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目次 はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3 華人と横浜中華街の歴史 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4 第1章 1-1. 華人とは ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4 1-2. 開港 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4 1-3. 苦難の過程 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5 1-4. 戦後 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7 1-5 老華人と新華人の位置づけ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8 1-6. 横浜中華街の地理 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
第2章 横浜中華街の華人の職業~横浜開港から関東大震災まで~ ・・・・・・・12 2-1. 横浜中華街で働く歌人たちの職業 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12 2-2. 各時代における横浜中華街の華人の職業変化 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12 2-3. 日本の華人と海外の華人の職業比較 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
第3章 現在の横浜中華街~新華人の登場~ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18 3-1. 新華人の登場 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18 3-2. 新華人と老華僑の違い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18 3-3. 華人のネットワーク ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19 3-4. 世界各国に渡る新華人 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19 3-5. 現在の横浜中華街―横浜中華街の新たな変化― ・・・・・・・・・・・・・・・・・20
第4章 横浜中華街の今後 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23
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横浜中華街―華人の歴史と商売の変化―
はじめに
日本には神戸南京中華街・長崎中華街・横浜中華街と三つの中華街がある。中でも横浜
中華街は、街そのものの広さや、経済的規模の大きさから日本一の中華街と呼ばれている。
また、近年のアジアブームでメディアでも多くとりあげられ、休日ともなると、全国各地
から年齢や性別、人種に関係なく多様な観光客で賑わっている。 しかし、メディアで取り上げられるのは中華街の料理店や独特な景観のことがほとんど
であって、横浜中華街が実際どのようにして作られていったのか、そこで生活する人や働
く人がどんな人々であるかを知る者は少ない。筆者は幼い頃から横浜に住んでおり、筆者
にとって横浜中華街はとても身近な存在である。しかし、中華街について知っているのは、
美味しい料理店とか関帝廟とか、そういった中華街の「観光地」としての側面だけである。
横浜中華街は、年間 1800 万人を超える集客数を誇り経済的に繁栄している一方で、そこで
の生活や華人については知られていない部分が多い。 世界中にチャイナタウンは数多く存在するが、横浜中華街には他国のチャイナタウンに
はない特徴がある。それは、異文化である日本に受け入れられていて、横浜という土地に
根付いているという点である。このことは、横浜中華街に訪れる人々の人種の内訳からよ
く分かる。横浜中華街に訪れる人々の人種は、中国人を抜いて日本人が一番多く、その割
合は 95%以上であるのである。世界の中華街を見ても、このように中国人より現地人が多
く訪れる中華街はまれである。海外に定住している華人は 3500 万人と言われ、世界中には
様々な規模のチャイナタウンがあるが、そのほとんどのチャイナタウンは、移民してきた
華人が一時的に身を寄せるか、あるいは巣立ちが出来ない故そこに暮らし続ける場所にな
っている[曽徳深 2005:91]。一方で、横浜中華街は、横浜市の側も、中華街を横浜市の観
光名所として大きく PR し、横浜市の中の重要な一部として認識されている。これほどまで
に現地に根付いた中華街は、横浜中華街の他に類がない。 グローバル化が進展していくなか、観光・労働・移住などの様々な理由によって、日本
にやってくる外国人の数は増加する一方である。今後私たちが、このような人々と何も関
わらずに生活することは難しいだろう。先に例を出したように、横浜中華街は、日本社会
の中にありつつも、その独自性を維持し、横浜という土地にしっかりと根付いている。ま
た、他の中華街とは異なり、中国人よりも日本人観光客が沢山訪れるほど、日本人に親し
まれ、日本文化に馴染んでいる。しかし、これらの過程にはさまざまな衝突があり、今で
も解決されていない問題が残っている部分もあることは確かである。異文化である日本文
化の中で、なぜ横浜中華街は今も繁栄をし続けているのか、また現在の繁栄の裏に残る問
題とは何なのか、横浜中華街の歴史と各時代における華人の商売の変化から探っていく。
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第1章 華人と横浜中華街の歴史 1-1.華僑・華人とは 日本において、華僑とは、中国から日本に移住した中国人およびその子孫のことを言う。
華僑の中で、日本国籍を有している人のことを華人と呼ぶこともある。しかし、この「華
僑・華人」という区別は、華人の間では明確に区別して使われていないようだ。また中国
では、華人のことを華栄もしくは華僑華人という合わせた単語を用いて呼ぶことが多い。
現在では、華人は移住先で国籍を取得して帰化をすることが多く、出稼ぎではなく定住傾
向にある。華僑の「僑」は仮り住まいという意味をもつ字であり、華僑と呼ばれることを
好まない者もいる。その点で現在の状況に合わないため、華人と呼ばれることが多い。こ
こでは明確に区別せず、統一して華人と呼ぶ。 日本に華人がやってきたとのは横浜開港以後だというイメージがあるかもしれないが、
実はそれ以前から華人は日本に存在していた。日本で華人社会が形成されたのは、徳川時
代の初期といわれる。当時は、華人の住む地域は長崎の一区画に限定されていた。そして、
横浜開港後から華人の本格的な出入国がはじまる。 1-2.開港 中華街といえば、中国人の作った街を想像するが、実は今の横浜中華街は中国人ではな
く欧米人の居留地であった。1857 年 7 月、日米修好通商条約1が調印され、これにより 1859年 6 月に横浜が開港することとなった。それに伴い、アメリカ・イギリス・フランスなど
の商人たちが横浜を訪れ、外国人居住地として設けられていた居留地に商館を開いた。中
国人は、諸外国の商人たちの傭人として非公式に横浜へ渡ってきた。中国人は日本人と古
くから交流を持ち、漢字を使えたため、通訳や仲介者として適役と考えられたのである。
このようにして、彼らは欧米人の居留地にある新田の一角に住みつくようになった。この
中国人たちが横浜で 初の華人である。また、日本にやってきた華人の出身地は、広東省
の中でも相対的に貧しい地域の農民であり、日本に行けば、今以上の生活水準の保証が得
られるのではないかと考えてやってくる者が多かった。広東や香港は日本よりも欧米人と
の接触が早かったため、英語はある程度話せる者が多かった。当時は英語のできる日本人
はまったくといっていいほどいなかったので、英語のできる広東出身の華人は欧米人に重
宝されたのである。一方で、表向きは欧米人の付添い人として来航した華人の中には、資
金力のある華人の貿易商も少なからず居たと考えられる。当時は日本と中国には国交の条
約が結ばれていなかった為に、中国人は公式には入国できないことになっていたからであ
る。こうした商人たちの中には、横浜に来航後すぐに店を開き、自ら経営者となった場合
1 1858 年 7 月 29 日に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた条約。下田、函館のほか神奈川・
長崎・新潟・兵庫の開港と貿易の自由、領事裁判権などが決められた。一方で日本に関税
自主権がなく、無条件の 恵国待遇を認めるなど不平等な条項も盛り込まれていた。
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も多い。浙江省湖州出身の邵結萍は横浜で 初に中国人商人のための旅館を開いた人物で
ある。また、当時書かれた浮世絵を見ると、豪華な作りの店や遊郭に中国人の姿も見られ
る。このように、多くの中国人たちが、欧米人と日本人の貿易の仲介役として、また自ら
の商売のために、横浜に新たな経済的可能性を求めてやってきたのである。 横浜開港後の明治 4 年(1871)、清国と日本の間で修好条規が締結されたことにより、中国
人が公式に日本へ入国することが可能となった。これによって、横浜に訪れる華人がさら
に増加した。横浜に住む華人の数は、明治 7 年で 1,300 人、明治 16 年には 2,700 人となり、
当時既に華人の社会が形成され、中国街らしき町並みができていた。当時の日本人たちは
この中国人の多さを見て、この場所を「唐人町」と呼んでいた [陳 1997:16]。 1-3.苦難の過程
それまで順調に発展を続けてきた横浜中華街だったが、明治 27 年(1894)以降、戦争や災
害などの大きな変動がたびたび襲うようになる。 初の変動は、明治 27 年の日清戦争であ
る。日清戦争が勃発すると、日本国内での中国人に対する処遇が厳しくなり、中華街の活
気が失われていく。当時の日本政府は華人の居留地での生活を制限する為に、いくつかの
勅令をだしていた。その中の勅令第 137 号は、居住地の府県知事に住所・氏名・職業を登
録することを、華人に義務付ける内容だった。この登録制度によって横浜の華人の約 3 分
の1が帰国したという。一方で、帰国せずに横浜にとどまった華人は横浜中華会館を中心
に対策を講じた。1894 年 11 月、横浜中華会館は中国の各開港場に、戦時居住不適格者の
横浜再来を禁止する布告を配布した。横浜に訪れる中国人を、横浜に住む華人自らの手で
規制をすることによって、横浜中華街の秩序と経済を守り、日本との摩擦を回避しようと
したのである。日清戦争によって中華街の活気は一時失われたが、明治 28 年に戦争が終結
すると、再び中華街に活気が戻った。さらに中国の革命家孫文が来日することで中華街に
華人の学校が創設されるなど、新たな動きが見え出した[横浜開港資料館 1994:14]。 2つ目の大きな動きとして挙げられるのが、明治 32 年の勅令第 352 号、いわゆる内地雑
居令である。この法令の背景には英露の対立がある。イギリスは日本をロシアの東アジア
進出の防壁としようと考えていた。領事裁判権の撤廃・関税自主権の一部回復を引き換え
として、欧米人が日本で自由な経済活動ができるよう、日本に対して内地雑居を求めたの
である。こうして、伊藤内閣は内地雑居令を出すことを決意した。この経緯から内地雑居
令は、外国人(主に欧米人)の国内通商の自由を目的として出されたことが分かるが、この法
令によって、居留地が撤廃されることとなり、中華街に大きな影響をもたらした。欧米人
と同様に華人にも居住と営業の自由が正式に認められることになったが、欧米人とは違い、
内地雑居令の中の条項で制限が加えられた。日本政府は中国労働者の来日による日本人の
失業を危惧したため、中国人が就ける職業を特定の職種に限ったのである。以下は 1899 年
7 月 27 日に出された内地雑居令の第一条と、それに付け加える形で細則として翌日の 28日に内務省から公布された勅令である。
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勅令第 352 号(内地雑居令)
第一条 外国人は条約若しくは慣行に依り居住の自由を有せさるものと 雖いえども
従前の
居留地及雑居地以外に於て居住、移転、営業其の他の行為を為すことを得。
但し労働者は特に行政官庁の許可を受くるに非ざれば、従前の居留地及雑居
地以外に於て居住し又は其の業務を行うことを得ず 労働者の種類及本令施行に関する細則は内務大臣之を定む「内閣官房/編
2006」 内務省令第 42 号
一、明治 32 年勅令第 352 号第一条の行政官庁は庁府県長官とす 二、明治 32年勅令第 352号第一条の労働者は農業漁業鉱業土木建築製造運搬挽車沖仕
業其の他の雑役に関する労働に従事する者を云ふ 但し家事に使用せられ又は炊爨若は給士に従事する者は此限に在らず[内閣官房/編 2006]
この勅令第 352 号と内務省令によって、県官庁の許可が無ければ、華人が居留地・雑居
地以外で営業することは禁止された。入国自体を規制する内容は書かれていないものの、
華人が横浜で生活し経済活動するには厳しい状況となった。 横浜中華街に大きな影響を与えた 3 つ目の出来事は、大正 12 年(1923)9 月 1 日の関東大
震災である。この震災で横浜は壊滅的な状況に陥った。なかでも中華街は古いレンガ作り
や木造建築の密集地であったため、大部分の家屋が倒壊・焼失した。華人の行方不明者と
死者は 1700 人あまりに達し、神戸に避難した者は約 4000 人といわれる[横浜中華街発展協
同組合 2005]。下の2つの図表は、横浜中華街に住む華人の出身地別居住地別の人口数の
表だが、その合計数を見ると、震災以前(図表―①)は 5721 人だったのが、震災後(図表―②)の 1924 年には以前の 10 分の 1 以下の 434 人になっている。震災で生き残った華人で、中
華街に留まった者もいたが、彼らにはさらなる悲劇が襲った。震災での被害は、天災によ
るものだけではなかったのである。この頃、朝鮮人が井戸に毒を入れているという噂が流
れ、朝鮮人が虐殺される事件が起こっていた。このような状況の中で、中国人も多数が虐
殺の犠牲となったのである[横浜開港資料館 1994:16]。このように震災で大打撃を受けたに
もかかわらず、昭和に入ると徐々に人が戻り始め、復興も進み活気を取り戻してきた。こ
うして、昭和のはじめ頃には華人人口は 3000 人あまりとなった[横浜中華街発展会協同組
合 2005]。 しかし、中華街が以前の活気を取り戻してきたさなかの昭和 12 年(1937)の7月、日中戦
争が勃発する。華人の貿易商は、輸入制限や中国での日本製品ボイコットにより大打撃を
受ける。また、日本に店を構える華人も、厳しい状況に置かれた。料理店や理髪店では反
中国感情の高まりと華人の帰国によって、客がこなくなったのである。そうした中でも、
中華街に残った華人は、山下町の戦死者追悼会に代表を送るなど、地元との関係を保つ努
力を続けて行った。関東大震災・日中戦争と二度も壊滅的な状況においやられたにも関わ
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らず、華人は復興に尽力し、地元の結びつきを強めながら中華街を発展させていったので
ある。[横浜開港資料館 1994:19]
1-4.戦後 第2次世界大戦後の横浜中華街では、新たな問題が起きはじめた。横浜中華街で生活す
る華人は、今までは広東・浙江・福建などの中国本土が出身地の場合が大半だったが、戦
後は台湾からも多くの華人が横浜に渡ってきた。前者は大陸系、後者は台湾系とよばれる
華人である。そうした中で、1952 年学校事件がおこる。今まで大陸系の子供も台湾系の子
供も、共に横浜中華学校に在籍していたが、この事件を期に大陸支持の「山手中華学校」
と台湾支持の「横浜中華学院」に分裂する。これ以降、同じ中華街に住む華人であっても、
大陸系・台湾系の間に、経済や文化の面で分かれていくようになる。これに加えて、1979年の改革・開放政策以降からは新たな華人が横浜に経済活動の場を求めてやってくるよう
になり、彼らは今まで中華街で経済活動をしていた「老華人」に対して、「新華人」と呼ば
れるようになる[横浜中華街発展会協同組合 2005]。戦後から今に至るまでの横浜中華街の
文化は、大陸系・台湾系さらに老華人と新華人と様々な文化がいりまじっているのである。
7
1-5 老華人と新華人の位置づけ 横浜中華街の歴史は横浜開港から始まるが、日清戦争・関東大震災・内地雑居時代・日
中戦争・第2次世界大戦と、大きな災害や戦争による影響を経験している。そして、これ
らによって、かなりの人数が入れ替わっている。そのため、開港当時に欧米人の仲介役と
して連れ添ってやってきた中国人の子孫は、現在の中華街にはほとんど居住していない。
よって、筆者は、現在の中華街を中心となって支えている人々は、開港当時に横浜渡って
きた華人の子孫ではなく、戦後日本に経済的理由でやってきた人、あるいは戦後の復興を
支えた人々の子孫と考える。また、1979 年の日中国交正常化以降、日本と中国の交流がい
っそう盛んとなり、中国残留孤児の訪日調査もはじまった[横浜中華街発展会協同組合 2005]。また、このころ日本では中国ブーム、中国側では留学や海外への出国が盛んになっ
て、世界中で沢山の華人が誕生した。この時流にのって横浜にやってきた華人も多く、現
在の横浜中華街を構成する重要な要素となっている。横浜に渡ってきた時代や文化の違い
から老華人・新華人と分けて呼ぶことがある。それを分ける定義は人によりさまざまで、
明確な定義はだされていない。筆者は戦後まもなくやってきた華人を老華人、1979 年台以
降にやってきた華人を新華人とし、彼らの違いを比較しながら、新華人の登場で横浜中華
街がどう変わっていくのか探っていきたい。 1-6.世界の華人 横浜に華人が初めて来航した時期の、中国の状況と、現在比較的大きな中華街がある東
南アジアや北アメリカの様子はどうだったのだろうか。横浜が開港した 19 世紀は、横浜だ
けでなく多くの土地へ中国人が進出し、さまざまな場所で華人が誕生した時代だった。19世紀前半から第二次世界大戦までの間が も多く国外で華人の街が形成された。この時代
に華人が登場した経緯にはさまざまな要因があげられる。まず、19 世紀の中国の国内情勢
に大きな変化があったことである。1842 年のアヘン戦争でイギリスに敗れた清国は、その
戦争の中心地でもあった、特に福建省や広東省などがある華南地方が疲弊し、多くの中国
人が新たに生活できる場を探して海外へわたった。さらに、英国との間で結ばれた南京条
約2も中国の経済を混乱させた。広州などの5港が開港され、中国と諸外国との貿易が行な
われるようになった。この頃の貿易でメキシコから大量の銀が流入し、中国の金が交換さ
れて流出した。このことで中国国内の物価は不安定となり、特に貧しい農民たちの生活を
さらに苦しめることとなった。このような経済的変動の次に、1851 年の太平天国の乱3によ
2 アヘン戦争を終結のために清国と英国との間で結ばれた条約。香港の割譲、賠償金支払い、
広州・福州・アモイ・寧波・上海の 5 港を開港すること等が決められた。類似の条約がア
メリカ(1844 年、望厦条約)やフランス(1844 年、黄埔条約)とも締結され、列強の中国進出
が進んだ。 3 1851 年に起こった、洪秀全を中心となって起きた反乱のこと。政治と経済の平等主義を
掲げていたため、庶民が多数参加し大規模な勢力となった。1853 年に南京を陥落させたが、
変革は上手くいかず、内部分裂により弱体化していく。1864 年に清朝側の外国人義勇軍
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って文化的変動が起きる。清朝の増税と諸外国との関係に不満をもった多くの庶民が洪秀
全に協力し、南京を陥落させたときには清朝を揺るがすほどの大きな勢力となっていた。
また、1860 年代には「中体西用4」をスローガンとした洋務運動も活発であった。こうした
変動の中心地であった、主に華中・華南に住む人々が新たな拠点を求めて海外へ渡ったの
である。 一方で、欧米諸国では奴隷解放が相次ぎ、植民地でのプランテーション農場や採掘のた
めの新たな労働力が必要とされていた。そこで、海外へよりよい生活の場と仕事を求めて
渡っていった中国人は、欧米人の経営者に働き手・労働力として歓迎された。アメリカ移
民局の資料によると、サンフランシスコで金鉱が発見された年には多くの中国人が採掘労
働者としてやってきて、1852年には2万人に、69年には6万人を超えたという[陳 1997:56]。このようにして、中国の情勢と、海外の情勢が合致して多くの華人が誕生したのである。
ここで重要なのが、海外へ渡ったのが全て貧しい農民であったのではなく、商人や技術者
も多く含まれていたということである。高い技術や富を持った中国人が海外へ渡り、商売
を始めることで、各地に中華街が誕生し繁栄した[横浜開港資料館 1994:11]。 1-6.横浜中華街の地理 横浜中華街には、その場所に囲いや門があるわけではない。関内駅を降りて、中華街の
ある方向に向かって歩いていると、いつのまにか中華街にはいっているのに気づく。中華
街とは具体的にどの区域をさすのだろうか。一般的に言われる地理的な定義は、横浜中華
街とは、中区山下町にあり、中国人が多く暮らし、商住混在のコミュニティーを形成して
きた場所のことである。商業的には、1950、60 年代の中華街は善隣門ぜんりんもん
がある大通りを指し、
1971 年 12 月から 77 年までに東西南北の牌ぱい
楼門ろうもん
を建ててからは、その門に通じる各通りを
意味し、生活空間とみれば 4 つの牌ぱい
楼ろう
に囲まれた区域をいう[横浜中華街発展会協同組合 2005]。
横浜中華街の地形が、周辺に対して約 45度傾いた形になっているのはよく知られていて、
この奇妙に傾いた地形に、華人のイメージと風水が結び付けられて説明されることがある。
その説とは「周辺に対して約 45 度ずれている中華街の斜めの道路は、実は両側の建物に平
等に陽が当たるようにという中国人の要望、つまり華人の風水思想を取り入れて街づくり
を行った結果である」[菅原 1996:119]というものである。このような内容の説の本が出版
されたり、中華街の中でも風水関連のグッズが売られたりしている。しかし、風水と中華
街の地形は本当に関係しているのだろうか。現在の中華街のあたりに、街ができはじめた
当時の状況を考えてみると、違った見方ができる。 先ほどの「斜め 45 度に傾いた地形には風水思想が取り入れられている」という説が成り
立つには、まず、横浜中華街の地理設計を考え、その計画の主導権を握っていたのが華人
4中国の伝統的な思想や制度をそのまま維持しつつ、西洋の技術を積極的に導入しようとす
る運動のこと。
9
でなければならない。しかし、華人が都市計画に初めて加わったのは、関東大震災以後の
復興計画からである。復興計画を進めるための「山下地区区画整理委員会」という委員会
が発足し、そのときに初めて華人が参加した。理由は、震災によりほとんどの欧米人は帰
国してしまったため、人員が足りなかったからである。委員はイギリス人 6 人、アメリカ
人 5 人、フランス人 2 人、中国人 1 人、日本人3人だった[菅原 1996:121]。また、関東大
震災以前においては、現在の中華街のある場所の土地所有権や借地権の大半は欧米人が握
っていた。このことからわかるように、 初から都市設計に華人が関わっていないのだか
ら、横浜中華街の地形に華人の風水思想を取り入れる、ということは不可能なのである。
もともと風水は、華人に古くから受け継がれた生活の知恵のようなものである。そのため、
確かに中華街には、各店舗や個人の家で魔除けや色などで風水が取り入れられているとこ
ろもある。しかし、歴史を追ってみると、中華街の地形と風水とは何も関連性がなく、45度の傾きの風水説はあとになってから風水ブームに乗る形でこじつけられた説だと考えら
れる。 では、なぜ 45 度に傾いた地形であるのか。欧米人が主導して設計した土地であるなら、
なぜ欧米風の道路の広い作りにならなかったのだろうか。 現在の中華街のある場所は、江戸時代の新田開発と開港以後の埋め立てによって作られ
た、「横浜新田」と呼ばれる場所だった。周辺の地形に対して斜めに広がっていた沼地をそ
のまま利用し、その土地の近くに住んでいた村民が埋め立てたのである。横浜開港後、本
来なら欧米人の意向と計画に沿って街づくりが行われるはずであったが、その工事を行う
主体が幕府側であったため、幕府の一方的な方針変更によって工事が進められてしまった。
初に立てられた「英一番館」の商館は木造で、日本人大工によって立てられている[菅原
1996:120]。当時の浮世絵を見てみると、建物は日本風の建築である。そのため、欧米人の
計画も意向も、華人の風水も、土地計画に反映されることはなかった。中華街の 45 度傾い
た地形は、埋め立てられたてられた新田、その形に沿って街が出来上がっていったので、
中華街もそのまま新田と同じ形になったと考えられる。中華街の道が細くて入り組んでい
るのは、新田に使われていた用水路をそのまま道路として使ったから。また、建物が雑然
と立てられているのは、開港後、急遽外国人の居留地をつくらなければならない状況のな
かで、計画に基づくことがなく街が出来ていったからなのである。ここから、横浜中華街
の歴史が始まることになる。
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第2章 横浜中華街の華人の職業~横浜開港から関東大震災まで~
2-1.横浜中華街で働く華人たちの職業 横浜中華街で働く華人の職業は、当時起きた事件や戦争、制度と関係して移り変わって
いる。それは華人が、自分たちとは異なる文化をもつ土地で、いかに生活するか、いかに
商売を成功させるかを考えた結果である。この章では横浜中華街で社会的に大きな変化や
事件があった時期をとりあげて、その時代の華人の職業とその変化について調べていきた
い。 2-2.各時代における横浜中華街の華人の職業変化 1)居留地時代 横浜が開港した 1859 年にやってきた華人は、主に欧米人の居留地で生活することとなっ
た。そのため、当時の華人は居留地で生活する欧米人のニーズに対応するための職業に就
いたのである。その職種は、表1を見ると分かるように、多種多様である。第1章の歴史
で書いたように、 初に来航した中国人の役割が欧米人と日本人との貿易の仲介者であっ
たことから、一般には、買弁などが当時の華人の職業として知られている。買弁とは、欧
米人に代わって現地人との東洋的な商取引を有利に進める駆け引き役をしていた華人商人
のことで、主に生糸やお茶を中心とする欧米商人の付き添いとして日本にやってきた。こ
の華人は他にも通訳、出納係、両替商などを兼ねていた。これらの職につける華人は少数
だったが、横浜開港当初に権限は大きかった。また、その中には、次第に利益をあげて財
を蓄え、自主経営の店舗を営む華人も出てきた。横浜と香港・上海の間に定期航路が開設
されると、それ以後は欧米人の付き添いとしてではなく単身で横浜に来航する華人も増え、
その華人たちは建築・洋裁・ペンキ塗装・活版印刷などのさまざまな技術的分野で活躍し
た。これらはすべて、それまでの日本にはない新しい技術であった。また、この定期航路
ができたことにより、輸出入も活発に行われるようになる。その頃日本が輸出していたの
は、北海道産のアワビやナマコなどの中華料理に使われる食材だった。一方で台湾産の砂
糖を日本に輸入する華人貿易商も現れた。さらに、居留地における欧米人の増加と中国人
の増加に対応して、貿易関連業務や技術職だけでなく、嗜好品の小売業(砂糖、たばこ、茶、
菓子)やサービス業(理容、美容、劇場、ホール)、くじ代理業や競馬場などの賭け事を行う
場所までもが登場し、多様な商業の町へとかわっていく[横浜開港資料館 1994]。 現在の横浜中華街で営まれている商売のうち も多いと考えられるのが中華料理店であ
るが、当時は中華料理店の数は 1、2軒だった。しかも現在とは違い、その対象客は日本人
ではなく、居留地で商売をして生活する中国人や、横浜港で船舶関連の職業に就く人たち
であった。このことから、当時は中華料理を食べる日本人がほとんどいなかったこと、南
京町(当時の横浜中華街)に観光として訪れる日本人自体が少なかったことが分かる。 華人の多様な職業とその技術が、日本人の近代化に大きな影響を与えた点でも重要であ
12
る。これらの多様な職業を通して、華人は日本人に対して近代的な技術や情報を提供した。
よく横浜は「文明開化の街」と呼ばれるが、その文明開化をもたらしたのは、来航したペ
リーや欧米人ではなく華人である。西洋文化(ピアノや家具の製法、印刷技術、洋菓子など
の西洋料理)を日本人に直接伝えたのも、華人であった[横浜開港資料館 1994]。
13
2)内地雑居時代 日清戦争後から 1900 年台前半の華人の職業推移に関して特徴的なのは、2 つの制限がか
けられたことである。まず 1 つ目は、内地雑居令による法的な制限である。この法令は、
第 1 章の歴史にもあるように、日本人労働者の生活を保護するための華人の職業制限であ
る。華人に許されたのは、「三把刀」と呼ばれる3つの職業であった。三把刀の 3 つの刀と
は、菜刀・剪刀・剃刀のことで、それぞれコック・仕立て師・理容師を意味する。当時は、
観光で中華街に訪れる観光客もほとんどおらず、中華料理が商売となる時代状況ではなか
ったので、中華料理店は 1、2 軒あるくらいで、さほど増えることはなかった。三把刀の中
でも華人の職業は主に仕立て師か理容師だったと考えられる。法令が出されたとはいえ、
この3つ以外の職業に就いていた華人の全てがすぐにその仕事をやめて、三刀業についた
わけではなかった。たとえば、以前と変わらず欧米人に付き添って、日本人との貿易の際
に仲介する華人もいたし、船舶関連の技術職に就いている華人も存在していた。しかし、
2つ目の制限によって、これらの華人も職業を変えざるを得なくなってくる[横浜開港資料
館 1994]。 その2つ目の制限とは、競合による華人の職種の減少である。この頃、横浜開港以後か
ら見真似て、あるいは弟子となって中国人の技術を取り入れてきた日本人技術者たちが、
華人の技術水準を超えるようになってきた。そのことで、日本人と華人の同職間で競合が
起きるようになり、ますます華人の職業範囲がせばめられていったのである。内地雑居令
が出された当初に多かったのは、前記のように洋裁店か理髪店だったが、次第にその 2 つ
は減少していき、反対に中華料理店のコックやその経営に携わる職業が増えている。この
ことは、仕立て業と理容業のなかで日本人と華人の競合が起き、それに華人が負けていっ
たことが原因と考えられる。店数は少なかったものの、技術面で日本人より優位性が保た
れていた中華料理店は残り、1900 年台になると徐々に数を増やしていく。横浜中華街にあ
る中華料理店の数が 1900 年以前は 1、2 軒だったのが、1905 年には 14 軒、1910 年には
17 件になった[横浜開港資料館 1994]。 3)関東大震災から復興まで 1923 年の関東大震災は華人の職業や商売に大きな影響を与えた。関東大震災による大幅
な人口減少と建物倒壊により、震災直後は、とても商売ができるような状況ではなくなっ
たのである。横浜中華街に住む華人は、多くが神戸・香港・上海などに逃れた。欧米人も
大半が帰国し、南京町には用地だけが残っているといった状況であった。 震災以後は、残った少数の華人と日本人によって、中華街の復興がはじまった。復興が
進むにつれて逃れた地や本国から南京町に戻ってくる華人も増え、彼らは再び洋服店・料
理店・理髪店を営むようになる。しかし、貿易商などの大商人は、一度拠点を移すと商売
の環境が整わないなどの理由の為、戻ってくるものは少なかった[横浜開港資料館 1994]。
14
この頃、中国では辛亥革命5と孫文による北伐6が行われ、対外関係では不平等な条約を撤
廃する動きが起きていた。国民政府は1928年にアメリカとの貿易での関税自主権を回復し、
29 年には日本とも関税自主権を回復した。また、35 年に国民政府のもとで 35 年に通貨の
統一が実現された。清朝では、銀を秤ではかって使う「銀両」が通貨として一般的だった
が、各地域独自にも通貨が製造されていたため、「銀両」以外に多様な通貨が存在していた。
国民政府によるこのような関税自主権の回復・通過の統一がなされたため、辛亥革命以前
の外国の侵略による混乱期とは変わって、本土でも商売ができるような状況になったので
ある。また、外交面では、激化する中国の内紛と、大陸侵略をもくろむ日本との関係が悪
くなっていた。これらの理由から、横浜に住む華人の中でも特に貿易に携わる商人たちの、
貿易上のメリットが少なくなってきたのである。また、横浜華人の買弁や貿易商は、開港
当時には力を振るっていたが、欧米人と日本人との間で互いの習慣や言語の理解が進むに
つれて、逆に貿易の利益を搾取する存在として排除されるようになった。このようにして、
開港当時から存在していた買弁や貿易商を職業とする華人はごく少数となっていった[横浜
開港資料館 1994]。 関東大震災の復興のなかから、現在の中華街の原型ができてくる。これまでに説明した
震災・戦争・法令などの理由から、買弁や貿易商などの大商人はいなくなり、日本人との
競合によって大部分の技術職は商売ができなくなった。復興以後から近代にかけては特に
その傾向が強くなり、中華料理店や中国の食材を扱う店が増えていく。 開港から震災までの各時代における横浜にすむ華人の職業変化をまとめると、開港当初
の華人の職業には、華人の代表的な職業として想像されるコックや、欧米人の通訳なども
あったが、すべての人がその職業に従事しているのではなく、さまざまな職業についてい
た。コックに関していうと、中華料理店の対象客は日本人ではなく、居留地で商売・生活
する中国人と横浜港に依存する船舶関連の職業に就く人たちのためのものであったため、
その職業につく人も店の数もごく少ないものだった。また、通訳は財力のある一部の商人
たちの限られた職業だった。内地雑居令以後、横浜中華街の華人の職業は、法律による制
限や技術面での競合がはじまり、震災による打撃うけ、職種が限定されていく。その中で、
技術面で一番優位であった料理店が数を増やしていった[陳水發 1997]。
4)戦後から近代まで 第2次世界大戦後は、今度は対象客を日本人として中華料理がビジネスとして成り立つ
状況が出来たため、横浜中華街は現在のような中華料理店を中心とする飲食型の商店街と
して発達していくことになる。また、中華料理店についで、戦後になってから華人の進出
5 1911 年に中国で起こった、清朝を倒し中華民国を建国した革命のこと。各地で武装蜂起
が起きて 12 年に清朝は滅亡した。 6 辛亥革命に乗じて孫文が中心となって起こした武装蜂起。1913 年の第二革命、1915 年の
第三革命を経て、1928 年には南京に政府をおいた国民党の国民政府による中華民国統一が
実現された。
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が増えている職業分野は医者である。この頃は少なからず、華人に対する日本人の偏見や
差別があり、一流大学を卒業しても、国籍が違うだけで日本企業からは就職を断られるケ
ースも多かった。次に挙げるのは 1912 年代に日本にやってきて、ピアノ業を営んでいた華
人の子孫である周淑雯ス ワ ン
さんのケースである。 周淑雯
ス ワ ン
さんは、金銭的に苦しい状況になったことから大学を中退し、「横浜華銀」の入社
面接をうけた。「今日から勤めなさい」と進められたが、大学で進学組だった淑雯ス ワ ン
さんは、
そろばんができなかった。「金融機関に勤めるのにそろばんもできないのか」と冷たく言い
放たれ、入社当日から転職を考えるようになったという。淑雯ス ワ ン
さんの兄が、英文タイピス
トとして当時の一般の華人と比べると多目の給料を得ていたので、淑雯ス ワ ン
さんは兄のような
給料を貰える仕事に就けるよう華銀に勤めながら専門学校に通った。1年後、専門学校の
推薦で都内の商社の入社試験を受け、筆記試験は難なくパスできた。しかし、面接で、名
前を見れば一目瞭然であるはずなのに「ところで君は何人なの」とわざわざ聞かれ、「中国
人です」と応えると、「悪いけど、中国人は雇えない」と言われたそうだ。それまで淑雯ス ワ ン
さ
んは、このような差別的な扱いを受けたことはなかったという。高校時代は、日本語がで
きるのに外国人なの、と友人から珍しがられて、差別を感じるどころか、むしろ無邪気な
優越感を味わっていたそうだ。「本当に情けなくなりました。どうして、中国人だったらだ
めなんでしょう。」と淑雯ス ワ ン
さんは話している[横浜新聞社新聞支局 1998:32]。 一般企業の中でも差別が見られる時代状況のなかで、医者は華人にとって専門知識を生
かして才能を十分に発揮できる限られた職業だったのである。また、医者という職業には
他にも華人にとって多くのメリットがあった。政治の変化や時代状況の変化の影響を受け
ることが比較的少ないこと。開業医になったり、大病院の医者になったり、教授になった
り、研究者として研究を続けたり、職業の幅が広がること。社会的地位も高く、収入もい
いこと、などである。華人の医者の数の正式な調査はなされていないが、横浜台湾同郷会
の名簿によると、会員計 435 世帯の中、料理業 70 世帯がトップで、医者は 39 世帯で第2
位であることが分かる。[陳 1997:75]。このことから、中華料理業・理髪業・仕立て業の三
刀業に加えて、医者は華人の「第四刀」であるという人もいる。また、華人において医者
の比率が多いのは、日本だけではなく世界にも共通している。1980 年カナダのトロント大
学では医学部の 50%以上を中国人系学生が占めていた[陳 1997:75]。 震災以降の華人の経済を考える上で重要なのが、華人同士のネットワークである。華人
は、自分達とは違う民族・違う文化の土地で商売を成功させる為に、同郷間・同職間ネッ
トワークを築いていった。また、開港以降から震災までにやってきた華人の出身地は大半
が広東省・浙江省・江蘇省などの大陸系だったのに対し、近代になると次第に台湾からも
華人がやってくるようになる。台湾からやってきた中国人も、同じく華人と呼ばれるが、
大陸系と台湾系の華人では異なる考え方や文化をもっていて、同じ横浜中華街という土地
に住みながらそれぞれ違うネットワークに属している。
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2-3 日本の華人と海外の華人の職業比較 これまで横浜中華街に住む華人の職業の推移について調べてきた。では、他の中華街の
華人はどのような職業に就いているのだろうか。横浜中華街に住む華人と他の土地の華人
の共通点・相違点はどこにあるのだろうか。 まず、日本の中で横浜以外の土地に住む華人について見てみる。横浜以外で比較的大き
な中華街があるのは、長崎・函館・神戸・大阪である。これらの華人全てに共通すること
は、1)第1次産業を本職とする華人がいないこと。2)貿易商・買弁などの経済的に上層に位
置する華人から、小売業や技術職に就く中下層に位置する華人まで、どの華人も商業に従
事していること。この2点が挙げられる。また、これはどの時代においても当てはまる。
横浜華人についても、これら 2 つの点では共通である。表2の居留地時代の職業や、内地
雑居時代の主な職業である「三把刀」からも分かるように、上層には貿易商・買弁、中下
層には主に土木工事業やレンガ工などの建築関係の職人と、洋服仕立て屋、西洋家具屋(ピアノ・馬車なども含む)があたる。職業を第一次産業にしている華人はいない。理由は、華
人の活動範囲が開港当時から居留地・雑居地に限られていた為である。 一方、海外の華人を見てみると、日本の華人とは大分事情が異なっている。海外では、
華人は技術者としてではなく、主に労働力として欧米人に雇われていた。横浜開港の 1857年頃は、日本だけでなく、海外にも沢山の華人が生まれた時代であった。その頃の諸外国
ではプランテーション農業が盛んで、多くの労働力を必要としていた。その労働力として、
華人は丁度良い存在だったのである。東南アジアや北アメリカの中華街と日本の中華街と
の大きな違いは、来航したときの華人の職業である。東南アジアや北アメリカでは主に華
人はプランテーション農場の労働力として雇われたが、横浜に渡った華人は商人だったと
いうことである。 東南アジアや北アメリカの華人と日本の華人のどちらも、経済的理由に
よって来航したことは共通するが、その職業は異なるものであった。 世界の多くの中華街が中国人を対象として商売をしているのと比べて、日本の中華街が
日本人を対象としているのには、渡来当時の国の制度と状況が関係する。欧米諸国では第
1次産業が華人の主な職業だったのに対して、日本に渡来した華人の職業は前述のとおり
仲介業や専門職であった。しかも、制度上、正式に入国できる華人は少なく、経済活動の
範囲は居住地に限定されていたため、欧米人や日本人に比べて圧倒的に華人は少数であっ
た。なので、華人相手に商売をするより、日本人や欧米人を対象にして商売をするほうが
稼げたのである。そういった事情により、日本の中華街は日本人向けのお店が並ぶ街にな
り、当時の日本の制度の影響を受けて、世界的にみても一番といえる程、治安の良い中華
街となった。これが現在、横浜中華街に訪れる人の 95%が日本人であるというゆえんであ
る。
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第 3 章 現在の横浜中華街~新華人の登場~ 3-1.新華人の登場 現在の新しい動きとして、一番に重要な要素となるのが、新華人の存在である。1979 年
に中国本土で経済改革・開放政策が実施されてから以降海外に出国した華人で、外国での
永住傾向が強い中国人のことである。同じ華人であるが、戦後から横浜中華街に住んでい
た老華人とは異なる目的や考え方を持っている。 3-2.新華人と老華人の違い 新華人と老華人との違いは、もちろん出国した年代であるが、それよりも大きな違いは
出国することになったに動機と、その目標を実行するために選んだ手段にある。また、現
在、横浜にいる老華人はアヘン戦争時に新天地を求めて来た者や、国民党と中国共産党の
内戦時代の政治難民の子孫である場合が多い。また、海外の老華人には苦力として人身売
買され連行された者もいる。老華人は、十数年・数十年の間昼夜をおかずに働き続け、つ
らい差別などにも耐えながら定住者となって安定した生活基盤を築き上げた。海外での苦
しい経験から、子孫の教育に人一倍の力を注ぎ、今では中流・上流以上の安定した生活レ
ベルと地位を手にしている者も多い。また、生活や服装や住居の面で日本と同化している
傾向が強いが、伝統的文化や祭祀の面で特徴的である。 一方、新華人には、大きく分けて 2 タイプある。ひとつは、老百姓と呼ばれ、老華人と
同じように貧しくて、海外へ安定したくらしや稼ぎを求めて来ているタイプであり、一般
庶民や農民出身の者である。もうひとつは、高等教育を受けたあと、日本に留学して学位
をとって日本の大企業に就職し、あるいは起業して株式上場し、または大学の教職につく。
あるいは、芸術や芸能の分野で活躍するタイプである[山下 2005:96]。新華人は、1979 年
以降の漸次改革・開放政策や 1986 年の国民に対する出国規制の緩和の後、海外に憧れやビ
ジネスチャンスを求めて出国した者や、留学ブームに乗って出国した者が多い。海外で安
心して商売を続けたいという気持ちが強く、自分の利益を犯されないよう自らの力で守る
ため、永住権を手に入れようと考えている。そのため、老華人と比べて帰化に比較的抵抗
が無く、商売をはじめた土地に永住する傾向がある。 さらに、海外で商売をするためには、永住権を手に入れたほうが便利なため、新華人は
国籍に固執しない傾向がある。そのため、中国語しか話せなくても、仕事上の利便性を考
えて帰化をして日本人になる者や、日本人と結婚をして日本国籍を得る者が多い。また、
現在の状況ではまだ少数であるが、学生時代から長年海外にすみ、永住権を手に入れて、
その土地で事業を興す者もいる。新華人には、老華人の出身地で多かった広東や福建は少
なく、上海や北京出身者が増えている。しかし、2 つ目のタイプのように、起業や新たなビ
ジネスチャンスを求めてやってきた華人の中で成功するものは一部で、国によって新華人
の事情は違うが、多くの華人は社会生活面や経済面で大変な苦労を抱えていることが多い
18
[莫 2000:234]。 3-3. 華人のネットワーク 華人のネットワークは、研究者によって様々な視点から定義され、未だに決まった定義
を持たない。華人のネットワークは、資本社会の企業のように一定の構造を持つ組織とは
違い、絶えず時代や住む国の制度、その土地の状況に応じて柔軟に変えられていく性質を
もつ[山下 2005:61]。 ネットワークが形成された理由は、中国では家族や宗族が大事にされているのに対して、
海外に移民することとなると、それらに頼ることができないからである。それらの関係や
役割を果たす替わりの役割として、ネットワークが形成されるようになった。同じ中国人、
同じ華人と呼ばれる存在であっても、出身地はさまざまで文化も言語も異なる。それを反
映して、華人のネットワークにも様々な種類がある。これらのネットワークは、それぞれ
異国で生活するために、情報を分け合ったり共通の問題を解決したり、相互に協力しあっ
て成り立っている。また、ネットワーク内の華人の間では共同墓地を所有し、定期的に祭
祀を行うところもある。この点で、華人のネットワークはビジネス面だけでなく文化面や
アイデンティティの形成にも大きな役割を果たしていると考えられる。 華人のネットワークには大きく分けて、個人のネットワークと組織のネットワークの 2タイプがある。華人は異国の地に来た場合、まず親族や同郷の人に頼ることが多い。誰か
の親戚、誰かの友人、誰かの紹介で、といった個人の関係で繋がったネットワークができ
ている。この点で、華人社会は人脈が重視される社会といえる。さらに個人が、そこで生
活するようになったあと、今度はもっと良い仕事を見つけたり事業を興したりするために、
さらにネットワークをひろげていく。たとえば、出身地を同じくすることに基礎を置いた
同郷団体(会館や同郷会)、同じ中国姓を有することに基づいた同姓団体、同業団体、同窓
団体、宗教、趣味やスポーツなどの同好団体など様々に広がっていく。それが、もっと大
規模になると、世界各地の華人と繋がるネットワークとなる。同業団体のネットワークで
代表的なのは「世界華商大会」である。世界華商大会は、各地の中華総協会や、ビジネス
リーダーが参加し、隔年ごとに会議が行われ、華僑・華人同士の連携やビジネス投資など
について話し合われている。このネットワークという独自の関係構築が、華人社会や華人
のビジネスで重要な役割を持っている[山下 2005:61]。 3-4.世界各国に渡る新華人 日本では、滞在ビザの許可がおりにくく、経済が成熟しているため事業を興すのにはか
なりの資金力が必要である。また、日本では未だに外国人を受け入れることに抵抗がある
企業も多く、華人の就職事情は厳しい。日本の華人の事情と良く似ているのが、ドイツで
ある。ドイツは外国人の滞在に対し、かなりの法的な制限がかけられている。たとえばア
ルバイトは、年間 高 150 日と制限されており、そのうちの 90 日は労働省が許可した就労
19
時間である[莫 2000:280]。厳格な立法社会のドイツでは、研修生や就学生といった建前で、
外国人労働者を利用する日本とは大きく異なっている。このようにドイツや日本では、ア
ルバイトと学業を両立させ、少ない収入で生計を立てていくだけで大変で、起業をして成
功する例はまだまだ少ない。また、ドイツ人と日本人は、華人に対する考え方も似ている。
ドイツに留学生として渡り永住権を手に入れた後に、ドイツで起業した宋新鬱さんは、「ド
イツ人は、外国人を一時的にドイツに滞在する人間としか見ていません。だから、ドイツ
人から私は、中国の近況がどうだとか、いつ国に帰るのか、とよく聞かれます。どうして
外国人は、外国に住むことができないのか、とこっちも聞きたくなるぐらいに腹が立ちま
すよ[莫 2000:305]」とドイツ社会への溶け込みにくさ話している。 イギリス・フランス・アメリカなどの華人社会の歴史は古く、昔から沢山の華人が訪れ
ているが、近年は、ロシアや東欧、そしてオーストリアにも、華人は進出している。ロシ
アでは、長期滞在ビザがとりやすく、華人はお金持ちとして迎えられることが多いため、
事業が興せる環境はある。しかしそれゆえに、派手な振る舞いに走る華人も多く、ロシア
人売春婦を買ったり、カジノなどでお金を使い果たしてしまったり、窃盗などの標的にな
りやすいなど、成功してからの問題も大きい。ルーマニアやハンガリーは、とにかく物価
が安く、簡単に生活を維持できる。しかし、平均賃金や生活水準が非常に低いため、中国
製品を輸入しても、販売コストが下回ってしまうため、全く利益が上がらない。そのため、
ルーマニアやハンガリーにきた華人は新天地を求めて西欧やアメリカに再移住しようと考
えるものが多い。オーストリアはそのような事情を反映して、西欧と東欧をつなぐ玄関口
として、華人社会で大きな役割を担っている[莫 2000:244]。 各国によって新華人の生活する環境や仕事に違いはあるが、出国した動機は、どの国の
新華人でも共通で、経済的な理由による。老華人のように政治や思想的な理由での出国や
強制的な人身売買などの例はほとんどない。 3-5.現在の横浜中華街―横浜中華街の新たな変化― 1979 年以降、日本にも新華人が増加した。そのことに伴って、横浜中華街にも新たな変
化が現れている。 1)外観の変化、街の整備 現在の横浜中華街の様子を見てみると、大通りは豪華な中国風の建物がならび、大勢の
人々でごった返している。そこで商売をする若い人が、中国語なまりの日本語で甘栗を手
に呼び込みをかけている。その様子は観光地としての横浜中華街である。裏路地に入ると、
以前の狭くて入り組んだ中華街の独特の路地が残っているが、消防の安全対策やバリアフ
リー化のために、開発が進んでいる。特に大きなお店が連なる関帝廟通りや、南門シルク
ロードでは段差をなくす整備が進み、道幅も広くとられている。道の名前も、古くは中国
語で道を表す「~路」と名づけられていたが、新しく出来た道や大通りは、日本人に分か
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りやすく馴染みやすいように、「シルクロード」などのカタカナ文字や、「~通り」という
名前に改名されている。 2)新たな商売
近の横浜中華街は、もちろん中華料理店も増えているが、他にも多種多様な店が出さ
れている。特に増えているのが、占い店である。日本で占いが流行ったため、それをチャ
ンスと見た華人が、中国のイメージと占いを結び付けて、中華街で稼ごうと沢山の店を出
した。そのほとんどが、中国の占いとして有名な手相占いである。本業と思われる店の一
角を使って、手相占いをしている光景もある。酒屋や本屋を経営している傍らに、副業と
してお店を開いているのである。このほかにも、タイ式マッサージ店、ベトナム料理店、
水族館、喫茶店、和菓子屋、クレープ屋、ファーストフードなど、中国と日本の文化だけ
にとどまらない沢山の店が出されている。 このように、日本の流行にのって、あるいは、儲かりそうだと思えば、どんどん新しい
お店を出しているため、伝統的な中国文化に日本文化の混ざった街ではなく、観光地とし
ての新たな文化が作り上げられている。 3)伝統的文化の衰退、華人同士の交流の減少 新華人は、来日の動機が起業や商売のためであり、そのため伝統文化の保護よりも事業
の成功や仕事の稼ぎに関心があり、以前から横浜中華街に住んでいた老華人も、世代が 2世 3 世と交代していくにつれて、親も子も日本で生まれ、日本で育つようになったため、
自国の伝統文化に対する意識が変わってきている。また、沢山の日本人観光客が訪れるよ
うになり、開発が進むにつれて、中華街内に住む華人が減少し近郊から仕事や通学のため
に通う人が増えている。幼い頃から中華街に住み、そこで育った陳天璽さんによると、「以
前は、中国人たちが営む中華料理店以外にも、日本人が経営する八百屋や魚屋、駄菓子や
などが立ち並び、多文化が自然に共生していた。かつての横浜中華街では、片言の日本語
と中国語でも人々は上手くコミュニケーションをとり、時に大きな笑い声が響いていた。
中国でも日本でもない、むしろ両方の人々と文化が混ざった街であった[陳 2005:19]」とい
う。しかし、現在は、両方の文化が入り混じって共生している土地なのではなく、中国風
に作られた日本の観光地になってきている。横浜中華街発展会協同組合の行った、横浜中
華街の華人 480 人へのアンケートによると、心配事は何か?という問いに対する答えとし
て、1位は圧倒的に「景気に関すること」だが、2位は「華人の現状」である。その回答
には、「若い世代の人たちが中国語を話さなくなっている」、「華人同士の結びつきが希薄」
「生活が日本風になってきている」との意見が目立っている[横浜中華街発展会共同組合
2005]。関帝廟通りで広東料理店の聚英を経営している方の話では、「今では、ここ(横浜中
華街)に住んでいる人より、近くのビルから来てる人が多いんじゃないですかね。私も昔は
ここにすんでいたけど、引っ越して、今では近くから働きに通ってるんですよ。ここは住
21
みづらくなってきましたからねえ。それに駅が近いほうが便利だしね7」という。この方は、
戦後両親と日本と一緒に日本にやってきて、幼少の頃は、店の手伝いをしながら生活して
いた。「 近は大きい店が出来て変わったねえ。昔はお昼になると、近くの店の人が食べに
きたり、おべんとうを渡したりしていたんだけど」と中華街で生活する人同士の交流が減
ってきたことも話していた。 同アンケートで、出身地を聞いた項目では、日本と答える華人が 31%、広東が 15 パーセ
ント、そのほか福建や上海、東北、北京などを合わせたものが 14%となっていて、日本を
出身地とする人が多くなってきていることが分かる。さらに、使う言葉は何ですかと聞い
たアンケートでは、中国語と日本語が 42%、日本語だけが 44%。中国語だけが 14%である。
また、中国の伝統行事である「春節」のお祝いも、旧暦で行わずに、日本風の新暦の 1 月 1日に行う人が増えている。または、旧暦新暦の両方を行う人もいる[横浜中華街発展会協同
組合 2005]。このアンケートから、近年、横浜中華街に住む華人の文化が日本文化に同化
する傾向にあることが分かる。
7 著者インタビュー、2006 年 10 月 22 日
22
第4章 横浜中華街の今後
横浜中華街は、歴史を見てわかるように、日本と中国との関係や、各時代の両国の政治
的な動きに影響されている。そのような変動を乗り越えて、横浜中華街が日本という異国
文化の中で繁栄したのは、筆者は大きく分けて2つの要素があると考える。ひとつは、歴
史から見てわかるように、横浜中華街が形成されてきた初期の頃から中華学校ができ、母
語教育や民族教育の場として、または華人文化の中心として中華街で積極的な活動を行っ
てきたこと。また、移住してきた華人の両親も、子どもへの教育に熱心であったことであ
る。その結果、多くの研究者や技術者、多数の言語を使いこなし世界で活躍する華人が現
れ、華人社会の繁栄に繋がった。また、このような教育は治安を保つ役割も持つ。横浜中
華街が、世界で一番治安の良い中華街と呼ばれるのも、教育に目が向けられ民族教育が積
極的に行われてきたからである。治安が良いことで、日本人観光客も気軽に訪れることが
できる。 もうひとつは、異国で生活するためのネットワークを広げ、時代と環境に柔軟に応じて
形を変え様々な種類のネットワークを形成しながら、互いに協力してきたことである。近
年増加した、新華人についても、すでに在日華人教授会や在日科学技術連盟などの、技術
者や高学歴者によるネットワークができている。また、このネットワークによって、日本
国内だけにとどまらず世界の華人と協力体制にあることも、中華街で華人の商売が成功し
ている理由がある。この独自のネットワークを使い、華人は各時代において必要とされて
いる商品を察知し、手法を変えて柔軟に適応してきた。現在の中華街で、手相占い店が増
えているのも、時代に対応して新たなヒットを探ろうとする挑戦と考えられる。日本人に
合うように柔軟に適応していったことが、多くの日本人観光客を集め、横浜市の観光地と
して PR されるほど現地の日本人にも親しまれた要因である。 しかし、問題点もいくつか考えられる。まず、日本人に合うように適応して言った結果、
中国的な要素が失われてきていることである。現在は、第 3 章で紹介したように、中国に
全く関係のない店も多数出されているが、この先その傾向がさらに進んで、中国的な要素
がなくなってくると、他の観光地との差別化ができなくなる。時代の流れに沿いながらも、
伝統的な行事や文化を残していくことが、今後中華街が繁栄し続けるには重要である。若
い人が中国語を話さない、中国の行事を家庭内でしなくなっている状況は、アイデンティ
ティの形成、文化保護など様々な面でも影響を及ぼしている。次に、ネットワークや経営
のあり方も、問題になってくる。華人社会は、いまでも家族経営の企業が多い。大きな企
業でも、経営陣の一覧を見ると、一族が多数を占めている場合もよくある。会社の結束や
決定の早さはあり、この家族や個人関係が華人ビジネスの特徴であるが、一方で成功する
一部の華人と、低賃金で働く華人の格差問題や、社会的責任問題も起きている。 横浜中華街が今後も繁栄を維持し続けるには、今後も時代や流行に柔軟に対応し、日本
人を惹きつける事業を展開していくことが必要である。また、それを行う上で、日本文化
23
25
参考文献 陳水發(1997) 『横浜の華僑社会と伝統文化』中日文化研究所 平岡正明(1995) 『横浜中華街謎解き』朝日新聞社 白井孝(2005) 「遊華」遊華社 菅原一孝(1996) 『横浜中華街探検』講談社 山下清海/編(2005) 『華人社会がわかる本』中国から世界へ広がるネットワークの歴史、
社会、文化 明石書店 横浜中華街発展会共同組合(2005) 「横浜中華街~華僑・華人の歴史と生活~」横浜中華街
発展会共同組合 横浜開港資料館(1994) 「横浜中華街―開港から震災まで」横浜開港資料館 読売新聞社横浜支局(1998) 『落地生根 横浜中華街物語』アドア出版 内閣官房局/編(2006) 『明治年間法令全書第三二巻-4』 原書房