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55 はじめに 1857年11月23日(安政4年10月7日)、ハリスは、下田柿崎の玉泉寺に置かれていたアメリカ総領事 館を出発して江戸に向かった。一行は、伊豆の険しい山道を箕作、天城峠、梨本、湯ヶ島、大仁と進 み、11月25日に三島宿に到着する。そして、翌26日、東海道を下って、箱根を越え、小田原で一泊、 27日は、大磯で休憩を取って、藤沢泊まり、28日は、神奈川で休息して、川崎に宿泊する。30日、川 崎を発った一行は、六郷川を渡って蒲田、鈴ヶ森と進んで品川で休み、高輪を通過してやがて東海道 の起点である日本橋に至り、室町、本町、御堀端通り、小川町を経て、宿所の設けられていた九段坂 下の蕃書調所に着いた。 ハリスは、1855年5月21日から1858年6月9日にかけての詳細な日記を残している。また、オランダ 語通訳兼書記としてハリスに同行したヒュースケンも1855年10月25日から1861年1月8日にわたって日 記を記した。 本稿では、このふたりの日記をもとに、欧米人の記した下田から三島までの下田街道の様子を簡略 にたどるとともに、三島宿から箱根関所にかけての幕末期の東海道とその施設を、彼らが、どのよう にとらえたかを探っていく。また、ふたりにとって日本への指南書であったケンペルの書をも適宜参 照する。 ハリスと東海道(1) −ヒュースケン日記とともに− Harris and Tokaido (1) With Heusken’s Diary 山 下 琢 巳 * Takumi YAMASHITA Takumi YAMASHITA 日本伝統文化学科(Department of Japanese Tradition and Culture)

ハリスと東海道(1) −ヒュースケン日記とともに−57 ハリスと東海道(一)―ヒュースケン日記とともに― まう。木炭だから、消えるのが早い。紙の窓と家の隙間のため、直ぐに、戸外に坐っているよう

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    はじめに

     1857年11月23日(安政4年10月7日)、ハリスは、下田柿崎の玉泉寺に置かれていたアメリカ総領事

    館を出発して江戸に向かった。一行は、伊豆の険しい山道を箕作、天城峠、梨本、湯ヶ島、大仁と進

    み、11月25日に三島宿に到着する。そして、翌26日、東海道を下って、箱根を越え、小田原で一泊、

    27日は、大磯で休憩を取って、藤沢泊まり、28日は、神奈川で休息して、川崎に宿泊する。30日、川

    崎を発った一行は、六郷川を渡って蒲田、鈴ヶ森と進んで品川で休み、高輪を通過してやがて東海道

    の起点である日本橋に至り、室町、本町、御堀端通り、小川町を経て、宿所の設けられていた九段坂

    下の蕃書調所に着いた。

     ハリスは、1855年5月21日から1858年6月9日にかけての詳細な日記を残している。また、オランダ

    語通訳兼書記としてハリスに同行したヒュースケンも1855年10月25日から1861年1月8日にわたって日

    記を記した。

     本稿では、このふたりの日記をもとに、欧米人の記した下田から三島までの下田街道の様子を簡略

    にたどるとともに、三島宿から箱根関所にかけての幕末期の東海道とその施設を、彼らが、どのよう

    にとらえたかを探っていく。また、ふたりにとって日本への指南書であったケンペルの書をも適宜参

    照する。

    ハリスと東海道(1)−ヒュースケン日記とともに−

    Harris and Tokaido (1)−With Heusken’s Diary−

    山 下 琢 巳 *

    Takumi YAMASHITA

    * Takumi YAMASHITA 日本伝統文化学科(Department of Japanese Tradition and Culture)

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    東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 20 号(2013)

    Ⅰ ハリスとヒュースケン     

     1856年8月21日(安政3年7月21日)、アメリカ大統領ピアース(Franklin Pierce)に初代駐日外

    交兼総領事に任命されたタウンセンド・ハリス(Tawnsend Harris)が、軍艦サン・ジャシント号

    (the San Jacinto)で下田に入港する。時にハリス51歳、大統領より日本との通商条約締結の訓令を

    帯びていた。ハリスは、23日に下田に上陸、9月3日に下田柿崎村の玉泉寺を総領事館とし、翌日、ア

    メリカ国旗を掲揚する。10月25日、ハリスは、大統領の親書を将軍に上呈するために江戸に赴くこと

    を幕府に要請する。しかし、11月27日、幕府は、江戸出府要請を拒絶、ハリスは、1857年1月8日、再

    び出府を要請する書簡を幕府に送る。2月25日、ハリスは、すべての事務は、下田および函館の奉行

    と処理すべしとの老中の返簡を受け取る。これを不服としたハリスは、4月1日、江戸にて直接談判す

    べき旨の老中宛要求書を下田奉行に提出する。

     この間、ハリスは下田にあって、通商条約の先駆となる九箇条の条約案を下田奉行と談判してい

    た。この条約は、「下田条約」として1857年6月17日に、日本側全権下田奉行井上信濃守直清、中村

    出羽守万時との間で締結される。6月26日には批准書交換が済むが、この条約は和親条約の域を出な

    かった。8月27日、ハリスは、本来の使命である通商条約を結ぶために、再び、江戸出府を要請す

    る。9月8日、幕府は、ハリス出府許可の意を、溜詰諸侯に内達、9月12日には、徳川三家に内達す

    る。しかし、諸侯は、その中止を建議し、水戸、尾張の二侯は不可とする。9月18日、ハリスは、江

    戸出府の許否について十日間の期限付きで返答を迫る。9月23日、ハリスは下田奉行より江戸上府が

    許容されたことを告げられる。そして、10月1日、幕府老中筆頭兼外国掛堀田備中守正睦は、ハリス

    の出府許可を布告し、海外事情に詳しい旗本川路聖謨を米国総領事上府用掛に任命した 1)。

     この下田での条約締結のためオランダ語通訳として幕府方役人との交渉に参席していたのが、ヘン

    リー・ヒュースケン(Henry Heusken)である。ヒュースケンは、オランダ、アムステルダムで生

    まれる。1853年、21歳の時に大きな希望を抱いて新興国アメリカに移住する。しかし、期待外れの生

    活が続き、ハリスが、日本との通商条約締結のため英語とオランダ語のできる通訳を求めていること

    を知って、これに応募して採用される。時にヒュースケン23歳、年俸は1500ドルとの契約であった。

    ヒュースケンは、また、フランス語、ドイツ語にも堪能であった。

     1855年10月25日、ニューヨークを発ったヒュースケンは、途中マデイラ島のフンシャル、アセン

    ション島、ケープタウン、モーリシャス島、セイロン島のガルに寄港し、1856年3月21日に、当時プ

    リンス・オブ・ウェールズ島と呼ばれていたイギリス領ペナン島のアメリカ領事カリアーの邸宅でハ

    リスと対面した。その後、ヒュースケンは、5月29日にハリスがシャム国と修好通商条約を締結した

    場面に立ちあい、香港、広東、マカオを経てハリスとともに下田に到着した 2)。

     ハリスとヒュースケンには、28年という親子ほどの年齢差があった。ハリスは、日記の1856年12月

    3日の日付で、ヒュースケンについて次のように記している 3)。

     四日前からひじょうに悪性の風邪をひき、咽喉が痛い。ヒュースケン君が煖爐に燃料をつごう

    としない習慣から、こんなことになるのだ。昼間は私が自分で火をつぐので、火を絶やすことは

    ないが、夕方は忙しくなるし、それにヒュースケン君が火の傍にいることとて、それを怠ってし

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    ハリスと東海道(一)―ヒュースケン日記とともに―

    まう。木炭だから、消えるのが早い。紙の窓と家の隙間のため、直ぐに、戸外に坐っているよう

    に冷える。ヒュースケン君は食べるとき、飲むとき、眠るときだけを考え――他の事はあまりに

    気にかけない人だと私は思う。

     I have had a very bad cold and sore throat for the last four days. This arises from the habit

    Mr. Heusken has of never putting any fuel on the fire. During the day I attend to the fire myself and it is well kept up, but in the evening I get busy, and, as Mr. Heusken is on the side

    of the fire, I neglect it; and, being made with charcoal, it soon goes out, and with our paper

    windows and loose joints of the house, it soon becomes like sitting out of doors. I believe that

    Mr. Heusken only remembers when to eat, drink and sleep, — any other affairs rest very

    lightly on his memory.

     ハリスは、下田に到着してから一年有余を経て、漸く日本の政治の中心地である江戸に向かうこと

    になった。そして、ものに頓着せず愛すべき性格のヒュースケンが、通訳兼書記官として剛直で潔癖

    なハリスに同行した。

    Ⅱ 江戸出府

     1857年11月23日(安政4年10月7日)、朝8時、晴天のもとハリスは馬に乗って江戸への旅に出発し

    た。ハリスが下田奉行より江戸出府の許可がおりたことを知らされてから二ヶ月が経っていた。この

    間、幕府は、ハリスの旅程における諸手配や江戸での滞在所、また将軍謁見のための準備を行ってい

    た。その日程と行程は、幕府の作成した「江戸着道筋書」に、次のように記されている 4)。

     七日、箕作(休)、梨本(泊)。八日、天城峠(休)、湯ヶ島(泊)。九日、大仁(休)、三

    島(泊)。十日、箱根(休)、小田原(泊)。十一日、大磯(休)、藤沢(泊)。十二日、保

    土ヶ谷(休)、川崎(泊)。十三日、日曜に付逗留。十四日、品川(休)、江戸着

     また、ヒュースケンの道中世話役の記録した「合原猪三郎筆記」には「普通の道中とは譯違ひ供立

    そのほかとも見苦しからざるやう厳重に仕り云々」とあって 5)、その行列は大名並みの格式を持っ

    たものであった。ハリスは、およそ三百五十人にも及んだという行列の様子を次のように記してい

    る。

     大行列

     私の行列の先駆は菊名で、キャプテン(大尉)に相當する身分の陸軍士官である。彼は馬と駕

    籠と、普通の駕籠人足と従者をもっている。彼の前には三人の若者が、いずれも先端に紙切れ

    をつけた竹の棒をもって進んだ。彼らは、代る代るに、「下に、いろ」とさけんだ。それは、

    「シット・ダウン」、「シット・ダウン」という意味である。彼らは、四百ヤードほど前にたっ

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    東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 20 号(2013)

    て進んだ。彼らのさけび声は、きわめて音楽的にひびいた。

     菊名の後に、私の護衛者二人にまもられたアメリカの旗がつづいた。それに次いで、私は六人

    の護衛者をしたがえて、馬をすすめた。私の駕籠と、十二人の駕籠人足、その人足頭、靴持など

    がしたがう。それから、ヒュースケン君が二人の護衛者にまもられながら乗馬でくる。その後に

    彼の駕籠、駕籠人足など。その後から、私の寝具、椅子、食物、トランク、それに進物をおさめ

    た荷物をかついだ従者の長い縦列がつづき、私の料理人とその助手がこれに連なった。下田の副

    奉行が、自分の供廻りと、それから柿崎の村長と、最後に下田奉行の秘書役をしたがえて、つづ

    いた。オランダ語の通詞が一人、駕籠でヒュースケン君の後から運ばれた。行列の人数は全部で

    約三百五十人をかぞえた。

     My avant courier was Keekoona, a military officer with a rank corresponding to captain, He

    had his horse and norimon and the usual bearers and attendants, but before him went three

    lads each bearing a wand of bamboo with strips of paper attached to the top; they cried out,

    alternately, Stanee-hiro, that is, "Sit down," "Sit down." They kept some four hundred yards in advance, and their cry sounded quite musical.

     Next to Keekoona came the American Flag guarded by two of my guards. Then I came on horseback with six guards, next my norimon with its twelve bearers and their headman; bearers of my shoes, etc., etc. Then Mr. Heusken on horseback with two guards, then his

    norimon , bearers, etc., etc. Next followed a long retinue bearing packages containing my bedding, chairs, food, trunks, and packages containing presents; my cook, and his following. The Vice-Governor of Shimoda followed, with his train, then the Mayor of Kakizaki, and lastly

    the private secretary of the Governor of Shimoda. A Dutch interpreter was carried in a cango in Mr. Heusken's rear. The whole train numbered some three hundred and fifty persons.

     行列の先駆は、下田奉行輩下調役並の菊名仙之丞で、後駆は、道中の責任者である下田奉行支配組

    頭の若菜三男三郎が勤めた。行列のなかには見慣れぬベッドや椅子を運ぶ者がいた。そして、とりわ

    け目を引いたのは異様に長い駕籠であった。「使節の乗り候駕籠は、餘程大振りりにて、長手棒も三

    間これあり、通辯官の乗り候駕籠は竝の通りにこれあり」(『高麗環雑記』)と記されるように 6)、

    ヒュースケンの駕籠は普通の大きさであったが、体躯の大柄なハリスの乗る駕籠は、十二人の屈強な

    籠かきが担ぐという特別製のものが用意された。

     駕籠

     日本の駕籠は、見たところフランスのルイ十一世時代にカーヂナル・バリューが発明したと

    いわれているアイアン・ケーヂ(鉄檻)のような恰好につくられている。それは至って丈が低

    いので、その中で直立することができない。また、縦身が短いので、全身をのばして横臥するこ

    ともできない。腰の下に両脚を折って坐るということに馴れないものには、身禮の重さが全部踵

    にかかってくるので、その姿勢をとることは容易に想像しうる以上に苦痛なものだ。

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    ハリスと東海道(一)―ヒュースケン日記とともに―

     私は前から、私ののる駕籠をつくらせてあった。それは(インドのパランキンのように)、長

    さが六呎半もあったので、日本の駕籠の苦痛からは免れることができた。

     The norimon of Japan appears to have been made after the model of the iron cages said to have been invented by Cardinal Balue, in the reign of Louis XI of France. They are so low

    that you cannot stand upright in them, and so short that you cannot lie down at full length. To

    one who has not been accustomed to sit with his legs folded under him, and the whole weight

    of his body pressing on his heels, the posture is more painful than can be easily imagined.

     I previously had a norimon made for me, which was six and a half feet long (like the palanquin of India), which enabled me to avoid the torture of the Japanese norimon.

     一行は、先述した「江戸着道筋書」に従って箕作の日枝神社で正午の休憩を取った。そして、午後

    は、糸杉と樟の林のなかを進み、梨本の見晴らしのきく丘にある慈眼院で一泊した。ハリスは、一日

    を振り返って、幕府が自分の江戸出府のためにした準備がいかに周到なものであったかを知った。

     周到な準備

     私のその夜の宿は寺院であった。そこから、丘や谷や、そして、我々から約百五十呎の直下に

    よこたわる村の極めて美しい眺めをほしいままにすることができた。私はカトリックや異教徒の

    世界のどこへいって見ても、常に教会や寺院のために最も形勝の場所がえらばれていることに気

    づく。私は、今日私の通った通路(それは道路とよぶことはできぬから)に、周到な注意がはら

    われているのを知った。橋は、あらゆる水流の上に架けられ、通路は修理され、藪という藪は通

    路を明けておくために伐りはらわれていた。寺では、湯殿と便所が私の専用につくられていて、

    私を快くするために、萬端の注意がはらわれているのを私は知った。

     My quarters for the night were in a temple which commanded a most beautiful view of the

    hills and valley, and of the village which lay some one hundred and fifty feet abruptly below

    us. I have remarked that throughout the Catholic and Pagan world, the most picturesque

    positions are always selected for churches and temples. I found that much attention had been

    paid to the path (for it cannot be called a road) over which I passed to-day. Bridges had been built over every stream, the pathway mended, and all the bushes cut away so as to leave the

    path clear. At the temple I found that a bathroom and water closet had been built for my

    special use, and every attention paid to my comfort.

     翌11月24日は、天城峠の茶屋で休憩を取り、初めて見る富士山の偉大な景観に心打たれ、湯ヶ島の

    天城山弘道寺に泊る。ハリスは、道中の護衛と人馬継立、休憩ならびに宿泊所の手配など万事行き届

    いたものであることに満足をおぼえた。しかし、ヒュースケンは、気ままに歩いたり休んだりするこ

    とのできない公使としての旅に、不自由をも感じていた。ヒュースケンの脳裏には、『ドン・キホー

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    東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 20 号(2013)

    テ』で主人公キホーテ卿とともに遍歴の旅に出る愉快な従者サンチョの姿が浮かんでいた。ヒュース

    ケンは、天城山越えのおり、その感想を、ユーモラスを交えて、次のような記している 7)。

     私は歩く方がいいので、馬から下りた。二人の侍、靴持ちと傘持ちは、相変わらず影のように

    ついてくる。威厳というのは厄介なもので、サンチョ・パンサが総督をやめたのはもっともだと

    私は思いはじめた。

     世間なみの旅行者として、この山々を気軽に歩き、好きな場所で足をとめ、気の向くままに草

    の上に寝そべることができるなら、何をおいてもそうしたいところだ。

     いま、もしここで足を止めれば、行列全体が停止して、私は従者に踵を踏まれることになりか

    ねない。いまでこそ威風堂々、たいした貫禄だが、そうなると私の鼻と地面の泥がねんごろにな

    ることもありうるわけだ。

     I dismount, preferring to walk, my two samurai, the shoe-bearer and the umbrella-bearer

    still following me like my own shadow. I am beginning to realize that grandeur has its

    disadvantages and that Sancho Panza was right when he divested himself of his governorship.

     What wouldn't I give to be an ordinary traveler and go through these mountains leisurely,

    stopping at attractive spots, or stretching myself out on the grass according to my fancy?

     Now, if I stop, the whole procession must stop and I run a chance that the persons of my

    retinue will step on my heels, and in spite of my immense importance and my present exalted

    grandeur, I could then very well establish an intimate relationship between my nose and the

    mud of the road.

     11月25日、午前8時に湯ヶ島を出立、正午に大仁で休憩を取る。その後、平野の中に、富士山に向

    かってヨーロッパの舗装路を思わせる平坦な道が開けてきた。ヒュースケンは、突然、馬の速度を上

    げて、行列を離れた。ついてきたのは、馬に乗った菊名と二人の侍それに旗持ちだけであった。そし

    て、この集団を先駆けしていたのは、厳格なハリスその人であった。こんなこともあって一行は、午

    後3時過ぎに三島宿に到着した。

    Ⅲ 三島宿

     三島は、東海道の十一番目の宿で、箱根越えの上り下りの旅人が宿泊したので小田原とともに賑

    わった。「慶応三卯年宗門人別取調書上」に拠れば 8)、1867年当時、町数は18町、総戸数は1038

    軒、総人口は4514人であった。宿内の中心は、大中島町と小中島町で、この両町に、本陣2軒、脇本

    陣3軒があった。また、安政2年(1855)の調査では、大旅籠14軒、中旅籠21軒、小旅籠40軒の計75軒

    の旅籠があり、品川・桑名に匹敵する宿場であった。ここには、また、伊豆国一宮である三嶋大社が

    あって、名所として、歌川広重の保永堂版「東海道五拾三次之内三島朝霧」(天保4年・1833・頃)

    をはじめとして東海道シリーズの浮世絵に描かれている。

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    ハリスと東海道(一)―ヒュースケン日記とともに―

     ハリスは、東海道と三島について、まず次のように記している。

     ケンペルと三島

     この町は、日本の大きな道路である東海道の上にあって、オランダ人が江戸へ行くときに通る

    道である。ところで、オランダ人は、この十年間というものは、江戸へ行ってはいないし、彼ら

    の貢物は長崎で日本人に渡されているのだ。このようにして、オランダ人は旅行に要する多大の

    費用を節約したのだが、彼らが以前江戸訪問において捧げていた献上品は、現在長崎で規則的に

    要求され、その地で渡しているので、そのための出費は矢張り免れていない。

     三島は約九百戸を有している。一六九六年のケンペルの記述は、その過當な潤色を適當に割引

    けば、そのまま現在にも當てはまるだろう。

     ケンペルの書いたものを批評する場合には、素晴しさなどの標準には、一六九六年のそれと

    一八五七年のそれとの間に相違があるということを念頭におかなければならない。彼が一六八五

    年頃オランダを出発したときに素晴しかったものでも、一八五七年には賞讃の如何なる形容にも

    値しないということがあるだろう。

     そこで、彼が雄大な城廓、宏壮な宮殿、荘厳な神社について語るとき、百七十年前の昔はどん

    な部類の建物がそれらの賞讃の辞に値するものであったかを想起すべきだ。

     This town is on the Tokido, or great road of Japan, and is the route travelled by the Dutch when they go to Yedo. I may here remark that the Dutch have not been to Yedo for the last

    ten years, their tribute having been delivered at Nagasaki to the Japanese. The Dutch thus avoided the great expense of the journey; but this has not relieved them from the presents

    they made on the occasion of those visits, as they are regularly demanded and given at

    Nagasaki.

     Missima contains about nine hundred houses, and the description of it by Kaempfer in 1696,

    after making due allowance for high coloring, will apply to it now.

     In criticizing Kaempfer's description I must bear in mind the difference there is in the

    standards of splendor, etc., as they existed in 1696 and in 1857. What was splendor when he

    left Holland about 1685 would not be entitled to any adjective of praise in 1857.

     So, when he speaks of stately castles, noble palaces, and magnificent temples, we should

    remember what class of buildings elicited those terms of praise one hundred and seventy

    years ago.

     江戸時代、長崎出島のオランダ商館の館長は、寛永10年(1633)より年に1回、明和からは隔年、

    寛政2年(1790)以降は5年に1回、江戸に参府して、時の将軍に謁見した。最後の参府は、嘉永3年

    (1850)で、ハリス参府の8年前であった 9)。

     ドイツ人のケンペル(Engelbert Kaempfer)は、日本に滞在中、オランダ商館長に従って、1691

    年と1692年の2回、長崎の出島から江戸に参府した。ハリスがその年を1696年とするのは、なにか

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    東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 20 号(2013)

    の誤謬であろう。ケンペル参府の様子は、『日本誌』(原名“Geschichte und beschreibung von Japan”)に記録されている。この書は、ケンペルの死後11年後の1727年に、ヨーハン・カスパル・ショイヒツァー(Johann Gaspar Scheuchzer)による英訳本がはじめて“The History of Japan”と題してロンドンで出版されベストセラーとなる。この英訳本ははやくも翌年に再版され、下って1833

    年には簡略本が出された。また、ドイツ語版は、英訳本に遅れて、1777年から1779年にかけて、ク

    リスチャン・ヴィルヘルム・ドーム(christian Wilhelm Dohm 1751-1820)の編纂で Geschichte und Beschreibung von Japan ; Aus den Originalhandschriften des Verfassers と題して刊行された 10)。 また、1826年(文政9年)に、シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866 )は、商館長の

    ストゥルレン(Joan Willem Sturler)に従って江戸に赴いた。一行は、2月6日に長崎を出立、4月10

    日に江戸着、5月1日に将軍に拝礼、5月18日に江戸を立って帰路についた。この時の様子は、『1826

    年の江戸参府旅行中の日誌』(Journal während meiner Reise nach dem Kaiserlichen Hofe Jedo im Jahre 1826)に記録され、1897年にシーボルト生誕百年記念としてライプチヒで出版された縮刷本『日本』(Nippon)に「江戸参府紀行」として収まる 11)。 ハリスの日記には、ケンペルの書とともにオランダ商館書記のファン・オーフルメール・フィッセ

    ル(Van Overmeer Fisscher)の『日本風俗備考』(Bijdrage tot de kennis van het Japansche rijk, Amusterdam, 1833)、オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff)の『日本回想録』

    (Herinneringen uit Japan, Haatlem, 1833)への言及がある。このうちハリスが、日本を知るために最も参考にしたケンペルの書には、三島について、都合4回の記録が残されている 12)。

     三島は私の概算では、宿場はずれの町を除いて戸数六五〇、長さ四分の一里の中央の町筋から

    成る小さな町で、二つの川が町を流れ、川下の所で三本目の川がこれに合流する。これらの川は

    みなかなり深いので橋が架っていた。一六八六年〔貞享三年〕町はすべて焼け、それと一緒に、

    たくさんの物語で有名な、種々の古い立派な神社仏閣が失われた。以後それらは前よりずっとき

    れいに再建されている。有名な神社の一つで、焼けてしまった三島明神という社は、同じように

    四角の石を並べた敷地に再建されたが、それについては第二回の参府旅行の折りに述べることに

    する。(1691.3.10)

     Misijma is a small town, wherein I told about 650 houses, as we pass'd through, built chiefly along the middle street, which is at least a quarter of a mile long. Two rivers run through this

    town, and a third washes one end of it ; bridges are laid over each, they being pretty deep.

    It had formerly several remarkable and stately temples and chappels, famous on account of

    several fabulous stories reported of them. But in a late dreadful fire in 1686, which consum'd

    the whole town, they were all laid in ashes. The town indeed hath been since rebuilt, much

    handsomer than it was before, as was also one of the temples, now standing in a spacious

    square ground all pav'd with square stones. Having had an opportunity, in our second journey

    to court, of viewing this temple more particularly, I refer the reader as to a farther description.

    055-077山下琢巳氏.indd 62 13/02/19 16:50

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    ハリスと東海道(一)―ヒュースケン日記とともに―

     日没の一時間前にわれわれは三島に着き、そこに泊った。ここには有名な神社があり、境内は

    広大で、四角の石がきちんと敷きつめてあった。またすぐ近くの池には、人によく慣れた魚がい

    た。(1691.4.7)

     We left Fakone after dinner, and came to Misijma just before sun-set. Not far from Misijma stands a famous temple on a large spot of ground, pav'd with free stone. Not far from it is a

    fish-pond.

     三月二八日われわれは吉原で昼食をとり、三島に泊った。(1692.3.28)

     On the 28th of March , we set out before break of day, din'd at Yosijwara , and lay at Missima.

     三島町。宿場はずれの家を加えないで六五〇戸から成っている。神社が建っていたが、すっか

    り焼けてしまっていた。境内は横一〇〇歩、縦三〇〇歩の広さがあり、樹木と石の垣をめぐらし

    てあった。しかし社殿の中で神体を安置してあった本来の場所は、竹の矢来で囲ってあり、たく

    さんのお札が下がっていた。その裏手の薮の中にはなお小堂が建ち、その近くに木製の黒い馬が

    置いてあった。そこから遠くない所に三和土で作った浅い池があり、人に馴れたたくさんのウナ

    ギやその他の魚がいた。(1692.4.29)

     Missima, which consists of about 650 houses besies the suburbs, and a large place three hundred paces long and an hundred broad, on which stood formerly a temple, which was

    burnt down not long ado. This place was enclosed with a wall and trees, and the place in the

    temple, on which the Idol stood, was rail'd in with Bambous , where they hung up several papers. At the upper end there was a small temple built in a bush, next to which stood a black

    wooden horse. A shallow pond was not far from it, wherein they kept tame eels and other fish.

     三嶋大社

     東海道をはじめて旅するハリスにとって、170年前のものとはいえ出版物としてのケンペルの記録

    は、参考資料として貴重なものであった。鎖国によって閉ざされていた日本の風物は、ケンペル当時

    とはたして相違するのか、ハリスは、大群衆が見守るなか、かつてケンペルが訪れた三島大社を訪れ

    る。そして、そこには、奇しくも、ケンペル当時と同じような状態が待ち受けていた。

     ケンペルが三島に来た約5年前の貞享2年12月10日(1686.1.4)、駿東郡伏見からの出火は、折から

    の西風にあおられて三島に延焼し、三島宿は全焼失、三嶋大社も社中残らず類焼した。そして、ハリ

    スが三島を訪れた約3年前の安政元年11月4日(1854.12.23)には、安政東海地震が起こった。この地

    震で、三島宿は、壊滅的な被害を受けた上に火災が発生、三嶋大社では、境内の樹木の大半が折れ、

    建物は全倒壊した。

    055-077山下琢巳氏.indd 63 13/02/19 16:50

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    東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 20 号(2013)

     ケンペル、ハリスともに、三島宿の名所である三嶋大社の社殿を見ることができなかった。なお、

    ハリスの記述には、安政東海地震と安政2年10月2日(1855.11.11)発生の安政江戸地震との混同がみ

    られる。

     この町には、亭々たる樹林にかこまれた美しい境内にある立派な神社があった。しかし、それ

    は一八五五年十二月の大地震で、すっかり破壊されてしまった。私はその跡を見に行ったが、そ

    の途中、一見してこの町の全人口よりも遙かに多いと思われる澤山の人の群れを見て、私は驚い

    た。その理由を聞けば、私の到着する日取りは、何日も前から知られていたので、許可を得るこ

    とのできた人達がみな私を見るために三島へやってきているというのだ。中には百哩以上もある

    遠方からきている者すらあるという。

     人々は全く行儀がよかった。私のそばへ群れよることもなかった。何らの叫びも、騒々しさも

    なかった。私が通るときには、みな跪いて、(私を正視することを憚るもののように)目を伏せ

    ていた。相當身分のある人達だけが私に敬禮することを許されていたが、これは額が地面に實際

    つくほど「低く叩頭する」ことによって行われた。

     そこの神社の境内に、魚の群れているいくつかのきれいな池がある。三層の小さい塔が、地震

    にひどくゆすぶられたので、ぐらぐらして倒れそうになっている。神域の小さな掘割にかかって

    いる橋までが、境内を圍んでいる石垣とともに、すっかり破壊してしまっている。

     It had a fine temple situated in a fine square and surrounded by noble trees, but it was

    totally destroyed by the great earthquake of December, 1855. I went to see its ruins; and,

    in my walk, I was surprised at the numbers of the people, which were apparently far more

    numerous than the whole population of the place. On asking for an explanation, I was told

    that the time of my arrival was known many days ago, and that all those who could procure

    permission had come to Missima to see me; that some had come more than one hundred miles.

     The people were perfectly well behaved, no crowding on me, no shouting or noise of any

    kind. As I passed, all knelt and cast their eyes down (as though they were not worthy even

    to look at me). Only those of a certain rank were allowed to salute me, which was done by

    "knocking head" or bringing the forehead actually to the ground.

     In the temple grounds are some fine tanks swarming with fish. A small pagoda of three

    stories was so much shaken by the earthquake that it totters to its fall. Even the bridges

    leading over the small canals of the temple grounds, with the stone wall which surrounded the

    enclosure, have all been overturned.

     本陣

     江戸時代、宿場には本陣が宿泊所として置かれていた。この本陣には、宿役人の問屋や村役人の名

    主などの居宅が指定されていた。本陣を休泊に使用できるのは、将軍の名代、勅使、院使、宮家、門

    跡、公家、大小名、駿府・大坂・二条御番衆、奉行、代官、所々御目付、幕府の公用通行者、御三

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    ハリスと東海道(一)―ヒュースケン日記とともに―

    家・諸大名の名代などであった。休泊の予定日は、少なくとも二、三ヶ月前に通達しておくことが必

    要であった。

     三島宿の本陣には、一ノ本陣(世古六太夫・279坪5合・小中島町)と二ノ本陣(樋口伝左衛門・

    238坪・小中島町)の二軒があり、脇本陣は銭屋伊三郎(125坪・小中島町)、綿屋伊兵衛(100坪5

    合・大中島町)、大和屋善蔵(93坪・小中島町)の四軒があった。ちなみに箱根宿の本陣は、駒氏

    (178坪)、川田氏(168坪)、石内氏(204坪)、平野氏(179坪)、又原氏(186坪)、天野氏(165

    坪)の六軒で脇本陣が一軒、小田原宿の本陣は、清水氏(242坪)、久保田氏(212坪)、清水彦氏

    (208坪)、片岡氏(152坪)の四軒で脇本陣が四軒あった 13)。

     ハリスの下田街道での宿は、寺院に臨時にあつらえられたものであったが、東海道に入ってからは

    本陣で宿することになる。部屋から庭を眺めるとすべてのものがことさら小さく造作されており、ま

    るで夢の中のお伽の国にいるようで、ハリスは、その心地よさに至極満足する。

     今夜の私の休息所は本陣であったが、それは守などのような最も身分の高い人達のための休宿

    所である。下田の副奉行でさえもが、ここには泊ることができなかった。貴人や政府の役人のた

    めには二、三の等級からなる旅舎があるが、これらは一般の旅館と区別されている。というの

    は、一般の旅館にも雑多な等級があるが、いずれもそれだけの金を払えば誰でも自由に宿泊し得

    るのである。

     私は、ひじょうに居心地がよかった。背後には矮樹や小さい築山や岩石のある庭があり、小池

    があって、お伽の国の小人でもなければ渡れぬような橋がいくつかかけてあった。

     My rest place to-night was at a honjin, or rest house for persons of the highest rank, such as the princes, etc. Even the Vice-Governor of Shimoda could not stop here. There are two

    or three classes of houses of entertainment for persons of rank and government officers, and

    these are distinct from the public hotels, which are also of various grades, but all are open to

    those who have money to pay the higher prices.

     I found myself very comfortable. In the rear was a garden, with dwarf trees, miniature

    mountains and other rock work; diminutive ponds with bridges over which nothing grosser

    than a fairy could walk, etc.,etc.

     

     ヒュースケンが記す三島宿は、ハリスのそれとほぼ同じである。町数、本陣、三嶋大社、見物人な

    どに言及する。ヒュースケンは、そのなかで、三嶋大社の境内に社再建への寄進者の名を記した板

    が道に沿って多数並んでいること、そして、ハリスも寄進を行ったことを明記している。このこと

    は、「品川宿年寄忠次郎記」には、「三島明神へ参詣、金二両二分寄附仕り候よし」と記録されてい

    る 14)。

     寄進

     日暮れ頃、三島に着く。町には二十の街路があり、東海道という日本の幹線道路上にある。そ

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    東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 20 号(2013)

    の夜泊まった宿はまったく申しぶんがなかった。すみずみまでよく手入れがゆきとどいている。

    座敷まわりは便利で清潔で、庭石や池や亭、奇妙な形に刈り込まれた樅の木などのある庭を見渡

    すことができる。小径には飛石をおいて、靴を汚さぬ工夫がしてある。今日は八里の旅であっ

    た。半時間休憩した後、ミヤ〔三島神社〕を見にゆく。歩いて行ったが、道の両側はたいへんな

    人だかりだった。この神道の社殿の境内は非常に広く、両側に大きな樅の木のある小径が通って

    いる。境内の入口には三階建ての朱塗りの塔、つまり木造のパゴダが二基、建ててある。

     神殿そのものは三年前の地震で倒壊した。ミヤの再建に寄進した篤志家の名前を墨で書いた小

    さな板きれが道にそって並んでいる。非常に大勢の名前があるから、寄付金がどんなに些少で

    も、ソロモンの神殿を凌駕する大伽監を建てるだけの資金ができたはずである。大使が神殿の寄

    付に応じたので、神官たちは盛装してお礼を述べにきた。

     そこにはまた大きな池があって、いままで見たこともない大きな金魚がたくさん泳いでいる。

    餌を投げてやると、先を争って群がり寄ってくるところは、文明国の金魚とすこしも変わらな

    い。

     About nightfall we arrive at Mishima, a city of twenty streets on the Tokaido, or great

    highway of Japan. We like the hotel where we pass the night very much. It is extremely

    well kept. The quarters are convenient and very clean, overlooking a garden which contains

    artificial rocks, ponds, shells, firs pruned into bizarre shapes, small lanes with stones laid on

    the pathways so as not to soil your shoes. Today we have covered eight ris . After having rested for a half hour, we go to see a miya [temple]. We go there afoot, passing through an immense crowd of people gathered on both sides of the road. The grounds of this Shinto

    temple are very extensive, divided by lanes bordered by majestic fir trees. At the entrance

    stand two towers, or wooden pagodas, three storied and painted in red.

     The temple itself was ruined by an earthquake three years ago. Along the lanes one can

    read the names of the charitable people who have contributed to the rebuilding of the miya written with ink on small boards. There are so many names that, if the donations are in the

    least substantial, there should be the wherewithal to build an edifice which would outdo that

    of Solomon. The Ambassador having contributed his part to the collection for the temple, the

    priests come in full costume to thank him.

     There is also a huge pond filled with goldfish, the largest I have ever seen, but they have

    this in common with the goldfish of civilized countries that when you throw them something

    to eat they come to you in great numbers, fighting among themselves in order to get the

    delicacies which you offer them.

    Ⅳ 箱根宿

     1857年11月26日(安政4年10月10日)、ハリス一行は、東海道の難所のひとつである箱根峠を越え

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    ハリスと東海道(一)―ヒュースケン日記とともに―

    るために、三島宿を7時半という早めの時刻に出発した。本陣を出て東海道を江戸方面に向かうと、

    左側に三嶋大社があり、さらに進んで大場川にかかる新町橋の手前が東見附(江戸方面の見張り所)

    で三島宿の出入口であった。その先、初音ヶ原のあたりは松並木が続いていた。しかし、ハリスが

    通った並木の木々のなかには、倒壊しているものがあった。

     東海道

     これからは日本の大道路である東海道だ。その道幅は三十乃至四十呎あって、ひじょうに

    見事な絲杉、松、樅、樟などの並樹が道の両端にある。杉の多くは、すばらしい巨木である。

    一八五六年九月二十二日の颱風(この日の日記を見よ)が、これらの見事な木に痛ましい惨害をも

    たらした。ほとんど百ヤード毎に、その傷痕が見られた。

     We were now on the great road of Japan; it is from thirty to forty feet wide and is

    bordered by very noble cypress, pine, fir and camphor trees. Many of the cypresses are of

    extraordinary size. The typhoon of September 22, 1856 (see my Journal of that date) made sad

    ravages among these fine trees. I found marks of its effects almost every hundred yards.

     ハリスが下田に到着した約1ヶ月後の1856年9月23日(安政3年8月25日)から24日にかけて台風が伊

    豆半島から江戸を通過した。この台風による猛烈な暴風と高潮で江戸をはじめ関東の広い範囲で大被

    害が起きた。「近世史略」初編(山口兼、1872)には、「八月東国大風雨江戸ノ死傷者凡十萬餘人。

    是月堀田備中守ヲ閣老ニ任シ同列ノ上ニ班ス。蓋昨年来屡々非常ノ天變アリ。而シテ外国ノ来ル者日

    ニ駸々幕府殆ント謀議ニ苦シム」とある。幕府は、安政に入って以来、関東を襲った地震、台風の災

    害処理に苦慮していた。幕府側すれば、そのようなおりに、鎖国制度を揺るがすハリスの江戸参府と

    いうもうひとつの難題が加わっていた。そして、これらの任にあたっていたのが、開国派で老中首座

    の堀田正睦であった。

     ヒュースケンは、幕府役人の若菜三男三郎、従者の合原猪三郎とともに、まだ慣れない日本語で会

    話を交わしながら東海道を進んだ。ヒュースケンは、東海道沿いの村落や庶民の様子が、ケンペル当

    時と少しも変わっていないことに感動をおぼえる。そして、その前近代的ではあるが豊潤な景物と礼

    儀正しい日本人を目の当たりにし、西欧の近代化とはなんであったのかと自問する。

     沿道風景

     われわれが旅をしている大きな公道、東海道は、道路ぞいに高さ十フィートほどの土塁があっ

    て、その上に大きな松や杉が植えてある。ケンペルが江戸へ行くとき、影を落としていたのも、

    たぶんこの並木であろう。ケンペルが書いた『日本の歴史』はとても役に立つ本であるが、私は

    いま、一足ごとに、一つの村に入るごとに、彼がみごとに描写した日本の習俗の一つ一つに、そ

    のことを改めて認識している。日本の姿はケンペルの時代から変わっていない。内乱で国土が荒

    廃することもなかった。肥沃な田畑が軍馬や重い砲車に蹂躙されることもなく、農夫の茅屋が規

    律のない兵士たちに放火されることもなかった。

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    東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 20 号(2013)

     秋の稔りは毎年欠かさず刈り取られ、備えの蔵に納められ、農夫の汗がマース〔戦の神〕やべ

    ロナ〔戦の女神〕の激情の犠牲にされることはなかった。昔ながらの奇妙な結髪が日本人の頭を

    飾っている。着物は祖先のと同じように仕立てられ、足にも同じ草履をはいている。同じ庶民た

    ちが土を耕し、昔ながらに両刀をたばさんだ主人の前に土下座し、昔の本に書いてある日本人の

    もちまえの礼儀正しさが、すこしも輝きを失わずに残っている。

     ひるがえって西洋の歴史をひもといてみれば、いかに多くのぺージが血まみれの文字で書き綴

    られていることか。いかに多くの肥沃な国が、手のつけられない荒野に変わつてしまったこと

    か。いかに多くの民族が国を奪われ、王座が覆えされ、みずから世界の主と称し、みずからの力

    に傲って、「国家、それは私だ」〔ルイ十四世太陽王〕と揚言した人々の首が、いかに数多く死

    刑執行人の刃にかかったことだろう。

     The great highway, or the Tokaido, on which we are now traveling is bordered by terraces

    which rise about ten feet above the road, and upon which are planted magnificent cypresses

    and pines, probably the same trees which shaded good Kaempfer on his way to Edo;

    Kaempfer has given us the best available history of the Japan which I recognize again at each

    step, in each village, in each custom of the Japanese which he has so admirably described. The

    physiognomy of Japan has not changed since the time of Kaempfer. No civil wars have come

    to devastate its territory. Its fertile fields have not suffered under the trampling of horses or

    the weight of guns, the humble dwellings of peasants have not been set afire by undisciplined

    soldiers.

     Each year the harvest has been reaped and stored in warehouses designed to receive it

    and the sweat of peasants has not been sacrificed to the fury of Mars or of Bellona. The same

    odd coiffure covers the heads of the Japanese. Their clothes are cut in the same manner as

    those of their ancestors. Their feet are protected by the same straw shoes. The same common

    people till the soil and prostrate themselves in the dust before the same masters who glory

    in the possession of two swords as in days of old, while the innate politeness of the Japanese,

    which the old authors mentioned, keeps shining with all its original splendor.

     If we now turn and look to the Occidental world and consult the history of the past, how

    many pages are written with letters of blood, how many fertile countries have been turned

    into inhospitable deserts, haw many peoples erased from the list of nations, how many

    thrones overthrown, the heads of those who called themselves masters of the world, who

    in the insolence of their power proclaimed“1'état c'est moi”falling under the blade of the

    executioners.

     東海道のなだらかな並木道も終わり、今井坂を通過し、愛宕坂の急坂を登り始めた一行は、錦田一

    里塚を通り過ぎ、いよいよ難路箱根路に足を踏み入れた。馬での通行が不可能となったハリスは、そ

    の使節という身分のため歩くことも叶わず、特製の駕籠に乗った。

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    ハリスと東海道(一)―ヒュースケン日記とともに―

     箱根峠

     ほどなく、我々は箱根の横嶺を登りはじめた。山道には平たい石が敷かれている。車輌や蹄鐵

    をつけた馬が全く通らぬので、その石は丁度磨かれたように至って滑かであるから、その上を馬

    で通るのは危険である。

     登りにくいが、天城山を越える時のそれほどではない。山頂附近で、私は家康が建立した神社

    へ案内された。家康は現在の徳川幕府の創建者である。箱根の山頂から、我々は駿河の邑と駿河

    湾の美しい景色を見た。富士山は目前に迫っているが、それは湯が島で見たときの壮麗さとは、

    まるで異ったものであった。

     We soon began to ascend the spurs of Hakone. The road up the mountain is paved with flat

    stones; and, from the total absence of wheel carriages, or of horses that are shod with iron, the

    stones are quite polished and so slippery that it is dangerous riding a horse over them. The

    ascent is bad, but not so vile as that over Mount Amagi. Near the top of the mountain I was

    taken to a temple built by Yeyas, the founder of the present dynasty of Tykoons. From the

    top of Hakone we had a fine view of the City and Bay of Suruga. Fusiyama was quite near,

    and altogether a different affair from the glorious view at Yugasima.

     三島宿から箱根峠にかけては、今井坂、愛宕坂、臼転坂、題目坂、大時雨・小時雨坂、下長坂(背

    負っていた米が、汗と熱でこわめしになったことから「こわめし坂」とも。江戸方面での一番の難

    所)、上長坂、小枯木・大枯木坂、石原坂、甲石坂と登りである西坂が続く。このうち東海道の最も

    早い名所記である浅井了意の『東海道名所記』(万治3/4年頃・1660/61・刊)には「石原坂をうちこ

    えて、かれ木坂にかかれば、三島、田子の入海もみゆ」とあって、山頂付近では、三島の村や駿河

    湾、また富士山を見渡すことができた。しかし、ハリスの参拝したという山頂付近の神社については

    詳らかにすることができない。山頂からは、芦ノ湖畔にある箱根権現社を望むことができる。この箱

    根権現は、古来、伊豆山権現、三島明神とあわせて三所権現と称し、関東総鎮守として尊崇されてき

    た。鎌倉時代以降についてみれば、源頼朝ら歴代の将軍や幕府要人、北条早雲・氏綱などから手厚い

    保護を受けた。しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に多くの堂宇が焼失する。こ

    れを、文禄3年(1594)、社領200石と社地不入の朱印状を寄せ、再建したのが徳川家康であった。山

    頂での幕府役人からの伝聞がハリスの日記に記録されたものであろうか。なお、次に引用するよう

    に、ヒュースケンは、山頂で徳川家康が築城した駿府城のことを記している。

     東海道は、箱根峠を越えると下りになり、挟石坂、釜石坂、赤石坂、向坂と東坂が続いて、箱根宿

    に入る。ヒュースケンは、箱根峠越えをして箱根宿に到着した様子を次のように記している。

     石畳

     箱根の山を登ると、もっとも悪い道――平担な部分がすこしもなく、穴だらけで、石が散らば

    り、泥が深くつもっている――が旅人に強いるすべての苦しみを忍ばねばならないが、それでも

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    東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 20 号(2013)

    しばしばあらわれるすばらしい眺めによって十分酬われていることを知るのである。

     そのような場所をうまく利用して、勤勉な日本人は小さな茶店を建てている。

     〔草稿半ページ欠損〕

     ……太平洋には何故なら……二日前に越えた天城、そして背後には駿河湾と、同名の町が見え

    る。この町は日本のいくつかの年代記にその名を記されているが、現在の王朝の創始者はここに

    城を築いていた。四里ほど登って山頂に達し、半里下って、三百軒ほど家のある箱根村につい

    た。

     In climbing the mountains of Hakone and suffering all that the worst of roads-the most

    uneven and pitted, strewn with rocks and covered with mud-may force the traveler to

    endure, one finds oneself richly rewarded by the superb vistas which are offered from time to

    time.

     The industrious Japanese have made the most of these places by building there small inns.

     [At this point the manuscript is again interrupted due to the loss of the half page.]

     . . . In the Ocean because . . . of Amagi which we crossed two days ago, and behind us the

    Bay of Suruga and the city of that name, so famous in the annals of Japan, where the founder

    of the present dynasty had his fortified castle. After having climbed for about four ri , we reached the summit of the mountain, and after having descended a half ri , we arrived at the village of Hakone of about three hundred houses.

     箱根宿は、幕府が、元和4年(1618)2月、三島・小田原の両宿より箱根山上に各50戸の移住者を

    募って人馬継ぎ立ての宿駅を設けたことにはじまる。二町一宿といわれ、三島からの移住組町内で

    宿の西側を三島町と呼び、小田原からの移住組町内で宿の東側を小田原町と呼んだ。三島からは三

    里二十八丁、小田原からは四里八丁の地点に位置する。ヒュースケンは、箱根宿の戸数を約300軒と

    推測している。しかし、ヒュースケン訪宿7年後の元治元年(1864)11月に、宿役人が韮山代官所に

    提出した「宿内軒別坪数書上」によれば、総家数160軒、そのうち本陣6軒、脇本陣1軒、旅籠64軒で

    あった15)。

     箱根宿に到着した一行は、まず芦ノ湖に面した本陣で休憩をとった。

     芦ノ湖

     私が休息した本陣は、約二哩の長さの美しい湖水の堤上にあったが、それは衛生上よくないと

    ころで知られている。ここの水はひじょうに悪く、富士の山腹を吹きおろす寒風が、病氣をおこ

    させることは分明だ。

     The honjin where I stopped was on the bank of a pretty lake about two miles long, but it is

    notorious for its insalubrity. The water here is very bad, and the cold winds that rush down

    the sides of Fusi Yama are well calculated to produce sickness.

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    ハリスと東海道(一)―ヒュースケン日記とともに―

     一行が訪れた11月26日の芦ノ湖畔は、かつてケンペルが、次に引用する1691年3月11日の日記に記

    したように非常に寒く、いつ発病してもおかしくないような気候であった。

    寒冷の地

     ここにはハエも蚊もいないから、夏は静養していてもこれらに妨げられることはないが、冬こ

    こに滞在するのは全く快適ではない。外気は非常に寒く、重苦しくガスが立ちこめ、体によくな

    いので、外国人は健康をそこなわずに長期間辛抱することは恐らくできない。前のオランダ東イ

    ンド会社の長、フォン・カンプホイゼン氏は、自分は、ほかでもないこの土地のせいで体を悪く

    した、と私にはっきと言っていた。

     The air of the place is cold, moist, heavy, and withal very unhealthy, insomuch that

    strangers cannot live there, without impairing their health, particularly in the winter. Mr.van Campbuysen, Director General of the Dutch East India Company at Batavia , often assur'd me, that the weakness and indifferent state of health, which attended him after he was rais'd to

    that eminent post, was owing entirely to the unhealthiess of this village, through which he

    pass'd in his journey to court, when he was Director of our Factory in Japan. In the Summer, indeed, it must be pleasant enough to lie at this place, because one is not incommoded and

    pester'd with flies and gnats.

     この寒さは若いヒュースケンにもこたえたようであった。その記述は、ハリスと同様にケンペルの

    日記を踏まえ、芦ノ湖畔の気温の低さを強調したものとなっている。

     この村の宿に着くと、小さな湖に面する部屋に通された。湖は深い紺青色をしており、その底

    はきっと死火山の噴火口なのであろう。周囲は険しい山で、樹木が繁茂し、その背後に富士ヤマ

    が見える。

     ここの冬は非常に寒いというケンペルの言葉はまちがっていない。湖から吹きあげる風と、富

    士の雪を越えて吹き下ろす風のために、周辺の地域よりはるかに寒いのである。

     Upon our arrival at the inn of this village we were shown into our apartments which

    overlooked a small lake, the waters of which were of a deep blue color and the bed of which

    had certainly been formed by a dead crater. The lake is surrounded by steep mountains,

    covered by vegetation, behind which Fujiyama can be seen.

     Here I must confirm the observation of Kaempfer, that it is very cold here in winter. The

    wind which blows from the lake and from beyond the snows of Fuji make this place much

    colder than the surrounding area.

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    東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 20 号(2013)

     本陣で、休憩を取った一行は、いよいよ宿の東方にある関所を通過する。

    Ⅴ 箱根関所

     箱根宿の東方、小田原側には、東海道を通過する人馬を検閲する関所があった。この箱根関所の成

    立を、『新編相模国風土記稿』(天保12年・1841・成)巻27は、「建置の始め詳ならず、或は元和四

    年箱根新駅開けし頃のことなるべしと云ふ」として、元和4年(1618)のことかとする。また、同書

    に「世々小田原領主の預り警護する所にして」とあるように、代々の小田原城主が、その家士を派遣

    してこの関所を守った。

     関所には、東海道の往還に前後ふたつの門があり、左右は塁柵で囲まれていた。門内には、千人溜

    りと称した通行人待機のための広場があり、湖水側には、上面番所・面番所としての母屋造一棟が

    あった。面番所の向側には、足軽詰所の向番所があって、三つ道具(突棒・刺股・袖がらみ)が並べ

    立ててあった。また柵内の宿場側には、馬屋があり、小田原側には、幕府の発した関所改めの条例を

    掲げる高札場があった。関所役人には、伴頭(番頭)、番士、横目、定番人(関守)、御先手組(足

    軽)などがおり、付属として仲間三人と人見女三人が常駐した。また、門外には関所定番宅と関所破

    りを監視する遠見番所があった。関所の開閉時間は、明け六つから暮れ六つまでの間に限られてい

    た 16)。

     ハリスとヒュースケンは、関所について、それぞれ次のように記している。

     関所

     箱根の山頂から一哩ばかり、その北側から程遠からぬところに、箱根という名前の村がある。

    ここには、江戸地方に入る有名な関所がある。乗物はすべて厳重に検査され、旅人はめいめい所

    持の手形を改められる。

     A short distance on the north side of Hakone, and about one mile from the top, stands the

    village of that name. Here is the celebrated pass into the Yedo district, and a rigid search is

    made of every norimon, and each person is examined as to his passport.

     この村を出はずれたところに屯所、または関所があって、はるか昔から皇帝の役人が、首都に

    往き来する人を検問している。それは山の峡間にあって、周囲の山が非常に高く、険しいので、

    江戸に行こうとする人はみなこの路を通らざるをえない。

     At the far end of this village there is a station or barrier where, from time immemorial,

    those going to or returning from the capital are searched by Imperial officers. This barrier is

    placed in a defile so that, since the surrounding mountains are very high and steep, anyone

    who wishes to go to Edo is compelled to go through this very passage.

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    ハリスと東海道(一)―ヒュースケン日記とともに―

     関所改め

     関所では、人と物が検問の対象となっており、関所通過には、身分証明書である手形が必要であっ

    た。手形には、百姓町人手形、僧院御師手形、武家手形、女手形などがあり、その有効期限は、通

    常、発行月の翌月晦日までであった。また、通関に際しての人改めについては、幕府から条例が発せ

    られていた。現存するもので最も古い寛永2年(1625)8月25日公布の「定」には、通行人は面番所の

    前で笠・頭巾を脱ぐこと、乗り物で通る者は戸を開くこと、女乗り物の者は人見女の検査を受けるこ

    と、予め通関通知を発してあった公家、門跡、諸大名であっても不審な点があれば検問が許されると

    いったことが記されている。この「定」は、正徳元年(1711)5月では、さらに、女性、手負い人、

    死人、不審者の検査の条が加えられた 17)。

          御関所御条目之覚

      一、関所を出入輩、笠頭巾をとらセて通スべき事、

      一、乗物ニ而出入輩、戸を開かセて通スべき事、

      一、関より出る女は、つふさに證文へ引合セて通スべき事、

         附、乗物ニ而出る女ハ、番所の女を出して相改べき事、

      一、手負死人并不審成者、證文なくして通べからざる事、

      一、堂上之人々諸大名の家来、兼々より其聞へあるハ沙汰ニ不及、若不審之事あるニおゐてハ、

        誰人ニよらず改べき事、

      右之条々厳密ニ可相守者也、仍執達如件、

        正徳元年五月日     奉行

     関所にさしかかったとき、下田副奉行の若菜三男三郎が、ハリスの乗った駕籠に近づいて、ためら

    いがちに関所通過のための幕府の決まりを知らせた。若菜はハリスに、この駕籠も、関所では、規定

    通りに戸を開ける必要があると言った。

     駕籠改め

     この関所へ差しかかったとき、下田の副奉行は極く遠廻しに、日本の大名がこの関所を通ると

    きには、駕籠の戸を開き、駕籠舁の足を停めることなしに、役人がその中を覗きこむことになっ

    ていること。そして、それはほんの儀式に過ぎないものだが、古くからの掟となっていることな

    どを私に知らせた。

     Here the Vice-Governor of Shimoda, after a vast deal of circumlocution, informed me that,

    when the great Princes of the Empire passed here, the door of the norimon was opened and an officer looked into it, without stopping the bearers; that it was a mere ceremony, but the

    ancient laws required it, etc., etc.

     しかし、近代法を知るハリスは、自分が駐日総領事という治外法権下にあること、また、これまで

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    東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 20 号(2013)

    の経験から日本人が強弁に屈すること、そして、なにより前近代的な悪法に対するフロンティア精神

    から次のように答えた。

     私はこう答えた。自分は日本の臣民ではなく、合衆國の外交代表者であるから、このような検

    査を受ける理由はないのだ。君らは、私の駕籠の中に何があるかを知っている。そして、禁制の

    何ものもその中にはないということを、関所の役人に知らせることができるのだと。

     I replied that, as I was not a Japanese subject, and being as I was the diplomatic

    representative of the United States, I was free from any such search; that they knew what

    was in my norimon, and could inform the officers at the pass that there was nothing forbidden in it.

     やや頑迷ともいえるハリスの性格を知っていた若菜は、様々な手段を提案してハリスの意を翻させ

    ようとした。しかし、ハリスは断固としてその意をまげなかった。

     副奉行は暫く、私の決心をひるがえそうと試みた。そして、終には、私が馬でそこを通ること

    にし、その際、空の駕籠を検査させることにしてはどうかと申し出た。私は、どんな形式にせ

    よ、検査そのものに反対するといって、断乎としてこれを斥けた。

     The Vice-Governor tried for some time to change my determination, and at last proposed

    that I should ride through on horseback, and then permit the search of the empty norimon. I decidedly declined this, telling him that it was the search under any form that I objected to.

     若菜は、ついに幕府に使者を使わして、その指図を受けるとハリスに告げる。しかし、ハリスは、

    あくまで検査を主張するならば、下田に引き返すと言う。若菜は、しかたなく番所に交渉に行き、二

    時間後に戻ってきた。

     すると、副奉行は、指図をもとめるために江戸へ使者を出すから、それがあるまで我々は滞在

    しなければならぬ。僅か五日でそれが得られるだろうといった。私は、五日は愚か、五時間も

    待ってはいられない。あくまで検査を主張するならば、このまま下田に引返そうと彼にいった。

    哀れな副奉行は、たいへん苦境に立った。とうとう関所の番小屋へ行ったが、二時間の後に漸く

    戻ってきて、一切が解決したから、このまま通ってもよいといった。

     He then said that we must stop until he could send to Yedo for instructions, which would

    only take five days. I told him I should not wait five days nor five hours; that if the search

    was insisted on I should at once return to Shimoda. The poor Vice-Governor was in great

    tribulation and finally went to the guard house, and after a delay of two hours returned with

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    ハリスと東海道(一)―ヒュースケン日記とともに―

    word that it was all settled and that I should pass unmolested.

     ハリスは、この後の関所通過での出来事を日記に記していない。しかし、ハリスの乗った駕籠の戸

    は、結局のところ開けられ、ハリスは、激怒した。

     ことの次第を、ヒュースケンは、次のように記している。

     治外法権

     大使は、この関所を通るとき、当番の役人がノリモンの扉を開けるであろうが、大使が自分の

    従者に開けさせてもよい、そして役人は内部を一目見るだけですぐに扉を閉めるだろうと言われ

    た。異議があるなら、馬または徒歩で関所を越えてもよいのである(大使は、この帝国のもっと

    も強力な大名、薩摩守でさえこの検問権には服従するのだと説明された)。

     大使は次のように彼らに答えた。自分は大統領の代理としてそのような扱いに従うわけにゆか

    ない。関所はノリモンのままで通るか、さもなければまったく通らないことにする。薩摩守は高

    い身分にあるといっても、主君に忠誠を誓いに行く臣下であるが、自分は完全な治外法権の下に

    おかれているから、いかなる検問の権利にも服することはできないのである、と。

     二時間延引して、下田の副奉行と関所の衛兵の指揮官が協議したのち、ハリス氏はノリモンに

    乗ったまま門を通過し、ノリモンの扉は開かないが、私のノリモンの扉を開ける権利は保留する

    ということでようやく話がまとまった。

     関所に着くと、ハリス氏の従僕のタキゾー〔村山滝蔵〕は主人のノリモンの扉を開け、そして

    すぐに閉めた。ハリス氏は日本人が約束を破ったと思いこんで激怒したが、無理もない。しかし

    結局このことに責任があったのは滝蔵だけであった。彼はイキゾーが私のノリモンの扉を開くよ

    うに命ぜられていると聞き、またあらゆる人がこの慣例に従わねばならないことを知っていた

    上、大使という身分の全般的な治外法権性を知らなかったために、ハリス氏も同様に規則に拘束

    され、それに従うものと思ったのである。

     The Ambassador was told that when passing through the aforementioned barrier, the

    officers on duty would open the door of his norimon , or he could have it opened by his servant, and after having glanced at the inside they would close it immediately. If he had any

    objection he could go through the barrier on horseback or afoot. (He was told that the most

    powerful Princes of the Empire, the Prince of Satsuma himself, submit themselves to this right

    of inspection.)

     The Ambassador replied to them that in his quality as a representative of the President

    he could not subject himself to such treatment, that he would go through the barrier in his

    norimon or he would not pass through it at all, that the Prince of Satsuma, for all his exalted rank, is still a liege going to pay his homage to his lord, but that for himself, since he enjoyed

    full rights of extraterritoriality, he could not submit to any right of inspection.

     After two hours of delays and consultations between the Vice-Governor of Shimoda and the

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    東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 20 号(2013)

    Commandant of the Guard, it is finally agreed that Mr. Harris will go through the gate in his

    norimon, the door of which will not be opened, but they reserve for themselves the right to open mine.

     Upon arriving at the barrier, Takizo, Mr. Harris' valet, opened the door of his norimon and closed it immediately. Mr. Harris was furious, believing with reason that the Japanese had

    broken their given word; but it appears, after all, that the only person responsible for this was

    Takizo, who, having heard Ikizo being ordered to open the door of my norimon and knowing that everyone has to submit to this custom, and being ignorant of the rights of general

    extraterritoriality of ambassadors, believed that he was subject to the order as well and

    obeyed it.

     この事は、日本側の「岡氏筆記、羽倉外記書翰撮録」にも記録されている 18)。この記録とヒュー

    スケンの日記によれば、小事件は以下のようなものであった。下田奉行組頭の若菜は、江戸到着後、

    箱根関所を預かる小田原藩主大久保伊賀守忠愨に断りを入れるという条件で、ハリスの駕籠が戸を開

    けること無く通過する許可を上番所から得た。しかし、ハリスの従僕村山滝蔵は、関所通過のおり駕

    籠の戸を開けてしまい、立腹したハリスは、またも下田に帰ると言い出した。滝蔵は、ヒュースケン

    の従僕合原猪三郎がその駕籠の戸を開けることになっており、自分の方も決まり通りそうするものだ

    と思っていた。治外法権という概念について滝蔵は知るよしもなかった。この手違いを聞いてハリス

    は渋々ことの次第を納得した。そして、幕府側からすれば、ことはどうあれ最終的に「御定」通りに

    ことが運んだのであった。

     十月十日、アメリカ使節下田発途、馬にのり、又は駕にのり道中し、箱根に到り候ところ、駕

    の戸引き通行いたし候やう申し談じ候ところ、迷惑のよし申し候につき、段々掛合ひに及び候と

    ころ、御関所御規定は破りがたきよし上番申し立て候につき、異人へ又々申し諭し候へども、何

    分承知いたさず、これにより、大久保加賀守へ、江戸表において、下田奉行組頭より申し断り申

    すべき旨申し断じ、上番の方は済みにつき、その積りにて御関所へさしかかり候ところ、駕わき

    の者心得違ひにて戸引き候よし、右にて御関所御定は相立ち候へども、約束相違候よしにて、異

    人立腹いたし、下田へ罷り帰り申すべき旨、段々手違ひのよし申し断じ、やうやく納得いたし候

    よし

     関所を通過した一行は、左に石仏塔婆が並び、右に地蔵堂の並ぶ賽ノ河原を抜けて、東海道の東坂

    を次の休憩所である畑宿を目指して下っていった。

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    ハリスと東海道(一)―ヒュースケン日記とともに―

    【注】1)タウンセンド・ハリスについては、以下の書を参照。 ①William Elliot Griffis, Townsend Harris -First American Envoy in Japan , Boston and New York,

    Houghton, Mifflin and Company, 1895 ②Mario Emilio Cosenza, The Complete Journal of Townsend Harris : First American Consul General and

    Minister to Japan, New York, Doubleday, Doran & Company, 1930 ③Carl Crow, He opened the Door of Japan -Townsend Harris and the story of his Amazing Adventure

    in Establishing American Relations with the Far East , New York and London, Harper & Brothers Publishers, 1939

     ④『日本滞在記』(坂田精一訳、岩波文庫、1953)。②の翻訳。 ⑤『ハリス』人物叢書(坂田精一、吉川弘文館、1961) ⑥『ハリス伝 日本の扉を開いた男』(田坂長次郎訳、東洋文庫、1966)。③の翻訳。2)ヘンリー・ヒュースケンについては、以下の書を参照。 ①Jeannette C. van der Corput and Robert A. Wilson, Japan Journal 1855-1861, Rutgers University Press,

    1964  ②『ヒュースケン日本日記』(青木枝朗訳、岩波文庫、1989)。初版は、1971年に校倉書房より刊行。①

    の翻訳。 ③『開国の使者-ハリスとヒュースケン』東西交流叢書1(宮永孝、雄松堂出版、1986)3)訳文は、注1-④、原文は、注1-②による。以下同じ。4)『幕末外国関係文書』17(東京大学史料編纂所、1924)所収。5)『幕末外国関係文書』18(東京大学史料編纂所、1925)所収。6)『幕末外国関係文書』17所収。7)訳文は、注2-②、原文は、注2-①による。8)『三島市誌』中巻(三島市誌編纂委員会、1959)所収。9)『江戸のオランダ人-カピタンの江戸参府』(片桐一男、中公新書、2000)参照。10)次の書を参照。 ①『江戸参府紀行』上下、異国叢書(呉秀三訳、駿南社、1928) ②『江戸参府旅行日記』(斎藤信訳、東洋文庫、1977) ③『改訂増補日本誌』上下(今井正編訳、霞ヶ関出版株式会社、1989)11)『シーボルト「日本」』2巻(雄松堂書店、1978)の斎藤信解説参照。12)訳文は、注10-②、原文は、1727年初版の複製(Yushodo Booksellers Ltd. ,Tokyo, 1977)による。13)『箱根町誌』第三巻(箱根町誌編纂委員会、角川書店、1984)参照。14)「亜墨利加人渡来一件」(『幕末外国関係文書』18、所収)15)『三島市誌』中巻参照。16)『三島市誌』中巻参照。17)『東海道箱根宿関所史料集』1(箱根関所研究会編、吉川弘文館、1972)所収。18)『幕末外国関係文書』18所収。

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