3
平成 1411 通巻 205十八 生憎の 雨。 東光 引き 洗祭 行。 して 時半 、「 いよ 殿 新港嵐 教野骨車 之湯 の旧 熊野 - の途絶 えて 社が 子や崇敬 者の によ に再興 年十 七日 殿遷座祭 翌二十 には 鎮座奉祝 が斎 され 社と て琴紀され また熊 境内にあっ た 」à によっ て百 ぶり 再建さ れ、 ェフ 之湯温 泉の とな った 時を 迎え た。 神社の 興に たっ を包 達は白丁とい 地区の 辺・ 両総 立。 松明日 も昏 た仮 殿 なり 話執進めら 代が 心と 木の 香の より れた 度の 殿 座祭は 道のり を、à 々し い 本殿まで 前後を威儀御 を捧持し 司の を持 申し 入れに 応え 有意 仕を 頼し そこ でま 一月日 殿に 鎮する 璽を 戴き 総代 )ま 向い 妻雨のた 立ち ニン グも あっ 生する ハプ 赦し 社に 着。 根社を 殿とし 間神 つこ なっ 鎮座 座祭 二十 六は 地元 のお 手伝い 頂て 典の 進めら 竹を 伐り 出し 分け 入っ 本殿に 安さ たり 場に 連縄 幕を 設営し たと 鞘慣れない 張り 廻らし 業に 戸惑い がら 様を の、 ' ちな がら 御供 噛み 締めな がら 迎え する 益々の 栄を 祈念する 詞奏 奉仕であっ 粛な 雰囲 気の 酒蔵 ヽ一 ~ I t~ LTã 身の 手でこ 仕がし 地元氏 O、 たい 」と 声が 上り 社側も 庵も 之湯の がっ 。、 名そ 之湯に 任し 門と てこ 湿 地帯の 水を 早川・ 雲川に 落と 拓工 事を 行い 〓ハ 二) 完成し 年( 宮大 ( a フR 下三名が 途中 の日 地熊野 神がお 年ぶり 鎮まり 子中の れた。 神様を 前に 司が 之湯は 戸をはじめ、 湯治 客を える その 姿を整 えていっ とし 根の各集落にも湯 なく 出来、 関藻 七湯 が成立 二十 七日 は、 三時 より た。 の箱 七湯 とは ' 座祭を 終えた。 光庵主 ・]ェN 弘氏 神社遵祭を素行 た。 成記 典と 共に' 十時 より 鎮座 祝祭が 吉行 れた。 様' 東光 庵の 主と なら 元内 大臣・ 康弘氏 始め 箱根町 長・ 山口 士民 等、 者が 数参 列Lt 神社の 庵の 完成を 祝いし た。 史は 古-' 鎌倉 献に 既にそ 名が 見ら れる がへ 頃の 芦之湯は 「あし のう のゆ 」と れた 程、 湿 原が た。 ] 戸時 代に 入り、 湿 原の 発に 乗り 出し たの が、 松坂の 南半 左衛 門である。 半左衡 門は 戸のはじ 根の 石原 釆任し、 名を 勝間田 他の 発を 始め た。 ず、

ウ野骨ヤフPwehakonejinja.or.jp › 02-contents › 02-main › 08-keigai-jinja › 03...スャ 14N1月1日 ハェ 205号 翌二¥ェ カ憎J東光ヘ日フ。引ォ ア ォ 、

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Page 1: ウ野骨ヤフPwehakonejinja.or.jp › 02-contents › 02-main › 08-keigai-jinja › 03...スャ 14N1月1日 ハェ 205号 翌二¥ェ カ憎J東光ヘ日フ。引ォ ア ォ 、

平 成 14年 1月 1日 通 巻 205号

翌二十八

日は生憎の雨。東光

引き続き、清洗祭を斎

行。そして五時半、いよいよ本殿

新港嵐っ釆教野骨車の単層各

このほど箱根町芦之湯の旧熊野

権現跡に、久し -神事の途絶えて

いた熊野神社が、地元氏子や崇敬

者の熱意によって見事に再興され

た。客

年十月二十七日に本殿遷座祭

が、翌二十八日には、御鎮座奉祝

舞が斎行され、箱椴神社墳外の末

社として琴紀された。

また熊野権現境内にあ

った

「発光

庵」も、箱根町によ

って百二十年

ぶりに再建され、箱根の名湯

・芦

之湯温泉の新名所とな

った。

この熊野

遷座祭の時を迎えた。

地元氏子

神社の再興にあたって

身を包み、達は白丁という装束に

は芦之湯地区の川辺・松坂両総

列立。松明日も昏れた仮殿の前に

なりり話執進めら代がが中心と

に、木の香の明かりだけをたより

れたが「今度の本殿遷座祭は是

道のりを、も清々しい本殿までの

前後を威儀御霊を捧持した宮司の

物を持

な申し入れに応えてこの有意義

奉仕を依頼したそこでまず十十一月日に御社殿にに奉鎮する神璽を戴き総代

座)まで出向いた

県鎮で妻雨のため立ち往ニングもあったが生するハプく琴赦して箱根神社に到着。は箱根社を仮殿とし間神神頭待つこととなって御鎮座

参拝東の

遷座祭前日日の二十六は地元のお手伝いいを頂ての氏子有志

祭典の準備が進められた斎竹を伐りり出しにに山分け入った天

御御本殿に奉安され九十

たり祭場に注連縄幕をを設営したと鞘慣れない張りり廻らし作業に戸惑いながらも神様をお 、、、、。

、、

、、憲な哲の、'、

。、、、、、。

ちながら御供し

た。

びを噛み締めながらの迎えする喜

益々の繁栄をを祈念する祝詞奏

ご奉仕であった

厳粛なな雰囲気のか憲

酒蔵祭に

一ヽ~~It~~

LT上 霊が、

自身の手でこ奉仕がし非地元氏子O、たい」との声が上り神社側も

業の完成ととも

東光に温泉

庵も再建芦之湯の歴

がって。、名その後芦之湯に任し門と改てこの湿原地帯の水を早川・須、。雲川に落とす干拓工事を行い電文

〓ハ六二)頃完成した二年(

野本宮大社(和歌山以下三名が熊

その途中

の日を

この地熊野大神がお二年ぶりにに鎮まりにな子中の

られた。大神様を前に宮司が氏

も涌出

し、芦之湯は江戸をはじめ、

一円の湯治客を迎える湯治場

て、その姿を整えていった。とし

江戸時代、箱根の各集落にも湯

なく遷

治場が出来、

関藻

「箱根七湯」が成立

二十七日

は、午後三時半よりの

した。この箱根七湯とは '

座祭を終えた。

湯本

木 倉芦'も、

ノノ沢・・・・豊ケ島宮下底賀・芦之湯を言うがなかで之場場は最も人気のある湯治

・芦之湯に勧請された。

しかし

持 泉

'いつ頃に勧請されたの

かへ創建の由来

となった。そのの秘密は、硫黄つ温泉効鼓にあった。当時は、きから医王仏とも呼ばれている

は各社未詳であ

る。湯治場では心身の病を癒す働

光庵主 ・中曽根康弘氏

熊野神社遵虐祭を素行

、た。

J

或 14年 1月 1塔日

庵の完

成記念式典と共に'

午前十時より御鎮座奉祝祭が吉行された。前日同様'東光庵の庵主となられた元内閣総理大臣・中曽根康弘氏を始め箱根町長・山口昇

士民等、関係者が多数参列Lt神社の再興と

庵の完成をお祝いした。

史は古-'鎌倉時代の文献に既にその名が見られるがへこの頃の芦之湯は「あしのうみのゆ」といわれた程、湿原が広

いた。江戸時代に入り、この湿

原の開発に乗り出したのが、伊勢松坂の大南半左衛門である。半左衡門は江戸のはじめ箱根の仙石原に釆任し、名を勝間田柄衛

他の開発を始めた。まず、

Page 2: ウ野骨ヤフPwehakonejinja.or.jp › 02-contents › 02-main › 08-keigai-jinja › 03...スャ 14N1月1日 ハェ 205号 翌二¥ェ カ憎J東光ヘ日フ。引ォ ア ォ 、

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平 成 14年 1月 1日 平 成 14年 1月

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ご奉仕であ

った。

二十七日は ,午後三時半よりの

・芦之湯に勧許された。

しかし、いつ頃に勧請されたの

か、創建

の由来は各社未詳

であ

る。湯治場では心身の病を癒す働

きから医王仏とも呼ばれている

「薬師如来」も配られ、芦之湯に

は権現社

の境内に

「東光庵薬師

堂」が建立された

江戸時代も後期になると、町人

層の経済力の上昇を背景に、箱根

七湯を廻り '名所

・旧跡を訪ねる

「七湯廻り」が流行した。

そのなかには文人や壁客連の姿

仲 (

神恩感謝

昭和三十六年頃倉の長勝村諦道師のお勧めで箱根芦ノ湖 鎌、久 寺

.':...・''

.'''J'-I...;I:I

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し、厳粛纂

圃気の禁

忌な -遜

周TEEV .う。

座警

終えた。

"l Ir専

が見え彼らは流を楽しんだ歌人で国学者

C!各

臭いがいたしてまいり '

自分の身

ふるえ」のような感覚を貰え

すごいご神気を感じました

奉賛会後、九頭龍

を伺

いがあること

A封

、毎月十三

日の月次祭にお参

することが出来

ました。

奉賛

会の田島会

長樺

には毎月温か

その

いご指導を鞍いております。

私は毎月九

頚髄さんへ白龍さん

にお参りすることは恋人に会う気

再建された東光庵 。 、

治場が出来、

「欄順七絹蒜

畑立

した。この箱根七湯とは、湯本 .

-

1-

J・t

II

I

Itー

朽ち果てて

o

'さ。取り壊れた

公開されている。

)

頭韻神社 ・月次祭

髄神社

への参拝を

緒に

会を戴きとありがたい機

ました。

当時は元箱根

より船を

おります。

みにいたして

剣豪宮本武蔵

敬するものであの言葉に

「神は崇

ものではない」

って神

へ依存する

、私はこの言葉が

きです。

私も今八十三歳、家内

歳共に健環で毎

は七十八

楽しんでおり

月四回のゴルフを

ます。

企業の方は自助努力のお

十四年続けてお

蔭で五

ります。

にありがたき幸せで

唯々神のご加護を心より神あり、

申し

恩感謝

持ちで月次祭を楽し

塔ノ沢

・堂ケ島

・宮ノ下

・底倉

木賀

・芦之湯を言うが 'なかでも

芦之湯は '最も人気のある湯治場

とな

った。その秘密は、硫黄泉の

つ温泉効験にあ

った。当時は、

湯治場に長逗留し温泉療養をおこ

っていたので、芦之湯独特の硫

黄衆の効能が人々に好まれた。

さて '湯治場には温泉の守護と

して露験あらたかな熊野権現が勧

くし〃りカの

許され、その主祭神には櫛

・tこと

すさのしわみこと

(薫

)

がお把りされて

いる。箱根にも湯本

・塔ノ沢

・底

結通 巻 205号 3日の九毎月 1

の九頚

チャータ

て参拝させ

ていただき、九頭龍神杜

の御本杜は今の董

Iし

財天様のと

した

高い披

・強い風、湖上より異様な

ケ島弁

ころにありま

お参りが始まりますと湖上より

-≠・・ 11--1-

芦之湯に滞在中

り・将

東光庵に集ま棋に興さいか、、句会をを催し揮って風彩管の清水浜臣や狂の萄山人(大田南畝)浮世で当時文化サのの安藤広重らとなっていたししか明治.時の流れとともに年東光庵は

なお二十

年振りに再建さ東光庵は町の史招指定文化して無料で

5I一

蕃、百、

と 財た'れ 五、十ン、師ロ 絵師'歌 じん'

Page 3: ウ野骨ヤフPwehakonejinja.or.jp › 02-contents › 02-main › 08-keigai-jinja › 03...スャ 14N1月1日 ハェ 205号 翌二¥ェ カ憎J東光ヘ日フ。引ォ ア ォ 、

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1.′

「」「

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12年 7月 1

中央に浮ぶのが

り、神

内地

れ、堂

拝が難し

仏分離

J、一ヽ◆ツ

の上地等

、墳(国

-I

神聖

年といへば、 -

のこと。

が行

り、へ

有地化

時代で

「吉備大

との習合説話があ

降讐

弁天様

る。

(-

弁財天鎮預

)

は参昭も

三臣唐倭

すが

有神

七とい 二

年も前

山縁起 )これ

とな

ケ島は箱根離宮

へば、当代の学者で、遥

「由縁

くなりまし

」であ

.加

で有名

平 成 12年 7111日 平 成

この方が壷

(参考

のの神様に頼むが筋道だった基山のの裾をは六字ケ他

方へ歩

湿原に過ぎなかった芦がi

ているのは

名残 生えこの'シとアの湖いわれたにいろうかそのの芦間石石だたみのの道がありありあありそのつきたに六字ケ池の弁天である(略れよりもここの弁天さ、、と江ノ島弁天同時代にの行者によってまつられたと伝説があってて霊験きわめイヤチコであることに心が一

ばいたたっ

てる「六字ケ池の弁天」とは-このののこ芦之湯阿字ケ池弁財であり次のように書かれてい

旧石器目す時

。注

昔、、

、う、い 役が<<そま、)。 が、、鳥居、細あo、がで 辺い ぱ。 彼、。

溝田宮司著

-

o

五年 ,豆湘地震によ

り御

社殿

を神格化したものと

と各

いわれ

それま

ヤ池

箱根探訪シリ -

ていま

での固

が水

-

'わ々

と が国では、

箱根

らか

町声之湯

その多く

の神

大当神社

習合し

圏岨

いら也 事ひれのろこ

L

JJ

・市

しノ湖

ケ池

ています。

の由緒は詳

ではありいでのい

ませ

社と現

に消

昔'

われ

r新

「阿字

町鈴

んが、地元では、かなり古

いわれ崇められています。

在、阿字ケ池という池はす

失し存在しませんが、そ

杜前は大きな池であ

ったと

ています。

圏阿幽本殿

てお把りされ

の望

市杵島姫命

(石.rrTg)

・拝殿

回=幽

いり

へん

弁財

ひとつ芦之湯温

の麓、字阿字

箱根では、芦

ケ島弁天

と共にこの阿字

から鎮座し

財天

する弁天様

箱根七福神

弁財天が古く

ていますが、当所の弁

は'箱根山中最も高所に鎮座

として知られてお

て信仰 り

のひと

つとし

いて

ています。

泉郷

、箱根七

にあ

湯の

風土記稿 JIによれば

編相模

ケ池

時代、文化八年(一八一一)に番かれた仁i,C・箱根七湯の案内塔【七湯

し▲山りの

枝折iには、

山の下あじか池の汀ハ∈々たる登野にて

ししi4んろく

子文六の小説『箱根山』に出

る弁天山

ケ池に鎮座する弁天

O幅五間。」

ニアリ。村

であります。

あります。弁財天は、元来、河川の女神あT般

獅、

天と、、て、湖畔まで行かなくても'足

艮ノ方

二アリ .

「塀天社

桝天

小説 「箱根 山」

持」とみえるほか、

江戸

小説の舞台と

「弁天

阿 字 ケ 池 弁 財 天

みれ等そここかししに生るる あ のの 下 。療客の心をを慰む此所芦のの湯といふハ権現芦うみと号湖水を-其近さほとなれハ此名し」と記されてなべ

体を流れれていななけばらない。ししか彼はバスに乗っ

春の比ハわらひつくしす

へさは、この丘陵

ます。箱根にに住むからは

、、

てまの信仰は血となっさ 現権、

かららかも明いることで

るいは河川

刈の守護神がいることに気。、がついた足刈足刈のことは 、

通 巻 199号

が讐

島る。

物語」 )。、いいた六字とうのは南無阿

弥陀仏からきているので'、あろうが池といっても今は殿があった。まり大きくない社なった阿字ケ池弁弁山山・朝日と財天天の妥手にはよばれる低いい丘陵が控えてま

には す