Upload
others
View
0
Download
0
Embed Size (px)
Citation preview
⾼坂聖書フォーラム「ヨハネの黙⽰録」講解ノート
1
付録
ダニエル書 9:24–27講解ノート
ダニエル書 7 章の概要
ダニエル書の構成と 7 章の重要性
ダニエル 9:24‒27 のいわゆる「七⼗週の預⾔」は、ダニエルが⾒た幻が連続して記されて
いる 7‒12 章全体の⽂脈と照らし合わせて解釈される必要があります。特に重要なのは、7
章に記されている四頭の獣に関する幻とその内容です。
ダニエル 7 章は、アラム語で書かれているセクション(2:4b‒7:28)の最後に当たります。
このセクションには、異邦⼈王国に対する神の主権を強調する対照構造が⾒られます1。
A:四部分の像の夢─異邦⼈王国と神の王国(2 章)
B:偶像礼拝の拒否(3 章)
C:ネブカドネツァル王の屈辱(4 章)
C’:ベルシャツァル王の屈辱(5 章)
B’:祈りをやめることの拒否(6 章)
A’:四頭の獣の幻─異邦⼈王国と神の王国(7 章)
⼀⽅で、7‒12 章では、ダニエルの⾒た 4 つの幻が時系列に沿って並べられています。こ
れらの幻では、イスラエルの苦難と回復が特に強調されています。
1. 7 章:四頭の獣─ベルシャツァルの元年(7:1)
2. 8 章:⽺とやぎ─ベルシャツァルの第三年(8:1)
3. 9 章:七⼗週─ダレイオスの第⼀年(9:1–2)
4. 10–12 章:アンティオコスと反キリスト─キュロスの第三年(10:1)
以上のことから、7 章は特に神の主権を強調する 2‒6 章と、特にイスラエルの回復を強調
する 8–12 章を繋ぐ「ヒンジ」として機能していることがわかります。そして、7 章の幻の
1 ここで扱うダニエル書の構成は以下に基づく。J. P. Tanner, “The Literary Structure of the Book of Daniel,” Bibliotheca Sacra 160 (2003): 269–82.
付録 ダニエル書 9:24‒27 講解ノート
2
内容は、前半と後半それぞれの内容を理解するための鍵となっています。よって、七⼗週の
預⾔そのものを⾒る前に、まず 7 章の概要を確認することが重要です。
四頭の獣の幻
ダニエル 7 章は、ネブカドネツァルの新バビロニア帝国(バビロン)が現れて以降、異邦
⼈の王国が台頭していくことを教えています(17 節)。それらの王国は四頭の獣で表されて
おり、第⼀の獣はバビロン、第⼆の獣はペルシャ、第三の獣はギリシャ、第四の獣はギリシ
ャに続く第四の王国を表していると考えられます(参照:2:31‒40)。
このように世界の覇権国が推移していく中で、第四の王国は特に強⼤かつ凶暴な性質を
持っているものとして表されています。この王国には、最終的に「もう⼀本の⼩さな⾓」と
される特筆すべき王が現れます(8, 20–21, 24–25 節)。この「もう⼀⼈の王」(24 節)は神を
冒瀆し(8, 11, 20 節)、聖徒たち(⽂脈上はイスラエルの⺠)を 3 年半の間迫害します(21,
25 節)。しかし、彼は最後に滅ぼされるのです(11, 26 節)。
幻や天使による解説の中では、最後の王の滅亡に続いて「⼈の⼦のような⽅」が到来し(13
節)、神の王国が⽴てられます(14 節; 参照:2:44)。最後の異邦⼈王国は、神がもたらす「永
遠の国」に取って変わられ、聖徒たちが御国を相続するのです(22, 27 節)2。
したがって、7 章の幻には以下のような流れが含まれていることになります。
1. バビロンの出現以降、世界史において異邦⼈王国が⽀配的となる。
2. 歴史の最終段階では、第四の王国の最後の王が台頭する。
3. 最後の王は神を冒瀆し、聖徒たちを 3 年半の間迫害する。
4. 神が最後の王を滅ぼされると、神の永遠の御国がもたらされる。
これ以降の 8‒12 章に⾒られるそれぞれの幻は、7 章に⽰されている流れや枠組みによっ
て理解される必要があります。
2 ダニエル 7 章のいわゆる未来主義的解釈は以下に詳しい。S. R. Miller, Daniel (Nashville, TN: B&H, 1994), 191–218; G. L. Archer, Jr., “Daniel,” in The Expositor’s Bible Commentary, vol. 7, ed. F. E. Gaebelein (Grand Rapids: Zondervan, 1984), 84–95; L. Wood, A Commentary on Daniel (Grand Rapids: Zondervan, 1973), 177–205; Tanner, A Commentary on the Book of Daniel, http://www.paultanner.org, 48–58.
⾼坂聖書フォーラム「ヨハネの黙⽰録」講解ノート
3
七⼗週の預⾔(9:24‒27)
直近の⽂脈(9:1‒23)
ダニエルがこの「幻」(23 節)を与えられたのは「メディア族のクセルクセスの⼦ダレイ
オスが、カルデア⼈の国の王となったその元年」でした。後の記述(2 節以降)からすると、
これはバビロン捕囚から「七⼗年」が経った時(紀元前 538/539 年)のことです。しかし、
「クセルクセス」をアケメネス朝ペルシャの王の名前と考えると、彼はエステル 1:1 に登場
するクセルクセス 1 世(在位:前 486‒465 年)か、その後のクセルクセス 2 世(在位:前
424‒423 年)であるということになります。さらに、「クセルクセスの⼦ダレイオス」とい
う呼び名が当てはまるのは、クセルクセス 1 世の孫ダレイオス 2 世(在位:前 422‒404 年)
になってしまいます。こうなると、ダニエル書の歴史的記述の信頼性が問題となります。
多くの学者は、ダニエル書における「メディア族の……ダレイオス」はバビロニアを降伏
させたキュロス 2 世(在位:前 550‒529 年)の別称だろうと考えています3。「クセルクセス」
と訳されている語は、ヘブライ語本⽂ではアハシュエロス( שורושחא )です。このギリシャ名
がクセルクセスです。ダレイオス=キュロス説に⽴つ学者たちは、アハシュエロスも、ダレ
イオスも、個⼈名ではなく称号だと考えています。すなわち、ダレイオスがキュロスの別称
であり、アハシュエロスはキュロスの⽗の別称であろうというのです4。
仮に上記の考察が正しければ、ダニエルに幻が与えられたのは新バビロニア帝国を征服
したキュロス⼤王の治世の元年であり、まさしくバビロン捕囚から 70 年が経った時だった
ということになります。
この年、ダニエルはエレミヤの預⾔(エレ 25:11‒12; 29:10‒14)から、70 年のバビロン捕
囚が終わることを悟りました(2 節)。彼はこの 70 年を「エルサレムの荒廃の期間が満ちる
までの年数」と表現しています。確かに、エレミヤ 29:10‒14 は、70 年間の捕囚が終わると
イスラエルの約束の地への帰還が実現すること、またその時に⺠が⼼を尽くして【主】を求
め、【主】を⾒出すことを伝えています。エレミヤ書の⽂脈──特に 30‒33 章──では、⺠
の帰還と回⼼は「新しい契約」の実現の時であり(31:31‒34; 32:40)、エルサレムの回復の時
であり(31:38‒40)、メシア到来の時であり(33:15‒16)、そしてダビデ王朝の再建の時です
(33:17)。よって、ダニエルはバビロン捕囚から 70 年が経った今こそ、神の御国の計画が
成就する時だという思いに⾄ったのでしょう。その信仰により、彼は⾃らの罪のため、⺠族
の罪のため、そしてエルサレムの回復のために祈り始めました(3‒19 節)。
3 特に以下の論考を参照のこと。J. M. Bulman, “The Identification of Darius the Mede,” Westminster Theological Journal 35 (1973): 247–67; Miller, Daniel, 171–76; Archer, “Daniel,” 76–77. 4 Miller, Daniel, 240.
付録 ダニエル書 9:24‒27 講解ノート
4
しかし、ダニエルがまだ祈り終わらないうちに、天使ガブリエルが介⼊してきました(20
節)。御国の実現を願うダニエルに、天使を通して新たな啓⽰がもたらされたのです。また、
ダニエルが神から「特別に愛されている者」であることも、啓⽰が与えられるひとつの理由
でした(23 節)。その新たな啓⽰の内容が、いわゆる「七⼗週の預⾔」です。
「七⼗週」について(9:24)
ガブリエルはまず「あなたの⺠とあなたの聖なる都について、七⼗週が定められている」
と告げました(24 節 a)。「あなたの⺠とあなたの聖なる都」は、直近の⽂脈からいえばイス
ラエルの⺠とエルサレムのことです。また、ダニエルが御国の成就による⺠とエルサレムの
回復の実現を祈っていたという⽂脈と照らし合わせれば、「七⼗週」はそれらが成就するま
での期間だということが分かります。
「七⼗週」(シャブイーム・シビーム םיעבש םיעבש )は、より直訳的には「70 の 7」(seventy
sevens)となります。シャブイーム( םיעבש )は「7」を意味するシャブワー( עובש )の複数形
です。この表現が期間を表していることを踏まえると、まずはシャブワーが「7⽇」を指す
いう解釈が考えられます。この場合、70 週は多くの翻訳聖書のとおり「70(シビーム)の
週(シャブイーム)」と訳すことができます。
しかし、ここでのシャブワーは「7 年」とも、また他の形でも解釈することができます。
9 章の⽂脈上、まず問題とされているのはエレミヤが預⾔していた「七⼗年」(シビーム・
シャナー הנש םיעבש )で、ダニエルの関⼼は「年」にあります。よって、ここでの「七⼗週」
は「70 の 7 年」と解釈するのが妥当でしょう。モーセの律法で安息年が定められているこ
と(レビ 25:4, 8)から、7 年で 1 セットという概念はダニエルにとって不⾃然なものではな
かったといえます5。したがって、天使はダニエルに、イスラエルの苦難が終わって回復の
時が来るまでさらに 7×70=490 年を要すると告げたことになります6。
続けて、天使からダニエルに、イスラエルの⺠とエルサレムに関わる 70 週の 6 つの⽬的
が告げられます(24 節 b)。
1. 背きをやめさせる
2. 罪を終わらせる
3. 咎の宥めを⾏う
4. 永遠の義をもたらす
5 Wood, A Commentary on Daniel, 247. 6 Miller, Daniel, 252–57; M. Rydelnik, “Daniel,” in The Moody Bible Commentary, eds. M. Rydelnik and M. Vanlan-ingham (Chicago: Moody, 2014), 1305.
⾼坂聖書フォーラム「ヨハネの黙⽰録」講解ノート
5
5. 幻と預⾔を確証する
6. ⾄聖所に油注ぎを⾏う
最初の 3 つの⽬的は、エレミヤが新しい契約の約束(31:31‒34)で語っていた、イスラエ
ルの霊的な回復と繋がっています。4番⽬の⽬的は、ダニエルが願っていたであろうダビデ
の⼦による義の確⽴(エレ 33:15‒16 参照)と繋がっています。6番⽬の⽬的は、エルサレム
の回復と繋がっていますが、特に神殿の回復という要素が強調されています(エレ 33:18 参
照)。そして、5 番⽬の「幻と預⾔の確証」は、イスラエルの回復に関するすべての預⾔の
確証を指していると理解することができます。特にダニエルに与えられた幻と預⾔という
点では、12 章までの幻全体の枠組みを提供している 7 章の幻/預⾔の成就と⾒なすことも
可能です。7 章は第四の王国の終わりまで続くイスラエルの苦難を伝えていましたが、その
最後はメシアの到来と神の王国の実現によって締め括られていました。
70 週の 6 つの⽬的は、いずれもダビデの⼦であるメシア的王が到来し、イスラエルを回
復させる時に成就するものです。したがって、70 週とは神の御国の計画が成就するまでの
期間であるといえます。
9:25 の翻訳について
9:25 からは 70 週の概要が⽰されていきます。特に 25 節は、70 週の起点と最初の 69 週の
内容を伝えています。しかし、それらについて解釈するためには、まず 25 節の翻訳につい
て考察する必要があります。
新改訳 2017 では、25 節は次のように訳されています。
それゆえ、知れ、悟れ。エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから、油注が
れた者、君主が来るまでが七週。そして苦しみの期間である六⼗⼆週の間に、広場と
堀が造り直される。
⼀⽅で、⼝語訳では次のように訳されています。
それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来
るまで、七週と六⼗⼆週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な
時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。
新改訳 2017 の場合は「油注がれた者、君主」が来るまでが 7 週、広場と堀が造り直され
付録 ダニエル書 9:24‒27 講解ノート
6
るまでが 62 週です。しかし、⼝語訳では、メシアが来るまでが 7+62=69 週であり、その
間にエルサレムも再建されることが⽰唆されています。英語訳を⾒ても、たとえば New Re-
vised Standard Version は新改訳 2017 と同じ読み⽅を採⽤し、English Standard Version、New
English Translation、Christian Standard Bible などは⼝語訳と同じ読み⽅を採⽤しています。
こうした翻訳の違いは、読み⽅を採⽤した写本の違いに基づいています。⼀般的に、ヘブ
ライ語聖書の原本として⽤いられるのは中世の写本であるマソラ本⽂です。マソラ本⽂に
は読み⽅を規定するアクセント記号が付加されており、9:25 の「七[週]」の下に分離アク
セント('atnah)が記されています。これに従うと、「七週」と「六⼗⼆週」は分離して読む
べきで、新改訳 2017 などのような読み⽅になります。しかしながら、マソラ本⽂よりも古
い七⼗⼈訳や古代アラム語訳(タルグム)、またヒエロニムスのラテン語訳(ヴルガタ訳)
などでは 7 週と 62 週はひとまとまりにされており、⼝語訳などに近い読み⽅になります。
マソラ本⽂と古代翻訳版の読み⽅が異なっている場合、どちらを採⽤すべきかは慎重に
判断される必要があります。基本的には、マソラ本⽂は信⽤できるものであり、新改訳 2017
が⼤部分でそちらの読み⽅に倣っているのは歓迎すべきことです。しかしながら、ここで扱
っているテキストの場合、マソラ本⽂のような形で 7 週と 62 週を分けるとエルサレム再建
の命令から 7 週(49 年)で「油注がれた者」が現れ、その後 62 週(434 年)かけて都が再
建されることになり、該当する歴史的出来事が⾒られず意味が不明瞭になってしまいます。
将来に関する預⾔の確実性を否定する⽴場(すなわち聖書の信頼性を否定する⽴場)では問
題ありませんが、福⾳主義ではこれが⼤きな問題となります。
マソラ本⽂のアクセント記号は後代の⼈々が付加したものであり、聖書論的に霊感を受
けたものとは⾔えません。また、この本⽂には後代のラビ的ユダヤ教の読み⽅を反映したも
のであるという側⾯があります。よって、箇所によっては反キリスト教的な読み⽅に変えら
れている可能性も否定し切れません。「七⼗週の預⾔」は、古代のクリスチャンによっても
イエス・キリストを指し⽰すものと考えられていました7。したがって、マソラ本⽂ではそ
のように読めなくされていたとしても不思議ではありません。さらに、ほとんどの古代訳が
7 週と 62 週をセットで扱っている点も⾒過ごすことができません。
以上のことから、ダニエル 9:25 に関しては、マソラ本⽂よりも古代訳の読み⽅(すなわ
ち⼝語訳などで反映されている読み⽅)を採⽤する⽅が妥当だと考えられます8。
7 参照:Tanner, “Is Daniel’s Seventy-Weeks Prophecy Messianic? Part 1,” Bibliotheca Sacra 166 (2009): 185‒98. 8 詳細な議論は以下を参照されたい。R. Price, “Prophetic Postponement in Daniel 9:24–27,” in Progressive Dis-pensationalism, ed. R. J. Bigalke, Jr. (Lanham, MD: University Press of America, 2005), 232–33; Tanner, A Commen-tary on the Book of Daniel, 80.
⾼坂聖書フォーラム「ヨハネの黙⽰録」講解ノート
7
最初の 69 週(9:25)
ダニエルに⽰された 70 週の起点は「エルサレムを復興し、再建せよとの命令」です。こ
の命令が具体的に何を指しているかは定かではありません。第⼀に考えられる選択肢は、
「キュロス王の第⼀年」に下された、エルサレムへの帰還と神殿再建に関する「命令」です
(エズ 1:2‒4; 6:3‒5)。ある注解者は、キュロスの命令が「勅令の形式を取っている」ため、
これが下された紀元前 538/539 年を「計算の起点とすべき」だと考えています9。しかし、こ
こを起点とする 69 週(483 年)は前 60 年(太陰暦)または前 55 年(太陽暦)となり、69
週と歴史的出来事の対応は不明瞭になります。また、キュロスの命令は帰還と神殿の再建に
関するものであり、町そのものの再建は命じられていません10。
他の選択肢としては、アルタクセルクセス王がエズラに与えた神殿における適切な礼拝
を⾏うようにという命令(エズ 7:11‒26;前 458/457 年)や、彼がネヘミヤに与えたエルサ
レム再建のための帰還の許可(ネヘ 2:1‒8;前 445/444 年)が考えられます。エルサレムを
再建せよとの「命令」はヘブライ語でダバール( רבד )であり、第⼀義的には純粋に「⾔葉」
を意味します。よって、エズラやネヘミヤが受けた命令が「勅令」と⾔えずとも、この⼆つ
を選択肢から外す理由にはなりません11。
本稿で採⽤する読み⽅によれば、前 458 年か前 445 年のどちらかから、「油注がれた者、
君主が来るまで」が 69 週となります。古代ユダヤ教のラビの中には「油注がれた者、君主」
(マシアハ・ナギード דיגנ חישמ )はメシアだと解釈していた例があります12。「油注がれた
者」(マシアハ חישמ )が 26 節にも登場していることからすると、この存在は 70 週の中でも
重要な役割を担っているようです。
70 週の⽬的であるイスラエルの罪の贖いや永遠の義の確⽴などは、他の預⾔書において
明確にダビデの⼦、メシアなる王と結びつけられています(特にイザ 42; 49; 52:13‒53:12)。
よって、ここでのマシアハ・ナギード(また単にマシアハ)は、メシアを指していると捉え
るのが⾃然です13。
69 週がエルサレム再建の命令とメシアの到来に関わっているのであれば、その起点はど
こになるのでしょうか。エズラへの命令(前 458/457 年)が起点であれば、太陽暦に基づく
と、483 年後は紀元 26/27 年となる。仮にメシアであるイエス・キリストの死が紀元 30 年
9 以下における 9:24–27 注解を参照。中川健⼀『ダニエル書』クレイ聖書解説コレクション、電⼦版(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2015 年)。 10 Miller, Daniel, 262; Tanner, A Commentary on the Book of Daniel, 79. 11 Miller, Daniel, 263. 12 Rydelnik, “Daniel,” 1305. 13 Tanner, “Is Daniel’s Seventy Weeks Prophecy Messianic?” 2 parts, Bibliotheca Sacra 166 (2009): 181–200, 319–35; K. D. Zuber, “Daniel 9:24–27” in The Moody Handbook of Messianic Prophecy, eds. M. Rydelnik and E. Blum (Chicago: Moody, 2019), 1139–52.
付録 ダニエル書 9:24‒27 講解ノート
8
だったとすれば、イエスの公⽣涯の始まり(おそらくヨハネからのバプテスマ)までが 69
週だと結論づけられそうです14。⼀⽅で、ネヘミヤへの許可(前 445/444 年)が起点であっ
たとすれば、太陰暦に基づき、483 年後が紀元 32/33 年となります。イエスの死が紀元 33 年
であったとする⼀部の学者の主張15 を受け⼊れれば、イエスの死(またはエルサレム⼊城
か)までが 69 週であるということです16。
筆者としては、今のところ前 445 年を起点とする⽴場に傾いています。最⼤の根拠は、こ
ちらの⽴場では 360 ⽇を 1 年とする太陰暦が採⽤されていることです。確かに、古代イス
ラエルやエジプトでは太陽暦も使われていました17。しかし、ダニエル 7:25 の「⼀時と⼆時
と半時」および 9:27 の「半週」と対応する表現は、黙⽰録では「千⼆百六⼗⽇間」(11:3; 12:6)
と太陰暦で表されているようです(黙 12:14 参照)。こうした聖書内での⼀貫性と、古代中
近東で実際に太陰暦も使われていたことを考慮すると、起点は太陰暦に基づいている⽅に
置くべきではないかと思われます18。
しかしながら、イエスの⽣涯に関する年代を特定するのは困難なため、70 週の起点が前
458 年か前 445 年かを完全に明らかにすることはできないでしょう。むしろ、いずれの⽴場
を取るにせよ、483 年後はイエスの公⽣涯と関係しているという事実に着⽬すべきです。神
がダニエルに啓⽰されたことは、驚くほど正確だったのです。
以上のことから、紀元前 5 世紀にエルサレム再建の命令が出され、紀元 1 世紀にメシア
が到来するまでが「七週と六⼗⼆週」(計 483 年)であり、その間に「広場と堀が造り直さ
れる」ことになります。ここで新たに問題となるのは、メシア到来までの期間が表現上は 7
週と 62 週に分けられているということです。起点となる「命令」以降にはメシア到来とエ
ルサレム再建という 2 つの要素があること、メシアの到来までが計 483 年であることから、
エルサレム再建までの期間が「命令」から「七週」(49 年)だと⽰唆されているのかもしれ
ません。正確な史料がないため確定的なことは⾔えませんが、少なくとも本⽂中の諸要素と
対応する解釈ではあります19。
いずれにしろ、最初の 69 週は待望されていたメシアが遂に到来するまでの期間ですが、
14 Wood, A Commentary on Daniel, 253; Archer, “Daniel,” 114–16; Miller, Daniel, 263. 15 H. W. Hoehner, “Chronological Aspects of the Life of Christ Part Ⅱ,” Bibliotheca Sacra 131 (1974): 41–54. 16 Idem, “Chronological Aspects of the Life of Christ Part Ⅳ,” Bibliotheca Sacra 132 (1975): 47–65; P. D. Feinberg, “An Exegetical and Theological Study of Daniel 9:24–27,” in Tradition and Testament, eds. John S. and Paul D. Fein-berg (Chicago: Moody, 1981), 194–95; J. C. Whitcomb, Daniel (Chicago: Moody, 1985), 131–32; Tanner, A Commen-tary on the Book of Daniel, 79. 17 Archer, “Daniel,” 115. Tanner (A Commentary on the Book of Daniel, 79 n. 28)は列王記や歴代誌の著者が太陽暦を使っていることを指摘している。 18 Ibid. 19 七⼗週の起点をエズラへの命令(前 458 年)に置いている Miller によれば、太陽暦に基づくと、起点から 49 年後は前 409 年となる。彼は、史料によれば前 407 年に別のユダの総督が置かれていることから、最初の七週がネヘミヤの仕事が完了するまでの期間と考えられ得ると述べている(Daniel, 266)。
⾼坂聖書フォーラム「ヨハネの黙⽰録」講解ノート
9
その期間は「苦しみの期間」でもあります。事実、都の再建に着⼿したエズラやネヘミヤた
ちは、困難に取り囲まれながら事業を進める必要がありました。その後、イスラエルは神殿
を再建し、前 2 世紀にはセレウコス朝シリアから⼀時期独⽴を勝ち取るものの、基本的には
ギリシャやローマといった異邦⼈王国の⽀配下に置かれ続けたのです。
インターバル(9:26)
最初の 69 週をもって、イスラエルのもとにメシアが到来します。しかし、驚くべきこと
に、その「油注がれた者」は「六⼗⼆週の後、……断たれ」てしまうのです。メシアが「断
たれ」るという表現に使われているヘブライ語カラット( תרכ )は、第⼀義的には「切る」
という意味ですが、他に排除する、滅ぼすといった意味も持っています20。よって、ここで
は最初の 69 週の後、メシアが殺されてしまうことが預⾔されていると考えられます。
イザヤ 53:8 では、カラットと似た⾔葉であるガザー( רזג )がメシアの死に関して使われ
ています21。ダニエル 9:26 は、イザヤ 53 章が預⾔していたメシアの死が成就するタイミン
グを教えているのでしょう。イザヤ書において、メシア(【主】のしもべ)の死はイスラエ
ルの⺠と諸国⺠の贖いをもたらすものです(52:15; 53:6, 10‒12)。70 週全体が⽬的としてい
る⺠の「咎の宥め」の⼟台は、メシアの死にほかなりません。メシアは、ダニエルが待ち望
んでいた王国を実現させる前に、まずはその贖いの働きを成し遂げることになるのです。
エルサレム再建の命令が出てから 483 年後に現れ、本節の後半で⽰唆されているローマ
によるエルサレム陥落(後述)の前に殺されたメシア的な⼈物となれば、歴史上該当するの
はナザレのイエスしかいません。このメシアには「何も残らない」(ウェエン・ロー ול ןיאו )
と⾔われていますが、これは「何も持っていない」というヘブライ語のイディオムです22。
ここにあるイメージは、メシアが何の遺産も残さない貧者として死ぬというものかもしれ
ません。正確なことは分かりませんが、このイメージは、4 つの福⾳書が伝えているイエス
の処刑の描写と⼀致しています。
メシアの死は最初の 69 週の「後」ですが、最後の「⼀週」すなわち第 70 週⾃体は次の 27
節から始まります。このような書き⽅は、最初の 69 週と最後の 1 週の間に何らかのインタ
ーバルがあることを⽰唆しているようです23。「七⼗週」の預⾔の中にインターバルが設け
られることは不⾃然にも思われますが、そもそもこの預⾔は、エレミヤに与えられた「七⼗
年」の預⾔の成就にインターバルを挿むものでした。エレミヤの預⾔では、バビロン捕囚が
終わった後、イスラエルの回復がすぐに実現するように思われました。しかし、実際にはバ
20 HALOT, 2:500–1. 21 新改訳 2017 は「絶たれた」と訳している。 22 Miller, Daniel, 267–68. 23 Ibid., 269–70; Price, “Prophetic Postponement in Daniel 9:24–27,” 233–34.
付録 ダニエル書 9:24‒27 講解ノート
10
ビロン捕囚の終わりとイスラエルの回復までの間に 70 週(490 年)が設けられたのです。
こういったインターバルの挿⼊は、聖書預⾔で広く⾒られる特徴です。有名な例としては、
ゼカリヤ 9:9‒10 が挙げられるでしょう。この 2 節において、前半では「王」が「雌ろばの
⼦である、ろばに乗って」エルサレムに来ることが告げられており、後半では地上における
「彼」の⽀配の確⽴が宣⾔されています。⽂章上は⼀連の預⾔となっていますが、実際には
9 節の成就(メシアのエルサレム⼊城)と 10 節の成就(メシアの地上的王国の実現)の間
に少なくとも約 2,000 年のインターバルが存在しているのです。
聖書預⾔は、このような「預⾔的視座」を意識しながら解釈する必要があります。
[預⾔的視座]は、⼩さな円盤が⼤きな円盤の前にあるのを真正⾯から⾒るようなも
のです。次に、その後の歴史という観点から、すなわち横から⾒れば、両者がどれく
らい離れているかがわかります[以下図1参照]。24
図1 年代順の出来事の預⾔的視座25
エレミヤの「七⼗年」の預⾔は、バビロン捕囚とイスラエルの回復を「預⾔的視座」から
⾒据えたものでした。「七⼗週の預⾔」が他の預⾔と異なっているのは、「真正⾯」からの預
⾔的視座を「横」からの視点で解き明かしている点にあります。しかも、この預⾔⾃体の中
でさえ、「横」から⾒た断絶/インターバルは隠されていません。ダニエル 9:26 の内容が最
初の 69 週にも第 70 週にも含まれていないという書き⽅は、この預⾔がイスラエルの回復
までのプロセスを横から⾒たものであることを端的に表しているのです。
インターバルに含まれるメシアの死以外の出来事は「次に来る君主の⺠が、都と聖所を破
24 G・D・フィー、D・スチュワート『聖書を正しく読むために[総論]』和光信⼀訳、関野祐⼆監修(いのちのことば社、2014 年)324 ⾴。 25 同上。
正面からの眺め 横からの眺め
⾼坂聖書フォーラム「ヨハネの黙⽰録」講解ノート
11
壊する」というものです。この出来事は何を指しているのでしょうか。まず「次に来る君主」
は未だ到来していないため、25 節で既に到来して 26 節冒頭で断たれたメシアだと考えるの
は困難です。「君主」(ナギード דיגנ )がメシアではないとすれば、ダニエル書の⽂脈から次
に想定されるのは、4 つの異邦⼈王国の王の誰かになります。歴史的に考えれば、メシアが
現れて殺された時点で、ギリシャまでの 3 つの王国の時代は過ぎ去り、第四の王国の時代に
⼊っています。よって、「次に来る君主」は第四の王国に現れる王だと考えられます。この
王国の王でダニエル書が特に強調しているのは、「もう⼀本の⾓」なる最後の王です。また、
後に⾔及する 27 節の「彼」の特徴は、最後の王の特徴と⼀致しています。後述しますが、
⽂章上 27 節の「彼」は 26 節の「次に来る君主」と同⼀であるように思われます。よって、
「次に来る君主」は第四の王国の最後の王であると考えられるのです。
しかし、26 節で「都と聖所を破壊する」という⾏為の主体は「次に来る君主」⾃⾝では
なく、彼の「⺠」です。この表現(アム・ナギード・ハバー אבה דיגנ םע )は「次に来る君主
に仕える⺠」とも、「次に来る君主と同じ国家/⺠族に属する⺠」とも解釈できます26。メシ
アの死後に何らかの「⺠」がエルサレムの「都と聖所を破壊」したという出来事は、歴史的
には紀元 70 年のローマ帝国によるエルサレム陥落が該当します。よって、この「⺠」はロ
ーマ帝国⺠であると考えられます。
ローマ帝国⺠と最後の王との関係は、この王が過去の歴史上の⼈物だと考えるか、将来現
れる⼈物だと考えるかによって解釈が変わります。最後の王の出現(27 節)が現在の視点
からしても将来であるならば、ローマ帝国⺠はその王と「同じ国家/⺠族に属する⺠」であ
るということになります。第三の王国(ギリシャ)の後に台頭したローマ帝国そのものが第
四の王国である、またはその王国のいち段階であると考えれば27、ローマ帝国⺠は「第四の
王国の⺠」であるといえます。さらに、将来現れる最後の王が⾁体的に古代ローマ⼈の⼦孫
であるという可能性も捨てることはできません28。
続けて、ダニエルは「その終わりには洪⽔が伴い、戦いの終わりまで荒廃が定められてい
る」と記しています。「その終わり」は「都と聖所」の終焉を指していると考えられます。
聖書で洪⽔が象徴的に⽤いられている多くの場合、強調されているのは破壊の⼤きさです
(イザ 8:7‒8; 28:2; ダニ 11:10, 22, 26, 40)29。実際に、紀元 70 年にエルサレムを滅ぼしたロ
26 Wood, A Commentary on Daniel, 258. 27 Miller, Daniel, 69–70. 28 Ibid., 268. ただし、当時の「ローマ⼈」は単⼀⼈種や単⼀⺠族によって構成されていたのではないと考えられる。また、紀元 1 世紀後半から 2 世紀にかけては、ローマ帝国軍の多くは属州出⾝者によって構成されていた(新⽥⼀郎「『ローマの平和』に関する考察:⼀・⼆世紀のローマの軍隊・皇帝崇拝・キリスト教対策を中⼼に」⾦沢⼤学⽂学部論集 史学科篇、第 15号[1995 年]98 ⾴)。よって、反キリストの⺠族性に関しては確定的なことを⾔うのが困難であることにも注意する必要がある。 29 Miller, Daniel, 269.
付録 ダニエル書 9:24‒27 講解ノート
12
ーマの軍勢は、洪⽔のごとき勢いをもって都を破壊しました30。「戦いの終わりまで荒廃が
定められている」は、「終わりまで戦いがあり、荒廃が定められている」と読むこともでき
ます31。ローマ軍は⽕をつけて神殿を破壊し、その⽕は市街地までも燃え移りました。そし
て、無事な区画で籠城していたユダヤ⼈たちもまた、ほどなく軍によって制圧されることと
なりました。こうして、エルサレムは滅ぼされるまで戦いに覆われ、その後は「荒廃」によ
って覆い尽くされることになったのです。
歴史的視点からすれば、最初の 69 週と最後の 1 週の間には、少なくともメシアの死(30
年頃)とローマによるエルサレム陥落(70 年)までの約 40 年間のインターバルが存在する
ことになります。そして、最後の王の到来が未だ実現していないとすれば、このインターバ
ルは約 2,000 年以上継続しているのです。私たちは、このインターバルの期間に⽣きている
ということになります。
第 70 週の構成と前半(9:27a)
第 70 週は、この預⾔の中でも特に詳しく記述されている「週」です。よって、70 週全体
の中でも特に重要な 7 年間であるといえます。なぜなら「最後の『⼀週』は、神の⽬的の完
成の時である」からです32。
この第 70 週の起点は「彼」が「多くの者と堅い契約を結」ぶ時です。しかし、彼は「半
週の間、いけにえとささげ物をやめさせ」ます。そして、「忌まわしいものの翼の上に、荒
らす者が現れる」が、「ついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる」のです。
本⽂はこのとおりの流れで書かれていますが、その構成を明らかにするのは簡単ではあり
ません。
まず、中間に置かれている「いけにえとささげ物をやめさせる」という⾏為は、8:9‒11 に
おける「もう⼀本の⼩さな⾓」の⾏為とよく似ています。8 章はペルシャ(第⼆の王国)と
ギリシャ(第三の王国)に関する幻です(8:20‒21)。ギリシャを表す雄やぎの⾓から⽣えて
きた「もう⼀本の⼩さな⾓」(8:9)は、⼀般的にはセレウコス朝のアンティオコス 4 世エピ
ファネス(在位:前 187–175 年)のことだと解釈されています33。よって、第三の王国から
現れる「⼩さな⾓」と第四の王国から現れる「⼩さな⾓」は異なる王だということになりま
す。しかし、8 章のアンティオコス 4 世の性質が、7 章の最後の王と酷似しているのも確か
30 Tanner, A Commentary on the Book of Daniel, 81. 31 Wood, A Commentary on Daniel, 256. 32 ジョイス・G・ボールドウィン『ダニエル書』伊藤僚訳(いのちのことば社、2007 年)196 ⾴。 33 8 章の「⼩さな⾓」を 7 章の⼩さな⾓と同定する、すなわち将来の反キリストのことであるとする解釈については以下を参照されたい。Mark A. Hassler, “The Identity of the Little Horn in Daniel 8” The Master’s Sem-inary Journal 27/1 (Spring 2016): 33–44.
⾼坂聖書フォーラム「ヨハネの黙⽰録」講解ノート
13
です。したがって、アンティオコス 4 世に関する預⾔(8 章および 11:1‒35)は、第四の王
国の最後の王の性質および⾏為をあらかじめ⽰しているものと考えられます34。9:27 の「い
けにえとささげ物をやめさせる」という⾏為は、最後の王が、ユダヤ⼈に対してアンティオ
コス 4 世のごとき横暴な振る舞いを⾏うことを表しているのでしょう。事実、最後の王が聖
徒たちを迫害することは既に明らかにされています(7:21, 25)。
上記の特定が正しければ、第 70 週の構成がある程度明らかになります。「いけにえとささ
げ物をやめさせる」という形でのイスラエルへの迫害が続くのは、「半週の間」(3 年半)で
す。これは、7:25 における最後の王による迫害の期間(⼀時と⼆時と半時)と⼀致していま
す。そして、3 年半のすぐ後に最後の王が「完全に絶やされ、滅ぼされる」(7:26)ことから、
3 年半は彼の最後の活動期間であるということができます。よって、9:27 の「いけにえとさ
さげ物」がやめさせられる「半週」は、第 70 週の後半の 3 年半だということになります。
したがって、9:27 では第 70 週について、次のように前半と後半の 3 年半に分けられる構
成が⽰されています。
・ 前半の 3 年半:「彼」が「多くの者と堅い契約を結」ぶ時に第 70 週が始まる。
・ 後半の 3 年半:「彼」は「いけにえとささげ物」をやめさせるが、「定められた破滅
が、荒らす者の上に降りかかる」ことで、70 週全体が完結する。
この構成を踏まえた上で、70 週に起こる出来事そのものについて考察を進めましょう。
まず、27 節に登場する「彼」は、新しい契約をもたらすメシアだと解釈されることもあり
ます35。しかし、これまで述べてきたように「彼」は第四の王国の最後の王であると解釈し
た⽅が良いと考えられます。第⼀に、ここでの「彼」の先⾏詞としては、直前の 26 節の「次
に来る君主」が該当します36。この「次に来る君主」は、メシアではあり得ません。なぜな
ら、彼に属する⺠が「都と聖所を破壊する」という⽂脈上の主題であるエルサレムの回復と
対⽴する⾏為を働いているからです。
第⼆に、27 節の「彼」の⾏為である「いけにえとささげ物をやめさせる」は、⽂脈上、聖
徒への迫害という横暴な⾏為として理解される必要があります。
第三に、「彼」が契約を「結ぶ」という⾏為(ガーバル רבג )は「⾄上の権⼒を⾏使するこ
とによって強制的に同意させることを意味」しており37、新しい契約の締結というようなポ
34 Rydelnik, “Daniel,” 1302; 明⽯清正『聖書預⾔の旅』(リバイバル新聞社、2002 年)106 ⾴。 35 P. J. Gentry and S. J. Wellum, Kingdom through Covenant (Wheaton, IL: Crossway, 2012), 531–64. 36 Archer, “Daniel,” 116. 37 ボールドウィン『ダニエル書』196 ⾴。
付録 ダニエル書 9:24‒27 講解ノート
14
ジティヴな⾏為を⽰しているとは理解するのが困難です。よって、「彼」は将来の第七⼗週
で活動する「次に来る君主」、すなわち異邦⼈王国の最後の王だと理解すべきでしょう。
最後の王は「多くの者と堅い契約を結び」ますが、27 節の中には「多くの者」が誰かを
⽰すヒントはありません。しかし、「七⼗週の預⾔」全体で対象となっているのはイスラエ
ルの⺠であることから(24 節)、「多くの者」はイスラエルの中の「多くの者」だと考えら
れます38。また、彼らは他国の王と契約を結ぶ存在ですので、イスラエルの政治的指導者た
ちを指している可能性が⾼いです39。
ここで王とイスラエルが結ぶ「堅い契約」が何かということも定かではありません。「契
約」(ベリート תירב )は多くの箇所で神とイスラエルとの契約に⽤いられていますが、個⼈
間/国家間での「条約」や「同盟」といった意味でも使われています(創 14:13; 21:27, 32;
オバ 7)。ここでのベリートは王とイスラエルの「契約」であるため、後者の意味で捉える
べきです。この契約は不可侵条約のようなものであろうと推測する⼈もいて40、確かにその
可能性は否定できません。しかし、本⽂からは王とイスラエルの条約/同盟であるとしか読
み取ることができないため、それ以上の詮索は避けるべきです。
第七⼗週の後半(9:27b)
王が後半の 3 年半で「いけにえとささげ物をやめさせる」ことについては、イスラエルの
⺠への迫害であることを既に確認しました。そこから続く「忌まわしいものの翼の上に、荒
らす者が現れる」という記述もまた、同様に後半の 3 年半で起こることへの⾔及だと考えら
れます。
このウェアル・ケナフ・シクツィーム・メショメーム( םמשמ םיצוקש ף נכ לעו )という句は読
解が困難です。New International Version は「彼は神殿で荒らす忌まわしいものを据える」
(And at the temple he will set up an abomination that causes desolation)という訳⽂を提⽰して
います。この訳の第⼀の特徴は、「翼」(ケナフ ף נכ )を神殿の⼀部分として解釈しているこ
とです。「翼」と訳されている語(基本形カナフ ףנכ )は「翼」だけではなく「隅」も意味す
ることから、神殿の頂を指していると考えられることがあります41。
第⼆の特徴は、シクツィーム・メショメーム( םמשמ םיצוקש )を「荒らす忌まわしいもの」
(an abomination that causes desolation)と単数形で訳していることです。これは、シクツィ
ーム・メショメームを 11:31 の「荒らす忌まわしいもの」(ハシクーツ・メショメーム ץוקש
םמש )および 12:11 の「荒らす忌まわしいもの」(シクーツ・ショメーム םמש ץוקש )と対応さ
38 Miller, Daniel, 271; Wood, A Commentary on Daniel, 259. 39 Rydelnik, “Daniel,” 1307; Fruchtenbaum, The Footsteps of the Messiah, 196–97. 40 Wood, A Commentary on Daniel, 259. 41 HALOT, 2:486; Whitcomb, Daniel, 134; Fruchtenbaum, The Footsteps of the Messiah, 197.
⾼坂聖書フォーラム「ヨハネの黙⽰録」講解ノート
15
せた訳になっています。いずれも、忌まわしいものという意味の名詞シクーツ( ץוקש )と荒
らすという意味の動詞ショメーム( םמש )を組み合わせた句です。11:31 には次のように書か
れています。
彼の軍隊は⽴ち上がり、砦である聖所を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌
まわしいものを据える。(ダニ 11:31)
ここは、アンティオコス 4 世が神殿での儀式を妨害し、また神を冒瀆して偶像(荒らす忌
まわしいもの)を据えるという預⾔です42。
⼀⽅で、12:11 には次のように書かれています。
常供のささげ物が取り払われ、荒らす忌まわしいものが据えられる時から、千⼆百九
⼗⽇がある。(ダニ 12:11)
11:31 で⾒られるのと同じような表現が使われていますが、ここは⼀連の幻の結論に含ま
れており、「終わりの時」(12:9)に関係しているため、第 70 週で台頭する最後の王に関す
る教えだと思われます43。彼は、アンティオコス 4 世が⾏ったようにいけにえの儀式を廃⽌
させ、「荒らす忌まわしいもの」を据えるという形で神を冒瀆するのでしょう。「常供のささ
げ物が取り払われ」るということは、9:27 の「いけにえとささげ物をやめさせる」と同じこ
とを指しているように思われます。よって、9:27 の後半と 12:11 は同じことを指しており、
前者のシクツィーム・メショメームも後者のシクーツ・ショメームも同じ「荒らす忌まわし
いもの」(おそらく偶像)を指していると考えるのは不可能ではありません。この場合、前
述したように「翼」を神殿の⼀部分と理解すれば「神殿に荒らす忌まわしいもの(偶像)を
据える」という意味になり、9:27 後半、11:31、そして 12:11 は(⼀部主体が違うものの)す
べて同じ⾏為を指しているということになります。
上記の解釈は、ダニエル書本⽂中における表現の意味の統⼀を図ることができる点で魅
⼒的です。また、ダニエルが預⾔した最後の王への⾔及だと思われる新約の教えとも⼀致し
ています。イエスは「預⾔者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖
なる所に⽴」つことを預⾔されました(マタ 24:15)。パウロの教えによれば、「不法の者」
が「ついには⾃分こそ神であると宣⾔して、神の宮に座ることになります」(Ⅱテサ 2:4)。ま
たヨハネはダニエル 7 章のイメージを⽤いて最後の王を「獣」と呼び、彼がその「像」を造
42 Miller, Daniel, 301. 43 Ibid., 325.
付録 ダニエル書 9:24‒27 講解ノート
16
って⼈々に礼拝を強要することを伝えています(黙 13:14–15)。こういった新約の教えは、
最後の王が神殿を汚す存在だという点で、ダニエル 9:27 や 12:11 と⼀致しています。
しかしながら、これまで論じてきた解釈には問題もあります。第⼀に、旧約全体の中でカ
ナフが神殿の⼀部分を指して使われている例はありません44。よって、11:31 や 12:11だけを
根拠に「翼」を神殿の⼀部と解釈することは、読み込みであるように思われます。むしろ、
多くの場合「翼」は実際の翼か、翼を⽤いた⽐喩表現に使われています。特にイザヤ 8:8 で
は、ダニエル 9:26 で使われていた洪⽔のモチーフと合わせた形で「翼」が使われています。
そこでは、アッシリア帝国の軍勢が「ユダに勢いよく流れ込み、あふれみなぎって⾸にまで
達する」と、洪⽔のモチーフで表されています。それに続いて「その広げた翼は、……あな
たの地をおおい尽くす」と、軍勢の凄まじさが「翼でおおい尽くす」という表現によって伝
えられています。このように、何かを覆うという意味合いでカナフが象徴的に使われている
例は他にもあります(例:ルツ 2:12; 3:9; 詩 17:8; 57:1; エレ 49:22; ホセ 4:19)。聖書の⽤法
からすれば、ダニエル 9:27 の「翼」もまた何かを/何かが覆っていることの象徴的表現だ
と考えられます。
第⼆に、9:27 の「忌まわしいもの」(シクツィーム)が 11:31 および 12:11 と違って複数形
となっているのは、無視できない問題です。これは「重要性を表す複数形」だと考えること
もできます45。しかし、それでは 11:31 および 12:11 でそうした複数形が使われていないこ
とを⼗分に説明できるようには思われません。
ヘブライ語のシクーツは、具体的な偶像だけではなく、偶像礼拝という⾏為も意味し得る
⾔葉です46。これの複数形が使われているということは、9:27 では偶像を据えるという⾏為
そのものではなく、より広く最後の王の冒瀆的⾏為全般が表現されているのではないでし
ょうか。その具体的な代表例が、12:11 では(11:31 を踏まえて)偶像を据えるという⾏為と
して表されていると考えることができます。
第三に、シクツィーム・メショメームを「荒らす忌まわしいもの」と⼀体で捉える場合、
メショメームは「忌まわしいもの」にかかる分詞だということになる。しかし、その後では
「定められた破滅」の対象が同じ語幹の⾔葉ショメーム( םמש )で表されています。この語
は最後の王を⽰すものにもなっているのです。よって、その直前のメショメームもまた「忌
まわしいもの」ではなく最後の王を修飾していると捉える⽅が、⼀貫性があると考えられま
す。この点からも、新改訳 2017 のようにメショメームと「忌まわしいもの」を区別し、さ
らに⼈物を指していることを明確にして「荒らす者」と訳す⽅がふさわしいのでしょう。
44 Ibid., 272. 45 Wood, A Commentary on Daniel, 262. 46 Ibid., 261.
⾼坂聖書フォーラム「ヨハネの黙⽰録」講解ノート
17
以上のような理解は、新改訳 2017 のより字義的な読み⽅「忌まわしいものの翼の上に、
荒らす者が現れる」と調和します。この訳⽂から想起させられるのは、冒瀆的な⾏為が翼で
覆うように地に広がり、それによって荒廃をもたらす者がいるというイメージです。おそら
くこれは、第 70 週の後半における、もしくは第 70 週全体を通した最後の王の性質──暴
虐で、神を畏れないという性質を表しているのでしょう。
「七⼗週の預⾔」は「そしてついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる」
という形で締め括られています。第 70 週を通して明らかにされているのは、イスラエルに
「堅い契約」を強制し、「いけにえとささげ物をやめさせ」、神への冒瀆で(おそらくは地を)
覆い尽くすという最後の王の横暴さです47。しかし、7:26 で「彼は完全に絶やされ、滅ぼさ
れる」と⾔われていたとおり、彼の破滅はあらかじめ定められているのです。
こうして、「七⼗週の預⾔」は最後の王の滅亡の宣告によって、やや唐突な形で終わって
います。しかし、既に 7 章で与えられていた幻を踏まえれば、彼の滅びは横暴な異邦⼈王国
の終焉のしるしであり、イスラエルの回復と、神の「永遠の国」の成就と繋がっています
(7:27)。ここに、捕囚から始まったイスラエルの苦難の歴史は終わりを告げ、彼らは諸国
⺠を祝福するための選ばれた器として回復させられるのです。さらに、後代になってパウロ
が教えたことによれば、最後の王である「不法の者」を滅ぼすのは「主イエス」ご⾃⾝です
(Ⅱテサ 2:8)。ヨハネもまた、「獣」が再臨のイエスによって滅ぼされることを預⾔してい
ます(黙 19:19‒20)。そして、イエスはこの地上に千年間の王国を実現させられるのです(黙
20:4‒6)。
47 ⼀部の未来主義者は、最後の王(反キリスト)が第 70 週の前半では魅⼒的な指導者として振る舞い、後半から本来の暴虐さをあらわすと理解している(たとえば、ティム・ラヘイとジェリー・ジェンキンスによる⼩説『レフト・ビハインド』シリーズに登場する反キリストの姿を⾒よ)。確かに聖書は第 70 週の後半における反キリストの横暴さを強調している。また、彼が台頭する過程では、魅⼒的な指導者として受け⽌められる可能性も考えられる。しかし、これは聖書が伝えている以上のことを推測しているに過ぎない。ダニ 9:27 は、彼が第 70 週を通して横暴な王であることを伝えている。