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1 マスコミ報道では見えない、海から見た被災地の実態 7 3 11 【写真 : 下】上部が崩れた釜石湾丸。手前は以前の岸壁 【写真 : 上】女川港前。横倒しビル残骸と海抜 30m の高台に立つ町立病院

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マスコミ報道では見えない、海から見た被災地の実態

(海の文化史研究)

岡おか 

敬けい

三ぞう

シリーズ・海道を行く【第7回】特別編

3・11 三周年 特別ルポ

マスコミ報道では見えない

【写真 : 下】上部が崩れた釜石湾丸。手前は以前の岸壁【写真 : 上】女川港前。横倒しビル残骸と海抜 30mの高台に立つ町立病院

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シリーズ・海道を行く【第 7回】特別編

 

海から訪ねた被災港は、港内の海

底質が砂泥で、埋め立て造成された

岸壁が集中的に沈下していた。湾奥が

浅く、低湿地を埋め立て開発された港

と町並みに津波は襲いかかったのであ

る。被害が例外なく自然地形を無視し

て築かれた地に集中しているのは明白

だった。こうした被災港の特性を放置

して被災県総延長370キロメート

ルの大防潮堤で津波を防ぐという計画

は、新たな「人災」を招くことになり

はしないか。

被害が大きかった

港に見られる共通特性

 

大震災から二年半を迎えた2013

年9月、被災各地を海から尋ねてま

わった。

 

3月11日の大震災以来、報道された

膨大な被災情報。しかし報道が重ねら

れるなかで、被災報道を見ていると、

大津波とは何であったか、その実相を

見極める視点が曖昧なまま被害紹介を

繰り返している印象を感じた。そこで

津波が襲来した航跡を辿って湾に、港

に、そして町に近づき、被災各地がど

のように襲われ、破壊されていったか

を海から見つめ直そうと思った。

 

結論的にいえば、大震災の被害の大

半は大津波による被害であるが、

マグ

ニチュード9.0という巨大地震から想像

するほどには、地震被害は深刻で広範

囲でない印象も受けた。阪神淡路の直

下型地震の方が地震被害は遙かに甚大

だ。

 

三陸海岸の自然は海から眺めると未

曾有の大震災、大津波に襲われたあと

でも破壊されておらず、震災前の美し

い海岸と自然景観をいまも漂わせてい

る。そして海に面した町や港は程度の

差こそあれ被害を被ったものの、同じ

地域内であっても被災度合いに極端な

差があり、甚大な被害はごく限られた

町と港に集中していた。

 

甚大被災地には、まず港湾の地形

にきわめて類似性がある。津波(膨大

な海水量)の逃げ道がない湾奥に被害

は集中したが、どの湾奥でも大被害を

一様に被ったわけではない。湾奥が浅

く、低湿地を埋め立て開発された港と

町並みに津波は襲いかかった。被害が

例外なく自然地形を無視して築かれた

地に集中しているのは明白だった。

 

地震被害のバロメーターのひとつが

地盤沈下の度合いである。訪ねた被災

港すべてで地盤沈下がみられたが、そ

れは港内岸壁と防波堤に限られ、港周

辺の地山にある市街地ではあまり沈下

していない。港内の海底質が砂泥で、

そこに埋め立て造成された岸壁が集中

的に沈下していた。主な訪問港で測っ

てみた元地盤と沈下地盤の高低差を示

しておく。岩手県久慈港(20センチ)、

宮古港(40センチ)、釜石港(80セン

チ)、宮城県女川港(120センチ)、

田代島仁斗田港(60センチ)、福島県

相馬港(40センチ)。

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マスコミ報道では見えない、海から見た被災地の実態

 二子漁港にはためく

鯉のぼりの意味は?

 

岩手県北部の久慈港が港湾施設被害

を直接受けた北端だったようだ。北東

風のヤマセが吹き荒れる中を這々の体

で久慈港の入り口にある小さな二子漁

港にたどり着くと、岸壁上まで水に洗

われて岸壁に係船できない。そのかわ

りに漁船を繋ぐブイが港内に点々と浮

かび、漁船は岸から離して係留してい

る。地盤沈下がひどいのだ。そして岸

壁上に高いポールが立ち鯉のぼりが寒

風の中で踊っているのに気づいた。

 

一カ所だけかさ上げ工事が終わって

いる突堤に、復旧工事船が場所をあけ

てくれ、ヨットを横着けすることがで

きた。どの港も港内の一カ所だけ岸壁

かさ上げを最優先で終え、工事船の利

用や漁獲水揚げ作業用に完成させてい

た。

 

仮設プレハブの二子漁協(正式には

久慈市漁協二子支部)を覗き、パイプ

椅子に腰掛けていた風貌

のしっかりした男性に、

季節はずれの〝鯉のぼ

り〟に何か事情があるか

尋ねてみた。応対してく

れたのは組合長の中平武

雄(71)さんだった。震

災から2年半になるが他

所から来た人が〝鯉のぼ

り〟のことを尋ねてくれ

たのは初めてだと、顔を

ほころばせ、「まあ、こちらにきてく

ださい」と言って作業場に案内してく

れた。

 

そこの壁にも大きな鯉のぼりが留め

てあり、中平さんは寄せ書きひとつひ

とつを読み上げながら、「被災後に駆

けつけてくれたボランティアの若者た

本稿で取り上げた被災港の所在地

久慈・二子漁港で泳ぐ “鯉のぼり ”。右はパイプにテント張りの作業場

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シリーズ・海道を行く【第 7回】特別編

ちが帰る前に残してくれた」と語っ

た。それは、2013年夏の甲子園で

大活躍し、準決勝まで進んだ花巻東高

校野球部OBたちによるボランティ

ア活動の証だった。中平さんは高い掲

揚ポールを設置して、以来一日も欠か

さず、この港に鯉のぼりを掲げ続けて

いる。

 

では、なぜ鯉のぼりなのか。漁協の

建物は津波で全壊し、船が港内に沈

み、防波堤や岸壁も崩れ、陸からは瓦

礫が港に流れ込んだ。

 

被災の翌朝、中平さんは組合員を総

動員して、瓦礫を漁協前の敷地に集め

る作業に全力で取りかかった。港内に

沈んだ船の残骸や瓦礫も引き揚げ、合

間に役所と交渉し自衛隊にも依頼し、

よそが動き始める前に猛スピードで瓦

礫撤去作業をすすめたのだ。

「検討とか相談とかそんな時間は使わ

ずすぐ取りかかる。間違っていたらそ

のときまた別の方向めざして走ればい

い。泣く暇があったら、走れ、動け、

自分のことは後回しにしろと言い続け

た。私は全力をあげた。漁船の始末も

やった。そして撤去作業が全部終わっ

た5月のこどもの日に、若者たちが鯉

のぼりに寄せ書きしてくれたんだ」

 

大震災から2ヵ月たらず、多くの港

や自治体は瓦礫をどうするか途方にく

れて本格作業に取りかかれていない時

期に、小規模漁港とはいえ中平さんは

すべてを終えてしまった。中平さんも

7隻の所有船すべてを失っていた。

 

処理が終わってしばらくすると、

うわさを聞きつけて、被災自治体か

ら次々に視察がきたという。中平さ

んは、その都度作業の手を休めて応対

したけれど、「報告書を書き会議を開

いてそれで終わり、ということなんで

しょうね」と、苦笑する。

二子漁協組合長、中平武雄さん

釜石湾海図。中央の斜線部が大防波堤(電子海図ニューペック)

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マスコミ報道では見えない、海から見た被災地の実態

巨大防波堤で激流を抑えた釜石

 

三陸沿岸はチリ地震津波をはじめ過

去何度も津波に襲われてきた地域だ。

その教訓をもとに、宮古市は世界一、

高さ10メートルの巨大防潮堤で町を囲

み、釜石は水深63メートルある湾口に

巨大な防波堤を築いた。どちらも30年

ほど前のことだ。

 

大震災津波で田老の防潮堤は瞬時に

破壊されてしまい、多くの犠牲者をだ

した。防波堤を信じて避難が遅れたと

も言われる。一方、釜石大防波堤の深

さ63メートルといえば、海に大型ダム

を築造したのに匹敵する。

 

釜石湾に入っていくと、その巨大防

波堤が崩れ、傾いている様子が見えて

きた。台風など風力による波浪も港の

防波堤を破壊することがあるが、海底

まで海全体が押し寄せる津波の質量は

桁違いに巨大だ。釜石の〝ダム〟も根

こそぎ破壊されたように見えたが、実

は一番衝撃が強くなる海面部分は崩れ

たものの、水中から海底までは損壊を

免れていた。

 

お会いした地元有力企業の経営者

佐々木徳志さんは、「あの防波堤があっ

たので、砕け波の津波が押し寄せず、

あの程度の被害で済んだと思っていま

す」、物静かに話した。巨大防波堤が

津波を押しとどめ、怒濤になって殺到

するのを緩和したからだろうという。

とはいえ釜石では1000人余が亡

くなったが、死亡・不明者比率(対人

口)は2.6%で、隣の大槌町の8.1%の4

分の1に留まった。

 

あの程度で済んだという佐々木さん

だが、実は自宅と両親を津波で失って

釜石漁港の使用不能岸壁。潮位が岸壁上まできている

再建された「飲ん兵衛横町」

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シリーズ・海道を行く【第 7回】特別編

いる。何もかもが流された後、残った

のは会社に駐車していた通勤用の車だ

けで「両親の思い出ばかりか、生まれ

てからこれまでの自分と家族の歴史は

ボールペン一本もなく、すべてが消え

ました」と話した。

 

1950年代、釜石の製鉄所が一番

活況を呈していた時代、工場労働者が

集まる「呑ん兵衛横丁」が港近くにあっ

た。この名物飲み屋街も流されたが、

JR釜石駅近くの公園内にプレハブで

再建されている。

 

港からさほど離れていない商店街も

浸水はしたものの倒壊建物が少なく、

早々に商店街が復活していた。私が入

港した日は秋祭りで商店街は夜までに

ぎわっていた。そういう点が、このあ

と尋ねる陸前高田や女川と釜石が決定

的に異なる点である。佐々木さんが「あ

の程度で済んだ」とはそれを伝えた

かったのだろうか。

 

佐々木さんによると、市街地への浸

水域も川縁にあるJR釜石駅まで届

かず手前で止まり、駅前の新日鉄製鉄

所も工場全体が一段高く造成されてお

り、被害はまったくなかったという。

一方、東京電力福島第一原発は、海抜

30メートル以上あった海岸段丘の建設

地をわざわざ海抜5メートルまで削り

落として建設し、冷却用海水の汲み上

げコストを大幅に削減できたと自慢し

ていたのである。

犠牲者はゼロ、広田漁港

「三陸の小さな漁港は復旧が追いつか

ず放置され、漁師も意欲をなくして港

が廃止状態になった港も少なくない…

…」。寄港先でたびたびそうしたうわ

さを聞いた私は、港名も町も不明で具

体性に乏しい話だったため、疑問に思

いつつも不安も感じていた。そういう

小漁港の典型のような広田漁港を訪ね

てみた。

 

広田湾は大船渡と気仙沼に挟まれる

岩手・宮城県境の湾で、石巻に次ぐ

犠牲者数を出した陸前高田が湾奥にあ

る。その湾口の漁港が広田だ。広田湾

入り口の海には、震災前は定置網が仕

掛けられていたから、いまも網がある

ようなら広田は生きているはず、そう

思って近づきながら双眼鏡で探すと、

規模は小さくなっていたが定置網の浮

子が見えてきた。

 

陸前高田は死者・不明1780人、

全・半壊家屋3341戸に達した。

広田漁港は陸前高田市の先端部にあ

り、市中心部から約7キロメートル離

れている。港入口の防波堤は崩れてい

たが港内では復旧工事が続いていた。

そして震災前の穏やかな漁村の様子が

見て取れ、少しホッとした。

 

復旧工事中の内突堤に横着けして、

隣で網の整理作業をしている第五瑞穂

丸吉田大八郎さん(72歳)にお会いし

た。以前寄港したとき世話になった、

岸壁横の家に住んでいた尾崎薫さんの

消息を尋ねると、家は流されたけれど

仮設住宅に移っているはずと教えてく

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マスコミ報道では見えない、海から見た被災地の実態

れ、車で案内してくれた。山間の工事

現場のような荒れ地に仮設住宅三棟が

建てられていた。

 

奥さんの光子さんにお目にかかれた

が、薫さんは震災から3月後に亡くな

られていた。目の前で家が濁流に呑み

込まれ、自分の分身のように思ってい

た船が流れていくのを見て意気消沈し

無口になったそうだ。そして海も見え

ない殺伐とした仮設住宅に移ると日ご

とに元気がなくなり、あっという間に

他界してしまったという。いまは光子

さんが一人で住んでいる。

 

はじめて仮設住宅を目の当たりにし

た吉田さんも衝撃を受けた様子で「こ

こに長く閉じ込められたら誰だって病

気になるよ」と、車に乗ってからつぶ

やく。吉田さんの自宅は港のすぐ上に

見えるお寺の隣で被害は瓦数枚が落ち

た程度で済んだ。

 

港に面した建物の多くが流失し、広

田漁港集落で失われた家は40軒、死者

は一人もいなかった。(注・高田平野

まで続く広田町全体では55人の死者が

でた)。港から少し登った道沿いには

小さな食料品店が以前と変わらず営業

しているし、お寺も以前のままだ。

広田湾(電子海図ニューペック)

港口沖から見た広田漁港

広田漁港でただ一人、船を守った吉田大八郎さん

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シリーズ・海道を行く【第 7回】特別編

 

避難した高台から侵入してくる津波

の一部始終を見つめていたという港

の人の話では、最初、津波は漁港の

前を通過するように高田方面に走って

いき、広田漁港に入った津波は家を壊

すほど大きくなかったという。広田漁

港の防波堤が突き崩され、家も流失し

たのは、高田から津波が引く時に、大

量の水が行き場がなく溢れ返り、瓦礫

と一緒に沖に向かいながら漁港に押し

入ってきたために起こった被害だった。

高田の荒野を走り回るダンプカー

 

吉田さんの案内で、仮設住宅から高

田市街まで車で走った。広田半島から

開けた平地にでると、雑草の原と荒れ

地が延々と広がってきた。ここに高田

の町があったと説明されても想像が追

いつかないほど荒涼とした景色が続

く。そして土埃をあげて数百台のダン

プカーが走り回る。道路沿いに2、3

軒見かけた建物は、工事車両相手の仮

設ガソリンスタンドと急造のコンビニ

で、震災からまだ数ヵ月もたっていな

いような光景だ。

 

高田市街全体を盛土して15メートル

かさ上げする工事だという。「造成後

に町造りにかかるんじゃないか?」

ぶっきらぼうに吉田さんが説明した。

広田漁港の山林も伐採され山が切り崩

されて造成用に掘りかえされており、

高田を取りまく山々が裸にされようと

している。

陸前高田は広田湾の最奥にあるが、

高田に港らしい港はない。そこは気仙

川の河口で、土砂の堆積で前面の海が

浅すぎる。沖合から押し寄せる津波は

浅い湾奥で逃げ場がなくなり、海が丸

ごと陸に上ってしまった――そうとで

も思わなければ、荒れ地に1棟だけ残

されている5階建てマンションの4階

までが水没し破壊された光景はとても

理解できない。

 

この被害は、いわば高田の地形の宿

命のようなものであり、15メートル高

の盛土をしたところで、津波に対抗で

きるようには私には思われなかった。

沖合から津波になったつもりで眺めて

みると、発想のちゃちさに唖然とする

のである。震災から2年半たっても山

を崩し続けるばかり。造成が終わって

建築工事に取りかかるのは何年後だろ

うか。その間に資金余力ある者、生活

意欲ある者の多くは高田を見限って

陸前高田の元市街地を走るダンプカー群

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マスコミ報道では見えない、海から見た被災地の実態

去っているのではないか。

 

長野さんの死が語るように、仮設住

宅で高齢者の死亡率が高いのは生活と

将来への展望が描けないことが強く影

響していると言われるし、生活力が弱

く自力脱出できない人たちだけが結局

は仮設に取り残されていく。陸前高田

市の復興計画とは、あたかも市街地全

体の大規模な〝仮設住宅〟化に収斂し

てしまうかもしれない。

 

被災地を尋ねていると、首長や指導

者の能力差を肌で感じることがある。

旧来の経験と利権に根ざした土建工事

にしか眼が向かない印象が、高田には

強く残った。大土木工事に見えるかも

しれないが、それは海から見ればほん

の小細工にしか映らないのである。

 

そんな工事現場の真っ只中に、有名

になったプラスチック製の「奇跡の一

本松」がポツンと立っている。「あれ

が1億何千万か使った一本松だよ」、

吉田さんは一本松に好意を抱いていな

い様子で、すぐ車をUターンさせて

しまった。吉田さんは、実は大震災勃

発と同時に第五瑞穂丸を沖に走らせ、

丸2日間、はるか沖合に遊弋させて津

波が収まってから生還し、広田でただ

一人、船を守った人でもある。

 

広田湾を離れた日、朝一番のラジオ

から、「今日は大震災から2年半の節

目の日」というニュースが流れ、いま

なお仮設住宅収容者が21万5000

人おり、仮設住宅からの移転先になる

公営住宅は448戸しか造られてお

らず必要数のわずか1.6%に留まってい

ると、報じていた。

女川で出会った

芸術家のエピソード

 

大震災から2年半。タレント、スポー

ツ選手、音楽家、知識人など多くの有

名人が被災地を慰問に訪れている。〝普

通の人〟がボランティアを志願して復

旧作業に取り組む姿と違って、「元気

をあげたい」を口にする有名人たちに

私は強く違和感を覚える。有名かどう

か知らないが女川で慰問する女性に一

瞬出会った。

 

女川港の前、元七十七銀行支店の跡

地に手製の慰霊壇が用意されていて、

いまも花が途切れることがない。支店

長の指示で支店全員13名が屋上に避難

したが、津波は支店屋上を遙かに超え

て襲い、海抜30メートル近い台地にあ 慰霊板の写真を撮る慰問の演奏家

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シリーズ・海道を行く【第 7回】特別編

る隣の町立病院駐車場にまで達した。

 

銀行跡地と頭上にある病院と見比べ

てから、祭壇の花に水をあげようとし

ていると「ちょっとどけてください」、

声と同時に私を押しやって携帯電話を

構えて女性が写真を何枚か撮った。遺

族か銀行の元同僚だろうかと思い、振

り向いたときに尋ねてみた。

「わたし、演奏家です。仙台のホテル

から一日タクシーを借りて、仮設住宅

を慰問にまわってあげています」

 

それだけ言うとさっとタクシーに

乗って走り去った。その間ほんの1、

2分、遠ざかるタクシーを見送りなが

ら、次の予定地への途中で女川の傷跡

に立ち寄ったのだろうと思った。横倒

しで残されているビル廃墟に目をやる

こともなく、ただ足跡を写真に記録し

ただけに見えた。慰問する自分の姿に

満足しているようだった。

 

被災地になにか役立ちたい、そんな

純粋な気持ちに動かされて来たのは

間違いないだろうけれど、被災地で、

仮設住宅でなにができるか、そう思い

立った時、演奏して慰め、元気をあ

げたと、安易に納得する人が多すぎや

しないか。「元気をあげる」とスポー

ツ選手やタレント、演奏家たちが言う

時、無自覚であっても視線の奥には下

位の者への蔑み、そこまで言わない場

合でも見下ろす奢りが隠されている。

 

慰問に訪れるなら、仮設住宅がどう

いうものか、そこで被災した人がどん

な生活を強いられているか、せめてそ

れだけは直視してほしい。話も聞きそ

の非条理を考えてほしい。そして自分

の見聞を世間に知らせなければならな

い。それが有名人の特技であるし務め

ではないか。

 

久慈市二子漁協の瓦礫撤去作業に

は、プロ野球有名選手になっている

OBもボランティアとして加わってい

たが、中平組合長は色紙一枚もらわな

かった。有名選手だからでなく野球部

OBの一人としてボランティア参加し

てくれたからだと話した。

九死に一生を得た

観光連絡船会社の人びと

港を囲む女川中心部は低湿地を埋め

立てて発展したという。市街地に一棟

の建物もなく、港を眼前に見下ろす町立

病院だけが無傷で残っているが、ここで

も旧市街地を高さ5メートル盛土造成

した後に市街を再建する計画だ。人口1

万人だった女川町は、震災から2年過ぎ

て住民票登録は7600人に減り、実際

の居住者はさらに少なく5000人を

割っている。1600人の差は被災補助

金、義援金受給資格のため住民票だけ残

す人が多いためのようだ。

 

九死に一生を得た持田耕明さん夫妻

は東京から数年前に移住してきたが、

今後も女川を離れずがんばるつもりで

ある。公営住宅にも当選したと喜んで

いたが入居まであと5、6年待たねば

ならない。

 

女川─金華山を結ぶ観光連絡船会社

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マスコミ報道では見えない、海から見た被災地の実態

の現場責任者である持田さんは、震災

発生時は事務所にいた。揺れが収まる

とすぐエンジン始動、部下1人を連れ

て観光船を守るため沖へ走った。津波

に向かって一直線に走ると、沖にある

標高50メートル弱の無人島笠貝島が一

瞬で消えてしまった。津波が島を乗り

越えてきた、そう気づいたとき本当の

恐怖に襲われたと言う。津波を乗り

切って沖で一晩を過ごし、翌日一面瓦

礫で埋まる海をおそるおそる

港に戻ってきた。

 

一方、事務所に残った部下2人は、

港の前にある一番大きな3階建てビ

ル、マリンパル屋上に避難した。屋上

には大勢の人が集まったが、信じられ

ないほど高く盛り上がって迫る海を見

て、2人はとっさに屋上からさらに上

に伸びる無線アンテナのポールに飛び

ついてよじ登った。その直後、巨大な

波がビルを乗り越えて、ポールにし

がみつく2人だけが波頭の上に残され

た。長い時間が過ぎ、波が引いた時、

屋上にはに2人だけが残されていた。

あれから2年半、屋上で波に呑み込ま

れていった人たちを見殺しにしたので

はなかったか、いまも2人は被災の話

になると自分を責めて涙が止まらな

い。

 

持田さんの妻は自宅アパートで地震

を耐えた。室内は足の踏み場もなかっ

たが部屋は無事で、津波には考えが及

ばなかったそうだ。突然、も

のすごい音と同時に濁流がア

パートを打ち砕き、部屋が濁

流に浮き、津波と一緒に上流

に流された。やがて潮が引き

始めるとこんどは急流に翻弄

されながら港に向かって突き

落とされて流れ、ひたすら柱

にしがみついていたという。

 

再びバリバリという大音響

とともに動きが止まった。潮

が引くと部屋の残骸が鉄筋ビ

ルの廃墟にしがみつくように

脱出した観光船のルートと津波

女川湾沖合いにある無人島、夜明けの笠貝島

観光船を守った持田耕明さん

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シリーズ・海道を行く【第 7回】特別編

引っかかって残っていた。人も家も車

も、なにもかもが壊され、そして海に

引きずり込まれ去ったたなかでの幸運

だった。

女川の犠牲は津波誤報も影響か

 

女川町の死者・不明870名は人

口の8.7%にも達し、被災4県で最大の

犠牲者率となった。私が話を聞かせて

もらったのは、偶々だろうが逃げ遅れ

て、しかも生き残れた人たちだった。

また七十七銀行の犠牲行員遺族は、銀

行のすぐ上にある避難場所に避難させ

なかった銀行の過失を訴えて係争中で

もある。女川では指定避難場所に走ら

なかった人が多かったと思う。

 

持田さんも地震直後、津波は大した

ことないと思っていたという。地震

直後の防災放送が津波6メートル~9

メートルぐらいだったからだと記憶し

ている。その後気象庁は大津波に訂正

したものの、すでに防災無線もTV

も止まっており、女川でその放送を聞

いた人はあまりいなかったようだ。こ

の初期誤報は当初ニュースになったが

やがてうやむやにされた。

 

女川では過去数年間、毎年1、2度

は津波警報が流れ避難放送がでたとい

うが、津波5メートルの予報が流され

ても、実際には30センチ以上あったた

めしがなかった。そうした流れの中で

津波予報への信頼感も高くなかった様

子だ。

 

そして大震災で指定避難場所へ行か

なかった人が多かった事情には、実は

大震災数ヵ月前の2012年秋、大

津波警報がでて大騒ぎになった事例が

影響したという人が多い。その時も津

波はわずかしか現れず「またか」とい

う記憶が新しかった。そこへ大震災の

津波6~9メートルという初期予報が

重なって、持田さんの部下のように指

定避難場所でなく近くのビル屋上に移

動してしまった……。

 

仙台湾と三陸を分ける牡鹿半島の西

側のつけ根にあるのが石巻、東のつけ

根にあるのが女川である。牡鹿半島を

回って石巻市の一部である田代島を訪

れた。牡鹿半島に向き合う田代島漁港

には、石巻から日に数便の連絡船が通

う。震災後人口

は減少して百名

を割り平均年齢

は70歳を超え、

古い家並みの多

くは無人になっ

ている。港内の

岸壁は約60セン

チ沈下していた。

七十七銀行行員の慰霊板にある震災前の女川中心部の写真

銀行跡地から町立病院に昇る階段脇には「避難場所」案内板が残っている

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マスコミ報道では見えない、海から見た被災地の実態

 

作業場で定置網の補修をしている人

に罹災の様子を尋ねると、津波は目の

前の海峡を南から北に通り過ぎ、港内

に侵入した津波は高さ4、5メートル

だったらしい。島の人は全員が高台に

集まって無事であり、港の作業場など

が倒れるなど、ここでも波止場周辺の

被害だけで収まった様子だ。石巻が大

災害に襲われているなど想像もできな

かったという。

 

ただ、「船の様子をちょっと見てく

る」という人がいて、全員が「やめ

ろ!」と止めるのを聞き流して2人が

港に降りていった。そしてその直後に

第2波の津波が来て、2人は流されて

しまった。直接の津波犠牲者がないの

に結果的には死者2名になってしまっ

たのであった。  

総延長370キロ!の防潮堤計

画に象徴される復興事業は有効

なのか?

 

地名研究家楠原佑介氏によれば、古

代から近世まで災害危険のある土地で

は、危険性を地名として残し伝承して

きたという(『この地名が危ない』幻

冬舎新書)。ところが近代以降、歴史

的地名の無分別な改変が繰り返されて

地名による危険情報が失われ、同時に

危険性を顧慮しない開発が高進してし

まった。そこに大災害を招く意識原因

があった。

 

被災地では自治体の防災計画をめぐ

る不協和音をたびたび耳にした。首

長と議会が主導する計画案はほとんど

の自治体で高い防潮堤建設とされてい

る。宮古市田老の世界一の防壁型防潮

堤が一瞬で破壊され、大津波に有効性

がないことが露呈すると、今度は大河

川の氾濫防止用との触れ込みで土木業

界が提唱した、スーパー堤防とそっく

りのスロープ型防潮堤に切り替わって

登場している。

 

被災県全体の計画防潮堤の総延長は

370キロ!が予定され、その大半は

津波被害がなかった自然海岸への工事

女川町立病院から見下ろした造成中の町中心部

女川港を見下ろす崖上の町立病院

かさ上げした女川港の新岩壁に係船する著者の愛艇「きらきら丸」。手前は以前の岸壁

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シリーズ・海道を行く【第 7回】特別編

計画なのだ。つまり東北の自然海岸を

コンクリートで囲う内容である。

 

対して住民側は防潮堤に強い不信を

抱いている様子だった。防潮堤の有効

性への疑問に加え、失われる自然海岸

や景観など金に換算できない被害、海

から隔離されるコミュニティの危うさ

などを元にした反発である。

 

海から訪ねた私は、被災地方の自然

海岸線のほとんどが津波の痕跡も見当

たらないことを見続けてきた。被害は

ごく一部の軟弱な地形・立地に限られ

ていた。こうしたことから元々危険な

土地を人工物で巨大津波から守ろうと

しても基本的に無理ではないかとの印

象を抱くようになった。

 

強引な防災計画が防災に有効かどう

かは大いに疑問だが、それよりも実は

実効性などは二の次で、早い者勝ちで

復興予算を費消することが優先されて

いるようにも思われた。国の人口長期

減少時代が確実に始まる中で、100

0兆円を超えた国の借金をさらに増や

し続ける〝成長戦略〟の実相が垣間見

えるのである。

(文中写真・図版はすべて著者提供)

女川湾に面する女川原発

被災自治体が計画中のスロープ型防潮堤計画図

おか けいぞう

1943年岡山県倉敷市生まれ。立教大学

法学部卒。海の文化史を研究。その傍らヨッ

ト〈きらきら丸〉で日本列島を巡り探訪を

続けている。編・著書に、『町に音楽を』

(東京図書出版)、『夫と二人のヨット日本

一周』(角川学芸出版)、『港を回れば日本が

見える』(東京新聞出版局、日本の環境文学

100選、ノンフィフィクション部門)、『回

想神島二郎』(神島二郎刊行会)など。

田代島・仁斗田漁港。係船している一番左の船は「きらきら丸」