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ミファの道 ドレ 私のそもそもの希望は隈関車の機関士忙な ることでした0 ) ^^剖ドイツ^^・^L^^^^^^^^ でこうい、つのがありまし六。 カイゼルが国内を旅行する時、いつもその 汽車を運転する機関士に、ある時、カイゼル 当時、まだ幼 前ここれを惑心して ^の^^士κなって、^ もら、つノ^^んなノ^て すぎ六^^な恕を^くにい六り F 町式一卒業して1科念X験すると偶 しまい、また来年までと一時しの 忠学殺清科予科を器して入ったのか大 の九月(当侍は九月入芋)でし北 ところがその鼎心社の予科というのかこ れはま九素敵なもので、舟日、授業は午前中 四時間だけ、しかも土朏日は休みでした。勉 強する者には烹巾に時問かあったと同様道 びたい者忙とってはなお絶好というわけで、 私はただもうそののんびりした空気の中で心 ゆ>\はかり黛*を味わい、木科に進む頃には 込うすっかり、様象になる決心昂一していま した。な忙しろ工科にいちぱん大Wな懲寸が 苦手ときている上に、刷窓紅倫柴余り忙 も天国的だったので、汽小の方はもっぱら趣 味にLLいうことになりまし北。その上、音楽 をやりすぎて、.一侍は音楽学椴に転じようと まで決心して、余りにも本業をおろそか忙し たため、本科一年の時これも見事化「原級に が列車の連鷲(今の日本で見るような自動 織器ではなくて)の に金時引をブラきげ て、もしもこれ市」こわきず巧くはきんだ、,0こ れをやろうといって六めし九ところ、うまく はさんで、見事にそれをもの光したという話 でした。 42

ミファの道 - 同志社大学...ミファの道 ドレ 私のそもそもの希望は隈関車の機関士忙な ることでした0) ^^剖ドイツ^^・^L^^^^^ 一 でこうい、つのがありまし六。カイゼルが国内を旅行する時、いつもその

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Page 1: ミファの道 - 同志社大学...ミファの道 ドレ 私のそもそもの希望は隈関車の機関士忙な ることでした0) ^^剖ドイツ^^・^L^^^^^ 一 でこうい、つのがありまし六。カイゼルが国内を旅行する時、いつもその

ミファの道

ドレ

私のそもそもの希望は隈関車の機関士忙な

ることでした0

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^^剖ドイツ^^・^L^^^^^^^^

でこうい、つのがありまし六。

カイゼルが国内を旅行する時、いつもその

汽車を運転する機関士に、ある時、カイゼル

当時、まだ幼碓洞に通二Lいた頃の利は非

前ここれを惑心してきいたらしく僕は旧本

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町式一卒業して1科念X験すると偶輩に落ちて

しまい、また来年までと一時しのぎに伺志社

忠学殺清科予科を器して入ったのか大

正豐の九月(当侍は九月入芋)でし北

ところがその鼎心社の予科というのかこ

れはま九素敵なもので、舟日、授業は午前中

四時間だけ、しかも土朏日は休みでした。勉

強する者には烹巾に時問かあったと同様道

びたい者忙とってはなお絶好というわけで、

私はただもうそののんびりした空気の中で心

ゆ>\はかり黛*を味わい、木科に進む頃には

込うすっかり、様象になる決心昂一していま

した。な忙しろ工科にいちぱん大Wな懲寸が

苦手ときている上に、刷窓紅倫柴余り忙

も天国的だったので、汽小の方はもっぱら趣

味にLLいうことになりまし北。その上、音楽

をやりすぎて、.一侍は音楽学椴に転じようと

まで決心して、余りにも本業をおろそか忙し

たため、本科一年の時これも見事化「原級に

が列車の連鷲(今の日本で見るような自動

織器ではなくて)の閻に金時引をブラきげ

て、もしもこれ市」こわきず巧くはきんだ、,0こ

れをやろうといって六めし九ところ、うまく

はさんで、見事にそれをもの光したという話

でした。

42

Page 2: ミファの道 - 同志社大学...ミファの道 ドレ 私のそもそもの希望は隈関車の機関士忙な ることでした0) ^^剖ドイツ^^・^L^^^^^ 一 でこうい、つのがありまし六。カイゼルが国内を旅行する時、いつもその

止まれ」という有難い取り扱いまで受けるに

いたりました。だが、音楽への熱望はいきさ

かも浪えず、大正九年に同志社法ツ郁を卒業

すると同時に山田雛氏の岡に入り、作曲岬

倫の勉強をはじめる方、.当南坂教公にゅき

オルガニストとクワイヤ.マスターとの職を

・亢て今日忙い九ったのであります。

当時、作曲家として立っていた人は恩肺山

田耕筰氏とその弟子である器秀麿及び成田

や一氏の三人でした。

というのは、ただ、たんに歌の旋律を楽譜

にかき得るばかりでなくチャンと。ヒアノの岫

つてれは伴奏曲であるとしても)をかける日

本人は、当時では、この,二人だけでし九。こ

の二人の活動蟠1時の私をどれぐら桜がれ

きせたか知れません。

ートくあの人達のようになろうと、それこそ

必死忙なって山親筰氏のもとに通いつづけ

まし九しかし、一大問.樂ありました。そ

れは月謝のことでした。その人達にきいてみ

ると'.十円だというのです。しかもその.一十

円というのが、月々二十円というのか、レッ

スン、回毎托.一十円というのか判然としない

です.が、、、すれにしても二十円というの

は、私にとって大変な金額だったのです。

何にしろ先生の所へゆく省線(今の国電)

トニ銭がなくて時々歩いていったほどの私忙

とっては人変でした。私は一度も払った覚え

はないのですが、先生は「君は一回は払っ

、し

たといわれるのです当時の弟子の多くは

皆月謝なんか払っていない状態でし北。いや

仏わないだけでなく、かえって、居すわって

こ飯を九べたり小遣銭を貰たりしてい北の

かかなりいたようで、私なんかはその大将の

方でし北。

レッスンはまことに厳惰を極めたもので、

私などは和声の課題以外は何もかも禁じられ

自由作曲など遠い遠い彼方のことで、いよい

、し

よ歌曲の作曲か許きれたのは.二年も六った大

止トニ年のことでした。

し力も将来管絃楽をかく九めには管絃楽

の楽員として実際嘉撃ることが必要だと

いう先生の深いこ配態にょって、私は入門後

^もなく^^の^^さ^てる^目^^^に^リ

打楽器ことにティンハニーをもっ。はら担当し

\ノ

て卜七、発聞も聖しました。人正卜四年

光やうと先生力、,つドイツ貿学の許しをもらい

シベりアをへてべルリン忙向かいました。

ベルリンでは、山児生の楊レオポルド

カール・ボルフ先生忙肺事し作岫器を

.学び、他方、何んでもかんでもきいてそれを

身につけることに時間とお金をつぎこんだた

め、シーズンが終わっ九時には走り疲れた走

者のようにホッとしたり、求ンヤリしたりで

まるで立てない感じでした。

私はドイツへゆくにあ北って二つの課題を

自らひっきげていました0 その一つはその心1

時の近代音楽(主としてドビユッシーなどに

よるフランス音楽か、近代ロシア墓)北走

ろうか、それともドイツ音楽に止まろうかと

いう問題でした。

その二は必時、日本にあったバイプ・オルガ

ンというものはまこと驫構壮麗なものです

その演奏機能は実に粗雑なものでした。

か、

本場のドイツで果して私に満足を与えてくれ

るかどぅかとい、つことでし九0

ます第一の近代音楽か古典音楽かの問悲は

ヘルリン・フ¥ルハーモニー,砺演奏公の錦

レノ

一皮江出時のドイツの、いな世界最人の巨嵯

フールトベングラーの指姉にょるハイドンの

交禽楽「軍隊」をきくにおよんでこれは何,ルの

閥悲もなく占典に進、ザことに決心しまし九

43

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讐のパイフ・オルガンの問匙ですが、ベ

ルリンの.流の教会から一流一一流の教会を歩

きまわb、きいたり、ひかせて貰っ九り、質

問したりなどして次から次へと求めてゆきま

したが、結局、どこのものも私のハイフ.オ

、ノ

ルガンへの需念してくれるものはありま

せんでし六。

では私のハイワ・オルガンへの不満とは果

たして何んでしーうかそれは簡単にいぇぱ

イフを吹きならす送風が全く機械だけにょ

八るもので、人の意思は全く無視されていると

いうことです。けだし、笛(この場合はバイ

ワ)をいちぱ・ん美しく吹きならすのに、いち

ばん必要なことは人為的にその音に璽の息

(この場合は風)ル、吹きこむことにあるので

すそうい、つ意味で、".凶をならす風の戸里をコ

トロールできないことはほんとぅに心のこ

もた演奏をするに島たっていちぱん欠点と

なるもので、六とえ、どれほど豊冨に、しか

も、美しい音を出すとはいても、この欠点

は私をハイフ・オルガノにと、こんでゅかせ

ることをいつもためらわすのでし北。

私自身、ずい分、ハイワ.オルガンをひき、

二た、ドイツでも流の人達の一喚炎をきき、

音の美しきや豐富さに深く感じながら、結局

そういう点で誠に自由な(人為的な)装置を

もつ普通のりード・オルガンに打ち込んでゆ

くようになるのであります。そして、それに

はりード・オルガンという楽器のために作岫

された純粋なものが必饗だと恕ったので、そ

れが^をりード・オルガンのための^脚を^

い立たせたのでし北

いって兒れぱ、ドイツにいってパイフ・オ

ルガンをきき、満足をりえられなかっ北利の

失望が私をりード・オルガンのための作曲・家

になること走堅く決§せたのです。

でれと緒こ、利こよも、つ.つつつけてき

力もが゛山,)ますそれは合唱の生雫す。

こ上に私の教会における合唱の生活が、教会

0ための合唱曲、~婁求し六のは極めて自発

ことですが、その中で、私がオルガンのため

υ作岫とωじように終中の仕事」として作

りつづけたものは宗教的交声曲の作曲でめ「

て、これもムーでは↓:岫になりまし六。これ

忙はきわめて何の篤い病床の詩人奥藥国十

さんの出現があって、初めてなしえたもので

山ります。彼女は、いま私が拐めている東汗

英和女謙短大の保育科、ぜ卒業して昭和一

ι年以来ずっと病床にある人で、まことに清

く、かつ篤い^^をもった人です。

さて、」父声曲の作曲をその終生の仕事とし

てきた私の音楽生活はもうずい分長いものに

なりました。それで私はなんとなく教会の音

楽家としての画のみを見られているような気

お古

がするのですが、ずい分、面はゆいような気

持になっ北りして、なんとなく向分で。ヒッタ

りしない気持にもなるのです。

その昔、私は浅卓のオヘラにも楽員として

出演したこともずい分ありますし、ダンス

.

ホールに演奏しにいったこともありました。

トーキー以前には、映画伴奏の生活もずい分

長い間ありまし六。また、小さい小屋にポー

ドビルの伴奏1ある時は劇に、またある時

は舞蹄にもずい分演突をし六ものでし北。で

の時はいつも。ヒアノか打楽器を受け持てい

ました。この鴛は、ま六、まことに面日か

六と思います。同じ日昭日に教会とこれら

のいってみれぱ俗の川界とをゆききして、す

まして音楽を奏していをとは、これもかな

り長い問のことでし九礼仟中に居眠り売し

てオルガンをひきおくれたことはあウても、

この両面の音楽生活に什事上遅刻などはし北

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こ上は一度もありませんでし六。

しかし長い管絃楽の楽員生活中には、ずい

分、特笹すべき失敗もやりました。ちょつと

し九不慧のため、叩かなくてもよい時にテ

インハニーを強打したり、銅梁強く打ちな

、ノ

らしたりして指繩者ぱかりでなく、全楽員の

胆を奪っ力ことも何度かありました。

またある解蹄家の伴奏をしている時、その

よ、つなちょうとした失敗をしたのを、あたか

も馬鹿にきれたのかのように忠て、その錘

踊家にどなられ、危、つくなeり合いをはじめ

るは力りになたこLLもあ,゛まし北0

なにしろ大きな音の小る楽器を汲っている

ことですから、その失敗はまことに華やかな

ものでし六。でも今考えていナばん太練゛ぜも

つているのは管栽楽の楽員の生活です。これ

は「機関車忙のせてやろうかといわれれ

ぱ、何をおいてもとんでゆくぐらいの気持と

同様、もう一度、ティンハニ】品かしてや

\ノ

プ?つといわ^^ぱすぐ忙も、とんでゅき力い

気持です。

でもこれはしょせん彊な話で、たとえ技

術的には練習すれぱできるとしても、その生

活から今く割れているために、いちばん人勢

な「勘」が全幾た、つきませんから、到底望

みうべくもありません。

皷後に、リード・オルガンについてもう一

'西いってみましょ・つ0

リード・オルガンとい案器くらい普及し

ていながら、メチャクチャに扱われていろ楽

器は他にはちょつとないでしょう。ま六、こ

の楽器を私かいうほどデリケートな美しいも

のだと思っている人はほ上んどないのではな

いでしょうか。

この楽器の演奏者でも、この楽器の踏板の

ひと踏みが、どれくらい+具実の演奏に深い関

係をもっているかを知らない人がほとんど全

部だといっていいのではないでしょうか。

つい最近、オルガンの鑾をもって日本一

を仟じていろ浜松の日本楽器へいって、逆に

入し

そこで造られ系器の美しさを洪てき六こ

ともありました。これもおかしいといぇぱ、

まことにおかしい現象といぇはしないでしょ

(大九・経・作曲家、宋洋英和女学院教授)

私自身としても、むしろ寂しい音楽家の一人

忙なてしまうような気持にもなるのです

が、その背崇につながろ広い広り菓の世界

を考えろと、自分紀とてはなかなか多彩だ

つた生活が思い出きれて、かえってそれが、

よかったような気がするのです。こういう意

味ではブ宗教音楽家として見られることは、

むしろ、性格からいても不似△口いなもので

はないかと田^います

い、ゞれにしても、そのよ・つな見方をきれる

ほど、伝仰的ではない上いうのは、少なくと

も、ほ・んとのようです。

山田先生が私にょくいわれたのを今でも覚

えています。「教会音楽糖なる前北、ます

一人前の音楽家光なることだ」と。それはど

、つもほんと、つのよ、つです。

とKかく、私の音楽家としての生活はまこ

と条しいもので、それは当時のあの楽しい

W璽生活に一つの原閣があるのも面白いと思

いますそれもその筈で、私の中では法学

士」が泣きもやらず、失神しているからで

、L

す。

私のドレミファの生活1いわば一奨赤ま

た作曲者として墨活は、系教烹嚢とし

て見れば、まことに小きな世界忙侘ひ小さな

「もの」ルなり、眛丸ないもD忙もなって、

45

?か

0