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森本さんの思い出

森本さんの思い出 - nro.nao.ac.jpkt/html/morimoto/morimoto-san-no-uchu-4.pdf · こういう大学者、著名人になられた、森本さんの活動をインターネットなどで

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森本さんの思い出

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マーキーこと森本雅樹さんと初めてお会いしたのは、樋口敬二さんの紹介だったが、実はそのずっと前から、私は電波天文学者、森本雅樹さんを存じ上げていた。

NHKの教育番組を聞いていると、「宇宙空間には、水素原子も酸素原子もアルコールの原子もたくさんあります。ですから、水割りには困りません」という説明があり、えっ、と画面を見たら、あのニコニコ笑った顔が写っていたのだ。

それでいっぺんに森本さんの顔と名前を覚えてしまった。その後、白浜で私の還暦シンポジウム「十賢一愚 宇宙・生命・知性」をおこなった時には、十賢の一人として参加していただいた。その時はご夫妻で参加していただいたのだが、夫人のことを「うちの主人」といい、初対面だった私の妻や秘書たちにも、「ずっとあなたのことを思っていました」「百三十億年ぶりに、お会いできてとてもうれしいです」などといっては、彼女たちの度肝を抜いていた。

私にとってSF仲間の星新一に比肩するくらい破天荒に面白くて、しかも知的なマーキーは、会っているとまったく肩の力が抜けて、楽しい人だった。マーキーも私のことを「さっちゃん」と呼んで、何かというと「♪さっちゃんはね~」というテーマソングを歌ってくれた。そんなマーキーがいなくなって会えなくなったと思うと寂しいが、彼のことだ、どうせその辺で「ここにいますよ~」といっているにちがいない。

 

マーキーとさっちゃんの深い関係 小松左京

◆森本さんの思い出

▲左から黒田、小松夫妻、森本

▼左から森本、明珍夫妻、小松、乙部(小松秘書)、黒田

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十数年前、毎日新聞の「この人」の欄で、森本先生が紹介されていました。地球の内部は鉄でできているという文を読んで、鉄の仕事に携わっている者として、一度お目に掛かりたいと思っていました。その矢先でした。「サイエンスツアー・ひょうごは大きな博物館」の見学依頼に我が家に初めて訪ねてこられたのです。ちょうど私の昼寝の時間に来宅されまして、家内に起こされ、森本先生とは解らず、不機嫌な態度で接していました。会話の途中で解り、「あっ、森本博士!」と叫んでしまい、私の方から一度お訪ねしたく思っていたことを話しました。そしてサイエンスツアーを快く受け入れさせていただいたのです。その後、世界に通じる森本博士とのお付き合いが始まりました。

森本先生や黒田先生を囲むパーティに参加させて頂き、その度ごとに「明珍は、人の顔色を見て態度を変える男だ」と茶化されておりました。

東京での私の個展の時、せつ夫人の退職記念に、私の製作した最高の玉鋼の火箸をお買い求め頂き、プレゼントされました。その感激を今でも思い出します。

姫路のご自宅と我が家が近く、時々お酒を飲みに来られたり、時には自宅に招かれて、夫婦、息子共々、お酒、手料理をおいしく頂きました。今でも玄関のドアベルが鳴り、飲みに来たよ、と入って来られるような気がしてなりません。

他人様を分け隔てなく愛する心をお持ちだった森本先生との別れが残念でなりません。

昭和 63 年 6 月、講師「森本雅樹先生―野辺山宇宙電波観測所長―」、演題「宇宙人」

あの日、講演会は終始盛り上がり、概念を破った楽しいものでした。終了後、慰労会のため天文館へ向かうと、割烹の前の路上で「さぁ~ここのお魚は日本一おいしいよ~さあ~さあ~」と大声で呼び込む人がいました。思わず宇宙人現ると思ったあの日のインパクトは今も忘れません。気さくで楽しい先生に、私が初めてお目にかかった日でした。

その数年後、何と先生が鹿児島大学に赴任され、そして6m電波望遠鏡も連れ

先生との初対面 明珍宗理(甲冑匠・明珍家第 52代当主)

◆森本さんの思い出

永遠に輝き続ける森本先生 齊藤律子(鹿児島在住)

◆森本さんの思い出

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てこられたのです。当時、宇宙県として白いロケットの模型が置かれていた見晴らしの良い錦江湾公園に、電波望遠鏡の美しい姿が現れた時は、ますます宇宙が近くなった思いでした。ましてや宇宙科学をめざす学生にとってはラッキーだったことでしょう。さっそく水沢と 1,000km の VLBI として威力を発揮し、オリオンからのメッセージに熱くなりました。その後、旅の途中に野辺山、水沢の天文台を訪ねる計画を入れ、楽しい思い出も作りました。

先生は宇宙の宿(宇宿)を拠点に、愛称「森本おじさん」として県の隅々まで飛び回り、天文、諸事に多くの活力を注いで下さいました。鹿児島県天文協会員の私は、後に副会長として鹿児島大学やその他の行事で微力ながらお手伝いする機会を得ましたが、鹿児島のことでさえ、逆に先生から教わることが多大でした。天文イベントには、主人の合唱団も数回参加したことがあります。先生は日本フィルの鹿児島実行委員長として音楽の分野にも進出され、後に燕尾服で登壇されたり人気スターでした。平成 9 年には先生の夢を乗せた「はるか」が成功し、先生の目に光るものがあったのを思い出します。国境のない世界をめざしながら、元気の樹をあちこちに育てられました。

平成 10 年、兵庫に移られた先生は、「ひょうごは大きな博物館」と称したサイエンスツアーを企画され、11 月には楽しい輪がスタート。今思えば、最後のツアーに、先生のお人柄に真から惹かれていた主人が、足を引きずりながらも参加しました。先生と同じ歳で、仕事に対する一途さは相通ずるものがあったようです。

ある私共のコンサートの日「手伝いに来ましたよ~」と、姫路からひょっこりお見えになった時は仰天でした。昨年 2 月、末期の主人を病床で励ましてくださったのですが、4 月に逝ってしまいました。そして 11 月、思いもよらぬ先生のご訃報を東京で知りダブルパンチでした。今天上は突然の先生のお出ましに驚き、しかし楽しくなっているのでは?

十数年前、私の皆既日食の詩に主人が曲を付け、あちこちで歌った詩の一部ですが……。

 「見えなくなって見えてくる 闇に零れる灼熱のコロナ」 中略 「あなたが見 えなくなって 今 あなたがはっきりと見える」太陽のように明るい光を注いで下さった先生。さりげない話し方で人の輪を耕

し、やがて大きな実をなし、体調がお悪かった時でも「おじさんから元気は逃げていかないんだよ~」と、はしゃいで下さった先生の満面の笑顔は、私たちの心の中に永遠に輝き続けるでしょう。ありがとうございました。   

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湯川秀樹の提唱で基礎物理学研究所で天文と原子核・素粒子共同の研究会が立ちあがったことはよく知られている。これは 1955 年頃からはじまって、その記念碑的論文が THO(トテモホントトオモエナイ)論文であるが、THO は武谷・畑中・小尾である。「星の進化と元素の起源」が主題であった。

天文と基礎物理の基研での研究会の主題として次に提起されたのが「銀河系、星間物質、宇宙線の起源」であった。私が大学院に入った 1960 年頃に始まり、地元の気楽さで大体のぞいていた。このテーマはたぶん畑中さんや早川さんが主導したのだと思う。武谷さんを含めて、京都以外の研究者の顔を初めて見たのは、この研究会シリーズにおいてである。2、3 年後、電波天文、準星、ブラックホールへと話が繋がるのである。

かっぷくのいい紳士然とした畑中さんであったが急逝され、間もなくして、オーストラリアで電波天文を経験して帰ってきた森本さんがこの研究会にも登場した。この頃はパワーポも OHP もなく、黒板に書きながらしゃべる。そのために事前にレポート用紙にメモを用意する、というのが人前でしゃべる時のマナーだった。初めて仰ぎ見た森本さんの印象は、このマナーの埒外の人だという事である。記憶による印象だが、その頃の森本さんの話は、観測結果の紹介でなく、電波天文観測の実態の話が主だった。電波望遠鏡の大きさや面精度の装置としての能力が、角度や波長の分解能や要素といった天文観測の能力とどう関連しているか、といった話が明快に彼から教えられた気がする。

時代はとぶが、1991 年の正月 4、5、6 日に白浜温泉で、小松左京が自分の還暦を記念して、小田稔さんをはじめ幾人かの科学者を招いた討論会を催した。豪勢な家族連れの招待だったので、私も家内と娘の三人で参加したが、森本さんも奥さんと一緒であった。二泊三日、食事のときも一緒だから、森本おじさんの聞きしに勝る騒々しさを堪能させて頂いたことがある。

こういう大学者、著名人になられた、森本さんの活動をインターネットなどで拝見すると、その活動量には驚嘆させられる。どうしてあんなにフットワークが軽かったのだろうと思う。集まる人からエネルギーを引き出して燃えておられたのかもしれない。天文学界にとって大きな喪失であろう。御冥福を祈ります。

エネルギッシュな森本さん 佐藤文隆

◆森本さんの思い出

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科学朝日に連載された「立花隆が歩く 研究最前線」は、初回に野辺山の 45メートル電波望遠鏡を取り上げました。その取材で立花さんと一緒に野辺山に行ったときが、森本雅樹さんとの「馴れ初め」でした。天空に行ってしまった森本さんに、私が朝日新聞に書いた2本の記事を捧げます。

朝日新聞に書いた2本の記事を捧げます 高橋真理子

◆森本さんの思い出

〈1998年3月2日夕刊 

コラム

「窓・論説委員室から」〉

煙吐く桜島を仰ぐ鹿児島市の錦江湾

公園は、H2ロケットの実物大模型が

目印だ。

その足元の広場に、白いパラボラア

ンテナが立っている。

頑丈な鉄骨に支えられているお皿形

のアンテナは直径六メートル。はるか

かなたの宇宙からの電波を受け止めて

いる。

日本の電波天文学は、三十年前、こ

の望遠鏡の誕生とともに始まった。

生みの親の一人が、天文界きっての

名物男といわれる森本雅樹・鹿児島大

教授である。

自称モリモトおじさん。宇宙につい

て講演すれば、いつでも漫談になって

しまう。あけっぴろげな人柄にファン

も多い。

望遠鏡は東京都三鷹市の東京天文

台(現・国立天文台)で産声をあげた。

長野県野辺山に直径四十五メートルの

巨大な弟分ができて、一時、お役御免

の危機に陥ったが、改造でよみがえる。

鹿児島に移ったのは五年前。国内だ

けでなく海外にある電波望遠鏡と共同

観測する新しい任務を帯びていた。

このとき、森本さんは山梨大学学長

に選出されていたのに、断って鹿児島

に来てしまう。

そんなにも強い愛着が最初の望遠鏡

にあるのだろうか。

三月に定年を迎える森本さんは、珍

しく真顔で答えた。

「鹿児島に来るっていうのがほかに

いなかったからさ」

海部宣男・国立天文台教授によると、

日本の電波天文学を引っ張ってきたの

は「手作り精神」「新しさの追求」「楽

しくやる」の森本イズムだった。中で

も「楽しく」は、全員が森本さんから

学んだ伝統だという。

「鹿大に宇宙コースをつくろうとし

たら、意地悪するやつがいっぱいいて

さあ」

あたり構わず大声で話すのは相変わ

らずだ。

意地悪する人より、森本イズムに引

き込まれる人の方が多少とも多かった

らしい。宇宙コースは、昨春発足した。

〈真〉

〈2011年1月22日夕刊 

惜別 

野辺山望遠鏡をつくった天文学者〉

人前でも平気でおならをした。女性

を見れば「まあ、お美しい」とほめそ

やした。年齢その他まったく問わず、

だ。お

よそ学者らしからぬ天文学者だっ

た。酒が好き。温泉が好き。そんな破

天荒ぶりが、日本の天文学を世界第一

線に押し上げた。

東京大学天文学科を1955年に卒

業。その後、天文学は「発見の時代」

を迎えたが、日本は蚊帳の外だった。

豪州で電波望遠鏡の建設に腕をふ

るって帰国し、「日本にも自前の電波

望遠鏡を作ろう」と言い出す。70

年、東京天文台(現・国立天文台)に

直径6メートルの望遠鏡が完成した。

すでにそのとき長野県野辺山に直径

45メートルの世界一の望遠鏡を作

る検討を仲間と始めていた。

金はない。だからみんなで知恵を

出そう。それには楽しくなくっちゃ

と、いつも大きな声で場を盛り上げ

た。その魅力に、後輩研究者だけで

なく、メーカーの人たちも巻き込ま

れていった。

「上の世代は望遠鏡を買おうと計画

した。それを自分たちの手で作るよ

うに変えたのは森本さん」と先輩で

群馬県立ぐんま天文台の古在由秀台

長がいう。

その精神は、衛星と地上で同時観

測して巨大望遠鏡の性能を実現する

「はるかプロジェクト」、現在建設中

のチリのアルマ望遠鏡などに受け継

がれていった。

92年に山梨大学学長に選ばれた

が、断って鹿児島大学教授に転じ

た。宇宙コース新設などに取り組み、

96年からは志願して日本フィル

ハーモニー鹿児島実行委員会委員長

に。鹿大を退き、西はりま天文台公

園長を務めるため兵庫県姫路市に居

を移したあとも委員長を続けた。

昨年11月15日、鹿児島市内4

カ所で開いたミニ演奏会に立ち会っ

た。陽気に酒食を楽しみ、翌朝「息

ができない」とうずくまって急逝。

「新しいことを自分の手で楽しく」と

いう森本イズムを最期まで貫いた。

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最初の出会いは科学記者になりたての 1984 年、東京・調布市で開かれた天文学会だったと記憶している。初対面なのに、向こうの方から「こんにちはー」と陽気に手を振る森本さんの姿がイメージに残っている。野辺山チームの海部先生や鈴木博子さんも一緒だったかもしれない。

以来、取材の電話をしても、直接会っても「うわあ、ゆりさんと話せるなんて、うれしいー」と言っていただいた。もちろん、私に対してだけではないのは百も承知だが、単なる取材先とは違う親近感を抱いてきた。それは都立新宿高校の先輩だったためもあるだろう。早春のある日、新宿高校と塀を接する新宿御苑をいっしょに散歩した後、森本さんの高校のクラス会に同行したこともあった。クラスメートとの話ぶりを見て、そうか、森本先生は、自分の社会的な「役割」をよくよく認識した上で、演じているのだなと気づいたのはこの時だ。

天文学の本筋だけでなく、「日本列島みんなで電波望遠鏡の夢」「江戸幕府の天文方の文書発見」など、脇道の話も書かせていただいた。名前を出さずにコラムに引用させてもらった言葉もある。「今は気に入った相手がいなくても、自分の遺伝子を流れの中に放り込んでおけばいいのに。100 年後にその遺伝子が気に入った相手と出会うかもしれないでしょ」。婚活の気配もない私を心配してくれたのだと納得しつつ、森本さん一流の視点の転換に笑ってしまったのを思い出す。

ボストンで MIT のバークさんを交えてシーフードを食べに行ったり、鹿児島出張の折に夕食を囲んだり、鹿児島大の最終講義の日に出張先の大阪から駆けつけたり。思い出はいろいろある。シンポジウムでごいっしょし、真面目に話をしたら、「うあわ、ゆりさんて、こんな怖い人だったの」と言われ、はっとしたこともある。

最後にご飯を食べたのは東京駅地下の天ぷら屋さん。「くちびるー、おしりー」の乾杯から始まり、店員さんにも愛嬌をふりまきながら、楽しくお話した。「ふじ丸」の皆既日食クルーズでもごいっしょするはずだったのに、私が「ぱしふぃっく・びいなす」に浮気してしまった。 「うわあ、ゆりさんと……」が直接聞けなくなったのはさみしいが、森本さんが

本当にいなくなった気がしない。今も、あちこちで、みんなを笑わせたり、ほっとさせたり、常識を覆したりしているに違いないと思うのだ。

科学記者として、高校の後輩として◆森本さんの思い出

青野由利 毎日新聞記者(論説委員)

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文字通り PPK を実行された先生!しかし、早すぎます、悲しすぎます。森本先生には 45 m電波望遠鏡建設で 1967 年から 15 年間、殆ど、毎年ご指導

を頂きました。ありがとうございました。色んな、沢山の思い出がありますが、紙面が限られていますので副題を選びま

した、先生におかれましては、ご不満でもお許しください。1971 年6月、天体物理国際シンポジウムの帰りにヨーロッパ各地の電波天文

関連施設を見て回るので、一緒に行って欲しいと言われました。受注しているならまだしも、予算がつくのかも疑わしい?のに会社が許可する筈はない、と答えました。数日して、山下精一副社長から、一兵卒に直接電話が入りました。この電波望遠鏡を造れるのは三菱電機しかない、と答え、視察旅行の許可が下りました。森本先生が副社長に直談判された結果でした。

ボンの 100 mを見せられました。これ以上に美しい電波望遠鏡を設計せよとドイツに惚れた我々のボス森川洋のプレッシャーもかかってきました。森本先生の狙いもそこにあったようです。

そして、1978 年1月、この年度から3年計画で据付を終え、1年かけて鏡面調整や試験観測をする計画で予算が通りました。漸く世界一の電波望遠鏡が出来る…?!、実はそうではなかったのです。二番煎じの寄せ集めだったのです。ポロッと口を滑らせたのが稼働率向上の為の CFRP。この望遠鏡の建設に執念を燃やし、精魂をつぎ込んでおられた森本先生が聞き逃す筈はありません。先生は、予算が決まった後にも拘わらず、CFRP パネルの採用を当時の進藤貞和社長に直談判されたのでした。

天文学は自然科学が自然哲学と呼ばれていた頃、学問の中心だったと思っています。ご先祖は、自然の移り変わりを天体の動きと関連づけ、そこに働く摩訶不思議な力や法則に気づき、それを与件として受け入れて生きてきました。しかし、今の天文学はそれを守る事の大切さを教えなくなりました。その結果は推して知るべし、です。そんな中でも、天文台で組合活動を経験された森本先生は、権力に迎合しないで本当の事を言う数少ない学者の一人だ、と期待していたのですが……。

自然科学が自然哲学に戻ることを願っています。科学を使う人間の暴走を抑える役割を何が、誰が果たすのでしょうか?森本先生、よろしくお願いいたします。                                 合掌

三菱電機トップへ二度直談判をされた先生◆森本さんの思い出

塚田憲三(元三菱電機)

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やはり、森本先生と皆様のことを思い起こしますと、6mφの電波望遠鏡の話になります。そのころ、たぶん 1971 年ごろ、6mφ用の電波分光計として、海部先生がフイルタバンクを開発し、製作中でした。

6mφの 30 チャンネルが、ホルムアルデヒトの星間分子を見付けました。この言葉だけは良く耳に残っています。そして「スペクトラム分光計を広げるぞ」とおっしゃり、それが 256 チャンネルでした。それが私の仕事になりました。私も初めてのフイルタ設計です。インダクタとコンデンサを繋ぎ測定してもうまくいかない。そして、長根先生、宮澤先生、宮地先生に教わり、直ぐ製作し、でも

「これダメ」、また話し合い。うまくいくまで一歩一歩、先生たちと仕上げていきました。

さて、6 mφは、ミリ波のクライストロン発振器とマイクロ波局部発振器が必要でした。それはスペクトラルを見るには周波数が動かない様にしなければなりません。このとき初めて先生に「位相ロックが必要だよ」と言われ、それをどうやるかを教わりました。キャビテイは、雑音を下げるには無負荷 Q の大なものが必要ですが、しかしバラクタで周波数を動かすと又 Q を下げてしまいます。「それにはこの方が良いよ」と、森本先生です。すぐに製作、実験し、答えがでれば、殆ど直行即ち夜間行きでした。森本先生はいつも「理論と実験からデータを出し、それを検討すれば必ず見つかるぞ」でした。私は大好きになりました。そのうちに社長から「貴方は昼間は会社の仕事をしているのか、お金になるのが企業だぞ」でした。そんなとき、多分青柳さんが6mφについて助言してくれたのでしょう。森本先生が来社され、ひざまづき、「宇宙電波はこれから文明にも一番大切です。私を宇宙電波の仕事をさせてくれませんか」。大教授のひざまづきは強烈でした。私は好きなことをやれるようになりました。このあたりの状況を良い感じにしたのも青柳さんでした。

その後 45 mφ、10 mφ干渉計、16000 チャネルの音響光学電波分光計でした。現在6mφ系の真髄が判る電波天文グループが出来上がりました。 

最後に、私の生き方を教示してくれたのも森本先生の6m望遠鏡です。「開発し、作り、データを出し、それを改善すれば開発に近づくよ」。先生のお

言葉を思い出します。この試作を先生と一緒に仕上げをし、その現実を体で感じました。それは私の心のなかに生きつづけております。

森本先生のこと◆森本さんの思い出

青柳武矩 阿部安宏(元日本通信機)

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森本先生が突如お亡くなりになられたとの連絡を受けた時には気が動転するほど驚きました。古在先生の表彰祝賀会では相変わらずの元気さを見せておられたのを思い出します。

私が富士通へ入社したとき、富士通は無線領域で宇宙開発への参加を考えたようですが、単なる無線技術だけではとても難しいことをさとりました。最初の開発要請は太平洋の上にある静止通信衛星を管理する装置の開発でした。Kennedyが暗殺された情報を米国から日本にいち早く伝送した国際通信衛星の管理をするためのものでした。静止位置の計測は電波で簡単に出来たのですが、位置の計算には軌道計算の知識が必要でした。勿論、関係者の中には計算できる人はおらず、装置があっても管理は出来ないと悟り、上司に天文台で習いたいといい、最初は仕様にないことまで手をだす必要はないとまで言われましたが、最終的にはOKとなり毎週土曜日の午後天文台に通いました。その時、教えて戴いたのは古在先生、そして夜、何度も酒を飲みながら、システム開発には大学とメーカが協調して初めて完成させられると教えてくれたのは亡くなった森本先生でした。お陰で開発したシステムには要請のない計算方式まで導入し、衛星までの距離および距離変化率測定装置を実際に使用できるものに仕上げました。その後、宇宙開発分野では軌道計算の必要性は極めて高く、気象衛星ひまわり、筑波の宇宙開発事業団、君津の通信衛星、放送衛星管理センタ、南極観測船しらせなどお陰で受注は大変容易なものでした。米国 NASA の GSFC には Dr. Velez を尋ねて 20 回ぐらい訪問、実際面の技術習得に出かけました。月探査衛星アポロの軌道計算に使用していた GTDS というソフトには間違いがあるのを発見し、NASA の Workshopで発表もしました。

又、顧客が開発要請してくるものは奥が深く先行して調査研究することの重要性を説いてくれたのも森本先生でした。勿論、天文台、野辺山の場合も信州大学の農地だったときから日曜日に見に行った記憶があります。そこでどのような観測、計算するのか教えていただきました。専門が異なっても技術開発の基礎理論は共通であることを悟り応用が利かなければ本当の開発はできないと知ったのは幸いでした。この考え方はスパコンのユーザ開拓に役立ちました。色々と教えていただいたことに感謝をしながら先生のご冥福をお祈りいたします。

GSFC; Goddard Space Flight Center,GTDS; Goddard Trajectory Determination System

森本雅樹さんの宇宙◆森本さんの思い出

小坂義裕 (元富士通)

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森本さんのことを、東京大学名誉教授森本雅樹先生と呼ぶ人もいます。ご本人は「森本おじさん」が好きらしく、「おじさん」でブログを開設しているのを、数年前私の娘夫婦が海外(パリ)で見つけてくれました(お嬢さんのまなみさん一家の大学卒業式(ハワイ)、「森本おじさん」もおじいさんになるのだと思いました)。

私は「モリモッタン」と失礼呼ばわりしていましたが、私のことは「長さん」、時には清潔ではなく、不潔の長根潔と呼んでいましたからおアイコです。

天体電波部門時代、宇宙電波部門時代、野辺山観測所時代、三鷹の官舎時代(当時 40 数軒、森本さん一家、宮澤敬輔さん一家、ナガネ一家、大分後に長谷川哲夫さん一家が宇宙電波関係で住んでいた)を家族ぐるみで長い間お付き合い戴き、ほんとにほんとに有難うございました。

ある酒席で、計算機と人との関係は?などに話が飛んだ時、突如、人しかできない、いや人がやらねばならぬ三つのことがある。一つ目は子を設けること、二つ目は育てること(一般的な教育(広報も含む ))、三つ目は学問(研究)で、特に二つ目と、三つ目は多くの人と関係を持つことが大切だと森本節(失礼をお許し下さい)を展開しておられた。人との接し方は「来るものは拒まず、去るものは追う」という森本方式であった。私も森本方式に乗せられた一人ですが、次のような話も有ります。「当時、私はオーバードクター生活の 5 年目を終わろうとしており、……応募

した 30 箇所以上で全て不採用、最後に開所寸前の野辺山で採用となった。どういう理由で理論屋の私を採用したのかは闇の中で私にもわからない。人づてに聞いた話ではモリモトさんは一人位役立たずを置こうということで私に目をつけたらしい。」これは、高原文郎さん(大阪大学)の、野辺山宇宙電波観測所20 周年回想録(2002 年)の一部である。

まさに森本節の面目躍如で、 記念式典での講演者立花隆さんは、「一人位役立たずを置こう」と言うのがえらく気に入ったらしく、講演の中で引用されていたのを覚えています。定年前の大活躍もさることながら、定年後の鹿児島時代、西はりま時代の更なる活躍は、森本節の二つ目、三つ目の集大成ではないかと勝手に想像しています。多くの人にそれぞれの感動を沢山与えて下さった森本さんほんとに有難うございました。多分、「森本おじさん」は「なに言ってんですか」と笑っているでしょうね。

「来るものは拒まず、去るものは追う」森本おじさんのこと

◆森本さんの思い出

長根 潔

▲姫路城をバックに、穏やかな表情の西はりま時代の「森本おじさん」と筆者

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昼食をすませ、一休みしていると、京都から電話がかかってきた。森本さんからである。公衆電話からかけているということで、何用かと思ったら。「京大の助手人事の最終選考に残っているらしいが、京大は断って、宇宙電波にこないか。しばらくは臨時だが、近い内に正式に採用するから」と、今では考えられない人事の話だった。ということで、私の研究は三鷹に移ることになった。もちろん、しばらくして助手に採用された。

当時のミリ波は、教員も技官も対等な同士的な雰囲気の中で、それぞれが持ち分を発揮し生き生きとした場であった、金がなければ知恵と体力、利用できるものは何でも利用しようという貧乏暮らしの小さな集団ではあったが、その一方で宇宙電波の将来計画を推進するという夢があり活気に満ちていた。こうした雰囲気は、当時の天文台では異質な集団であったが、その中で多くを学ぶことができた。

森本さんは、電波天文に限らず、何ごとにおいても先見性があった、一見不可能とみえることも、森本さんにかかるとできるのではないかと、その気にさせる魔力があった。自分が指揮するというより、人をうまく活かしながら、個人を組織力とし、電波天文学を世界のトップに導いた。一方自らはマスコミを通して天文学の普及に努めるとともに、異分野の方々を巻き込むことにも大きく貢献した。

今では考えられないが、当時の天文台では、研究者組織は徒党を組むと嫌悪され、装置の開発は研究者の仕事ではないといった雰囲気であったが、森本さんは、その流れを大きく変え、現在の天文学発展の下地をつくったといっても言い過ぎではなかろう。

三鷹に来て数年後、宇都宮大学から理系学部の新設推進に力をかしてほしいと誘われた。そのときの森本さんの意見は、「宇宙電波が三鷹で閉じていたのでは発展はない、外に広げることも大切だ。宇都宮は距離も近いので両立ができるのではないか」ということだった。今からみると良くやったなと思える二重生活が始まったが、ミリ波の熱気の中ではそれが当然のことのように思われた。

大きなプロジェクトを推進することと法人化後の大学経営とは通じるものがある。法人化前後の学長を務めながら、森本さんならどうしただろうと想うことも度々であった。

時代が森本さんを必要としていたともいえるが、森本さんがいるだけで周囲が元気づけられた。森本さんに代わる人はいないが、その精神は引き継ぎたいものである。

森本さんありがとう◆森本さんの思い出

田原博人

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森本さんに初めて会ったとき。大学院生にむかって、傘を持った腰をかがめて笑いかけながら「森本でございます」と挨拶されたのです。あ、ゲーテのファウストに出てきたメフィストフェレスはこんな感じかと、失礼ながら感じたのです。オーストラリアのカルグーラでの仕事から帰られたときでした。

森本さんの若い頃に心酔し、今も尊敬しています。それは日本の宇宙電波天文が生まれ出ずる時代と重なります。現実をシャープにみて、前向きに踏み込んでいくスタイルです。何もわからなかった大学院生はスタッフになっても、森本さんの働き振りをながめ、いろいろな影響を受けてきました。今では自分らしい個性というのも、どこまでが森本さん抜きのものなのかわからなくなっています。

 研究面では、6m電波望遠鏡で、野辺山で、SETI で、VLBI で、VSOP でと、おもしろい曙光を感じて向かうことができました。個性を尊重して自由にやらせてくれた森本さん、古い体質を破って新しい時代をひらき、好きなことを実現していった森本さん。一方では個人的に心配をかけたり、期待に十分に答えられなかったりの私でした。

野辺山が定常運用に向かう前に、森本さんは野辺山を離れて新しい世界に向かいたいと、強く主張したことがありました。「野辺山をちゃんとしてからにしましょうよ」、「それでは遅いんだよ」、そんな押し問答の末にとどまっていただきました。本質では多くを語りませんが、ここは森本さんの本心だったのだと思います。その後を思うように生きられたのだろうか。愉快そうにみえた森本さんですが、そのことが気になります。

棺のなかの森本さんはもはやしゃべらず、一時間余のうちに骨になってしまいました。この時は、シェークスピアのハムレットのシーンを思い出しました。ハムレットが道化役のヨーレックの頭蓋骨を手にして、饒舌だったヨーレックに語りかける場面です。

最初と最期がこのような悲劇の一場面を感じさせるというのも、森本さんとのことを終始、劇のように感じてきたせいかもしれません。

森本さんが亡くなられた気がしません。40 年もいると思い出も無数。森本さんは、どこかこのあたりに生きているのです。名優森本さんの演じた宇宙に居合わせて、おもしろい劇を観たのです。その劇は終わっていないのです。

名優だった森本さん◆森本さんの思い出

平林 久

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森本さんとの出会いは、今から約 40 年前、野辺山の大型宇宙電波望遠鏡プロジェクトの準備段階でした。当初は名古屋大学空電研究所に所属していましたが、その後東京天文台に移籍し、本格的に計画に参加することになりました。移籍を決意させたのは、計画の魅力もさることながら、森本さんという学者の魅力に惹かれたことです。1972 年には、森本さんの薦めもあって、望遠鏡設計の参考となる電波望遠鏡を巡る世界一周の一人旅に出ました。助手に採用直後の自費出張は経済的に大変でしたが、森本さんから高額のカンパをもらって実現しました。

野辺山の建設で一番思い出深いのは、「森本流」の仕事の進め方でした。森本さんは技術者を乗せるのがとても上手で、天文台側とメーカー側の分け隔てなく、常に同じ夢を共有する仲間として接していました。「とにかく世界一の望遠鏡を作るんだ」という意気込みがメーカーの技術者にも浸透し、技術者の情熱をうまく引き出すことに成功しました。このことが功を奏し、野辺山の宇宙電波望遠鏡は、要求仕様以上の性能を達成するという快挙を成し遂げました。

森本さんは、宴会でも常に「森本流」リーダーシップを発揮しました。これは国内に限らず、国外で開催された会議でも同様で、外国人研究者からも愛される存在でした。ある時、ある外国人研究者から、「日本人はみな森本のような性格か?」と聞かれたことがありました。「いやいや森本さんは特別」と否定しておきましたが、それくらい外国でも有名な存在であり、“ 酒好きの Moresake Morimoto” として知られていました。いま思い返すと、森本さんの後任として

URSI や IAU など国際学術団体の役職を引き継ぎましたが、宴会役だけは引き継げませんでした。

心よりご冥福をお祈りいたします。

野辺山時代の思い出◆森本さんの思い出

石黒正人

▲ヘルシンキ URSI 総会にて(1979 年8月)

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東京天文台の電波天文は当時、天体電波部として主に太陽観測をしていた。そのうち 1963 年に 24m 球面鏡が完成し、宇宙電波が波長 21cm 中性水素線の観測が開始された。又、ミリ波の装置として月面電波観測装置として 30cm のカセグレンタイプ(6m 鏡の原型となる)の望遠鏡を日立電子の石井さん達と制作した。この頃 CSIRO カルグーラのラジオへリオグラフ制作に活躍されていた森本さんが帰国し、国内での大型パラボラアンテナを使った観測を東京オリンピックの宇宙通信に使用された 30m の郵政省電波研鹿島支所のアンテナを電波天文用に受信設備を改造し、通信実験の合間を見ながら観測を開始した。受信するのには天体を追尾出来ずに観測位置を手で入れながらの待ち受け受信であった。

なにしろ通信実験は 9 時から 17 時まで行われ、その間、赤羽・森本さん達とお借りした宿舎で寝食を共にし、翌朝 8 時頃まで休みなく稼働させていた。ここでは、海部さん・平林さん……、数多くの研究者が育っていった。

でも、やはり借り物のアンテナでは限界が有り自分達専用の装置が欲しいと、1969 年東洋レーヨン科学助成金によりミリ波用 6m 高精度望遠鏡建設に着手した。801 万円である。早速三菱電機の中西さんに相談、即、無理!と。以前古在さんにお願いをして購入してあった日立製 3m のオワン(鏡面のみ)を利用しようとしての結果であった。全部の制作は無理なので鏡面だけは三菱で作るから架台は別の処でなら、ここで森本さんが大活躍! 口径を話して居る内にいつか 3mではなく 6m と決まってしまい、東レへの請求書には三菱と架台の制作をお願いした法月鉄工所の書類が事務から提出された。

何しろ何もない研究室が 1.4GHz の受信機と検波器とテスターしか無く、測定機はオシロスコープと GR 製 OSC で、無謀にも日本では何処もやっていないミリ波に挑戦したのでした。「誰も見ていない領域を見てみたい」このスローガンの元、手さぐりと手作りの毎日が始まりまった。観測室を作り、

架台も何とか据付け、鏡面の仕上げには最後は手で磨き上げた。受信装置もアンテナ駆動装置も未だ出来ていません。駆動装置はただ動けばと電磁リレーのお化けを作り何とか Az / El 共に作動させた。その後ミニコンの導入で近田さんによって自動化され、追尾が出来る様になった。ミキサーダイオードは三菱の吉田さん・電電公社武蔵野通研石井・大森さんと、木更津高専の小平さんの協力で観測出力が出始め、タウンズ博士はじめ世界中から著名な方々の来訪を受けるなど、梁山泊に大いに活気が出た。日通機など企業との協力や各大学・研究機関の協力連携によって、45m 大型望遠鏡建設に向けて計画が前進し始めた。

森本さんと私の電波天文そぞろ歩き◆森本さんの思い出

宮澤敬輔

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注ぎ口の付いた鉢(何という茶碗か不明)に冷蔵庫で冷やした山梨で買われたという平べったいガラスのような小綺麗な石を何枚も入れ、そこに、当時野辺山の宅間商店で売られていた「甲斐のみのり」(安めだけどまあまあの口当たり)という一升瓶入りのワインを注ぎ込み、森本先生ご自慢の飲み方をご披露くださった。私も根っからの酒好き、野辺山時代の森本先生をまず思い浮かべるのは、やはりみんなを森本先生特有の雰囲気で盛り上げてくれる楽しい酒の席です。

飲んだ勢いで、最後は森本邸に押しかけ、さらにおいしい料理とお酒をごちそうになる悪(?)循環。結局、翌朝森本邸のベッドから飛び起き出勤なんてこともよくありました。

ある日の森本邸での酒宴の出来事。(余計なことですが「出来事」と書いて、今ふと思い出しました。森本さんが

「“ 日常茶飯事 ” を “ 日常ちゃめしごと ” と書くのは要を得てるよね」とよく言われてたことを。注:本文に関係無し、ご容赦を!)

二人ともかなり出来上がって上々気分。森本さんが「奥方と麻衣ちゃん(娘)も呼んだら! タクシー代はおじさんが出すから」と、首を傾け気味ににんまりしたあの優しい目で私の顔を覗き込み誘ってくれました。当時私ら家族は野辺山から車で 30 分ほどの小海町の借家に住んでいましたが遠慮なく呼び出しました。

三浦海岸でとれたさんまと大根おろし、さんまの骨をすりみにして「つみれ」に変身、手作りの「ぎょうざ」、ラー油が無いと言って胡麻油をフライパンで煙が出るまで熱しそこに唐辛子を投入、即席ラー油の出来上がり、等々いろいろ工夫された料理が酔っ払っているとは思えない手さばきで次々と繰り出され、次々とごちそうになる私たちでした。

私が、家内に「森本さんの料理を見習えよ」と言ったら、森本さんはすかさず、「見習うのは川合君の方だよ」と言われ、主夫?である森本さんにしてみれば、まさに見習うのは私。家内にはそれ以上何も言えない自分がいました。

また、森本さんが私の娘(保育園から小学校低学年にかけての頃)に会うたびに、「麻衣ちゃんが二十歳になったらおじさんと結婚しようね」なんてよくちゃかしてくれました。そんな娘も良縁があり、今年の4月には出産です。

森本さんと最後にお会いしたのは 2009 年 12 月兵庫で開催された世界天文年日本委員会のグランドフィナーレでした。もう森本さんとは思い出が作れないと思うとたまりません。ルミナリエの明かりのようにずっと私たちを見守っていてください。

言い尽くせない「ありがとう」を森本先生に◆森本さんの思い出

川合登巳雄

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「科学とりもの帖」(毎日グラフ:1992.1 ~ 1993.9.後に丸善から 1994.7 発行)は、身近な話も含めた科学の話を、森本さんが楽しそうに書いている本だと思う。

このシリーズが始まった頃、森本さんを含めた何人かで、品川東海寺に幕府天文方であった渋川家代々の墓を訪れた。そのいきさつなどについては、「科学とりもの帖」の[品川東海寺]、[幕府天文方の重要資料]を読んでいただきたいが、ここでは、その際のエピソードを一つ。

渋川家の御子孫でいられる A 家で、私たちは[渋川家文書の調査]をさせていただいた。陣中見舞いにいらした森本さんは、A 家で喜ばれ、A 夫人が「家のお爺さん(御当主のお父上で、最後の幕府天文方渋川家につながる)に似ている。天文学者だからかしら。」と写真を持って来られ見せて下さった。耳の大きいところ、メガネをかけた写真の雰囲気。森本さんは、恥ずかしそうな、でも少し嬉しそうな顔をして A 夫人と笑い合っていた。

この[渋川家文書の調査]の結果を最初に天文学会ポスターセッションで発表した時、他のお二人と共に私と、森本さんも名を連ねており、森本さんとの最初で最後の学会発表であった。この時、取材されたのが、「科学とりもの帖」にも名が出てくる由利さんである。「科学とりもの帖」に S 子さんの一人として参加させて下さった事、森本さんありがとう。

「科学とりもの帖」、幕府天文方と森本さん◆森本さんの思い出

伊藤節子

森本さんは、よく「研究は格闘技だ」と言っていた。それには、自然の謎との格闘と、研究基盤獲得のための格闘、というふたつの意味があったと思う。

後者の意味で、森本さんは天才挌闘家だった。あふれるばかりのサービス精神で、尽きぬ話題を絶妙な「おじさん」語りにのせ、しかも、人がひそかに誇りにしているもの(森本語で言う「性感帯」)を素早く見つける類まれな能力で、みるみる仲間と応援団(「飲み友だち」)を増やしていった。推進計画の魅力をワンフレーズで伝える技も抜群だった。反面、道を塞ごうとする相手に対しては、ユーモアたっぷりに弱みを突いて悔しさと怒りで我を忘れさせ、「夜討ち朝駆け」で結束を切り崩した。果ては、「あいつはバカだ、ダメだ」と心底思わせてマークを外させるこ

森本さんの格闘技◆森本さんの思い出

笹尾哲夫

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とも平気だった。森本格闘技では、これも禁じ手ではなかったのだ。一方で、科学行政に影響力を持つ真の実力者たちとは、いつも深い信頼と共感で結ばれていた。それらの陰にどんな悩みや心労があったのか、凡人には知る術もないが。

45 m を作った頃は本当に大変だったが、45 m は天文学を変えた。その後も苦労(「楽しいこと」)は絶えなかったが、大きな計画を次々に実現し、先端観測装置を持つ新制大学や、大型望遠鏡を持つ公共天文台の新しい時代まで切り拓いてしまった。必ずしも自分が企画した計画ではなくても、必要と見ればとことん支援し、実現させてくれた。

とは言え、前者の意味の格闘でも、森本さんは天才的だったろう。カルグーラ干渉計の仕事は今でも伝説である。自分ではときどき、「今オレが研究してもそこらの奴には負けないよ。でも若い時のオレには、負けるがネ。」と言っていた。きっと、森本さんは、「若い頃の森本さん」が思う存分自然の謎と取っ組めるような研究環境のためにこそ、あり余る才能を惜しみなく注いで人間社会で格闘したのだろう。そして、「使用前、使用後」で、こんなにも世界を変えたのだ。

森本さんには、1982 年に大学院生として野辺山宇宙電波観測所で 45m 鏡にたずさわって以来、長い間お世話になりました。研究員のときには、アパートもない野辺山で森本さんが借りていた○ × ロッジと称する家の一室を借りて一緒に住んでいたこともありました。私的なことで気にかけてくださったこともあり、公私ともに大変お世話になりました。

しかし、私が最も恩義に感じていたことは、その背中を見せて下さったことです。世の中の大勢には関係なく、自分の頭で独自に物事を考え、行動されることです。なかなかついていけない事も多々ありましたが、その姿勢には常に感心し、多くを学びました。意識的にも無意識的にも自分が研究を遂行する上で影響があり、現在の大学での教育にも活かせてもらっています。私が尊敬する人のひとりでした。

ずっと後年になって、兵庫に移ってこい、と強く言われたことがありましたが、当時は別の件が念頭にあったので断ってしまいました。その判断は間違いではないし仕方のないことでしたが、長くお世話になった森本さんからのほとんど唯一の要請に答えられなかったことが今でも残念です。

天国にいる森本さんへの恩返しとしては、日本の電波天文学をさらに発展させることである、と思って微力を捧げたいと思います。

背中を見て学んだ森本さん◆森本さんの思い出

中井直正(筑波大学)