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アダム・スミス『修辞学・文学講義』 を読む 直樹 2018 年 9 月 3 日(月)、尾道文学談話会の平成 30 年度公開講座(於尾道 市立大学サテライトスタジオ)の一環として、アダム・スミスの経済学と、 文学との関わりについてお話しさせていただいた。以下は、その折の原稿に 大幅な加筆を施したものである。当日、台風が迫る悪天候にもかかわらずご 出席くださった方々に、心より感謝申し上げます。 1.はじめに 筆者は、尾道市立大学経済情報学部で主に「経済学史」や「社会思想史」 の講義を担当している。前者は経済理論・学説の形成史を扱い、後者は前者 の基礎として不可欠であるにもかかわらず往々にして見落とされがちな諸思 想の歴史を扱う。しかしこう述べても、まだ茫漠とした感が漂ったままでは ないか。経済学とは何か、という問いに対する答えがはっきりすれば、両者 間の境界線が明確になり、曖昧さは払拭されるだろう。 そこで、20世紀イギリスの経済学者ロビンズ(Lionel Charles Robbins, 1898-1984)による有名な定義を引用しておこう。著書『経済学の本質と意義』 (1932 年)の中で、「経済学は、代替的用途を持つ稀少な手段(means)と、 目的(ends)との間にある関係性としての人間行動を研究する科学である」 と(Robbins 2007, 15 /小峯・大槻訳17)、彼は端的に述べている。例えば「読 書を最大限に楽しむ」という目的が与えられたとしよう。そのための手段と して、速読と精読の二つが相互に「代替的」なもの、つまり一方を用いてい るあいだは他方を用いることのできないものとして存在すると仮定する。か つ、これら二つの手段は「稀少」である、つまり無制限には使えず、利用に 必ずコストがかかるとすれば、経済学の出番だ。この場合のコストは「読書 (15)

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アダム・スミス『修辞学・文学講義』

を読む

林   直 樹

 2018 年 9 月 3 日(月)、尾道文学談話会の平成 30 年度公開講座(於尾道

市立大学サテライトスタジオ)の一環として、アダム・スミスの経済学と、

文学との関わりについてお話しさせていただいた。以下は、その折の原稿に

大幅な加筆を施したものである。当日、台風が迫る悪天候にもかかわらずご

出席くださった方々に、心より感謝申し上げます。

1.はじめに

 筆者は、尾道市立大学経済情報学部で主に「経済学史」や「社会思想史」

の講義を担当している。前者は経済理論・学説の形成史を扱い、後者は前者

の基礎として不可欠であるにもかかわらず往々にして見落とされがちな諸思

想の歴史を扱う。しかしこう述べても、まだ茫漠とした感が漂ったままでは

ないか。経済学とは何か、という問いに対する答えがはっきりすれば、両者

間の境界線が明確になり、曖昧さは払拭されるだろう。

 そこで、20 世紀イギリスの経済学者ロビンズ(Lionel Charles Robbins, 1898-1984)による有名な定義を引用しておこう。著書『経済学の本質と意義』

(1932 年)の中で、「経済学は、代替的用途を持つ稀少な手段(means)と、

目的(ends)との間にある関係性としての人間行動を研究する科学である」

と(Robbins 2007, 15 /小峯・大槻訳 17)、彼は端的に述べている。例えば「読

書を 大限に楽しむ」という目的が与えられたとしよう。そのための手段と

して、速読と精読の二つが相互に「代替的」なもの、つまり一方を用いてい

るあいだは他方を用いることのできないものとして存在すると仮定する。か

つ、これら二つの手段は「稀少」である、つまり無制限には使えず、利用に

必ずコストがかかるとすれば、経済学の出番だ。この場合のコストは「読書

(15)

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に要する時間」としておこう。

 簡単なモデルを使って具体的に説明してみたい。読書のコストとして、速

読には 1 ページ当たり 1 分間、精読には 1 ページ当たり 3 分間が必要だと仮

定する。読書に利用可能な総時間を 60 分と想定しよう。すると、時間制約

式は次の通りになる。

 1分×速読ページ数+ 3分×精読ページ数= 60 分

また、読書する人の満足度(経済学では効用 utility と呼ぶ)はUで、Uは速

読ページ数と精読ページ数の掛け算で表されると見なせば、満足度関数は次

の通りになる。

 U=速読ページ数×(精読ページ数- 10)

「- 10」は、この読書人が相対的に精読を好み、もし精読ページ数が 10 ペー

ジ以下になると満足度が 0 もしくはマイナスになる(苦痛を覚える)ことを

示す。もちろんこれは勝手な仮定であり、逆に速読のほうを好む場合などを

自由に想定してかまわない。

 計算は後の注に入れておくが、上記の両式より、この読書人は 60 分間で

速読・精読ともに 15 ページずつ読んだときに満足度が 大になることが分

かる。このようにして経済学は、所与の目的と条件のもとで、利用に制約を

課された手段を用いて、無駄なく、つまり効率的に満足度を 大化するには

どう行動すればよいかを考察する学問である。ロビンズによる定義は、少な

くともそう語っている。

 この定義には、発表当初から鋭い批判が投げかけられた。目的と稀少な手

段との関係性という問題はつねにどこででも成り立つとしても、その問題を

解くことだけが経済学の役割ではあるまい、格差の問題はどうした、貧困の

問題はどこに行った、ロビンズは経済学のなしうることを矮小化した、とい

うのが批判の趣旨であった。これについて、ロビンズ自身は『一経済学者の

自伝』(1971 年)で次のように回顧する。

これには実際、非常に驚いたことを告白したい。私がしようとひたすら意

図したのは、経済システムがどう働くか、あるいは働き〈うる〉かに関す

る主張は、それ自身では、それがどう働く〈べき〉かについてのいかなる

前提も伴っていないことを明らかにすることであった。政策であるとか人

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生の究極目的であるとかについて議論するに当たり、経済学者は自己否定

的にならねばならないと唱えたつもりはなかった。…経済学者は倫理や政

策に関する自分自身の考えを持つべきではないという意味ではないと、私

はわざわざ断っておいた。それどころか私は、機械がどのように動くのか、

あるいは動きうるのかを知っている場合にのみ、人は機械がどのように動

くべきかを言う資格があると、はっきりと述べたのだった。これが実際の

ところ、経済学の究極的意義についての私の主張であった(Robbins 1971, 147-48 /田中監訳 161)。

ロビンズが参考にしたのは、スコットランドの哲学者ヒューム(David Hume, 1711-76)が若き日の著書『人間本性論』第三巻(1740 年)で指摘した、「で

ある(is)」と「べきである(ought)」の区別だった(Hume 1978, 469-70 /伊勢・

石川・中釜訳 22-23)。前者の領域から後者の領域へと、人は不用意に踏み

込みがちだけれども、両者の間には埋められない溝がある。彼は、目的が与

えられた際に、その特定の目的と複数の手段とのあいだの効率的関係を論じ

ることと、ではどういう目的が社会にとって望ましいかを、すなわち善同士

を比較したうえでどの善を選択するべきか(またはどの悪をまず避けるべき

か)を論じることとは、本来的に全く別の問題であることを、経済学者は意

識せねばならないと言う。経済学者が「べき」領域に踏み込んではならない

わけではないが、目的自体を与えるのは政治システム(例えば民主主義的投

票結果)であり、経済学者は所与の目的を前提とした場合に、その目的に対

して「である」領域を構成する経済システムがどう反応するのが も効率的

かについての回答を用意する。もちろん経済学者は、つね日頃から、一つに

限定されない複数の目的(善)のもとでの当該領域の働きについて、視野を

広げるとともに理解を深める努力を不断に継続しておかなければ、あるいは

換言すると、多様な社会的文脈ないし価値観のもとにおける目的と手段の関

係について思考実験を幾度となく繰り返しておかなければ、その仕事を十分

に果たしうるとは言えないだろう。

 経済学者が、もっと一般化して経済の観測や予測に関わる者が、より多様

な文脈や価値観に対する感覚を研ぎ澄ますためには、いったい何が必要だろ

うか。この問いへの答えは一筋縄ではいかないが、一つだけ挙げるとすれば、

(17)

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経済に対する基底的なものの見方、つまり、例えば統制か規制緩和か、分配

の平等化か競争促進かなど、経済分析の土台を形成する「経済思想」を包摂

した「社会思想」(狭義の社会主義思想も含まれるが、実際は自由主義的政

治思想や個人主義的倫理思想とも密接に結びついた、もっとずっと裾野の広

いもの)の歴史的変遷について考察することで、人と人のあいだの営みのか

たちを秩序づけている思考のフレームワークの相対性、つまり、時間軸に沿っ

た「ものの見かた」の連続と断絶の過程を跡づけておくことが必要不可欠な

のは、間違いないと思われる。約言すれば、経済学を成り立たせている諸前

提の関係性を歴史的に考察する学問領域としての社会思想史が、経済学およ

び経済学史と相互補完的に並存することで、経済分析はより的を射たものに

なると考えられる。ロビンズの母校兼勤務校でもあったロンドン政治経済学

校で教鞭をとった日本人経済学者の森嶋通夫(1923-2004)が、20 世紀の終

わりに「次の世紀では経済学と社会学は非常に密接な学問になるに違いない」

(森嶋 1994, 243)と述べたことを筆者なりに受けとめるなら、ともすれば

前提が狭小かつ平板になりがちな経済学(史)を社会思想(史)で補完し、

かつ、多様ゆえに浮動しがちな後者の船底に錨としての前者を付けるように

するという学問方法論に落ち着くわけである。

 経済学は、なぜ効率を求めなければならないのか、満足度を 大にしなけ

ればならない理由は何かという、自らの土台ないし前提そのものに向けられ

た問いには答えられない。冒頭の例で言えば、なぜ読書を効率化する「べき」

なのか、そして読書を通じて満足度を高めなければならない理由は何なのか、

本当に人は満足しているのだろうか、そもそも満足とは何か、といった問い

に、経済学自体として満足な答えは出せない。学説史としての経済学史もま

た、少し専門的な言い回しになるが、例えば、消費財にも生産財にも用いる

ことのできる「限界代替率」という歴史的に新しい概念を「限界効用」とい

う旧い概念に代えて採用する理由を、技術的洗練の観点から説明することは

できるものの、かつてシュンペーター(Joseph Alois Schumpeter, 1883-1950)が「ヴィジョン(Vision)」という用語で表現したもの(Schumpeter 1994, 41/東畑訳 79)、つまり、経済を取り巻く社会環境が経済の観察者にあらかじ

め与える暗黙の影響について、ヒューム=ロビンズ流に言えば外生的な「べ

き」領域の産物が「である」領域に作用する程度や範囲について、直接に解

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明することはできないのである。そこにメスを入れるのが社会思想史の役割

だろうと思う。

 話を冒頭に戻せば、経済学史と社会思想史の境界線は、以上で述べた「で

ある」「べき」両領域の区別を両者が反映するかぎりにおいて、曖昧どころか、

実のところきわめて明確に引くことができる。とはいえ、両者はいずれか一

方だけでは十分に成り立たない相補的な学問同士であることに、再度注意を

促したい。ゆえに筆者は両者を同時に講義し、学生諸君にも両者を同時に学

んで、自らの分析の前提を問うこと、自らの思考のフレームワークとその限

界について知ること、つまりは自己批判の姿勢を培うことの重要性に気づい

てもらいたいと願っている。ロビンズも、ロンドン政治経済学校の経済思想

史講義において次のように学生に語りかけていた(Robbins 1998, 9)。

大学が君たちに教えるべきなのにもかかわらず、過去においてであれ現在

においてであれ、すべての大学が教えてきたわけではない事柄が一つ存在

するとすれば、それは、開かれた心を持つこと、つまり自分自身の考えを

批判し続けることである。

注)速読ページ数を X1、精読ページ数を X2 と置く。

時間制約式は X1+3X2=60 …① 

効用関数は U=X1(X2-10) …②

②を X1, X2 それぞれについて偏微分して

∂U/X1=X2-10 …③ ∂U/X2=X1 …④

③は速読の限界効用

④は精読の限界効用

時間 1 単位当たりの限界効用均等は

(X2-10)/1=X1/3 …⑤ 

⑤を変形して X1-3X2=-30 …⑤’

①と⑤ ’ を連立方程式として解くと

X1=15, X2=15

 以下では、「経済学の父」としばしば評されるアダム・スミス(Adam

60

20

X2

X1

0 15

15

(19)

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Smith, 1723-90)が経済学の諸前提をどう捉え、それをどういった方法で解明

しようとしていたかという問いに対して、社会思想史的見地からの考察を試

みたい。こういう問いを立てた場合、スミスの 初の著書『道徳感情論』(1759

年)を検討の俎上に載せ、彼の二冊目の著書にして世界大の名声を確立した

『国富論』(1776年)と比較するのが王道であろうが、ここではあえて講義録(ス

ミスの生前には出版されなかった)の『修辞学・文学講義』を取り上げ、経

済学と文学の知られざる深い関わりについて、さらに言えば、前者の前提と

しての後者という興味深い関係性について、考えていきたいと思う。

2.修辞学・文学講義とは

 アダム・スミスは、1751 年、グラスゴー大学の論理学教授に就任した。翌

52 年に道徳哲学教授に転任し、以後、63 年末(公式には翌 64 年)に教授を

辞任してスコットランド貴族バクルー公爵の家庭教師として大陸旅行に随行

するまでの約 12 年間、連続して受け持ち続けた講義の一つが、修辞学・文

学に関するそれであった。彼は他に法学と、本職である道徳哲学の講義も担

当した。経済学の直接の母体となったのはこの道徳哲学(Moral Philosophy)だが、これら三種類の講義は相互に関連しているため、経済学の生誕を研究

するに当たっては他の二つの講義の研究も欠かせないだろう。

 今でこそ専門分化が進み、社会科学系の法学・経済学(後者は数学を多用

する)と人文科学系の修辞学・文学は縁遠いようであるが、草創期の 18 世

紀において、これら三者の関わりかたは重要であった。グラスゴー大学を卒

業後、オックスフォード大学での 6 年間の留学を終えてスコットランドの

カーコーディに帰郷したスミスは、母校の教授に着任する前のおよそ 3 年間

(1748 ~ 51 年)、ヘンリ・ヒューム(Henry Home, Lord Kames, 1696-1782 /

姓の Home は「ヒューム」と発音する。1752 年にケイムズ卿を名乗る。以下

ケイムズ)の依頼で「エディンバラ公開講義」を担当しており、そこですで

に修辞学・文学と法学が話題の中心を占めていた。当時、スコットランドの

首都エディンバラにおける公開講義は珍しいことではなく、俳優にして劇作

家のシェリダン(Thomas Sheridan, 1719-88 /『スウィフト伝』1784 年の著者)

をアイルランドから招聘のうえ、スコットランド訛りの矯正を目指した口語

英語の連続講義(1761 年)を実施した例もある。法曹界の重鎮だったケイ

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ムズはスコットランド人の英語による法廷弁論術のまずさを特に痛感してお

り、オックスフォード帰りのスミスに、単なる口語英語に留まらない、専門

性を伴った英語弁論・討論技術の講義を期待した。この公開講義は好評をもっ

て迎えられ、スミスのグラスゴー大学教授就任の決め手となる。

 教授時代のスミスは、修辞学・文学講義の副産物である「言語起源論」(1761

年)を、先述した『道徳感情論』の第三版(1767 年)に収録するなどして

両学問の密接な関連を示唆したが、講義ノートそのものは 期まで出版せず

に終わった。したがって現在残されているものは、1958年になってアバディー

ンの旧家で発見が報じられた、スミスの受講生による筆記ノートのみである。

実際にこのノートを入念に調査し、日本語に翻訳した、水田洋による解説を

聞こう。

紙の右半分に本文が連続して書かれ、左半分(ときには裏面)に追記があっ

て、右側の本文に挿入するように指示されている(たいていはaという記

号がある)。筆蹟は三人のものと見られ、いずれも馴れてくれば読めない

わけではないが、ときどき書きなぐりやインク汚染によって解読不能の部

分がある。この状態から、すくなくとも主要部分は教室で受講しながら書

かれたと考えたくなるが、それにしては行の乱れがほとんどない。速記術

で書いたものをあとで書きなおし、それに友人が手を加えたとする方が無

難かもしれない。いくつかの空白や誤記はあるにしても、三人はスミスの

講義の再現に努力し、かなりの成果をあげたということができよう(『修

辞学・文学講義』「解説」384)。

このノートにはきちんと日付が入っていて、1762 年 11 月 19 日(金)の第 2

講から翌 63 年 2 月 18 日(金)の第 30 講までの、計 29 回分が収録されてい

る。基本的に週三回、月・水・金に行われたことも分かる。グラスゴー大学

の学期は当時、10 月に始まり 5 月に終わっていた。したがって、スミスが

63年 10月に始まる新学期の講義担当を、すでに述べた教授辞任を理由に断っ

たとすれば、このノートの内容こそが 終講義の「ものだろう」ということ

になる。なお、「ものだ」と断定できないのは、法学に関して、スミスが 63

年10月から12月まで期間短縮で講義した記録が、これまた受講生によるノー

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トのかたちで残されているからである。これは『Bノート』と呼ばれ、ロン

ドン政治経済学校の経済学者キャナン(Edwin Cannan, 1861-1935 /ロビンズ

の先生の一人である)の手で 1896 年に出版された。もう一つの法学講義『A

ノート』は、半世紀余り遅れて、修辞学・文学講義と同時にアバディーンで

の発見が報じられた。A・Bのいずれも、今では日本語訳で読むことができ

る(稿末の参考文献表を見られたい)。

 上記の三名の学生が誰かは分かっていない。しかし、講義の内容が大いに

魅力的であっただろうことは、スミスのエディンバラ講義の聴講者の一人で、

やがてこの講義自体を引き継いだ英文学者ブレア(Hugh Blair, 1718-1800)による証言(1783 年)がある他、スミスの愛弟子で、のちに民法教授とし

て彼の同僚になるミラー(John Millar, 1735-1801)による次のような評価か

らもうかがい知ることができる。これは正確には、スミス没後に追悼講演

(1793 年)を行ったエディンバラ大学道徳哲学教授デュガルド・ステュアー

ト(Dugald Stewart, 1753-1828)がミラーの言葉として引用したものである。

ちなみにステュアートは 1800 年、自身の道徳哲学講義から経済学(Political Economy)講義を切り離し、学問分野としての経済学の独立を決定づけるこ

とになる。

スミス氏がこの[グラスゴー]大学に新任と同時に担当させられた論理学

教授の仕事の中で早速見抜いたことは、氏の先任者たちによって守られて

きた授業案から大幅に離れなければならないということと、スコラ学派の

論理学や形而上学よりも興味深く有益な性質の研究へと氏の生徒たちの注

意を向けさせなければならないということであった。したがって、心の諸

能力の概観を示したのち、そして学者たちの普遍的注意をかつて独占して

きた一種の人為的論考法についての好奇心を満足させるのに必要なだけの

古典論理学を説明したのち、氏は担当時間の残りの一切を修辞学および文

芸の一体系の論述に向けた。形而上学のもっとも有益な部分である、人間

の心のさまざまな能力を説明し例証する 善の方法はわれわれの思惟を言

葉によって伝達するさまざまなやり方の検討から、また説得ないし歓談に

役立つ学芸的作文の諸原理から生じるのである。これらの技芸により、わ

れわれが知覚ないし感得する一切、われわれの心の一切の作用は、明晰に

(22)

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判別され、記憶されやすいようなやり方で表現され、また叙述される。そ

れと同時に、青年にとって、哲学への 初の入門にさいし、これほど適当

な学芸の分野は他にない。これこそ、彼らの嗜好と彼らの感情をしっかり

と捉えるからである(福鎌訳 10)。

以上に関連して、興味深い史実を一つ指摘しておこう。スミスのもとには

遠くロシアから留学生もやって来た。クーデター(1762 年)を起こして女

帝となる直前のエカテリーナが派遣したデスニツキー(Semyon Efi movich Desnitsky, 1740-89)とトレチャコフ(Ivan Andreyevich Tretyakov, 1735-76)で

ある。二人はまずスミスの講義に出席し、スミス辞任後はミラーの講義を受

けるなどして研鑽を積む。聖歌斉唱の際にデスニツキーが自然哲学教授アン

ダスン(John Anderson, 1726-96 /グラスゴー大学の器具修理工だったジェ

イムズ・ワットに蒸気機関の修理を依頼し、産業革命の間接的な生みの親と

なる人物)と口論し、教授のかつらをはぎとるというトラブルが 1767 年に

起きたものの、同年に無事、二人そろって法学博士の学位を取得した(ロ

ス『アダム・スミス伝』を参照のこと)。帰国後まもなくしてモスクワ大学

(1755 年創立)の法学教授となった彼らは、他の教授たちの反対を受けな

がらもラテン語に代えてロシア語(つまり国語)による講義を導入した(さ

らにデスニツキーは、独占除去など、スミス流の自由主義改革を女帝に建言

する)。基礎言語の改革にこだわるあたりに、スミスの影響の名残りを看て

取ることができるかもしれない。ただし、当時はまだ主流だった古典語によ

る講義を近代語によるそれに切り替えるという試み自体は、スミスの先生で、

彼から数えて二代前のグラスゴー大学道徳哲学教授だったハチスン(Francis Hutcheson, 1694-1746)が、すでに(英語で)実施していたものである。

3.修辞学・文学講義の概要

 スミスは講義の 終回(第 30 講)で、イングランドの法廷弁論において

「率直、明確、明晰の文体」がいかに尊重され、反面で「古い雄弁にあった

華美やその他の装飾的部分」がまるで存在しないことを、強調する。華麗な

言葉ばかりを使おうとする弁護人は尊敬されない。イングランドでは「沈着

冷静で動揺しない態度」が好まれ、文体もこれに即したものとなっている。

(23)

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「何であれ情熱的あるいは誇張的なものについて、それが上院でうけいれら

れることを期待すべきではない。平明、正当、正確な説明でないもの、ある

いは少なくともそう見えないものは、何であってもそこではうけいれられな

いだろう」とスミスは言う。「上院」とはイギリス国会における貴族院(House of Lords)のことだから、裁判所を意味する法廷とは何ら関わりがないよう

に思われるかもしれないが、そうではない。貴族院は長らく 高裁判所機能

を備えており、つい 近、2009 年に「連合王国 高裁判所(Supreme Court of the United Kingdom)」が新設されるまで、部分的であれその機能は残存し

ていたのである。スミスの時代、すなわち 18 世紀において貴族院の権限は

まだ大きく、かのフランス啓蒙思想家モンテスキュー(本名はラブレード男

爵ならびにモンテスキュー男爵スゴンダのシャルル・ルイと長い/ Charles-Louis de Secondat, Baron de La Brède et de Montesquieu, 1689-1755)がイギリス

をモデルに立法・行政・司法の三権分立を論じたとされる『法の精神』(1748年)

の一節(第 11 編第 6 章)も、司法権力がより強大な立法権力に引きずられ

ないようにするために、庶民と利害感情を異にする「貴族の立法院」が庶民

の告発を 終的に受理するようにして、バランスをとるべきだと述べている。

 ここで、スミスはケイムズから、スコットランド人が法廷で揮うことので

きる英語の弁論技術を改良してほしいと依頼されてエディンバラ講義を引き

受けた、という出発点を想い起こしてみるならば、グラスゴー大学において

も引き続き同じ目的のもとに、彼は講義を続けていたと見なすことができる。

つまり平明で正確で、かつ華美に流れない文体をいかにして錬成し、スコッ

トランド人法律家がイングランド人の法廷、ひいては国会の重要部門である

貴族院において十分な影響力を揮えるようにするか、これがスミスによる修

辞学・文学講義の一貫した主題だったのである。

 平明率直な文体の模範として、スミスはスウィフト(Jonathan Swift, 1667-1745)を挙げている。スウィフトの名が挙がるのなら、彼と一時は同

じ政治ジャーナリストとしてペン先の鋭さを競っていたデフォー(Daniel Defoe, c.1660-1731)に言及がなされてもよさそうだが、スミスはスウィフ

トのみを強調する。スミスの口の端にデフォーの名が上るのは、「アミクス

(Amicus)」という筆名の人物がスミスにインタヴューし、文学談義を交わ

した記事(スミス没後の 1791 年 5 月 11 日に雑誌『蜂』で公表)においてで

(24)

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ある。その結び近くに、「かれはデフォーからいくつかの文章(passages)を

引用しましたが、それはかれがイングランドの詩の真の精神が息づいている

と考えていたものでした」という一文が登場する(『修辞学・文学講義』「付

録 1」350)。スミスの講義とともにこの記事を訳出した水田によれば、アミ

クスが誰かはいまだ不明だが、1762 年にグラスゴー大学に入学してスミスの

教え子となったスコットランド貴族の第 11 代バハン伯(David Erskine, 11th Earl of Buchan, 1742-1829)こそが正体だという「うわさ」もあったそうであ

る(同「解説」389 /正確には、アミクスの名で書いた記事を別の筆名で書

いた記事で批判するという一人二役の芸当をバハンがやってのけた、という

話になっているのだが、詳細は割愛する)。

 アミクスが仮にバハンだとすれば、つじつまの合うことが一つある。デ

フォーに「デイヴィッド・アースキン」という名の孫がおり、この名は後述

する通りバハン伯爵家から譲られたものだから、本来ならスミスの関心の

外縁部に位置したデフォーへの言及を促したのが、ある種の縁者に当たるバ

ハンだと考えれば、講義中は一度も口にしなかったデフォーにアミクスとの

インタヴューでは触れた事実に説明がつく。つまりこういうことである。バ

ハンの叔父にジョージ・アースキンという人物がいた。この人の家庭教師

を、デフォーの娘の夫となるベーカー(Henry Baker, 1698-1774)が務めた。

ベーカーは後年、自然哲学者および顕微鏡学者として有名になるが、若い

頃は聴覚障害者の教師として生計を立てていた。「ジョンソン博士」(Samuel Johnson, 1709-84)の著書『スコットランド西方諸島の旅』(1775 年)にも、「私

は聾唖者教育が新しいものであると述べるつもりはない。それはスペインの

治安官の息子に初めて適応[ママ]されてから、その後ウォリスとホルダー

によってイングランドで激しく競い合って開発され、 近ではベーカー氏が

職業としている」とある(諏訪部ほか訳 230)。そして 1730 年に誕生したベー

カーの長男が、11 代伯の祖父である 9代伯デイヴィッド・アースキンを名づ

け親としたのだった。拙稿「ヘンリ・ベーカー『宇宙』」(『調査と研究』38 号、

2012 年)も併せて参照されたい。

 話を本題に戻そう。第 7 講(1762 年 12 月 1 日)ではスウィフトの文体を

「率直」、スウィフトが若い頃に秘書として仕えた外交官テンプル(William Temple, 1628-99)の文体を「単純」と、スミスは評する。前者は「一語とし

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て読みとばすことはできない」ほど語と語が緊密に結びつけられ、したがっ

て意味のうえできわめて正確であるとともに、直截に命令してくるかのよう

な硬さがある。後者には謙虚さと愛想の良さがある。スミスによれば、「ふ

つうよりすぐれた能力があり、大きな機会、ながい経験を持つ人びとの場合

には、率直な性格がたしかにうまくいくが、若者はそれをさけるのがふつう

である。この性格のおもいあがった傲慢さよりも謙虚と卑下のほうが、若者

の年齢にふさわしい」。そう聞くとスミスはスウィフトにむしろ批判的なよ

うだけれども、実際はそうではない。第 8講(12 月 3 日)および第 9講(12

月 6 日)ではスウィフトの文体をさらに検討し、彼の才能は「嘲笑」にある

とする。嘲笑は、壮大であると期待されているものが実際には卑小であった

り、部分的には壮大だが別の部分は卑小であったりというように、感嘆され

るべきものの観念と軽蔑されるべきものの観念の「混合」が「笑い」を誘い

がちな人間本性に、訴えたものである。スウィフトは、同時代の「軽薄な愚

行」を暴露するためにこそ、まずは徹底して率直な文体で「壮大」を語り尽

くしたのだと、スミスは見ている。そしてスミスは、自らの時代にもスウィ

フトなら決して見逃さなかった軽佻浮薄さが蔓延りつつある状況を、むしろ

批判的に眺めてさえいた。「政治お

よび良俗または倫理についての実践

的な学問でさえ、近ごろはあまりに

も思弁的なやりかたで取りあつかわ

れるようになってきた」と、スミス

は嘆いて見せる。

  続 く 第 10 講 で は ア デ ィ ス ン

(Joseph Addison, 1672-1719) が 取

り上げられる。スウィフトとは違っ

て華やかさを帯びつつも別の方向か

ら嘲笑に接近し、「神、女神、英雄、

元老院議員、将軍、歴史家、詩人、

哲学者」のような対象の「重厚さ」

に付随する愚行を暴露した古代のル

キアノスと、このアディスンには、

1710 年頃の貴族院

(紅服は貴族で黒服は聖職者、

中央にはアン女王が臨席)

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相通ずるところがあると言う。優雅さはあるが不自然さはなく、したがって

スウィフトなら絶対に用いない「あや」も、あくまで明喩として作用し、気

どらない風を醸し出すと言う。これに対して第 11 講で正面から批判される

シャフツベリ(Anthony Ashley Cooper, 3rd Earl of Shaftesbury, 1671-1713)は、

古代人(特にプラトン)の華美さの「模倣」に流れ、プラトンが語らせるソ

クラテスさながら、頻繁に用いられる「主題転換」の手法で明晰さを台無し

にしてしまった。スミスはこう告げている。「すべての模写はもとのものを

こえるので、行動または文体においてまねる人は、その模倣をやりすぎるの

である。快楽をよそおう人はつねに、同席者のだれよりも、大声で長く笑う」

と。シャフツベリは華美さ、優雅さを追求するあまり、人工的に「かれ自身

の新しい殿堂」を打ち立てようとして、結局は自らで自らを模倣するかのよ

うな狂乱にはまり込んだ。スミスは、「常識」という名の自然が批評と良俗

の基礎であることを忘れてはならないと言う。引用しよう。

人が気持のいい仲間になるのは、かれの感情が自然に表現されているよう

にみえるばあい、情念や愛着がただしく伝えられるばあい、そして、相互

の思考がたがいに適合していて自然なので、われわれがそれらに同意した

くなるばあい、ではないだろうか。賢人もまた、交際と行動において、か

れにとって不自然な性格を、よそおいはしないだろう。もしかれが重厚な

ら、かれは快活さをよそおいはしないだろうし、かれが快活なら重厚さを

よそおいはしないだろう。かれはただ、自分の自然な気質を規制し、正当

な範囲に抑制し、度はずれた枝葉を刈込んで、自分のまわりの人びとにとっ

て快適な程度にするだろう。しかしかれは自分の気質にとって不自然な行

動をしているようにはみせないだろう。抽象的には、おそらく、そのほう

が望ましいかもしれないが。おなじように、文体における快適なものとは

何であろうか。それは、すべての思考が、それらが著者のなかにひきおこ

した情念を示すように、ただしく適切に表現されて、すべてが自然で気楽

にみえるばあいである。かれはけっして、性格にあわない行為をするよう

にはみえず、主題にふさわしいだけでなく、自分が自然にかたむいている

性格にふさわしいように語る(Smith 1983, 55 /水田・松原訳 97)。

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シャフツベリの家庭教師はかの著名なロック(John Locke, 1632-1704)だった。

ロックは侍医として教え子の祖父、初代シャフツベリ伯爵(Anthony Ashuley Cooper, 1621-83)に仕えた縁からである。したがって、と評するべきか、シャ

フツベリはロック、そしてロックの社会契約説の前提の一つをなすホッブズ

(Thomas Hobbes, 1588-1679)の哲学まで援用して自身の「あたらしい体系」

を築こうとしたものの、自らを戯画化する結果に終わってしまった。スミス

のシャフツベリ評はこのように辛辣である。革命の世紀の残滓と見なしたも

のに対して、日常的交感を基礎とする秩序の学を打ち立てようとした 18 世

紀啓蒙思想家の向けた一種の敵愾心が、垣間見える。

4.法廷弁論術は歴史から学べ

 スミスは、法廷弁論術が「歴史叙述」に多くを学ぶべきだと考えていたよ

うである。第 12 講(1762 年 12 月 17 日)以降で扱われる問題はこの点に傾

斜していく。歴史家は、ある命題(「べき」)を証明するために証拠を持ち出

すよりも、事実とされること(「である」)を正確に叙述していく。この「べき」

と「である」の区別が、かのデイヴィッド・ヒューム(エディンバラ出身で、

本来はケイムズと同姓だが、綴りをイングランド風の Hume にした)著『人

間本性論』に登場するものであることは、すでに述べた通りである。ヒュー

ムはスミスの年長の親友だった。第 17 講(17 63年 1 月 5 日)では、自然現

象以上に「人びとの行為」に強い関心を抱くのが人情だが、それは「われわ

れはかれらの悲運にはいりこみ、かれらが悲嘆すれば悲嘆するし、かれらが

歓喜すれば歓喜する。一言でいえば、われわれ自身がかれらと同じ条件下に

おかれているかのように、ある点でかれらにかわって感じる」という「同感

的感受作用」が働くからであるとする。この点について、スミスはすでに『道

徳感情論』(Smith 1976, 9 /水田訳上 25)で

想像力によってわれわれは、われわれ自身をかれの境遇におくのであり、

われわれは、自分たちがかれとまったく同じ責苦をしのんでいるのを心に

えがくのであり、われわれはいわばかれの身体にはいりこみ、ある程度か

れになって、そこから、かれの諸感動についてのある観念を形成するので

あり、そして、程度はもっと弱いがまったくそれらの感動に似ないでもな

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いものを、なにか感じさえするのである

と詳述しており、前掲のシャフツベリ批判も、主としてこの感受作用に反す

る振舞いであると彼が認識していたところに由来すると考えられる。こうし

た、私と彼、私たちと彼らのあいだの想像上の条件(立場・境遇)交換を自

然に行わせるような叙述のかたちこそ、弁論術がまさに模範とすべきものだ

ということになるだろう。第 18 講(63 年 1 月 7 日)では、時間や場所のつ

ながりよりも因果関係に注意を払い、「原因をつねに結果のまえにおく」よ

うにと、スミスは忠告する。そして「われわれのなかにもっとも強い情動を

かきたてそうな、あらゆる詳細を拡大する」ことで悲憤慷慨の念をたくまし

くさせる修辞家となるのではなく、あくまで「維持すべき中立性」を忘れず

「諸事実を拡大も縮小もしないでありのままに物語る」歴史家になれと、受

講生たちに告げるのである。

 ただし、いくら歴史家でも、時には判断(すなわち「べき」)を下さねば

ならないことがあるだろう。強い主張の行いかた、つまり「である」領域か

ら「べき」領域にあえて踏み込んで行く方法について、歴史家的法律家とい

えども学んでおかねばならない。第 24 講(63 年 1 月 24 日)においてスミ

スが「訓話的論述」と呼ぶ方法には、少数の原理という「おなじ鎖」によっ

て様々な現象をつなぐ「サー・アイザック・ニュートンのやりかた」(デカ

ルト哲学)と、部分的現象を説明するところから始めるウェルギリウス『農

耕詩』(スミスが好んだ書)の方法の、二種類がある。要は、演繹法と帰納

法を自覚的に使い分けよ、ということだろうか。また「討論的雄弁」にも二

種類があって、それぞれ「ソクラテス的方法」(論点を初めはぼやかしておく)

と「アリストテレス的方法」(命題を初めから大胆に肯定する)と呼ばれる。

ソクラテス的方法は聴衆が命題に反対の意見を抱いているとき、アリストテ

レス的方法は聴衆が命題に賛成の意見を抱いているときに採用するのがよい

と、スミスは助言する。アウェーの雰囲気の中で自身の主張をがなり立てて

も聴衆は聞く耳を持たないから、主張内容を曖昧にし、弁証法式の対話を通

じ、時間をかけて、自身が一方的に語るのではなく相手にも語らせながら、

少しずつ結論へと誘導していく。これが前者である。逆に後者は、初めから

聴衆が耳を澄ましてくれているホームにおいてこそ効果的であって、はっき

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りと、自信に満ちあふれた調子で主張を展開していくのがよく、下手に聴衆

に意見を求めたりすると逆効果であろう。

 かく述べるスミス自身、実際、話し上手だったようである。ステュアート

による先の追悼講演から、再度、引用しておきたい。スミスの講義風景を如

実に伝える部分である。

スミス氏の諸才能は、他のいかなる地位においてよりも、教授として 大

限に有利に出現した。講義を行うにさいして、氏はほとんど全面的に臨機

応変の雄弁術を頼りにした。氏の態度は優雅ではなかったにせよ淡々とし

て気取りがなかった。そして、氏自身が常に主題に関心を寄せている様子

だったので、氏は聴衆の興味を必ず喚起せずにはいなかった。どの講述も

普通いくつかの別個な命題から成り立っていたが、それらを氏は次々と証

明し例証するのに努めた。これらの命題は、一般的用語で述べられると、

それらの幅広さから、時としては一種の逆説じみた気配を帯びた。それら

を説明しようとする努力の中で、氏は 初しばしば主題を十分に把握して

いない様子を見せ、幾分かの躊躇をもって語った。しかし、進んでゆくに

つれて、材料が氏に殺到するかの観を呈し、氏の態度は熱く活気を帯びる

に至り、また氏の表現はすらすらと滑らかになった。論争の余地のある諸

要点については、氏が自分の見解への反論をみずから秘かに抱いているこ

と、また、氏がこのような結末に帰着したのは、より強力、より激烈に本

来の意見を支持するためであることが容易に判別できた。氏の例証の豊富

さと多様さのため、主題は次第に氏の手もとで膨張し、一大容積を獲得す

るに至るのだったが、この容積は同じ見地の退屈な反復なしに氏の聴衆の

注意を捉え、彼らに教訓と同時に楽しさを与えるように計算されていた。

それは同一の対象を、それが提示される多様な陰影や様相の一切を通じて

追求してゆき、そしてそののちに至って、この美しい一連の思弁がそもそ

も出発した源泉の命題ないし一般的真理まで問題の対象を逆に辿ってゆく

ことによって行われた(福鎌訳 12)。

も新しい伝記の一つであるフィリップソン『アダム・スミスとその時代』

でも、同様の箇所が引用されている。フィリップソンは「スミスが講師とし

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て成功した理由の多くは、学生たちのことが好きだったという事情による

ものだ」(永井訳 181)としているが、事は善い意味でもう少し複雑だろう。

スミスは、講義対象の「多様な陰影や様相の一切」をつかみ取ろうとするウェ

ルギリウス法と、それをふまえて少数の「一般的真理」にまで遡及していく

ニュートン法の、双方をうまく使いこなすだけの、きわめて用意周到、徹底

して冷静沈着な先生だったと思われるからである。 初は戸惑いがちに話し、

いま自分が示した見解にすら実は疑いを捨てきれないかのような素振りをし

てみせ、やがてあたかも偶然に解決の糸口を得たかのように「すらすらと滑

らかに」熱気を込めて語り始めるようになるという場面など、まずはソクラ

テスの方法を用いて学生を教師側に引き込んでおいて、そののち、つまり教

室の雰囲気がアウェーからホームに切り替わったのちに、今度は一気呵成に

アリストテレスの方法でまくし立てる、巧妙で計算高い弁論家の姿が目に浮

かんできて、筆者などは可笑しくて仕方がないのである。悪く受け取れば、

くさい演技である。しかしそれでも、どこか愛らしさを感じさせて憎めない、

それがスミスである。

5.結び

 「ポスト真実」を唱える政治家が闊歩し、真実あるいは事実は意図的に作

り出せるかのような言説が幅を利かせているかに見える現代において、煽ら

ず、飾り立てず、あくまで事実に即して冷静に語り、無理のない感情移入を

呼び込むことに徹した弁論こそ、実は も効果的であるという、スミスの言

葉は、今なお姿勢を正して聞くに値するものだろうと思う。彼は、悲憤慷慨

型の弁論を避けなさいと告げた。そうした弁論は、家族、友人、一地域、一国、

そうした身内だけの場で感情を高ぶらせ、意気軒昂に万歳三唱を繰り返す契

機とはなりえても、外に向けて、つまり見知らぬ人々に対して、自分の地域

や自国の立場の正当性を説得的に示す手段とはなりえない。内向きに完結し

た弁論は、敵を増やしこそすれ、味方を増やすことはないのである。 も強

靭な弁論術とは見知らぬ人さえも味方につける、あるいは敵さえも味方に変

えるものであるという、この点を、スミスは歴史家の方法に学ぶように薦め

ている。経済学史と社会思想史を二本柱として教育研究を進めようとする筆

者にとって、非常に励みになる言葉である。

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 スミスにおいて経済学と文学をつなぐものの一つは、したがって弁論術、

もう少し広く表現すれば言葉の運用法ということになるだろうか。経済学も

また説得の学であることを彼は強く意識していたと思われる。18世紀は内憂

外患、戦争の世紀であった。イギリスもフランスも、プロイセンもオースト

リアも、スウェーデンもロシアも、領域拡張にしのぎを削った。「重商主義

(mercantile system)」という言葉を『国富論』に導入し、自国優先の保護主

義的経済政策が結果として自国の消費者に不利益をもたらすという論理を、

激越な非難の言辞を弄することなく、豊富な歴史的事実に訴えながら展開し

たスミスは、まさに修辞学・文学講義で受講生に説いたことを、後年の著作

で自ら実践した。あるいは講義とほぼ同時並行的に著された『道徳感情論』

の中で、見知らぬ人々のあいだに身を置いてこそ心の落ち着きが保たれると

いう命題を同感作用にもとづいて立てたスミスの念頭には、大陸における列

強の衝突に巻き込まれるかたちでスコットランド高地地方の諸氏族(Clan と

総称される部族社会)が決起した、1745 年の「ジャコバイトの乱」があっ

ただろう。このときちょうどオックスフォードに留学中だったスミスは、ほ

どなく荷物をまとめて故郷のカーコーディに戻ったが、経済成長が続き、氏

族が解体して、他人同士からなる都市が生まれつつあったスコットランド低

地地方(カーコーディ含む)の新社会と、取り残されていく旧社会との分断

を、彼は放置できなかったのではないか。言葉の運用法次第で未然に防ぎう

る悲劇も少なくないことを、スミスは深く理解していたはずである。

 今回は法廷弁論術に焦点を絞ったが、修辞学・文学講義の初めのほうの主

題は、すでに一度触れた「言語起源論」であった。スミスが言葉の始まりを

どう見ていたかを、同時代の事情に即して説明するには別の機会が必要にな

るが、さしあたり『社会思想史事典』(丸善、2019 年)所収の拙稿「言語起

源論」を見ていただきたい。ここでは、スミスが言語の歴史的変遷をどう捉

えていたかを簡潔に紹介して、本稿の結びに代えたいと思う。スミスは、言

葉の変化を機械の変化になぞらえている。部品が単純化するほど機械は全体

としていっそう精巧になり、その設計図は複雑になっていく。これが機械の

進歩である。一方で言語も、古代のギリシア語やラテン語が部品、つまり単

語に複雑な格変化を要求していた反面で文法規則は緩やかだったのに対し、

近代英語は格変化を削り落として部品をきわめて単純化する一方、文法規則

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を厳密化していくことで、きわめて複雑な意味内容を有する文を構成するよ

うになっている。そう述べるスミスは、これを、言語の進歩とは断じなかった。

機械と言語は同じ方向の変化を遂げている、これは「である」領域の問題と

して、彼がはっきり認識した点である。しかしそれを「進歩」つまり肯定的

に見るか、それとも否定的に見るかは、「べき」領域の問題であって、彼は

言語の変化を必ずしも肯定的には眺めていなかった。その理由は、古代語に

伴われていた音韻の美しさが近代語では失われたからである。古代語は文法

におおらかだったから、心地よい発音を重んじて文を作ることができた。あ

たかも楽器を奏でるように言葉を発することを大切にするか、それとも、意

味内容の厳密を重視するか。これは、その時その場で聞く者のために言葉を

用い、話す者のために聞くことを楽しむという一過性の文脈を大切にするか、

それとも、普遍的一般的な、ビジネスライクな言葉の運用を重んじるかの、

違いである。「経済学の父」と呼ばれるアダム・スミスが、後者を必ずしも

是としなかったことを、筆者はとても面白いと思う。ビジネスライクな身内

という、既知の文脈向けに組み立てた弁論は、見知らぬ人を説得してビジネ

スライクに引き入れるための弁論、換言すれば、一過性ゆえに、したがって

歴史的であるがゆえに多様な文脈に応じてカスタマイズされている弁論には

及ばないことを、スミスは熟知していたと思えるからである。

図版出典

Paley 2016, vol. I 巻頭より(Peter Tillemans 画)

参考文献

Hume, D. [1739-40] 1978. A Treatise of Human Nature, ed. L. A. Selby-Bigge. Oxford U. P.

Paley, R. ed. 2016. The House of Lords 1660-1715. 5 vols. Cambridge U. P.Robbins, L. 1971. Autobiography of an Economist. Macmillan.――. 1998. A History of Economic Thought: The LSE Lectures, ed. S. G. Medema

and W. J. Samuels. Princeton U. P.――. [1932] 2007. An Essay on the Nature and Signifi cance of Economic Science.

Mises Institute.

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Schumpeter, J. A. [1954] 1994. History of Economic Analysis, ed. E. B. Schumpeter. Oxford U. P.

Smith, A. [1759] 1976. The Theory of Moral Sentiments, ed. D. D. Raphael and A. L. Macfi e. Oxford U. P.

――. 1983. Lectures on Rhetoric and Belles Lettres, ed. J. C. Bryce. Oxford U. P.グラスゴー大学ウェブサイト www.universitystory.gla.ac.uk/biography(人物伝

あり)

シュムペーター『経済分析の歴史 1~ 7』東畑精一訳、岩波書店、1955 ~ 62 年。

ジョンソン『スコットランド西方諸島の旅』諏訪部仁・市川泰男・江藤秀一・

芝垣茂訳、中央大学出版部、2006 年。

ステュアート『アダム・スミスの生涯と著作』福鎌忠恕訳、御茶の水書房、

1984 年。

スミス『修辞学・文学講義』水田洋・松原慶子訳、名古屋大学出版会、2004 年。

――『道徳感情論 上下』水田洋訳、岩波文庫、2003 年。

――『法学講義 1762 ~ 1763』水田洋・篠原久・只腰親和・前田俊文訳、名

古屋大学出版会、2012 年。

――『法学講義』水田洋訳、岩波文庫、2005 年。

ヒューム『人間本性論 第三巻 道徳について』伊勢俊彦・石川徹・中釜浩一

訳、法政大学出版局、2012 年。

フィリップソン『アダム・スミスとその時代』永井大輔訳、白水社、2014 年。

森嶋通夫『思想としての近代経済学』岩波新書、1994 年。

モンテスキュー『法の精神 上中下』野田良之・稲本洋之助・上原行雄・田

中治男・三辺博之・横田地弘訳、岩波文庫、1989 年。

ロス『アダム・スミス伝』篠原久・只腰親和・松原慶子訳、シュプリンガー・

フェアラーク東京、2000 年。

ロビンズ『一経済学者の自伝』田中秀夫監訳、ミネルヴァ書房、2009 年。

――『経済学の本質と意義』小峯敦・大槻忠史訳、京都大学学術出版会、2016 年。

-はやし・なおき 経済情報学科准教授-

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