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日本の新ODA戦略に着目した中学校社会科授業の開発 ベトナム新幹線案件を事例として戸田善治 1) 竹内裕一 1) 大久保紗容 2) 中村友亮 2) 松永智貴 2) 高橋和雄 2) 天野孝太郎 3) 1) 千葉大学教育学部 2) 千葉大学大学院教育学研究科 3) 長野県小諸市立小諸東中学校 A research on the lesson practice depending on changing style of Japan about Official Development Assistance Through thinking about the plan of North-South Express Railway of Vietnam, a name of high speed railway made from JapanTODA Yoshiharu 1) TAKEUCHI Hirokazu 1) OHKUBO Sayo 2) NAKAMURA Yusuke 2) MATSUNAGA Tomoki 2) TAKAHASHI Kazuo 2) AMANO Kotaro 3) 1) Chiba University, Faculty of Education 2) Chiba University, Graduate School of Education 3) Junior Highschool, Nagano 本稿は,2010年度に社会科教育教室が開講した大学院授業「授業研究」における,大学教員と大学院生の共同研究 の報告である。そこでは,中学生を対象とする授業《ベトナムと日本のODA》を開発した。日本政府は,政府開発 援助の方針を決めてきたODA大綱を新たに発表した。この旧から新へのODA大綱の変化とその背景となった要因を 捉えるため,ベトナム高速鉄道計画という一つの例について考えつつ,日本の政策決定の一過程について検討させる 授業の開発を行った。 キーワード:ベトナム(the Socialist Republic of Vietnam) 政府開発援助(Official Development Assistance) ベトナム高速鉄道計画(plan of North-South Express Railway of Vietnam) ¿.はじめに 千葉大学大学院教育学研究科では「授業研究」(半期・ 1単位)を2単位ほど必修としている。社会科教育教室 では,竹内裕一,戸田善治の2名が連名で「授業研究」 を開講してきた。そこでの共同研究の成果に関しては, 既にいくつかの報告を行っている 1) 2008年度以降,大学院カリキュラムが若干変更され, 社会科教育教室では,「授業研究」として以下の授業を 開講してきた。 ・「授業研究XA1(社会)」演習タイプ ・「授業研究XA2(社会)」演習タイプ ・「授業研究XB2(社会)」フィールド型演習タイプ ・「授業研究XB2(社会)」フィールド型演習タイプ 演習タイプとは,理論研究や教材研究等を主とするも のである。これに対してフィールド型演習タイプは,授 業実践力の向上を重視して附属学校,公私立学校,教育 関連機関との連携を図り,原則として,授業実習,観察 などの活動が授業の一部に組み込まれて展開されるもの である。社会科教育教室では,両タイプの特性に鑑み, 演習タイプを大学院夜間授業として前期に開講し,教材 研究,指導案作成および教材開発を行ってきた。実際に 開発する授業は受講生が議論し,小・中学校学習指導要 領,教科書等,既存の社会科の教育内容にこだわらない 新教材の開発を行ってきた。これに対して,フィールド 型演習タイプは大学院昼間授業として後期に開講し,前 期に開発した授業を付属小・中学校の協力を得て実験授 業を行ってきた。 2010年度の「授業研究È(社会科)」は社会科教育専 攻の大学院生3名が中心となり,現職教員である千葉県 長期研修生4名に加えて,前期は現職院生1名の,後期 からはそれに加えて英語科教育専攻の大学院生1名の参 加を得て進めていった。大学院生自身の討論の結果,研 究テーマはベトナムと政府開発援助(Official Develop- ment Assistance,以下ODAと略する)を通した教材開 発ということになった。 いくつかの候補の中でベトナムが題材として選ばれた のは,院生の一人が青年海外協力隊の一員として2年間 ベトナムのホーチミン市に派遣されていた経歴を持って おり,その場で語られた体験談が皆にとって大変興味深 いものであったからというのが主要なきっかけである。 しかし,ベトナムを知るという漠然とした題材のみで 授業を組み立てるということは,現状開拓されていない 発展的な課題を扱うべく開講される大学院の授業研究と してはもの足りない。そこで,ベトナムと日本を繋ぐも のとしてODAを主軸に据え教材研究を行うことになっ た。 ベトナムとODAに関する教材研究を行う過程で,そ 連絡先著者:戸田善治 千葉大学教育学部研究紀要 第60巻 203~213頁(2012) 203

ベトナム新幹線案件を事例として - CORE · 2020-01-28 · 演習タイプを大学院夜間授業として前期に開講し,教材 研究,指導案作成および教材開発を行ってきた。実際に

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日本の新ODA戦略に着目した中学校社会科授業の開発―ベトナム新幹線案件を事例として―

戸田善治1) 竹内裕一1) 大久保紗容2) 中村友亮2)

松永智貴2) 高橋和雄2) 天野孝太郎3)

1)千葉大学教育学部 2)千葉大学大学院教育学研究科 3)長野県小諸市立小諸東中学校

A research on the lesson practice depending on changing style of Japanabout Official Development Assistance

―Through thinking about the plan of North-South Express Railway of Vietnam,a name of high speed railway made from Japan―

TODA Yoshiharu1) TAKEUCHI Hirokazu1) OHKUBO Sayo2) NAKAMURA Yusuke2)

MATSUNAGA Tomoki2) TAKAHASHI Kazuo2) AMANO Kotaro3)

1)Chiba University, Faculty of Education 2)Chiba University, Graduate School of Education3)Junior Highschool, Nagano

本稿は,2010年度に社会科教育教室が開講した大学院授業「授業研究」における,大学教員と大学院生の共同研究の報告である。そこでは,中学生を対象とする授業《ベトナムと日本のODA》を開発した。日本政府は,政府開発援助の方針を決めてきたODA大綱を新たに発表した。この旧から新へのODA大綱の変化とその背景となった要因を捉えるため,ベトナム高速鉄道計画という一つの例について考えつつ,日本の政策決定の一過程について検討させる授業の開発を行った。

キーワード:ベトナム(the Socialist Republic of Vietnam) 政府開発援助(Official Development Assistance)ベトナム高速鉄道計画(plan of North-South Express Railway of Vietnam)

�.はじめに

千葉大学大学院教育学研究科では「授業研究」(半期・1単位)を2単位ほど必修としている。社会科教育教室では,竹内裕一,戸田善治の2名が連名で「授業研究」を開講してきた。そこでの共同研究の成果に関しては,既にいくつかの報告を行っている1)。2008年度以降,大学院カリキュラムが若干変更され,社会科教育教室では,「授業研究」として以下の授業を開講してきた。・「授業研究XA1(社会)」演習タイプ・「授業研究XA2(社会)」演習タイプ・「授業研究XB2(社会)」フィールド型演習タイプ・「授業研究XB2(社会)」フィールド型演習タイプ演習タイプとは,理論研究や教材研究等を主とするも

のである。これに対してフィールド型演習タイプは,授業実践力の向上を重視して附属学校,公私立学校,教育関連機関との連携を図り,原則として,授業実習,観察などの活動が授業の一部に組み込まれて展開されるものである。社会科教育教室では,両タイプの特性に鑑み,演習タイプを大学院夜間授業として前期に開講し,教材研究,指導案作成および教材開発を行ってきた。実際に開発する授業は受講生が議論し,小・中学校学習指導要

領,教科書等,既存の社会科の教育内容にこだわらない新教材の開発を行ってきた。これに対して,フィールド型演習タイプは大学院昼間授業として後期に開講し,前期に開発した授業を付属小・中学校の協力を得て実験授業を行ってきた。2010年度の「授業研究�(社会科)」は社会科教育専攻の大学院生3名が中心となり,現職教員である千葉県長期研修生4名に加えて,前期は現職院生1名の,後期からはそれに加えて英語科教育専攻の大学院生1名の参加を得て進めていった。大学院生自身の討論の結果,研究テーマはベトナムと政府開発援助(Official Develop-ment Assistance,以下ODAと略する)を通した教材開発ということになった。いくつかの候補の中でベトナムが題材として選ばれた

のは,院生の一人が青年海外協力隊の一員として2年間ベトナムのホーチミン市に派遣されていた経歴を持っており,その場で語られた体験談が皆にとって大変興味深いものであったからというのが主要なきっかけである。しかし,ベトナムを知るという漠然とした題材のみで

授業を組み立てるということは,現状開拓されていない発展的な課題を扱うべく開講される大学院の授業研究としてはもの足りない。そこで,ベトナムと日本を繋ぐものとしてODAを主軸に据え教材研究を行うことになった。ベトナムとODAに関する教材研究を行う過程で,そ連絡先著者:戸田善治

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の教材内容の特性に鑑み,中学生を対象とする授業を開発し,実験授業を行うこととした。この授業は教育学部附属中学校の三年生を対象に2010年の11月から12月にかけて行った。本稿ではこの授業について授業開発の経緯及び開発した授業について報告する。なお紙幅の都合上,実践の概要及び分析に関しては省略する。

�.教材としてのベトナムとODA

1.国際社会とODA日本と諸外国との関係は日々変化を遂げている。先進

国諸国との友好関係が大事なのはもちろんであるが,発展途上国との関係がさらに重要視される時代へと向かっている。先進途上国諸国との関係を築く上で外すことの出来ないものがODAに代表される経済支援であろう2)。そもそもODAは「日本・ビルマ平和条約及び賠償・

経済協力協定」という対ビルマ(現ミャンマー)から始まった。協定の名が示す通り,戦禍を残してしまったアジアへの戦後賠償の側面を持っていたと言える。その後,朝鮮特需を契機として戦後復興から高度経済成長期に入り世界第二位の経済大国になると,大国の義務として国際社会からも国際支援へ向かうよう後押しされ,支援額は年々増していった。当初の戦後賠償の面は程なく影を潜め,アジアに限らず世界諸州の途上国に支援を行うようになっていった。バブル期には日本企業の海外進出への後押しとしても積極的に使われたこともある。しかし,近年のODAは減少傾向にあり,ODAを支出しているDAC諸国のうち,日本は,1993―2000年は拠出額第1位であったのが,2007―2009年の統計では第5位となっている。1980年代,バブル経済期を迎えた頃には積極的に海外投資しようという機運が高まったものの,バブル崩壊とともにODAへ向けられる風当たりは一転して厳しいものとなり,学校教育の場においてもODA批判が展開された。ODA予算のピークは1997年であったが,国家財政の逼迫もあって拠出額は次第に減少し,2011年の政府予算案では1997年の半分程度にまで落ち込んでいる。一方で,小回りの効きにくいODAを補完するような民間の支援団体であるNGO(非政府組織),NPO(非営利団体)の台頭が目覚しいものとなっている。学校教育の中のODAへ目を向けると,前述の通り一

昔前にはODA批判実践で大きく取り上げられたこともある。だが,現在の中学校教育ではほとんど触れられることなく終わってしまう事が多い。とは言え,日本経済や国際社会,外交の道標としてのODAは有意義なものであり,軽視してしまうには惜しい教材であると言えよう。ODAが矢面に立たされていた頃の批判によく見られ

た論点が大きく分けて二つある。第一の批判点は,円借款,つまり相手国に返済義務のある融資が多いことである。これはそもそも返済せねばならない郵便貯金などの資金に依拠していたが,円借款にするメリットは日本だけにとどまらず,相手国の財政管理能力を上げることにもつながっている。あくまでも借款である以上,しっかりとした返済計画を作ることを要求されることにより,

無計画・無意味なODAの実施を減らせるのである。ODAに対する第二の批判点は,日本企業優遇で不要

な箱物ばかりを造っているという指摘であった。この批判を受けて,その案件が必要かどうかをきちんとチェックするような仕組みも整備されてきたし,自国企業のみ入札可というタイド案件をなくし,全て他国企業も入札可というアンタイド案件という状況にまでなった。しかし,タイド案件を完全になくす取り組みは一時期に留まり,現在の全案件中のアンタイドの割合は80%程度となっている。これは本邦技術活用条件(STEP)を導入したからである。人道支援などに比べてインフラ整備はある程度の額の

融資が必要なこともあり,これは資金と技術力のどちらも備えた日本の得意とするところである。得意な分野を伸ばすことは今日の低迷した日本経済においても重要であり,今後は国内市場だけに留まらず,対外輸出戦略が重要視されているのは言うまでもないであろう。

2.日本の新幹線輸出とベトナム本研究において開発する教材となるのは,当時の鳩山

政権が打ち出した新幹線をはじめとする対外インフラ輸出構想である。定時性,安全性,快適性などを総合的に含めた新幹線技術は,日本が世界に誇れるものである。だが,新幹線技術をはじめとする高速鉄道の輸出に関しては,国を挙げて後押しされているフランスのTGVやドイツのICEをはじめとする強力なライバルがいる。当然ながら競争の際には国家の後押しを得た方が有利であるのは自明の理であり,日本の新幹線の輸出も官民連携を計り,積極的な攻勢に出なければ高速鉄道における国際競争に打ち勝つことは難しいと言える。すでに海外進出を果たした先例である台湾新幹線など

は部分的な輸出に留まっており,システムなどを含めた包括的な形での新幹線輸出第一号となることが期されていたのがベトナム新幹線である。しかし,閣議決定がなされ,国会の承認を得るだけとなった2010年6月のベトナム国会で,新幹線計画は否決されるというきわめて異例な結果となり,本研究途中で計画の見通しは立っていなかった。ところでこの新幹線の輸出先として挙がったベトナム

とはどんな国なのだろうか。ベトナム社会主義国は今,東南アジアの中でも特に注

目度の高い国の一つである。周知のように,アジアにおける経済成長について日本だけが独走していた時代というのは最早昔のことであり,韓国や中国の目まぐるしい発展はもちろんのこと,その後に続くベトナムなどの存在は見過ごすことのできないものである。現在東南アジアの経済発展はめざましいものがあり,ベトナムも社会主義を採る国ながら1986年のドイモイ政策という自由経済化の導入を一つの契機として急激に伸びてきている国である。ベトナムはこれからの経済発展が見込まれるため,そ

の支えとなるインフラの整備が急務となっており,カントー橋,国際空港,発電所などの建造に日本からのODAが使われている。多くの日本企業がベトナムに進出しており,日本という国はベトナムの人々から親しみ

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を持たれている。授業対象である中学三年生の教科書,資料集を歴史的

に調査してみると,ベトナムについての取り扱いは極端に少ない。教材研究を行っているわれわれ自身,これまで受けてきた教育においてベトナムという国についてどの程度触れてきただろうか,と考えると具体的に思い出す場面は無かった。これまでの社会科領域で扱われるベトナムといえば,

あってベトナム戦争くらいのものであろう。生徒達は,ベトナム戦争やベトナムの民族衣装の「アオザイ」などのキーワードに関しては,テレビなどでも見かけたり耳にすることはあるかもしれないが,具体的にどのような国であり,日本とはどのような関係を持っているのかということについて,小・中学校では学んでこなかったと言ってよかろう。昨今の東アジア共同体の構想など,アジアへの注目,

アジアという地域への再定義が進んでいるこのような状況をふまえると,決して中国など相対的に日本からは「近隣」と言われるような国々だけを授業において扱うということだけでは十分ではない。その中で,第二の中国として急成長している現在のベトナムを教材化する意義は十分にあると言えよう。

3.教材としての「ベトナムと日本のODA」の意義現在,われわれが生きる社会では,経済や政治など

様々なレベルでこれまで確実なものとされていた事柄がめまぐるしく変化している。われわれは先行きの見えない不確実性に満ちた世界に生きており,それはこれからの未来を担う生徒にとっては大きな試練として立ちはだかるであろう。このような試練に立ち向かうために,社会科教育では「公民的資質」の育成をその目標にしている。この抽象的な概念には様々な議論や定義があるが,ここでは仮に「社会における問題に積極的に参加・参画し,個人及び集団レベルでの問題解決・意思決定を図っていく上での意識・意欲」ととらえたい。不確実な事柄が増えていく社会において,個人の考え

を他者との議論や新たな考え方との出会いの中で洗練させ,それを集団での議論へと持ち込み,より大きな合意形成(社会的意思決定)を図っていくことが求められていく。本実践では生徒の意思決定,価値判断力を育成することを目的とするものとして本教材開発を行った。もっとも,様々な立場が関与しながら,それぞれに異なる利害関係を調整することは決して容易なことではない。そして,合意は決してその内容が利害関係者全員に利益をもたらすことを保証しない。全員が納得したものであっても,常に新たな問題の可能性を内包しているものと考えられる。開発した授業では,正答のない問題について,関与する様々な利害関係者の間で揺れる「天秤」を自覚化させることを目的とする。本授業では,われわれは日本の行っているODAに注

目した。周知のように,これまでにODAに関しての授業実践は数多く行われてきた。1990年代における実践の多くが,日本のODAが主に借款によるものであり,企業がODAを通して新たなお得意先を創出することになっていることなどに対する批判に基づくものであった。

その後,以上に述べたような批判を受けて,援助はイメージの悪い「金」から,より人間的な暖かみのある「人道的支援」へと移行してゆく。NPOやNGOの日本国内での注目とともに,それは対外的な援助においても大きな役目を担うようになった。授業実践においても,資金による援助ではなく,それも含めたさらに大きな枠での「援助」という視点からのものが見られる。以上のような援助の見直しを経て,日本の現在の

ODAは大きな転換点を迎えている。「失われた10年」という言葉が現れて久しいように,日本の経済状況というのは芳しいものではない。現在のODAではこのような経済不況を乗り越えるための一つの可能性として,援助という目的だけでなく,同時に日本の技術輸出という目的でも行われている。この現状について,過去にODAを批判した論者たちはどのように考えるであろうか。援助という名の下での市場開拓だという批判を受けるかもしれない。しかし,ODAの財源とはそもそも我々の税金である。援助がODAの対象国の人びとの利益になるだけではなく,結果として我々の生きる日本にもそれが利益として反映されるのであれば,「Win―Win」の関係としての「援助」ということになる。多額の資金提供を出した分,ある程度の利益が得られることは拠出源である国民の納得を得やすいだろう。このように,現在のODAは利他的および利己的とい

う二つの対立の間で揺れている。この二点は以上に述べたように,どちらも同様に重要なものだと考えられる。どちらかを選ぶのではなく,その両立を図ることは困難を極める。前者,後者のどちらに偏っても「誰のための援助なのか」という問いは常につき回る。本実践では,ODAのもつこのような二面性をもとに,

現在計画されている日本からの新幹線技術の輸出による援助について,「何のための援助なのか」という問いを具体的な利害関係者(両国の国民・政府・企業など)の立場を考慮しながら,生徒自らの考えを構築していくことを目的とする。ODAの現状を認識し,常にそのあり方について批判的に検討されるべきものだということに気づかせる実践になればとの願いがある。

�.開発した授業の概要

授業は千葉大学教育学部附属中学校で「ベトナムと日本のODA」と題した授業を3時限(1時限45分)展開で実施することとした。受講生は附属中学校の三年生1クラスで,生徒数は44名である。なお実際の授業に際しては,ワークシートをA3一枚で作成し,3時限を通しての変化などが視覚化できるようにした。この単元の目標として,以下の2点を設定した。�ODAについて理解をする�利益関係者の間で,常に揺れる天秤の問題を体験し,理解する。

1時間目は「日本とベトナム間のODA関係を知ろう」と銘打ち,まず生徒にとって馴染みの薄いベトナムについて知ってもらうところから始めることとした。青年海外協力隊員であった院生がベトナムの民族衣装のアオザイを着て登場し,PowerPoint及びプロジェクターで現

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地の文化や雰囲気を捉えた写真などを見せながら,異文化を感じてもらう。その後で,日本のODAによって建造されたベトナムの施設や橋梁などの写真を見せつつ,ODAが実際に役立っているという印象を持ってもらい,興味関心を引いた後でODAの概略について説明する。この時紹介するのは二国間援助と多国間援助の違い,二国間援助で行っている無償資金協力・有償資金協力(いわゆる円借款)・技術協力の三つ,及びそれを取り仕切るJICA(独立行政法人国際協力機構)という組織があること。その資金は国民の納めた税金であること,そしてODAが国と国の友好関係を築き,資源の獲得にも一役買っているということなどを説明する。最後にワークシートに「ODAについてわかったこと」と「ODAについての感想・印象」を書かせて終了する。2時間目は「日本のODAの変遷を知ろう」という授

業を行う。本時の目標は以下の二点である。�日本のODAの変遷を知ること�具体的なODA案件についての,自分の意見を表すことができるようになること

授業の流れは,まず,ベトナムに日本のODAで新幹線を造る計画があるということを説明した上で,前時に説明したODAについてより詳しく学んでいく。具体的には,過去に受けたODAへの批判,現在の世界のODA事情,そして現在の日本のODAの方針などである。その後,ベトナムにおける新幹線案件について,生徒自身に賛成か反対かを考えてもらう。配布する資料は,この案件に関する概要を載せたものをクラス全員に1枚ずつ,そして他にそれぞれ異なる7種類の情報を載せてある資料を2つずつ生徒に選んでもらう。生徒に渡す情報を制限するのは,3時間目に行う議論が活発になることを期待するとともに,得る情報によって意見が左右されることを実感してもらうためである。これらの資料を使って新幹線案件に対しての賛否とその理由をワークシートに記入してもらうところまでが2時間目の内容である。単元の最終授業に当たる3時間目は「日本のベトナム

に対するこれからのODAについて考えよう」という授業である。以下の二点を目標とする。�ODAにおける様々な立場や利害関係の絡み合いを理解する

�今後のODAのあるべき姿について自身の考えをもつことができる

授業では,最初に2時間目の最後において記入させた生徒それぞれの考えについて,その理由とともに発表させる。次にグループに分かれ,新幹線事例についての是非を

めぐる討論活動を行う。その後,生徒個人が本事例に関してどのような立場から反対・賛成の意見を考えたのかを,考える際に考慮した立場の優先順位,割合をワークシートに記入させる。ここでは,本事例が日本とベトナムの両国において,産業界や政治家,そして支援の拠出源である税金を納める立場としての日本人,実際の利用者であるベトナム人などの様々な立場・考えをもつ人々が複雑に絡みあっているものであることの理解を目指す。その際には,ODAと日本国民としての生徒との関係性を意識させるように説明を工夫する。

そして,最後に今後,ODAがどのようなものであるべきなのか,それぞれの意見をワークシートに記入させて終了する。

�.おわりに

本研究は,現在の日本のODAについての方針である「Win-Winの関係の援助」をもとに,利害関係者の間で揺れる天秤のバランスを考慮しつつ,自分の意見を形成していくことの困難さを経験することを目的としたものである。これまで,1990年代を中心としてあった「日本の利益

目的」という視点からの批判が多かったODAについては,近年の教育現場ではあまり取り扱われることはなかった。しかし,ODAは国際社会や外交,経済をはじめ中学校公民科の諸分野の多岐に渡って関わりのある教材である。また,新ODA大綱にあるように,ODAを行うことが「国民の利益を増進することに深く結びついている」(新ODA大綱から抜粋)という考え方は,世界全体のODAの傾向でもあるといえる。これらのことから,ODAの具体的事例を使って行った今回の研究は,中学校社会科公民的分野の授業に新たな教材開発の視点を与えることができるのではないかと考える。また,具体的な事例として生徒がよく知らないベトナムという国の事例をあえて取り上げたことにより,導入の素材としては強烈なインパクトを与えることができた。その意味では,ベトナムを取り上げたこと自体は生徒を引き込むこと,また新たな文化について学べるという点で魅力的な教材であると言える。第1・2時においては,生徒がベトナム,そして

ODAという彼らにとってほぼ馴染みのない二つの事柄について,基礎的な情報をつかむための授業であった。ベトナム滞在経験を持つ授業者がベトナム人に扮し,民族衣装であるアオザイを纏い,ベトナム語を用いながら現地の写真を用いて説明を行った導入によって,生徒が初めて触れるベトナム文化に興味をもって接する姿を見ることができた。ODAについては,その重要性について肯定的に理解しながら,これまで日本のODAが批判されてきたことなどを通して,ODAが決して一面的に評価されないためのバランスを取るための配慮を行った。そしてそのあとで,ベトナムへの日本からの新幹線技術輸出案件について考えさせた。第3時において,生徒が新幹線事例について自らの依

拠した立場を考える際に,ベトナム側の立場(国会,国民とりわけ貧困者)を挙げた生徒が多かった。討論前に授業で触れておいた政策としてのODA,つまり日本とベトナムの両方の利益を考える,という観点よりも,もともとの「援助」という言葉がイメージさせる“誠実さ・規範さ・善行”という点に生徒の多くが影響を受け,立場を考えていたように思う。各班の討論内容の記録を見ても,討論の内容の主軸が「日本の利益」について話されている班は見受けられなかった。どの班も,ベトナム側の必要性,経済成長,輸送手段などについて話すことが多く,日本側にどういった利点があるかなどについては多くの時間は割かれなかった。これはやはり,「これ

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からのODAでは互いの利益を考える方向」ということを第2時で扱ってはいても,「援助」という言葉が与えるそもそものイメージが生徒たち自身の頭には強く残っており,それが彼らの「道徳観」に作用し,思考形成に大きな役割を果たしたと考えられる。この点で,これからの授業においては,生徒たちがこ

れまでに形成してきた「道徳観」は引き続き重要視しながらも,それをある程度相対化し,「道徳観」とはなにかと考える場面も必要だと考える。「困った人には手助けしなさい」と教えられ,行動しようとする自分は一体その状況ではどのような立場にいる者なのか。今回の実践では,立場について考えさせることを通じて以上の目的を達成しようと考えたが,生徒が自らについて,税金を通して援助費用を拠出している政策形成者の一員であるという認識を持つことは達成されたとは言い難い。いつのまにか社会の中にいたことに気付くのではなく,自らが社会の一員であることを意識するために,「道徳観」を反省的に捉えながら高めていく視点を鍛えるための授業づくりが求められるだろう。また,なじみのないベトナムという国に教材としての魅力はあっても,生徒たち

� � � � � � � � � � � � � � �

は見知らぬ国だからこその興味は持つが,あくまで見知� � � � � � � � � � � �

らぬ国だからこその距離感は消えず,さらにその国への援助となると,生徒自身が税金を通して援助に関わっていることへの認識は簡単には深まらなかった点も指摘できる反省点である。ODAを教材として扱う際には,この点を考慮した指導案作成を行うことが今後の課題の一つと言えるだろう。資源小国といわれる日本に住む私たちは,日本経済や

日々の暮らしを成り立たせている多くの資源を他国から輸入できている背景の一つに,日本のODAという政策がある事実をあまり認知していない。その点でODAを中学公民で取り扱うことは意味のあることと考える。また,学習指導要領に明記されている社会科の最終目標である公民的資質を養うことに対しても,ODAという教材を通し,政治的な課題を考える上での相反する立場,今回で言えば日本とベトナムの利益の天秤について生徒自身が考えるという体験は有意義ではあったと思う。この実践を振り返って,まだまだ反省すべき点が多くあるが,上記のような点において意義のある実践が行えたのではないかと考える次第である。

【謝 辞】

実際の授業を行う機会を提供して頂いた千葉大学教育学部附属中学校に謝意を示すと共に,多大な助言を頂い

た石橋崇先生をはじめとする同校社会科部の諸先生方,並びに長期研修生として現場に近い助言を下さった4名の先生方にはこの場を借りて謝辞を述べさせていただき,本稿の結びに替えたいと思う。

【注】

1)社会科教育教室がこれまでに行ってきた「授業研究�(社会)」の代表的な報告として,以下のものを上げることができる

・戸田善治他「『中国新人類・80后』からみる現代中国の教材化―《中国社会構造の再構築をめざす授業》と《精神文化理解に基づく交流授業》の開発―」『千葉大学教育学部研究紀要』第59巻,pp.107―116,2011年3月

・田中健夫,竹内裕一,戸田善治他「小学校における『経済・金融教育」学習プログラムの開発研究―クレジットカードから見るリスク社会―」『日本社会科教育学会大会発表論文集』第4号,pp.198―199,2008年10月

2)本授業開発におけるODAに関する教材研究では,以下の文献およびHPを参考とした。

・鷲見和夫『嫌われる援助―世銀・日本の援助とナルマダ・ダム』築地書館,1990年

・渡辺利夫・草野厚『日本のODAをどうするか』日本放送出版協会,1991年

・多谷千香子『ODAと環境・人権』有斐閣,1994年・古浜裕久『日本の国際貢献』勁草社,2005年・草野厚『日本はなぜ地球の裏側まで援助するのか』朝日新聞社,2007年

・外務省『2009年版政府開発援助(ODA)白書日本の国際協力』2010年

・松井一彦「我が国のODAのあり方」参議院調査室『立法と調査』256号,2006年

・柴崎敦史「新たな国際援助・協力のあり方に向けた7つの提言」参議院調査室『立法と調査』272号,2007年

・柴崎敦史「平成22年度政府開発援助予算―『曲がり角』を迎えた我が国のODA―」参議院調査室『立法と調査』301号,2010年

・外務省HP・経済産業省HP・社団法人日本貿易会HP・独立行政法人国際協力機構HP

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