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ミュージカル映画の繁栄と衰退 MGM ミュージカルを中心に 4 5 53 本多恵美子

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ミュージカル映画の繁栄と衰退

MGMミュージカルを中心に 4年 5組 53番 本多恵美子

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目次 はじめに 第一章 ミュージカル映画とは 1-1 ミュージカル映画というジャンル 1-2 ミュージカル映画の誕生 1-3 アメリカにとってのミュージカル映画 第二章 MGMミュージカル 2-1 MGMとは 2-2 MGMミュージカルの特徴 2-3 MGMミュージカルの繁栄 2-4 MGMミュージカルの衰退 第三章 MGMミュージカルスタイルの崩壊 3-1崩壊 3-2戦後映画の流れ 3-3音楽の変化 3-4エルヴィス・プレスリー 3-5『恋の手ほどき』 おわりに

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はじめに 『ラ・ラ・ランド』をみたことをきっかけにMGMのミュージカルに興味を持った。『ラ・ラ・ランド』の歌や踊り、美しい舞台美術、切ないストーリーに私は夢中になった。また、

それと同時に『ラ・ラ・ランド』にどこか昔ながらの懐かしさを感じたのだ。丁度その頃、

MGMのミュージカルをいくつか見る機会があったので、『ラ・ラ・ランド』がMGMのような過去の作品をオマージュしていることに私は気づいた。よって私はきっと昔のミュー

ジカル映画はこういうものだったのだろう、そしてその時代の人々はこういう作品を娯楽

として生きていたのだろうと想像を膨らませながらこの作品を見ていた。特に『雨に唄え

ば』、『ブロードウェイ・メロディ』をオマージュしたシーンには感動した。たしかに、近

年でも『レ・ミゼラブル』などいくつものミュージカル映画がヒットしている・しかし、『ラ・

ラ・ランド』のように MGM のような昔ながらのミュージカル映画を彷彿させるようなミ

ュージカル映画は少ないのではないか。『ラ・ラ・ランド』にはそういった過去の作品の数々

を懐かしませるなにかがあったような気がする。私は豪華で歌と踊りに包まれた MGM の

ミュージカルが好きだ。『ラ・ラ・ランド』を見てから昔のMGMのようなリアリティなど気にしない、豪華で楽しくて素晴らしい音楽、踊りに溢れているミュージカルを現代でも

もっと見てみたいと思うようになった。人種差別や争い、そういった社会性をこめたミュ

ージカルももちろん素晴らしいと思う。しかし、MGM絶頂期のような作品は今ほとんど見られない。そこで、昔のようなミュージカル映画の時代がくることを願う意味も込めてミ

ュージカル映画について考えていきたいと思う。かつてアメリカもとどまらず世界をとり

こにした MGM のようなミュージカル映画はどのようなものだったのか、そしてそれがど

うして衰退してしまったのかをこの論文では考察していく。ミュージカル映画に関しての

記事や実際にミュージカル映画を鑑賞したり、ミュージカル映画に関しての論文をもとに、

ミュージカル映画の歴史の流れを汲みながらアプローチを進めていく。 第一章ではまずミュージカル映画とは何かをまず舞台のミュージカルから考察し、ミュ

ージカル映画の誕生について歴史を述べ、アメリカにとってのミュージカル映画の立ち位

置などを考察するミュージカル映画を整理していく。 第二章では MGM について、MGM の歴史、誕生を述べそのあとに、MGM ミュージカルの繁栄と衰退をさまざまな理由や背景を交えながら考察していく。 第三章では、第一章、第二章をふまえて、ミュージカル映画がなぜ衰退をしていかなけ

ればならなかったのかを、戦後映画の流れ、音楽を中心に『監獄ロック』、エルヴィス・プ

レスリーなどを例にして考察していく。 第一章 ミュージカル映画とは 1 ミュージカル映画というジャンル ミュージカル映画とは何かを考えてみる。まず、舞台のミュージカルについて触れる。

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19 世紀の終わりに、ミュージカル・コメディが盛んになり、そこにさらにシリアスな題材が加わりミュージカル・プレイと称されるようになった。それがジャンルを増し、風刺的

なものから悲劇的なもの、バラエティに文学が加えられたものまで出現するようになり、

これらを総称して「ミュージカル」と呼ぶようになったのだ。 また、ミュージカルは 1つのドラマが中心にありそこに音楽と舞踊とが結びついている。人間の感情が高まると、日常の動作・会話から次元が増して踊りとなる。これが原則だ。

これと同じことを言っている文章がある。 「気持ちがエスカレートして歌になり、歌がきわまってダンスになる」(アーサー・フリード、ミュージカルについて。山田宏一、p114、『キネマ旬報(794)1980、キネマ旬報社) このように、ミュージカルが目標とするのは、ドラマを中心としてそれを表現するため

に音楽を動員する結合体である。そして、その舞台が映画化したもの、それがミュージカ

ル映画である。 2ミュージカル映画の誕生 ミュージカル映画の誕生の歴史を整理する。ミュージカル映画は、1927年、ニューヨーク、ワーナー劇場で上映された『ジャズ・シンガー』から始まった。『ジャズ・シンガー』

はブロードウェイ芝居をもとに作られ、史上初のトーキー映画であり、映画界に新たなる

ジャンルを持ち込んだばかりか、世界に影響を与えた。『ジャズ・シンガー』の登場により、

サイレント映画時代に終わりを告げたのだった。これにより大衆はトーキー映画を求める

ようになり、映画会社は生き残りのため、不慣れなトーキー映画の制作にとりかかること

を余儀なくされた。また、それと同時にサイレント映画時代のスターたちも新たなるトー

キー映画の生存競争に飲み込まれていった。これがミュージカル映画のはじまりである。 3アメリカにとってのミュージカル映画 映画が音を持つと、アメリカでは一斉にミュージカル映画作りが始まった。以下アメリ

カにとってのミュージカル映画がわかる文献を紹介する。 「ミュージカル映画が誕生するために必要な条件は、以下 4点だと考えられる。 ①映画産業の十分な発達 ②映画マーケットの存在 ③芸人や作曲家などの存在 ④社会的な圧力による娯楽への要求 アメリカでは、この 4 つの条件が十分に満たされていた。特に重要なのは、芸人や作曲家が沢山いたことで、オペラやクラシック音楽だけでなく、ジャズも盛んであった。芸人

もミンストレル・ショー、ヴォードヴィル、バーレスクなどの大衆音楽だけではなく、ブ

ロードウェイのミュージカル・コメディからも供給された。こうした条件が整っていたの

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で、劇場から芸人を連れてきて、作曲家を探し出せば、すぐにでもミュージカル映画を作

ることができた。 これに対して、ほかの国はどうだっただろうか。英国では、大衆的な

ヴァラエティ・ショーの伝統はあったものの、活躍の場所はミュージック・ホールに限ら

れていたので、アメリカに比べると層はかなり薄かった。音楽劇を見せる劇場にしても、

ジャズ音楽の伝統はなかったので、ギルバートとサリヴァンのオペレッタ作品のようなも

のに限られていたために、次から次へとミュージカル作品を生み出すだけの力を持たなか

った。」(ミュージカル映画事典 p9) このようにミュージカル映画はアメリカの文化の一面といえるほど、アメリカと密接な

関係があるということがわかる。ミュージカル同様に、ミュージカル映画はアメリカが世

界に誇るエンターテイメントなのだ。 第二章 MGMミュージカル 1MGMとは

MGMは、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー社Metro-Goldwyn-Mayer Inc.の略称である。マーカス・ロウが 1910 年に設立した会社が、メトロ映画会社 Metro Pictures Corporation と 1920 年に一緒になり、1924 年にゴールドウィン映画会社 GoldwynPicture Corporation とルイス・B・メイヤー映画会社 Louis B. Mayer Pictures Corporationを合併して、MGMの社名が出来た。 有名なライオンのマークは、ゴールドウィン会社のマークを引き継いだもので、ライオ

ンの上のリボンに書かれている文字 Ars Gratia Artis(ラテン語で「芸術のための芸術」という意味)もゴールドウィン時代にはライオンの下に A Goldwyn Pictureと書いてあったが、MGM時代になってそれがMetro Goldwyn Mayer(ハイフンなし)に変わり、1950年代になってからライオンの上に出るようになった。 ゴールドウィン映画会社を売ったサミュエル・ゴールドウィンは、新しくサミュエル・

ゴールドウィン社 Samuel Goldwyn Inc.を作り、そこで映画製作を行ったので、MGMでの製作はルイス・B・メイヤーが中心となり、「芸術のための芸術」をモットーに、空の星よりも多いといわれたスターたちを抱えて、豪華な大作を作った。

MGMは、今でこそミュージカル映画の代名詞となっているが、トーキー初期のミュージカルへの対応には苦労をしている。当初は無声時代からの大スターや、手持ちの映画女優

を売り出そうとして失敗したため、パラマウント社から歌姫ジャネット・マクドナルドを

呼び、踊りではタップ・ダンスのエレノア・パウエルを抱えて、基本的な形を整えた。こ

の当時の様子は『雨に唄えば(52)』からもよくわかる。「その後フォックス社でシャーリー・テムプル・ルーニーとジュディ・ガーランドのコンビが誕生させて、1930年代の後半にやっとミュージカル路線が定着した。

2MGMの繁栄

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トーキーの開始以来 MGM はミュージカルに手を染めていた。1939年の「オズの魔法

使い」の成功が起爆剤になりミュージカルの制作に拍車がかかった。そして40年代の後

半から50年代初めにかけて、MGMミュージカル映画は頂点を極めることになる。ここで注意しておきたいことは、ミュージカル映画というジャンル自体が頂点を極めたのは 30~40 年代であるのに対し、MGM ミュージカルの頂点は 40~50 年代にかけてだということだ。MGMは 1930年代は層が薄かったが、30年代後半から有力スターを集め始めて、1940年代にはMGMミュージカルの黄金期を実現した。

MGMミュージカルの人気の要因は、作詞家からプロデューサーに進出したアーサー・フリードの功績が大きかった。振付師兼監督のバズビー・バークレー、同じくスタンリー・

ドネン、監督ヴィンセント・ミネリ、脚本のベティ・コムデンとアドルフ・グリーン、ス

ターではフレッド・アステア、ジーン・ケリー、ジュディ・ガーランド、アン・ミラー、

エスター・ウィリアムズ、シド・チャーリーズ、フランク・シナトラ……まだまだいるタ

レントたちがカラフルで陽気でロマンチックで達者な芸に満ちたエンタテイメントの世界

を創り出した。 2MGMミュージカルの特徴 MGMも特徴はなんといっても、ジーン・ケリーやフレッド・アステアなどを代表とするスターたちのダンス、音楽、オリジナルのストーリーだ。特に MGM を代表する作品とし

て思い浮かべられるのは『巴里のアメリカ人(51)』、『雨に唄えば(52)』、『バンド・ワゴン(53)』などではないだろうか。まさにこれらの作品はフレッド・アステア、ジーン・ケリーらに

よる素晴らしい歌、ダンスをみることができる。特に『雨に唄えば(52)』でジーン・ケリーが雨に打たれながら激しく踊るシーンは私たちの記憶に刻れてることだろう。また、これ

までいろいろなミュージカル作品が現代にわたり作り続けられていたが、MGMのようにここまで素晴らしいスターたちを引き出した映画会社はないのではないか。 他にもMGMの特徴についてこんな意見がある。 「監督にも人材が揃っていたが、スタジオの抱える優れた職人がエレガント、あるいは

ゴージャスな映像を創造したことも MGM 映画の特色だった。美術監督のセドリック・ギ

ボンズ、衣装デザインのギルバート・エイドリアン、音響監督のダグラス・シアラー、撮

影監督のウィリアム・ダニエルズ、カール・フロイント、ジョゼフ・ルッテンバーグ、ハ

ロルド・ロッセンはそれを代表する名前である。」(『「ザッツ・エンタテインメント PART3」と黄金のMGMミュージカル』p50) このようなことからも MGM はスターや表立った監督など以外にも美術、音響などいた

るところまで素晴らしい職人たちが集まっていた。MGMを支える優れた職人たちの層の厚さがうかがえる。 「舞台を見ることの叶わない世界中の人々にとって、ミュージカルを伝えるという一定

の役割は果たしたが、MGMでフリード・ユニットが創造してきたシネ・ミュージカルとは、

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その魅力は根本的に異なる。フレッド・アステア、ジーン・ケリー、ジュディ・ガーラン

ドの至芸を、最大限に引き出すために、振付師や監督、ソングライター、そして脚本家た

ちが、切磋琢磨して作り上げた“夢の世界”。それがシネ・ミュージカル最大の魅力である。」 (ミユージカル映画進化論、p91-92) こう述べられているように、MGM の特徴、魅力とはたくさんのスターたちの歌や踊り、豪華な美術、夢のような物語、壮大な音楽によって現実とは離れた夢の世界に観客を惹き

こむことではないかと思われる。 3ミュージカル映画の衰退とMGMミュージカルの最盛期 1950年代になるとミュージカル映画は衰えをみせはじめた。第二次世界大戦後テレビの本放送が開始され、テレビの大衆化により人々は自宅の居間でくつろぎながら映像を楽し

むようになったのだ。また、独占禁止法に抵触することで興行部門と配給・製作部門が切

り離されたことがメジャー各社にとって大きな打撃になり、映画産業会はこれまでの路線

とは全く違った戦略を迫られ、ここからハリウッドの斜陽化が始まった。映画製作のため

に使っていた予算の大幅な削減をせざるを得なくなり、そこで真っ先に対象になったのが

豪華な衣装や装置が必要なミュージカル映画だった。また、それに加え多くのアメリカ人

が歌や踊りを大きなスクリーンで見るよりは小さな目の前の画面で見ることを好んだこと

が、ミュージカル映画の衰えにより拍車をかけた。 MGMもジーン・ケリー、フレッド・アステア、ジュディ・ガーランド、キャスリーン・グレイソンなど多くのミュージカル・スターを抱えていた。よって MGM はミュージカル

映画なくしては成り立たなかったのだ。そこで、MGMは時代の流れに逆行し全力を挙げてミュージカル映画作りに励んだ。それにより、アーサー・フリード、ジョー・パスターナ

ック、ジャック・カミングスが大きな成功を収めこの時代のミュージカル映画で人々の記

憶に残る数々の作品を生み出した。特に『巴里のアメリカ人(51)』、『雨に唄えば(52)』、『バンド・ワゴン(53)』は大きな評判になった。このように、ミュージカル映画が衰えをみせた中でも、アーサー・フリードなどの活躍によりミュージカル映画が消えていくことはなか

った。50 年代初期の作品は完璧ではなく、若干古臭さ、もったいぶった印象があるがいずれも新しい永続性のある芸術作品に仕上げられている。 このようにミュージカル映画業界が最も繁栄したのは、ミュージカル映画が作られたっ

本数からみても明らかに 1930~40年代だが、上に述べたような原因によりミュージカル映画業界が衰退していくなかでMGMミュージカルは 50年代に最も繁栄したのだった。 第三章 MGMミュージカルスタイルの崩壊 1崩壊 前に述べたように、テレビの普及によりミュージカルは衰退を強いられた。テレビで大

量の音楽番組が提供されるようになり、芸人の多くがテレビ界に呼ばれたことなどが一因

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となり、MGMに代表される大制作者のもとで、一流の芸人やスタッフを集め、次々と夢のような作品を作るというシステムは 1950年代後半に崩壊してしまった。よって歌や踊りを演じる芸人がほとんどテレビに移ってしまったために、映画界では芸人不在となり、芸に

依存したミュージカル作品は成立しにくくなった。これにより新しい形のミュージカルが

誕生した。その最初の作品が『オクラホマ!(55)』である。これまでの大スタジオでの制作を離れ、リチャード・ロジャースなど舞台版の作者たちが中心となり、ワーナーやフォッ

クス社などで、それまでは B 級作品に出演していたミュージカル・スターたちを使い、超A 級作品を作ったのだ。よってオスカー・ハマースタイン 2 世に代表されるような、台本がしっかりと書かれた舞台作品をそのまま映画化する傾向が生じ、映画オリジナルのミュ

ージカル映画を生み出す力が消えていってしまった。 このように映画界は普及したテレビに対抗するために様々な工夫を続けたが、そのテレ

ビでもカラー化が始まり、1960 年代にはカラー・テレビが普及したため、かねて 1930 年代から続いてきた、夢の工場としてのハリウッド・スタジオのシステムは 1950年代末に崩壊したのだった。ちなみに映画でのカラー化は 1930 年代頃から始まっている。1950 年代はまだ MGM がハリウッド・ミュージカルの灯を守っていたが、戦後のブロードウェイで

圧倒的な人気を得ていたリチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン 2 世の一連の作品がフォックス社で映画化されると、MGMも従来の制作方式を守ることができなくなった。よって 1960年代になるとMGMでもそれまでとは異なるミュージカル映画が作られるようになった。 ロジャースとハマースタインの舞台作品の映画化は、フォックス社の「オクラホマ!(55)」から始まり、『回転木馬(56)』、『王様と私(56)』、『南太平洋(58)』と続いて、それまでのハリウッドのミュージカル映画とは異なり、舞台に忠実な映画化が行われた。1960年代になるとユニバーサル社の『フラワー・ドラム・ソング(61)』を経て、フォックス社の『サウンド・オブ・ミュージック(65)』は、大自然の中で歌や踊りを展開するという新しいミュージカル映画の作り方を示した。 それに対して、ミュージカルの伝統を守る MGM では、フレッド・アステアは『絹の靴

下(57)』、ジーン・ケリーは『魅惑の巴里(57)』が実質的には最後の作品となり、2大スターを失った。そのためアーサー・フリードが手がけた『恋の手ほどき(58)』は、アカデミー賞を 8 部門で受賞して高い評価を受けたものの、実質的には MGM ミュージカル最後の作品となった。そしてMGMは 1970年にラスベガスのホテル王カーク・カーコリアンの支配するところになったが、これがその後の同社を運命づけてしまった。やがて UA と合体し、テッド・ターナーやジャンカルロ・パレッティらによって買収や資産売却が繰り返され、

栄光から転落への軌跡を歩んでいった。現在はフランスのクレディ・リヨネ銀行の管理下

に入っている。 後にも述べるが、この時期に音楽の面では兵役を終えたエルヴィス・プレスリーがロッ

クンロールを取りいれた映画を作るようになり、イギリスから登場したビートルズは新感

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覚の映画で若者たちの支持を得たため、音楽映画もロックの比率が高まった。戦後に登場

した LP レコードは 1950 年代末にステレオ化されたため、1960 年代ではサウンド・トラック盤と呼ばれる映画音楽にも人気がでた。 2戦後映画の流れ 70 年代頃までの戦後約 25 年間は現実をどうリアルにとらえるかという欲求につき動かされてきた。ネオ・リアリズム、ヌーヴェル・ヴァーク、フリー・シネマ、ニューヨーク

派など、みんなその方向に向かっていく中で、ハリウッドだけは大きくゆれ動くことはな

かった。わずかばかりの現実の変化だけではゆれ動いたりしないだけの力を蓄積していっ

たと言える。MGMミュージカルもその中から生まれた。だが、ついにハリウッドも現実の変化との落差が大きくなった。他派の動きより遅れたが、60 年代後半のハリウッドの没落とニューシネマの登場はリアリティーを取り戻すための動きだった。 しかし、ミュージカルは本質的にリアリズムを天敵とするジャンルである。歌やダンス

はそれぞれ様式的で自然とはなれたところに別のリアリティーを作るメディアだが、それ

を物語にくみこんでいくミュージカルは当然、ダンスや歌が入って別次元への飛躍がおこ

っても支障をきたさない内容であるほど 1 個の作品として一貫性をもつのは明らかだ。にもかかわらず、そのミュージカルがリアリティーを考慮しなければならなくなったのが以

後のミュージカルの運命であり、MGMミュージカルの崩壊の一因もそこにある。 リアリティーを求めたがる気持ちは、その時代、その時代の気運、ムードであり、音楽

を使った映画がリアリティーを出すためにこうした工夫をたどると、このことが考えられ

る。 3音楽 ミュージカルはストーリーにリアリティーを与える必要はないが、音楽の基礎を置く以

上、音楽のもつ現代性は不可欠である。さらにその音楽は少しでも新しいものを要求され

る。新しい音楽というのは 40 年代ではジャズで 55 年を境にロック、リズム・アンド・ブルース系統の曲が台頭してきた。ミュージカルを作ろうとするときにこうした音楽のこと

も考慮する必要がある。 「1930年代は、ちょうどジャズが大衆音楽として親しまれていた時代でもあり、ア

ステア&ロジャース映画のために、錚々たるソングライターが書いた音楽は、連日、ラジ

オやダンス・ホールで流れ、この時代の映画から今も歌いつがれている、アメリカンスタ

ンダードが生まれている。」(『ミュージカル映画進化論』 p79) 上に示したように、もともとジャズがミュージカルの作曲家たちの教養になっていた。し

かし戦後、ジャズはミュージカルとは別の方向に展開していき同じジャズでも新しいもの

は取り入れにくくなってしまったのだ。そこでロックをどう取り込むかという問題になっ

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た。これが奇しくもロックが誕生した1955年がミュージカル映画のピークの直後と重

なっているのだ。ロック、リズム&ブルースはリズムやビートが主体となっているため複

雑なダンスを取り入れにくい。よって MGM 調のミュージカルには取り入れにくく、ミュ

ージカルは二重に不幸な立場においこまれてしまった。実際、ロックを主体にした音楽映

画はあっても、ダンスと歌とストーリーが密接に結びついたロックのミュージカルはほと

んど生まれていない。次にこんな文献がある。 「ハリウッド映画の場合には、トーキー初期の 1930年代から 50年代前半までは、スターをみせる目的で作られたので、芸人の演ずる芸を見せるという作品が多かった。また、

しっかりとした芸を持つ劇場出身の芸人が大勢いた。ところが、1950年代になって娯楽の中心が映画からテレビへ移ると、芸人の供給源である劇場、特にヴォードヴィルがなくな

ってしまう。さらにスター中心に映画を作った影響により大作主義となってしまうので、

ミュージカル映画を支えるスタッフを継続して維持できずに、臨時スタッフを集めて、た

まに大作を作るという形になる。 もはや芸だけで売れるような芸人は存在しないため、映画的な技法でミュージカル・ナ

ンバーを処理する傾向が強まるが、たまにしかミュージカルを作らない監督には、音楽ス

ターに頼らなくても済むような、既存の舞台作品の映画化に走る傾向が出てくるが、こう

した作品も、実力ある俳優が演じるか、観客を呼べる映画スターが演じるかという問題に

ぶつかり、それと同時に、様式的な表現と写実的な表現のバランスに苦しむこととなる。

こうして悩みを抱えたミュージカル映画は衰退が始まり、ロック一辺倒となった音楽表現

との融合にも苦しんで、完全に伝統を失ってしまった感がある。」(『ミュージカル映画事典』p6) この文献からは、ミュージカル映画が衰退せざるを得なかった理由が順序立ててよくわ

かる。このように、テレビの登場によりスター、スタッフの減少からリアリティと現実の

バランスという問題が生じ、そこにさらにミュージカルとあまり相性が良くないロック音

楽が台頭してきたことがミュージカル映画の衰退の大きな流れである。 「アステアやジーン・ケリーといったスター達の個人的芸やパフォーマンスに代わって、

集団の人間が描かれ、スタンダード・ナンバーに代わって、ロックが用いられてきたのも

時代の流れである。『ジーザス・クライスト・スーパースター』や『コーラス・ライン』と

いった作品がよい例。」(『ジャズ批評』(108) p32-36 2001) ここでもロックとミュージカルについて述べられている。たしかに、『ジーザス・クライス

ト・スーパースター』や『コーラス・ライン』といったロックを用いた作品は少なからず

あるし、ヒット作もでてはいるが、それまでの名作と言われるジャズやクラシックなどの

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ミュージカル映画に比べればその差は歴然としている。 「ロックが誕生した1955年がMGMミュージカルのピークの直後」 (『ミュージカル史』 小山内伸 2016 中央公論新社) ここでも、ロックとミュージカルについては上のように述べられている。このように

MGM ミュージカルの最盛期とそこからの転落はロックの登場が一因であることは明らか

である。 「ミュージカルは、その時々に流行した最先端の音楽を取り入れることで絶えず活性化を

図ってきた。はやり歌とミュージカルは密接不可分な関係にある。テレビが普及する時期

までは、ミュージカルシアターは流行歌の豊潤な供給源であった。ミュージカル様式的に

確立された1920年代が、希しくもジャズの流行と重なったことは歴史的に意義深い。

黒人発祥の音楽ジャズは新時代の鼓動を刻み、ミュージカル音楽の基調をなした。」 (『ミュージカル史』 p36 小山内伸 2016 中央公論新社) ここでもこれまでと同じようなことが言われている。ここでミュージカルはミュージカ

ル映画ではなく舞台のミュージカルについて述べられているのだが、ミュージカル自体が

その時代の流行の音楽と密接な関係にあることがよくわかる。また、ジャズとミュージカ

ルの相性の良さが改めてわかる。 「これは映画全般についても言えることだが、1950年以降のミュージカル映画は、

テレビ放送に対抗するために大作主義に陥り、舞台で鍛えられたヴォードヴィル出身の芸

人が映画界から姿を消して、テレビ業界へ移ったこともあり、面白い作品が作れなくなっ

た。 おまけに1960年以降はロック一辺倒となり、ミュージカル作品もロック化の波に洗

われたが、ロックとミュージカルは必ずしも相性がよくないため、舞台作品の映画化を除

くと、ミュージカルはすっかりお子様向けのジャンルとなってしまった感がある」 (『ミュージカル映画事典』 p1-2) この文献からもテレビの登場、大作主義からミュージカル映画から芸人たちが姿をけし、

そこにロックが加わった。そしてミュージカルとロックの相性の悪さが書かれている。ミ

ュージカルはお子様向けのジャンルとなったとあるが、これがディズニー映画が台頭して

きたという意味である。 このように、ミュージカル映画はロックの登場によって衰退をせざるを得なかった。も

う少し丁寧にいえば、ロックだけがミュージカル映画の衰退につながったわけではない。

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これまでにも述べたように、テレビの登場、大作主義、芸人がテレビに移ってしまったこ

とからフレッド・アステアやジーン・ケリーのようにミュージカル映画を代表とするスタ

ーが消え、またリアリティーの問題などにもぶつかり既にミュージカルは衰退をしていた。

そこにさらにロックという音楽が登場したことが、ミュージカル映画の衰退を決定づけた

というように考えられる。次にこのロックの影響を世界に与えた人物、エルヴィス・プレ

スリーについて説明する。 4エルヴィス・プレスリー Elvis Presley エルヴィス・プレスリーは 50年代のミュージカル映画のジャンルに大きな影響を与えたスターである。またミュージカル界に限らず世界に多大な影響を与えた人物でもある。彼

のことがよくわかる文献を紹介する。 「通常、ロックンロールの成立は 1955年にヒットしたビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ

の「ロック・アロウンド・ザ・ロック」とともに語られる。だが実際、ロックンロールと

呼ばれるジャンルには五つの音楽的なスタイル―ビル・ヘイリーに代表される北部出身の

バンド、ニューオーリンズのダンス・ブルース、メンフィスのカントリー・ロック(ロカビリー)、シカゴのリズム&ブルース、そしてドゥワップなどのヴォーカル・グループ―が含まれていると主張する論者もいる。いずれにしても、アメリカのポピュラー音楽史上、人

種の混淆をその中心的な特質とする音楽ジャンルはきわめて稀であり、その歴史的意義は

いくら強調してもいすぎることはない。そして、ひとりの男の登場によって世界のポピュ

ラー音楽は後戻りのできない地点にまで到達してしまうのだ。 1953年の夏、エルヴィス・プレスリーという名の青年がテネシー州メンフィスにあるサン・レコードのレコーディング・スタジオを訪れた。青年は母親の誕生日に贈るために自

分の歌をレコーディングしたいと申し出る。一方、サン・レコードの創設者サム・フィリ

ップは「黒人のフィーリングを感じさせる白人歌手」をずっと探していた。そして、この

二人の出会いによって一枚のシングルが完成する。ブルース・シンガー、アーサー・クラ

ダップの「ザッツ・オール・ライト(ママ)」をカバーした曲はすぐに地元のラジオで話題になり、青年の人気は急速に高まっていく。五枚のシングルをサン・レコードから発売した

のちに彼は RCAビクターと契約を交わし、1956年に「ハートブレイク・ホテル」でメジャー・デビューを果たすのだ。 エルヴィス・プレスリーは現在もっとも過小評価されている音楽家のひとりである。も

ちろん同時代にエルヴィスを体験した世代にとってその偉大さは揺るぎないかもしれない

が、それが若い世代にどれだけ受け継がれているかははなはだ疑問である。たとえば、若

いミュージシャンがビートルズやローリング・ストーンズの影響を公言することはあって

も、最近はそうした文脈でエルヴィスの名前があがることはほとんどない。しかし、ここ

で彼の桁外れの業績をいまいちど確認してみよう。ビルボード誌がほぼ現在のかたちに整

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備された 1955年以降、エルヴィスは114曲をポップス・チャートのトップ 40 に送り込んでいるが、これは二位のエルトン・ジョンの59曲を大きく引き離しての一位である。(略)トップ 10に入った曲数もエルヴィスがもっとも多く、連続一位獲得数や一位獲得週数の記録もエルヴィスが保持している。定評のあるレコード・リサーチ社によるランキング(ビルボード誌のデータをもとに各楽曲をポイント化して計算)によれば、エルヴィス・プレスリーは二位のビートルズを四千ポイント近く引き離す圧倒的な存在なのである。 また、エルヴィスの重要性は決して数字だけで測りきれるものではない。アメリカ音楽

史のみならず、世界のポピュラー音楽の歴史を白人文化と黒人文化の混淆という図式でと

らえるならば、その結節点のひとつは間違いなくエルヴィス・プレスリーのパフォーマン

スにある。中世ヨーロッパにまでさかのぼるバラッドの伝統と、アフリカ南米大陸経由で

もたらされた黒人文化の系譜。この二つの文化の融合を象徴するのがエルヴィスであり、

彼が背負うことになった音楽史/文化史の重みに比べれば、ビートルズやローリング・ストーンズのメンバーは少しばかり音楽的センスに恵まれた青年たちにすぎないのだ。」 (「『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショー、ブルースからヒップホップまで』 大和田俊之 2011 講談社p154-156) このようにプレスリーはポピュラー・ミュージック史上、多くの売り上げを記録してい

る。プレスリーの音楽は、さまざまなアメリカ音楽を巧みに融合したものである。『ハウン

ド・ドッグ』、『冷たくしないで』、『恋にしびれて』などの初期のヒット曲は、カントリー

&ウエスタンのメロディや、R&Bやゴスペルのリズミカルでエモーショナルな音楽を全く新しい形に融合している。 彼の低くうなるようなヴォーカル、音節をしゃくりあげる歌い方、芝居がかったしぐさ、

彼こそポップスの歌唱法を大きく飛躍させた張本人だった。彼は歌のジャンルやスタイル

といった既成の概念を飛び越え、それまでにない境地に到達している。『ラブ・ミー・テン

ダー』のようなバラードでは 40年代の流行歌手のような豊かな声を披露し、のちに述べる『監獄ロック(57)』のような激しいナンバーでは騒がしく感情的に歌っている。 また、彼が、ミュージカル映画に顔を出し始めたのは1956年からで、最初の5年間

で最も興味深いミュージカル映画に、『監獄ロック』(Jailhouse Rock,1957)がある。『監獄ロック(57)』は、バーで男を殺してしまい刑務所に入ったプレスリー演じるヴィンス・エヴェレットが、刑務所で出会った男にギターを習い、出所してからその才能を見出されスタ

ーになるというストーリーだ。監督はロックとは全く無縁のリチャード・ソープ(Richard Thorpe,1896-1991)であったため、MGM制作の従来のミュージカル映画のパターンと変わったところはなく、ティーンエイジャーらのアイドルとしてのプレスリーを引き立たせる

ことに重点が置かれている。しかし、彼が歌う”Jailhouse Rock” “Treat Me Nice” “Baby, I Don’t Care” “I Wanna Be Free” “Don’t Leave Me Now” “Young And Beautiful” などはこれまでのミュージカル映画にはない新鮮な魅力がある。エルヴィス・プレスリーのミュー

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ジカル映画のほとんどは以前の映画にも、また舞台にもそのルーツが存在しないオリジナ

ルのものである。 実際に私も『監獄ロック(57)』を鑑賞した。たしかにこの作品でMGMはこれまでと違

いロックを扱っていたが、ストーリーの構成など全体的にはこれまでの MGM 作品とそれ

ほど雰囲気は変わっていなかった。でもやはりダンスのシーンが少ない。また主人公の歌

のシーンなどもあったが、少々物足りなくも感じた。ただ、エルヴィス・プレスリーとい

う存在の影響がこの作品にはとても大きいため作品全体としてはとても素晴らしいものだ

とは思った。彼のもつワイルドさなどはこれまでの MGM にはない新たな魅力でもあった

と思う。やはり MGM にはスターの存在が必要不可欠である。そういう意味ではまだこの

作品の時点ではMGMらしさというのが残っていたのではないか。 「エルヴィス・プレスリーは、テレビの普及により大手映画会社の配給システムが崩れ

て、スター中心の映画製作がなくなった中で、唯一のスターとしてミュージカル映画に出

演し続けた。兵役を終えると早速「G・I・ブルース」G.I Blues(1960)に出て、1960年代に27本の劇映画に出演した。27本中1本の西部劇以外は、歌入りの音楽映画となっ

ている。1960年代には多作だったが、70年代に入ると映画出演はやめてコンサート

に集中したので、コンサートの記録映画しか残っていない。その記録は2本のドキュメン

タリー映画にまとめられている。1977年に42歳の若さで亡くなり、ファンを悲しま

せた。 彼の初期の映画作品は、社会の中での自分の居場所を探して悩みながら成長するような

役柄が多かったが、中期以降の作品では大半は娯楽的な作品となり、芸術的な評価からは

遠ざかった。 これだけ多くの作品に出演しているが、1950年代までのスター・システムが崩れて

しまったので、特定のスタジオではなく各社の作品に出演した。それでもプレスリー作品

は、あくまでもプレスリーの映画であり、スタジオのカラーをあまり感じさせないのが、

1960年代の特徴なのだろう。 制作まで関与していない配給だけの作品も含めて数えると、一番多いのが MGM で12

本、次がパラマウントで7本、ユナイトが3本、フォックスが2本、その他2本となって

いる。あえて違いを見つけるならば、MGMは昔からの流れを汲んで豪華な造りで、1960年代後半の作品が多い。」 (『ミュージカル事典』 p335) この文章からも 1960年代にはこれまでのMGMを代表とするスター・システムが崩れてしまっていることがわかる。しかし、その中でもエルヴィス・プレスリーの活躍、影響の

大きさは計り知れないものだったと思われる。

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「MGM映画のミュージカルは、特にアーサー・フリードという名プロデューサーの手腕と洗練された感覚で、ひとつの時代を至福に彩ったが、ハワード・キールの言うように、5

8年の「恋の手ほどき」で終焉を迎えた。それはエルヴィス・プレスリーの出現によって

世代が交代したのだ。と、結んでいるが、わたしはそうは思わない。確かにミュージカル

映画は消滅してるが、ミュージカルはいつもわたしたちを熱くしてくれる。「ロミオとジュ

リエット」が「ウエスト・サイド物語」になり「カリビアの夜」が「スイート・チャリテ

ィ」になり、「グランド・ホテル」も「サンセット大通り」でさえ、メロディを得て、ブロ

ードウェイに再花しているのである。 クリント・イーストウッドによって西部魂が蘇ったように、ミュージカルだって、また、

姿を変えてスクリーンに踊り出す時がくる。この「ザッツ・エンタテイメント・PART3」の長く優雅な序曲を聞いていると、その予感すら聞こえてくるようだ。」 (『「ザッツ・エンタテイメント PART3」と黄金のMGMミュージカル』 細越麟太郎 キネマ旬報(1147) 1994 キネマ旬報社 p44)

この文章はとても興味深い。まずハワード・キールがエルヴィス・プレスリーの登場に

より『恋の手ほどき(58)』でMGMが終焉し世代交代したと言っていたことがわかる。やはり、エルヴィス・プレスリーの登場はそれほどミュージカル映画界に大きな影響を与えて

いたのだ。この文章の筆者は世代交代したとは思わないと述べてはいる。実際にはこれま

でエルヴィス・プレスリーの登場により MGM ミュージカルが終焉していったのは確かで

はあると私は思う。ただこの文章の筆者のいうように、それまでの MGM ミュージカルが

その後作られたミュージカル映画に多大なる影響を与えたのは確かであるし、そういう意

味ではMGMミュージカルは生き残り続けていると思う。 「構成としては、最後の「恋の手ほどき」と「監獄ロック」。そこには時代が変わっていく

姿が現れている。」(『「ザッツ・エンタテイメント PART3」と黄金のMGMミュージカル』 細越麟太郎 キネマ旬報(1147) P42-53 1994 キネマ旬報社 p45) ここでも上の文章と同じ筆者が述べていることではあるが、『恋の手ほどき(58)』と『監獄ロック』に時代の流れが現れているとある。ちなみにアステアの『絹の靴下(57)』、ケリーの『魅惑の巴里(57)』のどちらにもロックのリズムを取りいれたナンバーが入っている。このことからも時代を感じさせられる。次に上に述べられている MGM 最後の輝きとなっ

た『恋の手ほどき(58)』について触れる。 5『恋の手ほどき(58)』 MGMの最後輝きとも言われるこの作品の主演はルイ・ジュールダンとレスリー・キャロ

ン。レスリー・キャロンは『巴里のアメリカ人(51)』になどにも出演しているMGMを代表

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とするスターである。作詞は A・J・ラーナー、作詞フレドリック・ロウ。アカデミー賞では作品賞をはじめ監督、脚色、撮影、美術監督・装置、編集、ミュージカル映画音楽、主

題歌、色彩衣装デザイン、さらに半世紀以上におよぶ世界の娯楽に貢献したとしてモーリ

ス・シュヴァリエに対する賞を取った。この作品は MGM が最後にアカデミー賞を受賞し

た作品である。 実際に私がこの作品を鑑賞して、ダンスのシーンがほとんどなかったことに驚いた。特

にレスリー・キャロンはこれまで『巴里のアメリカ人(51)』など素晴らしいダンスを見せ

ていたのにも関わらず、それを彷彿させるような場面がなかったのだ。これにはとても物

足りなさを感じた。作品全体としては、『監獄ロック(57)』と同じようにMGMミュージカルとしての流れ雰囲気はさほど差はなかった。ただ上に述べたように、これまでのような

ダンスシーンがなかったことで作品としてのこれまでのような華やかさがなかったことに

より、アカデミー賞を獲ったとはいえ若干の物足りなさ、時代の流れを感じた。こうして

MGMの作品が消えていってしまったのかということが、これまで紹介した文章で述べていたことが『監獄ロック(57)』、『恋の手ほどき(58)』を鑑賞したことによりよくわかった。

まとめ このようにこの論文では、第一章でミュージカル映画とはなにかということを、まず舞

台のミュージカルからどういうものかということから考察し、ミュージカル映画の誕生、

歴史を振り返り、アメリカにとってのミュージカル映画の立ち位置を述べた。第二章では

MGMの歴史、繁栄、そしてどうしてそれが衰退していかなければいけなかったのかを論じた。第三章では音楽や戦後の映画の流れ、時代の流れといったものから MGM 衰退の理由

をつきとめていった その結論として MGM を中心としたミュージカル映画の衰退の理由は、さまざまな要因

が結びついて衰退していったことがわかった。さまざまな要因とは、まずテレビの登場で

ある。それにより映画離れが顕著となりミュージカル映画の衰退が始まった。そしてそれ

に伴い、ミュージカル映画で活躍していた芸人たちが徐々にテレビ界へ映っていってしま

った。そういった状況に加えて戦後の映画の流れで、ミュージカルがリアリティーを考慮

しなければいけなくなった。しかしミュージカルはリアルとは正反対の立ち位置であるた

め、問題が生じていた。これだけでも厳しい状況にあったが、そこにミュージカル映画と

は相性のよくないロックという音楽が台頭したことが決定的な要因となった。それにより、

MGMのようなミュージカル映画は伝統を支えきれず、新しいものを作れなくなってしまったのだ。 さらに、私はこの論文作成を通して、MGMに限らずミュージカル映画とは、過去を振り

返りながら進化していくジャンルなのではないかと思った。実際に MGM を代表とする作

品『雨に唄えば(52)』などは現代にまで残る傑作だが、当時の評価は回顧主義などと言われ必ずしも高くなかったそうだ。ミュージカル映画は50年代に MGM で映画オリジナルの

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ミュージカルが制作され、60年代に「ウエスト・サイド物語」や「サウンド・オブ・ミ

ュージック」の舞台が基にある作品で頂点を極めた。しかしその後、ミュージカル映画は

さらに減っていき、80~90 年代には MTV のようなミュージッククリップが登場し、ついにミュージカル映画は新しいビジョンが打ち立てられなかった。これを別の言い方に表し

てみると、ミュージカル映画というジャンルが 50 年代から 60 年代に完成してしまったということではないか。そのため、完成していまっていたが故にそれ以上の物を作ることが

できなかったのではないかというように私は思った。 「たとえば西部劇について、私は昔の方が良かった、などとは殆ど思わない。(略)だが、悲しいかな、ミュージカル映画に関していえば、今のそれは、40年代、50年代のMGMミュージカル映画に遠く及ばないのである」(キネマ旬報、1974、6月下旬号、小林信彦) 最後にこんな文献があったのを紹介したい。この意見はとても面白いと思う。西部劇は

観たことがないのでよくわからないが、この筆者が述べているようにミュージカル映画が

40年代、50年代のMGMミュージカルに及ばないという意見に賛成である。実際に今の時代にフレッド・アステアやジーン・ケリーのような俳優はおそらく存在しないし、これか

らもきっといないと思う。おそらく、それほど 40年代、50年代という時代はヴォードヴィルの背景などもあい素晴らしい芸人に恵まれていた。MGMはそういう芸人たちの宝庫だったのだ。よってこれまで述べたようなことの理由も含め、今後も MGM のような作品を作

ることは難しいと思う。しかし、裏を返せばそれだけ MGM ミュージカルというものは個

性的で真似ができない素晴らしいものだったということがわかる。そういう意味で、ミュ

ージカル映画は過去を振り返りながら進化していくために、冒頭に述べたように『ラ・ラ・

ランド(2017)』に私は感動したのだのだと思う。『ラ・ラ・ランド』はとりわけ主人公の二人のダンスが上手かったというわけではないし、まさに MGM ミュージカルというところ

まではいかなかったが、みていて懐かしい気分にさせられたのがとても嬉しかった。きっ

とこういう作品がこれからも少なからず作り続けられるだろう。よって、今後もミュージ

カル映画が作り続けられる限り MGM ミュージカルという作品はきっと私たちの心に残り

続けるものであるだろうと思う。そういう点で、ミュージカル映画の素晴らしさ、40 年、50年代のミュージカル映画の偉大さを改めて理解した。 この論文作成にいたってミュージカル映画はアメリカの文化であるため参考資料を集め

るのは苦労した。日本での資料のみを参考資料としたため、アメリカの資料を扱えなかっ

た点が非常に残念である。よって、アメリカでのミュージカルの興行収入など、実際の数

字をもとにした考察が行えなかった。また、ロックがミュージカルに与えた影響などを決

定的に論じている文献なども見つけられなかった。実際に当時の流行音楽の売り上げやミ

ュージカル映画の興行収入などの数字を参考に比べられる作業などができたらよかったと

思う。特にビートルズなど、エルヴィス・プレスリー以外のロック歌手なども参考にでき

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ればよかった。それに加え、ビートルズの登場などによるミュージッククリップなども触

れられるとよかった。また、MGMに限らず他の映画会社なども少し参考にすればよりよかったと思う。そして、さらに現代に渡ってもっとミュージカル映画のたどる道を詳しく見

ていけばまた新しいことがわかっていきそうだった。あと、音楽映画とミュージカル映画

の違いもできれば考察したかったがそこまでたどり着かなかったことがとても残念である。 MGMミュージカル年表 (『ザッツ・エンタテイメント PART1-3』掲載作品のみ) ・『ロカスト・シスターズ』(28) ・『ハリウッド・レビュー』(29) ・『ブロードウェイ・メロディ』(29) ・『ソングライターズ・レビュー』(29) ・『マーチ・オブ・タイム』(30) ・『キートンの歌劇王』(32) ・『紐育ハリウッド』(33) ・『ダンシング・レディ』(33) ・『虹の都へ』(33) ・『ミート・ザ・バロン』(33) ・『ハリウッド・パーティ』(34) ・『メリーウィドウ』(34) ・『無軌道行進曲』(35) ・『暁の爆撃隊』(35) ・『踊るアメリカ艦隊』(35) ・『踊るブロードウェイ』(35) ・『オペラは踊る』(35) ・『巨星ジーグフェルド』(36) ・『サンタバーバラ祭』(36) ・『アメリカーナの少女』(36) ・『ロザリー』(37) ・『踊る不夜城』(37) ・『初恋合戦』(38) ・『リッスン・ダーリン』(38) ・『グレートワルツ』(38)

Page 19: ミュージカル映画の繁栄と衰退 - ZEROgreen.zero.jp/noooh/Meiji_Theatre/Graduation_2017_files/...はじめに 『ラ・ラ・ランド』をみたことをきっかけにMGMのミュージカルに興味を持った。『ラ・

・『エブリボディ・シング』(38) ・『初恋合戦』(38) ・『青春一座』(39) ・『愚者の歓喜』(39) ・『オズの魔法使』(39) ・『ブロードウェイセレナーデ』(39) ・『青春一座』(39) ・『踊るニュウ・ヨーク』(40) 『リトル・ネリー・ケリー』(40) ・『ニュウムーン』(40) ・『ストライク・アップ・ザ・バンド』(40) ・『レディ・ビー・グッド』(41) ・『奥様は顔が二つ』(41) ・『美人劇場』(41) ・『ブロードウェイ』(42) ・『アンディの二重生活』(42) ・『ブロードウェイ』(42) ・『パナマ・ハッティー』(42末) ・『フォーミー・アンド・マイ・ギャル』(42) ・『万雷の歓呼』(43) ・『ガールクレイジー』(43) ・『キャビン・イン・ザ・スカイ』(43) ・『ベスト・フット・フォワード』(43) ・『ブロードウェイ・リズム』(44) ・『若草の頃』(44) ・『世紀の女王』(44) ・『錨を上げて』(45) ・『凸凹ハリウッドの巻』(45) ・『姉妹と水兵』(44) ・『ハーヴェイ・ガールズ』(46) ・『キートンのエキストラ』(46) ・『ジーグフェルド・フォーリーズ』(46) ・『雲流れ去るまで』(46) ・『ハーヴェイ・ガールズ』(46) ・『下町天国』(47) ・『シンシア』(47)

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・『グッド・ニューズ』(47) ・『今の時を大切に』(47) ・『君とともに島で』(48) ・『歌詞と音楽』(48) ・『君とともに島で』(48) ・『スイングの少女』(48) ・『踊る海賊』(48) ・『歌詞と音楽』(48) ・『イースター・パレード』(48) ・『接吻盗賊』(48) ・『踊る大紐育』(49) ・『ブロードウェイのバークレー夫妻』(49) ・『水着の女王』(49) ・『懐かしき夏の頃』(49) ・『土曜は貴方に』(50) ・『私を野球に連れてって』(49) ・『恋の2週間』(50) ・『サマーストック』(50) ・『アニーよ銃をとれ!』(50) ・『ナンシー、リオへ行く』(50) ・『土曜は貴方に』(50) ・『ニューオーリンズの恋人』(50) ・『ショウボート』(51) ・『巴里のアメリカ人』(51) ・『テキサス・カーニヴァル』(51) ・『雨に唄えば』(52) ・『百万弗の人魚』(52) ・『 メリーウィドウ』(52) ・『ニューヨーク美人』(52) ・『ラブリー・トゥ・ルック・アト』(52) ・『リリー』(53) ・『キス・ミー・ケイト』(53) ・『アイ・ラブ・メルヴィン』(53) ・『小さな町の娘』(53) ・『恋はやさし』(53) ・『トーチソング』(53)

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・『バンド・ワゴン』(53) ・『ブリガドゥーン』(54) ・『ジュピターの恋人』(55年) ・『略奪された七人の花嫁』(54) ・『艦隊は踊る』(55) ・『いつも上天気』(55) ・『ジュピターの恋人』(55年) ・『情欲の悪魔』(55) ・『テンダートラップ』(55末) ・『上流社会』(56) ・『舞踏への招待』(57) ・『監獄ロック』(57) ・『絹の靴下』(57) ・『恋の手ほどき』(58) 文献リスト

曽根田憲三『アメリカのミュージカル映画-誕生から今日に至るまで-』、相模女子大学英米文学会、相模

英米文学(23)、2005年

曽根田憲三『アメリカのミュージカル映画(2)-激動の50年代-』、相模女子大学英米文学会、相模英米文

学(24)、2006年

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学会、相模英米文学(25)、2007年

曽根田憲三『60年代のアメリカのミュージカル映画』相模女子大学英米文学会、相模英米文学(26)、2

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(20071字)