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54 DECEMBER 2013 あり,後述するように,“お茶の間”という時間 と空間を「発見」していく過程でもあった。 初期のテレビ・ドラマはつねに映画やラジオ, 演劇といった先行芸術との比較に晒された。そ して,とくに映画の後裔となることを異常なま でに警戒された。1956 年には東宝,東映,松 竹,大映,新東宝の映画5社が協定を結び, 劇場用映画をテレビで放映させず,さらに専属 の映画俳優も無許可に出演させない「テレビの 疎外」を断行した(五社協定)。その結果,テ レビ・ドラマはその始まりの大半において,必 然的に歌舞伎役者や無名の役者によるドラマ 制作か,アメリカからの輸入テレビ映画に頼ら 本シリーズは,「テレビ時代 」「テレビ社会 」とはどのようなものであったのかを検証・総括し,不透明化している テレビの今後を考える手掛かりを得るため,テレビ時代「 初期 」( 1953 ~ 1960 年代半ば )に制作者や評論家,研 究者らによって議論されていた「テレビ論 」を再読しようというものである。4 回目の本稿では「ドラマ論 」を取り上 げる。 日本の初期のテレビ・ドラマは,「単発ドラマ」から「連続ドラマ」へと緩やかな移行を辿っていった。当初,ド ラマ論は演出のための単なる技術論にすぎなかったが,次第にドラマ制作者や評論家たちによる本格的な議論 へと発展し,前衛的な「単発ドラマ」の全盛を支えていった。映画とは異なる表現を追求した「テレビ芸術論 」や, 制作者と評論家の間で「“お茶の間 ”芸術論争」が繰り広げられるなど,実作とドラマ論が相互に関係しあいなが ら議論は展開した。しかし,1960 年頃を境として,テレビの急速な普及とともに娯楽的な「 連続ドラマ」が隆盛す るようになり,ドラマ論は徐々に衰退していくこととなった。 初期ドラマ論の10 年は,“お茶の間 ”という新しい視聴形態をめぐって展開した,新たなドラマ表現の探求であっ た。これらの議論は,ドラマ制作に影響を及ぼさなくなって久しい現在のドラマ論に豊かな視点を与えるとともに, 視聴形態がさらに変化しつつある今後のテレビを考えるうえで,大きな参照先となり得るものである。 シリーズ 初期 “テレビ論” を再読する 【第 4 回】 ドラマ論 ~“お茶の間”をめぐる葛藤~ 東京大学大学院(学際情報学府) 松山秀明 1.はじめに 本 稿は,シリーズ「初期“テレビ論”を再読 する」の 4 回目として,テレビ・ドラマに焦点を 当て,テレビ初期におけるドラマ史とその議論 を整理・検討することで,今日のドラマの在り 方を問い返すことを目的とするものである。 テレビの本放送が開始された1953年から 1960 年代半ばまでの初期 10 年余りの期間にお いて,日本のテレビ・ドラマは「単発ドラマ」か ら「連続ドラマ」へと緩やかな移行を辿っていっ た。それは先行するメディアであった映画との 差異を求め,テレビ的な表現を模索した時期で

ドラマ論 - NHK...55 ざるを得ない状況に追いこまれた。しかし,こうした映画からの差別と偏見がか えってテレビ・ドラマ表現の新しい可能性を切

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54  DECEMBER 2013

あり,後述するように,“お茶の間”という時間と空間を「発見」していく過程でもあった。

初期のテレビ・ドラマはつねに映画やラジオ,演劇といった先行芸術との比較に晒された。そして,とくに映画の後裔となることを異常なまでに警戒された。1956年には東宝,東映,松竹,大映,新東宝の映画5 社が協定を結び,劇場用映画をテレビで放映させず,さらに専属の映画俳優も無許可に出演させない「テレビの疎外」を断行した(五社協定)。その結果,テレビ・ドラマはその始まりの大半において,必然的に歌舞伎役者や無名の役者によるドラマ制作か,アメリカからの輸入テレビ映画に頼ら

本シリーズは,「テレビ時代」「テレビ社会」とはどのようなものであったのかを検証・総括し,不透明化しているテレビの今後を考える手掛かりを得るため,テレビ時代「初期」( 1953 ~ 1960 年代半ば)に制作者や評論家,研究者らによって議論されていた「テレビ論」を再読しようというものである。4回目の本稿では「ドラマ論」を取り上げる。

日本の初期のテレビ・ドラマは,「単発ドラマ」から「連続ドラマ」へと緩やかな移行を辿っていった。当初,ドラマ論は演出のための単なる技術論にすぎなかったが,次第にドラマ制作者や評論家たちによる本格的な議論へと発展し,前衛的な「単発ドラマ」の全盛を支えていった。映画とは異なる表現を追求した「テレビ芸術論」や,制作者と評論家の間で「“お茶の間”芸術論争」が繰り広げられるなど,実作とドラマ論が相互に関係しあいながら議論は展開した。しかし,1960 年頃を境として,テレビの急速な普及とともに娯楽的な「連続ドラマ」が隆盛するようになり,ドラマ論は徐々に衰退していくこととなった。

初期ドラマ論の10 年は,“お茶の間”という新しい視聴形態をめぐって展開した,新たなドラマ表現の探求であった。これらの議論は,ドラマ制作に影響を及ぼさなくなって久しい現在のドラマ論に豊かな視点を与えるとともに,視聴形態がさらに変化しつつある今後のテレビを考えるうえで,大きな参照先となり得るものである。

シリーズ 初期“テレビ論”を再読する

【第 4回】 ドラマ論 ~“お茶の間”をめぐる葛藤~

東京大学大学院(学際情報学府) 松山秀明

1.はじめに

本稿は,シリーズ「初期“テレビ論”を再読する」の4回目として,テレビ・ドラマに焦点を当て,テレビ初期におけるドラマ史とその議論を整理・検討することで,今日のドラマの在り方を問い返すことを目的とするものである。

テレビの本放送が開始された1953年から1960年代半ばまでの初期10年余りの期間において,日本のテレビ・ドラマは「単発ドラマ」から「連続ドラマ」へと緩やかな移行を辿っていった。それは先行するメディアであった映画との差異を求め,テレビ的な表現を模索した時期で

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ざるを得ない状況に追いこまれた。しかし,こうした映画からの差別と偏見がか

えってテレビ・ドラマ表現の新しい可能性を切りひらく原動力となり,文学界,演劇界,ラジオ界,評論家などの助けを借りながら,独自の発展を遂げていくことになった。こうして,初期の日本のテレビ・ドラマは,芸術祭参加番組を中心とした「単発ドラマ」の隆盛,そしてその後の娯楽路線としての「連続ドラマ」の急速な増加とともに,今日のテレビ・ドラマの形を作り上げていったのである。

これまで日本の初期のテレビ・ドラマについては,テレビ・ドラマ史のなかの一部として論じられるにとどまってきた。例えば,テレビ・ドラマ前史から1980年代までを叙述的に論じた鳥山拡 1)や,自らの体験と制作者たちの証言をもとにドラマ史を記述した佐怒賀三夫 2)は,通史的なテレビ・ドラマ史の記述として,その冒頭を初期のテレビ・ドラマに当てている。

しかし,なかには和田矩衛 3)のように,初期ドラマに焦点を絞り,NHK実験放送時代からNTV(日本テレビ)の開局,KRT(のちのTBS)の開局を経て,初期テレビ・ドラマが花咲く1958年から60年までを忠実に記述した貴重な放送記録もある。また,平原日出夫 4)は時代状況と関連づけながら昭和30年代(1955-1964)の単発ドラマを論じ,皇太子ご成婚(昭34)から安保闘争(昭35)を経て,東京オリンピック(昭39)へと向かう激動の時代の昭和30年代ドラマを「第1次黄金期」と名付け,当時の日本の社会的現実を告発しつづけた「抗議」のドラマとして高く評価した。

しかし,これらの初期ドラマに関する記述においてもなお見落とされているのは,テレビ初期に持っていた“ドラマ制作”と“ドラマ論”と

の絶妙な緊張関係であり,この両者の関係によって見えてくる「単発ドラマ」から「連続ドラマ」へと至るダイナミックなテレビ・ドラマ史の変貌である。この過程を明らかにすることにこそ,初期テレビ論を再読する意義があると言えよう。

したがって以下本稿では,テレビ・ドラマ史との関係のなかで,初期ドラマ論の言説を読み直すことに重点を置いていきたい 5)。そうすることで,ドラマ言説が無効になりつつある昨今のテレビ状況を問い返し,今後への新しい視座を得るきっかけを探りたいと思う。

2.機械との闘争―ドラマ論前史

日本初のテレビ・ドラマは,1940年4月に放送された『夕餉前』(伊馬鵜平作・坂本朝一,川口劉二演出)である。これは本放送に先立つこと13年前のことであり,まだNHK実験放送時代の頃のことであった。

スタジオは東京・世田谷区砧のNHK技術研究所で,2台のカメラを使って撮影され,東京・日本橋の三越百貨店と愛宕山の常設テレビ観覧所の2か所にて,約12分間の作品として上映された。

『夕餉前』(1940)の撮影風景

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この番組の内容はいたって平凡で,母(原泉子),兄(野々村潔),妹(関志保子)の三人家族の夕食前の一刻を描いており,今晩のスキヤキのために豆腐を買いに行く妹,そのスキヤキを早く食べたいために母の帰りを心待ちにする兄,そこに帰宅する母は二人のお見合い相手の写真を持ってきたために話がこじれるというものであった。脚本を手がけた伊馬鵜平(のちの伊馬春部)も「こんにちの目からすれば,なんともほ

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

ほえましすぎて恐縮千万」6)と後に書き記している。

その後,NHKが1953年2月1日に本放送を開始し,本放送後初のテレビ・ドラマ『山路(さんろ)の笛』(杉賀代子作・畑中庸生演出)を2月4日午後8時から8時30 分まで生放送した。

そして1953年8月28日 にNTVが 民 間 放送として初めて開局することになってNHKとNTVの2局時代を迎え,日本テレビでは新たに「NTV劇場」という単発ドラマシリーズを設けて,その第1回作品『私は約束を守った』(内村直也作・池田義一演出)を,開局から3日後の8月31日に放送した。

こうして実験放送の準備期間があったNHKと,十分な下地のないまま放送を開始したNTVによって展開した草創期のテレビ・ドラマは,さらにKRTが1955年に開局し加わることによって花開いていくわけだが,まだこの頃は草創期ゆえにまとまったドラマ論は見られず,もっぱらテレビ技術をいかに表現するかに労力が費やされていた。

開局早々に制作されるこれらのテレビ・ドラマは,すべて「生放送」で行なわれるという特徴があった。そのため,本番の放送では予定よりも早く終わってしまったり,場面転換のために役者たちが着替えをする姿が映りこんでしま

うといった「失敗」が少なくなかった。これは草創期のテレビ演出技術の未熟さが

最大の要因だが,しかし一方で,こうした「生放送」という制約があったからこそ,テレビ・ドラマ独自の演出方法が開拓されていくことにもつながった。つまり,テレビの「同時性」や「即時性」を活かした演出が次第になされるようになり,先行芸術である映画や演劇には真似できないテレビ独自の演出技術を確立していくことになったのである。

例えば,1953年9月22日放送のNTV劇場『生と死の15分間』(飯沢匡作・池田義一演出)では,デパートの屋上から投身しようとする男の15分間の葛藤を,午後8時から8時15分までの放送時間と合わせる試みが行なわれ,また,1954年5月5日放送のNHK『二人のルメ子』(飯沢匡作・加納守演出)では,東京と大阪の2つのスタジオを中継で結んで物語が展開された。

こうした「テレビ的同時性」表現の最大の成果が,1955 年11月26日放送の1時間ドラマ,NHK『追跡』(内村直也作・永山弘演出)であった。『追跡』は,東京と大阪をまたにかけて暗躍する密輸グループを刑事たちが追跡する物語で,撮影場所に東京のスタジオ,東京・月島海岸,大阪のスタジオ,大阪・道頓堀太左

『追跡』(1955)の撮影風景

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衛門橋の4か所を使い,それぞれの場所を交錯させながら生放送で進行した。

当時のNHKの総力を結集して制作され,スタッフは総勢295人,テレビカメラは11台で,まさに草創期テレビ・ドラマ技術の集大成と言うべき番組であった。結果,『追跡』はテレビ初の芸術祭賞を受賞し,その功績は技術祭賞とも言われることとなった。

作者である内村直也も,当時,次のように述べている。「日本のテレビ・ドラマは,現状においては,完全に機械との闘争だと思います。人間の知恵が創り出したテレビジョンという恐るべき機械を,ぼくらはなんとかして一日も早く使いこなす段階に達しなければなりません。これは技術者だけの問題ではなくて,テレビに関係する演出家,俳優,作家等凡ての人間に課せられた最初の問題です。」7)

そのうえで内村はテレビ技術の基本は「生放送」にあるとし,ナマの技術を徹底的に追求することが必要であることを強調した。

こうした生放送との格闘は『追跡』以後も展開され,例えば翌年の1956年に放送されたNHK『どたんば』(菊島隆三作・永山弘演出)や,1957年に放送されたKRT『人命』(キノトール作・石川甫演出)などへと引き継がれていく。

これらテレビの機械的な技術の探求が一定の成果を収めるようになってようやく,ドラマに関する言説(ドラマ論)が登場するようになった。

その最も代表的なものが,内村直也の『テレビ・ドラマ入門』(1957)で,ここで内村はテレビ・ドラマには他芸術のドラマと異なる4つの制限があるとし,第一に「時間の制限」,第二に「場数の制限」,第三に「俳優の人数の制限」,第四に「継続的であることの制限(その場で編集することができない制限)」であると指

摘した 8)。そして,こうしたテレビ独自の制約のなかでのテレビ・ドラマの書き方,演出方法,演技方法を指南し,より具体的には場面転換,音響効果,フラッシュ・バック,カメラ操作などに言及した。

このような内村による数少ない草創期のドラマ論は,テレビ・ドラマ表現の核心を突くものであったが,まだドラマ制作のための「技術論」の枠を出るものではなかった。それは日本のテレビ・ドラマの始まりにおいて「機械技術の追求」がまず先行し,いかにテレビという新しい技術を飼い慣らしてその技術の自由と不自由を見極めるかといったことに焦点が置かれていたため,それに付随するドラマ論もまだ技術論議を超えることができなかったからである。

しかし,こうした草創期テレビ・ドラマにおける「機械技術の追求」は,VTR(ビデオ・テープ・レコーダー)の登場によってドラマの「内容の追求」として表れるようになり9),それが本格的なドラマ論の隆盛を促していくことになる。その最大の契機となったのが「社会派ドラマ」としてその名を刻む,KRT『私は貝になりたい』の登場であった。

1958年10月31日に放送された『私は貝になりたい』(橋本忍作・岡本愛彦演出)は,ほとんど神格化されたテレビ・ドラマである。「この作品を期して,日本のテレビは学生から社会人になった」10)とか,「テレビ・ドラマがはじめて電気紙芝居から大人の鑑賞にたえられるドラマになった」11)などと評され,脚本,演出,演技,技術,その他あらゆる面で優れた出来ばえが認められ,独走で同年度の芸術祭賞を受賞した 12)。今日に至るまで,日本のテレビ・ドラマ史のなかで語られないことはない。

物語は,高松で小さな理髪店を営む清水豊

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松(フランキー堺)が戦時中に上官の命令で米軍の捕虜をやむなく刺殺したことをきっかけに,終戦後,米軍MPに連行され,軍事裁判にかけられた後,有罪判決が出て死刑となるまでの悲劇を描いたものである。

米軍に連行されるまでの33分間が VTR,軍事裁判からラストまでの残り1時間が生放送で制作され,一切のCMによる中断がないまま放送が行なわれた。放送後は新聞の投書欄などで反響が相次ぎ,「長女と二人,初めから終りまで泣いてしまいました」とか,「最後に静かに階段を力なくのぼってゆく彼は,当時の日本全部のやり切れない感情をよくあらわしていた」などと言われ 13),『私は貝になりたくない』という中学生からの投書 14)も話題となった。

これらの反響の大きさは,未解決としての戦争責任問題を浮き彫りにしただけでなく,テレビの機械的な技術面がある程度成熟し,テレビ・ドラマが内容面を重視した「社会派ドラマ」へと脱皮しつつあることを意味した。そして何よりも,視聴者たちも巻き込んでドラマの内容に意見する“ドラマ論評”が開花したことを宣言するものであった。

こうしてドラマ論は,技術論の枠を超えて本格化し始めることになったのである。

3.前衛としてのテレビ・ドラマ

(1)映画への対抗意識『私は貝になりたい』が放送された1958年頃

を契機として,テレビについて語るさまざまな論客たちが登場するようになった。彼らは評論家,演出家などで,みなが一様に「テレビ的特性とは何か」について明らかにしようとした。

まず,その代表的な論客として挙げられるのが,佐々木基一(評論家)である。佐々木は著書『テレビ芸術』(1959)のなかで,大衆芸術の手段としてのテレビの可能性を追究した 15)。佐々木によれば,テレビ芸術の成立を考えるうえで,2つのテレビ的特性を考慮に入れる必要があり,それは第一に「再現機能の独自性」,第二に「鑑賞方法の特色」であるとした。

つまり,テレビには映像と音の伝達の同時性(いわゆる生放送)に第一の特徴があって,そうした電波による再現機能にこそ映画や演劇にはない現実感や迫真性があるとした。そしてテレビには日常のなかで見物をするという第二の特徴もあり,ブラウン管と現実を媒介する解説者を通して鑑賞する独自の形式があると主張した。こうして佐々木は,日常生活における刹那的芸術に,テレビの本質を読み解いたのである。

一方,佐々木と全く異なる意見だったのが,飯島正(映画評論家)である。飯島は映画もテレビも「スクリーン上のイメージ」であることに変わりはないとし,テレビを「映画の一種」として捉える視点を主張した 16)。いわゆる〈テレビ=映画説〉である。飯島によれば,視聴者はナマだろうが,フィルムだろうが区別することはできない。そのため,映像の本質論を考えればテレビも映画も同種のメディアであるのだ

この画像はありません。

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が,ここに「同時性」を付け加えようとしたところに,テレビ論の混乱があったという。「テレビが映画の一種であり,映画とおなじ

く,出発点は複製にすぎないことだけは,最初から自覚すべきなのである。……テレビの同時性の威力に,目つぶしをくわされた……とぼくはおもう。テレビ芸術はこの妄報から一遍はぬけでなければ成就できないと,ぼくは信じる。」17)

こうした佐々木と飯島の違いに対し,岡田晋(映画評論家)はテレビと映画は同じ視覚的媒介であると認めつつも,両者の「質的な違い」を見なければならないと主張した 18)。ここで岡田は「映画は〈絵〉だが,テレビは〈線〉だ」という仮説を立て,映画は光の波をフィルムに定着させる化学的作用だが,テレビは光の波を電波に変える物理的作用であると指摘した。

そのうえでテレビ・ドラマの映像的基礎には,出来上がったものの再現ではなく,現在進行しているものを観察する機能があるべきであるとして,「スタジオ劇」の可能性について言及した。

以上の評論家たちの議論に対し,テレビ・ドラマの演出家たちも独自の考えを展開し,これに応えた。

例えば『私は貝になりたい』を演出した岡本愛彦(演出家)は,昨今の安易な自然主義的傾向のドラマを否定し19),テレビ・ドラマの発想の基盤には確固としたテーマを持ち,それが人々の共感を呼ぶものがなければならないと主張した。そして,そのためには視聴者一人ひとりの心理を対象とし,「視るドラマ」から「感じるドラマ」にならなければならないと述べ,視聴者の心の中を醸成するヒントを与えるドラマを目指すべきだと主張した 20)。そうすることで

「テレビのための新しいモンタージュ理論」が確立されるのだと岡本は言う。「我々は今いちど,全くプリミティブな世界

に帰ってみて,人間のイメージ,心理の最も単純な起点を探ってみる必要があるように思うのだ。考えてみると我々は,巨大なテレビという怪物を前にして,自己疎外まではいかぬにしても,極めて浅薄な事象に拘泥しているように思えてならない。」21)

また,TBS入社前の岡本とNHK大阪でともに活躍した和田勉(演出家)も,独自のテレビ・ドラマ論を展開した。「攻撃の論理」と題するテレビ演出論において和田は,ドラマ・ディレクターのなかでも自由に演出をする〈気分派〉のやり方を否定し,さらに絵コンテ通りに演出をする〈段取り派〉のやり方も否定する22)。

そのうえで自らの演出方法を,あらかじめカット割やカメラ割を決めて絵コンテに従いつつも,あらゆる映画的・演劇的遺産を背負っている演技者たちを〈攻撃〉するものであると規定した。和田はそうしたフレームのなかの演技者との闘いこそが,テレビ・ドラマ演出家の目的であると主張したのであった。

以上に見てきた5人の論客たちの議論をまとめてみれば,「テレビ・スクリーンの小ささ」,「家庭という視聴環境」,「テレビのもつ時間性」,

「スタジオ演出」を主たる論点としていたことが分かる。そして,これらの論点は,つねに映画との対比で語られるテレビ的特性であり,彼らが語る「テレビ的」という言葉の裏には,いつも映画への対抗意識があったことが窺える。

こうして『私は貝になりたい』以後,実作とドラマ論が相互に関係しあいながら,相乗的に展開していくことになった。評論家や演出家による議論から新しい実作のアイディアが生まれ,

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そうして生まれた実験作によってさらに評論の熱がこもるという有機的な循環が起こっていく。

しかし,それゆえにこそ,評論家と演出家の間で意見の対立がしばしば起こるようになり,両者の間で「論争」が行なわれるようになっていったのである。

(2)“お茶の間”芸術論争テレビ・ドラマをめぐる論争は,主に“お茶

の間”への考え方の相違をめぐって,評論家と演出家の間で勃発した。この論争は「“お茶の間”芸術論争」と呼ばれ,テレビ・ドラマ論史には大きく2つの論争がある。

1つ目は,浦松佐美太郎(評論家)と市川崑(映画監督)が1960年の朝日新聞紙上で展開した論争である。当時,芸術祭テレビ部門の審査員をしていた浦松は,1960年12月22日の朝日新聞朝刊に「芸術祭のテレビドラマ―未発酵,腰くだけ」と題する論評を発表した。

ここで浦松は,今年(1960年)の芸術祭参加番組はドングリの背比べで,質が低下したと冒頭で述べた。そして,参加作品のひとつであるNTV『駐車禁止』(市川崑作・演出)は力みすぎており,「作者がふだんから十分に考え抜いてもしないこのような大きな問題を,急に思いついて,しかもそれをテレビドラマの問題として正面から取り組もうとするのは,一体どうしたことなのだろうか。」23)と酷評した。

そのうえで,芸術祭だからと言って急に大問題に取り組む必要はなく,誰が見ても楽しめる作品に参加してもらいたいと述べ,テレビは“お茶の間”で家族がそろって見るものだということを忘れずに十分に反省してもらいたいと述べた。

これに対し,『駐車禁止』を演出した市川崑が,1週間後の12月28日朝刊に「テレビドラマ

の今日性」と題する反論を寄せた。ここで市川は浦松の“お茶の間”に対する短絡的な考え方を否定し,批評家の役割について提言をした。「テレビを茶の間の単純娯楽ときめつけず,

テレビの持っている現代的本質と将来についてテレビ作家たちが手さぐりで求めている将来の方向を積極的に理解されることを批評家に求めたいのであります。」24)

その後,12月31日朝刊に浦松が「テレビドラマのあり方―市川崑氏へのお答え」を再び寄稿し,市川の言葉からはテレビ・ドラマの視聴者層からある特定の層(例えば老人)を疎外しようとする考え方があると,再度反論し,この論争は収束した 25)。

一方,2つ目の論争も,この浦松‐市川論争と問題の構図は同じである。2つ目は,森本哲郎(評論家)と和田勉が1960年に『放送ドラマ』誌上で展開した論争である。

この論争ではまず森本が,和田演出のドラマNHK『日本の日蝕』(安部公房作・和田勉演出)を酷評したことから始まった 26)。森本は『日本の日蝕』では演出が妙に力みすぎていたのが逆効果で,クローズ・アップの乱用,意味ありげなショットの過剰が,物語全体を曖昧にさせたと述べた。

『日本の日蝕』(1959)

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そして,そのような手法が著しくリアリティを損ね,ドラマの展開を邪魔していたとし,「平凡なリアリティこそテレビ・ドラマの最大の武器だ」と結論づけた。

これに対し和田は次号に「批評家を批評しなければならない」と題する反論を掲載した 27)。和田は森本の「平凡なリアリティこそテレビ・ドラマの最大の武器だ」とする考えは危険であり,そもそもテレビ・ドラマの様式はまだそのように確定されておらず,「茶の間で見る」ことと,「平凡なリアリティがある」ことはまだ直結した話ではないため,あまりにも森本の考えは断定的すぎ,安易な規定に囚われていると述べた。

そして和田はテレビ・ドラマは「立ったりすわったり」して見るものではなく,一つの作品として観賞するものであると主張した。「目下のテレビ・ドラマにとって最も必要

なことは,先ずそれを一個の作・ ・

品として受けとり,批評するということ,そのことがこのいま新しく生まれたばかしの芸術ジャンルの芸・ ・ ・ ・ ・ ・

術としての未来の可能性のために,はるかに大切で重要である。」28)

その後,この論争は新たに木村民六(評論家)が加わって和田に「何故正座して視なくてはいけないのですか」と反論し 29),森本も和田に再度反論 30),そして和田は木村に反論 31)することで,この論争は終結した。

以上の2つの論争は,“お茶の間”に対する考え方をめぐる衝突であった。基本的に評論家たちは“お茶の間”に「娯楽性」を求め,一方で演出家たちは“お茶の間”に「実験性・前衛性」を求めた。

評論家たちがなぜ“お茶の間”に「娯楽性」を求めたのかと言えば,おそらくテレビ草創期の加藤秀俊による同様の議論 32)に影響を受け

たものと思われる。テレビを見る行為も,テレビの内容も,その本質は「日常性」にあるとした加藤の議論は,しばしば当時の評論の参照点となっていた。

しかし,演出家たちはこれを強く拒否し,とくに和田勉は「お茶の間芸術」が一種の殺し文句として使われていることに疑問を投げかけ,テレビ・ドラマはそうした「日常性」を破壊することに意義があると主張した 33)。それゆえにこそ,和田は彼特有の〈クローズ・アップ〉という手法でもってして,“お茶の間”の日常性を破壊することを試み続けていくことになったのである。

(3)芸術祭という文化装置和田勉や市川崑は,なぜこれほどまでにテ

レビ・ドラマの実験性や前衛性にこだわったのだろうか。そして,なぜ評論家たちと対立をしたのだろうか。そこに深く関わっていたのが,文化庁主催の「芸術祭」という存在であった。

初期のテレビ・ドラマ史は,芸術祭参加ドラマを抜きにして語れない。とくに初期の単発ドラマは,各局が芸術祭で競い合うことによって,テレビ的な表現の可能性が飛躍的に引き上げられた。芸術祭は,テレビという新しい媒体の可能性を追求する実験場だった。

敗戦によって荒廃した国民の精神生活に活気を送り,文化国家としての新しい軌道を与えようと1946年に始まった芸術祭に,テレビが初めて参加したのは1954年(第9回)のことである。1954年度の参加作品はわずか2作品に過ぎず,NHK『居留地洋

ラ ン プ

灯』(長谷川伸作・永山弘演出)とNTV『鬼の九衛門』(長粛生作・池田義一演出)であったが,その後急速に増加し,1961年度には31作品が参加した。

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受賞作を中心にその歴史を振り返ってみれば(表参照),前節で見た『追跡』と『どたんば』が,テレビの機械的な技術を駆使したものとして,1955年度と56年度の芸術祭賞をそれぞれ受賞している。1957年度はKRTの3作品『ぶっつけ本番』,『姫重態』,『人命』がまとめて芸術祭賞の受賞となったが,他にも,龍安寺石庭をめぐる悲劇を描いたNHK大阪『石の庭』(有吉佐和子作・和田勉演出)などがテレビ表現の可能性を広げた。

1958年度には『私は貝になりたい』がほぼ満場一致で芸術祭賞をとって話題となり,他にも,テレビ界と映画界の対決を描いたKRT『マンモスタワー』(白坂依志夫作・石川甫演出)が制作

されたことも時代を象徴していた。また,TVO(大阪テレビ)が『写楽の大首』,『芽』,『ビルの谷間』の3本におけるVTR活用が評価され,芸術祭奨励賞を受賞した。

1959年度は,刑事を通して日本の社会悪を描いたKRT『いろはにほへと』(橋本忍作・岡本愛彦演出)が芸術祭賞を受賞し,橋本・岡本コンビは2年連続の受賞となった。また,この年にはレジナルド・ローズ原作のディスカッション・ドラマ,NHK『ある町のある出来事』(江上照彦翻案・梅本重信演出)が放送されたことも特筆すべきことであった。

その後,1960年度には,安保闘争をめぐる不合理と闘う二人の青年を描いたKTV『青春

1955 年度[芸術祭賞] NHK『追跡』

[奨 励 賞] NTB『狐と笛吹き』

1956 年度[芸術祭賞] NHK『どたんば』

[奨 励 賞] NHK 大阪『ひょう六とそばの花』,NTV『人形師忠吉』,KRT『勝利者』

1957 年度[芸術祭賞] KRT『ぶっつけ本番』『姫重態』『人命』

[奨 励 賞] TVO『かんてき長屋』,NHK 大阪『石の庭』,NHK『獣の行方』

1958 年度[芸術祭賞] KRT『私は貝になりたい』

[奨 励 賞] CBC『海の笛』,TVO『ビルの谷間』『芽』『写楽の大首』,CBC『出所』,KRT『マンモスタワー』,NHK『人間動物園』,NHK 大阪『白い墓標』,NHK『父』

1959 年度[芸術祭賞] KRT『いろはにほへと』

[奨 励 賞] NHK『ある町のある出来事』,ABC『雨』,NHK 大阪『平和屋さん』,CBC『壁』,NHK『氷雨』,NHK 大阪『日本の日蝕』,NET『君はいまなにを見つめている』

1960 年度[芸術祭賞] KTV『青春の深き淵より』

[奨 励 賞] KTV『御寮人さん』,フジ『むしけら』,NET『傷痕』,NTV『光子の窓―イグアノドンの卵』,KBC『煉獄』,NHK 大阪『自由への証言』,NTV『駐車禁止』

1961 年度[芸術祭賞] HBC『オロロンの島』,ABC『釜ヶ崎』

[奨 励 賞] TBS『すりかえ』,NTV『縁』,KTV『選挙参謀』,NHK 大阪『おばあちゃんの神さま』,CBC『刑場』

1962 年度

[芸術祭賞] TBS『煙の王様』

[奨 励 賞]TBS『若もの―努の場合』,NHK『おはなはん一代記』,NHK 名古屋『汽車は夜9時に着く』,KTV『一坪の空』,KTV『示談屋』,RKB 毎日『死ぬほど逢いたい』,NHK『 嵐』,THK『道―ある技術者の半生』

1963 年度[芸術祭賞] 該当なし

[奨 励 賞] フジ『夏』,NHK『鋳型』,ABC『幾山河』,HBC『虫は死ね』,TBS『正塚の婆さん』,CBC『子機』,KBC『うぶ声』,TBS『カルテロ・カルロス日本へ飛ぶ』

1964 年度[芸術祭賞] CBC『父と子たち』

[奨 励 賞] NHK『恐山宿坊』,NHK『ふたたび五月が…』,KBC『幾星霜』,RKB 毎日『目撃者』,NHK『約束』

1965 年度[芸術祭賞] RKB 毎日『海より深き』

[奨 励 賞] NTV『二十年目の収穫』,NHK『はらから』,NET『岐路』,TBS『東京見物』

表 芸術祭受賞作品(テレビ・ドラマ)

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の深き淵より』(大島渚作・堀泰男演出)が芸術祭賞を受賞し,1961年度には実際に起こった釜ヶ崎暴動をもとにしたABC『釜ヶ崎』(茂木草介作・山田智也演出),1962年度には工業地帯でいきいきと生きる少年を描いたTBS『煙の王様』(生田直親作・円谷一演出)などがこれに続いた。

こうした芸術祭をめぐっては毎年のように各放送雑誌で特集が組まれ,その年の参加作品や受賞作を論評する座談会が開かれた。これは芸術祭の他の部門と比べてみても,異常なまでの盛り上がり方であった。

なぜテレビ部門ではこれほどまでに盛り上がったのか,その理由はいくつか考えられる。

第一に,放送界に他に賞がなかったため,第二に,NHKと民放が共存する日本の放送界にあって,当時民放が国家的なバックでNHKと芸術的な水準で比べてもらえるシステムが他になかったためである 34)。

そして何よりも,その誕生から「電気紙芝居」と揶揄され,「五社協定」によって映画界から疎外を受けたことへの反抗心が,テレビを芸術祭という祭典に駆り立てたのであった。

4.テレビ芸術の凋落

(1)芸術祭への不信初期テレビ・ドラマ,とくに「単発ドラマ」は

芸術祭によって急速に前進した。毎年,芸術祭で受賞するために新しいテレビ・ドラマの表現が模索され,それで認められることが演出家たちのステータスとなり,ひいてはその放送局の評価へと繋がっていった。

しかし,1960年頃を境に,そうした芸術祭への熱は急に冷め始め,各局の芸術祭参加番

組数は下降を辿っていくことになる。1961年度に参加番組数はピークを迎えた後,年々その数は減少し,テレビ局は次第に芸術祭への関心を薄くしていった(図参照)。

この理由の第一は,制作現場にとって芸術祭への参加が大きな負担となり始めたためである。芸術祭のテレビ部門では当初,10月1日から11月30日までの2 ヶ月間で放送された番組が審査の対象とされていた。そのため,テレビ局はその期間はカメラもスタジオもスタッフも,ほとんど芸術祭参加番組のために精力を注ぎ,優先的に制作を行なっていた。しかしその結果,そのほかの通常番組の制作条件が悪化し,全体的な番組の質的低下を招いてしまっていると指摘された 36)。放送局からすると,芸術祭に参加することそのものに大きな負荷がかかるようになってしまったのである。

そして理由の第二に,視聴者にとっても芸術祭参加番組への関心が薄くなってしまったことが挙げられる。芸術祭参加番組のなかには,視聴者の気持ちを無視した前衛的な作品が少なからずあった。芸術祭のシーズンになると急

図 芸術祭参加作品(テレビ・ドラマ)の推移 35)

1970 年1969 年1968 年1967 年1966 年1965 年1964 年1963 年1962 年1961 年1960 年1959 年1958 年1957 年1956 年年 19551954 年19541955195619571958195919601961196219631964196519661967196819691970年

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にテレビ・ドラマは純文学的になり,その内容は暗く,視聴者にとって話の筋が分かりにくいものが多くなった。これは『私は貝になりたい』以後,社会派ドラマが審査員受けするようだという制作者たちの下心によるものが大きかったが,視聴者のほうもそうした芸術祭参加番組を喜んで見る状況ではなくなっていったのである 37)。

そして理由の第三に,これが最大の理由と考えられるが,ドラマ制作者たちの間で芸術祭への不信が起こったことが挙げられる。年を追うごとに芸術祭での「受賞」が重視されるようになり,その結果,審査側の大きすぎる責任と権威が疑問視されるようになった。

そもそも芸術祭は選定基準も曖昧で明確な受賞理由が示されず,また,審査員の多くは映画評論家で構成され,テレビ批評家を自認していない人もいた。そればかりか,そのことを免罪符にする審査員もおり,さらに不信感が強まって審査方法論議が展開された。なかでもテレビ部門の審査員を務めた荻昌弘は,自戒も込めて次のように言った。「もしいま,日本のテレビがあやまちの少な

い前進をねがうならば,―もし今後,芸術祭テレビ作品がその努力と成果に見合う評価を与えられようとするならば,ただちにテレビ界は,真に職業人としての責任と権威をはたらかせるだけの専門テレビ批評家を,真剣な尊敬で養成すべきである。そして,その発言を尊重し,かつ,その発言と格闘すべきである。」38)

のちに文化庁は芸術祭参加の条件を緩め,再放送番組も参加可能としたり,受賞理由を明示したりなどの対応を行なったが,芸術祭全体への不信感やマンネリズムを払拭することはできず,芸術祭参加番組は減少の一途を辿っ

ていくこととなった。

(2)産業と芸術の矛盾芸術祭参加番組の減少とともに,テレビ芸

術論も衰退していった。1961年には加藤守雄(評論家)が「芸術は邪魔だ」と題する論考を掲載し 39),1962年にはかつてテレビ芸術論を標榜していた佐々木基一でさえも「『芸術』の消滅」と題する論考を掲載した40)。

ここで佐々木は「わたしは二年まえに『テレビ芸術』と題する本を出したが,いまではテレビに芸術という語をつけたことを,いささかくやんでいる」と述べ,「テレビは芸術づいてはいけない,というのがわたしの考えである。そして,テレビが万一,芸術づくならば,おそらく,写真や映画が芸術づいたときよりも,もっと早く大衆に見すてられるだろうし,自分で自分を滅ぼすことになるだろうと思える。」41)と,以前とは真逆の主張を行なった。

また,同時に,演出家たちの論議も急速に衰退していった。例えば和田勉は「試みの時代は終った」という文章を『テレビドラマ』誌上に寄せ,自らの作品を解説しつつ,ドラマ制作において「凝る」ということがナンセンスのように思えてきたと述べて,次のように結んだ。「そうして私は,以上の小論すべてを通して,

これらの〈試み・形式・状況〉が,もうすべて,〈実験の時代〉では〈ない〉のだ,ということをいっておこう。少くとも,今後テレビドラマは,〈実験〉という言葉を,口にしてはいけない。」 42)

そして1963年に,江上照彦(評論家)が「凋落するテレビ芸術」という連載 43)を『キネマ旬報』誌上に掲載するに至って,テレビ芸術論は完全にその姿を消した。

なぜテレビ芸術は成立しなかったのか,そし

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て,なぜ佐々木基一の心境が変化し,和田勉をして「試みの時代は終った」と言わしめたのか。その理由を探るには,テレビが「文化産業」であるという大前提をもう一度思い起こさなければならない。

かつて島田厚(20世紀研究所員)は,「テレビ芸術の基礎」という論考を『思想』(1958年11月号)に寄せている 44)。ここで島田はテレビ芸術を考えるにあたって,まず母胎となるテレビジョンが「近代産業の一形態」であることを理解しなければならないと述べ,「視聴率を落とさないための配慮は,テレビ芸術家に課せられた絶対条件である」と主張した。

島田によれば,「芸術」という言葉には何か秘教的な響きが含まれているが,そもそも「産業化と機械化の前提を回避して,テレビ芸術は成りたちえない。」45)

したがって,島田の議論を敷衍させれば,1960年代前半になってテレビ芸術が凋落したのは,テレビ受信契約者数が1,000万人を超えていくなかで急速に普及していくテレビジョンの「産業芸術としての諸条件」に対応しきれなくなっていったためである。島田の論考はすでに,そうしたテレビ芸術の凋落を予告していたと言える。

こうしたテレビ産業とテレビ芸術の「矛盾」に揺れた象徴的な出来事が,岡本愛彦のフリー宣言(1963年)であった。岡本はそれまで勤めていたTBSを退社し,フリーの演出家としてその道を歩むことを決断した。そこには,岡本なりの組織に対する懐疑と不満があり,岡本は組織を去るにあたり次のように述べた。「極言すると,商業局の中でアカデミックな

ドラマ論をはく人が白眼視され,優れた演出家が常識的商業主義的な微温派演出家の風下

に立たされ,局も又それを要求しているかに見えます。然し,テレビ放送の在るべき,そして将来果すべき文明の進化への使命を考えるとき,日本のテレビ演出家がその様な微温湯の中で疎外されて行くことは悲しいことです。」46)

『私は貝になりたい』の異常なまでの反響と,それによって冠せられた演出家への名誉が岡本愛彦の第一の不幸とするならば,続く『いろはにほへと』での連続受賞が岡本愛彦の第二の不幸となったと言われた47)。岡本は芸術祭という祭典に振り回され,そしてテレビという産業機構に順応できなくなり,放送局から去っていかざるを得なくなったのである。これはある意味で,日本テレビ・ドラマ史の必然と呼べる出来事であった。

その後,テレビ産業が大型化するなかでドラマ制作の管理化も加わり48),実作に影響を及ぼすようなドラマ論は完全に消滅した。

こうして昭和30年代前半における「単発ドラマ」全盛の時代は終り,昭和30年代後半から40年代に入ると,家族そろって見る,明るく楽しい「連続ドラマ」が隆盛していくようになった。これは,テレビ作家や評論家たちがドラマの可能性を信じた〈実験の時代〉が終焉を迎え,番組内容も平均値が求められる〈安定の時代〉へとテレビ・ドラマが全面的に移行したことを意味していた49)。そして,ドラマ論の停滞とともに立ち現れたのが,娯楽の場としての“お茶の間”の復権であった。

5.連続ドラマ,ホームドラマの隆盛

(1)アメリカ家族劇からの発展単発ドラマ制作の暗転とともに,連続ドラマ

の隆盛を迎えることになった。それは大衆化し

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ていくテレビ視聴者に迎合せざるを得なくなった,テレビ・ドラマの一つの帰結でもあった。

もともと日本の「連続ドラマ」の源流には,テレビ草創期におけるアメリカテレビ映画の輸入があったことを忘れてはならない。アメリカからのテレビ映画の大量輸入が,次節で見る日本製のホームドラマの発展の基盤となったからである。

日本で初めて外国製テレビ映画が放送されたのは,1956年4月にKRTが 放 送した『カウボーイGメン』である。同年にはこの他にも11本の外国製テレビ映画が放送され,例えば

『口笛を吹く男』(NHK),『名犬リンチンチン』(NTV),『スーパーマン』(KRT)などが人気を呼んだ。

1957年には29本に増え(すべてアメリカ製),例えば『アイ・ラブ・ルーシー』(NHK),『ヒッチコック劇場』(NTV),『名犬ラッシー』(KRT)などが放送された。この頃からアメリカ製の

「シチュエーション・コメディ」が人気を博すようになる。

その後も外国製テレビ映画は衰えを見せることなく,1958年に20本(うち18本がアメリカ製),1959年に57本(うち52本がアメリカ製),1960年に54本(うち49本がアメリカ製)が日本で放送された。これら外国製テレビ映画の盛衰については,乾直明 50)による膨大な記述があるので詳しくは割愛するが,以後,外国製テレビ映画は1960年代半ば頃までその勢いを保っていくこととなった。

外国製テレビ映画,とくにアメリカ製テレビ映画がなぜこれほどまで氾濫したのかと言えば 51),第一に,急激に誕生し全国に拡散した日本のテレビ局の,自主的な供給能力が需要に追いつかなかったためである。とくに新規参

入のテレビ局にとって,アメリカ製テレビ映画は番組編成を助ける貴重な存在であった。第二に,アメリカの経済的優位性が,優良なテレビ映画を相対的安価で放出し得る能力を有していたから,そして第三に,日本製テレビ映画よりもアメリカテレビ映画のほうが面白く巧みに作られていたからである。

しかし,なかでも重要だったのが,戦後日本人のアメリカに対する心理的接近と,憧憬という要素があったためだろう。

アメリカのテレビ映画のなかでも西部劇とともに人気を博していたのが,アメリカ製のホームドラマであった。『パパは何でも知っている』

(NTV),『うちのママは世界一』(フジ),『ビーバーちゃん』(NTV),『陽気なネルソン』(NHK)などに代表されるアメリカ製ホームドラマは日本でも根強い人気で,そこで描かれる家族は,決まって仲が良く,しっかりもののパパ,家庭を取り仕切るママ,すこしませた子供たちによって構成されていた。「1950年代半ば,テレビは理想化された無

傷のアメリカの,理想化された無菌状態の素晴らしき家庭の姿を描き出していた。そこには経済危機も,階級間の断絶や怨嗟も,民族間の緊張も存在しなかった。たしかに帰化したアメリカ人や少数民族の人々が登場することもあったが,それはごく稀でしかなかった。」52)

このようなアメリカ民主主義に根ざした明るく楽しい中流家庭の生活は,新しい家庭のモデルとして日本に受容されていく。敗戦後の日本にとって,「家族の民主化」が急務であったが,そうした家父長家族から夫婦家族へと転換を迫る一翼を担ったのが,アメリカ製ホームドラマであった。テレビ映画によって日本人は初めて今まで知らなかったアメリカ的生活の内

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側を見たのである。こうして,アメリカの理想化されたホーム像

が,日本の連続ドラマやホームドラマとして引き継がれていくことになった。

(2)日本製ホームドラマの神話近代的個人主義を土台にして,個我の主張

と相互の尊重を基本とするアメリカ製のホームドラマを継承しつつ,日本製のホームドラマは発展した。そもそもホームドラマという英語は存在せず,近代的な感覚を日本人の心に引き起こすことを期待した和製英語独特の響きが,アメリカへの憧憬を示していた。

もっとも,草創期の日本の連続ドラマは,ホームドラマではなく,サスペンスもの(事件・捜査もの)が流行した。例えば,素人探偵のカメラマン日真名進介(久松保夫)を描いたKRT

『日真名氏飛び出す』(1955-62)や,警察庁の全面協力のもと実際の事件をドラマ化したNTV『ダイアル110 番』(1957-64),さまざまな事件を追う新聞記者を描いたNHK『事件記者』

(1958-66)などがその代表作である。これは当時,まだテレビが街頭や喫茶店で

見られることが多く,人を引きつけなければならないという制約があったため,話の筋が続くものよりも,毎回,事件の発生から推理,犯人の逮捕まで「決まったパターン」で繰り返されるものが好まれたからである。

その後,テレビが“お茶の間”に入り込むようになってから,ようやく日本製のホームドラマが流行するようになる。

例えばその代表的な番組,NHK『バス通り裏』(1958-63)は,月曜から金曜の午後7時のニュース後の15分間の帯ドラマとして放送され,物語は高校教師と美容院の一家の日常を

淡 と々描くものであった。他にも,乙羽信子と千秋実が主演して話題

を呼んだNTV『ママちょっと来て』(1959-63)を皮切りに,KRT日曜劇場『カミさんと私』

(1959),NET『水道完備ガス見込』(1960-63),フジ『台風家族』(1960-64),TBS『咲子さんちょっと』(1961-63)など,挙げればきりがないほど,日本製ホームドラマは1960年代前半を中心に流行した。

これらのホームドラマに共通した特徴は,アメリカ製ホームドラマの形式を下敷きにしつつ,日常的な家族の風俗を平凡に描写していたことである。毎日,あるいは毎週,同じ顔ぶれが

“お茶の間”のテレビに顔を見せる。これは好むと好まざるとにかかわらず,放送各局が熾烈な視聴率競争に巻き込まれ,視聴者の最大公約数を追求して生まれた一つの形であった。

数少ない本格的なホームドラマ論の一つとして,瓜生忠夫(映画評論家)による議論が挙げられる。瓜生は『ママちょっと来て』を例にして,こうした日本製ホームドラマの特徴を次のように規定した 53)。第一に,生活空間が非常に限定されていて,社会的に拡がりがないこと。第二に,人間的交流の範囲が限られていること。そして第三に,激しく動いている現実が,具体的にはほとんど反映されず,一家が営んでいる生活においては時間が停滞している(歴史的発展がない)こと,つまり1年前も今も生活の内容には変化がないこと。

したがって,この瓜生の議論を踏まえれば,日本製ホームドラマの基本的なパターンとして2つの〈神話〉を読み解くことができる54)。

1つ目は,家族に何らかの問題が起きても,毎回,物語の終盤には必ず安定へと向かう〈安定の神話〉。2つ目は,家庭が外部の社会から

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自立した,自己完結的な閉じられた体系として描かれる〈自足の神話〉である。日本製ホームドラマでは,この2つの神話をもとにして,登場人物たちが視聴者と同じ生活水準の体験を繰り広げ,「井戸端会議の視覚化」55)としての機能を果たしていった。

ゆえに『バス通り裏』の作者である須藤出穂は次のように言うこととなる。「父親が女を作って出奔したり,息子が犯罪

を犯かして少年院に送られるというような設定は,論外です。極貧もいけない,デラックスも困る。もっとも多くの人々に親しまれるには,丁度いい位の生活程度,ぜいたくは出来ないけれども,テレビぐらいは買えるというような家庭が必要になってきます。そうすると,所謂中間層というのが,浮んで来ます。」56)

こうしたホームドラマの神話性に対し,多くのドラマ論は当初から,批判的で感情的なものが多く占めた。これらは主に,実験を試みようとするドラマ作家や演出家から寄せられ,主義主張のない微温湯番組としてホームドラマは強い批判に晒された。

例えば,飯沢匡(劇作家)は「テレビ・ホームドラマ絶望論」57)という論考を書いて日本のホームドラマの現状を酷評し,また和田勉も

「実際のはなし,私は『ホームドラマ』ときくと,身のふるえを感じるのである。ホームドラマ・アレルギーとでもいうか,恥も外聞もわきまえぬこの正

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

体不明な物語の主こそ,人間の恥部をさらけ出してしまっている。」58)と書き記した。

これらの批判は「家族」と「劇」という相反する概念の結びつきからくる,ホームドラマの「二律背反」59)への難詰であった。

しかし,こうしたホームドラマ論も一時的な批判に過ぎず,以前のような実作と有機的に繋がるような循環はすでにない。連続ドラマやホームドラマの隆盛とともにドラマ論はその効力を失い,以後,制作の事後的な寸評にすぎない存在となっていったのである。

(3)神話の崩壊〈安定の神話〉と〈自足の神話〉という2つの

神話によって支えられた日本製ホームドラマのその後の展開について,本稿の主旨からはやや逸れるが,最後に触れていきたい。日本製ホームドラマは,1960年代にいくつかの派生形を生み出していくことになる。

1つはNHK「連続テレビ小説」の誕生である。「『バス通り裏』がなかったら,『テレビ小説』は生まれて来なかった」60)と創設者の岩崎修が語るように,「連続テレビ小説」はそれまでの帯ドラマの実績があったからこそ,その形式を模索することができた。第1回の『娘と私』

(1961)では,この帯ドラマの形式に,一人称の独白(ナレーション)を合体させることによって「テレビ小説」という新しい形を成立させた。以後,『あしたの風』(1962),『あかつき』(1963),

『うず潮』(1964),『たまゆら』(1965),『おはなはん』(1966)など,時代を重ねるにしたがって,オリジナルの脚本,女性の“一代記もの”,

『バス通り裏』(1958-63)

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農村や地方からの上京物語,無名新人の起用,といった今日に至る「連続テレビ小説」独自のスタイルを確立していくこととなった 61)。

2つ目は「時代劇」の隆盛である。とくに大型時代劇(大河ドラマ)は,視聴者が質的にも量的にも高い娯楽性を求めるようになったことを受け,誕生した。1月から12月という暦年編成で,豪華キャストを出演させたことから「札束番組」と当初から揶揄されながらも,第1回

『花の生涯』(1963)を皮切りに,『赤穂浪士』(1964),『太閤記』(1965),『源義経』(1966)と続いていく大型時代劇は,すでに確定した歴史的事件を題材にして,“わかった”結末を前提にドラマを構成していくという意味において,ホームドラマの神話性を引き継ぐものであった 62)。

そして1960年代末になると,ホームドラマの神話は崩壊した。次々に〈安定〉と〈自足〉から逸脱した,変則的な連続ドラマが制作され,それらが広く視聴者に受け入れられていくようになったのである。

例えば,TBS『七人の孫』(1964-65),TBS『ただいま11人』(1964-67)を皮切りにドラマでは

“大家族化”が進行し,ABC『月火水木金金金』(1969)では父親の不在,TBS『肝っ玉かあさん』(1968-72)では夫の不在といった“家族の不在”の物語が登場するようになる。この流れは『肝っ玉かあさん』の舞台のソバ屋から,TBS『時間ですよ』(1970)のフロ屋へと展開し,家庭空間が特殊化するようになって,向田邦子

(脚本家)・久世光彦(演出家)コンビによるホームコメディへと発展した。

そして極めつけは,母の浮気や姉の中絶などで家族がバラバラとなって,多摩川の氾濫によってマイホームが決壊するTBS『岸辺のアル

バム』(1977)が放送されるに至ってホームドラマは決定的な変化を迎えることとなり,娘の非行を扱ったTBS『積木くずし』(1983)などとともに“家族の崩壊”が描かれるようになった。こうして1970年代末頃から,今まで理想化されてきたホーム像が消滅した。これに伴い浮上してきたのが,“ともだち家族”の出現であり,TBS『金曜日の妻たちへ』(1983)ではそうした郊外の“家族”物語が描かれた。

こうして,当初は外部がないことを指摘されていた「ホーム」は,絶えざる外部からの侵入を受けることになった。その結果,2つの「ホーム」の間にも絶えざる相互関係が生じることとなり,まず,ブラウン管のなかのホームが,現実のホームの側から問いを受けることとなる。そして逆に,現実のホームもまた,ブラウン管のなかのホームを準拠枠として,不断に問いの対象として晒されることとなったのである 63)。

6.おわりに―新たなドラマ論へ

以上,テレビ・ドラマ史に沿いながら,初期のドラマ論を読み返してきた。本稿での流れをもう一度簡単に繰り返せば,①草創期のドラマ論は邁進するテレビ技術のあくまでも付随的なものだったが,②『私は貝になりたい』の放送を契機として,次第に本格的なドラマ論が登場し,評論家と演出家の間で“お茶の間”芸術論争が勃発するなど,実作とドラマ論は相互に循環する関係性となった。しかしその後,③芸術祭への不信とテレビの急速な普及とともにドラマ論は衰退することになり,④連続ドラマ,ホームドラマが隆盛するにあたってドラマ論は完全に停滞し,ほとんどが事後的な寸評となった。

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これらの初期ドラマ論の変遷が意味しているのは,街頭や喫茶店から家庭へとテレビの視聴形態が変化していくにあたって浮上した,

“お茶の間”という時間と空間をめぐる葛藤の歴史であった。初期のテレビ・ドラマでは,“お茶の間”にとって「分かるドラマ」か「分からないドラマ」かが最大の争点であった。

これは言いかえれば,“お茶の間”に対する共通認識の欠如から生まれた初期ドラマ論の苦闘でもあった。実相寺昭雄(演出家)はこの現象をして,「テレビにおける奇妙な暗黙」と言った 64)。実相寺はテレビ・ドラマは死産児であると述べ,それは大衆というものを固定的なイメージでとらえてしまう制作側と,実際は不定形な視聴者との間の溝から生まれる,

「暗黙」の結果であると悲観した。このように考えれば,初期ドラマ論とは,それぞれの論客たちが“お茶の間”の「幻影」を追い求めた葛藤の軌跡であったと言えなくもない。

しかし,同時にその軌跡は,ドラマ制作とつねに影響関係にあることを目指した奮闘の軌跡であったことを忘れてはならない。初期ドラマ論は,評論家と演出家たちによる,未来のテレビ・ドラマ制作のための熱き尽力の賜物であった。

そしてこれは“お茶の間”からさらに視聴形態が変化しつつある現代にこそ,もう一度問い直さなければならないドラマ論の在り方である。デジタル録画機やインターネット(SNS)の普及によるテレビ・メディアの変化が指摘されている今,次世代の新しい視聴形態にどう向き合うべきかが問われている。

かつて“お茶の間”という新しい視聴形態をめぐって多くの議論が戦わされたように,今日においても,そうしたテレビ論議が展開されな

ければならない。そして,現代の視聴者とはこういうものだとする固定的なイメージをそこに付与するのではなく,あらゆる視聴の可能性を含んだドラマ論を今後模索していくべきである。

初期ドラマ論が現代に問いかけているのは,そうしたテレビの視聴形態が変化していくにあたっての,実作と相互に影響関係にあることを目指すドラマ批評の構築であり,他にあり得るかもしれないテレビ・メディアの可能性への飽くなき探求である。

(まつやま ひであき)

※ 付記 本稿は,初期テレビ論に関する共同プロジェクトに筆者が外部研究者として参画し,執筆を行なったものである。

注: 1) 鳥山拡(1986)『日本テレビドラマ史』映人社 2) 佐怒賀三夫(1978)『テレビドラマ史―人と

映像』日本放送出版協会 3) 和田矩衛(1976-1978)「 テレビドラマ発 達史

1-26」『月刊民放』1976 年 5 月号~ 1978 年 2 月号

4) 平原日出夫(1985)「抗議としてのドラマ―昭和 30 年代テレビドラマの世界」『NHK 放送文化調査研究年報』第 30 集

5) 本稿で対象としたのは,(1)『テレビドラマ』,『放送ドラマ』,『放送文化』,『調査情報』,『CBCレポート』,『YTV REPORT』,『月刊 日本テレビ』,『放送朝日』,『季刊 テレビ研究』の9つの放送業界誌および『思想』,『キネマ旬報』の2つの専門誌,(2)演出家や評論家らの書籍,

(3)新聞,に掲載されたテレビ・ドラマ論である。

6) 伊馬春部(1962)「てれくさばなし」『テレビドラマ』9 月号,p.82

7) 内村直也(1956)「作者の言葉」(特集 「追跡」を追跡する)『放送文化』2 月号,p.24

8) 内村直也(1957)『テレビ・ドラマ入門』宝文館

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9) VTR の第 1 号機が初めて誕生したのは 1956 年4 月のアメリカである。そもそもアメリカでは,広い国土からくる時差克服のためのテープ録画と再生として VTR は使われていた。一方,日本では VTR はドラマ表現の工夫のために活用され,日本初の VTR ドラマ,大阪テレビ(現朝日放送)『ちんどん屋の天使』(1958)では,二人のちんどん屋夫婦(ミヤコ蝶々,南都雄二)を放送前日にテープ撮りし,当日はそこに生放送で天使になった二人を登場させる工夫を行なった。このように,日本の初期テレビドラマでは VTR は「内容の追求」として主に利用された。(「特集 ヴィデオ・テープ・レコーダー実用化の現状とその効果」『キネマ旬報』8 月下旬号)。

10) 荻昌弘(1959)「三十三年度芸術祭テレビ・ドラマを顧みて」『季刊 テレビ研究』第 2 巻,p.142

11) 岡田晋(1963)「この五年―テレビドラマとテレビドラマ論を中心に」『YTV REPORT』8月号,p.12

12) 大木豊(1959)「審査会始末記」(特集 昭和 33年度芸術祭参加ドラマをめぐって)『キネマ旬報』1 月下旬号

13) 「“私は貝になりたい”―その批評集」『調査情報』1958 年 11 月号

14) 朝日新聞 1958 年 11 月 5 日夕刊 15) 佐々木基一(1959)『テレビ芸術』パトリア書店 16) 飯島正(1958)「テレビのイメエジの特質につ

いて(1)」『季刊 テレビ研究』第 1 巻 17) 飯島(1958),前掲論文,p.9 18) 岡田晋(1959)『壁画からテレビまで―映画

の新しい論理』三笠書房 19) 岡本愛彦(1959a)「テレビ・ドラマの現在点

―主として自然主義ドラマへの自己批判」『キネマ旬報』7 月下旬号

20) 岡本愛彦(1959b)「テレビドラマ―その発想の諸問題について」『季刊 テレビ研究』第 2 巻

21) 岡本(1959b),前掲論文,p.60 22) 和田勉(1959)「テレビ演出論―攻撃の論理

について」『季刊 テレビ研究』第 3 巻 23) 朝日新聞 1960 年 12 月 22 日朝刊 24) 朝日新聞 1960 年 12 月 28 日朝刊 25) なお,その後 1961 年 1 月 15 日朝刊に,並河亮

が「テレビ作家の責任―浦松,市川論争が提

起するもの」と題した論評を載せ,浦松に賛同する立場をとった。

26) 森本哲郎(1959)「日本の日蝕」『放送ドラマ』第 1 巻第 2 号

27) 和田勉(1960a)「批評家を批評しなければならない」『放送ドラマ』第 2 巻第 1 号

28) 和田勉(1960a),前掲論文,p.77 29) 木村民六(1960)「何故正座して視なくてはい

けないのですか」『放送ドラマ』第 2 巻第 2 号 30) 森本哲郎(1960)「「茶の間芸術」の意味」(論争・

「日本の日蝕」をめぐって)『放送ドラマ』第 3巻第 3 号

31) 和田勉(1960b)「あなたもまた,テレビドラマを作っているのです」(論争・「日本の日蝕」をめぐって)『放送ドラマ』第 3 巻第 3 号

32) 加藤秀俊(1958)『テレビ時代』中央公論社 33) 和田勉(1959)「私は貝になりたくない」(特集

テレビ批評確立に対する三つの発言)『キネマ旬報』12 月上旬号

34) 飯島正・内村直也・荻昌弘(1959)「芸術祭を中心にテレビ・ドラマを語る」『放送ドラマ』第 1巻第 1 号

35) 文化庁文化部芸術課編(1976)『芸術祭三十年史 上』文化庁,より作成。

36) 内村直也(1960)「芸術祭テレビはこれでいいか」『放送朝日』2 月号

37) 志賀信夫(1962)「岐路にたつ芸術祭」『テレビドラマ』12 月号

38) 荻昌弘(1962)「芸術論を超えよ―テレビ表現の可能性追究のために」『CBC レポート』2月号

39) 加藤守雄(1961)「芸術は邪魔だ」『月刊 日本テレビ』10 月号

40) 佐々木基一(1962)「『芸術』の消滅」『テレビドラマ』2 月号

41) 佐々木(1962),前掲論文,p.39 42) 和田勉(1960)「試みの時代は終った」『テレビ

ドラマ』9 月号 43) 江上照彦(1963)「凋落するテレビ芸術―テ

レビこの十年の変貌」『キネマ旬報』6 月上旬号~ 7 月上旬号

44) 島田厚(1958)「テレビ芸術の基礎」『思想』11月号

45) 島田(1958),前掲論文,p.234

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46) 岡本愛彦(1963)「岡本氏のフリー宣言をめぐって」『テレビドラマ』6 月号

47) 羽山英作(1960)「岡本愛彦―第一人者の第二の不幸」(テレビ演出研究 2)『キネマ旬報』1 月下旬号

48) 例えば,裁判形式のディスカッション・ドラマNET『判決』(1962-1966)は時事問題を扱うがゆえに脚本の改訂を命じられたり,RKB 毎日

『ひとりっ子』(1962)が自衛隊を否定的に描いたとして防衛庁などからの圧力によって放送中止に追い込まれるなどした。

49) もちろんその後も,佐々木昭一郎演出の NHK『マザー』(1970),『さすらい』(1971)など,優れた「単発ドラマ」が放送され,海外のテレビ祭で受賞するなどした。

50) 乾直明(1990)『外国テレビフィルム盛衰史』晶文社

51) 荻昌弘(1961)「TV 映画を憂う―とくに最近のアメリカ映画の氾濫について」『CBC レポート』9 月号

52) Halberstam, David(1993)the Fift ies , Ballantine Books: New York.(=金子宣子訳

(1997)『ザ・フィフティーズ 下』新潮社),p.121 53) 瓜生忠夫(1959)「ホーム・ドラマと社会性」(特

集 ホーム・ドラマの研究)『放送ドラマ』第 1 号第 3 巻

54) 仲村祥一・津金沢聡広・井上俊・内田明宏・井上宏(1972)『テレビ番組論―見る体験の社会心理史』読売テレビ放送株式会社,p.237

55) 志賀信夫(1965)「ホームドラマの過去と現在」(特集 新しいホームドラマを求めて)『放送文化』6 月号

56) 須藤出穂(1963)「体験的ホーム・ドラマ論」(特集 ホーム・ドラマ研究)『テレビドラマ』7 月号

57) 飯沢匡(1960)「テレビ・ホームドラマ絶望論」(特集 お茶の間劇場の演し物)『放送文化』6 月号

58) 和田勉(1960)「頑張れホームドラマ」(特集 お茶の間劇場の演し物)『放送文化』6 月号,p.16

59) 見田宗介(1968)「テレビドラマの二律背反―テレビのドラマかドラマのテレビか」(特集 連続テレビドラマを考察する)『放送文化』6 月号

60) 岩崎修(1962)「テレビ小説の誕生」(特集 テレビ小説のうら・おもて)『放送文化』7 月号,p.8

61) 牧田徹雄(1977)「一代記・家族・謎・放浪・戦争・死―「テレビ小説」の系譜と視聴率」(特集 朝のテレビ小説・考)『放送文化』5 月号

62) 江藤文夫(1967)「“大”シリーズ論」(特集 長編・大型ドラマの盛況)『YTV REPORT』2 月号

63) 仲村祥一・津金沢聡広・井上俊・内田明宏・井上宏(1972),前掲書,p.240-1

64) 実相寺昭雄(1960)「テレビにおける奇妙な暗黙」『キネマ旬報』11 月下旬号