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FUJITSU. 66, 2, p. 65-72 03, 201565 あらまし 大規模なスーパーコンピュータは,今や学術的な研究への活用にとどまらず,ものづ くりや気象・気候変動の予測など,幅広い分野で活用されている。しかし,医療分野に おけるICTの活用は,医療画像診断装置など最新の医療機器,および電子カルテなど医療 支援にとどまり,スーパーコンピュータ,特にコンピュータシミュレーションの活用は あまり進んでいない。筆者らは,医療分野でもコンピュータシミュレーションが活用で きる可能性は大きいと考え,生体シミュレーションの研究開発を進めている。 本稿では,東京大学大学院の久田俊明特任教授,杉浦清了特任教授らの研究グループ 2007年より共同研究を進めている心臓シミュレータを例に,生体シミュレーションへ の取組みを紹介する。まず,心臓シミュレーションの概要を述べ,更にシミュレーショ ンのためのプレ処理,可視化システム,および適用事例を説明し,最後に実用化へ向け た課題と今後の展開について述べる。 Abstract Supercomputers today are applied in ways that go beyond academic research and into diverse fields such as manufacturing and climate/meteorological predictions. Meanwhile, the use of information and communications technology (ICT) in medicine goes only as far as the latest medical equipment such as medical imaging diagnostic systems, or administrative support such as electronic medical record systems. Supercomputers, computer simulation in particular, have developed few practical applications in medical and surgical therapy and healthcare. We believe there is great potential for using computer simulations in this domain, and therefore we are pursuing research and development of several biomedical simulation systems. This paper describes one of our projects, a biomedical simulation system drawing on the heart simulator which has been under development since 2007 in joint collaboration with Profs. Toshiaki Hisada and Seiryo Sugiura from the Graduate School of the University of Tokyo and their research team. This paper presents an overview of the heart simulator, followed by descriptions of pre-processing and visualization in simulation with accounts of a case of application. The paper concludes with issues and future developments in order to realize practical application. 門岡良昌   岩村 尚   中川真智子   渡邉正宏 次世代医療を支える 生体シミュレーションの取組み Developing Biological Simulations for Next-generation Healthcare

次世代医療を支える 生体シミュレーションの取組み€¦ · は,富士通をはじめ世界中のコンピュータメーカー がしのぎを削って厳しい開発競争を展開してきた

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FUJITSU. 66, 2, p. 65-72 (03, 2015) 65

あ ら ま し

大規模なスーパーコンピュータは,今や学術的な研究への活用にとどまらず,ものづ

くりや気象・気候変動の予測など,幅広い分野で活用されている。しかし,医療分野に

おけるICTの活用は,医療画像診断装置など最新の医療機器,および電子カルテなど医療支援にとどまり,スーパーコンピュータ,特にコンピュータシミュレーションの活用は

あまり進んでいない。筆者らは,医療分野でもコンピュータシミュレーションが活用で

きる可能性は大きいと考え,生体シミュレーションの研究開発を進めている。

本稿では,東京大学大学院の久田俊明特任教授,杉浦清了特任教授らの研究グループ

と2007年より共同研究を進めている心臓シミュレータを例に,生体シミュレーションへの取組みを紹介する。まず,心臓シミュレーションの概要を述べ,更にシミュレーショ

ンのためのプレ処理,可視化システム,および適用事例を説明し,最後に実用化へ向け

た課題と今後の展開について述べる。

Abstract

Supercomputers today are applied in ways that go beyond academic research and into diverse fields such as manufacturing and climate/meteorological predictions. Meanwhile, the use of information and communications technology (ICT) in medicine goes only as far as the latest medical equipment such as medical imaging diagnostic systems, or administrative support such as electronic medical record systems. Supercomputers, computer simulation in particular, have developed few practical applications in medical and surgical therapy and healthcare. We believe there is great potential for using computer simulations in this domain, and therefore we are pursuing research and development of several biomedical simulation systems. This paper describes one of our projects, a biomedical simulation system drawing on the heart simulator which has been under development since 2007 in joint collaboration with Profs. Toshiaki Hisada and Seiryo Sugiura from the Graduate School of the University of Tokyo and their research team. This paper presents an overview of the heart simulator, followed by descriptions of pre-processing and visualization in simulation with accounts of a case of application. The paper concludes with issues and future developments in order to realize practical application.

● 門岡良昌   ● 岩村 尚   ● 中川真智子   ● 渡邉正宏

次世代医療を支える生体シミュレーションの取組み

Developing Biological Simulations for Next-generation Healthcare

FUJITSU. 66, 2 (03, 2015)66

次世代医療を支える生体シミュレーションの取組み

らの研究グループとの共同研究テーマ「心臓シミュレータの開発」を例に生体シミュレーションの取組みを紹介する。

心臓シミュレーション

はじめに,心臓の動作概要を説明する。心臓の右心房付近には,自動的に電気的な興奮を生じ,拍動のリズムを決定する洞房結節(ペースメーカ細胞)が存在する。その興奮は,心房を経て心室の刺激伝導系と呼ばれる経路を伝わって心臓全体に伝播していく。刺激を受け電気的に興奮した心筋細胞内では,Ca2+濃度の上昇とそれに伴う収縮関連タンパク質の構造の変化が起こる。その結果,興奮した部分の筋線維に力が発生し,筋肉は収縮する。逆に,刺激が消失し興奮が醒めれば,力が抜け,筋肉は弛緩する。このようにして心筋細胞一つひとつが収縮・弛緩を繰り返すことによって,心臓全体の拍動が作り出されている。すなわち心臓は,生化学現象・電気現象・力学現象などの様々な物理現象によって,心筋細胞内の微視的現象から心臓全体の巨視的な動きが生み出される,極めて複雑な臓器である(図-1)。● 心臓シミュレータの開発コンピュータシミュレーションによって心臓の拍動やそれに伴う血液の拍出を再現するためには,先に述べた幅広いスケールにわたる物理現象を表現する数理モデルを作る必要がある。東京大学大学院と共同開発している心臓シミュレータでは,これらの素現象を再現し,生理学的に妥当性を持ち,臨床データを用いて検証された数理モデルが開発され,有限要素法(1)と呼ばれる数値解析手法を基盤として適切に結合され,求解されている。以下,心臓シミュレータで用いられている数理モデルの例を示す。まず,電気現象の領域では,心筋細胞内,心筋細胞外・胸郭領域の電位分布計算にbidomain方程式を用いている。(2)bidomain方程式には,心筋細胞膜上のイオンチャネル,交換機構,ポンプ機構,および細胞内の筋小胞体のCa2+ポンプなどの動作が記述された電気生理学モデル(3)が組み込まれている。これらの方程式を求解することで,心筋を流れる各種イオン電流の振る舞いを解析することが可能となる。更に心筋各所の細胞内Ca2+濃度も得るこ

心臓シミュレーション

ま え が き

近年,大規模スーパーコンピュータの性能は,11年で1000倍になるペースで向上している。これは,富士通をはじめ世界中のコンピュータメーカーがしのぎを削って厳しい開発競争を展開してきた結果である。それと同時に,そのような大規模かつ高速なコンピュータに対するニーズが急速に高まっていることを裏付けるものとも考えられる。スーパーコンピュータの主な用途は,コンピュータシミュレーションであり,原理的に実験ができない問題,あるいは多大な費用と時間を要するために実験が困難な問題に対して,数値計算による仮想的な実験を行うことによって結果を予測するために使われている。コンピュータシミュレーションは,星の誕生などの宇宙の謎を解明する研究や100年後の地球温暖化を予測する研究,あるいは身近なところでは日々の気象予測などに活用されている。また,最近ではものづくり分野でも積極的に利用されている。例えば自動車産業においては,より安心かつ安全な自動車を設計するための衝突解析や燃費を向上させる形状設計のための流体解析などがコンピュータシミュレーションを用いて行われている。一方,医療分野に目を向けると,ICTは電子カルテに代表される医療支援において活用され,医療情報処理の高度化に大きく貢献している。また,医療画像診断装置などの医療機器やカテーテルを使用した手術などの医療技術は近年急速に進化し,臨床でも積極的に利用されている。これに加え,スーパーコンピュータを活用した生体シミュレーションを行い,治療結果を事前に予測することが可能となれば,医学の発展に大きく寄与することが期待される。しかし,現状では,そのような予測システムはごく一部を除いて使われておらず,ほとんどの病院では治療のガイドラインや臨床医が蓄積してきた経験に基づいた治療が行われている。このような状況下において,筆者らは,スーパーコンピュータを活用した生体シミュレーションにより,臨床医療の発展に貢献できる可能性があると考え,これまで様々な研究開発を進めてきた。本稿では特に,2007年から推進してきた東京大学大学院の久田俊明特任教授,杉浦清了特任教授

ま え が き

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次世代医療を支える生体シミュレーションの取組み

立てて連成計算を行っており,エネルギー的に整合した安定的な解析が可能である。このようなマルチスケールシミュレーションモデルによって心臓現象全体を正確にシミュレートするためには,数億次元という巨大な自由度の方程式を解く必要があり,スーパーコンピュータが必須である。筆者らは,上記の数理モデル開発に加えて,スーパーコンピュータを用いて安定かつ効率的に問題を解く研究開発を行っている。(4)

● プレ処理技術の開発心臓シミュレーションを実行するために,心臓と胸郭のメッシュモデルを生成する。ここで言うメッシュモデルとは,形状および内部の構造を有限要素法で用いる四面体や六面体などの要素で記述,データ化したものである。患者ごとに最適な治療方法を選択するテーラーメード医療を目的とする場合,CT(Computed Tomography)やMRI(Magnetic Resonance Imaging)で患者の胸部を撮影し,得られた3次元画像からメッシュモデルを生成する(図-2)。このメッシュモデル生成において,以下の二つの課題がある。(1)心臓形状の構築

CTやMRIなどの医療画像は,血液領域を明確にするために注入する造影剤のむらや,周辺の組織,心臓の拍動などの影響を受けてノイズや歪みが発生するため,臓器の輪郭を正確に把握することが

とができ,これは次に述べる力学解析の興奮収縮連関モデルに対する入力となる。マクロの力学領域であれば,血液にはNavier-Stokes方程式を用い,心筋は非線形材料特性を有する構成則に基づいて運動方程式が立てられている。これらを両者の境界面における応力の釣り合い条件と幾何学的整合条件によって連成させる境界面追跡型のALE法(Arbitrary Lagrangian and Eularian Method)を用いて連成し,解析がなされている。特に心臓弁に関しては,大変形や衝突による有限要素の消滅に対応するために,Lagrange未定乗数法を応用した境界面補足型連成手法を開発し連成解析を行っている。更に心臓シミュレータでは,ミクロな収縮タンパクの運動とマクロな収縮力を関連付けたシミュレーションを行うこともできる。心筋細胞内の収縮関連タンパクであるアクチンとミオシンの構造変化を,それぞれ3状態,6状態の状態遷移モデルで表現し,モンテカルロ法で一つひとつの動きを計算することで,2種のフィラメントのすべり運動を生み出す。このとき,状態遷移モデルには周囲の状況や心筋の伸びによって変化する遷移率が導入されているため,協調性やCa2+濃度と収縮力の特徴的な関係を自然に再現することができる。また,フィラメントのすべり運動によってなされた仕事と,それらを含む心筋細胞内の有限要素が連続体として成す仕事が一致するよう運動方程式を

マルチスケール

分子構造・機能 臓器 生体

力学的現象

電気的現象

生化学反応

イオンチャネル

心電図

収縮蛋白

圧ー容積関係

K+

Na+ Ca++

細胞

活動電位

心筋張力

ブドウ糖

解糖ATP(アデノシン三リン酸)

乳酸

マルチフィジックス

10-9 m 100 m10-2 m

図-1 マルチスケール・マルチフィジックス問題としての心臓循環器系

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次世代医療を支える生体シミュレーションの取組み

難しい。特に病変部は,医師と検討を行いつつ,解剖学的知見や診断情報から形状を推定することが必要となる場合がある。そのため,医師と対話しながら柔軟に心臓形状を決定するための技術の開発が必要となる。(2)メッシュモデルの再構築シミュレーションを行うためにメッシュの要素に心房室や大血管など,部位を示す情報を付加する必要がある。そのため,隣接する部位間の接続情報を保ちつつ,部位ごとにメッシュを生成する。しかし,弁輪部周辺のように複数の部位が結合する箇所は,品質を保持したメッシュを生成することが難しく,多くの場合において接続情報や形状の修正が必要となる。メッシュの品質はシミュレーションの結果に影響を与えるため,現状では全て手作業で修正を行っており,そのような修正を要するメッシュの発生を抑えることが課題となっている。このように,患者の医療画像や診断情報からシミュレーションを実行するためのメッシュモデルを生成する作業は多大な工数が掛かるため,筆者らは効率的な入力データ生成フローを確立し,技術開発を進めている。● 可視化システムの開発心臓シミュレーションの結果として,心臓の力学現象および電気化学現象に関連する様々なデータが出力される。このデータの中から,ユーザーである医師が見たい情報を分かりやすい形で表示するための可視化システムを開発している。最近では病院内で利用されるCTやMRI,心エコーにより心筋の動きや血流の速度を観察し診断

を行うが,心筋内部の状態までを定量的に観察することは困難である。心臓シミュレータは,そのような定量的データ,すなわち,心筋が血液を拍出する際に発揮する力や仕事量,心筋内の血流量などの物理値を出力することが可能である。開発した可視化システムは,コンピュータグラフィックスを活用して,それらの値の分布を3次元で表示する。このとき,1拍あたり数Gバイトのデータを,GPU(Graphics Processing Unit)を搭載したサーバ複数台で分散処理し,高速に(数秒で)動画を生成・表示することができ,シミュレーション実施後,その結果をスムーズに医師に示すことが可能である。この高速処理により,心筋の断面抽出や,物理量のグラフ表示など,心臓の状態を詳しく観察することが可能となる。例えば,心筋が血液を拍出する際に発揮する力や仕事量,心筋内の血流量などの物理値は,場所や時刻によって異なるが,これらを短時間で抽出してグラフとして表示し,定量的な診断に供することが可能である。可視化した結果の例を図-3に示す。なお,本システムには心エコーによる心筋の厚さの時間変化測定機能と同様の機能が実装されており,両者の定量的な比較検討も可能であることから心臓シミュレータの妥当性確認にも活用している。表示デバイスとしては,通常のディスプレイだけでなく,タブレットや立体ディスプレイにも対応しており,複雑な形状である心臓を立体的に表示して,患者への説明や術式の検討も行いやすくなっている。

3次元画像 トルソメッシュモデル 心臓メッシュモデル

四面体要素

トルソメッシュモデル

図-2 心臓シミュレータの入力データ

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次世代医療を支える生体シミュレーションの取組み

効果がないことも知られている。そこで筆者らは,患者の心臓と胸郭の医療画像データ,心電図,心エコー,梗塞部位情報などを基に心臓シミュレーションを行い,事前にCRT-D適用後の効果,および最適な電極設置位置を予測する手法を開発している。事前に,CRT-Dを植え込む前の心電図データを基にパラメーター調整を行うことにより,実際の患者の心電図の波形(細い線)とコンピュータの中の仮想心臓の心電図の波形(太い線)を一致させておく{図-4(a)}。一旦,このような合わせ込みを行った後では,電極の位置を入力して電気刺激を加えた仮想心臓に対する心電図の波形(太い線)と,実際の患者にCRT-Dを植え込んだ後に測定した心電図の波形(細い線)がほぼ一致することが確認できている{図-4(b)}。すなわち,患者の心臓の電気現象を仮想心臓で再現すれば,術前・術後の心臓の拍動をシミュレーションすることができる。よって,臨床においては,CRT-Dを植え込む前に,患者の心臓のシミュレーションを実施することにより,CRT-D植え込み後の効果を予測することが可能であると考えられる。なお,2014年11月の時点で,東京大学医学部研究倫理委員会の承認のもと,患者18人分の臨床研究を完了している。● 先天性心疾患の治療計画への適用外科手術のうち,とりわけ先天性心疾患の患者に対する手術の場合には,心臓形状が健常者とは大きく異なっていることがあり,術後の効果を事

本可視化システムは,内閣府の最先端研究開発支援プログラムFIRSTにおいて,臨床研究を推進するために東大病院に2012年に試験導入され,医師から高い評価を得ている。現在も臨床医のニーズを満たすべく,多機能化・高機能化に向け技術開発を行っている。

心臓シミュレーションの適用可能性

心臓シミュレーションは,臨床における治療方針の決定や医療機器開発などに活用できる可能性を有している。● CRT-D電極位置の最適化(5)

刺激伝導系の障害や心筋梗塞などにより,心室の電気的な興奮の伝播に異常を来し,左心室と右心室の収縮期と拡張期にずれ(通常は同期している)が生じることがある。例えば,初めに左心室の中隔が収縮し,その後遅れて自由壁側が収縮してしまうと,十分な量の血液を十分な圧力で大動脈へ押し出すことができなくなってしまう。このような患者への治療方法として,CRT-Dと呼ばれる特殊なペースメーカを患者の体内に植え込み,電極を右心房,右心室,左心室の冠静脈内に配置し,両心室のペーシングを行って同期不全を解消する心臓再同期療法(CRT:Cardiac Resynchronization Therapy)がある。この治療は,生存率やQOL(Quality of Life)の明らかな改善が認められることも多いが,侵襲的かつ高額な治療であるにも関わらず,約30%の患者に対しては

心臓シミュレーションの適用可能性

図-3 ポスト可視化の表示例

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次世代医療を支える生体シミュレーションの取組み

前に予測する技術に対する期待は大きい。東京大学大学院久田研究室では,岡山大学心臓血管外科との共同研究において,小児の先天性心疾患手術シミュレーションを行い,実際に行われた術式が別の術式よりも血流や血圧の改善という点において効果的であることを3症例につき確認している。また,心臓シミュレータでは,酸素飽和度やATP(アデノシン三リン酸)消費量も予測することも可能であり,多面的に術式の評価ができる可能性を有している。

サービス提供の仕組み

心臓シミュレーションを実行するためには,大規模なスーパーコンピュータが必須である。更に,シミュレーション手法に精通した技術者の存在も不可欠である。大規模病院では,スーパーコンピュータ

サービス提供の仕組み

を院内に設置して運用できるかもしれないが,一般病院で幅広く活用してもらうためには,図-5に示すようにクラウド上に心臓シミュレーション専用のセンターを構築し,運用することが望ましい。各病院から必要な患者データをネットワーク経由でセンターに送り,シミュレーションを実行した後で,その結果を依頼元の病院に送付する。その結果をセンター,あるいは院内に設置した可視化システムにより閲覧可能とする予定である。

実用化へ向けての課題と今後の展開

心臓シミュレータは,様々な用途に適用可能と考えている。その特徴を生かし実用化するためには,解決しなければならない課題も存在している。

実用化へ向けての課題と今後の展開

(a) 2008年 10月 CRT-D植え込み前 患者の心電図データを基にパラメーターを調整し,心電図を再現

(b) 2009年 8月 CRT-D植え込み後 仮想心臓に CRT-Dの電極を実際と同じ位置に設置し,患者の心電図と比較

図-4 CRT-D電極位置の最適化

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次世代医療を支える生体シミュレーションの取組み

ストが発生してしまう。また,CRT-D電極位置の最適化のためのシミュレーションの場合も同様である。したがって,より安全で効果的な治療を実現するシミュレーションを普及させるためには,必要な医療費を誰がどのように負担するかが課題となる。国の関連機関とも相談しながら,ビジネスモデルの検討を進めていきたい。● 医学研究への適用のための仕組み作り心臓を力学現象,生化学現象,電気現象,かつマルチスケールの視点から再現しているシミュレータは,世界でもほかに類を見ない。循環器内科医や心臓血管外科医から心臓シミュレータは,個別化医療への適用のみならず,病気の原因を解明し,新たな治療方法の研究にも活用できる可能性があると期待されている。また,日本だけでなく世界の医療の発展にも大きく寄与する可能性があるが,一企業が単独で取り組むには困難であり,更なる国の支援が必要である。今後,産学官連携したプロジェクトとして立ち上げることができるよう,国に提案していきたい。生体シミュレーションに関しては,米国や欧州でも実用化を目指した研究開発が積極的に進めら

心エコー

患者の生体データ

病院

シミュレーション実行

画像データ

DB

ポスト可視化インタラクティブ可視化システム

手術計画・効果予測

診断支援・予後予測

シミュレーション依頼(患者の生体データ転送)

結果送信(画像+レポート)

プレ処理

CT・MRI画像血圧・心電図血液データ

電子カルテ

心臓シミュレーションセンター

図-5 心臓シミュレーションサービスの仕組み

● 医薬品医療機器等法および保険診療適用の早期認可取得心臓シミュレータは,前述のように臨床研究において技術的な有効性についての検証が進められている。今後,臨床において使用するためには,医薬品医療機器等法(改正薬事法)の認可が必要である。シミュレータは,従来のCTやMRIといった医療画像診断装置のように,疾患の現状を見える化するものではなく,治療結果を予測する,あるいは既存の手法では見ることのできない状態を明らかにし,合理的な診断をするためのツールとして活用されることを目指している。しかし,患者の病態にはばらつきがあるため,その有効性を客観的に評価するためには統計的な手法を用いる必要が生じることが予測される。その場合でも,過去の患者データ(結果が分かっているデータ)を基に評価を行い,有効性を早期に実証できるように取り組んでいきたい。● 希少疾患シミュレーションの医療費負担例えば,先天性心疾患に適用する場合には,既存のプロトコール(治験実施計画書)が削減されるどころか,心臓シミュレーションを追加するコ

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次世代医療を支える生体シミュレーションの取組み

れている。富士通も,医療系の研究機関との連携や体制の強化を図り,医療の発展に寄与する技術やサービスを海外に先駆けて実用化していきたい。

む  す  び

本稿では,開発した心臓シミュレータを中心に生体シミュレーションの取組みを紹介した。コンピュータシミュレーションは,このほかにも高度な医療機器の開発や放射線治療における治療計画策定のプロセスなどにも有効である。このような分野に対しても,富士通の技術を適用し,医療の発展に貢献していきたい。 本研究の一部は,平成19年度JST産学共同シーズイノベーション化事業育成ステージ「高精度心臓シミュレータと超並列コンピュータ技術によるテーラーメード医療システムの実用化研究」および内閣府最先端研究開発支援プログラム(FIRSTプログラム)「未解決のがんと心臓病を撲滅する最適医療開発」により実施したものである。

む  す  び

参 考 文 献

(1) S. Sugiura et al.:Multi-scale simulations of cardiac electrophysiology and mechanics using the University of Tokyo heart simulator.Prog. Biophys. Mol. Biol.,Vol.110(2-3),p.380-389(October-November 2012).

(2) T. Washio et al.:A Parallel Multilevel Technique for Solving the Bidomain Equation on a Human Heart with Purkinje Fibers and a Torso Model.SIAM Rev.,Vol.52(4),p.717-743(2010).

(3) K. H. W. J. ten Tusscher et al.:Alternans and spiral breakup in a human ventricular tissue model.Am. J. Physiol. Heart Circ. Pysiol.,Vol.291(3),p.H1088-H1100(September 2006).

(4) T. Washio et al.:Multiscale Heart Simulation with Cooperative Stochastic Cross-Bridge Dynamics and Cellular Structures.Multiscale Model. Simul.,Vol.11(4),p.965-999(2013).

(5) J. Okada et al.:Patient Specific Simulation of Body Surface ECG using the Finite Element Method.PACE,Vol.36(3),p.309-321(March 2013).

門岡良昌(かどおか よしまさ)

未来医療開発センター 所属現在,生体シミュレーションの研究開発に従事。

岩村 尚(いわむら たかし)

未来医療開発センター研究開発統括部 所属現在,生体シミュレーションの研究開発に従事。

中川真智子(なかがわ まちこ)

未来医療開発センター研究開発統括部 所属現在,生体シミュレーションの研究開発に従事。

渡邉正宏(わたなべ まさひろ)

未来医療開発センター研究開発統括部 所属現在,可視化技術および生体シミュレーションの研究開発に従事。

著 者 紹 介