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77 はじめに イタリアのヴィチェンツァ出身の文人、ルイージ・ダ・ポルト(1485-1529) の書いた『ジュリエッタの物語』について知ることは、シェイクスピアに至 るまでの物語の受容を考える上で、必要な過程である。物語がどのような社 会背景で創造され、作者が作品を通じて何を意図したのか、を調べることは、 作品の本質に近づくために重要な手続きと考えられる。ダ・ポルトについて は、書簡が残っていることもあり、作者の人生と作品との関係に着目した研 究は、既に一定の成果を結んでいる。この分野の第一人者はイギリス人学者 セシル・・クラフである。本論は、クラフの研究成果を出発点にして、作 品の成り立ちに関わる事柄を整理し、考察するものである。 出版年と執筆年代 『ジュリエッタの物語』は作者の死後1530年頃に、ヴェネツィアのベネデッ ト・ベンドーニによって、‘Hystoria novellamente ritrovata di due nobili amanti, con la loro pietosa morte, intervenuta già nella città di Verona nel tempo del Signor Bartholomeo dalla Scala’という題で出版されている Clough 113-4)。出版年が特定できないのは、印本に明記されていないため であるが、初版には出版年はおろか、作者の名前も記されていない。このこ とは、初版が原稿を相続したダ・ポルトの弟ベルナルディーノの許可を得て ルイージ・ダ・ポルトの『ジュリエッタの物語』についての考察 ― ベンドーニ版を中心に 逢見 明久

ルイージ・ダ・ポルトの 『ジュリエッタの物語』 についての ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/34842/reb049...ルカ風ソネットと共に採録され、ʻRime

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はじめに

イタリアのヴィチェンツァ出身の文人、ルイージ・ダ・ポルト(1485-1529)

の書いた『ジュリエッタの物語』について知ることは、シェイクスピアに至

るまでの物語の受容を考える上で、必要な過程である。物語がどのような社

会背景で創造され、作者が作品を通じて何を意図したのか、を調べることは、

作品の本質に近づくために重要な手続きと考えられる。ダ・ポルトについて

は、書簡が残っていることもあり、作者の人生と作品との関係に着目した研

究は、既に一定の成果を結んでいる。この分野の第一人者はイギリス人学者

セシル・E・クラフである。本論は、クラフの研究成果を出発点にして、作

品の成り立ちに関わる事柄を整理し、考察するものである。

出版年と執筆年代

『ジュリエッタの物語』は作者の死後1530年頃に、ヴェネツィアのベネデッ

ト・ベンドーニによって、‘Hystoria novellamente ritrovata di due nobili amanti, con la loro pietosa morte, intervenuta già nella città di Verona nel tempo del Signor Bartholomeo dalla Scala’という題で出版されている

(Clough 113-4)。出版年が特定できないのは、印本に明記されていないため

であるが、初版には出版年はおろか、作者の名前も記されていない。このこ

とは、初版が原稿を相続したダ・ポルトの弟ベルナルディーノの許可を得て

ルイージ・ダ・ポルトの『ジュリエッタの物語』についての考察―ベンドーニ版を中心に

逢見 明久

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いない海賊版である可能性を暗示している(Clough 113)。その後ベンドー

ニは誤植の訂正と作者の名前を加えて、1535年 6 月10日に再版を手がけてい

る(Clough 114)。その後作品は、1539年にヴェネツィアのフランチェスコ・

マルコリーニによって‘La Giulietta’と題して出版されている。マルコリーニ

版は、ベルナルディーノが許可を与えた、言わば正規版で、ヴェネツィア出

身の枢機卿ピエトロ・ベンボ(1470-1547)に献じられている。ベンボは著

名な文化人であるが、ダ・ポルトと親交がありマルコリーニ版の編集に携わっ

たと考えられている(Clough 113)。マルコリーニ版は、七十四篇のペトラ

ルカ風ソネットと共に採録され、‘Rime e Prosa di messer Luigi da Porto’という題で出版されている。

ベンドーニ版とマルコリーニ版にはいくつかの違いが見られる。はたして

いずれの版が作者の意図に忠実と言えるのか。この問いを解決するためには、

オリジナル原稿の存在の有無が問題になるであろう。しかし現状としてオリ

ジナル原稿は未だ発見されていない。テクストについては、ベンドーニ版と

マルコリーニ版の他に、二つの写本の存在している(Clough 116)。セシル・

E・クラフは、ベンドーニ版とマルコリーニ版、そして二つの写本を比較検

討して、以下の三つの傾向を見いだしている。

[F]irst, the language and the style of writing are in accord with Da

Porto’s ‘Lettere storiche’; secondly, in the edition of Marcolini the

revealing autobiographical allusions in the dedication to Lucina have

been somewhat modifi ed, and the concluding personal comments on

women entirely removed.(Clough 116-7)

クラフは、マルコリーニ版だけが、ベンドーニ版と二つの写本と異なり、

作者の自伝的な要素を記した箇所が変更され、当時の女性の風潮を諷刺した

結びの表現が削除されていることを指摘している。マルコリーニ版で削除さ

れた箇所は、作者の評判や名誉に関わる事柄を含んでいる。それは編集に携

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わったベンボの、作者への配慮とも解釈できるだろう。それは二つの写本に

作者名が付されていないこと(Clough 117)と関係しているはずである。

ベンドーニ版と現存する二つの写本には共通点が多い。唯一の大きな違い

は、題名についてである。ベンドーニ版の題名は題名と言うには余りに長す

ぎる。読者のために作品のあらすじを付してあるボッカチオの『デカメロー

ネ』やマスッチオの『物語集』の傾向から判断すると、ベンドーニ版の題名

とされている文言は、むしろ物語の要約と考えるのが自然である。つまりベ

ンドーニ版には初めから題名は付されていないと考えられる。また、既に触

れたようにベンドーニ版の初版には作者名も付されていない。当時の慣行か

ら判断して、二つの写本が上記の印本に先行する可能性は大きく、ベンドー

ニ版は先行する写本を拠り所として作られたと考えられる。

1524年 6 月 9 日にベンボがダ・ポルトに宛てた手紙に、ダ・ポルトがいく

つかの文芸作品をベンボに送って批評を求めていることが記されている

(Clough 116)。この手紙が根拠となり、『ジュリエッタの物語』の創作年代

は1524年とする説がある。しかし、それ以前に写本が流布していた可能性が

クラフにより指摘されている。クラフは、ダ・ポルトが『ジュリエッタの物

語』を書いた動機を、作品を献じているルチーナ・サヴォルニャンの結婚式

と捉え、執筆年を1517年とする可能性に言及している(Clough 116)。クラ

フによると、現存する二つの写本は1517年以降に作成されたものであり、同

じ時期に作成された写本がベンドーニ版の拠り所となったとの見方が示され

ている。以上のことを踏まえると、オリジナル原稿に近いテクストはマルコ

リーニ版ではなく、むしろベンドーニ版であると考えられる。従って、本論

では主にベンドーニ版を拠り所として作品を考察することとする。

時代設定と時系列の検証

クラフはダ・ポルトの物語が自伝的な作品との見方をしているが、あえて

物語の時間軸の再現を試みることにする。作者は作品の時代設定をバルトロ

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メーオ・デッラ・スカーラ大公がヴェローナを治めていた時期に定めている。

バルトロメーオ・デッラ・スカーラは父アルベルトの死後(Wilson 283)、そ

の跡を継いで1301年 9 月より、1303年 3 月に亡くなるまで、ヴェローナ大公

であった(Ruud 12)。さらに年号を絞り込むために、作品に描かれたキリ

スト教の宗教行事や季節感を手がかりにして整合性を確保する必要がある。

ダ・ポルトは物語の始まりと終わりを、謝肉祭最終日から聖霊降臨節の数日

後に設定している。1301年から1304年について調べると、下記の表の通りに

なる。

西暦 謝肉祭最終日 聖霊降臨節

1301年 2 月14日(火) 5 月21日(日)

1302年 3 月 6 日(火) 6 月10日(日)

1303年 2 月19日(火) 5 月26日(日)

1304年 2 月11日(火) 5 月17日(日)

1301年と1304年の場合は、大公の治世が二代にまたがるため除外する。謝

肉祭後の時間経過を辿ると、満月の頃にロメーオとジュリエッタが二度目の

対話をしていることが解る。1302年 3 月 7 日以降の満月は 3 月22日であり、

1303年の場合は 3 月 4 日となる。ロメーオとジュリエッタは満月の夜から数

日後の、大雪の夜に結婚の約束をしている。以上のことを踏まえると、1302

年よりも1303年の方が現実的である。また、1302年から1303年にかけての冬

の気候について調べてみると、地中海が記録的な寒波に見舞われていること

が解る(Fuster 270; Arago 219)。仮にダ・ポルトの物語が、1303年を基準

にしているなら、ロメーオとジュリエッタが初めて出会うのは 2 月19日火曜

日の深夜であり、5 月26日日曜日より数日後に、二人は命を絶つことになる。

もしダ・ポルトに悲劇性を強調する意図があったなら、ジュリエッタがロド

ローネ家伯爵との結婚式の予定日に亡くなることを前提にして物語を書いた

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と想定できる。また、結婚式として好まれた曜日が水曜日と木曜日であり、

ジュリエッタの父アントーニオが一刻も早い婚礼を実現することを目指して

いることを考慮すると(Klapisch-Zuber 188)、ジュリエッタの死亡推定時

刻は 5 月29日水曜日の早朝四時過ぎがもっとも有力である。時間の経過につ

いての描写については、ジュリエッタがロメーオと出会ってから命を絶つま

で、三ヶ月と十日余りもの期間に亘ることが解るが、ジュリエッタの縁組交

渉の頃から物語が急展開し、聖霊降臨節以降は一日刻みで描写されている。

ダ・ポルトは、ジュリエッタが自死という結末に向かうまでの後半の流れを、

目まぐるしい展開にすることで、物語の悲劇性を強調している。

諍い

『ジュリエッタの物語』の背景であり、重要なモチーフの一つに「紛争」

がある。『ジュリエッタの物語』の舞台は、ダンテが『神曲』に記した十四

世紀初頭の中世イタリアである。この時代のイタリア各地の都市国家は、教

皇を支持するグエルフィ党とローマ皇帝を支持するギベリーニ党に引き裂か

れ、同じ市民でありながらも、反目し合い緊張関係にあった。さらにグエル

フィ党も場所によっては一枚岩ではなかった。フィレンツェでは、白グエル

フィ(i Guelfi Bianchi)と黒グエルフィ(i Guelfi Neri)に分かれて敵対し、

白グエルフィのダンテは黒グエルフィの画策によってフィレンツェから追放

されている(Ruud 8-11)。作者ダ・ポルトは作品の時代背景を、バルトロメーオ・デッラ・スカーラ

大公統治下(1301-1304)のヴェローナに設定しているが、『神曲』の作者ダ

ンテは1303年10月に密使としてバルトロメーオ・デッラ・スカーラのもとに

派遣され、 9 ヶ月間ヴェローナに滞在している(Ruud 12)。これは白グエ

ルフィを追放した、フィレンツェの黒グエルフィ政権を打倒するために、軍

事的支援を要請するためであったとされている(Rudd 12)。デッラ・スカー

ラ家は十三世紀後半から十四世紀にかけてヴェローナ大公を輩出した名門

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で、代々ギベリーニであった。ダ・ポルトはバルトロメーオ・デッラ・スカー

ラを、‘Signore cortese e humanissimo’(a lord both liberal and kind)とし

て紹介しているが、これはグエルフィのダンテを受け入れたところにも表れ

ている。ダンテのモンテッキとカペレッティ1については諸説があり、現在

ではモンテッキがギベリーニで、カペレッティがグエルフィとする説が定着

しているが、その逆の説もあり、また共にギベリーニとする説、モンテッキ

がクレモナ在住でカペレッティがヴェローナ在住の政治結社もしくは家名と

する説などがある。しかし少なくとも、バルトロメーオ・デッラ・スカーラ

がギベリーニとしての立場を越えて、ヴェローナの統治者として公平な立場

を貫いた名君であることは、ダ・ポルトの物語におけるモンテッキとカペレッ

ティの和解を引き出す重要な要素となっている。

ダ・ポルトが物語を書いた十六世紀においては、グエルフィとギベリーニ

は既に本来の大義を失っているが、同盟関係は生き続けている。十六世紀に

おいても、グエルフィとギベリーニ双方で、古くからの因縁が語り継がれ、

ふとした切っ掛けで確執が顕在化しかねない状況であったことは否定できな

い。ギベリーニの家柄の家紋には鷲があしらわれているが、これはギベリー

ニとしての自覚が世代を超えて受け継がれていたことを示すのもである。そ

1 カペレッティについては、1531年頃出版された初版及び1535年版では‘Capeletti’、1539年版では‘Cappelletti’の表記になっている。‘cappelletto’や ‘cappello’は帽子など頭に被るものを指す。ダ・ポルトは謝肉祭にカペレッティの館で催された仮装舞踏会で、ロメーオとジュリエッタが出会う踊りを‘il ballo del torchio o del cappello’(松明、または帽子の踊り)と記述している。カペレッティの家紋の意匠は、帽子をモチーフにしたものが見つかっているが、帽子が意匠としてあしらわれた家紋は、その家から枢機卿を輩出していることを意味することがある。カペレッティを名乗る人物は、歴代枢機卿の中にリエーティ出身のカペレッティ・ベネデット(1764-1834)のみであり、ダ・ポルトがある程度史実を踏まえているとすれば、家紋にあしらわれた帽子の意匠は従来の慣例から逸れていることになる。しかし、ギベリーニの多くが鷲の意匠を家紋にあしらっていることを考えると、カペレッティがグエルフィの紋章として、帽子を家紋にあしらっている可能性も残されている。

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れはイタリアの名家が生き残りの戦略として、古くからの同盟関係を重視し

ていることの一つの裏付けである。

ダ・ポルトはペレグリーノという射手を語り部にしているが、モンテッキ

とカペレッティ両家の抗争の背景については、ペレグリーノがその父親が聞

いた話と前置きした上で、派閥争いかまたは怨恨絡みであった可能性に触れ

るという体裁をとっている。しかしその一方で古い年代記について言及し、

両家が同じ派閥と記されていたとも語らせている。このようにダ・ポルトは

語り部ペレグリーノを通じて、カペレッティとモンテッキの関係を巡って諸

説に触れるものの、結果として歴史的な経緯を明確に説明することはない。

ダ・ポルトがペレグリーノに語らせる両家の確執の由来は、確証のない伝聞

に基づいており、曖昧である。しかも物語はダ・ポルトの生きる時代より

二百年以上もの過去の出来事を前提にしている。

ダ・ポルトは用意周到に、伝聞と時の隔たりという二重の仕掛けを用いて、

両家の確執の核心部分を語ることを意図的に避けていると考えることもでき

るだろう。既に述べたように、ダ・ポルトはグエルフィとギベリーニという

中世イタリアが抱える負の遺産を意識して物語を書いたことは事実である。

ダ・ポルトはペレグリーノという語り部を確保することにより、カペレッティ

とモンテッキのいずれに与する訳でもなく、俯瞰的視点で、物語で起こる出

来事を見守り、第三者としての中立的な立場を確保している。

ダ・ポルトは実人生において、同じ血族同士の争いに巻き込まれている。ダ・

ポルトの伯父アントーニオ・サヴォルニャン・デル・トーレ(1458-1512)は、

作者が物語を捧げた、マドンナ・ルチーナ・サヴォルニャン(1496-1543)

の後見人のジローラモ・サヴォルニャン・デル・モンテ(1466-1529)と敵

対関係にあった。クラフは、ダ・ポルトの書簡集などを手がかりに、ダ・ポ

ルトがロメーオとジュリエッタの恋愛物語を書いた動機を、作家自身の恋愛

経験にあるという見込みを立て、さらに、ジュリエッタはダ・ポルトの意中

の相手をモデルにしているという考えを展開している。クラフの説に従うな

ら、ダ・ポルトの俯瞰的視点は、自身の過去を冷静に見つめようとする意思

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の表れとも理解できよう。

仮装舞踏会

ロメーオとジュリエッタの悲劇の発端は、宿敵カペレッティ家主催の仮装

舞踏会に姿を見せるというモンテッキ・ロメーオの大胆な行為にある。一見

するとロメーオの軽率な行動の背景には、二つの理由がある。一つにはモン

テッキとカペレッティの抗争が沈静化していたこと、二つ目は仮装舞踏会に

意中の令嬢が訪れていることである2。意中の令嬢はカペレッティの縁者と考

えられ、ロメーオはモンテッキ一族で、ただ一人仮装舞踏会に参加している。

それは一族の帰属意識よりも、自分自身の恋愛感情を優先した行為か、ある

いは一族としての帰属意識の希薄さゆえの行為である。しかし、ロメーオが

ジュリエッタのとの秘密結婚ののちに、テバルド・カペレッティを討ち果た

す行為から判断すると、一族への帰属意識の低さは必ずしも当たらないとも

言える。

ロメーオは仮装舞踏会で、その立ち居振る舞いと美しい容姿ゆえにたちま

ち注目の的となるが、仮面を取りモンテッキであることが判明すると、周囲

はロメーオから露骨に距離をとるようになる。そのためロメーオは一人孤立

したまま、周囲の好奇な視線を浴び続けることになる。このとき、ロメーオ

の意中の令嬢も、遠巻きにロメーオの挙動を注視する来場者の一人に過ぎな

い。こうした状況において、ロメーオが意中の令嬢に接近することは不可能

に近い。しかしロメーオは居心地の悪さを思い知りながらも、思いを遂げる

べく、仮装舞踏会を締めくくる松明のダンス(または帽子のダンス)まで帰

2 ブルカーはルネッサンス期フィレンツェの若者の求愛行動を次のように述べている:“The pursuit of women was a common pastime of young Florentine males of all classes, but particularly among the rich and wellborn. The community naturally sought to control these encounters by defi ning limits and imposing penalties upon transgressors.” (Brucker 77)

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ろうとしない。その結果として、ジュリエッタと出会うことになる。ダ・ポ

ルトはジュリエッタとロメーオと出会いを偶然の出来事と説明しているが、

他に誰一人ロメーオに近づこうとしない状況を考えると、ジュリエッタが積

極的に行動した結果の、必然的な出会いと言える。

ジュリエッタは仮装舞踏会で孤立していたロメーオに話しかけた唯一の人

物である。ジュリエッタはロメーオが宿敵モンテッキの一人息子であるにも

関わらず、一切偏見を抱かずに、仮装舞踏会の来場者の一人としてその行動

の一部始終を公平に見守っている。それはジュリエッタがロメーオの美しい

容姿に魅了されたためである。すべてを恋のなせる業と片づけることは容易

だが、ロメーオの心情を思いやる洞察力は目を見張るものがある。

松明のダンスは男女が交互に配列し、全員で一つの輪を形成しながら、相

手を順番に交換する踊りである。この輪舞は、通常、隣り合う異性と手を繋

ぎながら踊る。しかし、ロメーオの立場と状況から考えて、ジュリエッタが

現れるまで、ロメーオが手を取ることを許す婦人は誰一人として現れること

はなかったと考えられる。松明のダンスに参加できるのは、本来カペレッティ

に縁のある未婚の男女である。中世イタリアにおける縁組みが同盟関係にあ

る家の間で決められていた習わしを考えると、松明のダンスは集団見合いと

しての意味合いがあると考えられる。松明のダンスに参加する未婚の男女の

両親と縁者たちは、それぞれの思惑を抱きながら、一族の将来を左右するこ

の一大行事を注視しているのである。

つまり、松明のダンスは敵対する一族が参加することは前提にしたもので

はない。その意味で、ロメーオは歓迎されざる闖入者であり、場違いなただ

一つの異物である。そのような状況で、踊りに参加している婦人たちが、ロ

メーオに好意的な態度を示すことは極めて困難である。当然の成り行きとし

て、協調の証しである輪舞の中で、ロメーオは疎外に等しい孤立した状況に

置かれることになる。にもかかわらず、ジュリエッタは、松明の輪舞のとき、

宿敵モンテッキの後継ぎロメーオが手を取ることを許し、ロメーオを疎外と

孤立から救う。ジュリエッタはロメーオに話しかけるとき、人目を気にしな

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がら、立ち聞きされないように細心の注意を払っており、明らかに一族郎党

の目を気にしている。ジュリエッタにとっても、一族の見守るなか、一族の

敵であるロメーオと親睦を深めることは勇気の要ることなのである。

だからこそ、ロメーオは、自分を受け入れて語りかけたジュリエッタの勇

気に感服し、その優しさと美しさに強く惹かれることになる。このときロメー

オは、ジュリエッタに美しい容姿を褒め称えられ、ジュリエッタの美の僕と

なることを伝えている。帰宅してからも、ジュリエッタとの出会いの記憶は

ロメーオの脳裏から離れず、それまで一途に想い続けていた令嬢は完全に過

去の存在となる。こうしてロメーオは、たとえ敵対するカペレッティの一人

娘であっても、ジュリエッタだけを愛し、尽くすことを決意する。ロメーオ

の裡で、ジュリエッタへの恋愛感情により、一族が共有すべき敵に対する排

他的思考が打ち消されていることは確かである。これ以降、ロメーオは迷う

ことなく、ジュリエッタとの関係を深めることに明け暮れる。ロメーオは出

会った頃から、常にジュリエッタに敬語を用いているが、秘密結婚以後も、

ジュリエッタへのロメーオの言葉遣いは変わらない。ロメーオは、ジュリエッ

タの主としてではなく、下僕として態度を貫いている。ジュリエッタへのロ

メーオの姿勢は、まさに騎士道精神に基づいていると言えよう。

作者ダ・ポルトは、1511年の 2 月26日水曜日、物語を捧げたマンドンナ・

ルチーナ・サヴォルニャンと運命的な出会いをしている。その日は謝肉祭で、

フリウーリにあるサヴォルニャン家の宮殿で仮装舞踏会が催され、ルチーナ

は社交界にデビューを果たした。その折に、ダ・ポルトはルチーナの歌声に

聞き惚れ、恋に落ちた。だがその翌日、伯父アントーニオ・サヴォルニャン

が暴動を扇動してフリウーリの政情不安を引き起こしたことにより、ダ・ポ

ルトは謀反人として汚名を着せられる3。また不運にも1511年 6 月20日金曜日

3 “Moreover the political situation in Udine was to result in his name becoming besmirched, with rumours circulating that he was a foul murderer; his uncle Antonio certainly became a traitor to Venice, and delivered most of the province

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に戦場で負傷し、後遺症により半身不随となる(Clough 107)。このようにダ・

ポルトの人生はルチーナの歌声を聞いた1511年を頂点に、以降は下降線を

辿っている。ダ・ポルト自身、ロメーオとジュリエッタのように、予期しな

い事態に巻き込まれて翻弄された、運命の犠牲者であった。

秘密結婚

ジュリエッタはカペレッティの屋敷からほど近い街角でロメーオと逢瀬を

重ねるが、その都度、命の危険を顧みないロメーオに節度のある行動を求め

ている。ロメーオの無謀で大胆な行動は、前述の謝肉祭の描写で触れた通り

である。これはロメーオの若さゆえの激しい情熱のゆえと考えられる。ジュ

リエッタはロメーオの情熱的な態度に戸惑いを禁じ得ず、ある雪の降る夜に

暖かな寝室に入れて欲しいと切り出すロメーオに怒りを抑えながら、次のよ

うに応じる。

Romeo, I love you as much as one can rightfully love anyone, and I

grant you more than befi ts my virtue. This I do won over by love and

your high worth. But if you think that by courting me for a long time

or by any other means to enjoy my love in any way other than as my

beloved, then banish this thought, because it will avail you nothing.

And to spare you the danger in which I see you place your life every

night by coming to these parts, I declare that, if you should see fi t to

accept me as your wife, I am willing to give myself wholly to you and

to accompany you unhesitatingly wherever it pleases you to go.

ジュリエッタはロメーオを愛してはいるが、ロメーオの性急な求愛に抵抗

of Friuli to the imperial forces”.(Clough 109)

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を感じ、自制心を働かせて、言葉を選びながら、ロメーオに節度のある交際

を促している。このときジュリエッタがロメーオの逸る気持ちを落ち着かせ

るために、結婚の意図を伝えると、ロメーオはすぐさまこれに同意し、その

場で結婚することを提案する。ジュリエッタはロメーオの勢いに惑わされる

ことなく、それまでに考え抜いた計画に沿って、ロレンツォ神父の立ち会い

でもう一度結婚することを提案する。

ジュリエッタは立会人の条件さえ満たせば、それが当時の常識や道義に反

することであっても、ロメーオと秘密裏に結婚することは理論上は可能であ

る。ジュリエッタはロレンツォ神父立ち会いのもとで結婚を条件にしている

が、立会人は神父である必要はない。ロレンツォ神父はジュリエッタの聴聞

司祭であり、立場上守秘義務がある。ジュリエッタにとって、秘密結婚を成

立させるための立会人として、ロレンツォ神父は最善の選択肢であると考え

られる。当時は女性の貞節が家の名誉のために何より重んじられていた4。

ジュリエッタがロレンツォ神父の立ち会いを求めるもう一つ背景としては、

ロメーオが敵対するモンテッキの後継ぎであることへのぬぐい去れない不信

感が根底にある。ジュリエッタは、ロメーオと二人きりで秘密結婚をしても、

そのあとで裏切られる可能性を危惧していると考えられる。ロメーオが自分

を弄び、自身の女性としての評判を貶められることは、結果として一族の名

誉に傷をつけることになる。ジュリエッタがロメーオに出した条件には、ロ

メーオの愛を確かめる試金石であるばかりでなく、当時の女性の良識的態度

を読み取ることができる。

4 ブルカーはルネッサンス期フィレンツェの女性の恋愛について次のように触れている:“Such restraints functioned most effectively upon upper-class women , whether nubile, married, or widowed. So important was the ideal of feminine chastity to family honor that it was guarded as jealously by male relatives as was their property. A stain upon a family’s reputation adversely affected its social standing and, specifically, its ability to contract good marriages for its daughters”. (Brucker 77-8)

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ジュリエッタとロメーオは互いに愛し合っているが、その態度は対照的で

ある。ジュリエッタは思慮深く良識があり、行動に計画性があるが、ロメー

オは感情に流されやすく、短絡的な行動に走りやすいと言える。ジュリエッ

タとロメーオの話が、ルチーナと作者自身の恋愛経験に基づいているなら、

ジュリエッタの思慮深さは、ルチーナに対するダ・ポルトの未だ変わらない

愚直なまでの敬愛の念を反映したものであり。一方ロメーオの短絡的な性格

は、作者自身の未熟さを吐露したものと理解できる。自身を貶めて、敬愛す

る相手を理想化する態度は、騎士道精神の特徴であり、軍人ダ・ポルトの片

鱗が窺える。

宮廷風恋愛の手本とされるアンドレーアス・カペルラーヌスの『宮廷風恋

愛術』には、男性が守るべき恋愛の十二箇条の心得が記されているが、この

うちジュリエッタのロメーオへの忠告は第八条の“In giving and receiving love’s solaces let modesty be ever present.”と第十一条の“Thou shalt be in all things polite and coureous.”に当たる。

縁組交渉

オックスフォード・キリスト教会事典には、結婚の伝統的な目的が三つ示

されている。第一の目的が、夫婦間の貞節。二つ目が子供を作るため。三つ

目に家同士の関係強化である。中世イタリアにおいて、結婚とは、家の繁栄

と社会秩序の安定化のための制度であり、嫁ぐ女性は跡取りを生むことを求

められる。この傾向は富裕層において顕著であった。縁組みは花嫁と花婿の

意思とは無関係に、家と家の関係を強化するために行われる。つまり中世イ

タリアにおける結婚は、必ずしも愛を前提にするものではなく、縁組みは言

わば恋愛とは別の次元であり、家同士の契約に基づいたビジネスであったと

言える。事実、フィレンツェでは結婚斡旋業が存在しており、結婚式を挙げ

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るために教会の許しや神父の立ち会いも不要で5あった。神父による立ち会

いが定着したのは、1563年のトレント公会議以降である。二人の結婚は家同

士の契約を省き、家族にも知らせずに行われる。以上のことから、ロメーオ

とジュリエッタの結婚は、当時としては異例な結婚であることは間違いない。

ここで、ジュリエッタの縁組交渉の経緯を辿ってみることにする。テバル

ド殺害の罪により、ロメーオがヴェローナから追放されたのち幾日も、ジュ

リエッタは哀しみに泣き暮らす。母ジョヴァンナはジュリエッタの秘密結婚

を知る由もなく、苦しむ娘の姿に心を痛め、幾度も悲嘆の訳をジュリエッタ

に訊ねる。ジョヴァンナにしてみれば、テバルドの葬儀から既に日が経って

いることもあり、テバルドの死と娘ジュリエッタの悲嘆とを関連づけること

はしない。仮に身内のテバルドの死を悼む気持ちからジュリエッタが悲しむ

ならば、母であるジョヴァンナに隠す道理はないからである。ジョヴァンナ

5 ブルカーは15世紀中頃におけるフィレンツェの結婚事情を次のように述べている: “Florentine marriages were typically public and ritualized affairs, the product of lengthy and arduous negotiations between relatives and friends of the families and often abetted by professional matchmakers. A preliminary and private agreement between the parties was symbolized by an exchange of handshakes (impalmamento). This was followed by a public meeting in eff ect, a betrothal ceremony (sponsalia) of male relatives from both families, normally held in a church, in which the groom and the bride’s father or guardian accepted the terms of the marriage contract as redacted by a notary. The breach of this contract was a very serious matter that could lead to lawsuits and even vendettas. Subsequent to the formal betrothal the bride and groom, each accompanied by kinfolk and friends, met in the girl’s house, where in response to the notary’s questions they exchanged vows and rings and participated in a wedding banquet. Like the sponsalia, the solemnization of the union was recorded by the notary and copied in his register. Then the bride and her entourage made a formal and festive journey through the city streets to her husband’s house, where the physical consummation of the marriage occurred. It is noteworthy that the Florentine clergy were not formal participants in any phase of this complex ritual of betrothal and marriage”. (Brucker 80-83); also see Klapisch-Zuber 181-196 for further details.

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はジュリエッタの慎み深さから結婚願望をひた隠しにしていると誤解し、夫

アントーニオに相談する。アントーニオは妻の考えに納得し、結婚願望を抑

制する愛娘の慎み深さと苦しみに堪え忍ぶけなげさに感服して、すぐさま行

動し、その数日後にはロドローネの伯爵との縁組交渉にこぎ着ける。それは

アントーニオが娘の誇りと幸せを守るために、為し得る最善の選択と考える

からに他ならない。ジュリエッタの縁組みは、このように、ジョヴァンナの

娘を心配する親心が切っ掛けであり、妻の気持ちに共感したアントーニオが、

親心から手を尽くしてお膳立てするものである。しかし皮肉にも、父アントー

ニオと母ジョヴァンナは、娘の秘密結婚に気づかぬままに、ジュリエッタに

重婚の罪を強いて、その結果として、ジュリエッタは死を覚悟するほどに苦

しむことになる。

ジョヴァンナは、ロドローネ家との縁組交渉が軌道に乗るまで、ジュリエッ

タに縁談話を打ち明けることを差し控えている。ジョヴァンナが縁談の確実

性が確保されるまで、ジュリエッタにあえてそのことを話そうとしないのは、

縁談が成立しない場合の新たな心労を娘に負わせまいとする親心からであ

る。ジョヴァンナは「命に等しい大切な娘」が以前のように元気を取り戻す

ことを願っている。

当時の結婚の慣習を考えると、父親が娘の結婚相手を決めることは、ごく

当たり前の成り行きであり、当時の女性が受け入れている慣習である。アン

トーニオは家長として、家の繁栄を考えなければならない。母ジョヴァンナ

が女性の花盛りの18歳を、嫁としての「商品価値」6の分岐点と述べているよ

うに、当時の結婚適齢期は18歳であることが解る。確かに、ジュリエッタは

18歳で、数ヶ月後の 9 月16日の聖ユーフェミアの祭日には、19歳を迎える。

6 “The evaluation of fl uctuating reputations was a major preoccupation of Florentine parents resposible for arranging marriages for their children. In these operations the marriage market was not unlike a modern stock exchange; indeed, marriageable girls were sometimes characterized as “merchandise” (mercatanzia)”. (Brucker 107).

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このとき既にアントーニオは数日前にジュリエッタに持参金を渡しているの

で、娘の結婚を意識していたことは明らかである。しかしこののちアントー

ニオとジョヴァンナは、聖霊降臨祭にロレンツォ神父に懺悔して快活さを取

り戻した娘の姿を見て、できれば縁談を反故にしたいと考えている。このこ

とから判断して、たとえアントーニオがジュリエッタに持参金を渡していた

としても、結婚はまだ先のことと考えていたことが解る。つまり、アントー

ニオはそれまでジュリエッタの縁組交渉に着手すらしていないと考えるのが

妥当である。いかにアントーニオがヴェローナの実力者といえども、数日で

良縁を見つけることは至難の業である。おそらく、アントーニオには、縁組

み仲介業者に高額な礼金を支払ってでも、準備をする以外に選択肢はない。

アントーニオは必死の覚悟で娘のために奔走し、わずか数日の間に、名門ロ

ドローネ家の伯爵との縁組交渉にこぎ着ける。ジョヴァンナと同じように、

アントーニオを駆り立てる動機も、憔悴する娘を思う親心である。

ジョヴァンナとアントーニオが事前にジュリエッタに結婚への意思確認を

控える動機は理解できる。しかし、ジュリエッタをさらに苦しめる悲嘆の種

が、本人への意思確認を省いていることから生まれていることも事実である。

アントーニオはロドローネ家との縁組みに及び腰の娘ジュリエッタに業を煮

やし、本人の意向を省みずに、縁組みを進め、強引に結婚させようとする。

アントーニオの縁組交渉は親心から始まったものと考えられるが、縁組交渉

を中断できない現実的な事情も推察できる。縁組みの破談は家の発展に負の

要素となる恐れがあるからである。結婚は同盟関係の強化に役立つが、破談

は敵を作り、家の存亡の危機に関わる事態を招きかねない。アントーニオは

家の繁栄と娘の幸福の両立を願ったが、究極の選択を迫られるとき、迷わず

に家の繁栄を選ぶのである。縁組交渉におけるアントーニオの言動には、家

の繁栄を最優先事項とする家の論理が読み取れる。

作者ダ・ポルトは、ジュリエッタの秘密結婚を描くことにより、結婚を家

の論理から切り離してみせ、両性の純粋な愛を前提にした結婚をあるべき理

想として表現している。家の論理は、物質的繁栄を追及する欲望と密接な繫

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がりがある。神の前での結婚の誓いは、心の豊かさを希求する態度を意味し、

個の意思を無視する、実利的な結婚制度への懐疑とも言える。このように、ダ・

ポルトは、ジュリエッタの秘密結婚を通じて、公の利益と個の幸福の関係を

見つめている。公の利益を優先することにより、個が蔑ろにされる事態は、

現在でも起こりうる問題である。

既に述べたように、ダ・ポルトの伯父アントーニオ・サヴォルニャン・デ

ル・トーレは、ルチーナの後見人ジローラモ・サヴォルニャン・デル・モン

テと敵対関係にあった。両家の確執は、アントーニオの死後も続き、フリウー

リの治安を悪化させる不安定材料であった。事態を重く見たヴェネツィアは

両家の和解を望み、縁組みを両家に強く迫った。その結果、1517年にルチー

ナは、フランチェスコ・サヴォルニャン・デル・トーレ(1492-1547)のも

とに嫁ぐことになる。ダ・ポルトが1517年に『ジュリエッタの物語』を書い

たとするクラフの推測は、ルチーナの結婚によるダ・ポルトの失意を念頭に

置いている。

自死について

ロメーオの自死とジュリエッタの自死を招くのは、生きていることへの罪

悪感である。まず、ジュリエッタの自殺願望から考えてみたい。ジュリエッ

タは最初から自殺願望があった訳ではない。ジュリエッタはむしろ物事を建

設的に思考するタイプの人間である。それはジュリエッタが、カペレッティ

とモンテッキの確執を、ロメーオとの結婚を切っ掛けに和解へと導く構想を

発案しているところにも顕れている。その意味ではロレンツォ神父は、言わ

ばジュリエッタの代理人に過ぎない。しかし、ロメーオが殺人の罪でヴェロー

ナから追放処分になり、ロメーオと長い間別離を強いられると、いかにジュ

リエッタといえども悲観的になる。そこへ追い打ちをかけるように、両親か

ら縁談話が持ち上がり、いよいよ結婚式が差し迫ると、ジュリエッタは希望

を見失い、自殺を考えるようになる。ジュリエッタは次のようにロレンツォ

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神父に毒薬を求めている。

Give me however much poison is necessary to free both me from

suff ering such as this and Romeo from such dishonour. If you do not, I

shall cause even greater harm to myself and grief to him by staining a

knife with my blood.

ジュリエッタにとって、自殺は自身を苦しみから救うための手段であり、

同時にロメーオを不名誉から救うための手段でもある。ジュリエッタの苦悩

とは重婚の罪であり、それはロメーオの恥辱をも意味する。ジュリエッタは

死に方として、ナイフで自らを傷つけてロメーオを悲しませるよりも、致死

量の毒によりロメーオの苦しみを少しでも和らげようと配慮している。ジュ

リエッタの重婚に対する罪の意識は、神と夫ロメーオに対する結婚の誓約を

守ろうとする義務感から生じている。この際のジュリエッタの自殺願望は、

ロメーオに対する強い愛情に由来する、自己犠牲の精神の表れであることは

言うまでもないが、名誉と信仰を重んじる中世イタリアの風潮が多分に影響

している。

このようにジュリエッタは自殺を覚悟していたが、ロレンツ神父の提案で、

服毒自殺を偽装することになる。自殺の偽装は、ロレンツォ神父の薬の効能

持続時間が48時間であることと関係していると考えられる。正式な葬儀は 2

日を要するので、ジュリエッタが自殺と疑われなければ、薬の効き目が切れ

て計画が頓挫しかねない状況であったからである。そのためにジュリエッタ

が近親者に自殺を仄めかし、薬瓶という物的証拠を残して、周到に自殺を偽

装する。こうしてジュリエッタの偽装工作は功を奏し、予定通りその日のう

ちに略式の葬儀で葬られることになる。アントーニオはヴェローナから信頼

する主治医を呼んで、娘の服毒自殺の診断を聞かされるが、ジュリエッタの

死を表向きには変死として周知する。家族から自殺者がでることは一族の不

名誉となるばかりではなく、家の存亡の危機を招きかねない重大事である。

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しかし。その一方で、アントーニオがジュリエッタの死因を伏せるという判

断には、相応しい葬儀で愛する娘を弔いたいという親心も読み取ることがで

きる。

ロメーオはジュリエッタの従者であるピエトロから、ジュリエッタの服毒

自殺について聞かされて、ジュリエッタの死を信じ、ジュリエッタを迎えに

行くという約束を果たさなかった自身の態度を悔やみ、激しい自己嫌悪に陥

る。その結果として、ロメーオは服毒自殺を図る。ロメーオの自殺には、自

らを罰する意味合いがある。ロメーオが短剣ではなく、毒薬を死に方として

選択する背景には、苦痛の経験を共有することにより、ジュリエッタをより

身近に感じながら死を迎えようとする意志を汲み取ることができる。マスッ

チオなどの中世イタリアの悲恋物語にも、恋人と同じ死に方を選ぶ傾向があ

る。

ロメーオは農夫に変装してヴェローナに潜入したが、そのとき毒物の他に

短剣を隠し持っていた可能性もある。シェイクスピアの『ロミオとジュリエッ

ト』ではジュリエットはロミオの短剣で自殺する筋立てになっている。一方

ダ・ポルトのジュリエッタは、ロメーオの死後、自発的に息を詰めることに

より死に至る筋立てになっている。ジュリエッタは死の間際次のように語る。

What am I supposed to do, my lord, now that you are no longer alive?

What else is left for me where you are concerned, except to join you in

death? Nothing else to be sure, in order that death may not separate

me from you, as only it was able to do.

ジュリエッタは「死によって、ロメーオから引き離されることのないよう

に」と述べているが、これは何を意味しているのか。

ダ・ポルトの物語によると、ロメーオとジュリエッタは自殺し、二人の亡

骸は合同葬儀ののち、同じ墓所に葬られる。自殺したロメーオとジュリエッ

タの処遇は、中世キリスト教社会において極めて異例な扱いと言える。中世

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キリスト教倫理の基礎を築いた聖アウグスチヌスは『神の国』で、自殺をモー

セの十戒に反する罪と解釈している。中世ヨーロッパにおいて、自殺は道義

的に許されない過ちであり、放火や窃盗や殺人と同様に重罪とされていた。

また、自殺者を出した家は、コミュニティから疎外され、厳しい扱いを受け

ることになる。家族にとって、家から自殺者を出すことは、不名誉であるば

かりでなく、家の存亡にも関わる重大事なのである。そのため、中世ヨーロッ

パにおいては、自殺の判定は慎重にならざるを得ず、状況証拠だけでは足り

ず、自殺と断定できる物的証拠が必要とされていた。つまり物的証拠がない

場合は、疑わしい死として処分を見送られることになる。そのため、自殺と

結びつくような物証が身内により隠蔽され、自殺の真相が闇に葬られること

も珍しくなかった。中世ヨーロッパにおいて、自殺はタブーなのである。こ

うした自殺回避の態度は、ジュリエッタの母ジョヴァンナにも共通している。

ジョヴァンナは娘の死を嘆いて死を願うものの、自殺は選択肢になく、周囲

に殺して欲しいと訴えるに止まっている。

以上のことから判断して、ジュリエッタの死因は自発的窒息死ということ

になるが、中世ヨーロッパの法基準では自殺者と見なされることはない。ジュ

リエッタは自殺者として扱われることを意図的に回避しているとも解釈でき

る。中世のキリスト教徒の常識として、自殺者の魂は地獄に呪縛され、生ま

れ変わることはできない。ジュリエッタは自身の魂を救い、同時にロメーオ

の魂を救う覚悟で、息を止め、死に臨むのである。ジュリエッタの自死の根

底には、ロメーオへの深く強い愛情を読み取ることができる。

愛と魂の救済

ダ・ポルトは献辞の中で自らに降りかかった不運を「神の怒り」と表現し

ている。その不運な出来事の含みとしては、後ろ盾であった伯父アントーニ

オの不祥事と失脚による不遇、そして自身が1511年 6 月20日に被った深刻な

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戦傷7による半身不随の後遺症などが考えられる。既に述べたように、物語

で扱う時間の長さは、1511年 2 月26日にダ・ポルトが謝肉祭でルチーナに出

会って、戦傷により半身不随になるまでの期間とおおよそ合致する。一連の

不運はダ・ポルトの、ルチーナとの悲恋の記憶に結びついている。

ジュリエッタとルチーナにはいくつかの共通点がある。一つには、誕生日

が同じ聖ユーフェミア8の祭日( 9 月16日)であること。もう一つは、いが

み合う家同士を和解に導く役割を担うことである。ダ・ポルトのルチーナへ

の恋は、サヴォルニャン家の本家デル・トーレと分家デル・モンテの同じ血

族内の確執が大きな障害となっていたと考えられる。フリウーリの治安の安

定を望む、ヴェネツィア総督の強い促しにより、デル・トーレとデル・モン

テは結婚により和解することになる。ルチーナは一族の融和を図るために、

1517年にデル・トーレに嫁ぐことになる。ルチーナは平和の使者として嫁ぐ

が、その姿はカペレッティとモンテッキの和解を願ったジュリエッタの姿と

重なる。ルチーナが同じ一族の内紛を和解に導くために、本家デル・トーレ・

サヴォルニャン家に嫁いだことが、ダ・ポルトが『ジュリエッタの物語』を

創作する切っ掛けであったとクラフは考えている。

ダ・ポルトはルチーナへの献辞において、物語を一艘の小舟に喩え、自ら

をその船頭として、ルチーナを旅の目的地となる港に喩えている。ダ・ポル

トの裡にある旅人の感覚は、一族の融和のために犠牲になって結婚したル

チーナへの、切なる想いを反映しているとも考えられよう。さらに物語に目

を向けてみると、他にも旅人の比喩が用いられていることが解る。例えば、

7 See Clough 102-3. note.11.8 聖ユーフェミア(St Euphemia)は元老院議員の娘で、ローマ皇帝ディオクレティアヌス帝(在位284-305年)の治世に行われたキリスト教迫害に立ち向かった伝説の殉教者。ユーフェミアの名前の由来は二つあり、一つが‘good woman’であり「他者を助ける、公平で、感じの良い女性」、もう一つの意味は‘euphonia’と同義で、歌声・弦楽・吹奏楽などの奏でる「甘美な調べ」を指す(de Voragine 567-9)。

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物語の語り部であるペレグリーノの名前は「巡礼者」9の意味があり、ロメー

オの名前も「(ローマへの)巡礼者」を意味する。前述のようにジュリエッ

タがルチーナをモデルにしているとすれば、ペレグリーノとロメーオは作者

の分身と言える

ダ・ポルトは一人のフランチェスコ派修道士を物語の を握る人物として

描いており、カトリック教会の司祭による告解の聴聞と許しの秘蹟を、外的

な影響力に翻弄されるジュリエッタを救う場として取り入れている。物語の

時間軸についても、カトリック教会の祝祭日を意識して構築されており、時

の経過は謝肉祭に始まり、四旬節を経て、聖霊降臨節から数日後の百日余り

で結ばれる。聖霊降臨節は伝統的に「再生」や「魂の救済」という考え方と

結びつく(Weis 169)。以上のことから、物語はカトリック教会の「罪の許

しと魂の救済」の考え方に基づいて構成されていることが解る。魂の救済と

いうカトリック教会の考え方には、本来自殺者は含まれない。しかし、物語

がキリストの受難と復活を意識した時間軸で構成されていることを考える

と、ダ・ポルトはロメーオとジュリエッタを、あたかも殉教者のごとく肯定

的に扱おうと仕組んでいるとも解釈できるだろう。

ダ・ポルトによる物語のあとがきには、ルチーナへの未練が滲んでいる。ダ・

ポルトは実人生でロメーオ以上に過酷な運命に翻弄された。自らの身体的障

害やサヴォルニャン家の事情により、ルチーナとの結婚を断念せざるを得な

かったからである。ジュリエッタがロメーオと秘密結婚し、服毒自殺したロ

メーオのあとを追い愛を貫く筋立ては、ダ・ポルトがついに実現できなかっ

た理想の愛と考えられる。ジュリエッタが自発的に息を止め窒息死し愛を貫

く動機が、自殺者として魂を汚さずにロメーオの魂を救うためであるなら、

9 ルードは『神曲』におけるダンテを“Dante the pilgrim”と評し(Ruud 24)ており、作中のダンテの魂の遍歴に、罪の告白と許しというカトリックの秘蹟の性質を読み取っている(Ruud 21)。ロメーオとジュリエッタの物語の作者ダ・ポルトは、小舟のイメージや、モンテッキとカペレッティなどの『神曲』に見られるモチーフを用いている。ダ・ポルトは『神曲』を念頭に置いて物語を書いた可能性がある。

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ダ・ポルトはルチーナにまさにジュリエッタのように献身的な愛を求めてい

たことになるだろう。肉体の自由を奪われたダ・ポルトは俗世では為しえな

かった理想を、『ジュリエッタの物語』を通じて、死後の世界での愛の成就

という形で、肯定しているのではないだろうか。精神的なレベルでの恋愛の

肯定は、自殺したロメーオとジュリエッタの愛を賛美する記念碑が建立され

るという筋立てにも繋がっている。ロメーオとジュリエッタの物語には、ル

チーナとの道ならぬ恋という地上的な苦悩を、天上的な愛へと昇華させよう

と試み、虚構の中に慰めを見いだそうとした、恋の巡礼者たる作者ダ・ポル

トの悲壮な決意が込められていると考えられる。

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