174

中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、
Page 2: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

富士川 游著 『日本医学史』

Page 3: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

中国医学の導入と 模倣の時代

Page 4: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

日本の医学の神々

大国主命 少名彦名之命

Page 6: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

中国医学の伝来

当初朝鮮半島を経由して日本に導入 次いで中国大陸より直接に、他の諸

文化とともに輸入

Page 7: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

中国医学導入の歴史①

413 大和朝廷、良医を新羅に乞い、金武来日して天皇の病気を治して帰る。

459 天皇、良医を百済に乞い、高麗医・徳来来朝す。子孫は代々難波に住み医をもって業となしたので「難波の薬師」と呼ばれた。

554 百済より医博士・王有陵陀、採薬師・播量豊・丁有陀来日す。

562 呉人知聡、薬書・明堂図など160巻を持って来日す。外国医書が日本に入った最初の公式記録。

582 聖徳太子、四天王寺を建立。

Page 8: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

中国医学導入の歴史②

602 百済僧・勸勒、暦・天文・遁甲・方術などの書を携えて来日。山背臣日并立、彼について医術を学ぶ。

608 福因、遣唐使に随い中国に渡る。 623 福因、医術を学んで帰る。同時に帰国し

た恵日は、その後も2度中国に渡り、医学の発展、医事制度の制備につくした。

Page 9: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

藤原京跡から出土した木簡

Page 10: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

701 大宝律令、718養老律令発布。中に「医疾令」を含み、医針生の教科書に『甲乙経』『脈経』『脈決』『本草』『小品方』『集験方』『素問』『黄帝針経』『明堂』『流注経』『偃側図』『赤烏針経』などが指定される。

754 鑑真来朝、多くの薬物を将来す。 808 出雲広貞・安倍真直、勅を奉じ、日本全国より民

間の処方を聚めて『大同類聚方』100巻を著す。 868 管原岑継ら『金蘭方』を撰ず。

Page 11: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

奈良・平安時代

Page 12: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

平安

1000

奈良・平安時代の医学 1 中国の模倣(典薬寮) 2 当時の教科書 (素問・針経・小品方・集注本草 甲乙経・脈経・集験方・明堂など) 3 『医心方』の成立

鎌倉 室町

Page 13: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

奈良平安時代の医学の教科書

黄帝内経素問 針経(黄帝内経霊枢) 黄帝内経明堂 針灸甲乙経 小品方 集注本草(神農本草経集注) 脈経 集験方

Page 14: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『黄帝内経素問』

Page 15: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『黄帝内経霊枢』

Page 16: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『黄帝内経太素』

Page 17: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『黄帝内経明堂』

Page 18: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『鍼灸甲乙経』

Page 19: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『小品方』

Page 20: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『神農本草経集注』

Page 21: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

丹波康頼

Page 22: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

丹波康頼『医心方』

Page 23: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

鎌倉時代

Page 24: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

1000

鎌倉

鎌倉時代の医学 1 宋医学の導入 2 二つの医学全書 (頓医抄・万安方) 3 仏教寺院での救療事業(忍性ら)

平安 室町

Page 25: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

叡尊

Page 26: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

忍性

Page 27: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

北山十八軒戸

Page 28: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

極楽寺

Page 29: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

梶原性全(1266-1337)

鎌倉後期の僧医。号は浄観。相模国(神奈川県)の人。平安時代の医学(隋唐医学)に加えて新渡来の宋医学文献を渉猟。 1302年あるいは1304年に完成した『頓医抄』全50巻は仮名交じりで平易に書かれた医学全書で、内臓

図も載せている。 また1315年~1327年ごろにかけて著述した『万安方』全50巻(のち62巻)は新渡来の『聖済総録』など多数の医学文献を漢文のまま引用しており、文献学的

価値が高い。

Page 30: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

梶原性全『頓医抄』(京大富士川)

Page 31: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『(覆載)万安方』の中の解剖図

Page 32: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

室町時代

Page 33: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

1000

室町

室町時代の医学 1 明医学の導入 2 熊宗立の影響(医書大全) 3 渡明医師達の業績(半井明親ら) 4 曲直瀬道三の登場(啓迪集) 5 代表的医書 (福田方・全九集・啓迪集・医学指南編)

平安 鎌倉

Page 34: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

竹田昌慶(1338~1380)

室町時代の名医。太政大臣藤原公経の子。

応安2年(1369)、32歳の時に渡明し、金翁道士

について医術を学び、その娘を娶り、2子を設

けた。洪武年間に明の太宗の后の難産に際し

て功あり、安国公に封ぜられた。永和4年

(1378)医書および銅人形を携えて帰国し、翌々

年法印に叙せられたが、この年に世を去った。

医家の名門竹田家はここに始まる。

Page 35: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

室町時代後期の渡明医師たち

半井明親 吉田意休 金持重弘 吉田宗桂 田代三喜

以後の日本の医学界は、これらの人々とそ

の後継者達によってリードされるようになった。

Page 36: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

医書大全 (日本で最初に刊行された医学書)

Page 37: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

半井明親

Page 38: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

半井明親(?~1547)

春蘭軒と号す。永正年中(1504~1520)渡明し、

明の武宗の病気を治して銅硯と驢馬2頭を賜り、

以来驢庵とも称するようになったと伝えられて

いる。

子の瑞策も名医として有名で、朝廷より『医心

方』(半井本と称する)を下賜された。なお女婿の

宗珠は有名な連歌師・牡丹花肖柏の子で、堺

半井家を興した。

Page 39: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

室町時代末期には、五山僧達が医学文献の

研究を熱心に行うなど、知識人の医学に対する

関心が高まった。 ただ、この当時の輸入医書には若干の偏り

があり、建陽の書賈で医者を兼ねたと伝えられ

る熊宗立の出版になるものが多かった。

Page 40: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

熊宗立が出版した23種の医書①

(1)新刊補注釈文黄帝内経素問 十二巻 (2)新刊黄帝内経霊枢 十二巻 (3)黄帝内経素問遺編 一巻 (4)素問入式運気論奥 三巻 (5)新刊勿聴子俗解八十一難経 六巻 (6)王叔和脈訣図要俗解 六巻 (7)太平恵民和剤局方 十巻 (8)類証注釈銭氏小児方訣 十巻 (9)新編婦人良方補遺大全 二十四巻 (10)外科精要附遺 三巻 (11)類証陳氏小児痘疹方論 二巻 (12)陳氏小児病源方論 四巻

Page 41: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

熊宗立が出版した23種の医書②

(13)類証像寒活人書括指掌図論 十巻 (14)温氏海上仙方 一巻 (15)注解傷寒論 十巻 (16)新刊劉河間傷寒直格 三巻、付三巻 (17)新編名方類証医書大全 二十四巻 (18)増補本草歌括 八巻 (19)医学源流 一巻 (20)傷寒運気全書 十巻 (21)新増素問運気図括定局立成 一巻 (22)黄帝内経素問霊枢運気音釈補遺 一巻 (23)山居便宜方 十六巻

Page 42: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

室町時代~安土桃山時代の鍼灸

この時代には、中国や朝鮮半島から新来の

鍼灸知識や技術が輸入され、鍼灸は百花繚乱

の趣をみせた。

Page 43: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

鍼道秘訣集

Page 44: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

ルイス・フロイス 『日本誌』

Page 45: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

曲直瀬道三(1507~1594)

Page 46: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

曲直瀬道三(まなせ どうさん)1507~1594

戦国織豊時代の名医。名は正盛、また正慶とも称す。

字は一渓。雖知苦斎、蓋静翁、寧固と号す。院号は翠竹

院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ

た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

京都相国寺をへて1528年(22歳)足利学校に学んだ。

1531年に田代三喜と出会い、その門で医学を学び、

1545年(39歳)帰洛して医を業とし、以後名医の名をほし

いままにした。また学舎啓迪院を設立し、後進の育成に

当たった。皇室や将軍家の寵を受け、毛利元就、 織田

信長、豊臣秀吉などの武将にも重んじられた。

Page 47: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

曲直瀬道三の主著 『啓迪集』

Page 48: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

啓迪集

『啓迪集』は、中国医書64種を参考にして編纂されたもので、それらの書物より種々の条文

を引用することによって構成されている。 各書よりの条文の採用の仕方、構成法など

に曲直瀬道三独自のアイディアが沢山盛りこま

れている。

Page 49: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『啓迪集』 自序

Page 50: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

察証弁治

察証:証を推察する 弁治:治療法を明らかにする

伝統医学理論を用いて病態を分析し、それに基づいて治療を行うこと。

中医学における弁証論治と同じ意。

Page 51: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

曲直瀬流医術の特徴 1.基本理論 :陰陽五行説 2.生理学 :気・血・津液、臓腑、経絡の働き 3.病理学 :病因・病機に基づく 4.診断学 :病因・病機を診断 5.薬物学 :四気・五味・帰経、薬効(病因・病機

に対応) 6.処方学 :病因・病機に対応 7.治療学 :察証弁治

Page 52: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『啓迪集』

Page 53: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『十五指南篇』 三巻(慶長年間活字印行)

Page 54: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『全九集』

Page 55: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『弁証配剤医燈』 三巻(1571成 1584奥書)

Page 56: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『授蒙聖功方』

Page 57: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『雲陣夜話』

Page 58: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『遐齢小児方』 一巻(1566成)

Page 59: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『薬性能毒』

Page 60: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『一字銘』

Page 61: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

曲直瀬流の脈診(『切紙』より)

Page 62: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『鍼灸集要』

Page 63: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『出証配剤』 二巻 (1577成)

Page 64: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

曲直瀬道三の医案

Page 65: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

曲直瀬道三の墓

Page 66: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

曲直瀬道三 顕彰碑

Page 67: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

後世派 曲直瀬道三(1507~1594)を始祖とする流派。

15~16世紀の中国医学(明医学)を日本に導入し、

日本化したもの。その後200年余にわたって日本の医

学の主流。

陰陽五行説に基づき、伝統医学理論によって病因

病機を分析し、その病態に薬物・処方を対応させて治

療を行うもので、道三はこれを察証弁治と名づけた。

富士川は、この流派が、漢代の張仲景ではなく、後世の(明代)の医説に基づくとして、「後世派」と命名した

Page 68: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

曲直瀬道三の弟子達 施薬院全宗 曲直瀬正琳 曲直瀬正純 曲直瀬玄朔

Page 69: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

曲直瀬玄朔(1549~1631)

Page 70: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

曲直瀬玄朔(1549~1631)

名は正紹。東井と号す。曲直瀬道三の甥で、のちに

その養嗣子となり、二代目道三を名乗った。幼少時よ

り初代道三のもとで育てられ、その薫陶を受けた。豊

臣秀吉に重用され、皇室を含む当時のVIPの診療に

当たり、その記録を『医学天正記』に残した。

玄朔の医術は、道三の体系の延長線上にあり、そ

の上に『医方考』『万病回春』『医学入門』『本草綱目』

など新しい文献の知識を加えて、更に幅広いものにな

った。弟子は多く、著書に『常山方』『済民記』『医方明

鑑』 『 医学天正記』『延寿撮要』『註能毒』などがある。

Page 71: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

玄朔の時代に中国で出版された医書

1575 李梴 『医学入門』 1584 呉崑 『医方考』 1585 張三錫 『医学六要』 1586 馬蒔 『黄帝内経素門霊枢注証発微』 1587 龔廷賢 『万病回春』 1589 方有執 『傷寒論条弁』 1590 李時珍 『本草綱目』 刊行開始 1596 孫東宿 『赤水玄珠』 1599 趙開美 『仲景全書』 刊 1617 陳実功 『外科正宗』

Page 72: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『万病回春』

Page 73: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『医方考』

Page 74: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

李梴『医学入門』

Page 75: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

李時珍『本草綱目』

Page 76: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

曲直瀬玄朔の医案

Page 77: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

症例(淀君のノイローゼ)

Page 78: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

淀君のノイローゼ 症例:淀君 32歳 女性

初診:慶長3年(1598)11月1日

主訴:気鬱

現病歴:さる8月18日に秀吉が薨去し、それ以後、

気欝し、胸中が痞塞して痛み、全く食するこ

とができなくなった。時に頭痛もある。

診断:気鬱(反応性鬱病)

治療:養胃湯(万病回春・痞満門)20日余り投与。

のち、これを丸薬に製して長服。

(出典:曲直瀬玄朔『延寿配剤記』気門)

Page 79: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

曲直瀬玄朔の代表的著書

1.常山方 十二巻(1595~1598成 写) 2.医法明鑑 四巻三冊(1628刊) 3.薬性能毒、二巻(1608古活字刊) 4.済民記 三巻(1573成 1617刊) 5.延寿撮要 一巻(1599刊) 6.山居四要抜粋 (1592成 写) 7.百腹図説 一冊(写) 8.医学天正記 二巻 (1607成、1627刊)

Page 80: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

江戸時代初期 曲直瀬流の隆盛

Page 81: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

1000

室町 江戸

江戸時代初期の医学 曲直瀬流医術の普及 口訣の登場による医学の簡易化 出版の普及による医学の大衆化 代表的医書 (医学天正記・玄冶方考・医方口訣集 衆方規矩・見宜翁医案・牛山方考・)

鎌倉 平安

Page 82: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

曲直瀬玄朔の弟子達

岡本玄冶 (1587~1645) 長沢道寿 (?~1637) 古林見宜 (1579~1657) 井上玄徹 (1602~1686) 井関玄悦 (1618~1699) 野間玄琢 (1591~1646) 饗庭東庵 (1621~1673) 今大路玄鑑 (1577~1626)

Page 83: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

岡本玄冶(1587~1645)

Page 84: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

井上玄徹(1602~1686)

Page 85: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

古林見宜(1579~1657)

Page 86: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

堀 杏庵

Page 87: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

山脇玄心

Page 88: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

中国からの新来の医書

呉崑の『医方考』 李梴の『医学入門』 龔廷賢の『万病回春』 李時珍の『本草綱目』 これらの四書は特によく研究され、それぞ

れ翻刻されたばかりでなく、抜粋されたり注を付

されたりして広く普及した。

Page 89: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

口訣本の出現

これを反映して専門的な知識が発達すると同

時に、内容をわかりやすく解説した口訣本が多

く出まわった。 この時期の口訣の代表的なものに、岡本玄

冶の『玄冶方考』、長沢道寿の『医方口訣集』

(後に北山友松子によって増補)、曲直瀬道三

の原著を増補改訂した『衆方規矩』などがある。

Page 90: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

岡本玄冶『玄冶薬方口解』

Page 91: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

長沢道寿著・北山友松子増補『増広医方口訣集』

Page 92: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

北山友松子(?~1701)

Page 93: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『摂津名所図会大成』に載せられた江戸時代の太平寺境内

北山不動

Page 94: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

香月牛山(1656~1740)

Page 95: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

江戸時代初期の後世派医学の特徴

1.曲直瀬道三の察証弁治を基本 2.『万病回春』など新来の明代医書を重視 3.口訣の発明と応用

Page 96: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

江戸時代中期 古方派の勃興

Page 97: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

1000

室町 江戸

江戸時代中期の医学 1 古方派の勃興 2 吉益東洞の考え方の普及 3 後世派医学理論の崩壊 4 代表的医書 (類聚方・薬徴・漫遊雑記・生生堂医談 蕉窓雑話)

鎌倉 平安

Page 98: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『傷寒論』の普及と研究ブーム

1659年に日本版『仲景全書』が、次いで1668年に『宋版傷寒論』が出版されると、この古典に

対する関心がにわかに高まり、多くの人々がこ

れを研究の対象とするようになった。

『傷寒論』そのものは日本ではほとんど未知の

ものであり、元和~寛永年間に古活字版の『注

解傷寒論』が出版されていたものの、一般に流

布するところではなかった。

Page 99: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

古方派

明医学を主とする後世派に対し、古の医学を

行うことを理念とし、『傷寒論』に基づいて臨床

を行う流派

後世派で用いられている医学理論は後世の人

間が作ったものであって、本来の医学の形ではな

いとし、それらの理論を否定する一方、古の聖人

の医学の一部が漢代の『傷寒論』に残されている

という理由で『傷寒論』を中心とした医学体系の

樹立を目指し、実証主義の立場で臨床を行った。

Page 100: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

古方家の観点

その実際の形については各人各様で、時代によっても異っている。

古の聖人の医学(医術)を今

の時代に再現する。 理論は『傷寒論』に基く。

Page 101: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

名古屋玄医(1628~1696)

日本最初の傷寒論の研究家。彼の『傷寒論』理解は、扶陽抑陰の医学思想に基づくものであって、それまでの医学理論を根本的に覆すものではなく、あくまでも、それまでの学説の文脈の延長線上で理解できるものであった。

Page 102: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

喩唱『尚論篇』

Page 103: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

名古屋玄医著『医方問余』冒頭

Page 104: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

名古屋玄医の医説 1.扶陽抑陰説の提唱 2.『傷寒論』重視 3.運気学説の重視

Page 105: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

名古屋玄医の著書 1.医方問余 (写本、 1679自序) 2.医方規矩 (写本) 3.薬物規矩 (写本) 4.纂言方考 五巻(1668成 1672刊) 5.続方考医読註 14巻(写) 6.丹水子 二巻(1687風升堂人序、1693刊) 7.金匱要略註解 二十三巻(1697刊) 8.難経註疏 二巻(1679自序、1684刊) 9.医学愚得 上下二巻(1681序刊) 10.閲甫食物本草 二巻(1669自序 1671刊)

Page 106: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『金匱要略注解』

Page 107: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

後藤艮山(1659~1733)

Page 108: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

後藤艮山の医説 1.曲直瀬流医学理論の部分否定 2.民間療法重視(湯熊灸庵) 3.お灸の多用

Page 109: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

灸法の普及

灸は、家庭でもできる簡便な治療法であり、

江戸時代初期からよく用いられていた。 江戸時代中期には、後藤艮山がでて、灸法

を盛んに用いたこともあって、非常に普及した。

Page 110: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

もぐさ売り

Page 111: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

婦人お灸図

Page 112: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

香川修庵著『一本堂行余医言』

Page 113: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

香川修庵の目指したもの

1.儒医一本 2.症候学・病態学の確立 (『一本堂行余医言』が代表) 3.『傷寒論』の重視

Page 114: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

山脇東洋(1705~1762)

Page 115: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

山脇東洋の医説 1.周代の医学が理想 実際の医術は漢代の『傷寒論』に基く 2.『傷寒論』重視 『傷寒論』の法則ですべてを説明 3.解剖学を重視 『蔵志』を著す

Page 116: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

永富独嘯庵(1732~1766)

長州の勝原翠翁の3男として生まれ、13歳で医師・永富友庵の養子となった。山県周南に儒を、山脇東洋に医を学び、奥村良竹に吐方を伝授され、さらに長崎でオランダ医学にも接した。 すぐれた臨床家であり、高い見識の持主で

あったが、惜しくも35歳で夭折した。彼の医学は、その著『漫遊雑記』にもっとも良く伺われる。他に『嚢語』『吐方考』などの著がある。

Page 117: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

永富独嘯庵(1732~1766) 『漫遊雑記』

Page 118: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

吉益東洞(1702~1773)

Page 119: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

吉益東洞の医説 1.万病一毒説 2.腹診の重視 3.陰陽五行説の否定 4.病因・病機無視 5.薬物の寒熱・引経報使否定 6.補瀉の概念の改変

Page 120: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

万病一毒説の特徴

万病一毒説は、正気の状況を問題にせず、

邪の存在にのみ重点をおき、駆邪を主体とした

治療を行うところに特徴があり、漢方医学の伝

統医学的観点からみれば極めて異端である。

Page 121: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

腹診図

Page 122: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

吉益東洞の主な著書

1.類聚方 一巻(1765刊) 2.方極 一冊(1764刊) 3.方機 一冊(1811刊) 4.薬徴 三巻(1771自序 1785刊) 5.建殊録 一巻(1763刊) 6.医事或問 二巻(1769刊) 7.古書医言 四巻(1814刊) 8.医断 一巻(1759刊)

Page 123: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『医断』一巻(1759刊)

Page 124: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『医事或問』 二巻(1769刊)

Page 125: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『類聚方』一巻(1765刊)

Page 126: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『類聚方』

吉益東洞は、『傷寒論』『金匱要略』を一旦解

体し、それを処方別に再構築して『類聚方』を

作った。 その結果、各条文が処方別に整理され、方

証相対(特定の症候に特定の処方を対応させ

る治療システム)による運用の方法が明示され

ることになった。

Page 127: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『方極』 一冊(1764刊)

Page 128: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『方機』一冊(1811刊)

Page 129: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『薬徴』三巻(1771自序1785刊)

Page 130: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『薬徴』冒頭

Page 131: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

吉益東洞症例

Page 132: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

[症例]5歳 男児 [主訴]瘂(喋れない)、癇(癲癇発作) [現病歴]生後3年余になるが、未だに言葉が

喋れない。また、1日に1~2回のてんかん発

作があり、体は痩せ衰え、今にも死にそうで、

その悶え苦しむ様はだんだんひどくなってきて

いる。 [現症]腹症:心下痞、之を按じて濡。 [処方]大黄黄連瀉心湯

吉益東洞症例

Page 133: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

[経過]大黄黄連瀉心湯を服用して100日ばか

りで心下痞は消失し、てんかん発作は起こらな

くなった。しかし、胸肋妨張、脇下支満し、依然

としてまだ喋れない。そこで、小柴胡湯を作り、

三黄丸を兼用として服用させ、時々大陥胸丸を

用いてこれを攻めた。 このようにして半年ばかり経過したある日、た

またま門前を通りかかった馬を見て「ンマ」と叫

んだのをきっかけとして、上述の治療の継続に

より、数ヶ月で言語は常児の如くになった。

Page 134: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

吉益東洞の墓

Page 135: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

江戸官学派

江戸時代中期、江戸幕府の官医達を中心

に成立した学派

京都の古方派の行き方に反対し、別の形で

新しい体系づくりを考えていた。古方派と同じよ

うに金元時代以降の医説を批判したが、『傷寒

論』のみを重視する古方派のような行き方はと

らず、広く宋以前の医術を尊重する立場をとっ

た。代表人物は、今大路親顕(曲直瀬道三の子

孫)、望月三英、多紀元考ら。

Page 136: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

江戸官学派の代表人物

今大路親顕(?~1737)

望月三英(1697~1769)

多紀元考(1699~1766)

丹羽正伯(1700~1752)

Page 137: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『和剤局方』

Page 138: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

江戸時代後期 折衷派の時代

Page 139: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

1000

室町 江戸

江戸時代後期の医学 1 折衷派の流行 2 考証学派の勃興 3 蘭方の隆盛 4 代表的医書 (類聚方広義・方伎雑誌・勿誤薬室方函 橘窓書影)

鎌倉 平安

Page 140: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

東洞以後の医学界の動向

1.曲直瀬流の変容と衰退

2.理論によらず経験を重視

3.諸種の考え方や方法を折衷

Page 141: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

折衷派

古方と後世方を折衷して臨床を行う流派

東洞を始めとするいわゆる古方派の登場によ

り、それまで用いられていた伝統医学理論が否

定された結果、医師達は拠るべき場所を失い、

自らの経験を重視しながら、後世派理論の一部

分、古方派の主張の一部分、その他諸々の医説

や理論を臨床に取り入れた。折衷の形は単一で

はなく、各人の個性や知識によって様々なもの

がみられる。

Page 142: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

折衷派の医家達 和田東郭 中神琴渓 百々漢陰 原 南陽 片倉鶴陵

Page 143: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

和田東郭(1742~1803)

Page 144: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

和田東郭の医説を述べた書

1.蕉窓雑話 五編五冊(1823~1846刊) 2.蕉窓方意解 上下二巻(1813刊) 3.導水瑣言 一冊(1807刊) 4.含章斎腹診録 上下二巻(1850刊) 5.腹診後録 上下二冊(1850刊) 6.百疾一貫 上下二巻(写)

7.傷寒論正文解 全八巻(1844刊)

Page 145: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

『蕉窓雑話』

Page 146: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

方を用いること簡なる者はその術日に精し

Page 147: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

方を用いること繁なる者はその術日に粗し

Page 148: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

荻野玄凱(1737~1806)

Page 149: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

中神琴渓(1744~1833)

Page 150: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

原 南陽(1752~1820)

Page 151: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

片倉鶴陵(1751~1822)

Page 152: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

漢蘭折衷派

当時のオランダ医学は外科に勝れ、折衷もオ

ランダ外科と内科的な漢方医学の折衷という形で

行われた。多くの蘭方医は、漢方医学の素養が

あって、その意味では漢方と蘭方を適宜使い分

けていたといえるが、漢方と蘭方を本格的に折衷

し、臨床上成功させたのは華岡青洲(1760~

1835)が最初である。

漢方医学と蘭方(オランダ医学)を折衷して臨

床を行う流派の総称

Page 153: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

華岡青洲(1760~1835)

Page 154: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

本間棗軒(1804~1872)

Page 155: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

考証学派

清朝考証学の方法論を医学研究に応用し、

主として医学古典の輯義・考証を行い、テキ

ストの復元、注釈、復刻に力を尽くした流派

医学館総帥・多紀元簡(1754~1810)に

よってそのスタイルが確立され、以後、医学

館を中心として発展し、多くの人材を輩出し、

沢山の研究成果が世に出された。

Page 156: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

多紀元簡(1754~1810)

Page 157: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

多紀元堅(1795~1857)

Page 158: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

山田業広(1808~1881) 墓碑

Page 159: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

森 立之(1807~1885)

Page 160: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

考証学派の仕事

1. 重要古典の復刻(『千金要方』『千金翼方』『医心方』など)

2.古典の注解(『傷寒論輯義』『金匱要略輯

義』『素問識』『霊枢識』『傷寒論述義』『金匱

要略述義』など) 3.書誌学的な研究(『医籍考』『経籍仿古誌』な

ど)

Page 161: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

幕末の二大名医

尾台榕堂(1799 1870) 浅田宗伯(1815 1894)

Page 162: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

尾台榕堂(1799~1870)

名は元逸。通称良作。字は子超、榕堂はその号であ

る。信濃魚沼郡の医家小杉家の四男として生まれ、の

ちに尾台姓を継いだ。

16歳の時、江戸に出て岑少翁の弟子尾台浅嶽につ

いて東洞流古方を学んだ。浅嶽の死後、そのあとを継

ぎ、東洞流古方を用いて診療を行った。

その全生涯をほぼ市井医として遇し、浅田宗伯と共

に、幕末の江戸の二大名医として称えられた。

Page 163: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

尾台榕堂(1799~1870) 『類聚方広義』

Page 164: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

浅田宗伯(1814~1894)

Page 165: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

浅田宗伯(1814~1894)

当初吉益流の古方を学び、後に江戸に出て医学館の人々や考証学者と接触を持ち、江戸官学派の優れた面を吸収した。 その結果、京都と江戸の両学派の医術を身につけ、基礎を『傷寒論』に置きながら、宋代の医学体系に基づいて処方を運用する幅広い臨床を行った。 著書は多く、『勿誤薬室方函』『勿誤薬室方函口訣』『傷寒論識』『雑病論識』『皇国名医伝』など多岐にわたる。

Page 166: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

フランス公使・レオン・ロッシュ Michel Jules Marie Léon Roches (1809~1900)

Page 167: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

フランス公使レオン・ロッシュの症例

Page 168: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

[症 例] レオン・ロッシュ 57歳 男

[初 診] 1865年8月20日

[主 訴] 腰下肢痛

[現病歴] 以前、陸軍の大将であった18年間に、

戦闘中、銃丸が馬の首に当たって落馬し、以

後、腰下肢痛に悩まされるようになった。1864

年に来日してからますます症状がひどくなった。

浅田宗伯、レオン・ロッシュの 坐骨神経痛を治す

Page 169: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

この患者は生来強健ではあるが、数年にわたって困

難の中で戦闘などを経験しているため、筋骨は弛緩し

て気血が働きを失い、脉には遅緩の候があらわれ、皮

膚は潤沢ではあるが、年齢よりは枯槁している。 かつ腰間のあたりに打撲の痕があり、左側の臀部の

筋肉は右の方より痩せている。腰は一身の要関であり、

特に運動するところであるので、気血の働きが鈍くなっ

て苦痛が生じるのである。 もしこの病が治らなければ、だんだん腰以下の働き

が失われ、歩行も難渋するであろう。

[病状分析]

Page 170: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

[治療方針] 内より気血を扶助し、腰間あたり

の強壮になる薬を服し、外より経絡を活動さ

せる針治療を施せば、完治することはなくて

も、十のうち五六は挽回して天寿を保つこと

ができるであろう。

[処 方] 桂枝加苓朮附湯

[経 過]数日間の服用と針治療で急速に軽

快し、その後も同処方を継続した。

Page 171: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

桂枝:気を運らし、筋脈を強壮にするものなり 芍薬:血を和して痛みをゆるめるものなり 蒼朮:身体の濁湿を去りて関節を分利するものなり 茯苓:小便を通利して気血を順にするものなり 附子:身内の陽気を扶けて腰脊の痛みを去るものなり 甘草:腹を和して諸薬を導くものなり 大棗・生姜:この二品は、以上の六品の薬性を混和して

胃中の受容よろしからしめ、薬力を身体に分布せ

しむるものなり

各薬物の薬能

Page 172: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

経過

フランス公使レオン・ロッシュは、和田氏の針灸治療

と宗伯の漢方治療で良くなった。公使は、喜んで、この

経過を自国の新聞に載せると言った。 処方は桂枝加苓朮附湯で、宗伯が構成生薬に解説

を付け、通訳のカーシュンに示したものがそのまま記

載されている。 後にフランス政府から贈り物が届いたが、幕府の役

人がそれを横取りして、宗伯は銀十錠しか受け取らな

かったという。

Page 173: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

日本漢方の流派

後世派 古方派 折衷派 漢蘭折衷派 考証学派

Page 174: 中国医学の導入と 模倣の時代 - ch774.com · 院のち亨徳院。堀.部左門親真を父とし、京都に生まれ た。幼くして父母に死別し、江洲守山の天光寺に入り、

明治維新(1868)後

明治新政府は、ドイツ医学採用を決定し、漢

方医学は正統医学の地位を失い、凋落の一

途をたどる。

続く