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ー19 - 人文研究 大阪市立大学文学部紀要 49 3 分冊 1997 19 ~39 「デカル ト永遠真理創造説」再論 (-) 第-節 :永遠真理創造説 (1630) の表明とその内容 デカル トの 「永遠真理創造説」 とい うのは,デカル トに独 自なテーゼであっ て,その意味,あるいはこのテーゼとその哲学体系全体 との関わ りという問 題はデカル ト解釈上の重要なテーマである 私 もこれ まで い くつかの機会 に この問題 を とりあげ,私 自身 の解釈 も提示 して きたが,最近 またい くつかの 新たな問題提起が見 られ,再論す る機会 も与え られた(1)。 この機会に, これ までの私 の所論 で論 じ尽 くす ことので きなか った ことや,改 めて補足 すべ き だ と考 え られた ことを記 して,私 の これ までの解釈 の補完を試み七お きたい. デカル トの永遠真理創造説が初めて提示 されるのは 「1630 4 15 日の メ ルセ ンヌ宛書簡」 においてである この書簡で は, デ カル トの哲学 の形成過 程を しる うえで重要 な三 つ の事柄 が順次提示 され る。 その第- は,後 で触 れ るよ うに, ここで初 めて デカル トの 自然学 の根本 テーゼであ る 「真空 の否定 (すなわち物質即空間説)」 と 「極 めて流動的な物質」 の概念 が提示 され, こ こに, この時期 にお ける彼の 自然哲学 の立場 の決定 が伺 われ るとい うこ.とで ある。第二 は, ここで デカル トは,前年, オ ランダ (フ リース ラ ン ドの フラ ネケル) に居を定 めた最 初 の九 カ月専念 した とい う形 而上 学 探 究 ( 「形而上 学緒論 : leCommencementdem昌taphysique」)に触れ, これによって彼 が構築 しつつあ った 「自然学 の基礎」 が兄 い出 された とい って い るとい うこ とである この点 は本稿 で は再論 しないが, この形而上学 的探究 とは 「神 の 存在 とわれわれの魂が身体か ら分かたれたときのその存在 の証明(A.T. . , p.182) ということであり,そのような形而上学が自然学の基礎をあたえたと いうのは,具体的には,心身の実在的区別が特に物質的事物の本質の 「延長 (ない し形や運動)」への還元 という彼の自然学の基礎原理 に途を開いたとい うことである(『第六答弁』A.T.Ⅴ ⅠⅠ ,pp.289-299)(2) したが ってデカル ト (135)

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人文研究 大阪市立大学文学部紀要

第49巻 第 3分冊 1997年19頁~39貢

「デカル ト永遠真理創造説」再論 (-)

小 林 道 夫

第-節 :永遠真理創造説 (1630)の表明とその内容

デカル トの 「永遠真理創造説」というのは,デカル トに独自なテーゼであっ

て,その意味,あるいはこのテーゼとその哲学体系全体との関わりという問

題はデカルト解釈上の重要なテーマである。 私もこれまでいくつかの機会に

この問題をとりあげ,私自身の解釈も提示 してきたが,最近またいくつかの

新たな問題提起が見られ,再論する機会も与えられた(1)。この機会に,これ

までの私の所論で論 じ尽 くすことのできなかったことや,改めて補足すべき

だと考えられたことを記 して,私のこれまでの解釈の補完を試み七おきたい.

デカル トの永遠真理創造説が初めて提示されるのは 「1630年4月15日のメ

ルセンヌ宛書簡」においてである。 この書簡では,デカル トの哲学の形成過

程をしるうえで重要な三つの事柄が順次提示される。その第-は,後で触れ

るように,ここで初めてデカル トの自然学の根本テーゼである 「真空の否定

(すなわち物質即空間説)」と 「極めて流動的な物質」の概念が提示され,こ

こに,この時期における彼の自然哲学の立場の決定が伺われるというこ.とで

ある。第二は,ここでデカル トは,前年,オランダ (フリースランドのフラ

ネケル)に居を定めた最初の九カ月専念 したという形而上学探究 (「形而上

学緒論 :leCommencementdem昌taphysique」)に触れ, これによって彼

が構築しつつあった 「自然学の基礎」が兄い出されたといっているというこ

とである。 この点は本稿では再論 しないが,この形而上学的探究とは 「神の

存在とわれわれの魂が身体から分かたれたときのその存在の証明」(A.T.Ⅰ.,

p.182)ということであり,そのような形而上学が自然学の基礎をあたえたと

いうのは,具体的には,心身の実在的区別が特に物質的事物の本質の 「延長

(ないし形や運動)」への還元という彼の自然学の基礎原理に途を開いたとい

うことである(『第六答弁』A.T.ⅤⅠⅠ,pp.289-299)(2)。 したがってデカル ト

(135)

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は,この書簡で.前年における,形而上学という土台からの自然学の構築の

開始をはっきりと告げているわけである。

さて.デカル トはこの書簡で以上のような事柄を述べたあと,最後に口調

を新たにして 「永遠真理創造説」を表明する。このテーゼは,次のような文

言で始まる。「私は.私の自然学でいくつかの形而上学上の問題に触れない

わけにはいかないでしょう,とりわけ次のことです」。 ここでデカル トのい

う 「私の自然学」というのは,当時デカル トが卒格的に執筆中の著作 『世界

論』のことである。 この説はしたがって,メルセンヌに対してここで初めて●●●●●表明され,執筆中の 『世界論』において初めて触れられる (改めて提示され

たり展開されるのではなしに)ものである。 そこで,前年の形而上的考察に

続く,自然学の形而上学的基礎づけに関わる第二段の教説が告げられること

になる。まず,その文面の重要な部分を,これからの検討のために段落に分

けて番号付けをしながら,ほぼ逐一的に訳してみよう。

「貴方が永遠的と呼ばれる数学的真理は,残りのすべての被造物と同様に

神によって設定されたものであり,神に全面的に依存 します。(…)。神は自

然のうちに法則を,ちょうど王が自分の王国に法を布 くように,設定したの

だということを.どうか恐れることなく至るところで確言 し公表してくださ

い。さて,その法則について,もしわれわれの精神がそのものの考察に立ち

向かうならば,われわれが理解しえないようなものはこれといって特に何も

ありません。それらの法則はすべてわれわれの精神に生得的なのです (men-

tibusnostrisingenitae)。それはちょうど,王が自分の法を, 自分のすべ

ての臣民の心に, もしそのような権力をも実際に持っているのであれば,刺

み付けるであろうというのと同様です」(l- り。

「逆に,われわれは神の偉大さを知ってはいますが,それを (包括的な仕

方で)理解するということはできません。 しかし.われわれが神の偉大さを

理解不可能(incompreh毒nsible)なものだと判断すること,このこと自体がわ

れわれに神の偉大さをさらに尊敬させることになるのです。(…)。人は貴方

に,もし神がそれらの真理を設定したのであれば,神はそれらを,ちょうど

王が自分の法に対 して行うように,変えることもできるであろう,というで

ありましょう。それに対しては,然り,もし神の意志が変えることができる

ならば,と答えなければなりません。-しかし,私はそれらの真理を永遠で

不変のものと理解 します。-そして私はといえば神についても同様だと判断

します。 しかし神の意志は自由なのです。 -そう, しかし神の能力は理解不

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「そして一般的にわれわれは,神はわれわれが理解できることはすべて行

うことができる,とたしかに確言することができます(]一日-A)oLかし,

神はわれわれが理解できないことは行いえないと確言することはできません

(l一 日-a)。なぜなら,われわれの想像力が神の能力と同 じだけの拡がり

をもつなどと考えるのは無謀でありましょうから。 私は以上のこと (ceci)

をこの二週間内にも私の自然学のなかに書 き記 したいと思 っています」

(A,T,Ⅰ,pp.145-146)。

以上が,メルセンヌ宛の1630年4月15日の書簡で初めて表明された永遠真

理創造説の内容である。これに続いてデカル トはさらに翌月,メルセンヌに

対してこの説の理解の徹底を得るべく二つの書簡を送っている。その書簡か

ら上で明言されていない点を取り上げ,4月15日の表明の内容を補っておこ

う。

第-は,デカル トが数学的 (永遠)真理の創造という場合の神の原因性に

関してメルセンヌが提起 した質問についてであって,これについてデカル ト

は次のようにいう。「彼 (神)はあらゆるものを同じ原因性によって創造 し

た,すなわち作出的で全体的な原因(utefficiensettotaliscausa)として

創造した.と私は答えます。というのも,たしかに神は披造物の存在の作者

であると同様に本質の作者でもあるからです。 ところで,この本質というの

はこれらの永遠真理に他ならず,それを私は太陽の光りのように神から流出

するものとはけっして理解しません。そうではなく私は,神はあらゆるもの

の作者であって,これらの真理はあるものであり. したがって神はそれらの

真理の作者である, ということを知 っています」(lトー り (A.T.Ⅰ,pp.151-

152)。言い換えれば,神が永遠真理を創造するその仕方すなわち 「原因性」

は他の被造物の存在の創造の原因性と同じであるというのである。

第二はこのテーゼと神の属性に関する点で,デカル トはこの二つの書簡で

莱-の書簡で強調された神の 「理解不可能性」ということに加えて,神の無

限性と全能性ということを強調する。すなわち神は 「無限かつ理解不可能な

存在 (Acreinfinietincomprehensible)」で.「あらゆるものが依存する唯一

の作者」なのである (A.T.Ⅰ,p.150)。また 「神が無限で全能であるという

ことは,われわれの魂は有限なので,(包括的に)理解 したり把握 したりす

ることはできないが,知ることはできる」(A.T.Ⅰ,p.152)のである。 ここに

神の属性について 「理解不可能性」と 「無限性」と 「全能性」という概念が

(137)

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そろって登場している。さらにこの二つの書簡では,神における意志と知性

と創造との関係が永遠真理に関して説明されている。それによれば,「神は

それらの真理がはるか昔からあることを意志 し,かつ知性認識 したというそ

のこと自体によって,それらの真理を創造 した (あるいは設定 し作 った)

(exhoeipsoquodillasabaeternoessevoluerit・etintellexerit,illas

creavit)」のである。 あるいは 「神においては意志することと知性認識する

ことと創造することとは,一方がが他方に先行するということなしに.一つ

のことなのである (A.T.Ⅰ,pp.152-153)。 したがって,「神がある事を意志

し,それによってその事を認識する」ということなしに,その事が真理であ

るなどということはなく,まして 「仮に神が存在しないとしても,それらの

真理は真であるなどといってはならない」のである。 「神はその能力が人間

知性の限界を超える原因」であり,これに対 して 「数学的真理の必然性」は●●●●われわれの認識を超えるものではなく,「神の理解不可能な能力に従属する

もの」なのである(lトーlり (A.T.Ⅰ,pp.149-150)0

以上のような 「永遠真理創造説」の主張は,その帰結として,数学的真理

は.他の被造物と同様に創造されたものとして絶対的な必然性を担いえず,

それは,神の見地からすれば,真でないということも可能であるということ

を合意する。実際にデカル トは,その点についてこのコンテクストで具体的

な例をあげており,「神は自由に,世界を創造 しないこともできたのと同様

に.円の中心から円周に対 して引かれたすべての直線は等 しい,ということ

を真でないようにすることもできた」という(lト =)(A.T.Ⅰ,p.152)。デ

カルトは自分の永遠真理創造説がもたらすこのようなラディカルな帰結を初

めからわき・iえているわけである.

第二節 :永遠真理創造説の意味

永遠真理創造説の内容は,1630年の書簡において表明されたかぎりでは,

以上のようなことである。そこで,この永遠真理創造説の意味と,このテー

ゼとデカル トの形而上学および自然学との関係とを,さしあたって,以上の

テキストと,この説が表明された時期のコンテクストに基づいてのみ検討し

てみることにしよう。

まず第一に確認 し理解しなければならないのは,この永遠真理創造説とデ

カル トが目指す自然学の構築との関係である。 というのも,デカルト自身が,

(138)

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「デカルト永遠真理創造説」再論(-) -23-

●●●●●●●○ ●●●●●●●●●●●●●●●それを 「私の自然学」(すなわち 『世界論』)において触れざるをえない形而●●●●●●●●上学の問題の一つとしてこのテーゼを提示しているからである。この点をま

ず確認しておかなければならない。ところで,この点に関してデカル トが16

30年の書簡で主張しているのは,第-に,数学の永遠真理は神が同じ作出的

かつ全体的原因性によって他のすべての被造物と同様に創造 したものである

ということ (I- l.lJ- )),第二に,神が自然に法則を設定 したという

こと (I- り,第三に,その自然法則は,われわれがその考察に立ち向かっ

て理解しえないようなものではまったくなく,それらはすべてわれわれの精

神に生得的なものであるということ(t- りである。そこで,これらの点が

より具体的にどう関係するのかということが問題であるが,それについては,

当然,「私の自然学」すなわち 『世界論』にあたらなければならない。実際

に,そこにこれらの点の連関を明らかにする文面が認められる。それは 『世

界論』第六章と第七章のなかに兄い出されるものである。

まず第一に,デカル トは第六章で,物質の渚部分が,創造の最初の瞬間に

運動を与えられた後,それに従って運動を続ける 「(通常の) 自然法則」と

いう概念を導入 し,ついで,「神はそれらの法則をまったく見事に設定した」

ので,物質の諸部分が運動変化のあと非常に完全な世界を形成するにいたる

のである.と述べる (A.T.XI,p.34)。次にデカルトは第七章で,「この新 し

い世界の自然法則 (第七章のタイトル)」を取り上げ,「神が自然に課 し」,

物質部分がその変化の際に従う 「規則」としての 「自然法則」について論じ

て,そこで三つの原理的規則すなわち自然法則を提示する (A.T.XI,pp.36-

37)。これらの三つの規則とは,「慣性概念」,「衝突法則の概念」,「直線運動

の概念」で,これらは,その提示の順序や細部の表現ないし内容は異なるも

のの 『哲学原理』の三つの自然法則に対応するものである。 また,ここで自

然法則の法則性の根拠が神の作用の 「不変性」に求められているが,この点

も 『哲学原理』で踏襲される。 さらに,これらの自然法則の提示には,運動●●●●●●●の本性の定義も含まれており,そこでデカル トは,「私は幾何学者の直線よ

りも容易に思い浮かべうる運動の他には何一つ運動を知らない」といい,そ

れをはっきりと 「場所的移動 (変化)」と定義する (A.T.XI,pp.39-40)0

以上の文面から.デカル トが1630年 4月15日の書簡で 「神が自然に法則を

設定した」ということで具体的に何のことを考えているかは明らかであろう。

デカルトは神による自然法則の設定ということで上のようなことを考え,運

動の本性を数学の単純で明証な概念を基にして考えたといっているのである。

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しかしこれだけではもちろん,数学の永遠真理の創造というテーゼと自然

学との関係が十分に明らかにはならない。その点で特に注目すべきなのは,

上述の三つの自然法則の提示のすぐ後に見られる次の文面である。 「私は,

私が説明した三つの法則に加えて,数学者が彼等の最も確実で最も明言正的な●●●●

証明をそれに基づけるのを常とするところの永遠真理から間違いなく帰結す

る法則以外のものを仮定しようとは思わない。私はいいたい,これらの永遠

真理とは,神自身が,それらに従って,すべての事物を数と重さと計量にお

いて配置したということをわれわれに教えたところのものだ,と。 そしてこ

れらの永遠真理の認識はわれわれの魂に非常に生得的なので(sinatllrelle

amosames),われわれがそれらの真理を判明に理解するときには.それ

らを間違いのないものと判断しないわけにはいかないようなものなのである」

(ibid,p.47)0このテキストが教示するのは,罪-に,デカル トの考える自然法則という

ものは数学が依拠する永遠真理から帰結するものであり,神はそれらの永遠

真理 (あるいは,それから帰結する自然法則)に従って世界のすべての事物

を配置したと考えられる,ということである。第二に,それらの,自然法則

を帰結する永遠真理の認識がわれわれに生得的なものであって,それを判明

に認識する場合には間違いようのないほどのものである,ということである。●●このことから,数学の永遠真理の創造という主張は,一方で,永遠真理が被

造の自然の法則を構成するものとしてそれ自身も自然のうちに創造されたと

いうこと,他方で,それらの永遠真理はまた披道の人間精神のうちに創造さ

れ刻印されてあり,人間精神はそれらの真理を生得的に間違いなく認識しう

るということ,を意味するということが了解できる。そこで,一方で,それ

に従って自然が配置され自然の法則を構成するとされるところの永遠真理と,

他方で,人間精神のうちに刻印されてあり人間精神が生得的に認識しうる永

遠真理とは,神によって創造された同じ 「これらの永遠真理」なのであるか

ら,人間は自らの内で判明に認識しうる数学的真理を基にし,それに従って,

外なる物理的自然の法則や構造全体を解明しようと企ててよいということに

なる。 神は世界を,われわれ人間が自らの内で判明に認識するものと同じ真

理によって創造し配置したはずだと考えてよいということになる。これらの

ことが1630年4月15日のメルセンヌ宛の書簡で主張された事柄の意味である

と考えられる。 そして,この最後の点は,デカルトがこの書簡における永遠

真理創造説の表明の後半で結論の形で確言していること,すなわち,「一般

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的にわれわれは,神はわれわれが理解できることはすべて行うことができる,

と確かに確言することができる」(I一日-A)ということに他ならない。 こ

の命題が,デカル トが永遠真理創造説において創造論の形而上学と自然学と

を連関させることによって意図したことを集約するものである。 デカルトの

永遠真理創造説を解釈する場合には以上の点をまず踏まえなければならない。

ところで.このような永遠真理創造説の意味連関,特にこの最後の (∫-

日-A)の命題の意味については,それを確証する論述が再び 『世界論』の

第六章に兄い出される。 その点を確認 しておかなければならない。

デカル トは第七章で自然法則を具体的に提示するのに先立って,第六章で,

彼の考案する新たな自然学の世界の特性と構造を説明する。そこでデカル ト●は,この世界を比職的に 「新しい世界」と呼び,この世界を哲尊者たちが無●限であるという 「想像上の諸空間」に生 じさせるという。 ついで彼は,当時

一般に考えられていた有限の現実世界が視界から失せるような状況を想定し,

そこで 「神は新たにわれわれの周りにたくさんの物質を創造し,われわれの

想像力がどの方向に拡がりえようとも,われわれは空虚な場所をもはや何-

つ感知せぬようにしたと仮定」する。 また 「神が創造 した物質はあらゆる方

向にわたってはるか遠 くに及び,無際限の距離にまで拡がる」 と仮定する

(ibid.,pp.31-32)。さらにデカルトは,その物質について,それは 「真なる

物体」であり, 「われわれの想像しうるかぎりのどんな形にでも, またどん

な部分にも分割 しうるもの」とみなし,さらにそれはその 「外的延長」から

区別できないものであって,物質の延長は 「物質の真の形相ないし本質」な

のである,という(ibid.,pp.33-36)。要するに,デカル トはここで. 「想像

空間」に重ねられる 「新 しい世界」の 「無際限性」とその世界の 「物質即延

長説」を主張しているわけである。 そして,このことと平行してデカルトは.

先に言及 したように,その世界に神によって自然法則が設定され,それによっ

て一つの完全な世界が形成されることになるのだというのである。

さらにデカルトは,この当初は混沌とも想定される新しい世界について,

そこには 「貴方がたが知 らぬふりをすることができないほど完全に知られる

のでないようなものは何一つ含まれない」といい, 「貴方がたが想像 しうる

ようなもののみをそこに仮定した」という(ibid.,p.35)。そしてデカルトは,

このようにわれわれによって想像することができ,無際限に拡がる物質に満

たされ,自然法則によって統括されると想定される 「新 しい世界」が,実は,

神が創造 したはずの世界で,それが探究されるべき物理的世界なのであると

(141)

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いうことを,先の永遠真理創造説のなかの l一 日-Aの命題に文字通 り対応

する次のような言明によって根拠づける。 これは第六章を締めくくる文言で●●●

ある。すなわち,「私がこの世界に入れるものはすべて判明に想像すること

ができるから.こうしたものが元の (古い)世界には一つもなかったとして

ち,神はやはりそれを新しい世界に創造しうることは確かである.なぜなら●●●●●●●●●

ば,神はわれわれが想像●●●ある」(ibid.,p.36)0

●も●る‥つ.

●し●●●●●●●●●●●●●●●●●●●のはすべて創造 しうることは確かだからで

このようにデカル トは,彼がまずは自分の知性の力によって構想する自然

学の世界が現実の探究されるべき物理的世界に他ならないという見通 しの保

証を,この言明を帰結とする永遠真理創造説に求めるのである。デカルトは

この説によって,それまでは現実の物理的世界を超えた単なる想像上の事柄

と考えられていたこと,あるいは単に数学上の抽象的な事柄とのみ考えられ

ていたことを,実際に物理的世界を構成するものと考えてよいという見通 し

を正当化するのである。 デカル トが.1630年 4月15日の書簡における永遠真

理創造説の表明の最後で,「以上のことをこの二週間以内にも私の自然学の

なかに書き記そう」といっているのはこのような事情を (より直接的にはこ

の文言のことを)さすと考えられるのである。

このように,1630年のメルセンヌ宛書簡と同じ時期に執筆中の 『世界論』とから引き出される 「永遠真理創造説の意味」とは以上のようなことだと解

されるが,この解釈を傍証する事実がなお二つあるoその第-は,1629年12

月18日のメルセンヌ宛の書簡の中に兄い出される文面で,そこでデカルトは

次のようにいっているのである。「この点に関 して,私は貴方に,創造され

た事物の延長について何か宗教上決定された事柄がないかどうかお教えいた●●

だきたい。すなわち,その延長は有限なのか,それともむしろ無限なのか,●●●●●● ●●●●

そして想像上の空間と呼ばれるすべての国には創造された真の物体があるの

かどうか。といいますのも,私がこの問題に触れたくはなかったのですが,

にもかかわらず,その事を証明せざるをえないだろうからでです」(A.T.1,

p.86)0この文面から,この時デカルトはまだ,物質的世界の延長が無 (際)限で

あるとも,また (無限と想定される)想像空間が物質と同一化されるとも決

定していないことが分かる。またこの時期 (1630年直前)のメルセンヌ宛

の書簡で自由落下の問題が取り上げられているが.そこでは真空や落下の際

の等加速度が容認されている。ところが,まさに1630年4月15日のメルセン

(142)

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ヌ宛の書簡で.真空がはっきりと否定され,「極めて流動的で微細な実体」

という概念が登場する (A.T.1,p.140。落下の等加速度の仮定については,

1631年の10月のメルセンヌ宛の書簡ではっきりと撤回 している0A.T.Ⅰ,pp.22ト222)。この事実から,1630年における永遠真理創造説の表明がまずは,

自然学上の 「真空の否定」したがって 「物質即延長説」の採択と時期的に一

致し.それと相関していることが認められる(3)oさらに,上述のように,こ

の時期に執筆中であって,そのなかで永遠真理創造説に触れるといわれてい

る 『世界論』では,「物質即延長説」にととまらず,物質的世界の延長が無●●●●際限であること. したがって,撫際限の想像空間に真の物体が存在すること

が主張される.以上のことか.6,1630年4月15日の永遠真理創造説の表明と

それに連動する 『世界論』の内容とが,1629年12月18日のメルセンヌ宛の書

簡でデカルトが自ら提起 した問題に対する由答という意味をもつということ

が理解できる。 永遠真理創造説の無限で全能の神 (ll- り に訴えることに

よってデカルトは,物質的世界の空間の撫限性とその空間が真の物体によっ

て物質化されたものであることを主張 しようとしたのである。

傍証の第二は,1638年5月27日の,これもメルセンヌ宛の書簡で述べられ

ていることで,これは1630年の書簡における永遠真理創造説の表明に言及し

たものである。そこでデカル トは次のようにいう。「神が何 ものも創造 しな

かったとした場合に,実在の空間が現在のように存在するかどうかという問

題については,これは人間精神の限界を超えるように思われ,それについて

あれこれ論議するのは,無限についてするのと同様に,まったく理にかなう

ものではないのですが, しかしながら,私は,その問題は,神の存在や人間

の魂の問題と同様,われわれの想像力の限界だけを超えるものであって,わ

れわれの知性はそれについての真理に連することができると思います。その

真理とは.少なくとも私の意見によれば,もし神がそのように設定 したので

なければ.単に空間がまったく存在しないことになるであろうというのみな

らず,<全体は部分より大きい>といった,永遠と称される真理もまったく

真理ではないことになるであろう,ということです。 このことは,すでに昔,

貴方に手紙で申し述べたと思います」(A.T.ll,p.138)。ここで, デカル ト

が 「すでに昔のべた」というのが,1630年の書簡での永遠真理創造説の表明

のことであることは,A.T.版全集の注にあるように疑問の余地はない。そ

こで留意すべきは,.「永遠真理の創造」ということが 「空間の創造」 と一対

になって考えられていることである。 デカルトにおいて 「永遠真理創造説」

(143)

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は一つには 「空間の創造」 したがって 「物質即延長説」をもたらすものとし

て機能しているのである。

以上,特に1630年の書簡とその時期に執筆中の 『世界論』をもとにして永

遠真理創造説と自然学の基礎づけとの関係を究明した。 しかし,1630年の書

簡で表明される事柄には,以上の事には尽くされないより形而上学的な側面

がある。 しかも,それが,自然学の体系の提示のあとも一貫 して保持される

のである。それは前述の1630年のメルセンヌ宛書簡の l一日と l一日-Bお

よびIl-日とでいわれていることである。 そこではまず,永遠真理をも創造

する神の能力は人間にとって理解不可能な (incomprbhensible)ものである

ということが強調され,ついで,神の意志は自由であるから,神はいったん

設定した真理をも変えることができるといわれている(l一日)。それで J-

"ト AD_確言と対になって 「神はわれわれが理解できないことは行いえない

とは確言できない」(l一日-B)と主張されるのである。 この点がさらに

(=-1りで敷桁されて,まず神の能力について,理解不可能性ということに●● ●●加えて無限かつ全能という属性が強調され,ついで,(数学的真理を含み)●●●●ある事が真理として創造されることの第一の根拠が神の意志決定にあると主

張される。それで,そのことの帰結として,具体的に,神は自由に,世界を

創造しないことができたのと同様に.円に関する幾何学的真理を真理でない

ようにすることもできたといわれる (‖-111)。換言すれば,神の自由意志

の決定が真理内容の根拠であることから,披造物の存在と同様に.数学の永

遠真理も,そうでないことが可能であった (あるいは可能である)という意

味での 「偶然性」を担うことになる。人間が認識する真理の必然性は,あく

まで人間の事実的認識のレグェルを超えるものではなく,それを超えてその

必然性が絶対的に必然的であると主張することは許されないのである。デカ

ル トはこのように,一方で,神の撫限かつ全能の能力に訴えることによって,

「われわれが理解できることはすべて神は行い (創造 し)うる」(l一日-A)

として,彼が構想する数学的自然学の可能性を正当化するのであるが,他方

で,そのような神の,同時に理解不可能な能力を念頭において,「神はわれ

われが理解できないことをは行いえないとはいえない」(l一日-a)として,

われわれが現に理解することの形而上学的偶然性をはっきり容喜忍するのであ

る。

以上の検討から,デカル トにおいて,永遠真理創造説は彼の自然学の基礎

づけと軌を一にし,それを主眼として主張されたこと.それはどのような意

(144)

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「デカル ト永遠真理創造説」再論(-) -29-

味で彼の自然学の構築と関連するのかということ,さらに.このテーゼが,

一方でその自然学の推進を保証する機能を果たしながら,他方で人間の認識

内容を絶対的に必然的なものと見なすことを抑止するものでもあることが了

解されたと思われる。

第三節 :永遠真理創造説(1630)とデカル トの主要著作との関係

さて,以上のような永遠真理創造説による自然学の基礎づけと推進という

構図はその後も一貫して保持され,主要著作の構成の柱となっている (ただ

し,もちろん,私はそれだけがデカル ト哲学の柱であるというのではない)0

その点の確認の作業はすでに他の所で試みたので,ここでは繰り返さないな

いく4)。ただ論述の必要上,ここで一点のみ確認 し. さらにこれまで触れる

ことのできなかったいくつかの点に言及して自説を補完 しておきたい0

まず第-に,確認しておきたいことというのは,『方法序説』から 『省察』および 『哲学原理』にいたる主要著作においては,特に,永遠真理創造説が

結論づける上述の t-11ト Aの確言が取り込まれ,それがそれらの著作の主

張の軸として陰に陽に機能しているということである。

まず 『方法序説』に関 していえば,そこでは神の存在証明の後,次のよう

にいわれる。「われわれがきわめて明噺判明に理解することはすべて真であ

る.といこと自体が,神があり,現存するということ,神が完全な存在者で

あるということ,および,われわれのうちにあるものはすべて神に由来する

ということによってのみ確実なのである」(A.T.ⅤⅠ,p.38)。これは 「明証性

の規則」の妥当性は神による保証に根拠づけられるということなのであるが,

それは,われわれが明噺判明に理解することは神に由来 し,神の創造による

がゆえに真であるということを意味しており,「われわれが判明に理解する

ことはすべて神が創造 しうる」という上述の確言に重なるものである。 永遠

真理創造説の l一日-Aの,あるいは 『世界論』第六章末尾のこの確言が●●●●●●

「明証性の規則」の神による保証という形で 『方法序説』 に取 り込まれてい

るのである。この点はもちろん 『省察』や 『哲学原理』においても同様であ

る。

しかも,『省察』と 『哲学原理』においてはこの確言がより忠実な表現の

もとに具体的なコンテクストにおいて登場 している。 それはまず,『省察』

においては.第六省察の冒頭の次の文章に登場 している。 「物質的事物は純

(145)

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- 30-

粋数学の対象であるかぎり存在することが出来る。というのも,私はそれら●●●●●●●●●●●を明噺判明に認識するのだから。なぜかというに,神は私がそのような仕方●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●で認識できるものはすべて作出することができるということは疑いのないと

ころだからである」(A.T.ⅤⅠⅠ,p.71。 なお 『第二答弁』の 「幾何学的提要」

の 「第三命題の系」を参照。ここにも同じ文章が見られる)。 また 『哲学原

理』においては次の第一部第60項に現われている。すなわち 「われわれはす●●●●●●●●●●●●●●●●●■●●●●でに神を知っているので,神はわれわれが判明に理解することなら何であろ●●●●●●●●うとも作出しうると確信する。 したがって,例えば,われわれは,われわれ

がすでに延長をもつ実体すなわち物体的実体の観念をもっているということ

だけから,そのような実体が実際に存在するということをまだ確実に知らな

いにもかかわらず.その実体が存在 しうるということを...確信する」(A.T.

ⅤⅠ11-1,p.28)。ここに1630年 4月15日の永遠真理創造説の表明と 『世界論』

における確言の忠実な再現を認めることができる。 そしてそれが果たす機能

は,われわれが判明に理解する数学的な対象や観念は神の全能のゆえに現莱

の物理的世界に創造されてあると考えてよいという点で同じである。

以上の点はすでに他の所でのべたことの確認であるが,さらに,『哲学原

理』のなかの二三の論述に言及して自説を補っておきたい。それは,1629年

の12月18日のメルセンヌ宛書簡と 『世界論』において問題にされたテーマ,

すなわち 「想像空間」に関わる事柄である。まずデカル トは,第-部第24項●●●●●●●●●●●●で.神を 「現に存在するものと存在することが可能なもののいっさいの真の

原因」と規定したあと,第26項で,撫限と無際限の違いに言及し,さらに次

のようにいう。 「それゆえ,どんなに大きな延長を想像しうるにしても, さ●●

らにいっそう大きな延長がありうるとわれわれは考えるのであるから,可能●●●的事物の大きさは無際限であるというととにする」。ここで無際限の延長空

間が 「可能的事物」と表現されていることに注意したい。この点を第24項の

「神は存在することが可能な事物の原因 (すなわち創造者)でもある (この

規定は永遠真理創造説を端的に指示する)(5)」ということに結び付けると,

そこから神は無際限の延長空間の創造者という概念を引き出しうる。これは

『世界論』のテーマ,あるいは1638年5月28日のメルセンヌ宛書簡における永

遠真理創造説に関する論述に呼応する。

次にデカル トは,第二部の物質的世界の 「撫際限性」の主張の箇所で再び

想像空間に言及 して次のようなことを述べている。「われわれは,世界すな

わち物体的実体の全体が,その延長の限界をもたないことをも認識する。な

(146)

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「デカルト永遠真理創造説」再論(-) -31-

んとなれば,われわれは,どこにそういう限界があると想像しても,つねに

そのかなたに,無際限に延長せるなんらかの空間を,単に想像するばかりで

はなく.その空間が,真実に想像されうるものであるこ●と,すなわち実在的

なものであること(vereimaginabilia,hoeest,realiaesse)をも認識 し.

したがってまた,そういう空間のうちには無際限に延長せる物体的実体が含

まれていることをさえ認識するのだからである」(A.T.ⅤⅠⅠLl,p.52)。 ここ

にわれわれは,1629年の12月18日のメルセンヌ宛書簡で想像空間について提

起され,『世界論』において答えられた事柄が,より断定的な調子で主張さ

れているのを確認することができる。すなわち,われわれが想定する空間は

単に無際限に延長すると想像されうるだけでなく.そこに真の物体が存在し

ている実在の物質的世界であると考えられるのである(6)。 こめように,永

遠真理創造説とそれに関わる自然学上のテーマは主要著作において一貫して

認められる。 なお,上記の 『哲学原理』の二つの文面のいづれの場合でも,

あい前後して,これも 『世界論』で簡潔にではあるが提示された物質の無際

限の分割可能性が取り上げられ,そこでははっきりと,「神は物質の小部分

を被造物によってはそれ以上分割されないようにしたとしても」,神自身は

「それを分割する能力」を有 しており, したがって 「絶対的にいうならば,

物質の部分は本性上分割可能なのであるから,どこまでも分割可能である」

と断言されている(A.T.ⅤⅠ111-1,p.15,pp.51-52)。この点は以下での論述に

関係することなのでここで付記しておきたい。

第四節 :永遠真理創造説の主要著作以外における登場

さて以上は,永遠真理創造説およびそれに連動する事柄と主要著作との関

係を取り上げたものであるが,なおこの問題は 『答弁』とこれまで取り上げ

たもの以外の 『書簡』および 『ビュルマンとの対話』にもあたって検討しな

ければならない。実際にこのテーゼはこれらの文献に一貫して認められ,し

かもいくつかのテキストにおいてはその内容がより豊かになっており,特に

神の全能の概念 (理解不可能性と自由意志の優越性,1630年の書簡における

I-H,l- Hf-B,ll-lI)についてはよりラディカルにさえなっている

のである。以下で,そのうちで注目すべきものに一つ一つ,ここでも番号付

けをしながらあたってみることにしよう。

まず 『答弁』では,この説は,ガッサンディに対する 『第五答弁』におい

(147)

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-32-

て簡潔に提示されたあと(A.T.ⅤⅠⅠ,p.380),『第六答弁』において二箇所に

わたって詳しく展開されている。一つは神の 「自由意志」との関係で,もう

一つは神の 「広大無辺性 (immensitas)」が主題となる箇所である。 初めの

箇所ではデカルトは次のようなことをまず述べる。「神の意志が.なされた

ものあるいはいっかなされであろうもののすべてに対してはるか昔から無差

別 (indifferens)ではなかったということは矛盾である」。 というのも,普

にせよ真にせよ,何であれ,「それについての観念が,神の意志が自ら決定

してそれをそのようなものたらしめるべく作出するのに先だって神の知性に

あるようなものはまったく仮想できないからである」。そこでデカル ト,そ

のことの例示として,神がこの世界を時間上で創造することを意志したのは,

そうすることの方が永遠の昔から創造するより良いと見たからではなく,ま

た,三角形の三つの角の和が二直角に等しいということを意志したのは,そ

れがそうでないようにはなりえないと認識したからではない,という。そう

ではなくて,神が,世界を時間上に創造することを意志したがゆえに,そう

でなかった場合よりもより良いのであり,「神が三角形の三つの角が二直角●●に必然的に等しい事を意志 したがゆえに,そのことが今,真なのであり,そ

れ以外にはなりえないのである」。デカルトは以上のようなことを述べた後,

結論として,「そういうわけで神における全き無差別性 (sllmmaindiffere-

ntia)は神の全能の最高の証左である」と断言する(A.T.ⅤⅠⅠ.pp,43ト432)0

このようにデカル トはここで,1630年の書簡における神の理解不可能性や意

志の優先性の概念 (I-日,lJ-ll)を発展させて,披造物の存在や真理内

容の決定の根拠は神の無差別な自由意志にあることを強調するのである(‖-

1)0

ついで第二の箇所でデカルトは,これと同様に,神の無差別性を根拠にし

て,真や善や法則を含めて一切のものが神の意志決定に依存するということ

を繰り返してのべたあと次のようなことをいう。 まず,デキル トは,・「いか

なる種類の原因によって,そういう善や他の数学的および形而上学的真理が

神に依存しているか」という問題にふれ,その原因の名称は,一般にはみら

れないけれども,それでも一つ与えられてあって,「作出的(efficiens)」と

いうのがそれであるという。 そう呼ぶことができるのは、,「王が法律の作出

者 (創出者effector)であるのと同じ理由によってである。 ただし,法律自

体は自然に存在するもの (resphysiceexistens)ではなく,そう呼ばれるよ

うに,道徳的存在であるにすぎないけれども」(A.T.ⅤⅠⅠ,pp.431-432)。 こ

(148)

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「デカルト永遠真理創造説」再論(-) -33-

こに1630年のメルセンヌ宛の書簡における永遠真理創造説の表明に兄い出さ

れるのと同じ問題提示 (ll- り,同じ比嶋と同じ説明(I-り とが認められ

る(llJ-Jl-A)0第二に,ここでデカル トは,人間による数学の永遠真理の認識とその真理

の根拠としての神の意志の (真理を他様にも設定 しえたし, しうるという)

無差別性との関係について,極めて重要かつ注目すべき説明を行っている。

それは次のようなことである。まずデカル トは.「どのようにして神は,は

るか昔から,四の二倍が八ではないようにすることができたのかと問うこと

は肝要ではない」という。「というのも,私は,そのことはわれわれによっ

ては理解することはできないと認めるからである。 しかし私は他方で,どん

な類の存在であれ,神に依存しないものは何もありえず,また,■神にとって

は,ある種のものごとを見事に設定して,それらが現にあるのとは違った仕

方でありうるということをわれわれ人間によっては理解されないようにする

ことは容易であった,ということを正 しく理解しているので,われわれが理

解せず,またわれわれによって理解されなけれなならないとはわれわれが認

めないことのゆえに,われわれが正しく理解していることを疑うのは,理に

反することになるであろう。そういうわけで,<永遠真理は人間の知性ある

いは他の存在する事物に依存する>と考えてはならず,それらはただ神にの

み依存し,神が,至高の立法者として,それらの真理を設定したのだと考え

なければならないのである」(‖-1トーB)(A.T.ⅤⅠⅠ,p.436)。

このテキストでデカル トは,一方で,われわれが現に理解するような数学

的真理でない真理を理解することはできないという。 しかしデカル トは他方

で,われわれは,数学的真理を含んですべての事物が神に依存し,神は事物

を容易に,われわれが現に理解するのとは違った仕方でありうるということ

をわれわれに知られないほどうまく設定 しえたといい, しかも,そのことは

正しく理解しているのであるから,前者の事柄の無理解性のゆえに,正しく

理解している後者の事柄を疑ってはならない,という。 この問題は次の章で

改めて検討し分析するが,ここでさしあたってまとめておけばデカル トの見

解は次のようなことだといってよい。すなわち,永遠真理の内容は神の自由●●●●意志の決定に起因しており,そのゆえに,その事態には,神は他様にも決定

できたということが合意されている。また,神の全能のゆえに,神は人間に

は知られない仕方で事物を他様に設置しうるということを考えなければなら

ない。そこで,人間にとっては永遠真理はそれ以外には事実上理解できない

(149)

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-34-

のであるが,そのことによって,われわれの方でそれは原理的あるいは絶対

的に他様にありえないと見なすことは許されない。というのも,そう見なす

事は,永遠真理がわれわれ人間知性に依存すると見なすことになるからであ

る。このように,デカル トは,数学の永遠真理の理解について,人間の認識

の見地だけでなく,神の自由意志 (無差別性)の形而上学的見地も離さず,

そのいずれをも複眼的に堅持するのである。いずれにしても,永遠真理創造

説は 『第六答弁』においてさらに豊かにまたラディカルに展開されているの

である。

さて最後に,なお注目すべきものとして,いくつかの書簡のなかの文面に

言及しておかなければならない。その第一は 「1644年 5月2日のメラン宛の

書簡」に登場するものである。ここでは永遠真理創造説は,論理法則や必然

性の様相概念をも射程にとりこみ.極めてラディカルで注目すべき主張を展

開するに至っている。そのテクストを,やや長くなるが訳しておくことにし

よう。

「いかにして神は,三角形の三つの角 (の和)が二直角に等しいというこ

と,あるいは一般的に,相矛盾する事柄は同時にはありえないということが,

真ではないようにすることが自由にまた無差別にできたのか,ということを

理解することの困難については,これは次のことを考察することによって容

易に除去することができる。つまり,(まず)神の能力にはいかなる限界も

ありえないということを考察し,ついで,また,われわれの精神は有限であ

り,それは,神が真に可能であると意志した事柄は可能であると理解するこ

とができるように創造されているが,神が可能にすることはできたであろう

けれども,にもかかわらず不可能にすることを意志 した事柄についてもまた

可能であると理解することができるようには創造されていない,ということ

を考察することによってである。というのも,第-の考察によってわれわれ

は,神が,相矛盾することは同時にはありえないということは真であるとす

るように決定されたということはありえない,ということ, したがって神は

それと逆のことをなしえた (ilapufairelecontraire)ということを認

識し,ついで,第二の考察によってわれわれは,そのことは真であるけれど

ち,それをわれわれは理解 しよ、うと努めてはならない,なぜなら,それはわ

れわれの本性の及ぶところではないから,ということを確信するからである。

そして,神は,ある真理が必然的であることを意志 したけれども.そのこと

は,神がその真理を必然的に意志したということではない。というのは,真

(150)

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「デカルト永遠真理創造説」再論(-) -35一

理が必然的であることを意志することと,そのことを必然的に意志すること,

あるいは,そのことを意志するように必然化 (強制)されることとはまった

く違うからである」(lV)(A.T.ⅠⅠ,pp.118-119)0

さて.ここでも問題は,先の 『第六答弁』の第二のテクストと同様,神は

いかにして,われわれが理解する真理と異なる真理を創造 しえたかというこ

とである。しかし,ここには 『第六答弁』にはない新たな主張あるいは概念

がある。それは第一に,ここでは神の自由あるいは無差別性が極度に押し進

められ,神は,単に現実の数学的真理が真でないようにすることができたと●●●●●●●●●●●いうにとどまらず,一般的に,矛盾律の逆をもなしえたと主張されているこ

とである。ここに,デカル トの, 1630年の書簡を含めてすべてのテクストの

なかでも,永遠真理創造説が擁する神の無差別な全能性についての最も過激

な主張が現われる。これに対 して.このような神が設定しうる事態について

の人間の理解可能性については,ここでは,単に,それは人間にとっては理

解できないとか,現にある仕方とは異なる仕方であって人間には知られない

と解されるにとどまらず,われわれの本性上及びつかないことなのであるか

ら.それを理解しようと努めてはならないと言われる。ここに神の測り知ら

れない全能と人間的認識の見地との対置の状況が呈示されるのである0

第二は,このテクスト後半部の,神の意志による真理の決定についての必

然性の様相概念に訴えた説明である。 この説明によれば,デカル トは,神が

ある真理が必然的であることを意志したこと,すなわち必然的真理の存在は

否定してはいない(7)。 しかし,デカル トは,神がその真理が必然的である

ことを必然的に意志したこと,すなわち絶対的ないし撫条件的必然的真理の

存在は否定する (現代流に必然性の様相演算子を使っていえば,Lpという

ものの存在は認めるが, Lp-LLpは認めない)。言い換えると,デカル トは

必然的真理の存在は認めるが,真理の内容とその必然性自体が神の意志決定●●の結果なのであって.その結果の必然性に神の意志決定の方が拘束され-8と

いうことはないと考える。デカルトは前述のように,神の意志に全き無差別

性を認め,したがって神の意志の所産はすべて偶然性を伴うとするのである

が,そのような 「偶然的原因性」の条件のもとで,その所産の内容自体に

「内的必然性」が込められると考えるのである。 このことは他方で, デカル

トが考える自然法則の性格にも関係する。すなわち,デカル トは,一方で,

永遠真理創造説の神が自然法則を設定 したと考えるのであるが,他方で,そ

の神は,その作用を 「不変的に」行使する神でもあると考え,その不変性に

(151)

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-36-

自然法則の不変性を根拠づける (『世界嵐 A.T,ⅩⅠ,p.38,p.43;.『哲学原

理』第二部,A.T.ⅤⅠⅠト1,a.36-37,pp.61-62;a二39,p.63)。 ここに神の意志

決定のもとで不変性を込められた自然法則という概念が認められるのである∫(このようなデカル トの見解は,神の見地に訴えるものではあるが,私見に

よれば,「自然法則の偶然性」あるいは 「数学の公理体系の複数性」の考え

に繋がるものと考えられる。 この点は次節で改めて取 り上げる)。

さて,最後に,デカル トの晩年に位置する二つの書簡を取 り上げておかな

ければならない.そこでなおも永遠真理創造説が登場するのであるが,この

二つの書簡でのテーマは共通している。そこではこのテーゼは再び自然学と

の関わりにおいて現われるのである.まず 「1648年7月29日のアルノー宛書

簡」に言及 しておこう。

そこでデカル トは,空虚の不可能性の問題を取り上げて,神の能力の無限●●●●●●●●●●●● ●

性に触れ,ついで次のようにいう。「私には,いかなる事物についでも、そ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●れが神によってなされえないとはけっしていうべきではないと思われる。実

際.真や善のあらゆる根拠は神の全能に依存するのであるから,私は,神が,

山が谷なしにある(utmonssitsinevalle)ように,あるいは-とこを加え

て三にならないようにすることはできないとはあえて いわない。ただ私は,

神は私に,精神を,谷なしの山や,三ではない-とこの和といったものは理

解できないようなものとして与えたのであり,そのようなことは私の概念把

握では矛盾を含む,という」。そこでデカル トは続けて,・・同 じことを,まっ

たく空虚な空間とか,事物の限界づけられた宇宙といった概念についてもい

わなければならないという。「というのも.それを超えて私が延長を理解で

きないような世界の限界などというものはまったく想定しえないし」,「延長

が存在するところには必ず物体 も存在す る」 か らである(∨) (A.T.Ⅴ,

pp.221-222)0ここでデカル トは繰り返 し,神の全能は実際の事実や現実の真理と異なる

ことをなしうること,しかし人間はそれを理解きないという-ことををのべた●●●●●あと,そこから自分が理解できることにについての肯定的主張として,無際

限の延長と物質の同一性のテーゼを呈示する。 ここに永遠真理創造説とこの

自然学のテーゼとの連接という1630年の主題が再現 している。 同じ事がまた

最晩年の 「モルス宛の1649年2月5日の書簡」にも兄い出される0

ここでも論述の端緒は空虚の問題であり,神の能力の無限性に言及される。

そこでデカル トがはいうのは次のようなことである。 すなわち, 「私はあえ

(152)

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「デカルト永遠真理創造説」再論(-)

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●て,神は私が可能であると理解することはすべてできると断言する。

37

●ま=Hu

J

・私■●●●■ ●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●かし反対に、神が私の概念把握 (理解)に矛盾することができるというこ

。し.と●●●●●●●●●●●●●

をあえて否定したりはしない。私はただ,それは矛盾を含むというだけであ

る」。このようにいった後でデカル トが主張するのは,彼が矛盾な く可能と

理解することは現実化されるはずであるということである。 その例として彼

があげるのが,空虚の否定すなわち 「空間即物質」のテーゼと 「物質の無限

分割可能性」のテーゼである。そこでデカル トは.ここでは,特に物質の無

限分割可能性について,神は,原子をあらゆる被造物 (人間)にとって実際

には分割不可能なものとしうるけれども.と断わったうえでおよそ次のよう

にいう。 -しかし,われわれは原子を延長せるものと想定 しているのである

から,それが分割されることが可能であるということは十分に理解できる。

そうするとわれわれが可能であると理解することを神ができないはずはない。

いいかえれば,われわれ (デカル ト)には実際に分割のすべての部分を数え

上げることはできないが.われわれは,神はわれわれが 「自分の思惟によっ

て把握しうる以上の多 くのことをなしうる」ということを知っているのであ

るから,その分割は神によっては徹底 しえないなどとは断定できない。 した

がって 「物質のある部分の撫際限な分割は実際になされるのである」 (Vl)

(A.T.Ⅴ,pp.273-274)0ヽ

さてここで注目すべきは,ここで引用した部分の最初に現われる文章が,

われわれが何度もとりあげた1630年 4月15日の書簡の結論部の二つの命題

(l- 11ト A,l一日トーB)の再現であるということである。 このうち第-の

命題 (I- llI-A)が1630年以来.自然学の推進の機能を果たしたのである.

ここでもその構図は同じである。すなわち,神はわれわれ人間が可能と理解

するものはすべてなしうるがゆえに,物質の無限分割のような人間には実際

的には不可能なことでもなしうるのであり, したがって,それが実在の物理

的構造と考えてよいのである。先のアルノー宛の書簡の内容もあわせていえ

ば,この晩年の二つの書簡にまで,永遠真理創造説によって自然学の基礎

(特に無際限の空間と物質の同一化)を与え,それを推進 しようという1630

年の構想が貫かれているのが分かるのである。しかも,そこでかならず,秤

は,われわれには事実上理解できないこと,すなわち現実の真理でないこと

をも自由かつ無差別になしえたという 「神の自由の全き無差別性」の主張が

現われているのである。

以上.永遠真理創造説と主要著作との関係を確認 し,このテーゼが現われ

(153)

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-38-

るテクス トの検討をおこなった。以上の,多少 とも考証学的作業を踏まえて

上で,次にこの永遠真理創造説に関する様々な解釈上の問題あよびそれが喚

起する理論的諸問題を検討 し分析することに しよう。 それは,永遠真理創造

説のデカル トの哲学における位置あるいはその位置の変化の問題,永遠真理

創造説 と 「欺 く神」の問題,永遠真理創造説 と数学 との関係 と, この説 と自

然学 との関係 との異同の問題,偶然性 と必然性の問題,人間の認識の視点 と

全能の神の視点の問鼠 永遠真理創造説の認識静的意義 といった事柄である

(未完)0

(注)

(1) 「永遠真理創造説再論」執筆の直接の動機は,1997年 7月に東京で 「デカル ト

研究会」によっておこなっていただいた,拙著 『デカルト哲学の体系- 自然

学 ・形而上学 ・道徳論- 』と 『デカルトの自然哲学』の合評会の折に私に寄

せられ様々な質問とコメントである。この合評会の発起人の香川知呂,小泉義

之,鈴木泉の諸氏,および司会の労をとられた村上勝三氏とコメンテイター役

の小泉氏と安孫子信氏にこの場で改めて感謝の意を表したい。また,特に,以

下の最近日本語で公刊された書物や論文で展開されている永遠真理創造説につ

いての解釈や論述が,今回の執筆の契機や参考となった。

G.ロディス・レグイス 「デカル トにおける永遠真理の創造」西村哲-釈),

『現代デカルト論集』1,フランス編所収,勤草書房,1996;E.M.カーリー

「デカルトの永遠真理創造説」(小泉義之訳),『現代デカルト論集』2,英米編、

勤草書房,1996年,所収 ;石黒ひで 「デカルトにおける必然性と不可能性の根

拠について」,『現代デカルト論集』3,日本編,1996:小泉義之 『兵士デカル

ト』,勤草書房,1995年。

(2) この点の評論は,『デカルト哲学の体系一 自然学 ・形而上学 ・道徳論- 』(勤

草書房,1995年),第二部序章第2節参照。またこの 「形而上学緒論」の内容

の立ち入った推察やそれと 『方法序説』や 『省察』との関係の綿密な考証学的

考察についてはG.Rodis-Lewis,"Hypothasesupl'6laborationprogre-

ssivedesM古dilalionsdeDescartes",inArchivesdephilosophic,

voll‥50,1987;DescartesBL-ographL'e.Galmann-Levy,1995,p.111f,.(3) この点についてより詳しくは前掲拙著,第二部序章第2節,80-81頁参照。

(4) 拙著 『デカル トの自然哲学』,岩波書店.1996年,第二章第二節 「デカルトの

主要著作における永遠真理創造説の登場」参照 (原著,LaphL'losophienalurelledeDescartes,Vrin,1993)

(5) この点を最初に指摘したのはG.Rodis-Lewisである.G.Rodis-Lewis,

L.'oeuuredeDescartes,tome1,Vrin,1971,p.135,邦訳 『デカルトの哲

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「デカルト永遠真理創造説」再論(-) -39-

学と体系』(小林 ・川添訳),紀伊国屋書店,1990年.147-148貢。前掲拙著

『デカルトの自然哲学』,39-40頁参照。

(6) 以上の点を含む,『哲学原理』における形而上学と自然学との連接の関係につ

いてのより詳 しい論述については,M.Kobayashi."L'articulationde

laphysiqueetdelam'etaphysiquedamslesPrincipla",inDescartes:

PrincipiaPhilosophiae(1644-1994),Vivarium Napoli,1996を参照さ

れたい。

(7) この点,E.M.カーリーが,上記の論文 「デカルトの永遠真理創造説」のなか

で展開している解釈に賛同する。

<注記>

本文中のA.T.はAdam-Tannery版デカルト全集 (Vrin-C.N.R.S.刊)の略。そ

の後のローマ数字は巻を示す。なお本文中の傍点はすべて筆者によるものである。

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