4
NR 世界初の楕円ピストンエンジン 株式会社 本田技術研究所 深町昌俊 1.楕円ピストンエンジンの生い立ち 楕円ピストンというエンジン形態は,1978年にホン ダがモータサイクルのロードレース世界グランプリ(500 CC クラス)に復帰したときがその原点となっている。 このエンジンの開発時に、高出力を得るための手段としての マルチバルブ化と,高回転まで回すためのショートストロー ク化の2つを実現するために、楕円ピストンのエンジンレイ アウトを検討しはじめた。 楕円ピストンにすると1気筒に8個のバルブが無理なく収 まり,ポート形状の不均一さもバルブ駆動系の複雑さもない 超ショートストロークのエンジンレイアウトが可能となった。 このレイアウトに基づいて試作された排気量500cm 3 レース用エンジンは、当初のねらい通りに20000r/min の高回転と,100kW以上の高性能を達成した。 さらに750cm 3 の耐久レース用エンジンを経た後,世界初 の楕円ピストンエンジン市販車『NR』へとつながった。 本稿は1992年に日本・欧州他に市販された『NR』につ いて説明する。 2.『NR』エンジンの構造・性能 2.1. エンジン構成の概略 V型4気筒・排気量 747cm 3 の『NR』のエンジン断面図 を図1に,主要諸元と性能を表1に示す。 表1 NRエンジンの主要諸元 図 1 NRエンジン断面図

NR 世界初の楕円ピストンエンジンdat1/mr/motor26/mr20072616.pdfNR 世界初の楕円ピストンエンジン 株式会社 本田技術研究所 深町昌俊 1.楕円ピストンエンジンの生い立ち

  • Upload
    others

  • View
    3

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: NR 世界初の楕円ピストンエンジンdat1/mr/motor26/mr20072616.pdfNR 世界初の楕円ピストンエンジン 株式会社 本田技術研究所 深町昌俊 1.楕円ピストンエンジンの生い立ち

NR 世界初の楕円ピストンエンジン

株式会社 本田技術研究所 深町昌俊

1.楕円ピストンエンジンの生い立ち

楕円ピストンというエンジン形態は,1978年にホン

ダがモータサイクルのロードレース世界グランプリ(500

CCクラス)に復帰したときがその原点となっている。

このエンジンの開発時に、高出力を得るための手段としての

マルチバルブ化と,高回転まで回すためのショートストロー

ク化の2つを実現するために、楕円ピストンのエンジンレイ

アウトを検討しはじめた。

楕円ピストンにすると1気筒に8個のバルブが無理なく収

まり,ポート形状の不均一さもバルブ駆動系の複雑さもない

超ショートストロークのエンジンレイアウトが可能となった。

このレイアウトに基づいて試作された排気量500cm3 の

レース用エンジンは、当初のねらい通りに20000r/min

の高回転と,100kW以上の高性能を達成した。

さらに750cm3の耐久レース用エンジンを経た後,世界初

の楕円ピストンエンジン市販車『NR』へとつながった。

本稿は1992年に日本・欧州他に市販された『NR』につ

いて説明する。

2.『NR』エンジンの構造・性能 2.1. エンジン構成の概略

V型4気筒・排気量 747cm3の『NR』のエンジン断面図

を図1に,主要諸元と性能を表1に示す。

表1 NRエンジンの主要諸元

図 1 NRエンジン断面図

Page 2: NR 世界初の楕円ピストンエンジンdat1/mr/motor26/mr20072616.pdfNR 世界初の楕円ピストンエンジン 株式会社 本田技術研究所 深町昌俊 1.楕円ピストンエンジンの生い立ち

バルブは 1 気筒当たり8個の32バルブで,点火は2プラグ

方式、ピストンは二本のコンロッドで支持されている。

楕円ピストンの外周プロフィールとリング溝の加工は一軸

制御によるNCマシンで行われる。

シリンダの内周楕円加工用に,マスターカムによる倣い加

工機を専用に開発し,刃具が楕円回転と上下動をすることで,

楕円ボアを精度よく研削しつつ,表面にクロスハッチ目をつ

けることができ,オイル保持性を確保している。

リングの形状についての詳細については後述するが,図

2に示すように長径側に合口を持ち,トップとセカンドは単

片式の自己張力タイプでありオイルリングは内側にバックア

ップのエキスパンダを持つタイプとなっている。

図2 ピストンリング

2.2.正規楕円包絡線形状

1気筒当たりに4個の吸気バルブと4個の排気バルブを

各々一列に並べ得る楕円形状としては,表2に示した正規楕

円と長円及び正規楕円包絡線形状の3種が考えられる。ここ

で正規楕円包絡線というのは,正規楕円の周上に中心を置い

た円を楕円の外周に沿ってその中心を移動させた時に形成さ

れる包絡線である。 上記の3種の楕円形状についてそれぞれ

の特長をまとめると次のようになる。

表2 楕円形状とバルブ配置

(1)正規楕円では同一ボア面積内に配置バルブの大きさに

制約があり,性能的に不利になる。又,曲率の変化は全周に

渡り連続であるが,最小半径は小さくなるのでシリンダの加

工性に劣る。

(2)長円形状はバルブの配置には最も効率が良く,性能的な

ポテンシャルは高いが,直線とのつながり部分において曲率

が不連続となるために加工誤差の影響が出やすく,リングの

シール性にも問題が残る。

(3)正規楕円包絡線ではバルブ径は長円とほぼ等しくとれ

るので性能面では良好であり,曲率の変化も連続であるので,

加工面とリングのシール性でも有利となる。

以上の結果により,性能・加工の両面で優れている正規楕

円包絡線形状を採用することにした。

2.3.真円ボアとの諸元比較

表3に本エンジン1気筒の排気量とストロークとを等し

くした真円2気筒との各諸元比較を示す。

表3 真円2気筒との比較

これによると本エンジンは真円2気筒に比べて,

(1)バルブの有効開口面積が12%大きくとれる

(2)往復運動部質量が4%軽くなる。

(3)シリンダ周長和が30%短くなる。

(4)シリンダ幅を18%小さくできる。

これらにより本エンジンの正規楕円包絡線は,ショート

ストロークタイプのエンジンが持つ特性に加えて,小型化・

高性能化をさらに追求することができた。

Page 3: NR 世界初の楕円ピストンエンジンdat1/mr/motor26/mr20072616.pdfNR 世界初の楕円ピストンエンジン 株式会社 本田技術研究所 深町昌俊 1.楕円ピストンエンジンの生い立ち

2.4. ピストンリング諸元

リングの自由時形状については面圧分布,応力,質量な

どを考慮し,最適プロフィールをFEM解析により求めた。

リングの内外周の加工はNCフライスにて行っているが,こ

の点列データ数を増し,加工精度を上げることによりシリン

ダとの密着性を向上させてシール性を確保している。

トップ,セカンド,オイルの各リング仕様を表4に示す

が,ブローバイ性能に影響の大きいトップリングにはインナ

カットにより大きめの上反角がつけられている。また,摺動

面には新開発のラッピング加工法によりバレルフェースが形

成されており,さらにCr・Nイオンプレーティング処理を施

すことで耐磨耗性を上げている。

セカンドリングはテーパフェース形状であり,合口すき

まはトップリングより広く設定して圧力のバランスをとって,

ガスシールとオイルかき機能を両立させている。

オイルかきリングとして一般的な3ピースタイプはスペ

ーサ端面をつきあてることにより面圧を出しているが,楕円

形状では短径方向の曲率半径が大きく面圧が出にくい。そこ

でオイルリングはT寸法の小さな単片式のアンダカットタイ

プとし,背面に設けた波板状のエキスパンダにより面圧の確

保とシリンダへの追従性を向上させ,高回転まで良好なオイ

ルコントロール性能を得ている。

表4 ピストンリングの仕様

2.5. バルブ有効開口面積

バルブの開口面積はエンジンの出力性能を左右する重要

な要素であり,開口面積が大きいと最高回転数を高くさせる

ることができ,そのときの体積効率も高く保つことができる。

図3に本エンジンの1気筒と前述の真円2気筒の吸気バルブ

の開口面積を比較したものを示す。同一のバルブ径と個数に

もかかわらず,本エンジンでは中央の2個のバルブはシリン

ダ壁面によるマスキングの影響を受けにくいために平均有効

開口面積は12%増加している。

図3 バルブ有効開口面積の比較

図4 吸排気ポート

2.6. フリクションロス

従来の真円4気筒エンジンとのフリクション比較を図5

に示すが,本エンジンでは往復運動部質量の軽減とショート

ストローク化によりフリクションが低減した。また,バルブ

の有効開口面積が大きくとれるために少ないバルブリフトで

も必要十分な面積が得られることとなり,バルブスプリング

荷重を低く設定することもできた。よってバルブの数が多い

にもかかわらずバルブ駆動ロスは低くなり,全体のフリクシ

ョンは12000r/min において12%の低減となっている。

Page 4: NR 世界初の楕円ピストンエンジンdat1/mr/motor26/mr20072616.pdfNR 世界初の楕円ピストンエンジン 株式会社 本田技術研究所 深町昌俊 1.楕円ピストンエンジンの生い立ち

図 5 フリクションロスの比較

2.7. 体積効率と出力特性

本エンジンではバルブ有効開口面積を増加できたことと

フリクションを低減できたことにより,特に高回転で高い体

積効率(ηv)を得ることができた。その結果,図6に示すよ

うに最高出力は95.6kW/14000r/min,最大トルク

は70.6Nm/11000r/minの性能を達成できた。 同

一排気量の従来機種と比べると最高出力値とそれを与える回

転数は他を大きく上回っており,幅広いパワーバンドに加え

伸びのある特性は本エンジンの大きな特長となった。

図 6 エンジンの出力特性.

3. 『NR』の車体

フレームは、ホンダ独自の目の字型断面材を使用した極

太アルミ・ツインチューブを採用。最適なフレーム剛性を持

たせると同時に軽量化も両立させるため、ヘッドパイプ廻り

やピボット部 にアルミ鍛造素材を採用し、フレームのねじり、

たわみの均一化を図り、しなやかな操縦性と優 れた直進性を

高次元でバランスさせている。また、フレーム表面は念入り

なバフ仕上げとアルマ イト加工をしている。

さらにフェアリングとボディカウルに、軽量・高剛性の

炭素繊維強化樹脂(CFRP)を採用するとともに、ボディ

カラーには新開発の赤色・ 高彩度塗装を施している。

また、ウインドスクリーンには多層蒸着法によるチタン/シ

リコン・ ハードコートを施している。

足廻りは、フロントに倒立フォーク、リアに片持ち式ス

イングアーム(プロアーム)を採用するとともに、軽量・高

品質のマグネシウム・ホイールに、優れたグリップ性能と耐

摩耗性を両立させたラジアルタイヤを組み合わせて装備。

フロントブレーキは、異径4ポケット対向ピストン・ キャリ

パーと大径(310mm)フローティング・ディスクをダブル

で、リアにはデュアルピストン・キャリパーにベンチレーテ

ッド・ディスクブレーキを組み合わせて装備している。

外観は、流麗かつ力強い面で構成し、異形デュアルヘッ

ドライトと両サイドにプロジェクターライトを内蔵したフェ

アリングや、燃料タンク部からシート/リア部まで一体化さ

れた大型ボディカウルに加え、赤色・高彩度塗装やチタンハ

ードコートのウインドスクリーンと合わせて、ダイナミック

さとエレガンスを表現した。

4.おわりに

歴史上『NR』は空前にして絶後となった。

進化なのか、ばからしいことをやっていたのか、弊社内で

も様々な意見を聞いた。自分の机にしまってある楕円形のピ

ストンを手にして、1992 年頃を振り返ってみる。来る日も来

る日も悪い結果ばかりのテストを1000回以上繰り返した後に、

やっと良いデータが出た時の仲間の笑顔。リング工場で繰り

返し加工トライをしているうちに夜中になり、担当の方が寒

さに手をさすりながら「さすがに腹減りましたね?」と微笑

んだこと。量産1号機が組み上り、エンジンを始動してブン

ブンとやった後に「フ~っ」と皆がそろって息を吐き、顔を

見合わせて苦笑いしたこと。物作りが大好きで、夢中になっ

ていた人々のステキな笑顔が想い浮かぶ。

あきらめないことが結晶してマシンに輝きを与えたと自負

して世に出した。『NR』は300台で生産を終えたが、こ

のスピリッツは弊社のバイク創りに、今でも脈々と受け継が

れている。