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Title 沖縄島南城市における生物文化に関する聞き取り : 知念 盛俊氏に聞く Author(s) 当山, 昌直 Citation 沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Date 2016-03-25 URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/20485 Rights 沖縄県教育委員会

HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

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Title 沖縄島南城市における生物文化に関する聞き取り 知念盛俊氏に聞く

Author(s) 当山 昌直

Citation 沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THEHISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39) 21-72

Issue Date 2016-03-25

URL httphdlhandlenet205001200120485

Rights 沖縄県教育委員会

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

沖縄島南城市における生物文化に関する聞き取り

知念盛俊氏に聞く

当山 昌直

はじめに

沖縄の人々は島の自然とともに生きそして身の回りの生きものを利用しながら暮ら

してきた生きものの利用とともに生きものと人との間に文化を生み出したこれらは

生物文化といわれ(1)

長年自然との関わりのなかで培ってきた動植物の方言をはじめそ

の利用方法などは沖縄の人たちの遺産ともいえようしかしながら沖縄に関して未調

査の部分が多くよく知られていないのが実情である

松井(1975)は昭和 10 年生まれ前後を境に方言語彙等の知識にギャップがあるこ

とを報告しており昭和 10 年生まれ以前は語彙が豊富でそれ以後になると大きく減少

するというつまり昭和 10 年生まれ以前の方々が亡くなると沖縄の多くの生物文化の

遺産が無くなるということであるこれはおよそ半世紀前の調査に基づく指摘ではある

がこれまで県内各地で動植物方言調査を実施してきた筆者は同様な危機感を持ってお

り調査を急ぐ必要性を痛感していた

今回沖縄島南部の南城市佐敷字屋比久の知念盛俊氏(昭和9年生図1)に動植物の

方言およびその利用について調査をする機会があった知念氏は佐敷字屋比久の出身で

戦前県庁に勤めていた父親の関係で那覇に住まれたこと

もあったが沖縄戦の十十空襲を機会に実家がある字

屋比久に戻ってきた沖縄戦の一時期沖縄島金武村に

避難していたが戦後はずっと屋比久で暮らした琉球

大学生物学科を卒業後高等学校生物教諭を務めた教

職のかたわら戦後の沖縄貝類研究の先駆的な研究をさ

れ沖縄の動植物に詳しいさらに自らの体験を科学

TOYAMA Masanao An Interview on Bioculture at Nanjo City Okinawa Island(1)ensp 沖縄の生物文化については当山 (2015) を参照 当山 (2016) は 生物知識と称し ほぼ同じ意味で取り

扱っている

図 1 知念盛俊氏 (2016 年 2 月 自宅書斎

にて)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

的な視点で整理しており動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

とで大変貴重であるまたは生物の知識など筆者の勉強不足の面もカバーしてくれ調

査の精度をあげてもらった今回はその動植物の方言およびその利用(生物文化)につ

いて調査した結果を報告する

本稿をまとめるにあたり調査に協力していただいた知念盛俊氏に感謝しますまた

田口恵氏には録音された資料を整理していただいたこの調査はJSPS 科研費(課題番号

26923003)の助成を受けて実施したものであることを記し謝辞とします

1調査方法

調査は沖縄島南城市佐敷字屋比久の知念氏自宅において2015 年3月 21222830

日の合計4日間実施した1日の調査時間は体調を考慮して約2時間を限度とした

聞き取りの方法はタブレット端末を使用してパワーポイントにより動植物の写真をみ

せこれらの方言名とその利用や言い伝えなどについて教えてもらった加えて古い写

真についても生物利用の視点から解説していただいた会話の模様はICレコーダーに記

録をし後日テキスト化を行った

2調査結果

聞き取りした内容を動物と植物にわけそれぞれの種類ごとに衣食住等の利用を中心

に整理し同時に方言も一緒に記したインフォーマントの回答はなるべくそのまま記す

ようにし(2)

方言の部分は分かりやすいようにルビのかたちで漢字を含んだ標準語を振っ

たまた理解しやすいように内容を変えない範囲で手を加えた加えて話の流れがわ

かりやすいように冒頭に見出しまたは筆者の質問を入れその部分を《 》で示した

本稿では外来語や和名などのカタカナと区別するため方言を太文字動植物方言を下線が

付いた太文字で示したこれらの結果をもとに再度確認の聞き取りを行ったまた知念氏

本人にも原稿をチェックしていただいた

(1)動物

動物を食べる ヌマガエル

《どのような動物を食べましたか》バッタとかセミなんかを食べるというのは遊びです

よ特にバッタとかは日常的に食べているのはアタビー(ヌマガエル)ですヌ

マガエルとクマネズミヌマガエルはまずアカエルを叩きに

タビースグイガといっていた

(2)ensp 知念氏の話はいわゆる 「ウチナーヤマトゥグチ」 (標準語で話しているが 言い回しは方言になっている) になっているところが多いが なるべくそのまま載せるようにした

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

アカエルをとりに

タビートゥイガではなくアタビースグイガといって長い竹をちょうど蠅叩き

みたいに使う竹はチンブク(ホテイチク)ではない笊を作る竹シマダキ(ホ

ウライチク)があるだろ僕の伯父が使っていたのは15 mくらいのシマダキの

先をくだいてその先をひらいてこれで叩くわけアタビーを蠅叩きみたいにね

とりにいくのは夜じゃないよ朝早く田んぼの畔から歩きながらね田んぼの中に

は入らないで畔を歩きながらアタビーを叩くわけ

《調理方法》田んぼからとってきたら普通は腹わた出して熱いお湯に入れてそし

て皮をむくんですよそのあとは刻んで食べる(3)

頭も含めて全部食べたもう油

で炒めるなんて贅沢ですよだから刻んで汁のだしにした骨があるでしょ炊い

たら簡単にコリコリと折れるまた刻んだらわからなくなるので簡単に食べられる

そんなに刻むといっても粗くしか刻まないそれからあまり大きな骨はないからね

幼児を救った動物たち ヌマガエルやネズミなど

《幼児の栄養源》昔はメーニンナシというのがある産後の制限ができないで今年も

産んでその次年も産んでそれで前の子が手が離れないうちに次の子が生まれ

るそうすると前の子は栄養失調なるわけだからカエルをとってきてあげた

りタコをとってきてまたは買ってきてカマドの上に頭のところをさげておい

て乾燥させてあげた燻製みたいな感じですねそれを切ってしゃぶらせるタコ

はものすごく消化がいいしタンパク質の栄養化も高い調理もいらないので簡

単さだからムシチワラバー(4)

の元気づけるのはこの辺(5)

ではタコですよそし

てタコがとれないまたは買えないところはカエルもちろん金のあるところは

ちゃんと乾燥してない生鰹があるあれをしゃぶらせるわけこれは金のあるとこ

ろだが金のない貧乏人とかハルサーとかはタコですよタコは普通海でとれるタ

コであればよかったもちろんイカでもいいんだけどタコの方がボリュウムがあ

るさカマドの上のタコははじめは乾燥が早い足から子どもに切ってしゃぶらせ

る弟妹ができたために兄姉はおっぱいが飲めないから栄養が行き届かな

いで痩せてしまうタンカー誕生一年ぐらいの子どもは栄養失調だから方言で

ウ(直訳弟妹見痩せ)

ットゥミーヨーガリームシチカカト-ンとか言っただからタコなんかあ

げよったよアタビーももちろんあげるけどそれからネズミなんかもあげた

(3)ensp戦前の那覇市におけるカエルの調理方法の聞き取りについては当山 (2002) に報告されている

(4)ensp 栄養失調で痩せている状態 元気のない状態に加えて 腸内寄生虫におかされている状態の子どもをいうムシチャーともいう (知念盛俊氏による)

(5)ensp知念氏の 「この辺」 はおおよそ南城市佐敷字屋比久周辺をさす

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ハ畑のネズミ

ルエンチュは芋しか食べてないから上等さヤ家のネズミ

ーエンチュは食べなかった(6)

ハルエンチュの捕獲と料理方法

《ネズミの捕まえ方》ハルエンチュはパパチンコのネズミ取り

ッティカサーがあるさあれで捕ってきたもの

を皮を剥いで焼いてから腹わた出して両足や尻尾はとってだいたいお汁に入

れたりした肉をとるなんていうのは難しいですからねだけど小さな子どもに

は炊いてから肉を一つずつとってあげる発展途上国でもどこでも子どもの死

亡率が高いですよねカエルやネズミなどはある意味では子どもの命を救ったも

のです

《マングース》マングースもそうですよマングースヤ罠

ーマといって仕掛けを引っ張っ

たら落ちるようになっている箱を作ってウサトウキビ

ージ畑とかその辺においておく(7)

マン

グースをとったらそのまま開けたら逃げるから箱ごと池に入れて窒息させるわ

けですよそれから料理する(8)

ネズミと同じような感じで料理するお汁なんか

にして味はウサギと同じですよネズミよりボリュウムがあるけどネズミみたい

にたくさんはとれない

《それは戦後ですか》戦後しばらくいや戦前もとっていた戦後はもうなんでも

かんでも食べてますよ戦争終わって一番苦しかったのは一年ぐらいです

《他の地域でもマングースを食べていましたか》食べていたと思うよ1945 年(戦争中)

はいくら艦砲があっても畑には芋もあるしサトウキビも残っているので飢え

はしのげたがその芋を食べたあとは植えてないわけだから戦後まもなくは

食糧がなくなってスーティーチャー(ソテツ)などを食べて飢えをしのいだ

泥を使って調理する

《芭蕉と泥を使う》ワ私たち

ッター子どものころは近くの海に行って魚をとった魚をとった

らヤーサドゥアクトゥすぐ食べる食べる方法は芭蕉の葉でくるんで次に泥で

包んでそれをそのまま薪の中に入れる

《泥はどれくらいの厚さですか》泥はタ田んぼの泥

ードゥルで魚に泥がつかないように包んだ

バナナか芭蕉の葉がなかったらユーナ(オオハマボウ)の葉それからンバシ(ク

ワズイモ)の葉ああいう物で包んでその上を泥で包む泥はちょっと固めの

(6)ensp棲んでいる所によって呼び方が異なるが いずれもクマネズミと思われる (当山 1989)

(7)enspおおよその箱の大きさ等について聞いたところ次のとおりであった 罠の入口は30cm times 30cm ぐらい 奥行きは 50cm ぐらいでちょうど大きなネコが入るぐらいの大きさの板の箱 蓋と餌の仕掛けとの間はヤマダキを天秤のようにして箱の上にセットした マングースが仕掛けに触れると 落とし蓋が本体の溝からスライドして落ちるようになっていた 餌はネズミなどを使用した 時々 ネコも罠にかかった

(8)ensp マングースを食べたことについては知念 (1995) を参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ものでないといけないそうやってちょうど炊

けるころになったら泥がポロポロ落ちてくる

泥が落ちてきて葉っぱが見えてきたらもう

炊けてる

《これは昔からある方法ですか》昔から大人が

やったかどうかはわからんけど終戦直後

ヤひもじい思いをしているからねー

ーサドゥアシェーヤーワ子どもたち

ラバーターどうし

でやった西表島調査の時魚をとると若い連

中はすぐ串で刺して焼く串刺ししたら周囲が黒焦げですよねそうじゃなくて

芭蕉と泥で包む方法で焼かせた若い連中がびっくりしていたよ今はアルミホ

イルがあるけどアルミホイルも焦げたりするこれは全然焦げないね芭蕉の

葉っぱの水分があったりするからガサガサにもならないしホンワカして炊ける

西表では芋もそんなふうにしてやった芋は簡単ですよ芋はなにも包まないで

生の芋に泥を塗るんですよ

《芭蕉を使った方がいいんじゃないですか》まあ使った方がいいけどどうせ芋は皮

をむいて食べるんだから芭蕉で包んだりしなかったですよ

貴重な食料だったオキナワウスカワマイマイ

《食用にしたカタツムリの種類》沖縄島南部ではオキナワウスカワマイマイ(図2)と

パンダナマイマイを食べていたがウスカワマイマイが多かったパンダナマイマ

イはウスカワマイマイに比較すると固く数も多くはないウスカワマイマイが

柔らかくて一番食べやすい

《どのようにして食べましたか》チかたつむり

ンナン(ここではオキナワウスカワマイマイ)

はカ芋

ンダバー畑にいっぱいいるそれを畑からとってきたら上等の芋をちゃ

んと洗って生芋の皮がついたまま輪切りにしてザルに入れその中にチンナ

ンを入れ芋を一週間くらいチンナンに食べさせる一週間したらウ芋の糞を

ムグス

マ排泄するわけ

イルバーテーそしたらチンナンの消化器は掃除され芋のアンコみたいに置

き換わるわけよだからウムグスを出したらそのまま炊いても中は消化途中

の芋しか入ってないことになるこれをお爺さんお婆さんは当然のようにやっ

ていたこの利用方法が僕が一番感心している昔の人たちの生活の知恵

《調理方法は》ウスカワマイマイ(チンナン)をそのまま茹でてそれから中身を抜く

口から消化管は胴体にあって筋肉になっている足のところの筋肉は残して渦

図 2 オキナワウスカワマイマイ (城間恒宏

撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

巻きの内蔵で肝臓などは切り捨てる消化管には芋が残るそのあとウスカワ

マイマイはアメリカマイマイみたいにはよだれはあまりないが一応カマドの

灰なんかで洗ったりした灰で洗ってそのあとはア油味噌

ンダインスー(9)

の具にしたり

切ってからお汁のだしにしたりした

《どのような食べ方がありましたか》アンダインスーはおいしい普通はアンダインスー

には三枚肉を入れるが三枚肉なんていうのは時間がたつと固くなるチンナ

ンの身はあまり固くならないわけアンダンスーの具として1匹を3つか4つ

ぐらいに刻んで入れる戦後は僕もよく食べたおいしいですよ昔は酢醤油み

たいな上等のはないよ昔は別の家はわからんけど僕の家では味噌汁のだし

なんかにも使うけど主にアンダンスーでしたね

戦後に広がったアフリカマイマイ

《アフリカマイマイを食べましたか》戦後はアフリカマイマイをよく食べたが固いんで

すよアフリカマイマイは普通アンダンスーにしないな汁のだしなんかにした

このおかげで沖縄の人はタンパク質不足にならなかったんじゃないかな終戦直

後はたくさん食べたよ(10)

いやいやながら食べたというよりはもう生きるために

また終戦直後は今よりもたくさんあった写真にもあったけど1トントラックに

いっぱいとかまた移入して入った時期というのは貝殻も厚くて大きかったみ

たい終戦直後アフリカマイマイを刻んでおつゆに入れて食べましたよ少ない

けど自分らでつくる味噌を使用した薄い味噌汁に芋と一緒に入れた

《戦前からいたのですか》昭和 18 年か 19 年ころタイワンチンナマーといって金出し

て買ってねソ素麺箱

ーミンバコに入れて芋なんかを入れて子どもたちが養っていた

んですよ方言でタイワンチンナマーともショクヨウチンナンともいうタイワ

ンチンナマーは台湾から入ってきたからといってるんですけど戦前は僕も父

親にせがんで二つ買ってもらった昔はソそうめん

ーミンが入っていた板の箱(ソーミ

ンバコ)があるんですよねそれに入れて野菜のくずなどを一緒に入れて養った

食べるために養うじゃなくてこれが卵を産んで孵化するのを楽しみにしてた

ですよだから戦前は食べてないですよまた戦前からいっぱいいたわけでは

なく増えたのは戦後ですよ戦争の時に子どもたちが飼育していたのがみんな

逃げ出して田畑いっぱいにひろがっただから現在は少なくなったけど終戦後

はいっぱいあったんですよそれで戦後中南部ではアフリカマイマイが一番

(9)ensp味噌を方言でインスと呼ぶ (知念氏より)

(10)ensp戦後 アフリカマイマイを食べたことについては 知念 (1995) にも詳しく記されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のタンパク質源となった

カタツムリの喧嘩遊び

《カタツムリの喧嘩遊びに使う種類》オ喧嘩遊び

ーラセーに利用

するのはシュリマイマイシュリマイマイが大き

いからパンダナマイマイのような小さなマイマ

イは握り難いわけまたウスカワマイマイは

使ってない殻が少し柔らかすぎてそんなに丈

夫じゃないしそれに小さいし丸っこい僕ら

はシュリマイマイしかやらんかったただヤマ

タニシの殻は固いのでインチキして隠しておく

オーラセーの時に急にヤマタニシを出してポ

コッと相手の殻を割ったりするそれから子ども

の頃のジ知恵

ンブンだけどオーラセーには死んだあ

との殻を使い生きてるのは使わない中味が

入っている生きたのが強いからそれをインチキ

して使うまたジンブンのある連中は非常に

細かいニービ(11)

をさらに細かくして殻の渦に入れてその中に水を入れるそして

殻の底で沈殿して固まり渦巻いてるところを見ても表面からははみえないように

なっているそうするとね空の殻よりも土が入っている殻が強いわけさワ私のが

ームン

が一番チ強い

ューサンというようなことでオーラセーをやってねあとでインチキがば

れたらメげんこつ

ーゴーサーこれは南城市屋比久近辺の話だが僕は那覇市の楚辺小

学校にも一時期居たことがある楚辺近辺でもやっぱりシュリマイマイだったシュ

リマイマイ以外に使ってないんじゃないかな

《喧嘩遊びの方法》喧嘩させる時はこうして握る(図3)パンダナマイマイなんて小

さいから握れないけどシュリマイマイだったら握れるわけさ次に[両手で握手

をするように]お互い同士で握って殻頂と殻頂をあわせそしてお互いに殻頂

がずれてないかどうか確認して[合わせた殻頂に圧力がかかるように]押すわけ

さ(図4)ところが殻の頂点からずらしたところは弱いのでユ欲張り

ークーはわ

ざと自分の頂点をずらして相手の弱いところに当てて急に押すそしたら勝つ

というインチキをするわけさタ誰が

ーガ一番チ強いのを持っているか

ューバームッチョーンってなった時

(11)ensp沖縄島南部にみられる島尻層群中の小禄砂岩のこと

図 3 チンナンオーラセーの握り方を実演

する知念氏

図 4 チンナンオーラセーの戦わせ方を実

演する知念氏 (相手側)と筆者 (手前

左手で写真撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

にねまた強くするといってア油を付ける

ンダグヮー

チキーしたけど強くはならなかった

マルタニシやフナを食べる

《アフリカマイマイが入る前の様子》戦前はアフリカ

マイマイが入ってくる前に食べているのはおそら

くほとんどがウスカワマイマイですよそれと

ターンナ(マルタニシ)ターンナはいつも稲刈

りが終わって田んぼを耕す時にとるあのころは

農薬もなにも使わないからいっぱいいましたよこの辺では一年中いつでも食べる

わけじゃなくて稲刈りの時にとってフナもその時ですよその時はだいたい一

網打尽那覇市場にはシ滋養強壮食

ンジムン用として出ていた

ハブと貝

《ハブは食べましたか》ハブはあまり食べるものではなかったただね傷薬としてハ

ブの油を使っているカマの傷などに傷薬としてそれを塗るハブを捕まえた

ら油をとって塩漬けした塩漬けをいろんな容器には入れるけどさ今みたいに

ね小さなビンとか容器とかがたくさんあるわけじゃないわけ昔リョウフとか

いうゼリー状の塗り薬があってその容器とかまたハマグリの蓋をあわせたも

のに入れたりなんかして保管をしたんですよつがいになったリュウキュウサルボ

ウ(図5)もよく使った油は持ち歩かないのでア豚油の塩漬け

ンダマースはこれに入れたんで

すよアンダマースは破傷風よけさ豚油にたくさん塩を入れたもので傷口が

ふさがらないように傷口からいつでも汁が出るようになっている結局浸透圧だ

よね傷口が乾燥したら困るわけでジャクジャクしていたら破傷風菌が発生しな

いわけさだからアンダマースはリュウキュウサルボウにも一緒によく使ったわけ

さアンダマースを入れるのはこの種だけじゃないからだいたいリュウキュウ

サルボウのサイズこれより大きいやつも使わないしこれより小さいやつもほと

んど使っていないイソハマグリとかいろいろあるけどもうこの程度(リュウキュ

ウサルボウの大きさ)ですねリュウキュウサルボウはハマグリよりも深くて詰め

やすいんですよこれも昔の人の知恵ですねアンダマース入れたりハブのアン

ダとか容器がたくさんあるという時代じゃないけど貝を紐で口をしばったりす

る必要はないちょうつがいがありますからねこのように二枚貝を使ったわけさ

魔除け

図 5 ハブの油やアンダマースを入れた

リュウキュウサルボウ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《魔除けの貝について》貝だったらスイジガイだけどクモガイも使う屋比久でもやっ

てましたよフ疫病返し

ーチゲーシといってゥワ豚小屋

ーヌフールだとかにぶら下げてねフー

チというのは伝染病さ昔の家には玄関はないさだから門や入口だとかにぶら

下げたりなんかして屋比久では今でもスイジガイだとかクモガイだとかあちこち

ぶら下がってる所もあるはずですよ

《シャコガイは使ってませんか》魔除けとしてシャコガイはこの辺では使ってないけど

奄美大島に近い所はよく石垣の所に飾られていますね沖縄ではよく津堅とか

久高あれはね地べたに埋める所もあるんですよ足を挟むといってよく人

が歩く所にだとか門の所の下に埋めておいて悪霊などの足を挟むとか魔除

けみたいなもの

(2)植物

染料

《染料はどんなのを使いましたか》染料としてよく使ったというのはサキシマスオウノ

キ方言ではウマヌタニギーまたはアカズミーギーともいう赤い色に染めるよ

サキシマスオウノキの皮を使う皮をはいで細かくして煎じ汁だったかどうか

わからんけどさとにかくシンメーナービー(大きな鍋)で炊いていたと思う初

めは赤いというより橙色みたいなんだけど染まった時には赤くなるわけこの

辺でやっているのをみたことがある詳しくはわからんよとにかく子どもの時に

みているだけだからサキシマスオウノキはどこでもあるっていうわけではないか

らなこの辺は川や湿地帯がありハマジンチョウが生えるぐらいですからサ

キシマスオウノキは多かったですよ方言では子どものころは種子が馬の睾丸

に似ているというウマヌタニギーといった年寄は赤く染めるという意味のアカズ

ミーギーといっていた

《昔は芭蕉布を染めたんですか》私が見たのは芭蕉じゃなくて木綿ですよ白い布で

すよ帯をつくったりするとかは戦前ですよ戦後は食糧難でその辺の話はよ

くあるけど染めて着けるとかという話はあまりきかない

《シャリンバイは佐敷にもありましたか》あったんだけど僕なんかは染物に使ってい

るとかなんとかいう話は覚えてないし知らない大きくなってからは染物に使っ

ているとかいう話は聞いたことはあるけど実際はわからん実を食べたりとかい

う話はあんまりないなシャリンバイはざらにあるやつではないよな

《フクギを染料に使いましたか》ここでも黄色い染料として使ったですよ染めるのは木

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

綿ですよ皮を煎じてね実を使ったかどうかはわからんですよほかの用途とし

ては屋敷林は普通

《実は食べましたか》臭くてここでは食べない屋敷林としてもよい防風林防潮

防火とかこれは火にも強いんですよ

《材木として使わなかったのですか》建材としての記憶はないこの辺では建材といっ

たらイーク(モッコク)とかチャーギ(イヌマキ)ですよここには何年も植

えておくような土地がないでしょ一応チャーギなど屋敷に植えてはいるけど

建材はやんばるからの輸入ですよ

リュウキュウバショウ 包み物や熱冷ましにも利用

《芭蕉は各家庭で織っていましたか》ほとんどの家庭で織っていた芭蕉自体にウーといっ

ていただいたい植えている所はヤ屋敷の後ろ側

ーヌクシーですよ

《ヤーヌクシーで足りましたか》あのころ糸を作るのもあるけど包装紙の代わりも

やったんですよまたイ味噌甕

ンスガーミの味噌を発酵するときカ甕

ーミの蓋の上を

芭蕉の葉を炙って被せる炙るのは葉をやわらかくするため逆に葉をそのまま

使用したら破ける火に炙ったら柔らかくはなるけど簡単には破けないだか

ら弁当を包むのもそれでやったですよ普通芭蕉の葉は横にちょっとひっぱると

スーと切れるんですよね炙るとそういうのがなくなるだから僕の印象として

はバサージンを作る糸をつむいでというのもわかるけど日常的によく使っ

ているというのはカーサ弁当ですよ握り飯のようなものにアンダンスー入れて

包んで持ったお祝いの時にムチウンブーといって竹で作った平たいザルみた

いなのがあるでしょ芭蕉の葉を炙ってからそれに敷いてその上に餅やカステラ

または焼き豆腐を置いたりなんかしているそういう日常的によく使うから家

屋の後ろに植えるやんばるの喜如嘉みたいに何百坪ではなくてここは小規

模でそんなに植える所はなかったここでは芭蕉の織物は主な仕事という

よりは片手間でやっていた

《昔は機織り機はありましたか》機織り機はありますよ座って織るジ地機

ーバタとか

タ高機

カハタというのはちょっと[座る位置が]高いというのがありますね

《各家庭何割ぐらいありましたか》屋比久だったらそうですねそんなに多くはなかっ

たと思うけど半分半分もないんじゃないかだいたいそれをやる所は余裕の

あるところですよそれと若い娘がいるところ

《オジーオバーはやらなかったのですか》オジーオバーは目がダメだよな首里では

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

老眼鏡かけてやったりするはずだけどここでは娘がやっていたんじゃないかな

《芭蕉の茎を熱冷ましに使わなかったか》使っている幹をとってきて皮を剥いで白

くなったところをまた一枚一枚剥いでこれをすりこぎみたいなボ棒

ーグヮーで叩

いて汁ジャカジャカーする

《剥いだのを叩くんですか》そうジャカジャカーして汁がでてくるのを重ねて枕に

するとか子どもだったら敷いてからその上に背中から寝かせるとかで熱さま

しにした

《飲ましたりしましたか》飲ますんじゃないよ

《葉に寝かせたりしましたか》ここでは葉は使わなかったですよ

《那覇ではその汁で背中をふいたらしいです》それあるかもしれんこちらはそうじゃ

ない汁ジャカジャカーしたのを敷きその上に寝かすわけですよ効果満点

ヒラミレモンの利用と語源

《ヒラミレモンの方言を教えて下さい》方言ではシークヮーサーですよ

《どんなのに使いましたか》食べることとあと芭蕉布に使うシークヮーサーという

名前の通り着古した芭蕉布は繊維がゆるゆるになるさシークヮーサーの汁に

つけると繊維がシュとするだからシークヮーサーというんです

《どういう意味ですか》シーというのは酢なんですよシークヮーサーでこれを与える

わけですよ芭蕉布にシークヮースンクヮースンというのはくわせるとか与

えるという意味ですよあの家畜にム餌を与える

ヌクヮースンというさクヮーサーは与え

るものさヌーサーというのはハ畑する人

ルサーとかのサー酢を与えるをシークヮース

ンというんです逆にシーをクヮースンというのは酢を食べさせるとか与える

とかになるそれで芭蕉の着物がくたびれた時にシークヮースンというんですよ

《文献などに書いてありましたか》いやこの辺での話ですよこの辺では佐敷屋比久

外間も外間のむこうもですねだから昔はバ芭蕉着

サージンなんていうのは日頃着

ける着物今は琉舞をする人たちがつける高級なのになってるけど昔はヒン

スームンがつける着物なんですよだからハ畑へ

ルカイイ行くのにも

チュシンヌ何をするにしても

ーシーニン

ムほとんどこればかり

ルウリバカーイチ着けているよーねー

チョーウセーヤーだから繊維がくたびれるわけですよ

それでヨロヨロになっている繊維を酢入れることでシャンとしたバサージン

にするということでシークヮースンというんですよ

《イメージがわかないけどどんな感じになるのですか》ちょうど縫いたての新し

い芭蕉着のようになるよ酸っぱいにシーサンというだろ前にもいったように

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

シークヮースンというのはシークヮーサーのシーをクヮースなんですよシー

をクヮースンの木だからシークヮーサーなんですよシークヮーサーっていうの

は酸っぱいものが出るからなんですよ酢が出るまあ難しく言えば酢酸そ

して着古した芭蕉着をいきかえさせるそのためにシークヮースンという

《シークヮーサーでバサーを洗うというのはあちこち聞いていました》今の芭蕉布を

蘇らせるというのはここだけの話じゃないと思うよそういった意味ではシー

クヮーサーは食べる以外にも大きな使命があったんですね方言名は芭蕉布とセッ

トみたいなものだから田舎ではシークヮーサーを屋敷内に植えられている

昔の人はねある一つのものを多面的に使っているというかね食べるだけじゃ

なくて日常生活にもシークヮースンということでも使っている

《はじめて聞きますがこのことは文献にありますか》ないですよシークヮーサーのそ

ういうのは昔の人は常識かもしれないけど

《方言は聞いていたけど気づきませんでした》方言名というのはだいたい生活のかかわ

りがあるというね

《洗い方について》ここではね芭蕉布を洗うのにビたらい

ンダーレーとかそれから非常

に大きな丈の高いタライみたいのがあるさ方言ではなんていうかな昔の豆腐

作る時なんかに汁をためるようなもの大きな桶よここではそれを使っていた

それでシークヮーサーも熟しているものじゃなくてまだ皮が黄色くならない

ものあれを切ってそしてつぶして種も一緒だったよ着物はそんなにない

からね何回もやることはそんなになかったはずだから自分のものは自分の家

でやっていただから特別にどこかの家だけがやるというようなたとえばこれ

が上手で商売しているというようなことはこの辺ではなかったもうごく普通

にやるけど各家庭には毎年やるような着物の数はないので毎年はやらないわ

けさ

《畑仕事している人には必要では》ハルサーに使っているといってもそんなになんてい

うのかな新しくするなんていうことはよっぽどじゃないかぎりやらないですよ

だからバサーでも模様が入っているのがあるあのどっちかっていうと方言

でトゥンジヘンジーっていうんだけどちょっとした買い物ちょっとした所に

行く時につけるというのそんなのはシークヮースンというのをやるわけだけど

年に一度なんてやらないよたまにくたびれた時に再生するくらいのものだよ

《方言の呼び方の種類はありましたか》基本的には全部シークヮーサーです

《品種がありましたか》今いろんな品種がありますよね例えばクガニーグヮーかカー

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ブチーというのもあったですねいろいろあったと思いますけどねまあここ

にあるのは普通によくいわれているシークヮーサーというものです

食用または遊び等で食べた草木

《食用の草にはどのようなものがありましたか》ニンブトゥカー(スベリヒユ)は酢のも

のとしてよく食べた野山の草では一番食べてるのはフーチバー(ニシヨモギ)

ンジャナ(ホソバワダン)も食べた戦争や終戦時はチーファンプー(ツワブキ)

も食べたチーファンプーの茎の皮を剥いであれはアクが強いから流れる川につ

けてアクをぬいて食べたそれからヘゴの芯あれはダイコンみたいにおいしい

ですよヘゴは食べる習慣というよりは僕なんかは戦争でなにもなくなってか

ら食べたよ(12)

《ソテツ》方言でスーティーチャー戦後は何もないからスーティーチャーも毒抜き

して食べていますよ(13)

《毒抜きの方法は知っていますか》地元の人は水で洗ってからね

《昔から食べていたかもしれませんね》茎なんかは昔は食べてないんですよ昔は実

を砕いて毒抜きしてますよ毒抜きは水にさらしてカビを生えさせました

《毒が抜けたのがわかりますか》僕はその辺がわからんけど

《幹も食べましたか》戦前は幹を食べてないが戦後は幹もウムクジシリーで細かにし

て食べたしかしあれはねノコギリのカスみたいでなんの栄養もないご飯と

混ぜてまたは芋と混ぜたりなんかしたけどあんまり食べてないですよあれ

食べられるもんじゃないよなにもないから食べたんだよ僕らも一二度食べ

たかなといったぐらいだよ実は食べてるけどもう実は(みんな食べていた

ので)なかったよ

《ソテツの実を食べたのはいつ頃ですか》割って白い中身を出して水洗いをして食べ

ていたはずですけどね戦前は全然食べてないですよ僕なんか食用にしたとい

うのは終戦直後ですよ当時は食べ物がなにもなかったというくらいだったから

《ヘゴ類》ぜんまい(ヘゴの芽)なんかは柔らかくてよく食べた

《タラノキ》こっちにはない

《シナノガキ》シナノガキは佐敷の植物調査した時には崖の所にはあったけどね

《タイワンウオクサギ》方言でクサランギーワーといった虫がよくつくんですよねこ

れは実を食べるというよりは葉を食べていたんですね若い葉っぱを野菜として

(12)ensp後日確認したところ 戦中 現在の金武町に避難した時にヒカゲヘゴを食べたという

(13)ensp戦後 ソテツを食べたことについては知念 (1995) にも報告されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

食べた古い葉は使わない葉っぱはヌ何と言ったかな

ーンディーガちょうど青菜の野菜と同

じ扱いでさジューシーとか野菜チャンプルーみたいに使った

《クサギ》こっちはあるよあるけどそんなに身近にはないな垣花城址とか山の中には

いっぱいあるさこの辺にはないんですから利用についてはわからんね

《モクタチバナ》これはあることはありますよ小谷なんかにはいっぱいありますよ生

活にはあまり使ってないですね実は食べたことない

《タイミンタチバナ》これは南部ではみないですねこれはやんばるですね

《ヤマグワ》方言でクヮーギ実はクヮーギヌナイといいそのままでよく食べた食べ

てあまり腹に満たないうんと熟したやつは年寄りが酒に漬けて色をつけて

喜んで飲んだりしてましたよ私も小さいころ見覚えがありますだけどやっぱり

子どものころは食べに行きますまあ遊びとして食べているんだがお腹を満たす

ものではない

《他に使っていませんか》年とった桑はだめだけど若くてまっすぐに伸びた茎はちょ

うどユーナ(オオハマボウ)と同じで樹皮がパーッと長く剥げるわけですよ

それを池などの水につけておくと腐れて繊維が残るわけですよこれで縄をなっ

ている

《遊びとは違いますか》遊びじゃないですよ仕事というよりは生活この桑の綱は真っ

白で下駄の鼻緒上等な鼻緒に使ったりしたんですよちょうどユーナも同じで

束ねて池なんかにつけて腐らせるわけですよそしたら白い繊維が残るそれを

シルジナといってですね下駄の鼻緒とかツルベの紐に使う

《そんなに丈夫だったんですか》うんと丈夫ですよまたシュロでも縄作っていたよ

スルガージナといってスルガージナはね漁民が重宝したですよ簡単に腐ら

ないですよまたスルガージナは水をはじくんですよ

《モモタマナ》方言ではクファディーサーといっているクファディーサーはこっちでは

あんまり使ってないですねウこれは

リヤナ泣き声で

チクゥイーディドーフ成長する

ドゥイーユル(人

の泣き声で大きくなるといわれている)といって墓地などに植えておりあまり

屋敷林としては植えない僕の墓地にも23本はありますよクファディーサー

というと大きな屋慶名クファディーサー(図6)が有名(14)

《ギーマ》ギーマはこの辺あんまりないですよ今の南城市玉城の体育館のある所にはヤ

ンバルヤマといってあそこら辺にはギーマがありましただから名前もヤンバルヤ

マといっていた浦添市の茶山団地付近は僕が学生の頃は山があってギーマなん

(14)ensp琉球古典音楽の 「屋慶名こはでさ節」 「屋慶名節」 が知られており 沖縄民謡でも歌われている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

知念盛俊(1995)沖縄住民を餓死から救った生物たちの横顔pp27-40 歴史教育者協議会編語り

継ぐ 戦中戦後(2) 本州最後のトキ労働旬報社

初島住彦天野鉄夫(1994)増補訂正 琉球植物目録沖縄生物学会393pp

Hawks F L (1856) Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan Performed in the Years 1852 1853 and 1854 under the Command of Commodore MC Perry United States Navy by Order of the Government of the United States Vol I A O P Nicholson 537pp

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目崎茂和(1980)琉球列島における島の地形的分類とその帯状分布琉球列島の地質学研究 5

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宮城真治(1988)沖縄地名考名護市教育委員会150pp

盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

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沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)沖縄県史資料編24 自然環境新聞資料沖縄県教育委員会

当山昌直(1983a)阿嘉島の動物の方言についてpp23-29沖縄県立博物館沖縄県立博物館総合

調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 2: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 21 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

沖縄島南城市における生物文化に関する聞き取り

知念盛俊氏に聞く

当山 昌直

はじめに

沖縄の人々は島の自然とともに生きそして身の回りの生きものを利用しながら暮ら

してきた生きものの利用とともに生きものと人との間に文化を生み出したこれらは

生物文化といわれ(1)

長年自然との関わりのなかで培ってきた動植物の方言をはじめそ

の利用方法などは沖縄の人たちの遺産ともいえようしかしながら沖縄に関して未調

査の部分が多くよく知られていないのが実情である

松井(1975)は昭和 10 年生まれ前後を境に方言語彙等の知識にギャップがあるこ

とを報告しており昭和 10 年生まれ以前は語彙が豊富でそれ以後になると大きく減少

するというつまり昭和 10 年生まれ以前の方々が亡くなると沖縄の多くの生物文化の

遺産が無くなるということであるこれはおよそ半世紀前の調査に基づく指摘ではある

がこれまで県内各地で動植物方言調査を実施してきた筆者は同様な危機感を持ってお

り調査を急ぐ必要性を痛感していた

今回沖縄島南部の南城市佐敷字屋比久の知念盛俊氏(昭和9年生図1)に動植物の

方言およびその利用について調査をする機会があった知念氏は佐敷字屋比久の出身で

戦前県庁に勤めていた父親の関係で那覇に住まれたこと

もあったが沖縄戦の十十空襲を機会に実家がある字

屋比久に戻ってきた沖縄戦の一時期沖縄島金武村に

避難していたが戦後はずっと屋比久で暮らした琉球

大学生物学科を卒業後高等学校生物教諭を務めた教

職のかたわら戦後の沖縄貝類研究の先駆的な研究をさ

れ沖縄の動植物に詳しいさらに自らの体験を科学

TOYAMA Masanao An Interview on Bioculture at Nanjo City Okinawa Island(1)ensp 沖縄の生物文化については当山 (2015) を参照 当山 (2016) は 生物知識と称し ほぼ同じ意味で取り

扱っている

図 1 知念盛俊氏 (2016 年 2 月 自宅書斎

にて)

- 22 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

的な視点で整理しており動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

とで大変貴重であるまたは生物の知識など筆者の勉強不足の面もカバーしてくれ調

査の精度をあげてもらった今回はその動植物の方言およびその利用(生物文化)につ

いて調査した結果を報告する

本稿をまとめるにあたり調査に協力していただいた知念盛俊氏に感謝しますまた

田口恵氏には録音された資料を整理していただいたこの調査はJSPS 科研費(課題番号

26923003)の助成を受けて実施したものであることを記し謝辞とします

1調査方法

調査は沖縄島南城市佐敷字屋比久の知念氏自宅において2015 年3月 21222830

日の合計4日間実施した1日の調査時間は体調を考慮して約2時間を限度とした

聞き取りの方法はタブレット端末を使用してパワーポイントにより動植物の写真をみ

せこれらの方言名とその利用や言い伝えなどについて教えてもらった加えて古い写

真についても生物利用の視点から解説していただいた会話の模様はICレコーダーに記

録をし後日テキスト化を行った

2調査結果

聞き取りした内容を動物と植物にわけそれぞれの種類ごとに衣食住等の利用を中心

に整理し同時に方言も一緒に記したインフォーマントの回答はなるべくそのまま記す

ようにし(2)

方言の部分は分かりやすいようにルビのかたちで漢字を含んだ標準語を振っ

たまた理解しやすいように内容を変えない範囲で手を加えた加えて話の流れがわ

かりやすいように冒頭に見出しまたは筆者の質問を入れその部分を《 》で示した

本稿では外来語や和名などのカタカナと区別するため方言を太文字動植物方言を下線が

付いた太文字で示したこれらの結果をもとに再度確認の聞き取りを行ったまた知念氏

本人にも原稿をチェックしていただいた

(1)動物

動物を食べる ヌマガエル

《どのような動物を食べましたか》バッタとかセミなんかを食べるというのは遊びです

よ特にバッタとかは日常的に食べているのはアタビー(ヌマガエル)ですヌ

マガエルとクマネズミヌマガエルはまずアカエルを叩きに

タビースグイガといっていた

(2)ensp 知念氏の話はいわゆる 「ウチナーヤマトゥグチ」 (標準語で話しているが 言い回しは方言になっている) になっているところが多いが なるべくそのまま載せるようにした

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

アカエルをとりに

タビートゥイガではなくアタビースグイガといって長い竹をちょうど蠅叩き

みたいに使う竹はチンブク(ホテイチク)ではない笊を作る竹シマダキ(ホ

ウライチク)があるだろ僕の伯父が使っていたのは15 mくらいのシマダキの

先をくだいてその先をひらいてこれで叩くわけアタビーを蠅叩きみたいにね

とりにいくのは夜じゃないよ朝早く田んぼの畔から歩きながらね田んぼの中に

は入らないで畔を歩きながらアタビーを叩くわけ

《調理方法》田んぼからとってきたら普通は腹わた出して熱いお湯に入れてそし

て皮をむくんですよそのあとは刻んで食べる(3)

頭も含めて全部食べたもう油

で炒めるなんて贅沢ですよだから刻んで汁のだしにした骨があるでしょ炊い

たら簡単にコリコリと折れるまた刻んだらわからなくなるので簡単に食べられる

そんなに刻むといっても粗くしか刻まないそれからあまり大きな骨はないからね

幼児を救った動物たち ヌマガエルやネズミなど

《幼児の栄養源》昔はメーニンナシというのがある産後の制限ができないで今年も

産んでその次年も産んでそれで前の子が手が離れないうちに次の子が生まれ

るそうすると前の子は栄養失調なるわけだからカエルをとってきてあげた

りタコをとってきてまたは買ってきてカマドの上に頭のところをさげておい

て乾燥させてあげた燻製みたいな感じですねそれを切ってしゃぶらせるタコ

はものすごく消化がいいしタンパク質の栄養化も高い調理もいらないので簡

単さだからムシチワラバー(4)

の元気づけるのはこの辺(5)

ではタコですよそし

てタコがとれないまたは買えないところはカエルもちろん金のあるところは

ちゃんと乾燥してない生鰹があるあれをしゃぶらせるわけこれは金のあるとこ

ろだが金のない貧乏人とかハルサーとかはタコですよタコは普通海でとれるタ

コであればよかったもちろんイカでもいいんだけどタコの方がボリュウムがあ

るさカマドの上のタコははじめは乾燥が早い足から子どもに切ってしゃぶらせ

る弟妹ができたために兄姉はおっぱいが飲めないから栄養が行き届かな

いで痩せてしまうタンカー誕生一年ぐらいの子どもは栄養失調だから方言で

ウ(直訳弟妹見痩せ)

ットゥミーヨーガリームシチカカト-ンとか言っただからタコなんかあ

げよったよアタビーももちろんあげるけどそれからネズミなんかもあげた

(3)ensp戦前の那覇市におけるカエルの調理方法の聞き取りについては当山 (2002) に報告されている

(4)ensp 栄養失調で痩せている状態 元気のない状態に加えて 腸内寄生虫におかされている状態の子どもをいうムシチャーともいう (知念盛俊氏による)

(5)ensp知念氏の 「この辺」 はおおよそ南城市佐敷字屋比久周辺をさす

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ハ畑のネズミ

ルエンチュは芋しか食べてないから上等さヤ家のネズミ

ーエンチュは食べなかった(6)

ハルエンチュの捕獲と料理方法

《ネズミの捕まえ方》ハルエンチュはパパチンコのネズミ取り

ッティカサーがあるさあれで捕ってきたもの

を皮を剥いで焼いてから腹わた出して両足や尻尾はとってだいたいお汁に入

れたりした肉をとるなんていうのは難しいですからねだけど小さな子どもに

は炊いてから肉を一つずつとってあげる発展途上国でもどこでも子どもの死

亡率が高いですよねカエルやネズミなどはある意味では子どもの命を救ったも

のです

《マングース》マングースもそうですよマングースヤ罠

ーマといって仕掛けを引っ張っ

たら落ちるようになっている箱を作ってウサトウキビ

ージ畑とかその辺においておく(7)

マン

グースをとったらそのまま開けたら逃げるから箱ごと池に入れて窒息させるわ

けですよそれから料理する(8)

ネズミと同じような感じで料理するお汁なんか

にして味はウサギと同じですよネズミよりボリュウムがあるけどネズミみたい

にたくさんはとれない

《それは戦後ですか》戦後しばらくいや戦前もとっていた戦後はもうなんでも

かんでも食べてますよ戦争終わって一番苦しかったのは一年ぐらいです

《他の地域でもマングースを食べていましたか》食べていたと思うよ1945 年(戦争中)

はいくら艦砲があっても畑には芋もあるしサトウキビも残っているので飢え

はしのげたがその芋を食べたあとは植えてないわけだから戦後まもなくは

食糧がなくなってスーティーチャー(ソテツ)などを食べて飢えをしのいだ

泥を使って調理する

《芭蕉と泥を使う》ワ私たち

ッター子どものころは近くの海に行って魚をとった魚をとった

らヤーサドゥアクトゥすぐ食べる食べる方法は芭蕉の葉でくるんで次に泥で

包んでそれをそのまま薪の中に入れる

《泥はどれくらいの厚さですか》泥はタ田んぼの泥

ードゥルで魚に泥がつかないように包んだ

バナナか芭蕉の葉がなかったらユーナ(オオハマボウ)の葉それからンバシ(ク

ワズイモ)の葉ああいう物で包んでその上を泥で包む泥はちょっと固めの

(6)ensp棲んでいる所によって呼び方が異なるが いずれもクマネズミと思われる (当山 1989)

(7)enspおおよその箱の大きさ等について聞いたところ次のとおりであった 罠の入口は30cm times 30cm ぐらい 奥行きは 50cm ぐらいでちょうど大きなネコが入るぐらいの大きさの板の箱 蓋と餌の仕掛けとの間はヤマダキを天秤のようにして箱の上にセットした マングースが仕掛けに触れると 落とし蓋が本体の溝からスライドして落ちるようになっていた 餌はネズミなどを使用した 時々 ネコも罠にかかった

(8)ensp マングースを食べたことについては知念 (1995) を参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ものでないといけないそうやってちょうど炊

けるころになったら泥がポロポロ落ちてくる

泥が落ちてきて葉っぱが見えてきたらもう

炊けてる

《これは昔からある方法ですか》昔から大人が

やったかどうかはわからんけど終戦直後

ヤひもじい思いをしているからねー

ーサドゥアシェーヤーワ子どもたち

ラバーターどうし

でやった西表島調査の時魚をとると若い連

中はすぐ串で刺して焼く串刺ししたら周囲が黒焦げですよねそうじゃなくて

芭蕉と泥で包む方法で焼かせた若い連中がびっくりしていたよ今はアルミホ

イルがあるけどアルミホイルも焦げたりするこれは全然焦げないね芭蕉の

葉っぱの水分があったりするからガサガサにもならないしホンワカして炊ける

西表では芋もそんなふうにしてやった芋は簡単ですよ芋はなにも包まないで

生の芋に泥を塗るんですよ

《芭蕉を使った方がいいんじゃないですか》まあ使った方がいいけどどうせ芋は皮

をむいて食べるんだから芭蕉で包んだりしなかったですよ

貴重な食料だったオキナワウスカワマイマイ

《食用にしたカタツムリの種類》沖縄島南部ではオキナワウスカワマイマイ(図2)と

パンダナマイマイを食べていたがウスカワマイマイが多かったパンダナマイマ

イはウスカワマイマイに比較すると固く数も多くはないウスカワマイマイが

柔らかくて一番食べやすい

《どのようにして食べましたか》チかたつむり

ンナン(ここではオキナワウスカワマイマイ)

はカ芋

ンダバー畑にいっぱいいるそれを畑からとってきたら上等の芋をちゃ

んと洗って生芋の皮がついたまま輪切りにしてザルに入れその中にチンナ

ンを入れ芋を一週間くらいチンナンに食べさせる一週間したらウ芋の糞を

ムグス

マ排泄するわけ

イルバーテーそしたらチンナンの消化器は掃除され芋のアンコみたいに置

き換わるわけよだからウムグスを出したらそのまま炊いても中は消化途中

の芋しか入ってないことになるこれをお爺さんお婆さんは当然のようにやっ

ていたこの利用方法が僕が一番感心している昔の人たちの生活の知恵

《調理方法は》ウスカワマイマイ(チンナン)をそのまま茹でてそれから中身を抜く

口から消化管は胴体にあって筋肉になっている足のところの筋肉は残して渦

図 2 オキナワウスカワマイマイ (城間恒宏

撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

巻きの内蔵で肝臓などは切り捨てる消化管には芋が残るそのあとウスカワ

マイマイはアメリカマイマイみたいにはよだれはあまりないが一応カマドの

灰なんかで洗ったりした灰で洗ってそのあとはア油味噌

ンダインスー(9)

の具にしたり

切ってからお汁のだしにしたりした

《どのような食べ方がありましたか》アンダインスーはおいしい普通はアンダインスー

には三枚肉を入れるが三枚肉なんていうのは時間がたつと固くなるチンナ

ンの身はあまり固くならないわけアンダンスーの具として1匹を3つか4つ

ぐらいに刻んで入れる戦後は僕もよく食べたおいしいですよ昔は酢醤油み

たいな上等のはないよ昔は別の家はわからんけど僕の家では味噌汁のだし

なんかにも使うけど主にアンダンスーでしたね

戦後に広がったアフリカマイマイ

《アフリカマイマイを食べましたか》戦後はアフリカマイマイをよく食べたが固いんで

すよアフリカマイマイは普通アンダンスーにしないな汁のだしなんかにした

このおかげで沖縄の人はタンパク質不足にならなかったんじゃないかな終戦直

後はたくさん食べたよ(10)

いやいやながら食べたというよりはもう生きるために

また終戦直後は今よりもたくさんあった写真にもあったけど1トントラックに

いっぱいとかまた移入して入った時期というのは貝殻も厚くて大きかったみ

たい終戦直後アフリカマイマイを刻んでおつゆに入れて食べましたよ少ない

けど自分らでつくる味噌を使用した薄い味噌汁に芋と一緒に入れた

《戦前からいたのですか》昭和 18 年か 19 年ころタイワンチンナマーといって金出し

て買ってねソ素麺箱

ーミンバコに入れて芋なんかを入れて子どもたちが養っていた

んですよ方言でタイワンチンナマーともショクヨウチンナンともいうタイワ

ンチンナマーは台湾から入ってきたからといってるんですけど戦前は僕も父

親にせがんで二つ買ってもらった昔はソそうめん

ーミンが入っていた板の箱(ソーミ

ンバコ)があるんですよねそれに入れて野菜のくずなどを一緒に入れて養った

食べるために養うじゃなくてこれが卵を産んで孵化するのを楽しみにしてた

ですよだから戦前は食べてないですよまた戦前からいっぱいいたわけでは

なく増えたのは戦後ですよ戦争の時に子どもたちが飼育していたのがみんな

逃げ出して田畑いっぱいにひろがっただから現在は少なくなったけど終戦後

はいっぱいあったんですよそれで戦後中南部ではアフリカマイマイが一番

(9)ensp味噌を方言でインスと呼ぶ (知念氏より)

(10)ensp戦後 アフリカマイマイを食べたことについては 知念 (1995) にも詳しく記されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のタンパク質源となった

カタツムリの喧嘩遊び

《カタツムリの喧嘩遊びに使う種類》オ喧嘩遊び

ーラセーに利用

するのはシュリマイマイシュリマイマイが大き

いからパンダナマイマイのような小さなマイマ

イは握り難いわけまたウスカワマイマイは

使ってない殻が少し柔らかすぎてそんなに丈

夫じゃないしそれに小さいし丸っこい僕ら

はシュリマイマイしかやらんかったただヤマ

タニシの殻は固いのでインチキして隠しておく

オーラセーの時に急にヤマタニシを出してポ

コッと相手の殻を割ったりするそれから子ども

の頃のジ知恵

ンブンだけどオーラセーには死んだあ

との殻を使い生きてるのは使わない中味が

入っている生きたのが強いからそれをインチキ

して使うまたジンブンのある連中は非常に

細かいニービ(11)

をさらに細かくして殻の渦に入れてその中に水を入れるそして

殻の底で沈殿して固まり渦巻いてるところを見ても表面からははみえないように

なっているそうするとね空の殻よりも土が入っている殻が強いわけさワ私のが

ームン

が一番チ強い

ューサンというようなことでオーラセーをやってねあとでインチキがば

れたらメげんこつ

ーゴーサーこれは南城市屋比久近辺の話だが僕は那覇市の楚辺小

学校にも一時期居たことがある楚辺近辺でもやっぱりシュリマイマイだったシュ

リマイマイ以外に使ってないんじゃないかな

《喧嘩遊びの方法》喧嘩させる時はこうして握る(図3)パンダナマイマイなんて小

さいから握れないけどシュリマイマイだったら握れるわけさ次に[両手で握手

をするように]お互い同士で握って殻頂と殻頂をあわせそしてお互いに殻頂

がずれてないかどうか確認して[合わせた殻頂に圧力がかかるように]押すわけ

さ(図4)ところが殻の頂点からずらしたところは弱いのでユ欲張り

ークーはわ

ざと自分の頂点をずらして相手の弱いところに当てて急に押すそしたら勝つ

というインチキをするわけさタ誰が

ーガ一番チ強いのを持っているか

ューバームッチョーンってなった時

(11)ensp沖縄島南部にみられる島尻層群中の小禄砂岩のこと

図 3 チンナンオーラセーの握り方を実演

する知念氏

図 4 チンナンオーラセーの戦わせ方を実

演する知念氏 (相手側)と筆者 (手前

左手で写真撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

にねまた強くするといってア油を付ける

ンダグヮー

チキーしたけど強くはならなかった

マルタニシやフナを食べる

《アフリカマイマイが入る前の様子》戦前はアフリカ

マイマイが入ってくる前に食べているのはおそら

くほとんどがウスカワマイマイですよそれと

ターンナ(マルタニシ)ターンナはいつも稲刈

りが終わって田んぼを耕す時にとるあのころは

農薬もなにも使わないからいっぱいいましたよこの辺では一年中いつでも食べる

わけじゃなくて稲刈りの時にとってフナもその時ですよその時はだいたい一

網打尽那覇市場にはシ滋養強壮食

ンジムン用として出ていた

ハブと貝

《ハブは食べましたか》ハブはあまり食べるものではなかったただね傷薬としてハ

ブの油を使っているカマの傷などに傷薬としてそれを塗るハブを捕まえた

ら油をとって塩漬けした塩漬けをいろんな容器には入れるけどさ今みたいに

ね小さなビンとか容器とかがたくさんあるわけじゃないわけ昔リョウフとか

いうゼリー状の塗り薬があってその容器とかまたハマグリの蓋をあわせたも

のに入れたりなんかして保管をしたんですよつがいになったリュウキュウサルボ

ウ(図5)もよく使った油は持ち歩かないのでア豚油の塩漬け

ンダマースはこれに入れたんで

すよアンダマースは破傷風よけさ豚油にたくさん塩を入れたもので傷口が

ふさがらないように傷口からいつでも汁が出るようになっている結局浸透圧だ

よね傷口が乾燥したら困るわけでジャクジャクしていたら破傷風菌が発生しな

いわけさだからアンダマースはリュウキュウサルボウにも一緒によく使ったわけ

さアンダマースを入れるのはこの種だけじゃないからだいたいリュウキュウ

サルボウのサイズこれより大きいやつも使わないしこれより小さいやつもほと

んど使っていないイソハマグリとかいろいろあるけどもうこの程度(リュウキュ

ウサルボウの大きさ)ですねリュウキュウサルボウはハマグリよりも深くて詰め

やすいんですよこれも昔の人の知恵ですねアンダマース入れたりハブのアン

ダとか容器がたくさんあるという時代じゃないけど貝を紐で口をしばったりす

る必要はないちょうつがいがありますからねこのように二枚貝を使ったわけさ

魔除け

図 5 ハブの油やアンダマースを入れた

リュウキュウサルボウ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《魔除けの貝について》貝だったらスイジガイだけどクモガイも使う屋比久でもやっ

てましたよフ疫病返し

ーチゲーシといってゥワ豚小屋

ーヌフールだとかにぶら下げてねフー

チというのは伝染病さ昔の家には玄関はないさだから門や入口だとかにぶら

下げたりなんかして屋比久では今でもスイジガイだとかクモガイだとかあちこち

ぶら下がってる所もあるはずですよ

《シャコガイは使ってませんか》魔除けとしてシャコガイはこの辺では使ってないけど

奄美大島に近い所はよく石垣の所に飾られていますね沖縄ではよく津堅とか

久高あれはね地べたに埋める所もあるんですよ足を挟むといってよく人

が歩く所にだとか門の所の下に埋めておいて悪霊などの足を挟むとか魔除

けみたいなもの

(2)植物

染料

《染料はどんなのを使いましたか》染料としてよく使ったというのはサキシマスオウノ

キ方言ではウマヌタニギーまたはアカズミーギーともいう赤い色に染めるよ

サキシマスオウノキの皮を使う皮をはいで細かくして煎じ汁だったかどうか

わからんけどさとにかくシンメーナービー(大きな鍋)で炊いていたと思う初

めは赤いというより橙色みたいなんだけど染まった時には赤くなるわけこの

辺でやっているのをみたことがある詳しくはわからんよとにかく子どもの時に

みているだけだからサキシマスオウノキはどこでもあるっていうわけではないか

らなこの辺は川や湿地帯がありハマジンチョウが生えるぐらいですからサ

キシマスオウノキは多かったですよ方言では子どものころは種子が馬の睾丸

に似ているというウマヌタニギーといった年寄は赤く染めるという意味のアカズ

ミーギーといっていた

《昔は芭蕉布を染めたんですか》私が見たのは芭蕉じゃなくて木綿ですよ白い布で

すよ帯をつくったりするとかは戦前ですよ戦後は食糧難でその辺の話はよ

くあるけど染めて着けるとかという話はあまりきかない

《シャリンバイは佐敷にもありましたか》あったんだけど僕なんかは染物に使ってい

るとかなんとかいう話は覚えてないし知らない大きくなってからは染物に使っ

ているとかいう話は聞いたことはあるけど実際はわからん実を食べたりとかい

う話はあんまりないなシャリンバイはざらにあるやつではないよな

《フクギを染料に使いましたか》ここでも黄色い染料として使ったですよ染めるのは木

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

綿ですよ皮を煎じてね実を使ったかどうかはわからんですよほかの用途とし

ては屋敷林は普通

《実は食べましたか》臭くてここでは食べない屋敷林としてもよい防風林防潮

防火とかこれは火にも強いんですよ

《材木として使わなかったのですか》建材としての記憶はないこの辺では建材といっ

たらイーク(モッコク)とかチャーギ(イヌマキ)ですよここには何年も植

えておくような土地がないでしょ一応チャーギなど屋敷に植えてはいるけど

建材はやんばるからの輸入ですよ

リュウキュウバショウ 包み物や熱冷ましにも利用

《芭蕉は各家庭で織っていましたか》ほとんどの家庭で織っていた芭蕉自体にウーといっ

ていただいたい植えている所はヤ屋敷の後ろ側

ーヌクシーですよ

《ヤーヌクシーで足りましたか》あのころ糸を作るのもあるけど包装紙の代わりも

やったんですよまたイ味噌甕

ンスガーミの味噌を発酵するときカ甕

ーミの蓋の上を

芭蕉の葉を炙って被せる炙るのは葉をやわらかくするため逆に葉をそのまま

使用したら破ける火に炙ったら柔らかくはなるけど簡単には破けないだか

ら弁当を包むのもそれでやったですよ普通芭蕉の葉は横にちょっとひっぱると

スーと切れるんですよね炙るとそういうのがなくなるだから僕の印象として

はバサージンを作る糸をつむいでというのもわかるけど日常的によく使っ

ているというのはカーサ弁当ですよ握り飯のようなものにアンダンスー入れて

包んで持ったお祝いの時にムチウンブーといって竹で作った平たいザルみた

いなのがあるでしょ芭蕉の葉を炙ってからそれに敷いてその上に餅やカステラ

または焼き豆腐を置いたりなんかしているそういう日常的によく使うから家

屋の後ろに植えるやんばるの喜如嘉みたいに何百坪ではなくてここは小規

模でそんなに植える所はなかったここでは芭蕉の織物は主な仕事という

よりは片手間でやっていた

《昔は機織り機はありましたか》機織り機はありますよ座って織るジ地機

ーバタとか

タ高機

カハタというのはちょっと[座る位置が]高いというのがありますね

《各家庭何割ぐらいありましたか》屋比久だったらそうですねそんなに多くはなかっ

たと思うけど半分半分もないんじゃないかだいたいそれをやる所は余裕の

あるところですよそれと若い娘がいるところ

《オジーオバーはやらなかったのですか》オジーオバーは目がダメだよな首里では

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

老眼鏡かけてやったりするはずだけどここでは娘がやっていたんじゃないかな

《芭蕉の茎を熱冷ましに使わなかったか》使っている幹をとってきて皮を剥いで白

くなったところをまた一枚一枚剥いでこれをすりこぎみたいなボ棒

ーグヮーで叩

いて汁ジャカジャカーする

《剥いだのを叩くんですか》そうジャカジャカーして汁がでてくるのを重ねて枕に

するとか子どもだったら敷いてからその上に背中から寝かせるとかで熱さま

しにした

《飲ましたりしましたか》飲ますんじゃないよ

《葉に寝かせたりしましたか》ここでは葉は使わなかったですよ

《那覇ではその汁で背中をふいたらしいです》それあるかもしれんこちらはそうじゃ

ない汁ジャカジャカーしたのを敷きその上に寝かすわけですよ効果満点

ヒラミレモンの利用と語源

《ヒラミレモンの方言を教えて下さい》方言ではシークヮーサーですよ

《どんなのに使いましたか》食べることとあと芭蕉布に使うシークヮーサーという

名前の通り着古した芭蕉布は繊維がゆるゆるになるさシークヮーサーの汁に

つけると繊維がシュとするだからシークヮーサーというんです

《どういう意味ですか》シーというのは酢なんですよシークヮーサーでこれを与える

わけですよ芭蕉布にシークヮースンクヮースンというのはくわせるとか与

えるという意味ですよあの家畜にム餌を与える

ヌクヮースンというさクヮーサーは与え

るものさヌーサーというのはハ畑する人

ルサーとかのサー酢を与えるをシークヮース

ンというんです逆にシーをクヮースンというのは酢を食べさせるとか与える

とかになるそれで芭蕉の着物がくたびれた時にシークヮースンというんですよ

《文献などに書いてありましたか》いやこの辺での話ですよこの辺では佐敷屋比久

外間も外間のむこうもですねだから昔はバ芭蕉着

サージンなんていうのは日頃着

ける着物今は琉舞をする人たちがつける高級なのになってるけど昔はヒン

スームンがつける着物なんですよだからハ畑へ

ルカイイ行くのにも

チュシンヌ何をするにしても

ーシーニン

ムほとんどこればかり

ルウリバカーイチ着けているよーねー

チョーウセーヤーだから繊維がくたびれるわけですよ

それでヨロヨロになっている繊維を酢入れることでシャンとしたバサージン

にするということでシークヮースンというんですよ

《イメージがわかないけどどんな感じになるのですか》ちょうど縫いたての新し

い芭蕉着のようになるよ酸っぱいにシーサンというだろ前にもいったように

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

シークヮースンというのはシークヮーサーのシーをクヮースなんですよシー

をクヮースンの木だからシークヮーサーなんですよシークヮーサーっていうの

は酸っぱいものが出るからなんですよ酢が出るまあ難しく言えば酢酸そ

して着古した芭蕉着をいきかえさせるそのためにシークヮースンという

《シークヮーサーでバサーを洗うというのはあちこち聞いていました》今の芭蕉布を

蘇らせるというのはここだけの話じゃないと思うよそういった意味ではシー

クヮーサーは食べる以外にも大きな使命があったんですね方言名は芭蕉布とセッ

トみたいなものだから田舎ではシークヮーサーを屋敷内に植えられている

昔の人はねある一つのものを多面的に使っているというかね食べるだけじゃ

なくて日常生活にもシークヮースンということでも使っている

《はじめて聞きますがこのことは文献にありますか》ないですよシークヮーサーのそ

ういうのは昔の人は常識かもしれないけど

《方言は聞いていたけど気づきませんでした》方言名というのはだいたい生活のかかわ

りがあるというね

《洗い方について》ここではね芭蕉布を洗うのにビたらい

ンダーレーとかそれから非常

に大きな丈の高いタライみたいのがあるさ方言ではなんていうかな昔の豆腐

作る時なんかに汁をためるようなもの大きな桶よここではそれを使っていた

それでシークヮーサーも熟しているものじゃなくてまだ皮が黄色くならない

ものあれを切ってそしてつぶして種も一緒だったよ着物はそんなにない

からね何回もやることはそんなになかったはずだから自分のものは自分の家

でやっていただから特別にどこかの家だけがやるというようなたとえばこれ

が上手で商売しているというようなことはこの辺ではなかったもうごく普通

にやるけど各家庭には毎年やるような着物の数はないので毎年はやらないわ

けさ

《畑仕事している人には必要では》ハルサーに使っているといってもそんなになんてい

うのかな新しくするなんていうことはよっぽどじゃないかぎりやらないですよ

だからバサーでも模様が入っているのがあるあのどっちかっていうと方言

でトゥンジヘンジーっていうんだけどちょっとした買い物ちょっとした所に

行く時につけるというのそんなのはシークヮースンというのをやるわけだけど

年に一度なんてやらないよたまにくたびれた時に再生するくらいのものだよ

《方言の呼び方の種類はありましたか》基本的には全部シークヮーサーです

《品種がありましたか》今いろんな品種がありますよね例えばクガニーグヮーかカー

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ブチーというのもあったですねいろいろあったと思いますけどねまあここ

にあるのは普通によくいわれているシークヮーサーというものです

食用または遊び等で食べた草木

《食用の草にはどのようなものがありましたか》ニンブトゥカー(スベリヒユ)は酢のも

のとしてよく食べた野山の草では一番食べてるのはフーチバー(ニシヨモギ)

ンジャナ(ホソバワダン)も食べた戦争や終戦時はチーファンプー(ツワブキ)

も食べたチーファンプーの茎の皮を剥いであれはアクが強いから流れる川につ

けてアクをぬいて食べたそれからヘゴの芯あれはダイコンみたいにおいしい

ですよヘゴは食べる習慣というよりは僕なんかは戦争でなにもなくなってか

ら食べたよ(12)

《ソテツ》方言でスーティーチャー戦後は何もないからスーティーチャーも毒抜き

して食べていますよ(13)

《毒抜きの方法は知っていますか》地元の人は水で洗ってからね

《昔から食べていたかもしれませんね》茎なんかは昔は食べてないんですよ昔は実

を砕いて毒抜きしてますよ毒抜きは水にさらしてカビを生えさせました

《毒が抜けたのがわかりますか》僕はその辺がわからんけど

《幹も食べましたか》戦前は幹を食べてないが戦後は幹もウムクジシリーで細かにし

て食べたしかしあれはねノコギリのカスみたいでなんの栄養もないご飯と

混ぜてまたは芋と混ぜたりなんかしたけどあんまり食べてないですよあれ

食べられるもんじゃないよなにもないから食べたんだよ僕らも一二度食べ

たかなといったぐらいだよ実は食べてるけどもう実は(みんな食べていた

ので)なかったよ

《ソテツの実を食べたのはいつ頃ですか》割って白い中身を出して水洗いをして食べ

ていたはずですけどね戦前は全然食べてないですよ僕なんか食用にしたとい

うのは終戦直後ですよ当時は食べ物がなにもなかったというくらいだったから

《ヘゴ類》ぜんまい(ヘゴの芽)なんかは柔らかくてよく食べた

《タラノキ》こっちにはない

《シナノガキ》シナノガキは佐敷の植物調査した時には崖の所にはあったけどね

《タイワンウオクサギ》方言でクサランギーワーといった虫がよくつくんですよねこ

れは実を食べるというよりは葉を食べていたんですね若い葉っぱを野菜として

(12)ensp後日確認したところ 戦中 現在の金武町に避難した時にヒカゲヘゴを食べたという

(13)ensp戦後 ソテツを食べたことについては知念 (1995) にも報告されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

食べた古い葉は使わない葉っぱはヌ何と言ったかな

ーンディーガちょうど青菜の野菜と同

じ扱いでさジューシーとか野菜チャンプルーみたいに使った

《クサギ》こっちはあるよあるけどそんなに身近にはないな垣花城址とか山の中には

いっぱいあるさこの辺にはないんですから利用についてはわからんね

《モクタチバナ》これはあることはありますよ小谷なんかにはいっぱいありますよ生

活にはあまり使ってないですね実は食べたことない

《タイミンタチバナ》これは南部ではみないですねこれはやんばるですね

《ヤマグワ》方言でクヮーギ実はクヮーギヌナイといいそのままでよく食べた食べ

てあまり腹に満たないうんと熟したやつは年寄りが酒に漬けて色をつけて

喜んで飲んだりしてましたよ私も小さいころ見覚えがありますだけどやっぱり

子どものころは食べに行きますまあ遊びとして食べているんだがお腹を満たす

ものではない

《他に使っていませんか》年とった桑はだめだけど若くてまっすぐに伸びた茎はちょ

うどユーナ(オオハマボウ)と同じで樹皮がパーッと長く剥げるわけですよ

それを池などの水につけておくと腐れて繊維が残るわけですよこれで縄をなっ

ている

《遊びとは違いますか》遊びじゃないですよ仕事というよりは生活この桑の綱は真っ

白で下駄の鼻緒上等な鼻緒に使ったりしたんですよちょうどユーナも同じで

束ねて池なんかにつけて腐らせるわけですよそしたら白い繊維が残るそれを

シルジナといってですね下駄の鼻緒とかツルベの紐に使う

《そんなに丈夫だったんですか》うんと丈夫ですよまたシュロでも縄作っていたよ

スルガージナといってスルガージナはね漁民が重宝したですよ簡単に腐ら

ないですよまたスルガージナは水をはじくんですよ

《モモタマナ》方言ではクファディーサーといっているクファディーサーはこっちでは

あんまり使ってないですねウこれは

リヤナ泣き声で

チクゥイーディドーフ成長する

ドゥイーユル(人

の泣き声で大きくなるといわれている)といって墓地などに植えておりあまり

屋敷林としては植えない僕の墓地にも23本はありますよクファディーサー

というと大きな屋慶名クファディーサー(図6)が有名(14)

《ギーマ》ギーマはこの辺あんまりないですよ今の南城市玉城の体育館のある所にはヤ

ンバルヤマといってあそこら辺にはギーマがありましただから名前もヤンバルヤ

マといっていた浦添市の茶山団地付近は僕が学生の頃は山があってギーマなん

(14)ensp琉球古典音楽の 「屋慶名こはでさ節」 「屋慶名節」 が知られており 沖縄民謡でも歌われている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

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1-20

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

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当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

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当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 3: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 22 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

的な視点で整理しており動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

とで大変貴重であるまたは生物の知識など筆者の勉強不足の面もカバーしてくれ調

査の精度をあげてもらった今回はその動植物の方言およびその利用(生物文化)につ

いて調査した結果を報告する

本稿をまとめるにあたり調査に協力していただいた知念盛俊氏に感謝しますまた

田口恵氏には録音された資料を整理していただいたこの調査はJSPS 科研費(課題番号

26923003)の助成を受けて実施したものであることを記し謝辞とします

1調査方法

調査は沖縄島南城市佐敷字屋比久の知念氏自宅において2015 年3月 21222830

日の合計4日間実施した1日の調査時間は体調を考慮して約2時間を限度とした

聞き取りの方法はタブレット端末を使用してパワーポイントにより動植物の写真をみ

せこれらの方言名とその利用や言い伝えなどについて教えてもらった加えて古い写

真についても生物利用の視点から解説していただいた会話の模様はICレコーダーに記

録をし後日テキスト化を行った

2調査結果

聞き取りした内容を動物と植物にわけそれぞれの種類ごとに衣食住等の利用を中心

に整理し同時に方言も一緒に記したインフォーマントの回答はなるべくそのまま記す

ようにし(2)

方言の部分は分かりやすいようにルビのかたちで漢字を含んだ標準語を振っ

たまた理解しやすいように内容を変えない範囲で手を加えた加えて話の流れがわ

かりやすいように冒頭に見出しまたは筆者の質問を入れその部分を《 》で示した

本稿では外来語や和名などのカタカナと区別するため方言を太文字動植物方言を下線が

付いた太文字で示したこれらの結果をもとに再度確認の聞き取りを行ったまた知念氏

本人にも原稿をチェックしていただいた

(1)動物

動物を食べる ヌマガエル

《どのような動物を食べましたか》バッタとかセミなんかを食べるというのは遊びです

よ特にバッタとかは日常的に食べているのはアタビー(ヌマガエル)ですヌ

マガエルとクマネズミヌマガエルはまずアカエルを叩きに

タビースグイガといっていた

(2)ensp 知念氏の話はいわゆる 「ウチナーヤマトゥグチ」 (標準語で話しているが 言い回しは方言になっている) になっているところが多いが なるべくそのまま載せるようにした

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

アカエルをとりに

タビートゥイガではなくアタビースグイガといって長い竹をちょうど蠅叩き

みたいに使う竹はチンブク(ホテイチク)ではない笊を作る竹シマダキ(ホ

ウライチク)があるだろ僕の伯父が使っていたのは15 mくらいのシマダキの

先をくだいてその先をひらいてこれで叩くわけアタビーを蠅叩きみたいにね

とりにいくのは夜じゃないよ朝早く田んぼの畔から歩きながらね田んぼの中に

は入らないで畔を歩きながらアタビーを叩くわけ

《調理方法》田んぼからとってきたら普通は腹わた出して熱いお湯に入れてそし

て皮をむくんですよそのあとは刻んで食べる(3)

頭も含めて全部食べたもう油

で炒めるなんて贅沢ですよだから刻んで汁のだしにした骨があるでしょ炊い

たら簡単にコリコリと折れるまた刻んだらわからなくなるので簡単に食べられる

そんなに刻むといっても粗くしか刻まないそれからあまり大きな骨はないからね

幼児を救った動物たち ヌマガエルやネズミなど

《幼児の栄養源》昔はメーニンナシというのがある産後の制限ができないで今年も

産んでその次年も産んでそれで前の子が手が離れないうちに次の子が生まれ

るそうすると前の子は栄養失調なるわけだからカエルをとってきてあげた

りタコをとってきてまたは買ってきてカマドの上に頭のところをさげておい

て乾燥させてあげた燻製みたいな感じですねそれを切ってしゃぶらせるタコ

はものすごく消化がいいしタンパク質の栄養化も高い調理もいらないので簡

単さだからムシチワラバー(4)

の元気づけるのはこの辺(5)

ではタコですよそし

てタコがとれないまたは買えないところはカエルもちろん金のあるところは

ちゃんと乾燥してない生鰹があるあれをしゃぶらせるわけこれは金のあるとこ

ろだが金のない貧乏人とかハルサーとかはタコですよタコは普通海でとれるタ

コであればよかったもちろんイカでもいいんだけどタコの方がボリュウムがあ

るさカマドの上のタコははじめは乾燥が早い足から子どもに切ってしゃぶらせ

る弟妹ができたために兄姉はおっぱいが飲めないから栄養が行き届かな

いで痩せてしまうタンカー誕生一年ぐらいの子どもは栄養失調だから方言で

ウ(直訳弟妹見痩せ)

ットゥミーヨーガリームシチカカト-ンとか言っただからタコなんかあ

げよったよアタビーももちろんあげるけどそれからネズミなんかもあげた

(3)ensp戦前の那覇市におけるカエルの調理方法の聞き取りについては当山 (2002) に報告されている

(4)ensp 栄養失調で痩せている状態 元気のない状態に加えて 腸内寄生虫におかされている状態の子どもをいうムシチャーともいう (知念盛俊氏による)

(5)ensp知念氏の 「この辺」 はおおよそ南城市佐敷字屋比久周辺をさす

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ハ畑のネズミ

ルエンチュは芋しか食べてないから上等さヤ家のネズミ

ーエンチュは食べなかった(6)

ハルエンチュの捕獲と料理方法

《ネズミの捕まえ方》ハルエンチュはパパチンコのネズミ取り

ッティカサーがあるさあれで捕ってきたもの

を皮を剥いで焼いてから腹わた出して両足や尻尾はとってだいたいお汁に入

れたりした肉をとるなんていうのは難しいですからねだけど小さな子どもに

は炊いてから肉を一つずつとってあげる発展途上国でもどこでも子どもの死

亡率が高いですよねカエルやネズミなどはある意味では子どもの命を救ったも

のです

《マングース》マングースもそうですよマングースヤ罠

ーマといって仕掛けを引っ張っ

たら落ちるようになっている箱を作ってウサトウキビ

ージ畑とかその辺においておく(7)

マン

グースをとったらそのまま開けたら逃げるから箱ごと池に入れて窒息させるわ

けですよそれから料理する(8)

ネズミと同じような感じで料理するお汁なんか

にして味はウサギと同じですよネズミよりボリュウムがあるけどネズミみたい

にたくさんはとれない

《それは戦後ですか》戦後しばらくいや戦前もとっていた戦後はもうなんでも

かんでも食べてますよ戦争終わって一番苦しかったのは一年ぐらいです

《他の地域でもマングースを食べていましたか》食べていたと思うよ1945 年(戦争中)

はいくら艦砲があっても畑には芋もあるしサトウキビも残っているので飢え

はしのげたがその芋を食べたあとは植えてないわけだから戦後まもなくは

食糧がなくなってスーティーチャー(ソテツ)などを食べて飢えをしのいだ

泥を使って調理する

《芭蕉と泥を使う》ワ私たち

ッター子どものころは近くの海に行って魚をとった魚をとった

らヤーサドゥアクトゥすぐ食べる食べる方法は芭蕉の葉でくるんで次に泥で

包んでそれをそのまま薪の中に入れる

《泥はどれくらいの厚さですか》泥はタ田んぼの泥

ードゥルで魚に泥がつかないように包んだ

バナナか芭蕉の葉がなかったらユーナ(オオハマボウ)の葉それからンバシ(ク

ワズイモ)の葉ああいう物で包んでその上を泥で包む泥はちょっと固めの

(6)ensp棲んでいる所によって呼び方が異なるが いずれもクマネズミと思われる (当山 1989)

(7)enspおおよその箱の大きさ等について聞いたところ次のとおりであった 罠の入口は30cm times 30cm ぐらい 奥行きは 50cm ぐらいでちょうど大きなネコが入るぐらいの大きさの板の箱 蓋と餌の仕掛けとの間はヤマダキを天秤のようにして箱の上にセットした マングースが仕掛けに触れると 落とし蓋が本体の溝からスライドして落ちるようになっていた 餌はネズミなどを使用した 時々 ネコも罠にかかった

(8)ensp マングースを食べたことについては知念 (1995) を参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ものでないといけないそうやってちょうど炊

けるころになったら泥がポロポロ落ちてくる

泥が落ちてきて葉っぱが見えてきたらもう

炊けてる

《これは昔からある方法ですか》昔から大人が

やったかどうかはわからんけど終戦直後

ヤひもじい思いをしているからねー

ーサドゥアシェーヤーワ子どもたち

ラバーターどうし

でやった西表島調査の時魚をとると若い連

中はすぐ串で刺して焼く串刺ししたら周囲が黒焦げですよねそうじゃなくて

芭蕉と泥で包む方法で焼かせた若い連中がびっくりしていたよ今はアルミホ

イルがあるけどアルミホイルも焦げたりするこれは全然焦げないね芭蕉の

葉っぱの水分があったりするからガサガサにもならないしホンワカして炊ける

西表では芋もそんなふうにしてやった芋は簡単ですよ芋はなにも包まないで

生の芋に泥を塗るんですよ

《芭蕉を使った方がいいんじゃないですか》まあ使った方がいいけどどうせ芋は皮

をむいて食べるんだから芭蕉で包んだりしなかったですよ

貴重な食料だったオキナワウスカワマイマイ

《食用にしたカタツムリの種類》沖縄島南部ではオキナワウスカワマイマイ(図2)と

パンダナマイマイを食べていたがウスカワマイマイが多かったパンダナマイマ

イはウスカワマイマイに比較すると固く数も多くはないウスカワマイマイが

柔らかくて一番食べやすい

《どのようにして食べましたか》チかたつむり

ンナン(ここではオキナワウスカワマイマイ)

はカ芋

ンダバー畑にいっぱいいるそれを畑からとってきたら上等の芋をちゃ

んと洗って生芋の皮がついたまま輪切りにしてザルに入れその中にチンナ

ンを入れ芋を一週間くらいチンナンに食べさせる一週間したらウ芋の糞を

ムグス

マ排泄するわけ

イルバーテーそしたらチンナンの消化器は掃除され芋のアンコみたいに置

き換わるわけよだからウムグスを出したらそのまま炊いても中は消化途中

の芋しか入ってないことになるこれをお爺さんお婆さんは当然のようにやっ

ていたこの利用方法が僕が一番感心している昔の人たちの生活の知恵

《調理方法は》ウスカワマイマイ(チンナン)をそのまま茹でてそれから中身を抜く

口から消化管は胴体にあって筋肉になっている足のところの筋肉は残して渦

図 2 オキナワウスカワマイマイ (城間恒宏

撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

巻きの内蔵で肝臓などは切り捨てる消化管には芋が残るそのあとウスカワ

マイマイはアメリカマイマイみたいにはよだれはあまりないが一応カマドの

灰なんかで洗ったりした灰で洗ってそのあとはア油味噌

ンダインスー(9)

の具にしたり

切ってからお汁のだしにしたりした

《どのような食べ方がありましたか》アンダインスーはおいしい普通はアンダインスー

には三枚肉を入れるが三枚肉なんていうのは時間がたつと固くなるチンナ

ンの身はあまり固くならないわけアンダンスーの具として1匹を3つか4つ

ぐらいに刻んで入れる戦後は僕もよく食べたおいしいですよ昔は酢醤油み

たいな上等のはないよ昔は別の家はわからんけど僕の家では味噌汁のだし

なんかにも使うけど主にアンダンスーでしたね

戦後に広がったアフリカマイマイ

《アフリカマイマイを食べましたか》戦後はアフリカマイマイをよく食べたが固いんで

すよアフリカマイマイは普通アンダンスーにしないな汁のだしなんかにした

このおかげで沖縄の人はタンパク質不足にならなかったんじゃないかな終戦直

後はたくさん食べたよ(10)

いやいやながら食べたというよりはもう生きるために

また終戦直後は今よりもたくさんあった写真にもあったけど1トントラックに

いっぱいとかまた移入して入った時期というのは貝殻も厚くて大きかったみ

たい終戦直後アフリカマイマイを刻んでおつゆに入れて食べましたよ少ない

けど自分らでつくる味噌を使用した薄い味噌汁に芋と一緒に入れた

《戦前からいたのですか》昭和 18 年か 19 年ころタイワンチンナマーといって金出し

て買ってねソ素麺箱

ーミンバコに入れて芋なんかを入れて子どもたちが養っていた

んですよ方言でタイワンチンナマーともショクヨウチンナンともいうタイワ

ンチンナマーは台湾から入ってきたからといってるんですけど戦前は僕も父

親にせがんで二つ買ってもらった昔はソそうめん

ーミンが入っていた板の箱(ソーミ

ンバコ)があるんですよねそれに入れて野菜のくずなどを一緒に入れて養った

食べるために養うじゃなくてこれが卵を産んで孵化するのを楽しみにしてた

ですよだから戦前は食べてないですよまた戦前からいっぱいいたわけでは

なく増えたのは戦後ですよ戦争の時に子どもたちが飼育していたのがみんな

逃げ出して田畑いっぱいにひろがっただから現在は少なくなったけど終戦後

はいっぱいあったんですよそれで戦後中南部ではアフリカマイマイが一番

(9)ensp味噌を方言でインスと呼ぶ (知念氏より)

(10)ensp戦後 アフリカマイマイを食べたことについては 知念 (1995) にも詳しく記されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のタンパク質源となった

カタツムリの喧嘩遊び

《カタツムリの喧嘩遊びに使う種類》オ喧嘩遊び

ーラセーに利用

するのはシュリマイマイシュリマイマイが大き

いからパンダナマイマイのような小さなマイマ

イは握り難いわけまたウスカワマイマイは

使ってない殻が少し柔らかすぎてそんなに丈

夫じゃないしそれに小さいし丸っこい僕ら

はシュリマイマイしかやらんかったただヤマ

タニシの殻は固いのでインチキして隠しておく

オーラセーの時に急にヤマタニシを出してポ

コッと相手の殻を割ったりするそれから子ども

の頃のジ知恵

ンブンだけどオーラセーには死んだあ

との殻を使い生きてるのは使わない中味が

入っている生きたのが強いからそれをインチキ

して使うまたジンブンのある連中は非常に

細かいニービ(11)

をさらに細かくして殻の渦に入れてその中に水を入れるそして

殻の底で沈殿して固まり渦巻いてるところを見ても表面からははみえないように

なっているそうするとね空の殻よりも土が入っている殻が強いわけさワ私のが

ームン

が一番チ強い

ューサンというようなことでオーラセーをやってねあとでインチキがば

れたらメげんこつ

ーゴーサーこれは南城市屋比久近辺の話だが僕は那覇市の楚辺小

学校にも一時期居たことがある楚辺近辺でもやっぱりシュリマイマイだったシュ

リマイマイ以外に使ってないんじゃないかな

《喧嘩遊びの方法》喧嘩させる時はこうして握る(図3)パンダナマイマイなんて小

さいから握れないけどシュリマイマイだったら握れるわけさ次に[両手で握手

をするように]お互い同士で握って殻頂と殻頂をあわせそしてお互いに殻頂

がずれてないかどうか確認して[合わせた殻頂に圧力がかかるように]押すわけ

さ(図4)ところが殻の頂点からずらしたところは弱いのでユ欲張り

ークーはわ

ざと自分の頂点をずらして相手の弱いところに当てて急に押すそしたら勝つ

というインチキをするわけさタ誰が

ーガ一番チ強いのを持っているか

ューバームッチョーンってなった時

(11)ensp沖縄島南部にみられる島尻層群中の小禄砂岩のこと

図 3 チンナンオーラセーの握り方を実演

する知念氏

図 4 チンナンオーラセーの戦わせ方を実

演する知念氏 (相手側)と筆者 (手前

左手で写真撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

にねまた強くするといってア油を付ける

ンダグヮー

チキーしたけど強くはならなかった

マルタニシやフナを食べる

《アフリカマイマイが入る前の様子》戦前はアフリカ

マイマイが入ってくる前に食べているのはおそら

くほとんどがウスカワマイマイですよそれと

ターンナ(マルタニシ)ターンナはいつも稲刈

りが終わって田んぼを耕す時にとるあのころは

農薬もなにも使わないからいっぱいいましたよこの辺では一年中いつでも食べる

わけじゃなくて稲刈りの時にとってフナもその時ですよその時はだいたい一

網打尽那覇市場にはシ滋養強壮食

ンジムン用として出ていた

ハブと貝

《ハブは食べましたか》ハブはあまり食べるものではなかったただね傷薬としてハ

ブの油を使っているカマの傷などに傷薬としてそれを塗るハブを捕まえた

ら油をとって塩漬けした塩漬けをいろんな容器には入れるけどさ今みたいに

ね小さなビンとか容器とかがたくさんあるわけじゃないわけ昔リョウフとか

いうゼリー状の塗り薬があってその容器とかまたハマグリの蓋をあわせたも

のに入れたりなんかして保管をしたんですよつがいになったリュウキュウサルボ

ウ(図5)もよく使った油は持ち歩かないのでア豚油の塩漬け

ンダマースはこれに入れたんで

すよアンダマースは破傷風よけさ豚油にたくさん塩を入れたもので傷口が

ふさがらないように傷口からいつでも汁が出るようになっている結局浸透圧だ

よね傷口が乾燥したら困るわけでジャクジャクしていたら破傷風菌が発生しな

いわけさだからアンダマースはリュウキュウサルボウにも一緒によく使ったわけ

さアンダマースを入れるのはこの種だけじゃないからだいたいリュウキュウ

サルボウのサイズこれより大きいやつも使わないしこれより小さいやつもほと

んど使っていないイソハマグリとかいろいろあるけどもうこの程度(リュウキュ

ウサルボウの大きさ)ですねリュウキュウサルボウはハマグリよりも深くて詰め

やすいんですよこれも昔の人の知恵ですねアンダマース入れたりハブのアン

ダとか容器がたくさんあるという時代じゃないけど貝を紐で口をしばったりす

る必要はないちょうつがいがありますからねこのように二枚貝を使ったわけさ

魔除け

図 5 ハブの油やアンダマースを入れた

リュウキュウサルボウ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《魔除けの貝について》貝だったらスイジガイだけどクモガイも使う屋比久でもやっ

てましたよフ疫病返し

ーチゲーシといってゥワ豚小屋

ーヌフールだとかにぶら下げてねフー

チというのは伝染病さ昔の家には玄関はないさだから門や入口だとかにぶら

下げたりなんかして屋比久では今でもスイジガイだとかクモガイだとかあちこち

ぶら下がってる所もあるはずですよ

《シャコガイは使ってませんか》魔除けとしてシャコガイはこの辺では使ってないけど

奄美大島に近い所はよく石垣の所に飾られていますね沖縄ではよく津堅とか

久高あれはね地べたに埋める所もあるんですよ足を挟むといってよく人

が歩く所にだとか門の所の下に埋めておいて悪霊などの足を挟むとか魔除

けみたいなもの

(2)植物

染料

《染料はどんなのを使いましたか》染料としてよく使ったというのはサキシマスオウノ

キ方言ではウマヌタニギーまたはアカズミーギーともいう赤い色に染めるよ

サキシマスオウノキの皮を使う皮をはいで細かくして煎じ汁だったかどうか

わからんけどさとにかくシンメーナービー(大きな鍋)で炊いていたと思う初

めは赤いというより橙色みたいなんだけど染まった時には赤くなるわけこの

辺でやっているのをみたことがある詳しくはわからんよとにかく子どもの時に

みているだけだからサキシマスオウノキはどこでもあるっていうわけではないか

らなこの辺は川や湿地帯がありハマジンチョウが生えるぐらいですからサ

キシマスオウノキは多かったですよ方言では子どものころは種子が馬の睾丸

に似ているというウマヌタニギーといった年寄は赤く染めるという意味のアカズ

ミーギーといっていた

《昔は芭蕉布を染めたんですか》私が見たのは芭蕉じゃなくて木綿ですよ白い布で

すよ帯をつくったりするとかは戦前ですよ戦後は食糧難でその辺の話はよ

くあるけど染めて着けるとかという話はあまりきかない

《シャリンバイは佐敷にもありましたか》あったんだけど僕なんかは染物に使ってい

るとかなんとかいう話は覚えてないし知らない大きくなってからは染物に使っ

ているとかいう話は聞いたことはあるけど実際はわからん実を食べたりとかい

う話はあんまりないなシャリンバイはざらにあるやつではないよな

《フクギを染料に使いましたか》ここでも黄色い染料として使ったですよ染めるのは木

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

綿ですよ皮を煎じてね実を使ったかどうかはわからんですよほかの用途とし

ては屋敷林は普通

《実は食べましたか》臭くてここでは食べない屋敷林としてもよい防風林防潮

防火とかこれは火にも強いんですよ

《材木として使わなかったのですか》建材としての記憶はないこの辺では建材といっ

たらイーク(モッコク)とかチャーギ(イヌマキ)ですよここには何年も植

えておくような土地がないでしょ一応チャーギなど屋敷に植えてはいるけど

建材はやんばるからの輸入ですよ

リュウキュウバショウ 包み物や熱冷ましにも利用

《芭蕉は各家庭で織っていましたか》ほとんどの家庭で織っていた芭蕉自体にウーといっ

ていただいたい植えている所はヤ屋敷の後ろ側

ーヌクシーですよ

《ヤーヌクシーで足りましたか》あのころ糸を作るのもあるけど包装紙の代わりも

やったんですよまたイ味噌甕

ンスガーミの味噌を発酵するときカ甕

ーミの蓋の上を

芭蕉の葉を炙って被せる炙るのは葉をやわらかくするため逆に葉をそのまま

使用したら破ける火に炙ったら柔らかくはなるけど簡単には破けないだか

ら弁当を包むのもそれでやったですよ普通芭蕉の葉は横にちょっとひっぱると

スーと切れるんですよね炙るとそういうのがなくなるだから僕の印象として

はバサージンを作る糸をつむいでというのもわかるけど日常的によく使っ

ているというのはカーサ弁当ですよ握り飯のようなものにアンダンスー入れて

包んで持ったお祝いの時にムチウンブーといって竹で作った平たいザルみた

いなのがあるでしょ芭蕉の葉を炙ってからそれに敷いてその上に餅やカステラ

または焼き豆腐を置いたりなんかしているそういう日常的によく使うから家

屋の後ろに植えるやんばるの喜如嘉みたいに何百坪ではなくてここは小規

模でそんなに植える所はなかったここでは芭蕉の織物は主な仕事という

よりは片手間でやっていた

《昔は機織り機はありましたか》機織り機はありますよ座って織るジ地機

ーバタとか

タ高機

カハタというのはちょっと[座る位置が]高いというのがありますね

《各家庭何割ぐらいありましたか》屋比久だったらそうですねそんなに多くはなかっ

たと思うけど半分半分もないんじゃないかだいたいそれをやる所は余裕の

あるところですよそれと若い娘がいるところ

《オジーオバーはやらなかったのですか》オジーオバーは目がダメだよな首里では

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

老眼鏡かけてやったりするはずだけどここでは娘がやっていたんじゃないかな

《芭蕉の茎を熱冷ましに使わなかったか》使っている幹をとってきて皮を剥いで白

くなったところをまた一枚一枚剥いでこれをすりこぎみたいなボ棒

ーグヮーで叩

いて汁ジャカジャカーする

《剥いだのを叩くんですか》そうジャカジャカーして汁がでてくるのを重ねて枕に

するとか子どもだったら敷いてからその上に背中から寝かせるとかで熱さま

しにした

《飲ましたりしましたか》飲ますんじゃないよ

《葉に寝かせたりしましたか》ここでは葉は使わなかったですよ

《那覇ではその汁で背中をふいたらしいです》それあるかもしれんこちらはそうじゃ

ない汁ジャカジャカーしたのを敷きその上に寝かすわけですよ効果満点

ヒラミレモンの利用と語源

《ヒラミレモンの方言を教えて下さい》方言ではシークヮーサーですよ

《どんなのに使いましたか》食べることとあと芭蕉布に使うシークヮーサーという

名前の通り着古した芭蕉布は繊維がゆるゆるになるさシークヮーサーの汁に

つけると繊維がシュとするだからシークヮーサーというんです

《どういう意味ですか》シーというのは酢なんですよシークヮーサーでこれを与える

わけですよ芭蕉布にシークヮースンクヮースンというのはくわせるとか与

えるという意味ですよあの家畜にム餌を与える

ヌクヮースンというさクヮーサーは与え

るものさヌーサーというのはハ畑する人

ルサーとかのサー酢を与えるをシークヮース

ンというんです逆にシーをクヮースンというのは酢を食べさせるとか与える

とかになるそれで芭蕉の着物がくたびれた時にシークヮースンというんですよ

《文献などに書いてありましたか》いやこの辺での話ですよこの辺では佐敷屋比久

外間も外間のむこうもですねだから昔はバ芭蕉着

サージンなんていうのは日頃着

ける着物今は琉舞をする人たちがつける高級なのになってるけど昔はヒン

スームンがつける着物なんですよだからハ畑へ

ルカイイ行くのにも

チュシンヌ何をするにしても

ーシーニン

ムほとんどこればかり

ルウリバカーイチ着けているよーねー

チョーウセーヤーだから繊維がくたびれるわけですよ

それでヨロヨロになっている繊維を酢入れることでシャンとしたバサージン

にするということでシークヮースンというんですよ

《イメージがわかないけどどんな感じになるのですか》ちょうど縫いたての新し

い芭蕉着のようになるよ酸っぱいにシーサンというだろ前にもいったように

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

シークヮースンというのはシークヮーサーのシーをクヮースなんですよシー

をクヮースンの木だからシークヮーサーなんですよシークヮーサーっていうの

は酸っぱいものが出るからなんですよ酢が出るまあ難しく言えば酢酸そ

して着古した芭蕉着をいきかえさせるそのためにシークヮースンという

《シークヮーサーでバサーを洗うというのはあちこち聞いていました》今の芭蕉布を

蘇らせるというのはここだけの話じゃないと思うよそういった意味ではシー

クヮーサーは食べる以外にも大きな使命があったんですね方言名は芭蕉布とセッ

トみたいなものだから田舎ではシークヮーサーを屋敷内に植えられている

昔の人はねある一つのものを多面的に使っているというかね食べるだけじゃ

なくて日常生活にもシークヮースンということでも使っている

《はじめて聞きますがこのことは文献にありますか》ないですよシークヮーサーのそ

ういうのは昔の人は常識かもしれないけど

《方言は聞いていたけど気づきませんでした》方言名というのはだいたい生活のかかわ

りがあるというね

《洗い方について》ここではね芭蕉布を洗うのにビたらい

ンダーレーとかそれから非常

に大きな丈の高いタライみたいのがあるさ方言ではなんていうかな昔の豆腐

作る時なんかに汁をためるようなもの大きな桶よここではそれを使っていた

それでシークヮーサーも熟しているものじゃなくてまだ皮が黄色くならない

ものあれを切ってそしてつぶして種も一緒だったよ着物はそんなにない

からね何回もやることはそんなになかったはずだから自分のものは自分の家

でやっていただから特別にどこかの家だけがやるというようなたとえばこれ

が上手で商売しているというようなことはこの辺ではなかったもうごく普通

にやるけど各家庭には毎年やるような着物の数はないので毎年はやらないわ

けさ

《畑仕事している人には必要では》ハルサーに使っているといってもそんなになんてい

うのかな新しくするなんていうことはよっぽどじゃないかぎりやらないですよ

だからバサーでも模様が入っているのがあるあのどっちかっていうと方言

でトゥンジヘンジーっていうんだけどちょっとした買い物ちょっとした所に

行く時につけるというのそんなのはシークヮースンというのをやるわけだけど

年に一度なんてやらないよたまにくたびれた時に再生するくらいのものだよ

《方言の呼び方の種類はありましたか》基本的には全部シークヮーサーです

《品種がありましたか》今いろんな品種がありますよね例えばクガニーグヮーかカー

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ブチーというのもあったですねいろいろあったと思いますけどねまあここ

にあるのは普通によくいわれているシークヮーサーというものです

食用または遊び等で食べた草木

《食用の草にはどのようなものがありましたか》ニンブトゥカー(スベリヒユ)は酢のも

のとしてよく食べた野山の草では一番食べてるのはフーチバー(ニシヨモギ)

ンジャナ(ホソバワダン)も食べた戦争や終戦時はチーファンプー(ツワブキ)

も食べたチーファンプーの茎の皮を剥いであれはアクが強いから流れる川につ

けてアクをぬいて食べたそれからヘゴの芯あれはダイコンみたいにおいしい

ですよヘゴは食べる習慣というよりは僕なんかは戦争でなにもなくなってか

ら食べたよ(12)

《ソテツ》方言でスーティーチャー戦後は何もないからスーティーチャーも毒抜き

して食べていますよ(13)

《毒抜きの方法は知っていますか》地元の人は水で洗ってからね

《昔から食べていたかもしれませんね》茎なんかは昔は食べてないんですよ昔は実

を砕いて毒抜きしてますよ毒抜きは水にさらしてカビを生えさせました

《毒が抜けたのがわかりますか》僕はその辺がわからんけど

《幹も食べましたか》戦前は幹を食べてないが戦後は幹もウムクジシリーで細かにし

て食べたしかしあれはねノコギリのカスみたいでなんの栄養もないご飯と

混ぜてまたは芋と混ぜたりなんかしたけどあんまり食べてないですよあれ

食べられるもんじゃないよなにもないから食べたんだよ僕らも一二度食べ

たかなといったぐらいだよ実は食べてるけどもう実は(みんな食べていた

ので)なかったよ

《ソテツの実を食べたのはいつ頃ですか》割って白い中身を出して水洗いをして食べ

ていたはずですけどね戦前は全然食べてないですよ僕なんか食用にしたとい

うのは終戦直後ですよ当時は食べ物がなにもなかったというくらいだったから

《ヘゴ類》ぜんまい(ヘゴの芽)なんかは柔らかくてよく食べた

《タラノキ》こっちにはない

《シナノガキ》シナノガキは佐敷の植物調査した時には崖の所にはあったけどね

《タイワンウオクサギ》方言でクサランギーワーといった虫がよくつくんですよねこ

れは実を食べるというよりは葉を食べていたんですね若い葉っぱを野菜として

(12)ensp後日確認したところ 戦中 現在の金武町に避難した時にヒカゲヘゴを食べたという

(13)ensp戦後 ソテツを食べたことについては知念 (1995) にも報告されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

食べた古い葉は使わない葉っぱはヌ何と言ったかな

ーンディーガちょうど青菜の野菜と同

じ扱いでさジューシーとか野菜チャンプルーみたいに使った

《クサギ》こっちはあるよあるけどそんなに身近にはないな垣花城址とか山の中には

いっぱいあるさこの辺にはないんですから利用についてはわからんね

《モクタチバナ》これはあることはありますよ小谷なんかにはいっぱいありますよ生

活にはあまり使ってないですね実は食べたことない

《タイミンタチバナ》これは南部ではみないですねこれはやんばるですね

《ヤマグワ》方言でクヮーギ実はクヮーギヌナイといいそのままでよく食べた食べ

てあまり腹に満たないうんと熟したやつは年寄りが酒に漬けて色をつけて

喜んで飲んだりしてましたよ私も小さいころ見覚えがありますだけどやっぱり

子どものころは食べに行きますまあ遊びとして食べているんだがお腹を満たす

ものではない

《他に使っていませんか》年とった桑はだめだけど若くてまっすぐに伸びた茎はちょ

うどユーナ(オオハマボウ)と同じで樹皮がパーッと長く剥げるわけですよ

それを池などの水につけておくと腐れて繊維が残るわけですよこれで縄をなっ

ている

《遊びとは違いますか》遊びじゃないですよ仕事というよりは生活この桑の綱は真っ

白で下駄の鼻緒上等な鼻緒に使ったりしたんですよちょうどユーナも同じで

束ねて池なんかにつけて腐らせるわけですよそしたら白い繊維が残るそれを

シルジナといってですね下駄の鼻緒とかツルベの紐に使う

《そんなに丈夫だったんですか》うんと丈夫ですよまたシュロでも縄作っていたよ

スルガージナといってスルガージナはね漁民が重宝したですよ簡単に腐ら

ないですよまたスルガージナは水をはじくんですよ

《モモタマナ》方言ではクファディーサーといっているクファディーサーはこっちでは

あんまり使ってないですねウこれは

リヤナ泣き声で

チクゥイーディドーフ成長する

ドゥイーユル(人

の泣き声で大きくなるといわれている)といって墓地などに植えておりあまり

屋敷林としては植えない僕の墓地にも23本はありますよクファディーサー

というと大きな屋慶名クファディーサー(図6)が有名(14)

《ギーマ》ギーマはこの辺あんまりないですよ今の南城市玉城の体育館のある所にはヤ

ンバルヤマといってあそこら辺にはギーマがありましただから名前もヤンバルヤ

マといっていた浦添市の茶山団地付近は僕が学生の頃は山があってギーマなん

(14)ensp琉球古典音楽の 「屋慶名こはでさ節」 「屋慶名節」 が知られており 沖縄民謡でも歌われている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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目崎茂和(1980)琉球列島における島の地形的分類とその帯状分布琉球列島の地質学研究 5

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盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

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調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

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西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 4: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 23 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

アカエルをとりに

タビートゥイガではなくアタビースグイガといって長い竹をちょうど蠅叩き

みたいに使う竹はチンブク(ホテイチク)ではない笊を作る竹シマダキ(ホ

ウライチク)があるだろ僕の伯父が使っていたのは15 mくらいのシマダキの

先をくだいてその先をひらいてこれで叩くわけアタビーを蠅叩きみたいにね

とりにいくのは夜じゃないよ朝早く田んぼの畔から歩きながらね田んぼの中に

は入らないで畔を歩きながらアタビーを叩くわけ

《調理方法》田んぼからとってきたら普通は腹わた出して熱いお湯に入れてそし

て皮をむくんですよそのあとは刻んで食べる(3)

頭も含めて全部食べたもう油

で炒めるなんて贅沢ですよだから刻んで汁のだしにした骨があるでしょ炊い

たら簡単にコリコリと折れるまた刻んだらわからなくなるので簡単に食べられる

そんなに刻むといっても粗くしか刻まないそれからあまり大きな骨はないからね

幼児を救った動物たち ヌマガエルやネズミなど

《幼児の栄養源》昔はメーニンナシというのがある産後の制限ができないで今年も

産んでその次年も産んでそれで前の子が手が離れないうちに次の子が生まれ

るそうすると前の子は栄養失調なるわけだからカエルをとってきてあげた

りタコをとってきてまたは買ってきてカマドの上に頭のところをさげておい

て乾燥させてあげた燻製みたいな感じですねそれを切ってしゃぶらせるタコ

はものすごく消化がいいしタンパク質の栄養化も高い調理もいらないので簡

単さだからムシチワラバー(4)

の元気づけるのはこの辺(5)

ではタコですよそし

てタコがとれないまたは買えないところはカエルもちろん金のあるところは

ちゃんと乾燥してない生鰹があるあれをしゃぶらせるわけこれは金のあるとこ

ろだが金のない貧乏人とかハルサーとかはタコですよタコは普通海でとれるタ

コであればよかったもちろんイカでもいいんだけどタコの方がボリュウムがあ

るさカマドの上のタコははじめは乾燥が早い足から子どもに切ってしゃぶらせ

る弟妹ができたために兄姉はおっぱいが飲めないから栄養が行き届かな

いで痩せてしまうタンカー誕生一年ぐらいの子どもは栄養失調だから方言で

ウ(直訳弟妹見痩せ)

ットゥミーヨーガリームシチカカト-ンとか言っただからタコなんかあ

げよったよアタビーももちろんあげるけどそれからネズミなんかもあげた

(3)ensp戦前の那覇市におけるカエルの調理方法の聞き取りについては当山 (2002) に報告されている

(4)ensp 栄養失調で痩せている状態 元気のない状態に加えて 腸内寄生虫におかされている状態の子どもをいうムシチャーともいう (知念盛俊氏による)

(5)ensp知念氏の 「この辺」 はおおよそ南城市佐敷字屋比久周辺をさす

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ハ畑のネズミ

ルエンチュは芋しか食べてないから上等さヤ家のネズミ

ーエンチュは食べなかった(6)

ハルエンチュの捕獲と料理方法

《ネズミの捕まえ方》ハルエンチュはパパチンコのネズミ取り

ッティカサーがあるさあれで捕ってきたもの

を皮を剥いで焼いてから腹わた出して両足や尻尾はとってだいたいお汁に入

れたりした肉をとるなんていうのは難しいですからねだけど小さな子どもに

は炊いてから肉を一つずつとってあげる発展途上国でもどこでも子どもの死

亡率が高いですよねカエルやネズミなどはある意味では子どもの命を救ったも

のです

《マングース》マングースもそうですよマングースヤ罠

ーマといって仕掛けを引っ張っ

たら落ちるようになっている箱を作ってウサトウキビ

ージ畑とかその辺においておく(7)

マン

グースをとったらそのまま開けたら逃げるから箱ごと池に入れて窒息させるわ

けですよそれから料理する(8)

ネズミと同じような感じで料理するお汁なんか

にして味はウサギと同じですよネズミよりボリュウムがあるけどネズミみたい

にたくさんはとれない

《それは戦後ですか》戦後しばらくいや戦前もとっていた戦後はもうなんでも

かんでも食べてますよ戦争終わって一番苦しかったのは一年ぐらいです

《他の地域でもマングースを食べていましたか》食べていたと思うよ1945 年(戦争中)

はいくら艦砲があっても畑には芋もあるしサトウキビも残っているので飢え

はしのげたがその芋を食べたあとは植えてないわけだから戦後まもなくは

食糧がなくなってスーティーチャー(ソテツ)などを食べて飢えをしのいだ

泥を使って調理する

《芭蕉と泥を使う》ワ私たち

ッター子どものころは近くの海に行って魚をとった魚をとった

らヤーサドゥアクトゥすぐ食べる食べる方法は芭蕉の葉でくるんで次に泥で

包んでそれをそのまま薪の中に入れる

《泥はどれくらいの厚さですか》泥はタ田んぼの泥

ードゥルで魚に泥がつかないように包んだ

バナナか芭蕉の葉がなかったらユーナ(オオハマボウ)の葉それからンバシ(ク

ワズイモ)の葉ああいう物で包んでその上を泥で包む泥はちょっと固めの

(6)ensp棲んでいる所によって呼び方が異なるが いずれもクマネズミと思われる (当山 1989)

(7)enspおおよその箱の大きさ等について聞いたところ次のとおりであった 罠の入口は30cm times 30cm ぐらい 奥行きは 50cm ぐらいでちょうど大きなネコが入るぐらいの大きさの板の箱 蓋と餌の仕掛けとの間はヤマダキを天秤のようにして箱の上にセットした マングースが仕掛けに触れると 落とし蓋が本体の溝からスライドして落ちるようになっていた 餌はネズミなどを使用した 時々 ネコも罠にかかった

(8)ensp マングースを食べたことについては知念 (1995) を参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ものでないといけないそうやってちょうど炊

けるころになったら泥がポロポロ落ちてくる

泥が落ちてきて葉っぱが見えてきたらもう

炊けてる

《これは昔からある方法ですか》昔から大人が

やったかどうかはわからんけど終戦直後

ヤひもじい思いをしているからねー

ーサドゥアシェーヤーワ子どもたち

ラバーターどうし

でやった西表島調査の時魚をとると若い連

中はすぐ串で刺して焼く串刺ししたら周囲が黒焦げですよねそうじゃなくて

芭蕉と泥で包む方法で焼かせた若い連中がびっくりしていたよ今はアルミホ

イルがあるけどアルミホイルも焦げたりするこれは全然焦げないね芭蕉の

葉っぱの水分があったりするからガサガサにもならないしホンワカして炊ける

西表では芋もそんなふうにしてやった芋は簡単ですよ芋はなにも包まないで

生の芋に泥を塗るんですよ

《芭蕉を使った方がいいんじゃないですか》まあ使った方がいいけどどうせ芋は皮

をむいて食べるんだから芭蕉で包んだりしなかったですよ

貴重な食料だったオキナワウスカワマイマイ

《食用にしたカタツムリの種類》沖縄島南部ではオキナワウスカワマイマイ(図2)と

パンダナマイマイを食べていたがウスカワマイマイが多かったパンダナマイマ

イはウスカワマイマイに比較すると固く数も多くはないウスカワマイマイが

柔らかくて一番食べやすい

《どのようにして食べましたか》チかたつむり

ンナン(ここではオキナワウスカワマイマイ)

はカ芋

ンダバー畑にいっぱいいるそれを畑からとってきたら上等の芋をちゃ

んと洗って生芋の皮がついたまま輪切りにしてザルに入れその中にチンナ

ンを入れ芋を一週間くらいチンナンに食べさせる一週間したらウ芋の糞を

ムグス

マ排泄するわけ

イルバーテーそしたらチンナンの消化器は掃除され芋のアンコみたいに置

き換わるわけよだからウムグスを出したらそのまま炊いても中は消化途中

の芋しか入ってないことになるこれをお爺さんお婆さんは当然のようにやっ

ていたこの利用方法が僕が一番感心している昔の人たちの生活の知恵

《調理方法は》ウスカワマイマイ(チンナン)をそのまま茹でてそれから中身を抜く

口から消化管は胴体にあって筋肉になっている足のところの筋肉は残して渦

図 2 オキナワウスカワマイマイ (城間恒宏

撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

巻きの内蔵で肝臓などは切り捨てる消化管には芋が残るそのあとウスカワ

マイマイはアメリカマイマイみたいにはよだれはあまりないが一応カマドの

灰なんかで洗ったりした灰で洗ってそのあとはア油味噌

ンダインスー(9)

の具にしたり

切ってからお汁のだしにしたりした

《どのような食べ方がありましたか》アンダインスーはおいしい普通はアンダインスー

には三枚肉を入れるが三枚肉なんていうのは時間がたつと固くなるチンナ

ンの身はあまり固くならないわけアンダンスーの具として1匹を3つか4つ

ぐらいに刻んで入れる戦後は僕もよく食べたおいしいですよ昔は酢醤油み

たいな上等のはないよ昔は別の家はわからんけど僕の家では味噌汁のだし

なんかにも使うけど主にアンダンスーでしたね

戦後に広がったアフリカマイマイ

《アフリカマイマイを食べましたか》戦後はアフリカマイマイをよく食べたが固いんで

すよアフリカマイマイは普通アンダンスーにしないな汁のだしなんかにした

このおかげで沖縄の人はタンパク質不足にならなかったんじゃないかな終戦直

後はたくさん食べたよ(10)

いやいやながら食べたというよりはもう生きるために

また終戦直後は今よりもたくさんあった写真にもあったけど1トントラックに

いっぱいとかまた移入して入った時期というのは貝殻も厚くて大きかったみ

たい終戦直後アフリカマイマイを刻んでおつゆに入れて食べましたよ少ない

けど自分らでつくる味噌を使用した薄い味噌汁に芋と一緒に入れた

《戦前からいたのですか》昭和 18 年か 19 年ころタイワンチンナマーといって金出し

て買ってねソ素麺箱

ーミンバコに入れて芋なんかを入れて子どもたちが養っていた

んですよ方言でタイワンチンナマーともショクヨウチンナンともいうタイワ

ンチンナマーは台湾から入ってきたからといってるんですけど戦前は僕も父

親にせがんで二つ買ってもらった昔はソそうめん

ーミンが入っていた板の箱(ソーミ

ンバコ)があるんですよねそれに入れて野菜のくずなどを一緒に入れて養った

食べるために養うじゃなくてこれが卵を産んで孵化するのを楽しみにしてた

ですよだから戦前は食べてないですよまた戦前からいっぱいいたわけでは

なく増えたのは戦後ですよ戦争の時に子どもたちが飼育していたのがみんな

逃げ出して田畑いっぱいにひろがっただから現在は少なくなったけど終戦後

はいっぱいあったんですよそれで戦後中南部ではアフリカマイマイが一番

(9)ensp味噌を方言でインスと呼ぶ (知念氏より)

(10)ensp戦後 アフリカマイマイを食べたことについては 知念 (1995) にも詳しく記されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のタンパク質源となった

カタツムリの喧嘩遊び

《カタツムリの喧嘩遊びに使う種類》オ喧嘩遊び

ーラセーに利用

するのはシュリマイマイシュリマイマイが大き

いからパンダナマイマイのような小さなマイマ

イは握り難いわけまたウスカワマイマイは

使ってない殻が少し柔らかすぎてそんなに丈

夫じゃないしそれに小さいし丸っこい僕ら

はシュリマイマイしかやらんかったただヤマ

タニシの殻は固いのでインチキして隠しておく

オーラセーの時に急にヤマタニシを出してポ

コッと相手の殻を割ったりするそれから子ども

の頃のジ知恵

ンブンだけどオーラセーには死んだあ

との殻を使い生きてるのは使わない中味が

入っている生きたのが強いからそれをインチキ

して使うまたジンブンのある連中は非常に

細かいニービ(11)

をさらに細かくして殻の渦に入れてその中に水を入れるそして

殻の底で沈殿して固まり渦巻いてるところを見ても表面からははみえないように

なっているそうするとね空の殻よりも土が入っている殻が強いわけさワ私のが

ームン

が一番チ強い

ューサンというようなことでオーラセーをやってねあとでインチキがば

れたらメげんこつ

ーゴーサーこれは南城市屋比久近辺の話だが僕は那覇市の楚辺小

学校にも一時期居たことがある楚辺近辺でもやっぱりシュリマイマイだったシュ

リマイマイ以外に使ってないんじゃないかな

《喧嘩遊びの方法》喧嘩させる時はこうして握る(図3)パンダナマイマイなんて小

さいから握れないけどシュリマイマイだったら握れるわけさ次に[両手で握手

をするように]お互い同士で握って殻頂と殻頂をあわせそしてお互いに殻頂

がずれてないかどうか確認して[合わせた殻頂に圧力がかかるように]押すわけ

さ(図4)ところが殻の頂点からずらしたところは弱いのでユ欲張り

ークーはわ

ざと自分の頂点をずらして相手の弱いところに当てて急に押すそしたら勝つ

というインチキをするわけさタ誰が

ーガ一番チ強いのを持っているか

ューバームッチョーンってなった時

(11)ensp沖縄島南部にみられる島尻層群中の小禄砂岩のこと

図 3 チンナンオーラセーの握り方を実演

する知念氏

図 4 チンナンオーラセーの戦わせ方を実

演する知念氏 (相手側)と筆者 (手前

左手で写真撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

にねまた強くするといってア油を付ける

ンダグヮー

チキーしたけど強くはならなかった

マルタニシやフナを食べる

《アフリカマイマイが入る前の様子》戦前はアフリカ

マイマイが入ってくる前に食べているのはおそら

くほとんどがウスカワマイマイですよそれと

ターンナ(マルタニシ)ターンナはいつも稲刈

りが終わって田んぼを耕す時にとるあのころは

農薬もなにも使わないからいっぱいいましたよこの辺では一年中いつでも食べる

わけじゃなくて稲刈りの時にとってフナもその時ですよその時はだいたい一

網打尽那覇市場にはシ滋養強壮食

ンジムン用として出ていた

ハブと貝

《ハブは食べましたか》ハブはあまり食べるものではなかったただね傷薬としてハ

ブの油を使っているカマの傷などに傷薬としてそれを塗るハブを捕まえた

ら油をとって塩漬けした塩漬けをいろんな容器には入れるけどさ今みたいに

ね小さなビンとか容器とかがたくさんあるわけじゃないわけ昔リョウフとか

いうゼリー状の塗り薬があってその容器とかまたハマグリの蓋をあわせたも

のに入れたりなんかして保管をしたんですよつがいになったリュウキュウサルボ

ウ(図5)もよく使った油は持ち歩かないのでア豚油の塩漬け

ンダマースはこれに入れたんで

すよアンダマースは破傷風よけさ豚油にたくさん塩を入れたもので傷口が

ふさがらないように傷口からいつでも汁が出るようになっている結局浸透圧だ

よね傷口が乾燥したら困るわけでジャクジャクしていたら破傷風菌が発生しな

いわけさだからアンダマースはリュウキュウサルボウにも一緒によく使ったわけ

さアンダマースを入れるのはこの種だけじゃないからだいたいリュウキュウ

サルボウのサイズこれより大きいやつも使わないしこれより小さいやつもほと

んど使っていないイソハマグリとかいろいろあるけどもうこの程度(リュウキュ

ウサルボウの大きさ)ですねリュウキュウサルボウはハマグリよりも深くて詰め

やすいんですよこれも昔の人の知恵ですねアンダマース入れたりハブのアン

ダとか容器がたくさんあるという時代じゃないけど貝を紐で口をしばったりす

る必要はないちょうつがいがありますからねこのように二枚貝を使ったわけさ

魔除け

図 5 ハブの油やアンダマースを入れた

リュウキュウサルボウ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《魔除けの貝について》貝だったらスイジガイだけどクモガイも使う屋比久でもやっ

てましたよフ疫病返し

ーチゲーシといってゥワ豚小屋

ーヌフールだとかにぶら下げてねフー

チというのは伝染病さ昔の家には玄関はないさだから門や入口だとかにぶら

下げたりなんかして屋比久では今でもスイジガイだとかクモガイだとかあちこち

ぶら下がってる所もあるはずですよ

《シャコガイは使ってませんか》魔除けとしてシャコガイはこの辺では使ってないけど

奄美大島に近い所はよく石垣の所に飾られていますね沖縄ではよく津堅とか

久高あれはね地べたに埋める所もあるんですよ足を挟むといってよく人

が歩く所にだとか門の所の下に埋めておいて悪霊などの足を挟むとか魔除

けみたいなもの

(2)植物

染料

《染料はどんなのを使いましたか》染料としてよく使ったというのはサキシマスオウノ

キ方言ではウマヌタニギーまたはアカズミーギーともいう赤い色に染めるよ

サキシマスオウノキの皮を使う皮をはいで細かくして煎じ汁だったかどうか

わからんけどさとにかくシンメーナービー(大きな鍋)で炊いていたと思う初

めは赤いというより橙色みたいなんだけど染まった時には赤くなるわけこの

辺でやっているのをみたことがある詳しくはわからんよとにかく子どもの時に

みているだけだからサキシマスオウノキはどこでもあるっていうわけではないか

らなこの辺は川や湿地帯がありハマジンチョウが生えるぐらいですからサ

キシマスオウノキは多かったですよ方言では子どものころは種子が馬の睾丸

に似ているというウマヌタニギーといった年寄は赤く染めるという意味のアカズ

ミーギーといっていた

《昔は芭蕉布を染めたんですか》私が見たのは芭蕉じゃなくて木綿ですよ白い布で

すよ帯をつくったりするとかは戦前ですよ戦後は食糧難でその辺の話はよ

くあるけど染めて着けるとかという話はあまりきかない

《シャリンバイは佐敷にもありましたか》あったんだけど僕なんかは染物に使ってい

るとかなんとかいう話は覚えてないし知らない大きくなってからは染物に使っ

ているとかいう話は聞いたことはあるけど実際はわからん実を食べたりとかい

う話はあんまりないなシャリンバイはざらにあるやつではないよな

《フクギを染料に使いましたか》ここでも黄色い染料として使ったですよ染めるのは木

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

綿ですよ皮を煎じてね実を使ったかどうかはわからんですよほかの用途とし

ては屋敷林は普通

《実は食べましたか》臭くてここでは食べない屋敷林としてもよい防風林防潮

防火とかこれは火にも強いんですよ

《材木として使わなかったのですか》建材としての記憶はないこの辺では建材といっ

たらイーク(モッコク)とかチャーギ(イヌマキ)ですよここには何年も植

えておくような土地がないでしょ一応チャーギなど屋敷に植えてはいるけど

建材はやんばるからの輸入ですよ

リュウキュウバショウ 包み物や熱冷ましにも利用

《芭蕉は各家庭で織っていましたか》ほとんどの家庭で織っていた芭蕉自体にウーといっ

ていただいたい植えている所はヤ屋敷の後ろ側

ーヌクシーですよ

《ヤーヌクシーで足りましたか》あのころ糸を作るのもあるけど包装紙の代わりも

やったんですよまたイ味噌甕

ンスガーミの味噌を発酵するときカ甕

ーミの蓋の上を

芭蕉の葉を炙って被せる炙るのは葉をやわらかくするため逆に葉をそのまま

使用したら破ける火に炙ったら柔らかくはなるけど簡単には破けないだか

ら弁当を包むのもそれでやったですよ普通芭蕉の葉は横にちょっとひっぱると

スーと切れるんですよね炙るとそういうのがなくなるだから僕の印象として

はバサージンを作る糸をつむいでというのもわかるけど日常的によく使っ

ているというのはカーサ弁当ですよ握り飯のようなものにアンダンスー入れて

包んで持ったお祝いの時にムチウンブーといって竹で作った平たいザルみた

いなのがあるでしょ芭蕉の葉を炙ってからそれに敷いてその上に餅やカステラ

または焼き豆腐を置いたりなんかしているそういう日常的によく使うから家

屋の後ろに植えるやんばるの喜如嘉みたいに何百坪ではなくてここは小規

模でそんなに植える所はなかったここでは芭蕉の織物は主な仕事という

よりは片手間でやっていた

《昔は機織り機はありましたか》機織り機はありますよ座って織るジ地機

ーバタとか

タ高機

カハタというのはちょっと[座る位置が]高いというのがありますね

《各家庭何割ぐらいありましたか》屋比久だったらそうですねそんなに多くはなかっ

たと思うけど半分半分もないんじゃないかだいたいそれをやる所は余裕の

あるところですよそれと若い娘がいるところ

《オジーオバーはやらなかったのですか》オジーオバーは目がダメだよな首里では

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

老眼鏡かけてやったりするはずだけどここでは娘がやっていたんじゃないかな

《芭蕉の茎を熱冷ましに使わなかったか》使っている幹をとってきて皮を剥いで白

くなったところをまた一枚一枚剥いでこれをすりこぎみたいなボ棒

ーグヮーで叩

いて汁ジャカジャカーする

《剥いだのを叩くんですか》そうジャカジャカーして汁がでてくるのを重ねて枕に

するとか子どもだったら敷いてからその上に背中から寝かせるとかで熱さま

しにした

《飲ましたりしましたか》飲ますんじゃないよ

《葉に寝かせたりしましたか》ここでは葉は使わなかったですよ

《那覇ではその汁で背中をふいたらしいです》それあるかもしれんこちらはそうじゃ

ない汁ジャカジャカーしたのを敷きその上に寝かすわけですよ効果満点

ヒラミレモンの利用と語源

《ヒラミレモンの方言を教えて下さい》方言ではシークヮーサーですよ

《どんなのに使いましたか》食べることとあと芭蕉布に使うシークヮーサーという

名前の通り着古した芭蕉布は繊維がゆるゆるになるさシークヮーサーの汁に

つけると繊維がシュとするだからシークヮーサーというんです

《どういう意味ですか》シーというのは酢なんですよシークヮーサーでこれを与える

わけですよ芭蕉布にシークヮースンクヮースンというのはくわせるとか与

えるという意味ですよあの家畜にム餌を与える

ヌクヮースンというさクヮーサーは与え

るものさヌーサーというのはハ畑する人

ルサーとかのサー酢を与えるをシークヮース

ンというんです逆にシーをクヮースンというのは酢を食べさせるとか与える

とかになるそれで芭蕉の着物がくたびれた時にシークヮースンというんですよ

《文献などに書いてありましたか》いやこの辺での話ですよこの辺では佐敷屋比久

外間も外間のむこうもですねだから昔はバ芭蕉着

サージンなんていうのは日頃着

ける着物今は琉舞をする人たちがつける高級なのになってるけど昔はヒン

スームンがつける着物なんですよだからハ畑へ

ルカイイ行くのにも

チュシンヌ何をするにしても

ーシーニン

ムほとんどこればかり

ルウリバカーイチ着けているよーねー

チョーウセーヤーだから繊維がくたびれるわけですよ

それでヨロヨロになっている繊維を酢入れることでシャンとしたバサージン

にするということでシークヮースンというんですよ

《イメージがわかないけどどんな感じになるのですか》ちょうど縫いたての新し

い芭蕉着のようになるよ酸っぱいにシーサンというだろ前にもいったように

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

シークヮースンというのはシークヮーサーのシーをクヮースなんですよシー

をクヮースンの木だからシークヮーサーなんですよシークヮーサーっていうの

は酸っぱいものが出るからなんですよ酢が出るまあ難しく言えば酢酸そ

して着古した芭蕉着をいきかえさせるそのためにシークヮースンという

《シークヮーサーでバサーを洗うというのはあちこち聞いていました》今の芭蕉布を

蘇らせるというのはここだけの話じゃないと思うよそういった意味ではシー

クヮーサーは食べる以外にも大きな使命があったんですね方言名は芭蕉布とセッ

トみたいなものだから田舎ではシークヮーサーを屋敷内に植えられている

昔の人はねある一つのものを多面的に使っているというかね食べるだけじゃ

なくて日常生活にもシークヮースンということでも使っている

《はじめて聞きますがこのことは文献にありますか》ないですよシークヮーサーのそ

ういうのは昔の人は常識かもしれないけど

《方言は聞いていたけど気づきませんでした》方言名というのはだいたい生活のかかわ

りがあるというね

《洗い方について》ここではね芭蕉布を洗うのにビたらい

ンダーレーとかそれから非常

に大きな丈の高いタライみたいのがあるさ方言ではなんていうかな昔の豆腐

作る時なんかに汁をためるようなもの大きな桶よここではそれを使っていた

それでシークヮーサーも熟しているものじゃなくてまだ皮が黄色くならない

ものあれを切ってそしてつぶして種も一緒だったよ着物はそんなにない

からね何回もやることはそんなになかったはずだから自分のものは自分の家

でやっていただから特別にどこかの家だけがやるというようなたとえばこれ

が上手で商売しているというようなことはこの辺ではなかったもうごく普通

にやるけど各家庭には毎年やるような着物の数はないので毎年はやらないわ

けさ

《畑仕事している人には必要では》ハルサーに使っているといってもそんなになんてい

うのかな新しくするなんていうことはよっぽどじゃないかぎりやらないですよ

だからバサーでも模様が入っているのがあるあのどっちかっていうと方言

でトゥンジヘンジーっていうんだけどちょっとした買い物ちょっとした所に

行く時につけるというのそんなのはシークヮースンというのをやるわけだけど

年に一度なんてやらないよたまにくたびれた時に再生するくらいのものだよ

《方言の呼び方の種類はありましたか》基本的には全部シークヮーサーです

《品種がありましたか》今いろんな品種がありますよね例えばクガニーグヮーかカー

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ブチーというのもあったですねいろいろあったと思いますけどねまあここ

にあるのは普通によくいわれているシークヮーサーというものです

食用または遊び等で食べた草木

《食用の草にはどのようなものがありましたか》ニンブトゥカー(スベリヒユ)は酢のも

のとしてよく食べた野山の草では一番食べてるのはフーチバー(ニシヨモギ)

ンジャナ(ホソバワダン)も食べた戦争や終戦時はチーファンプー(ツワブキ)

も食べたチーファンプーの茎の皮を剥いであれはアクが強いから流れる川につ

けてアクをぬいて食べたそれからヘゴの芯あれはダイコンみたいにおいしい

ですよヘゴは食べる習慣というよりは僕なんかは戦争でなにもなくなってか

ら食べたよ(12)

《ソテツ》方言でスーティーチャー戦後は何もないからスーティーチャーも毒抜き

して食べていますよ(13)

《毒抜きの方法は知っていますか》地元の人は水で洗ってからね

《昔から食べていたかもしれませんね》茎なんかは昔は食べてないんですよ昔は実

を砕いて毒抜きしてますよ毒抜きは水にさらしてカビを生えさせました

《毒が抜けたのがわかりますか》僕はその辺がわからんけど

《幹も食べましたか》戦前は幹を食べてないが戦後は幹もウムクジシリーで細かにし

て食べたしかしあれはねノコギリのカスみたいでなんの栄養もないご飯と

混ぜてまたは芋と混ぜたりなんかしたけどあんまり食べてないですよあれ

食べられるもんじゃないよなにもないから食べたんだよ僕らも一二度食べ

たかなといったぐらいだよ実は食べてるけどもう実は(みんな食べていた

ので)なかったよ

《ソテツの実を食べたのはいつ頃ですか》割って白い中身を出して水洗いをして食べ

ていたはずですけどね戦前は全然食べてないですよ僕なんか食用にしたとい

うのは終戦直後ですよ当時は食べ物がなにもなかったというくらいだったから

《ヘゴ類》ぜんまい(ヘゴの芽)なんかは柔らかくてよく食べた

《タラノキ》こっちにはない

《シナノガキ》シナノガキは佐敷の植物調査した時には崖の所にはあったけどね

《タイワンウオクサギ》方言でクサランギーワーといった虫がよくつくんですよねこ

れは実を食べるというよりは葉を食べていたんですね若い葉っぱを野菜として

(12)ensp後日確認したところ 戦中 現在の金武町に避難した時にヒカゲヘゴを食べたという

(13)ensp戦後 ソテツを食べたことについては知念 (1995) にも報告されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

食べた古い葉は使わない葉っぱはヌ何と言ったかな

ーンディーガちょうど青菜の野菜と同

じ扱いでさジューシーとか野菜チャンプルーみたいに使った

《クサギ》こっちはあるよあるけどそんなに身近にはないな垣花城址とか山の中には

いっぱいあるさこの辺にはないんですから利用についてはわからんね

《モクタチバナ》これはあることはありますよ小谷なんかにはいっぱいありますよ生

活にはあまり使ってないですね実は食べたことない

《タイミンタチバナ》これは南部ではみないですねこれはやんばるですね

《ヤマグワ》方言でクヮーギ実はクヮーギヌナイといいそのままでよく食べた食べ

てあまり腹に満たないうんと熟したやつは年寄りが酒に漬けて色をつけて

喜んで飲んだりしてましたよ私も小さいころ見覚えがありますだけどやっぱり

子どものころは食べに行きますまあ遊びとして食べているんだがお腹を満たす

ものではない

《他に使っていませんか》年とった桑はだめだけど若くてまっすぐに伸びた茎はちょ

うどユーナ(オオハマボウ)と同じで樹皮がパーッと長く剥げるわけですよ

それを池などの水につけておくと腐れて繊維が残るわけですよこれで縄をなっ

ている

《遊びとは違いますか》遊びじゃないですよ仕事というよりは生活この桑の綱は真っ

白で下駄の鼻緒上等な鼻緒に使ったりしたんですよちょうどユーナも同じで

束ねて池なんかにつけて腐らせるわけですよそしたら白い繊維が残るそれを

シルジナといってですね下駄の鼻緒とかツルベの紐に使う

《そんなに丈夫だったんですか》うんと丈夫ですよまたシュロでも縄作っていたよ

スルガージナといってスルガージナはね漁民が重宝したですよ簡単に腐ら

ないですよまたスルガージナは水をはじくんですよ

《モモタマナ》方言ではクファディーサーといっているクファディーサーはこっちでは

あんまり使ってないですねウこれは

リヤナ泣き声で

チクゥイーディドーフ成長する

ドゥイーユル(人

の泣き声で大きくなるといわれている)といって墓地などに植えておりあまり

屋敷林としては植えない僕の墓地にも23本はありますよクファディーサー

というと大きな屋慶名クファディーサー(図6)が有名(14)

《ギーマ》ギーマはこの辺あんまりないですよ今の南城市玉城の体育館のある所にはヤ

ンバルヤマといってあそこら辺にはギーマがありましただから名前もヤンバルヤ

マといっていた浦添市の茶山団地付近は僕が学生の頃は山があってギーマなん

(14)ensp琉球古典音楽の 「屋慶名こはでさ節」 「屋慶名節」 が知られており 沖縄民謡でも歌われている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

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当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

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島西銘誌編集委員会久米島町

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 5: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 24 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ハ畑のネズミ

ルエンチュは芋しか食べてないから上等さヤ家のネズミ

ーエンチュは食べなかった(6)

ハルエンチュの捕獲と料理方法

《ネズミの捕まえ方》ハルエンチュはパパチンコのネズミ取り

ッティカサーがあるさあれで捕ってきたもの

を皮を剥いで焼いてから腹わた出して両足や尻尾はとってだいたいお汁に入

れたりした肉をとるなんていうのは難しいですからねだけど小さな子どもに

は炊いてから肉を一つずつとってあげる発展途上国でもどこでも子どもの死

亡率が高いですよねカエルやネズミなどはある意味では子どもの命を救ったも

のです

《マングース》マングースもそうですよマングースヤ罠

ーマといって仕掛けを引っ張っ

たら落ちるようになっている箱を作ってウサトウキビ

ージ畑とかその辺においておく(7)

マン

グースをとったらそのまま開けたら逃げるから箱ごと池に入れて窒息させるわ

けですよそれから料理する(8)

ネズミと同じような感じで料理するお汁なんか

にして味はウサギと同じですよネズミよりボリュウムがあるけどネズミみたい

にたくさんはとれない

《それは戦後ですか》戦後しばらくいや戦前もとっていた戦後はもうなんでも

かんでも食べてますよ戦争終わって一番苦しかったのは一年ぐらいです

《他の地域でもマングースを食べていましたか》食べていたと思うよ1945 年(戦争中)

はいくら艦砲があっても畑には芋もあるしサトウキビも残っているので飢え

はしのげたがその芋を食べたあとは植えてないわけだから戦後まもなくは

食糧がなくなってスーティーチャー(ソテツ)などを食べて飢えをしのいだ

泥を使って調理する

《芭蕉と泥を使う》ワ私たち

ッター子どものころは近くの海に行って魚をとった魚をとった

らヤーサドゥアクトゥすぐ食べる食べる方法は芭蕉の葉でくるんで次に泥で

包んでそれをそのまま薪の中に入れる

《泥はどれくらいの厚さですか》泥はタ田んぼの泥

ードゥルで魚に泥がつかないように包んだ

バナナか芭蕉の葉がなかったらユーナ(オオハマボウ)の葉それからンバシ(ク

ワズイモ)の葉ああいう物で包んでその上を泥で包む泥はちょっと固めの

(6)ensp棲んでいる所によって呼び方が異なるが いずれもクマネズミと思われる (当山 1989)

(7)enspおおよその箱の大きさ等について聞いたところ次のとおりであった 罠の入口は30cm times 30cm ぐらい 奥行きは 50cm ぐらいでちょうど大きなネコが入るぐらいの大きさの板の箱 蓋と餌の仕掛けとの間はヤマダキを天秤のようにして箱の上にセットした マングースが仕掛けに触れると 落とし蓋が本体の溝からスライドして落ちるようになっていた 餌はネズミなどを使用した 時々 ネコも罠にかかった

(8)ensp マングースを食べたことについては知念 (1995) を参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ものでないといけないそうやってちょうど炊

けるころになったら泥がポロポロ落ちてくる

泥が落ちてきて葉っぱが見えてきたらもう

炊けてる

《これは昔からある方法ですか》昔から大人が

やったかどうかはわからんけど終戦直後

ヤひもじい思いをしているからねー

ーサドゥアシェーヤーワ子どもたち

ラバーターどうし

でやった西表島調査の時魚をとると若い連

中はすぐ串で刺して焼く串刺ししたら周囲が黒焦げですよねそうじゃなくて

芭蕉と泥で包む方法で焼かせた若い連中がびっくりしていたよ今はアルミホ

イルがあるけどアルミホイルも焦げたりするこれは全然焦げないね芭蕉の

葉っぱの水分があったりするからガサガサにもならないしホンワカして炊ける

西表では芋もそんなふうにしてやった芋は簡単ですよ芋はなにも包まないで

生の芋に泥を塗るんですよ

《芭蕉を使った方がいいんじゃないですか》まあ使った方がいいけどどうせ芋は皮

をむいて食べるんだから芭蕉で包んだりしなかったですよ

貴重な食料だったオキナワウスカワマイマイ

《食用にしたカタツムリの種類》沖縄島南部ではオキナワウスカワマイマイ(図2)と

パンダナマイマイを食べていたがウスカワマイマイが多かったパンダナマイマ

イはウスカワマイマイに比較すると固く数も多くはないウスカワマイマイが

柔らかくて一番食べやすい

《どのようにして食べましたか》チかたつむり

ンナン(ここではオキナワウスカワマイマイ)

はカ芋

ンダバー畑にいっぱいいるそれを畑からとってきたら上等の芋をちゃ

んと洗って生芋の皮がついたまま輪切りにしてザルに入れその中にチンナ

ンを入れ芋を一週間くらいチンナンに食べさせる一週間したらウ芋の糞を

ムグス

マ排泄するわけ

イルバーテーそしたらチンナンの消化器は掃除され芋のアンコみたいに置

き換わるわけよだからウムグスを出したらそのまま炊いても中は消化途中

の芋しか入ってないことになるこれをお爺さんお婆さんは当然のようにやっ

ていたこの利用方法が僕が一番感心している昔の人たちの生活の知恵

《調理方法は》ウスカワマイマイ(チンナン)をそのまま茹でてそれから中身を抜く

口から消化管は胴体にあって筋肉になっている足のところの筋肉は残して渦

図 2 オキナワウスカワマイマイ (城間恒宏

撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

巻きの内蔵で肝臓などは切り捨てる消化管には芋が残るそのあとウスカワ

マイマイはアメリカマイマイみたいにはよだれはあまりないが一応カマドの

灰なんかで洗ったりした灰で洗ってそのあとはア油味噌

ンダインスー(9)

の具にしたり

切ってからお汁のだしにしたりした

《どのような食べ方がありましたか》アンダインスーはおいしい普通はアンダインスー

には三枚肉を入れるが三枚肉なんていうのは時間がたつと固くなるチンナ

ンの身はあまり固くならないわけアンダンスーの具として1匹を3つか4つ

ぐらいに刻んで入れる戦後は僕もよく食べたおいしいですよ昔は酢醤油み

たいな上等のはないよ昔は別の家はわからんけど僕の家では味噌汁のだし

なんかにも使うけど主にアンダンスーでしたね

戦後に広がったアフリカマイマイ

《アフリカマイマイを食べましたか》戦後はアフリカマイマイをよく食べたが固いんで

すよアフリカマイマイは普通アンダンスーにしないな汁のだしなんかにした

このおかげで沖縄の人はタンパク質不足にならなかったんじゃないかな終戦直

後はたくさん食べたよ(10)

いやいやながら食べたというよりはもう生きるために

また終戦直後は今よりもたくさんあった写真にもあったけど1トントラックに

いっぱいとかまた移入して入った時期というのは貝殻も厚くて大きかったみ

たい終戦直後アフリカマイマイを刻んでおつゆに入れて食べましたよ少ない

けど自分らでつくる味噌を使用した薄い味噌汁に芋と一緒に入れた

《戦前からいたのですか》昭和 18 年か 19 年ころタイワンチンナマーといって金出し

て買ってねソ素麺箱

ーミンバコに入れて芋なんかを入れて子どもたちが養っていた

んですよ方言でタイワンチンナマーともショクヨウチンナンともいうタイワ

ンチンナマーは台湾から入ってきたからといってるんですけど戦前は僕も父

親にせがんで二つ買ってもらった昔はソそうめん

ーミンが入っていた板の箱(ソーミ

ンバコ)があるんですよねそれに入れて野菜のくずなどを一緒に入れて養った

食べるために養うじゃなくてこれが卵を産んで孵化するのを楽しみにしてた

ですよだから戦前は食べてないですよまた戦前からいっぱいいたわけでは

なく増えたのは戦後ですよ戦争の時に子どもたちが飼育していたのがみんな

逃げ出して田畑いっぱいにひろがっただから現在は少なくなったけど終戦後

はいっぱいあったんですよそれで戦後中南部ではアフリカマイマイが一番

(9)ensp味噌を方言でインスと呼ぶ (知念氏より)

(10)ensp戦後 アフリカマイマイを食べたことについては 知念 (1995) にも詳しく記されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のタンパク質源となった

カタツムリの喧嘩遊び

《カタツムリの喧嘩遊びに使う種類》オ喧嘩遊び

ーラセーに利用

するのはシュリマイマイシュリマイマイが大き

いからパンダナマイマイのような小さなマイマ

イは握り難いわけまたウスカワマイマイは

使ってない殻が少し柔らかすぎてそんなに丈

夫じゃないしそれに小さいし丸っこい僕ら

はシュリマイマイしかやらんかったただヤマ

タニシの殻は固いのでインチキして隠しておく

オーラセーの時に急にヤマタニシを出してポ

コッと相手の殻を割ったりするそれから子ども

の頃のジ知恵

ンブンだけどオーラセーには死んだあ

との殻を使い生きてるのは使わない中味が

入っている生きたのが強いからそれをインチキ

して使うまたジンブンのある連中は非常に

細かいニービ(11)

をさらに細かくして殻の渦に入れてその中に水を入れるそして

殻の底で沈殿して固まり渦巻いてるところを見ても表面からははみえないように

なっているそうするとね空の殻よりも土が入っている殻が強いわけさワ私のが

ームン

が一番チ強い

ューサンというようなことでオーラセーをやってねあとでインチキがば

れたらメげんこつ

ーゴーサーこれは南城市屋比久近辺の話だが僕は那覇市の楚辺小

学校にも一時期居たことがある楚辺近辺でもやっぱりシュリマイマイだったシュ

リマイマイ以外に使ってないんじゃないかな

《喧嘩遊びの方法》喧嘩させる時はこうして握る(図3)パンダナマイマイなんて小

さいから握れないけどシュリマイマイだったら握れるわけさ次に[両手で握手

をするように]お互い同士で握って殻頂と殻頂をあわせそしてお互いに殻頂

がずれてないかどうか確認して[合わせた殻頂に圧力がかかるように]押すわけ

さ(図4)ところが殻の頂点からずらしたところは弱いのでユ欲張り

ークーはわ

ざと自分の頂点をずらして相手の弱いところに当てて急に押すそしたら勝つ

というインチキをするわけさタ誰が

ーガ一番チ強いのを持っているか

ューバームッチョーンってなった時

(11)ensp沖縄島南部にみられる島尻層群中の小禄砂岩のこと

図 3 チンナンオーラセーの握り方を実演

する知念氏

図 4 チンナンオーラセーの戦わせ方を実

演する知念氏 (相手側)と筆者 (手前

左手で写真撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

にねまた強くするといってア油を付ける

ンダグヮー

チキーしたけど強くはならなかった

マルタニシやフナを食べる

《アフリカマイマイが入る前の様子》戦前はアフリカ

マイマイが入ってくる前に食べているのはおそら

くほとんどがウスカワマイマイですよそれと

ターンナ(マルタニシ)ターンナはいつも稲刈

りが終わって田んぼを耕す時にとるあのころは

農薬もなにも使わないからいっぱいいましたよこの辺では一年中いつでも食べる

わけじゃなくて稲刈りの時にとってフナもその時ですよその時はだいたい一

網打尽那覇市場にはシ滋養強壮食

ンジムン用として出ていた

ハブと貝

《ハブは食べましたか》ハブはあまり食べるものではなかったただね傷薬としてハ

ブの油を使っているカマの傷などに傷薬としてそれを塗るハブを捕まえた

ら油をとって塩漬けした塩漬けをいろんな容器には入れるけどさ今みたいに

ね小さなビンとか容器とかがたくさんあるわけじゃないわけ昔リョウフとか

いうゼリー状の塗り薬があってその容器とかまたハマグリの蓋をあわせたも

のに入れたりなんかして保管をしたんですよつがいになったリュウキュウサルボ

ウ(図5)もよく使った油は持ち歩かないのでア豚油の塩漬け

ンダマースはこれに入れたんで

すよアンダマースは破傷風よけさ豚油にたくさん塩を入れたもので傷口が

ふさがらないように傷口からいつでも汁が出るようになっている結局浸透圧だ

よね傷口が乾燥したら困るわけでジャクジャクしていたら破傷風菌が発生しな

いわけさだからアンダマースはリュウキュウサルボウにも一緒によく使ったわけ

さアンダマースを入れるのはこの種だけじゃないからだいたいリュウキュウ

サルボウのサイズこれより大きいやつも使わないしこれより小さいやつもほと

んど使っていないイソハマグリとかいろいろあるけどもうこの程度(リュウキュ

ウサルボウの大きさ)ですねリュウキュウサルボウはハマグリよりも深くて詰め

やすいんですよこれも昔の人の知恵ですねアンダマース入れたりハブのアン

ダとか容器がたくさんあるという時代じゃないけど貝を紐で口をしばったりす

る必要はないちょうつがいがありますからねこのように二枚貝を使ったわけさ

魔除け

図 5 ハブの油やアンダマースを入れた

リュウキュウサルボウ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《魔除けの貝について》貝だったらスイジガイだけどクモガイも使う屋比久でもやっ

てましたよフ疫病返し

ーチゲーシといってゥワ豚小屋

ーヌフールだとかにぶら下げてねフー

チというのは伝染病さ昔の家には玄関はないさだから門や入口だとかにぶら

下げたりなんかして屋比久では今でもスイジガイだとかクモガイだとかあちこち

ぶら下がってる所もあるはずですよ

《シャコガイは使ってませんか》魔除けとしてシャコガイはこの辺では使ってないけど

奄美大島に近い所はよく石垣の所に飾られていますね沖縄ではよく津堅とか

久高あれはね地べたに埋める所もあるんですよ足を挟むといってよく人

が歩く所にだとか門の所の下に埋めておいて悪霊などの足を挟むとか魔除

けみたいなもの

(2)植物

染料

《染料はどんなのを使いましたか》染料としてよく使ったというのはサキシマスオウノ

キ方言ではウマヌタニギーまたはアカズミーギーともいう赤い色に染めるよ

サキシマスオウノキの皮を使う皮をはいで細かくして煎じ汁だったかどうか

わからんけどさとにかくシンメーナービー(大きな鍋)で炊いていたと思う初

めは赤いというより橙色みたいなんだけど染まった時には赤くなるわけこの

辺でやっているのをみたことがある詳しくはわからんよとにかく子どもの時に

みているだけだからサキシマスオウノキはどこでもあるっていうわけではないか

らなこの辺は川や湿地帯がありハマジンチョウが生えるぐらいですからサ

キシマスオウノキは多かったですよ方言では子どものころは種子が馬の睾丸

に似ているというウマヌタニギーといった年寄は赤く染めるという意味のアカズ

ミーギーといっていた

《昔は芭蕉布を染めたんですか》私が見たのは芭蕉じゃなくて木綿ですよ白い布で

すよ帯をつくったりするとかは戦前ですよ戦後は食糧難でその辺の話はよ

くあるけど染めて着けるとかという話はあまりきかない

《シャリンバイは佐敷にもありましたか》あったんだけど僕なんかは染物に使ってい

るとかなんとかいう話は覚えてないし知らない大きくなってからは染物に使っ

ているとかいう話は聞いたことはあるけど実際はわからん実を食べたりとかい

う話はあんまりないなシャリンバイはざらにあるやつではないよな

《フクギを染料に使いましたか》ここでも黄色い染料として使ったですよ染めるのは木

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

綿ですよ皮を煎じてね実を使ったかどうかはわからんですよほかの用途とし

ては屋敷林は普通

《実は食べましたか》臭くてここでは食べない屋敷林としてもよい防風林防潮

防火とかこれは火にも強いんですよ

《材木として使わなかったのですか》建材としての記憶はないこの辺では建材といっ

たらイーク(モッコク)とかチャーギ(イヌマキ)ですよここには何年も植

えておくような土地がないでしょ一応チャーギなど屋敷に植えてはいるけど

建材はやんばるからの輸入ですよ

リュウキュウバショウ 包み物や熱冷ましにも利用

《芭蕉は各家庭で織っていましたか》ほとんどの家庭で織っていた芭蕉自体にウーといっ

ていただいたい植えている所はヤ屋敷の後ろ側

ーヌクシーですよ

《ヤーヌクシーで足りましたか》あのころ糸を作るのもあるけど包装紙の代わりも

やったんですよまたイ味噌甕

ンスガーミの味噌を発酵するときカ甕

ーミの蓋の上を

芭蕉の葉を炙って被せる炙るのは葉をやわらかくするため逆に葉をそのまま

使用したら破ける火に炙ったら柔らかくはなるけど簡単には破けないだか

ら弁当を包むのもそれでやったですよ普通芭蕉の葉は横にちょっとひっぱると

スーと切れるんですよね炙るとそういうのがなくなるだから僕の印象として

はバサージンを作る糸をつむいでというのもわかるけど日常的によく使っ

ているというのはカーサ弁当ですよ握り飯のようなものにアンダンスー入れて

包んで持ったお祝いの時にムチウンブーといって竹で作った平たいザルみた

いなのがあるでしょ芭蕉の葉を炙ってからそれに敷いてその上に餅やカステラ

または焼き豆腐を置いたりなんかしているそういう日常的によく使うから家

屋の後ろに植えるやんばるの喜如嘉みたいに何百坪ではなくてここは小規

模でそんなに植える所はなかったここでは芭蕉の織物は主な仕事という

よりは片手間でやっていた

《昔は機織り機はありましたか》機織り機はありますよ座って織るジ地機

ーバタとか

タ高機

カハタというのはちょっと[座る位置が]高いというのがありますね

《各家庭何割ぐらいありましたか》屋比久だったらそうですねそんなに多くはなかっ

たと思うけど半分半分もないんじゃないかだいたいそれをやる所は余裕の

あるところですよそれと若い娘がいるところ

《オジーオバーはやらなかったのですか》オジーオバーは目がダメだよな首里では

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

老眼鏡かけてやったりするはずだけどここでは娘がやっていたんじゃないかな

《芭蕉の茎を熱冷ましに使わなかったか》使っている幹をとってきて皮を剥いで白

くなったところをまた一枚一枚剥いでこれをすりこぎみたいなボ棒

ーグヮーで叩

いて汁ジャカジャカーする

《剥いだのを叩くんですか》そうジャカジャカーして汁がでてくるのを重ねて枕に

するとか子どもだったら敷いてからその上に背中から寝かせるとかで熱さま

しにした

《飲ましたりしましたか》飲ますんじゃないよ

《葉に寝かせたりしましたか》ここでは葉は使わなかったですよ

《那覇ではその汁で背中をふいたらしいです》それあるかもしれんこちらはそうじゃ

ない汁ジャカジャカーしたのを敷きその上に寝かすわけですよ効果満点

ヒラミレモンの利用と語源

《ヒラミレモンの方言を教えて下さい》方言ではシークヮーサーですよ

《どんなのに使いましたか》食べることとあと芭蕉布に使うシークヮーサーという

名前の通り着古した芭蕉布は繊維がゆるゆるになるさシークヮーサーの汁に

つけると繊維がシュとするだからシークヮーサーというんです

《どういう意味ですか》シーというのは酢なんですよシークヮーサーでこれを与える

わけですよ芭蕉布にシークヮースンクヮースンというのはくわせるとか与

えるという意味ですよあの家畜にム餌を与える

ヌクヮースンというさクヮーサーは与え

るものさヌーサーというのはハ畑する人

ルサーとかのサー酢を与えるをシークヮース

ンというんです逆にシーをクヮースンというのは酢を食べさせるとか与える

とかになるそれで芭蕉の着物がくたびれた時にシークヮースンというんですよ

《文献などに書いてありましたか》いやこの辺での話ですよこの辺では佐敷屋比久

外間も外間のむこうもですねだから昔はバ芭蕉着

サージンなんていうのは日頃着

ける着物今は琉舞をする人たちがつける高級なのになってるけど昔はヒン

スームンがつける着物なんですよだからハ畑へ

ルカイイ行くのにも

チュシンヌ何をするにしても

ーシーニン

ムほとんどこればかり

ルウリバカーイチ着けているよーねー

チョーウセーヤーだから繊維がくたびれるわけですよ

それでヨロヨロになっている繊維を酢入れることでシャンとしたバサージン

にするということでシークヮースンというんですよ

《イメージがわかないけどどんな感じになるのですか》ちょうど縫いたての新し

い芭蕉着のようになるよ酸っぱいにシーサンというだろ前にもいったように

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

シークヮースンというのはシークヮーサーのシーをクヮースなんですよシー

をクヮースンの木だからシークヮーサーなんですよシークヮーサーっていうの

は酸っぱいものが出るからなんですよ酢が出るまあ難しく言えば酢酸そ

して着古した芭蕉着をいきかえさせるそのためにシークヮースンという

《シークヮーサーでバサーを洗うというのはあちこち聞いていました》今の芭蕉布を

蘇らせるというのはここだけの話じゃないと思うよそういった意味ではシー

クヮーサーは食べる以外にも大きな使命があったんですね方言名は芭蕉布とセッ

トみたいなものだから田舎ではシークヮーサーを屋敷内に植えられている

昔の人はねある一つのものを多面的に使っているというかね食べるだけじゃ

なくて日常生活にもシークヮースンということでも使っている

《はじめて聞きますがこのことは文献にありますか》ないですよシークヮーサーのそ

ういうのは昔の人は常識かもしれないけど

《方言は聞いていたけど気づきませんでした》方言名というのはだいたい生活のかかわ

りがあるというね

《洗い方について》ここではね芭蕉布を洗うのにビたらい

ンダーレーとかそれから非常

に大きな丈の高いタライみたいのがあるさ方言ではなんていうかな昔の豆腐

作る時なんかに汁をためるようなもの大きな桶よここではそれを使っていた

それでシークヮーサーも熟しているものじゃなくてまだ皮が黄色くならない

ものあれを切ってそしてつぶして種も一緒だったよ着物はそんなにない

からね何回もやることはそんなになかったはずだから自分のものは自分の家

でやっていただから特別にどこかの家だけがやるというようなたとえばこれ

が上手で商売しているというようなことはこの辺ではなかったもうごく普通

にやるけど各家庭には毎年やるような着物の数はないので毎年はやらないわ

けさ

《畑仕事している人には必要では》ハルサーに使っているといってもそんなになんてい

うのかな新しくするなんていうことはよっぽどじゃないかぎりやらないですよ

だからバサーでも模様が入っているのがあるあのどっちかっていうと方言

でトゥンジヘンジーっていうんだけどちょっとした買い物ちょっとした所に

行く時につけるというのそんなのはシークヮースンというのをやるわけだけど

年に一度なんてやらないよたまにくたびれた時に再生するくらいのものだよ

《方言の呼び方の種類はありましたか》基本的には全部シークヮーサーです

《品種がありましたか》今いろんな品種がありますよね例えばクガニーグヮーかカー

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ブチーというのもあったですねいろいろあったと思いますけどねまあここ

にあるのは普通によくいわれているシークヮーサーというものです

食用または遊び等で食べた草木

《食用の草にはどのようなものがありましたか》ニンブトゥカー(スベリヒユ)は酢のも

のとしてよく食べた野山の草では一番食べてるのはフーチバー(ニシヨモギ)

ンジャナ(ホソバワダン)も食べた戦争や終戦時はチーファンプー(ツワブキ)

も食べたチーファンプーの茎の皮を剥いであれはアクが強いから流れる川につ

けてアクをぬいて食べたそれからヘゴの芯あれはダイコンみたいにおいしい

ですよヘゴは食べる習慣というよりは僕なんかは戦争でなにもなくなってか

ら食べたよ(12)

《ソテツ》方言でスーティーチャー戦後は何もないからスーティーチャーも毒抜き

して食べていますよ(13)

《毒抜きの方法は知っていますか》地元の人は水で洗ってからね

《昔から食べていたかもしれませんね》茎なんかは昔は食べてないんですよ昔は実

を砕いて毒抜きしてますよ毒抜きは水にさらしてカビを生えさせました

《毒が抜けたのがわかりますか》僕はその辺がわからんけど

《幹も食べましたか》戦前は幹を食べてないが戦後は幹もウムクジシリーで細かにし

て食べたしかしあれはねノコギリのカスみたいでなんの栄養もないご飯と

混ぜてまたは芋と混ぜたりなんかしたけどあんまり食べてないですよあれ

食べられるもんじゃないよなにもないから食べたんだよ僕らも一二度食べ

たかなといったぐらいだよ実は食べてるけどもう実は(みんな食べていた

ので)なかったよ

《ソテツの実を食べたのはいつ頃ですか》割って白い中身を出して水洗いをして食べ

ていたはずですけどね戦前は全然食べてないですよ僕なんか食用にしたとい

うのは終戦直後ですよ当時は食べ物がなにもなかったというくらいだったから

《ヘゴ類》ぜんまい(ヘゴの芽)なんかは柔らかくてよく食べた

《タラノキ》こっちにはない

《シナノガキ》シナノガキは佐敷の植物調査した時には崖の所にはあったけどね

《タイワンウオクサギ》方言でクサランギーワーといった虫がよくつくんですよねこ

れは実を食べるというよりは葉を食べていたんですね若い葉っぱを野菜として

(12)ensp後日確認したところ 戦中 現在の金武町に避難した時にヒカゲヘゴを食べたという

(13)ensp戦後 ソテツを食べたことについては知念 (1995) にも報告されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

食べた古い葉は使わない葉っぱはヌ何と言ったかな

ーンディーガちょうど青菜の野菜と同

じ扱いでさジューシーとか野菜チャンプルーみたいに使った

《クサギ》こっちはあるよあるけどそんなに身近にはないな垣花城址とか山の中には

いっぱいあるさこの辺にはないんですから利用についてはわからんね

《モクタチバナ》これはあることはありますよ小谷なんかにはいっぱいありますよ生

活にはあまり使ってないですね実は食べたことない

《タイミンタチバナ》これは南部ではみないですねこれはやんばるですね

《ヤマグワ》方言でクヮーギ実はクヮーギヌナイといいそのままでよく食べた食べ

てあまり腹に満たないうんと熟したやつは年寄りが酒に漬けて色をつけて

喜んで飲んだりしてましたよ私も小さいころ見覚えがありますだけどやっぱり

子どものころは食べに行きますまあ遊びとして食べているんだがお腹を満たす

ものではない

《他に使っていませんか》年とった桑はだめだけど若くてまっすぐに伸びた茎はちょ

うどユーナ(オオハマボウ)と同じで樹皮がパーッと長く剥げるわけですよ

それを池などの水につけておくと腐れて繊維が残るわけですよこれで縄をなっ

ている

《遊びとは違いますか》遊びじゃないですよ仕事というよりは生活この桑の綱は真っ

白で下駄の鼻緒上等な鼻緒に使ったりしたんですよちょうどユーナも同じで

束ねて池なんかにつけて腐らせるわけですよそしたら白い繊維が残るそれを

シルジナといってですね下駄の鼻緒とかツルベの紐に使う

《そんなに丈夫だったんですか》うんと丈夫ですよまたシュロでも縄作っていたよ

スルガージナといってスルガージナはね漁民が重宝したですよ簡単に腐ら

ないですよまたスルガージナは水をはじくんですよ

《モモタマナ》方言ではクファディーサーといっているクファディーサーはこっちでは

あんまり使ってないですねウこれは

リヤナ泣き声で

チクゥイーディドーフ成長する

ドゥイーユル(人

の泣き声で大きくなるといわれている)といって墓地などに植えておりあまり

屋敷林としては植えない僕の墓地にも23本はありますよクファディーサー

というと大きな屋慶名クファディーサー(図6)が有名(14)

《ギーマ》ギーマはこの辺あんまりないですよ今の南城市玉城の体育館のある所にはヤ

ンバルヤマといってあそこら辺にはギーマがありましただから名前もヤンバルヤ

マといっていた浦添市の茶山団地付近は僕が学生の頃は山があってギーマなん

(14)ensp琉球古典音楽の 「屋慶名こはでさ節」 「屋慶名節」 が知られており 沖縄民謡でも歌われている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

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島西銘誌編集委員会久米島町

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1-20

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 6: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 25 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ものでないといけないそうやってちょうど炊

けるころになったら泥がポロポロ落ちてくる

泥が落ちてきて葉っぱが見えてきたらもう

炊けてる

《これは昔からある方法ですか》昔から大人が

やったかどうかはわからんけど終戦直後

ヤひもじい思いをしているからねー

ーサドゥアシェーヤーワ子どもたち

ラバーターどうし

でやった西表島調査の時魚をとると若い連

中はすぐ串で刺して焼く串刺ししたら周囲が黒焦げですよねそうじゃなくて

芭蕉と泥で包む方法で焼かせた若い連中がびっくりしていたよ今はアルミホ

イルがあるけどアルミホイルも焦げたりするこれは全然焦げないね芭蕉の

葉っぱの水分があったりするからガサガサにもならないしホンワカして炊ける

西表では芋もそんなふうにしてやった芋は簡単ですよ芋はなにも包まないで

生の芋に泥を塗るんですよ

《芭蕉を使った方がいいんじゃないですか》まあ使った方がいいけどどうせ芋は皮

をむいて食べるんだから芭蕉で包んだりしなかったですよ

貴重な食料だったオキナワウスカワマイマイ

《食用にしたカタツムリの種類》沖縄島南部ではオキナワウスカワマイマイ(図2)と

パンダナマイマイを食べていたがウスカワマイマイが多かったパンダナマイマ

イはウスカワマイマイに比較すると固く数も多くはないウスカワマイマイが

柔らかくて一番食べやすい

《どのようにして食べましたか》チかたつむり

ンナン(ここではオキナワウスカワマイマイ)

はカ芋

ンダバー畑にいっぱいいるそれを畑からとってきたら上等の芋をちゃ

んと洗って生芋の皮がついたまま輪切りにしてザルに入れその中にチンナ

ンを入れ芋を一週間くらいチンナンに食べさせる一週間したらウ芋の糞を

ムグス

マ排泄するわけ

イルバーテーそしたらチンナンの消化器は掃除され芋のアンコみたいに置

き換わるわけよだからウムグスを出したらそのまま炊いても中は消化途中

の芋しか入ってないことになるこれをお爺さんお婆さんは当然のようにやっ

ていたこの利用方法が僕が一番感心している昔の人たちの生活の知恵

《調理方法は》ウスカワマイマイ(チンナン)をそのまま茹でてそれから中身を抜く

口から消化管は胴体にあって筋肉になっている足のところの筋肉は残して渦

図 2 オキナワウスカワマイマイ (城間恒宏

撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

巻きの内蔵で肝臓などは切り捨てる消化管には芋が残るそのあとウスカワ

マイマイはアメリカマイマイみたいにはよだれはあまりないが一応カマドの

灰なんかで洗ったりした灰で洗ってそのあとはア油味噌

ンダインスー(9)

の具にしたり

切ってからお汁のだしにしたりした

《どのような食べ方がありましたか》アンダインスーはおいしい普通はアンダインスー

には三枚肉を入れるが三枚肉なんていうのは時間がたつと固くなるチンナ

ンの身はあまり固くならないわけアンダンスーの具として1匹を3つか4つ

ぐらいに刻んで入れる戦後は僕もよく食べたおいしいですよ昔は酢醤油み

たいな上等のはないよ昔は別の家はわからんけど僕の家では味噌汁のだし

なんかにも使うけど主にアンダンスーでしたね

戦後に広がったアフリカマイマイ

《アフリカマイマイを食べましたか》戦後はアフリカマイマイをよく食べたが固いんで

すよアフリカマイマイは普通アンダンスーにしないな汁のだしなんかにした

このおかげで沖縄の人はタンパク質不足にならなかったんじゃないかな終戦直

後はたくさん食べたよ(10)

いやいやながら食べたというよりはもう生きるために

また終戦直後は今よりもたくさんあった写真にもあったけど1トントラックに

いっぱいとかまた移入して入った時期というのは貝殻も厚くて大きかったみ

たい終戦直後アフリカマイマイを刻んでおつゆに入れて食べましたよ少ない

けど自分らでつくる味噌を使用した薄い味噌汁に芋と一緒に入れた

《戦前からいたのですか》昭和 18 年か 19 年ころタイワンチンナマーといって金出し

て買ってねソ素麺箱

ーミンバコに入れて芋なんかを入れて子どもたちが養っていた

んですよ方言でタイワンチンナマーともショクヨウチンナンともいうタイワ

ンチンナマーは台湾から入ってきたからといってるんですけど戦前は僕も父

親にせがんで二つ買ってもらった昔はソそうめん

ーミンが入っていた板の箱(ソーミ

ンバコ)があるんですよねそれに入れて野菜のくずなどを一緒に入れて養った

食べるために養うじゃなくてこれが卵を産んで孵化するのを楽しみにしてた

ですよだから戦前は食べてないですよまた戦前からいっぱいいたわけでは

なく増えたのは戦後ですよ戦争の時に子どもたちが飼育していたのがみんな

逃げ出して田畑いっぱいにひろがっただから現在は少なくなったけど終戦後

はいっぱいあったんですよそれで戦後中南部ではアフリカマイマイが一番

(9)ensp味噌を方言でインスと呼ぶ (知念氏より)

(10)ensp戦後 アフリカマイマイを食べたことについては 知念 (1995) にも詳しく記されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のタンパク質源となった

カタツムリの喧嘩遊び

《カタツムリの喧嘩遊びに使う種類》オ喧嘩遊び

ーラセーに利用

するのはシュリマイマイシュリマイマイが大き

いからパンダナマイマイのような小さなマイマ

イは握り難いわけまたウスカワマイマイは

使ってない殻が少し柔らかすぎてそんなに丈

夫じゃないしそれに小さいし丸っこい僕ら

はシュリマイマイしかやらんかったただヤマ

タニシの殻は固いのでインチキして隠しておく

オーラセーの時に急にヤマタニシを出してポ

コッと相手の殻を割ったりするそれから子ども

の頃のジ知恵

ンブンだけどオーラセーには死んだあ

との殻を使い生きてるのは使わない中味が

入っている生きたのが強いからそれをインチキ

して使うまたジンブンのある連中は非常に

細かいニービ(11)

をさらに細かくして殻の渦に入れてその中に水を入れるそして

殻の底で沈殿して固まり渦巻いてるところを見ても表面からははみえないように

なっているそうするとね空の殻よりも土が入っている殻が強いわけさワ私のが

ームン

が一番チ強い

ューサンというようなことでオーラセーをやってねあとでインチキがば

れたらメげんこつ

ーゴーサーこれは南城市屋比久近辺の話だが僕は那覇市の楚辺小

学校にも一時期居たことがある楚辺近辺でもやっぱりシュリマイマイだったシュ

リマイマイ以外に使ってないんじゃないかな

《喧嘩遊びの方法》喧嘩させる時はこうして握る(図3)パンダナマイマイなんて小

さいから握れないけどシュリマイマイだったら握れるわけさ次に[両手で握手

をするように]お互い同士で握って殻頂と殻頂をあわせそしてお互いに殻頂

がずれてないかどうか確認して[合わせた殻頂に圧力がかかるように]押すわけ

さ(図4)ところが殻の頂点からずらしたところは弱いのでユ欲張り

ークーはわ

ざと自分の頂点をずらして相手の弱いところに当てて急に押すそしたら勝つ

というインチキをするわけさタ誰が

ーガ一番チ強いのを持っているか

ューバームッチョーンってなった時

(11)ensp沖縄島南部にみられる島尻層群中の小禄砂岩のこと

図 3 チンナンオーラセーの握り方を実演

する知念氏

図 4 チンナンオーラセーの戦わせ方を実

演する知念氏 (相手側)と筆者 (手前

左手で写真撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

にねまた強くするといってア油を付ける

ンダグヮー

チキーしたけど強くはならなかった

マルタニシやフナを食べる

《アフリカマイマイが入る前の様子》戦前はアフリカ

マイマイが入ってくる前に食べているのはおそら

くほとんどがウスカワマイマイですよそれと

ターンナ(マルタニシ)ターンナはいつも稲刈

りが終わって田んぼを耕す時にとるあのころは

農薬もなにも使わないからいっぱいいましたよこの辺では一年中いつでも食べる

わけじゃなくて稲刈りの時にとってフナもその時ですよその時はだいたい一

網打尽那覇市場にはシ滋養強壮食

ンジムン用として出ていた

ハブと貝

《ハブは食べましたか》ハブはあまり食べるものではなかったただね傷薬としてハ

ブの油を使っているカマの傷などに傷薬としてそれを塗るハブを捕まえた

ら油をとって塩漬けした塩漬けをいろんな容器には入れるけどさ今みたいに

ね小さなビンとか容器とかがたくさんあるわけじゃないわけ昔リョウフとか

いうゼリー状の塗り薬があってその容器とかまたハマグリの蓋をあわせたも

のに入れたりなんかして保管をしたんですよつがいになったリュウキュウサルボ

ウ(図5)もよく使った油は持ち歩かないのでア豚油の塩漬け

ンダマースはこれに入れたんで

すよアンダマースは破傷風よけさ豚油にたくさん塩を入れたもので傷口が

ふさがらないように傷口からいつでも汁が出るようになっている結局浸透圧だ

よね傷口が乾燥したら困るわけでジャクジャクしていたら破傷風菌が発生しな

いわけさだからアンダマースはリュウキュウサルボウにも一緒によく使ったわけ

さアンダマースを入れるのはこの種だけじゃないからだいたいリュウキュウ

サルボウのサイズこれより大きいやつも使わないしこれより小さいやつもほと

んど使っていないイソハマグリとかいろいろあるけどもうこの程度(リュウキュ

ウサルボウの大きさ)ですねリュウキュウサルボウはハマグリよりも深くて詰め

やすいんですよこれも昔の人の知恵ですねアンダマース入れたりハブのアン

ダとか容器がたくさんあるという時代じゃないけど貝を紐で口をしばったりす

る必要はないちょうつがいがありますからねこのように二枚貝を使ったわけさ

魔除け

図 5 ハブの油やアンダマースを入れた

リュウキュウサルボウ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《魔除けの貝について》貝だったらスイジガイだけどクモガイも使う屋比久でもやっ

てましたよフ疫病返し

ーチゲーシといってゥワ豚小屋

ーヌフールだとかにぶら下げてねフー

チというのは伝染病さ昔の家には玄関はないさだから門や入口だとかにぶら

下げたりなんかして屋比久では今でもスイジガイだとかクモガイだとかあちこち

ぶら下がってる所もあるはずですよ

《シャコガイは使ってませんか》魔除けとしてシャコガイはこの辺では使ってないけど

奄美大島に近い所はよく石垣の所に飾られていますね沖縄ではよく津堅とか

久高あれはね地べたに埋める所もあるんですよ足を挟むといってよく人

が歩く所にだとか門の所の下に埋めておいて悪霊などの足を挟むとか魔除

けみたいなもの

(2)植物

染料

《染料はどんなのを使いましたか》染料としてよく使ったというのはサキシマスオウノ

キ方言ではウマヌタニギーまたはアカズミーギーともいう赤い色に染めるよ

サキシマスオウノキの皮を使う皮をはいで細かくして煎じ汁だったかどうか

わからんけどさとにかくシンメーナービー(大きな鍋)で炊いていたと思う初

めは赤いというより橙色みたいなんだけど染まった時には赤くなるわけこの

辺でやっているのをみたことがある詳しくはわからんよとにかく子どもの時に

みているだけだからサキシマスオウノキはどこでもあるっていうわけではないか

らなこの辺は川や湿地帯がありハマジンチョウが生えるぐらいですからサ

キシマスオウノキは多かったですよ方言では子どものころは種子が馬の睾丸

に似ているというウマヌタニギーといった年寄は赤く染めるという意味のアカズ

ミーギーといっていた

《昔は芭蕉布を染めたんですか》私が見たのは芭蕉じゃなくて木綿ですよ白い布で

すよ帯をつくったりするとかは戦前ですよ戦後は食糧難でその辺の話はよ

くあるけど染めて着けるとかという話はあまりきかない

《シャリンバイは佐敷にもありましたか》あったんだけど僕なんかは染物に使ってい

るとかなんとかいう話は覚えてないし知らない大きくなってからは染物に使っ

ているとかいう話は聞いたことはあるけど実際はわからん実を食べたりとかい

う話はあんまりないなシャリンバイはざらにあるやつではないよな

《フクギを染料に使いましたか》ここでも黄色い染料として使ったですよ染めるのは木

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

綿ですよ皮を煎じてね実を使ったかどうかはわからんですよほかの用途とし

ては屋敷林は普通

《実は食べましたか》臭くてここでは食べない屋敷林としてもよい防風林防潮

防火とかこれは火にも強いんですよ

《材木として使わなかったのですか》建材としての記憶はないこの辺では建材といっ

たらイーク(モッコク)とかチャーギ(イヌマキ)ですよここには何年も植

えておくような土地がないでしょ一応チャーギなど屋敷に植えてはいるけど

建材はやんばるからの輸入ですよ

リュウキュウバショウ 包み物や熱冷ましにも利用

《芭蕉は各家庭で織っていましたか》ほとんどの家庭で織っていた芭蕉自体にウーといっ

ていただいたい植えている所はヤ屋敷の後ろ側

ーヌクシーですよ

《ヤーヌクシーで足りましたか》あのころ糸を作るのもあるけど包装紙の代わりも

やったんですよまたイ味噌甕

ンスガーミの味噌を発酵するときカ甕

ーミの蓋の上を

芭蕉の葉を炙って被せる炙るのは葉をやわらかくするため逆に葉をそのまま

使用したら破ける火に炙ったら柔らかくはなるけど簡単には破けないだか

ら弁当を包むのもそれでやったですよ普通芭蕉の葉は横にちょっとひっぱると

スーと切れるんですよね炙るとそういうのがなくなるだから僕の印象として

はバサージンを作る糸をつむいでというのもわかるけど日常的によく使っ

ているというのはカーサ弁当ですよ握り飯のようなものにアンダンスー入れて

包んで持ったお祝いの時にムチウンブーといって竹で作った平たいザルみた

いなのがあるでしょ芭蕉の葉を炙ってからそれに敷いてその上に餅やカステラ

または焼き豆腐を置いたりなんかしているそういう日常的によく使うから家

屋の後ろに植えるやんばるの喜如嘉みたいに何百坪ではなくてここは小規

模でそんなに植える所はなかったここでは芭蕉の織物は主な仕事という

よりは片手間でやっていた

《昔は機織り機はありましたか》機織り機はありますよ座って織るジ地機

ーバタとか

タ高機

カハタというのはちょっと[座る位置が]高いというのがありますね

《各家庭何割ぐらいありましたか》屋比久だったらそうですねそんなに多くはなかっ

たと思うけど半分半分もないんじゃないかだいたいそれをやる所は余裕の

あるところですよそれと若い娘がいるところ

《オジーオバーはやらなかったのですか》オジーオバーは目がダメだよな首里では

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

老眼鏡かけてやったりするはずだけどここでは娘がやっていたんじゃないかな

《芭蕉の茎を熱冷ましに使わなかったか》使っている幹をとってきて皮を剥いで白

くなったところをまた一枚一枚剥いでこれをすりこぎみたいなボ棒

ーグヮーで叩

いて汁ジャカジャカーする

《剥いだのを叩くんですか》そうジャカジャカーして汁がでてくるのを重ねて枕に

するとか子どもだったら敷いてからその上に背中から寝かせるとかで熱さま

しにした

《飲ましたりしましたか》飲ますんじゃないよ

《葉に寝かせたりしましたか》ここでは葉は使わなかったですよ

《那覇ではその汁で背中をふいたらしいです》それあるかもしれんこちらはそうじゃ

ない汁ジャカジャカーしたのを敷きその上に寝かすわけですよ効果満点

ヒラミレモンの利用と語源

《ヒラミレモンの方言を教えて下さい》方言ではシークヮーサーですよ

《どんなのに使いましたか》食べることとあと芭蕉布に使うシークヮーサーという

名前の通り着古した芭蕉布は繊維がゆるゆるになるさシークヮーサーの汁に

つけると繊維がシュとするだからシークヮーサーというんです

《どういう意味ですか》シーというのは酢なんですよシークヮーサーでこれを与える

わけですよ芭蕉布にシークヮースンクヮースンというのはくわせるとか与

えるという意味ですよあの家畜にム餌を与える

ヌクヮースンというさクヮーサーは与え

るものさヌーサーというのはハ畑する人

ルサーとかのサー酢を与えるをシークヮース

ンというんです逆にシーをクヮースンというのは酢を食べさせるとか与える

とかになるそれで芭蕉の着物がくたびれた時にシークヮースンというんですよ

《文献などに書いてありましたか》いやこの辺での話ですよこの辺では佐敷屋比久

外間も外間のむこうもですねだから昔はバ芭蕉着

サージンなんていうのは日頃着

ける着物今は琉舞をする人たちがつける高級なのになってるけど昔はヒン

スームンがつける着物なんですよだからハ畑へ

ルカイイ行くのにも

チュシンヌ何をするにしても

ーシーニン

ムほとんどこればかり

ルウリバカーイチ着けているよーねー

チョーウセーヤーだから繊維がくたびれるわけですよ

それでヨロヨロになっている繊維を酢入れることでシャンとしたバサージン

にするということでシークヮースンというんですよ

《イメージがわかないけどどんな感じになるのですか》ちょうど縫いたての新し

い芭蕉着のようになるよ酸っぱいにシーサンというだろ前にもいったように

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

シークヮースンというのはシークヮーサーのシーをクヮースなんですよシー

をクヮースンの木だからシークヮーサーなんですよシークヮーサーっていうの

は酸っぱいものが出るからなんですよ酢が出るまあ難しく言えば酢酸そ

して着古した芭蕉着をいきかえさせるそのためにシークヮースンという

《シークヮーサーでバサーを洗うというのはあちこち聞いていました》今の芭蕉布を

蘇らせるというのはここだけの話じゃないと思うよそういった意味ではシー

クヮーサーは食べる以外にも大きな使命があったんですね方言名は芭蕉布とセッ

トみたいなものだから田舎ではシークヮーサーを屋敷内に植えられている

昔の人はねある一つのものを多面的に使っているというかね食べるだけじゃ

なくて日常生活にもシークヮースンということでも使っている

《はじめて聞きますがこのことは文献にありますか》ないですよシークヮーサーのそ

ういうのは昔の人は常識かもしれないけど

《方言は聞いていたけど気づきませんでした》方言名というのはだいたい生活のかかわ

りがあるというね

《洗い方について》ここではね芭蕉布を洗うのにビたらい

ンダーレーとかそれから非常

に大きな丈の高いタライみたいのがあるさ方言ではなんていうかな昔の豆腐

作る時なんかに汁をためるようなもの大きな桶よここではそれを使っていた

それでシークヮーサーも熟しているものじゃなくてまだ皮が黄色くならない

ものあれを切ってそしてつぶして種も一緒だったよ着物はそんなにない

からね何回もやることはそんなになかったはずだから自分のものは自分の家

でやっていただから特別にどこかの家だけがやるというようなたとえばこれ

が上手で商売しているというようなことはこの辺ではなかったもうごく普通

にやるけど各家庭には毎年やるような着物の数はないので毎年はやらないわ

けさ

《畑仕事している人には必要では》ハルサーに使っているといってもそんなになんてい

うのかな新しくするなんていうことはよっぽどじゃないかぎりやらないですよ

だからバサーでも模様が入っているのがあるあのどっちかっていうと方言

でトゥンジヘンジーっていうんだけどちょっとした買い物ちょっとした所に

行く時につけるというのそんなのはシークヮースンというのをやるわけだけど

年に一度なんてやらないよたまにくたびれた時に再生するくらいのものだよ

《方言の呼び方の種類はありましたか》基本的には全部シークヮーサーです

《品種がありましたか》今いろんな品種がありますよね例えばクガニーグヮーかカー

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ブチーというのもあったですねいろいろあったと思いますけどねまあここ

にあるのは普通によくいわれているシークヮーサーというものです

食用または遊び等で食べた草木

《食用の草にはどのようなものがありましたか》ニンブトゥカー(スベリヒユ)は酢のも

のとしてよく食べた野山の草では一番食べてるのはフーチバー(ニシヨモギ)

ンジャナ(ホソバワダン)も食べた戦争や終戦時はチーファンプー(ツワブキ)

も食べたチーファンプーの茎の皮を剥いであれはアクが強いから流れる川につ

けてアクをぬいて食べたそれからヘゴの芯あれはダイコンみたいにおいしい

ですよヘゴは食べる習慣というよりは僕なんかは戦争でなにもなくなってか

ら食べたよ(12)

《ソテツ》方言でスーティーチャー戦後は何もないからスーティーチャーも毒抜き

して食べていますよ(13)

《毒抜きの方法は知っていますか》地元の人は水で洗ってからね

《昔から食べていたかもしれませんね》茎なんかは昔は食べてないんですよ昔は実

を砕いて毒抜きしてますよ毒抜きは水にさらしてカビを生えさせました

《毒が抜けたのがわかりますか》僕はその辺がわからんけど

《幹も食べましたか》戦前は幹を食べてないが戦後は幹もウムクジシリーで細かにし

て食べたしかしあれはねノコギリのカスみたいでなんの栄養もないご飯と

混ぜてまたは芋と混ぜたりなんかしたけどあんまり食べてないですよあれ

食べられるもんじゃないよなにもないから食べたんだよ僕らも一二度食べ

たかなといったぐらいだよ実は食べてるけどもう実は(みんな食べていた

ので)なかったよ

《ソテツの実を食べたのはいつ頃ですか》割って白い中身を出して水洗いをして食べ

ていたはずですけどね戦前は全然食べてないですよ僕なんか食用にしたとい

うのは終戦直後ですよ当時は食べ物がなにもなかったというくらいだったから

《ヘゴ類》ぜんまい(ヘゴの芽)なんかは柔らかくてよく食べた

《タラノキ》こっちにはない

《シナノガキ》シナノガキは佐敷の植物調査した時には崖の所にはあったけどね

《タイワンウオクサギ》方言でクサランギーワーといった虫がよくつくんですよねこ

れは実を食べるというよりは葉を食べていたんですね若い葉っぱを野菜として

(12)ensp後日確認したところ 戦中 現在の金武町に避難した時にヒカゲヘゴを食べたという

(13)ensp戦後 ソテツを食べたことについては知念 (1995) にも報告されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

食べた古い葉は使わない葉っぱはヌ何と言ったかな

ーンディーガちょうど青菜の野菜と同

じ扱いでさジューシーとか野菜チャンプルーみたいに使った

《クサギ》こっちはあるよあるけどそんなに身近にはないな垣花城址とか山の中には

いっぱいあるさこの辺にはないんですから利用についてはわからんね

《モクタチバナ》これはあることはありますよ小谷なんかにはいっぱいありますよ生

活にはあまり使ってないですね実は食べたことない

《タイミンタチバナ》これは南部ではみないですねこれはやんばるですね

《ヤマグワ》方言でクヮーギ実はクヮーギヌナイといいそのままでよく食べた食べ

てあまり腹に満たないうんと熟したやつは年寄りが酒に漬けて色をつけて

喜んで飲んだりしてましたよ私も小さいころ見覚えがありますだけどやっぱり

子どものころは食べに行きますまあ遊びとして食べているんだがお腹を満たす

ものではない

《他に使っていませんか》年とった桑はだめだけど若くてまっすぐに伸びた茎はちょ

うどユーナ(オオハマボウ)と同じで樹皮がパーッと長く剥げるわけですよ

それを池などの水につけておくと腐れて繊維が残るわけですよこれで縄をなっ

ている

《遊びとは違いますか》遊びじゃないですよ仕事というよりは生活この桑の綱は真っ

白で下駄の鼻緒上等な鼻緒に使ったりしたんですよちょうどユーナも同じで

束ねて池なんかにつけて腐らせるわけですよそしたら白い繊維が残るそれを

シルジナといってですね下駄の鼻緒とかツルベの紐に使う

《そんなに丈夫だったんですか》うんと丈夫ですよまたシュロでも縄作っていたよ

スルガージナといってスルガージナはね漁民が重宝したですよ簡単に腐ら

ないですよまたスルガージナは水をはじくんですよ

《モモタマナ》方言ではクファディーサーといっているクファディーサーはこっちでは

あんまり使ってないですねウこれは

リヤナ泣き声で

チクゥイーディドーフ成長する

ドゥイーユル(人

の泣き声で大きくなるといわれている)といって墓地などに植えておりあまり

屋敷林としては植えない僕の墓地にも23本はありますよクファディーサー

というと大きな屋慶名クファディーサー(図6)が有名(14)

《ギーマ》ギーマはこの辺あんまりないですよ今の南城市玉城の体育館のある所にはヤ

ンバルヤマといってあそこら辺にはギーマがありましただから名前もヤンバルヤ

マといっていた浦添市の茶山団地付近は僕が学生の頃は山があってギーマなん

(14)ensp琉球古典音楽の 「屋慶名こはでさ節」 「屋慶名節」 が知られており 沖縄民謡でも歌われている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

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調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

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1-20

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 7: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 26 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

巻きの内蔵で肝臓などは切り捨てる消化管には芋が残るそのあとウスカワ

マイマイはアメリカマイマイみたいにはよだれはあまりないが一応カマドの

灰なんかで洗ったりした灰で洗ってそのあとはア油味噌

ンダインスー(9)

の具にしたり

切ってからお汁のだしにしたりした

《どのような食べ方がありましたか》アンダインスーはおいしい普通はアンダインスー

には三枚肉を入れるが三枚肉なんていうのは時間がたつと固くなるチンナ

ンの身はあまり固くならないわけアンダンスーの具として1匹を3つか4つ

ぐらいに刻んで入れる戦後は僕もよく食べたおいしいですよ昔は酢醤油み

たいな上等のはないよ昔は別の家はわからんけど僕の家では味噌汁のだし

なんかにも使うけど主にアンダンスーでしたね

戦後に広がったアフリカマイマイ

《アフリカマイマイを食べましたか》戦後はアフリカマイマイをよく食べたが固いんで

すよアフリカマイマイは普通アンダンスーにしないな汁のだしなんかにした

このおかげで沖縄の人はタンパク質不足にならなかったんじゃないかな終戦直

後はたくさん食べたよ(10)

いやいやながら食べたというよりはもう生きるために

また終戦直後は今よりもたくさんあった写真にもあったけど1トントラックに

いっぱいとかまた移入して入った時期というのは貝殻も厚くて大きかったみ

たい終戦直後アフリカマイマイを刻んでおつゆに入れて食べましたよ少ない

けど自分らでつくる味噌を使用した薄い味噌汁に芋と一緒に入れた

《戦前からいたのですか》昭和 18 年か 19 年ころタイワンチンナマーといって金出し

て買ってねソ素麺箱

ーミンバコに入れて芋なんかを入れて子どもたちが養っていた

んですよ方言でタイワンチンナマーともショクヨウチンナンともいうタイワ

ンチンナマーは台湾から入ってきたからといってるんですけど戦前は僕も父

親にせがんで二つ買ってもらった昔はソそうめん

ーミンが入っていた板の箱(ソーミ

ンバコ)があるんですよねそれに入れて野菜のくずなどを一緒に入れて養った

食べるために養うじゃなくてこれが卵を産んで孵化するのを楽しみにしてた

ですよだから戦前は食べてないですよまた戦前からいっぱいいたわけでは

なく増えたのは戦後ですよ戦争の時に子どもたちが飼育していたのがみんな

逃げ出して田畑いっぱいにひろがっただから現在は少なくなったけど終戦後

はいっぱいあったんですよそれで戦後中南部ではアフリカマイマイが一番

(9)ensp味噌を方言でインスと呼ぶ (知念氏より)

(10)ensp戦後 アフリカマイマイを食べたことについては 知念 (1995) にも詳しく記されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のタンパク質源となった

カタツムリの喧嘩遊び

《カタツムリの喧嘩遊びに使う種類》オ喧嘩遊び

ーラセーに利用

するのはシュリマイマイシュリマイマイが大き

いからパンダナマイマイのような小さなマイマ

イは握り難いわけまたウスカワマイマイは

使ってない殻が少し柔らかすぎてそんなに丈

夫じゃないしそれに小さいし丸っこい僕ら

はシュリマイマイしかやらんかったただヤマ

タニシの殻は固いのでインチキして隠しておく

オーラセーの時に急にヤマタニシを出してポ

コッと相手の殻を割ったりするそれから子ども

の頃のジ知恵

ンブンだけどオーラセーには死んだあ

との殻を使い生きてるのは使わない中味が

入っている生きたのが強いからそれをインチキ

して使うまたジンブンのある連中は非常に

細かいニービ(11)

をさらに細かくして殻の渦に入れてその中に水を入れるそして

殻の底で沈殿して固まり渦巻いてるところを見ても表面からははみえないように

なっているそうするとね空の殻よりも土が入っている殻が強いわけさワ私のが

ームン

が一番チ強い

ューサンというようなことでオーラセーをやってねあとでインチキがば

れたらメげんこつ

ーゴーサーこれは南城市屋比久近辺の話だが僕は那覇市の楚辺小

学校にも一時期居たことがある楚辺近辺でもやっぱりシュリマイマイだったシュ

リマイマイ以外に使ってないんじゃないかな

《喧嘩遊びの方法》喧嘩させる時はこうして握る(図3)パンダナマイマイなんて小

さいから握れないけどシュリマイマイだったら握れるわけさ次に[両手で握手

をするように]お互い同士で握って殻頂と殻頂をあわせそしてお互いに殻頂

がずれてないかどうか確認して[合わせた殻頂に圧力がかかるように]押すわけ

さ(図4)ところが殻の頂点からずらしたところは弱いのでユ欲張り

ークーはわ

ざと自分の頂点をずらして相手の弱いところに当てて急に押すそしたら勝つ

というインチキをするわけさタ誰が

ーガ一番チ強いのを持っているか

ューバームッチョーンってなった時

(11)ensp沖縄島南部にみられる島尻層群中の小禄砂岩のこと

図 3 チンナンオーラセーの握り方を実演

する知念氏

図 4 チンナンオーラセーの戦わせ方を実

演する知念氏 (相手側)と筆者 (手前

左手で写真撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

にねまた強くするといってア油を付ける

ンダグヮー

チキーしたけど強くはならなかった

マルタニシやフナを食べる

《アフリカマイマイが入る前の様子》戦前はアフリカ

マイマイが入ってくる前に食べているのはおそら

くほとんどがウスカワマイマイですよそれと

ターンナ(マルタニシ)ターンナはいつも稲刈

りが終わって田んぼを耕す時にとるあのころは

農薬もなにも使わないからいっぱいいましたよこの辺では一年中いつでも食べる

わけじゃなくて稲刈りの時にとってフナもその時ですよその時はだいたい一

網打尽那覇市場にはシ滋養強壮食

ンジムン用として出ていた

ハブと貝

《ハブは食べましたか》ハブはあまり食べるものではなかったただね傷薬としてハ

ブの油を使っているカマの傷などに傷薬としてそれを塗るハブを捕まえた

ら油をとって塩漬けした塩漬けをいろんな容器には入れるけどさ今みたいに

ね小さなビンとか容器とかがたくさんあるわけじゃないわけ昔リョウフとか

いうゼリー状の塗り薬があってその容器とかまたハマグリの蓋をあわせたも

のに入れたりなんかして保管をしたんですよつがいになったリュウキュウサルボ

ウ(図5)もよく使った油は持ち歩かないのでア豚油の塩漬け

ンダマースはこれに入れたんで

すよアンダマースは破傷風よけさ豚油にたくさん塩を入れたもので傷口が

ふさがらないように傷口からいつでも汁が出るようになっている結局浸透圧だ

よね傷口が乾燥したら困るわけでジャクジャクしていたら破傷風菌が発生しな

いわけさだからアンダマースはリュウキュウサルボウにも一緒によく使ったわけ

さアンダマースを入れるのはこの種だけじゃないからだいたいリュウキュウ

サルボウのサイズこれより大きいやつも使わないしこれより小さいやつもほと

んど使っていないイソハマグリとかいろいろあるけどもうこの程度(リュウキュ

ウサルボウの大きさ)ですねリュウキュウサルボウはハマグリよりも深くて詰め

やすいんですよこれも昔の人の知恵ですねアンダマース入れたりハブのアン

ダとか容器がたくさんあるという時代じゃないけど貝を紐で口をしばったりす

る必要はないちょうつがいがありますからねこのように二枚貝を使ったわけさ

魔除け

図 5 ハブの油やアンダマースを入れた

リュウキュウサルボウ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《魔除けの貝について》貝だったらスイジガイだけどクモガイも使う屋比久でもやっ

てましたよフ疫病返し

ーチゲーシといってゥワ豚小屋

ーヌフールだとかにぶら下げてねフー

チというのは伝染病さ昔の家には玄関はないさだから門や入口だとかにぶら

下げたりなんかして屋比久では今でもスイジガイだとかクモガイだとかあちこち

ぶら下がってる所もあるはずですよ

《シャコガイは使ってませんか》魔除けとしてシャコガイはこの辺では使ってないけど

奄美大島に近い所はよく石垣の所に飾られていますね沖縄ではよく津堅とか

久高あれはね地べたに埋める所もあるんですよ足を挟むといってよく人

が歩く所にだとか門の所の下に埋めておいて悪霊などの足を挟むとか魔除

けみたいなもの

(2)植物

染料

《染料はどんなのを使いましたか》染料としてよく使ったというのはサキシマスオウノ

キ方言ではウマヌタニギーまたはアカズミーギーともいう赤い色に染めるよ

サキシマスオウノキの皮を使う皮をはいで細かくして煎じ汁だったかどうか

わからんけどさとにかくシンメーナービー(大きな鍋)で炊いていたと思う初

めは赤いというより橙色みたいなんだけど染まった時には赤くなるわけこの

辺でやっているのをみたことがある詳しくはわからんよとにかく子どもの時に

みているだけだからサキシマスオウノキはどこでもあるっていうわけではないか

らなこの辺は川や湿地帯がありハマジンチョウが生えるぐらいですからサ

キシマスオウノキは多かったですよ方言では子どものころは種子が馬の睾丸

に似ているというウマヌタニギーといった年寄は赤く染めるという意味のアカズ

ミーギーといっていた

《昔は芭蕉布を染めたんですか》私が見たのは芭蕉じゃなくて木綿ですよ白い布で

すよ帯をつくったりするとかは戦前ですよ戦後は食糧難でその辺の話はよ

くあるけど染めて着けるとかという話はあまりきかない

《シャリンバイは佐敷にもありましたか》あったんだけど僕なんかは染物に使ってい

るとかなんとかいう話は覚えてないし知らない大きくなってからは染物に使っ

ているとかいう話は聞いたことはあるけど実際はわからん実を食べたりとかい

う話はあんまりないなシャリンバイはざらにあるやつではないよな

《フクギを染料に使いましたか》ここでも黄色い染料として使ったですよ染めるのは木

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

綿ですよ皮を煎じてね実を使ったかどうかはわからんですよほかの用途とし

ては屋敷林は普通

《実は食べましたか》臭くてここでは食べない屋敷林としてもよい防風林防潮

防火とかこれは火にも強いんですよ

《材木として使わなかったのですか》建材としての記憶はないこの辺では建材といっ

たらイーク(モッコク)とかチャーギ(イヌマキ)ですよここには何年も植

えておくような土地がないでしょ一応チャーギなど屋敷に植えてはいるけど

建材はやんばるからの輸入ですよ

リュウキュウバショウ 包み物や熱冷ましにも利用

《芭蕉は各家庭で織っていましたか》ほとんどの家庭で織っていた芭蕉自体にウーといっ

ていただいたい植えている所はヤ屋敷の後ろ側

ーヌクシーですよ

《ヤーヌクシーで足りましたか》あのころ糸を作るのもあるけど包装紙の代わりも

やったんですよまたイ味噌甕

ンスガーミの味噌を発酵するときカ甕

ーミの蓋の上を

芭蕉の葉を炙って被せる炙るのは葉をやわらかくするため逆に葉をそのまま

使用したら破ける火に炙ったら柔らかくはなるけど簡単には破けないだか

ら弁当を包むのもそれでやったですよ普通芭蕉の葉は横にちょっとひっぱると

スーと切れるんですよね炙るとそういうのがなくなるだから僕の印象として

はバサージンを作る糸をつむいでというのもわかるけど日常的によく使っ

ているというのはカーサ弁当ですよ握り飯のようなものにアンダンスー入れて

包んで持ったお祝いの時にムチウンブーといって竹で作った平たいザルみた

いなのがあるでしょ芭蕉の葉を炙ってからそれに敷いてその上に餅やカステラ

または焼き豆腐を置いたりなんかしているそういう日常的によく使うから家

屋の後ろに植えるやんばるの喜如嘉みたいに何百坪ではなくてここは小規

模でそんなに植える所はなかったここでは芭蕉の織物は主な仕事という

よりは片手間でやっていた

《昔は機織り機はありましたか》機織り機はありますよ座って織るジ地機

ーバタとか

タ高機

カハタというのはちょっと[座る位置が]高いというのがありますね

《各家庭何割ぐらいありましたか》屋比久だったらそうですねそんなに多くはなかっ

たと思うけど半分半分もないんじゃないかだいたいそれをやる所は余裕の

あるところですよそれと若い娘がいるところ

《オジーオバーはやらなかったのですか》オジーオバーは目がダメだよな首里では

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

老眼鏡かけてやったりするはずだけどここでは娘がやっていたんじゃないかな

《芭蕉の茎を熱冷ましに使わなかったか》使っている幹をとってきて皮を剥いで白

くなったところをまた一枚一枚剥いでこれをすりこぎみたいなボ棒

ーグヮーで叩

いて汁ジャカジャカーする

《剥いだのを叩くんですか》そうジャカジャカーして汁がでてくるのを重ねて枕に

するとか子どもだったら敷いてからその上に背中から寝かせるとかで熱さま

しにした

《飲ましたりしましたか》飲ますんじゃないよ

《葉に寝かせたりしましたか》ここでは葉は使わなかったですよ

《那覇ではその汁で背中をふいたらしいです》それあるかもしれんこちらはそうじゃ

ない汁ジャカジャカーしたのを敷きその上に寝かすわけですよ効果満点

ヒラミレモンの利用と語源

《ヒラミレモンの方言を教えて下さい》方言ではシークヮーサーですよ

《どんなのに使いましたか》食べることとあと芭蕉布に使うシークヮーサーという

名前の通り着古した芭蕉布は繊維がゆるゆるになるさシークヮーサーの汁に

つけると繊維がシュとするだからシークヮーサーというんです

《どういう意味ですか》シーというのは酢なんですよシークヮーサーでこれを与える

わけですよ芭蕉布にシークヮースンクヮースンというのはくわせるとか与

えるという意味ですよあの家畜にム餌を与える

ヌクヮースンというさクヮーサーは与え

るものさヌーサーというのはハ畑する人

ルサーとかのサー酢を与えるをシークヮース

ンというんです逆にシーをクヮースンというのは酢を食べさせるとか与える

とかになるそれで芭蕉の着物がくたびれた時にシークヮースンというんですよ

《文献などに書いてありましたか》いやこの辺での話ですよこの辺では佐敷屋比久

外間も外間のむこうもですねだから昔はバ芭蕉着

サージンなんていうのは日頃着

ける着物今は琉舞をする人たちがつける高級なのになってるけど昔はヒン

スームンがつける着物なんですよだからハ畑へ

ルカイイ行くのにも

チュシンヌ何をするにしても

ーシーニン

ムほとんどこればかり

ルウリバカーイチ着けているよーねー

チョーウセーヤーだから繊維がくたびれるわけですよ

それでヨロヨロになっている繊維を酢入れることでシャンとしたバサージン

にするということでシークヮースンというんですよ

《イメージがわかないけどどんな感じになるのですか》ちょうど縫いたての新し

い芭蕉着のようになるよ酸っぱいにシーサンというだろ前にもいったように

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

シークヮースンというのはシークヮーサーのシーをクヮースなんですよシー

をクヮースンの木だからシークヮーサーなんですよシークヮーサーっていうの

は酸っぱいものが出るからなんですよ酢が出るまあ難しく言えば酢酸そ

して着古した芭蕉着をいきかえさせるそのためにシークヮースンという

《シークヮーサーでバサーを洗うというのはあちこち聞いていました》今の芭蕉布を

蘇らせるというのはここだけの話じゃないと思うよそういった意味ではシー

クヮーサーは食べる以外にも大きな使命があったんですね方言名は芭蕉布とセッ

トみたいなものだから田舎ではシークヮーサーを屋敷内に植えられている

昔の人はねある一つのものを多面的に使っているというかね食べるだけじゃ

なくて日常生活にもシークヮースンということでも使っている

《はじめて聞きますがこのことは文献にありますか》ないですよシークヮーサーのそ

ういうのは昔の人は常識かもしれないけど

《方言は聞いていたけど気づきませんでした》方言名というのはだいたい生活のかかわ

りがあるというね

《洗い方について》ここではね芭蕉布を洗うのにビたらい

ンダーレーとかそれから非常

に大きな丈の高いタライみたいのがあるさ方言ではなんていうかな昔の豆腐

作る時なんかに汁をためるようなもの大きな桶よここではそれを使っていた

それでシークヮーサーも熟しているものじゃなくてまだ皮が黄色くならない

ものあれを切ってそしてつぶして種も一緒だったよ着物はそんなにない

からね何回もやることはそんなになかったはずだから自分のものは自分の家

でやっていただから特別にどこかの家だけがやるというようなたとえばこれ

が上手で商売しているというようなことはこの辺ではなかったもうごく普通

にやるけど各家庭には毎年やるような着物の数はないので毎年はやらないわ

けさ

《畑仕事している人には必要では》ハルサーに使っているといってもそんなになんてい

うのかな新しくするなんていうことはよっぽどじゃないかぎりやらないですよ

だからバサーでも模様が入っているのがあるあのどっちかっていうと方言

でトゥンジヘンジーっていうんだけどちょっとした買い物ちょっとした所に

行く時につけるというのそんなのはシークヮースンというのをやるわけだけど

年に一度なんてやらないよたまにくたびれた時に再生するくらいのものだよ

《方言の呼び方の種類はありましたか》基本的には全部シークヮーサーです

《品種がありましたか》今いろんな品種がありますよね例えばクガニーグヮーかカー

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ブチーというのもあったですねいろいろあったと思いますけどねまあここ

にあるのは普通によくいわれているシークヮーサーというものです

食用または遊び等で食べた草木

《食用の草にはどのようなものがありましたか》ニンブトゥカー(スベリヒユ)は酢のも

のとしてよく食べた野山の草では一番食べてるのはフーチバー(ニシヨモギ)

ンジャナ(ホソバワダン)も食べた戦争や終戦時はチーファンプー(ツワブキ)

も食べたチーファンプーの茎の皮を剥いであれはアクが強いから流れる川につ

けてアクをぬいて食べたそれからヘゴの芯あれはダイコンみたいにおいしい

ですよヘゴは食べる習慣というよりは僕なんかは戦争でなにもなくなってか

ら食べたよ(12)

《ソテツ》方言でスーティーチャー戦後は何もないからスーティーチャーも毒抜き

して食べていますよ(13)

《毒抜きの方法は知っていますか》地元の人は水で洗ってからね

《昔から食べていたかもしれませんね》茎なんかは昔は食べてないんですよ昔は実

を砕いて毒抜きしてますよ毒抜きは水にさらしてカビを生えさせました

《毒が抜けたのがわかりますか》僕はその辺がわからんけど

《幹も食べましたか》戦前は幹を食べてないが戦後は幹もウムクジシリーで細かにし

て食べたしかしあれはねノコギリのカスみたいでなんの栄養もないご飯と

混ぜてまたは芋と混ぜたりなんかしたけどあんまり食べてないですよあれ

食べられるもんじゃないよなにもないから食べたんだよ僕らも一二度食べ

たかなといったぐらいだよ実は食べてるけどもう実は(みんな食べていた

ので)なかったよ

《ソテツの実を食べたのはいつ頃ですか》割って白い中身を出して水洗いをして食べ

ていたはずですけどね戦前は全然食べてないですよ僕なんか食用にしたとい

うのは終戦直後ですよ当時は食べ物がなにもなかったというくらいだったから

《ヘゴ類》ぜんまい(ヘゴの芽)なんかは柔らかくてよく食べた

《タラノキ》こっちにはない

《シナノガキ》シナノガキは佐敷の植物調査した時には崖の所にはあったけどね

《タイワンウオクサギ》方言でクサランギーワーといった虫がよくつくんですよねこ

れは実を食べるというよりは葉を食べていたんですね若い葉っぱを野菜として

(12)ensp後日確認したところ 戦中 現在の金武町に避難した時にヒカゲヘゴを食べたという

(13)ensp戦後 ソテツを食べたことについては知念 (1995) にも報告されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

食べた古い葉は使わない葉っぱはヌ何と言ったかな

ーンディーガちょうど青菜の野菜と同

じ扱いでさジューシーとか野菜チャンプルーみたいに使った

《クサギ》こっちはあるよあるけどそんなに身近にはないな垣花城址とか山の中には

いっぱいあるさこの辺にはないんですから利用についてはわからんね

《モクタチバナ》これはあることはありますよ小谷なんかにはいっぱいありますよ生

活にはあまり使ってないですね実は食べたことない

《タイミンタチバナ》これは南部ではみないですねこれはやんばるですね

《ヤマグワ》方言でクヮーギ実はクヮーギヌナイといいそのままでよく食べた食べ

てあまり腹に満たないうんと熟したやつは年寄りが酒に漬けて色をつけて

喜んで飲んだりしてましたよ私も小さいころ見覚えがありますだけどやっぱり

子どものころは食べに行きますまあ遊びとして食べているんだがお腹を満たす

ものではない

《他に使っていませんか》年とった桑はだめだけど若くてまっすぐに伸びた茎はちょ

うどユーナ(オオハマボウ)と同じで樹皮がパーッと長く剥げるわけですよ

それを池などの水につけておくと腐れて繊維が残るわけですよこれで縄をなっ

ている

《遊びとは違いますか》遊びじゃないですよ仕事というよりは生活この桑の綱は真っ

白で下駄の鼻緒上等な鼻緒に使ったりしたんですよちょうどユーナも同じで

束ねて池なんかにつけて腐らせるわけですよそしたら白い繊維が残るそれを

シルジナといってですね下駄の鼻緒とかツルベの紐に使う

《そんなに丈夫だったんですか》うんと丈夫ですよまたシュロでも縄作っていたよ

スルガージナといってスルガージナはね漁民が重宝したですよ簡単に腐ら

ないですよまたスルガージナは水をはじくんですよ

《モモタマナ》方言ではクファディーサーといっているクファディーサーはこっちでは

あんまり使ってないですねウこれは

リヤナ泣き声で

チクゥイーディドーフ成長する

ドゥイーユル(人

の泣き声で大きくなるといわれている)といって墓地などに植えておりあまり

屋敷林としては植えない僕の墓地にも23本はありますよクファディーサー

というと大きな屋慶名クファディーサー(図6)が有名(14)

《ギーマ》ギーマはこの辺あんまりないですよ今の南城市玉城の体育館のある所にはヤ

ンバルヤマといってあそこら辺にはギーマがありましただから名前もヤンバルヤ

マといっていた浦添市の茶山団地付近は僕が学生の頃は山があってギーマなん

(14)ensp琉球古典音楽の 「屋慶名こはでさ節」 「屋慶名節」 が知られており 沖縄民謡でも歌われている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

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当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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- 27 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のタンパク質源となった

カタツムリの喧嘩遊び

《カタツムリの喧嘩遊びに使う種類》オ喧嘩遊び

ーラセーに利用

するのはシュリマイマイシュリマイマイが大き

いからパンダナマイマイのような小さなマイマ

イは握り難いわけまたウスカワマイマイは

使ってない殻が少し柔らかすぎてそんなに丈

夫じゃないしそれに小さいし丸っこい僕ら

はシュリマイマイしかやらんかったただヤマ

タニシの殻は固いのでインチキして隠しておく

オーラセーの時に急にヤマタニシを出してポ

コッと相手の殻を割ったりするそれから子ども

の頃のジ知恵

ンブンだけどオーラセーには死んだあ

との殻を使い生きてるのは使わない中味が

入っている生きたのが強いからそれをインチキ

して使うまたジンブンのある連中は非常に

細かいニービ(11)

をさらに細かくして殻の渦に入れてその中に水を入れるそして

殻の底で沈殿して固まり渦巻いてるところを見ても表面からははみえないように

なっているそうするとね空の殻よりも土が入っている殻が強いわけさワ私のが

ームン

が一番チ強い

ューサンというようなことでオーラセーをやってねあとでインチキがば

れたらメげんこつ

ーゴーサーこれは南城市屋比久近辺の話だが僕は那覇市の楚辺小

学校にも一時期居たことがある楚辺近辺でもやっぱりシュリマイマイだったシュ

リマイマイ以外に使ってないんじゃないかな

《喧嘩遊びの方法》喧嘩させる時はこうして握る(図3)パンダナマイマイなんて小

さいから握れないけどシュリマイマイだったら握れるわけさ次に[両手で握手

をするように]お互い同士で握って殻頂と殻頂をあわせそしてお互いに殻頂

がずれてないかどうか確認して[合わせた殻頂に圧力がかかるように]押すわけ

さ(図4)ところが殻の頂点からずらしたところは弱いのでユ欲張り

ークーはわ

ざと自分の頂点をずらして相手の弱いところに当てて急に押すそしたら勝つ

というインチキをするわけさタ誰が

ーガ一番チ強いのを持っているか

ューバームッチョーンってなった時

(11)ensp沖縄島南部にみられる島尻層群中の小禄砂岩のこと

図 3 チンナンオーラセーの握り方を実演

する知念氏

図 4 チンナンオーラセーの戦わせ方を実

演する知念氏 (相手側)と筆者 (手前

左手で写真撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

にねまた強くするといってア油を付ける

ンダグヮー

チキーしたけど強くはならなかった

マルタニシやフナを食べる

《アフリカマイマイが入る前の様子》戦前はアフリカ

マイマイが入ってくる前に食べているのはおそら

くほとんどがウスカワマイマイですよそれと

ターンナ(マルタニシ)ターンナはいつも稲刈

りが終わって田んぼを耕す時にとるあのころは

農薬もなにも使わないからいっぱいいましたよこの辺では一年中いつでも食べる

わけじゃなくて稲刈りの時にとってフナもその時ですよその時はだいたい一

網打尽那覇市場にはシ滋養強壮食

ンジムン用として出ていた

ハブと貝

《ハブは食べましたか》ハブはあまり食べるものではなかったただね傷薬としてハ

ブの油を使っているカマの傷などに傷薬としてそれを塗るハブを捕まえた

ら油をとって塩漬けした塩漬けをいろんな容器には入れるけどさ今みたいに

ね小さなビンとか容器とかがたくさんあるわけじゃないわけ昔リョウフとか

いうゼリー状の塗り薬があってその容器とかまたハマグリの蓋をあわせたも

のに入れたりなんかして保管をしたんですよつがいになったリュウキュウサルボ

ウ(図5)もよく使った油は持ち歩かないのでア豚油の塩漬け

ンダマースはこれに入れたんで

すよアンダマースは破傷風よけさ豚油にたくさん塩を入れたもので傷口が

ふさがらないように傷口からいつでも汁が出るようになっている結局浸透圧だ

よね傷口が乾燥したら困るわけでジャクジャクしていたら破傷風菌が発生しな

いわけさだからアンダマースはリュウキュウサルボウにも一緒によく使ったわけ

さアンダマースを入れるのはこの種だけじゃないからだいたいリュウキュウ

サルボウのサイズこれより大きいやつも使わないしこれより小さいやつもほと

んど使っていないイソハマグリとかいろいろあるけどもうこの程度(リュウキュ

ウサルボウの大きさ)ですねリュウキュウサルボウはハマグリよりも深くて詰め

やすいんですよこれも昔の人の知恵ですねアンダマース入れたりハブのアン

ダとか容器がたくさんあるという時代じゃないけど貝を紐で口をしばったりす

る必要はないちょうつがいがありますからねこのように二枚貝を使ったわけさ

魔除け

図 5 ハブの油やアンダマースを入れた

リュウキュウサルボウ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《魔除けの貝について》貝だったらスイジガイだけどクモガイも使う屋比久でもやっ

てましたよフ疫病返し

ーチゲーシといってゥワ豚小屋

ーヌフールだとかにぶら下げてねフー

チというのは伝染病さ昔の家には玄関はないさだから門や入口だとかにぶら

下げたりなんかして屋比久では今でもスイジガイだとかクモガイだとかあちこち

ぶら下がってる所もあるはずですよ

《シャコガイは使ってませんか》魔除けとしてシャコガイはこの辺では使ってないけど

奄美大島に近い所はよく石垣の所に飾られていますね沖縄ではよく津堅とか

久高あれはね地べたに埋める所もあるんですよ足を挟むといってよく人

が歩く所にだとか門の所の下に埋めておいて悪霊などの足を挟むとか魔除

けみたいなもの

(2)植物

染料

《染料はどんなのを使いましたか》染料としてよく使ったというのはサキシマスオウノ

キ方言ではウマヌタニギーまたはアカズミーギーともいう赤い色に染めるよ

サキシマスオウノキの皮を使う皮をはいで細かくして煎じ汁だったかどうか

わからんけどさとにかくシンメーナービー(大きな鍋)で炊いていたと思う初

めは赤いというより橙色みたいなんだけど染まった時には赤くなるわけこの

辺でやっているのをみたことがある詳しくはわからんよとにかく子どもの時に

みているだけだからサキシマスオウノキはどこでもあるっていうわけではないか

らなこの辺は川や湿地帯がありハマジンチョウが生えるぐらいですからサ

キシマスオウノキは多かったですよ方言では子どものころは種子が馬の睾丸

に似ているというウマヌタニギーといった年寄は赤く染めるという意味のアカズ

ミーギーといっていた

《昔は芭蕉布を染めたんですか》私が見たのは芭蕉じゃなくて木綿ですよ白い布で

すよ帯をつくったりするとかは戦前ですよ戦後は食糧難でその辺の話はよ

くあるけど染めて着けるとかという話はあまりきかない

《シャリンバイは佐敷にもありましたか》あったんだけど僕なんかは染物に使ってい

るとかなんとかいう話は覚えてないし知らない大きくなってからは染物に使っ

ているとかいう話は聞いたことはあるけど実際はわからん実を食べたりとかい

う話はあんまりないなシャリンバイはざらにあるやつではないよな

《フクギを染料に使いましたか》ここでも黄色い染料として使ったですよ染めるのは木

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

綿ですよ皮を煎じてね実を使ったかどうかはわからんですよほかの用途とし

ては屋敷林は普通

《実は食べましたか》臭くてここでは食べない屋敷林としてもよい防風林防潮

防火とかこれは火にも強いんですよ

《材木として使わなかったのですか》建材としての記憶はないこの辺では建材といっ

たらイーク(モッコク)とかチャーギ(イヌマキ)ですよここには何年も植

えておくような土地がないでしょ一応チャーギなど屋敷に植えてはいるけど

建材はやんばるからの輸入ですよ

リュウキュウバショウ 包み物や熱冷ましにも利用

《芭蕉は各家庭で織っていましたか》ほとんどの家庭で織っていた芭蕉自体にウーといっ

ていただいたい植えている所はヤ屋敷の後ろ側

ーヌクシーですよ

《ヤーヌクシーで足りましたか》あのころ糸を作るのもあるけど包装紙の代わりも

やったんですよまたイ味噌甕

ンスガーミの味噌を発酵するときカ甕

ーミの蓋の上を

芭蕉の葉を炙って被せる炙るのは葉をやわらかくするため逆に葉をそのまま

使用したら破ける火に炙ったら柔らかくはなるけど簡単には破けないだか

ら弁当を包むのもそれでやったですよ普通芭蕉の葉は横にちょっとひっぱると

スーと切れるんですよね炙るとそういうのがなくなるだから僕の印象として

はバサージンを作る糸をつむいでというのもわかるけど日常的によく使っ

ているというのはカーサ弁当ですよ握り飯のようなものにアンダンスー入れて

包んで持ったお祝いの時にムチウンブーといって竹で作った平たいザルみた

いなのがあるでしょ芭蕉の葉を炙ってからそれに敷いてその上に餅やカステラ

または焼き豆腐を置いたりなんかしているそういう日常的によく使うから家

屋の後ろに植えるやんばるの喜如嘉みたいに何百坪ではなくてここは小規

模でそんなに植える所はなかったここでは芭蕉の織物は主な仕事という

よりは片手間でやっていた

《昔は機織り機はありましたか》機織り機はありますよ座って織るジ地機

ーバタとか

タ高機

カハタというのはちょっと[座る位置が]高いというのがありますね

《各家庭何割ぐらいありましたか》屋比久だったらそうですねそんなに多くはなかっ

たと思うけど半分半分もないんじゃないかだいたいそれをやる所は余裕の

あるところですよそれと若い娘がいるところ

《オジーオバーはやらなかったのですか》オジーオバーは目がダメだよな首里では

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

老眼鏡かけてやったりするはずだけどここでは娘がやっていたんじゃないかな

《芭蕉の茎を熱冷ましに使わなかったか》使っている幹をとってきて皮を剥いで白

くなったところをまた一枚一枚剥いでこれをすりこぎみたいなボ棒

ーグヮーで叩

いて汁ジャカジャカーする

《剥いだのを叩くんですか》そうジャカジャカーして汁がでてくるのを重ねて枕に

するとか子どもだったら敷いてからその上に背中から寝かせるとかで熱さま

しにした

《飲ましたりしましたか》飲ますんじゃないよ

《葉に寝かせたりしましたか》ここでは葉は使わなかったですよ

《那覇ではその汁で背中をふいたらしいです》それあるかもしれんこちらはそうじゃ

ない汁ジャカジャカーしたのを敷きその上に寝かすわけですよ効果満点

ヒラミレモンの利用と語源

《ヒラミレモンの方言を教えて下さい》方言ではシークヮーサーですよ

《どんなのに使いましたか》食べることとあと芭蕉布に使うシークヮーサーという

名前の通り着古した芭蕉布は繊維がゆるゆるになるさシークヮーサーの汁に

つけると繊維がシュとするだからシークヮーサーというんです

《どういう意味ですか》シーというのは酢なんですよシークヮーサーでこれを与える

わけですよ芭蕉布にシークヮースンクヮースンというのはくわせるとか与

えるという意味ですよあの家畜にム餌を与える

ヌクヮースンというさクヮーサーは与え

るものさヌーサーというのはハ畑する人

ルサーとかのサー酢を与えるをシークヮース

ンというんです逆にシーをクヮースンというのは酢を食べさせるとか与える

とかになるそれで芭蕉の着物がくたびれた時にシークヮースンというんですよ

《文献などに書いてありましたか》いやこの辺での話ですよこの辺では佐敷屋比久

外間も外間のむこうもですねだから昔はバ芭蕉着

サージンなんていうのは日頃着

ける着物今は琉舞をする人たちがつける高級なのになってるけど昔はヒン

スームンがつける着物なんですよだからハ畑へ

ルカイイ行くのにも

チュシンヌ何をするにしても

ーシーニン

ムほとんどこればかり

ルウリバカーイチ着けているよーねー

チョーウセーヤーだから繊維がくたびれるわけですよ

それでヨロヨロになっている繊維を酢入れることでシャンとしたバサージン

にするということでシークヮースンというんですよ

《イメージがわかないけどどんな感じになるのですか》ちょうど縫いたての新し

い芭蕉着のようになるよ酸っぱいにシーサンというだろ前にもいったように

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

シークヮースンというのはシークヮーサーのシーをクヮースなんですよシー

をクヮースンの木だからシークヮーサーなんですよシークヮーサーっていうの

は酸っぱいものが出るからなんですよ酢が出るまあ難しく言えば酢酸そ

して着古した芭蕉着をいきかえさせるそのためにシークヮースンという

《シークヮーサーでバサーを洗うというのはあちこち聞いていました》今の芭蕉布を

蘇らせるというのはここだけの話じゃないと思うよそういった意味ではシー

クヮーサーは食べる以外にも大きな使命があったんですね方言名は芭蕉布とセッ

トみたいなものだから田舎ではシークヮーサーを屋敷内に植えられている

昔の人はねある一つのものを多面的に使っているというかね食べるだけじゃ

なくて日常生活にもシークヮースンということでも使っている

《はじめて聞きますがこのことは文献にありますか》ないですよシークヮーサーのそ

ういうのは昔の人は常識かもしれないけど

《方言は聞いていたけど気づきませんでした》方言名というのはだいたい生活のかかわ

りがあるというね

《洗い方について》ここではね芭蕉布を洗うのにビたらい

ンダーレーとかそれから非常

に大きな丈の高いタライみたいのがあるさ方言ではなんていうかな昔の豆腐

作る時なんかに汁をためるようなもの大きな桶よここではそれを使っていた

それでシークヮーサーも熟しているものじゃなくてまだ皮が黄色くならない

ものあれを切ってそしてつぶして種も一緒だったよ着物はそんなにない

からね何回もやることはそんなになかったはずだから自分のものは自分の家

でやっていただから特別にどこかの家だけがやるというようなたとえばこれ

が上手で商売しているというようなことはこの辺ではなかったもうごく普通

にやるけど各家庭には毎年やるような着物の数はないので毎年はやらないわ

けさ

《畑仕事している人には必要では》ハルサーに使っているといってもそんなになんてい

うのかな新しくするなんていうことはよっぽどじゃないかぎりやらないですよ

だからバサーでも模様が入っているのがあるあのどっちかっていうと方言

でトゥンジヘンジーっていうんだけどちょっとした買い物ちょっとした所に

行く時につけるというのそんなのはシークヮースンというのをやるわけだけど

年に一度なんてやらないよたまにくたびれた時に再生するくらいのものだよ

《方言の呼び方の種類はありましたか》基本的には全部シークヮーサーです

《品種がありましたか》今いろんな品種がありますよね例えばクガニーグヮーかカー

- 33 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ブチーというのもあったですねいろいろあったと思いますけどねまあここ

にあるのは普通によくいわれているシークヮーサーというものです

食用または遊び等で食べた草木

《食用の草にはどのようなものがありましたか》ニンブトゥカー(スベリヒユ)は酢のも

のとしてよく食べた野山の草では一番食べてるのはフーチバー(ニシヨモギ)

ンジャナ(ホソバワダン)も食べた戦争や終戦時はチーファンプー(ツワブキ)

も食べたチーファンプーの茎の皮を剥いであれはアクが強いから流れる川につ

けてアクをぬいて食べたそれからヘゴの芯あれはダイコンみたいにおいしい

ですよヘゴは食べる習慣というよりは僕なんかは戦争でなにもなくなってか

ら食べたよ(12)

《ソテツ》方言でスーティーチャー戦後は何もないからスーティーチャーも毒抜き

して食べていますよ(13)

《毒抜きの方法は知っていますか》地元の人は水で洗ってからね

《昔から食べていたかもしれませんね》茎なんかは昔は食べてないんですよ昔は実

を砕いて毒抜きしてますよ毒抜きは水にさらしてカビを生えさせました

《毒が抜けたのがわかりますか》僕はその辺がわからんけど

《幹も食べましたか》戦前は幹を食べてないが戦後は幹もウムクジシリーで細かにし

て食べたしかしあれはねノコギリのカスみたいでなんの栄養もないご飯と

混ぜてまたは芋と混ぜたりなんかしたけどあんまり食べてないですよあれ

食べられるもんじゃないよなにもないから食べたんだよ僕らも一二度食べ

たかなといったぐらいだよ実は食べてるけどもう実は(みんな食べていた

ので)なかったよ

《ソテツの実を食べたのはいつ頃ですか》割って白い中身を出して水洗いをして食べ

ていたはずですけどね戦前は全然食べてないですよ僕なんか食用にしたとい

うのは終戦直後ですよ当時は食べ物がなにもなかったというくらいだったから

《ヘゴ類》ぜんまい(ヘゴの芽)なんかは柔らかくてよく食べた

《タラノキ》こっちにはない

《シナノガキ》シナノガキは佐敷の植物調査した時には崖の所にはあったけどね

《タイワンウオクサギ》方言でクサランギーワーといった虫がよくつくんですよねこ

れは実を食べるというよりは葉を食べていたんですね若い葉っぱを野菜として

(12)ensp後日確認したところ 戦中 現在の金武町に避難した時にヒカゲヘゴを食べたという

(13)ensp戦後 ソテツを食べたことについては知念 (1995) にも報告されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

食べた古い葉は使わない葉っぱはヌ何と言ったかな

ーンディーガちょうど青菜の野菜と同

じ扱いでさジューシーとか野菜チャンプルーみたいに使った

《クサギ》こっちはあるよあるけどそんなに身近にはないな垣花城址とか山の中には

いっぱいあるさこの辺にはないんですから利用についてはわからんね

《モクタチバナ》これはあることはありますよ小谷なんかにはいっぱいありますよ生

活にはあまり使ってないですね実は食べたことない

《タイミンタチバナ》これは南部ではみないですねこれはやんばるですね

《ヤマグワ》方言でクヮーギ実はクヮーギヌナイといいそのままでよく食べた食べ

てあまり腹に満たないうんと熟したやつは年寄りが酒に漬けて色をつけて

喜んで飲んだりしてましたよ私も小さいころ見覚えがありますだけどやっぱり

子どものころは食べに行きますまあ遊びとして食べているんだがお腹を満たす

ものではない

《他に使っていませんか》年とった桑はだめだけど若くてまっすぐに伸びた茎はちょ

うどユーナ(オオハマボウ)と同じで樹皮がパーッと長く剥げるわけですよ

それを池などの水につけておくと腐れて繊維が残るわけですよこれで縄をなっ

ている

《遊びとは違いますか》遊びじゃないですよ仕事というよりは生活この桑の綱は真っ

白で下駄の鼻緒上等な鼻緒に使ったりしたんですよちょうどユーナも同じで

束ねて池なんかにつけて腐らせるわけですよそしたら白い繊維が残るそれを

シルジナといってですね下駄の鼻緒とかツルベの紐に使う

《そんなに丈夫だったんですか》うんと丈夫ですよまたシュロでも縄作っていたよ

スルガージナといってスルガージナはね漁民が重宝したですよ簡単に腐ら

ないですよまたスルガージナは水をはじくんですよ

《モモタマナ》方言ではクファディーサーといっているクファディーサーはこっちでは

あんまり使ってないですねウこれは

リヤナ泣き声で

チクゥイーディドーフ成長する

ドゥイーユル(人

の泣き声で大きくなるといわれている)といって墓地などに植えておりあまり

屋敷林としては植えない僕の墓地にも23本はありますよクファディーサー

というと大きな屋慶名クファディーサー(図6)が有名(14)

《ギーマ》ギーマはこの辺あんまりないですよ今の南城市玉城の体育館のある所にはヤ

ンバルヤマといってあそこら辺にはギーマがありましただから名前もヤンバルヤ

マといっていた浦添市の茶山団地付近は僕が学生の頃は山があってギーマなん

(14)ensp琉球古典音楽の 「屋慶名こはでさ節」 「屋慶名節」 が知られており 沖縄民謡でも歌われている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

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1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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- 28 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

にねまた強くするといってア油を付ける

ンダグヮー

チキーしたけど強くはならなかった

マルタニシやフナを食べる

《アフリカマイマイが入る前の様子》戦前はアフリカ

マイマイが入ってくる前に食べているのはおそら

くほとんどがウスカワマイマイですよそれと

ターンナ(マルタニシ)ターンナはいつも稲刈

りが終わって田んぼを耕す時にとるあのころは

農薬もなにも使わないからいっぱいいましたよこの辺では一年中いつでも食べる

わけじゃなくて稲刈りの時にとってフナもその時ですよその時はだいたい一

網打尽那覇市場にはシ滋養強壮食

ンジムン用として出ていた

ハブと貝

《ハブは食べましたか》ハブはあまり食べるものではなかったただね傷薬としてハ

ブの油を使っているカマの傷などに傷薬としてそれを塗るハブを捕まえた

ら油をとって塩漬けした塩漬けをいろんな容器には入れるけどさ今みたいに

ね小さなビンとか容器とかがたくさんあるわけじゃないわけ昔リョウフとか

いうゼリー状の塗り薬があってその容器とかまたハマグリの蓋をあわせたも

のに入れたりなんかして保管をしたんですよつがいになったリュウキュウサルボ

ウ(図5)もよく使った油は持ち歩かないのでア豚油の塩漬け

ンダマースはこれに入れたんで

すよアンダマースは破傷風よけさ豚油にたくさん塩を入れたもので傷口が

ふさがらないように傷口からいつでも汁が出るようになっている結局浸透圧だ

よね傷口が乾燥したら困るわけでジャクジャクしていたら破傷風菌が発生しな

いわけさだからアンダマースはリュウキュウサルボウにも一緒によく使ったわけ

さアンダマースを入れるのはこの種だけじゃないからだいたいリュウキュウ

サルボウのサイズこれより大きいやつも使わないしこれより小さいやつもほと

んど使っていないイソハマグリとかいろいろあるけどもうこの程度(リュウキュ

ウサルボウの大きさ)ですねリュウキュウサルボウはハマグリよりも深くて詰め

やすいんですよこれも昔の人の知恵ですねアンダマース入れたりハブのアン

ダとか容器がたくさんあるという時代じゃないけど貝を紐で口をしばったりす

る必要はないちょうつがいがありますからねこのように二枚貝を使ったわけさ

魔除け

図 5 ハブの油やアンダマースを入れた

リュウキュウサルボウ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《魔除けの貝について》貝だったらスイジガイだけどクモガイも使う屋比久でもやっ

てましたよフ疫病返し

ーチゲーシといってゥワ豚小屋

ーヌフールだとかにぶら下げてねフー

チというのは伝染病さ昔の家には玄関はないさだから門や入口だとかにぶら

下げたりなんかして屋比久では今でもスイジガイだとかクモガイだとかあちこち

ぶら下がってる所もあるはずですよ

《シャコガイは使ってませんか》魔除けとしてシャコガイはこの辺では使ってないけど

奄美大島に近い所はよく石垣の所に飾られていますね沖縄ではよく津堅とか

久高あれはね地べたに埋める所もあるんですよ足を挟むといってよく人

が歩く所にだとか門の所の下に埋めておいて悪霊などの足を挟むとか魔除

けみたいなもの

(2)植物

染料

《染料はどんなのを使いましたか》染料としてよく使ったというのはサキシマスオウノ

キ方言ではウマヌタニギーまたはアカズミーギーともいう赤い色に染めるよ

サキシマスオウノキの皮を使う皮をはいで細かくして煎じ汁だったかどうか

わからんけどさとにかくシンメーナービー(大きな鍋)で炊いていたと思う初

めは赤いというより橙色みたいなんだけど染まった時には赤くなるわけこの

辺でやっているのをみたことがある詳しくはわからんよとにかく子どもの時に

みているだけだからサキシマスオウノキはどこでもあるっていうわけではないか

らなこの辺は川や湿地帯がありハマジンチョウが生えるぐらいですからサ

キシマスオウノキは多かったですよ方言では子どものころは種子が馬の睾丸

に似ているというウマヌタニギーといった年寄は赤く染めるという意味のアカズ

ミーギーといっていた

《昔は芭蕉布を染めたんですか》私が見たのは芭蕉じゃなくて木綿ですよ白い布で

すよ帯をつくったりするとかは戦前ですよ戦後は食糧難でその辺の話はよ

くあるけど染めて着けるとかという話はあまりきかない

《シャリンバイは佐敷にもありましたか》あったんだけど僕なんかは染物に使ってい

るとかなんとかいう話は覚えてないし知らない大きくなってからは染物に使っ

ているとかいう話は聞いたことはあるけど実際はわからん実を食べたりとかい

う話はあんまりないなシャリンバイはざらにあるやつではないよな

《フクギを染料に使いましたか》ここでも黄色い染料として使ったですよ染めるのは木

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

綿ですよ皮を煎じてね実を使ったかどうかはわからんですよほかの用途とし

ては屋敷林は普通

《実は食べましたか》臭くてここでは食べない屋敷林としてもよい防風林防潮

防火とかこれは火にも強いんですよ

《材木として使わなかったのですか》建材としての記憶はないこの辺では建材といっ

たらイーク(モッコク)とかチャーギ(イヌマキ)ですよここには何年も植

えておくような土地がないでしょ一応チャーギなど屋敷に植えてはいるけど

建材はやんばるからの輸入ですよ

リュウキュウバショウ 包み物や熱冷ましにも利用

《芭蕉は各家庭で織っていましたか》ほとんどの家庭で織っていた芭蕉自体にウーといっ

ていただいたい植えている所はヤ屋敷の後ろ側

ーヌクシーですよ

《ヤーヌクシーで足りましたか》あのころ糸を作るのもあるけど包装紙の代わりも

やったんですよまたイ味噌甕

ンスガーミの味噌を発酵するときカ甕

ーミの蓋の上を

芭蕉の葉を炙って被せる炙るのは葉をやわらかくするため逆に葉をそのまま

使用したら破ける火に炙ったら柔らかくはなるけど簡単には破けないだか

ら弁当を包むのもそれでやったですよ普通芭蕉の葉は横にちょっとひっぱると

スーと切れるんですよね炙るとそういうのがなくなるだから僕の印象として

はバサージンを作る糸をつむいでというのもわかるけど日常的によく使っ

ているというのはカーサ弁当ですよ握り飯のようなものにアンダンスー入れて

包んで持ったお祝いの時にムチウンブーといって竹で作った平たいザルみた

いなのがあるでしょ芭蕉の葉を炙ってからそれに敷いてその上に餅やカステラ

または焼き豆腐を置いたりなんかしているそういう日常的によく使うから家

屋の後ろに植えるやんばるの喜如嘉みたいに何百坪ではなくてここは小規

模でそんなに植える所はなかったここでは芭蕉の織物は主な仕事という

よりは片手間でやっていた

《昔は機織り機はありましたか》機織り機はありますよ座って織るジ地機

ーバタとか

タ高機

カハタというのはちょっと[座る位置が]高いというのがありますね

《各家庭何割ぐらいありましたか》屋比久だったらそうですねそんなに多くはなかっ

たと思うけど半分半分もないんじゃないかだいたいそれをやる所は余裕の

あるところですよそれと若い娘がいるところ

《オジーオバーはやらなかったのですか》オジーオバーは目がダメだよな首里では

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

老眼鏡かけてやったりするはずだけどここでは娘がやっていたんじゃないかな

《芭蕉の茎を熱冷ましに使わなかったか》使っている幹をとってきて皮を剥いで白

くなったところをまた一枚一枚剥いでこれをすりこぎみたいなボ棒

ーグヮーで叩

いて汁ジャカジャカーする

《剥いだのを叩くんですか》そうジャカジャカーして汁がでてくるのを重ねて枕に

するとか子どもだったら敷いてからその上に背中から寝かせるとかで熱さま

しにした

《飲ましたりしましたか》飲ますんじゃないよ

《葉に寝かせたりしましたか》ここでは葉は使わなかったですよ

《那覇ではその汁で背中をふいたらしいです》それあるかもしれんこちらはそうじゃ

ない汁ジャカジャカーしたのを敷きその上に寝かすわけですよ効果満点

ヒラミレモンの利用と語源

《ヒラミレモンの方言を教えて下さい》方言ではシークヮーサーですよ

《どんなのに使いましたか》食べることとあと芭蕉布に使うシークヮーサーという

名前の通り着古した芭蕉布は繊維がゆるゆるになるさシークヮーサーの汁に

つけると繊維がシュとするだからシークヮーサーというんです

《どういう意味ですか》シーというのは酢なんですよシークヮーサーでこれを与える

わけですよ芭蕉布にシークヮースンクヮースンというのはくわせるとか与

えるという意味ですよあの家畜にム餌を与える

ヌクヮースンというさクヮーサーは与え

るものさヌーサーというのはハ畑する人

ルサーとかのサー酢を与えるをシークヮース

ンというんです逆にシーをクヮースンというのは酢を食べさせるとか与える

とかになるそれで芭蕉の着物がくたびれた時にシークヮースンというんですよ

《文献などに書いてありましたか》いやこの辺での話ですよこの辺では佐敷屋比久

外間も外間のむこうもですねだから昔はバ芭蕉着

サージンなんていうのは日頃着

ける着物今は琉舞をする人たちがつける高級なのになってるけど昔はヒン

スームンがつける着物なんですよだからハ畑へ

ルカイイ行くのにも

チュシンヌ何をするにしても

ーシーニン

ムほとんどこればかり

ルウリバカーイチ着けているよーねー

チョーウセーヤーだから繊維がくたびれるわけですよ

それでヨロヨロになっている繊維を酢入れることでシャンとしたバサージン

にするということでシークヮースンというんですよ

《イメージがわかないけどどんな感じになるのですか》ちょうど縫いたての新し

い芭蕉着のようになるよ酸っぱいにシーサンというだろ前にもいったように

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

シークヮースンというのはシークヮーサーのシーをクヮースなんですよシー

をクヮースンの木だからシークヮーサーなんですよシークヮーサーっていうの

は酸っぱいものが出るからなんですよ酢が出るまあ難しく言えば酢酸そ

して着古した芭蕉着をいきかえさせるそのためにシークヮースンという

《シークヮーサーでバサーを洗うというのはあちこち聞いていました》今の芭蕉布を

蘇らせるというのはここだけの話じゃないと思うよそういった意味ではシー

クヮーサーは食べる以外にも大きな使命があったんですね方言名は芭蕉布とセッ

トみたいなものだから田舎ではシークヮーサーを屋敷内に植えられている

昔の人はねある一つのものを多面的に使っているというかね食べるだけじゃ

なくて日常生活にもシークヮースンということでも使っている

《はじめて聞きますがこのことは文献にありますか》ないですよシークヮーサーのそ

ういうのは昔の人は常識かもしれないけど

《方言は聞いていたけど気づきませんでした》方言名というのはだいたい生活のかかわ

りがあるというね

《洗い方について》ここではね芭蕉布を洗うのにビたらい

ンダーレーとかそれから非常

に大きな丈の高いタライみたいのがあるさ方言ではなんていうかな昔の豆腐

作る時なんかに汁をためるようなもの大きな桶よここではそれを使っていた

それでシークヮーサーも熟しているものじゃなくてまだ皮が黄色くならない

ものあれを切ってそしてつぶして種も一緒だったよ着物はそんなにない

からね何回もやることはそんなになかったはずだから自分のものは自分の家

でやっていただから特別にどこかの家だけがやるというようなたとえばこれ

が上手で商売しているというようなことはこの辺ではなかったもうごく普通

にやるけど各家庭には毎年やるような着物の数はないので毎年はやらないわ

けさ

《畑仕事している人には必要では》ハルサーに使っているといってもそんなになんてい

うのかな新しくするなんていうことはよっぽどじゃないかぎりやらないですよ

だからバサーでも模様が入っているのがあるあのどっちかっていうと方言

でトゥンジヘンジーっていうんだけどちょっとした買い物ちょっとした所に

行く時につけるというのそんなのはシークヮースンというのをやるわけだけど

年に一度なんてやらないよたまにくたびれた時に再生するくらいのものだよ

《方言の呼び方の種類はありましたか》基本的には全部シークヮーサーです

《品種がありましたか》今いろんな品種がありますよね例えばクガニーグヮーかカー

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ブチーというのもあったですねいろいろあったと思いますけどねまあここ

にあるのは普通によくいわれているシークヮーサーというものです

食用または遊び等で食べた草木

《食用の草にはどのようなものがありましたか》ニンブトゥカー(スベリヒユ)は酢のも

のとしてよく食べた野山の草では一番食べてるのはフーチバー(ニシヨモギ)

ンジャナ(ホソバワダン)も食べた戦争や終戦時はチーファンプー(ツワブキ)

も食べたチーファンプーの茎の皮を剥いであれはアクが強いから流れる川につ

けてアクをぬいて食べたそれからヘゴの芯あれはダイコンみたいにおいしい

ですよヘゴは食べる習慣というよりは僕なんかは戦争でなにもなくなってか

ら食べたよ(12)

《ソテツ》方言でスーティーチャー戦後は何もないからスーティーチャーも毒抜き

して食べていますよ(13)

《毒抜きの方法は知っていますか》地元の人は水で洗ってからね

《昔から食べていたかもしれませんね》茎なんかは昔は食べてないんですよ昔は実

を砕いて毒抜きしてますよ毒抜きは水にさらしてカビを生えさせました

《毒が抜けたのがわかりますか》僕はその辺がわからんけど

《幹も食べましたか》戦前は幹を食べてないが戦後は幹もウムクジシリーで細かにし

て食べたしかしあれはねノコギリのカスみたいでなんの栄養もないご飯と

混ぜてまたは芋と混ぜたりなんかしたけどあんまり食べてないですよあれ

食べられるもんじゃないよなにもないから食べたんだよ僕らも一二度食べ

たかなといったぐらいだよ実は食べてるけどもう実は(みんな食べていた

ので)なかったよ

《ソテツの実を食べたのはいつ頃ですか》割って白い中身を出して水洗いをして食べ

ていたはずですけどね戦前は全然食べてないですよ僕なんか食用にしたとい

うのは終戦直後ですよ当時は食べ物がなにもなかったというくらいだったから

《ヘゴ類》ぜんまい(ヘゴの芽)なんかは柔らかくてよく食べた

《タラノキ》こっちにはない

《シナノガキ》シナノガキは佐敷の植物調査した時には崖の所にはあったけどね

《タイワンウオクサギ》方言でクサランギーワーといった虫がよくつくんですよねこ

れは実を食べるというよりは葉を食べていたんですね若い葉っぱを野菜として

(12)ensp後日確認したところ 戦中 現在の金武町に避難した時にヒカゲヘゴを食べたという

(13)ensp戦後 ソテツを食べたことについては知念 (1995) にも報告されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

食べた古い葉は使わない葉っぱはヌ何と言ったかな

ーンディーガちょうど青菜の野菜と同

じ扱いでさジューシーとか野菜チャンプルーみたいに使った

《クサギ》こっちはあるよあるけどそんなに身近にはないな垣花城址とか山の中には

いっぱいあるさこの辺にはないんですから利用についてはわからんね

《モクタチバナ》これはあることはありますよ小谷なんかにはいっぱいありますよ生

活にはあまり使ってないですね実は食べたことない

《タイミンタチバナ》これは南部ではみないですねこれはやんばるですね

《ヤマグワ》方言でクヮーギ実はクヮーギヌナイといいそのままでよく食べた食べ

てあまり腹に満たないうんと熟したやつは年寄りが酒に漬けて色をつけて

喜んで飲んだりしてましたよ私も小さいころ見覚えがありますだけどやっぱり

子どものころは食べに行きますまあ遊びとして食べているんだがお腹を満たす

ものではない

《他に使っていませんか》年とった桑はだめだけど若くてまっすぐに伸びた茎はちょ

うどユーナ(オオハマボウ)と同じで樹皮がパーッと長く剥げるわけですよ

それを池などの水につけておくと腐れて繊維が残るわけですよこれで縄をなっ

ている

《遊びとは違いますか》遊びじゃないですよ仕事というよりは生活この桑の綱は真っ

白で下駄の鼻緒上等な鼻緒に使ったりしたんですよちょうどユーナも同じで

束ねて池なんかにつけて腐らせるわけですよそしたら白い繊維が残るそれを

シルジナといってですね下駄の鼻緒とかツルベの紐に使う

《そんなに丈夫だったんですか》うんと丈夫ですよまたシュロでも縄作っていたよ

スルガージナといってスルガージナはね漁民が重宝したですよ簡単に腐ら

ないですよまたスルガージナは水をはじくんですよ

《モモタマナ》方言ではクファディーサーといっているクファディーサーはこっちでは

あんまり使ってないですねウこれは

リヤナ泣き声で

チクゥイーディドーフ成長する

ドゥイーユル(人

の泣き声で大きくなるといわれている)といって墓地などに植えておりあまり

屋敷林としては植えない僕の墓地にも23本はありますよクファディーサー

というと大きな屋慶名クファディーサー(図6)が有名(14)

《ギーマ》ギーマはこの辺あんまりないですよ今の南城市玉城の体育館のある所にはヤ

ンバルヤマといってあそこら辺にはギーマがありましただから名前もヤンバルヤ

マといっていた浦添市の茶山団地付近は僕が学生の頃は山があってギーマなん

(14)ensp琉球古典音楽の 「屋慶名こはでさ節」 「屋慶名節」 が知られており 沖縄民謡でも歌われている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

- 37 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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宜野座村役場宜野座村

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町役場佐敷町

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島西銘誌編集委員会久米島町

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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- 29 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《魔除けの貝について》貝だったらスイジガイだけどクモガイも使う屋比久でもやっ

てましたよフ疫病返し

ーチゲーシといってゥワ豚小屋

ーヌフールだとかにぶら下げてねフー

チというのは伝染病さ昔の家には玄関はないさだから門や入口だとかにぶら

下げたりなんかして屋比久では今でもスイジガイだとかクモガイだとかあちこち

ぶら下がってる所もあるはずですよ

《シャコガイは使ってませんか》魔除けとしてシャコガイはこの辺では使ってないけど

奄美大島に近い所はよく石垣の所に飾られていますね沖縄ではよく津堅とか

久高あれはね地べたに埋める所もあるんですよ足を挟むといってよく人

が歩く所にだとか門の所の下に埋めておいて悪霊などの足を挟むとか魔除

けみたいなもの

(2)植物

染料

《染料はどんなのを使いましたか》染料としてよく使ったというのはサキシマスオウノ

キ方言ではウマヌタニギーまたはアカズミーギーともいう赤い色に染めるよ

サキシマスオウノキの皮を使う皮をはいで細かくして煎じ汁だったかどうか

わからんけどさとにかくシンメーナービー(大きな鍋)で炊いていたと思う初

めは赤いというより橙色みたいなんだけど染まった時には赤くなるわけこの

辺でやっているのをみたことがある詳しくはわからんよとにかく子どもの時に

みているだけだからサキシマスオウノキはどこでもあるっていうわけではないか

らなこの辺は川や湿地帯がありハマジンチョウが生えるぐらいですからサ

キシマスオウノキは多かったですよ方言では子どものころは種子が馬の睾丸

に似ているというウマヌタニギーといった年寄は赤く染めるという意味のアカズ

ミーギーといっていた

《昔は芭蕉布を染めたんですか》私が見たのは芭蕉じゃなくて木綿ですよ白い布で

すよ帯をつくったりするとかは戦前ですよ戦後は食糧難でその辺の話はよ

くあるけど染めて着けるとかという話はあまりきかない

《シャリンバイは佐敷にもありましたか》あったんだけど僕なんかは染物に使ってい

るとかなんとかいう話は覚えてないし知らない大きくなってからは染物に使っ

ているとかいう話は聞いたことはあるけど実際はわからん実を食べたりとかい

う話はあんまりないなシャリンバイはざらにあるやつではないよな

《フクギを染料に使いましたか》ここでも黄色い染料として使ったですよ染めるのは木

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

綿ですよ皮を煎じてね実を使ったかどうかはわからんですよほかの用途とし

ては屋敷林は普通

《実は食べましたか》臭くてここでは食べない屋敷林としてもよい防風林防潮

防火とかこれは火にも強いんですよ

《材木として使わなかったのですか》建材としての記憶はないこの辺では建材といっ

たらイーク(モッコク)とかチャーギ(イヌマキ)ですよここには何年も植

えておくような土地がないでしょ一応チャーギなど屋敷に植えてはいるけど

建材はやんばるからの輸入ですよ

リュウキュウバショウ 包み物や熱冷ましにも利用

《芭蕉は各家庭で織っていましたか》ほとんどの家庭で織っていた芭蕉自体にウーといっ

ていただいたい植えている所はヤ屋敷の後ろ側

ーヌクシーですよ

《ヤーヌクシーで足りましたか》あのころ糸を作るのもあるけど包装紙の代わりも

やったんですよまたイ味噌甕

ンスガーミの味噌を発酵するときカ甕

ーミの蓋の上を

芭蕉の葉を炙って被せる炙るのは葉をやわらかくするため逆に葉をそのまま

使用したら破ける火に炙ったら柔らかくはなるけど簡単には破けないだか

ら弁当を包むのもそれでやったですよ普通芭蕉の葉は横にちょっとひっぱると

スーと切れるんですよね炙るとそういうのがなくなるだから僕の印象として

はバサージンを作る糸をつむいでというのもわかるけど日常的によく使っ

ているというのはカーサ弁当ですよ握り飯のようなものにアンダンスー入れて

包んで持ったお祝いの時にムチウンブーといって竹で作った平たいザルみた

いなのがあるでしょ芭蕉の葉を炙ってからそれに敷いてその上に餅やカステラ

または焼き豆腐を置いたりなんかしているそういう日常的によく使うから家

屋の後ろに植えるやんばるの喜如嘉みたいに何百坪ではなくてここは小規

模でそんなに植える所はなかったここでは芭蕉の織物は主な仕事という

よりは片手間でやっていた

《昔は機織り機はありましたか》機織り機はありますよ座って織るジ地機

ーバタとか

タ高機

カハタというのはちょっと[座る位置が]高いというのがありますね

《各家庭何割ぐらいありましたか》屋比久だったらそうですねそんなに多くはなかっ

たと思うけど半分半分もないんじゃないかだいたいそれをやる所は余裕の

あるところですよそれと若い娘がいるところ

《オジーオバーはやらなかったのですか》オジーオバーは目がダメだよな首里では

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

老眼鏡かけてやったりするはずだけどここでは娘がやっていたんじゃないかな

《芭蕉の茎を熱冷ましに使わなかったか》使っている幹をとってきて皮を剥いで白

くなったところをまた一枚一枚剥いでこれをすりこぎみたいなボ棒

ーグヮーで叩

いて汁ジャカジャカーする

《剥いだのを叩くんですか》そうジャカジャカーして汁がでてくるのを重ねて枕に

するとか子どもだったら敷いてからその上に背中から寝かせるとかで熱さま

しにした

《飲ましたりしましたか》飲ますんじゃないよ

《葉に寝かせたりしましたか》ここでは葉は使わなかったですよ

《那覇ではその汁で背中をふいたらしいです》それあるかもしれんこちらはそうじゃ

ない汁ジャカジャカーしたのを敷きその上に寝かすわけですよ効果満点

ヒラミレモンの利用と語源

《ヒラミレモンの方言を教えて下さい》方言ではシークヮーサーですよ

《どんなのに使いましたか》食べることとあと芭蕉布に使うシークヮーサーという

名前の通り着古した芭蕉布は繊維がゆるゆるになるさシークヮーサーの汁に

つけると繊維がシュとするだからシークヮーサーというんです

《どういう意味ですか》シーというのは酢なんですよシークヮーサーでこれを与える

わけですよ芭蕉布にシークヮースンクヮースンというのはくわせるとか与

えるという意味ですよあの家畜にム餌を与える

ヌクヮースンというさクヮーサーは与え

るものさヌーサーというのはハ畑する人

ルサーとかのサー酢を与えるをシークヮース

ンというんです逆にシーをクヮースンというのは酢を食べさせるとか与える

とかになるそれで芭蕉の着物がくたびれた時にシークヮースンというんですよ

《文献などに書いてありましたか》いやこの辺での話ですよこの辺では佐敷屋比久

外間も外間のむこうもですねだから昔はバ芭蕉着

サージンなんていうのは日頃着

ける着物今は琉舞をする人たちがつける高級なのになってるけど昔はヒン

スームンがつける着物なんですよだからハ畑へ

ルカイイ行くのにも

チュシンヌ何をするにしても

ーシーニン

ムほとんどこればかり

ルウリバカーイチ着けているよーねー

チョーウセーヤーだから繊維がくたびれるわけですよ

それでヨロヨロになっている繊維を酢入れることでシャンとしたバサージン

にするということでシークヮースンというんですよ

《イメージがわかないけどどんな感じになるのですか》ちょうど縫いたての新し

い芭蕉着のようになるよ酸っぱいにシーサンというだろ前にもいったように

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

シークヮースンというのはシークヮーサーのシーをクヮースなんですよシー

をクヮースンの木だからシークヮーサーなんですよシークヮーサーっていうの

は酸っぱいものが出るからなんですよ酢が出るまあ難しく言えば酢酸そ

して着古した芭蕉着をいきかえさせるそのためにシークヮースンという

《シークヮーサーでバサーを洗うというのはあちこち聞いていました》今の芭蕉布を

蘇らせるというのはここだけの話じゃないと思うよそういった意味ではシー

クヮーサーは食べる以外にも大きな使命があったんですね方言名は芭蕉布とセッ

トみたいなものだから田舎ではシークヮーサーを屋敷内に植えられている

昔の人はねある一つのものを多面的に使っているというかね食べるだけじゃ

なくて日常生活にもシークヮースンということでも使っている

《はじめて聞きますがこのことは文献にありますか》ないですよシークヮーサーのそ

ういうのは昔の人は常識かもしれないけど

《方言は聞いていたけど気づきませんでした》方言名というのはだいたい生活のかかわ

りがあるというね

《洗い方について》ここではね芭蕉布を洗うのにビたらい

ンダーレーとかそれから非常

に大きな丈の高いタライみたいのがあるさ方言ではなんていうかな昔の豆腐

作る時なんかに汁をためるようなもの大きな桶よここではそれを使っていた

それでシークヮーサーも熟しているものじゃなくてまだ皮が黄色くならない

ものあれを切ってそしてつぶして種も一緒だったよ着物はそんなにない

からね何回もやることはそんなになかったはずだから自分のものは自分の家

でやっていただから特別にどこかの家だけがやるというようなたとえばこれ

が上手で商売しているというようなことはこの辺ではなかったもうごく普通

にやるけど各家庭には毎年やるような着物の数はないので毎年はやらないわ

けさ

《畑仕事している人には必要では》ハルサーに使っているといってもそんなになんてい

うのかな新しくするなんていうことはよっぽどじゃないかぎりやらないですよ

だからバサーでも模様が入っているのがあるあのどっちかっていうと方言

でトゥンジヘンジーっていうんだけどちょっとした買い物ちょっとした所に

行く時につけるというのそんなのはシークヮースンというのをやるわけだけど

年に一度なんてやらないよたまにくたびれた時に再生するくらいのものだよ

《方言の呼び方の種類はありましたか》基本的には全部シークヮーサーです

《品種がありましたか》今いろんな品種がありますよね例えばクガニーグヮーかカー

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ブチーというのもあったですねいろいろあったと思いますけどねまあここ

にあるのは普通によくいわれているシークヮーサーというものです

食用または遊び等で食べた草木

《食用の草にはどのようなものがありましたか》ニンブトゥカー(スベリヒユ)は酢のも

のとしてよく食べた野山の草では一番食べてるのはフーチバー(ニシヨモギ)

ンジャナ(ホソバワダン)も食べた戦争や終戦時はチーファンプー(ツワブキ)

も食べたチーファンプーの茎の皮を剥いであれはアクが強いから流れる川につ

けてアクをぬいて食べたそれからヘゴの芯あれはダイコンみたいにおいしい

ですよヘゴは食べる習慣というよりは僕なんかは戦争でなにもなくなってか

ら食べたよ(12)

《ソテツ》方言でスーティーチャー戦後は何もないからスーティーチャーも毒抜き

して食べていますよ(13)

《毒抜きの方法は知っていますか》地元の人は水で洗ってからね

《昔から食べていたかもしれませんね》茎なんかは昔は食べてないんですよ昔は実

を砕いて毒抜きしてますよ毒抜きは水にさらしてカビを生えさせました

《毒が抜けたのがわかりますか》僕はその辺がわからんけど

《幹も食べましたか》戦前は幹を食べてないが戦後は幹もウムクジシリーで細かにし

て食べたしかしあれはねノコギリのカスみたいでなんの栄養もないご飯と

混ぜてまたは芋と混ぜたりなんかしたけどあんまり食べてないですよあれ

食べられるもんじゃないよなにもないから食べたんだよ僕らも一二度食べ

たかなといったぐらいだよ実は食べてるけどもう実は(みんな食べていた

ので)なかったよ

《ソテツの実を食べたのはいつ頃ですか》割って白い中身を出して水洗いをして食べ

ていたはずですけどね戦前は全然食べてないですよ僕なんか食用にしたとい

うのは終戦直後ですよ当時は食べ物がなにもなかったというくらいだったから

《ヘゴ類》ぜんまい(ヘゴの芽)なんかは柔らかくてよく食べた

《タラノキ》こっちにはない

《シナノガキ》シナノガキは佐敷の植物調査した時には崖の所にはあったけどね

《タイワンウオクサギ》方言でクサランギーワーといった虫がよくつくんですよねこ

れは実を食べるというよりは葉を食べていたんですね若い葉っぱを野菜として

(12)ensp後日確認したところ 戦中 現在の金武町に避難した時にヒカゲヘゴを食べたという

(13)ensp戦後 ソテツを食べたことについては知念 (1995) にも報告されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

食べた古い葉は使わない葉っぱはヌ何と言ったかな

ーンディーガちょうど青菜の野菜と同

じ扱いでさジューシーとか野菜チャンプルーみたいに使った

《クサギ》こっちはあるよあるけどそんなに身近にはないな垣花城址とか山の中には

いっぱいあるさこの辺にはないんですから利用についてはわからんね

《モクタチバナ》これはあることはありますよ小谷なんかにはいっぱいありますよ生

活にはあまり使ってないですね実は食べたことない

《タイミンタチバナ》これは南部ではみないですねこれはやんばるですね

《ヤマグワ》方言でクヮーギ実はクヮーギヌナイといいそのままでよく食べた食べ

てあまり腹に満たないうんと熟したやつは年寄りが酒に漬けて色をつけて

喜んで飲んだりしてましたよ私も小さいころ見覚えがありますだけどやっぱり

子どものころは食べに行きますまあ遊びとして食べているんだがお腹を満たす

ものではない

《他に使っていませんか》年とった桑はだめだけど若くてまっすぐに伸びた茎はちょ

うどユーナ(オオハマボウ)と同じで樹皮がパーッと長く剥げるわけですよ

それを池などの水につけておくと腐れて繊維が残るわけですよこれで縄をなっ

ている

《遊びとは違いますか》遊びじゃないですよ仕事というよりは生活この桑の綱は真っ

白で下駄の鼻緒上等な鼻緒に使ったりしたんですよちょうどユーナも同じで

束ねて池なんかにつけて腐らせるわけですよそしたら白い繊維が残るそれを

シルジナといってですね下駄の鼻緒とかツルベの紐に使う

《そんなに丈夫だったんですか》うんと丈夫ですよまたシュロでも縄作っていたよ

スルガージナといってスルガージナはね漁民が重宝したですよ簡単に腐ら

ないですよまたスルガージナは水をはじくんですよ

《モモタマナ》方言ではクファディーサーといっているクファディーサーはこっちでは

あんまり使ってないですねウこれは

リヤナ泣き声で

チクゥイーディドーフ成長する

ドゥイーユル(人

の泣き声で大きくなるといわれている)といって墓地などに植えておりあまり

屋敷林としては植えない僕の墓地にも23本はありますよクファディーサー

というと大きな屋慶名クファディーサー(図6)が有名(14)

《ギーマ》ギーマはこの辺あんまりないですよ今の南城市玉城の体育館のある所にはヤ

ンバルヤマといってあそこら辺にはギーマがありましただから名前もヤンバルヤ

マといっていた浦添市の茶山団地付近は僕が学生の頃は山があってギーマなん

(14)ensp琉球古典音楽の 「屋慶名こはでさ節」 「屋慶名節」 が知られており 沖縄民謡でも歌われている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

- 69 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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- 30 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

綿ですよ皮を煎じてね実を使ったかどうかはわからんですよほかの用途とし

ては屋敷林は普通

《実は食べましたか》臭くてここでは食べない屋敷林としてもよい防風林防潮

防火とかこれは火にも強いんですよ

《材木として使わなかったのですか》建材としての記憶はないこの辺では建材といっ

たらイーク(モッコク)とかチャーギ(イヌマキ)ですよここには何年も植

えておくような土地がないでしょ一応チャーギなど屋敷に植えてはいるけど

建材はやんばるからの輸入ですよ

リュウキュウバショウ 包み物や熱冷ましにも利用

《芭蕉は各家庭で織っていましたか》ほとんどの家庭で織っていた芭蕉自体にウーといっ

ていただいたい植えている所はヤ屋敷の後ろ側

ーヌクシーですよ

《ヤーヌクシーで足りましたか》あのころ糸を作るのもあるけど包装紙の代わりも

やったんですよまたイ味噌甕

ンスガーミの味噌を発酵するときカ甕

ーミの蓋の上を

芭蕉の葉を炙って被せる炙るのは葉をやわらかくするため逆に葉をそのまま

使用したら破ける火に炙ったら柔らかくはなるけど簡単には破けないだか

ら弁当を包むのもそれでやったですよ普通芭蕉の葉は横にちょっとひっぱると

スーと切れるんですよね炙るとそういうのがなくなるだから僕の印象として

はバサージンを作る糸をつむいでというのもわかるけど日常的によく使っ

ているというのはカーサ弁当ですよ握り飯のようなものにアンダンスー入れて

包んで持ったお祝いの時にムチウンブーといって竹で作った平たいザルみた

いなのがあるでしょ芭蕉の葉を炙ってからそれに敷いてその上に餅やカステラ

または焼き豆腐を置いたりなんかしているそういう日常的によく使うから家

屋の後ろに植えるやんばるの喜如嘉みたいに何百坪ではなくてここは小規

模でそんなに植える所はなかったここでは芭蕉の織物は主な仕事という

よりは片手間でやっていた

《昔は機織り機はありましたか》機織り機はありますよ座って織るジ地機

ーバタとか

タ高機

カハタというのはちょっと[座る位置が]高いというのがありますね

《各家庭何割ぐらいありましたか》屋比久だったらそうですねそんなに多くはなかっ

たと思うけど半分半分もないんじゃないかだいたいそれをやる所は余裕の

あるところですよそれと若い娘がいるところ

《オジーオバーはやらなかったのですか》オジーオバーは目がダメだよな首里では

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

老眼鏡かけてやったりするはずだけどここでは娘がやっていたんじゃないかな

《芭蕉の茎を熱冷ましに使わなかったか》使っている幹をとってきて皮を剥いで白

くなったところをまた一枚一枚剥いでこれをすりこぎみたいなボ棒

ーグヮーで叩

いて汁ジャカジャカーする

《剥いだのを叩くんですか》そうジャカジャカーして汁がでてくるのを重ねて枕に

するとか子どもだったら敷いてからその上に背中から寝かせるとかで熱さま

しにした

《飲ましたりしましたか》飲ますんじゃないよ

《葉に寝かせたりしましたか》ここでは葉は使わなかったですよ

《那覇ではその汁で背中をふいたらしいです》それあるかもしれんこちらはそうじゃ

ない汁ジャカジャカーしたのを敷きその上に寝かすわけですよ効果満点

ヒラミレモンの利用と語源

《ヒラミレモンの方言を教えて下さい》方言ではシークヮーサーですよ

《どんなのに使いましたか》食べることとあと芭蕉布に使うシークヮーサーという

名前の通り着古した芭蕉布は繊維がゆるゆるになるさシークヮーサーの汁に

つけると繊維がシュとするだからシークヮーサーというんです

《どういう意味ですか》シーというのは酢なんですよシークヮーサーでこれを与える

わけですよ芭蕉布にシークヮースンクヮースンというのはくわせるとか与

えるという意味ですよあの家畜にム餌を与える

ヌクヮースンというさクヮーサーは与え

るものさヌーサーというのはハ畑する人

ルサーとかのサー酢を与えるをシークヮース

ンというんです逆にシーをクヮースンというのは酢を食べさせるとか与える

とかになるそれで芭蕉の着物がくたびれた時にシークヮースンというんですよ

《文献などに書いてありましたか》いやこの辺での話ですよこの辺では佐敷屋比久

外間も外間のむこうもですねだから昔はバ芭蕉着

サージンなんていうのは日頃着

ける着物今は琉舞をする人たちがつける高級なのになってるけど昔はヒン

スームンがつける着物なんですよだからハ畑へ

ルカイイ行くのにも

チュシンヌ何をするにしても

ーシーニン

ムほとんどこればかり

ルウリバカーイチ着けているよーねー

チョーウセーヤーだから繊維がくたびれるわけですよ

それでヨロヨロになっている繊維を酢入れることでシャンとしたバサージン

にするということでシークヮースンというんですよ

《イメージがわかないけどどんな感じになるのですか》ちょうど縫いたての新し

い芭蕉着のようになるよ酸っぱいにシーサンというだろ前にもいったように

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

シークヮースンというのはシークヮーサーのシーをクヮースなんですよシー

をクヮースンの木だからシークヮーサーなんですよシークヮーサーっていうの

は酸っぱいものが出るからなんですよ酢が出るまあ難しく言えば酢酸そ

して着古した芭蕉着をいきかえさせるそのためにシークヮースンという

《シークヮーサーでバサーを洗うというのはあちこち聞いていました》今の芭蕉布を

蘇らせるというのはここだけの話じゃないと思うよそういった意味ではシー

クヮーサーは食べる以外にも大きな使命があったんですね方言名は芭蕉布とセッ

トみたいなものだから田舎ではシークヮーサーを屋敷内に植えられている

昔の人はねある一つのものを多面的に使っているというかね食べるだけじゃ

なくて日常生活にもシークヮースンということでも使っている

《はじめて聞きますがこのことは文献にありますか》ないですよシークヮーサーのそ

ういうのは昔の人は常識かもしれないけど

《方言は聞いていたけど気づきませんでした》方言名というのはだいたい生活のかかわ

りがあるというね

《洗い方について》ここではね芭蕉布を洗うのにビたらい

ンダーレーとかそれから非常

に大きな丈の高いタライみたいのがあるさ方言ではなんていうかな昔の豆腐

作る時なんかに汁をためるようなもの大きな桶よここではそれを使っていた

それでシークヮーサーも熟しているものじゃなくてまだ皮が黄色くならない

ものあれを切ってそしてつぶして種も一緒だったよ着物はそんなにない

からね何回もやることはそんなになかったはずだから自分のものは自分の家

でやっていただから特別にどこかの家だけがやるというようなたとえばこれ

が上手で商売しているというようなことはこの辺ではなかったもうごく普通

にやるけど各家庭には毎年やるような着物の数はないので毎年はやらないわ

けさ

《畑仕事している人には必要では》ハルサーに使っているといってもそんなになんてい

うのかな新しくするなんていうことはよっぽどじゃないかぎりやらないですよ

だからバサーでも模様が入っているのがあるあのどっちかっていうと方言

でトゥンジヘンジーっていうんだけどちょっとした買い物ちょっとした所に

行く時につけるというのそんなのはシークヮースンというのをやるわけだけど

年に一度なんてやらないよたまにくたびれた時に再生するくらいのものだよ

《方言の呼び方の種類はありましたか》基本的には全部シークヮーサーです

《品種がありましたか》今いろんな品種がありますよね例えばクガニーグヮーかカー

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ブチーというのもあったですねいろいろあったと思いますけどねまあここ

にあるのは普通によくいわれているシークヮーサーというものです

食用または遊び等で食べた草木

《食用の草にはどのようなものがありましたか》ニンブトゥカー(スベリヒユ)は酢のも

のとしてよく食べた野山の草では一番食べてるのはフーチバー(ニシヨモギ)

ンジャナ(ホソバワダン)も食べた戦争や終戦時はチーファンプー(ツワブキ)

も食べたチーファンプーの茎の皮を剥いであれはアクが強いから流れる川につ

けてアクをぬいて食べたそれからヘゴの芯あれはダイコンみたいにおいしい

ですよヘゴは食べる習慣というよりは僕なんかは戦争でなにもなくなってか

ら食べたよ(12)

《ソテツ》方言でスーティーチャー戦後は何もないからスーティーチャーも毒抜き

して食べていますよ(13)

《毒抜きの方法は知っていますか》地元の人は水で洗ってからね

《昔から食べていたかもしれませんね》茎なんかは昔は食べてないんですよ昔は実

を砕いて毒抜きしてますよ毒抜きは水にさらしてカビを生えさせました

《毒が抜けたのがわかりますか》僕はその辺がわからんけど

《幹も食べましたか》戦前は幹を食べてないが戦後は幹もウムクジシリーで細かにし

て食べたしかしあれはねノコギリのカスみたいでなんの栄養もないご飯と

混ぜてまたは芋と混ぜたりなんかしたけどあんまり食べてないですよあれ

食べられるもんじゃないよなにもないから食べたんだよ僕らも一二度食べ

たかなといったぐらいだよ実は食べてるけどもう実は(みんな食べていた

ので)なかったよ

《ソテツの実を食べたのはいつ頃ですか》割って白い中身を出して水洗いをして食べ

ていたはずですけどね戦前は全然食べてないですよ僕なんか食用にしたとい

うのは終戦直後ですよ当時は食べ物がなにもなかったというくらいだったから

《ヘゴ類》ぜんまい(ヘゴの芽)なんかは柔らかくてよく食べた

《タラノキ》こっちにはない

《シナノガキ》シナノガキは佐敷の植物調査した時には崖の所にはあったけどね

《タイワンウオクサギ》方言でクサランギーワーといった虫がよくつくんですよねこ

れは実を食べるというよりは葉を食べていたんですね若い葉っぱを野菜として

(12)ensp後日確認したところ 戦中 現在の金武町に避難した時にヒカゲヘゴを食べたという

(13)ensp戦後 ソテツを食べたことについては知念 (1995) にも報告されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

食べた古い葉は使わない葉っぱはヌ何と言ったかな

ーンディーガちょうど青菜の野菜と同

じ扱いでさジューシーとか野菜チャンプルーみたいに使った

《クサギ》こっちはあるよあるけどそんなに身近にはないな垣花城址とか山の中には

いっぱいあるさこの辺にはないんですから利用についてはわからんね

《モクタチバナ》これはあることはありますよ小谷なんかにはいっぱいありますよ生

活にはあまり使ってないですね実は食べたことない

《タイミンタチバナ》これは南部ではみないですねこれはやんばるですね

《ヤマグワ》方言でクヮーギ実はクヮーギヌナイといいそのままでよく食べた食べ

てあまり腹に満たないうんと熟したやつは年寄りが酒に漬けて色をつけて

喜んで飲んだりしてましたよ私も小さいころ見覚えがありますだけどやっぱり

子どものころは食べに行きますまあ遊びとして食べているんだがお腹を満たす

ものではない

《他に使っていませんか》年とった桑はだめだけど若くてまっすぐに伸びた茎はちょ

うどユーナ(オオハマボウ)と同じで樹皮がパーッと長く剥げるわけですよ

それを池などの水につけておくと腐れて繊維が残るわけですよこれで縄をなっ

ている

《遊びとは違いますか》遊びじゃないですよ仕事というよりは生活この桑の綱は真っ

白で下駄の鼻緒上等な鼻緒に使ったりしたんですよちょうどユーナも同じで

束ねて池なんかにつけて腐らせるわけですよそしたら白い繊維が残るそれを

シルジナといってですね下駄の鼻緒とかツルベの紐に使う

《そんなに丈夫だったんですか》うんと丈夫ですよまたシュロでも縄作っていたよ

スルガージナといってスルガージナはね漁民が重宝したですよ簡単に腐ら

ないですよまたスルガージナは水をはじくんですよ

《モモタマナ》方言ではクファディーサーといっているクファディーサーはこっちでは

あんまり使ってないですねウこれは

リヤナ泣き声で

チクゥイーディドーフ成長する

ドゥイーユル(人

の泣き声で大きくなるといわれている)といって墓地などに植えておりあまり

屋敷林としては植えない僕の墓地にも23本はありますよクファディーサー

というと大きな屋慶名クファディーサー(図6)が有名(14)

《ギーマ》ギーマはこの辺あんまりないですよ今の南城市玉城の体育館のある所にはヤ

ンバルヤマといってあそこら辺にはギーマがありましただから名前もヤンバルヤ

マといっていた浦添市の茶山団地付近は僕が学生の頃は山があってギーマなん

(14)ensp琉球古典音楽の 「屋慶名こはでさ節」 「屋慶名節」 が知られており 沖縄民謡でも歌われている

- 35 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

- 36 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

- 37 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

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大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

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- 31 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

老眼鏡かけてやったりするはずだけどここでは娘がやっていたんじゃないかな

《芭蕉の茎を熱冷ましに使わなかったか》使っている幹をとってきて皮を剥いで白

くなったところをまた一枚一枚剥いでこれをすりこぎみたいなボ棒

ーグヮーで叩

いて汁ジャカジャカーする

《剥いだのを叩くんですか》そうジャカジャカーして汁がでてくるのを重ねて枕に

するとか子どもだったら敷いてからその上に背中から寝かせるとかで熱さま

しにした

《飲ましたりしましたか》飲ますんじゃないよ

《葉に寝かせたりしましたか》ここでは葉は使わなかったですよ

《那覇ではその汁で背中をふいたらしいです》それあるかもしれんこちらはそうじゃ

ない汁ジャカジャカーしたのを敷きその上に寝かすわけですよ効果満点

ヒラミレモンの利用と語源

《ヒラミレモンの方言を教えて下さい》方言ではシークヮーサーですよ

《どんなのに使いましたか》食べることとあと芭蕉布に使うシークヮーサーという

名前の通り着古した芭蕉布は繊維がゆるゆるになるさシークヮーサーの汁に

つけると繊維がシュとするだからシークヮーサーというんです

《どういう意味ですか》シーというのは酢なんですよシークヮーサーでこれを与える

わけですよ芭蕉布にシークヮースンクヮースンというのはくわせるとか与

えるという意味ですよあの家畜にム餌を与える

ヌクヮースンというさクヮーサーは与え

るものさヌーサーというのはハ畑する人

ルサーとかのサー酢を与えるをシークヮース

ンというんです逆にシーをクヮースンというのは酢を食べさせるとか与える

とかになるそれで芭蕉の着物がくたびれた時にシークヮースンというんですよ

《文献などに書いてありましたか》いやこの辺での話ですよこの辺では佐敷屋比久

外間も外間のむこうもですねだから昔はバ芭蕉着

サージンなんていうのは日頃着

ける着物今は琉舞をする人たちがつける高級なのになってるけど昔はヒン

スームンがつける着物なんですよだからハ畑へ

ルカイイ行くのにも

チュシンヌ何をするにしても

ーシーニン

ムほとんどこればかり

ルウリバカーイチ着けているよーねー

チョーウセーヤーだから繊維がくたびれるわけですよ

それでヨロヨロになっている繊維を酢入れることでシャンとしたバサージン

にするということでシークヮースンというんですよ

《イメージがわかないけどどんな感じになるのですか》ちょうど縫いたての新し

い芭蕉着のようになるよ酸っぱいにシーサンというだろ前にもいったように

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

シークヮースンというのはシークヮーサーのシーをクヮースなんですよシー

をクヮースンの木だからシークヮーサーなんですよシークヮーサーっていうの

は酸っぱいものが出るからなんですよ酢が出るまあ難しく言えば酢酸そ

して着古した芭蕉着をいきかえさせるそのためにシークヮースンという

《シークヮーサーでバサーを洗うというのはあちこち聞いていました》今の芭蕉布を

蘇らせるというのはここだけの話じゃないと思うよそういった意味ではシー

クヮーサーは食べる以外にも大きな使命があったんですね方言名は芭蕉布とセッ

トみたいなものだから田舎ではシークヮーサーを屋敷内に植えられている

昔の人はねある一つのものを多面的に使っているというかね食べるだけじゃ

なくて日常生活にもシークヮースンということでも使っている

《はじめて聞きますがこのことは文献にありますか》ないですよシークヮーサーのそ

ういうのは昔の人は常識かもしれないけど

《方言は聞いていたけど気づきませんでした》方言名というのはだいたい生活のかかわ

りがあるというね

《洗い方について》ここではね芭蕉布を洗うのにビたらい

ンダーレーとかそれから非常

に大きな丈の高いタライみたいのがあるさ方言ではなんていうかな昔の豆腐

作る時なんかに汁をためるようなもの大きな桶よここではそれを使っていた

それでシークヮーサーも熟しているものじゃなくてまだ皮が黄色くならない

ものあれを切ってそしてつぶして種も一緒だったよ着物はそんなにない

からね何回もやることはそんなになかったはずだから自分のものは自分の家

でやっていただから特別にどこかの家だけがやるというようなたとえばこれ

が上手で商売しているというようなことはこの辺ではなかったもうごく普通

にやるけど各家庭には毎年やるような着物の数はないので毎年はやらないわ

けさ

《畑仕事している人には必要では》ハルサーに使っているといってもそんなになんてい

うのかな新しくするなんていうことはよっぽどじゃないかぎりやらないですよ

だからバサーでも模様が入っているのがあるあのどっちかっていうと方言

でトゥンジヘンジーっていうんだけどちょっとした買い物ちょっとした所に

行く時につけるというのそんなのはシークヮースンというのをやるわけだけど

年に一度なんてやらないよたまにくたびれた時に再生するくらいのものだよ

《方言の呼び方の種類はありましたか》基本的には全部シークヮーサーです

《品種がありましたか》今いろんな品種がありますよね例えばクガニーグヮーかカー

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ブチーというのもあったですねいろいろあったと思いますけどねまあここ

にあるのは普通によくいわれているシークヮーサーというものです

食用または遊び等で食べた草木

《食用の草にはどのようなものがありましたか》ニンブトゥカー(スベリヒユ)は酢のも

のとしてよく食べた野山の草では一番食べてるのはフーチバー(ニシヨモギ)

ンジャナ(ホソバワダン)も食べた戦争や終戦時はチーファンプー(ツワブキ)

も食べたチーファンプーの茎の皮を剥いであれはアクが強いから流れる川につ

けてアクをぬいて食べたそれからヘゴの芯あれはダイコンみたいにおいしい

ですよヘゴは食べる習慣というよりは僕なんかは戦争でなにもなくなってか

ら食べたよ(12)

《ソテツ》方言でスーティーチャー戦後は何もないからスーティーチャーも毒抜き

して食べていますよ(13)

《毒抜きの方法は知っていますか》地元の人は水で洗ってからね

《昔から食べていたかもしれませんね》茎なんかは昔は食べてないんですよ昔は実

を砕いて毒抜きしてますよ毒抜きは水にさらしてカビを生えさせました

《毒が抜けたのがわかりますか》僕はその辺がわからんけど

《幹も食べましたか》戦前は幹を食べてないが戦後は幹もウムクジシリーで細かにし

て食べたしかしあれはねノコギリのカスみたいでなんの栄養もないご飯と

混ぜてまたは芋と混ぜたりなんかしたけどあんまり食べてないですよあれ

食べられるもんじゃないよなにもないから食べたんだよ僕らも一二度食べ

たかなといったぐらいだよ実は食べてるけどもう実は(みんな食べていた

ので)なかったよ

《ソテツの実を食べたのはいつ頃ですか》割って白い中身を出して水洗いをして食べ

ていたはずですけどね戦前は全然食べてないですよ僕なんか食用にしたとい

うのは終戦直後ですよ当時は食べ物がなにもなかったというくらいだったから

《ヘゴ類》ぜんまい(ヘゴの芽)なんかは柔らかくてよく食べた

《タラノキ》こっちにはない

《シナノガキ》シナノガキは佐敷の植物調査した時には崖の所にはあったけどね

《タイワンウオクサギ》方言でクサランギーワーといった虫がよくつくんですよねこ

れは実を食べるというよりは葉を食べていたんですね若い葉っぱを野菜として

(12)ensp後日確認したところ 戦中 現在の金武町に避難した時にヒカゲヘゴを食べたという

(13)ensp戦後 ソテツを食べたことについては知念 (1995) にも報告されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

食べた古い葉は使わない葉っぱはヌ何と言ったかな

ーンディーガちょうど青菜の野菜と同

じ扱いでさジューシーとか野菜チャンプルーみたいに使った

《クサギ》こっちはあるよあるけどそんなに身近にはないな垣花城址とか山の中には

いっぱいあるさこの辺にはないんですから利用についてはわからんね

《モクタチバナ》これはあることはありますよ小谷なんかにはいっぱいありますよ生

活にはあまり使ってないですね実は食べたことない

《タイミンタチバナ》これは南部ではみないですねこれはやんばるですね

《ヤマグワ》方言でクヮーギ実はクヮーギヌナイといいそのままでよく食べた食べ

てあまり腹に満たないうんと熟したやつは年寄りが酒に漬けて色をつけて

喜んで飲んだりしてましたよ私も小さいころ見覚えがありますだけどやっぱり

子どものころは食べに行きますまあ遊びとして食べているんだがお腹を満たす

ものではない

《他に使っていませんか》年とった桑はだめだけど若くてまっすぐに伸びた茎はちょ

うどユーナ(オオハマボウ)と同じで樹皮がパーッと長く剥げるわけですよ

それを池などの水につけておくと腐れて繊維が残るわけですよこれで縄をなっ

ている

《遊びとは違いますか》遊びじゃないですよ仕事というよりは生活この桑の綱は真っ

白で下駄の鼻緒上等な鼻緒に使ったりしたんですよちょうどユーナも同じで

束ねて池なんかにつけて腐らせるわけですよそしたら白い繊維が残るそれを

シルジナといってですね下駄の鼻緒とかツルベの紐に使う

《そんなに丈夫だったんですか》うんと丈夫ですよまたシュロでも縄作っていたよ

スルガージナといってスルガージナはね漁民が重宝したですよ簡単に腐ら

ないですよまたスルガージナは水をはじくんですよ

《モモタマナ》方言ではクファディーサーといっているクファディーサーはこっちでは

あんまり使ってないですねウこれは

リヤナ泣き声で

チクゥイーディドーフ成長する

ドゥイーユル(人

の泣き声で大きくなるといわれている)といって墓地などに植えておりあまり

屋敷林としては植えない僕の墓地にも23本はありますよクファディーサー

というと大きな屋慶名クファディーサー(図6)が有名(14)

《ギーマ》ギーマはこの辺あんまりないですよ今の南城市玉城の体育館のある所にはヤ

ンバルヤマといってあそこら辺にはギーマがありましただから名前もヤンバルヤ

マといっていた浦添市の茶山団地付近は僕が学生の頃は山があってギーマなん

(14)ensp琉球古典音楽の 「屋慶名こはでさ節」 「屋慶名節」 が知られており 沖縄民謡でも歌われている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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町役場佐敷町

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島西銘誌編集委員会久米島町

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1-20

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

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大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

シークヮースンというのはシークヮーサーのシーをクヮースなんですよシー

をクヮースンの木だからシークヮーサーなんですよシークヮーサーっていうの

は酸っぱいものが出るからなんですよ酢が出るまあ難しく言えば酢酸そ

して着古した芭蕉着をいきかえさせるそのためにシークヮースンという

《シークヮーサーでバサーを洗うというのはあちこち聞いていました》今の芭蕉布を

蘇らせるというのはここだけの話じゃないと思うよそういった意味ではシー

クヮーサーは食べる以外にも大きな使命があったんですね方言名は芭蕉布とセッ

トみたいなものだから田舎ではシークヮーサーを屋敷内に植えられている

昔の人はねある一つのものを多面的に使っているというかね食べるだけじゃ

なくて日常生活にもシークヮースンということでも使っている

《はじめて聞きますがこのことは文献にありますか》ないですよシークヮーサーのそ

ういうのは昔の人は常識かもしれないけど

《方言は聞いていたけど気づきませんでした》方言名というのはだいたい生活のかかわ

りがあるというね

《洗い方について》ここではね芭蕉布を洗うのにビたらい

ンダーレーとかそれから非常

に大きな丈の高いタライみたいのがあるさ方言ではなんていうかな昔の豆腐

作る時なんかに汁をためるようなもの大きな桶よここではそれを使っていた

それでシークヮーサーも熟しているものじゃなくてまだ皮が黄色くならない

ものあれを切ってそしてつぶして種も一緒だったよ着物はそんなにない

からね何回もやることはそんなになかったはずだから自分のものは自分の家

でやっていただから特別にどこかの家だけがやるというようなたとえばこれ

が上手で商売しているというようなことはこの辺ではなかったもうごく普通

にやるけど各家庭には毎年やるような着物の数はないので毎年はやらないわ

けさ

《畑仕事している人には必要では》ハルサーに使っているといってもそんなになんてい

うのかな新しくするなんていうことはよっぽどじゃないかぎりやらないですよ

だからバサーでも模様が入っているのがあるあのどっちかっていうと方言

でトゥンジヘンジーっていうんだけどちょっとした買い物ちょっとした所に

行く時につけるというのそんなのはシークヮースンというのをやるわけだけど

年に一度なんてやらないよたまにくたびれた時に再生するくらいのものだよ

《方言の呼び方の種類はありましたか》基本的には全部シークヮーサーです

《品種がありましたか》今いろんな品種がありますよね例えばクガニーグヮーかカー

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ブチーというのもあったですねいろいろあったと思いますけどねまあここ

にあるのは普通によくいわれているシークヮーサーというものです

食用または遊び等で食べた草木

《食用の草にはどのようなものがありましたか》ニンブトゥカー(スベリヒユ)は酢のも

のとしてよく食べた野山の草では一番食べてるのはフーチバー(ニシヨモギ)

ンジャナ(ホソバワダン)も食べた戦争や終戦時はチーファンプー(ツワブキ)

も食べたチーファンプーの茎の皮を剥いであれはアクが強いから流れる川につ

けてアクをぬいて食べたそれからヘゴの芯あれはダイコンみたいにおいしい

ですよヘゴは食べる習慣というよりは僕なんかは戦争でなにもなくなってか

ら食べたよ(12)

《ソテツ》方言でスーティーチャー戦後は何もないからスーティーチャーも毒抜き

して食べていますよ(13)

《毒抜きの方法は知っていますか》地元の人は水で洗ってからね

《昔から食べていたかもしれませんね》茎なんかは昔は食べてないんですよ昔は実

を砕いて毒抜きしてますよ毒抜きは水にさらしてカビを生えさせました

《毒が抜けたのがわかりますか》僕はその辺がわからんけど

《幹も食べましたか》戦前は幹を食べてないが戦後は幹もウムクジシリーで細かにし

て食べたしかしあれはねノコギリのカスみたいでなんの栄養もないご飯と

混ぜてまたは芋と混ぜたりなんかしたけどあんまり食べてないですよあれ

食べられるもんじゃないよなにもないから食べたんだよ僕らも一二度食べ

たかなといったぐらいだよ実は食べてるけどもう実は(みんな食べていた

ので)なかったよ

《ソテツの実を食べたのはいつ頃ですか》割って白い中身を出して水洗いをして食べ

ていたはずですけどね戦前は全然食べてないですよ僕なんか食用にしたとい

うのは終戦直後ですよ当時は食べ物がなにもなかったというくらいだったから

《ヘゴ類》ぜんまい(ヘゴの芽)なんかは柔らかくてよく食べた

《タラノキ》こっちにはない

《シナノガキ》シナノガキは佐敷の植物調査した時には崖の所にはあったけどね

《タイワンウオクサギ》方言でクサランギーワーといった虫がよくつくんですよねこ

れは実を食べるというよりは葉を食べていたんですね若い葉っぱを野菜として

(12)ensp後日確認したところ 戦中 現在の金武町に避難した時にヒカゲヘゴを食べたという

(13)ensp戦後 ソテツを食べたことについては知念 (1995) にも報告されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

食べた古い葉は使わない葉っぱはヌ何と言ったかな

ーンディーガちょうど青菜の野菜と同

じ扱いでさジューシーとか野菜チャンプルーみたいに使った

《クサギ》こっちはあるよあるけどそんなに身近にはないな垣花城址とか山の中には

いっぱいあるさこの辺にはないんですから利用についてはわからんね

《モクタチバナ》これはあることはありますよ小谷なんかにはいっぱいありますよ生

活にはあまり使ってないですね実は食べたことない

《タイミンタチバナ》これは南部ではみないですねこれはやんばるですね

《ヤマグワ》方言でクヮーギ実はクヮーギヌナイといいそのままでよく食べた食べ

てあまり腹に満たないうんと熟したやつは年寄りが酒に漬けて色をつけて

喜んで飲んだりしてましたよ私も小さいころ見覚えがありますだけどやっぱり

子どものころは食べに行きますまあ遊びとして食べているんだがお腹を満たす

ものではない

《他に使っていませんか》年とった桑はだめだけど若くてまっすぐに伸びた茎はちょ

うどユーナ(オオハマボウ)と同じで樹皮がパーッと長く剥げるわけですよ

それを池などの水につけておくと腐れて繊維が残るわけですよこれで縄をなっ

ている

《遊びとは違いますか》遊びじゃないですよ仕事というよりは生活この桑の綱は真っ

白で下駄の鼻緒上等な鼻緒に使ったりしたんですよちょうどユーナも同じで

束ねて池なんかにつけて腐らせるわけですよそしたら白い繊維が残るそれを

シルジナといってですね下駄の鼻緒とかツルベの紐に使う

《そんなに丈夫だったんですか》うんと丈夫ですよまたシュロでも縄作っていたよ

スルガージナといってスルガージナはね漁民が重宝したですよ簡単に腐ら

ないですよまたスルガージナは水をはじくんですよ

《モモタマナ》方言ではクファディーサーといっているクファディーサーはこっちでは

あんまり使ってないですねウこれは

リヤナ泣き声で

チクゥイーディドーフ成長する

ドゥイーユル(人

の泣き声で大きくなるといわれている)といって墓地などに植えておりあまり

屋敷林としては植えない僕の墓地にも23本はありますよクファディーサー

というと大きな屋慶名クファディーサー(図6)が有名(14)

《ギーマ》ギーマはこの辺あんまりないですよ今の南城市玉城の体育館のある所にはヤ

ンバルヤマといってあそこら辺にはギーマがありましただから名前もヤンバルヤ

マといっていた浦添市の茶山団地付近は僕が学生の頃は山があってギーマなん

(14)ensp琉球古典音楽の 「屋慶名こはでさ節」 「屋慶名節」 が知られており 沖縄民謡でも歌われている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

- 39 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

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宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

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島西銘誌編集委員会久米島町

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1-20

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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西原町教育委員会西原町

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当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 14: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 33 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ブチーというのもあったですねいろいろあったと思いますけどねまあここ

にあるのは普通によくいわれているシークヮーサーというものです

食用または遊び等で食べた草木

《食用の草にはどのようなものがありましたか》ニンブトゥカー(スベリヒユ)は酢のも

のとしてよく食べた野山の草では一番食べてるのはフーチバー(ニシヨモギ)

ンジャナ(ホソバワダン)も食べた戦争や終戦時はチーファンプー(ツワブキ)

も食べたチーファンプーの茎の皮を剥いであれはアクが強いから流れる川につ

けてアクをぬいて食べたそれからヘゴの芯あれはダイコンみたいにおいしい

ですよヘゴは食べる習慣というよりは僕なんかは戦争でなにもなくなってか

ら食べたよ(12)

《ソテツ》方言でスーティーチャー戦後は何もないからスーティーチャーも毒抜き

して食べていますよ(13)

《毒抜きの方法は知っていますか》地元の人は水で洗ってからね

《昔から食べていたかもしれませんね》茎なんかは昔は食べてないんですよ昔は実

を砕いて毒抜きしてますよ毒抜きは水にさらしてカビを生えさせました

《毒が抜けたのがわかりますか》僕はその辺がわからんけど

《幹も食べましたか》戦前は幹を食べてないが戦後は幹もウムクジシリーで細かにし

て食べたしかしあれはねノコギリのカスみたいでなんの栄養もないご飯と

混ぜてまたは芋と混ぜたりなんかしたけどあんまり食べてないですよあれ

食べられるもんじゃないよなにもないから食べたんだよ僕らも一二度食べ

たかなといったぐらいだよ実は食べてるけどもう実は(みんな食べていた

ので)なかったよ

《ソテツの実を食べたのはいつ頃ですか》割って白い中身を出して水洗いをして食べ

ていたはずですけどね戦前は全然食べてないですよ僕なんか食用にしたとい

うのは終戦直後ですよ当時は食べ物がなにもなかったというくらいだったから

《ヘゴ類》ぜんまい(ヘゴの芽)なんかは柔らかくてよく食べた

《タラノキ》こっちにはない

《シナノガキ》シナノガキは佐敷の植物調査した時には崖の所にはあったけどね

《タイワンウオクサギ》方言でクサランギーワーといった虫がよくつくんですよねこ

れは実を食べるというよりは葉を食べていたんですね若い葉っぱを野菜として

(12)ensp後日確認したところ 戦中 現在の金武町に避難した時にヒカゲヘゴを食べたという

(13)ensp戦後 ソテツを食べたことについては知念 (1995) にも報告されている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

食べた古い葉は使わない葉っぱはヌ何と言ったかな

ーンディーガちょうど青菜の野菜と同

じ扱いでさジューシーとか野菜チャンプルーみたいに使った

《クサギ》こっちはあるよあるけどそんなに身近にはないな垣花城址とか山の中には

いっぱいあるさこの辺にはないんですから利用についてはわからんね

《モクタチバナ》これはあることはありますよ小谷なんかにはいっぱいありますよ生

活にはあまり使ってないですね実は食べたことない

《タイミンタチバナ》これは南部ではみないですねこれはやんばるですね

《ヤマグワ》方言でクヮーギ実はクヮーギヌナイといいそのままでよく食べた食べ

てあまり腹に満たないうんと熟したやつは年寄りが酒に漬けて色をつけて

喜んで飲んだりしてましたよ私も小さいころ見覚えがありますだけどやっぱり

子どものころは食べに行きますまあ遊びとして食べているんだがお腹を満たす

ものではない

《他に使っていませんか》年とった桑はだめだけど若くてまっすぐに伸びた茎はちょ

うどユーナ(オオハマボウ)と同じで樹皮がパーッと長く剥げるわけですよ

それを池などの水につけておくと腐れて繊維が残るわけですよこれで縄をなっ

ている

《遊びとは違いますか》遊びじゃないですよ仕事というよりは生活この桑の綱は真っ

白で下駄の鼻緒上等な鼻緒に使ったりしたんですよちょうどユーナも同じで

束ねて池なんかにつけて腐らせるわけですよそしたら白い繊維が残るそれを

シルジナといってですね下駄の鼻緒とかツルベの紐に使う

《そんなに丈夫だったんですか》うんと丈夫ですよまたシュロでも縄作っていたよ

スルガージナといってスルガージナはね漁民が重宝したですよ簡単に腐ら

ないですよまたスルガージナは水をはじくんですよ

《モモタマナ》方言ではクファディーサーといっているクファディーサーはこっちでは

あんまり使ってないですねウこれは

リヤナ泣き声で

チクゥイーディドーフ成長する

ドゥイーユル(人

の泣き声で大きくなるといわれている)といって墓地などに植えておりあまり

屋敷林としては植えない僕の墓地にも23本はありますよクファディーサー

というと大きな屋慶名クファディーサー(図6)が有名(14)

《ギーマ》ギーマはこの辺あんまりないですよ今の南城市玉城の体育館のある所にはヤ

ンバルヤマといってあそこら辺にはギーマがありましただから名前もヤンバルヤ

マといっていた浦添市の茶山団地付近は僕が学生の頃は山があってギーマなん

(14)ensp琉球古典音楽の 「屋慶名こはでさ節」 「屋慶名節」 が知られており 沖縄民謡でも歌われている

- 35 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

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大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

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八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

食べた古い葉は使わない葉っぱはヌ何と言ったかな

ーンディーガちょうど青菜の野菜と同

じ扱いでさジューシーとか野菜チャンプルーみたいに使った

《クサギ》こっちはあるよあるけどそんなに身近にはないな垣花城址とか山の中には

いっぱいあるさこの辺にはないんですから利用についてはわからんね

《モクタチバナ》これはあることはありますよ小谷なんかにはいっぱいありますよ生

活にはあまり使ってないですね実は食べたことない

《タイミンタチバナ》これは南部ではみないですねこれはやんばるですね

《ヤマグワ》方言でクヮーギ実はクヮーギヌナイといいそのままでよく食べた食べ

てあまり腹に満たないうんと熟したやつは年寄りが酒に漬けて色をつけて

喜んで飲んだりしてましたよ私も小さいころ見覚えがありますだけどやっぱり

子どものころは食べに行きますまあ遊びとして食べているんだがお腹を満たす

ものではない

《他に使っていませんか》年とった桑はだめだけど若くてまっすぐに伸びた茎はちょ

うどユーナ(オオハマボウ)と同じで樹皮がパーッと長く剥げるわけですよ

それを池などの水につけておくと腐れて繊維が残るわけですよこれで縄をなっ

ている

《遊びとは違いますか》遊びじゃないですよ仕事というよりは生活この桑の綱は真っ

白で下駄の鼻緒上等な鼻緒に使ったりしたんですよちょうどユーナも同じで

束ねて池なんかにつけて腐らせるわけですよそしたら白い繊維が残るそれを

シルジナといってですね下駄の鼻緒とかツルベの紐に使う

《そんなに丈夫だったんですか》うんと丈夫ですよまたシュロでも縄作っていたよ

スルガージナといってスルガージナはね漁民が重宝したですよ簡単に腐ら

ないですよまたスルガージナは水をはじくんですよ

《モモタマナ》方言ではクファディーサーといっているクファディーサーはこっちでは

あんまり使ってないですねウこれは

リヤナ泣き声で

チクゥイーディドーフ成長する

ドゥイーユル(人

の泣き声で大きくなるといわれている)といって墓地などに植えておりあまり

屋敷林としては植えない僕の墓地にも23本はありますよクファディーサー

というと大きな屋慶名クファディーサー(図6)が有名(14)

《ギーマ》ギーマはこの辺あんまりないですよ今の南城市玉城の体育館のある所にはヤ

ンバルヤマといってあそこら辺にはギーマがありましただから名前もヤンバルヤ

マといっていた浦添市の茶山団地付近は僕が学生の頃は山があってギーマなん

(14)ensp琉球古典音楽の 「屋慶名こはでさ節」 「屋慶名節」 が知られており 沖縄民謡でも歌われている

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

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調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 16: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

かもたくさんあった

《アカギ》アカギの実はあんまりおいしくないけど口

に入れてかじったですよ

《実を紙鉄砲などで遊びましたか》紙鉄砲の玉にはこ

の実はだめアカギの実は大きいし柔らかく

て適しない魚毒に使うハンタマーギー(サン

ゴジュ)がよかったちょうど紙鉄砲の材料

になる竹のホウライチクの大きさにハンタマー

ギーの実が合っているのです

《アカギは農具とかに使いましたか》これはもっぱら臼ですよ年寄りに聞いた話だけ

どオジーの所にウヮーヌムンといって叩くやつとか生活用に使う杵とか臼が

三つぐらいあった全部アカギでしたよアカギっていうのは乾燥しても割れ難

いんですこれも聞いた話だけど臼用として木を切ったら長いこと池につっこ

んでおくらしいね長いこと水に浸けてそれから臼の形に彫り出すらしい今

の公民館が建っている所はウ馬を浴びせる所

マアミシーといって大きな池だったんですけど

そこには臼用の木をウこれはどこそこの

レーマーヌムンといって沈められているわけですよ割れ

ないように長持ちさせるためにね

《ハリツルマサキ》方言ではマッコウといっていたこれは年よりの盆栽みたいな感

じの遊びとしては使ったはずだけど

《実は食べましたか》食べてないですね

《パパイヤ》方言でチーミといっていたこれは子どもを産んだあとおっぱいが出ない

時にこれを食べさせますゥ豚の肉

ワーヌシシなんかといっしょにねお乳の分泌をよく

するということでだからチーミのチーというのは乳ということですよ昔から

知られていることなんだろうけど肉と一緒に炊くと肉が柔らかくなるそれから

この辺では果物として食べるというよりかはどっちかというとチャンプルーと

して青い時に食べているんですよ熟したのも食べんこともなかったけど果物とし

ての価値よりも青い野菜としてデークニシリーなんかですったりあるいは細か

く切ってポークと食べたとにかく子どもができた時なんか乳がでないとかいっ

たらこれを探して食べさせたですよ

《どこに植えましたか》屋敷にあったよ

《アタイグヮーといってる場所ですか》アタイグヮーというのはちゃんとしたナ葉野菜

ッパ

なんかが植えられた所でアタイというんですよねトーナバーや茄子を植えたり

図 6 屋慶名クヮディーサー (1965 年4月

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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宜野座村役場宜野座村

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町役場佐敷町

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当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

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1-20

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

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- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

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論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いろんなものを植えてますねアタイというのは小さな畑なんですよ手入れし

てちゃんと草もとってあるんですよチーミは大きくなるからねそこじゃな

くて芭蕉みたいにヤーヌクシーであまり手入れはしない場所だった屋敷の

周囲にアタイにもならない所とかねだからちゃんとした畑には植えないですよ

《スイゼンジナ》方言でアカナバー屋比久にもあったけどあんまりわからんな虫の

くわない野菜としてさ手入れしなくてもいいので手がかからない葉の表はグ

リーンで裏側は紫がかっている赤裏が赤いからアカナバーといって屋敷に植

えていた

《ナシカズラ》方言でクーガーですねここにはないですよ名護以北じゃないこれ

《バンジロウ》方言ではバンシルーもう子どものおやつですね実が小さくて山にある

やつはモーバンシルーといっている子どもは時期がきたらすぐとりに行ったり

人の屋敷に生えてるやつも目を盗んでとったり子どもの時はそれがひとつの冒険

でした

《便秘するという話がありますけど》食べすぎたらよビワとかバンシルーはもともと

果物として屋敷に植えているそれでもやっぱり山の中にあったりしたんですよ

モーバンシルーはカヤモーの境界の目標として植えられていた

《カヤモーというのは共有地ですか》いや個人有地ですよだからカヤモーがない人は

ヤ茅を葺く

ーフチの時に買うわけですよ古いカヤモーはだめなんですながいことなっ

てるのは腐ったのがあるからだから一年半から二カ年くらいのカヤが一番上

等だからそれを見計らって買うわけですよ他の所では字有地のカヤモーがあっ

てそこで共同管理し順番よくユイマールみたいに決めてやっている字津波古に

は字有地でカヤを供給する所だったわけですよ

《イヌマキ》方言でチャーギチャーギヌナイはガキの時よく食べた

《アマミアラカシ》僕は南部ではみてないなあるかも

しれんけど僕はよくわからん

《タイジョ》方言でヤマンムですねこの辺もあります

けどねこれはヤマンムナットゥといって餅米

粉にこれを練りこんでつくるナットゥの材料によ

く使ったんですよ

《ナットゥとは》ナントゥ(図7)ですよ(15)

ここでは

ナットゥというんですよ

(15)ensp那覇市で使われている方言名

図 7 旧正前の那覇市の店頭に並ぶナン

トゥ (2016 年2月)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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宜野座村役場宜野座村

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町役場佐敷町

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島西銘誌編集委員会久米島町

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1-20

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

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- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

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論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どこで栽培していたんですか》これは荒地ですよよくない畑などジョウバタには

植えないですよジョウバタというのは金になるサトウキビを植えたりする畑

ヤマンムは今は金になるかもしれないけど昔は自分の家で消費するぐらいで

すから金にならないんですよ

《デンプンをとったのですか》デンプンをとるというよりは生を炊いて練りこんでい

るのが多かったですねデンプンはサツマイモの方が効率はいいわけですよウ

ムクジシーリーといってブリキに釘で穴あけて裏をとがらして裏を使って

こするヤマンムはこの辺ではどっちかっていうと副食用というんですかね

これは例えば屋敷の後ろにウー(リュウキュウバショウ)があるとするとウー

の屋敷の境目の明るい所に植えるウこれは

レーホ這うよーねー

ーイドゥスセーイ石垣

シガチだとか

ウこの辺の垣

マリカーヌカチに這わせてそして収穫できる時に掘り出してナットゥの

材料にするとかいうことぐらいですよ

《フクマンギ》方言はよくわからん実は食べたことあるけどこれ小さくて近くにあ

りますよ飼っているメジロの餌として利用した

《ヤマモモ》ここには野生のものはないです昔は売りにきよったけどどこからきて

るのかわからん

《シシアクチ》これも南部にはないんじゃないですか

《ハマダイコン》方言わからんなこれミ南城市新原

ーバルの海岸なんかにもいっぱいありますよ

ハマダイコンは根は匂いなど大根に似てるけど小さいですよ食べなかったか

らか方言わからんな

《ノビル》方言はニービラとって食べたこれは非常に香ばしいですだからジューシー

メーに入れて食べる

《どの辺に生えていましたか》あちこちにいっぱいありますよ糸数城址なんかにもいっ

ぱい生えている石灰岩地に多いですね

《オオバコ》方言でヒラファグサといってヒラファというのは平たい葉っぱという意味

ですよニーブターが腫れた時火に炙ってからニーブターに貼り付けて吸い出

し軟膏の役をするんですよ火に炙らないでそのまま貼ると破れやすいが炙ると

ぴったりときれいに貼れるそれから薬ものとして豚肉なんかと一緒にしてお汁

にした

《熱さましに使いましたか》どこかで聞いた覚えもあるけどわからん

《オオアブラガヤ》子どもはハルヌカンスイといいよったですよ別に方言があるんです

が思い出せないこれはあの辺あちこちに生えてますねこれは葉がするどいんで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

知念盛俊(1995)沖縄住民を餓死から救った生物たちの横顔pp27-40 歴史教育者協議会編語り

継ぐ 戦中戦後(2) 本州最後のトキ労働旬報社

初島住彦天野鉄夫(1994)増補訂正 琉球植物目録沖縄生物学会393pp

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宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

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島西銘誌編集委員会久米島町

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

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- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 19: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 38 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

すよ指なんかすぐ切れるんですよ子どもたちはそれよく知ってるんです実を

口いっぱい入れてカスは「フッ」ってはきだす甘酸っぱいですね

《おいしかったですか》イいいえ

ーィおいしくないですよ酸っぱいですよ

《アキノノゲシ》ナガディラーといいますうさぎの餌人間も食べるこれは畑の害草

といわれて嫌われている

《実際食べたことありますか》これ食べたことない

《エビヅル》これノブドウかこれは山とかモ草地

ーを歩いていて出くわしたら食べるけど

わざわざとりにいって食べたなんていうことはないあまりおいしくないですよ

苦くて

《ウスベニニガナ》これは方言がわからないですねあの紫の花が咲くウスベニニガナだ

けどこれはねウサギの餌にしか使ってないですね

《オニタビラコ》チャンチャクナーといいますこの辺では食べていないけどこれもウ

サギの餌ですこれは別にフツウナーと名がついてるわけさナーというとナッパ

なんですよだから食べていたんじゃないかとは思うんです実際僕は食べた

経験をしてないですね

《シマアザミ》方言ではチバナーといいますこれはウサギ牛の餌ですよ牛が大好物です

《ツワブキ》これ方言ではチーファンプーといいますこれは戦争中に食べました食べ

たのは茎じゃなくて葉柄ですね

《山羊にもあげましたか》山羊はあまり好まないですこれアクが強いんですよねだ

から人間が食べる時も皮むいて河川の所でひたしてあく抜きをしてから食べ

るということがあった僕も二三回食べたことあるけどおいしくないですよ

《ハルノノゲシ》方言ではマーオーファというだからマーというのは本当という意味

オーファは野菜これおいしいですよ

《どんな調理でしたか》野菜チャンプルー用真和志高校にいるころ野草を食べよう

というグループを作って一カ月に二三回やったことあるよその時に食べた

おいしかったですよ昔も戦後しばらく普通の家でも食べてた

《ホソバワダン》方言でンジャナといってますンジャナは薬用として肉類なんかと

炊いてシ煎じ薬

ンジグスイとしてよく使ったりしたそれから胃薬としてこれの生汁

をしぼって飲む

《昔の話ですか》今もやってますよそれから芋芋というよりも地下茎あれは黄色さ

それを煎じて飲む今でも使ってるこれは多和田真淳さんの薬草の本にもある

はずそしてンジャナは畑にあるのよりはやせ地山にあるのがよく効くといっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

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字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 20: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている濃縮されているのかね今僕の屋敷にもあちこち生えていますよ

《ニシヨモギ》方言はフーチバーフーチというのはお灸のフーチ

《フーチの体験は》ありますよヤーチューといっていたけどヤーチュー痛いから

子どもが悪いことをした時にヤーチュースンドーといって戒めとしてあるけど

実際は医療ですよねこの辺ではそれを作っているのはみたことないですこ

れをつついて乾燥させてやってる工程はわからんどこかで買ってきているはず

だけどヤーチューに使うフーチ自体はあるよもっぱらこれは野菜としても使っ

ているしそれから胃薬としてね汁をしぼってフーチバージルといっていた

胃や腸にも使ったんじゃないかな僕の所では胃潰瘍の人酒のみの人だとかよ

く愛用していたそれとねこれ香ばしいんですよねフーチバージューシーといっ

て香ばしい香りがするさ山羊汁に入れる風習は山羊の肉が好きじゃない人がこ

れ入れるほんとに山羊の好きな人は山羊の匂いがしないとおいしくないという

さフーチバーを入れた汁を食べる人はほんとは山羊が好きじゃないわけさ邪

道みたいなもんですね

《スベリヒユ》ニンブトゥカーといっているこれもやっぱりあちこちにあった佐敷の

あまり高い草の生えない所や砂利のある所だったら今もある空き屋敷なんかによ

く生えるのがありますよ

《どんなにして食べましたか》これはそのままでは酸っぱいですよ茹でて酢の物とし

て食べるまたそのまま刻んで醤油つけたりして食べました

《どれくらいの頻度で食べましたか》この辺ではたまたま食べるくらいでこれ栽培し

てるとかはないですよ

《やんばるではお店で販売していました》いやこの辺では販売するなどぜんぜんそ

んなことないですよ

《ツルソバ》シーボージャーといいますよこれも葉を酢の物にして食べてますね

《実は食べなかったですか》実は食べないな

《スベリヒユよりは食べるのが多かったのですか》食べるのはスベリヒユよりこれが

多かったですこれは空き屋敷だとか荒れた屋敷なんかにもよく生えていたです

これは炒めるというよりは茹でて刻んで酢の物として食べるお汁に入れて食

べるなんてことはないですよこれはもう戦前からそうしている今はぜんぜ

ん食べてないですよ

《ツルグミ》方言でクービ年寄りは小さな茎だとかさ皮を煎じてのむ脚気の薬とか

なんとかいっていた効くかどうかわからんけど

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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宜野座村役場宜野座村

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町役場佐敷町

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島西銘誌編集委員会久米島町

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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- 40 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《これは佐敷ではどの辺に生えていたんですか》この辺の斜面に子どもの頃は

マどこそこに

ーナカイクツルグミの木がある

ービヌキーガアンといって熟するころいってクービヌナイを食べ

ていたこれとチャーギの実大好物でしたよ友達とのト採り競争

ゥイバーケーチャー

ギもどこそこにあるといって去年どこで採ったからといってまた採りに行くと

いうようことをしていた子どもたちはだいたい場所覚えていた

《子どもはお互いに場所を教えますか》うん

《野イチゴ類はどんなのがありましたか》この辺では野イチゴ類はホウロクイチゴがあ

るしナワシロイチゴがあるしヘビイチゴがあったけどヘビイチゴは食べなかっ

たですよ

《方言ではなんといってましたか》方言ではねホウロクイチゴはタカイチバータカ

イチュビともいうナワシロイチゴは方言わからんなあれは小さいからさヘ

ビイチゴは食べないけどさあれも小さい

《ヘビイチゴはどの辺にはえていますか》大里城址公園なんかに今も生えているよ

《リュウキュウバライチゴ》この辺でみてないですね

《リュウキュウイチゴ》これもない中部の自然公園施設で写真をとった

《ツルナ》方言でハマナこの辺の海岸にもあります食べてるけどアクが強いからよっ

ぽどじゃない限り食べないですね南部でこれが一番多いのは字具志頭の海岸で

すよ

《ネンジュモ》方言でモーアーサ(図8)これはね戦前は乾燥して戦に備えて防空壕

に入れておいたこれを水にもどしたら野菜として使ったですよ昔は背丈の低い

草地なんかに生えて雨降りあとなんかはこれをとってきて乾燥して戦時中は非

常食として保管してあった戦前も食べていましたよ

《どんなして食べていましたか》チャンプルーとかなんとかにして食べていました

《戦後も食べてましたか》戦後も食べてますよ今はもう全然食べていない振り向き

もしない

住居建材など

《テリハボク》方言でヤラブ実は熟すると皮がむけ

て丸い繊維ができてくる実に穴を開けて中身

をくり出して息を吹いて「ヒュー」って鳴らした

玩具の材料として使った

《フクギ》方言でフクジこの辺では黄色い染料に使う 図 8 雨降りのあとに増える道端のネン

ジュモ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ぐらい

《建材に使いましたか》家を作るのには使ってないと思うけど

《タブノキ》これは建材には使ってないんじゃないかな

《センダン》子どもの頃はセミがよく止まる木として遊びに利用したセンダンは木

目がいいですから家具の引き出しとかタンスの表などに使ったりしてますよ

あれは木目がきれいなだけじゃなくて乾燥してもねじったり曲がったりして変

形しないんです

《佐敷でも大工が使っていたんですか》使ってますよ

《自分で木を植えたんですか》自分で使うというふうにして長いこと植えてあるという

のはほとんどないですよどっかにまとめて植えてあるとかどこかの材木ヤ店

から買っていたと思いますよ

《特に使う目的で屋敷に植えるのはみてはないですか》みてはないですねまあ一本

二本というのは使うのはあるかもしれないけど実際家具に使っているというの

はカ家具屋

グヤーしか使ってないですよ自分の家で家具作るのはないですよ昔は

自分で作るというのもあったかもしれないけどどうだろうね僕なんかが知っ

ている家具専門というのはタンス作るなに作るなんていうのは特殊な大工で

すよみんな各家庭自分でタンス作ったら大変だと思うよだから[普通の家では]

作られているタンスを買ってくるとかまあセンダンでジ上等だよ

ョートードーという

感じ屋敷林から切ってそれを売ったりなんかはしてると思うんだけどねし

かしそれだけを商売にしているとかそれだけを仕事にしているだとかいうのは

まずこの辺にはいないです

《モッコク》方言でイークこれはやんばるにしかないイークチャーギ(イヌマキ)といっ

てこれもう建材の最高峰ですよ

《ここでも使っている人はいましたか》いましたよ昔のエーキンチュは全部イーク

とチャーギですよあのシージャーギー(イタジイ)なんて使うところは金の

ないところだよ

《シージャーギーはここにもきましたか》佐敷の冨祖崎はヤンバル船がつく所ですよ(図

9b)ヤンバル船は与那原も行ったかもしれんけど冨祖崎にも来ました久志

辺野古と縁故の深い人が冨祖崎にいますよそれから東村の有名な方ですが知念

久原の縁故ですよフ船持ち

ニムチャーですが台風なんかで帰れなくなりあそこでユー

ベーグヮーをつくったという話は聞いています

《冨祖崎に港があったのですか》だから建材だとか日頃は薪だとかヤンバル船で

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

知念盛俊(1995)沖縄住民を餓死から救った生物たちの横顔pp27-40 歴史教育者協議会編語り

継ぐ 戦中戦後(2) 本州最後のトキ労働旬報社

初島住彦天野鉄夫(1994)増補訂正 琉球植物目録沖縄生物学会393pp

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宜野座村役場宜野座村

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町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

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島西銘誌編集委員会久米島町

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 23: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 42 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

冨祖崎に運んだ

《冨祖崎に船着き場の跡が残っていますか》今はもう運動公園になっているその側は

マ塩田

ースナーもあったんですよマースナーは戦前戦後までやっていたやり方は

塩田で砂まいて砂しいて潮をまくようにかけて乾燥させてまた潮かけて

あとは濃縮したものをまた潮でこすわけさ

《なんでこすんですか》潮でこすまた潮入れるわけさ海水を入れ濃縮して濃縮

したやつを暖めるわけですよ

《どんな鍋を使いますかシンメーナービのようなものですか》シンメーナービどころ

じゃないもっと大きいのですよ

《写真はないですか》いやあれ戦前の話だのにもうこんな話は聞けないですね冨

祖崎のマースナーは戦後までありましたけどねマースナーといって塩田だけど

ナーというのは庭という意味さマースを作る庭という意味戦後もしばらく小

規模だけどちょっと塩作っていた図9cの白くなっているところがマースナー

で広かった(16)

周囲は石が積まれていたそれで干潮になると魚が取り残されちょ

うど魚垣みたいになっていた

《写真撮っていないですか》いやいや終戦直後だから僕なんかが中学2年か3年こ

ろですよねカメラはもっていないですよ

(16)ensp後日 空中写真を利用して知念氏より確認

図 9 1945 年1月米軍撮影の南城市佐敷字屋比久付近 (a 字屋比久の知念氏の自宅付近 b 冨祖崎 c 塩田 沖縄県教

育委員会所蔵)

- 43 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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宜野座村役場宜野座村

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町役場佐敷町

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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- 43 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《マースをやるんだったら焚きますよね薪はどうしていたんですか》ヤンバル船が冨

祖崎に入るから薪はやんばるからそこに運ばれた

《この辺のもの使わなかったですか》この辺のものは使わんよ木材木の材料という

のが無いのにススキでは火が弱いしまたススキだったら量的に大変であるわ

けさキ木の薪

ダムンじゃないとだめだったもしススキだったら馬車の三台も四

台も一日に燃やしてしまうだからマースナーに使うのは全部キダムンですよ

やっぱりキダムンにはかなわないそれはもうほとんどヤンバル船でやんばるか

ら運ばれてきた

《キダムンはイタジイが主ですか》そうですね

《冨祖崎の船はどこから来ていたんですか》久志とそれを越した所とかその辺ですよ

この辺の裏側(東シナ海側)からは来てないですよ

《国頭からはきましたか》やっぱり国頭は遠すぎるかな名護市瀬嵩とか嘉陽とか汀間

とかが主だったんじゃないですかね久志はあんまり入っていないかな久志も

入っているかもしれんけどよくわからんけどね

《ここからは何を出していたんですか》こっからは生活用品なんかを運んでますよ生

活用品は洋服とかあそこのマチヤグヮーの品物たとえばアミグヮーとか

タンナファクルーとかあんなのを運んでますよ

《船頭は佐敷の人ですか》佐敷の人地元の人たちですよ

《どのような船ですか》あの時のヤンバル船は帆船ですけどねここではヤンバルブ

ニといっていたね

《冨祖崎の付近の様子》今でも馬天の新開入口今は埋め立てして新開になっているけ

どあそこにクジラ解体工場というのがあったんですよバスで側を通ると血を

流したりして臭いわけですよヒゲクジラのヒゲなんかを知念高校の教員になっ

てからそこで交渉してもらって知念高校の生物教室においてあった今も標本

があるかどうかわからんけどねあの辺の解体する様子などを写真撮っておけば

よかったなあなんて思ったりするけどね写真なんていうものはある意味では言

葉以上のものですから港や塩田の話など下手な説明よりも写真が一番いいん

ですよ

《イヌマキ》ここでは方言でチャーギこれは建材としては最高ですここでも植えてい

ましたよ僕の祖父なんかはヤ家

ー作るといって植えました切ったあとは池の水に

浸けてあったんですよそして戦争なったもんだから畑の端に埋めて逃げたわけで

すよねそして戦後なったらこの辺をアメリカーがブルドーザーでやってしまっ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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字誌 資料編字恩納自治会恩納村

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町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

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八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てなにも無くなってしまった

《チャーギの価値》家を造るなんていうのはイークだとかチャーギなんかを使ってる

というのはある種の誇りだったんですよねいい建材いい家を造っていると

いう意味でワ自分たちの家は

ッターヤーヤ チイヌマキを使っているぞー

ャーギチカトーンドーってから自慢にもなった

んでしょうねイークチャーギといってイークよりもチャーギの方がこの辺

では重宝がられていますよ

《イークとチャーギは家のどの部分に使っていたんですか》それはあまり気づかなかっ

たチャーギはどっちかっていうと真っ直ぐしてるでしょイークは曲がったの

があるわけさあれはケタの曲がった所などに使ったチャーギは座敷の柱とか

それから床板あと貧乏人はシージャー(イタジイ)シージャーギー(17)

(イタジイ)

を使っている

《シージャーギーも水につけましたか》これはそんな余裕ないですよヤンバル船から

載せてきて早く造らんといけないからだからシージャーで家を造るなんてあ

まりこだわりないわけさ誇りにもならないしもうヘ早く造りなさい

ークチュクレーっていう

感じそれから大工も一流じゃないわけさ

《チャーギで家を作る》チャーギやイークで造るといったら一流の大工でこの材料

というのは非常に貴重だから切り損ねたりなんかしたら大変丁寧にやらんと

イークチャーギで家を造ったというのは大工も誇りだから同じエ金持ちの家

ーキヤー

はイークチャーギでウ上は

ワービはカ瓦葺きなんだよな

ーラヤルバーテーそしてヒ貧乏人は

ンスームン

はシージャーギーで茅葺であるわけ

《木の使い方》シージャーギーでもさ家を造るのにヌチジヤーとフインチャーという

のがあるさそれによって丁寧さがちがうこのヌチジヤー(材にほぞを掘って

繋ぎ礎石もある)とそれから地面に穴を掘って直接柱を埋めて建てるフイン

チャーとがあるヌチジヤーの場合シージャーでもちゃんと角とってあの

三寸角とか四寸角とか角材を使うか丸太を使うかによっても違うだから角

材にするのもティーンというのがあってこの曲がった削るやつあれでコー

ンコーンといって削る削っていったら鱗みたいになっていきますよあれをま

たカンナでなおす同じヒンスーのところでも角材を使っているかそのまま木の

丸太を使っているかによってもまた違いがあるわけねそれでヌチジというの

は角材じゃないとヌチジヤーにはならんわけまあ丸太にもヌチジあるかもし

れないけどヌチジで丸太を使うのはだいたいハジバーヤ雨風にさらされる軒

(17)ensp樹木の方言には語尾の最後に木を意味する 「ギー」 がつくことがあり 両方使われることがある

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

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宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

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島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

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西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 26: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

に出ているのがハジバーヤといってあれが削らない丸太ですよあの材料はエー

キンチュはチャーギですよあれはシロアリがくわないからね

《チガヤ》カヤといってますカヤでも一年生一年から二年のものはヤーフチガヤといっ

てそれより古くなると腐れたのが多くなるわけですよねだから昔はカヤを売った

わけですけど売れなかった時には刈ってまた新しく育てる一年から一年半ぐ

らいのものが一番ヤーフチガヤとしては上等それ以上になると腐れた葉がいっ

ぱいある

《萱葺家は何年ぐらいもちますか》このカヤは交換しないといけない長いのは 30

年もちますよ佐敷の屋比久ではこれを買っていたんだけどヤーフチガヤの山

の主がいるわけさ山の主がヤーフチガヤをいくらといって売る

《部落共有のカヤモーというのはないですか》ここはないけど馬天にはありましたよ

ナカシモーといいよったかな共同のヤーフチガヤだったって聞いています詳

しくはわからんけどね

《ホウライチク》方言ではシマダキといっているシマダキはこの辺いっぱいありました

よ屋敷にも植えていましたよバーキを作ったりそれからカヤブチを造る時に

イーチといって茅を置く前にこれを敷くわけですよそれに使っていたシマダ

キは笊だとか竹細工の材料はみんなそれですよ

《これはどの辺に植えていたんですか》屋敷の周辺全部これだったですよ

《よくチ釣り竿

ンブクに使うホテイチクはどうでしたか》方言はチンブクダキといっています

これはですね小谷だとか新里だとかあの辺にはあったはずだけどこの辺はあま

りないですね

《買ったんですか》それだけでは特別に売れない普通シマダキといっているのが売

れるんですこのチンブクダキは正月の飾りものにするとか門松これの小さい

のは門松みたいに門に飾った

《その場合はどこかで買いましたか》ううんとりにいくんですよ

《マダケ》方言はマータクこの辺にも植えていたものがありますよ

《何に使いましたか》これは棒に使ったりそれから田んぼの水をひいたりなんかする

樋などに使ったこれは竹を半分割ってから節を落として今はア雨樋

マダイがあ

るさあれと同じようにして作るわけ

《戦前からありましたか》たくさんありましたよそれからニ荷物を担ぐ棒

ーカタミヤーボー例え

ば大きな石を担ぐとかいう場合には4名ぐらいではこれの太いやつの棒を使いま

すよ普通の畑に行く時じゃなくして共同作業みたいなかたちでさ何名かで

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

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町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

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八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 27: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

石を運ぶとか重いもの運ぶという時にだいたいマータクを使っているんですよ

《リュウキュウチク》方言でヤンバルダキこれは冨祖崎の港にヤンバル船から入ってき

ますセーファー御嶽に似たようなものがありましたよそれが細くて似てはい

るんですけどねだからそれがリュウキュウチクだったかどうか僕なんかが分類

的にわからんから

《使い道は》カーラヤーを造るときやんばるからもってきたヤンバルダキを全部敷い

てそれに土をのせその上に瓦をくっつけているカヤブチヤーはキ垂木

チの上

にヤンバルダキをまばらに置きそしてカヤはこれの上にのせる

《他にもありますか》チニブとかシすだれ

ダイですねシダイなどは自分たちで編んでいた

チニブ(チヌブともいう)は技術が要りますからね専門がいるわけですよ専

門のことをここら辺ではカ専門

ティといったんですヌ何々の専門

ーヌカティといってヌーヌ

カティといったら上手だという意味ちょっとお礼にサお酒

キグヮー飲ましたりして

またはテ駄賃

ィマを払ったりした同じ貧乏人でもあるけど場合によっては費用も

払ったりしているはずだけど

《チニブの作り方》チニブを作るけどもちろん屋敷囲いだとかいろんな顔隠しなんか

にも使うカヤブチヤーの壁は板壁じゃないチニブを二つ作って間に藁と

かカヤを入れてサンドイッチみたいにする

《ススキは入れなかったですか》ススキも入れよった家の外壁ですヒンスーでもチ

ニブで作るくらいはまだいいよもっとヒンスーはグシチャー(ススキ)をとっ

てきてそのままグシチャーを厚くしてたてて両方からシマダキ(ホウライチク)

で括ったのもある

《グシチャーを並べるんですか》若い茎ではないグシチャーを葉っぱを除いたら竹みた

いになるそこだけをとって薄くしてたててそしてシマダキで両方から結ぶ

これは壁であるわけさもっとヒンスーは板の床じゃなくてダ竹の床

キユカという

のがあった

《それはヤンバルダキ使ったんですか》ヤンバルダキでは床が持たないからねヤンバ

ルダキは重ねて厚くすればもつかもしれんけどこの辺では使ってないですこ

の辺では太いシマダキですよそしてダキユカのままだったら大変ニ藁で編んだ敷物

クブク

を敷いていました

《ニクブクは蓆むしろ

ですか》蓆ともちがう実物が博物館なんかにあるかもしれないこの

辺ではニクブクといってますよ竹の床の上にニクブクを敷いたのだがニクブ

クはだいぶ大きいですよ

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《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

知念盛俊(1995)沖縄住民を餓死から救った生物たちの横顔pp27-40 歴史教育者協議会編語り

継ぐ 戦中戦後(2) 本州最後のトキ労働旬報社

初島住彦天野鉄夫(1994)増補訂正 琉球植物目録沖縄生物学会393pp

Hawks F L (1856) Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan Performed in the Years 1852 1853 and 1854 under the Command of Commodore MC Perry United States Navy by Order of the Government of the United States Vol I A O P Nicholson 537pp

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盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

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調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 28: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《ニクブクの用途》ニクブクは床の敷物にも使うけど

クルマボーを使うマーミタタチの時にも使われ

てるあのクルマボーで大豆を叩く時に下に

はニクブクを敷くのさ今はテントや天幕など

があるからそれを敷いているはずだけど昔

はそんなのないからニクブクをいくつも並べて

その上に収穫し乾燥した大豆をおいてクルマ

ボーで叩くわけですよ叩いてから大豆の殻を

とるわけです(図 10)

《図 11 についてこれがヤンバルダキを使ったカー

ラヤーですね》ヤンバルダキね

《図 12 について軒下のことやアマダイというのは》

アマハジだなアマダイは雨樋のことこの柱

はハジバーヤというんですよ

《図 13 について》これねチニブのデ安物

ーヤシーだ

本物はここがあいてないですよもっと数が多

くてあのピッシとしているわけですよこれ

は簡単ジ作り

ュグイグヮーしているわけですね作

るのに手間暇かからないですねこれの間に藁

を入れたりするやつなんていうのかな(18)

《図 14 について》これがチニブですよこれが長

いでしょもっと細かいのがあるんです上等

はこうしてきれいに菱形になっているんですね

頑丈であるわけですよこれが正式ですねま

あどっちが正式とはわからんけどこれは手間かかってさっきのよりは値段が

高いわけですよ

《モクマオウは建材に使わなかったですか》方言ではモクモーといっているこれは昭

和のだいぶあとから入ってきたんですよこれはぜんぜん使ってないですね

《オオイタビ》チタといいますね実は食べなかったたまにヒ山羊の草(餌)

ージャーグサにするくらい

《ヒメイタビ》これ方言わからんな

(18)ensp 図 13 のように編んだものを国頭村奥ではアンヌミと呼んでいる (当山ら 2016) 上江洲 (1973) でもアンヌミとなっており チニブと一緒に説明している

図 10 クルマボーによるマーミタタチと豆

の選別作業の敷物として使われるニ

クブク (1950 年頃 沖縄島 沖縄県公

文書館所蔵)

図 11 瓦葺屋根に使われたリュウキュウ

チク (国頭村奥)

図 12 アマハジ (軒下) とハジバーヤ (軒

の柱)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

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島西銘誌編集委員会久米島町

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1-20

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 29: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

魚毒(ササ)の利用

《サンゴジュ》これは方言でハンタマギーといっている

んですよこの実を紙鉄砲の玉に使ったササに

も使ったワッター子どものころはアメリカ兵

の鉄カブトがいっぱいゴロゴロしていたこれを

ちょうどすり鉢みたいにしてとってきた皮をつ

ついて実がある時は実も使ったけど葉っぱは

使わなかったですねつついたあと川のいそう

な穴にまいて使ったですね

《川ではどんなのがとれましたか》ターイユとかンナ

ジあのころはテレピアなんていないですから

ねテレピアがいるころはもう僕は大人になっ

ているからササはしなかった

《ササは遊びでやったんですか》半分遊びとったの

を葉っぱで包みさらにタードロで包んで焼くわけさ半分遊びといえば遊びだ

けどもう終戦直後はヤひもじいから

ーサドゥアクトゥとったのを食べるということさ

《大人も使いましたか》あの頃はウミンチュ以外の大人はよっぽど生活にゆとりのあ

る人しか海にはいかなかったからねウ芋を作る

ムチュクインとか畑仕事するとかは食

糧生産するためにもう一生懸命今みたいに釣りする人もいないですよもちろ

ん漁業している人は別だよ戦前も戦後もこの辺の畑をする人が釣竿をもって

海に行くなんてものはそのような暇がないわけですよだからこの辺で釣竿もっ

て釣りするのは巡査だとか公務員とかゆとりのある人なんですよ

《ササは海で使わなかったですか》このサンゴジュを海で使うのは潮がひいた時に

タコイカなんかが入っていそうな穴にハンカチみたいな布で包んで入れる

わけですよしかし海では量的にたくさん使わないと効かないわけですそれ

で田んぼだとか小さな池ちょっとしたタ水たまり

マイグヮーみたいな所で使った当

時は終戦直後の艦砲の穴がいっぱいあったんです畑の真ん中にあるやつそ

こはターイユがいっぱいいて繁殖しているんですそこは水が多いのでササが効

かなく使えないわけですよササの量というのはア穴

ナグヮーに入れるぐらいは

すぐ効くのでわかるけどそんなもんじゃなくて大きな池さじゃあどうするかっ

ていうと子どもたちがたくさん集まってキかき乱すんだよねー

ジミングヮースルバーヨーキ攪乱

ジャー

して泥水にするわけさ泥水にしたらフナは鰓に泥がかかって呼吸ができなく

図 13 竹で編んだ壁

図 14 チニブ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

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当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 30: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 49 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

なる浮いてくるのを手づかみさ

《ササは毒かそれとも泥のようなゴミを出すからですかササをやってみて何かわかり

ましたか》わからんなこれはやっぱり毒じゃないかななぜかっていうとハ

ンタマギーっていうのは牛とか山羊は食べないですよこれまた飼料にもしない

です

《オタマジャクシも浮いてきましたか》だから艦砲の穴でササをやるというのは多くの

量を使うのでやらないそれで泥を使うメダカが浮いてきたかなんかというの

はわからんメダカなんていうのは目にないフナとかウナギなどの大物ねらい

しかないからよくわからん

《他にササに使った植物》ササに使ったのはミンナ(ルリハコベ)使い方はサンゴ

ジュと同じあのアメリカ製の鉄カブトというのはつつきやすかった日本製

はマ丸い

ールーだけどアメリカ製は細長いんだよ細長くてつかみやすくてた

しかに戦後はいっぱいありましたねウこれはねーまた

レーマタヨ(そのまま火あてたら)

ナ鍋にもなったよーなー

ービニンナイタセーヤーノコギリガサミなんていうのは冨祖崎多いこれとっ

た時は鉄カブトに海水入れて煮るわけですよ戦後子どもの時はそんなことをし

て遊んでいた半分はヤひもじさを直す(腹ごしらえ)

ー サ ノ ー シ

《やんばるではイジュですが使ったことがありますか》ササに使っているというのは僕

が子どもの頃は聞いてない

《クスノハカエデは使わなかったですか》使った覚えはないな

《デェリスは使いましたか》よくわからんな

薪の話

《ヤブニッケイ》ワッターワラバーの頃は方言でサフンギーといっていたサフンという

のはシャボンですよ体を洗う時にはこれでこすると泡みたいに出てくるというこ

と昔これの葉っぱで体を洗ったという

《他に何に使っていましたか》これは屋敷林としてはだいぶあったけど

《アコウ》方言ではアコウアコウガジマルというのもある

《どんなのに使いましたか》大きなガジマルについて枯らしたりする実もなるけど

食べたことないですね

《薪には使わなかったですか》あれば使うというぐらいじゃないかね

《ガジュマル》方言でガジマルとしかいわない

《どんなのに使いましたか》もう防風林みたいなもんだろうな

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

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当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

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島西銘誌編集委員会久米島町

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

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当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 31: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 50 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《薪には使わなかったですか》薪にも使っているけどあまりいい薪じゃないからな

火もちが悪いですガジマルの腐ったやつにミキクラゲ

ミグイがよくつくわけさだから

オバーなんかは切ったものはわざわざ湿り気のある所ヤーヌクシーのウーが

生えている所に放っておくとそこにミミグイ(アラゲキクラゲ)ができるわけさ

そのミミグイをとってテンプラにしたりして食べていた

《ヒゲ(気根)はなにか使っていましたか》根っこはわからんな

《他の使い方がありますか》ウムウジンといって木工旋盤で丸い盆をつくったりなん

かはあるけどこれは乾燥したりしてあんまり上等の盆じゃない

《オオバギ》この辺ではチビカタマヤーギーといいますこれはいい林ではない所に育つ

そんなに身近にないんですね屋敷には植えてないですよただこれユーナと同

じでいろんな食べ物を包んだりすることには使ったはずですけどこれチビカ

タマヤーというのがおもしろいですユーナは切れ込みがあるけどチビカタマヤー

の葉の柄のところが切れてないですよ

《薪には使わなかったですか》薪にはだめですよなんていうのかな火のもちが悪く

あんまり上等じゃないんだな

《リュウキュウマツ》方言ではマーチ

《どんなのに使ってましたか》マーチは建材にはまず使わないシライ(シロアリ)の

好物だということで使わないですね薪ぐらいですよあと松明などに使うと

いうのはこれの油ねこの油というのは松の根っこの掘り出したやつを使ったり

なんかしたはずだけど我々の時代からもう石油を使っているだからこの辺

ではそれ以前の人は松たいまつ

明よりもヤナブ(テリハボク)の実(図 15)を針金に

通して使っている乾燥してそのまま燃やしたらテたいまつ

ービーになるんですよ

《ヤナブの実の灯りは子どもの遊びですか》いや綱引きなんかによく使っていますよ

綱引きは夜に綱を引きよったんですねこれは

もうだいぶ昔の年寄の話でもう大正時代が終

わったらもう石油にかわりましたよね昔はヤ

ナブの実を生活の灯りとして使ったはずです

《ヤナブの灯りを試したことがありますか》僕も乾燥

させてやりましたよ火持ちもいいですよテ

リハボクの実を針金にさしたけど昔は針金な

かったからどうしたかわからんおそらく竹

ヒゴなんかにさしたんじゃないかなと思うけど

図 15 テリハボクの実 (写真上は生の実

中は枯れて乾燥した実 左下は乾燥し

た実の中身

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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宜野座村役場宜野座村

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町役場佐敷町

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島西銘誌編集委員会久米島町

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

乾燥したのをちょうどダンゴの餅みたいにさすようなかたちにして火をつける

と上から順序よくずっと燃えるんですよ

《ヤナブの実は何個ぐらいさしますか》56個ぐらいじゃないかねあれは十分乾燥

しないとだめなんですよ

《リュウキュウマツは正月には飾りましたか》門松なんていうのは大和仕込みであるさ

ここでは戦後は飾っているはず戦前でも大和風なものはやってるはずだけど

正月に竹とか松を木戸口に飾るなんていうのはあったかな

《トーニとかというのは作リましたか》作ってますよ

《アカギとマツどっちが良いですか》アカギがいいですよリュウキュウマツはこれ

はひび割れするんですそれともうひとつリュウキュウマツは油が出るんです

よねだから相当乾燥させて油が出ないようになってからしか作れないはずです

《畑のあぜ道なんかに使わなかったですか》土木工事かなんかで水に強いということで

杭としては使っているはずだけどこの辺では油があってよく燃えるから薪とし

て上等なんですよ

《正月タムンっていうのはどんなのですか》ソ正月薪

ーグヮチタムンというのはもうこの辺で

は特別に山があるのではなくて屋敷林の整理をするんですよイタジイの薪は

金出して買うやつそれとは別に自分たちの屋敷のガジマルの枝がのびたのを切っ

て乾燥して薪にしますだから特別にリュウキュウマツを切るとかなんとかと

いうのはないですねリュウキュウマツなんていうのは大きすぎてあの頃の屋敷

に植えないですよ

《薪をとりにいくのは子どもですか女性ですか》日常生活の薪は戦後はなにもな

いころはススキをとりにいったりしたけど戦前はそんなことしないウージが

あるさウージトーシのあの枯れたやつがあるさあれとかね芋を掘ったあと

のカンダブーニーというのがありそれ乾燥したものとかそれからカヤあの

キダムンなんていうものは高級品どっちかっていうと正月とか盆とかなんか

の時にあるいはまた特別な時に小さなカ釜

マグヮーで特別なシンジムンをすると

かいう時にはキダムンを使ったりしました普通のヤ家

ーのム食事

ヌつくったりする

のはまたはシンメーナービに芋を炊いたりするのはウージンガラーウージン

ガラーっていうのは何かというとこの辺では製糖場が各部落にあったんですよ

サーターグルマといってそこを通した絞りかすを乾かしたのがウージンガラー

それと今さっきいった芋蔓だとかそれからトウモロコシの仲間だけどトー

ナチンっていうのがあるでしょあれの実をとったあとの茎は全部薪にしてます

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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宜野座村役場宜野座村

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町役場佐敷町

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島西銘誌編集委員会久米島町

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

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論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

よ基本的には草本類

《その落ちてる葉っぱとか枝とかはもうこれ自由にとってよかったんですか》ヌ地主

ーシが

ありますからね自由ではなかった

《部落共有地っていうのはなかったですか》ここはないですね馬天にはあったはず

津波古はあったはずだけどいくら枯れてるといっても人の畑からはとってはい

けなかった自分の物は自分の物

《畑もなにもない人たちは大変では》畑のない人っていうのはここにはいなかったせ

いぜい小作人小作人でも結局小作している畑はあるんだからこの辺では畑と

関係ない生活をしているというのはいなかったんじゃないかな

《この辺は水田だったですか》水田が多かったですね

《あまり燃やすのがないんじゃないですか》いやたくさんあった水田っていっても

水田だけで飯がくえませんからね面積的な大きさでいうとサツマイモとサトウ

キビの畑ですよ換金作物としてはサーターです

《サトウキビですか》砂糖ですよと黒糖サ砂糖樽

ーターダルといったのがあってそれに

詰める砂糖もまた検査官が一等二等といって分ける等級がある

《サーターダルは買ったんですか》うんあれはナ那覇

ーファあたりから買ってくるんです

よねタルガーヤーといっていた

《樽はイタジイで作られていたんですか》もう昔だから木の名前はなにかわからんな

あれもやんばるの木を使っていたはずよ

《臼は何で作りましたか》この辺ではアカギですね

《杵はなんといいますか》アジン

《杵の材料はなんで作っていましたか》アジンは何で作っていたかよくわからんなア

ジンというのはよく話は聞くいや使っている芋をつぶすのにウヮーヌムン作っ

たりする時なんかに炊いた芋を臼に入れてこれでつつくんですよ大和みた

いに餅をつつくなんていうことはないですね餅はつきもちじゃないから沖縄は

《縄の代用品はどんなのを使っていましたか》ティカカズラですかねティカカズラやリュ

ウキュウティカカズラは知られているけど使用したかどうかはわからない

《ティカカズラ》方言はわからんさティカカズラは南部にもあるけどこの辺で縄代用

に使うのはゲットウの茎ですよ

《ゲットウ》方言でサンニンゲットウで使うというのはもちろんムーチーガーサこ

れで餅を作ったら香ばしい匂いがするそれを例えばカステラだとか餅をたく時に

これを敷いてやった茎は葉っぱを落としてから茎を叩いて物を縛るのに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

- 71 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

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1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

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- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

昔はムーチーガーサのムーチーはそれで縛っていましたね

《繊維の取り方》例えば切った木の枝なんかを縛る時とか茎は繊維が上等だから

ちゃんと剥けるんですよ念入りにやる人たちは叩く叩いて細かくしたら仕

事がしやすいそのまま剥いだままだったら束ねるのはやりにくいけど叩いた

ら細かくなって使いやすくなるだから普通は叩いていましたね

《クロツグ》方言でマーニクルジナといって縄に使っているシュロと同じでクルジナ

と呼んでいるクロツグで子どものダオモチャの刀

チグヮー作ったりしたよ僕の家には植えら

れているけどこれはもう屋敷にはないですよ小谷とか新里の傾斜地の石灰岩地

にしかないんですよ

《トウズルモドキ》小谷新里の傾斜地にはありますけどこの辺はほとんどないですね

これも使ってないですね

《ハスノハカズラ》ここにもたまにはありますけどね使ってないし方言わからんな

《ヒョウタンカズラ》わからん

生業山羊の餌鳥もちなど

《イヌビワ》アンマチーチーというイヌビワとケイヌビワとはここでは区別してない

ですね用途はヒージャーグサですよそれからこれガジマルの実と同じでメ

ジロを養う時にとってきて食べさせたりしたメジロの好物のクチナシの黄色い実

があるんです

《ハマイヌビワ》これは石灰岩地にありこの辺ではあまり生活と関係ないんじゃないかな

《フカノキ》フカノキは小谷にはあるけどここではわからんな

《ホソバムクイヌビワ》方言は何ていいよったかなホソバムクイヌビワは大きくなって

板根ができるんですよねこの辺では屋敷林としては植えてないですね

《トベラ》トゥビランギートゥビラともいいます使い道は子どものころヤ鳥もち

ンムチを作っ

たこれの熟した実があるさあれはマ真っ赤

ッカーラーさ実の中身を集めて揉みな

がら水で洗うと赤いネバネバのなかに種子が入っている種子はとって水がなく

なるとヤンムチになるんですよだからワラバーターは方言ではヤンムチーギー

といっていましたよヤンムチはガジマルの樹液よりもずっとこれがいいガジュ

マルの幹を叩いて土に吸わせてそして土を洗うとチューインガムみたいにでき

るだから戦後はそれをチューインガムみたいにかんでいる人もいた

《ヤンムチの使い方》トベラの方がヤンムチとして上等これを作って竹なんかにつ

けてメジロが来そうな所においておくとメジロもとれる子どものころよく使っ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

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- 54 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

たそれから山羊が産気づいた時これの葉っぱを食べさせると子どもが安々

と産まれるとトゥビランギーは特に行事なんかには使ってないですねトゥビ

ランギーは僕らは香ばしいと思うんだけどこんな狂歌があるさ「アングヮー

ヌクササトゥビランギーヌクササ〈後略〉」

《ヤンムチの材料は他にありますか》ガジマルとトゥビランギーしか使ってないもう

トゥビランギーがナンバーワンガジマルはチューインガムみたいに噛むのは上

等だけどただメジロをくっつけるだけの粘りはないですよセミなんかもトゥ

ビランギーのヤンムチで捕まえた

《キノボリトカゲなんかも捕まえましたか》キノボリトカゲは捕まえたことないけど

これよりもセミをとるのはウ芭蕉の葉

ーヌガースですよ竹の竿にウーヌガースをつけ

てから使う(19)

《この道具や方法に名前がありますか》この遊び方法に名前は特に無かったです

《ネズミモチ》サーターギーというやつね

《なんか使いましたか》これは葉っぱを摘んでから揉んで嗅いだら黒糖の炊きた

ての匂いがするということでサーターギーといっているんですけどね

《ヤエムグラ》方言はミンナまたはチャクチャクーミンナともいう湿地に生えるヒー

ジャーグサにはよく使ったけど

《オヒシバ》方言あるはずだけどわからん特別に使い道はないんじゃないかなヒー

ジャーグサ以外には

《これは赤ちゃんの命名に使いましたか》よくわからんな

《クサスギカズラ》これ外来ではないかわからんな

《ツノアイアシ》わからんな

《ギシギシ》ナンドゥルバーといいますよこれ牛の草によく使うんですけどねほかに

使い道はなんじゃないかな牛が好むんですよこれ

《カタバミ》方言でミーハジチャーといっていた特にこれで食べたとか遊びに使った

というのはないですね僕らはわからんななんでミーハジチャーというか

《他の地域では実をはじくとかなんとか》ミーというのはじゃあ種だね種がはじく

ということ遊んだことない

《ムラサキカタバミ》これヤファタ

(19)ensp竹の竿に芭蕉の葉を漏斗のように丸めてくくりつける それをセミが止まっている木に漏斗状の口を上にしてセミの下からそっと近づけるとセミは逃げ出すが その時にセミはいったん下に数十センチほど落ちながら飛び立つ その落ちたところは漏斗状になった芭蕉の葉があるので 翅が広げられずにそのまま捕獲される セミの習性をうまく利用した採り方で 効果的にセミ採りができる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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町役場佐敷町

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島西銘誌編集委員会久米島町

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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- 55 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《戦前もありましたか》生えていましたよこれはもう農家ではものすごく神経使っ

てとっていましたね今はもうぜんぜん耕運機を使うようになってからは耕

運機が全部拡散しているこれの思い出があるのはね根っこに細いダイコンみ

たいなのができるんですよあれは甘いんですよよく食べましたよ

《ホシダ》方言はわからんこれもヒージャーグサに使ったけどそんなにヒージャーが

好んで食べるもんじゃないね

《シダ類は一般的に方言ではなんといいますか》わからんな

緑肥

《ソウシジュ》ソウシジュといいますけどこれも外来これは昭和の何年かに入ってき

たものですよ

《緑肥以外にも使いましたか》ここではそんなに使うほど普及していなかったんじゃ

ないかな

《クワズイモ》ンバシといいます田舎では食べるためゥ豚を屠殺したり

ワークルチャイするでしょ

あのころは免許もなにもいらなかったから肉を分けてこれを大きな葉っぱにの

せて肉を包んで持って帰るのに使ったなにか包装とか物を包むこれよりもバナ

ナだとか芭蕉の葉っぱをよく使ってますけどあれは火に炙ってから使うんです

けどね

ンバシは毒なんですよね毒というよりはこれの葉柄には顕微鏡でみたら透明

なケイ酸ナトリウムの針状の結晶がありますこれを口にするとその針状結晶が喉

を刺すんですよこれは生物の授業の時に生徒へ顕微鏡でみせたりましたよ

《ホルトノキ》方言ではターラシとかターラサー僕の子どもの頃はセミがよく集ま

ることしか知らないターラサーというんだけど田んぼに緑肥として入れたかど

うかは僕はわからんさここら辺では田んぼの緑肥はターヌクウェークミイチュ

ンというんだけどあれはほとんどがユーナですよクロヨナもあります

《クロヨナ》ウカファといいますこれは田んぼにふみこむ緑肥に上等

《クロヨナも使ったんですか》ユーナよりもクロヨナの方が肥料としては上

等オオハマボウは方言でユーナクロヨナはウカファウ覚えていたはずが

ビイーシガ

ンなかなか出てこない

ジャシカンティーシ

旧盆の供え物や行事

《メドハギ》方言でソーローハージですソーローというのはグ後生

ソウ旧盆の送り盆の時

これを少し束ねて塩水につけてお祓いをした魔除けみたいに使った

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

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当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《どのように使いましたか》これはよくわからんな今の記憶ではだいたいそんなもん

じゃないかなだから入り盆でも使ったかどうかはわからんやっぱりウークイ

の時かなウークイの時は昔は木戸口に全部重箱を持って行ってそして送るん

ですよ門の所に向けてね

《メドハギはお盆のお箸がわりにも使ってましたか》これわからんな

《旧盆の時に仏壇に供えるものにはどのようなものがありましたか》サトウキビだねグー

サンウージとか小さく束ねたタバイウージというやつ今はネーブルになったけ

どミーガークーガーというのがあったもう僕の頃からはミーガークーガーはあ

んまりやらないですねミーガークーガーは食べられないけどさなんていいよっ

たかなナシカズラじゃないよチ知念親川

ニンウッカーにもあるけどね実がなって熟

すると黄色くなるんですよギョボクかフウインボクかどっちかですねこっちに

自生しているが食べられないよどちらかというとギョボク(図 16)かもしれな

いな

《ギョボクの実ですか》お盆の時に供えるのはギョボクの実実の方言はミーガークーガー

といいます実はちょうど卵ぐらいの大きさになりますよギョボクは知念城址

の下に昔のチニンウッカーというヒージャーがあるさそれから知念城址に登る所

のすぐそばに大きなのがあります小谷にもあるけど小谷にあるのは人の屋敷の

周囲だからウッカーの方がわかりやすいかもしれないですね

《ギョボクの実を旧盆に供えた所は他にもありますか》ギョボクを供えたことについて

は僕なんかは話を聞いてるぐらい昔佐敷(旧佐敷町)は基本的に全部使っ

ている知念(旧知念村)はわからんこのギョボクは小谷にも生えているんで

すよミーガークーガーをなんでウ供える

サギルのかわからんななんか果物の代わり

じゃないかなと思うんだけどクーガーというのは新しい生命を産むというの

とか関わりがあるのかもしれないけどただそうとう古い習慣だろうってね

だから僕はミーガークーガーのクーガーは

これと思うんです

《ミーガーはまた別の意味があるんですか》わからん

けどセットでミーガークーガーといっている

のか一つのものにミーガークーガーといって

いるのか疑問に思っているんですけどね

《ショウガのことじゃないでしょかショウガはお盆

の時に供えましたか》わからないミーガーと

図 16 ギョボク (2008 年 12 月南城市 知念

盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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島西銘誌編集委員会久米島町

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 38: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

クーガーは別のものなのかまたはひとつのものを指しているのかわからない

僕はこれは問題じゃないかなと思っているんですけどねクーガーは卵に似てい

るやつねミーガーが謎なんですね単独なのかそれともセットなのか

《戦前の新聞にはミーガークーガーと書いていたりミーガーとクーガーが別になっ

ていたりしています》じゃあ別だな

《ショウガとクーガーでしょうか》なんでそれを供えたかはわからんけどヒントがみ

つからないですけどねどっちかっていうと卵に似ているというのはあるかも

しれないけどね

《ミーガークーガーはどれぐらいの数を供えていたんですか》その辺のことはよくわか

らんなまあこの辺ではミーガークーガーを供えるというのはだいぶ早い時期に

すたれているけど最近まで残っているのはウージですよ

《タマシダは使ってなかったんですか》盆には使ってないですよここではミーガークー

ガーのクーガーは卵ぐらいのものが対象じゃないかなタマシダの実(根)は小さ

いよせいぜい親指くらいの大きさだよ

《タマシダの方言ありますか》わからんな

《アダンの実を供えましたか》パイナップルのない時代アダンをお盆に飾るというのは

聞いてないパインもずっとあとからですよパインが普及してからですよ

《実の利用》あれはね子どもの遊び道具としては使ったさアダンメーオーラセー

といってアダンの実の柄の部分に縄を括ってお互い同士ぶつけるぶつけた

ら一つひとつ外れるからできるだけ熟しないで大きいアダンの実を採ってきた

海岸は全部アダンでしたからね

《イチビなんかは供えなかったですか》いやもうミーガークーガーだけ

《ゴンズイ》野山ではみないが屋敷に植えてあるかもしれない

《シラタマカズラ》いっぱいありますよ方言わからんな

《これ行事に使ってないですか》使ってないよ

《リュウキュウイノモトソウ》わからんな

《カニクサ》方言あるはずだけどわからん使い道などはわからない

生活でのいろいろな利用

《オオハマボウ》方言はユーナユーナの葉はお祝いの時にワ子どもの分

ラバータマシといって

皿のかわりに豆腐をのっけたりなんかをのっけて食べさせたりした

《ここでいうユーナの葉は子ども用という意味ですか》大人は会席料理子どもをつれ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

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字誌 資料編字恩納自治会恩納村

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町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

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- 58 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

てきた場合は子どもにはこれで遊んでなさい食べなさいという

《ユーナで繊維や衣服を作るというのを聞いたことがないですか》ユーナの若い茎の樹

皮を剥がして水に浸けて腐らし白い繊維をとって縄の材料にしたが衣服にし

たとは聞いてない

《他の使い道は》オオハマボウなんていうのはね便所用のお尻を拭くために使っ

たティッシュペーパーですよ戦前はこの辺の農家では必ず豚小屋のそ

ばゥ豚小屋の便所

ワーヌフールといってそばにユーナの木があったんです毎日使うか

らねオオハマボウはとりたては破けますよだから年寄りの仕事でオバー

が明日使う分ということでその前の日で摘んでおくんですよ1 日おいてい

てネ萎えさせる

ーガラスンというそしたらトイレで拭いても破けにくいですよ新し

いのをそのまま使ったらすぐ破けるんですよしかもねあれは裏を使うんですよ

表はツルツルでしょ裏は毛があったり葉脈があったりして拭き取りやすいで

すよだからこれ生活の知恵でね

《採取したあとは何日ぐらいもちますか》翌日までいや23日もうそれ以上なっ

たらカサカサなってだめになりますよね

《とりたての葉で試すところでした》そのままやったらすぐ破けますよ

《トイレの紙代用はオオハマボウの他に何を使ってましたか》藁ワラシビといって縄

をあむ時には周囲にある柔らかいのをとるあれを丸めてから使う僕は経験ない

けどみてはいます

《アカメガシワはトイレの紙代用に使いましたか》アカメガシワは生育しているけどど

うかな(使っていたかな)

《ソテツの葉の使い道は》ホ箒

ーチですねあれの葉を三枚か四枚重ねて括ってホーチに

しよった新鮮な青い葉を使う青といっても若いやつじゃないよ一枚だけでは

だめあれは葉脈があるこれを三四枚重ね重ねたのを三か所くらい括ってホー

チをつくる(図 17)

《このホーチはどこで使いますか》昔の台所というのは田舎では土間ですそこで使っ

た使えなくなったらまた新しいのを作って古いのは薪にする戦後まもなくは

小学校も土間だったもんですからホーチは子どもたちが学校でよく使いましたよ

《何で括りましたか》普通の紐でも括るけどあの頃はサンニンの茎を使いましたよ

サンニンの茎が繊維状になったのが手っ取り早くて一番よく使った芭蕉の繊維

なんていうのは上等ではあるはずだけどあれは使ってないですねサンニンは

いつでもどこでもとることができて手軽だった茎をとったあとは石でもハ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

- 70 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

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論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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- 59 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ンマーでもいいから叩くんですよ砕いてグ

チャグチャにするとサーッと繊維がぬけてくる

その繊維でソテツの葉を三カ所ぐらい括るん

です

《虫かごなどは作りましたか》あれは遊びで作ってい

たのをよく見てはいるけど僕は作ったことは

ないが使ったことはあるチョウチョなんか

は入れられないセミは入れたまあそんなに

頻繁に使ったということじゃなかった

《ソテツの実は遊びなどに使いましたか》遊びという

より食べ物に使った

《運動会のアーチなどの飾りは》ありました(図 18)

《魔除けとかは》使ってないですね

《他にどんな用途がありますか》いろんなものに使っ

ているはずだけど思い出せない

《緑肥に使いましたか》タ田んぼの肥料

ーヌクウェーだとか畑に敷き込むとかはやるけどこれよ

り楽なのはたくさんある屋敷の中にはユーナ(オオハマボウ)それからウカファ

(クロヨナ)グシチャー(ススキ)もあるこの辺で植えているのはサンニン(ゲッ

トウ)ここはカヤブチヤーで茅の家だったから山の境の杭の代わりにこれを植

えてあったんですよウここからは誰それの

マカラータームンウそこからは誰それの

マカラータームンといって土地の

境界にとして植えた

《境界には竹を植えてなかったですか》この辺では竹は植えていない山の中の土地の

境界線はミツバハマゴウを植えていた(20)

《ミツバハマゴウ》方言はホガーギーというホガーギーの枝の丁度分かれているところ

を使ってヒへら

ーラの柄なんかに使っていましたまたちょっと大きいのをとってき

て鎌の柄とか石を割るハンマーみたいなものの柄に使っていました

《タブノキ》わからんな

《ノカラムシ》方言ではウーベーといっているこれはヒージャーグサですよこれは

ノカラムシだろカラムシは繊維とるためのもの

《これで遊んだりしましたか》これは裏側に小さな毛があって衣服にくっつくんです

よ勲章みたいにくっつくそんな遊びは女の子がよくやったんですけど男は

(20)enspモーバンシルーも境界の目印に植えていた バンジロウの項を参照

図 17 ソテツの箒 (国頭村奥民俗資料館)

図 18 芸能発表会の舞台看板を飾るソテ

ツ (1960 年代 佐敷 知念盛俊撮影)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

- 61 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

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島西銘誌編集委員会久米島町

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当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 41: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

そんなことやらんですよまあそういった遊

びですねあとはヒージャーの草としてはよ

く使った

《オキナワサルトリイバラ》これはやんばるだな(ここ

ではみない)

《サガリバナ》夜咲くから普通はジュリバナといって

いるさ

《なにかに使いましたか》数が少ないしあまり生活

と密接ではないからわからないですね

《佐敷ではどの辺に生育していますか》ここは手登根に大きいのもあるしそれか

ら冨祖崎にもあるしジュリバナといっているけどこれが(地域の)どこまで

の方言なのかはわからん小さいころではそういったことを聞いていた伯父に

ヌ何でそう呼ぶのか

ーンチヤガと聞くと夜咲くからと

《蓑みの

の材料にはどんなものを使っていましたか》蓑は方言でンヌという安っぽいのは藁

でつくったものワランヌといったかどうかはわからんさそして上等なのはスル

(シュロ)で作ったンヌ近頃無くなっているけど以前はこっちにたくさんあり

ましたよスルガーといってですねシュロのヒゲみたいな皮です(図 19)

《クバは使ってないですか》クバでも一応作ってはいたクバは持ちがよくないんです

よここはクバよりもほとんど藁を使っていた稲藁の芯だけ使ってつくった

《藁だったら雨漏りしそうですけど》いやいやあれは一つ一つじゃなくて重ねて作

るからそれからアダンの葉の表はフクギの葉と同じように上はツルツルで

ウ少し

フェーコーティングされているさアダンの葉のトゲをとって細くして作っ

たのもあった

《ツユクサ》方言はマルバツユクサも含めてナンドゥルーという山羊の餌

(3)1950 年頃の景観

クルマボーと豆

《1950 年頃に撮影されたカラー写真について当時の状況について教えてください(21)

図 20

について場所はどの辺と思いますか》全部イシグーですね沖縄島の中南部だと

思いますねクルマボーで大豆を叩いているんですよこれから豆腐作っていたん

ですね

(21)ensp 1947 年から 1950 年ごろの沖縄島でウィリアムジェンキンス氏によって撮影された写真 (沖縄県公文書館蔵)

図 19 シュロの皮を束ねたもの (国頭村奥

民俗資料館)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

- 67 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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宜野座村役場宜野座村

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町役場佐敷町

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

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大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 42: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 61 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

《当時の大豆は換金作物ですか》いや自給自分たちで消費するまあ一部はナ那覇

ーファ

の町なんかに売ったりなんかしたかもしれないけど

《図21(図 20の拡大)のテントの建物は何ですか》囲いテントこれトイレじゃないかな

ヒージャーヤー家畜小屋かトイレだと思う上は(カヤなど)なにもないでしょ

昔はドラム缶みたいのを埋めて溜めていましたねだから囲いは子どもの高さ

くらいもない座るからね子どもは1m 10 か 20 くらいこれテントから頭が

出ている僕はおそらくトイレじゃないかなと思っている

《図 22 についてこれは大豆ですか》これは違うこれはトーマーミ(ソラマメ)です

よ殻も黒くてちょっと内側が緑っぽいですよね若い時はこんなですよ図 22

はソラマメだと思います

《ソラマメは叩かないですか》ソラマメは叩かないで

すよ図 20 のように叩くのは大豆しかないです

図 22 は皮が熟したもの殻は外側は黒いが開

けると中は白くなるそれで黒と白になってる

また豆としては大きいソラマメですよこれ

《ソラマメはどんなして食べたんですか》これで

味噌を作ったりあるいはそのまま皮が

オ青かったら

ーサイネーシ汁物

ルミーに入れて食べるつま

り熟してなく実が若い時はむいてからお汁に

入れて食べたということ熟して豆の皮が固く

なってきたら今度はまた豆として使う豆は

イ炒め物

リチーとかのおかずじゃなくして豆自体を

焼いて食べるまたは蒸して食べるということ

リュウキュウチクの利用

《図 23 について辺野古で茅葺の家をつくっている写

真ですが材料としてのリュウキュウチクがみえ

ます》カヤブチヤーです全部リュウキュウチク

ですね辺野古だったらジ上等の木

ョートギーを使ってま

すね中にある柱は角がとられている

《角というと》丸太じゃないさ角材を使っている

外側の方は丸太使っている内側のものはちゃ

図 20 豆の収穫風景 (1950 年頃 沖縄島

沖縄県公文書館所蔵)

図 21 図 20 のテント小屋拡大部分

図 22 豆の殻を振り分けている女性 (1950

年頃 沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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町役場佐敷町

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名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

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当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

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- 62 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

んと角をしているんです角材使っているんで

すよねで(写真中のリュウキュウチクを指し

て)これがヤンバルダキですよねそしてイー

チーといってキチに固定してそしてその上

に萱をのせる

《これは北部と南部もやりかた同じですか》同じです

これ北部ですねだからこれダ竹葺き

キブチですこ

れカヤじゃないですリュウキュウチクの上等

じゃない小さく細いやつそういったのを使う

あの前に話したようなチニブに使うものじゃないチニブ使うのは上等で成

長がいいやつこれ(竹葺きに使うの)はしょっちゅう刈っていじめているとか

そういうような細いものを使うこれダキブチですよこれはこの辺の島尻のカ

ヤじゃないです

《この島尻でもダキブチを使っているところありましたか》島尻の金持ちがやんばるか

ら取り寄せたものはあるはずだけど

《金持ちがダキブチを使うんですか》一番金持ちは瓦だけどさ

《リュウキュウチク使うのはダキブチといっていたんですか》ダキブチというやっぱ

り金持ちが使う

3考察

今回の聞き取り調査において生物文化の面から興味深い話が多くみられた本調査の

結果からこれまで記されることが少なかった生物文化の一面やまだ検討中ではあるが

よく解明されてない生物文化に関する課題などを取り上げてみる

(1)動物食と子ども

当山は沖縄諸島各地で動物方言を調査し阿嘉島(当山1983a)渡名喜島(当山

1983b)宜野座村(当山1989a)佐敷町(当山1989b)久米島町西銘(当山2003)

名護市勝山(当山2009)恩納村恩納(当山知念2007)南風原町(当山ら1998)

西原町(当山ら2004)などの報告を行っているしかしこれらの調査のほとんどは

方言名に重点がおかれており利用に関する情報は少ない

ネズミを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカ

エルを食べることについては名護市勝山南風原町恩納村恩納西原町からカタツ

図 23 建築中の茅葺家 (1950 年頃辺野古

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

知念盛俊(1995)沖縄住民を餓死から救った生物たちの横顔pp27-40 歴史教育者協議会編語り

継ぐ 戦中戦後(2) 本州最後のトキ労働旬報社

初島住彦天野鉄夫(1994)増補訂正 琉球植物目録沖縄生物学会393pp

Hawks F L (1856) Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan Performed in the Years 1852 1853 and 1854 under the Command of Commodore MC Perry United States Navy by Order of the Government of the United States Vol I A O P Nicholson 537pp

比嘉春潮(1957)沖縄風土記 沖縄の年中行事[比嘉春潮全集 第3巻 文化民俗篇pp1-23

沖縄タイムス社1971 年]

川上勲(2015)宮古諸島pp553-556沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各論編1 自

然環境沖縄県教育委員会

目崎茂和(1980)琉球列島における島の地形的分類とその帯状分布琉球列島の地質学研究 5

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宮城真治(1988)沖縄地名考名護市教育委員会150pp

盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

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当山昌直(1983a)阿嘉島の動物の方言についてpp23-29沖縄県立博物館沖縄県立博物館総合

調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 44: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 63 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ムリを食べることについては南風原町恩納村恩納西原町からの報告がある旧佐敷

町屋比久在住の知念氏はネズミカエルカタツムリを食べることについて話しているが

当山(1989b)では佐敷町からの記録がないつまりインフォーマントには方言のみ答

えてもらって生物の利用については質問していないわけであるこのように沖縄諸

島における利用も含めた生物文化の調査については遅れており今回の知念氏の調査にお

いてその実態が少しずつわかってきたことになるわけである

特に今回注目されたのは乳幼児や幼児の栄養源としてのネズミやカエルである(22)

念氏も指摘しているように戦前から戦後しばらくは年子の兄弟が生まれてくることが

多く新たに生まれてきた子どもに母乳が優先され上の子どもには十分な栄養が行きわ

たらなかったことが多かったという乳幼児や幼児児童など育ち盛りの子どもには栄

養価の高い肉類は必要だったと思われるが当時は貧乏だけでなく一般家庭においてさ

えもいつでも肉類があるわけではないこのような状況下においてはネズミやカエル

などのタンパク質は重要な栄養源になったと思われるまた畑で簡単に入手できるカタ

ツムリ(オキナワウスカワマイマイ)も子どもの栄養になっただろう

当山(2002)は戦前の那覇市におけるヌマガエルの調理方法の1例について聞き取り

した結果を報告している概要は次のとおりである

「戦前軽便鉄道の那覇駅から旭橋を渡ったところの右側一帯(現在の那覇市西町)に

大きな市場があり腰から下だけを残して処理したカエルを販売していたこれらのカエ

ルはお年寄りや虚弱体質の子どもへの滋養食品として販売されていた処理したカエル

は2合ぐらいの大きめの牛乳瓶に入れ(水は入れない)水の入った鍋に水浴させるよ

うにしてこの牛乳瓶を立てて入れる水の入った鍋を煮ると牛乳瓶の中のカエルから汁

が出て瓶の中に汁が溜まるこの汁を子どもへ飲ませるのである汁を取り出した後

瓶の中に残ったカエルは豚油で揚げそれを子どもにしゃぶらせていた」

その後インフォーマントの當山喜世子氏(大正5年生)になぜ子どもにカエルを与

えるのかを聞いたところ「昔はムシヨーガリしている子どもが多かった母親の母乳が

少ないとか出ないという場合はもっと深刻だった米を砕いてスープのようにして与え

たりすることもあった(略)幼児に栄養価の高い食べ物を与えることが必要だったカ

エルはそのような時に与えられた」といった内容の返事であった(当山未発表)

これらの那覇市の事例や今回の知念氏の情報からネズミカエルカタツムリは子

どもへの栄養源として重要な役割を果たしていたことが考えられる特にカエル(ヌマ

(22)ensp 知念氏はネズミ食のところでマングースも食べたことに触れているが 終戦後の食糧難時期は沖縄島の中南部を中心に各地でも食べていたことが予想される これらの捕獲圧によってマングースの分布拡大に相当影響していたことが考えられる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

- 67 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

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継ぐ 戦中戦後(2) 本州最後のトキ労働旬報社

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Hawks F L (1856) Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan Performed in the Years 1852 1853 and 1854 under the Command of Commodore MC Perry United States Navy by Order of the Government of the United States Vol I A O P Nicholson 537pp

比嘉春潮(1957)沖縄風土記 沖縄の年中行事[比嘉春潮全集 第3巻 文化民俗篇pp1-23

沖縄タイムス社1971 年]

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目崎茂和(1980)琉球列島における島の地形的分類とその帯状分布琉球列島の地質学研究 5

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盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

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当山昌直(1983a)阿嘉島の動物の方言についてpp23-29沖縄県立博物館沖縄県立博物館総合

調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 45: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 64 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ガエル)については知念氏や那覇市の事例からみても子どもの重要な食べ物だったと思

われる

しかしこれらのネズミカエルカタツムリ食特に子どもへの栄養源として与える

ことは沖縄島国頭村奥では確認されていない(当山2016)筆者のこれまでの調査より

ネズミカエルカタツムリ食は概して沖縄島中南部の低島環境(23)

にみられるが沖縄島

北部の高島環境では少なくみられない所もある国頭村奥は自然が豊かな典型的な高

島環境であることからこれらの生物利用については生物相や周辺の環境が影響している

と考えられる

(2)シークヮーサーの語源

図 24 はシークヮーサーを利用した洗濯の様子である終戦後間もない 1945 年8月 10

日に米軍によって撮影されたもので撮影地は記されてないが沖縄島であろう米軍の

キャプションには「(和訳)タンジェリンみかんを使って衣服をこすり洗いする沖縄の女性

石鹸不足を補う方法の一つ小さい緑のタンジェリンを半分に切り切り口を石鹸と同じ

ように衣服にこすりつけて使う酸性の汁が汚れを落とす」と記されている

タンジェリンについて画像を拡大して確認したところシークヮーサーに似ていること

からそれであろうさらに木製のタライで洗っている衣服を拡大してみたが芭蕉着で

あるとは断定できなかった(24)

図 24 のような実際の暮らしの中でシークヮーサーによる洗濯をしているという光景は

今ではみられなくなり貴重な資料といえよう

ヒラミレモン(シークヮーサー)の語源については当山(2016)が知念氏の聞き取り

に基づいて検討した結果を報告しているまた当山(2016)は知念氏の話をもとに

後日大宜味村出身の植物研究者新城和治氏(昭和 10 年生2015 年3月聞き取り)に同様

な質問をし名称が芭蕉布との関連を示していることについてはその可能性が高いとい

う助言を得大宜味村では芭蕉布がくたびれてくると使用しなくなった水瓶へシークヮ―

サーと一緒に12日間浸けておくと蘇ったということを報告している

次に当山(2016)はシークヮーサーのシーには「酸味や酢」と「精」の二つの意味

の可能性をあげシークヮーサーの意味としては「酸味を加えるもの」と「精を与えるもの」

の二つの意味が考えられるとし一般的には前者の可能性が高いと考えている

(23)ensp当山 (2015) は目崎 (1980) で定義されている 「高島」 「低島」 の両方の性質をもった沖縄島について島内における生物分布を説明するため高島の環境を備えた 「高島環境」低島の環境を備えた 「低島環境」を用いている

(24)ensp原稿チェックの際に知念氏へ写真を見せたところ 「木綿などをシークヮーサーで洗うのは考えられないので洗っているのはほぼ確実に芭蕉着だろう」 と話していた

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

- 67 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

- 68 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

- 69 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

- 70 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

- 71 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

知念盛俊(1995)沖縄住民を餓死から救った生物たちの横顔pp27-40 歴史教育者協議会編語り

継ぐ 戦中戦後(2) 本州最後のトキ労働旬報社

初島住彦天野鉄夫(1994)増補訂正 琉球植物目録沖縄生物学会393pp

Hawks F L (1856) Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan Performed in the Years 1852 1853 and 1854 under the Command of Commodore MC Perry United States Navy by Order of the Government of the United States Vol I A O P Nicholson 537pp

比嘉春潮(1957)沖縄風土記 沖縄の年中行事[比嘉春潮全集 第3巻 文化民俗篇pp1-23

沖縄タイムス社1971 年]

川上勲(2015)宮古諸島pp553-556沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各論編1 自

然環境沖縄県教育委員会

目崎茂和(1980)琉球列島における島の地形的分類とその帯状分布琉球列島の地質学研究 5

91-101

宮城真治(1988)沖縄地名考名護市教育委員会150pp

盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

43-53

沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)沖縄県史資料編24 自然環境新聞資料沖縄県教育委員会

当山昌直(1983a)阿嘉島の動物の方言についてpp23-29沖縄県立博物館沖縄県立博物館総合

調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 46: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 65 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

いずれにせよ方言名のシークヮーサーは利用の面

から考えると芭蕉着の洗濯との関係がありその用途

からくる名称の可能性が高いといえようこのことにつ

いては今回の調査を契機にはじめて確認(認識)され

たもので今後の資料の収集と裏付けにより更に研究が

深まることが期待される

(3)植物を萎えさせて利用する

宮古島久松の事例として川上(2015)によると「毒

草が多いキンポウゲ科に属するサキシマボタンヅルは

新鮮な葉を噛むと辛いが数日経って萎えたころには辛く

なくなる馬は新鮮な間は食べないが毒が消えると食べ

るようになる農家の人は正月などでしばらく畑仕事がなく飼料取りにはいけない間は

先に準備した普通の草を先に与えその後萎えてきた本種を与えた」というこのように

植物を萎えさせてまたは鮮度を落として利用するという事例は今回の調査でも認めら

れた

今回確認されたのはユーナ(オオハマボウ)の葉をトイレ用の紙として使用する場合

あらかじめ採集しておいて翌日以降にしおらせた状態で使用するということである新

鮮な葉をそのまま使用すると破れやすいが萎えた状態だと紙代用として丈夫になって利

用に耐えられるということのようであるまたおにぎりや芋などの弁当を包むのに芭蕉

の葉を炙ってから利用するこれも新鮮な葉は破れやすいが炙ることによって破れにく

く強くなるという

またオオバコはおできができたときに吸出し用として患部に貼り付けるのだがそ

のまま新鮮な状態だと破れたり簡単に剥がれたりするという葉を炙ることによって

ぴったりと貼れるという

オオバコオオハマボウ芭蕉の葉を萎えさせまたは鮮度を落として利用するという

のは当山(2016)でも国頭村奥の事例として報告されているまた奥では棘のある

シロノシマアザミを萎えさせて牛の飼料にしている(当山2016)

このような視点からみると材木を使う前に水につけたり土に埋めたりするのは「萎

えさせて利用」といった部類に属するのかもしれない

萎えさせて利用することについては筆者がこれまでに調査してきた他の地域にも多く

見られると思われるが情報は少ないこれは細かい使い方について質問してないこと

図 24 シークヮーサーで衣服をこすり洗う

沖縄の女性 (1945 年 8 月米軍撮影

沖縄県公文書館所蔵)

- 66 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

- 67 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

- 68 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

- 69 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

- 70 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

- 71 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

知念盛俊(1995)沖縄住民を餓死から救った生物たちの横顔pp27-40 歴史教育者協議会編語り

継ぐ 戦中戦後(2) 本州最後のトキ労働旬報社

初島住彦天野鉄夫(1994)増補訂正 琉球植物目録沖縄生物学会393pp

Hawks F L (1856) Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan Performed in the Years 1852 1853 and 1854 under the Command of Commodore MC Perry United States Navy by Order of the Government of the United States Vol I A O P Nicholson 537pp

比嘉春潮(1957)沖縄風土記 沖縄の年中行事[比嘉春潮全集 第3巻 文化民俗篇pp1-23

沖縄タイムス社1971 年]

川上勲(2015)宮古諸島pp553-556沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各論編1 自

然環境沖縄県教育委員会

目崎茂和(1980)琉球列島における島の地形的分類とその帯状分布琉球列島の地質学研究 5

91-101

宮城真治(1988)沖縄地名考名護市教育委員会150pp

盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

43-53

沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)沖縄県史資料編24 自然環境新聞資料沖縄県教育委員会

当山昌直(1983a)阿嘉島の動物の方言についてpp23-29沖縄県立博物館沖縄県立博物館総合

調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 47: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 66 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

からくるものと思われる(25)

このような生物文化に関する調査においてはいろいろな視

点(この場合は「萎えさせて利用」という認識)をもって調査に臨まなければインフォー

マントが持っている貴重な情報を教えて頂く機会を逸してしまうことになるので気をつけ

なければならない調査の仕方によっては他にも多くの情報が得られるかもしれない

今後の課題としておきたい

(4)ミーガークーガーについて

1913 年(大正2)8月 11 日琉球新報の「盆市雑感」記事中に「阿旦葉実やミーガークー

ガの如きは廃した人が多いので売行淋しく5錢を出したら阿旦実の如きは可なりの奴を二

個も買へる」と記されているこれは旧盆の那覇市の市場の様子で供え物としてのアダ

ンとミーガークーガーがみられる記事内容について當山喜世子氏に確認したところ

戦前は那覇市でも旧盆にはミーガークーガーとアダンなどを供えていたという市場で販

売しているミーガークーガーについて聞いたところちょうど形がキウイフルーツに似て

いて味もそれに近かったというそこでナシカズラ(別名シマサルナシ図 25)の写

真を見せたところミーガークーガーがナシカズラだということが確認された旧盆にナ

シカズラを供えるのは沖縄島では国頭村奥(当山2016)名護市と恩納村(当山未発表)

をはじめ久米島の真謝(盛口2015)西表島の祖納と船浮(当山2015)でも確認さ

れているこのように県内において旧盆時にナシカズラが供えられているのが広い地

域にまたがっていることがわかる

ただしナシカズラの方言には戦前の新聞にはクーガーとミーガークーガーの二つの

呼び方がある沖縄の新聞で最も古いと思われる旧盆時のナシカズラの記録(1898 年〈明

31〉8月 27 日 琉球新報)では「那覇警察署の門前より県庁通り那覇税務署の門前間は

悉く阿檀の実ミーガークーガー甘蔗商を以て充満せり」とありミーガーとクーガー

が別々に記されている一方沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)から「クーガ」

をキーワードにしてナシカズラについて調べてみると1907 年(明治 40)8月 23 日の琉

球新報と 1913 年(大正2)8月 12 日の沖縄毎日新聞に「ミーガークーガー」1932 年(昭

和7)9月 21 日の沖縄朝日新聞と 1935 年(昭和 10)10 月(日にち不明)では「クーガー」

の方言名が認められる

およその傾向としてはミーガークーガーは古くクーガーは比較的新しい新聞等でみ

られるしかし宮城(1992)は呉我山の語源としてナシカズラのクーガーが多く生育し

ている山ということに因んでいることを記しており古い地名にもクーガーの意味が残っ

(25)ensp実際国頭村奥の報告(当山2016)では原稿執筆の段階で質問してないことに気がつき確認した次第である

- 67 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

- 68 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

- 71 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

知念盛俊(1995)沖縄住民を餓死から救った生物たちの横顔pp27-40 歴史教育者協議会編語り

継ぐ 戦中戦後(2) 本州最後のトキ労働旬報社

初島住彦天野鉄夫(1994)増補訂正 琉球植物目録沖縄生物学会393pp

Hawks F L (1856) Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan Performed in the Years 1852 1853 and 1854 under the Command of Commodore MC Perry United States Navy by Order of the Government of the United States Vol I A O P Nicholson 537pp

比嘉春潮(1957)沖縄風土記 沖縄の年中行事[比嘉春潮全集 第3巻 文化民俗篇pp1-23

沖縄タイムス社1971 年]

川上勲(2015)宮古諸島pp553-556沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各論編1 自

然環境沖縄県教育委員会

目崎茂和(1980)琉球列島における島の地形的分類とその帯状分布琉球列島の地質学研究 5

91-101

宮城真治(1988)沖縄地名考名護市教育委員会150pp

盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

43-53

沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)沖縄県史資料編24 自然環境新聞資料沖縄県教育委員会

当山昌直(1983a)阿嘉島の動物の方言についてpp23-29沖縄県立博物館沖縄県立博物館総合

調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 48: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 67 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

ている可能性を考えると簡単にはどちらが古いとはいえないかもしれないそれではな

ぜ二種類の呼び方があるのだろうか一つの考え方として前出の明治 40 年の新聞では

ミーガークーガーの意味として「生ソーローさま

霊様睾きんたま

丸を模擬し」としているそのことから睾丸

を意味するクーガーが強調され簡略化した結果としてクーガーと短く呼んでいるので

はないだろうかこのようなことからナシカズラの方言には大きくわけてミーガークー

ガーとクーガーの二つの呼び方が存在すると考えられる

知念氏は聞き取りの中でミーガークーガーには単独(一種類の実)のことを指して

いるのかそれともセット(複数の実)になっているのを指しているのか疑問をもってい

ると話している前述の明治 31 年の新聞記事においては「ミーガークーガー」と二つ

に分けられている単なる表記の揺れなのかそれともミーガー自体がナシカズラとは別

でそれがセットになっているのか不明である今後の検討課題である

今回の調査では南城市佐敷においてはミーガークーガーがギョボクの実(図 26)であ

りそれを旧盆の時に供えていたことがわかった本来はナシカズラを供えなければな

らないかもしれないが(26)

ナシカズラは高島環境に生育するものであることから低島環

境の佐敷では手に入らないわけである前述のように那覇市では市場などで購入すること

もできるが佐敷では実の形がナシカズラに似ているギョボクを代用していたと考えられ

るまた代用と思われる事例としては読谷村長浜ではナシカズラではなくタマシダの

根にある玉(ナシカズラの実に形態が似ている図 27)を供えている(当山2015)また

長浜のような高島環境とは言えないような他の地域(沖縄市)でもタマシダを供えている

事例がある(当山未発表)

以上のことから旧盆にはナシカズラを供えるという習わしが以前からあったと思われ

ナシカズラが生育しない地域ではタマシダに加えて今回はギョボクが使用されているこ

とがわかった

前出の明治 40 年の新聞の一部には「今より四[]五年前即ち去る[明治]三十六年(27)

頃迄は盆祭の捧物としては必ず一定されて居た即ち水瓜阿旦葉の実甘蔗龍眼ミー

ガークーガー等であつて以上は決して欠くべからさる物と必す捧げてあつた然るに昨年や

本年となりてはテント右様な観念がなくなつて来た即ち実用とならざる者は漸く之れを廃

しミーガークーガーの代りは芭蕉の実(28)

阿旦葉実の代りはパイナツプルを捧ける様にな

(26)ensp 西表島祖納や船浮でも旧盆にはちょうどその時期に実る他の野生の木の実とともにナシカズラを供えている(当山 2015)

(27)ensp新聞には二十六年とあるが 45年前とされているので 誤植と考えられ 三十六年にした

(28)ensp同じ紙面には 「芭蕉実」 とも記されまた 「口にして味ある果物」 としていることからバナナの果実と思われる因みにバナナを筆者の知る那覇方言でいうとバサナイとなるが芭蕉実を方言でいうと芭蕉 (バサ) 実 (ナイ)ということになる

- 68 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

- 69 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

- 70 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

- 71 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

知念盛俊(1995)沖縄住民を餓死から救った生物たちの横顔pp27-40 歴史教育者協議会編語り

継ぐ 戦中戦後(2) 本州最後のトキ労働旬報社

初島住彦天野鉄夫(1994)増補訂正 琉球植物目録沖縄生物学会393pp

Hawks F L (1856) Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan Performed in the Years 1852 1853 and 1854 under the Command of Commodore MC Perry United States Navy by Order of the Government of the United States Vol I A O P Nicholson 537pp

比嘉春潮(1957)沖縄風土記 沖縄の年中行事[比嘉春潮全集 第3巻 文化民俗篇pp1-23

沖縄タイムス社1971 年]

川上勲(2015)宮古諸島pp553-556沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各論編1 自

然環境沖縄県教育委員会

目崎茂和(1980)琉球列島における島の地形的分類とその帯状分布琉球列島の地質学研究 5

91-101

宮城真治(1988)沖縄地名考名護市教育委員会150pp

盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

43-53

沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)沖縄県史資料編24 自然環境新聞資料沖縄県教育委員会

当山昌直(1983a)阿嘉島の動物の方言についてpp23-29沖縄県立博物館沖縄県立博物館総合

調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 49: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 68 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

つた共に口にして味ある果物である(29)

」と記されている

これまで記してきたことからまず沖縄の旧盆にお

いてはナシカズラやアダンは必ず供えなければならな

かったまたナシカズラが生育しない那覇では市場で

購入し他の低島環境の地域ではタマシダやギョボクで

代用していたことがわかるただ明治 40 年の新聞に

もあるようにすでにナシカズラがバナナへアダンが

パイナップルへと食べられる果物に代わりつつある様

子がうかがえるいずれにせよナシカズラを供えると

いう光景は沖縄島では早くからなくなってしまってい

るようである

明治時代の新聞や他の事例にもあるように代用して

までなぜナシカズラを供えなければならないのだろう

か明治 40 年の新聞では「生ソーロー

霊様の睾丸」としているが

比嘉(1957)は旧盆の供え物として「祖先達の古代の食

料だったものとして阿あ だ ん

檀の実茗みようが

荷烏瓜に似たクーガー

等を供え」と記しているアダンの実と旧盆との関係に

ついては八重山の創世神話において次のように記され

ている「〈概略〉アダン林からヤドカリ(オカヤドカリ)

が生み出されたヤドカリはアダンの実を食べそのヤ

ドカリの穴から人間が生まれ出したそれでお盆にはア

ダンの実を供える(八重山歴史編集委員会編1954)(30)

」としているアダンの実と創世神

話との関係が八重山だけではなく沖縄に広く存在するとしたら後者に因む可能性が高

いと思われるしかし沖縄島を中心とした地域には八重山でみられるような神話はみら

れない当山(2007)は沖縄島周辺地域の創世神話については首里王府によっていわゆ

る支配者の神話に置き換えられ王府の力があまりおよばない八重山に神話が残ったこと

を考察しているしたがって供え物としてのアダンの実は創世神話と関係していると

考えられ沖縄島周辺ではその神話が消失または置き換えられたが慣習だけが残ってき

たとはいえないだろうか

一方ナシカズラについてはまだ資料不足で不明な点が多い今後の課題としたい

(29)ensp沖縄県教育庁文化財課史料編集班編 (2014) より引用

(30)ensp当山 (2007) は針突にみられるオカヤドカリの文様等からオカヤドカリと創世神話との関係を検討している

図 25 ナシカズラの実 (城間恒宏撮影)

図 26 ギョボクの実 (知念盛俊撮影)

図 27 タマシダの根に見られる玉の部分

- 69 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

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沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

知念盛俊(1995)沖縄住民を餓死から救った生物たちの横顔pp27-40 歴史教育者協議会編語り

継ぐ 戦中戦後(2) 本州最後のトキ労働旬報社

初島住彦天野鉄夫(1994)増補訂正 琉球植物目録沖縄生物学会393pp

Hawks F L (1856) Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan Performed in the Years 1852 1853 and 1854 under the Command of Commodore MC Perry United States Navy by Order of the Government of the United States Vol I A O P Nicholson 537pp

比嘉春潮(1957)沖縄風土記 沖縄の年中行事[比嘉春潮全集 第3巻 文化民俗篇pp1-23

沖縄タイムス社1971 年]

川上勲(2015)宮古諸島pp553-556沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各論編1 自

然環境沖縄県教育委員会

目崎茂和(1980)琉球列島における島の地形的分類とその帯状分布琉球列島の地質学研究 5

91-101

宮城真治(1988)沖縄地名考名護市教育委員会150pp

盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

43-53

沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)沖縄県史資料編24 自然環境新聞資料沖縄県教育委員会

当山昌直(1983a)阿嘉島の動物の方言についてpp23-29沖縄県立博物館沖縄県立博物館総合

調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 50: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 69 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

(5)竹類の利用

国頭村奥ではリュウキュウチクの小さいのはハラと呼び茅葺屋根の茅などに使われ

大きいのはヤマダイと呼び瓦葺の瓦を載せる竹または壁用として使われるチヌブの材料

などに使われている(当山ら2016)また同一種が成長段階によって名前が異なるこ

とにも注目される(当山2016)今回の知念氏の話ではリュウキュウチクを方言でヤ

ンバルダキと呼んでおりその大きさによって用途が二つに分かれている一つはリュ

ウキュウチクの小さいのは奥と同じく茅葺屋根の茅として使われているもう一つは

リュウキュウチクの大きいのは瓦屋根の瓦を載せる竹としてまたはチニブの材料として

使われているつまり用途は奥とほぼ同じとみることができるただし南城市佐敷近

辺ではこれらの材料をすべてやんばるから輸入しているリュウキュウチクは沖縄島南部

にも生育しているが使用に耐えられないほど小さくて少ないということであろう

1850 年代ペリー一行が来沖の際に沖縄の風景をスケッチしたものには屋敷や住宅に

リュウキュウチクで作ったと思われる囲いがみられる(Hawks 1856)図 28 は那覇の

街中と思われる場所でチニブの囲いは手の込んだものであるいわゆる知念氏がいう

高価な囲いであるこのチニブは図 14 よりももっと精巧にできている様子がわかる図

29 は耕作地と思われ農村の様子を示していると思われる背後の屋敷囲いはリュウキュ

ウチクを編んだものと思われるが拡大してみると図 28 よりは粗い知念氏のいう安価

なものであろう図 13 の簡易なチニブ(ここではアンヌミと称する)に相当するのであ

ろうまたアンドリュースが 1910 年(明治 43)に那覇を撮影した写真には多くの住

宅に竹で作られた屋敷囲いが施されている様子が写されている(宇仁ら2014)(31)

図 30

は1950 年頃の写真であるが簡易なアンヌミと精巧なチニブの両方がみられるいず

れも屋敷囲いに利用されており多くのリュウキュウチクが沖縄島各地で利用されていた

ことがうかがえることができようこのように近世琉球から近代沖縄戦後しばらくの沖

縄島の光景にはリュウキュウチクの囲いが多く利用されていたことが想像される那覇に

はチニブをつくるほどの大きなリュウキュウチクは生育していなかったと思われること

からやんばる等から船によって運ばれてきたリュウキュウチクを利用していたと考えら

れるしたがってリュウキュウチクは沖縄島南部では生活の必需品であったことが考

えられ茅葺用の茅も含め建材として購入していたと思われる

山田(2012)は八重山諸島の植物利用について報告している山田(2012)と本報告

や当山(2016)当山ら(2016)の事例とを比較すると八重山諸島では竹類に関する利

(31)ensp 当該文献の 74 頁 Imageensp14724 の写真を拡大すると確認できる 文献は琉球大学附属図書館の地域学リポジトリ (httpokinawa-repolibu-ryukyuacjphandleokinawa17445) からダウンロードして参照されたい

- 70 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

- 71 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

知念盛俊(1995)沖縄住民を餓死から救った生物たちの横顔pp27-40 歴史教育者協議会編語り

継ぐ 戦中戦後(2) 本州最後のトキ労働旬報社

初島住彦天野鉄夫(1994)増補訂正 琉球植物目録沖縄生物学会393pp

Hawks F L (1856) Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan Performed in the Years 1852 1853 and 1854 under the Command of Commodore MC Perry United States Navy by Order of the Government of the United States Vol I A O P Nicholson 537pp

比嘉春潮(1957)沖縄風土記 沖縄の年中行事[比嘉春潮全集 第3巻 文化民俗篇pp1-23

沖縄タイムス社1971 年]

川上勲(2015)宮古諸島pp553-556沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各論編1 自

然環境沖縄県教育委員会

目崎茂和(1980)琉球列島における島の地形的分類とその帯状分布琉球列島の地質学研究 5

91-101

宮城真治(1988)沖縄地名考名護市教育委員会150pp

盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

43-53

沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)沖縄県史資料編24 自然環境新聞資料沖縄県教育委員会

当山昌直(1983a)阿嘉島の動物の方言についてpp23-29沖縄県立博物館沖縄県立博物館総合

調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 51: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 70 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

用は沖縄諸島ほど強く依存しているようにはみえない

自然環境または生活習慣によるものなのか今後の課

題としておきたい

ホウライチクについては竹細工に利用する点では奥

の事例(当山ら2016)と共通するが佐敷では床板用

としてダ竹 床

キユカと称しニ藁で編んだ敷物

クブクを敷いて利用していた

というイタジイなど床板に使う材はやんばるから輸入

(購入)しなければならないので自給できるホウライ

チクを利用したということになろう床板にホウライチ

クを利用することについては西原町の事例もあり(当

山ら2003)これらはイタジイ等が生育する山がない

低島環境の地域の特徴かもしれない今後の調査によっ

てこれらの利用の実態がわかってくると思われる

まとめ

知念盛俊氏からの聞き取りに基づいてこれまで報告

の少なかった沖縄の生物文化に関する情報の一端を報告

することができた多くの情報の中から注目されたこと

について以下にまとめる

食用としてのネズミカエルカタツムリ類の情報に

ついては知念氏の動物に関する知識もあってより正

確に記録することができたまたシークヮーサーの語

源についてはこれまでほとんど注目されていなかった

と思われ新しい解釈を加えることができたこのこと

から植物利用を視点として改めて調査する必要性が痛

感された

植物を萎えさせて利用することについては利用の「智

恵」として注目したい恐らく他にも同様な事例があ

ると思われるが今回はオオハマボウリュウキュウ

バショウオオバコなどの事例をあげた

リュウキュウチクについては少なくとも沖縄島において非常に重要な利用植物であっ

たことが考えられたまたホウライチクは色々な籠や笊の材料として利用されておりこ

図 28 「商人」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われるチニブ

の囲いがみられる (Hawksensp1856 より

沖縄県公文書館所蔵)

図 29 「農民」 の図 背後にはリュウキュ

ウチクで作られたと思われる屋敷囲

い (アンヌミ) がみられる (Hawksensp

1856 より 沖縄県公文書館所蔵)

図 30 リュウキュウチクを利用した屋敷囲

い 左側より簡易なチニブ 次に精

巧なチニブが見られる (1950 年頃

沖縄島 沖縄県公文書館所蔵)

- 71 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

知念盛俊(1995)沖縄住民を餓死から救った生物たちの横顔pp27-40 歴史教育者協議会編語り

継ぐ 戦中戦後(2) 本州最後のトキ労働旬報社

初島住彦天野鉄夫(1994)増補訂正 琉球植物目録沖縄生物学会393pp

Hawks F L (1856) Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan Performed in the Years 1852 1853 and 1854 under the Command of Commodore MC Perry United States Navy by Order of the Government of the United States Vol I A O P Nicholson 537pp

比嘉春潮(1957)沖縄風土記 沖縄の年中行事[比嘉春潮全集 第3巻 文化民俗篇pp1-23

沖縄タイムス社1971 年]

川上勲(2015)宮古諸島pp553-556沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各論編1 自

然環境沖縄県教育委員会

目崎茂和(1980)琉球列島における島の地形的分類とその帯状分布琉球列島の地質学研究 5

91-101

宮城真治(1988)沖縄地名考名護市教育委員会150pp

盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

43-53

沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)沖縄県史資料編24 自然環境新聞資料沖縄県教育委員会

当山昌直(1983a)阿嘉島の動物の方言についてpp23-29沖縄県立博物館沖縄県立博物館総合

調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

当山昌直(2011)人と動植物との関わりpp51-76西原町史編集委員会編西原町史第一巻通史編Ⅰ

- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 52: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 71 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

のような竹類の利用について他の地域も含めて調査する必要を痛感した

知念盛俊氏は動植物の知識とその利用についても経験から話してくれたまた「わ

からない」「よくわからない」「この辺ではみたことがない」「やんばるでみた」などと明

確に答えて下さったことも資料の精度をあげてくれたこの調査は知念氏の協力なしでは

できなかった今後もこのような先輩方の貴重な記憶や知識を調査記録し残していき

たい

文献

知念盛俊(1995)沖縄住民を餓死から救った生物たちの横顔pp27-40 歴史教育者協議会編語り

継ぐ 戦中戦後(2) 本州最後のトキ労働旬報社

初島住彦天野鉄夫(1994)増補訂正 琉球植物目録沖縄生物学会393pp

Hawks F L (1856) Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan Performed in the Years 1852 1853 and 1854 under the Command of Commodore MC Perry United States Navy by Order of the Government of the United States Vol I A O P Nicholson 537pp

比嘉春潮(1957)沖縄風土記 沖縄の年中行事[比嘉春潮全集 第3巻 文化民俗篇pp1-23

沖縄タイムス社1971 年]

川上勲(2015)宮古諸島pp553-556沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各論編1 自

然環境沖縄県教育委員会

目崎茂和(1980)琉球列島における島の地形的分類とその帯状分布琉球列島の地質学研究 5

91-101

宮城真治(1988)沖縄地名考名護市教育委員会150pp

盛口満(2015)魚毒植物を中心とした久米島における植物利用の記録こども文化学科紀要(2)

43-53

沖縄県教育庁文化財課史料編集班編(2014)沖縄県史資料編24 自然環境新聞資料沖縄県教育委員会

当山昌直(1983a)阿嘉島の動物の方言についてpp23-29沖縄県立博物館沖縄県立博物館総合

調査報告書Ⅲ-座間味村(ざまみそん)-沖縄県立博物館

当山昌直(1983b)動物pp35-41渡名喜村渡名喜村史 上巻渡名喜村

当山昌直(1989a)宜野座の動物方言pp830-860宜野座村誌編集委員会編宜野座村誌(第3巻)

宜野座村役場宜野座村

当山昌直(1989b)佐敷町の動物の方言pp403-451佐敷町史編集委員会佐敷町誌 3 自然佐敷

町役場佐敷町

当山昌直 (2002)戦前の沖縄におけるカエル類の調理方法についてAkamata(16) 13

当山昌直(2003)久米島字西銘の自然pp1-45久米島西銘誌編集委員会編久米島西銘誌久米

島西銘誌編集委員会久米島町

当山昌直(2007)琉球のオカヤドカリ類に関する民俗的伝承について(試論Ⅱ)史料編集室紀要(32)

1-20

当山昌直(2009)勝山の人と自然-嘉津宇岳を中心に(予報)pp115-134名護市教育員会文化財係

名護博物館名護市天然記念物調査シリーズ7 嘉津宇岳 名護市動植物総合調査報告書 2005-

2008名護市教育委員会

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- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

大学学術出版会(印刷中)

当山昌直知念桃子(2007)字恩納の動植物方言pp110-153字誌編集発行事業スタッフ編恩納

字誌 資料編字恩納自治会恩納村

当山昌直神谷保江国吉朝子翁長丈子(1998)南風原町の動植物の方言名pp645-796南風原

町史編集委員会編南風原町史 第二巻 自然地理資料編南風原町南風原町

当山昌直米須瑠衣子山里奈美大城靖田島由美江古波蔵香苗(2004)人と自然の関わり-西

原町の動植物方言-pp93-220西原町教育委員会編西原町の自然~動物人と自然の関わり~

西原町教育委員会西原町

当山昌直盛口満島田隆久宮城邦昌(2016)コラム 奥における植物利用(3)ホウライチクとリュ

ウキュウチクシークヮーサーの知恵 京都大学学術出版会(印刷中)

上江洲均(1973)沖縄の民具慶友社342p

八重山歴史編集委員会編(1954)八重山歴史八重山歴史編集委員会

山田孝子(2012)南島の自然誌変わりゆく人-植物関係昭和堂389pp

Page 53: HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(39): 21-72 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/20485/1/No39p21.pdf · - 22 - 沖縄史料編集紀要 第39号(2016) 的な視点で整理しており、動植物の方言名とそれに対応する和名の両方がわかるというこ

- 72 -

沖縄史料編集紀要 第 39 号(2016)

西原町教育委員会西原町

当山昌直(2015)第3節 島に生きるpp39-51沖縄県教育庁文化財課史料編集班編沖縄県史各

論編1 自然環境沖縄県教育委員会

当山昌直(2016)沖縄島奥の動植物方言およびその生物知識をさぐるシークヮーサーの知恵 京都

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