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「やっぱり知りたい!スピノザ」第一回(2015.10.24於:GACCOH 筆;藤野 幸彦 スピノザとデカルト 17世紀オランダの諸事情 バルーフ・デ・スピノザ(Baruch de Spinoza:1632-1677・スペイン・ポルトガル系ユダヤ人(セファルディム Sephardim・バルーフは「祝福されし者」を表すヘブライ語。他にベントー( Bento :ポルトガル 語)、ベネディクトゥス(Benedictus:ラテン語)とも。家名「スピノザ」は「茨」を意 味するポルトガル語Espinhosaから。 ・生まれはオランダ(当時はネーデルラント連邦共和国)、アムステルダム ・家業は貿易商:「アムステルダムのポルトガル人商人 1656年、ユダヤ共同体を破門(追放)される。 ・主著『エチカ』(形而上学・倫理学)・『神学政治論』(宗教論・信仰と思想の自由) 他『知性改善論』・『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』・『デカルトの哲学原 理』・『形而上学的思想』・『国家論』・『ヘブライ語文法綱要』 生前に出版されたのは『デカルトの哲学原理』と『形而上学的思想』(1663)、 『神学政治論』( 1670 )のみ。『神学政治論』は出版地を偽り、匿名で公刊された (が、すぐにスピノザが書いたことは公然の秘密に。4 年後には禁書処分)。死後まも なく、友人たちの手によって遺稿集が出版される(が、やはり1年と経たずに発禁とな る)。 周辺事情① ポルトガル系ユダヤ人たち 1478年 スペイン(当時はカスティーリャ王国)国王に異端審問官の任命権付与 1492年 スペインで大規模な改宗・追放令 12万の亡命者 1497年 ポルトガルで強制的な改宗 コンヴェルソ(converso)、新キリスト教徒 1547年 ポルトガルに異端審問所の設置 スペインに逆戻り、更なる亡命 16世紀頭初頭から、低地地方へのユダヤ人の移住が始まる。 当初はアントワープ、後にロッテルダム、アムステルダムへ 周辺事情② ネーデルラント17・ブルゴーニュ領ネーデルラント(1384-1477):中世以来の都市が強い独立性を保つ ・カール五世(在位:1516-1556)の下、スペインの属州に ハプスブルク家の絶頂期 16世紀中頃、カルヴァン主義の改革派教会がネーデルラントの主流派になる ・フェリペ二世(在位:1556-1598)の治世で宗教的な弾圧。都市の特権が廃止される。 *いわゆる絶対主義の下で中央集権的な体制づくりを進めるスペインに対して、ネーデル ラントはそうしたシステムに馴染んでいなかった。エラスムスDesiderius Erasmus Roterodamus:1466-1536)以来の人文主義の伝統、寛容の思想。 周辺事情③ オランダ独立戦争とネーデルラント連邦共和国

バルーフ・デ・スピノザ(Baruch de Spinoza:1632 …gaccoh.jp/wp/wp-content/uploads/2015/12/abeee...バルーフ・デ・スピノザ(Baruch de Spinoza:1632-1677) ・スペイン・ポルトガル系ユダヤ人(セファルディム

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「やっぱり知りたい!スピノザ」第一回(2015.10.24)於:GACCOH

筆;藤野 幸彦

スピノザとデカルト ― 17世紀オランダの諸事情 ―

➣バルーフ・デ・スピノザ(Baruch de Spinoza:1632-1677)

・スペイン・ポルトガル系ユダヤ人(セファルディム Sephardim)・バルーフは「祝福されし者」を表すヘブライ語。他にベントー(B e n t o:ポルトガル語)、ベネディクトゥス(Benedictus:ラテン語)とも。家名「スピノザ」は「茨」を意味するポルトガル語Espinhosaから。・生まれはオランダ(当時はネーデルラント連邦共和国)、アムステルダム・家業は貿易商:「アムステルダムのポルトガル人商人・1656年、ユダヤ共同体を破門(追放)される。・主著『エチカ』(形而上学・倫理学)・『神学政治論』(宗教論・信仰と思想の自由)  他『知性改善論』・『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』・『デカルトの哲学原理』・『形而上学的思想』・『国家論』・『ヘブライ語文法綱要』

    …生前に出版されたのは『デカルトの哲学原理』と『形而上学的思想』(1663)、『神学政治論』(1 6 7 0)のみ。『神学政治論』は出版地を偽り、匿名で公刊された(が、すぐにスピノザが書いたことは公然の秘密に。4年後には禁書処分)。死後まもなく、友人たちの手によって遺稿集が出版される(が、やはり1年と経たずに発禁となる)。

‣周辺事情① ポルトガル系ユダヤ人たち

・1478年 スペイン(当時はカスティーリャ王国)国王に異端審問官の任命権付与・1492年 スペインで大規模な改宗・追放令 → 12万の亡命者・1497年 ポルトガルで強制的な改宗 → コンヴェルソ(converso)、新キリスト教徒・1547年 ポルトガルに異端審問所の設置 → スペインに逆戻り、更なる亡命

*16世紀頭初頭から、低地地方へのユダヤ人の移住が始まる。 当初はアントワープ、後にロッテルダム、アムステルダムへ

‣周辺事情② ネーデルラント17州

・ブルゴーニュ領ネーデルラント(1384-1477):中世以来の都市が強い独立性を保つ・カール五世(在位:1516-1556)の下、スペインの属州に …ハプスブルク家の絶頂期

・16世紀中頃、カルヴァン主義の改革派教会がネーデルラントの主流派になる・フェリペ二世(在位:1556-1598)の治世で宗教的な弾圧。都市の特権が廃止される。

*いわゆる絶対主義の下で中央集権的な体制づくりを進めるスペインに対して、ネーデルラントはそうしたシステムに馴染んでいなかった。エラスムス(Desiderius Erasmus

Roterodamus:1466-1536)以来の人文主義の伝統、寛容の思想。‣周辺事情③ オランダ独立戦争とネーデルラント連邦共和国

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・1568年 プロテスタントの反乱 → オランダ独立戦争(1568-1648:八十年戦争)開始・1579年 ユトレヒト同盟(北部7州):各州の自治権と信仰の自由の原則・1600年頃 実質的な独立(ネーデルラント連邦共和国の成立)・1648年 ウェストファリア条約

*ネーデルラント南部はカトリックの影響も強く、スペインの支配下に留まる。その結果、プロテスタントの人々は北部に移住し、以降の経済発展の原動力となった。

‣周辺事情④ オランダ黄金時代とヨハン・デ・ウィット ・1602年 オランダ東インド会社設立:アジア貿易の覇権を握る・経済的な成長とともに、スペインからの独立の達成・1650年 ホラント州総督・オラニエ公ウィレム2世死去 → 無総督期(1650-1672)に  【総督】=議会により指名された各州の首長。7州ほとんどをオラニエ家が世襲。慣例的に陸海軍の総司令官にも任命されており、実質的な君主の地位にあった。

*ヨハン・デ・ウィット(Johan de Witt:1625-1672)・ホラント州法律顧問(1653-1672):事実上の最高指導者  当時のネーデルラントでは総督の権限を強化・中央集権化を図る総督派(オラニエ派)と、議会共和制を志向する議会派の対立があった。ウィレム2世の死後、デ・ウィットの下でネーデルラントは議会派が主導権を握ることになる。  この党派対立は対スペイン、対カトリックの主戦派であった改革派教会がオラニエ派に与し、また反改革派教会(レモンストラント派)が信仰の自由・寛容の観点から議会派に結びつくなど、宗教的な対立を巻き込んで複雑化していた。

*比較的寛容な立場に立つ議会派が権力を握る中で、ネーデルラントは黄金時代にあって殊更に思想・信仰の自由が認められる環境にあった。

➣デカルト哲学と近代科学‣ルネ・デカルト(René Descartes:1596-1650)・フランス生まれの哲学者:「近代哲学の父」・成人後の人生のほとんどをネーデルラントで過ごす。

‣近代科学の幕開けと科学革命 *目的論的自然観から機械論的自然観へ(「Hypotheses non fingo(我仮説を立てず)」:形而上学と自然学の分離)デカルトやスピノザは、近代科学革命の過渡期に位置付けられる。

・ニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus:1473-1573):『天体の回転について』

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・ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler:1571-1630):「ケプラーの法則」・ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei:1564-1642):『天文対話』(1632)・アイザック・ニュートン(Isaac Newton:1642-1727):『自然哲学の数学的原理』(1687)

・フランシス・ベーコン(Francis Bacon:1561-1626):『ノヴム・オルガヌム』(1620)…客観的な観察と実験、その結果からの帰納という新たな方法論。「経験哲学の祖」

・ロバート・ボイル(Robert Boyle:1627-1691):『懐疑的科学者』(1661)…近代的な実験科学の実践。「近代科学の祖」

Cf. 英国王立協会の設立(1660)、フランス科学アカデミーの設立(1666)王立協会の初代事務総長ヘンリー・オルデンバーグ(Henry Oldenburg :1618-1677)はスピノザの文通相手。ボイルの実験にスピノザがコメントを寄せたこともあった。

‣「方法的懐疑」と科学的思考 ・1562年 セクストゥス・エンペイリコス(Sextus Empiricus:2世紀から3世紀頃)の著作

『ピュロン哲学の概要』ラテン語訳の出版。懐疑主義の復刻・流行

・懐疑主義≠不可知論 「我々は何も知ることができない」という主張を含まない。独断的な原理(ドグマ)に対するアンチテーゼアリストテレス主義的な神学・自然学に対する批判(Ex.「実体形相」・「実在的性質」の放棄)

・アリストテレス主義的な神学・自然学  ギリシャ・ローマ圏へのキリスト教の流入以来、古代哲学の議論と結び付けてキリスト教を理解する試みが続く → アリストテレス的な枠組みの採用、議論の発展

【四原因説と質料形相論】 … 自然学(physica)と形而上学(metaphysica) 質料因 … 材料 形相因 … 設計図:「○○とは□□である」の「□□」(事物の本質・定義)に相当 作用因 … 実際に結果を引き起こすもの:作業や道具など様々 目的因 … 何のために結果は引き起こされるのか

  Ex. 一軒の家 → 質料因:木材その他形相因:施工図作用因:大工、大工の作業目的因:居住のため

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 *自然学から形而上学へ  質料因の遡及:家屋 → 柱 → 木 → 養分・水分その他 → 原子・分子? → ??  形相因の遡及:類と種、種差による定義

「人間(種)は理性的な(種差)動物(類)である」「動物(種)は動く(種差)生物(類)である」…「この人間」(個別者)は何であるのか? 「もの」(最高類)とは何か? という定義不可能なもの

  作用因の遡及:大工の作業 → 施工の依頼 → 依頼者への依頼 → ??  目的因の遡及:居住のため → 安全のため → 生きるため → ??

 「自然学では扱うことができないもの」を扱うのが「形而上学」  第一質料(形相と結び付いていない質料)・第一形相(質料と結び付いていない形相)の想定、不動の動者(第一原因)・究極目的の想定 → 神学との結び付き

  …これらがなければ事物が何であるのか理解できず、そもそも自然学は成り立たない   → しかし、そんなものが在るとどうして分かるのか(ドグマではないのか?)

 *独断論に陥らず、しかし不可知論を避けるためにはどうすればよいのか?   ここには、我々にはなにを知ることができるのか、という問いに加え、そもそも学問の可能性をいかにして保証するか、という問題が関わっている。

・デカルトの「方法的懐疑」

「…生き方については、ひどく不確かだとわかっている意見でも、疑う余地のない場合とまったく同じように、時にはそれに従う必要があると、わたしはずっと以前から認めていた…だが当時わたしは、ただ真理の探究にのみ携わりたいと望んでいたので、これと正反対のことをしなければならないと考えた。ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見極めねばならない、と考えた。こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。次に、幾何学の最も単純なことがらについてでさえ、推論をまちがえて誤謬推理をおかす人がいるのだから、わたしもまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、以前には論証とみなしていた推理をすべて偽として捨て去った。最後に、わたしたちが目ざめているときに持つ思考がすべてそのまま眠っているときにも現れうる、しかもその場合真であるものは一つもないことを考えて、わたしは、それまで自分の精神のなかに入っていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、とそして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した」(『方法序説』第四部より)

 → 「方法的懐疑」とは一度すべてに疑いを掛けることを通じ、絶対に疑いえない必然的

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真理に到達するプロセスのこと。「私は存在しない」ことの不可能性。「「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごとに、あるいは、精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である」(『省察二』)。

・デカルトの「実体二元論」

「どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないいとは仮想できない。反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。逆に、ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由も無くなる。これらのことからわたしは、次のことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体(物体)からまったく区別され、しかも身体(物体)より認識しやすく、たとえ身体(物体)が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と」(同 第四部より)

→ デカルトは、精神(魂)が属する領域を身体(物体)が属する領域から切り離した。このことは(逆に)物体が精神から独立した対象であることを保証するものであり、「自然科学」という学問の独立性を支持する。

・神の存在証明と真理

「「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの命題において、わたしが真理を語っていると保証するものは、考えるためには存在しなければならないことを、わたしがきわめて明晰にわかっているという以外にまったく何もないことを認めたので、次のように判断した。わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることはすべて真である、これを一般的な規則としてよい、ただし、わたしたちが判明に捉えるものが何かを見きわめるのには、いくらかの困難がある、と。   続いてわたしは、わたしが疑っていること、したがってわたしの存在はまったく完全ではないこと ―― 疑うよりも認識することのほうが、完全性が大であるとわたしは明晰に見ていたから ―― に反省を加え、自分よりも完全である何かを考えることをわたしはいったいどこから学んだのかを探求しようと思った。そしてそれは、現実にわたしより完全なある本性から学んだにちがいない、と明証的に知った。   …それを無から得るのは明らかに不可能だし、また、わたし自身から得ることもできなかった。完全性の高いものが、完全性の低いものの帰結でありそれに依存するというのは、無から何かが生じるというのに劣らず矛盾しているかだ。そうして残るところは、その観念が、わたしよりも真に完全なある本性によってわたしのなかに置かれた、ということだった。その本性はしかも、わたしが考えうるあらゆる完全性をそれ自身のうちに具えている、つまり一言でいえば神である本性だ」(同 第四部より)

「…われわれがきわめて明晰かつ判明に理解することはすべて真であるということ自体、次の理由によって初めて確実となるからである。神があり、存在すること、神が完

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全な存在者であること、われわれのうちにあるすべては神に由来すること。その結果として、われわれの観念や概念は、明晰かつ判明であるすべてにおいて、実在であり、神に由来するものであり、その点において、真でしかありえないことになる」(同 第四部より)

→ 神の存在とその完全性によって、デカルトは懐疑にかけた諸々の真理(論理的な真理、数学、幾何学的な真理)の回復を試みる。

・幾何学的自然観と感覚的知覚

「いうまでもなく私は、量 ―― 哲学者たちが普通、連続量と称しているもの ―― を判明に想像する。すなわち、この量の、というよりはむしろ、この量をそなえたもの、長さ、広さ、深さにおける延長を、判明に想像する。この量のうちにさまざまな部分を数える。それらの部分に任意の大きさや形や場所的運動を帰属させ、かつこの運動に任意の持続を帰属させる…これらのものについての真理は、あまりにも明らかであり、また私の本性とまことによく合致しているので、はじめてそれを発見するときでも、何か新しいものを学びとるというよりは、むしろ、すでに前に知っていたことを想起するかのように、すなわち、私のうちに前からあったのだがまだ精神の眼を向けていなかったものに、はじめて注意するかのように、思われるのである」(『省察五』)

「物質的事物は、純粋数学の対象であるかぎり、存在することが可能である。私はそれらを明晰に判明に認識するのだから、ということである」(『省察六』)

「しかし私は、純粋数学の対象である、この物体的本性のほかに、なお多くのものを想像するのがつねである。たとえば色や音や味や苦痛などといったものがそれであるが、これらはしかし、物体的本性ほど判明には想像されない。そしてこれらのものは、むしろ感覚によってよりよく知覚されるのであり、感覚から記憶の助けによって想像力にまで達したように思われる…」 「私の外部においては、物体の形や運動(筆者註:純粋数学の対象とはこれらを指す)のほかに、物体のうちに堅さや熱やそのほか触覚的な性質をも感覚した。さらにそのほか、光や色や香りや味や音をも感覚し、これらのもののさまざまな相違によって、天、地、海およびほかのすべての物体を互いに区別したのである。   また、感覚に知覚された観念は、私自身がすすんでその気になり省察をこらしてつくりあげた観念や、私の記憶に刻まれているのに私が目をつけた観念のいずれよりも、ずっと生き生きとして鮮明であり、また、それなりの流儀でずっと鮮明でもあるので、それらの観念が私自身からでてくるなどということはありえないように思われた。したがって、それらの観念は何かほかの事物からやってきたとしか考えられなかったのである。ところで、そういう事物について私のもっていた知識は、これらの観念そのものから得られたものにかぎられていたので、私の心には、そういう事物はこれらの観念そのものに似ているはずだ、という考えしか浮かびえなかったのである」(『省察六』)

→ デカルトは精神(今や確実に存在する「私」)と区別される物体的事物の本性を「純粋数学の対象」としての延長(長さ、広さ、深さを持つ空間的な広がり)として捉える。延長のない物体を考えることは不可能である。他方、ある物体の色、形、温度、匂い等が変化し、あるいは失われたとしても、物体は存在しうる。即ち、延長してい

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るということが物体にとって最も基礎的な性質(=本質)である、とデカルトは結論する。

   延長とは純粋数学の対象となる、いわば絶対的な空間のこと。諸々の物体とは、そうした空間における諸部分の配置や運動のパターンにより構成される対象だとデカルトは理解し、物体が一般に担うとされている色や形その他の性質もまた、こうした諸部分の配置や運動により説明されると考えている。

    すなわち、それによってある事物が当のものであることが説明される「実体的形相」はそれ自体として存在するものではないし、色や形その他の諸性質もそれ自体として存在する「実在的性質」ではない。 → ドグマの放棄宣言

➣デカルト哲学の諸問題 ‣実体二元論と心身合一

  デカルトは精神と身体が属する領域をはっきりと区別する(思惟属性・延長属性)。また両者をそれぞれ実体(substantia:それ自体で存在するもの)だと認めていた。一方、彼は心身の相互作用を自明の事柄と見なしている。

「…自然が私に何よりも明らかに教えることは、私が身体をもっており、そしてこの身体は、私が痛みを感じるときには、ぐあいが悪く、私が飢えや渇きに悩むときには、食べ物や飲み物を必要としている、などといったことである…自然はまた、それら痛み、飢え、渇き等々の感覚によって、私が自分の身体に、水夫が舟に乗っているようなぐあいに、ただ宿っているのではなく、さらに私がこの身体ときわめて密接に結ばれ、いわば混合しており、かくて身体と一体をなすことをも教えるのである。なぜなら、もしこうなっていないとするならば、思惟するものにほかならない私は、身体が傷ついたときでも、そのために苦痛を感ずることはなく、ちょうど舟のどこかが壊れた場合に水夫が視覚によってこれを知覚するように、純粋悟性によってその傷を知覚するだけであろうし、また身体が食べ物や飲み物を必要とするときでも、私はこのことをはっきり理解するだけであって、飢えとか渇きとかの混乱した感覚をもつことはないであろうからである。というのも、これら飢え、渇き、痛み、等々の感覚は、精神が身体と合一し、いわば混合していることから起こるところの、ある混乱した意識様態にほかならないからである」(『省察六』)

  こうした感覚に限らず、もっと単純に「手を上げようと思えば(実際に)手が上がる」というようなことを考えてもよい。ここで問題となるのは、「属する領域が厳密に区別される」精神と身体が、いかにして相互に作用しうるのかということである。延長を持たず、従って大きさも無ければ重さも無く、位置も持たない精神が、なぜ身体を動かすことができるのか。デカルトが唱えた心身の合一は、確かに我々が日常的に抱く実感に合致しているが、他方で方法的懐疑の成果である「心身の区別」との整合性は難しい。  これがいわゆる「心身問題」であり、今も「心の哲学」という領域で議論が続いている。加えて、この問題は更に次のような問題を含んでいる。

・なぜ「この身体」だけが私の精神と関係を持つのか(あのスプーンは曲がらないの

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に)?

・心身の相互作用は、自然法則の再現性と両立しうるのか? 人間の自由や責任の問題

‣延長ないし物体の分割・区別の問題

 【難解注意】デカルトは、空間と物体的実体を事柄として区別しない。

「…物体の本性を成す延長と空間の本性を成す延長とが同じものであり、この二つが相互に差異がないこと…即ち、或る物体例えば石について我々の有つ観念に注目して、物体の本性に必要ではないと認識する一切のものを、そこから捨てて行くのである。即ち、まず堅さを捨てる、なぜならば、もし石が熔解し、もしくは極めて微細な粉末に分割されるならば、堅さは失われるが、しかしその故に、物体であることを止めるわけではないからである。また色をも捨てる、なぜならば、我々はしばしば石が全く色がないほど、透明であることを見ているから。重さを捨てる、なぜならば火は最も軽いものではあるけれども、その故に物体でないとは思われないから。そして最後に、冷たさ・熱さその他すべての性質を捨てる、なぜならば、それらは石のうちに認められないか、或いはそれらが変わっても石が物体の本性を失うとは思われないか、いずれかだからである。かようにして我々は石の観念のうちには、長さと幅と深さの拡がりを有った或るものであること以外に、全く何も残らぬことに気付くであろう。そしてこの同じものが、空間、単に物体で充たされた空間のみならず、空虚と呼ばれる空間についても、その観念のうちに含まれるのである」

(『哲学原理』第二部・11節)

  物体の本性は、延長を有することに存する。これを突き詰めると、延長を保持する限りで物体は存続することになる。そして、延長以外の全てを捨て去った物体は、もはや空間とは区別されない。逆に言えば、延長があるならば、そこには既に何か物体が在ることになってしまうのである(!)。  この結果、デカルトは空虚(vacum:真空)を否定することになる。空虚を「何も物体が存在していない空間(=延長)」と考える限り、これはデカルトにとって矛盾となるからである。  ここで生じる問題の一つは、デカルトは如何にして空間内に物体が存在することを説明するか、という奇妙なものである。デカルト自身は粒子論的な立場、微小物体(particula)の配置や運動によって日常的な物体(机・紙・ペンその他)の存在やその性質を説明するが、しかしそもそもこの微小物体が「それぞれに区別されて存在していること」が説明できないのである。  勿論デカルトは、物体的事物は相互に区別される、とはっきり述べている。「我々が現に延長的即ち物体的実体の観念を有っていることだけから…我々によって限定されたその各部分が、同じ実体の他の部分から実在的に区別されていることも確実なのである」(『哲学原理』第一部・60節)というのがその箇所である。「実在的な区別 distinctio realis」とは、「一つの実体を他の実体なしに明晰判明に理解できる」ことであり、実体として区別できるということだとされる。  デカルトのモデルとは、延長空間内に(延長とは区別されない)微小な物体的実体が充満しているという、そうしたものである。しかしこれら微小物体は、それが延長されると

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いう限りでは区別されえない。それらは「同じ延長」だからである。(同じ延長でも位置が違うだろう、という反論にはあまり効果がない。その場合は、運動する微小物体は位置が変わるたびに違う微小物体だということになり、いずれにせよあまり常識的とは言えない帰結を招くのである。) デカルトの体系はそれによってある事物が当の事物であることを説明する「実体的形相」を否定するが、それに代わって事物の個別性・個体性を担保する原理を欠く。この点は、彼が批判した神学者たちからも指摘されたものである。これは哲学史的には「個体化の原理」の問題として言及される。

 *スピノザの形而上学は、まずデカルトに対する批判・解答として捉えると分かり易い。

 (この内容は第二回講座「スピノザの形而上学」にて)

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➣17世紀オランダの哲学事情 ‣哲学と宗教・理性と信仰の線引き問題

 デカルト哲学と神学の衝突  「実体的形相」と「実在的性質」の否定 → アリストテレス主義的な神学の否定  自然法則に従う延長世界の措定 → 神による奇跡との両立の問題

 デカルト自身は宗教的な問題にはかなり慎重。「神的権威はわれわれの認識に優先すべきである。しかしそれを除いては、認識されたこと以外に同意するのは哲学者にふさわしくない」(『哲学原理』第一部・76節) → しかし、どこまでが哲学の領分で、どこからが神学の領分なのか?

*二重真理説  理性の真理と信仰の真理を区別し、仮に理性と信仰が矛盾する事柄を主張したとしてもその両方を真理として認める立場。13世紀にアヴェロエス(イブン・ルシュド:イスラム圏の哲学者。アリストテレスの注釈で有名)の説を基に成立したラテン・アヴェロエス主義の中で成立した。異端。

‣マッピング ― オランダの諸事情

政治 議会派(ヨハン・デ・ウィット) ⇔ 総督派(オラニエ家)

宗教 広義のレモンストラント派 ⇔ 改革派教会(カルヴァン主義)

哲学新哲学(デカルト・デカルト主

義)⇔ アリストテレス主義

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リベラル派 保守派

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➣スピノザとその周辺 ‣フランシスクス・ファン・デン・エンデン(Franciscus van den Enden:1602-1674) スピノザのラテン語教師。スピノザの破門の前後(1654年頃?)から交流が始まる。急進的な民主主義者であり、平等主義者(デ・ウィットは彼自身が貴族階級だったこと

もあり、あくまで共和主義者に留まっていた)。フランス王家に対する陰謀の廉で逮捕・処刑される。ルイ14世を廃位し共和主義政府を

打ち立てようとしていた。

‣アダム・ボレール(Adam Boreel:1603-1667)  無教会主義の一種であるコレギアント派の創始者の一人。彼らは教会を持たず「コレーゲ college」と呼ばれた会合で聖書の研究会を行っていた。一般に平等主義かつ非権威主義的な集団であり、ボレール自身も信仰に関する全ての人々の自由と平等を掲げていた。しかし、コレギアント派は三位一体の教説を否定したソッツィーニ派の流れを汲んでいたり、また創造者としての神は認めても奇跡による神の介入は是としない立場(理神論)を取っていたりと、当時の異端思想であったことは疑いない。  スピノザと直接に知り合いだったという確証はないものの、スピノザがコレギアント派の会合に通っていたことは間違いなく、また前述のオルデンバーグもボレールとは親交があった。

‣アドリアーン・クールバハ(Adriaan Koerbagh:1633-1669)  ファン・デン・エンデンのラテン語学校、またライデン大学で共に学んだスピノザの友人の一人。彼も民主主義者であった。『百花繚乱の園』、『暗闇で輝く光』等の著作の中で聖書の神的起源を否定し、また聖書における真理の把握のためには人間の理性の他は何も必要ないとした。また、迷信的な儀式や慣習に代表される宗教の非合理性を攻撃し、三位一体の教説も否定している。  著作の内容は『エチカ』と『神学政治論』と重なる主張を多く含み、明らかに彼は出版前の草稿を、それもかなり丹念に読んでいた。上記『暗闇で輝く光』の印刷中、出版者により当局に通報され、逮捕された。後に獄死している。尋問では彼の著作とスピノザとの関係が疑われた。『神学=政治論』が匿名で出版された事情はこの事件が絡んでいると推測される。

‣ロデウェイク・メイエル(Lodewijk Meyer:1629-1681)  スピノザの友人の一人。クールバハとはライデン大学で同学部にいた。『デカルトの哲学原理』の序文を執筆し、また遺稿集の編纂にも関わった。スピノザの死に立ち会った医者は彼であると考えられている(異説あり)。まず間違いなくスピノザの最も親しい友人の一人だった。  彼自身は『聖書の解釈者としての哲学』という書を著しており、聖書は理性によって解釈されるべきと主張した。クールバハや彼の立場は、理性を信仰に優先する点において、デカルトよりもはっきりと急進的な位置にある。‣マッピング ― オランダの諸事情+スピノザ周辺

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➣「私は神から始める」 ― スピノザ哲学の核心

  「一般的な哲学者たちは被造物から哲学を始める。対して、デカルトは精神から始めた。そして私は神から始める」

 何故(よりにもよって)スピノザが神から始めるのか。スピノザが語る「神」とは何か?

政治

民主主義者・平等主義者(ファン・デン・エンデン) 議会派 ⇔ 総督派

宗教

コレギアント派(ボレール)(クールバハ)

レモンストラント派 ⇔ 改革派教会

哲学 スピノザ? 新哲学(デカルト) ⇔ アリストテレス主義

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