料集

    p.247の「珈アフリカの歴史」の年表でヨーロッパ列

    強の進出から奴隷貿易、アパルトヘイト、アフリカ独

    立の年などのポイントを押さえる。そのうえで地図帳

    p.37の「漓アフリカの独立国、滷おもな使用言語と航

    空路の結びつき、潺アフリカの言語分布と紛争・難民」

    を見て、わかったことをグループごとに考えさせる。

    ヨーロッパ列強により民族分布を無視して分断されて

    いることが、これまで履修した様々な民族問題の原因

    になっていることや、言語や宗教もヨーロッパからも

    たらされたものであることを確認する。

     資料集ではアフリカを北部、中部、南部の3つに章

    立てしているが、ここではその中の「アフリカ中部の

    国々」を取り上げる。サハラ砂漠以南のアフリカはサ

    ブサハラ、またはブラックアフリカとよばれる。北部

    アフリカとは人種、民族、宗教、言語において大きく

    異なり、一般的に生徒が「アフリカ」と一言でよぶと

    きに想起される多くの要素がこのサブサハラにあると

    言ってよい。しかしそれだけに一元的で偏狭な知識で

    ある場合が多い。

    4.アフリカの歴史と民族

     さらにこうしたことが過去のことではなく、教科書

    『新詳地理B 初訂版』(以下、教科書)p.262にあるよ

    うに現在も一次産品供給国としてモノカルチャー経済

    に依存しており、航空路の結びつきにおいても、また

    現在のODA実績においてもヨーロッパとの結びつき

    が強いことを考察させる。アジア・アフリカ会議(バ

    ンドン会議、1955年)以来、アジアとアフリカは第3

    勢力としてまとめて扱われることがあるが、アジアと

    アフリカはその歴史や社会が異なり、そのことが現状

    の違いを生んでいることを確認しておきたい。

    『新詳 資料地理の研究』p.247 珈 アフリカの歴史

    15世紀

    16~19世紀

    1847

    19世紀末

    1910

    1948

    1955

    1960

    1963

    1967

    1970

    1970

     ~80年代

    1990

    1991

    1992

    2002

    2003

    事  項

    用 語

    5.動態地誌と開発教育の取り組み

    『新詳 資料地理の研究』p.250 珎 アフリカ中部の整理

    タンザニアタンザニア

    ケニアケニア

    ソマリアソマリア

    エチオピアエチオピア

    スーダンスーダン

     ここでは具体的な地図をもとにいくつかの国を取り

    上げて、掛地図に書き込みながら白地図にまとめさせ

    ていく。その中で1か国を挙げ、その生活レベルの現

    状にまで掘り下げていくことで生徒の興味・関心を引

    きつけたい。

     まず資料集p.250のコラム「変化する農業形態」に

    あるようにケニアでは近年、国営や欧米企業による大

    農園が増えており、現地の人々は会社勤めの形で労働

    『新詳 資料地理の研究』p.250 コラム

    コラム

  • 12 13

    していることや、花卉の栽培も盛んで重要な輸出品目

    であることを、スライドを交えて説明していく。

     ここでは私が2003年にJICA(国際協力機構)の教

    師海外研修プログラムでケニアを訪れたときの写真を

    もとに行う。粗放的定住農業からプランテーションま

    で多くの農業形態を紹介しながら人々の表情を伝えて

    いく。

     ケニアではプライメートシティとして知られる首都

    ナイロビと農村部との間に存在する生活レベルのギャ

    ップから犯罪が多発しており、ストリートチルドレン

    などの社会問題についても既習事項の整理として取り

    扱うことは可能である。さらに時間が許せば体験型学

    習を取り入れてみることも有効である。できるだけデ

    ータとしての地誌だけではなく、「顔が見える」地誌

    を実感させることが、大学入試に対応する力にもつな

    がっていくものと考えている。

     以下に私がケニアの現状をもとに作成したロールプ

    レイングゲームによる開発教育教材を紹介する。

    粗放的定住農業を行っている村の子どもたち(竹中撮影)

    JICAが専門家を派遣している園芸公社で輸出野菜の梱包作業の様子(竹中撮影)

    1:テーマ ナイロビのストリートチルドレンをめぐ

    る問題

    2:教材 作成プリント

    3:実施方法

    漓5人単位のグループに分かれる。

    滷グループごとに5人分の役割を決める。

    (ストリートチルドレンのピーター、その父マタ

    タ、警察官のムズリ、ブローカーのハクナ、ボラ

    ンティアグループ)

    澆それぞれのせりふを書いた用紙をもとにその役に

    なりきってせりふを言う。

    潺ひととおりせりふを言い合ったあと、お互いに追

    究したいことを話し合い、できるだけその役の立

    場で答えを考える。

    潸最後にこのゲームの底にある現実について考えた

    ことを言い合う。

    ロールプレイングゲームのプリント

    6.おわりに 教科書p.108「技能をみがく」の衣食住についての

    写真教材やユニセフのフォトランゲージキットなどを

    利用して授業の導入に使うこともできる。そこに描か

    れているのは何か。なぜそのような生活が行われるの

    かを考察させたい。大学入試センター試験にも写真を

    題材としたものが多く見られる。答えが一つではない

    発問にもできるだけ時間をかけていきたい。

     さて、アジアと比較してアフリカの歩みは決して速

    いようには見えない。しかし着実に変化しているアフ

    リカをいかにとらえ、生徒に伝えていくかを私は毎年

    考える。TVCFでも知られるWFP(国連世界食糧計画)

    の活動を私が実感として「知った」のはナイロビにお

    いてであった。生徒個々人がアフリカにおける開発途

    上国の現状を学び、そこから日本や世界に通じる何か

    を考え、行動してくれれば、と考えている。

  • 中国・大連(解説p.19)

  • 地理インフォメーション

    18 19

    (写真:中国/大連 帝国書院 2007年9月撮影)

    大連の歴史的街なみと最新の高層ビル

    表紙写真解説

     大連(ターリエン)は中国遼東半島の先端に

    ある港湾工業都市。全市の人口613万(2008年

    常住人口)。改革開放以後の新しい経済開発の

    中心として、急速に発展しつつある東部沿海都

    市の一つである。1991年に国家レベルの高度技

    術開発区が設けられ、積極的に外国資本の導入

    がはかられている。とくにハイテク産業の基地

    として中国で最初の「ソフトウェア産業国際化

    モデル都市」に認定され、世界の主要なソフト

    ウェア企業が進出してアウトソーシング事業を

    展開している。産業の発達とともに都市建設も

    進み、高層ビルや広場、公園、リゾート施設な

    どが建設され、美しい自然環境と都市景観をも

    つ魅力的な現代都市となっている。

     大連は近代以前、青泥窪(チンニーワー)と

    呼ばれる寒村にすぎなかったが、極東から不凍

    港を求めて南下するロシアが良港の候補地とし、

    清国も1891年、軍港を設け軍事基地を築いた。

    1894年、日清戦争では日本に占領されるが、三

    国干渉の結果清国に返還され、その後ロシアが

    大連と旅順の租借権と、大連から満州を縦貫し

    て極東ロシアへ至る鉄道(東清鉄道)の敷設権

    を獲得し、港湾と市街地の建設に着手する。そ

    の際、港をダルニー(ロシア語で「遠方」の意

    味)と名づけた。しかし、中国側は青泥窪と呼

    び続けていた。

     日露戦争で旅順港が激戦地となったが、終戦

    後、日本は長春以南の鉄道と遼東半島の租借権

    をロシアより移譲され、大連湾という自然地名

    にちなみ大連と改名する。その後、日本は遼東

    半島に関東州を設け、大連には関東都督府、南

    満州鉄道株式会社などが置かれ、日本の満州侵

    略の基地として重要な機能を果たした。

     大連は当初ロシア風の都市計画に従って建設

    され、鉄道の大連駅の南北に開かれた初期の市

    街地は、広いロータリーと放射状街路を組み合

    わせた近代都市的な景観をもっていた。現在で

    も基本的な都市構造は変わっていない。

     写真は、大連駅の北、俄羅斯(オロス)風

    情街と名づけられている街路を南東に向かって

    撮ったもの。日本時代には児玉町と呼ばれ、一

    帯は満鉄社員の社宅街であったが、戦前のロシ

    ア風の建物が多く残っていたところから、1999

    年、修築を行い、異国情緒あふれる観光街路と

    した。全長500m、両側の建物はロシア風の様

    式を残しているものの、現代風に大きく改造さ

    れているものが多い。むしろ表通りから裏通り

    へ入ると、古い欧風様式の住宅が残っているが、

    こちらは補修もされずに老朽化している。写真

    の左は「紅場(モスクワの赤の広場にちなむ)」

    と称している娯楽施設。街路の正面遠景に見え

    ている高層ビルは、鉄道の南にある世界貿易中

    心(ワールド・トレード・センター)ビルで、

    58階、242mの高さを誇る。

    (滋賀大学副学長・理事 秋山元秀)

  • 20

    取材レポート

    オランダ帝国書院取材班

    ■オランダに着いて…

     誰もが、「オランダは低地」という印象をもっている

    と思う。印象にたがわず、クリーク(水路)に囲まれた

    平坦なポルダー(干拓地)が延々と続いており、起伏は

    ほとんど見られない。どこにいっても坂道があり、山が

    見える日本に住んでいる身からすると、どことなく落ち

    着かないものである。街中を歩き人々を見ると、アフリ

    カ系やアジア系のオランダ人をよく見かける。旧植民地

    からの移住者や近隣国からの移民などだそうで、オラン

    ダが多民族国家であることを感じた。

    ■運河に囲まれた景観都市 アムステルダム

     首都アムステルダムには、アムステル川の水を分けた

    運河が市内に網の目状に張り巡らされており、中世を想

    わせるレンガ造りの家々と調和して、美しい景観であっ

    た。家の上部には必ずフックが取りつけられており、そ

    こにロープを引っかけて階上の部屋に大型の荷物を搬入

    できるように工夫してある。運河に浮かぶ船の家、ハウ

    スボートは、住民にとっては一種のステータスとなって

    いるとのことだ。もともと1960年代に住宅不足解消のた

    めに考案されたそうだが、人気が殺到し、運河交通の妨

    げともなるため、現在では新規の係留許可は下りないそ

    うである。余談だが、どの家もカーテンが閉まっておら

    ず、家の中が丸見えだった。一説によると、オランダは

    歴史的にプロテスタント(カルヴァン派)が多く、家の

    中をいつも他人が見られる状態にすることで、質素倹約

    で敬虔な生活を常に送れるようにするのだという。

    ■地形を生かし、環境にも配慮した、自転車活用

     坂道がほとんどない地形ゆえ、オランダでの生活の

    足は自転車だ。道路も自転車の走行を考慮したつくりに

    なっており、自転車通行帯(右ページ写真上)と自転車

    用信号がほぼ必ず設けられている。自転車は、この自転

    車通行帯をかなりのスピードで走行するため、うっかり

    ここを歩こうものなら、ひかれそうになってしまう。駐

    輪場は、道路脇にある鉄柵に強力なワイヤー錠で自転車

    を巻きつけて駐輪するスタイルであった。

     また、国の交通政策の中核にも、環境にやさしい乗り

    物としての自転車が組み込まれている。自転車で鉄道に

    乗れるのもその一つである。実際に自転車をおして地下

    鉄に乗車してみたが、車両の端の決められた箇所に自転

    車を難なく乗せることができた。自転車のみならず、ト

    ラム(路面電車)も頻繁に走っており、少なくともアム

    ステルダム市内は自動車を使わなくてもよい交通体系に

    なっているのは興味深かった。

    ■“異色”の都市 ロッテルダム

     ライン川の河口部に位置するロッテルダムは、第二次

    世界大戦での大破壊から復興したため、近代的なビルが

    立ち並んでいる。伝統建築が多く残るオランダにおいて

    は、“異色”の都市だ。ヨーロッパ最大の貿易港ユーロポー

    トを擁しているため、ライン川の船の往来は非常に頻繁

    だ。そのため、陸上交通よりも河川交通が優先されてお

    り、大型船が通るときには幹線道路の橋までもが跳ね上

    がって、多数の自動車が船の通過を待つ光景は印象的で

    あった(右ページ写真下)。空撮したユーロポートには

    風力発電用風車がこれでもかというほど設置されており、

    沿岸地域の地の利を生かした環境対策がなされていた。

     オランダの正式国名「ネーデルラント」は、「低地の国」

    を意味するそうである。低い土地をプラスに捉え、うま

    く活用してきたオ

    ランダの人々の暮

    らしを垣間見るこ

    とができる取材で

    あった。

    ※今取材で撮影した写真は、『図説地理資料 世界の諸地域NOW 2009』(p.99)にも掲載されていますので、ぜひご覧ください。また、詳しい行程や、他の取材地などについては、帝国書院のホームページにて後日ご紹介します。

     2008年9月、オランダの今のようす

    を取材する機会を得て、首都アムステル

    ダムから、北はワデン海、南はロッテル

    ダムまでを訪れた。誌面の都合上すべて

    を紹介することはできないので、印象に

    残ったところを簡単に紹介したい。  :取材・撮影訪問地:空撮地  :移動ルート

    日本から

    フランスへフランスへ

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