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マラッカの港と市場 南出 員助 マラッカは、マレー半島が対岸のスマトラ島ともっとも近接した地点に位置している。 14 世紀末期にこの地に海峡通過交易の拠点を営んだのは、スマトラ島南部の王子のパラメスワラ であった。彼を祖とするマラッカ王国の王は8代にわたって君臨したが、1498年にバスコ・ ダ・ガマがアフリカ大陸を回るインド航路を開拓して以来急激に勢力を伸ばしたポルトガルに よって、1511年に王国は滅ぼされてしまった。がっての王宮跡地には西洋式の堅固な要塞が 築かれた。 しかしそれもスマトラ島北端に拠点をおいて西プyイスラム世界との交易を図るアチエ玉国軍 が包囲、侵攻するところとなり、1641年に期に乗じて、弱体化したポルトガルを放逐したの はオランダであった。さらに1795年にはイギリスに占領され、その後一時返還されたが再び イギリス領となり、1957年のマラヤ連邦成立までその支配下にあった。 今日のマラッカには、このような各時代の都市経営の理念が重層している。マラッカのどこ が船着場でどこが交易の場であったのか。叶f街地はどのように拡大していっかのか。それらの 時代的変遷をたどることによって、港と市場が織りなす都市の空間構造を考えてみたい。 1.マラッカの基本文献 ポルトガル占領以前のマラッカ王国の歴史を伝える記録として、トメ・ピレス『東方諸国 記』(生田滋り也上岑夫・加藤栄一・長岡新治郎訳注『トメ・ピレス東方諸国記』大航海時代 叢書V、岩波書店、1966年。以下同書からの引用は〔『東』〕と略す)が著名である。 トメ・ ピレス(Tome Pires)はポルトガル初の中国派遣使節として知られるが、1511年にリスボン を離れインド在住の商館員として着任、翌年にはマラッカに渡り、1515年まで在住した。マ ラッカに関する詳細な記述は、2年半におよぶ現地滞在中に収集した資料丿こもとづいており、 信憑性が高いとされる〔『東』17~19頁〕。 これとほぼ同時期に一一冊にまとめられた王国史が、マレー語で綴られた編著者不明の『マレ ー年代記』(スジャラ・ムラユ=Sejarah Melayu)である。これは、ポルトガルによって放逐 された工党が逃げ延びた先のジョホールで1536年に稿本とされ、その後ポルトガルに流出し たが、1612年に加筆補訂され再び稿本「ラッフルズ写本18号」となって伝わるものである 〔『東』378 ・600 百〕。しかし年代的に先行するはずの『T収方諸国記』にも『マレー年代 記』と一致する内容が多い。したがって、ラッフルズ写本以外の異本や類似の口承伝承等が、 古くから複線的に存在したものと推測される。このように『マレー年代記』はマラッカエ国の 根本史料であるが、構成は必ずしも厳密な史実にもとづくとはいえず、脚色や創作の加わった 文学作品として評価されている一面もある。 他のポルトガル側記録の中では、とりわけエレディア『マラカと南インディアの記述』 〔『東』599・607 百〕が有用である。エレディア(Emanuel Godinho de Eredia)は1563年 にマラッカで生まれ、ゴアで地図官となった。同書に挿入された地図のうち数点は、訳注者の 配慮によって『東方諸国記』にも転載されているが、それらは一見して判るように単なるスケ ッチマップではなく、明らかに地図師としての観察や測量にもとづくと判る貴重な資料である -113

マラッカの港と市場 - InfoLib-DBR(Login)〔『東』599・607 百〕が有用である。エレディア(Emanuel Godinho de Eredia)は1563年 にマラッカで生まれ、ゴアで地図官となった。同書に挿入された地図のうち数点は、訳注者の

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Page 1: マラッカの港と市場 - InfoLib-DBR(Login)〔『東』599・607 百〕が有用である。エレディア(Emanuel Godinho de Eredia)は1563年 にマラッカで生まれ、ゴアで地図官となった。同書に挿入された地図のうち数点は、訳注者の

マラッカの港と市場

                                    南出 員助

 マラッカは、マレー半島が対岸のスマトラ島ともっとも近接した地点に位置している。 14

世紀末期にこの地に海峡通過交易の拠点を営んだのは、スマトラ島南部の王子のパラメスワラ

であった。彼を祖とするマラッカ王国の王は8代にわたって君臨したが、1498年にバスコ・

ダ・ガマがアフリカ大陸を回るインド航路を開拓して以来急激に勢力を伸ばしたポルトガルに

よって、1511年に王国は滅ぼされてしまった。がっての王宮跡地には西洋式の堅固な要塞が

築かれた。

 しかしそれもスマトラ島北端に拠点をおいて西プyイスラム世界との交易を図るアチエ玉国軍

が包囲、侵攻するところとなり、1641年に期に乗じて、弱体化したポルトガルを放逐したの

はオランダであった。さらに1795年にはイギリスに占領され、その後一時返還されたが再び

イギリス領となり、1957年のマラヤ連邦成立までその支配下にあった。

 今日のマラッカには、このような各時代の都市経営の理念が重層している。マラッカのどこ

が船着場でどこが交易の場であったのか。叶f街地はどのように拡大していっかのか。それらの

時代的変遷をたどることによって、港と市場が織りなす都市の空間構造を考えてみたい。

1.マラッカの基本文献

 ポルトガル占領以前のマラッカ王国の歴史を伝える記録として、トメ・ピレス『東方諸国

記』(生田滋り也上岑夫・加藤栄一・長岡新治郎訳注『トメ・ピレス東方諸国記』大航海時代

叢書V、岩波書店、1966年。以下同書からの引用は〔『東』〕と略す)が著名である。 トメ・

ピレス(TomePires)はポルトガル初の中国派遣使節として知られるが、1511年にリスボン

を離れインド在住の商館員として着任、翌年にはマラッカに渡り、1515年まで在住した。マ

ラッカに関する詳細な記述は、2年半におよぶ現地滞在中に収集した資料丿こもとづいており、

信憑性が高いとされる〔『東』17~19頁〕。

 これとほぼ同時期に一一冊にまとめられた王国史が、マレー語で綴られた編著者不明の『マレ

ー年代記』(スジャラ・ムラユ=Sejarah Melayu)である。これは、ポルトガルによって放逐

された工党が逃げ延びた先のジョホールで1536年に稿本とされ、その後ポルトガルに流出し

たが、1612年に加筆補訂され再び稿本「ラッフルズ写本18号」となって伝わるものである

〔『東』378 ・600 百〕。しかし年代的に先行するはずの『T収方諸国記』にも『マレー年代

記』と一致する内容が多い。したがって、ラッフルズ写本以外の異本や類似の口承伝承等が、

古くから複線的に存在したものと推測される。このように『マレー年代記』はマラッカエ国の

根本史料であるが、構成は必ずしも厳密な史実にもとづくとはいえず、脚色や創作の加わった

文学作品として評価されている一面もある。

 他のポルトガル側記録の中では、とりわけエレディア『マラカと南インディアの記述』

〔『東』599・607 百〕が有用である。エレディア(Emanuel Godinho de Eredia)は1563年

にマラッカで生まれ、ゴアで地図官となった。同書に挿入された地図のうち数点は、訳注者の

配慮によって『東方諸国記』にも転載されているが、それらは一見して判るように単なるスケ

ッチマップではなく、明らかに地図師としての観察や測量にもとづくと判る貴重な資料である

                    -113 一

Page 2: マラッカの港と市場 - InfoLib-DBR(Login)〔『東』599・607 百〕が有用である。エレディア(Emanuel Godinho de Eredia)は1563年 にマラッカで生まれ、ゴアで地図官となった。同書に挿入された地図のうち数点は、訳注者の

〔『東』386・434 ・ 442 ・483 ・494頁〕。

 さらに中匡I側の見聞録として、いわゆる鄭和の遠征に通訳官として3回参加した(第1次

=1405~07年、第4次=1413~15年、第7次= 1431~33年)中国人イスラム教徒の馬歓に

よる『淑崖(えいがい)勝覧』(小川博編『中国人の南方見聞録 滅崖勝覧』、吉川弘文館、1998

年。本稿では『東方諸国記』所収の引用文を参照)の詳細な描写が、オランダ占領以前の同時

代的記録として貴重である。

 歴史学者の間ではこれらの史料を分析して、マラッカ王国の政治構造や、当時の中国を頂点

とする東南アジア全体の朝貢体制あるいは流通システムを論じた膨大な研究の蓄積があるが、

本稿ではあくまでマラッカの都市空間の考察に限定したいので、研究史全般にわたる紹介は省

略する。

2.マラッカの地理的位置

 マラッカを解く鍵は、なぜマラッカなのかという問いから始まるであろう。鶴見良行『マラ

ッカ物語』(時事通信社、1981年)によれば、「内陸部特産の商品はなかったから、そこにい

かなければならない特別の場所はなかった。船の停泊できる河口なら、どこでもかまわなかっ

た。‥‥トメ・ピレスのいう『貿易風の始まり終わるところ』ならば、マラッカならずと乱

海峡内ならいくらでもあった](同書123頁)のである。

 東西の季節風がいずれもマラッカの手前で止んでしまうことは、『東方諸国記』のみなら

ず、ポルトガル側の公式年礼記であるバロス(Joao de Barros)の『アジア史』4巻(1552~

1615)にも述べられている。「風はしばしば非常に強いので、〔船は〕マラカのすぐそばまで

到着するが、一一般に風は海峡の途中で、〔マラカに〕到着する前にやんでしまう。‥‥しかし

港に到着するには海流と両岸からの陸風とで充分である。」〔『東』578頁〕

 風が止むと身動きがとれない帆船は、海賊たちにとって格好の餌食であった。しかも海峡の

スマトラ島側ではデルタの発達によって浅瀬が見え隠れしており、外洋航海用の大型帆船はマ

レー半島沿いに進むしかなかった。沿岸の海民を組織したマラッカ王国は海賊を管掌し、安全

に海峡を通過できる見返りとして、寄港と納税を課したのである。したがって工国の経済的基

盤は、内陸の「領土」がもたらす自国内産物にではなく、むしろ「海上」の交易活動そのもの

にあった。まさに多くの歴史学者が唱えるところの「港市国家」の好例であろう。

 この認識はマラッカの都市構造を考える点で重要である。交易品の多くは東方諸国から西へ

向かうものであったから、マラッカはほとんど純然たる中継港(和田久徳「東南アジアの社会

と国家の変貌」『岩波講座世界歴史』13、岩波書店、1971年485頁。弘末雅士『市南アジア

の港肝匪界』、岩波書店、2004年、11頁など)であった。西からの輸入品は「税金」を支払

って市場で売りさばかれた〔『東』462べ

する〔『東』464頁〕だけであったから、個々の積荷を検査する通関業務も不要であった。マ

ラッカの港に陸揚げされて市場に出回ったものは、住民の消費を支える食糧や生活関連物資の

他心各国商人の間で転売される輸入品、あるいは王宮からの下付品などであったと考えられ

る。

 このような港は、輸出用の特産物を産する後背地を持だないばかりか、その町を存続させて

いくために不可欠な食糧や燃料ですら外部輸入に頼ることが多い。それでも、ただ単に水深が

大きい断崖絶壁の地ではなく、緩やかに流れるマラッカ川の河口に面しているというメリット

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は大きかった。初代王パラメスワラは選地にあたって、漁民でもあった海賊集団「セラテ人」

の案内で、マラッカ川の河口からやや遡ったところに「広い野原と良い水がある広い場所」を

発見レ「ブくきな集落をつくるのに適していて、広い畑に稲を植えることができ、果樹を植

え、家畜を飼育することができる」〔『東』385頁〕ことに満足した。良質で豊富な淡水が得ら

れることは港の必須条件であり、米はともかくも、長期保存や安定供給が困難な野菜・果実・

家畜類がある程度自給できたならば、マラッカは「どこでもかまわなかった」どころか、海峡

通過ルートではベストの選地であったといえよう。

3.王国時代の港と交易の場

 マラッカ王ii路代は河口部に船着場が設定されていたが、沖合の大型船とは小さな孵が連絡

にあたったから√大規模な着岸施設は必要なかったと思われる。『滅崖勝覧』は「満刺加国」

の様子を次のように記している。「[:剛曳せて穀薄く、人少かに耕種す。一一大渓有り。河水下流

して王居の前従りして過ぎて海に入る。其の王、渓上に木橋を建立し、上に橋亭二十余回なる

を造る。諸物の売買倶に其の上に在り。‥‥入多く漁を以て業と為レ独本の刳舟を用いて海

に乏び、魚を取る。‥‥花錫は二処の山鳩の錫場あり。‥‥通市交易、皆此の錫を以て行使

す」〔『東』575頁〕。

 この描写からも明らかなように、マラッカ川の左岸(諦と側)には王宮が、右岸(西側)には

商人居住区が営まれ、両地区は明確に区分されていた。そして注目されるのは、両地区を結ぶ

ように河口部に架けられた橋に上屋が設けられ、そこで売買が行われていたという事実であ

る。これは、橋自体が税関を兼ねており、通関業務が優先された後に民間市場へ回されたとい

仙充通過程をも示している。さらに空回的な位置関係にこだわるならば、大型船は橋の下をく

ぐれず、荷物を積んだままの孵が無断で通過することも不可能であったにちがいない。つまり

河口部の橋は、緊急時には遮断して王宮地区への侵入を阻止するといった防御機能だけではな

く、平時にあっても密貿易や不正な取引を防ぐチェックポイントとしての機能を兼ね備えてい

たのである。

 交易品の管理もきわめて厳重であった。「凡そ中国の宝船彼に至らば、則ち柵を立排レ城

垣の如くし、四門に更鼓楼を設く。イ友は則ち鈴を提げて巡警す。内は又重柵を立つること小城

の如し。蓋し庫蔵倉廠を造りご一応の銭糧頓て其の内に在則〔『東』576百〕。単なる保管倉

庫だけではなく、それを何重にも取り巻く横列、さらには物見櫓までもが設置されていたので

ある。これらの諸施設は公的な管理下におかれる左岸側に置かれていたとみるのが自然であろ

う。

 このような橋や倉庫は『東方諸国記』にも登場する。「シャケン・ダルシャー(イスカンダ

ル・ジャーとも、パラメスワラの息子)は上記の山に居を定めて、この国の様式の大変立派な

家を山の頂上に建て、平地には現在徴税大の倉庫のある橋の反対側の所に彼の義父〔のマン

ダリ〕と約三百人の住民とを住まわせた」〔『東』393百〕。この文脈で読めば「徴税人の倉

庫」は左岸に、「約三百人の住民」は右岸にあたるであろう。文中の「現在」はポルトガル占

領後であるが、すでに王国時代から「徴税人の倉庫」は左岸にあったとみてよいのではないだ

ろうか。なお、当初300人であった町の人口は3年後には2,000人になり、パラメスワラが

死んでシャケン・ダルシャーが即位した時には6,000人に達していた〔『東』393頁〕。

 シャケン・ダルシャーは中国に朝貢して冊封を受け、中国の司令官が連れてきた娘と結婚し

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たと伝えられる〔『東』400~1頁。ただし次の王のスリ・マハラジヤとの説もある〕。いまも

市街地北方のブキッ・チナ(Bukit China =中国人の丘)と呼ばれる標高45 mのト三保山]

の中腹には中国人墓地が密集し、山麓に中国人が掘ったとされる「三宝井」が残る〔『東』401

頁。ただし『マレー年代記』では、中国人の娘は王女ハンリ・ポーであり、王女に随行した中

国人が移り住んだとされる。三保・三宝伝説については、小川(1998)232~6頁参照〕。伝

承の史実性には問題が残るが、一般の商人とは異なり、王族と関わりを持った中国人移住者を

優遇して、王宮と地続きの左岸に住まわせた可能性も考えられる。

 このように王国時代のマラッカは、マラッカ川を境にして左岸が王宮地区、右岸が商人居住

区、さらに王宮地区の背後に中匡I人移住者地区という都市空間を構成していたと推測される。

両岸を結ぶ橋には税関があり、ここで通関手続きを済ませた輸入品は商人居住区の広場で売り

さばかれたものとみられる。

4.ポルトガル占領後の都市空間

 ポルトガルが占領した頃のマラッカは、人口も数万人規模にふくらんでいたようである。ア

ンソニー・リード『大航海時代の東南アジア』(平野秀秋り月中優子訳、法政大学出版局、2002

年)によれば、さまざまな文献から推計される16世紀初頭のマラッカの人口は最大で200,000

大、最小では16,000人と算出されているが、中間値としては65,000~100,000人程度とみら

れる(同書91百)。

 当時の市街地の形態を伝える資料七しては、前述のエレディアの市街図が2点〔『東』434

■483頁〕と、1629年にアチエによって包囲された様子を描いた作者不詳の絵図(『大航海時

代の東南アジアJ n、374頁』が伝えられている。エレディアの2枚の市街図はほぼ同じ範囲

を示したもので、街路網の発達度の差異からみて、年代は不明ながら二つの時期を比較したよ

引こみえる。原図の転載許可を得ていないので本稿には掲載しないが、これらを仮に「旧図」

寸新図」と呼ぶならば、いずれもマラッカ川の河道やその分流、周|刑の小河川なども細かく

描かれており、完全な三角測量にもとづくとはいえないまで乱現地での丹念な地形観察にも

とづく精度の高いものと推測される。

 両図ともにマラッカ川河口部には(税関の)橋が描かれている。その左岸に描かれる広大な

ポルトガル式の要塞(Fortaleza)は、「旧図」では内部が空白であるが、「新図」では細かな

通路や建物の位置らしい記号が記入されている。もう1点、エレディアによる要塞部分の拡

大図〔『東』494頁〕があり、それには1604年の年紀があって通路その他の描写が「新図」

とほぼ一致することから、「新図」も同年に作成されたと考えられる。右岸の商人居住区は

「旧図」では空白であるが、「新図」ではマラッカ川に沿って上流に延びる街路(現在のLorong

Hang通り)と海岸線に沿列行路(現在のJin Hang 通り、通称Jonker street、中国人街と

して有名)とが直交してL字型街区を形成している。しかも両図ともその直角三角形の斜辺

をなす部分に直線状の壁ないし柵状の構築物が描かれている。

 このようにポルトガル支配下では急速に城塞都市化が進行した模様である。L字型街区の形

成順序は、工国時代の景観を復原して描かれた数点の絵㈲資料づMuzium Melaka (ed):

Melaka Seen Through Pictures、クアラルンプール市の国立歴史博物館に展示)等によれ

ば、当初マラッカ川に沿っていた塊状の街区から、海岸線に沿って西へ派生したと推定され

る。壁状構築物の位置は、この図からは分からないが、少なくともその西端はイギリスが作成

                    一116 -

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した1795年の占領直後の地図(マラッカ歴史博物館パネル展示)に描かれる旧オランダ時代

の壁状構築物とそれに沿列a中のwet ditch(水濠)と同所とみてよいであろう。この防御線

を現在の地図上に比定すると一部はJalaii Kubu 道路の南部に該当する。当時の商人居住区

をこの東側に限定するならば、マラッカ川と海とに囲まれた範囲は面積1平方キロにも満た

ず、そこに65,000人(10,000戸り以上の人口(戸数)の過半が集中していたは想定しがた

い。ブキッ・チナの山麓も含め、マラッカ川左岸の北方にもすでに市街地が広がっていたか、

あるいは人口推計値そのものが過大であるのか、再考の余地があろう。

 1629年の絵図では、アチエの襲撃に備えるためか、要塞の東北側にも水濠が掘られ、マラ

ッカ川から水を引き込んで、完全に要塞地区を孤立させている様子が読み取れる。この水濠の

跡は、現在でもわずかな凹地状地形として部分的に確認できる。また右岸の商人居住区には橋

のたもとにやや広いスペースがあり、海に向かって門柱のようなものが立てられている。この

一画が一一浦とf拓人にとっての交易の場であった可能性が高い。

 1641年のオランダ占領後の大きな変化としては、要塞地区にスタダイス(Stadthuys)と

呼ばれるオランダ提督用の城館建築が加わることである。ファレンティン『新旧インド誌』に

は18世紀のオランダ領時代のマラッカを沖合から眺めた風景画(『マラッカ物語』154~5

頁)が収められており、そこには、マラッカ川河口を挟んで右側(左岸)に要塞が、左側(右

岸)に家屋が整然と並んだL字型街区が描かれている。この絵画においても、河口部に架か

る橋には上屋があり、二つの小窓も備かっている。橋上に監視人が常駐するような状態であっ

たのかもしれない。

 つぎにマラッカの都市空回に大きな変化をもたらした画期は、18世紀末のイギリスによる

領有と1826年の自由港指定であったと考えられる。 1795年の地図でみるような市街地を画

する壁状構築物はもはやイギリス領時代には不要であり、この範囲を越えて市街地の外延的拡

大が進行したものと推測される。

 また国立歴史博物館に展示される“Suspension bridge in Malacca" と題された1807年の

版画は、題名どおり「跳ね橋」に架け替えられた河口部の橋を描いたものである。跳ね橋は高

い帆柱を持つ船を通過させるための開閉橋であり、その設置は、交易の場がマラッカ川の河口

部からやや遡った上流側にも形成されていたことを示している。 19世紀前半、マラッカの中

継貿易はすでに他の港に機能分散し衰退していた(野村亨「イギリス領マラヤ」『岩波講座東

街アジア史』5、岩波書店、2001年、189頁)。マラッカはもはや海を通じてのみ外部世界と

接触する「港市」ではなく、内陸部特産のスズなどを輸出する、イギリス植民地という「領

域」の中心都市として機能していたことを示唆しているのではないだろうか。

 筆者は2004年9月に現地を観察したが、その3ヶ片前まで市街地中心部にあった肝市場跡

地(郊外に移転したため廃止)の前ではマラッカ川が大きく蛇行してill Isも広く、長さ10m

程度の川舟であれば楽に方向転換できるほどの水面を有している。しかしこの一帯は1795年

の地図ではまだ市街地の外であった。イギリス領有以後、市場がどのような過程を経てしだい

にマラッカ川を遡るかのように移転していったのか、各時代の都市計画の変遷も含め、さらに

詳細な検討を重ねたうえで再論したい。

(本稿は2004年度学内共同研究「アジアの市場の現状と背景」(研究代表者奥田尚)の研究成果報告書

として提出したものであるが、内容的にこの年報の趣旨に沿うので再録した。)

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河口部の橋から下流を見たマラッカ川

   (2004年9月筆者撮影)

1629年のアチエによるマラッカ包囲(『大航海時代の東南アジアJ n、374頁より』○印は河口部の橋

 :     。,=こ,誦謳rで7?=1……II……I ''ノわし‥1鴨,

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………,=j牛卜]回

ふ尚ラヤザヤザレノ……ふ7・'j“。京子j……

◇ノノ……

…………:………二千]言言白卜丿∧ノ\ノ… …………

18世紀オランダ領時代のマラッカ(『マラッカ

物語』154~5頁より)

○印は河口部の橋

-

118 -

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①マラッカ王国時代

③イギリス占領直後(1795年)

②ポルトガル領時代(1604年?)

  .W    φ・   j旧市場(2004年移転

対談

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示談

④現在のマラッカ(rマラッカ州観光地図』より)

マラッカ川河口部概念m (筆者による作業過程図のため複写禁止)

■ m 119 -