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世界史のしおり 2018② 授業にPowerPoint®を使い始めて5年になる。 何人かの同僚が使用しているのを見て,私にもで きるかな,と気軽に導入した。現在は『明解 世 界史A』(以下,教科書)のデジタル教科書(『帝 国書院 指導者用デジタル教科書 明解 世界史 A』。以下,デジタル教科書)も部分的に取り入 れながら授業を行っている。 現在の勤務校は2013年に開校された総合学科高 校である。2017年度の進路実績は卒業生約280名 のうち,静岡県立大学などの4年制大学が125名, 短大・専門学校進学が91名,就職が59名であった。 本校は総合学科ということもあり,2年生から選 択科目の履修が始まり,そこで世界史AまたはB を履修する。生徒の学力は差が激しく,世界史A を選択した生徒でも学習意欲旺盛な者が少なくな い一方,「パリ」が国名か都市名か,「ナロードニ キ」とは何なのか理解できない生徒もいる。 授業の内容は教科書本文を中心としながら,コ ラムなどに盛り込まれたエピソードを利用して内 容に興味をもたせるよう工夫している。そこで本 稿では,教科書p.122~123「アレクサンドル2世 の改革」を例に,ICTを活用し生徒の興味関心を かき立てつつ,生徒の思考をうながして着実に理 解をはかっていく授業の手法を紹介したい。 PowerPoint®のスライドを作成する際には,以 下のようなことを心がけている。 ①一枚のスライドに表示する文字数はできるだけ 少なくする。めやすは3行程度,最大でも5行 程度が望ましい(図1)。プレゼンテーション のような見ばえのいい画面にしようとすると文 はじめに 1 スライド作成のポイント 2 字だらけになってしまい,生徒は文字を書き写 すことに追いたてられてしまう。 ②重要語句を色文字にしたり,図形を重ねるなど して隠しておいたりする。後者は生徒に正解を 求めさせることで,穴埋め問題を解くのと同じ 効果が期待できる。 ③アニメーション機能を使い,スライドの内容を 一度に表示しないようにする。生徒が書き写す のを待ってから次の内容を表示し,順を追って 進められるようスライドを作成する。 スライドには適宜図版も入れているが,基本的 図1のように要点を押さえた内容となっている。 板書にかかる時間を短縮し,その分を学習内容の 解説にあてることができる。また,ICTを活用し てスクリーンに図版を投影することで生徒の顔が 前を向くので,理解しているかを確認しながら授 業を進めることができる。生徒たちは教科書と教 員の解説によって学習内容を理解しながら,スラ イドの内容をノートに書き写していく。 まず,クリミア戦争の目的について,教科書p.122 本文とp.123「②ロシアの領土拡大」の地図(図2で説明していく。クリミア半島がロシアにとって, 黒海から地中海への海路を確保するために重要な 位置にあることを地図で確認させたい。教科書 授業におけるICTの活用 3 静岡県立駿河総合高等学校 袴田康子 ICTを活用した授業手法 〜「アレクサンドル2世の改革」を例に〜 思考が深まる! 授業実践例 図1 一枚のスライドに盛り込む情報量(例)

ICTを活用した授業手法...世界史のしおり 2018② 授業にPowerPoint®を使い始めて5年になる。 何人かの同僚が使用しているのを見て,私にもで

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  • 世界史のしおり 2018②

    授業にPowerPoint®を使い始めて5年になる。何人かの同僚が使用しているのを見て,私にもできるかな,と気軽に導入した。現在は『明解 世界史A』(以下,教科書)のデジタル教科書(『帝国書院 指導者用デジタル教科書 明解 世界史A』。以下,デジタル教科書)も部分的に取り入れながら授業を行っている。

    現在の勤務校は2013年に開校された総合学科高校である。2017年度の進路実績は卒業生約280名のうち,静岡県立大学などの4年制大学が125名,短大・専門学校進学が91名,就職が59名であった。本校は総合学科ということもあり,2年生から選択科目の履修が始まり,そこで世界史AまたはBを履修する。生徒の学力は差が激しく,世界史Aを選択した生徒でも学習意欲旺盛な者が少なくない一方,「パリ」が国名か都市名か,「ナロードニキ」とは何なのか理解できない生徒もいる。

    授業の内容は教科書本文を中心としながら,コラムなどに盛り込まれたエピソードを利用して内容に興味をもたせるよう工夫している。そこで本稿では,教科書p.122~123「アレクサンドル2世の改革」を例に,ICTを活用し生徒の興味関心をかき立てつつ,生徒の思考をうながして着実に理解をはかっていく授業の手法を紹介したい。

    PowerPoint®のスライドを作成する際には,以下のようなことを心がけている。①一枚のスライドに表示する文字数はできるだけ

    少なくする。めやすは3行程度,最大でも5行程度が望ましい(図1)。プレゼンテーションのような見ばえのいい画面にしようとすると文

    はじめに1

    スライド作成のポイント2

    字だらけになってしまい,生徒は文字を書き写すことに追いたてられてしまう。

    ②重要語句を色文字にしたり,図形を重ねるなどして隠しておいたりする。後者は生徒に正解を求めさせることで,穴埋め問題を解くのと同じ効果が期待できる。

    ③アニメーション機能を使い,スライドの内容を一度に表示しないようにする。生徒が書き写すのを待ってから次の内容を表示し,順を追って進められるようスライドを作成する。

    スライドには適宜図版も入れているが,基本的に図1のように要点を押さえた内容となっている。板書にかかる時間を短縮し,その分を学習内容の解説にあてることができる。また,ICTを活用してスクリーンに図版を投影することで生徒の顔が前を向くので,理解しているかを確認しながら授業を進めることができる。生徒たちは教科書と教員の解説によって学習内容を理解しながら,スライドの内容をノートに書き写していく。

    まず,クリミア戦争の目的について,教科書p.122本文とp.123「②ロシアの領土拡大」の地図(図2)で説明していく。クリミア半島がロシアにとって,黒海から地中海への海路を確保するために重要な位置にあることを地図で確認させたい。教科書

    授業におけるICTの活用3

    静岡県立駿河総合高等学校 袴田康子

    ICTを活用した授業手法〜「アレクサンドル2世の改革」を例に〜

    思考が深まる! 授業実践例

    図1 一枚のスライドに盛り込む情報量(例)

  • 世界史のしおり 2018②│1

    p.123②のランベルト正積方位図法の地図では見慣れず,ぴんときていない生徒がいる場合には,デジタル教科書に収録されているミラー図法の世界全図を活用して解説する。

    歴史は人間がつくり出すものであるから,エピソードを語るうえで,人物の肖像画や写真は欠かせない。クリミア戦争で活躍したナイチンゲール,そして“大改革”を行ったアレクサンドル2世について扱う際は,教科書p.122に掲載されている人物コラムを活用する。デジタル教科書には人物クイズも収録されているので,拡大された肖像とともにその人物に関するヒントを表示し,人物の名前を生徒に答えさせたい(図3)。

    デジタル教科書のアレクサンドル2世の人物クイズでは,アレクサンドル2世の足もとにひざまずく農民の姿まで見ることができる。これを利用して,農民にとって皇帝は「神」に等しい存在であることを説明する。農民の自治組織を基盤に社会主義を実現しようとしたナロードニキだったが,農民の皇帝崇拝などにさえぎられて運動が挫折していったことにつなげる。

    ・前時のふり返り授業後,ノートを見ても何が書いてあるのか,

    さっぱり要領を得ないという生徒が少なくない。そこで,授業前にノートを見ながら前時の学習内容を発表させるようにすることで,あとから見ても内容がわかるようなノートづくりをうながしている。また,授業終了5分前には,準拠ノートを使用して本時の内容を復習するようにしている。・スライド移行時の注意

    PowerPoint®を使った授業を,生徒たちはおおむね肯定的に受けとめている。その一方で,授業

    指導上の留意点4

    が「速い」と感じている生徒もいる。ぼんやりしているとノートに書き写す前に次のスライドに移行してしまうからだ。次のスライドに移行する前に,「次にいっても大丈夫?」などと一声かけ,写しそこなうのを防いでいる。・ノートのとり方

    意欲が低く,いつも寝てしまう生徒がいた。その生徒は1・2学期とも定期テストの得点が平均点の半分以下で,授業の内容はほとんど理解できないということだった。授業のアンケートには,

    「スライドではなく板書してほしい」と記してきた。その生徒はひどく乱雑にノートをとっており,どこに何が書かれているのかわからなかった。そこで,ノートのとり方が上手い生徒のやり方を参考にアドバイスをした。まず,ノートを縦に二分して,左側にスライドの記述を記入する。そして右半分の余白はわからない語句を調べるなど,復習に利用するよう指示した(図4)。すると,この生徒は学年末テストで平均点近くまで得点をのばすことができた。高校生ともなればノートのとり方を自分で工夫できる生徒は多いが,勉強に苦手意識をもつ生徒には,PowerPoint®を使用した授業スタイルに応じたノートのとり方を教えることによってつまずきが解消され,主体性や学習への意欲が芽生えることもあると教えられた。

    今年度から,4月の初めの授業でノートのとり方についての説明を取り入れた。1学期の中間テストが近づいてきたある日のこと,授業前に最前列の席の生徒が,「見て,見て,先生。すごく頑張ったんだから」と,右側の余白に猿人の絵などをかき込んだノートを見せてきた。その生徒は得意そうに,そして楽しそうに自身の努力を語ってくれ

    生徒の主体性の芽生えに思うこと5

    図2 『明解 世界史A』p.123「②ロシアの領土拡大」を表示したデジタル教科書の画面

    図3 アレクサンドル2世の人物クイズ(解答・解説)

  • 2│世界史のしおり 2018②

    た。「主体的・対話的で深い学び」のために必要な「主体性」は,生徒の「わかる」「できる」という喜びのなかから芽生えるのではないだろうか。「アクティブ・ラーニング」というと,グループ

    学習をイメージしがちである。生徒が集団で授業の内容について語り合うと,生徒の学習活動が

    「静」から「動」に移るので,活発に学習に取り組んでいるかのような印象を受ける。だが,「他者と会話」することが「対話的な」学習になるとは限らない。他者から正解を聞いて終わりでは,思考は深まらない。「これってなんだろう」と自分に問いかけ,ま

    ず調べてみる。これが学習の基礎だ。それを手がかりに,さらに知識を深めていく。その過程で他者との討議で思考を深めることになる。

    もっとも,語句を調べようにも,索引の使い方さえ身についていない生徒もいる。そこで,ノートのとり方を説明する際,実際に索引を使って調べさせている。とくに大学教育を受けるにあたって不足している基礎的知識を補う「リメディアル教育」というものがあるが,小学校や中学校での

    積み残しをなるべく早期に解消することは,本校のような学力差の激しい高校では重要であると考えている。

    ルワンダは1994年に起きた大虐殺事件で荒れ果てたイメージをもつ国だが,近年「アフリカの奇跡」とよばれるほど,急速な発展をとげている。IT立国をめざす政策により,初等教育の段階でタブレットPCを活用している。

    日本では,「『デジタル教科書』の位置付けに関する検討会議(文部科学省初等中等教育局主催)」の「最終まとめ」によると,デジタル教科書は原則として紙の教科書と併用することとしているが,将来,生徒たちは教科書や資料集のかわりにタブレットPCなどでデジタル教材を使って学習するようになるかもしれない。本県でも,全教室にプロジェクターの設置を計画しているようである。

    本校には14台のタブレットPCが用意されているが,一クラス40人の生徒がそれぞれに調べ学習をするのに使うとなると数がたりない。生徒一人ひとりがタブレットPCをもてば,多くの教材をより手軽に利用することができる。東京都内の小学校で,児童が毎日どのくらいの荷物を学校にもってくるのか調べたところ,その重さは平均7.7kgにも及んだそうである。教材のデジタル化は,児童生徒の体への負担軽減にもなるだろう。

    しかし,教材の完全なデジタルへの移行はよいことばかりではないように思う。「デジタル教科書を使うようになると,鉛筆を使わないようになるのではないか。それでは,どうやって授業の内容を覚えたらいいのかわからない」と不安を口にした生徒がいた。確かに,スライドを見るだけでは学習にはならない。鉛筆とノートを使った,従来どおりの学習活動も必要だろう。デジタル教科書を活用したこれからの授業のあり方を,日々追究していきたい。

    デジタル教科書を使ったこれからの授業のあり方6

    【参考資料】 ・「デジタル教科書」の位置付けに関する検討会議の「最終

    まとめ」http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/110/houkoku/1380531.htm

    図4 ノートのとり方を指導した生徒のノート。左半分はスライドの内容を書き,右半分は次時の冒頭での発表も想定した復習に使用している。

  • 世界史のしおり 2018②│3

    本稿は,生活必需品の塩を主題とした世界史Aの授業案(1時間)である。授業は,生徒への発問を軸にした。当該の時代や社会を扱う際に,各小問を利用していただくのも有意義であろう。

    「鹽」の読み方は?日本では,縄文時代より海水を煮つめて塩をつ

    くっており,奈良時代からは塩田で塩がつくられていた。9世紀の東大寺には「塩木山」という荘園があった。製塩用の薪を供給するための荘園で,塩田とほぼ同じ面積であった。日本の塩田は,時代とともに揚浜式・入浜式から流下式へと改良されたが,1972年の法改正で,工場でのイオン(交換)膜法による製塩に切りかえられている。

    一方,中国は広大な国土に比して海岸線の総延長が日本の3分の2しかなく,海岸から遠い内陸部の塩湖や井塩(塩分の濃い井戸水)は貴重だった。とくに山西省の解池は中原唯一の塩湖で,夏王朝はここに都をおいたとされている。そして長安・洛陽には解池の塩が供給されていた。塩の正字である「鹽

    しお

    」の鹵ろ

    は岩塩を表しているという。世界全体では海水由来の塩は少ない。現在1年

    間で約2億9000万tの塩が生産されているが,大半は岩塩や塩湖などからの採塩である。

    メソポタミアでは,灌漑の利用によって農業生産が増大した。当地での灌漑の目的は何か?

    湿潤な地域では,渇水期に降水の不足分を補うことが灌漑の主目的である。しかし降水量よりも水分の蒸発散量が多い乾燥地域では状況が異なる。

    はじめに1

    《導入》 塩の生産2

    《展開1》 塩と環境3

    土壌中の塩分を含んだ水が毛細管現象(液体に細い管を入れたとき,管のなかの液体が外の液体の水平面より高く,または低くなる現象)によって地表にまで上昇し,蒸発したあと,残された塩分が農作物の発育に悪影響を及ぼすからである。したがって乾燥地域での灌漑は,給水のみならず,地表の塩分を洗い流すためにも重要であった。

    しかし,それでもメソポタミアではウル第3王朝の末期(前21世紀ごろ)に,収穫量が低下し,栽培品種が小麦よりも耐塩性の強い大麦にかわっていく(ちなみに,稲は小麦よりもさらに耐塩性が弱い)。当時の粘土板には「耕作地が白くなる」という塩害の記録が残されている。

    また都市文明の進展に伴って,鉄・塩・れんがの需要が増大した。これらを生産する過程で大量の薪炭が消費され,ティグリス川上流地域の森林破壊が進んだ。そして保水力を失った山間部より洪水時に大量の土砂が流出し,下流の耕作地に堆積した。こうして灌漑が機能不全となり,塩害が深刻になったと推測されている。

    西アフリカの塩金交易での一般的な隊商(キャラバン)のラクダの頭数はどれぐらいか?

    7世紀ごろ,アラブ人がサハラ縦断交易にラクダを導入した。そして12〜16世紀にかけてニジェール川流域のガーナ・マリ・ソンガイの3王国では,ムスリム商人がもたらす塩の対価として砂金を支払う塩金交易が行われた。

    14世紀のイブン=バットゥータの『大旅行記(三大陸周遊記)』によれば,一般的な隊商のラクダの頭数は1000程度,ときには数千頭の隊商もあったという。隊商の旅は冬の6か月間で,夏は休みとなる。例えば,現マリ共和国の岩塩鉱山のタウ

    《展開2》 塩と交易 4

    塩加減の世界史大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎 笹川裕史

    日本と世界をつないだ “もの”

  • 4│世界史のしおり 2018②

    デニから700km南のトンブクトゥまで片道3週間で,大人のラクダは平均4枚の塩板(約120kg)を積荷としていた。

    ヴェネツィアの街区(区画)の起源は何か?10世紀のヴェネツィア人は,ラグーナ(潟)の

    塩田でつくられた塩を,内陸の諸都市に販売していた。やがて彼らは,ライバル都市の塩田を破壊して,ヴェネツィアの塩だけを購入するよう周辺地域に義務づけた。ヴェネツィアは,網目のような運河によって街区が形成されているが,それはかつての塩田の区画とそっくりだという。

    しかしラグーナの塩田は,河川の洪水や海水の侵食に対して脆弱だった。14〜15世紀,ヴェネツィアは塩田を放棄し,かわりに他国の塩田を数多く支配した。塩の独占販売で巨利を得たのである。

    英語の給与“salary”の語源は何か?紀元前107年のマリウスの軍制改革によって,

    古代ローマの兵士は,志願制となり給与として“s

    サール

    al(ラテン語の塩)”を受け取った。これが“salary”の語源である。のちに塩と同額のソリドゥス金貨が支払われたことから,兵士を英語で“soldier”とよぶようになったという説もある。

    唐では,758年の専売制によって,それまで1斗(約6ℓ)10銭であった塩価はどうなったか?

    中国の歴代王朝は,民生と財政の安定のために

    《展開3》 塩と権力5

    塩政を重視した。ここでは,漢・唐・元の3つの王朝のできごとを簡単に紹介しておく。

    紀元前119年, 漢の武帝は塩と鉄を専売とした。外征による財政悪化の改善と豪商の勢力抑圧が目的だったが,成果は十分とはいえなかった。武帝の死後,法家と儒家の間で専売制の是非が議論され,『塩鉄論』にその経緯がまとめられた。

    唐では758年,安史の乱による財政悪化を改善するため塩の専売が始まった。その直後に価格10銭の塩が110銭とされたが,それは序の口であった。782年に210銭,788年に310銭,地域によっては370銭に値上げされた。塩価が“高騰”するなか,各地に現れた密売業者(塩徒)は,塩を“半額”で売ってばくだいな利益を得た。また民衆も塩徒を歓迎し,積極的に支援した。875年の黄巣の乱に多くの民衆が加わり,唐の滅亡の一因となったゆえんである。黄巣の乱のほかにも,のちの各王朝では,塩徒の関係する反乱が数多く起きていく。

    元の中央財政は,農作物の税収よりも専売収益と商業税を重視した。とくに塩の専売収益は財政の5〜8割に達した。政府は,塩引(塩の販売許可証)を商人に売却して利益を得た。例えば1276年に1枚9貫だった塩引が,1329年ごろには150貫に急騰していた。塩引は宋代より利用されていたが,元は,銀と連関させることで塩引を事実上の高額の補助通貨としたのである。

    〈図3〉のガンディーは,このあとイギリスの官憲によって逮捕された。その理由は?

    イギリスの植民地インドでは,19世紀初めに国内の製塩業が崩壊した。東インド会社が綿布を運搬するときに船のバラスト(重し)として用いた塩の価格がインド産の塩より安かったためである。

    〈図2〉塩引 (『最新世界史図説 タペストリー 十六訂版』p.113②)写真:シーピーシー・フォト

    〈図1〉ムスリム商人とマンサ=ムーサ 塩が金と同じ重さで取り引きされたという。マリ国王マンサ=ムーサは,メッカ巡礼時に各地で大量の金をふるまった。(『最新世界史図説 タペストリー 十六訂版』p.131②)写真:ユニフォトプレス

  • 世界史のしおり 2018②│5

    その後,インドに輸入される塩を独占するようになったイギリスは,インドに対し過酷な塩税を課した。1860年代には塩税は当初の20倍になった。1920年代中ごろの塩税収入は6300万ルピーで,インド政府全体の歳入のほぼ3%を占めていた。「塩税は権力の濫用だ」と考えたガンディーは,

    1930年3月12日にアーメダーバードから,80人弱の支持者とともに海岸に向かって歩き出した。4月6日早朝,数千人にふくれ上がった民衆の前で,ガンディーは浜辺の塩と泥のかたまりを手にとり,煮はじめた。そしてその一部始終をマスコミが世界に報道していたのである。

    ダンディー海岸までの386kmのこの「塩の行進」は,民族や宗教の違いをこえて,インド人を一つにまとめる非暴力・不服従の抵抗運動となった。大勢の人々がガンディーを見習い,「製塩」を始

    めた。イギリスは4月末までに数千人を逮捕し,ついに5月初めにはガンディーも逮捕されてしまう。

    だが翌1931年,イギリスは,インドでの製塩を認めた。塩の行進は,インドのイギリスからの独立運動の重要な転換点となったのである。

    前近代の社会において,調味料以外にも塩の重要な使い道があった。それは何か?

    世界各地で,宗教儀式と塩は密接に結びついている。だが日常生活で最も重要な用途は食品保存

    (塩蔵)であろう。食材を塩分濃度の高い状態におけば腐敗が防げる。魚介類の塩辛や野菜のつけ物は,代表的な塩蔵品である。塩蔵の始まりは,

    《整理》 塩と産業6

    農耕の開始とほぼ同じ時期と推測されている。14世紀初めにフランドルで始まったとされるニ

    シンの樽づめは,たんぱく質の豊富な食品を保存する点で画期的だった。塩とニシン貿易でハンザ同盟は繁栄した。また「アムステルダムは,ニシンの樽づけで築かれた」ともいわれている。

    大航海時代の船乗りの胃袋を満たしたのは,ニシン・タラの塩づけやハム・ベーコン・ソーセージ(畜肉の塩蔵品)であった。こういった食料の保存技術がヨーロッパの世界進出を支えていた。

    2016年度の日本における塩の年間消費量800万tのうち,食用に使用されたのは,およそ「100万t・200万t・500万t」のどれだろうか?

    日本国内の塩の生産量は93.8万t(世界33位)で,それらはほぼ食用にあてられている。日本の塩の自給率は12%で,不足分はメキシコやオーストラリアから大量に輸入している。消費量の75%

    (約600万t)はソーダ工業用で,また約100万tの塩が融雪剤や家畜の飼料に利用されている。

    化学の発展に伴い,工業分野での塩の利用が19世紀に本格化した。価格の急落も,塩の入手を容易にした。むしろそれ以前は,意図的に塩の生産量を抑え,希少品としての高い売値と塩税を正当化していた可能性があるという。

    塩は,水にとかして電気分解すると塩素と水酸化ナトリウムに分かれる。そして前者からは,塩化ビニール製品や消毒薬・薬品などが,後者からは,石鹸や洗剤・漂白剤など,さまざまなものが製造されている。今や塩は,食用にとどまらない,現代社会に不可欠な物質となっているのである。

    【おもな参考文献】・片平孝『サハラ砂漠 塩の道をゆく』(集英社,2017年)・佐藤洋一郎・渡邉紹裕『塩の文明誌 人と環境をめぐる

    5000年』(日本放送出版協会,2009年)・R・P・マルソーフ著,市場泰男訳『塩の世界史』(平凡社,

    1989年)・マーク=カーランスキー著,山本光伸訳『「塩」の世界史

    歴史を動かした,小さな粒』(扶桑社,2005年)・佐伯富『中国塩政史の研究』(法律文化社,1987年)・ピエール=ラズロ著,神田順子訳『塩の博物誌』(東京書

    籍,2005年)

    〈図3〉塩の行進 沿岸で塩を採取するガンディー。(『明解 世界史A』p.171④)写真:ユニフォトプレス

  • 6│世界史のしおり 2018②

    『倭寇図巻』をめぐるなぞ『倭寇図巻』はかつて東京にあった書店・文求堂が中国で購入したと伝えられ,1923年以前に東京大学史料編纂所の所蔵となり現在にいたる。縦32cm,横523cmに及ぶ長い画面中では,右側から倭寇,左側から隊列を組んだ明軍が進行する。右から約3分の2の場面で両者の激しい戦いが繰り広げられ,明軍の勝利で終幕する。右上および付録の図は,画面右側から船に乗ってやってきた倭寇が上陸し,これから掠奪を行う内地のようすをうかがっている場面である。中央に描かれた岩山の先端に2人の人物がおり,1人がもう1人の肩の上に乗り,右手をあげながら遠くをながめている。色あざやかな樹木が茂った岩山の周囲には日本刀や長槍,さらには鉄砲のような武器を手にした人物がつどう。描かれた人物たちは月

    さか

    代やき

    をそっているが髷まげ

    を結っている者はほとんどいない。文様入りの色とりどりの着物をまとっているが帯はつけておらず,たけの短い着物から露出した足ははだしである。描かれた人物たちのこのような姿から,本作は日本に鉄砲が伝来して以降の後期倭寇を描いたものと考えられ,歴史の教科書などで倭寇を説明する際にしばしば用いられてきた。しかし実際のところ,上記のような解釈も描かれた内容にもとづく推測にとどまるもので,本作が描かれた意図もよくわかっていなかった。文字の解読と類例の発見2010年,東京大学史料編纂所の調査により,『倭寇図巻』に描かれた旗に「弘治四年」や「大明神捷海防天兵」などの文字が書かれていることが明らかになった。「弘治四年」は1558年に当たる。「大明」は明朝である。この発見によって,本作が16世紀後半の後期倭寇と明の交戦,そして明軍の勝

    利を描いた図巻であることが決定的となった。さらには中国国家博物館に本作と構成をほぼ同じくする『抗倭図巻』が所蔵されていることも判明し,これまで倭寇を描いたほぼ唯一の彩色絵画とされてきた本作が,中国においてある程度流布した画題であった可能性が想定されるにいたった。「蘇

    そ州しゅう片へん」としての再評価

    従来,本作は明末清初(17世紀末)に呉派文人画風が民間に浸透していく過程で民間画家によって描かれたと考えられてきた。しかし,上述の『抗倭図巻』のような類例の存在が判明したことにより,『倭寇図巻』は明末(17世紀前半)に蘇州周辺で多数つくられた名作絵画の模本の1つである可能性が新たに提起された。このような模本は「蘇州片」とよばれ,当時の骨董市場の隆盛を背景に登場したと考えられている。「蘇州片」の特徴としては,あざやかな青緑を用いた濃厚な彩色や細緻な筆致があげられており,『倭寇図巻』にみえる青々とした葉を茂らせる樹木の表現などと一致する。なお,「蘇州片」は『倭寇図巻』のような画題に限ったものではなく,北宋の都・開封のにぎわいを描いた『清明上河図』の「蘇州片」も複数あることが知られており,わかりやすい世俗的な画題が好まれたようである。以上の点をふまえて『倭寇図巻』をとらえるならば,倭寇への明軍の勝利による平和な生活の復活を画題として,明末の人々の間で受容されたとみることができる。不自然な着物をまとう倭寇の姿には,明末の人々が抱いた「倭寇イメージ」が投影されているのである。

    東海大学教養学部非常勤講師 林 佳美

    『倭寇図巻』に関する近年の新研究

    アートにみる日本と世界の結びつき

    解説

    倭わ

    寇こ う

    図ず

    巻か ん

    【参考文献】 ・須田牧子編『「倭寇図巻」「抗倭図巻」をよむ』(勉誠出版,2016年)・東京大学史料編纂所編『描かれた倭寇 「倭寇図巻」と「抗倭図巻」』(吉川弘文館,2014年)

    東京大学史料編纂所所蔵

    付録といっしょに

    ご覧ください!

  • 世界史のしおり 2018②│7

    イメージとして教科書類にはのっているが,絵画史料としての価値は確定していない,そのような図版は少なくない。『倭寇図巻』もその一例であったが,この図巻が今,研究者の間で大きな脚光を浴びている。解説にもあるように,中国で『抗倭図巻』が発見され,その比較研究から図巻の設定年代・テーマや制作時期がほぼ明確になってきたのである。すなわち,この図巻は日本の弘治4年=1558年のできごととして描かれているが,この年は,浙江総督胡

    宗そう

    憲けん

    が倭寇の頭領で海商でもあった王直を獄に入れた年でもあり,猛威をふるった“嘉

    靖せい

    大倭寇”の終幕を告げる戦勲図の普及版=「蘇州片」の1つとして,日本に伝わっていたことが判明した。生徒にはなじみの「戦闘図」を『明解 世界史A』p.66で確認し,図巻全体の流れを簡単に説明したうえで,今回の「形勢観望」の場面を提示して,ここから後期倭寇に関して何が読み取れるのか考察していくことにする。まずは,岩の上で倭寇の1人の肩の上にもう1人が長槍を支えに乗り,手をかざして全体を見わたしている(①)が,この場面こそ中国が所有する『抗倭図巻』との共通性を見いだす契機となったことを指摘する。このあと,左側ではどのような動きを描いているのかを,生徒に議論してもらう。ここで,太田弘毅氏らの研究を参考に,授業者の推測を披露して生徒と楽しみたい。そのかぎとなる人物が,樹木に隠れて見つけ出しにくいが,赤縁三角旗を持った倭寇の右側で,白い扇で口元をおおっている男(②)である。指揮をとる頭目かもしれない。赤縁三角旗を持つ男の左側には,日本式の弓矢を持つ者,鉄砲らしきものを持つ者(③)が,日本刀を持った多くの倭寇構成員とともに描かれている。さらに左に進むとホラ貝を吹いているメンバーもおり,もしかしたら二つの三角旗を目印に召集をかけているのではないかとも考えられる。先ほどの頭目と思われる人物は白い扇を名簿がわりに出欠を確認しているのかもしれない。この描写にみられるように,日本刀や軍

    ぐん

    扇せん

    は倭寇の海賊行為を象徴する軍用品であり,後世,倭

    寇を描く絵では一種の記号となった。“嘉靖大倭寇”のなかで倭寇が沿海地方から内地にまで入り出すと,彼らの使う日本刀の怖ろしさが伝わり,日本刀を明軍の武備に取り込もうという動きが始まった。1561(嘉靖40)年,倭寇討伐で知られる戚せき

    継けい

    光こう

    将軍は戦時に「影かげ

    流りゅう

    之目録」(日本兵法の伝書)を手に入れ,明軍の武術に取り込んだといわれている。「影(陰)流」は日本では後世に伝授され,江戸時代には柳生新

    しん

    陰かげ

    流りゅう

    として徳川家採用の剣術となっていったことはよく知られている。③の部分は,従来,図巻が後期倭寇を描いていることの証拠の1つとされてきた。しかし研究により設定年代が判明したため,現在は一歩進めて,図巻全体で鉄砲らしきものの描写は③の1か所だけであることから,倭寇も明軍も「鉄砲」を本格的に使用していなかったことの証左であると村井章介氏は発言している。今回生徒から予想される質問の1つが,図中左側,白縁三角旗(④)の紋様である。この赤円中に描かれた鳥の図柄は一体,何を示しているのか。拡大すると,鳥はどうやら中国の「三

    さん

    足そく

    烏う

    」に由来し,東アジア世界に広く伝播した日輪紋様の鳥で,日本では神の使いとしての「ヤタガラス」に当たるもののようである。ここからはまったくの素人の思いつきにすぎないが,後期倭寇に,王直ら中国人海商に雇われた日本人傭兵軍事集団=「真倭」として参加したといわれる紀伊水軍などが,信仰する熊野三社の神紋を合図の旗に使い,それが画面に反映されているのではなかろうか。実は図巻冒頭の倭寇船団の場面でも先頭の船先には似たような三足烏紋様の旗が描かれているのである。もしかしたら近くの「鉄砲」の描写も紀伊水軍と関係があるのかもしれない。三足烏紋様も含めて,美術史家ほか専門歴史家による今後の研究の進展を望んでやまない。高校で歴史教育にたずさわる者として,その成果を,16世紀東アジア海域世界の形成と変動という文脈のなかで,“海”からみえてくるグローバルでボーダーレスな歴史として生徒に伝えたいと願っている。

    絵画史料としての『倭寇図巻』の可能性─「形勢観望」の場面を中心に─

    福岡県立中間高等学校 今林常美

    授業活用例

    ※文中の①〜④は,付録「概略図」中の丸数字と対応しています。

  • 8│世界史のしおり 2018②

    近年,世界的に移民や難民が増大している。日本もまた,外国人労働者の受け入れをめぐる議論が進展し,実質的に移民を受け入れる方向にかじを切ったと指摘されることもある。外国に起源をもつ人との共生の実現は,重要な課題である。アメリカ合衆国(以下,アメリカ)は建国以来多くの移民を迎え入れてきた。今日も年間70万人の合法移民を受け入れており,国内に1000万人をこえる不法移民が居住している。本稿では,アメリカの歴史の紹介を通して,上述の問題について考えるきっかけを提供してみたい。移民政策は多様な利益や理念がぶつかり合う。アメリカは,ヨーロッパの君主制や宗教的迫害からのがれてきた人々がつくりあげた移民の国という自己認識をもつため,移民や難民の受け入れに積極的であるが,イギリスを中心とするアングロ・プロテスタントの入植者が基盤をつくりあげた国でもある。移民がその文化を受け入れるかどうかわからないことが,移民への反発心を生み出す。経済面に関しては,安価な労働力を提供する移民に対し,企業経営者が高評価を与える一方,労働組合は批判的である。外交,安全保障に関しては,冷戦期には,資本主義陣営に引き入れたい国からの移民や,共産主義圏からの難民は積極的に受け入れられた。他方,2001年の同時多発テロ事件以降,移民受け入れは安全保障上の脅威になると議論されることもある。一般論としては,アメリカ人が政治社会の安定に自信をもち,経済的繁栄を信じるときには開放的な移民政策が採用される。逆に,政治社会が動揺し,不況が見舞うと,移民は嫌悪されるのである。

    今日の移民法の大枠を規定しているのは1965年

    1924年移民法と1965年移民法

    移民法である。同法制定の主眼は,1924年移民法の原則をくつがえすことにあった。1924年移民法は,移民数に制限を設けるとともに,1890年の人口統計調査における外国生まれの人口を基準として,元国籍を同じくする集団に移民枠を按

    あん

    分ぶん

    していた。第一次世界大戦中,労働力不足に対応するために南部の黒人が北部の都市に移住した。大戦後,兵士の帰還と機械化のために労働力が過剰となったことが,移民制限の機運を高めたのだった。同法が1890年のデータを基準としたのは,19世紀の国民の大半がプロテスタントだったのに対し,1890年以降,東・南欧からユダヤ系やカトリックを中心とする移民が大量に流入したからである。1917年のロシア革命以降に東欧からきたユダヤ系のなかには,共産主義に共感する人もいた。異教と共産主義からアメリカを守れという主張が強まるなか,1924年移民法は制定されたのだった。だが,第二次世界大戦を経て移民のアメリカ社会への定着が進むにつれて,元国籍主義に対する批判は強まっていった。冷戦の開始に伴って,自由主義勢力を拡大しようとするアメリカが,味方にしたいと考える地域からの移民を拒むのも問題だと考えられた。移民法改定を提唱したのはアイルランド系でカトリックのケネディ大統領だった。ケネディ暗殺を受けて大統領に就いたジョンソンは,1965年移民法の成立を導いた。同法は,人種,性別,国籍などに関係なく移民査証を発行すると定め,高技能者と,アメリカの居住者と近親関係にある人を優先的に受け入れると定めた。その結果,大量のアジア系と中南米系の移民が流入したが,それは新たな反移民感情を引き起こした。

    アメリカは伝統的に自らを西半球の盟主と位置

    中南米系移民

    移民国家アメリカ合衆国に学ぶ共生成蹊大学 教授 西山隆行

  • 世界史のしおり 2018②│9

    づけてきた。中南米諸国はアメリカに安価な労働力を供給しており,長い間メキシコとの国境警備もほとんど行われていなかった。中南米からの移民が増大したのは,1965年移民法で定められた離散家族再結合原則と,合衆国憲法が採用する出生地主義原則のためである。アメリカ国籍を取得した移民が申請すれば,その家族は市民権を得やすくなる。また,憲法の規定上,不法移民や外国人の間にできた子供でも,国内で生まれた人にはアメリカ国籍が与えられる。彼らが21歳になると家族を呼び寄せて合法的に居住できるようになる。アメリカに行った移民が移民送出国にもたらす外貨は魅力なので,近年では二重国籍を認める中南米諸国が増えている。その結果,いずれ出身国に帰国することを想定して,子供にスペイン語で教育を受けさせようとする中南米系移民もいる。アメリカは英語を公用語と定めているわけではなく基礎教育を英語で行わなくてもよい。多くの学区で校長を選挙で選ぶことが,学校教育と移民の関係をめぐる議論を複雑化している。移民問題は党派を横断する争点である。民主党内では,中南米系の票獲得をもくろむ政治家は移民に友好的な立場をとるが,労働組合に近い者は敵対的な態度をとる。共和党についても,賃金低下をもくろむ経営者層に近い者は移民を歓迎するが,移民がもたらす社会的混乱に不安を感じる人々から選出された議員は移民に厳格な態度をとる。このような状況で移民改革を達成するには,超党派的な連合を形成する必要がある。それには,一定数の不法移民への合法的地位付与と,以後の不法入国を防止するために国境警備の強化が必要となり,レーガン政権以降,いく度も試みが行われてきた。だが,合法的地位を与えられた人の多くが民主党支持にまわったこともあり,共和党のなかで国境取り締まり強化のみを実施するよう主

    張する人が増えている。これが,移民に批判的な立場をとるトランプの背景にあるのである。アメリカでは2050年までには中南米系を除く白人が全国民中に占める割合が50%を下まわると予想されて

    いる。こうしたなかで,二大政党ともにマイノリティ票の獲得をめざして改革を求められるようになるだろう。

    すでに国内に居住する不法移民にどう対処するか,また,合法移民にどう対応するかは,移民国家アメリカに大きな問題を突きつける。連邦制に伴う問題も,移民との共生をめぐる問題を複雑にしている。移民の出入国を決定する権限は連邦政府がもつが,その判断にしたがって(あるいはそれを破って)入国したあとの合法・不法移民に直接対応するのは州や地方政府だからである。移民に対応するための予算を連邦政府が十分に提供しないため,移民が多く居住する州・地方政府のなかには,過大な負担にさいなまれるところも出てくる。やってきたばかりの移民には,一定の財政支援が必要になることも多いためである。だが,移民人口の増大は長期的には経済にプラスの影響をもたらすことが明らかにされている。また,移民がもたらすとされる社会問題は,実際には過剰な心配であることが多い。例えば,移民増大は犯罪をもたらすという指摘があるが,実際は移民,不法移民の犯罪率は低い。アメリカの刑務所内で移民の比率が高いのは,刑事法に違反しているからではなく,入国管理関連の法律に違反しているからである。また,移民が福祉を濫用するという議論があるが,アメリカでは1996年の法改定で,移民は原則的に公的扶助を利用できなくなっている。年金受給には10年の納税が必要である。移民が福祉を濫用することは不可能だ。日本でも外国に起源をもつ人口が増大している。日米では制度的前提が異なる点も多いが,アメリカの移民の歴史を学ぶことは,日本にも多くの示唆を与えるはずである。

    アメリカに学ぶ共生のポイント

    未来へ活かす世界史

    『最新世界史図説タペストリー 十六訂版』p.278 写真:PPS通信社

  • 10│世界史のしおり 2018②

     

    次 期 学 習 指 導 要 領 の 動 向

    1.「歴史総合」の性格と内容構成⑴ 性格新必履修科目である「歴史総合」の基本的性格について,中央教育審議会答申(平成28年12月)は,「歴史の推移や変化を踏まえ,課題の解決を視野に入れて,世界とその中における日本について,現代的な諸課題の形成に関わる近現代の歴史を考察する」科目であると述べている。こうした説明からは,より具体的に科目の三つの特徴を導くことができよう。第1は,現代的な諸課題の解決を視野に入れて学習課題を設定し考察する科目であること。第2は,変化や推移を視点にして,近現代の「(マ

    クロな)社会」の歴史的変動過程を中・長期的な時代区分により考察する科目であること。第3は,現代的な諸課題の形成にかかわる近現代の歴史を,「世界」・「日本」・「地域」の重層的な関係に着目して考察する科目であることである。

    ⑵ 内容構成高等学校新学習指導要領(平成30年3月告示)に示された「歴史総合」の全体構成を,表1に示した。そこから読み取れる内容構成の特徴を,先に概括して述べれば,生徒たちが,近現代の社会の歴史的変動過程とその中での現代的な諸課題の形成過程を,概念的に考察・理解できるように学習内容が構造化されているということである。具体的には以下の3点を指摘することができる。第1は,大項目に着目して,近現代の社会の歴史的変動過程をとらえるための枠組みとして「近代化」(18世紀後半~現在),「大衆化」(19世紀後半~現在),「グローバル化」(20世紀後半~現在)が用いられ,これら三つの転換を経て形成されてきた現代社会の諸課題を,学習の主体である生徒たちが,「現在」を生き「未来」を拓いていく「私たち」の問題として考察していくように内容が構成されていることである。

    第2は,中項目およびそこに配置された学習内容〈アイで表記〉に着目して,時代の社会の特質を概念で理解・説明できるように内容が構成されていることである。例えば,大項目Bでは,「近代化」という大概念を説明するために,下位概念として「工業化」「世界市場」「政治変革(市民革命や国民統合)」「国民国家」「立憲体制」「帝国主義」などが選

    鳴門教育大学大学院学校教育研究科 教授 梅津正美

    新科目「歴史総合」の性格と実践課題

    A 歴史の扉⑴歴史と私たち⑵歴史の特質と資料

    B 近代化と私たち⑴近代化への問い⑵結び付く世界と日本の開国 ア18世紀のアジアの経済と社会 イ工業化と世界市場の形成⑶国民国家と明治維新 ア立憲体制と国民国家の形成 イ列強の帝国主義政策とアジア諸国の変容⑷近代化と現代的な諸課題

    C 国際秩序の変化や大衆化と私たち⑴国際秩序の変化や大衆化への問い⑵第一次世界大戦と大衆社会 ア総力戦と第一次世界大戦後の国際協調体制 イ大衆社会の形成と社会運動の広がり

    ⑶経済危機と第二次世界大戦 ア国際協調体制の動揺 イ第二次世界大戦後の国際秩序と日本の国際社会への復帰

    ⑷国際秩序の変化や大衆化と現代的な諸課題D グローバル化と私たち⑴グローバル化への問い⑵冷戦と世界経済 ア国際政治の変容 イ世界経済の拡大と経済成長下の日本の社会⑶世界秩序の変容と日本 ア市場経済の変容と課題 イ冷戦終結後の国際政治の変容と課題⑷現代的な諸課題の形成と展望

    表1.「歴史総合」の全体構成

  • 世界史のしおり 2018②│11

     

    択され構成されている。また,大項目Cでは「大衆化」の下位概念に「国際協調」「大衆社会」「社会運動」「恐慌」「総力戦」などが取りあげられているし,大項目Dでは「グローバル化」を説明するために「冷戦下の国際政治」「世界経済の拡大」「市場経済の変容(グローバル化)」「冷戦後の地域間連携・地域紛争」などが配列されている。第3は,現代的な諸課題の形成過程の考察とその解決に向けた展望を生徒の学習において実質化するために,大項目B・C・Dに中項目⑷を設けて,近現代の歴史と現代的な諸課題とのかかわりを考察するとともに,課題解決に向けた構想を議論する構成をとっていることである。現代的な諸課題につながる歴史的状況を考察するために「自由と制限」「平等と格差」「開発と保全」「統合と分化」「対立と協調」といった概念的な枠組みが例示され,それらを視点に学習の主題と内容の焦点化がはかられている。

    2.学習過程・方法の改善新学習指導要領では,学習過程や学習方法の組み立て(「どのように学ぶか」の手だて)について,「主体的・対話的で深い学び」の実現(「アクティブ・ラーニング」の視点からの授業改善)を求めている。すなわち,教師と生徒,生徒相互の関係のみならず,社会のさまざまな人々と双方向的に交流・対話しながら,概念・理論(いわゆる汎用的な知識)や情報,言葉を道具として活用し,課題の解決のために主体的・協働的に参画していく学習活動を展開していくことを求めているのである。生徒による「主体的・対話的で深い学び」を支えるのは言語能力であり,その能力を発揮させる言語活動である。「歴史総合」を含めて社会系教科・科目の授業における言語活動は,表2のような手順で展開していくことを考えることができる。①から⑥に向かう言語活動は,資質・能力における知識のレベルでは事実・情報などにかかわる知識の習得・活用→概念・理論にかかわる知識の習得・活用→価値・評価にかかわる知識の吟味・選択へ,思考・判断のレベルでは事実判断→推論

    →価値判断・意思決定→メタ思考(知識・思考のふり返り)へと生徒の学習が深まっていく過程に対応しているとみることができる。

    3.実践課題~授業改善のためのカリキュラム・マネジメント~新学習指導要領における高校地理歴史科・公民科の科目構成の大きな改変に対応して,担当教員は,「カリキュラム・マネジメント」という課題を担うことになろう。中等歴史教育に焦点化した場合に,少なくとも二つのレベルでのカリキュラム・マネジメントが要請される。第1は,一つの科目のレベルである。例えば,「歴史総合」について,2単位(70単位時間)設定で,科目の基本的な性格である「現代的な諸課題の歴史的(時間軸からの)研究」を展開していくためには,明確な主題にもとづく単元学習を組み立てていかねばならない。どのような主題をいくつ立て,日本史と世界史の内容をどのように融合し,「主体的・対話的で深い学び」のための学習を計画するのか,教員の受けもち方をどうするのか,などの課題をふまえてカリキュラムを設計していかねばならない。第2は,必履修・選択科目の接続のレベルである。中学校社会科歴史的分野の学習との連続性と発展性という観点から「歴史総合」のカリキュラムを構想する必要があろう。また,「歴史総合」の学習を,3単位(105単位時間)設定の選択科目「日本史探究」「世界史探究」のカリキュラム構成にどのように生かすのかという課題を考慮しなければならない。

    ①記述:社会的・歴史的事象に関する諸事実を正確に読み取り記述する。

    ②説明:見いだされた諸事実の関係を説明する。③解釈:諸事実の関係をふまえ,社会的事象の意味・意

    義や特色等を解釈する。④選択・判断:社会的課題に対応する解決策を,事実を

    根拠に選択・決定する。⑤論述:社会的・歴史的事象についての解釈や社会的課

    題に対する自分の主張(選択・判断)を根拠にもとづいて論述する。

    ⑥議論:根拠にもとづいてたがいの解釈や主張を論じ合う。

    表2.社会科系教科・科目における言語活動の手順

  • 12│世界史のしおり 2018②

    1344年,ホワイ川(淮わい

    水すい

    )流域は空前の干ばつに見舞われ,さらに追い打ちをかけるようにイナゴの大群と疫病が襲った。この災害で父母を失い,悲惨な状況に苦しむ貧農の青年が朱元璋(洪武帝)であった。食べていくために見習い僧となったが,すぐに寺の食料もついえて,乞食僧となった。一方,黄河では大雨が大洪水を引き起こし,元は大規模な治水工事に取り組んだ。そのための経費と人夫の徴用は民衆の不満を高め,集団労働によって各地で散発していた蜂起が大規模化する機会となった。河北・河南一帯で,活動していた白

    びゃく

    蓮れん

    教徒は,「天下大乱・弥勒仏下生」を唱え,リーダーの韓

    かん

    山さん

    童どう

    は自らを北宋の皇帝徽き

    宗そう

    の子孫と称して,紅巾の乱を起こした。

    乞食僧であった若き朱元璋は,元のスパイとして紅巾軍の一派につかまったが,この一派のリー

    ダーであった郭かく

    子し

    興こう

    に,魁偉な面相を気に入られ,兵卒となった。のちに皇帝となった朱元璋を,画工が一生懸命似せて描いたところ気に入ってもらえなかった。そこで,朱元璋の気持ちを忖度した画工が温厚そうな顔に描いたところ,大いに喜ばれたという。これが事実であれば,画工が忖度して描いたのが図1の上の画で,愚直に似せたものが下の画といえる。紅巾軍のなかで頭角を現した朱元璋は,郭子興の娘

    元末と紅巾の乱

    反乱軍の覇権抗争…魁偉な面相

    を妻とし,郭子興の死後,紅巾軍の一派のリーダーとなった。1356年,現在の南京である集慶路を占領し,西に割拠する他の紅巾軍をはじめとした他勢力との抗争を勝ちぬいていく。この抗争のなかで,地方政権の成立に動き,1368年,南京において皇帝と称し元号を洪武とした。明の成立である。

    朱元璋が入った紅巾軍の一派は,リーダーの郭子興は豪族出身であったが,幹部の多くは無頼上がりであり,流民による略奪集団に近かった。しかし,朱元璋がリーダーとなり,他勢力と争っていくなかで,秩序を重視するようになっていく。長江を渡り太平を陥落させたときには,敵であった元朝の長官を丁重に葬った。また,略奪を禁じ,違反した兵士の首もはねている。さらに,浙江地域を抑え政権の体裁が整うにつれ,統治のための官僚が必要になってくると,「浙東の四先生」とよばれる儒者に礼をとって,政権に参画させた。儒教的な正統主義を受容すると,紅巾軍の柱である白蓮教を「妖術の徒」として,韓山童の子である韓かん

    林りん

    児じ

    を殺害し,紅巾軍と手を切った。貧民出身で皇帝となった朱元璋は,民の困苦を身をもって体験したことを強調した。「今日の庶民の困窮は,ようやく飛びたったひな鳥,植えたばかりの木のようなもので,その羽を抜いたりその根をゆらしたりすることは許さない」として,悪徳官には厳罰でのぞんだ。また,富豪の土地を没収し,農民に小作させたりした。このように,儒教的正統主義の立場から,科挙制度や律令を整備するとともに,民を保護する「天命を受けた仁義ある君主」の性格が,図1上の肖像画に表れている。貧困農民を犠牲にして繁栄してきた都市や先進地域に対して,朱元璋は強い引き締め政策をとっ

    天命を受けた仁義ある君主

    横浜商業高等学校 智野豊彦

    明の成立から650年二つの肖像画をもつ皇帝

    人物から迫る歴史の真相

    図1 『明解世界史図説エスカリエ 十訂版』p.88「‥は、こんな人」 『明解世界史A』p.66にも同じ写真がある。写真:ユニフォトプレス

  • 世界史のしおり 2018②│13

    た。しかし,農民保護の政策は同時に農村の秩序を底辺から規制するものでもあった。明建国初期において,大規模な人口調査・土地調査を行い,賦ふ

    役えき

    黄こう

    冊さつ

    ・魚ぎょ

    鱗りん

    図ず

    冊さつ

    を作成し,里り

    甲こう

    制を実施したことはよく知られている。民を苦しめる不正官僚や地主は許さなかったが,民が主体となることを望んだわけではない。民は民の分を守り,儒教的秩序を厳格に維持させるために,刑罰だけでなく「六りく

    諭ゆ

    」をつくり,教化にも努めたのである。

    元では,中ちゅう

    書しょ

    省の出先機関である行こう

    中ちゅう

    書しょ

    省が,地方の軍政・民政を統轄していた。毎年行う財政報告に誤りがあった場合に,地方に戻って書類を書き直すのが大変なので,長官の印をあらかじめ押した未記入の用紙を用意して,その場で書き直すのが通例となっていた。これを地方長官の不正として突然摘発し,数千名の地方長官を処刑・左遷した。この「空

    くう

    印いん

    の獄」によって,大きな権限をもっていた行中書省を廃止し,行政を担当する布ふ

    政せい

    使し

    司し

    ,監察を担当する按あん

    察さつ

    使司,軍事を担当する都

    指し

    揮き

    使司を設置し,地方官の権限を分散して皇帝の地方支配力を強めた。さらに,中書省長官にあたる丞

    じょう

    相しょう

    を謀反の罪で逮捕し,連座した1万5000人を処刑した。これにより,中書省が廃止され,六

    りく

    部ぶ

    が皇帝の直轄となった。図2の「明の統治体制」が示す皇帝権力の強化をめざす制度改革は,大規模な粛清と結びついていた。その後も朱元璋は大規模な粛清を行ったが,それは制度改革だけが目的ではなかった。かつての同輩的な仲間が皇帝の座をおびやかす懸念や,知的エリートの儒学者が,成り上がりの自分を蔑視しているという不安が恐怖政治につながった。また,のちに建文帝となる皇太孫の允

    いん

    炆ぶん

    は幼く,自分の死後を配慮し,支配をおびやかす可能性のある者は抹殺していった。猜疑心により粛清を繰り返した朱元璋の性格は,図1下のあばた面の肖像画に表れている。

    朱元璋は,南方に基盤をおき南京を都として中

    猜疑心と恐怖政治の体現者

    明初と朱元璋の多面性

    国史上初めて華北をも支配した。モンゴルを駆逐して,漢族王朝を復活させた民族的英雄とみなす者もいた。しかし,北方では,元代の多民族的構成の社会や風紀が残っていた。モンゴル人も投降した者が多数おり,彼らは衛

    えい

    所しょ

    制に組み込まれていった。さらに,万里の長城以北の(北)元は,いまだ強力であった。このため,手薄な北方統治のために有力な子供を配置した。その中でも最も有能な第4子,のちに靖

    せい

    難なん

    の役を起こし永楽帝になる朱

    しゅ

    棣てい

    を燕王とした。朱元璋は,漢の劉邦と並んで,最下層から皇帝にまで上りつめた。清朝の順

    じゅん

    治ち

    帝は,この朱元璋を歴代の皇帝のなかで最高にすぐれていると評価した。清朝の考証学の趙

    ちょう

    翼よく

    は,「聖者と豪傑と盗賊の性格を兼ねそなえていた」と記述している。朱元璋は,この三つの性格が時間や出世によって順次現れたわけではない。皇帝になっても,盗賊の性格はひんぱんに顔をみせ,盗賊の時代にも聖者の素地は示されていた。このように多面的で複雑な人格をもっていたからこそ,覇権争いを勝ちぬき,中国の皇帝独裁体制を確立できたといえよう。2枚の肖像画によってわれわれは,多面性をもつ朱元璋の人物像をうかがえるのである。

    【おもな参考文献】 ・檀上寛『中国歴史人物選 明の太祖 朱元璋』(白帝社,1994年)・岸本美緒,宮嶋博史『世界の歴史(12) 明清と李朝の時代』(中央公論社,2008年)

    図2 『明解世界史図説エスカリエ 十訂版』p.88「②明の統治体制」

    図3 『明解世界史図説エスカリエ 十訂版』p.88「③永楽帝」写真:ユニフォトプレス

  • 14│世界史のしおり 2018②

    前号では,喫茶の文化が茶の発祥地である中国においてどのようにはぐくまれていったのかを,時代を追いながら紹介した。そこで今号では,茶がイギリスによって世界商品化されていく以前,すなわちイギリスで紅茶を飲む習慣が広がる18世紀より前の時代を中心に,中国ではぐくまれた喫茶の文化が中国から周辺の地域へどのように伝播していったのか,とくにユーラシア各地への拡散の様相について詳しく取りあげたい。さまざまな国や地域に受け入れられていく過程を追うことで,茶が世界のあらゆる地域へ浸透し,世界商品となりえた背景の一端がみえてくるのである。

    まず,前号でも少し触れたように,中国では唐代に喫茶習慣が大衆化していったが,この唐の喫茶習慣は,同時に,西域や朝鮮といったユーラシア東方の周辺地域にも拡散していった。9世紀には,ウイグルにも喫茶習慣が伝播したようであるが,中国周辺民族で最初に喫茶が日常生活に深く

    はじめに

    西域諸民族の茶馬貿易

    入りこんだのは,実はチベット族である。チベットでの喫茶の習慣は8世紀後半には始まっており,9~10世紀にかけて日常化し,11世紀には,茶は人々の生活の深くまで入りこんだ。茶が必需品となったチベットでは,宋からの茶の輸入が最重要課題であった。茶の見返りとして宋が馬を求めたため,チベット人は年間1万頭をこえる馬を飼育していた。11世紀以降(もしくはそれ以前から)チベット国家にとり,茶貿易のヘゲモニーはつねに中国側にあった。茶を通じ,チベットは中国に従属を余儀なくされていたといえる。

    一方,ユーラシア西方の地域に目を向けてみると,13世紀末の西アジアの支配者であるモンゴル王朝の宰相,ラシード=アッディーン(ペルシア人)の農業書『ケターベ=アーサール=ヴァエフヤー』には,茶は「モンゴル本家,中国の産物として重要」とあるものの,喫茶に関する記述は薄い。このことから当時,この地で喫茶習慣がなかったことが伺える。しかし,14~16世紀にモンゴル人支配層になんらかの形で喫茶習慣が流入したものと思われ,16世紀後半にはシルクロード経由で喫茶習慣が浸透し始めたようである。その背景は,中国茶の余剰の発生と,中国政府(明)の専売制度の瓦解による私貿易であろう。1638年,ドイツ・ホルシュタイン公国の使節団がサファヴィー朝の首都イスファハーンに派遣された。このときの書記官アダム=オレアリウスの復命書によれば,「コーヒーハウスは中級知識人のたまり場,茶館は名望家たちのたまり場」であった。このように17世紀になるとユーラシア内陸部のバザールには明らかに茶が流通していた。西アジアでは茶栽培はできないので,茶が交易品の仲

    イスラーム圏と中央アジアへの拡散

    喫茶文化の拡散─茶はなぜ世界商品となりえたのか─

    河合塾地理講師 福田博雪

    特別寄稿 世界商品「茶」の歩んだ道

    宋代の画家・李公麟『五馬図巻』より一頭目の馬の図。1087年1月22日にホータン王国(現在の中国・新疆ウイグル自治区に当たる)から受け取ったことが書かれている。写真:ユニフォトプレス

  • 世界史のしおり 2018②│15

    間入りをしていたことは確実であろう。インド洋沿岸部でもヨーロッパ勢の輸送が本格化しており,港々で喫茶習慣が浸透し始めていたはずである。このように,コーヒー圏であったイスラーム社会で,茶がコーヒーにとってかわることができた背景として,聖職者たちがコーヒーやタバコを快く思っておらず,代替として茶を容認したことは重要かもしれない。とくにワッハーブ派はイスラーム密教のスーフィズムが多飲するコーヒーとタバコを毛ぎらいしていた。モロッコは1718年以降,イギリスから茶の贈答があって喫茶の習慣が始まり,以降100年余りで急速に広がった。ワッハーブ派による喫茶の勧めもあって浸透が早かったと考えられる。

    ロシアの茶はシベリアを経由したもので,西ヨーロッパとは流入の過程が異なる。独自の経路で流入し,ジャムとともに楽しむ独特の喫茶の習慣・文化を形成したロシアにおける茶について,少していねいにみていきたい。1616年,モンゴルのアルタン=ハーンへの政府派遣コサック探検隊ワシーリ=チュメネツとイワン=ペトロフの復命書には,モンゴルで喫茶の饗応があったことが記されている。彼らは喫茶を奇異の目で観察しており,喫茶を知らなかったことがわかる。38年,ロシアは再びアルタン=ハーンへ,政府の外交使節ワシーリー=スタルコフとステパン=ネヴェロフを派遣し,280kgの茶をロシア皇帝への贈り物として受け取っている。このモンゴルへの派遣をふまえ,1654年と58年に清王朝へ正式なロシア使節団が送られた。58年の使節は,皇帝から160kgの茶を贈り物として下賜されている。彼らは中国皇帝下賜品のこの茶をすぐに売って宝石に交換してしまっており,茶の価値を十分に認識していなかったようである。彼らは北京で茶を売ったとき,その金額に驚愕したのではなかろうか。このような外交団の行動のかたわら,1674年,スウェーデンの外交使節キルバーガーの観察によれば,モスクワでは,茶1ポンドが30コペイカで

    独自の経路で流入したロシアの茶

    売られていた。彼の報告では,ロシア人は飲酒前なら酔わないために,飲酒後なら悪酔いの解消に茶を利用していることが記されている。この報告は重要である。89年のネルチンスク条約に先だち,西ヨーロッパ先進国からみれば僻地とも思えるモスクワで茶が売られていたのである。外交官の目にとまるほどに出まわり始めていたという事実は注目すべきだろう。ネルチンスク条約により,清-ロシア貿易(シベリア横断陸路のキャラバン)は本格化するが,キルバーガーの観察を前提とすれば,貿易品には茶が入っていたはずである。1727年のキャフタ条約の本質は,明らかに茶貿易の拡大を目的としたものである。1750年代には200t,1810年代には1230tの茶がキャフタを通過している。この数字は正式な貿易量であるから,密貿易量を加えれば,さらに大量の茶が通過していたはずである。この数字の大きさは茶貿易の重要性を物語るが,世界史学習ではこの事実を見のがしてはいないだろうか。陸路ラクダ2000頭をこえるキャラバンが定期的にシベリアを横断した姿を思うと,その壮観さがしのばれる。ロシアの喫茶にサモワールは必需であるが,トゥーラのサモワール工場(ここで大量生産が始まる)は1778年に開業している。このことや茶の輸入量から,ロシアに1600年代後半に入りこんだ喫茶習慣は1700年代に急速に広がり,1800年代には必需品として定着したことが伺える。ロシアへの茶は,中国からキャフタまでは山西商人が取りしきり,キャフタからニジニーノヴゴロド(ロシアで流通する茶の中核市場)に運ばれ

    牛皮で包まれた茶が,キャフタからヨーロッパへの長旅を待っているようす。(19世紀)写真:ユニフォトプレス

  • 16│世界史のしおり 2018②

    た。毎年7月に市場が開かれ,各地に拡散する販路が確立された。第二次アヘン戦争後,ロシア商人は漢口で直接茶を買いつける権利を取得し,漢口のイギリス租界に製茶工場も建設し,茶の輸入はさらに増加した。1862年には,ロンドン経由で広東茶がニジニーノヴゴロドに運ばれ,安値で販売され需要の拡大に拍車がかかった。1869年のスエズ運河開通で,ロシア商人は,漢口で買いつけた茶をスエズ運河経由で黒海のオデッサに運び,輸送路の短縮をはかる。ニジニーノヴゴロドではこの茶を「オデッサ茶」とよんだ。72年にはイワノフ社が福建省で製茶工場を稼働させ,3年後には2社に増え,2270tの生産をあげている。すべてがロシア向けではなかったであろうが,大半の茶がロシアに流入したはずである。1800年代後半,ロシア全体で禁酒の社会運動が展開され,茶は日常飲料としてウォッカを完全に打ち負かした。ここで見のがせないのは,当時の一般大衆(農民)は,カロリー補給のために朝から酒を飲むのが普通だったことである。これが紅茶とともにジャム(砂糖)を摂るようになったことで,ジャム(砂糖)による健康的なカロリー補給が可能になり,この方法がロシアでは深く日常に根づくことになる。そしてもう1点,水の衛生面にも注目したい。ロシアは水資源が豊富であり,水の質も硬水ではあるが一般的に良質である。しかし,雑菌が多く今でも生水は飲めない。飲料水の浄化作用によって,衛生的に水分が補給できるようになったという点においても,紅茶は間違いなく人々に貢献したであろう。

    19世紀以降の話になるが,ジョージア,ペルシアおよびトルコについても最後に触れておこう。ジョージアの周辺では,1847年ごろから茶の栽培がロシアの商業資本の努力で始まったようである。このころ,黒海の沿岸各地で試験栽培がなされ,適地としてロシアのソチ周辺,ジョージア,アゼルバイジャンなどで試験栽培に成功している。試験栽培の最適地だったジョージアでは栽培面積が増加し,93年には広東から茶職人を招いて茶の

    ジョージア,ペルシアおよびトルコでの広がり

    精製にも着手した。ジョージア茶は1900年のパリ万国博覧会でメダルを授与されるまでに品質も向上し,この努力が今日のジョージア茶2万tの生産や,アゼルバイジャン茶の生産,さらにトルコの喫茶文化の導入になったことは重要であろう。1821年,カスピ海南西のラシュトの支配者にロシアからサモワールが贈呈され,彼のハーレムの1人の少女が上手に取り扱いを覚えた。ラシュトの支配者はペルシア王ファトフ=アリー=シャーにサモワールとこの少女をさし出した。このときから,ペルシアではロシア式サモワールの日常的な使用が始まったといわれている。ペルシアの隣国トルコでは,19世紀には喫茶は高価な習慣で,富裕層の特権であった。というより,アラビア半島の通商都市を支配下においていたこともあり,トルコ商人がモカで取り引きされるアラビアコーヒーの卸元であったことで,コーヒーが日常に深く入りこんでいた。第一次世界大戦での敗戦で,トルコ商人はモカをはじめアラビア半島の都市の支配権を失い,コーヒーは高騰する。このとき代替品として茶が日常に入りこんだ。建国の父ムスタファ=ケマルがコーヒーぎらいで,かつ茶を愛飲していたこともあり,喫茶は急速に国民的な習慣となったのである。

    茶が世界商品としての地位を獲得したのは,イギリスによる貿易のためだけではない。前号でも述べた効用(抗酸化作用,抗菌作用,カフェインによる高揚作用,砂糖を入れることによるエネルギー補給効果など)や,その国や地域の抱える事情によって,イギリスによる世界商品化を待たず,発祥地である中国から,さまざまな国や地域に浸透していった状況があったことも,茶の世界商品化の背景の1つとして押さえておきたい。3学期号では,イギリスによる茶の世界商品化,そして世界商品となった茶が歴史にどのような影響を与えたのかに迫りたい。

    おわりに 

    【参考文献】・ヴィクター=H=メア,アーリン=ホー著,忠平美幸訳『お茶の歴史』(河出書房新社,2010年)