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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title <論説>エングリッシュ教授の目的論的經濟學(其一)(The teleological economic theory of prof. karel englis) 著者 Author(s) 花戸, 龍藏 掲載誌・巻号・ページ Citation 国民経済雑誌,67(1):1-27 刊行日 Issue date 1939-07 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/00055498 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/00055498 PDF issue: 2021-06-15

Kobe University Repository : KernelHandbuch der Nationalokonomie, 1927. Tschechoslowakei, in: Die Wirtschaftstheorie der Gegenwart, ... 1933. Der Kostenbegriff, in: Economic Essays

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  • Kobe University Repository : Kernel

    タイトルTit le

    エングリッシュ教授の目的論的經濟學(其一)(The teleologicaleconomic theory of prof. karel englis)

    著者Author(s) 花戸, 龍藏

    掲載誌・巻号・ページCitat ion 国民経済雑誌,67(1):1-27

    刊行日Issue date 1939-07

    資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

    版区分Resource Version publisher

    権利Rights

    DOI

    JaLCDOI 10.24546/00055498

    URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/00055498

    PDF issue: 2021-06-15

  • 石兄-==n

    エングリッ

    シュ

    教授の目的論的続滸學

    (其一)

    経清訊子において目的論的研究方法の必要性を設くものに、既にシュクムラァ、

    シュトルツマン‘

    シュ゜ハン等がある

    が"最近に至りて特にこれを高調するものにヴェディッゲンとェングリ,シュがある(註一)。

    この爾者は、従来目的

    論(テレオロギー)の意味が多様なりしため,自己の設を員の目的論なりと互に主張し、華々しき論手さへ交へてゐ

    るが、私のいま研究せんとするものはニングlJッシュ

    (KarelEnglii',)~

    授の學説である。この學説は氏の所謂純粋認

    識の目的諭であるばかりでなく、祖税論において私の命名と主張にかヽる耽會債値説を唱へる勘において特異性を有

    する。しかしその財政論と祖税論は他の病に誤りて、私はまづ氏の目的論的経渭論の基本問題を主として研究し且つ

    これが批判的考察を試みたいと思ふ。

    ェ氏はチェッコ・スロヴァキア鯛のマサリク大學敢授としての又同國大蔵大臣としての多年の経験を有する人である

    エングリッシュ数授の目的論的紐滸學

  • が、氏は歴史的研究方法を重んするプラーグ経渭學派に封立して、自らプリュン學派を樹立せんとする者であり、而

    してこの學派の建設にあたりてケルゼン

    (Hans Kelsen) の提唱にかL

    る純粋法學の方法論に依猿するとこるが大で

    ある

    G江二

    それ故氏の學説を説くに先き立ち、ケルゼンの學説について一言するであらう。

    ケルゼンの純粋法學は、

    F.Weyrその他の人々の協力によりて徐々に痰展し完成されたものであるが、法の認識論

    的基礎付けはマープルグ學派のコーエンに負ふ。郎ちケルゼン氏自らの言明せるところによれば、認識方向が認識野

    象を決定すること、認識討象は一の根源より論理的に生衛せられること、國家は法學の見地よりは法にして凡ての國

    家弗は國法學たるべきこと,と言ふコーエンの所説は氏の採用せるところである含

    i-

    =-)。

    ケルゼンの法理學は諸種の

    特性を有するが、

    モングリッシュの學説理解のために習意すべき勘を述べれば次の如くである。

    (イ)

    ケルゼンはカントの浅した存在と嘗鯰の二元論のうち、賞鯰を債値哲學として痰展せしめたlJッケルトの哲

    學に疑問の矢を放ち(註四)、氏は嘗総を規範と理解し特に法規範を力説した。而して法規範の本質を通説の如くに椛

    利に求めすして法的義務と解した。

    (口)法を義務として表象する認識方向より法の認識鉗象を得るため、論理的に

    質定法の根源に遡りて根本規範を求めてこれを骰設的基礎とし、この根本規範を前提することによりて始めて法的解

    繹の前に現はれる経験的素材が、法規範の憫系として珂解され得るものとした。而してこの根本規範は最低位にある

    法規範より次第にヨリ高き法規範に上りて論理的に獲得された最高段階にある統一的法規範であり、こL

    に所謂法律

    秩序の段階構造が生する。

    (ハ)法を規範と言ふたゞ―つの認識方向よりのみ観照し、政策、逍徳奮砒會、心理、自

  • 然その他一切の考察方法を排斥して法の純粋性を保たんとする。従つて例へば國家もしくは法を同時に諸種の方面よ

    り認識せんとする多方面説はこの學派の採らざるところであり、又法律上の人を心理的意慾の主開と見すして論理的

    錨蜀貼とするのである(註五)。

    ケルゼン氏のこれらの研究方法特にその法規範論はニングlJッシ↑一の採るところであるが、しかし他方において雨

    者の間には重要なる差異がある。その最も著しき差異は後にも述べる如く、

    =氏が、ケルゼンの認めざりし目的論科

    學を一個の獨立科學として褻展せしめ之を力説せんとする勘である。

    さて吾々は以上の諸動を念頭においてェ氏の學説を見るべきであるが、まづ氏の著作と論竿文献を述ぶれば次の如

    くである。著者名のなきものはエングリッシュの著作である。

    a) Grundlagen de, wirtschaftlichen Denkens, 192G.

    c) Handbuch der Nationalokonomie, 1927.

    Tschechoslowakei, in: Die Wirtschaftstheorie der Gegenwart, Bd. I. 1927, S. 19:lー

    20.J.

    Begriindung der Teleologie als Form des empirischen Erkennens, 19:lO.

    Finanzwissenschaft, 1931.

    f)

    Finanzwissen咎haft,Selbstanzeige, in : Finanz , Archiv Jg. 48 Bd. 2 S. :l51ー

    :{54.(1931).

    b)

    d)

    e) g) Teleologische Theorie der Staatswirtschaft, in " Finanz , archiv, N•

    F. Bd. I

    1931 S. 64ー

    91.

    h) Telelogische Theorie der Staatswirtschaft, 1933.

    Der Kostenbegriff, in: Economic Essays in honour of G. Cassel, 19:l3. S. 14:lー

    157.

    エングリッシュ数授の目的論的鯉済學

    (三)

  • 第六十七巻

    第一聾

    (四)

    Streller, R. Englis'Grundlagen der wirtschaftlichen Denkens, in: Z. f. d. ges. Staatswiss. Bd. 8:l 19:l7, S. :l50ー

    :lGR.

    Probleme des wirtschaftlichen Denken, in: Z. f. d. ges. Staatswiss. Bd. 8'1, 19~R,

    S. 578ー

    59G.

    Englis Finanzwiss., in: Finanzarchiv, N. F. Bd. I., 19:3:l | :l:l, S. 17G-ー

    177.

    N ur teleologischen Theorie der Wirtschaft, Auseinandersetzung mit H. Ritschl, in : Finanzarchiv, N•

    F. Bd.

    k) Englis, K.

    I)

    Ritschl, H.

    m) Englis, K.

    I. 1932ー

    i苓

    s.569 | 588.

    n)

    Englis, Begr[indung der Teleologie als Form des empirischen Erkennens, in: N .

    f•

    Nationalok. Bd. :i. 1932,

    Bilimovic, A.

    s. 296ー

    -301.

    o) Englis, K・

    Zurn Problem der teleologischen Theorie der Wirtschaft, in " z. f•

    Nationaliik., Bd. 4, 19:l:3ー

    :i3,

    s. 220ーー

    242.

    Meine Antwort an Herrn Prof•

    Dr•

    Karel Englis, in: Zt. f. Nationalok. Bd. 1932 |

    g

    s. 521 | f,26.

    p) Bilimovic, A.

    q) Weddigen, W. Teleologische und technologische Wirtschaftsauffassung, in: Jb. f•

    Nat. u. St. Bd. 1:c9 1928, S. :i21 1

    37G.

    r)

    Englis, W eddigens soziologische Wirtschaftstheorie, in " Jb. f•

    Nat. u. St. Bd. Dl, 19::9, S. 161 1 190.

    W eddigen, Karel Englis und die teleologischen Wirtschaftsauffassung,

    ぎJb.f•

    Nat. u. St. Bd. I:ll 19~9,

    S. CRぞ'7-)2.

    Englis, Erkenntnistheorie und Wirtschaftstheoric, in : Jb. d•

    Nat. u. St. Bd. 1:i~.

    19:lo, s. 641ー

    C57.

    Weddigen, Teleologie und Kausalitat in der Wirtschaftstheorie, in: Jb. f•

    Nat. u. St. Bd. Ll2, J

    9:10, S. lV,8 |862.

    右のらちェ氏の主著と見るべきものは、繹済學数科書である

    bを除いて、

    dは認識論、

    aは認識目的論的糎済學殊に個人網済

    s

    )

    t) u)

    論、

    hは國家鯉済論、

    eは財政學をそれ

    l\取扱ふ°これらのうち

    hは氏の學説を綜合せるが故に、其の繹済學骰系を知るために

    は汲も有用な参考書と云ひ得る。以下において前稿の参考文献を引用する場合、それ

    k

    \の文献の頭に示せる

    a.b•C

    等の符緯

    を用ゐるO

  • a-) Wagenfuhrは現代網済學説盟系の分類において、特に雨氏の學説を目的論として取扱ってゐるo(DerSystemgedanke

    in der Nationaliikonomie, 19:lo, S. 22:l)

    (註一一)

    C

    一九五ー」ハ頁。

    (註――一)

    H•

    Kelsen, Hauptprobleme der Staatsrechtslehre, 19:2:l, Zweite Auflage, Vorrede, bes. S. XVII u•

    XIX, XX.

    H•

    Kelsen•

    Die Rechtswissenschaft als Norm'oder als Knlturwissenschaft, in: Schmoller Jahrb. Jg. 40, l 91G, S. 1181

    (註四)

    12:rn.

    (註五)

    ケルゼンの諸著、特に

    ReineRechtslehre, 19:34

    参照。

    認識論と経験科學の分類

    (甲)

    認識の形式論理的構成

    ェ氏の認識論が形式的論理的にして、又いわゆる「観察(考察)方法」(Betrachtungsweise)

    如何によりて異る認識封

    象と科學が生すると言ふ見解を採れることは、ケルゼンの根説を思へば容易に想像し得るところであるが、しかし経

    駿鉗象と認識封象とを封立せしめるにあたりて、リッケルトを引用せることは吾々の特に注目すべき獣である。次記

    は認識の論理構造に闘するェ氏の説明である。

    科學は同種の思惟内容の開系である。何となれば、科學を構成するものは外的現賓閤ではなくして、現賓髄の表象

    と概念であるからである。現宵封象と認識対象とが封立することはリッケルトの言ふ如くであり、従って例へば水と

    云ふ現賓封象に封して、二つの氣囮の化合と見る自然科學者の水の認識封象と.飲料共他に適するものと見る賓際人

    エングリッジュ数授の目的論的網滸學

    (五)

  • ● ,

    ノ‘

    の水のそれとは異る如く、同じ現宵鉗象より諸稲の認識野象が獲得せられる。かくの如く科限が外的事象を知覺し把

    捉せんとする何れの場合にも、科學を構成するものは外的事象にはあらすして常にその表象並に概念であり、而して

    同じ現質酎象より多くの異る認識封象が獲得せられるが故に、各概念の分析は、それが如何にして吾々の恩惟に持ち

    来たされるかの方法

    (Methode)

    から始めねばならない。経験科學.賓質科學は、論理學•数學•幾何學の如き形式

    のみを取扱ふ先験的純粋形式學とは異りて、常に内容とその内容が直観せられ思惟されるところの形式とを有する。

    科學の閤系を構成する思惟内容の同種性は、思惟される内容に存せすして、その内容を直観し思惟する方法•形式に存

    する。それ故、経験科訊子の同種性乃至異種性を基礎付けるものは直観(観照)の方法郎ち観察(考察)方法(Betrachtung,

    であつて、直観の一定の形式・方法なくしては内容は思惟されない。観察方法は、忽識せんとする封象の認

    識を可能ならしめるもの郎ち現賓野象より認識封象を獲得するものである。それ故認識野象は、直観乃至観察の一定

    sweise)

    の方法を前提するものであり、従って観察方法の問題は科學の封象の問題に先行する。而して科學の観察方法は思惟

    内容の形式論理的性格を決定するが、これが郎ち科限の認識論的基礎付である。それ故、凡ての科學の形式論理的性

    格を研究する認識論はそれ自ら形式科學である。かくの如く、観寮方法は科學を構成するところの思惟内容の形式論

    理的構成の方法であり、形式論理的構成は内容が如何にして科弗によりて直観せられかの方法に等しく、観察方法に

    よりて始めて経験封象より認識封象が獲得せられる。恩惟内容としての認識封象はそれ故、常に内容と形式論理的搭

    成の方法たる形式とを有する。しかしこ\に注意すべきは"経験封象より認識封象を獲得するこの観察方法が.何等

  • かの

    H的に適ふやうに観察者が任意に選揮する如き合目的性乃至便宜性の問図ではなくして、論理的正嘗性

    (logische

    Richtigkeit)

    の問題なること、部ち観察方法が謂はゞ疲明

    (erfinden)

    され得るものにあらすして疲見

    (entdecken)

    るべきものなること、之である。例へば「財」と云ふ概念を考へるに、之を箪に存在するものとして認識することは

    無意味にして、これは論理上必然的に何者かによりて意慾された封象として把捉すべきであるが如くである(詞い7])

    三五ニー―二五六頁)。

    a-―ー一四頁

    右述によりて、観察方法が認識において如何に必要なるかを明にしたが、これと併んで認識上きわめて重要なるも

    のに「合理性」

    (Rationalitat)

    の問題がある。吾々が例へば降雨、人の焚働と言ふ現象を見るとき、何故雨が降るか、

    何故広如何なる目的のために)人が鷲働するか、の質問を痰してこれらの現象を把捉せんとするが、この「何故」と

    言ふ質問に封する答を、吾々は一般に合迎性と稲し得る。認識はこの把捉(Begreifen)

    によりて袖完されるが故に、

    把捉は認識の構成要因である。しかるに吾々が深く省察すれば、把捉は≫その形式論理的桔成に従って整序せられ、

    同じ構造内においては更に合理性によつて整序されるところの認識の他の秩序に外ならない。郎ち合理性は論理的恩

    惟形式である。例へば自然そのものにおいては未だ何等の原因•作用は仔せすして、吾々の知性が吾々の思惟内容を

    、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

    原因作用として自然に結付け整序するのである。かくて合理性は、同じ論理的構成の吾々の息惟内容の秩序の論理的

    原理である。合理性は、観察方法抑ち思惟内容の形式論迎的性質に封して、恰も園に到する半程の如く函数闘係にあ

    る。例へば、兒窟蓑育と言ふ現象の認識には先づ観察方法が問題となるが、骰りに目的論的観察をとるとすれば、こ

    エングリソシュ数授の目的論的網涜學

  • ii..

    の場合意慾されたものとして表象される息惟内容を整序する合理性は、手段と目的以外にはないのである。かくて吾

    吾は、合理性が観察方法に適應すべきと同時に、観察方法がそれに特有なる合理性の方法と一致せねばならぬことを

    知る。このことは合理性が認識秩序の原理なることを想起すれば自明である。但し右は同じ形式論理的構成を有する

    認識内における合理性の問題であるが、形式論理的に異る構造を有する異棺の観察方法の認識においては、盤序の仕

    方卯ち合理性の方法が異ることは言ふまでもない。それ故、合理性の方法と観察方法とが如何なる時に函数闊係にあ

    るかの間固は、経瞼科學を観察方法、合理性の何れによりて特微付けるかの問題に等しく、従って合理性は観照方法

    並に恩惟内容の形式論理的性格を特微付ける。{貰に吾々は、合理性においてはじめて観察方法の同稲なるか異種なる

    かの問題を紐り得るのである。而して合理性の原理はまた、同じ形式論理的梢成の息惟内容を更に他の方向において

    整序する。卯ちこの原理は、恩惟内容をその相謁性の度合に應じて種・類に分ち

    b

    その同稲性と異稲性とを某礎付け

    る。郎ち例へば、事象を目的論的に意慾されたものとして表象する場合.帽子・洋服・靴その他を同一共通の目的に

    従属せしめて被服類手段と言ふ類概念に統一する如くである。かくの如く合理性の原理は、同じ論理的構造の思惟内

    容を整序する一般原理にして、従つて叉、系列並に群・類を構成する原理ともなるのである(汀応

    1声←〗只a-i五

    ー一)。

    七頁(乙)

    経瞼科痕の分類

    上述せるところはH

    氏の謂ふ刀吟識論の碁本原理であり、而してその甚本原理は函敷闊係にある観寮方法と合理性と

  • の二つの原理に分たれるが、続瞼科學の分類上先づ重親されるものは観察方法であった。郎ち氏にありては、科學の

    認識封象の相異は、現賓対象乃至経瞼封象それ自骰の差異に存せ`ずして観察方法の差異にあり、しかもその観察方法

    たるや、任意勝手に選出される便宜性の問題にあらすして、論理上必然的に決定さるぺき所謂正常性の問題であっ

    工氏は如何なる観察方法と之に應する合理性を以て経験科學を分類せんとするか、これが営面の

    問題である。之をなすにあたりて氏は、先づカントとケルゼンの説の批判より始める。帥ちェ氏にありては、斯くあ

    た。そこで然らば、

    、、、、

    る泄界の

    Sein

    と斯くあるべき冊界の

    Sollen

    に二分したカントの

    Sollen

    は、餘り廣義に失して統一的に説明し得ざ

    る次の二つのものを包合する。郎ち一は義務として表象さるべき注律學倫理學の封象即ち狭義の常猛であり、他は意

    慾として表象さるべき目的論の野象である。次にェ氏は、ヽ5臓のポンプ作用と血液の循環との闊係を例にあげて、目

    的論は逆の因果論に過ぎすとしたヴントの設をそのまヽ採用して、目的論科學を認めざりしケルゼンの所論に批判を

    加へて之を斥けたのである(註一)。

    かくてエングリッシュは、カント及びケルゼンの設を修正して続瞼科學の三分設

    を主張する。卯ち、第一は自然科學にして、これは経験事象を存在するものとして表象し、その息惟内容を原因•作

    用の因果性の原理によりて整序する。第二は、・グルゼンの提唱にか4

    る既述の規範論帥ちェ氏の言ふ狭義の嘗鯰であ

    つて,これは事象を義務として表象し、論理的根捩

    (logischerGrund)

    をその整序原理郎ち合理性となす。第一二は、

    ェ氏自らが提唱しかつ力説するテレオロギー卯ち目的論科學にして、野象を意慾されたものとして表象し、手段•目

    的の窮痣目的性

    (Finalitat)

    d-五II

    ―10

    頁、

    e-――五ペー)。

    云六三頁、

    aニニーニ八頁

    の原理を以てその息惟内容を整序する

    エングリッシュ数授の目的論的網滸學

    (九)

  • 第六十七巻第一職

    (

    I

    0)

    10

    かくの如くェ氏は目的論科學の獨立性を主張して、紅瞼科學の三分設を採るのである。而してそれら三つの科學殊

    に目的論の意味は、後述するところにより更に明かになるが、これら一二科學の闘聯性に闘するェ氏の所説は吾々の特

    に留意すべき獣である。氏は一方において三科學の獨立性を認めるも、他方において三科學の闊聯性を設いて言ふ°

    郎ち、

    一の科學の終る貼は他の科學の始まる所であつて、終局において因果論に師着して相互に拙完すると、けだし

    氏にありては、論理上最後の段階にある根本規範は、もはや規範の論理によりて誅明し得ないで、痰生的に何人かの

    意慾と解すべくして目的論となり、叉論理上最後にして最高の段階にある目的は、もはや目的論的に設明し得ない

    d

    二0ーニ五頁、

    e三六――一ー三六八頁、)。

    で、痰生的に心理的意慾となりて因果論的に観察されるからである(a二九頁、

    C

    二0三頁`

    h-六頁

    (註[)

    月的論が逆の因果論に過ぎざることを論證せんと試みた砂ントの所説は次の如くであるo

    「吾々が表象において作用を先

    きにとるときは作用は目的として現はれ、而してその作用を惹起する原因は、この目的に封する手段として現はれる°吾々が心

    臓のポンプ作用から血管における血液の連動に移りゆくときは、前者は後者の原因となり、之と逆に、吾々が血管における血液

    の運動より心臓の運動に還れば、前者は後者によりて逹成される目的となる」と

    (Wundt, Logik, 3 Aufi. Ed. I S. G:n, 5. Aufl.

    S. G31)0ケルゼンはこのヴントの所論を引用して之を無條件に賛成して目的論の獨立を認めないのである

    (H•Kelsen, Haupt ,

    probleme der Staatsrechtslehre, 1917, S. G:l.)

    。しかるにエングリッシュにありては.かくの加~き因果的闘係を逆にする方法によ

    りては未だ目的論は生じない°何となれば、何故心臓はぷンプの作用をなすかの間は、存在として表象するものにして‘之に封

    する正しき答は、心臓のボンプ作用に作用を及ぽすところの紳繹、筋肉の髪化の如き何ものかゞ先行せるためなりと言ふにある

    が、しかしこれは正しく因果論的であるからである°之に反して吾々が血液の運動と心臓のボンプ作用との闊係に競して、目的

    論的観察方法をとらんとすれば、何故心戯のボン。フ作用が意慾せられるかと質問し、之に対して「何となれば血液の運動が意慾

  • されるからである」と答へねばならない。かくして始めて心臓のボンプ作用が手段となり、血液の運動が目的となるのであると

    d-八ー一九頁、

    h

    一三頁)。かくの如く=氏にありては目的論の誤察方法と因果論のそれとは全く焚るのである。

    命叩

    1111

    (甲)

    目的論の本貿

    目的論の何たるやは既に述べたところであるが、因果論及び規範論との闘係を見ることによ

    りてョlJ明瞭とたる。

    (イ)

    目的論と因果論との差異

    雨者の差異は、目的論を逆の囚果論なりと主張するヴント及びケルゼンの説に釘

    する=氏既述の批評においても知り得るが、人の行認に闘聯して詳論せる氏の左記の所説は、この貼を更に明かにす

    るであらう。

    目的論の痰端は、知的意志主個が機械的因果性に干渉して熱序することにあって、この主骰の行錫が目的論的説明

    の本来の野象である。而して行厖は常に行総する主腔にしかも之のみに俯頼する。かくて行鯰は、因果的外界に干

    渉し得る凡ての場合を考へてその一を選捧するところの、行岱主儲の恩惟方法に轄位する。恩惟方法は、この選携即

    ち何故主閣が一を他よりも欲して之をョリ有利と見るかを把捉せんとし.この意慾されたものの中に秩序を求める。

    意慾されたものは更に他の意慾されたものによりてのみ整序され得て、こ4に意慾された思惟内容の秩序が生する。

    この場合、整序するものは目的であり、整序されたものは手段である。それ故、目的論は意志主骰の行岱の中に、意

    志箪位(意志、王憫)に於けるのみならす、意志内容(目的儒、目的複合、利用・慨値腑系)においても亦成立すると

    ニソグリソシュ敦授の目的論的繹流學

    (一こ

  • 2--)

    ころの聯闘統一を求める。正にこの客観的聯闘が吾々をして、具閥的選抒をなし、且つ一定の方法で行鯰するやうに

    何が意志主閤を決するかを把捉せしめる。それ故行認の目的論的説明の軍貼が、行謡相互間のこの客観的目的聯闘に

    おいて求められるならば、現賞に行為ずる主儒は全く背後に退いて、主儒は論理的に不可欠のもの、知的意志巾心、

    一の蒻薦勘となる。何となれば、閤系における個々の行鯰の連節は、主盟の現質的存在及びその性質に求められすし

    て、意慾されたもの4

    客観的聯闘、客観的髄系において求められるからである。かくてこのことより次の事が生す

    る。部ち一方に於て目的論的説明は、心理物理的意志中心が存せすして客観的目的腔系が存在すると想定され得る場

    合にも亦、この閤糸が恰も一の、モ儒に仰屈され得るかの如くなされること、他方に於て主儒の同一性それ自髄は、伽

    々の諸行侶が一の共同目的によりて存ぜ字る限りぱ、これらを誅明せしめる何等の目的論的開系を未だ構成せざるこ

    と之れである。

    因果的説明も亦、何が行岱主腔を一定の方法において行勁するやうに決定したかを究明しやうとするが、その決定

    を行為する主儒と、

    一定の行総を行ふやうにその主盟に作用したるものと.の中に求める。この説明においては、行

    認する・王儒は何等節属勘たり得すして.外的作用がそれに働き得る一の心理物理的質在でなければならない。併しこ

    の種の説明は、行総する主腔が事賞考慮し選採することを否定し得ざるが故に、意慾されたるもの盆盆序するものは

    目的、整序されるものは手段)に野する主閤の表象と,行鯰をなすやうに主庫胆を因果的に決定した意慾とは心理的事

    買として考察せられ、目的として意慾されたもの\表象は行岱の原因となる。因果的説明はこれが、行岱を行鈷者の

  • 目的表象gPち動機によりて説明する限り、目的論と全く同様に設明する如くであるが、未だ徹底的でない。何となれ

    ば、この設明は個々の行鯰をば`心狸的‘王饒より説明し得ると信じて、目的論的目的複合を問題としないからであ

    る。尚ぽ叉この設明は、目的の表象と手段のそれとの間に、心理因果的・必然的連綾性を求めるに反して、目的論的

    説明は雨者の表象の心理闘係、心理物理的主閤の因果的干渉を熊視して、たゞ意慾されたものと考へられた恩惟内容

    であるところの手段と目的との間に、客観的利用。惜伯闘係を求める(th応ハd-い汀:更-)。

    ェ氏の右の所論は要するに、因果論が事象たる行鯰を仔在するものとして表象し、個々の行腐を分離的に取扱って

    行腐に先行する心理的原因によりて説明するに反して、目的論が什在する尉象を意慾されたものとして表象し、意慾

    された恩惟内容を手段•目的の合理性によりて統一すべきことを説くものである。

    目的論と規範論との闘係

    規範論は既述の如く、封象を義務として表象しその整序原理は論理的根腺であつ

    て、目的論とは異る。しかるに、義務は之を痰生的に見れば、結局何人かによりて意慾されたものに外ならす、従っ

    て規範的観察方法は目的論的観察方法を論理的に前提し、雨者の間には隣接性がある。併しながら認識論的に見れ

    ば`雨者は全く反鉗の観勘より、卯ち目的論は意慾する主骰より、規範論は義務の主盟より観察するが故に、既述の

    如く雨者の謡識封家は異る□三叫ー)。

    右述の因果論、規範論、目的論――一者の闘保論は、それそれの科學に特有な観察方法と合理性の親貼より説かれたものであるが、

    ェ氏はこの外に債値・評債の観貼よりこれら――一科學の異同を論じてゐるこに訊

    7-e-[[OI―一戸訳幻]-hoニ鱈

    1詞国応|)。

    エングリッシュ敦授の目的論的網済學

  • 第六十七巻第一蒻

    (一四)

    ―四

    (乙)

    日的論の形式的認識

    現質の経瞼討象に一定の観察方法ル至直観形式を賞てはめることによりて始めて認識が可能となり、

    一定の諷識討

    象が獲得せられると言ふェ氏既述の認識論に従へば、認識の一種たる

    H的論的認識が形式的なるこ人-はもとより常然

    であって、このことは目的論の恩惟内容を構成するところの日的盆女請)畜補充概念。手段の説明において一貫して主

    張せられるところである。その所論の要3

    日は次の如くである。

    (イ)

    目的(要請)

    目的諭的観察の認識封象を一言にして云へば、手段•目的の原理に従つて整序せられて,一の

    共同的•本源的•最終r

    的によりて統一的に支配せられるところの要詰の複合である。野象を意慾されたものとして

    表象するこの日的論においては、意慾する主儒も亦要詰に局するが、この主開は卿述の如く心理的究在にあらすし

    て、形式的なる論理的鯨隔勘である。而して呻女請は皐一にあらすして複多なるが故に、これを最翡日的によりて統一

    的に幣序せんとする。

    H的手段の系列において最低位にある手段は日的となり得ないが、爾除のものは或は手段とな

    り或は

    H的となる。卯ちョリ低き段階にあるものはヨリ高きものに封して手段となるが、

    ョリ低き段婚にあるものに

    附して目的となる。而して系列の項貼帥ち最終最高の段階にある目的はそれより高き目的に下蜀せざるが故に、之を

    「原生目的」と梢して爾後の目的たる「派生日的」(中間日的)と瞑別する。原生日的は要請複合を統一的に把捉する

    に必要なる論理的・日的論的中心であり形式概念である。しかし若し、この原生日的が他の日的に下属するに至れば、

    要諮腹合の範固はこの新しき原生

    H的

    (蚊高

    I的)

    d-―ニー三四頁、

    h

    一九ーニニ°

    に従つて頻大する7

    貞‘

    e三七四ー三七六頁参照ヽ

  • 目的論的恩惟の袖充概念

    目的と手段との焦貼に存する慾求•利用性・費用・牧盆等の補充諸概念も亦形式

    、、

    的性質を有する。慾求は心理的事質ではなくして,例へばAを日的としBをその手段とする場合Bを慾求すると言ふ

    、、、

    如く、目的0手段に尉する闘係を表はす概念にして、目的なき所に慾求は存しない。利用性概念は、慾求とは逆に、

    、、

    手段の目的に訂する閻係である。手段の日的に月ずる翡係が蹟枢的なるときは之を利用と言び、消極的だるときはが

    、、

    と網する。牧益は利用が不利用を超過して生{ヂる利用の餘剌ヤダd

    意味すス)o

    而して牧益を畑泊吋するた

    (Scbadcn)

    利用

    、、

    めに手段を充常することによりて生する不利用を費用と言ふc

    これらの楠充概念が凡て形式概念なることは前述の如

    くであるが、こ

    4

    に特に注意すべきことがある。それは卯ち、これらの諸概念殊に利用・費用•牧盆の比較が、常に

    たゞ同一共同の

    I的下においてのみなし得ること之である。それ故、異質の日的儒系下にあるもの例へばパンと空腹

    乃至貨幣とを、逍接比校し得ると考へる如き學説は誤りにして、

    これらの比較は必すョリ高き同質の目的の見地より

    d三四ー四三頁、四九ー五四頁、

    h

    ニニーニ)'

    なさるべきである(丘貞、一――

    -l-=七頁、

    e-=―七七ー一二九0頁

    ^ クヽヽ手段

    手段は、因果論的考察において原因より結果を想定する如くに、

    一定の目的より論理上必然的に生す

    るものではない。何となれば、目的に野する手段は数多にして、主閤はそれらの手段のうちより目的に適するものを

    判脈して選繹せねばならぬからである。目的を手段に結合せしめるものを「目的論的債値判断「と言ふ。而して多く

    の手段のうち、積極的債値を有するもののみが意慾されるが故に、

    H的の達成には自ら制限がある。卯ち、或る日的

    に照せば利用性があっても、他の日的に封してョリ大なる不利用を伴ふ手段の充常は,

    ョリ高き段階にある上位目的

    H

    ングリッシュ数授の目的論的網演學

    (一五)

    一五

  • (一六)

    一六

    に劉して不利用となるために、行はれざることとなる。目的に釘する闘係より生する手段のかヽる制限を「相封的制

    限」と云ふ。之に封して、日的に判する脳係以外の原因による制限、例へば骨猷品有限の自然衰源の如き物の性質

    に、又生産に劉する禁止制限の如き國家政策に起因する手段の制限を「絶封的制限」と稲する。但しこの絶蜀的制限

    は、これが更に相尉的制限として、手段を制眼する場合にのみ問題となるに過ぎない。而して吾々が特に記憶すべき

    は、手段の充嘗によりて失ふ費用と獲得する利用の概念が.心理物迎的存在としての主箭に封するものにあらすし

    一定の目的に討して存することである(Od正四

    e辛虹噸ぃ邦仁声

    mS゚

    て、論理的鯨謁勘としての主骰‘

    (丙)

    最高目的下における目的論的思惟方法

    ェ氏はこの題下において、日約諭約合旺主義を中心として手段の充嘗、手段の猥得、これら附者の阪界等に閻して

    詳論してゐるが、之を省略して氏の到逹せる結論のみを述べて、氏の主張の大意を示すに止めるであらう。次記はそ

    の氏の結論である。

    最高目的はその論理的鱈結として、最大利用と最小不利用への努力をなすが、この努力を合理主義

    (Rationalprinzip)

    と呼ぶ。エロ々は、蚊高

    H的下における卯ち合理‘モ義による思惟方法の個々の方法を研究した。この恩惟方法は手段に

    集中して、手段獲得と手段充営とに分れた。手段の充嘗は、これが手段箪位の下降する相野的利用に應じて行はれる

    場合に最高

    H的に適ひ、手段の獲得は、

    それが手段箪位の上昇する相野的費川に應じて行はれる場合に最高目的に鈎

    合する。手段獲得の限界は、相討的最大費用が相野的最小利用によりて償はれざる所に存する。これがため、目的に

  • 到して虞分し得る手段も相封的に制限せられ、手段の限界は.所典の要請複合の目的論的計慮以外において決定され

    た外的要因によりても招来される。最大利用と最小費用への努力は、之を一括して最大牧盆への努力と稲し得る。併

    しながら最大牧盆は、たゞ合理主義の他の形式に過ぎすして"事象を牧釜に従って整序するために、相封的利用と相

    封的不利用(費用)の既成の系列を前提とせるこれらの思惟的綜合であり、従つて利用事象のみが問頴となる場合に

    は妥嘗しない。合理主義を手段箪位の相野的利用•相封的貨用の原則と、最小相封利用(相封的限界利用)•最大相封

    費用(相封的限界費用)均等の原則とに分解することによりて、最高目的Jj至合理主義における目的論的息惟方法の

    全部の梢造を、逍漏なく取扱ひ得る。かヽる認識は心理的でなく、純粋論理的形式的なるが故に、凡ての最凶目的の

    内容に謡川し得て、目刷論の思惟的武器となる。この認識は純粋形式的目的論的認識であると

    (Jidいに虹:い)。

    要す

    るにェ氏の所論の意闘するところは、従来胴たに殊に心理的に説かれてゐる合理主義乃至経演本則に、純粋論理的形

    式的性格を賦典して.凡ての社會事象従て叉経惰事象を説明せんとするのである。

    以上逃ぺ来った認識論並に

    H的論に立脚して、

    =氏は如何なる経済理論を樹立せんとするか、吾々は進んで之を見

    るであらう。

    目的論的純清學

    (甲)

    続渭學の目的論的認識

    ェ氏における続惰科準が、既述一二科學の何れに風すべきかが営面の間吃竺であり、これは氏によりて徐々に許論せら

    ェングリャ」シュ数授の目的論的籾済學

    ・(一七)

    一七

  • 9へ

    A ,_ノ

    一ノI..

    れるところであるが、私は先づ喘的に、経渭學は日的諭なりやと言ふ間図を採りあげて見る

    3

    この間凶に□する答

    ま、',

    (

    f

    )

    日的論の適用領域と,

    (口)経渭の概念に闘する氏の所論を見ることによりて自ら明かとなる。

    ^ ィ、ヽ_,,~ IL

    つき氏は大妥次の如く言ふ。日的論は、先づ経瞼内容が直観せられる形式であり,之によって痰得さ札たIll心礼的内交II

    を撃/する原理の全儒である

    3而してその直観形式は、対象を意慾されたものとして表家ずることであり、又そ0紫

    序原踵は手段と目的の原逓である。それ故,自然と雖も神によりて意慾されたものとして,目的論的に考察し得る。

    、、、、、、、、、、、

    併しながら

    l的論的考察の同有の領域は、人間の行鯰とその製作物である。人間の行認を囚呆論的に諒明することは

    不可能である。けだし、因果の頷が人間の知性、表象並に意志中心に注入して囚果的痰展に封する障害が生するから

    であると

    (d八五頁)。

    次に(口)の経清の意義に闊する大意は次の如くである。紐惰科學は、人間が個別的もしくは

    閲盟的にその生活の維持噌進のために、

    一定の方法において配慰する続験事質に営面する。而して共の謡穂の間慮は

    統一意志によりて支陀されるが、その統一意志によりて支配された個々の複合が、

    (イ)(口)の工氏の所論を要約すれば、日的論の適用領域は主として人間

    一の秩序乃至組織として四解され

    得るとき之れが紐渭であると

    (h七五頁)。

    の行鯰であり、而して経齊學の経験封象も生活の維持培進を

    l的とする人間の行鯰であると言ふにある。かくて吾々

    は、「それ故経清娯は日的論的考察の一領域なり、」と云ふ結論を得るのである。しかし更に進んで、経滸迎論は因果

    論にも規範論にもあらすして目的論なり、と言ふェ氏の詳論を左に述べやう。

    (イ〉

    経滸理論における因果論の否定

    =氏は競述の三つの経験科學の各の獨立性を堅持せんとする見地より、経

  • 清理論において因果論と日的論を同時に認めんとする學説に強く反鉗する。けだし、続清判論においてこれら二者を

    同時に認めることは、異種の認識を一の儒系に、而かも全く異る二つの合題性の原四によりて、執序することを意味

    するからである。リーフマンは、経清債値、交換並に債格の成立、その愛勁の原因、地代、利潤、利

    fの原因より、

    祖税闊税が債格所得の構成に及ぼず作用に至るまで、経清の主娑問題の凡てが因果間国であると論すると同時に、経

    惰現象が人間の目的に鰭すると云ふ見地より.人間目的よりの因果的誅明と云ふ意味に茶いて

    'finale Kausulerkliir'

    ung"

    を主張する(註一)。

    しかし経渭現家のか4

    る説明方法が、

    ェ氏によりて容れられざるは言ふまでもない。けだ

    し、氏にとりてはかヽる説明は、論珂的認識い要囚と矛盾するからである。郎ち、経惰坪論は因果論的又は日的論的

    の執れかであり、もしこれら二者が可能なりとすれば、それは一の判諭でなく異る二つの只論が同時に存するに至る

    からである

    (h七九貞)。

    かくてェ氏は、紐清の主要間題が凡て因果問題なり、とするリーフマンの前述の所説に批判

    の矢を向ける(註二)。

    いま二氏の語批判のうち、交換並に債格の成立に闘する批評の大要を間かんに次の如くである

    (h八〇ー八一頁)。

    交換並に倣格の「成立」乃至焚生の説明はそれ自慨いまだ囚果問題なりと論じ麒ぃ。何となれば、説明の方法が囚果論的なるか

    ll的論的なるやが常而の問題で主つて、その説明方法は、囚果諭的でも又目的論的でもあり得るからである°交換現象が囚呆論目

    的論のらち何れによりて涵足に説明し得るかと言ふことは別個の問題であるが、説明すべき交疫現象定引弔することは、末だ因果

    間姐でもなければ又目的論の問題でもない。然らば、交換現象は二希のうち何れの方法によりて説明せら

    9

    べきか。交挽は人間の

    行総に蹄する°而して行総の概念は既に目的論的にして目的によ

    lJて説明せられるが故にr

    閂果論的説明を許さない。

    エング

    9[

    シュ数授の目的論的繹済學

    (一九〉

    一九

  • 第六十七巻

    第一拙

    (―

    10)

    110

    債格の「成立」につきても同じことが言ひ得る。憤格笈間の飲の原因を知るには、恰も機闘車の運動の原因を知るために、機謁

    H盟の合目的的組織の知識を"拠言すれば原因と作用の間に存する杭梅の知識を必要とすると同様に、本来の理論的憤格問題た

    る償格溝成の機構の知識を前提せねばならない。それ故、償格愛動の原因を問ふことは、因果論的ではあるが決して鰐済理論的で

    あると言ひ難く、従ってか

    4

    る設問に、鰐清理論が因果論的であると言ふ證明ではない。この問阻の因果論的解答はむしろ反対

    に、既成の債格理論、を前提してゐるのである°併るに、リーフマンは艘の原因を考へないで、何が債格機構を決定するかを考へる

    が故に、彼は原因と他の合雌性の方法とを混同してゐるのであるo

    経清理論における規範論の否定

    規範性は既逹の如くその恩惟内容を義務・嘗鈴として表象して、之を論踵

    的根腺によって整序する。しかるに、経清的闘聯は全くか\る息惟方法において見らるべきでなく、経消現象は決し

    て義務現象ではない。経清理論の主なる野象は、意志主憫が評債する事質であるが、規範論はか4

    る評債事賓を見

    中、叉規範的思惟は経滑理論の認識原理たる利用概念を知らない。それ故経清理論は規範的ではない。目納高と滉範

    性との混同は、買践科學の敦義卯ち格律

    (Maximen)と規範との混同に起因する。{貰践科學の格律は、

    一定の目的を

    條件とせるものであって、何等の義務、員の常鈷を表現しない。格律を規範と稲することが往々にして行はれるが、

    かく規範を二重に意味することが、格律と規範、目的諭と規範性の混同に導き易いのである。

    かくの如く、目的論と規範性とはその本質を異にし相互に甑別せらるべきものであるが、しかし目的論の項におい

    て述べた如く、雨者の間には類同性もしくは隣接闘係がある故に、本質上の相異を明かにする要がある。或る主閤例

    へば國家の要請が、同時に他の主的に釘して規範である場合に存すると見えるところの網清と法の隣接性は、こLに

  • 言ふ隣接闘係に相常する。法律秩序は、國家の見地よりは手段と目的との閤系として、又義務‘王閤の見地よりは規範

    の論理的閥系として現はれ、かくて同じ法律秩序が或は目的論的に或は規範論的に把捉せられる。併しながら法律秩

    、、

    序の目的論的説明は、法規範の痰生を間題とする場合に生するものであるから、目的論と規範誨とは隣接性はあって

    も、その本質を異にするのである(は厄ー)。

    上述は、目的論と規範論との異同殊に差異に闘するェ氏の所説を要約

    し、而かもその意味をとりて比較的自由に述べたのであるが、吾々は進んで.経清理論が目的論たるべき=氏の積樹

    的理由を聞かねばならぬ。

    (ハ)

    経清理論の目的論たる理由

    経清が因果的にも規範的にも認識され得ないと言ふ右述の説明によりて、吾々

    は既に経渭理論が目的論たることを證明したのである。何となればこれ以外の考察方法はあり得ないからである。経

    惰理論が目的論なることは、経惰的なりと主張する任意の殿虚既乃至認識を採りあげて、その賞證的研究、形式論理的

    構造の分栃をなすも明かとなる。許學者が経洲理論の認識封象を如何に理解するとも、慾望•財•利用・不利用・費

    用・債値•牧盆の諸概念は、常に経渭理論の恩惟的器具に属する。しかるにこれらの諸概念が、目的論的思惟方法に

    おいてのみ生することは、疵に證明したところである(而して経溝行厖をこれらの諸概念によりて決定されたものと

    して考察する凡ての理論家は、意識的たると無意識的たるとを問はす、経清行総を目的論的に説明するものである)。

    更に、経清理論の認識野象を如何に構成するとも`経溝が個人経清又は國家続渭の如く或は分離的に、或は交換の如

    くそれらの相互闘係において研究されるとに闊係なく、吾々は常に経惰と稲する行総の複合に闘り来るのである。

    r

    ェングリッシュ赦授の目的論的繹滸學

    (二こ

  • (二ニ)

    的論的理論はか\る行鯰の複合を統一的に開系として把捉せんとするものにして、その憫系のうもー於いて、部分た

    る各の個々の行鶴は統一原理に従って結合され、これによって各部分は決定されるのである。斯る行鯰の複合は因臭

    論を以てしては説明し得ざるが故に

    b

    之をなすが目的論の課題となる。かくて目的論の任務は、個々の行為を一義的

    に決定して複合の凡ての行鯰を一の個系に整序する秩序原理を見出すにある

    (75い•I')

    然らば如何にして一の儒系

    に幣序するか。

    目的論はその形式論理的武器を以て所奥の経滸行鈷の複合に歩み寄り、複合を意慾されたるものとして郎ち目的に

    封する手段として表象する。目的論は論理上、意慾が鱗局せしめられる主個を必要とするが、その主儒は師述の如く

    論理的髄麗貼であって具象的‘モ個でない。目的論的観察は飩述の如く、罷系として把捉すべき行総の複合の項貼にお

    いて全憫に共通なる最高日的を求める。この最高目的より複合の凡ゆる各行総に共通なる利川(若くは費用)が生じ、

    この利用に従って個々の行偽は一の髄系に整序せられる。それ故この利用は、複合の侃々の部分を個系として現はす

    秩序原理にして、因果論的説明における「力」に相嘗する。かくして、

    一の主骰に鯰謁する紐惰行総の複合はたゞ目

    的論的にのみ把捉せられ、

    これがため純惰理諭の日的論的形式が甚礎付けられるのである

    (h八八頁)。

    而して経清の日的は概念的に常に最高の原生日的である。何となれば、純瞼的経惰(憫人続料、國家紐惰)におい

    て凡ての可能的具開目的が追求され而して経演がその賓現のための秩序であるとき、可能的具髄目的はそれらの凡て

    が相互に評債され得るたゞ一"つの目的によりて支配されねばならぬからである。吾たは具憫的諸日的が次の二見地に

  • おいて整序されるのを見る。帥ち一は個々人を満足せしめる見地にして、その経渭の目的は主観的輻祉である。他は

    人間理想促進の見地であって、その経惰日的は客観的人間。國民理想である。具閤的綜滸が何れの目的を追求するか

    は経験の問題である。併しながら、綜渭が凡ゆる具臆目的を相互に評債し得る―つの整序する目的を有すべしとすれ

    ば、それは論理的にはたゞ爾日的のうちの―つでなければならないe

    それは論理的に原生日的であり、之に封して翠

    餘の凡ての具儒目的は派生目的である。それ故、経清は原生目的によりても特徴付けられ得る。かくして経渭的息惟

    は、経験的続惰における

    11的論的息推、原生日的下における息糀なりと言ひ得る。而してかくの如くその日的が原生

    目的たることが経清乃至経演的恩惟の特性にして、派生

    H的をその目的とする技術乃至技徹的息惟と概別せられるの

    h

    八九ー九0頁、

    a)。

    である(五七頁、九一頁参照

    経惰學の目的論的認識問題に闘するこ氏の右述の所論は要するに、経惰學の取扱ふ経験野累は、生活の維持痰展と

    言ふ

    11的追求の人間行岱の複合であるから、この討象は意慾されたるものとして表象して、日的諭的に把捉さるべ

    く、而してか\る行為の複合は、常に一個の最高目的卯ち原生目的によりて整序されて始めて吾々の認識に持ち来た

    されるが、その原生目的は‘モ観的輯祉と人間ル至國民の理想とに分れると言ふにある。次述0経済の形式と内容に闘

    する=氏の所論は、更にこの貼を詳説するが故に進んでこれを見やう。

    (乙)

    経清の形式と内容

    (イ)

    純清の形式

    目的論的経惰理論が形式的論珪的なることを既に詳論したェ氏は、紐桐の形式の設明をたすに

    エングリッシュ放授の目的論的繹涜學

    (二=デ)

  • (二四)

    ニ四

    あたり、むしろ之と野應する繰惰内容との闊係を述べて、経演の形式の意味を明かにせんとする。氏の所論の意味す

    るところは次の如くである。

    目的論就中続清の目的論的理論が、人間の謡程の行為を意慾されたものとして表象し、手段目的の合理性郎ち最高

    目的によりて棺序すべきこと,か4

    る目的論的息惟より生する諸稲の概念並に原理が形式的なること、而してこれら

    が形式的なるがため、

    一方において凡ての経験封象乃至経済封象に妥嘗するも、他方において無内容なること、は既

    に述べたところである。しかるに、これらの形式的諸概念乃至謡原理がひとたび一定の継瞼的経清に迎用せられると

    きは、これらは愛じて内容的漑念乃至原理となる。帥ち目的・手段・慾求•利用・不利用・費用・牧盆の詣概念、従

    つて又最高

    H的下における日的論的息惟方法たる語粒の原則、例へば利用・費用の原珊、合叫主義、之より派生する

    詣原則の如きも、凡て内容が賦輿せられるに至るのである。上述によって吾々は、経演の理論的認識において、鯉渭

    の形式と内容とが屈別せられること、凡ての経料の形式は等しく、純滸の萬別は内容の相違に甚くこと、而してその

    経渭の内容は之を支配する目的より導き出されること、を却るのである。而して形式は、認識論的に獲得せられ、目

    的論的解繹における経料的認識の形式論理的椿成であり、日的論的直観形式である。内容は之に反して経瞼的である

    h九ニー)。

    (九五頁

    かくして吾々は二つの経清卯ち形式的続惰と賓質的網惰とを得る。

    形式的意味においては、

    最高目的下における凡

    ゆる事象が経憚であり、従つてこの意味における経演においては、師述の最高目的下における諸原理が行はれる。こ

  • の形式的経渭に封立するものは、人間及びその圏儒の究質的・経瞼的経清である。人間及びその園個の親渭はもはや

    形式的にあらすして、

    一定の内容を有する目的の下における経済であり、利用・費用等の概念ももはや形式的概念に

    あらすして、経渭の日的より樅得した内容を有する。然らば経惰理論の封象とする綜清は、これら二つの経溝部ち形

    式経清、賓質経清の執れであるか。それは後者の紐渭卯ち個々の人間並にその國閤の紐清であるところの賓質的経験

    経清であって、形式経渭ではない。何となれば形式経清の原理を研究することは、論理的分析であつて認識論の課題

    であり、経験科學たる経清理論の謀頴でないからである(か紐虹ー)。

    かくて続清の内容が重要問題となるが畜

    =氏は

    これを大罷次の如く説明する。

    経清の内容

    経清の内容の意味は前述の経溝の形式の説明によりて明かであり、紅清の内容をなすものは外

    的事象にあらナして、経滸の目的より生じ,しかも経溝事象より経消踵論の認識封象を創るところの利用若くは費JIJ

    の内容である。卯ち経惰の日的が個人純清に姦ける如く個人的滴足であれば、利用はこの満足の増加、費川はその犠

    牲であり、財はこの利用性の保持者である。叉経清の目的が國家経清における如く人間・國民恩想であるならば、理

    想がこの経滸の内容にして、吾々はこの内容を常にこの綽清の凡ゆる概念並に原則において見る。かくの如く続清の

    狸論的認識は続惰を支配する

    H的卯ち内容によりて特微付けられる。それ故、経演の目的論的理論の第一の任務は、

    経渭の目的を見出すににあって、賓にこれが唯

    i

    の任務とも言ひ得るのである。而してそれは、経清を支配する多く

    翌涵胃的より最高目的、中心目的を見出すにある

    (iuh竺叫九)

    エングリ戸シュ数授の目的論的紐演學

    (二五)

    二五

  • (二六)

    二六

    中心目的は勿論之に下属する具腔的目的の総計ではたく、それらの日的論的抽家である。この抽象が進んで内容が

    貧弱となれば、目的の内容はもはや参興されざるに至り、而してか\る内容を有する目的は.普逼妥嘗的・客観的債

    値判断を許さすして主観的

    n的となる。個人的滴足はこの窓味における主観目的である。爾餘の目的は内容的に参典

    し得て普遍妥嘗的客観的慨値判斯を許すが故に、客観的目的である。主観目的と客観日的とのこの封立、従つて叉利

    用・債値・費用等の判立は諭理的性質である(註三)。この主観主義は心理主義と混同されてはならない。感情も亦目

    的の内容を構成し得て主観

    I的となるが、しかし、それは内容が心耶的なるためでなく、内容的に参輿し得すして客

    観的債値判断の碁礎となり得ないからである。又主観主義は個人的相違性と混同さ札てはならない。個人経惰の日的

    としての個人的幅祉も個人的に異るが、この日的は主観的である。その主観日的である所以は、個人的に異るためで

    はなくして、共の目的論的性格のためである。社會が如何に秩序付けらるべきかに闘する各人の嬰諮は侃人的に異る

    が、しかしこれは主観的にあらすして客観的である。何となればこの要請は内容的に参奥し得て、何人も之をそれそ

    れの憤値判断の基礎となし得るからである。また、主観目的もその内容は貧弱ではあるが無内容帥ち形式的のもので

    ない。けだし、若し然りとすれば、吾々が、主観日的が侃人経清を整序し決定すると想定せるに拘らす、主観目的が

    何物も賂望ざることになるからである言OJwoA町)。

    =氏は右の如く、続演の内容は郎ち続惰の目的であり、経演の日的は主観的目的と客観的目的とに分ち得るとな

    し、しかもかヽる経旅のい的を見出すことが紅惰蜆論の咄一の任務であると論じて後、次の結論を下す。曰く、続憚

  • 理論は、経験的内容が目的論的形式の衣裳を肴せられることによりて成立する。それ故経清的概念並に原則は、この

    目的においてはもはや形式的概念並に原則ではたい。それ自閤形式的目的論的慨念であるとこるの慾求•利用•費用・

    債値•牧釜は、紐院理論の賞質的経惰における賓質的概念となる。経渭の理諭は賓質科學であり続瞼科學であると

    (h 100真)。

    (未完)

    (註/)

    Liefmann, Wirtschaftstheorie und ¥Virtschaftsbeschreibung. 1929, S. 9 ,

    ~11.

    (註―-)リーフマンの學諒の心踵主義に対しては、別に次の批判論文がある。

    Englis, Erkenntnistheoretische Kritik der Grund!ehren Liefmanns, in : Z. f. d. ges. Staatswiss., Bd. 88, 1 il:ln, S.

    2:rn --・

    280.

    主観目的客誤目的の雨概念はェ氏の網清斑論の核心をなすが、氏は他の箇所において、雨者の差異を感楠瓶態

    (Gefiihls1

    zustand) Q

    有無に求める°即ら目的の内容が人の一定の惑情朕熊なるときは、客麒的参呉並に定義を許さゞるが故に主観的要

    語となし、之に反して内容が客誤的参奥と定義を許すときは客麒的要請なりと言ふ°而して氏は主観客観の意味に刷して例を堺

    げ、子供が書物よりも玩具に対して認める債値を主観的なりとし、その父が敦育的見地より書物に対して認める債値を客観的な

    リと詫((

    a-―-!―-三頁)。氏は又、法律秩序を客観的要諮賞現の要因と見る(同上七六頁fo

    (註――-)

    ェングリッシュ教授の目的調的網済學

    (二七)

    二七