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稿 使 -1-

かつ吉|渋谷、新丸ビル、日比谷国際ビル、日本橋髙島屋S.C ...Created Date 7/15/2012 1:55:49 PM

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  • 本稿は昭和四十六年八月

    二十

    二日、松本市で開かれ

    た長野県下

    の県立高校八十

    二校

    の事務職員総会

    の席上

    行な

    った講演記録に筆を加えたものであります。

    味覚というもの、味というもの、これはあたりまえで

    いて、たいへんむずかしいものですが、いったい味覚と

    はどういうも

    のでしょうか。味覚の

    「味」は

    へん

    ″未

    ″で、これは十二支の

    「未

    (ひつじ)

    」という字で

    す。

    は未

    羊とはどうなュ思味

    の字で

    あるかというと、これはめでたいこと、立派だとか、良

    いという意味をあらわす字で、いいことに使われます。

    たとえば

    「美」

    「義」

    「善」

    「祥」および

    「妹」などが

    それです。

    そこで

    「味」は日によろしいということで、つまりう

    まいということになります。次に味覚の

    「覚」は

    「おぼ

    える」とも読みますが、その字意は

    (咬

    らか)

    に見

    (み)るということで

    「さとる」という意味をも

    ってい

    ます。口でおいしさを悟るというのが味覚であります。

    ただ物を食

    べて腹がいっぱいにな

    った、などというのは

    味覚ではない。ですから、

    「味覚」という言葉は人間特

    のもので犬や猫や牛や馬には通用しません。それらの

    動物は、も

    っぱら本能的な好悪

    (こうお)に頼

    って、味

    そのも

    のはわからず、まして物を味わ

    ってさとりを開く

    -1-

  • ようなことはできない。

    それでは

    「味覚」というものは、いったいどんなとき

    に現われてくるものだろうか。

    「柿食えば鐘が鳴るなり

    法隆寺」という子規の句がありますが、鐘というのは撞

    (しゆもく)でついて鳴らすのですが、撞

    が鳴

    のか、鐘が鳴るのか、どっちが鳴るのかきめることはむず

    かしい。昔から禅問答でよく使われる問題ですが、撞木

    が鳴るとも

    いえないし、鐘が鳴るとも

    いいきれない。強

    いていえば、鐘がふるえて空気が振動するわけですが、

    鳴るということを感じるのは人間

    の耳の鼓膜である。人

    間がつんぼの場合は、撞木でいくらついて鐘がふるえて

    も開きとれない。ですから子規の句は、実際には

    「柿食

    えば俺が鳴るな

    り法隆寺」が正

    しいのです。

    たいへん理く

    つっぽい話にな

    りましたが、物

    理学的にいえば

    鐘が振動すると

    その振動の空気

    の波が人間の耳

    の鼓膜に伝わるのですから、人間がそれを聞きとらなけ

    れば鳴

    っていないわけです。

    「大学」という本に

    「心こ

    こに在らざれば視れども見えず、聴けども聞こえず、食

    らえども其

    の味を知らず」という言葉があります。味覚

    というものは心にかかわることで、いくらうまい物を食

    わせても、少しもうまいと感じない人がいるわけです。

    こういう手合いは、そのままではどうにもしょうがない

    のです。そのへんに教育とか訓練とかいうも

    のが必要に

    ってくるのではないでしょうか。教育

    の本旨は、事を

    覚えさせるということだけではなく、覚

    (悟)らせるこ

    とだと思うのです。ですから、人間が物を味わうことは

    修業するとか、精進

    (しょうじん)するとかいうことで

    って、これが悟り

    への道ということになります。

    禅宗やキリスト教は

    「自力本願」の宗教だといわれ、

    南無阿爾陀仏

    の浄土宗は

    「他力本願」の宗旨だといわれ

    ます。大まかに、そのようなことがいわれますが自力と

    他力

    の両方に挟まれてみないと、人間はほんとうの悟り

    は開けないということです。うまい物にめぐり会いたい

    他力の念願が叶

    って、それに出会う。そのうまさをシカ

    と受けとめる自力が具わ

    っていてその合致で

    「うまさ」

    が発生するのです。仏教に仏法僧の三宝に帰依

    (きえ)

    するという言葉があります。うまさを作り出す人

    (僧)

    「大学」道春点

    ・伝之七章

    -2--3-

    の腕と、それに感応する人の能力

    (法)は、仏

    (味)に

    めぐり会う。これは

    「縁」によ

    って定まる、と言えます。

    この三位は本来それぞれに内向きに位置して、融合でき

    る性質のものです。

    むかし私は、高階朧仙禅師に

    「仏道を

    一言で言

    って下

    さい」と申しましたところ、禅師は言下に、

    「縁」と言

    われた。

    「それなら、縁なき衆生

    (しゅじょう)とは、

    =警一の禅師の染筆です。

    いしん坊というものは

    ッツキとちが

    って、食

    物を敬

    (うやま)

    い愛

    (い

    とし)む者です。この意味

    から、二者対立闘争の唯物

    弁証法的

    「ガ

    ッツキ」思想

    からは味は出てこないし、

    その敵対的発展はどこまで

    進んでも、悟りの極限の大

    園鏡智

    (岡 潔先生の)に通じることはありません。

    東京の赤坂に楼外楼という中国料理屋がある。そこに

    は深志高校校長の平林六爾君とも

    一緒に行

    ったことがあ

    るが、この店は魚翅

    (ユイテー

    ・フカのヒレ)の料理を

    うまく食わせる上海系

    の料理屋です。その煮こみはピー

    スの箱ぐらいのものが四つ並

    べてあ

    って

    一皿二千円以上

    するのですが

    その値打ちは充分にある。私の店はとんか

    つ屋ですが、店員につねに他流仕合をさせるために食

    歩きを命じています。うちの店の者たちに、フカのヒレは

    東京ではどこが

    一番うまいかときくと、や

    っぱりここが

    うまいという。これが味

    の軌道に乗

    ってきた証拠なので

    す。ほかの中国料理屋では、あれほどにはゆかない。私

    は飲食店をや

    っている関係上、店員たちをこの店に連れ

    て行

    って、これをまず食わせてみるが、はじめは、とん

    かつ屋にきて働

    いている若

    い人たちは、地方から出てき

    たものが多く、そううまいものを食

    った経験がないので

    (笑

    い)

    「おやじさん、こんなも

    のどこがうまいんです

    か、

    コンニャクでもなし、餅でもなし……」という。

    「お前たち、自分で金を出して食わないからチンプンカ

    ンプンなんだ。自分

    一人で行

    ってみろ」とお

    っ放して行

    かせると、こんどは

    「あれはおやじさん、ず

    いぶん一局い

    ものなんですね」という。

    「高

    いことだけがわか

    って、

    榔螂螂榔

    脱罐れ

    「ら

    い蝉「は一年は

    時 ‐こ

  • うまいことはまだわからないのか」というんですが、一二、

    四回行

    っているうちに、そのうまさがいくらか身にしみ

    てくるのであります。味

    のことだけは教えるわけにゆか

    ない。いくら、こういうわけだからうまいといっても、

    そうかというわけにはゆくも

    のではない。

    刀鍛冶の正宗は弟子に名刀だけを見せて、け

    っして駄

    ものを見せなか

    ったそうです。星ヶ岡茶寮の北大路魯山

    人は、調理人たちに

    「出張先で井などを出されても箸を

    つけてはいけない。自分の腕より低

    い料理は食

    べてはい

    けない」と言

    ったそうです。

    さて、味

    のつかみにくいフカのヒレの料理のような例

    は、まだいろいろありますが、それは実際食わせてみて

    教育するより仕方がない。だから私の傘下に列しても軌

    道にのるまでに五年も六年もかかる。私の住居は店員寮

    のすぐ隣りにあるが、私の方に遊びにくるようになるま

    でに三年ぐらいかかる。

    「あのおやじ、プ

    スッとしてい

    るから、なるべく寄りつかない方がいいだろ”こ

    と、あま

    り私のところには寄りつかない。それが三年も過ぎると

    「なんだ、かんだ」と難題を持ち込んでくるようになる。

    そうな

    って、はじめて教育が始まる。ことに日本料理の

    源流の中国料理はたいへんむずかしいもので、いまどき、

    皆さん日中友好をやろうじゃないかといって中国

    へ行か

    れる向きが多いけれども、実際に向こうで出されたも

    の味がほんとうにわか

    っているならいいが、郭沫若氏に

    北京飯店によばれたことだけを帰国土産にひけらかし、

    うまいかまず

    いかという鼎

    (かなえ)

    の軽重をはかりえ

    ないまま帰

    ってくる。それじゃ頼りないから、まず日中

    交流には日本人の舌の訓練から始めようじゃないかとい

    うのが私の持論である。

    このように味覚というものは訓練しないと、なかなか

    ってゆかないも

    ので、生まれつきの天才というものに

    頼るわけにはゆかない。信州の″おはづけ

    ″がうまいと

    いっても、われわれが子どものころから食

    べているから

    うまいことがわかるので、東京の素人に食わせたら、あ

    んなホロ苦くて、すじ張

    ったも

    のより白菜

    の方がうまい

    というのが相場である。そういうことは味覚の幅

    の訓練

    が足りないからだと思

    います。

    「すみませんが、子供

    のサンドイツチは

    マスタードを

    ぬいてや

    って頂戴」などと云

    って、自分ではビフテキに

    辛子をベタベタ塗

    って食

    べている母ちゃんがいます。調

    理場の方ではこういうサンドイ

    ツチに日の丸の小旗を立

    てて出して来ます。何も知らない子供は、こういう唾液

    を吸いと

    ってしまうも

    のがサンドイ

    ツチだと思い込み、

    ペテンにかけられて食

    べてはいても、これほど鉦躍劣詣杯

    -4--5-

    なものはないと感づ

    いてはおります。唾液腺を刺激して

    唾液を催うさせるように処方調製されているものを、ど

    うして、そんな

    へんぱなも

    のにして食

    べさせるのでしょ

    うか。こんな母ちゃんは必らずというくらい、おジ

    ュー

    スを注文して子供に飲ませます。かくして、子供はせ

    かくの

    「一期

    一会」

    (いちごいちえ)

    の機会を失

    って、

    味覚

    の発達が遅れて行くのです。

    お子様ランチというものがあります。これはたいてい

    オムレツにケチャップをかけたものに

    ハムかソーセージか、それ

    に野菜が添えてあります。こんな料理は家庭で子供にい

    つも作

    ってや

    っているのに、お子様ランチなら子供にあ

    たるようなことはないだろう、という浅はかな母性愛か

    らこれを注文します。このお子様

    ランチにも海軍旗など

    の小旗が立ててあります。

    「板前さん、子供

    の方はサビぬきで……」と云

    って、

    自分だけは本

    ワサをきかせた大トロを頼張

    っている父ち

    ゃんがいます。サビ抜きでは生ま物の寿

    いけ

    ませ

    ん。板前は仕方なく、玉子か海苔巻を子供に出します。

    サンドイ

    ッチは、かき立てのマスタードがピリッとき

    いて、その風味が日の中に残るところに値打ちがあるの

    です。寿司も、すり立ての信州穂高山葵

    (わさび)

    の利

    きと風味が物をいうも

    ので、本命を外したゲテ物を子供

    にあてが

    って、大人の自分達だけ、うまいものを食

    べて

    いるなんて不埓

    (ふらち)なことがありましょうか。母

    子の愛、父子の親を誤

    っている親達です。こんな親に限

    って、お勉強

    の催促ばかりしています。食

    べ物にぶつか

    ってその味を知ることが、お勉強だと思えないのだから

    仕方ありません。

    「子曰く、己の欲せざるところを人に

    施すこと勿れ」

    (論語顔淵)、という句をはやく子供に

    教えてや

    って下さい。

    料理というものは、まず材料

    の吟味が第

    一です。出場

    所と旬

    (しゅん)を知

    っていて、材料の品質を見きわめ

    なければなりません。ビ

    ニール・ハウス作りの茄子や胡

    瓜が年中出盛

    っていて、また、養殖の

    ハマチが寿司屋に

    絶えることがありません。だいぶ前

    のことで、十円寿司

    が流行

    っていた頃の年の暮に、長男

    の潤

    一郎をつれて銀

    の十円ずし屋で

    「寒鰤」

    (かんぶり)ばかりを握らせ

    ました。二人で二十四個食

    べると、板前が

    「もう勘弁し

    て下さい」という。長男はその時、何のことだかわから

    ない、狐につままれたような顔をしていました。

    料理は大まかに分けて、極めて手のかか

    ったも

    のと、

    手を入れずに材料

    の味そのも

    のを舌にブ

    ッつけるも

    のの

    二通りになります。私のや

    っているとんかつなどは寿司

    のように

    一番単純な料理です。なぜかというと、肉

    のい

  • いのを買

    って、よく掃除して、厚めに切

    って、いい衣を

    着せて、いい油で揚げれば食える。まず

    い肉を買

    って、

    いくら上手に揚げようと思

    っても、それはできるもので

    はない。ちょうど刺身と同じで、ほうちようの切れがい

    いとか、ツマがいいといっても、種そのも

    のが悪ければ

    絶対にうまくないように、油その他

    の材料がよく揃

    って

    いなければ、トンかつはうまくない。ですから、その単

    純な行程

    「感」が少しでも狂

    ったら、 一本勝負の負と

    ってしまいます。

    牛肉にしても赤坂あたりの料理屋に行

    って、ちょっと

    三人ぐらいですき焼を注文すると三万円ぐ

    い取

    る。よくもこう高く売るものだと思うが、向ン」うにいわせ

    ると、畜牛にビールを飲ませたり、 マッサージをして大

    事に育てている手作りの牛だから値打ちはある、あれだ

    けの肉は欧米にもないし、それは日本独特

    の味を持

    って

    いる、という。同じ牛肉にしても、そこらで車を引

    っ張

    っている牛を殺して食

    べたら、肉にち

    っとも風味がない。

    牛というも

    のは、古

    い時代に朝鮮から渡来したもので、

    黄牛

    か黒牛という朝鮮系

    の手飼いの牛肉を使えば、たし

    かに風味がある。だから、 一人前

    一万円ぐらい取られて

    シャクにさわる必要もないし、驚くほどの値段でもな

    いわけである。

    そういうように、もともと味

    のあるも

    のは、誰がどう

    料理しても、 一応食

    べられるが、もともと味

    のないのが

    さきほどのフカのヒレである。三流、三流の中華料理屋

    に行くと、シッポや

    ヒレの暦

    のようなも

    のを煮込んで出

    すが、赤坂の楼外楼

    のフカのヒレは、そうでなくて原形

    の姿のも

    のを煮込んである。この料理を食

    べると腹がい

    っぱいになるというわけでもないし、栄養にはなるかも

    しれないが、そのためばかりに食うのでもない。それは

    ともかく、そんな味

    のないものを、どう始末して、うま

    く食わせるかが料理人の腕である。このフカのヒレによ

    く似たものに燕富

    (エンカ

    ・ツバ

    メの巣)がある。これ

    は山東省の海ツバ

    メが海草でつくる巣を、●ックZフイヽヽシグ

    みたいに綱を使

    って崖を下りて行

    って採

    ってくるんです

    が、たいへん値

    の高

    いものです。そのお値段のものが、

    もとの材料

    の味には全然うま味がない。それは干しわか

    めのようなものですが、これをどう味

    つけするかという

    ことに問題があり、その味

    のつけ方に家伝

    のようなもの

    がある。これと同じようなものにナマコがある。このナ

    マコをうまく食わせる中華

    の料理人だ

    ったら、ラーメン

    やワンタン、ギ

    ヨウザなどは楽に食わせる腕

    の人です。

    さて、そのナマコだとか、フカのヒレだとか、ツバ

    の巣だとかいうものを、いかに料理するかという腕がな

    -6--7-

    かなかできない。中国の諺

    (ことわざ)に

    「衣は

    一代、

    住は二代、食は三代」という言葉がありますが、料理が

    安定して定着するのに三代

    (約百年)かかるということ

    です。

    本職のトンかつのことを離れて、中華料理のことばか

    りに力を入れているようにお聞き取りになられるでしょ

    うが、味

    の真髄は、老子のいう

    「無味」にあるので、こ

    の無味をいかに料理するかが

    「料理道」の極意だと、私

    は考えております。

    普通、五味

    (馘苦酸辛甘)だけが味のある

    「有味

    」で、

    「無味」は味のないものだと思われがちですが、実は、

    無味は味が無

    いのではなく、淡

    (あわ)

    いからわかりに

    くいのであります。われわれは、この微妙な

    「淡」の基

    盤に舌を据えて、味わうことに心掛けなければならない

    のです。この意味で無味は、味が全然ない

    「虚」(から)

    でもなく、 コ令」

    (ぜろ)でもありません。その味は、

    般若心経

    「色不異空、空不異色

    (色は空に異らず、空

    は色に異らずと

    「空」という表現が適

    切だろうと思

    います。

    の五彩とか五色をよく攪

    (か)き混ぜると

    「灰白」

    になります0五味をよく混ぜ合わせると

    「淡白」になり

    ます。このことは、灰白は色であり、淡白は味である、

    ということです。心経には、前

    の言葉に続

    いて

    「色即是

    空、空即是色

    (色は即わち是れ空、空は即わち是れ色ビ

    とたたみかけ、二っの方程式にその逆もまた真な0証明

    をつけ、四つの方程式をも

    って、色と空の等しいことを

    論証しています。われわれは、この

    「色」に

    「味」を代

    入すれば、味が空に等しいことが納得できます。ン」の「空

    味」

    (くうみ)と云

    ったようなものを、「無味」とか

    ョ盗

    と称ぶのであります。無味と有味は、無と有の対立では

    なく、無味は有味を包摂

    (ほうせつ)する味

    の基盤、味

    の総合と考えていいでしまフ。

    日本

    へ亡命中の中国の政客

    ・胡蘭成氏から

    「自木耳」

    (白きくらげ)をもら

    ったことがありました。これは日

    本で輸入している中国料理材料

    の最高

    の値

    のもので、 一

    斤六、七万円のものですが、それ自身の味は無味

    で、味

    もソッケもないものです。うちで煮て食うのも勿体ない

    ので、山水楼社長

    ・宮田武義氏に上げたら、宮田氏は皇

    后陛下の御病気見舞のためにこれを料理し、そのおすそ

    分けを壷に入れて私のところに届けてくれました。

    「君

    子の交わりは淡きこと水の如し」

    (礼記)という言葉が

    ありますが、そのような味わいを私は今でも忘

    れま

    ん。行き

    つくところ、水もののスープが問題で、羊のス

    ープは羊羹、野菜

    のスープは菜羹、洋食ではブイョンと

  • いうように称ばれているものが、料理の本質を左右する

    ことになります。

    タレ

    (垂れ)などもその類

    のものです。私は以前大陸

    にいたんですが、中国の北京に有名な羊肉飯館

    (ヤンロ

    ーファンカン)があります。その店は辛亥革命

    (一九

    一)で清朝が

    つぶれて大騒動にな

    ったときに、店主の二

    兄弟が何を持

    って逃げたかというと、家伝

    のタレを持

    て四川省

    の方まで逃げて行

    ったということです。それほ

    どタレというものは大切なものなのです。

    東京でも、のれんのあるうなぎ屋は蒲焼のタレを大切

    にする。うちのタレは三百年伝来

    のタンであるといって

    自慢したり誇りにするわけです。タレを使う焼鳥屋もそ

    れと同じです。銀座

    のある焼鳥屋にま

    つわる話ですけれ

    ども、そこの店には作家の常連が多い。その店の主人に

    「まことにすみませんが、今度北海道に鴨打ちに行くか

    ら、お宅のタレを少し分けてください」と頼んだ人がい

    る。

    「どのくらいいりますか」というから

    「一升びんに

    一本分けてください」というと

    「いや、そんなに差し上

    げられない、半分ぐらいにしてください」といわれて半

    分もら

    って北海道に出かけた。ところが、そのタレをつ

    けて鴨を焼

    いて食

    べてみると、ち

    っともうまくない。帰

    ってきて

    「あのタレは全然うまくなかったよ」というと

    K曇 義:f著「聯轟燿

    村松槍風氏書

    「それは焼き方がまずか

    ったんじ

    ゃないですか」という。実は、そ

    れは焼鳥に常に使

    っているそこの

    店の古いタレではなく、テレビの

    お料理教室の調合の即製

    のものな

    ので、そこの家のと同じような調

    合ではあるが貫禄が全然ない。味

    ってみると全然風味が違うわけ

    です。そこの家の主人は、とぼけ

    てそんなことを言

    ったけれども、

    ほんとうはタレなど、やすやすと

    人にくれられるわけのものではな

    いのです。

    村松槍風さんを宮田武義氏が誘

    って日本橋の店

    へこられたことが

    ありました。そのとき槍風山人は

    日本橋店開店の祝

    いにこんな句を

    いてくれました。

    「古書読むべ

    く、古酒飲むべく、旧友親じむべ

    し」と。古書と古酒には旧友

    の味

    があるというものでしょう。

    日本では古来

    「新酒」と

    米」

    -8--9-

    を貴ぶ風があり、

    「古米」などを目の敵

    (かたき)にい

    たしております。銀座

    のランブ

    ル珈琲店、これは辻嘉

    さんの推奨する店ですが、店主の関

    口一郎さんは

    「コー

    ヒーの豆は十年ねかさなきゃほんとうの味は出ませんね」

    という。気の長

    い話だが、関

    口さんは目下、自宅に豆袋

    の手返しのできる貯蔵庫を造

    っているそうです。古米手

    持ちの政府も弱気を起さずに、大

    いに気を強くして、米

    をねかせて味

    の出る方法をひねり出し、

    「古米味わうべ

    し」と宣伝すべきだと思うのです。

    そういうわけで、料理はそれぞれ工夫をこらしたとこ

    ろから味が出、料理屋というものはおのおのの店が、み

    んなそれぞれに自分の特質を持

    っている。学校でもそう

    で、深志は深志

    の特徴を持

    っており、清陵は清陵

    の特徴

    を持

    っている。その他

    の高校も、みなそれぞれ自分の特

    徴を持

    っているというふうに、店屋も全部それぞれに特

    徴があるのです。殊に中華料理屋においでにな

    ったとき

    は浙江料理だとか、北京料理、広東料理、あるいは上海、

    四川とい夕ように、いろんな料理の看板がかけてあるの

    で、その看板をよく見て、そこの家の特徴は何かと考え

    て注文しなければ

    いけない。四川省の山の奥の、音

    の蜀

    の国の伝統

    の料理で四川料理というのがありますが、そ

    んな看板

    の店に行

    って海の鮮魚

    の料理を注文するのはバ

    力げた話です。

    それから、中国料理屋に行

    って、やたらビールを飲む

    なんてのは無意味であり、なめられることになる。やはり

    広東料理だ

    ったら、その近所

    の責州の銘酒

    ・茅台酒

    (マ

    オタイチュウ)、天津だ

    ったら、その近くの酒

    ・五加皮

    (ウチャピーチ

    ュウ)などを注文しなければ

    いけない。

    大阪や神戸のすき焼屋に入

    って東京のビールなどをガブ

    飲みするとなめられてしまう。やはり、灘

    の生

    一本を飲

    むべきだろう。

    きのう平林君に松本

    の本曽屋によばれ食

    いきれないほ

    ど料理が出てきた。食

    いきれないときは食

    い散らさない

    で、必ずそれを持

    って帰る。

    「女中さん、これを折に入

    れてくれませんか」といって、豆腐

    の田楽でも、鯉の甘

    露煮でも、何でも全部持

    って帰

    ってきてしまうのが定法

    です。ことに上等

    の料理屋に行

    ってそれをやると非常に

    喜ぶ。次に行

    ったときの料理が違

    ってくる。これは食

    しん坊がよく使う手なんですが、出されたものを大事にす

    る人たちが通

    (つう)

    の常連というものなのです。料理

    の味を味わうときは、そこまで考えていないといけませ

    ん。ただゼ

    ニを払うんだから、おれは客だし、お前たち

    は売り手だというようなことじゃ、なかなかうまいもの

    にはありつけない。