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3回生「材料組織学1」 緒言 2013 年度 担当:辻 69 第3章 拡散 3.1 はじめに コップに入れた水に赤インクを1滴落とすと、インクが水の中に拡散して、やがて色の区 別がなくなる。こうした拡散現象(diffusion)は、固体結晶の中でも起きている。前章で論じ た固体の相変態の多くにおける構造変化は、固体中の原子の拡散により生じる(拡散型相変 態)。金属を塑性変形した後、焼き鈍し熱処理(annealing)を行ったときに生じる再結晶現象 recrystallization)は、原子の拡散により起こる。高温変形においては、原子の拡散が変形挙 動(変形応力、変形能など)に大きな影響を与える。このように、拡散は金属・合金におけ る大変重要な基礎現象である。 Fig.3.1 に、純 Cu と純 Ni を接合した拡散対(diffusion couple)における拡散の様子を示す。 接合したての拡散対(Fig.3.1 左)を融点以下の高温に持ち来すと、2つの金属の界面を通じ Cu 原子と Ni 原子が互いに移動し、両者が混じり合う(Fig.3.1 右:相互拡散(inter-diffusion))。 その結果、拡散対の中間には Cu-Ni 固溶体(solid solution)が形成される。 Fig.3.1 Cu-Ni 拡散対における相互拡散 純金属結晶中においても原子の拡散は生じている。これを自己拡散(self diffusion)という。

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第 3章 拡散

3.1 はじめに

コップに入れた水に赤インクを1滴落とすと、インクが水の中に拡散して、やがて色の区

別がなくなる。こうした拡散現象(diffusion)は、固体結晶の中でも起きている。前章で論じ

た固体の相変態の多くにおける構造変化は、固体中の原子の拡散により生じる(拡散型相変

態)。金属を塑性変形した後、焼き鈍し熱処理(annealing)を行ったときに生じる再結晶現象

(recrystallization)は、原子の拡散により起こる。高温変形においては、原子の拡散が変形挙

動(変形応力、変形能など)に大きな影響を与える。このように、拡散は金属・合金におけ

る大変重要な基礎現象である。

Fig.3.1に、純 Cuと純 Niを接合した拡散対(diffusion couple)における拡散の様子を示す。

接合したての拡散対(Fig.3.1 左)を融点以下の高温に持ち来すと、2つの金属の界面を通じ

てCu原子とNi原子が互いに移動し、両者が混じり合う(Fig.3.1右:相互拡散(inter-diffusion))。

その結果、拡散対の中間には Cu-Ni固溶体(solid solution)が形成される。

Fig.3.1 Cu-Ni拡散対における相互拡散

純金属結晶中においても原子の拡散は生じている。これを自己拡散(self diffusion)という。

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3.2 拡散の機構

固体中の拡散に関しては種々の原子レベルのモデルが提案されてきたが、金属・合金にお

いては、Fig.3.2に示す 2つの機構が主体的である。

Fig.3.2 2つの拡散機構。(a)空孔機構、(b)格子間機構。

(i) 空孔機構(vacancy diffusion):

2.6.9節で述べたように、結晶中には原子の存在しない格子点があり、これを空孔(vacancy)

という。空孔と隣接する原子が位置を交換することにより拡散が起こる。純金属の拡散や、

合金におけるマトリクス原子および置換型固溶原子(substitutional atoms)の拡散はこの機構

により生じる。当然のことながら、この機構による拡散には空孔が必要であり、空孔が多く

存在するほど起こりやすい。2.6.9で論じたように、熱平衡空孔濃度は温度が高いほど多い。

(ii) 格子間機構(interstitial diffusion):

例えば Fe中の Cや Nは、Feに比べて原子サイズが小さいため、固溶した場合、Fe原子に

置き換わるのではなく、Fe原子による格子間に位置する。これを侵入型固溶原子(interstitial

atoms)という。一般に侵入型原子のマトリクス原子に対する数は1:1よりずっと小さいか

ら、侵入型原子にとっては、周囲は「空孔」だらけであり、そうした空きサイトを通って比

較的容易に拡散することができる。これを格子間拡散(interstitial diffusion)という。侵入型

固溶原子の格子間拡散は、置換型元素の空孔機構による拡散よりも速く、より低温で起こる。

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空孔機構にせよ格子間機構にせよ、原子が隣の空孔サイトにジャンプするためには、周囲

の原子を「押しのける」必要がある。Fig.3.3 には侵入型原子の場合のそうした状況を模式的

に示す。途中の状態では、原子の並びが乱れ、格子が歪むから、局所的なエネルギーは上昇

している。これが拡散が起こる際の熱活性化過程であり、図の

ΔGmは拡散の活性化エネル

ギーである。

Fig.3.3 侵入型固溶元素の拡散に伴う熱活性化過程

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3.3 Fick の第一法則

ここでは、希薄な侵入型固溶体を考える。母相(マトリクス)原子は単純立方格子を形成

し、侵入型固溶原子 Bがマトリクス格子を歪ませることなく固溶しているとする。合金中の

B濃度は低く(希薄固溶体)、個々の B原子は(三次元で)6個の侵入型サイトの空孔に囲ま

れているものとする。Fig.3.4 のように、B 濃度がx方向(一次元方向)に変化しているとす

ると、B原子は濃度が均一になるように拡散する。

Fig.3.4 濃度勾配下の侵入型固溶原子 Bの拡散

いま、Fig.3.4(a)における原子面①と②の間の原子の交換(流れ)を考える。原子面①と②

の面感覚がα、それぞれの面における単位面積あたりの原子数を

n1および

n2とする。原子

は±x、±y、±zの方向に、単位時間あたり平均

Γ回ジャンプするものとすると、

+x

方向へのジャンプ頻度と

−x方向へのジャンプ頻度はともに

16Γである。2つの面の中

間の平行な面を仮想的に考えると、その単位面積を±x方向に横切る流速はそれぞれ、

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J+ =16Γ n1 (3.1)

J− =16Γ n2 (3.2)

であるから、正味の流速は、

J = J+ + J− =16Γ n1 − n2( ) (3.3)

ここで、単位面積あたりの原子数 nは、濃度 c(単位体積あたりの原子数)と

n = c αという関係があるから、

n1と

n2はそれぞれの面の位置における濃度

c1と

c2を用いて

c1 α、

c2 αと表される。中間の面の位置 xにおける濃度を cとすると、

c1 − c2 = −α∂c∂x

であるから、式(3.3)は、

J = −16Γα 2 ∂c

∂x[atoms /m2 s] (3.4)

となる。すなわち、原子 Bの x, y, z3方向へのジャンプ頻度が等しく、ランダムにジャンプするとしても、濃度勾配があれば B原子の流速が全体として生じる。いま、

D =16Γα 2 (3.5)

とすると、

J = −D ∂c∂x

(3.6)

(3.6)式は、1855年に Fickにより提案され、Fickの拡散の第一法則(Fick’s first law of diffusion)

と呼ばれる。

Dは拡散係数(diffusion coefficient)と呼ばれ、その単位は

[m2 s−1]であ

る。 ここでは上記を単純立方格子における侵入型固溶元素に対して求めたが、立方晶で

原子がランダムにジャンプする限り、同じ式が有効である。立方晶以外の結晶の場合、

異なる結晶学的方向へのジャンプ頻度が等しくないから、

Dが方向により異なることになる。 原子のジャンプが完全にランダムで、濃度に依存しないという仮定は、現実の合金

では正しくない。しかしそれでも Fickの第一法則は有効であることが知られている。ただし拡散係数 Dは、濃度によって変化する。例えば Fe-0.15wtC合金における FCC γ-Fe中の Cの 1000℃における拡散係数は 2.5×10-11 m2 s-1 であるが、Fe-1.4wt%C合金においては 7.7×10-11 m2 s-1となる。こうした違いは、例えば C原子により Fe

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格子がひずむが、C濃度が増すことによって格子のひずみが大きくなって侵入型原子(C)がより拡散しやすくなると理解することができる。 上記の 1000℃におけるγ-Fe中の Cの拡散を考えると、γ-Feの格子定数は約 0.37 nmであり、したがって

α =0.372

= 0.26 nm

D=2.5×10-11 m2 s-1とすると、

Γ = 2 ×109 [ jump s−1] となる。C 原子の熱振動頻度が約 1013であるとすると、約 104回に 1 回だけ C 原子は隣のサイトにジャンプできるということになる。 1回の原子のジャンプが起こり、次のジャンプの方向が前のジャンプの方向に無関係だとすると、これは random walkとして知られている。三次元の random walkに対しては、長さαのジャンプがn回起こった場合、原子の元の位置からの平均移動距

離は、

α nであることが知られている。したがって、時間tの後の原子の平均移動距離rは、

r = α Γ t (3.7) (3.5)式を代入すると、

r = 2.4 D t (3.8) となる。

D tという量は、拡散現象を現実に考える場合に非常に重要な量である。 例えば上記の 1000℃のγ-Fe中の Cの拡散を考えると、ある C原子の 1秒間のトータルの移動距離は約 0.5mに達するが、最初の位置からの正味の移動距離は、(3.8)式によれば約 10μmとなる。

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3.4 熱活性化過程 (i) 格子間拡散(侵入型原子の拡散)の場合 引き続き侵入型固溶原子 Bについて、Fig.3.3で示した拡散の途中過程を考える。結晶中の原子は有限温度では熱振動しており、時には、原子(特に侵入型原子)の大

きな熱振動の振幅や、マトリクス原子の振動との同期により、原子のジャンプが生じ

る。その頻度

Γに拡散は大きく影響されるわけであるから、ここでは

Γを支配する因

子とその温度依存性を考えてみる。 Fig.3.3 で示したように、侵入型原子であっても、隣の空孔サイトにジャンプする途中過程では、隣接する(マトリクス)原子を押しのけ、歪ませる。これを乗り越え

るためには、系の自由エネルギーを

ΔGmだけ増加させる必要がある(添え字 m は、migrationのm)。

ΔGmは原子の移動のための活性化エネルギー(activation energy)である。あらゆる平衡にある系において、原子は互いに衝突し、振動エネルギーを交

換している。平均よりも

ΔG以上高いエネルギーを有する原子の割合は、

exp − ΔGR T

⎝ ⎜

⎠ ⎟

で与えられる。したがって、Fig.3.3 における侵入型原子がx方向に平均頻度 v で振動しているとすると、原子は1秒間にv回、x方向の隣のサイトにジャンプする試み

をし、その成功割合は

exp − ΔGR T

⎝ ⎜

⎠ ⎟ である。原子は三次元方向にランダムに振動し、z

個の最近接サイトに囲まれているとすると、

Γ = z v exp − ΔGm

R T⎛

⎝ ⎜

⎠ ⎟ (3.9)

ΔGm = ΔHm −T ΔSmとすると、式(3.5)は、

D =16α 2 z v exp ΔSm

R⎡

⎣ ⎢ ⎤

⎦ ⎥ exp − ΔHm

R T⎛

⎝ ⎜

⎠ ⎟ (3.10)

これをアレニウス型の式に簡略化して表すと、

D = D0 exp −QR T

⎝ ⎜

⎠ ⎟ (3.11)

ここで、

D0 =16α 2 z v exp ΔSm

R (3.12)

Q = ΔHm (3.13) である。

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ここでは実質的に温度に依存しない項は、

D0というひとつの材料定数にまとめられ

ている。(3.11)式の両辺に常用対数をとると、

logD = logD0 −Q2.3R

1T

(3.14)

となる。したがって、もしある原子種の拡散係数 D の値の対数(logD)を(1/T)に対してプロットすると、Fig.3.5 のようになり、切片が

D0に対応し、傾きから活性化エ

ネルギー

Qを求めることができると言うことが分かる。

Fig.3.5 拡散係数 Dの(1/T)に対するプロット