1
― 43 ― 1.研究の背景と目的 国際競争が高まる近年のビジネス環境において,企 業のサプライチェーンは複雑化し,寸断に対してこれ までになく脆弱になっている。日本の自動車産業にお いては2011年3月に発生した東日本大震災の被災によ るサプライチェーン寸断は,日本の経済にも甚大な影 響をもたらしたと同時に,ルネサスエレクトロニクス の車載用マイコンにみられたような,サプライチェー ンの「ダイヤモンド構造」に起因した脆弱性も露呈し た。震災以降,より頑健でレジリエントなサプライ チェーンの実現に向け,日本の主要自動車メーカーは 事業継続マネジメント(BCM),事業継続計画(BCP) の策定,実施を通じて「サプライチェーンの見える 化」に取り組んでいる。しかしながら,サプライ チェーンの構造の複雑さとサプライヤーの機密性の高 いサプライチェーン情報の開示が課題となり,その全 体像の可視化実現は容易ではない。よって本研究のリ サーチクエスチョンを,日本の自動車産業において 「サプライチェーン・レジリエンスの形成能力である 可視化向上のための,サプライヤーからアセンブラへ のサプライチェーン情報の共有を促進する要因はなに か」に設定する。 2.先行研究レビューとその限界 サプライチェーン・レジリエンスはサプライチェー ンマネジメントの研究領域において新興の分野であ り,先行研究におけるその定義や概念の一貫性はまだ 十分とはいえない。サプライチェーン・レジリエンス の構成要素を検討した研究や,可視性,柔軟性,協 調,速度等のサプライチェーン・レジリエンスの形成 能力に着目した研究,また,概念そのものの理論的発 展に貢献した研究は,近年多く見受けられるものの, 日本の自動車産業の事前対策段階におけるサプライ チェーン・レジリエンスと可視性向上の促進要因につ いて,定量的に検討した実証研究は筆者が調べる限り 見当たらない。 3.分析の枠組みと仮説設定 サプライチェーン・レジリエンスの形成要素である 可視性の向上を目的とした,サプライヤーからのアセ ンブラへの BCP・BCM に関するサプライチェーンの 機密情報の共有に対し,アセンブラとサプライヤー間 の企業間関係の要素が与える影響について,先行研究 に基づき8つの仮説(仮説1:アセンブラのコミット メント,仮説2:共通の価値観,仮説3a:能力に対す る信頼,仮説3b:約束厳守の信頼,仮説3c:善意に 基づく信頼,仮説4:サプライヤーの育成,仮説5a: サプライヤーの依存度,仮説5b:アセンブラの依存 度)を導出し,検証を行う。 4.分析と考察 マツダ株式会社の1次サプライヤー469社を対象と し,郵送による質問票調査を実施した。89社から得た 有効回答を重回帰分析で検証したところ,仮説3a:善 意に基づく信頼,仮説4:サプライヤーの育成は,サ プライヤーからの情報共有に統計的に有意な正の影響 を与えており支持された。仮説1:アセンブラによる コミットメントである長期取引継続の努力,仮説3: 共通の価値観を示す,相互の意見一致や同等レベルの QCD の重要性についての理解,仮説3b:約束厳守の 信頼,仮説5a:サプライヤーの依存度については部分 的に仮説が支持された。仮説5b:アセンブラの依存 度,仮説3a:能力に対する信頼に関する仮説は不支持 という結果であった。 分析結果から,日本の自動車産業のサプライヤーシ ステムの固有性とも言える,長期取引継続を視野にお いたアセンブラによるサプライヤーの育成や,継続的 取引において発展しうるサプライヤーのアセンブラに 対する善意に基づく信頼といった情緒的な要素は,サ プライチェーンの機密情報の共有の促進について,重 要な役割を果たしていると言えよう。 5.本研究の貢献と今後の研究課題の提案 本研究の学術的貢献は,サプライチェーン・レジリ エンスの形成能力である可視性向上について,日本の 自動車産業を対象に定量的に実証を行い,サプライ チェーンの機密情報の共有の促進要因について一定の 示唆を与えた。また信頼については,日本の自動車産 業という文脈を踏まえより精緻に検討した点について は研究の独自性があると言える。 実務的貢献としては,アセンブラとサプライヤー間 の,継続的な取引において構築される善意に基づく信 頼や,サプライヤーへの訪問,QCD 改善などの支援, サプライヤーが認知するアセンブラによる長期取引継 続の努力がサプライヤーのサプライチェーンに関する 機密情報の共有を促進すると示したことは,サプライ チェーン全体の見える化を推進する自動車メーカーに とって有用な知見となろう。 本研究は日本の自動車産業において,自動車メー カーの1次サプライヤーを調査対象としたが,今回得 た知見について,海外の自動車産業や,サプライ チェーンを有する他の産業においての比較検討は,残 された研究課題である。 サプライチェーン・レジリエンスの形成能力に関する研究 | サプライチェーンの機密情報の共有に着眼して | M146407 岡 本 生 子  

サプライチェーン・レジリエンスの形成能力に関す …...―43― 1.研究の背景と目的 国際競争が高まる近年のビジネス環境において,企

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: サプライチェーン・レジリエンスの形成能力に関す …...―43― 1.研究の背景と目的 国際競争が高まる近年のビジネス環境において,企

― 43 ―

1.研究の背景と目的 国際競争が高まる近年のビジネス環境において,企業のサプライチェーンは複雑化し,寸断に対してこれまでになく脆弱になっている。日本の自動車産業においては2011年3月に発生した東日本大震災の被災によるサプライチェーン寸断は,日本の経済にも甚大な影響をもたらしたと同時に,ルネサスエレクトロニクスの車載用マイコンにみられたような,サプライチェーンの「ダイヤモンド構造」に起因した脆弱性も露呈した。震災以降,より頑健でレジリエントなサプライチェーンの実現に向け,日本の主要自動車メーカーは事業継続マネジメント(BCM),事業継続計画(BCP)の策定,実施を通じて「サプライチェーンの見える化」に取り組んでいる。しかしながら,サプライチェーンの構造の複雑さとサプライヤーの機密性の高いサプライチェーン情報の開示が課題となり,その全体像の可視化実現は容易ではない。よって本研究のリサーチクエスチョンを,日本の自動車産業において

「サプライチェーン・レジリエンスの形成能力である可視化向上のための,サプライヤーからアセンブラへのサプライチェーン情報の共有を促進する要因はなにか」に設定する。

2.先行研究レビューとその限界 サプライチェーン・レジリエンスはサプライチェーンマネジメントの研究領域において新興の分野であり,先行研究におけるその定義や概念の一貫性はまだ十分とはいえない。サプライチェーン・レジリエンスの構成要素を検討した研究や,可視性,柔軟性,協調,速度等のサプライチェーン・レジリエンスの形成能力に着目した研究,また,概念そのものの理論的発展に貢献した研究は,近年多く見受けられるものの,日本の自動車産業の事前対策段階におけるサプライチェーン・レジリエンスと可視性向上の促進要因について,定量的に検討した実証研究は筆者が調べる限り見当たらない。

3.分析の枠組みと仮説設定 サプライチェーン・レジリエンスの形成要素である可視性の向上を目的とした,サプライヤーからのアセンブラへの BCP・BCM に関するサプライチェーンの機密情報の共有に対し,アセンブラとサプライヤー間の企業間関係の要素が与える影響について,先行研究に基づき8つの仮説(仮説1:アセンブラのコミットメント,仮説2:共通の価値観,仮説3a:能力に対する信頼,仮説3b:約束厳守の信頼,仮説3c:善意に基づく信頼,仮説4:サプライヤーの育成,仮説5a:

サプライヤーの依存度,仮説5b:アセンブラの依存度)を導出し,検証を行う。

4.分析と考察 マツダ株式会社の1次サプライヤー469社を対象とし,郵送による質問票調査を実施した。89社から得た有効回答を重回帰分析で検証したところ,仮説3a:善意に基づく信頼,仮説4:サプライヤーの育成は,サプライヤーからの情報共有に統計的に有意な正の影響を与えており支持された。仮説1:アセンブラによるコミットメントである長期取引継続の努力,仮説3:共通の価値観を示す,相互の意見一致や同等レベルのQCD の重要性についての理解,仮説3b:約束厳守の信頼,仮説5a:サプライヤーの依存度については部分的に仮説が支持された。仮説5b:アセンブラの依存度,仮説3a:能力に対する信頼に関する仮説は不支持という結果であった。 分析結果から,日本の自動車産業のサプライヤーシステムの固有性とも言える,長期取引継続を視野においたアセンブラによるサプライヤーの育成や,継続的取引において発展しうるサプライヤーのアセンブラに対する善意に基づく信頼といった情緒的な要素は,サプライチェーンの機密情報の共有の促進について,重要な役割を果たしていると言えよう。

5.本研究の貢献と今後の研究課題の提案 本研究の学術的貢献は,サプライチェーン・レジリエンスの形成能力である可視性向上について,日本の自動車産業を対象に定量的に実証を行い,サプライチェーンの機密情報の共有の促進要因について一定の示唆を与えた。また信頼については,日本の自動車産業という文脈を踏まえより精緻に検討した点については研究の独自性があると言える。 実務的貢献としては,アセンブラとサプライヤー間の,継続的な取引において構築される善意に基づく信頼や,サプライヤーへの訪問,QCD 改善などの支援,サプライヤーが認知するアセンブラによる長期取引継続の努力がサプライヤーのサプライチェーンに関する機密情報の共有を促進すると示したことは,サプライチェーン全体の見える化を推進する自動車メーカーにとって有用な知見となろう。 本研究は日本の自動車産業において,自動車メーカーの1次サプライヤーを調査対象としたが,今回得た知見について,海外の自動車産業や,サプライチェーンを有する他の産業においての比較検討は,残された研究課題である。

サプライチェーン・レジリエンスの形成能力に関する研究|サプライチェーンの機密情報の共有に着眼して|

M146407 岡 本 生 子