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89 ポンピドゥとフランスのCSCE政策、1969 1974 年 山  本    健 Ⅰ はじめに Ⅱ 二国間主義による緊張緩和の模索 Ⅲ 多国間主義へ Ⅳ フランスと CSCE の変容 Ⅴ おわりに Ⅰ はじめに 1970年代前半、東西冷戦は一つの転機を迎えていた。1972年のニクソン米大 統領(Richard Nixon)の中国訪問を期に、アジアにおいては米中接近という政 治変動がもたらされた。同じ年、ニクソンはモスクワも訪れ、ソ連と戦略兵器制 限条約(SALT)を締結し、米ソ間の緊張緩和の第一歩を踏み出した。他方、ヨー ロッパにおいては、西ドイツにおいて社会民主党党首のブラント(Willy Brandt) が首相の座に着き、いわゆる東方政策(Ostpolitik)を展開する。1970年には西 独・ソ武力不行使条約(モスクワ条約)に調印し、その最初の成果を世界に知ら しめていた。だが、1970年代前半において、ソ連の最高指導者ブレジネフ(Leonid Brezhnev)と最も頻繁に直接対話を行った西側の指導者は、フランス大統領ジョ ルジュ・ポンピドゥ(George Pompidou)であった。 そして、その仏ソ首脳会談においてとりわけ重要な議題が、ヨーロッパ安全保 障協力会議(CSCE)であった。東西ヨーロッパ諸国及びアメリカとカナダを加 え、全 35 か国が参加した CSCE は、1973 年に開催され、およそ 2 年間にわたる協 議の後、1975年にヘルシンキ最終議定書を採択した。それはまさに、ヨーロッ パにおけるデタントの頂点であった。よく知られるように、ヨーロッパ安保会議 の構想自体は東側陣営からなされたものである。しかし西側陣営において、 『一橋法学』(一橋大学大学院法学研究科)第 7巻第 1号 2008年 3月 ISSN 1347- 0388 PhD, International History, The London School of Economics and Political Science (LSE) 89

ポンピドゥとフランスのCSCE政策、1969 1974年 - HERMES-IR...Helsinki 1972-1975, Alphen aan den Rijn-Genève, 1979; Ljubivoje Acimovic, Problems of Security and Cooperation

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ポンピドゥとフランスのCSCE政策、1969‒1974年

山  本    健※

Ⅰ はじめにⅡ 二国間主義による緊張緩和の模索Ⅲ 多国間主義へⅣ フランスとCSCEの変容Ⅴ おわりに

Ⅰ はじめに1970年代前半、東西冷戦は一つの転機を迎えていた。1972年のニクソン米大

統領(Richard Nixon)の中国訪問を期に、アジアにおいては米中接近という政治変動がもたらされた。同じ年、ニクソンはモスクワも訪れ、ソ連と戦略兵器制限条約(SALT)を締結し、米ソ間の緊張緩和の第一歩を踏み出した。他方、ヨーロッパにおいては、西ドイツにおいて社会民主党党首のブラント(Willy Brandt)が首相の座に着き、いわゆる東方政策(Ostpolitik)を展開する。1970年には西独・ソ武力不行使条約(モスクワ条約)に調印し、その最初の成果を世界に知らしめていた。だが、1970年代前半において、ソ連の最高指導者ブレジネフ(Leonid Brezhnev)と最も頻繁に直接対話を行った西側の指導者は、フランス大統領ジョルジュ・ポンピドゥ(George Pompidou)であった。

そして、その仏ソ首脳会談においてとりわけ重要な議題が、ヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE)であった。東西ヨーロッパ諸国及びアメリカとカナダを加え、全35か国が参加したCSCEは、1973年に開催され、およそ2年間にわたる協議の後、1975年にヘルシンキ最終議定書を採択した。それはまさに、ヨーロッパにおけるデタントの頂点であった。よく知られるように、ヨーロッパ安保会議の構想自体は東側陣営からなされたものである。しかし西側陣営において、

 『一橋法学』(一橋大学大学院法学研究科)第7巻第1号2008年3月 ISSN 1347-0388※ PhD, International History, The London School of Economics and Political Science (LSE)

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CSCEに対して非常に積極的であった指導者の一人がポンピドゥであった。フランスは西側における安保会議開催の最も重要な立役者であったといってよい。それゆえ、本稿は、主に近年公開されたフランスとイギリスの公文書に基づき、ポンピドゥおよびフランスのCSCE政策を分析する事を目的とする。

本稿の第一の主眼は、フランスの安保会議構想に対する態度の変遷をたどることにある。フランスの対CSCE政策についての先行研究の分析には、大きく二つの傾向がある。一つは、フランス政府は早い段階からCSCEを支持していたというものである。レイやストゥーは、デタント政策はフランス外交の基盤であるという前提から、ヨーロッパ安保会議についてもポンピドゥ政権発足の1969年当初よりフランスはそれを支持していたかのように描いている1)。もう一つは、フランスのCSCEに対する態度が変化していったものと見る見方である。マイメスの研究は、ポンピドゥのフランスが当初、二国間関係の改善による緊張緩和を模索する方針から、安保会議のような多国間関係によるデタントを追求するようになっていったと分析する2)。本稿もこの二つ目の見方を取る。史料からフランスの対CSCE政策の変化は明らかであり、レイやストゥーはその変化を踏まえた上でフランス外交を分析していないと考えるからである。

だが、一次史料が開示される以前のマイメスの研究も、フランスの政策の変化

1) Marie-Pierre Rey, La Tentation du Rapprochement: France et URSS à l ’heure de la Détente (1964-1974), Publications de la Sorbonne, 1991, pp. 82-107; ibid., “Georges Pompidou, l’Union soviétique”, in Association Geroges Pompidou, Georges Pompidou et l ’Europe, Editions Complexe, 1995; ibid., “Les relations franco-soviétiques et la conférence d’Helsinki, 1969-1974”, in Elisabeth Du Réau et Christine Manigand (dir.), Vers la réunification de l ’Europe. Apports et limites du processus d’Helsinki de 1975 à nos jours, L’Harmattan, 2005; Georges-Henri Soutou, “L’attitude de Georges Pompidou face à l’Allemagne”, in Association Geroges Pompidou, op. cit.; ibid., “President Pompidou, Ostpolitik, and the Strategy of Détente”, in Helga Haftendorn, et al., (eds.), The Strategic Triangle: France, Germany, and the United States in the Shaping of the New Europe, Washington, D.C.: Woodrow Wilson Center Press; Baltimore: Johns Hopkins University Press, 2006; ibid., “The Linkage between European Integration and Détente: The Contrasting Approaches of De Gaulle and Pompidou (1965-1974)”, in N. Piers Ludlow (ed.), European Integration and the Cold War: Ostpolitik-Westpolitik, 1965-1973, London: Routledge, 2007.

2) Michael Meimeth, Frankreichs Entspannungspolitik der 70er Jahre: Zwischen Status quo und friedlichem Wandel. Die Ara Georges Pompidou und Valery Giscard d’Estaing, Baden-Baden, 1990, pp. 154-173.

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の原因を十分に分析していない。マイメスは、フランスが多国間会議を重視するようになった要因としてベルリン問題を指摘している。すなわち、1970年より始まるベルリン交渉でソ連から譲歩をえるために、フランス政府は安保会議構想に前向きになっていったのだとマイメスは説明する。たしかに、本稿でも強調するように、フランスはベルリン問題を極めて重視していた。しかしそれだけではフランスのCSCEに対する立場についての説明としては不十分である。なぜなら、ベルリンのみが重要であるというだけであるならば、1971年にベルリン大使級協定が締結されて以降、フランスはCSCEに積極的である必要は必ずしもなかったからである。

ここで重要なのは、安保会議に対するポンピドゥの態度の、緩やかだがはっきりとした変化である。この点についてマイメスは十分な関心を払っていない。たしかに、本稿でも論じるように、具体的なフランスのCSCE政策は外務省によって作成され、外相や外交官たちが交渉に当たった。それゆえ、以下の議論においても、フランスの政策を詳細に検討する上で、外相や外務省の動向が当然分析されることになる。しかし、フランス第五共和制の大統領は外交に関して大きな権限を持っており、ポンピドゥの対CSCE認識はフランス外交の大きな方針を規定したといってよい。実際、大統領がCSCEに積極的になることによって、フランス外交全体もCSCEにより能動的に関わっていくことになる。ポンピドゥの意向、とりわけポンピドゥがCSCEに積極的になっていく過程を無視して、フランスのCSCE政策、さらにはCSCEに代表される1970年代前半のヨーロッパ・デタントを十分に理解することはできない。それゆえ本稿は、開示された外交史料に基づき、とりわけポンピドゥに注目しつつ、フランスの対CSCE政策の変化を明らかにする。

では、CSCEの文脈で、フランス外交はどのような意味で重要であったのか。それが本稿の第二の主眼である。フランスが西側陣営内においてCSCEに積極的になって行き、NATO諸国を安保会議の方向へと導いて行く原動力の一つとなったこともさることながら、特にフランスがヨーロッパ安保会議の形を変容させたことに本稿は注目する。より具体的には、安保会議の手続きに関するフランスの提案が重視され、やや詳細に分析される。従来のCSCEに関する研究は、その手

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続きの面にほとんど関心を払ってこなかった3)。しかしながら、CSCEがヘルシンキ最終協定という、ヨーロッパにおける冷戦史の中でも重要な成果を生み出すことができた重要な要因の一つとして、安保会議のあり方自体が検討されなければならない。なぜなら、安保会議の構想が当初東側陣営からなされたとき、それは短く中身の薄い会議として構想されていたからである。東側のねらいは、全ヨーロッパ会議を開き、そこで第二次世界大戦後のヨーロッパの分断状況を承認し固定化することにあった。それゆえ、ソ連側にとっては、会議において国境不可侵の原則などが合意されれば十分であった。しかし、西側にとって重要であったのは、安保会議において、人権や人・思想・情報の移動の自由といった議題について協議し、それを最終協定に盛り込むことであった。詳細については本論に譲るが、それをきわめて効果的に可能にしたのが、フランスの手続きに関する三段階安保会議の提案であった。いわば、フランスがCSCEを建設的で意味のあるものに変容させたのである。本稿は、既存の研究のように単にフランスのデタント政策を記述するのではなく、フランスがCSCEの中でどのような役割を果たしたのかという視点から、つまり多国間関係の中におけるフランスという視点から、フランス外交について史的分析を試みる。本稿の構成は時系列を基本とし、ポンピドゥが死去する1974年までを分析の対象とする。

3) 代表的なものとしては、Luigi Vittorio Ferraris, Report on a Negotiation. Helsinki-Geneva-Helsinki 1972-1975, Alphen aan den Rijn-Genève, 1979; Ljubivoje Acimovic, Problems of Security and Cooperation in Europe, Alphen aan den Rijn, The Netherlands: Rockville, Md., USA: Sijthoff & Noordhoff, 1981; John J. Maresca, To Helsinki‒the Conference on Security and Cooperation in Europe, 1973-1975, Duke University Press, 1985; Victor-Yves Ghebali, La Diplomatie de la Détente: la CSCE, d’Helsinki à Vienne, 1973-1989, E. Bruylant, 1989; Peter Schlotter, Die KSZE im Ost-West-Konflikt: Wirkung einer internationalen Institution, Frankfurt: Campus, 1999; 百瀬宏,植田隆子編『欧州安全保障協力会議(CSCE):1975‒92』日本国際問題研究所、1992年;吉川元『ヨーロッパ安全保障協力会議CSCE:人権の国際化から民主化支援への発展過程の考察』三嶺書房、1994年。イギリスの史料に基づく最新の研究として、齋藤嘉臣『冷戦の変容とイギリス外交─デタントをめぐる欧州国際政治、1964 ~ 1975年─』ミネルヴァ書房、2006年。例外として、レイの研究が、手続き面においてフランスがイニシアティブを取ったという事実については言及している。Rey (2005), op. cit., pp. 51-9. しかし、それがCSCEにおいてどのような意味があったのかについての分析がなされておらず、それゆえCSCEにおいてフランスが果たした役割についても十分に分析されているとはいいがたい。

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Ⅱ 二国間主義による緊張緩和の模索フランスがデタントに積極的になって行ったのは、ド・ゴール大統領(Charles

de Gaulle)の時代、とりわけ1960年代中葉以降のことである。折しもその頃、ワルシャワ条約機構側は、全ヨーロッパ安保会議の開催を提唱し始めていた。それゆえ、本章では、まずド・ゴール政権の安保会議構想に対する態度を簡単に振り返っておく。それは端的に、安保会議開催の反対であり、ソ連及び東欧諸国との二国間関係の改善の重視という立場であった。次いで、ポンピドゥ政権誕生の当初は、ド・ゴールの政策を引き継ぎ、フランスは二国間主義を継続し、安保会議構想に対しては冷淡であった事を明らかにする。第三節では、フランスがベルリン問題と安保会議構想をリンクさせる過程を分析する。そして最後に、二国間主義と多国間主義の立場がぶつかり合った、1970年6月のNATO理事会での議論を分析する。この時点で、フランス政府は二国間主義側の旗手であったことを確認しておきたい。

1 ド・ゴールとヨーロッパ安保会議

1963年8月に部分的核実験禁止条約(PTBT)が米英ソ間で締結されると、ヨーロッパでは「小デタント」と呼ばれる緊張緩和の機運が盛り上がった。たとえば、ベルギーやカナダなどのNATOの小国は、さらに武力不行使協定の締結や、奇襲攻撃を避けるための措置として監視地点を設置することについて東側陣営と交渉を進める事を望んだ。しかし当時、フランスは、西ドイツと共にデタントに極めて消極的であり、対ソ強硬姿勢を取っていた4)。だが、アデナウアー西独首相

(Konrad Adenauer)が退陣し、後任にエアハルト(Ludwich Erhard)が就任すると、仏・西独関係が悪化する。すでにアメリカとの関係も悪化していたフランスは、次第にソ連に接近していった5)。1964年10月に締結された仏ソ通商協定は

4) Anna Locher and Christian Nuenlist, “What Role for NATO? Conflicting Western Perceptions of Détente, 1963-65”, Journal of Transatlantic Studies, 2/2, 2004; Christian Nuenlist, “Into the 1960s: NATO’s role in East-West relations, 1958-63”, in Andreas Wenger, Christian Nuenlist, and Anna Locher (eds.), Transforming NATO in the Cold War Challenges beyond deterrence in the 1960s, Routledge, 2007.

5) Georges-Henri Soutou, L’Alliance Incertaine: Les Rapports Politico-Stratégiques Franco-Allemands 1954-1996, Fayard, 1996, pp. 272-7, 301-5.

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その最初の具体的な現れであった6)。その後、フランスはソ連・東欧諸国との交流を積極的に発展させ、1966年のド・ゴールのソ連訪問において一つのクライマックスを迎えることになる7)。

他方、ワルシャワ条約機構側は、全ヨーロッパ会議を提唱し始めた。1964年12月には、ポーランド外相ラパツキ(Adam Rapacki)が国連総会にて、ヨーロッパ会議の開催を訴えた8)。またポーランドのアイデアは、ソ連によっても取上げられた。1966年3月、第23回ソ連共産党大会において、ブレジネフ書記長はヨーロッパ安全保障に関する国際会議構想を打ち上げたのである9)。ソ連側の重要な目的の一つは、このような多国間会議を通じて第二次世界大戦後のヨーロッパの現状や既存の国境を承認させることにあった10)。またとりわけ、そこに東ドイツを参加させることによって、それまで西側がその存在を公的に認めていなかった東ドイツを国際社会の一員として認めさせることが重要であった11)。タイミング的には、ド・ゴール訪ソの直前であり、安保会議構想に対するフランスの支持をえることもソ連側は期待していた12)。

6) Maurice Vaïsse, La Grandeur: Politique étrangère de général de Gaulle 1958-69, Fayard, 1998, p. 418.

7) ド・ゴールのデタント外交については、Garret Martin, “Untying the Gaullian Knot: France and the Struggle to Overcome the Cold War Order, 1963-1968”, unpublished Ph.D. thesis, London School of Economics, 2006; 川嶋周一『仏独関係と戦後ヨーロッパ国際秩序 ドゴール外交とヨーロッパの構築 1958 ─ 1969』創文社、2007年、142‒54頁。

8) 一説には、NATOの多国間戦力(Multilateral Force or MLF)を阻止するためであったといわれる。Helga Haftendorn, Sicherheit und Entspannung: zur Aussenpolitik der Bundesrepublik Deutschland, 1955-1982, Nomos Verlagsgesellschaft, 1983, p. 415.

9) Thomas W. Wolfe, Soviet power and Europe, 1945-1970, Johns Hopkins Press, 1970, pp. 285-6; See also, Haftendorn, op. cit., pp. 416-7.

10) Csaba Békés, “The Warsaw Pact and the CSCE process from 1965 to 1970”, in Wilfried Loth and Georges-Henri Soutou (eds.), The Making of Détente: Eastern and Western Europe in the Cold War, 1965-75, London: Routledge, 2008, p. 204.

11) 当時西ドイツは、いわゆる「平和ノート」において東ドイツを除く、ソ連・東欧諸国と武力不行使条約の締結を提案し、それによって東ドイツを孤立させようとしていた。Franz Eibl, Politik der Bewegung: Gerhard Schröder als Außenminister 1961-1966, Oldenbourg, 2001, p. 423; William Glenn Gray, Germany’s Cold War: The Global Campaign to Isolate East Germany, 1949-1969, The University of North Carolina Press, 2003, pp. 193-94. ソ連の安保会議開催提案は、この「平和ノート」への対抗案の意味合いがあった。Dokumente zur Deutschlandpolitik, IV Reihe/Band 12, pp. 723-2.

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しかしド・ゴールはこのソ連の多国間会議開催の提案を頑として受け入れなかった。1966年6月にブレジネフと会談した際、ド・ゴールは、安保会議はデタントの結果として開催されるべきであり、デタントの手段として開催されるべきではないと主張した13)。仏外相クーブ・ド・ミュルヴィル(Maurice Couve de Murville)が説明したように、ヨーロッパ安保会議を開催するには「非常に未成熟である、というのも、ドイツ問題についての相互理解にはまだ程遠いからである」というのが理由であった14)。フランスには東ドイツを承認する準備はなく、またドイツ再統一が実現する兆しもまったくない中で、安保会議のような多国間会議を開催することは論外であった。フランスが望んでいたのはあくまでも二国間関係に基づく東西関係の関係改善であった。ド・ゴールは、長期的目標として、冷戦における超大国による支配の枠組みである東西両ブロックを解体する事を目指していた。それゆえ、ブロックが強化されるような試みに反対し、逆に二国間関係の改善を通じて東欧諸国がソ連陣営のくびきから次第に自由になっていく事を望んだ。ド・ゴールの長期的構想の中では、ブロックが解体され、冷戦の支配構造が崩れた後にドイツの分断も克服され、その先においてヨーロッパ規模の安保会議は開催されるのだった。それゆえ、多国間のデタントに消極的だったのである。

だが、1968年、フランスのデタント政策は大きな挫折に直面する。8月20日、ワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵攻したからである。この年の初めより「プラハの春」といわれる民主化運動がチェコスロバキアにおいて開花し始めていたが、それはあからさまな武力行使によって無残にも踏みにじられたのだった。ソ連指導部は、社会主義体制を維持するためには社会主義国の主権や自決権は制限されると強弁した15)。このブレジネフ・ドクトリンと呼ばれた主張と、

12) Evguenia Obitchkina, “La naissance du dialogue franco-soviétique sur l’Europe de la détente: les premières initiatives soviétiques”, in Elisabeth du Reau et Christine Manigand (dir.), Vers la Réunification de l ’Europe: Apports et limites du processus d’Helsinki de 1975 à nos jours, Paris: L’Harmattan, 2005, pp. 23-4.

13) Vaïsse, op. cit., pp. 426-28; Frédéric Bozo, Two Strategies for Europe: De Gaulle, the United States, and the Atlantic Alliance, Rowman & Littlefield, 2001, p. 177.

14) Akten zur Auswärtigen Politik der Bundesrepublik Deutschland (以下、AAPD) 1966, Dok. 142, fn. 27, pp. 615-6.

( )山本健/ポンピドゥとフランスの CSCE 政策、1969 ‒ 1974 年 95

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暴力行為そのものに対して西側は強く反発し、ソ連との閣僚級の接触を全て禁じた。東西関係は急激に冷え込み、フランスの緊張緩和の努力は水泡に帰した16)。

結局ド・ゴール政権は、その末期に至るまで、ヨーロッパ安保会議の提案に消極的であった。全ヨーロッパ会議は、チェコスロバキアでの悲劇から約半年後の1969年3月、ハンガリーの首都に集結したワルシャワ条約機構諸国の指導者によって再び提唱された。いわゆるブダペスト・アピールである17)。しかしながら、翌4月に開催されたNATO理事会外相会議で、ドブレ新外相(Michel Debré)は、ヨーロッパ安保会議が成功する見込みは低く、現状では、会議を開催して失敗するよりも、会議そのものを開催しない方がよいと演説した18)。またドブレ自身、そのような会議は東西ブロックの対立を固定化するだけであり、時期尚早であると見なしていた19)。4月末には、駐ソ大使セイドー(Roger Seydoux)が、安保会議に反対である旨をソ連側にはっきりと伝えている。ドイツ問題の解決が困難であることに言及しつつ、フランス大使は、多国間の会議ではなく、あくまで二国間ベースで緊張緩和の雰囲気を創出することが必要であると主張した20)。1960年代中葉以降、ド・ゴールのフランスはデタント政策を追求してきたが、その手段はあくまでも二国間主義に基づくものであり、安保会議構想を受け入れることはなかったのである。

2 ポンピドゥ登場

1969年4月28日、憲法改正をめぐる国民投票で敗北したド・ゴールは政治の舞台から退いた。続く選挙にて勝利を収め、6月15日、第五共和制の第二代フランス大統領の座に着いたのがポンピドゥであった。ポンピドゥは、1962年から

15) Wilfried Loth, “Moscow, Prague and Warsaw: Overcoming the Brezhnev Doctrine”, Cold War History, 1/2, 2001, p. 104.

16) Martin, op. cit., chapter 7.17) ブダペスト・アピールのテキストは、Michael Palmer, The prospects for a European Security

Conference, London: Chatham House, PEP, 1971, pp. 85-7.18) The National Archives (Public Record Office), Kew, London (以下、TNA). FCO 41/411,

Washington tel no.54 to FCO, 11.4.1969.19) Meimeth, op. cit., pp. 157-8.20) TNA. FCO 41/539, Wilson to Giffard, 29.4.1969.

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68年までド・ゴール政権の首相を務めたド・ゴール派の一人であり、前任者のデタント政策を引き継ぐこととなった。西ドイツのブラント外相(当時)と7月4日に会談した際、新フランス首相シャバン・デルマス(Jacques Chaban-Delmas)も、新政府はド・ゴールが整えた路線を継続する事を明言した21)。たしかに、おそらくド・ゴール時代にソ連への接近を強調しすぎた反省からであろうが、西側同盟国との関係では、ポンピドゥはド・ゴールに比して対立的なトーンを後退させた。しかしデタント政策に関して、ポンピドゥ政権は、引き続きソ連・東欧諸国との関係を二国間関係の中で改善していくことが目的とされた。多国間のブロックとブロックの対話には依然として消極的であった。

それはポンピドゥ政権のソ連に対する基本的姿勢にも反映されていた。新政権発足後まもなくの7月4日、セイドー駐ソ大使は本国の訓令を受け、ソ連政府に次のようなフランスの立場を伝えた。一方で、フランスは東側によって提示されたヨーロッパ安保会議構想について(リップサービスとして)一定の歓迎を示しつつも、他方で、まずは二国間での接触によって緊張緩和の雰囲気を促進することが必要であると主張した。そして、その二国間協議の目的は、どの問題を安保会議で議論し、どの問題を二国間で進めるのかを決めることだとされた22)。

その訓令の中にはとりわけ注目すべき点が含まれていた。フランスは、そのような会議において、経済、科学、技術協力と並んで、「人権の保護、人、思想および情報の移動の自由、そして文化交流の促進に関する諸問題」を取り扱う事をソ連に提案したのである23)。おそらくこれが、ヨーロッパ安保会議の文脈で、ヨーロッパ全体の問題としての人権問題や人の移動の自由といった議題が明確な形で現れた最初であった。後に、これはフランスのみならず、CSCEにおける西側の最も重要な議題提案となっていく24)。

21) AAPD 1969, Dok. 222, Gespräch des Bundesministers Brandt mit Ministerpräsident Chaban-Delmas in Paris, 4.7.1969.

22) Ministère des Affaires Etrangères, Paris (以下、MAE), Série Pactes 1961-1970, carton 277, circulaire no. 308, 4.7.1969.

23) Ibid.24) 「人・思想・情報の移動の自由」がNATOの政策となる過程についての詳細な分析は、

山本健「CSCEにおける人の移動の自由および人権条項の起源」『現代史研究』第53号、2007年。

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しかし、いずれにせよ、ポンピドゥ政権初期の段階では、フランスは多国間デタントやヨーロッパ安保会議構想に消極的であった。たしかに、駐ソ大使への訓令は、安保会議への関心をある程度示した上で、実質的にソ連との二国間関係の改善を訴えていた。だが、むしろフランスは、二国間の対話を強調することによってヨーロッパ安保会議の開催を先延ばししようとしていた。実際、1969年12月の米国務長官ロジャース(William Rogers)との会談で、ポンピドゥはこう説明している。「ヨーロッパ会議を開催する前にまず二国間での意見交換が必要であるという(フランスの)路線は、第一義的には、(そうすることによって)できる限り会議開催が延期されることを見越して構想されています25)。」何より、ポンピドゥ大統領自身がヨーロッパ会議という考えに否定的であった。

フランスとソ連とのさらなる意見交換の中でも、ポンピドゥ政権はこのアプローチを取り続けた。1969年10月、ポンピドゥ政権の新外相シューマン(Maurice Schumann)がモスクワを訪問する。これがポンピドゥ政権になって最初のソ連との閣僚級協議であり、それゆえフランスにとって仏ソ二国間関係を発展させる重要な機会であった26)。しかし、帰国後シューマンは、ソ連との会談は「あまり生産的ではなかった」とモスクワ訪問を総括している27)。その理由の一つは、ヨーロッパ安保会議構想について仏ソ間の意見対立が厳しいものとなったからであった。シューマンのソ連滞在中、仏ソ会談のコミュニケを作成するに当たって、ソ連外相グロムイコ(Andrei Gromyko)は、仏ソがヨーロッパ会議開催を望んでいる事をコミュニケの中で言及するようフランス側に迫った。しかしシューマンはそれをきっぱりと拒否した。上記の通り、フランスに安保会議を受け入れる準備はまだなかったからである28)。結局、仏ソ間の摺り合わせの末、この問題につ

25) 括弧内、筆者補足。TNA. FCO 41/550, Palliser to Brimelow, 19.12.1969; Archives Nationales, Paris (以下、AN), Paris, 5AG2 /1022, Entretien entre le Président de la République et M. William Rogers, Secrétaire d’État Aéricain, le 8 decembre 1969, de 15 h. 15 à 16 h. 40.

26) ワルシャワ条約機構軍が1968年10月にチェコスロバキアに侵攻して以来、最初にソ連を訪問した西側の閣僚は、ベルギーのアルメル外相(Pierre Harmel)であった。1969年7月のことである。Vincent Dujardin, Pierre Harmel: Biographie, Brussels: Le Cri, 2005, pp. 495-8.

27) AAPD 1969, Dok. 299, Anm. 8, p. 1070.

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いてのコミュニケの文言は「非常に注意深く作成され」、そのトーンは中立的なものとなり、フランスが安保会議にコミットしているとはいえないものにされた29)。仏ソ関係の専門家であるレイは、このコミュニケの中にヨーロッパ安保会議への言及がある事をもってして、ポンピドゥ政権は当初より安保会議に前向きであったと論じているが、このコミュニケが作成された文脈を無視した解釈であり、端的に誤りである30)。むしろシューマンは、安保会議開催は時期尚早であるとの立場を取っていたのである。

3 フランスとベルリン問題

当時、フランス政府にとっては、ヨーロッパ安保会議よりも、ベルリン問題の方がはるかに重要であった。そして、1969年以降、ベルリン問題はヨーロッパ安保会議と密接に関連して展開していくことになる。それゆえ、フランスの対CSCE政策をより幅広い文脈から理解するためにも、まず当時のベルリンの状況を簡単に振り返っておこう。

ベルリン問題が後に安保会議の問題と関連していくことになる最初の事件は、1969年2月7日に勃発した、いわゆるベルリン「小危機」であった31)。西独議会議員が西ベルリンにおいて西ドイツ大統領の選挙を行おうとしたことに東ドイツが強く反発し、西独議員が西ベルリンへ向かうことを妨害したのである。西ベルリンは西ドイツの領土ではないというのが東ドイツの基本的立場であり、西独議員の行動は、西ベルリンを自国の領土として既成事実化しようとする試みであると見なされたからであった。東ドイツにとって、西ドイツが西ベルリンにて大統領選挙を実施することは「違法」な政治的行為であった。むろん西側は東ドイツの行動を強く非難した。また、2月17日、駐米ソ連大使ドブルイニン(Anatoly Dobrynin)と会談したニクソン米大統領は、「もしベルリンの状況が悪化すれば、

(1968年7月に調印されていた)核不拡散条約の上院による批准がかなり困難な

28) TNA. FCO 33/532, Palliser to Brimelow, 17.10.1969; FCO 41/546, UKDEL NATO tel no. 612 to FCO, 22.10.1969; AAPD 1969, p. 1070, Anm. 8.

29) TNA. FCO 41/546, UKDEL NATO tel no. 612 to FCO, 22.10.1969.30) Rey (1995), op. cit., pp. 151-2.31) William E. Griffith, The Ostpolitik of the Federal Republic of Germany, MIT Press, 1978, p. 165.

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ものとなるだろう」との懸念を示した32)。西ドイツの大統領選挙は、3月5日、問題なく執り行われた。おそらく東ドイ

ツが過激な行動を取らないようソ連が抑制したためであろう。だが、このベルリン「小危機」は、ベルリン問題がその後の米ソ関係の進展を妨げる障害にならないよう、この解決に取り組む必要があるとの認識を米ソにもたらした。そのような認識は、選挙の直前に行われた米ソ間の協議からうかがうことができる。当時、ニクソンの安全保障担当特別補佐官であるキッシンジャー(Henry Kissinger)は、国務省を介さない極秘のチャンネルをドブルイニンとの間で作り上げており、ベルリン問題について意見交換はそこで行われた33)。ソ連大使は、「ソ連の唯一の関心はベルリンとヨーロッパのその他の地域における現状が変更されるのを阻止することである」と明言した。それに対し、キッシンジャーは「ベルリンへのアクセスの手続きをちゃんとすることがきわめて重要である」と強調した34)。この会談において具体的な提案はなかったものの、キッシンジャーは、ベルリン問題について交渉することに関してソ連の態度は「前向き」であるとの印象をえていた35)。それゆえ、20日後、ニクソンは、ソ連首相コスイギン(Alexei Kosygin)にベルリンに関する交渉を開始する事を申し出る書簡を送る36)。同時に、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツの四か国は、ベルリン交渉に備えて、緊密な協議を開始した37)。ソ連からも反応があった。5月27日にはコスイギンから、ベルリン問題について話し合うことについて異存はないとの返事がニクソンに届く38)。7月10日には、グロムイコ外相が、「全ヨーロッパ会議」の開催提案を繰り返す

32) Foreign Relations of the United States, 1969-1970, Volume XII, USSR, Doc. 14.33) キッシンジャーとドブルイニンの間のバックチャンネルについては、Jussi Hanhimäki,

The Flawed Architect: Henry Kissinger and American Foreign Policy, Oxford: Oxford University Press, 2004, pp. 34-40.

34) The Digital National Security Archives(以下、DNSA), Kissinger’s Transcripts, Con-versation with Ambassador Dobrynin, Lunch, March 3, KT00009, 6.3.1969. Available HTTP: http://nsarchive.chadwyck.com/marketing/index.jsp

35) Ibid.36) Martin J. Hillenbrand, Fragments of Our Time: Memoirs of a Diplomat, Athens: University of

Georgia Press, 1998, p. 281.37) W. R. Smyser, From Yalta to Berlin: the Cold War struggle over Germany, Macmillan, 1999, p.

226.38) Henry Kissinger, White House Years, Little Brown, 1979, p. 407.

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と同時に、ベルリン問題、アメリカとの戦略兵器制限協定、そして西ドイツとの武力不行使協定について交渉に入る準備がある旨を表明した39)。ベルリンに責任を持つ米英仏三国は、8月6日、ソ連に対し、ベルリン問題についてのソ連の意向を探るためのエイド・メモワールを共同で手交した。ベルリン「小危機」と核不拡散条約の批准への懸念をきっかけとして、長い間取上げられることのなかったベルリン問題が、1969年より再び動き始めたのだった40)。

フランスにとって、ヨーロッパ安保会議との関連で最も重要であったのは、ドイツ問題とベルリン問題であった。上記の10月のシューマン訪ソの後、11月8日に外務省政治局長室にて開かれた協議における焦点の一つは、ドイツ問題を安保会議の議題として盛り込むか否かであった41)。ヨーロッパ会議が開催されれば、東ドイツが参加しようとすることは間違いなかった。西側は東ドイツの存在を認めておらず、それゆえ安保会議において東ドイツを承認するのか、そしてまたそれはドイツの分断を公的に認める事になるが、ドイツ再統一の問題とどう折り合いをつけるのか、といった問題を避けて通ることは難しかった。他方で、ドイツ問題が全ヨーロッパ諸国によって扱われることはフランスにとって都合が悪かった。全ヨーロッパ規模でドイツ問題が扱われることによって、フランスと米英ソの四か国が持つ、ドイツ問題に関する特権的な地位が脅かされる恐れがあったからである。また、東ドイツが多国間の安保会議に参加すること自体、東ドイツを国際社会の一員として認めてしまう事を意味すると共に、ベルリン問題にとっても都合が悪かった。というのも、ベルリンは東ドイツの中にあるため、東ドイツ

39) Michael J. Sodaro, Moscow, Germany, and the West from Khrushchev to Gorbachev, Cornell University Press, 1990, p. 150.

40) ベルリン問題に手を出すことに極めて懐疑的であったポンピドゥは、8月4日、キッシンジャーに対し、なぜアメリカがベルリン交渉開催をソ連に申し出たのか理解できないと非難交じりの疑問をぶつけた。それに対し、キッシンジャーは、秋に予定されている西ドイツの選挙において、キリスト教民主同盟を支援したかったからであると、虚偽の理由を答えている。AN, 5 AG 2/1022, Entretien entre le Président de la Républiequ et M. Kissinger, Palais de l’Elysée-le 4 aout 1969 de 15h35 à 17h. おそらく、キッシンジャーは正直に答えることによって、ドブルイニンとのバックチャンネルの存在に気づかれてしまうのを恐れたのだろう。

41) MAE, Série Pactes 1961-1970, carton 277, Note, A/S: échange de vues concernant une éventuelle conférence sur la sécurité européenne (réunion chez le Directeur Politique, 8 novembre), 20.11.1969.

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の主権を認めることは、東ドイツの領土を通るベルリンへのアクセスルートも公式に東ドイツの主権下におかれてしまうことになるからである。西ベルリンにおける西側の地位を維持するためにも、西ベルリンへのアクセスルートを確保し続けることは、西側三国にとって最重要問題であった。またとりわけフランスにとってベルリンは、東西ヨーロッパ間の均衡にとって決定的なポイントであると共に、ドイツの将来に決定的に影響を与えるための手段として手放すことはできないものであった42)。

その結果、仏外務省はベルリン問題とヨーロッパ安保会議とのリンケージを考案する。そもそも安保会議の開催を提唱したのは東側であった。そして、西側にとって、西側の認めていない東ドイツが参加することになる会議の開催を受け入れることは、東側への大きな譲歩であった。それゆえ、仏外務省は、ヨーロッパ安保会議を受け入れる代わりに、その代償を要求しなければならないと考えた。すでにベルリンに関する交渉が遠からず四か国で始まりそうな情勢であったため、そのベルリン交渉において西側の要求をソ連が認める事が、安保会議の開催を受け入れる条件であるとすることが可能であるとの結論に至ったのである43)。それを受けて、シューマン外相は、12月3日の米英西独外相たちとのディナー会談の席において、ベルリンのアクセスの問題の改善が、東ドイツを承認する際の前提条件であることを強調した44)。たしかに、フランスは、ヨーロッパ安保会議の開催と引き換えに、ベルリン問題での譲歩をソ連からえようとした。ただし、このことはフランスが安保会議構想に積極的になった事を意味しない。ポンピドゥも仏外務省も依然として、安保会議の開催そのものには否定的であった。

42) Georges-Henri Soutou, “La France et l’accord quadripartite sur Berlin du 3 septembre 1971”, revue d’histoire diplomatique, no. 1, 2004, pp. 69-70.

43) MAE, Série Pactes 1961-1970, carton 277, Note, A/S: échange de vues concernant une éventuelle conférence sur la sécurité européenne (réunion chez le Directeur Politique, 8 novembre), 20.11.1969.

44) MAE, Série Pactes 1961-1970, carton 277, Dîner quadripartite du 3 décembre 1969 à l’Ambassade d’Allemagne à Bruxelles, Compte Rendu de l’Entretien des quatre Ministres des Affaires Etrangères, M. Schumann, M. Rogers, M. Stewart & M. Scheel.

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4 1970年ローマNATO理事会の大論争

多国間の枠組みにおける緊張緩和への試みに対するフランスの反対は続いた。イギリスの「常設東西関係委員会」構想へのフランスの批判がその好例である。英外務省は、東側によるヨーロッパ安保会議の提案への対抗案として、1969年秋以来、「常設東西関係委員会」を創設するという構想を温めていた45)。同じ多国間の協議であっても、プロパガンダの場になりやすい会議という大仰な形式でなく、官僚レベルの常設委員会を東西間で設置する方が実質的な協議が行えると考えられたのである。英外相スチュワート(Michael Stewart)は、ヨーロッパ会議を開催するという東側の提案には消極的であったものの、NATOはデタントに前向きであるとの姿勢を示すことも必要であると考えており、英外務省のアイデアを強力に支持した。だがシューマン仏外相は、12月3日の米英仏西独四か国外相ディナー会談において、イギリスの構想を好まないと率直に述べていた46)。フランスの考えでは、「常設東西関係委員会」構想は危険なものであった。というのも、「それは、ブロックとブロックの間の会議のための準備という印象を与えかねない」からであった47)。安保会議にせよ、「常設東西関係委員会」にせよ、フランスは多国間の枠組みに向かって行く動きに反対であり、あくまでも二国間関係の強化を優先させていた。

多国間主義と二国間主義の対立は、「常設東西関係委員会」をめぐる英仏対立にとどまらず、西側陣営全体の問題として、1970年5月のNATO理事会外相会議が近づくにつれて先鋭化していった。このローマ外相会議は、西側がCSCEを受け入れていく過程で、極めて重要な節目であった。それゆえ、NATO内におけるヨーロッパ安保会議をめぐる論争も激しいものとなった。一方で、イギリスと同様、東西交渉の多国間の枠組みを設置することに積極的であったベルギーは、

45) イギリスの「常設東西関係委員会」構想の詳細な分析については、齋藤嘉臣『冷戦の変容とイギリス外交─デタントをめぐる欧州国際政治、1964~1975年─』ミネルヴァ書房、2006年、123‒5頁。

46) MAE, Série Pactes 1961-1970, carton 277, Dîner quadripartite du 3 décembre 1969 à l’Ambassade d’Allemagne à Bruxelles, Compte Rendu de l’Entretien des quatre Ministres des Affaires Etrangères, M. Schumann, M. Rogers, M. Stewart & M. Scheel.

47) TNA. FCO 41/418, tel no. 766, UKDEL NATO to FCO, 5.12.1969.

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ローマ外相会議の最終コミュニケの中で、大使級の多国間予備協議を、すぐさま、無条件で開催する声明を盛り込む事を提案した。しかし他方で、当初、西ドイツ、イタリア、オランダ、トルコ、ギリシャ、ポルトガルといった多くの国々はその提案に反対であり、中でもアメリカとフランスが反対の急先鋒であった48)。フランスは、ドイツ問題やベルリン問題についての交渉が初期段階にある中で東側陣営と新しい対話を開始することは危険であり、また、コミュニケで多国間アプローチに言及すれば、ブロック対ブロック交渉を承認しているかのような誤った印象を与えてしまうと批判した49)。

しかし、イギリスは上記の「常設東西関係委員会」構想を念頭に、多国間の枠組みを設置する方向にNATOを導いていこうと努力を続けた。また小国を中心に、他のNATO諸国も、世論の手前、デタントに前向きである姿勢を示さなければならないとの考えを共有していった。その結果、NATO全体の意見は次第にイギリスやベルギーの立場に傾いていった。

フランス政府内においても、1970年前半において若干の変化の兆しは現れていた。フランスの外交官アンドレアーニ(Jacques Andréani)─当時、外務省政治局ヨーロッパ課のソ連・東欧担当係長(Sous-directeur)─による、フランスのヨーロッパ安保会議に対する基本的立場についての説明によると、ポンピドゥ大統領はソ連の提案に非常に懐疑的であり、また仏外務省もそれを危険であると認識していた。しかし、シューマン外相は、安保会議はいずれ開かれるのだから避けていても仕方がないとの見解に傾いていた50)。シューマン自身、5月20日にイタリア外相モロ(Aldo Moro)と会談した際、次のように自分の考えを明らかにしている。「長い間(安保会議に対して)気が進まなかったが、考えが変わりました。というのも、そのような会議において、東欧諸国がソ連の支配から抜け出し、それぞれの国家の個性を維持する機会をえられる可能性があると思う

48) MAE, Série Pactes 1961-1970, carton 274, Repan-Bruxelles tel no. 958/966 to Paris, 21.5.1970.

49) TNA, FCO 41/748, UKDEL NATO tel no. 256 to FCO, 6.5.1970; MAE, Série Pactes 1961-1970, carton 274, NOTE a/s: Prochaine session ministérielle du Conseil de l’Atlantique Nord (26-27 mai 1970), 22.5.1970.

50) TNA. FCO 41/747, Marshall (Paris) to Giffard (EESD), 4.3.1970.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 1 号 2008 年 3 月104

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からです51)。」シューマンはこう語り、安保会議のプラス面を積極的に評価するようになっていた。なぜこのように安保会議に対する認識が変化したのかについて、彼は、東欧諸国の政治家と対話を繰り返すうちに上記の彼の考えが強化されたと説明している。だが同時に、シューマンは、軽率にヨーロッパ安保会議の構想に乗り出すべきではないとも警告した。彼は、「ベルリンの地位の向上」が「デタントの真の鍵」であり、これがフランスが安保会議を受け入れる前提条件であるとモロに強調した52)。そして「結局のところ、安保会議の問題はアプローチの問題である。我々はこの会議を望むが、条件付きである」と結論付けている53)。

それゆえ、フランスにとって、多くのNATO諸国が次第にイギリスやベルギーの考えに近づいていくのは依然として問題であった。もし、ベルリン交渉が妥結する以前に、すぐにでも安保会議、あるいは何らかの多国間交渉に向かっていくような要素がNATOのコミュニケの中に含まれるようなことになるならば、最悪の場合、フランスはそのコミュニケの部分には賛同できないと考えていた。それゆえ、仏外務省は、そのような最悪のシナリオを避けるために、フランスがローマ外相会議における外交「ゲームをリード」しなければならないと感じていた54)。その結果、NATO内の議論で最後まで、イギリス・ベルギーの立場に反対し、コミュニケの中に「多国間multilateral」という言葉を盛り込むことに抵抗したのはフランスであった。コミュニケの文言は結局、ローマ会議のまさに最後の最後に、フランス、イギリス、ベルギーの代表が話し合って取りまとめることになった。そして、次のようなフレーズが生み出された:

これらの(軍縮)交渉や、特にドイツ及びベルリンに関する、現在進行中の交渉の結果、進展が見られる限りにおいて、同盟国政府はすべての

51) MAE, Série Europe 1961-1970, Italie, carton 401, Entretiens entre M. Maurice Schumann et M. Aldo Moro, Ministre des Affaires Étrangères d’Italie (Paris, les 19 et 20 mai 1970): Compte-rendu de la séance de travail du mercredi 20 mai, 26.5.1970.

52) Ibid.53) Ibid.54) MAE, Série Pactes 1961-1970, carton 274, NOTE a/s: Prochaine session ministérielle

du Conseil de l’Atlantique Nord (26-27 mai 1970), 22.5.1970.

( )山本健/ポンピドゥとフランスの CSCE 政策、1969 ‒ 1974 年 105

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関係国政府と多国間交渉に入る用意があると述べている。そのような交渉の主要目的の一つは、ヨーロッパの安全と協力に関する会議、あるいは一連の諸会議を開催することがいつ可能になるのかを模索することである55)。

このコミュニケの重要性は、NATOが初めてヨーロッパ安保会議との関連で、東西間の多国間交渉に入る準備があることを公的に表明した点にある。1960年代を通じて、NATOは公式の立場としては東側の安保会議の提案を黙殺し続けた。1969年12月に採択された「東西関係についての宣言」においても、NATOは、東側のヨーロッパ安保会議の提案を「留意する」と述べるにとどまっている56)。1970年5月のこのローマ・コミュニケは、安保会議そのものを受け入れたわけではないよう注意深く文言が作成されているものの、その方向へ向かう道筋についてより踏み込んだ表現が採択されたという意味で、画期的であった。NATOは、ローマ会議において初めて、多国間安保会議に向けての公的な一歩を踏み出したのである。

だがそれは、他方で、フランスやアメリカの従来からの主張を受け入れ、条件付きでの「多国間交渉」の受け入れとなった。ベルリン問題やドイツ問題に進展がない限り、多国間交渉を受け入れないとの立場も明確にされ、コミュニケはようやくフランスの受け入れるところとなったのである。

このように、ポンピドゥが大統領になって最初の1年間は、ド・ゴールの路線を基本的に引き継ぎ、二国間関係によるソ連・東欧諸国との関係改善が重視され、多国間主義的アプローチについては消極的であった。次章では、フランスがどのようにヨーロッパ安保会議に積極的になっていったのかについて見ていくことにする。

55) コミュニケの全文は、http://www.nato.int/docu/comm/49-95/c700526a.htm56) 「東西関係についての宣言」のテキストは、http://www.nato.int/docu/comm/49-95/

c691204b.htm

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 1 号 2008 年 3 月106

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Ⅲ 多国間主義へ上記の通り、ポンピドゥ政権は、発足直後より東側との関係改善に前向きな姿

勢を示すものの、ヨーロッパ安保会議構想には否定的であった。しかし、1971・72年になると、フランス政府、とりわけポンピドゥ大統領自身が安保会議について積極的な姿勢を示し始め、フランスは西側諸国の中で最も安保会議に前向きな国の一つになっていく。それゆえ、本章はまず、ポンピドゥの態度の変化の要因を分析する。次いで、安保会議に積極的になったフランスが特に重視した、会議の手続きについての西側同盟内の論争を取上げる。そして最後に、1971年9月のベルリン大使級協定調印後のフランス外交を分析する事を通じて、フランスがいかに安保会議に積極的になったのかを明らかにする。

1 ポンピドゥのCSCE認識の変化

ポンピドゥは、一夜にして安保会議を支持するようになったわけではなく、時間をかけて徐々にその対CSCE認識を変化させていった。したがって、複数の要因によってポンピドゥの対CSCE認識の変化を説明することが有益である。まず、当時仏外務省のソ連東欧担当係長であり後にCSCE交渉のフランス代表となる外交官アンドレアーニが指摘するように、米仏関係の悪化が第一の理由として挙げられる57)。当時、両国は中東問題をめぐり激しく対立していた。アメリカがイスラエルを支援する一方で、フランスはアラブ諸国を支持していた。1970年2・3月にポンピドゥが訪米した際、アメリカ市民、とりわけアメリカのユダヤ人は、アラブ・イスラエル紛争に関するフランス大統領の態度に激しく抗議した。その反発は、2月28日、シカゴにおいて頂点に達した。興奮したユダヤ人男性が、ポンピドゥの顔に唾を吐きかける事件が起こったのである。この出来事は、アメリカに対する強烈な不快感をポンピドゥに与えたという58)。また、フランスがリビアにミラージュ戦闘機を売却したこともアメリカの憤りを買うことになっ

57) Garret Martin’s interview with Jacques Andréani, 15 February 2006. マーチンは、アンドレアーニ氏とのインタビューの際、筆者自身が準備したいくつかの質問について筆者に代わってアンドレアーニ氏に尋ねてくれた。アンドレアーニ氏も、筆者の質問に丁寧に答えてくれた。両氏に深く感謝する。

58) Eric Roussel, Georges Pompidou 1911-1974, Nouvelle édition, J.C. Lattes, 1994, pp. 365-66.

( )山本健/ポンピドゥとフランスの CSCE 政策、1969 ‒ 1974 年 107

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た59)。この米仏間の利害対立は、フランスがソ連との関係により傾いていった背景要因の一つであった。特に、ソ連との良好な関係を構築するには、安保会議に対するフランスの態度を変えることが一つの有効な手段であった。1970年10月にポンピドゥの訪ソが予定されていたこともあり、仏ソ首脳会談の成功のためにもその重要性は高まっていったといえよう60)。

第二に、フランス政府内におけるデタントの支持者たちのポンピドゥへの影響が指摘できる。とりわけ、アルファン外務事務次官(Hervé Alphand)、セイドー駐ソ大使、そしてシューマン外相といった親デタント派が、ポンピドゥを安保会議に前向きになるように促した61)。1970年10月末にポンピドゥが訪ソする直前の13日、ポンピドゥはあるジャーナリストに私的にこう語ったという。「ここだけの話だが、もし私がヨーロッパ安保会議を受け入れたならば、これは(ソ連の)衛星国に少しだけ空気を与えるための試みである。特にルーマニアは、この会議が開催される事をとても望んでいる62)。」このポンピドゥの発言は、上記のシューマン外相の安保会議に対する考えと軌を一にしている。おそらく、6月のルーマニア大統領チャウシェスク(Nicolae Ceausescu)の訪仏の際に、CSCEに積極的なルーマニアの態度に接し、シューマンの意見に説得力があるとポンピドゥは考えたのであろう。1971年1月にブラントと会談した際にも、西ドイツ側の記録によると、ポンピドゥは次のような見解を示している。

「ルーマニアがそのような会議を最も後押ししていることは偶然ではない。もし東欧諸国においてロシアとの危機が起こったら、安保会議が招集され、おそらく常駐組織が設置され、ロシアがこの国に軍隊を送る事を本質的に困難にするであろう。それによって、ヨーロッパの東西関係は緩和されるであろう。そして、これは結局、西側にとって好ましいも

59) Garret Martin’s interview with Jacques Andréani, 15 February 2006. Yves-Henri Nouailhat, “Les divergences entre la France et les États-Unis face au conflit israéro-arabe de 1967 à 1973”, Relations Internationales, no. 119, 2004, p. 337も参照されたい。

60) Soutou (2006), op. cit., p. 234.61) Garret Martin’s interview with Jacques Andréani, 15 February 2006.62) Roussel, op. cit., pp. 403-4.

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のとなるであろう。というのも、これはブロックとは全く違うからである。これが、なぜ彼(ポンピドゥ:筆者補足)が安保会議へと傾いていったのかについての、より深い理由である。」63)

ポンピドゥはクレムリンの意図については懐疑的であり続けたが、彼の周りのデタント支持者たちの影響を受け、安保会議の持つ可能性については次第に前向きになっていったのだった64)。

最後に、フランス大統領の安保会議への態度の変化の第三の理由として、ブラントの東方政策の成功が挙げられる。この点はさらに三つの側面から重要であった。まず、ブラントが積極的に東方政策を進めていたことは、西ドイツが東ドイツを事実上承認する方向へと向かっていた事を意味する。それは、ドイツ問題を主要な原因として安保会議に反対であったド・ゴール時代と異なり、東ドイツ承認をめぐって西ドイツと対立することなく、フランスは安保会議に賛同できる状況が生まれていた事を意味する。

さらに、ブラントの東方政策を多国間の枠組みに封じ込める必要性をフランスは感じていたことが指摘されなければならない。表向きポンピドゥは東方政策を支持する姿勢を示していたが、実際には、彼は西ドイツの東側への接近に強い不信感を抱いていた。ポンピドゥは、西ドイツがヨーロッパにおける新しい安全保障体制を作るために既存の同盟から離脱し、将来的には中立化し、核武装をするのではないかとの懸念を持っていた65)。それゆえ、ポンピドゥは西ドイツをコントロールする枠組みとして、ヨーロッパ安保会議構想を利用しようとしたのだっ

63) AAPD 1971, Dok. 31, Gespräch des Bundeskanzlers Brandt mit Staatspräsident Pompidou in Paris, 25.1.1971, p. 157.

64) 1971年1月、ポンピドゥの外交問題アドバイザーのレイモン(Jean-Bernard Raimond)は、駐仏英公使パリザー(Michael Palliser)に対して、ポンピドゥの基本的考えは変わっておらず、ただより柔軟に見えるように表向き穏健な態度を取るようになっただけであると説明している。TNA. FCO 41/882, Palliser (Paris) to Brimelow, 25.1.1971. このことは、一面において、ポンピドゥの安保会議に対する認識が急激に変化したわけではない事を傍証している。だが、今日の目から振り返って1969年から1971年にかけての安保会議に対するポンピドゥの態度の変化を見るとき、やはり、1970年後半が大きな変化の時であったといえる。

65) Soutou (1995), op. cit., p. 313; Roussel, op. cit., p. 394.

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た66)。また、安保会議はフランス外交の独自性を示す上でも有益であると考えられる

ようになった。1970年10月に予定されていたポンピドゥ訪ソの準備の際、アルファン事務次官とセイドー大使は、当初、ブレジネフが提案していた友好・武力不行使協定を仏ソ間で締結する事を考えていた。しかし、8月12日、西ドイツとソ連は武力不行使を定めたモスクワ条約を締結する67)。これはブラント外交の最初の最も大きな成果であった。だが逆に、それによって、ポンピドゥは仏ソ間の協定に関心を失った。「私がブラントの後を追っているように見られたくない」と考えるようになったからであった68)。とはいえ、ポンピドゥはソ連との関係改善の意向を放棄したわけではなかった。そして、より重要なのは、ポンピドゥがデタント外交でイニシアティブを取りたいとも考えていたことである。ブラントが東方政策を進め、またニクソンがソ連と戦略兵器制限交渉(SALT)を進める中、ポンピドゥはヨーロッパ安保会議の開催において指導的役割を果たすことによって、フランス外交のオリジナリティを示そうとしたのだった69)。

このように、中東問題における米仏関係の悪化、政府内の親デタント派の影響、そしてブラントの東方政策の成功に対するフランス外交のオリジナリティの追求といった要因から、ポンピドゥは、二国間ベースでのソ連・東欧諸国との関係改善のみならず、多国間ベースのヨーロッパ安保会議の考えに次第にプラスの価値を見い出すようになっていった。しかしなぜポンピドゥはヨーロッパ安保会議に積極的になることができたのか。一つには、上記のとおり、1969年末に西ドイツにブラント政権が誕生し、東ドイツを事実上承認する方向へ大きく動き始めたため、安保会議に賛同しても仏・西独関係が悪化する事にならなくなったことが挙げられる。

66) Kissinger, op. cit., p. 414.67) モスクワ条約締結過程については、Werner Link, “Die Entstehung des Moskauer Vertrags

im Lichte neuer Archivalien”, Vierteljahrshefte für Zeitgeschichte 49/2, 2001.68) Rey (1995), op. cit., pp. 155-6.69) ポンピドゥの外交問題アドバイザーの覚書は、間接的に、ポンピドゥが安保会議開催を

追求することがフランス外交のオリジナリティであると見なしていた事を示している。AN, 5AG2/1018, NOTE pour Monsieur le Président de la République, 8.6.1972.

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だがさらに、ドイツ問題に関するポンピドゥの認識がCSCEに賛同する事を可能にしていた。それはド・ゴールとの比較により明らかになる。ド・ゴールは、たとえそれが長期的な目標であったとしても、ドイツ再統一が必要であると考えていた。そして、それはヨーロッパにおけるデタントを通じて達成されると考えていた70)。また、彼は東ドイツが人工的で不自然な存在であるとして、それを承認しようとはしなかった71)。それゆえ、東ドイツを承認しドイツ再統一を妨げかねない、多国間の安保会議には反対であった72)。しかし、ポンピドゥはドイツ再統一に反対であった73)。ポンピドゥはドイツ問題に関しては現状維持を望んでおり、ドイツの分断が安保会議において承認されることになったとしても問題ではなかったのである。こうして大統領が安保会議に前向きになったことにより、フランス政府全体としてもその開催に向けて積極的な態度を取っていくことになる。

しかしフランスは、ジレンマに直面する。安保会議に前向きになる一方で、会議の開催はベルリン問題の解決が前提条件であるというのがフランスの基本的立場であった74)。だが、1970年3月より始まっていた四大国ベルリン交渉は、12月までに何ら具体的な成果をもたらしていなかった75)。ベルリン問題はフランスにとってきわめて重要であり、容易に妥協するつもりはなかった。その結果、フランスは、12月のブリュッセルNATO理事会外相会議において新しいアプローチを取ることになった。

12月4日、シューマン外相は、安保会議とベルリン問題に関して独自の提案を

70) Soutou (1995), op. cit., p. 303.71) Vaïsse, op. cit., p. 420.72) Ibid., pp. 426-7; Bozo, op. cit., p. 177.73) Soutou (1995), op. cit., pp. 316-7.74) 1971年1月には、ポンピドゥ大統領自身が記者会見において、ベルリン交渉が好ましい

形で妥結しない限り安保会議は開催されないと強調している。L’Annee Politique 1971, pp. 243-4.

75) M. E. Sarotte, Dealing With the Devil: East Germany, Détente, and Ostpolitik 1969-1973 (The New Cold War History), University of North Carolina Press, 2001, pp. 71-7; フランスとベルリン交渉については、Andreas Wilkens, Der unstete Nachbar: Frankreich, die deutsche Ostpolitik und die Berliner Vier-Machte-Verhandlungen 1969-1974, R. Oldenbourg, 1990, pp. 123-76, および、Soutou (2004), op. cit.; ベルリン交渉全般については、Honoré Marc Catudal, The Diplomacy of the Quadripartite Agreement on Berlin: A New Era in East-West Politics, Berlin Verlag, 1978.

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する。他のNATO外相たちを前に、シューマンは、ベルリン問題の解決を東西間の交渉を多国間化する際の唯一の

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条件とするよう提案したのである。「ヨーロッパ安保会議のため、ベルリン以外の問題を前提条件にはしないことが非常に重要です。そうすることは、我々の努力の余地を小さくし、西ドイツの東方政策を助けることにならないでしょう」とシューマンは主張した76)。これは、フランスがヨーロッパ安保会議により前向きになった事を示す、表に現れた最初の兆候であった。

また、ベルリンを安保会議開催の唯一の条件とすることは、フランスのジレンマを解決する一つの手段であった。一方で、このアプローチを取ることで、フランスはソ連からベルリン交渉における譲歩を引き出そうとした。ベルリン交渉の行き詰まりを打開するために、ベルリンを唯一の条件とすることで、ベルリン問題を際立たせ、それが安保会議に至る唯一最も重要な障害である事をよりはっきりさせようとしたのである。また他方で、シューマンは、安保会議開催の条件を軽くすることで、会議開催をより実現しやすいようにしたのである77)。そうすることによって、フランスはベルリン交渉の妥結とヨーロッパ安保会議の開催の両方を追求しようとしたのであった。またフランスは、軍縮や、SALT、東西ドイツ間交渉など、「他の条件」に対する関心は低かったため、このような提案をすることが可能だった。

だが、このフランスの提案はすぐには受け入れられなかった。特にアメリカとオランダがSALTの重要性を強調し、シューマンに対して強く反対した78)。その結果、1970年12月のブリュッセル会議の最終コミュニケでは、フランスの意向を受け、ベルリン問題をより強調するような表現がとられたものの、ベルリン交渉の妥結のみならず、SALTや独独交渉などを指し示す他の「交渉中」の案件も安保会議開催の条件として残されることとなった79)。シューマンは妥協を強いら

76) TNA. FCO 41/638, UKDEL NATO tel no. 685 to FCO, 4.12.1970; AAPD 1970, Dok. 586, Botschafter Grewe, Brüssel (NATO), an das Auswärtige Amt, 4.12.1970.

77) MAE, Série Europe 1966-1970, carton 2031, Paris tel. to Moscou, Varsovie, Bucarest, Budapest, Prague, Sofia, Repan, Washington, London, Bonn and Berlin, 4.12.1970.

78) AAPD 1970, Dok. 586, Botschafter Grewe, Brüssel (NATO), an das Auswärtige Amt, 4.12.1970.

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れることとなった。しかし、これは、ヨーロッパ安保会議をめぐる1971年から始まる米仏対立の出発点にすぎなかった。

2 手続きをめぐる米仏対立

1971年から72年にかけて、NATO内における最も顕著な対立の一つは、ヨーロッパ安保会議の手続きをめぐるものであった。従来、安保会議をどのように組織化するのかという問題はあまり注目されてこなかった。しかしそれは、次の二つの意味において非常に重要な問題であった。第一に、フランスによって提案された手続きに関するアイデアは、CSCEを中身のある建設的なものにすることに大きな役割を果たした。それはソ連の安保会議構想と比較してみると明確である。もともとソ連はできる限り期間の短い、しかも一回限りの安保会議を考えており、武力不行使や国境不可侵の原則に合意し、ヨーロッパの現状の固定化を目指していた。しかし、そのような会議では、それ以外の問題について実質的な議論をする余地は非常に限られ、会議の結果も中身の薄い共同宣言のようなものになったであろう。しかし以下に詳述するように、フランスの手続きに関するアイデアは、ソ連のそもそもの思惑を大きく変容せしめるものであった。また第二に、手続き問題は、CSCEをめぐる西側の議論の中で基本的な部分を占めており、西側陣営における外交を理解する上で最も重要な問題の一つであった。それゆえ、そこには各国のデタント観の相違が反映されていた。ここでは特にアメリカと比較することで、フランスの対CSCE政策をより具体的に見ていくことにする。

1971年以降、CSCEをめぐるNATO内での基本的な対立軸は、フランスとアメリカであった。この両国はヨーロッパ安保会議を準備し、かつ実施する上での手続きの問題に関して、全く異なった考えを抱いていた。アメリカは、長い準備協議と短い一回限りの外相会議が望ましいと考えていた。そして準備協議を可能な限り長引かせるため、アメリカはさらにそれを予備協議と準備協議の二つのフェーズに分けるべきだと主張した。アメリカの考えによれば、予備協議は非公式会談で会議の議題について協議し、準備協議では実質的な諸問題について協議

79) コミュニケの全文は、http://www.nato.int/docu/comm/49-95/c701203a.htm

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することになっていた80)。アメリカの構想の本質は、大臣級会議を開催する前に詳細な準備を終わらせることにあった。準備期間を長くすることによって、NATOは安保会議のプロセスを完全にコントロールできるだろうと、アメリカは主張していた。イギリスの史料によると、アメリカにとって重要なのは、「もし準備協議のいずれかの段階で、会議が価値のある結果に至る可能性が非常に小さいことがわかったら、そのプロセスを中断することが可能になる」事であった81)。言い換えれば、準備期間を長くすることで、アメリカは安保会議に至る流れを途中で止める可能性を保持しようとしたのである。

フランスの手続きについてのアイデアは、アメリカのものとは全く逆であった。フランスは短い準備段階と、長い三段階の会議を考えていた。それは、アルノー外務省政治局ヨーロッパ課長(Claude Arnaud)によって考案されたものであり82)、アルノーはカナダからそのヒントをえていた。カナダ政府は、第Ⅱ章4節の冒頭で触れたイギリスの「常設東西関係委員会」構想に対して不満を持っており、1970年初頭、対案を提示していた。イギリスが常設委員会をヨーロッパ安保会議の代替案としていたのに対し、カナダは安保会議そのものを常設のものにすべきであると提案したのである83)。アルノーは、このカナダ案が検討に値すると考えていた84)。当時シューマン外相はいずれにせよ安保会議は開催されることになるであろうと考えており、仏外務省としても、安保会議が開催されるのであれば、どのような会議にするのかをあらかじめ研究しておく必要があったのである。こうしてアルノーは、カナダ案をヒントに、フランス独自のアイデアを構築していった85)。

上記のとおり、その後フランス政府は安保会議の構想に積極的になり、ベルリ

80) TNA. FCO 41/884, US Delegation. Procesures, 6.4.1971.81) TNA. FCO 41/890, Procedure for a Conference on European Security: US Views,

undated.82) Jacques Andéani, Le Piège: Helsinki et la chute du communisme, Odile Jacob, 2005, p. 51.83) TNA. FCO 41/747, Canada’s paper, 24.2.1970.84) MAE, Série Pactes 1961-1970, carton 278, Réunions franco-américaines des 6 et 7 April

1970, 16.4.1970; Ibid., carton 274, Note a.S. Position française sur les procedures de négociation entre l’Est et l’Ouest, undated.

85) ヨーロッパ安保会議のあり方に関する、仏外務省の初期の試論については、英外務省にも示されている。TNA. FCO 41/747, Marshall to Giffard, 4.3.1970.

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ン交渉が妥結したらすぐに安保会議の準備を開始し、できる限り早く本会議を開催したいと考えるようになっていた。しかし、だからといって、ソ連が望むような中身の薄い会議を望んではいたわけではない。その結果、次のような構想が練り上げられた。フランスは準備協議に関しては、本会議の議題と基本的手続きを決めるためだけの比較的短いものを好んだ。だが本会議については、仏外務省は、三つの段階で一つの長い大きな会議とするというアイデアを考案していた。その第一段階は、外務大臣の会合である。そこでは政治的責任を持つ大臣たちが自由にそれぞれの意見を述べる場になる予定であった。これは、各国がそれぞれのブロックから独立して行動することが望ましいと考えていたフランスの意向に沿うものであった。さらに、外相たちはいくつかの作業委員会を設置する事になっていた。大臣による命令というプロセスを経ることにより、CSCEでの交渉をきちんと制度化するねらいがあった。第二段階は、各委員会レベルにおける本格的な交渉のフェーズとなり、実質的な議題について議論されることになっていた。そして第三段階では、再び大臣級会議が招集され、第二段階の事務レベルでの交渉の結果を最終的に承認することになっていた。上記のカナダ案のように安保会議を常設のものにしたわけではなかったが、会議そのものが時間をかけて実質的な協議を行えるものにしたのである。またアメリカの手続きの考えと比較すると、フランスの提案のポイントは、準備期間は短くし、本格的な交渉は最初の外務大臣会合の後に行われる所にあった。このようにして、フランスは早い段階での、そして実質的なヨーロッパ安保会議の開催を目指したのである。

米仏の異なった手続きに関するアイデアは、CSCEや欧州デタント一般についての両国の異なった考え方を明確に反映していた。すでによく知られるように、アメリカはヨーロッパ安保会議を嫌っており、ソ連の動機について極めて懐疑的であった86)。それゆえアメリカは会議がもし好ましい方向へ進まなければ、それを中断する余地を残しておきたいと考えた。そしてアメリカは、外相会議自体よ

86) アメリカとCSCEについては、Jussi Hanhimäki, “‘They Can Write it in Swahili’: Kissinger, the Soviets, and the Helsinki Accords, 1973-1975”, The Journal of Transatlantic Studies 1/1, 2003; Michael C. Morgan, “The United States and the Making of the Helsinki Final Act”, in Fredrik Logevall and Andrew Preston (eds.), Nixon in the World: American Foreign Relations 1969-1977 (仮題), Oxford, (forthcoming, 2008).

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りも、その準備段階のほうが中断しやすいと考えたのである。また会議の準備期間が長ければ長いほど、ソ連の誠実さを試すことができるため、西側にとって好ましいと考えられた。さらに、長い準備期間を通じてソ連の悪意を明らかにすることは、CSCEがもたらしかねない「平和ボケ(euphoria)」を食い止め、また米軍のヨーロッパからの一方的撤退を要求する議会の圧力をかわすことに役立つと考えられていた87)。加えてアメリカは、ヨーロッパのNATO諸国がそのような平和ボケによって防衛努力を怠り、割り当てられた防衛負担をきちんと履行しないようになることを懸念していた88)。つまり、少なくとも論理的には、アメリカにとって、ヨーロッパに一定の緊張がある方が、米軍をヨーロッパに維持し、西ヨーロッパ諸国に防衛努力をさらに促すためにも好ましかったのである。アメリカ政府によれば、フランスの手続きについての提案は、状況をコントロールできないままCSCEに突進するようなものであり、根拠のない平和ボケをもたらしかねないものであった89)。それゆえ、アメリカは早期の安保会議開催に反対していたのである。

当然フランスはアメリカの政策に強く反発した。1971年4月28日のNATO内の上級政治委員会会合にて、フランス代表は、CSCEの準備段階を予備協議と準備協議の二つに分けることにきっぱりと反対した90)。アメリカの主張する長い準備段階は、そこで果てしない議論を生み出すだけであり、西側は安保会議の開催を避けようとしているのだとの印象を西側の世論に与えてしまうだろうと、フランスは厳しく批判した。フランスは、準備会合を長くすれば、本会議開催が永遠に延期されてしまうことを懸念していた91)。フランスにとって、アメリカの考えはあまりに消極的で、「非現実的」であり、逆に自分たちの手続きに関する提案は、より実際的で、世論にもアピールするものであると考えていたのである92)。

87) TNA. FCO 41/1069, a US document dated 14 March 1971 given to Brimelow by Galloway of the US Embassy.

88) TNA. FCO 41/890, Procedure for a Conference on European Security: US Views, undated.

89) Ibid.90) TNA. FCO 41/885, Grattan to MacDonald, 29.4.1971.91) TNA. PREM 15/1522, Paris tel no. 1109 to FCO, 17.9.1971.92) TNA. FCO 41/885, SPC Report on East-WestNegotiations, undated.

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手続きに関する米仏対立は、またNATO内の意見の分裂をもたらした。フランスのアイデアが提案されたとき、デンマークとノルウェーはそれを概ね支持した93)。イギリスも政府内ではフランスの路線に共感していた94)。イギリスは、アメリカと異なり、いったん東西間の多国間協議が開始されたら、たとえ準備段階であってもそれを中断することは難しいだろうと予想していた95)。英外務省はそれゆえ、フランスの三段階会議構想は検討する価値が十分にあると見なしていた96)。しかし同時に、準備期間は長いほうがよいとも考えていた。というのも、安保会議の開催に際しては東ドイツの参加の問題が伴うため、準備期間を長くすることによって、CSCE本会議が始まる前に西ドイツに東ドイツとの交渉を取りまとめるための時間を与え、東ドイツが安保会議に参加するにしても西ドイツの納得する形での参加を可能にすることができると考えられたからである。加えて、英外務省は、手続きをめぐる米仏対立にさらに油を注ぐことはこの段階では賢明ではないと考えていた97)。それゆえ、イギリスはNATO内の協議では、当面フランスの提案を支持する事を差し控えた。

他のNATO諸国は、準備期間を比較的短くするというフランスの提案に反対であった。特にトルコ、ギリシャ、オランダ、西ドイツは、アメリカの長い予備・準備協議をするという考えに賛同し、外相レベルの会議が開催される前に全ての準備が徹底的になされなければならないと主張したのである。このように、手続きに関するNATO内の意見は分裂し、この問題については1971年の間に合意に達することができなかった。

フランスの立場は、当初、EC諸国にも支持されなかった。フランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクのEC六か国は、1969年12月のハーグ・サミットにて新たな政治協議の枠組みの創設について検討を開始することを決定していた。六か国は長い協議を経て、1970年11月、ヨーロッパ政治協

93) TNA. FCO 41/893, Lever to Braithwaite, 5.11.1971.94) TNA. FCO 41/888, Bridge to Pemberton Pigott, 23.9.1971.95) TNA. FCO 41/890, Procedure for a Conference on European Security: US Views,

undated.96) TNA. FCO 41/888, Bridges to Wiggin, 23.9.1971.97) TNA. FCO 41/891, FCO tel no. 366 to UKDEL NATO, 27.10.1971.

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力(EPC)と呼ばれるEC諸国間の政治協力を制度化することで合意した。そしてCSCEは、そのEPCにおける最初の主要な協議議案の一つとなったのである98)。フランスは、EPC内に設置されたCSCE作業グループにおいて、手続きの問題を集中して検討することにし、上記のフランスのアイデアをEPC諸国に提示していた99)。フランスは、1960年代よりずっとNATOでの協議を軽視していた100)。それゆえ、アメリカとの意見が対立する中、フランスはEPC諸国の支持を期待したかもしれない。だが、特に西ドイツとオランダが強力に反対したため、1971年末までフランスの提案はEPC諸国に受け入れられず、CSCEについてEPCの協議は中身の薄いものになっていた101)。あるイタリアの外交官が1971年秋の時点で述べたように、「EC六か国の政治委員会における議論は、非常に無益なもの」であった102)。しかし、次章で見るように、CSCEの手続きに関する問題は、EPC諸国が結束し、安保会議において積極的な役割を果たしていく鍵でもあった。だがその議論に移る前に、ベルリン大使級協定が調印されたことによって、フランスがCSCEに対してさらに積極的になって行き、その開催に向けてどのように行動したのかを見ておきたい。

98) AAPD 1970, Dok. 564, Runderlaß des Ministerialdirektors von Staden, 23.11.1970; Simon Nuttall, European Political Co-operation, Oxford: OUP, 1992, p. 55. EPCは、CSCEと並んで、中東問題および、対東側政策を協議の議題としていた。またECと東側との関係もまたEPCの中で協議の対象となっていた。1970年代前半のデタントの時代における、ECとソ連・東欧諸国との関係については、Takeshi Yamamoto, “Détente or Integration? EC Response to Soviet Policy Change towards the Common Market, 1970-75”, Cold War History, 7/1, 2007.

99) TNA. FCO 41/883, Palliser to Cable, 5.3.1971; MAE, Série Europe 1971 - juin 1976, carton 2921, circulaire no. 119, 8.4.1971.

100) 仏外交官のアンドレアーニ氏がNATO公使に任命された際、アルファン事務次官はアンドレアーニに、「あなたはNATOに行きます。つまり、あなたは3年間の完全な休暇をえられるのです。というのも、そこでは何もすることがないからです」といったという。このアルファンの発言は、仏外務省のNATO軽視の姿勢を示すものであった。Garret Martin’s interview with Jacques Andréani, 15 February 2006. また、Anna Locher, “A crisis foretold: NATO and France, 1963-1966”, in Wenger, Nuenlist and Locher (eds.), Ibid.も参照されたい。

101) TNA. FCO 41/888, Palliser to Simpson-Orlebar, 24.9.1971; MAE, Série Europe 1971- juin 1976, carton 2922, Note. a.s. Rapport du Comite politique sur la CSCE, 30.10.1971; AAPD 1971, Dok. 409, Aufzeichnung des Ministerial direktors von Staden, 22.11.1971.

102) TNA. FCO 41/888, Rhodes to Braithwaite, 24.9.1971.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 1 号 2008 年 3 月118

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3 ベルリン協定締結

NATO内で協議と対立が続く中、1971年8月、ベルリン交渉は最終局面を迎えていた。1970年3月より、およそ1年半にわたって続けられてきた交渉についてここで詳述する余裕はない。だが、8月10日より米英仏ソの駐ベルリン大使による最後の集中協議が始まり、18日から19日にかけての深夜、ついに暫定的なベルリン協定が作り上げられたのである103)。

このベルリン大使級協定の完成は、ベルリン問題解決が安保会議の準備会合開催の前提条件であると主張し続けてきたフランスにとって、非常に重要なブレークスルーであった。仏外務省は、ヨーロッパ安保会議の準備にむけて何かする必要があると考え、8月末まで、どのようなイニシアティブが可能であるか検討を続けた104)。そして、9月1日の閣議において、フランス政府は多国間会議に向けてより積極的に行動を起こす事を決定した105)。閣議の後すぐに、政府の報道官は、フィンランド政府の打ち出したコミュニケに大きな関心を持っていると発表した106)。すでに少し前の8月24日、フィンランドは、ベルリン協定の締結が、CSCEのための多国間準備協議への扉を開くであろうとの声明を出していた。フィンランドの呼びかけに応える形で、フランスも、安保会議の準備を多国間で進める意思を公にしたのだった。

だが、他の西側の三大国は、フランスとは異なる立場を取った。ベルリン大使級協定自体は1971年9月3日に正式に調印されたが、特にアメリカは、それをベルリン問題の「満足のいく」解決とは見なさなかった107)。それは、ベルリンをめぐる合意の形式の複雑さにも起因していた。9月3日に調印されたベルリン大使級協定はもっとも重要な合意書であり、ベルリン問題の解決の根幹ではあったが、実は第一段階でもあった。その米英仏ソ四大国のベルリン大使級協定に加え

103) TNA. PREM 15/396, MacGlashan to Unwin, 19.8.1971; Documents on British Policy Overseas (以下、DBPO), III, I, Doc. 70, fn. 7, p. 361; Ibid., p. 376; Catudal, op. cit., pp. 174-7.

104) MAE, Série Europe 1971 - juin 1976, carton 2922, Note pour le Ministre, 30.8.1971.105) TNA. FCO 41/887, Simpson-Orlebar to Braithwaite, 6.9.1971.106) MAE, Série Europe 1971 - juin 1976, carton 2922, Circulaire no 317, 1.9.1971.107) DNSA, Presidential Directives, Part II, Conference on European Security‒Talking

Points, PR00912, 19.11.1971.

( )山本健/ポンピドゥとフランスの CSCE 政策、1969 ‒ 1974 年 119

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て、それに続いて東西両ドイツ間のベルリン交通協定が締結され(第二段階)、さらにその二つをまとめて、ベルリン最終議定書として四大国が再び調印する事となっていた(第三段階)。そしてその三つの段階を完遂して、「満足のいく」解決が完成するとアメリカは主張したのである。安保会議の早期開催を嫌うアメリカが、ベルリン問題の解決をできる限り先延ばししようとしたためであることはいうまでもない。

フランスはこのような解釈に反対していた。シューマン外相は、1971年9月にハンガリーとブルガリアを訪問した際、ベルリン大使級協定の調印によって、今や安保会議開催の条件は満たされたと説明した108)。ポンピドゥ大統領もまた、10月にブレジネフがパリを訪問した際、できる限りすぐにヘルシンキにおいて多国間の準備協議を開始すべきであると語った109)。安保会議の多国間準備の開始への「道に立ちはだかるものは何もない」と、ポンピドゥは述べたという110)。それゆえ、フランス政府は、ベルリン最終議定書が調印されるのを待たず、少なくとも東西ドイツ間の交通協定が締結されたらすぐに安保会議のための多国間準備交渉を開始すべきであると主張したのである。

しかしフランスはこの問題で孤立してしまう。ソ連の逆攻勢が、他の西側諸国の態度を硬化させたからである。当時、ソ連にとって重要だったのは、1970年8月に西ドイツとの間で調印されたモスクワ条約が西独議会で批准され、発行することであった111)。しかし西独政府与党の議会における議席数の優位はわずかであり、野党がモスクワ条約への反対を唱える中、条約が順調に批准されるかどうかは微妙な状況であった。それゆえ、ソ連は新たな戦術を取った。それは、ベルリン大使級協定締結のすぐ後、ブラントが1971年9月半ばにソ連を訪問した際に

108) Meimeth, op. cit., p. 163.109) AN, 5 AG 2/1018, Second tête-à-tête entre le Président de la République et Monsieur

Brejnev, le 26 octobre 1971, Elysée, 16 h. 50 à 20 h. 15; TNA. FCO 41/890, Paris Tel No. 1279 to FCO, 26.10.1971.

110) TNA. FCO 41/891, Bonn Tel No. 1377, 27.10.1971; AAPD 1971, Dok. 354, Gesandter Blomeyer-Bartenstein, Paris, an das Auswärtige Amt, 19.10.1971.

111) ソ連にとってのモスクワ条約の重要性については、M. E. Sarrote, Dealing with the Devil: East Germany, Détente, and Ostpolitik, 1969-1973, University of North Carolina Press, 2001, pp. 136-7.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 1 号 2008 年 3 月120

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初めてほのめかされた。ブレジネフは、ベルリン協定においてソ連側は非常に大きな譲歩をしたのだという点を強調したのである112)。その意味するところはすぐに明らかにされた。9月27日、ニューヨークにおけるシェール西独外相(Walter Scheel)との会談の際、グロムイコ・ソ連外相は、モスクワ条約が西独議会で批准されなければ、ベルリン最終議定書に署名しないというソ連の立場を伝えたのだった113)。つまりソ連は、モスクワ条約の批准とベルリン最終議定書の調印をリンクさせて圧力をかけることにより、モスクワ条約批准をより確実なものにしようとしたのである。ソ連側からすれば、ベルリン交渉においてソ連は譲歩したのだから、もし西側がその成果であるベルリン大使級協定をベルリン最終議定書の調印によって確実なものにしたいのであるならば、それに見合うもの、すなわちモスクワ条約がまず批准されなければならなかったのである。

このソ連の対抗リンケージ(reverse Junktim)は、西側にとって「爆弾」であった114)。このソ連の新たなイニシアティブが逆に西独議会の反発を招き、モスクワ条約の批准が拒否され、引いてはベルリン協定も御破算になってしまうことが懸念された115)。それゆえシェール西独外相は、11月末にソ連を訪問した際、ソ連の対抗リンケージはベルリン問題が解決される事を遅らせ、ひいてはソ連が望むヨーロッパ安保会議の開催を遅らせることになるため、それを撤回するよう説得した116)。しかし、対抗リンケージを取り下げた結果、ベルリン協定のみが成立し、モスクワ条約の批准が西独議会において否決されるようになってしまったならば、それはソ連にとって最悪のシナリオであった。それゆえ、ソ連指導部の態度は硬く、モスクワ条約の批准と、ベルリン最終議定書の調印とをリンクさせることに固執したのである。

その結果、フランスの主張は退けられた。シューマン仏外相は、1971年12月8

112) AAPD 1971, Dok. 311, Gespräch des Bundeskanklers Brandt mit dem Generalsekretär des ZK der KpdSU, Breschnew, in Oreanda, 17.9.1971.

113) AAPD 1971, Dok. 323, Ministerialdirektor von Staden, z.Z. New York, an das Auswärtige Amt, 27.9.1971.

114) TNA. FCO 41/837, Washington tel no. 3235 to FCO, 29.9.1971.115) Ibid.116) AAPD 1971, Dok. 416, Gespräch des Bundesministers Scheel mit dem sowjetischen

Außenminister Gromyko in Moskau, 28.11.1971.

( )山本健/ポンピドゥとフランスの CSCE 政策、1969 ‒ 1974 年 121

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日に開かれた米英仏西独外相ディナー協議において、NATOは安保会議のための多国間準備協議を開始する準備がある事を表明すべきであると提案したが、無駄であった117)。シェール西独外相は、ソ連の頑なな態度に直面した後、ベルリン最終議定書の調印をもってしてベルリン問題の「満足のいく」解決と見なすというアメリカの主張に同調し、ヨーロッパ安保会議の多国間準備協議もそれ以降にしか行わないとの立場を取った。英外相ダグラス・ヒューム(Alec Douglas-Home)も、一時期シューマンの立場を受け入れていたのだが、最終的には西ドイツの決定を尊重し、米・西独の側に立った118)。米国務長官ロジャースは、「もし我々が、ベルリン最終議定書の調印以前に多国間準備を開始することに同意すれば、それは我々がソ連に屈した事を意味する」と主張し、シューマンの提案を断固として拒否した119)。安保会議を望まないアメリカにとって、ソ連の対抗リンケージ提案は、ベルリン問題の「未解決(ベルリン最終議定書の未調印)」を利用して安保会議の開催をできる限り先延ばしする上で、極めて都合がよかった。逆に、フランスの主張は、ソ連の非妥協的な態度の前に、その説得力を失ったのだった。

フランスはすぐに諦めたわけではなかった。フランスは、ヘルシンキにおいて多層的二国間協議という方式を進める事を試みた。すなわち、多国間準備協議がダメであったとしても、二国間ベースで安保会議についての協議を進めることにまで反対されたわけでない事を逆手に取り、フィンランド政府が中心軸となり、安保会議に招待する予定の各国との二国間関係を基本とした協議を体系的に進めることによって、準多国間準備協議のような場を生み出そうとしたのである。実際、1972年1月より、フランスはフィンランドとの二国間協議を強化しようとし

117) AAPD 1971, Dok. 436, Ministerialdirigent van Well, z.Z. Brüssel, an Bundeskanzler Brandt, z.Z. Oslo, 9.12.1971; TNA. FCO 41/810, Record of a Conversation at the Quadripartite Dinner in the German Embassy, Brussels, at 9 p.m. on 8 December 1971, 8.12.1971.

118) 1971年11月12日にシューマンと会談した際には、ヒュームはもし東西ドイツ間でベルリン交通協定が締結されたら、安保会議の準備を早期に開始することは問題ではないという見解を示していた。TNA. FCO 41/894, Bridges to Private Secretary, 26.11.1971.

119) TNT. FCO 41/810, Record of a Conversation at the Quadripartite Dinner in the German Embassy, Brussels, at 9 p.m. on 8 December 1971, 8.12.1971.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 1 号 2008 年 3 月122

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た。また、EPCを通じて、他のEC諸国にも呼びかけを行った。だがフランスの多層的二国間協議の試みは大きな成果を挙げられなかった。い

くつかの西側諸国はフランスに習ってフィンランドとの協議をより積極的に進めようとしたが、アメリカから激しい抗議がなされた120)。英外務省も、西側が新しい一歩を踏み出したとの印象を東側に与えたくなかったため、フランスの試みには消極的であった121)。英米は、フィンランドとの二国間協議は、宿泊施設や会議での使用言語といった技術的問題に留めるべきであり、実質的な交渉は行ってはならないと釘を刺した。そして何より、フィンランド政府が消極的であった。むろん、フィンランドは安保会議開催に非常に積極的であったが、それゆえアメリカの無用な反感を買う事を恐れたのであろう122)。すべての参加予定国の賛同をえて、ヨーロッパ安保会議の開催は可能だったからである。結局、フランスのイニシアティブは、安保会議のための多国間準備を前に進めることはできなかった。加えて、1972年には、米ソ首脳会談や大統領選挙といったアメリカにとって最重要政治日程が予定されており、多国間準備協議は、1972年11月の大統領選挙が終わるまで開催されることはなかった。

Ⅳ フランスとCSCEの変容米・英・西独の反対により、フランスは、安保会議の多国間準備協議を早期に

開催することができなかった。しかしながら、準備協議と本会議の形式について、フランスはその考えを実現することに成功する。本章はまず、1971年9月のベルリン大使級協定調印の後、1971年末から1972年にかけて、どのようにフランスの安保会議の手続きに関する提案が受け入れられたのかについて検証する。それはまた、EC諸国がEPCの枠組みにおいて、CSCEに関する政策を収斂させていく過程でもあった。次いで、1972年11月より開始された多国間準備協議において、フランスが果たした役割を検討する。そして最後に、フランスの構想の成功は仏ソ関係の悪化へ向かっていった事を明らかにする。

120) TNA. FCO 41/1036, Lever to Ramsay, 12.1.1972.121) TNA. FCO 41/1042, Braithwaite to Wiggin, Brimelow, and Private Secretary, 6.4.1972.122) TNA. FCO 41/1043, Smith to Ramsay, 4.5.1972.

( )山本健/ポンピドゥとフランスの CSCE 政策、1969 ‒ 1974 年 123

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1 フランスとヨーロッパ政治協力

すでに見たように、安保会議の手続きに関するフランスの最初の構想は、NATO各国の反対に直面していた。その三段階会議構想を受け入れてもらうために、フランスは従来の立場を若干修正する必要があった。CSCEの準備期間は短くすべきであるというフランスの意見に、EC諸国、とりわけ西ドイツが反対していた。ブラント政権は、安保会議開催前に東ドイツとの関係正常化交渉を終わらせたいと考えていたが、短い準備期間は安保会議が早期に開催されてしまうことを意味したため、西ドイツにとって好ましくなかったからである。フランスは、それゆえ、この点について譲歩が必要であると認識していた。

ベルリン大使級協定の締結によってCSCEにより積極的になったフランスは、安保会議についてEPC諸国との協力をさらに進めるため、より建設的な態度を取るようになる。1971年秋までに仏外務省は、準備協議では安保会議の議題と手続きについてのみ取り決め、実質的な議論はすべきではないとする従来の立場から後退し始めていた。たとえば、10月1日の仏・西独協議で、仏外務省政治局次長ジュルジャンサン(Jean-Daniel Jurgensen)は、多国間準備協議は会議の中身についてある程度までは議論する事になるだろうと述べている。ただし、フランス側は、そのような協議が、安保会議に外相が集まった際にすでに完全に出来上がった文書に調印するだけになってしまうまで徹底的なものになってはならないとも強調した123)。安保会議は、あくまでも外相たちがそれぞれの立場から自由に議論できる場にならないといけないと考えており、またメインの交渉の場は準備協議ではなく、あくまでも本会議でなければならなかったのである。

フランスはただその立場を後退させただけではなかった。より重要なのは、フランスが手続きに関して新たな、そして非常に重要なアイデアをさらに考案したことである。12月10‒11日、EPCのCSCE委員会会合においてそれは初めて提示された。そこでフランスは、CSCEの第二段階において、実質的な協議を行うことになる、政治、安全保障、文化、経済の各委員会のための作業指令文書

123) Politisches Archiv, Auswaertiges Amt, Berlin, B-40, Bd. 190, Vermerk. Betr.: Sitzung der deutsch-französischen Studiengruppe in Bonn am 1. Oktober 1971, hier: Behandlung des Themas KSE, 4.10.1971.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 1 号 2008 年 3 月124

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(mandate)を多国間準備会合にて作成するのがよいとの提案を行ったのである。フランスの三段階会議構想では、第一段階の外相会議において、外相たちが、第二段階における事務レベルの実質的な協議のための委員会を設置する事を決定することになっていた。作業指令文書を作成するというフランスの新提案は、その第二段階における委員会のあり方を事前により明確に設定することになることを意味した。また、そのような作業指令文書を作成することによって、本会議前の多国間での準備が、より実質的で、そしてあまり短期間では終わらないような協議になる事も意味した。そしてなおかつ、この新提案の中でも、フランスのもともとのアイデアである三段階会議という安保会議自体のあり方は意味を失わず、むしろそれがより洗練されたものになる事を意味したのであった。そしてこのように準備協議の期間がある程度長くなるよう修正されたため、1972年1月までに、このフランスの提案は、西ドイツをはじめ、イタリア、ベルギー、ルクセンブルクに受け入れられたのである124)。

手続きに関して、EC諸国の多数がフランス案に合意したことは、EPCの協議にとって非常に重要であった。1971年の間、実質的な成果の乏しかったEC諸国の政治協議は、1972年には大きく進展する。たしかに、オランダは依然としてアメリカの立場を支持していた。しかし、EPC内の協議では、多数の支持を受けていたフランスの作業指令文書プラス三段階会議のアイデアが「作業仮説」として採用され、それに基づいてCSCEに向けての政策の協議が積み重ねられていったのである125)。そのオランダも、1972年10月初頭には、手続きに関する問題の最終決定はNATOにおいて決定されるべきであるとの条件付きながらも、EPC内ではフランスの路線を支持するようになる126)。そして、11月20‒21日にハーグにおいて開催されたEPC外相会議において、EC諸国は、CSCEに関する基本合意文書を採択したのである127)。フランスが提示した手続き問題は、EC諸国の

124) MAE, Série Europe 1971 - juin 1976, carton 2923, NOTE. A/S: Évolution récente conversations sur la Conférence sur la sécurite et la coopération en Europe, 26.1.1972; TNA. FCO 41/1052, Bonn tel no. 170 to FCO, 9.2.1972.

125) TNA. FCO 41/1065, Staples to Braithwaite, 19.7.1972.126) MAE, Série Europe 1971 - juin 1976, carton 2924, circulaire no. 445, 10.10.1972; TNA.

FCO 41/1054, FCO tel no. 298 to UKDEL NATO, 9.10.1972.

( )山本健/ポンピドゥとフランスの CSCE 政策、1969 ‒ 1974 年 125

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協力にとっても重要な意味を持っていたのである。

2 多国間準備会合とフランス

EPCがCSCEに関する基本文書を採択した翌日の1972年11月22日より、CSCEの多国間準備協議が開始された。1972年の間にCSCEをとりまく重要な政治日程が一通りクリアされたからである。すでに、5月17日には、懸案であったモスクワ条約の西独議会による批准がかろうじて成立していた。5月26日には米ソがSALTの調印に成功し、米ソ関係が急速に改善された。そして6月3日には、ベルリン最終議定書も無事に調印される。これによって、ソ連が固執していた対抗リンケージの問題は解消され、西側の「満足のいく」ベルリン問題の解決がもたらされた。さらに、9月半ばにキッシンジャーが訪ソした際、1968年よりNATOが主張していた相互均衡兵力削減(MBFR)について、その準備協議を開始することをソ連側は受け入れた。EC諸国は、10月19‒21日にパリで首脳会談を行い、CSCEに「具体的かつ建設的に貢献する」意思を表明した。さらに11月7日には米大統領選挙の結果、ニクソンが再選を果たしていた。もはやこれ以上、CSCEを先延ばしする理由が西側にはなくなった。こうして、ようやく安保会議を多国間で準備する条件が整ったのである。

その多国間準備協議は、1973年5月6日まで続き、途中クリスマス休暇などをはさみ、およそ5か月間かけて「ヘルシンキ協議の最終勧告」を作成する128)。最終勧告は、西側の主張に基づく各委員会のための作業指令文書と様々な手続き問題とによって構成された129)。この最終勧告は、西側にとって極めて幸先のよいスタートとなった。NATOが要求していた重要項目を全て含んでいたからであ

127) MAE, Série Europe 1971 - juin 1976, carton 3791, NOTE sur CSCE, 16.11.1972; ibid., carton 2925, ciruclaire no. 532, 21.11.1972.

128) この多国間準備協議についての詳細な研究はすでにいくつか存在する。Ferraris, op. cit., pp. 9-40; Robert Spencer, “Canada and the Origins of the CSCE,” in Robert Spencer (ed.), Canada and the Conference on Security and Cooperation in Europe, University of Tront, 1984, pp. 84-94; Kristina Spohr-Readman, “National Interests and the Power of ‘Language’: West German Diplomacy and the Conference on Security and Cooperation in Europe, 1972-1975”, Journal of Strategic Studies, 29/6, 2006, pp. 1098-116.

129) 最終勧告のテキストは、John Maresca, op. cit., pp. 211-25. また、吉川、前掲書、43‒48頁。

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 1 号 2008 年 3 月126

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る。たとえば、CSCE本会議で取り扱う議題として、人権と基本的自由を尊重する条項を含む政府間関係を律する諸原則を盛り込まれた。またNATOが1969年末より主張してきた、「人・思想・情報の移動の自由」に関する諸問題を含んでいた。手続きに関しても、フランスの三段階会議案が受け入れられた。それゆえ、英外務省高官は多国間準備協議の結果を踏まえ、「これまでのところ、西側は驚くほどうまくやっている」とコメントしている130)。

なぜ西側はCSCEの多国間準備協議において成功を収めることができたのだろうか。いくつかの理由が挙げられるだろうが、とりわけ、EPC諸国が大きな役割を果たしたことが重要であった。EPCはNATOよりも早くから手続きに関して基本的な合意を形成し、それに基づいて準備を進めていた。そしてそれによって、EPC諸国は、多国間準備協議において声を一つにしてイニシアティブを発揮できた。また安保会議には関心が低かったアメリカ政府が、準備協議に参加していたアメリカ代表に対してアメリカが突出する事を控え、ヨーロッパ諸国に議論をリードさせるよう訓令していたことも、EPCが主要な役割を果たしたことの背景要因であった131)。だがここではさらに、本稿の目的に沿って、フランスの役割に注目したい。

ヘルシンキの多国間準備協議におけるイギリス代表エリオット(T.A.K. Elliott)が指摘するように、フランスの態度は、準備協議においてEPCが効果的に機能する上で非常に重要であった132)。たしかに、ブロックに縛られる事を嫌うフランスは独自にソ連・東欧諸国とも活発な協議を続けていた。他方、多国間準備協議を東側に有利に、そして早期に取りまとめるためのソ連側の戦術は、二国間関係を利用することであった133)。それゆえ、1973年1月のポンピドゥとブレジネフの首脳会談は、ワルシャワ条約機構諸国によって、フランスから譲歩を引き出すための重要な機会であると考えられていた134)。しかしながら、妥協を強いら

130) DBPO, III, II, p. 136, fn. 2.131) Morgan, op. cit.132) DBPO, III, II, Doc. 37, Mr. Elliott (Helsinki) to Sir A. Douglas-Home, 13.6.1973.133) Andéani, op. cit., p. 86.134) “Telegram by the Romanian Foreign Minister, 15.1.1973”, in The Parallel History

Project on NATO and the Warsaw Pact Home Page. http://www.isn.ethz.ch/php/documents/collection_3/CMFA_docs/CMFA_1973/1973_2.pdf

( )山本健/ポンピドゥとフランスの CSCE 政策、1969 ‒ 1974 年 127

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れたのはフランスではなくソ連であった。首脳会談において、ポンピドゥは、CSCE第二段階において設置される各委員会のための作業指令文書を作成するというアイデアを受け入れるよう熱心に主張した135)。当時東側は、多国間準備協議において、そのような作業指令文書を作成することに強く反対していた。そのような文書を作成することになれば、準備協議が長引いてしまうことは明らかであり、早期に安保会議を開催するという思惑に反することになるからであった。それゆえ、準備協議はさっそく行き詰まっていた。しかし、西側にとって、第二段階の各委員会での作業に対してあらかじめ明確な方針を規定する文書を準備しておくことは、安保会議を中身のあるものにするためにも非常に重要であった。ポンピドゥは、ねばり強く作業指令文書の作成を要求し続けた。結局、早期に準備会議に決着をつけ、CSCE開催にこぎつけたいとより強く望んでいたのはソ連側であった。またおそらく、ソ連指導部はここで譲歩し、良好な仏ソ関係を築いておいた方が後のCSCE本会議における交渉の際、東側にとってプラスになると考えたのであろう136)。その結果、フランス側の強い主張に面して、ブレジネフは、後に多国間準備協議の最終勧告につながることになる文書を作成することに同意したのである。

それに続く仏ソ二国間協議も、ソ連側の有利に働くことはなかった。フランスの基本的な立場は他のEPC諸国と合意した内容に忠実であり続けた。たしかに、仏ソ首脳会談にて、両国の指導者はCSCEについての、そして作業指令文書についての協議を継続することで合意していた137)。それに従って一連の仏ソの外務省高官協議や外相会談が開かれはした138)。しかしながら、フランス側は一貫して、多国間で協議されている問題を二国間で決定することは困難であると主張し、たとえば、仏ソ間の共同作業指令文書のようなものを作成する事を拒否し続けた139)。仏ソ二国間協議は緊密であったにもかかわらず、フランスはEPCで合意された立場から逸脱することはなかったのである。多国間準備協議において作

135) AN, 5 AG 2/1019, Tête à tête entre M. Pompidou et M. Brejnev, 12.1.1973.136) 以下でも示すように、ブレジネフはこのときの期待が裏切られたことへの不満を後に

バールとの会談で示している。AAPD 1974, Dok. 64, Aufzeichnung des Bundesminis-ters Bahr, z.Z. Moskau, 1.3.1974, p. 243.

137) AN, 5 AG 2/1019, Tête à tête entre M. Pompidou et M. Brejnev, 12.1.1973.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 1 号 2008 年 3 月128

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業指令文書を作成するというフランスの提案は、「ヘルシンキ協議の最終勧告」として結実し、それはCSCE本会議を西側にとって好ましい方向へ導く上で基本となる文書となったのである。

3 仏ソ関係の悪化

1973年7月3日から7日にかけて、35か国の外相がヘルシンキに集った。フランスによって考案された三段階会議の第一段階であった。共産主義諸国からの外相たちは、ヨーロッパには二つの異なった体制がある事を強調し、国境の不可侵を訴えた。またグロムイコは、人・思想・情報の移動について、各国は主権に基づく拒否権があると断言した140)。しかし、このヘルシンキ外相会議は、「ヘルシンキ協議の最終勧告」を無修正で承認した。それに基づき、9月からジュネーブにおいて開始された官僚レベルの協議の第二段階では、会議全体の中心となる調整委員会と、ヨーロッパ安全保障に関する第1委員会、経済、科学技術、環境の分野に関する第2委員会、そして人道的問題及びその他の領域に関する第3委員会の三つの主要な委員会、さらにその下に11の小委員会が設置された141)。ヨーロッパ安保会議は、フランスの構想に沿って着実に制度化されていった。東側諸国は、最終勧告によって設定された枠組みから抜け出すことはできなくなっていたのである。

さらに、ソ連陣営は、当初望んでいたようにこの第二段階を短期間で終わらせることもできなかった。当時誰も予想できなかったことであるが、このジュネー

138) MAE, Série Europe 1971 - juin 1976, 2926, Compte-Rendu de l’Entretien de M. Schumann et M. Gromyko à Minsk, le 12 janvier 1973, 19.1.1973; MAE, Série Europe 1971 - juin 1976, 3722, Compte-Rendu de l’Entretien de M. Puaux avec M. Oberemko, 22.1.1973; ibid., Moscou tel no. 1229 to Paris, 23.2.1973; ibid., Moscou tel no. 1264 to Paris, 24.2.1973; ibid., Moscou tel no. 1278 to Paris, 24.2.1973; ibid., Compte-Rendu de l’Audience accordée par le Ministre à M. Gromyko, 28.2.1973; ibid., Entretien du Secétaire général avec M. Zemskov, Vice-Ministre soviétique des Affaires Etrangeres, 28.2.1973.

139) MAE, Série Europe 1971 - juin 1976, 3722, Compte-Rendu de l’Entretien de M. Puaux avec M. Oberemko, 22.1.1973.

140) TNA. FCO 41/1317, Helsinki tel no. 735 to FCO, 6.7.1973.141) 吉川、前掲書、50‒51頁。

( )山本健/ポンピドゥとフランスの CSCE 政策、1969 ‒ 1974 年 129

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ブでの専門家会議は、およそ2年もの長きにわたって続くことになる。1973年6月、新フランス外相ジョベール(Michel Jobert)がグロムイコと会談した際、ソ連外相は、「第二段階は、『人為的に長引かせて』はならず、(1973年)11月の終わりには終了させられるだろう」と強調していた。それに対し、ジョベールは、

「我々は特に、最も重要であると考えている委員会での作業に最終期限を設定するようなことは望まない」と答え、西側は第二段階において主要問題を徹底的に協議する姿勢を示していた142)。当初東側は、ソ連が最も重視している第1委員会における「参加国の相互関係を律する諸原則に関する宣言」の完成を優先させ、人道的問題を扱う第3委員会での協議を後回しにする戦術を取ろうとしていた。しかし、西側は、東側のそのようなアプローチを十分認識しており、むしろ第1委員会の議論と第3委員会の議論の進捗を平行して進める戦術を取ることで対抗した143)。その結果、1973年11月半ばに、イギリスのCSCE代表が報告したように、「ロシアは今や、早期の(第二段階の)終了を強いようとする望みをあきらめ、今では作業が(1974年の)春までは続くと考えていることがはっきりした」のだった144)。だが、実際、ジュネーブでの協議は1975年の夏まで終わることはなかったのである。

フランスは、CSCE本会議においてもEPC諸国との協調を続けた145)。フランスは他の西側諸国よりも頻繁に、ソ連・東欧諸国との二国間協議を行ったが、柔軟な姿勢を示しつつも、決して西側での合意事項から逸脱することはなかった。それゆえ、1973年以降、仏ソ関係は悪化していった146)。事実、ブレジネフは、1974年2月にブラントの側近のバール(Egon Bahr)と会談した際、「ポンピドゥが第二段階として各委員会を設置する事を提案したのだ。(私は)それに合意した。今や、(私には)、それらがただ(安保会議の協議を)遅延させる目的のため

142) MAE, Série Europe 1971 - juin 1976, 2926, Paris tel circulaire 388, 30.6.1973.143) DBPO, III, II, Doc. 57, Mr Elliott (Geneva) to Sir A. Douglas-Home, 15.12.1973.144) 括弧内、筆者補足。DBPO, III, II, Doc. 54, Mr. Hildyard (UKMIS Geneva) to Sir A. Douglas-

Home, 17.11.1973.145) DBPO, III, II, Doc. 51, Miss Warburton (UKMIS Geneva) to Sir A. Douglas-Home,

20.10.1973; Doc. 57, Mr Elliott (Geneva) to Sir A. Douglas-Home, 15.12.1973; Doc. 64, Mr. Hildyard (UKMIS Geneva) to Sir A. Douglas-Home, 4.2.1974.

146) Rey (1991), op. cit., pp. 102-7; Soutou (2006), op. cit., pp. 247-8.

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 1 号 2008 年 3 月130

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だけに使われているようにしか見えない」と述べ、不満を隠そうとしなった147)。さらに、1974年3月、ポンピドゥ自身がソ連南部のビツンダにおいてブレジネフと会談した際、CSCEをめぐる仏ソ間の見解の対立はよりはっきり現れた。たとえば、ブレジネフは国境不可侵の原則をそのまま認めるべきだと主張したが、ポンピドゥは、西側、とりわけ西ドイツの意向を尊重して、国境不可侵の原則は平和的な国境の変更の可能性を排除してはならないと譲らなかった。また人権問題や人・思想・情報の移動の問題においても仏大統領は譲歩することはなく、議論は平行線をたどった148)。後に、ジョベール外相が、「この旅行(ポンピドゥの訪ソ)は無益だった」と述べるほどであった149)。

この訪ソの20日後、ポンピドゥは在職中に体調を悪化させ、1974年4月2日、急逝する。63歳であった。安保会議第二段階はおよそ2年続き、1975年夏を前に長きに渡る事務レベル交渉を終えた150)。そして、7月30日より第三段階である首脳会議がフィンランドで開催された。8月1日、35か国の首脳がヘルシンキ最終協定に調印する。しかしそこにポンピドゥの姿はなかった。フランス大統領として調印に臨んだのは、後を継いだジスカール・デスタン(Valéry Giscard d’Estaign)であった。

Ⅴ おわりにポンピドゥはヨーロッパにおける緊張緩和に積極的であった151)。しかし、東

側陣営が提唱していたヨーロッパ安保会議に関して、彼は大統領就任当初は否定的であった。ポンピドゥはド・ゴール前大統領の路線を引き継ぎ、ソ連・東欧諸国との二国間関係の改善を重視し、安保会議のような多国間の枠組みには消極的であった。だが、彼は徐々に安保会議構想にメリットを見い出していった。安保

147) 括弧内、筆者補足。AAPD 1974, Dok. 64, Aufzeichnung des Bundesministers Bahr, z.Z. Moskau, 1.3.1974, p. 243.

148) AN, 5AG2/1019, Entretien en tête-à-tête du Président de la République avec M. Leonid Brejnev, le 13 mars 1974 de 10 h 55 à 14 h.

149) 括弧内、筆者補足。Michel Jobert, L’Autre Regard, Grasset, 1976, p. 386.150) CSCE第二段階の分析については、齋藤、前掲書、182‒194頁、およびMaresca, op. cit.、

を参照されたい。151) Soutou (2007), op. cit.

( )山本健/ポンピドゥとフランスの CSCE 政策、1969 ‒ 1974 年 131

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会議を提唱するソ連の思惑には懐疑的であり続けたが、安保会議に賛同することはソ連との二国間関係改善の糸口となりうるだけでなく、ブラントの東方政策を一定の枠組みに封じ込めることに有益であった。またCSCEは、フランスがデタント外交の独自性を発揮し、多国間会議が東欧諸国にソ連のくびきから外れ自由に発言できる場を提供することになると考えるようになっていった。ポンピドゥは、1972年3月に英首相ヒース(Edward Heath)と会談した際、ヨーロッパ安保会議は東側ブロックに「自由のウイルス」をばら撒くチャンスであるとの考えを述べている。「これは賭けです。しかし、その賭けは徐々に勝つことになるチャンスがあります」、そうポンピドゥはヒースに強調したのだった152)。このようなポンピドゥの対CSCE認識の変化は、中東問題をめぐる米仏関係の悪化、ブラントの東方政策の進展、ポンピドゥの訪ソならびに東欧諸国首脳との会談、そしてフランス政府内のデタント推進派の影響などによって1970‒1971年にかけてもたらされたのだった。

ヨーロッパ安保会議構想に積極的になったフランスは、さらにそれを西側にとってより意味のあるものに変容させることに貢献した。ソ連は、ヨーロッパの現状を承認するためだけの、短い会議を望んだ。その準備期間もできる限り短いものにしようとした。アメリカはCSCEのための長い準備協議を主張したが、それは安保会議そのものを開催させないようにするためであった。またそのようなアメリカ案は、東側にとって受け入れがたいものであった。それに対して、フランス案はより建設的であった。まず、作業指令文書を作成するというフランスの提案に沿って、準備協議において「最終勧告」という文書が作られた。それによって、CSCE第二段階での協議の枠組みが制度化され、協議の内容も細かく規定された。さらに、「最終勧告」の内容が西側にとって有利なものであったため、交渉の方向性もNATO側にとって好ましいものにすることができた。そして三段階会議というアイデアによって、たとえば、いわゆる第三バスケットにおける人道に関する諸問題を、その第二段階の事務レベルの委員会において長期にわたって協議することが可能となった。加えて、三段階会議によって、西側は、安保会

152) AN, 5AG2/1014, Troisieme tête à tête entre Monsieur Pompidou et Monsieur Heath à Chequers Court, le 18 mars 1972, de 10 h. 30 à 13 h, 19.3.1972.

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議の成功を望むソ連から、その第一段階と第三段階の二度の閣僚級会議開催をめぐって東側から譲歩を引き出す機会をえた。特に、ブレジネフが第三段階を最高首脳レベルでの会議に固執したことによって、NATO側はそれを受け入れる代わりに、人権や人・情報の移動の問題について、東側から最終的な譲歩をえることができたのだった153)。つまり、当初は東側にとってのみ利益になるものだと考えられていたヨーロッパ安保会議は、作業指令文書の作成と三段階会議構想によって、西側にとって大いに意味のあるものを生み出す場へと作り変えられたのである。

だが、CSCEの西側にとっての成功は、仏ソ関係の悪化を意味した。安保会議を開催することでは、パリもモスクワも合意していた。それゆえ、会議開催前までは仏ソ関係は良好であり、開催に向けて協力することができた。しかしながら、安保会議の中身については、両国の間で大きな意見の隔たりがあった。オランダやイギリスと比べると、フランスは人道的問題については穏健な立場であったが154)、それでもこの重要な問題について、EPCの合意を超えて東側に大幅に譲歩することはなかった。CSCEを有意義なものにするためにも、フランスはEPC諸国との協調を重視し、実際それは大きな成果を上げていた。しかしそのことは、ソ連と協力する余地を少なくしていった。ポンピドゥは在任中、ブレジネフと5回もの直接会談を行ったが、最後はCSCEをめぐって仏ソ関係を悪化させたまま永眠したのだった。

153) DBPO, III, II, Doc. 123, Mr. Hildyard (UKMIS Geneva) to Mr. Burns, 30.5.1975; Acimovic, op. cit., p. 133.

154) Soutou (2006), op. cit., p. 245.

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