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1 ベトナム戦争終結 40 年 公的史観の意味を問う ―ベトナム人学生へのインタビューを通して― 学籍番号 12151186 名 山下和哉 指導教員 中野亜里 卒業予定 2016 3

ベトナム戦争終結 40年 公的史観の意味を問う4 第二は、戦後40 年を経た今日のベトナムが、本当の意味での南北統一を果たしているの

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ベトナム戦争終結 40 年 公的史観の意味を問う

―ベトナム人学生へのインタビューを通して―

学籍番号 12151186

氏 名 山下和哉

指導教員 中野亜里

卒業予定 2016 年 3 月

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目次

はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

第 1節 研究の意義・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

第 2節 研究の方法・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5

第 3節 論文の構成・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6

第 1章 ベトナムの歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7

第 1節 南北分断まで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7

1.「北属南進」とフランスによる植民地支配・・・・・・・・・・・・・・・・7

2.第二次世界大戦とベトナムの独立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8

3.第一次インドシナ戦争とジュネーブ協定・・・・・・・・・・・・・・・・・8

第 2節 ベトナム戦争―米国の戦略とベトナムの抵抗―・・・・・・・・・・・・10

1.ケネディ政権の「特殊戦争」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10

2・ジョンソン政権の「局地戦争」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11

3.米軍撤退と「ホーチミン作戦」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12

第 2章 公教育で語られているベトナム戦争・・・・・・・・・・・・・・・・・・14

第 1節 歴史教科書の記述・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14

1.共産党政府の視点から教えられる戦争史・・・・・・・・・・・・・・・・14

2.ベトナム政府の考える勝利の要因と歴史的意義・・・・・・・・・・・・・15

第 2節 戦争史に無関心な市民・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16

1.戦争史に無関心な市民・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16

2.風化する戦争の記憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18

第 3章 ベトナム人学生へのインタビュー(1):歴史への関心について・・・・・・19

第 1節 ベトナム戦争への関心度・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19

第 2節 過去の侵略国に対する見解・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22

第 3節 独立 70周年・戦争終結 40周年への関心度・・・・・・・・・・・・・・23

第 4章 ベトナム人学生へのインタビュー(2):南北統一について・・・・・・・・25

第 1節 「南部解放の日」に対する認識・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25

第 2節 心の中での南北統一の実現について・・・・・・・・・・・・・・・・・26

第 3節 未来志向型の国民性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29

おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31

参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33

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はじめに

第 1 節 研究の意義

今年は、ベトナム戦争1の終結から 40 周年の年である。日本では、この戦争について多く

の新聞やテレビ局による特集記事や特別番組が企画され、また、学会発表やシンポジウムが

行われるなど、関心の高さが伺えた。例えば、5 月 10 日に開催された、日本ベトナム研究

者会議では「ベトナム戦争終結四十周年にあたって―戦争の記憶から考えるベトナム戦争」

と題するシンポジウムが行われ、参加人数は昨年の 2 倍近かった。

戦争終結 40 周年に際して、筆者は以下のような二つの問題意識を持った。

第一は、日本では、ベトナム戦争にいまだに一定の関心が持たれているが、その当事国ベ

トナムでは、特に若い世代が自国の戦争の歴史に、いったいどれほどの関心を持っているの

だろうかということである。

筆者がそのように考えるに至った理由は、わが国で第二次世界大戦への関心が希薄だか

らである。2015 年は、第二次世界大戦終結から 70 周年の年でもあるが、わが国において、

戦争に対する関心はそれほど高くはなく、むしろ戦争の記憶の風化が進んでいると言える

からである。

もちろん、ベトナムでも日本と同様に、各新聞やテレビで特集や特番が組まれており、政

府の主催する記念式典等も執り行われている。しかし、それに対してベトナムの一般市民、

とりわけ戦後に生まれた若者たちはどれほどの関心を持っているのだろうか。

筆者は、2014 年 8 月に日本ベトナム学生会議2の一員として、初めてベトナムを訪問し

た。その後、2015 年の 3 月、6 月、9 月と計 4 度ベトナムを訪れ、四つの都市(首都ハノ

イ、中部の都市フエ、ダナン、南部の都市ホーチミン市)の大学の日本語学科の学生たちと

交流を持った。その交流の中で、ベトナムの学生たちからベトナム戦争に関する話題が出る

ことはなく、筆者の方から話を持ち掛けても、ほとんど関心を示さなかった。そのような経

験から、筆者は果たしてベトナムの人々が、ベトナム戦争に関心を持っているのだろうかと

疑問を抱いた。

1 ベトナムでは「抗米救国戦争」と呼ばれている。 2 日本とベトナムの大学生たちで構成される、日越の学生の交流を目的とするサークル。

毎週土曜日に定例会を行い、8 月には約 2 週間ベトナムへ渡航する。渡航中は、首都ハノ

イを始めベトナムの複数の都市を訪れ、各都市の日本語を学ぶ学生たちと交流を行う。

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第二は、戦後 40 年を経た今日のベトナムが、本当の意味での南北統一を果たしているの

かということである。ベトナムは 1975 年 4 月 30 日に北ベトナムが南ベトナムを武力制圧

し、1976 年 7 月に国家として統一された。しかし、その後のベトナム政府は、旧南ベトナ

ム地域において急速な社会主義化を推し進めた。そのために、旧南ベトナム政府側の人々は

もちろん、北ベトナムから支援されていた南ベトナム民族解放戦線側の人々からも強い反

発を招くことになった。

筆者は、民族分断の影響は今も残っているのではないかと考えている。そう考えるように

なったきっかけは、2015 年 3 月にベトナム南部を訪れた際に、旧南ベトナム出身のある男

性と話したことだった。その男性の親族は、ベトナム戦争の終結に際して、北ベトナムの支

配から逃れるために国外に脱出した。さらに、その男性の一家も、南北統一後にいわゆるボ

ートピープルとして国外への脱出を試みた体験を持っていた。

その男性から聞いた話の中で特に印象に残っているのは、「もしベトナム人の女性と結婚

するなら、絶対に南部の女性が良い」というものだ。「北部は女性の方が強いから、結婚し

ても奥さんには逆らえないね。南部の女性は北部の女性とは違うから、結婚したら男性が中

心の家庭を築けるよ」というのがその理由であった。

その話の真偽は別として、その男性が、いかに北部を嫌っているのかについてはよく理解

できた。そのように、政治や経済の問題だけでなく、女性(男性)観や結婚という個人的な

ことでさえも、北部を肯定的に見ていない人の話を聞き、筆者は、同じベトナム国民でも、

心の中にはいまだに南北の国境が存在するのではないだろうかという疑問を持つようにな

った。

日本では、ベトナム戦争に関して、これまでに多くの研究が行われ、数多くの文献が存在

している。例えば、『増補新装版 ベトナムの世界史―中華世界から東南アジア世界へ―』

(古田元夫 東京大学出版会 2015 年)、『ベトナム―革命と建設のはざま―』(白石昌也

東京大学出版会 1993 年)、『ベトナム民族解放運動史』(小沼新 法律文化社 1988 年)、

『ヴェトナム戦争全史』(小倉貞男 岩波書店 1992 年)がある。しかし、それらは基本的

に、現在のベトナム政府が認めるベトナム共産党の革命史を軸に、公式な史料に依拠したも

のである。

近年は、それらとは少し違う角度からの研究も行われている。例えば、『ベトナム北緯 17

度線の断層―南北分断と南ベトナムにおける革命運動(1954-60)』(福田忠弘 成文堂

2006 年)、『ベトナム人民軍隊―知られざる素顔と軌跡―』(小高泰 暁印書館 2006 年)、

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『ベトナム戦争を考える―戦争と平和の関係―』(遠藤聡 明石書店 2005 年)、『戦争記憶

の政治学―韓国軍によるベトナム戦時虐殺問題と和解への道―』(伊藤正子 平凡社 2013

年)のように、公開されている史料に基づきつつも、ベトナム軍の実情や南ベトナムに視点

を置く研究も行われるようになってきた。

しかし、筆者はさらに別の視点からも、ベトナム戦争を見直す必要があるのではないかと

考えるに至った。

この論文では、現在のベトナムの若者たちが、ベトナム戦争について学校でどのように教

えられ、どのように考えているのか、そして、現在でもベトナム人の心の中に南北の国境は

存在するのか、という点を明らかにしたい。

現在の世界を見れば、朝鮮半島やキプロス、旧ユーゴスラヴィア地域や西アジア地域など

に、同じ民族が分断されている例は数多く存在する。ベトナム戦争史観を考察することによ

って、分断された民族の問題を考える際にも、何らかのヒントを得られるのではないかと考

える。

第 2 節 研究の方法

本稿はまず、文献研究により、ベトナム戦争がどのような戦争であったのかを明らかにす

る。日本、ベトナムおよび米国の、ベトナム史研究者、米国史研究者の先行研究をもとに、

ベトナム戦争の概要を把握する。

次に、ベトナム人の大学生へのインタビューを通して、歴史に対する意識を明らかにする。

筆者は 2014 年の 8 月に日本ベトナム学生会議の一員としてベトナムを訪れた際に、北部か

ら南部までの四つの都市(ハノイ、フエ、ダナン、ホーチミン市)の学生たちと知り合った。

そのうち旧北ベトナム地域出身者 23 人、旧南ベトナム地域出身者 17 人、計 40 人の学生た

ちにインタビューを試みた。インタビューのために、2015 年の 3 月と 6 月、9 月にベトナ

ムに行き、フィールドワークを行った。また、フェイスブックやラインなどのインターネッ

トの SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)を利用してのインタビューも行った。

その結果から、学校での歴史教育と若者の意識の差異について考察したい。

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第 3 節 論文の構成

第 1 章では、ベトナム戦争はどのような戦争だったのか、開戦から終戦までの経緯をふ

り返る。第 2 章では、ベトナムでどのような歴史教育が行われているのかについて、高校で

使用されている教科書と、国内に多数存在する博物館や史跡から明らかにする。第 3 章で

は、筆者がベトナムの学生に対して行ったインタビューの結果を報告し、ベトナム戦争を中

心に、自国の歴史に対して彼らがどのように考えているのかを検証する。第 4 章では、真の

南北統一が果たされているのかについて考察し、最後にベトナムの歴史認識について問題

提起したい。

ハノイの空軍博物館(左)と軍事歴史博物館には、ベトナム戦争時代に使用されていた戦闘機や装甲車が

多数展示されていた。(2015 年 3 月 筆者撮影)

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第 1 章 ベトナムの歴史

第 1 節 南北分断まで

1.「北属南進」とフランスによる植民地支配

15 世紀以前のベトナムは、現在のベトナム北部を版図とする小国であり、すぐ北側に位

置する中国の強い影響を受け続けてきた。紀元前 3 世紀に中国から独立するも、同 2 世紀

には再び同国の支配を受け、10 世紀に独立するまでその支配は 1000 年以上続いた。

そのような歴史から、ベトナムには中国との戦争で活躍した英雄たちの銅像が数多く見

られる。筆者がホーチミン市を訪れた際にも、13 世紀にモンゴル軍が攻め入った際に迎え

撃った英雄として知られる、チャン・フン・ダオの銅像を、市の目抜き通りに位置するメリ

ン広場で見た。

そのように、北の中国に強く影響される一方で、ベトナムの歴代王朝は南への拡張を進め

た。15 世紀後半には中部のチャンパ王国を制圧し、18 世紀後半には、現在のベトナムの南

部を支配圏に収めた。さらに、西方のラオス、カンボジアに対しても従属関係を強要するな

ど、「北属南進」の政策をとった。

歴代王朝は、中華帝国を中心とする冊封体制の中に入ることで、中国による支配を回避し

てきたが、19 世紀に入るとフランスの支配を受けることとなり、1887 年には「フランス領

インドシナ連邦」が成立した。そのため、現在でもベトナムには、植民地時代に建てられた

フランス風の建物が残っている。ハノイのセント・ジョセフ教会や、ホーチミン市のサイゴ

ン大教会、中央郵便局などである。

ホーチミン市中心部、メリン広場にあるチャン・

フン・ダオの銅像。(2015 年 9 月 筆者撮影)

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2.第二次世界大戦とベトナムの独立

フランス植民地下において、ベトナムは厳しい収奪を受けることとなった。そのため、ナ

ショナリズム運動が高揚し、1930 年 2 月、後に国家主席となるホー・チ・ミンが、「ベトナ

ム共産党」を結成した。

ベトナムは、第二次世界大戦中に日本の支配下に入る。日本軍は、まず 1940 年 9 月に北

部仏印に進駐し、直接支配を行った。続いて 1941 年 7 月に南部仏印に進駐し、「日仏共同

支配」と呼ばれる、フランス植民地政府(仏印政府)を介しての間接支配を行った。

1941 年、ホー・チ・ミンが香港から帰国した。彼は、抗日・抗仏運動を組織的に進める

ためにベトミン(ベトナム独立同盟)戦線を結成した。それは、インドシナ共産党(1930 年

10 月にベトナム共産党から改名)を中心にしつつも、幅広い勢力を巻き込んだ組織の連合

体である。

日本軍は、敗戦が濃厚になった 1945 年 3 月 9 日に、仏印政府に対して「明号作戦」と呼

ばれるクーデターを決行し、仏印政府の官吏や軍人を逮捕した。そして、3 月 11 日に阮朝

の皇帝バオ・ダイを擁立し、ベトナムに対して名目的な独立を与え、新政府の首相にチャン・

チョン・キムを据えた。

ベトミン戦線は、8 月 15 日の日本の敗戦を機に、全土で一斉蜂起し、日本軍から政権を

奪取。9 月 2 日にはホー・チ・ミンが「ベトナム民主共和国」(後の北ベトナム)の独立を

宣言した。

しかし、ベトナム民主共和国の独立を認めないフランスは、戦後インドシナに復帰し、

1946 年 6 月、ベトミン政府に対抗して南部にコーチシナ共和国を発足させた。それに対し

て、ベトミン政府はベトナム全土での完全独立を要求し、両者はパリ郊外のフォンテンブロ

ーで事態の打開のための交渉を行った。しかし、その交渉は決裂し、11 月、第一次インド

シナ戦争(抗仏戦争)が勃発した。

3.第一次インドシナ戦争とジュネーブ協定

戦争最中の 1949 年 3 月にフランスは、香港に亡命していたバオ・ダイとの間でエリゼ協

定を締結し、同年 7 月に、バオ・ダイを国家元首兼首相とする「ベトナム国」(後の南ベト

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ナム)を成立させた。ベトナム国は、コーチシナ共和国を含む地域に成立した国家で、軍事・

外交権をフランスに委ねたフランス連合内の独立国であった。

抗仏戦争はベトナム民主共和国側をソ連・中国が支援し、フランスを米国が支援し、東西

冷戦下における熱戦の様相を呈したが、1954 年 5 月に、ラオス国境に近いディエン・ビエ

ン・フーでフランス軍が降伏し、ベトミン側が勝利した。

フランス軍が降伏した翌日の 1954 年 5 月 8 日から、スイスのジュネーブでインドシナに

関する会談が開催された。参加国は、米国、ソ連、フランス、イギリス、中国、ベトナム民

主共和国、ベトナム国、ラオス、カンボジアであった。そして、同年 7 月 21 日に、インド

シナに関するジュネーブ協定が締結された。

協定の中では、軍事行動の停止や、北緯 17 度線を暫定軍事境界線とし、ベトミン政府側

はそれより北に、フランス軍およびベトナム国政府軍はそれより南に撤収することが定め

られた。そして、最終宣言には、2 年以内に全土統一のための総選挙を実施することが記さ

れた。しかし、協定を不服とする南ベトナムが調印を拒否し、米国も最終宣言に署名しなか

ったため、実効性の乏しいものとなった。

その後、ジェム政権側は総選挙をボイコットした。その結果、北緯 17 度線が事実上の国

境線となり、北のハノイを首都とするベトナム民主共和国と、南のサイゴンを首都とするベ

トナム共和国の分断が固定化した。

ジュネーブ協定締結直前の 1954 年 7 月 7 日、南ベトナムでバオ・ダイ国家元首が米国の

意向を受け、ゴ・ディン・ジェムを新首相に任命した。ゴ・ディン・ジェムは反共主義者の

カトリック教徒であり、米国を拠点に独立運動を行っていた。そのため、南ベトナムへの影

響力を維持しようとしていた米国は、ジェムを好都合な人物と考えた。ジェムは 1955 年 10

月の国民投票でバオ・ダイに勝利して共和制を敷き、同月に成立したベトナム共和国(南ベ

トナム)の初代大統領に就任した。

しかし、ジェム政権は親族を登用したり、キリスト教徒を重視し、労働運動を弾圧するな

ど、抑圧的な政策を行い、政権内での腐敗も深刻であったため、南ベトナム国民からの強い

反発を招くこととなった。そして、ベトナム労働党(1951 年 2 月にインドシナ共産党から

改称)は、1959 年 1 月に、南部における武装闘争を決定。1960 年 12 月に「南ベトナム民

族解放戦線」(NLF)が結成された。さらに、翌 61 年には武装組織としての「南ベトナム

解放軍」が組織され、南ベトナム政府に対する武力闘争が本格化した。

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ホーチミン市にあるサイゴン大教会(左)と中央郵便局。植民地時代に建てられた、フランス風の建物が

各地に残されている。 (2014 年 8 月 筆者撮影)

第 2 節 ベトナム戦争―米国の戦略とベトナムの抵抗―

1.ケネディ政権の「特殊戦争」

北ベトナムの支援を受ける NLF による攻撃で、ジェム政権側は危機的状況に追い詰めら

れた。しかし、東南アジア地域における共産主義勢力の拡大を恐れる米国は、ベトナムを「自

由世界の砦」と捉え、ジェム政権に対する支援を強化していく。その根底には、戦後の米国

で信じられていたドミノ理論3があった。

米国のケネディ政権(1961-1963 年)は、ベトナムに対して「特殊戦争」と呼ばれる戦

略をとり、南ベトナム政府および軍を間接的に支援した。それは、米国が南ベトナムに特殊

部隊を派遣し、南ベトナム軍に軍事訓練を行い、近代兵器や弾薬・装備などを提供するもの

3 いずれかの 1 国が共産主義国となれば、ドミノ倒しのように近隣諸国も次々に共産化す

るであろうという外交上の論法。トルーマン政権期からヨーロッパ情勢について用いられ

ていたが、アイゼンハワー政権のダレス国務長官がアジアに対してこの考え方を適用し、

アイゼンハワー大統領が 1954 年 4 月 7 日の記者会見で公表した。(中野 2010 年 95

頁)

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であった。その期間の米軍の役割は、秘密裏に南ベトナム軍の後方支援を行う“隠密作戦”

に限られていた。また、人々を NLF 側に参加させないようにするための宣伝工作もくり広

げた。

しかし、ジェム政権は米国が提案する政策には従わず、政権維持のために財政・軍事支援

を求めるだけであった。そして、1963 年には仏教徒弾圧に抗議する僧侶の焼身自殺や、軍

によるクーデターが発生するなど、反ジェム闘争は拡大の一途をたどり、「特殊戦争」戦略

は、行き詰まりの様相を呈した。

フエにある旧王宮。敷地内には、ベトナム戦争時代に破壊された爪跡が残っていた。

(2014 年 8 月 筆者撮影)

2.ジョンソン政権の「局地戦争」

1963 年のケネディ大統領暗殺を機に、副大統領から大統領に昇格したジョンソンは、

1964 年 8 月に発生したトンキン湾事件4を契機に、「局地戦争」と呼ばれる戦略へと転換、

本格介入に踏み切った。1965 年 2 月には北ベトナムへの爆撃(北爆)が恒常化し、翌 3 月

には海兵隊がダナンに上陸。以後最大で約 54 万人の兵力がベトナムの戦場に投入されるこ

とになる。米軍は大量の兵力を投入し、かつ近代兵器で武装していたにも関わらず、戦況は

硬直し、NLF 側に勝利することができなかった。

一方で、米国国内では、市民がテレビを通してベトナムの戦場の凄惨な光景を知ることに

4 1964 年 8 月にベトナム北部のトンキン湾で、米国の駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に攻撃

された事件。8 月 2 日の攻撃は実際に発生したが、8 月 4 日の 2 回目の攻撃は、後に米国

による捏造であったことが発覚する。ジョンソン政権は 2 回目の攻撃を北ベトナムによる

「報復」と見なし、本格介入への口実とした。

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なり、反戦運動が高まっていった。その最中の 1968 年 1 月に、NLF 側は旧正月(テト)

の機を突いた「テト攻勢」と呼ばれる一斉蜂起を行い、サイゴンの米国大使館などの重要施

設を攻撃した。

テト攻勢は NLF の軍事的敗北に終わったが、この事件は米国国民に多大な衝撃を与え、

反戦運動がさらに高まる結果となった。その結果、ジョンソン大統領はベトナム介入政策の

失敗を認め、同年 3 月に次期大統領選への不出馬を表明した。

1965 年 3 月 10 日、ダナンのビーチに上陸する米国海兵隊(左 ダナン博物館蔵)。現在はリゾート地とし

て発展し、多くの海水浴客で賑わっている。 (2015 年 9 月 筆者撮影)

3.米軍の撤退と「ホーチミン作戦」

1968 年の大統領選では民主党のヒューバート・ハンフリー副大統領を抑え、「法と秩序」

や「名誉ある撤退」を公約に掲げた共和党のリチャード・ニクソンが勝利した。

1969 年 1 月に就任したニクソン大統領は、ベトナムにおける米軍の段階的な撤退を開始

し、南ベトナム政府軍が単独で戦う「戦争のベトナム化」戦略を進めた。さらに、米軍を安

全に撤退させるために、北ベトナム側との秘密交渉を行った。その一方で、外交交渉を有利

に進めるために北爆を再開したり、カンボジア領内を通るホーチミン・ルートを爆撃するな

ど、軍事面において労働党を追い詰める戦略をとった。一方、同年に南ベトナムにおいて、

NLF などの反政府諸勢力が合同し「南ベトナム臨時革命政府」を樹立した。

そして、1973 年 1 月、パリで米国、北ベトナム、南ベトナムのサイゴン政府と臨時革命

政府の4者間でパリ和平協定が締結された。

その和平協定の中では、北ベトナムによる南北国境の尊重と南部への攻撃停止が規定さ

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れていた。しかし、北ベトナムは米軍が再び介入してこないことを確認すると、「ホーチミ

ン作戦」と呼ばれる南部侵攻作戦を行い、1975 年 4 月 30 日に首都のサイゴンを陥落させ

た。ベトナム労働党はそれを南部「解放」と呼んだが、現実には北ベトナムによる南ベトナ

ムの武力制圧であった。

南ベトナム時代、大統領官邸だった統一会堂(左)。1975 年 4 月 30 日に北ベトナム軍の戦車が突入して戦

争は終結した。 (2015 年 3 月 筆者撮影)

ホーチミン市郊外のクチにある、ベトナム戦争時代に使われていた地下トンネルに入る筆者。中はとても

狭くて暗かった。 (2015 年 6 月 筆者の友人撮影)

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第 2 章 公教育で語られているベトナム戦争

第 1 節 歴史教科書の記述

1.共産党政府の視点から教えられる戦争史

第 1 章では、主に日本で出版された文献に書かれているベトナムの歴史を、ベトナム戦

争時代を中心にまとめた。しかし、ベトナムの学校で教えられている歴史は、必ずしもこの

記述と同じではない。

ベトナムでは、小学校 4 年次から毎年、週 2 回の歴史の授業が行われる。その学校教育

の中では、ベトナム戦争についてどのように教えられているのだろうか。ベトナムの高校で

使用されている歴史の教科書『LICH SƯ 12(歴史 12 年生)』から探ってみた(以下、和訳

は筆者による)。

同書第 23 課のタイトルは「二つの地域の人民による米国帝国主義に対する直接戦争。北

部人民による戦闘と生産」(173 頁)であり、米国が本格介入を開始した 1965 年から 1973

年のパリ和平協定締結まで、15 頁にわたり詳細に書かれている。“2 つの地域(2 miên)”

とは、北のベトナム民主共和国と南のベトナム共和国のことである。ベトナム政府は、北ベ

トナムと南ベトナムは、別々の国ではなく、あくまで同一の国内における二つの地域として

捉えていた。そのため、ベトナム語で“国”を意味する“nươc”ではなく“地域”を意味

する“miên”が使われていると考えられる。

第 23 課の書き出しは、「1965 年から 1973 年までの間、北部と南部の二つの地域の我ら

人民は、絶え間なく続く“局地戦争”および“戦争のベトナム化”戦略を打ち破る戦闘を行

い、米国帝国主義の空軍と海軍による戦争で破壊された」(173 頁)とある。その中の“我

ら人民は”という文言は、人々を奮い立たせるための言葉だが、威圧的に思える。

続く第 24 課のタイトルは「北部の社会における復興と経済発展、南部の完全なる解放」

(188 頁)であり、1973 年のパリ和平協定締結後の南部侵攻作戦の開始から、1975 年の

「サイゴン陥落」まで、10 頁にわたり書かれている。

教科書の中には、北ベトナムと南ベトナムの人民が、米国帝国主義と、その傀儡政権であ

る南ベトナム政府、および米国の同盟国の軍隊による侵略に対して、いかに勇敢に戦ったか

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について書かれている。

その認識は、各課の中のタイトルを見ても明らかである。

第 23 課 Ⅱ.「北部は、米国による第 1 回目の破壊戦争への抵抗闘争を行い、物資の生

産を行うなど、後方の義務も果たした」(178 頁)

第 23 課 Ⅲ.「米国の“戦争のベトナム化”および“戦争のインドシナ化”戦略に対する

闘争(1969-1973)」(180 頁)

第 24 課 Ⅱ.「南部の敵に対する闘争、“平定と国土回復”の構築と完全な解放への前進」

(190 頁)

第 24 課 Ⅲ.「南部の完全な解放、祖国の領土の完全な奪取」(192 頁)

このように、あくまで北ベトナム政府だけの指導下で、北部と南部の人民が勇敢に戦った

史実を、同政府側からの視点で書かれている。そこには、南ベトナム政府側の視点どころか、

共に戦った南ベトナム民族解放戦線側の記述もほとんど見られない。

ベトナムの高校で使用されている歴史教科書。

(2015 年 11 月 筆者撮影)

2.ベトナム政府の考える勝利の要因と歴史的意義

ベトナム戦争に関する記述の最後は、第 24 課 Ⅳ.「抗米救国戦争(ベトナム戦争 以下

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同)の勝利の要因と歴史的な意義」(197 頁)と題してまとめられている。

その中では、まず第 1 項「勝利の要因」として、「抗米救国戦争の勝利は、ホー・チ・ミ

ン国家主席が先頭に立った共産党の英明な指導によるものである」「愛国心豊かな我ら人民

は、南部解放事業、南部の建設と防衛、国家の統一のために、一致団結し、勤勉に働き、勇

敢に戦った」(同上)ということが記されている。

最後となる第 2 項には「歴史的意義」として、「抗米救国戦争の勝利により、21 年間に及

ぶ米国に対する戦争、30 年間に及ぶ人民解放戦争、および、1945 年の 8 月革命後の祖国防

衛戦争が終結し、植民地主義の統治の災厄に終止符を打った」「その礎の上に、国内におけ

る民族・民主主義・人民の革命と国家の統一が完成した」「抗米救国戦争の勝利は、民族の

歴史に新しい時代を切り開いた 祖国の独立・統一・社会主義へと昇る時代へと」と書か

れている。

要するに、ホー・チ・ミン国家主席を中心とするベトナム共産党の英明な指導の下で、“我

ら人民”が勇敢に戦ったことにより、勝利を収めることができたという認識が示されている

のである。このように、ベトナムの歴史の授業では、史実を淡々と教えるのではなく、共産

党政府がいかに正しいことを行って来たのかが、全体を通して強調されていることが特徴

的である。

第 2 節 戦争史に無関心な市民

1.戦争史に無関心な市民

ベトナム戦争は、小国ベトナムが超大国である米国に勝利した戦争である。ベトナム政府

は、そのことを誇示するために、多くの戦争関連の博物館を建造し、日本、フランス、米国

に勝利したベトナムの“栄光の歴史”について、様々な展示をしている。

まず、首都ハノイには、ベトナム軍事歴史博物館や空軍博物館、旧革命博物館などがある。

最大の都市ホーチミン市には、戦争証跡博物館やホーチミン作戦博物館、ホーチミン市博物

館などがある。さらに、ベトナムの主要な都市にはホー・チ・ミン博物館があり、ホー・チ・

ミン初代国家主席の、主に抗仏戦争、ベトナム戦争時代における功績を物語る史料が数多く

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展示されている。

このように、ベトナムには多くの戦争関連の博物館がある。その理由は、民族の“栄光の

歴史”を紹介するだけでなく、共産党の指導による民族解放の実績を示すことで、一党支配

の正当化につながると考えられる。

筆者は上記の博物館のうち、いくつかを訪れたが、見学者は、西洋人や日本人などの外国

人観光客ばかりであり、ベトナム人はほとんどいなかった。唯一の例外は、学校から訪れて

いる生徒たちである。

例えば、2015 年 6 月に訪れたホーチミン市のホー・チ・ミン博物館は、外国人客の入場

料 10,000 ドンに対し、ベトナム人の入場料は 2,000 ドンと、5 分の 1 の入場料で入ること

ができる。それでも、ベトナム人の姿はほとんど見られなかった。

一般的なベトナム人の給与水準は決して高くはない。しかし、2,000 ドンは約 11 円(2015

年 6 月現在)で、ベトナム人にとっても決して高いとは言えない値段である。それにも関わ

らずベトナム人の姿がほとんど見られないことに、ベトナム人のベトナム戦争に対する関

心の低さを感じた。

同年 9 月にハノイのホー・チ・ミン博物館も訪れたが、そこではベトナム人の入場料は無

料であるにも関わらず、ベトナム人の姿はほとんど見られなかった。ベトナム人らしき人に

近づくと、中国語の会話が聞こえ、中国人だとわかる、そのくり返しであった。

ハノイの空軍博物館(左)とホーチミン市の戦争証跡博物館。現在の公的史観に沿った多くの展示物があ

る。 (2015 年 3 月 筆者撮影)

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ハノイの軍事歴史博物館(左)。中学生たちが学校から見学に訪れていた。 (2015 年 3 月 筆者撮影)

2.風化する戦争の記憶

ベトナムには、戦争に関連するものは博物館だけでなく、多くの史跡も残されている。例

えば、ホーチミン市近郊のクチには、南ベトナム民族解放戦線が使用していた地下トンネル

が残されている。ホーチミン市から約230㎞南に位置するコンダオ島のフーソン収容所や、

ハノイにあるホアロー収容所など、ベトナム戦争時代に使用されていた収容所も各地に残

されている。

筆者は、2015 年 3 月にカンボジア国境に近いバーチュック村を訪問し、6 月にはクチを

訪れた。バーチュック村は、第三次インドシナ戦争時代5にカンボジアから侵入したポル・

ポト派が、ベトナム人数千人を大虐殺したとされる場所であり、現在は慰霊堂が建てられて

いる。クチは、ベトナム戦争時代に実際に使用されていた地下トンネルが現存する場所であ

り、現在ではバーチュックとともに観光地となっている。

しかし、バーチュック村では、真剣な表情で見つめる外国人観光客に対し、ベトナム人観

光客の一部は V サインをしながら記念撮影を行うなど、過去の戦争に対する無関心さが伺

えた。また、クチでは外国人観光客が大半を占め、ベトナム人の姿はほとんど見られなかっ

た。クチで見かけたベトナム人は、現地のガイドと土産物店の店員くらいであり、観光客は

外国人ばかりであった。同様の光景は、ホーチミン市の戦争証跡博物館でも見られた。それ

らの事実を見て、ベトナム人の戦争に対する記憶が風化していることを感じるとともに、む

5 「カンボジア紛争」とも呼ばれるカンボジアの内戦。1979 年 1 月にベトナムが支援する

ヘン・サムリン政権がカンボジアで成立すると、対立するポル・ポト派はタイ領に拠点を

構えて反撃し、その後 10 年にわたり内戦状態となった。

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しろ外国人観光客の方が、ベトナム戦争に対して高い関心を持っていると思えた。

2015 年 6 月にベトナムを訪れた際に、ホーチミン市のタンソンニャット国際空港で入国

手続きを待っている時、前に 60 代とおぼしき 5 人の日本人男性のグループがいた。ちょう

どベトナム戦争時代に青春を送った世代である。その時、その人たちは明日クチを訪れると

いう話をしており、戦後 40 年のこの年にベトナム戦争に興味を抱いているのは、むしろ日

本人の方ではないかと思った。

それでは、ベトナム人が戦争関連の博物館や史跡に対して関心が低いのは、何が原因だろ

うか。筆者は、その原因は、幼少期より学校の行事として、それらの場所に連れて行かれて

いたことにあると考える。例えば、2015 年 3 月に、ハノイにある軍事歴史博物館で、中学

生か高校生が学校から見学に来ている光景を目にした。その時の彼らは、楽しそうとか、興

味深そうというよりも、ただ学校の行事であるから来ているだけのように見えた。

以下の章で記すように、筆者がインタビューを行った学生たちも、小学校から高校までの

時期に、そのような見学に動員されていた。それについて質問した時には、「そのようなこ

とを、なぜ思い出させるのか」というような、うんざりとした反応が多かった。

ベトナムの若者が、過去の戦争に対して興味がないのは、幼少期より、“民族の栄光の歴

史”を押し付けられ、義務的に博物館などに行かされたせいもあるのではないだろうか。つ

まらない記憶の場所に、敢えてまた行きたいとは思わないだろう。

バーチュック村にある慰霊堂。虐殺された人々の頭蓋骨が積み上げられていた。 (2015 年 3 月 筆者撮影)

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第 3 章 ベトナム人学生へのインタビュー(1):歴史への関心について

第 1 節 ベトナム戦争への関心度

ベトナムの学生たちにベトナム戦争に関する質問をして見えてきたことは、戦争を過去

のものと捉え、ほとんど関心を持っていないことである。そもそも、歴史の授業に対する関

心が低いことがわかる。

筆者がインタビューを行った 40 人の中で、小学校から高校までの歴史の授業に興味があ

ると答えた人は 4 人だけであった。その 4 人も、欧米や日本などの、ベトナム以外の国の

歴史には興味があるが、ベトナムの歴史には全く興味がないということであった(表1参

照)。その理由は、幼少期から繰り返し教えられてきたことに対して辟易しているためのよ

うに思えた。以下は、「ベトナム戦争に興味はあるのか。学校では、どのようなことを教わ

ったのか」という質問に対する答えの例である。

「ベトナム人は、ベトナム戦争について、小学校から高校まで、毎年たくさんのことを先

生から聞かされる。だから、ベトナム戦争についての知識はある。だからと言って、とくに

興味はない」(北部 ホアビン省出身 ハノイ在住)

「そもそも、ベトナムで歴史は人気のない科目。ベトナム戦争について繰り返し教えられ

たが、興味や関心はない」(北部 フート省出身 ハノイ在住)

「ベトナムの学生は、自国の歴史には興味はない。歴史に興味があるという学生のほとん

どは、外国の歴史に興味を持っている」(北部 ゲアン省出身 ハノイ在住)

「戦争は、過去に終わったこと。今、私たちは将来のために勉強することだけを考えてい

る。過去の戦争のことは、全部政府が言っていること」(南部 フエ出身 フエ外国語大学

在籍者 山梨県在住)

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以上のように、幼少期からくり返し教えられてきた、公的史観に対して辟易している様子

を、多くの学生たちから感じ取ることができた。第 2 章で述べたように、歴史の授業は小学

校 4 年次から毎年、週 2 回行われる。歴史の授業時間以外にも、ベトナム戦争などの“民族

の栄光の歴史”に関する話は、学校でしばしば聞かされるようである。

さらに、歴史の授業それ自体が人気のない科目である。

「ベトナムで歴史の授業は人気がない。憶えることばかりで面倒臭い。特にベトナムの歴

史は、とてもつまらないと感じる」(北部 クアンチ出身 ダナン在住)

「歴史は得意ではない。重要な箇所は憶えるけど、細かい部分までは憶えられない」(南

部ベンチェ出身 ホーチミン市在住)

「ベトナム戦争は、ベトナム人にとって難しい話。あなた(筆者)は、どうして卒業論文

にベトナム戦争について書こうと思ったのか」(北部 タインホア出身 ハノイ在住)

以上のように、歴史の授業は憶えることが多いため、面倒臭いと感じる学生も多いようで

ある。また、インタビューを行った学生たちは、自分だけでなく、自分の友達も歴史に関心

のない学生ばかりであると述べていた。さらには、ベトナム戦争の話題を持ち出すだけで、

露骨に嫌そうな表情をされることも多々あった。そのことからも、ベトナムの学生たちが、

いかに過去の戦争に対して興味がなく、敬遠しがちであるが伺える。

2015 年の高校卒業・大学入試統一試験では、歴史の受験者数は全 8 科目の中で最も少な

く、受験生が 1 人もいない試験会場も多くあった(http://www.viet-jo.com 2015 年 7 月 7

日)。それほどまでに、歴史はベトナムの学生たちに人気のない科目であるが、今回のイン

タビューは、それを裏付ける結果となった。

【表1】

ある ない

歴史に対する興味 4 人 36 人

自国の歴史に対する興味 0 人 40 人

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第2節 過去の侵略国に対する見解

次に、ベトナム戦争の時代にベトナムに侵攻した米国や、かつてベトナムに侵攻し支配も

した、中国やフランスについてどう思うのかも聞いてみた。その結果は、中国に関しては 40

人中 36 人が「大嫌い」と答え、2 人が「どちらでもない」、残りの 2 人が「好き」と答えた。

しかし、好きだと答えた 2 人にしても、中国の伝統や文化が好きなのであり、中国の政治家

や中国人は大嫌いとのことである。

それに対して、米国やフランスに関しては、「大好き」から「少し憎悪を覚える」まで、

意見に差異はあるものの、明確に「嫌い」と回答した人は 1 人もいなかった。ほぼ全員が

「大嫌い」と答えた中国とは対照的な結果となった(表2参照)。

以下は、回答の例である。

「米国、フランスによる侵攻は過去の話であり、両国とも嫌いではない。米国との戦争は

40 年前に終わった。フランスによる植民地支配は約 100 年間。それに対して、中国には

1000 年以上支配されたため、中国への印象はずいぶん違う」(北部 クアンチ省出身 ダナ

ン在住)

「中国は、個人的には大嫌い。中国人にもいい人はいるが、悪い人の方が多いと思う。中

国政府の印象がとにかく悪い。習近平国家主席は、最初に見た時はとても優しそうな人だと

思ったが騙された」(南部 クアンナム省出身 ダナン在住)

「日本に留学していた時に、米国人やフランス人の学生たちから『我々のことが嫌いか』

と聞かれたことが何度かあったが、何故そのように尋ねられるのかが分からなかった。戦争

は悲しい事だけど昔のこと。今の米国人やフランス人のことが嫌いということは全くない」

(南部 クアンナム省出身 ダナン在住)

「米国、フランスが嫌いという思いはない。中国は大嫌い」と言った上で、現在、中国が

南シナ海に展開していることについて激しく批判した(北部 ゲアン省出身 ハノイ在住)。

以上のように、米国のベトナム戦争への介入は 40 年前に終わったことであり、フランス

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の約 100 年間の植民地支配に至っては、さらに前の話である。それに対して、中国には 1000

年以上の長期にわたり支配され、独立後も常に従属関係を強いられてきた。米国・フランス

の侵略より遥か昔であるにもかかわらず、ベトナムの学生はそのように認識している。その

上に、現在も南シナ海で領土問題を抱えていることが、対中国感情の著しい悪化につながっ

ているようである。

【表2】

好き どちらでもない 嫌い

米国 40 人 0 人 0 人

フランス 37 人 3 人 0 人

中国 2 人 2 人 36 人

第3節 独立 70 周年・戦争終結 40 周年への関心度

今年はベトナム戦争の終結 40 周年であると同時に、独立 70 周年の年でもあるが、それ

について関心があるのかについても聞いてみた。その結果は、40 人中全員が関心はないと

答えた。以下は、質問に対する回答例である。

「毎年、『また、この季節が来たな』という思いはある。だけど、そのことで気分が盛り

上がることは全くない」(南部 クアンナム省出身 ダナン在住)

「政府などは、独立・終戦記念に関する多くのイベントを計画したりしているが、一般市

民は全く関心を持っていない」(南部 クアンナム省出身 ダナン在住)

「そのことで盛り上がる人は年寄りばかり。父母の世代も戦争時は幼かったため興味は

ない。もちろん若者たちは全く興味がない」(北部 クアンチ省出身 ダナン在住)

「ベトナムでは、政府が制作した、それに関する You Tube 動画があったが、ほとんど

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誰も見ていないし、話題にものぼらない」(北部 ゲアン省出身 ハノイ在住)

以上のように、ベトナムの若者たちだけでなく、ベトナム戦争の時代にまだ幼かった父母

の世代も、独立や終戦記念行事に全く関心がないようである。さらに、インタビュー対象の

学生たちの友達や家族、親戚もそのことに関心がないようである。「なぜ、日本のメディア

はそんなことに対する特集を組むのか」「なぜ、日本のベトナム研究者たちは、そんなこと

で盛り上がっているのか」という意見も多々あった。

また、ベトナム政府はインターネット時代を意識してか、独立・終戦に関する You Tube

動画を制作したとのことであるが、上述の通り、あまり見る人はいないようである。インタ

ーネット世代の若者へのアピールも、成功したとは言えない。そのように、政府側の強いア

ピールがあっても、戦争の記憶の風化は進んでいることが伺えた。

独立 70 周年を記念する看板(左 ホーチミン市)と文字看板(ハノイ)。

(2015 年 9 月 筆者撮影)

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第 4 章 ベトナム人学生へのインタビュー(2):南北統一について

第 1 節 「南部解放の日」に対する認識

ベトナム戦争は、1975 年 4 月 30 日の「サイゴン陥落」によって終結した。そのため、

ベトナムでは 4 月 30 日は「南部解放の日」として祝日となっている。また、その前後には

5 月 1 日の「メーデー」などで約 1 週間の連休となっている。そして、毎年その時期に、政

府主催の様々な行事が執り行われている。

それでは、ベトナムの学生たちは、「南部解放の日」に関して、どのような認識を持って

いるのか。もしベトナム政府の公教育が確実に浸透しているのなら、学生たちはその日を祖

国が解放された「特別な日」であると認識し、政府主催の行事に積極的に参加するはずであ

る。筆者はそのように考え、本年の 4 月 30 日の前後に 10 人のベトナムの学生に対して、

インターネットの SNSを使ってインタビューを行った。以下は、それに対する回答である。

「旅行や遊びに行く人はたくさんいますよ。今、フン・イェン6のエコパークにいます。

とても混んでいますよ」(4 月 30 日 ハノイ出身 ハノイ在住)

「今、友達と映画館にいます。日本では Fast and Furious(映画のタイトル)を映して

いますか」(4 月 30 日 ハノイ出身 ハノイ在住)

「今日は祝日だから、家で休んでいる」(4 月 30 日 南部・ドンナイ省出身 ホーチミン

市在住)

「先週は連休だったので、実家に帰省しました。故郷はこういう所です」と話し、故郷で

くつろいでいる写真を見せてくれた(5 月 8 日 北部・クアンチ省出身 フエ在住)。

そして、5 月 3 日に他のホーチミン市の学生に対して、「日本は 5 月 6 日まで連休なんだ。

6 ハノイ郊外の町。

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その連休中に海外旅行に出かける人も多いけど、ホーチミン市には、普段よりもたくさんの

日本人がいたりする」と質問したところ、

「休暇中ずっと家にいるからよく分からない」との回答であった。

以上のように、ベトナム各都市の 10 人の学生に対して同様の質問を行ったが、皆、イベ

ントや旅行に出かけたり、実家に帰省して家族と過ごす時間にあてたり、家の中でくつろい

だりしているとの回答であり、政府主催の行事に出かけたと回答した学生は1人もいなか

った(表3参照)。また、学生の側から「南部解放の日」の話題が出ることもなかった。さ

らに、上述のハノイの学生の回答にあるように、ベトナム全体でも、「南部解放の日」の前

後は旅行や遊びに行く人が多く、政府主催の行事に参加する人は少ないようである。

筆者の調査では、政府の公教育が学生たちに浸透しているという証左は得られなかった。

【表3】

した しない

4 月 30 日に政府主催の行事に参加 0 人 10 人

第 2 節 心の中での南北統一の実現について

「はじめに」で、筆者がベトナムの南部であった男性から、北部の人々を嫌う発言を聞き、

ベトナム人の心の中には、いまだに南北の国境が存在するのではないかと感じたことを述

べた。実際にはどうなのかについて明らかにするために、これについても質問してみた。そ

の結果は、南北の間で仲が悪いと答えた人は、40 人中 2 人であり、「祖父母の世代ならその

ようなことがある」と答えた人も 2 人いた。残りの 36 人は、南北の間で仲が悪いことはな

いし、そのような話を聞いたこともないと答えた(表4参照)。

仲が悪いと答えた 2 名は、次のように語った。

「映画の論評をめぐっても、北部の人たちと南部の人たちが、ネットで激しく対立してい

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る」。それは、老若男女を問わずということである。(南部 ドンナイ省出身 ホーチミン市

在住)

「ベトナムは、北部・中部・南部で仲が悪い。そもそも、歴史や文化が違うから」(北部

クアンチ省出身 ダナン在住)

一方、仲が悪くないという回答には、次のようなものがあった。

「ベトナムの北部と南部で対立があるとは思わない。祖父母の世代なら、昔はそのような

ことがあったかもしれないけど、今はないと思う。その男性(上述の、筆者がベトナム南部

で会った男性を指す。 以下同じ)は特殊な人だと思う」(北部 タインホア出身 ハノイ

在住)

「北部と南部の対立は、自分の知る限りはない。祖父母の世代でも聞いたことがない。た

だ、ベトナムは北部と南部では文化が異なるから、北部の人と南部の人が結婚したら、最初

は苦労するという話を聞いたことがある」(南部 クアンナム省出身 ダナン在住)

「ハノイやホーチミン市のことは分からないけど、ダナンに関しては全くない。ダナン外

国語大学には、北部出身の学生も南部出身の学生もいるけど、全く問題はない。第一、いち

いち意識することがない」(南部 クアンナム省出身 ダナン在住)

「北部と南部の対立は昔のことで、今はあったとしても少数派。祖父母の世代も今はそん

なことはない。自分は南部には行ったことがないから、南部のことは分からないけど、その

男性は特殊だと思う」(北部 ゲアン省出身 ハノイ在住)

「北部人と南部人が対立するかどうかは人によると思う。自分の周りでは、あまり聞いた

ことがない」。その男性の話については、「北部の女性は伝統を重んじる傾向にある。南部の

女性は、フランスなどの影響で近代化されている。日本の男性は、伝統を重んじる女性が好

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みではないのか」(北部 ハノイ出身 ハノイ在住)

また、北部出身者でも南部が好きだと答えた人もいた。

「個人的には、南部の人が好き。発音が優しいし、南部の人の方が温かいと思う」

(北部 ホアビン省出身 ハノイ在住)

「ハノイやフエはあまり好きじゃない。ホーチミン市の街も人も優しくて好き」

(北部 クアンチ省出身 フエ外国語大学卒業 ホーチミン市在住)

このように、一部には、いまだに南北間の対立は存在するという回答があった。しかし、

北部南部を問わず大半の学生たちは、そのような対立は過去のものであり、現在では存在し

ないし、存在してもごく少数派であると答えた。それは、戦後に生まれた若者たちだけでな

く、戦争の時代を生きた祖父母の世代も同様とのことである。

ベトナムでは、北部と南部で伝統や文化が異なり、そのためさまざまな摩擦や緊張が発生

するようである。例えば、北部の人と南部の人が結婚をしたり、北部の人が南部に移住した

場合に、伝統や文化が異なるために苦労することはあるようだ。しかし、ベトナム戦争時代

の国境線をはさんだ対立は過去のことであり、現在は存在しないようだ。また、北部の出身

者でも南部の方が好きだという意見が聞かれることは、それだけ北部と南部との障壁が低

いことを示しているのだと思う。その理由は、ベトナム人の未来志向型の性格にあるように

思う。

今回、筆者がインタビューをすることができた人は計 40 人である。しかし、その中で「南

北の間で仲が悪いことはない」と答えた 36 人は皆、自分の周りでもそのような話は聞いた

ことがないと答えていた。その事実から、現在では南北の間の対立はないと、多くの国民が

思っていることが推測できる。

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【表4】

悪い 一部で悪い 悪くない

現在でも南北間で仲が悪い 2 人 2 人 36 人

第 3 節 未来志向型の国民性

ベトナムの学生たちにインタビューをする中で、ベトナム人の性格は未来志向型である

と感じた。そして、そのことが過去の分断の歴史を乗り越えて、心の中の南北国境の撤廃に

成功した理由であると考える。

以下は、そのことが伺えたインタビュー相手とのやり取りである。

筆者「フランスや米国に対して、憎悪を覚えたりはしないの」

「そのような思いは少しありますね。でも、それ(フランスによる植民地支配や、米国の

ベトナム戦争への介入)は昔のことですよ。今はとにかく勉強することです」(南部 フエ

出身 フエ外国語大学在籍者 山梨県在住)

筆者「今回、西湖府タイホーフー

7に行ってみたいと思っている。ホーチミン市では永ヴィン

厳ギエム

寺8や覚ヤック

林ラム

9へ行ったよ」

「お寺が好きなのか。私は、お寺とか古臭い場所にはあまり興味がないんだ。近代的な場

所が好きだ」

筆者「昨日は、ビンタイ市場10に行ってきた。3 月に来た時は、ランソン11、チャウドッ

7 ハノイにある有名な寺院。 8 ホーチミン市にある、ベトナム南部では最大規模の寺院。 9 ホーチミン市では最古と言われる寺院。 10 ホーチミン市にある有名な市場。 11 ベトナム北部、中国との国境付近にある省。

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ク12、カント―13の市場に行った。ベトナムの市場は面白いね」

「ベトナム人で市場に行く人は、年寄りばかりだよ。若者はみんなスーパー(マーケット)

に行く。スーパーの方が清潔できれいだからね」(南部 ビンディン省出身 ホーチミン市

在住)

「昔のことを言うよりも、今はとにかく、日本の技術を学んで、ベトナムを発展させたい

と思う。そのために、日系企業に就職したい」(南部 ベンチェ省出身 ホーチミン市在住)

このように、ベトナムの若者は、常に新しいものを求め、過去をふり返るよりも、将来の

ことを考えて生きていることが分かった。未来志向型の国民性に加えて、近年のベトナムが

高度経済成長期にあることも、その理由だろう。

未来志向型であるがゆえに、自分たちが生まれる前に終結した戦争のことよりも、将来の

ことを考える。現在の米国やフランスに対する印象が決して悪くない理由は、そこにあるよ

うである。反対に、中国に対する印象が悪い理由は、1000 年間の支配の歴史よりも、南シ

ナ海での対立など、目の前の問題にあると考えられる。

筆者は、寺院はその土地の歴史や伝統を感じることができる場所と考えており、風情を感

じられる場所でもあるため、旅先では必ず寺院を訪れる。そのため、ベトナムでも各都市で

寺院に行きたいと思い、インタビュー対象の学生たちに寺院について聞いた。しかし、彼ら

の多くは、寺院は「古臭い場所」であると一蹴し、ほとんど関心を示さなかった。また、筆

者はハノイを訪れた時、旧市街(フランス植民地時代からの建造物が数多く残る地区)に宿

泊したが、「日本は清潔な国なのに、どうして、わざわざこんな汚い場所に来るのか」と、

不思議に思われたりもした。

このように、現在のベトナム人、特に若い世代は、過去の戦争や国家分断の歴史にこだわ

ることなく、古いものをふり返るより、新しいもののみを見つめている。

12 ベトナム南部、カンボジアとの国境を接するアンザン省の町。 13 ベトナム南部、メコンデルタ地域の中心都市。水上マーケットが有名。

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おわりに

ベトナムにとり、超大国である米国に勝利したことは、間違いなく“民族の栄光の歴史”

である。したがって、その歴史について政府が国民に対し強くアピールすることは、必然的

なことであると思う。しかし、国民に対して過剰とも言えるほど栄光をアピールすることで、

逆に国民の歴史に対する興味を喪失させ、戦争の記憶の風化を加速させているようである。

これでは本末転倒であると思う。

米国帝国主義を駆逐し、民族を統一した歴史が、後の世代に影響を与えておらず、むしろ

米国が好きという若者が多いとすれば、ベトナム戦争とはいったい何だったのかという疑

問が起こる。しかし、現在のベトナム政府は、公的史観に対する疑義や、別の視点からの歴

史認識を許さない。

筆者のインタビュー対象者は 40 名であり、もちろんその答えだけでベトナム人全体につ

いて結論を出すことはできない。また、今回のインタビューは、ベトナム学生という同質的

なカテゴリーに限ったものであり、同じような意見を持つ人も多かった。しかし、インタビ

ューの目的は、あくまで学生たちの見解を知ることであり、その一定の成果は得ることがで

きたと思う。

インタビューの結果、「はじめに」で述べた、筆者が 3 月に南部の男性から感じたような

南北間の対立はなかった。そして、多くの人々は、共産党政府が語る歴史のストーリーには

影響を受けず、未来志向で生きている。そのことがかえって過去の南北分断の歴史の記憶を

も克服し、形式だけではなく本当の意味での民族統一を実現させたのではないだろうか。政

府には皮肉なことだが、国家のプロパガンダに耳を貸さないことが、逆に民族を一体化させ

ているとも理解できる。

さらに、国民が未来志向型になることで、過去の侵略国である米国やフランスに対する嫌

悪感が軽減することにも繋がっていることを知った。米国による侵略やフランスの植民地

支配もあくまで過去の出来事として捉え、現在の米国やフランスに対しては、むしろ良好な

感情を持つ人の方が大半であることが分かった。もちろん、現在においても、南シナ海で領

土問題を抱えている中国に対しては、かなりの国民が嫌悪感を抱いている。

今回の研究を行う中で、日本のメディアで伝えられているものとは別のベトナムを知る

ことができた。

そして、現在の世界を見渡せば、多くの民族問題を抱えている。南北朝鮮は現在も分断さ

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れた状態にあり、両国の政権交代後は関係が硬直化している。さらに、中東の「アラブの春」

以降、内戦状態に陥ったシリアやリビアなどから欧州諸国に大量の難民が押し寄せるなど、

世界情勢はますます混沌としている。そのような中で、ベトナムの若者の考え方、生き様は、

一つの示唆を与えてくれるのではないか。

ホーチミン市の高層ビル群(左)と、歴史的な景観が残るクアンナム省ホイアン。

(2015 年 8 月 筆者撮影)

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