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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 自然像における神の超越と内在 : ヨーロッパ精神史におけるもう一つ の逆説(Another Paradox in the Western Intellectual History) 著者 Author(s) 小野, 紀明 掲載誌・巻号・ページ Citation 神戸法学年報 / Kobe annals of law and politics,4:109-127 刊行日 Issue date 1988 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81005111 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005111 PDF issue: 2021-06-29

Kobe University Repository : Kernel神戸法学年報 / Kobe annals of law and politics,4:109-127 刊行日 Issue date 1988 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper

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  • Kobe University Repository : Kernel

    タイトルTit le

    自然像における神の超越と内在 : ヨーロッパ精神史におけるもう一つの逆説(Another Paradox in the Western Intellectual History)

    著者Author(s) 小野, 紀明

    掲載誌・巻号・ページCitat ion 神戸法学年報 / Kobe annals of law and polit ics,4:109-127

    刊行日Issue date 1988

    資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

    版区分Resource Version publisher

    権利Rights

    DOI

    JaLCDOI 10.24546/81005111

    URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005111

    PDF issue: 2021-06-29

  • 自然像における神の超越と内在

    一一ヨーロッパ精神史におけるもう一つの逆説一一

    小野紀明

    我々は、中世から近代への移行期のヨーロッパ精神史において生じた一つの

    逆説を知っている。それは、中世の合理主義的世界観から近代のそれへと転換

    する際に一時的に非合理主義的風潮が隆盛をきわめ、新たな合理主義を生み出

    す上で非合理主義がいわば触媒の役割を果たしたという事実である O 無論、

    (1) 丸山真男氏は、徳川期の政治思想史に生じた同様の逆説を指摘している。「ところ

    で近代的精神は合理主義をその重要なる特質のーとしている。しかるに朱子学より但

    徳学を経て国学に至る経過は一応合理主義よりむしろ非合理主義的傾向への展開を示

    している。これは如何に説明さるべきか。この問題についても、われわれは二つの側

    面から考察を進める必要に迫られる。第ーはいわば世界史的な過程からの考察であり、

    第二は朱子学の特殊的性格からのそれである。まず第一の点から論じよう。近代的理

    性は決して屡々単純に考えられる様に、非合理的なものの漸次的な駆逐によって直線

    的に成長したのではない。近代的合理主義は多かれ少かれ自然科学を地盤とした経験

    論と相互制約の関係に立っているが、経験志向が専ら経験的=感覚的なものに向う前

    には、形而上学的なものへの志向が一応断たれねばならず、その過程においては理性

    的認識の可能とされる範囲が著しく縮小されて、非合理的なものがむしろ優位するの

    である。われわれは欧州の中世から近世にかけての哲学史において、後期スコラ哲学

    の演じた役割を想起する。ドゥンス=スコートゥスらのフランシスコ派やそれに続くノミナリスト

    ウィリアム=オッカムらの唯名論者は、盛期スコラ哲学の「主知主義」との闘争にお

    いて、人間の認識能力に広汎な制限を付与し、従来理性的認識の対象たりし多くの事

    項を信仰の領域に割譲することによって、一方に於て宗教改革を準備すると共に、他

    方に於て自然科学の勃興への路を開いた。但徳学や宣長学に於ける「非合理主義」も

    まさにこうした段階に立つものにほかならぬJ (丸山真男、『日本政治思想史研究』、

    東京大学出版会、 1952年、 185頁) 同様の指摘は、同書、 236頁以下にも見られる。

  • 110 神戸法学年報第 4号(1988)

    中世の合理主義と近代のそれとを同列に論ずることは許されない。道徳規範と

    自然法則との分離をまだ知らない中世の目的論的な自然法的秩序と近代の没価

    値的な因果論的秩序とは全く異質なものであるし、当然のことながらそれらの

    各々を認識する理性の性格もまた異なる O にもかかわらず、主観的な恋意を排

    する客観的な秩序の存在に寄せる信頼において、換言すればペルゾーンに対す

    るイデーの優位を自明視する点で、両合理主義は共通していると考えられる O

    これに対して、後期スコラ学の内部で繰り広げられた論争に発し、宗教改革の

    見えざる神の理念を経て、ホッブスの機械論的哲学において頂点を迎える主意

    主義や唯名論の立場は、普遍的且つ客観的な道徳的秩序の存在を否定し、或い

    は少なくともその認識可能性に疑いを抱き、恋意的に秩序を作為しようとする

    限りにおいて、きわめて非合理主義的な性格を帯びていたD また、その過程に

    おいて中世の目的論的基礎づけを奪われ、しかしまだ因果論的観点を獲得しえフオJレトウナ フアートウム

    ない自然界の秩序は、運命や宿命といった異教的観念をもってかろうじて

    説明を施されているにすぎなかった。

    16世紀のヨーロッパを襲ったこの思想的混迷の真の原因は、自然と社会とを

    基礎づけるべき超越的根拠の欠如に存する。言うまでもなく神による無からの

    創造という教義を奉じる中世のキリスト教的世界観においては、世界の根拠は

    絶対的主観たる超越神に求められ、この神に由来する自然法によって世界の客

    観的秩序が保たれていた。諸存在をそのものたらしめている根拠、すなわち形

    相は、アリストテレス主義との折衷を企てたトマスの体系にあってもなお個物

    の前に (anterem)、つまり諸存在から超越するものとして認められていた。

    他方、近代的世界観の下で同様の根拠は、まず理神論的な神として、やはり超

    越的に、次いで、近代合理主義が進展して機能主義的思惟が優勢になるにつれて

    神の影像は薄れていったにもかかわらず、今度はその神の位置をわがものとし

    た自律的な認識主観として、依然として超越的なところに求められ続けたので

    ある O 執れにしてもそこでは、創造主たる神と被造物としての世界、自律的な

  • 自然像における神の超越と内在 111

    認識主観とそれによって構成される客観的世界という形で、主観と客観との、

    換言すれば形相と質料との二元論がしっかりと保持されている O これに対し

    て、超越的神とそれによって与えられた客観的秩序への信頼に動揺をきたした

    16世紀には、世界の根拠は世界そのものに内在することになり、従って形相は

    質料に内在するという考え方、より正確に言うならば、質料が不断に自己の内

    部から形相的要素を産出するという考え方が優位に立った。形相という当為の

    根拠の超越性が剥奪さuれてしまったが故に、一方で道徳規範に関しては伝統的

    自然法への信頼が失われ、主意主義や唯名論が拾頭したと同時に、他方で自然

    像に関しては不変的な法則的秩序の存在を否定する汎神論的自然像の優勢を見

    るに至った、と言えよう O 近代への過渡期に現れたこの有機体的、汎神論的

    自然像についてカッシーラーは次のように述べている。「自然の真の本性は創

    造されたものの領域、つまり所産的自然 (naturanaturata) にではなくて創造

    するものの領域、つまり能産的自然 (naturanaturans)に求められねばならぬO

    自然は単なる被造物以上のものであり、そして自然そのものには神の作用する

    力がみなぎっているから、それは神の本源的な実在に参与することができる O

    (2) この辺りについて詳しくは、拙著『精神史としての政治思想史一一近代的政治思想

    成立の認識論的基礎一一.! (行人社、 1988年)を参照。

    (3) 我が国の徳川期の政治思想史においては、聖人による道徳規範の作為を説いた但徳

    学が主意主義や唯名論の側面を、また主情主義的性格の濃厚な国学が汎神論的自然像

    の側面を代表している、と考えられる。後述されるように汎神論的自然像は形相一質

    料二元論を斥け、質料的自然そのもののうちに形相的要素を認める点に特色があるの

    だが、国学における感情の絶対視は、認識論において感情という質料的部分を悟性と

    いう形相的部分に対して優位せしめたものと考えられるからである。「契沖の歌学に

    あってはこのように人間の自然なありのままの感情の表現が主張せられ、人間はもっ

    ぱらかかる感情の主体として捉えられている。このように契沖に見出された人間感情

    の尊重と、情的人間像とは賀茂真淵にも同様に見られるところであるが、宣長にいたっ

    て最も明白な形の下に登場し、国学を貫き流れる一つの底流としてその政治思想に独

    自の性格を与えるに至るのである。J (松本三之介、『国学政治思想の研究』、未来社、

    1972年、 44頁)

  • 112 神戸法学年報第4号(1988)

    これによって創造者と被造物という二元論は止揚された。」

    16世紀の有機体的、汎神論的自然像は、物質一元論へと近づいたテレジオや

    カルダーノといったイタリア自然哲学の思想家にも、自然を魔術的に把握する

    ことを試みたアグリッパやパラケルススといった北方ルネサンスの思想家にも

    等しく見られるものであるが、ここでは代表的な汎神論者ジョルダーノ・ブ

    ルーノに若干言及しておくことにしよう O ブルーノの汎神論は、なによりも

    まずその無限宇宙観に特徴がある。「私に言わせれば、宇宙は全体の無限 (tutto

    infinito) です。なぜならば宇宙には縁も終りもありませんし、これをとり囲

    む表面もないからです。が宇宙は全的に無限 (totalmenteinfinito) なのではあ

    りません。宇宙から採り出すことのできるその各部分は有限なものであって、

    宇宙のなかに包まれている無数の諸世界もその一つ一つは有限のものですか

    ら。また神は全体の無限です。なぜなら神はいかなる制限も属性も帰されるこ

    とを拒絶するーにして無限なるものだからです。そしてまた全的に無限なるも

    のとも言われます。神は全世界にくまなく遍在し、そのそれぞれの部分のなか

    で無限かっ全的に存在しているからで、す。」無数の有限な世界を包摂する無限パンティスムス パネンテイスムス

    の宇宙そのものを神と看倣すブルーノの汎神論、或いは万有在神論一ーなぜ

    なら神は宇宙そのものであると同時に、すべての有限な個物の中に宿っている

    とも彼は主張しているからであるが一一は、従来の自然像を徹底的に破壊する

    革命的な力を秘めていた。神が超越性を喪失して宇宙に内在した結果、神によっ

    て目的論的秩序の下に創造された世界というアリストテレス的、中世的自然像

    は崩壊せざるをえなかった。能産的自然というダイナミックな自然像は、スタ

    (4) Cassirer, E., Die Philosophie der Aufklarung, Tubingen, 1973, S. 53 (邦訳『啓蒙主

    義の哲学』、紀伊国屋書庖、 1962年、 49頁)

    (5) イタリア自然哲学については、前掲拙著の第 1章第 1節を、アグリッパとパラケルススについては、同じく第 1章第 2節の註(9)を、またブルーノについては、同じく第1章第 2節を各々参照されたい。

    (6) ブルーノ、『無限、宇宙および、諸世界について』、岩波文庫、 64頁

  • 自然像における神の超越と内在 113

    ティックな秩序の存在を許さないからである O こうして、世界を間断なく流動

    する渦の中へと放りこんだブルーノ的自然像は、中世的秩序を一度白紙へと還

    元した上で新たに機械論的秩序を発見するために決定的な役割を果たしたので

    ある O しかしながらi汎神論的自然像は、スタティックな機械論的秩序が貫徹

    する近代合理主義にとっても桂桔となることは明らかであり、それ故に汎神論

    的自然像は、理神論的なそれにとって代わられねばならなかった。そして時計

    の如き世界は、当然にそれを作った者を自らの外部に想定する O こうして神は

    再び超越的存在と化したのである。従って、中世合理主義から近代合理主義

    への移行が非合理主義によって架橋されたという逆説は、自然観に即して言う

    ならば、執れもスタティックな二つの秩序の聞にダイナミックな秩序が介在し

    ているという事実を、またそこにおける神の位置に注目するならば、有神論的

    超越神は神の内在化を媒介にしてはじめて理神論的超越神へと転換しえたとい

    う事実を、意味しているのである。

    ところで、 17世紀に始まる近代的世界観が現代の我々にまで受け継がれるた

    めには、“聖俗革命"とも呼ばれるべき、 18世紀に生じた或る決定的出来事を

    必要としている O 広く近代的世界観そのものの発展過程の内部で起こったこの

    もう一つの巨大な変化は、機能主義的思惟の確立をもたらしたものであり、そ

    れは精神史上一般に大陸のデカルト的合理主義に対するイギリスのロック、

    (7) 但し、その認識論においてと同様に(この点については前掲拙著、 74頁以下を参照)、理神論への志向という点でもブルーノ自身が既に将来を先取りしている。例えば、「活

    動する無限者は、その活動結果を欠くときは、なんとしても完全とは言いがたく、ま

    たその結果のみをもって〔無限者〕そのものであるとも解しえません。さらにかくの

    ごとしであるとしても、そのことによって、〔無限者が〕真実その結果であるものの

    なかに存在すべきであるということは、少しも否定されるべきではないのであって、

    これを、神学者たちは〔無限者の〕内在活動と区別して、〔無限者の〕“外に顕われた"

    超越活動と名づけています。かく内在と超越の両面がともに備わってこそ、無限者た

    るにふさわしくなるからで、す。J (ブルーノ、前掲邦訳、 17頁)

    (8) 村上陽一郎、『近代科学と聖俗革命.n (新曜社、昭和51年)

  • 114 神戸法学年報第 4号 (1988)

    ニュートン的経験主義の勝利として知られているO 両者の闘争を通してデカル

    トの認識論に残る実在論的要素、具体的に言うならば生得観念は否定され、そ

    の結果、認識主観は神の後見を離れて真に自立化する一方で、同じくデカルト

    の精神一物質二元論は唯物論へと席を譲ったのである O 認識論と自然像におけ

    るこうした変化は、要するに神学と科学とを結びつけている紐帯を最終的に断

    ち切ることなくしては考えられず、それは本来姿を変えた無神論に等しかった

    理神論が遂にその相貌を露わにしたことを意味している O 機能主義的思惟は、

    理神論を支えていた超越的神の位置を人聞が俗称することによってはじめて可

    能となったのである O 超越的神及び彼が住まう彼岸とその神の創造になる此岸

    的世界という二元論は、近代的世界観の完成者であるカントにおいては自律的

    な認識主観とそれによって構成される現象界という形で世俗化されつつも見事

    に継承されている O では、このように共に世界からの超越性を本質とする理神

    論的な神から自律的な認識主観への移行は、直線的に行われたものなのであろ

    うか。それとも、中世から近代への転換期の精神史に生じた周知の逆説と同様

    の事態が、ここにも見られるのではないのか。この点にいくばくかの検討を加

    えることが、小論の課題である O

    2

    最初に、この間いに肯定的に答えていると考えられる二人の研究者の指摘を

    紹介することから始めよう o 18世紀の急進的な啓蒙主義者たちを研究したマー

    ガレット・ジャコブは、彼らにブルーノの思想が与えた影響を汎神論的唯物論、

    自然宗教の探求、共和主義の 3点にまとめといる O ここで我々にとって重要

    (9) Jacob, M.C., The Radical Enlightenment Pantheists,Freemasons and Republicans,

    George Allen & Unwin, 1981, P. 36f.

  • 自然像における神の超越と内在 115

    なのは、言うまでもなく第 1の点であるが、復活した汎神論の役割はデカルト

    の精神一物質二元論の破壊にあった。「デカルトの二元論の遺産の一つは、そ

    れが18世紀の急進主義者たちをしてデカルトの機械論的な自然理解を彼の神の

    助力に依らずして保持することを可能ならしめたということであるという点

    は、十分に認められる O だが、急進的な唯物論の源泉は単純にデカルトに求め

    られるのでもなければ、おそらくデカルトが特に重要であるというわけでもな

    い。デカルト哲学4に秘められた唯物論的含蓄を明るみに出した最も初期の著作

    の一つであるモンフォコン・ド・ヴイラールの『カパリス伯爵の従者J (1708

    年という出版の年よりもず、っと以前に書かれている)は、デカルト主義とジョ

    ルダーノ・ブルーノの汎神論的思索との間にある類似性を指摘した。デカルトナ チ ユ ラ リ ス ト

    を唯物論の立場から読みこむための基礎は16世紀終わり頃の自然主義者たちに

    よって既に準備されていたのであり、 18世紀には急進主義者たちは〔自然主義

    とデカルトという〕二つの伝統に余りに負うところが大であるために、両者は

    しばしば殆ど区別しえないまでになる。」

    次に、啓蒙主義に関する浩滑な著作をものしたパナジョティス・コンデイリ

    スもまた、リベルタンたちを論駁しようとするデカルト自身の意図にもかかわ

    らず、彼の二元論は唯物論への道を拓いてしまったことを指摘する D 精神一

    物質二元論から物質一元論への転換の鍵は、力の概念の解釈にあった。近代自

    然科学は、力の本質についての実体主義的解答を求めることを断念して、それ

    を専ら運動を説明するための数学的な操作概念と看倣す機能主義的な思惟様式

    に特色があるが、少なくとも近代自然科学が誕生した17世紀の理神論的自然

    (瑚 ibid.. P. 47 しかしながら、他方でジャコブは、ブルーノの汎神論が急進的な唯物

    論ではなく、まだキリスト教の形而上学に基礎を置いていたニュートンの穏健な自然

    科学と結びついた可能性をも示唆している(ibid..P. 246) 0

    (11) Kondylis. P.. Die Aufklarung im Rahmen des neuzeitlichen Rationalismus. Klett-Cotta.

    1981. S. 192f.

    (12) 力の概念の変選については、前掲拙著の第 1章第 3節を参照。

  • 116 神戸法学年報第4号(1988)

    像においては、力を神の意志に由来する霊的存在と考える実体主義的解釈が主

    流であった。これに対して18世紀には、力を物質に内在する固有の性質と看倣

    す生気論的、或いはアニミスティックとも言える解釈が流布したのである 1理

    性 (ratio) は法則性として本来自然の内部に横たわっているのであるから自

    然は合理的に説明されうる、というテーゼにおずおずと表現された17世紀の存

    在論的傾向は、今や精神と感覚との、或いは神と世界との接近〔すなわち形相エントインテレテチュアリジールト

    の質料への内在一一小野〕によって急進化され、同時に脱合理化される O こ

    うした発展の末に、運動、つまり力は物質そのものの固有性であり、従って自

    然は自己の内部に自らの基礎を有しているというテーゼが現れる。このテーゼ

    は、自然の秩序についての機械論的把握からは生じえなかった。なぜならば、

    時計は常に運動を、つまり自動化を促すための出発点に位置する時計職人を必

    要とするからである。」超越神による世界の創造を想定する理神論的自然像が

    打破され、唯物論的自然像と機能主義的思惟様式が樹立されるためには、自ら

    の手で創造した世界に“最初の一撃"を与える超越的な神なくしても自己運動

    を行う世界という像が一度前面へと押し出されなければならなかった。その結

    果、ルネサンスに見られたような汎神論的な、更には汎霊魂主義的な自然とい

    う非合理主義が、理性の世紀である18世紀に一部の有力な思想家の心を捉える

    ことになった。 118世紀に〔ルネサンスと〕同様な状況が現出した原因は、物バンプシュシスムス

    質から完全に精神を奪い取ったデカルトの機械論と汎霊魂主義が鋭く対立せね

    ばならないという事実にある O ところが、唯物論もまた、思惟するもの (res

    cogitans) と延長せるもの (resextensa) という二元論と密接につながってい

    るデカルトの物質観と戦っている O 唯物論と汎霊魂主義とは、共に一元論を志

    向しているが故に、延長せるものと精神との分離を疑問視する O そこで物質の

    唯物論的に理解された自己運動は、このような構造的共通性のために物質の

    (13) Kondylis, P., op. cit., S. 249

  • 自然像における神の超越と内在 117

    ヴィーダーベゼールンク

    再霊魂化として現れる。換言すれば、物質が唯一の実体であるという前提

    に立つ唯物論的観点から見れば、汎霊魂主義は、有機体的物質と同様に非有機

    体的物質も自己運動を行うという原理の確認を意味しているのである。」

    唯物論と汎霊魂主義との聞に結ぼれたこの奇妙な同盟一一両者を総称してコ

    ンディリスは親和性理論 (Affinitatstheorie) と呼ぶ一一、或いは唯物論に基

    づく近代合理主義が確立されるために一時的にアニミスティックな非合理主義

    が要請されたとし)う事実を例証するために、ドルパックとデイドロの名を挙げ

    るコンディリスに導かれつつ、以下において我々はデイドロの自然像を若干

    検討してみよう D 啓蒙主義者の中でも最も戦闘的な無神論者且つ唯物論者で

    あったデイドロは、しかしながら、その自然像に関しては、機能主義的な自然

    科学の方法論を大きく押し進めた盟友ダランベールとは対照的に、有機体的、

    汎神論的な色彩が濃厚である。ゲルハルト・ヴァスコが指摘するように、デイ

    ドロが当時の代表的な理神論者であり自然科学者であったダランベール、そし

    てとりわけモーベルテュイに反対したのは、数学を用いる機械論的科学は、そ

    の抽象性の故に直接的な感覚的経験を通して触れている世界から人聞を疎外さ

    (14) ibid., S. 264f.

    (15) デイドロについてコンディリスは以下のように述べている。「新しい化学の展望、

    つまり汎神論的テーゼと結びついた親和性理論は、デイドロの許で明らかに有効なも

    のとなる。物質一元論にとっては非有機的なものから有機的なものへ移行、つまり物

    質から精神への移行を説明することは、最も困難であると同時に最も重要な問題であ

    るから、感性は物質の根本的特性であるという仮定は、一つの抜け道として役立つ。

    このようなやり方で非有機的物質に本源的な霊魂を与えることは、霊魂と物質とを殆

    ど区別しえないような事態を許すという点で、霊魂概念を神学的伝統のそれから強制

    的に転換させることを意味している。ディドロは、自らの汎霊魂主義的仮説(石もま

    た感じることができる、と彼は書いている)を、まさに非有機的なものから有機的な

    ものへの移行を説明する試みの中で、提出しており、そこでは一片の大理石が肉へと変

    化する例が挙げられている。ディドロが依拠している精神と物質との緊密な結合は、

    更に宇宙の中ではすべてのものがすべてのものに関わっているという、汎神論的色彩

    を帯びたテーゼによって支えられている。J (ibid., S. 265f.)

  • 118 神戸法学年報第4号(1988)

    せてしまうと考えたからである O 徹底的な自然主義者且つ唯物論者であるが

    故に、彼は機械論的立場に与しえなかったのである D 機械論的自然像とは対照

    的にディドロの自然像は、ヴァスコに従えば、以下の三つの命題に要約されう

    るものである。第 1に、自然は生命的原理を付与されている O 第 2に、この生

    命的原理の中に内在する神的精神が、宇宙の調和的秩序も、有機体の諸形式の

    内的決定論と完全性も、説明してくれる O 第 3に、人間存在は宇宙と調和して

    おり、人間は宇宙における事物の秩序の中でくつろぐことができる O 以下、

    これらの点を具体的に確認していくことにしよう O

    自然界の変化、特に有機体の運動の説明に取り組んだディドロは、モーペル

    テュイの唯物論的説明を拒否して、物質に内在する力の源泉として“物言わ

    (16) Vasco, G.M., Diderot and Goethe : A Study in Science and Humanism, Slatkine, 1978,

    P.43 因みに、本稿において我々が最も依拠するところ大であるこのヴァスコの著

    作の意図は、ディドロとゲ}テの自然科学が、デカルト以来の近代科学を既に乗り越

    えて相対性理論と不確定性原理以降の20世紀科学を予告していること、その意味で近

    代科学のもたらした危機を克服する可能性を秘めていることを確認することにある。

    こうした問題意識は、以下の結尾の文章からも明らかである。「実際、彼らは、 19世

    紀実証主義の観念とは反対に、主観と客観とはけっして切り離されえないという現代

    科学の鍵概念を予告しているのだ。 19世紀実証主義は、延長せるものと思惟するもの

    というデカルト的二元論に基づいており、独立した自律的観察者が外的、客観的な自

    然と相対していると考えるのである。現代の観点と同様にディドロやゲーテの見地に

    おいても、科学の探求する自然は、絶対的自然ではなく、人間の遠近法の中に置かれ

    た自然である。科学の役割は、自然それ自体の知的イメージではなく、寧ろ“我々と

    自然、との関係についてのイメージ"を創造することである。科学による探求を通して

    人間は、自然を照らし出すのと同じほど自分自身を照らし出すのである。J (ibid., P.

    123)

    (17) ibid., P. 14

    (l8) ヴァスコによれば (ibid.,P. 93ff.)、啓蒙主義の中で生命運動を説明するために 2

    つの主張がなされた。第 1に、モーベルテュイは、生命体と非生命体とを支配する法

    則に相違を認めることは拒否したが、物質を構成する窮極的分子に物理学的性質と並

    んで、或る始元的な心霊論 (Psychisme) を認めた。第 2に、ピュフォンは、あらゆ

    る物質の原子論的構造を認めつつも、そこに慣性的分子と、有機体的分子の区別を設

    け、前者は物理学の法則に従うが、後者は組織化への自発的な傾向性をもっと考えた。

  • 自然像における神の超越と内在 119

    ぬ感性" (sensibilite sourde) を想定する。「この物言わぬ感性と形態の相違と

    の結果、或る有機的分子にとって最もふさわしい場所が一つだけ決定され、こ

    の分子は、自動的な不安 (inquietudeautomate) から間断なくその場所を探し

    求めるであろう。」有機体の運動を司るこの内在的原理は、自然界全体を支配

    しており、その結果、自然は一つの有機体の如くに或る“原形" (prototype)

    から進化したもの一一一ゲーテの“原現象" (Urphanomenon) についての主張を

    想起せよ一一ーとして捉えられている。「それが何であったにせよ或る原形の外

    皮が、環境に応じて自に見えないほど微妙に持続的な変容を行い、両環境界の

    境界線(実際にはけっして切り離されているわけではないのに敢えて私は“境

    界線"という言葉を用いるのだが)を不正確で、暖昧で、或る形態や性質や機

    能の大部分を剥ぎ取られて別の形態や性質や機能を付与された諸存在によって

    満たすのを見れば、最初にあらゆる存在の原形があったと考えずにはいられな

    いだろうけここには、自然全体を内在的生命力によって変化する一つの有機

    同 Diderot,De l'interpretation de la nature,包uvresphilosophiques de Diderot, textes

    etablis par Paul Verniere, Editions Garnier (以下、包uvrephilosophiquesと略記)、

    P.231

    側 同じく『自然の解釈について』の中には、外力による運動とは異なる、従って慣性

    原理を否定する、内在的な力による物体の運動についても説かれている。「ここで、

    衝撃による運動の伝達と衝撃によらないそれとを区別しなければならない。衝撃によ

    らない物体の移動は、こうした方法で伝達された運動の量がどれほどであれ、たとえ

    それが無限であっても、そのあらゆる部分に同時に均等に働くから、物体はけっして

    破壊されることはないだろう。J (ibid., P. 209) アニミスティックな自然像にもつな

    がりかねない、こうした物質の自己運動は、ディドロと並ぶ徹底的な唯物論者である

    ドルパックも認めるところであった。例えば、「すべての事実が疑いもなく証明して

    いるように、運動は、いかなる外部の作用者の助力なくしても物質の中に生じ、増大

    し、加速する。ここから結論せざるをえないように、この運動は、相異なる諸要素と

    それら諸要素の多様な結合に固有の不変的法則や本質、そして諸特性から導かれる必

    然的帰結なのである。J (Baron d'Holbach, Syste me de la Nature ou des lois du monde

    physique et du monde moral, Slatkine Reprints, Geneve, 1973, tome 1, P. 24)

    制 Diderot,Del'interpr伽 tionde la nature,包uvresphilosophiques, p. 187f.

  • 120 神戸法学年報第4号(1988)

    体として捉える発想が窺われるのであるが、同時にそこに看取しうる連続の

    原理や充満の原理は、我々を直ちに第 2の論点へと導くであろう。

    事実、存在の偉大な連鎖というギリシア的観念の継受をヨーロッパ精神史の

    中に探ったラヴジョイは、ルネサンスの汎神論の許で復活したこの観念を19世

    紀ロマン主義へと媒介する上で重要な役割を演じたロピネに対するディドロの

    圧倒的影響に注目している O ディドロも宇宙の秩序を承認する。しかし、そ

    れは、理神論者が信じるようなスタティックで普遍的な秩序ではない。盲目の

    幾何学者ソンダーソンがニュートン主義者ホームズに語るように、盲目であ

    凶但し、ディドロが真に有機体的自然観を奉じているか否かは、議論の余地がある。

    本稿が参照している研究者たちがこの点に肯定的であるのに対して、例えばクロッ

    カーは、「ダランベールの夢』の一節を除けばディドロは有機体説を否定している、

    と断じている (Crocker,L.G., Diderot's Chaotic Order : Approach to Synthesis, Prince-

    ton University Press, 1974, P.18f.) クロッカーが指摘する『ダランベールの夢』

    の一節とは、以下のようなものである。「ところで、君は個体と呼ぶものによって何

    を言いたいのかね。そんなものは断じて存在しない。そう、ないのだ。存在するのは、

    唯一の偉大な個体、つまり全体だけだ。この機械のような [18世紀には machineの語

    はorganismeの意味でしばしば使われた一一小野〕、何か生き物のような全体の中に

    は、成程色々な名前をもっ部分が存在するが、そうした全体の中の部分を個体と呼ん

    だりすれば、烏の翼や羽毛を個体と呼ぶに等しい誤りを犯すことになるのだ、oJ

    (Diderot, Le reve de d' Alembert,包uvresphilosophiques, P. 312) 因みに、デイド

    ロの『哲学著作集」の編集者ヴェルニエールは、この部分に付した註において、デイ

    ドロとストア派に起源をもっ生気論的唯物論やスピノザ哲学との関連を示唆してい

    る。

    。功 Lovejoy,A.O., The Great Chain of Being : A Study of the History of an Idea, Har.

    vard University Press, 1976, P. 268ff. 邦訳『存在の大いなる連鎖』、晶文社、

    1975年、 285頁以下) ラヴジョイが説くように、そもそも連続の原理と充満の原理

    とに基づくこの“存在の偉大な連鎖"という観念は、イデア界の超越性を本質とする

    プラトンの二元論を彼自身が緩和した『テイマイオス』に端を発し、新プラトン主義

    の流出説によって超越的なイデア界と現実界とを架橋し、前者を後者へと内在せしめ

    ようとする企ての中から生み出されたのである。

    凶 『盲人書簡』に付した註においてヴェルニエールは、実際にソンダーソンとホーム

    ズの間で神の存在についての対話が行われた形跡はないが、ソンダーソンはいわば

    ディドロの代弁者の役割を演じている、と断っている。

  • 自然像における神の超越と内在 121

    るが故に外界を認識するために触覚に頼らざるをえない彼は、専ら視覚を通し

    て観想された宇宙の秩序とは異なる秩序を認識することができるのであるJ私

    は盲目です。けれども断固として驚嘆すべき秩序の存在を認めます。……お望

    みなら、貴方を感動させる秩序がいつまでも存続するとお考え下さい。しかし、

    私にはこう考えさせて下さい。つまり、世界と歴史の誕生の時点にまで、遡って、

    物質が運動し始め、混沌が消滅するのを感じる (sentissions) としても、すぐ

    にまた形は失われ、何か新しい形態へと移っていくのを見るだろう、と。」従っ

    て、この秩序は、瞬時の休息もなく自己を展開する汎神論的秩序なのである O

    「この秩序は、完壁なものではないので、次から次へと途方もなく巨大な産出

    を繰り返しているように見えます。」

    この宇宙的秩序と人間存在との関係という第 3の論点を、ここで解明するこ

    とは不可能である D そのためには、デイドロのあらゆる著作を渉猟して、決定

    論と道徳的自由の問題や精神と肉体の関係について彼の与えた解答を慎重に検

    討せねばならない。我々はただ、ヴァスコの指摘を紹介するにとどめよう O ヴァ

    スコは、「哲学断想』における人間と樹木との対比に着目して、次のように述

    べる。「ディドロがここで用いている、人間の情念と自然の生命力との同一視は、

    人間と宇宙との間に存在する一致、親密な関係についての彼の確信を明らかに

    表現している。」しかし、同時にヴァスコが指摘するように、ディドロにとっ

    倒 Diderot.Lettre sur les aveugles a l'usage de ceux qui voient.包 uvresphilosophi

    ques.P. 120f.

    (26) ibid.. P. 122

    制 「情念の枯渇は傑出した人間の価値を下落させてしまう。拘束されれば自然の偉大

    さと活力は失われる。この木を見よ。その陰が長く延びて涼を得られるのも、枝が豊

    かに伸びているからだい (Direrot.Pensees philosophiques. ffiuvres philosophiques.P.

    10f.)

    白8) Vasco. G.M.. op. cit.. P. 14

    (29) ibid.. P. 16ff.

  • 122 神戸法学年報第 4号 (1988)

    て汎神論的秩序は、人間に道徳の確固たる基盤を提供するためには甚だ心もと

    ないものであった。なぜならば、間断なく変化する汎神論的秩序は魂に慰籍を

    与えることもできなければ、不変的な道徳とそれに基づく永続的な社会秩序と

    を保証することも不可能だからである D それ故に『盲目書簡』のソンダーソン

    は、臨終に際して理神論的な超越神への呼び、かけを行わざるをえなかった。「ソ

    ンダーソンはこの対話の中で病状が許す以上にいささか興奮してしまった。突

    然、彼は精神錯乱に襲われ、それは数時間続いた。それが収まった時、彼はこ

    う叫んだ、。『おお、クラークとニュートンの神よ。私を憐み給え。』そして彼は

    亡くなった。」超越的な神を拒否しながらなお人間の道徳的自由を確立するこ

    とが、果して可能か。かつてフォルトウナと戦ったルネサンスの思想家たちを

    苦しめ、そしてやがて世界の背後を説く者を打ち破ったニーチェを迎えること

    になる難問の前に、ディドロもまた立たされているのである O

    以上、我々は駆け足でディドロの自然像を見てきた。それが、自然を超越的

    な神の創造になる機械論的な体系と看倣すことを拒絶する点で、当時の支配的

    な自然像と異なることは明らかである。こうしたディドロの特異な自然像は、

    従来、彼の前ロマン主義的要素を示すものとして解釈されてきたO 実際、デイ

    ドロ的な汎神論的、有機体的自然像は、その後ロマン主義の中で全面的に花開

    くことになろう。しかし、我々は、戦闘的な啓蒙主義者デイドロの自然像にお

    けるこの奇妙な事実の中に、 17世紀に誕生した合理主義が一層発展するための

    一時的な退行現象を見たいのである O カントの「純粋理性批判』においては自

    然は、もはやそれを創造したと考えられてきた神との一切の連関を剥奪されて、

    専ら超越的な悟性の構成物として論じられている O 理神論的な超越神から自律

    的な認識主観へと自然の存立根拠が移行する上で、一度その根拠の超越性は否

    定され、それは自然そのものに内在せねばならなかった。ディドロに代表され

    側 Diderot,LeUre sur les aveugles, CEuvres philosophiques, P. 124

  • 自然像における神の超越と内在 123

    る汎神論的自然像こそがこの役割を演じたというのが、我々の提出した仮説で

    ある o 18世紀の自然像のほんの一部に見られるこの逆説、それは、あの近代を

    準備した16世紀の巨大な逆説に比すれば余りにもささやかなものに映る O にも

    かかわらず、ここにも超越と内在をめぐる精神史の弁証法が働いているとは言

    えないであろうか。

    3

    最後に、同様の逆説、同様の弁証法が20世紀にも見られるか否かを予測して

    みよう。超越的な認識主観によって構成された自然という、カント以降の自然

    像は、実は感性的直観から切り離され、それから超越的な悟性というカントの

    認識論を基礎としている D そして認識主観一対象世界、悟性-感性という二元

    論は、ギリシア以来のイデア界一現象界、神一世界という二元論、要するに形

    相-質料二元論の近代的復活に他ならない。ヨーロッパ精神史を通じてしばし

    ば現れる内在性の思想は、常にこの二元論を克服する試みなのである。 20世紀

    の認識論において形相-質料二元論が如何に克服されているかを論じることは

    避け、目を専ら自然像に向けることにしよう O 更に、 20世紀になると機械論

    。1) 20世紀の認識論の特質については稿を改めて詳しく論じる必要があるが、ここで展望だけを示しておくならば、世界に対する神の超越'性がその内在性へと転換し始めた

    のと軌をーにして認識主観の自律性は崩壊の道を辿り出すことになったのである。そ

    れはとりもなおさず近代個人主義の凋落を意味しており、事実、今世紀の殆どすべて

    の思想は一致して、幅広く 20世紀思想を扱った或る論者の著書の題名にある通りに、

    “主観性の黄昏"の到来を告げているのである (Dallmayr,F.R., Twilight of Subjec.

    tivity : Contributions to a Post-Individualist Theory of Politics, The University of Mas-

    sachusetts Press, 1981)。それらの中から代表的なものとしてフッサールによって創

    始された現象学に若干言及しておくならば、現象学の根本は、主観一客観二元論を否

    定する問主観性の立場と形相ー質料二元論を否定するフッサールの所謂“範時的直観"

    の観念にあると考えられる。そもそも認識主観の超越性に立脚する主観一客観二元論

    は、その出発点に位置するデカルトの精神一物質二元論にしても、その体系化を企て

  • 124 神戸法学年報第4号 (1988)

    的自然像に反対して主張され始めた様々な自然像の中で、ベルグソンのような

    19世紀ロマン主義の後継者とも目されるべき思想家のそれは除外して、ここで

    は、自身、数学者且つ物理学者であったホワイトヘッドの所謂“有機体の哲学"

    を取り挙げることにしよう O

    「有機体の哲学は、カントの哲学の逆である。『純粋理性批判」は、主観的

    所与が客観的世界の現象となる過程を記述している O 有機体の哲学はいかに客

    観的所与が主体的満足になるか、客体的所与における秩序がいかにして主体的

    満足における強度を与えるか、を記述しようと企てているのである O カントに

    とっては、世界は主観から出現してくる O 有機体の哲学にとっては、主体は世

    界から出現してくる一一“主体"というよりも“自己超越体"が出現してくる。」

    認識主観の超越性を樹立したカントのコペルニクス的転回、すなわち Wissen

    ー→ Seinという認識の方向は、ホワイトヘッドによって再び逆転させられた

    かに見える。しかし、彼の真意は、部分が全体に、主体が世界に完全に従属す

    る Seinー--Wissenではなく、寧ろ両者が文字通り有機的に結合する Sein主エ Wissenというあり方を示すところにある[""したがって“客体"という

    語は、感受 (feeling) の構成要素であるための可能性であるところの、存在を

    意味するのである D また“主体"という語は、感受の過程によって構成されて

    いて、この過程を含んでいる存在を意味している O 感受者 (feeler) は、自分

    たカントの悟性一感性二元論にしても、世界の創造に先立って存在する理性的神の役

    割を認識主観が担い得るという絶大な理性への信頼があってはじめて可能となった。

    そこには神→世界という自然像と主観 (Wissen)→客観 (Sein)という認識論との

    間の見事な対応関係を見出すことができるのであるが、この不可逆と考えられた認識

    方向を相互的なもの (Wissen~ Sein)へと転換したところに、現象学における間主

    観性や範時的直観の主張が導き出されたのである(更に詳しくは、拙著『精神史とし

    ての政治思想史』序論を参照)。認識論におけるこうした変化は、当然20世紀の自然像と従来のそれとの相違を予想させるものである。

    同 ホワイトヘッド、『過程と実在一一コスモロジーへの試論.! (みすず書房、 1981年)、

    131頁

  • 自然像における神の超越と内在 125

    自身の諸感受から出現する統一性であり、感受は、この統一性とそれの多くの

    所与との聞を仲介する過程の細項である O その所与は、感受への可能性である、

    言い換えれば、それらが客体である。」主観は客観的世界からいわば抽出され

    るのであり、客観的世界は抽出された主観の基体であることによってのみ存在

    しうる O このように存在するものはすべて相互に規定し合い一一ホワイトヘッ

    ドの所謂“抱握" (prehension)一一、密接に結合して一つの全体一一彼の所

    謂“結合体" (nexus)一ーを形作っている O その意味で諸存在はすべて相互に

    絡み合いつつある“過程" (process)、つまり生成そのものに等しく、それ故

    にそれを制作する超越者の存在を必要としない。これら諸“結合体"の全体

    が一つの有機体としての自然を形作るのである O 「“有機体"という概念は、二

    重に“過程"の概念と結ぴつけられている O 現実的事物の共同体は、有機体で

    はあるが、それは静的な有機体ではない。それは、産出の過程においては末完

    である。したがって現実的事物に関して宇宙が拡大することは、“過程"の最

    初の意味である D その宇宙は、その拡大のどの段階においても、“有機体"の

    第一の意味である。この意味で、有機体とは、結合体なのである。第二に、現

    実的存在のそれぞれは、それ自身、ただ有機的過程として記述し得るにすぎな

    い。大宇宙において宇宙であるものを、小宇宙において繰り返す。それは、相

    から相へと進行する過程である O その各相は、そこからその後に続くものが当

    の事物の完成へ向かつて進むところの、実在的な土台をなしている O 現実的存

    在のそれぞれは、その構造のうちに、その条件がなぜそういうものとして存在

    同同上、 13頁

    倒 ホワイトヘッドはアリストテレス的な“不動の動者"としての神の代わりに、“具

    体化の原理" (principle of concretion) としての神を考える。前者は、超越的な存在

    として世界を動かす最終的な目的因であるが、後者は、質料的存在が生成し、自己を

    展開していく際の触媒の知きもの、換言すれば、可能態が現実態へと転化するための

    契機と考えられている。詳しくは、彼の『過程と実在』第 5部第 2章、同じく『科学

    と近代世界JJ (松績社、 1981年)第11章参照。

  • 126 神戸法学年報第4号 (1988)

    するかという“諸理由"をもっている O これらの“理由"が、当の現実的存在

    にとって客体化された他の諸現実的存在なのである。」

    秀れた自然科学者でもあったホワイトヘッドがついに有機体の哲学へと赴い

    た背景には、 20世紀物理学におけるアインシュタインの相対性理論とハイゼン

    ベルクの不確定性原理の発見があった。周知のように、これら両者は、認識主

    観の超越性への信仰を破壊することによって、主観-客観二元論という認識論

    的基礎に立脚する機械論的自然像が存立する余地を奪ってしまった O 今や新

    しい自然像が支配的になりつつあるように思われる O 同時に、自然科学以外

    の諸分野においても実証主義的な方法論と人間や社会の機械論的な把握は衰退

    しつつある O そこに共通するのは、自然にしろ、社会にしろ、或いは人間の意

    識にしろ、それを対象的な質料として超越的な理性(形相)によって合理的に

    側ホワイトヘッド、『過程と実在』、 317-8頁

    同 相対性理論と不確定性原理の精神史上の意義について判り易く説いたものとして、

    贋松渉、『科学の危機と認識論.ll (紀伊国屋書宿、 1977年)0 ホワイトヘッドもまた、自己の哲学が主観一客観二元論を克服する企てである点について次のように書いてい

    る。「今の話に必要な点は、自然を有機体として解する哲学が、唯物論哲学に必要な

    地点とは正反対の地点から出発しなければならない、ということである。唯物論の出

    発点は独立して存在する二つの実体、すなわち物質と精神、にある。物質は外的な位

    置移動関係によるもろもろの変化を受け容れ、精神は、自己の眺める対象によるもろ

    もろの変化を受け容性y争£この唯物論においては二種の独立した実体があり、各々は

    それぞれに相応した受ける働きによって限定される。有機体説の出発点は、互いに絡

    み合った組織内に配置されたもろもろの出来事の実現として、過程を分析することに

    ある。出来事は実在するものの単位である。創発する存続的パターンは創発する成立

    形態を安定させて、過程を通じて同一性を保つ事実とするものである。J (11科学と近

    代世界』、 204頁)

    側 ホワイトヘッドは、 1687年のニュートンの『プリンキピア』、 1787年のラグランジュの『解析力学』、 1873年のマクスウェルの『電磁気学』の三書をもって自然科学史に

    おける三つの時期を区分する (11科学と近代世界』、 79-80頁)。本稿の立論に照らす

    ならば、第 1の逆説の後にニュートン以降の古典的物理学の時期が、第 2の逆説の後

    に、ラグランジュやモーペルテュイに代表され、モレショットやフォークトによって

    俗流化された、機能主義や唯物論の徹底化の時期があてはまり、そしてマクスウェル

    に始まる古典的物理学の崩壊には第 3の逆説を見ることができる、と言えるであろう。

  • 自然像における神の超越と内在 127

    構成しうる、という立場に対する異議申し立てである。代わって、人間は自然

    に、個人は社会に、精神は肉体に、そして意識対象は意識そのものに内在する

    という立場が、主流になろうとしている O 超越性から内在性へのこの移行は、

    これまでの精神史が示しているように、果して件の逆説の出現を意味している

    のであろうか。我々は、いつの日か今日の内在性の優位を止揚して新たな超越

    性に基づく自然像と世界観とを樹立するに至るのであろうか。それとも我々は、

    内在性の理念の上に確固たる永続的な秩序を築くことができるのであろうか。

    執れにしても、我々が精神史の転換点に位置していることは、間違いない事実

    のようである D