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─ 1 ─ 〈論 説〉 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇 ──工場内学校との関連で── 目  次 1.はじめに 2.明治期における綿糸紡績業の工場内補習学校と教育効果 3.紡績業の過酷な労働条件と工場内補習学校 4.紡績業の深夜業と「工場法」の制定 (1)「工場法」の挫折 (2)深夜業と「工場法」の制定 (3)綿糸紡績業と「改正工場法」 5.紡績業の深夜業撤廃と工場内学校 (1)深夜業撤廃と紡績労働者への影響 (2)紡績女工の余暇と工場内学校 6.むすび 1.はじめに 本稿は「工場法」「改正工場法」の施行によって綿糸紡績労働者の劣悪な 労働条件がどの程度改善され,明治期の工場内補習学校に比べ女工の就学が どの程度可能になったのか解明することを主眼とする。 明治期,綿糸紡績各社には補習教育(補習学校)が広く存在し,実施され ていた。明治期の綿糸紡績業では無学歴,未就学の若年女子労働者が数多く 存在したため,一般教育・補習教育を主眼とした工場内補習学校の存在意義 は非常に大きかった。しかし,工場内補習学校に各社とも多大な費用を費や して開設したにもかかわらず,大勢の女工が学びその機能を充分果し,補習

「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17460/erku035...「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷) 3 改善は綿糸紡績労働者に何をもたらしたのか,綿糸紡績工場内の補習教育

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  • ─ 1 ─

    〈論 説〉

    「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇──工場内学校との関連で──

    谷 敷 正 光

    目  次1.はじめに2.明治期における綿糸紡績業の工場内補習学校と教育効果3.紡績業の過酷な労働条件と工場内補習学校4.紡績業の深夜業と「工場法」の制定 (1)「工場法」の挫折 (2)深夜業と「工場法」の制定 (3)綿糸紡績業と「改正工場法」5.紡績業の深夜業撤廃と工場内学校 (1)深夜業撤廃と紡績労働者への影響 (2)紡績女工の余暇と工場内学校6.むすび

    1.はじめに

    本稿は「工場法」「改正工場法」の施行によって綿糸紡績労働者の劣悪な

    労働条件がどの程度改善され,明治期の工場内補習学校に比べ女工の就学が

    どの程度可能になったのか解明することを主眼とする。

    明治期,綿糸紡績各社には補習教育(補習学校)が広く存在し,実施され

    ていた。明治期の綿糸紡績業では無学歴,未就学の若年女子労働者が数多く

    存在したため,一般教育・補習教育を主眼とした工場内補習学校の存在意義

    は非常に大きかった。しかし,工場内補習学校に各社とも多大な費用を費や

    して開設したにもかかわらず,大勢の女工が学びその機能を充分果し,補習

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 2 ─

    学校としての成果を上げたとは言えなかった。

    明治期の工場内補習教育が多くの工場でその機能を充分果し得なかった最

    大の原因は,紡績労働者の昼夜二交替制,深夜業,長時間労働という劣悪な

    労働条件にあった。

    大正期に入って綿糸紡績業は慢性的不況が続き,操業短縮を繰り返す中で

    紡績資本の集中・独占化が進み,大正期初頭には,鐘紡,大阪紡績,摂津紡

    績,尼崎紡績,三重紡績,大阪合同紡績,富士瓦斯紡績の7大紡績会社に集

    中した。第1次世界大戦の勃発(大正3年)によってアジア市場からイギリ

    ス製品が後退し,代わって日本が中国市場へ綿布・綿織物の輸出を,インド

    市場へ綿糸の輸出を拡大させた。世界大戦を契機に紡績会社の新設・工場増

    設が起こり,紡績業は好況を呈した。この過程で大阪紡績と三重紡績が合併

    して東洋紡績となり,摂津紡績と尼崎紡績が合併して大日本紡績となり,大

    正に入って飛躍的に発展した日清紡績を加え6大紡績体制となった。昭和6

    年にはさらに東洋紡績が大阪合同紡績を合併して5大紡績体制になり,これ

    以降,綿糸紡績業界は5大紡績資本によって事実上支配されるようになった。

    ところで,綿糸紡績業は製鉄業や造船業とともに西欧の先進的な技術・機

    械を備えた明治期工業化の先端を行く代表的産業であった。しかし,綿糸紡

    績工場の労働条件は昼夜二交替制,14 ~5歳以下の若年労働者や女子労働

    者による深夜業,長時間労働など人道上,道義上,健康上看過できぬほど劣

    悪な状態であった。また,造船業,鉱山業,軍需工場など主要産業も同様の

    状態で劣悪な労働条件,低賃金,解雇をめぐり労働争議が頻発していた。

    こうした工場労働者の劣悪な労働条件や労働争議の頻発による労使関係の

    不安定化=社会問題化を心配した政府(農商務省)は明治 44 年「工場法」

    を制定(施行は大正5年),大正 12 年「改正工場法」を公布(施行は大正 15

    年)し,女子労働・年少労働の就業時間制限と最も過酷な深夜業の禁止を実

    施している。

    そこで本稿は,明治 44 年「工場法」公布以降大正 15 年「改正工場法」の

    施行に至る過程で綿糸紡積業の労働条件はどのように改善され,労働条件の

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 3 ─

    改善は綿糸紡績労働者に何をもたらしたのか,綿糸紡績工場内の補習教育

    (補習学校)にどのような影響を与えたのか,明治期の工場内補習教育に比

    べ工女の就学情況はどの程度改善されたのか,「工場法」「改正工場法」の施

    行によって工場内学校は本来の機能を果し得たのかを中心に以下考察したい。

    2.明治期における綿糸紡績業の工場内補習学校と教育効果

    綿糸紡績業の職工は熟練と体力を余り必要としないため,賃金の安い女子

    労働者が中心をなしていた。『職工事情』によれば,紡績職工の7割8分は

    女工,2割2分が男工であった(1)。この傾向は大正期~昭和期に至っても

    変わらず,女工の占める割合は 70 ~ 80%(2)に達した(第1表)。

    綿糸紡績業が発展し,工場の新設・拡張や紡績市場が拡大する明治 20 年

    代~ 30 年代は労働力需要も急速に増大し,紡績業の女工不足が目立ちはじ

    めた。女工の募集は工場周辺から全国規模にまで拡大し,遠方の農村地帯か

    ら若い出稼女工が大量に採用された(第2表)。出稼女工は募集人・紹介人,

    後に直接募集,間接募集(委託,縁故,地方団体),職業紹介を経て勧誘し(3),

    女工の移動・逃亡防止のため寄宿舎に収容した。この寄宿舎制度は,職工争

    奪を防ぐ一種の監禁施設であったばかりでなく,長時間労働,昼夜二交替,

    深夜業維持のためにも不可欠な制度であった。

    また,女子・幼少年労働者に対する法的制度が欠如していた明治期には,

    職工不足による職工獲得競争の結果,雇用年齢の低下と義務教育を修了して

    いない年少労働者(特に若年女子)への依存度も高くなっていった(第3表)。

    大阪職工教育会が明治 30 年に行った調査によると,大阪6大紡績会社の職

    工の教育程度は,無教育 41.5%,少し教育のある者 50.4%で,尋常小学校卒

    業した者はわずか 8.1%(4)であった。雇用年齢も「十二歳又ハ十三歳以上

    ニ限レハ表面ノミニシテ実際ハ職工ノ不足ナルヨリ七八歳ヲ使役スルヲ常ト

    ス」(5)る状態で無就学・無教養の幼少年職工が数多く存在していた(第4表)。

    綿糸紡績連合会をはじめ紡績経営者は①女工教育の必要性を認識し,「知

    識あり,文字ある優等の職工を求め」(6)生産性向上には女工の資質向上が

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 4 ─

    年次 会社数 綿紡績工場在籍労働者数(工員)  (人)男 女 計 明治 22 年 27 3,444 7,500 10,933

    24 34 4,429 12,728 17,15726 36 5,891 19,325 25,21829 59 10,201 33,344 43,54530 64 12,171 40,367 52,53832 75 14,509 49,850 64,35934 60 14,972 51,427 66,39936 51 14,971 63,618 78,58938 49 13,801 65,481 79,28240 42 16,767 73,104 89,87142 37 18,715 78,160 96,87544 34 20,279 92,001 112,280

    大正 2 44 23,005 109,994 132,9994 41 26,221 115,430 141,6516 43 29,851 122,082 151,9338 54 38,570 138,439 177,00910 70 41,982 137,886 179,86812 60 46,121 162,360 208,48114 64 47,924 181,406 229,33015 53 49,951 189,964 239,915

    昭和 2 54 47,410 173,263 220,6733 59 44,614 153,143 197,7574 59 43,707 158,657 202,3645 62 37,598 136,937 174,5356 62 29,473 121,032 150,5057 63 26,533 130,666 157,1998 61 24,591 139,141 163,7329 62 23,992 153,370 177,36210 60 23,665 166,062 189,72711 71 22,738 166,588 189,32612 74 23,824 185,547 209,37113 80 22,424 173,809 196,23314 79 21,707 156,794 178,50115 79 20,067 134,263 154,33016 59 18,912 122,676 141,58817 47 17,263 99,180 116,44318 12 12,756 66,459 79,21519 10 6,126 46,153 52,27920 10 5,248 28,457 33,705

    第1表 綿糸紡績会社労働者数

    (注)日本繊維協会編『日本繊維産業史 総論編』繊維年鑑刊行会,昭和 33 年,365・372 頁より作成。

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 5 ─

    地域

    応募県紡

    績会社地域

    関 東 中  部東 

    北近 畿 中 国 四 国 九 州

    東 

    千 

    栃 

    静 

    愛 

    岐 

    福 

    石 

    富 

    新 

    宮 

    滋 

    京 

    大 

    奈 

    和歌山

    三 

    兵 

    鳥 

    島 

    岡 

    広 

    山 

    愛 

    徳 

    香 

    高 

    大 

    熊 

    鹿児島

    福 

    長 

    東京

    東 京 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○鐘 淵 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

    大阪

    平 野 ○ ○ ○ ○大 阪 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○摂 津 ○ ○ ○ ○ ○ ○泉 州 ○ ○ ○ ○ ○福 島 ○ ○ ○ ○岸和田 ○日 本 ○ ○ ○ ○ ○ ○

    兵 庫 尼 崎 ○ ○栃 木 下 野 ○ ○三 重 三 重 ○ ○ ○ ○愛知

    名古屋 ○ ○ ○尾 張 ○ ○ ○ ○

    岡山

    岡 山 ○ ○ ○ ○ ○ ○下 村 ○ ○ ○倉 敷 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○玉 島 ○ ○ ○ ○

    和歌山 和歌山 ○ ○ ○ ○福岡

    久留米 ○三 池 ○ ○ ○

    第2表 職工募集地(明治 30年ごろ)

    (注)現代日本産業発達史研究会『日本産業発達史XI 繊維 上』昭和 39 年,199 頁。

    年  齢 工 場 数実 数 %無 制 限 2 310 才以上 5 711 才以上 5 712 才以上 16 2213 才以上 30 4214 才以上 12 1615 才以上 2 3合   計 72 100

    第3表 紡績労働者雇入最低年齢

    (注)大日本綿糸紡績同業連合会『紡績職工事情調査概要報告書』,明治 31 年,35 ~ 39 頁より作成。

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 6 ─

    紡績会社名男女別

    職工総数 14 年未満ノ職工文字ヲ解スル者

    文字ヲ解セザル者

    文字ヲ解スル者

    文字ヲ解セザル者

    大 阪 男 542 232 56 59女 1,532 1,021 404 570

    摂 津 男 212 616 145 123女 915 1,615 534 414

    天 満 男 163 97 - -女 400 717 58 130

    平 野 男 439 38 15 2女 1,027 126 108 20

    金 巾 男 222 75 13 2女 643 946 121 180

    朝 日 男 279 78 15 33女 459 739 34 136

    岸和田 男 228 277 11 32女 459 739 34 136

    堺 男 213 102 21 18女 477 642 110 207

    玉 島 男 284 27 38 17女 845 397 98 200

    笠 岡 男 109 23 5 8女 207 537 141 30

    名古屋 男 149 8 3 1女 251 496 44 104

    松 山 男 90 42 14 -女 213 161 64 28

    宇 和 男 122 5 8 -女 467 84 54 20

    守 和 男 122 5 8 -女 467 84 54 20

    尼 崎 男 623 335 62 49女 921 1,613 212 347

    三 池 男 280 70 17 3女 1,340 130 97 63

    第4表 主要紡績会社職工の非識字者数       (人)

    (注)大日本綿糸紡績同業連合会『紡績職工事情調査概要報告書』(復刻版)明治 31 年,124~127頁より作成。

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 7 ─

    不可欠であると考えはじめたこと,②「小学校令」が公布(明治 19 年第1次

    小学校令,明治 23 年第2次小学校令)されていたため工場内の義務教育未修

    了児の存在は,道義上許されなかったこと,③紡績女工は「非道徳的行為

    者」「没義破倫行為者」(7)との評判がたち,この点でも教育が不可欠であっ

    たこと,④女工の募集・宣伝活動の目玉として,補習学校開設はかなりの効

    果があったこと,⑤女子移動の抑止に補習学校が有効であったこと,⑥女工

    の大量採用にともなって,工場の秩序維持に教育が不可欠となったこと,⑦

    女工への教育は「工業隆興の基礎」であり「彼女らに普通教育を授けるのは

    企業家の徳義上の義務である」(『紀伊毎日新聞』明治 34 年2月8日論説「女工

    徒弟の教育」)(8)等の世論の後押しがあったこと,を背景に工場の施設や寄

    宿舎を学校(教場)にして尋常小学校同様または類似の教育を施す工場内補

    習教育施設=工場内補習学校を設けた。

    この工場内補習学校の修業年限は2~3年制であるが,中には4年制のも

    のもあり,日本紡績,東京紡績,名古屋紡績,岡山紡績,吉備紡績,小名木

    川紡績,一宮紡績では,尋常小学校の上に高等小学校をも設置していた。

    授業時間は,1日の作業終了後2~3時間,昼夜交替制の工場では作業に

    入る前か作業後 2~3時間(中には4時間)学んでいた。

    カリキュラムは読み,書き,習字,作文,算術,珠算の 3R's(読書算=

    reading, writing, arithmetic)を中心に,品性教育・躾教育として修身,将来

    の家庭準備教育として家事,裁縫,手芸,その他体操,唱歌などが教授され

    ていた。紡績会社が工場内補習学校にかける年間経費の平均は約 386 円であ

    ったが,松山紡績の松山同情館(女子夜学校)では 2000 円であった(9)。

    ところで,明治期の工場内補習学校の教育効果(成果の有無)について,

    農商務省は『職工事情』で「いずれの工場においても多少この種の設備なき

    にあらざるも,多くは形式に止まり,実際規則正しく教授をなすものは極め

    て稀有なり」(10)と述べ,大日本綿糸紡績同業連合会も『紡績職工事情調査

    概要報告書』で「會社ニ在リテハ先キニ一旦之ヲ設ケテソノ奬勵ヲ謀リタル

    モ遂ニ中止シタルモノ多シ」(11)と述べている。横山源之助も綿糸紡績会社

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 8 ─

    の工場内補習学校を調べ「余輩は眼に親しく知れる事実を挙ぐれば,おおむ

    ね以上の如し。とにかくも職工教育の真似事に類するは多少存するが如し」

    「工場主が称するが如く紡績工場に教育の事ありとするも,その成績を挙ぐ

    ること得ざるべきを思えば,余輩は断然紡績工場に職工教育なしと言うのも

    むしろ事実に近きを信ずる者なり」(12)と述べ,いずれも補習教育の実施は

    あったが実態がともなっていない点を指摘している。

    また,職業教育,教育訓練の研究分野においても,明治期の工場内補習学

    校は開設されてはいたが「全般的に低調」であり「実際効能はない」(13)と

    みており,女工募集時の宣伝材料としての意味合いの方を強調することが多

    い。

    しかし,私が調べたところでは,工場内補習学校はすべてが低調とは言え

    ず,鐘紡,倉敷紡績,松山紡績,九州紡績,三重紡績,平野紡績などでは,

    補習教育は品性の向上,知識の習得も顕著で,教育効果があったとの証言も

    あり,成果を上げた学校(工場)も少なからず存在していたのである。平野

    紡績の三余学校は大いに成果をあげて,文部省から私立学校として認定され

    ている。松山紡績の松山同情館も常日頃の熱心な教育活動が認められ,私立

    松山同情館女子夜学校として認定され,教員の熱心な指導で「根本的に人格

    の基礎を改築せしむ,一度此館に入りたる工女は、從夾如何に縛聯者の名を

    取りし婦人にても,二三ヶ月を出でずして周邊の感化を受けて改悔し,生ま

    れかはりし如き善良なる婦人となる」「入館當時は目に一丁字なき全く無教

    育者なりしを館の學校にて教育せられし結果,自ら手紙を書きて謝意を表し

    得る」(14)ほどの成果をあげていた。

    3.紡績業の過酷な労働条件と工場内補習学校

    工場内補習学校は教育効果を上げた工場もあったが,他方では 「会社が教

    育に関して表面上立派な設備ある如くいうも,内実は一日一時間位教えて,

    しかも面倒臭そうに取扱わるれば,なかなか良好なる結果を収むること 」が

    困難な経営者の無責任さや「先生が大儀がって親切に教え」(15)ない教師の

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 9 ─

    不熱心さなどで教育効果が上がらず,実施面で様々な問題をかかえた工場

    が多く存在した。しかし,女工の教育を最も阻害していたのは,昼夜二交替

    制,深夜業,12 時間労働といった過酷な労働条件であった(第5表,第6表)。

    過酷さを端的に示しているのは昼夜二交替制の深夜業であった。その労働条

    件は「昼夜交替十二時間ずっとす。昼業は午前六時より午後六時までの十二

    時間なり。休憩時間は午前九時および午後三時なるも,主任および男工が休

    むのみにて,女工は少しも休憩せず。(中略)夜業は午後六時より翌朝午前

    六時までの十二時間にして休憩および食事時間は昼業と同じ故に,十二時間

    の中,実際休むは十二時に食事をする間のみ」というのが実情で,もし昼勤

    者に欠勤が出れば連続の勤務が強制された。特に深夜業は「過労甚し。夜業

    を終わり帰るものの顔色蒼白なるにても知るべし」「一般女工らは,そのつ

    らきことをいい暮らし,早く昼番になることを祈り居るの有様」(16)で,勤

    就業時間 休憩時間種 類 別 普通の場合 徹夜の場合 普通の場合 徹夜の場合 月間休業日数 年間就

    業日数普通 最多 最少 普通 最多 最少 普通 最多 最少 普通 最多 最少 普通 最多 最少製 糸 業 13.0 14.5 9.0 10.5 10.5 10.5 1.5 2.5 0.5 2.0 2.0 2.0 3 6 1 246綿 紡 12.0 15.0 10.0 12.0 12.0 10.5 1.5 2.5 1.0 3.0 3.0 1.0 3 5 - 311紡 績 業 計 12.0 13.5 11.0 12.0 12.0 11.5 1.5 2.0 1.0 1.5 1.5 1.0 4 5 2 284撚 糸 業 12.0 16.0 8.5 10.0 10.0 10.0 1.5 3.5 1.0 2.5 2.5 1.5 3 6 1 310絹 織 物 13.0 16.0 9.0 11.0 11.0 9.0 2.0 4.0 0.5 3.0 3.0 1.0 4 6 - 311綿 織 物 12.0 16.0 8.0 12.0 12.0 8.0 1.5 3.0 0.5 1.0 1.0 1.0 3 6 - 311毛 織 物 12.0 14.5 9.0 12.0 12.0 12.0 1.5 3.0 1.0 1.0 2.0 1.0 3 5 2 312織 物 業 計 12.0 14.5 8.5 12.0 12.0 11.0 1.5 3.0 1.0 1.0 2.0 1.0 3 6 1 304

    染色整理其他の加工業

    11.5 15.5 9.0 11.0 12.0 1.0 1.5 3.5 1.0 1.5 3.0 1.0 4 7 1 290

    組物編物業 12.0 14.0 9.5 9.5 9.5 9.5 1.5 3.0 1.0 1.5 1.5 1.5 3 6 1 310

    第5表 染織工場の就業・休憩時間,休業日

    (注)1.明治 44 年 12 月現在2.労務管理史料編纂会『日本労務管理年誌 第一編 下』日本労務管理年誌刊行会,昭和

    38 年,附表 31 頁。

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 10 ─

    務明けには「身体疲労して風呂に入るも瀬(ものう)がるほど 」(17)で,あ

    とはただ眠るだけという過酷さであった。

    したがって,深夜業という重労働の後「朝六時工場を退きて読み,書き,

    算術を習い,昼間の就業者はその疲れたる身体を以って夜間学習するを得べ

    きや」(18),また 12 時間労働の後「強制的に学校へ行け学校行け……と言わ

    れたって身体の方がまいってしまい」,肉体的疲労が激しく「学校へ行きた

    くても行けない」(19)のが実情で,「学校へ出る者は極めて少数」(20)であった。

    かくして,過酷な労働条件の下で,工場内補習学校が紡績工場全体で,大

    勢の女工が学び実質的に教育効果をあげ,補習学校としての存在意義を持つ

    ためには,紡績女工の過酷な労働=深夜業の廃止と長時間労働の改善,すな

    わち「工場法」の制定が不可欠であった。

    一ヶ月間休日日数 一ヶ年就 業日 数

    同休日日 数

    普通就業時  間

    普通休憩時間

    普通一日労働時 間

    一年間普通労働時間

    普通

    最多

    最小

    製 糸 業 3日 6 1 246 119 13 時間 1時半 11.5 2829紡 績 業 4 5 2 284 91 12 1.5 10.5 2982撚 糸 業 3 6 1 310 55 12 1.5 10.5 3255織 物 業 3 6 1 304 61 12 1.5 10.5 3192莫 大 小 業 3 5 - 313 52 12 1.5 10.5 3286.5機 械 製 造 業 3 5 1 315 50 10 半 1 9.5 2992.5造 船 業機 関 車 電 車 3 6 - 304 61 10 半 1 9.5 2888.5

    製 造 業 3 5 - 327 38 10 1 9.0 2943器 具 製 造 業 3 5 2 310 55 10.5 1.5 9.0 2790金属品製造業 3 6 1 314 51 10.5 1 9.5 2983窯     業 4 6 - 288 77 10.5 1.5 9.0 2592製 糸 業 3 5 1 301 64 11.5 1.5 10.0 3010

    第6表 職工の就業日数・一日労働時間・休憩時間

    (注)1.明治 42 年調査2.労務管理史料編纂会『日本労務管理年誌第一編 下』,日本労務管理年誌刊行会,昭和

    39 年,319 頁。

    ⎩⎨⎧

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 11 ─

    4.紡績業の深夜業と「工場法」の制定

    (1)「工場法」の挫折

    紡績業から深夜業,長時間労働が完全に撤廃される過程と「工場法」制定

    について以下考察する。

    紡績業における深夜業は,明治 16 年5月桑原紡績,7月大阪紡績が初め

    て実施したもので,明治 17 年には昼夜二交替制をも採用し,紡績業が発展

    するとともに綿糸紡績業全般に波及した(21)。女工の労働時間は「十二時間,

    即ち昼間業を繰るは朝六時より晩の六時まで,夜業に出ずるは午後六時より

    午前六時まで」(22)の 12 時間労働が一般的であった。休憩時間も 15 ~ 30 分

    と一応規定されていたが,実際は機械稼動のため,職工は全員一斉に休憩で

    きず,休憩時間も名ばかりであった。特に深夜業おいては肉体的疲労が激し

    く,体重も 「夜業時には昼業に比し約三倍減量 」(23)する程劣悪であった。

    当時,農商務省の委託を受け,工場・職工の実態を調査し『工場調査要領』

    をまとめた桑田熊蔵は社会政策学会第1回大会(明治 40 年)報告で「晝業の

    十二時間と云ふものは,先づ日本の勞働者としては,普通の勞働時間であり

    まするが,夜業の十二時間の勞働時間は極めて苦しい,紡績工女に在つて最

    も困難を感ずるは徹夜業であることは彼等の常に口にする所である,午後六

    時から始めて夜中に十五分か三十分の休憩時間を貰つて朝まで勞働する,其

    勞働も而も機械の側に在つて單調なる勞働をするのである,空氣も惡るい,

    工場は極めて不潔である,其內にあつて徹夜し勞働することは,是は如何に

    も苦しいと云ふことである,元來十二時間徹夜業をこなすことが非常な苦痛

    である,然るに工場の都合で,若しや他の組の職工の數が足りない時分には

    夜業をやつた者を,又翌朝から晝業に就け,晝業を既にやつた者を之を徹夜

    業に又就ける,詰り二十四時間も勞働をするのである,二十四時間の勞働は

    隨分苦しい,尙ほ工場の都合に依つて,職工の數が定數に満たない場合には,

    夜業をやつて翌朝更らに晝業をやつて,其晩再たび夜業をやることゝなる,

    是くて三十六時間の勞働をやることが屢々ある」(24)と深夜業の過酷さを報

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 12 ─

    告している。

    ところで,農商務省は産業革命に入るとともに,婦女子・年少労働者の酷

    使,長時間労働,強制労働が表面化し,職工保護のため「工場法」制定の準

    備を始めている。

    明治 20 年には職工の保護規定「職工条例案」(職工・工場の一般規定)「職

    工徒弟条例案」(職工・徒弟の規定)を起草し,深夜業について「婦女子及十

    四歳未満ノ職工ヲ夜間使用スルコトヲ得サルコト」(25)と規定している。こ

    の取締り条項は深夜業禁止の先駆的規定であったが,条例案は継続審議とな

    り,実現するに至らなかった。その後,農商務省は劣悪な労働条件による工

    場(鉱山)労働者の反発,若い工場(鉱山)労働者の体力の低下と国防力の

    低下,社会主義思想(運動)の浸透防止,女工の酷使による母性・母体への

    影響を恐れ「工場法」を幾度となく起草し,議会に提出したが,その都度失

    敗に終わっている。

    まず,農商務省は,明治 29 年諮問機関として主要な財界人を網羅した農

    商工高等会議を開催し,深夜業,長時間労働による婦女子・年少労働者保護

    を目的とした「職工の取締及び保護に関する件」について諮した。政府側委

    員の賛成は得られたが,企業側委員の反対にあい,継続審議となる。

    明治 30 年には地方の工場の実情を視察の上「職工法案」を起草し,第 11

    回帝国議会に提出したが,議会解散のため廃案となる。明治 31 年には「職

    工法案」を修正し,児童の就業禁止,年少者の労働時間制限を目的とした

    「工場法案」を商業会議所に諮り,第3回農商工高等会議に諮問した。明治

    32 年農工商高等会議で修正された「工場法案」を帝国議会に提出すべく準

    備中に内閣が更迭の時期と重なり,提出には至らなかった。

    この当時,工場労働者の劣悪な労働条件が社会問題化し,農商務省は商工

    局工務課に「工場調査掛」を設け,工場・職工の労働実態を調査し,企業経

    営者にも工場労働者の実態を周知させるため『工業調査要領』『職工事情』

    を公表した。これらの報告書によって,改めて工場における劣悪な労働条件

    が明らかとなり,政府はこの調査報告を踏まえ,再度「工場法案」を作成し

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 13 ─

    た。

    明治 35 年には,工場法案の「要領」を作成し,各省,地方長官,商業会

    議所に諮り,各界の意見を踏まえて「工場法案」を修正し,議会に提出すべ

    く準備中に,日露戦争で時局が急変し,またも提出に至らず,挫折の連続と

    なった(26)。

    同法案には女子・年少労働者の深夜労働禁止の条項が,次の如く規定され

    ている(27)。

    第五 徹夜業ノ制限

    十六歳未滿ノ男女又ハ滿十六歳以上ノ女子ハ午後十時ヨリ午前四時ニ至ル

    間工場ニ於テ傭使セシメサルコト但シ左ノ例外ヲ設クルコト

    (一) 天災事變ニ際シテハ勅令ヲ以テ一時此ノ制限ヲ撤去スルヲ得ルコト

    (二) 勅令ヲ以テ特種ノ事業及臨時事業ノ繁忙ナル場合ニ關スル除外例ヲ

    規定スルコト

    (三) 工場ニ於テ職工徒弟ヲ二組以上ニ分チ交替ニ傭使スル場合ニ關シテ

    ハ勅令ヲ以テ左ノ如キ除外例ヲ規定スルコト

    滿十三歳以上十六歳未滿ノ男女及滿十六歳以上ノ女子ハ午後十時ヨ

    リ午前四時ニ至ル間ト雖トモ工場ニ於テ傭使スルヲ得ルコト但シ工

    場法施行後五箇年間ハ滿十一歳以上十三歳未滿ノ男女ヲモ傭使スル

    ヲ得ルコト

    (四) 前二號ノ場合ニ就テハ職工,徒弟各組交替ノ時期,就業時間,休憩

    時間及休日ニ關スル特別ノ規定ニ從フヲ要スルコト

    と規定し,深夜業は原則として 16 歳未満の男女および満 16 歳以上の女子は

    午後 10 時から午前4時の間は禁止している。ただし,例外を設け,2組に

    分けて交替で就業する時は,施行後5年間,満 11 歳以上 13 歳未満の男女の

    使用を認める規定になっている。

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 14 ─

    (2)深夜業と「工場法」の制定

    政府は,日露戦争終結後の明治 42 年に先の「工場法案」を再度各省,地

    方長官,商業会議所,大日本紡績連合会等各界に諮った。

    当時の社会情勢は,大企業で労働争議が頻発し,労使関係が不安定化しつ

    つあった。社会政策学会も労使協調の社会政策的立場から緊急な課題として

    「工場法」問題を真剣に討議するなど,官民とも「時勢ノ進歩ニ依リ法令制

    定ノ必要性ヲ自覺」しはじめ,もはや「工場法」制定に「絶対反対」という

    意見もほとんどみられなくなった(28)。

    「工場法」を「時期尚早」と反対していた渋沢栄一も社会政策学会(明治

    40 年)で「併し其時分の紡績工場の有樣と今日は大分樣子が變つて來て居る,

    試に一例を言へば,其時分に夜業廢止と云ふことは,紡績業者は困る,どう

    しても夜業を廢されると云ふと,營業は出來ないとまで極論したものであり

    ますが,今日は夜業と云ふものを廢めても差支へないと紡績業者が言はうと

    思ふので,世の中の進歩と云ふか,工業者の智慧が進んだのか,若は職工の

    有樣が左樣になつたのか,それは總ての因があるであらうと想像されます,

    又時間も其時分よりは必ず節約し得るやうに,語を換へて言へば,時を詰め

    得るやうになるだらうと思ひます,故に今日に於て工場法が尙ほ早いか,或

    は最早宜いかと云ふ問題におきましては,私はもう今日は尙ほ早いとは申さ

    ぬで宜からうと思ふのであります,けれども前に申す通に總て之を施行しま

    すには,成るべくだけ實際と相適合することを希望いたすのであります」と

    報告し「時期尚早」から「尚早とは申さぬ」「時期正に至れり」(29)へと転換し,

    「工場法」制定に同調する意見を述べている。このように官民に「絶対反

    対」意見がみられなくなったのは,社会政策学会が「工場法に対する世論を

    喚起」(30)したのも影響し,社会政策学者の提案が大きな力となった。

    かくして,「工場法案」は農商務大臣と内務大臣との会議を経て閣議決定

    され,第 26 帝国議会にみたび提出された。しかし,綿糸紡績連合会は深夜

    業禁止規定(同法実施 10 年後に深夜業を禁止する)に猛烈に反対(31)し,法案

    通過の見込みがたたず,政府は明治 43 年2月「調査修正」を名目に同法案

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 15 ─

    を撤回している。

    同法案に規定された深夜業の条項は次の通りである(32)。

    第三條 工場主ハ十六歳未滿ノ者及女子ヲ夜間工場ニ於テ就業セシムルコト

    ヲ得ス

    前項ノ規定ハ十四歳以上ノ者ニ付左ノ各號ノ一ニ該當スル場合ニ之ヲ適用

    セス本法施行後五年ヲ限リ十二歳以上ノ者ニ付亦同シ

    一 一時ニ作業スルニ非サレハ原料ニ變敗ヲ生シ易キ事業ニ就カシムルト

    二 職工ヲ二組以上ニ分チ交替ニ就業セシムルトキ

    前項第二號ノ規定ハ本法施行後十年ニシテ其ノ効力ヲ失フ但シ繼續作業ヲ

    要スル事業ニシテ女子ヲ夜間工場ニ於テ就業セシメサルモノニ付テハ此ノ

    限ニ在ラス

    さらに政府は,6月参事官岡実を農商務省工務長に任命し,「工場法」撤

    回の原因となった深夜業の条項を大幅に修正し,10 月には法案について精

    密な説明を記したパンフレット「工場法の説明」を配布し,各省,地方長官,

    商業会議所,日本紡績連合会,工業協会等各界に再度諮問した。さらに労働

    衛生問題に取り組む中央衛生会にも諮詢した上で農商務省の諮問機関生産調

    査会に諮問した。

    各界に諮問した「工場法案」に規定された深夜業の条項は次の如くであ

    る(33)。

    第四條 工業主ハ十六歳未滿ノ者及女子ヲシテ午後十時ヨリ午前四時ニ至ル

    間ニ於テ就業セシムルコトヲ得ス

    第五條 左ノ各號ノ一ニ該當スル場合ニ於テハ前條ノ規定ヲ適用セス但シ本

    法施行十年後ハ十四歳未滿ノ者及二十歳未滿ノ女子ヲシテ午後十時

    ヨリ午前四時ニ至ル間ニ於テ就業セシムルコトヲ得ス

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 16 ─

    一 一時ニ作業ヲ爲スコトヲ必要トスル特種ノ事由アル業務ニ就カシムル

    トキ

    二 夜間ノ作業ヲ必要トスル特種ノ事由アル業務ニ就カシムルトキ

    三 晝夜連續作業ヲ必要トスル特種ノ事由アル業務ニ職工ヲ二組以上ニ分

    チ交替ニ就業セシムルトキ

    前項ニ揭ケタル業務ノ種類ハ主務大臣之ヲ指定ス

    第六條 職工ヲ二組以上ニ分チ交替ニ就業セシムル場合ニ於テハ本法施行後

    五年間第四條ノ規定ヲ適用セス,本法施行五年後左ノ各號ノ一ニ該

    當スル場合ニ於テハ更ニ十年間亦同シ但シ本法施行十年後ハ十四歳

    未滿ノ者ヲシテ午後十時ヨリ午前四時ニ至ル間ニ於テ就業セシムル

    コトヲ得ス

    一 午前零時ヨリ午前四時ニ至ル間ニ於テ就業スル組ノ職工員數ヲ他ノ組

    ノ職工員數ニ比シ初ノ五年間ニ在リテハ十分ノ八以下,次ノ五年間ニ

    在リテハ十分ノ六以下ノ割合トスルモノ

    二 午後十時ヨリ午前四時ニ至ル間ニ於テ十六歳未滿ノ者及女子ノ就業ス

    ル作業時間ヲ初ノ五年間ニ在リテハ四時間以内,次ノ五年間ニ在リテ

    ハ二時間以内トスルモノ

    とし,第6条では2組に分けて交替で就業しても、施行5年後には深夜業を

    廃止することを規定した。また,第2条では 12 歳未満の者の雇用禁止,第

    3条では 16 歳未満の者と女子の1日の就業時間を 12 時間(「業務」によって

    は2時間延長)と規定している。

    「同法案」を諮問された生産調査会は,渋沢栄一を委員長とする 17 名の特

    別委員会を設置し,この「工場法案」を付託した。同委員会は深夜業規定に

    今だ強く反対する紡績業界をはじめ各業界の意見を聴取した上で,同法の適

    用範囲をさらに修正し,生産調査会はこの修正案を政府に答申(「工場法案に

    対する答申書」)した。

    特別委員会が修正した主なもの(岡実のまとめによる)は次の4点であ

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 17 ─

    る(34)。

    (1)被保護職工ノ年齡ノ低減ニ關スルモノ

    諮問案中一日ノ就業時間,夜間ノ就業,休日,休憩,危險又ハ衛生上

    有害ノ業務ニ就カシメサル規定ヲ適用スヘキ少年工ノ年齡ハ十六歳未

    滿ナリシカ總テ之ヲ十五歳未滿ト修正セリ

    (2)第三條ノ就業時間延長ニ關スルモノ

    業務ノ種類ニ依リ婦女幼少者ノ十二時間ノ就業ヲ十四時間ニ延長シ得

    ルノ規定ヲ「十五年間ニ限リ」効力アルモノト爲シタルコト

    (3)第五條ノ夜業禁止年限延長ニ關スルモノ

    第五條ニ掲クル特殊業務ニ對シ「十年後」ニハ十四歳未滿ノ者及二十

    歳未滿ノ女子ノ夜業ヲ禁止スヘキ旨ノ規定ヲ修正シテ「十五年後」ノ

    禁止ニ延長セリ

    (4)第六條ノ夜業漸禁ニ關スルモノ

    職工ヲ二組以上ニ分チ交替ニ就業セシムル場合ニ於テ,法定條件ヲ遵

    奉スル以上ハ十五年間婦女幼少者ノ夜業禁止規定ノ適用ヲ猶豫スヘキ

    旨ノ案ニ對シ,此ノ條件ノ實行ト其ノ取締ハ甚タ困難ナリトノ理由ニ

    依リ,何等特殊ノ條件ヲ設ケスシテ十五年間ハ夜業ヲ禁止セスト修正

    セリ

    これを受けて,政府は生産調査会の「工場法修正案」を閣議決定し,明治

    44 年2月2日,第 27 議会に提出,3月 28 日本会議で賛成多数で可決・公

    布(法律第 46 号)した。

    成立した「工場法」に規定された深夜業の条項は次の通りである(35)。 

     

    第二條 工業主ハ十二歳未滿ノ者ヲシテ工場ニ於テ就業セシムルコトヲ得ス

    但シ本法施行ノ際十歳以上ノ者ヲ引續キ就業セシムル場合ハ此ノ限

    ニ在ラス

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 18 ─

    行政官廳ハ輕易ナル業務ニ付就業ニ關スル條件ヲ附シテ十歳以上ノ

    者ノ就業ヲ許可スルコトヲ得

    第三條 工業主ハ十五歳未滿ノ者及女子ヲシテ一日ニ付十二時間ヲ超エテ就

    業セシムルコトヲ得ス

    主務大臣ハ業務ノ種類ニ依リ本法施行後十五年間ヲ限リ前項ノ就業

    時間ヲ二時間以內延長スルコトヲ得

    就業時間ハ工場ヲ異ニスル場合ト雖前二項ノ規定ノ適用ニ付テハ之

    ヲ通算ス

    第四條 工業主ハ十五歳未滿ノ者及女子ヲシテ午後十時ヨリ午前四時ニ至ル

    間ニ於テ就業セシムルコトヲ得ス

    第五條 左ノ各號ノ一ニ該當スル場合ニ於テハ前條ノ規定ヲ適用セス但シ本

    法施行十五年後ハ十四歳未滿ノ者及二十歳未滿ノ女子ヲシテ午後十

    時ヨリ午前四時ニ至ル間ニ於テ就業セシムルコトヲ得ス

    一 一時ニ作業ヲ爲スコトヲ必要トスル特種ノ事由アル業務ニ就カシムル

    トキ

    二 夜間ノ作業ヲ必要トスル特種ノ事由アル業務ニ就カシムルトキ

    三 晝夜連續作業ヲ必要トスル特種ノ事由アル業務ニ職工ヲ二組以上ニ分

    チ交替ニ就業セシムルトキ

    前項ニ揭ケタル業務ノ種類ハ主務大臣之ヲ指定ス

    第六條 職工ヲ二組以上ニ分チ交替ニ就業セシムル場合ニ於テハ本法施行後

    十五年間第四條ノ規定ヲ適用セス

    この「工場法」公布によって,就学年齢にあたる 12 歳未満の年少労働者

    は就業禁止(第2条),15 歳未満の少年労働者および女子は1日 12 時間以上

    就業禁止(第3条),15 歳未満の少年労働者および女子は午後 10 時~午前4

    時まで就業禁止(第4条)が定められた。

    しかし,政府は,徹底して反対する紡績業者の賛同を得るため,法律施行

    後,「業種」によっては 15 年間にわたって2時間の就業延長を認める(第3

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 19 ─

    条),「業種」によっては 15 年間深夜業禁止規定の適用を猶予する(第5条)

    という特例を設けた。しかも「本法施行ノ期日ハ勅令」(36)によるものとし,

    施行期日が明記されなかったため,実際に施行されたのは制定から5年も経

    った大正5年9月1日(勅令第 193 号)であった(37)。そして施行翌日には農

    商務省令第 19 号「工場法施行規則」が公布された。

    かくして,「工場法」は大正5年に施行されたが,紡績業は 15 年の猶予期

    間が与えられたため,深夜業が完全に撤廃されるのは「該法施行ノ日タル大

    正五年九月一日ヨリ之ヲ起算スルハ昭和六年八月三十一日」という骨抜き法

    であった。かくして,「工場法」は施行されたにもかかわらず紡績業にとっ

    ては何等の影響も受けなかったのである(後に施行は昭和4年6月 30 日に変

    更)。工場法施行により学齢児童を雇用していた企業は,義務教育修了の有

    無を調査し,10 歳未満の者および学齢児童を解雇している。農商務省『大

    正 6年 工場監督年報』によると,尋常小学校を修了していない職工数は

    21,313 人,そのうち尋常小学校に通学している職工数は 19,737 人(工場内学

    校 12,621 人,公立小学校 5,609 人,その他特殊学校等 1,507 人)であった。(38)

    (3)綿糸紡績業と「改正工場法」

    「工場法」は明治 44 年に公布され,大正5年に施行されたが,綿糸紡績業

    については 15 年間の猶予が認められたため,大正5年以降も 24 時間昼夜操

    業が行われた。第一次世界大戦後には,常設的国際機関として国際連盟が,

    その付属機関として国際労働機関(ILO)が設立され,大正8年第1回国際

    労働総会がワシントンで開催された。総会では8時間労働,雇用最低年齢,

    女子労働者・年少労働者の深夜業禁止に関する条約が採択された。この条

    約の施行は大正 12 年であったが,日本の労働者代表は「施行の2年繰り上

    げ」を要求し,資本家代表(鐘紡社長武藤山治)は深夜業禁止は綿製品の価

    格騰貴や綿製品の供給不足をもたらすと「時期尚早」を主張し,政府代表も

    これに同調して「準備期間の必要」性を強く要請した。そこで国際労働総会

    は,日本には条約施行の「特例」を認め,施行は大正 14 年7月1日と決定

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 20 ─

    した(39)。

    こうした国際労働総会での深夜業2年猶予の議論や国内での労働運動の

    高揚(第7表,第8表)を背景に,さらに急進的社会主義思想の抑止を目的

    に政府は「工場法」の改正に着手した。大正 12 年3月 29 日,第 46 議会に

    「改正工場法」を提出し,原案通り可決公布した。

    「改正工場法」の深夜業規定は,次の通りである(40)。

    第四條 工業主ハ十六歳未滿ノ者及女子ヲシテ午後十時ヨリ午前五時ニ至ル

    間ニ於テ就業セシムルコトヲ得ズ但シ行政官廳ノ許可ヲ受ケタルト

    キハ午後十一時迄就業セシムルコトヲ得

    附則

    年  次 件  数 参加人数 1件平均1914 年 50 件 7,904 人 158 人15 64 7,852 12316 108 8,413 7817 398 57,309 14418 417 66,457 15919 497 63,137 12720 282 36,371 12921 246 58,225 23722 250 41,503 16123 270 36,259 13424 333 54,526 16425 293 40,742 13926 495 67,234 13627 383 46,672 12228 393 43,337 11029 571 77,281 13530 900 79,791 8931 984 63,305 6432 870 53,338 61

    第7表 労働爭議件数

    (注)楫西光速他著『日本における資本主義の発展 全』,昭和 43年,東京大学出版会,214 ,216 頁より作成。

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 21 ─

    本法中十六歳トアルハ本法施行後三年間ハ之ヲ十五歳トス

    職工ヲ二組ニ分チ交替ニ就業セシムル場合ニ於テハ本法施行後三年間ハ

    第四條ヲ適用セズ前項ノ規定ニ依リ十五歳未滿ノ者及女子ヲシテ就業セ

    シムル場合ニ於テハ每月少クトモ四回ノ休日ヲ設ケ十日ヲ超エザル期間

    每ニ其ノ就業時ヲ轉換スベシ

    しかし,同年9月関東大震災が発生し,経済が未曾有の大不況に陥ったた

    め,政府は「改正工場法」施行を延期した。そのため,第7・8回国際労働

    総会では,深夜業禁止を一向に実施しない日本に対し綿業国イギリス,イン

    ドは「さきの総会の勧告にもかかわらず,なんら改善の方向が見いだしえな

    い」と激しく非難し,もはや「国際的圧力の前には,日本政府としてもこれ

    以上深夜業禁止の実施を遷延」できにくい情況となった。

    このような情況の中,政府は「紡績業者の猛反対を押し切って」大正 15 年

    年  次 実  数 比 率(%)件  数 参加人数 件  数 参加人数大正 3 年 13(件) 2,231( 人 ) 26.0 28.3

    4 9 1,607 14.1 20.55 14 1,405 13.0 16.76 57 6,515 14.3 11.47 56 10,026 13.4 15.18 78 7,331 15.7 11.69 47 7,939 16.7 21.810 50 5,784 20.3 9.911 62 10,889 24.8 26.212 62 11,331 23.0 31.213 66 14,120 19.8 25.914 105 17,859 35.8 43.915 143 12,425 28.9 18.5

    昭和 2 年 96 14,315 25.1 30.73 83 8,748 20.9 18.94 87 17,235 15.1 22.3

    第8表 紡織業における労働争議

    (注)日本繊維協議会編『日本繊維産業史 総論編』繊維年鑑刊行会,昭和 33 年,377 頁。

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 22 ─

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    反動恐慌(大9・3)

    関東大震災(大12・9)

    金融恐慌(昭2・4)

    金解禁(昭5・1)

    金再禁止(昭6・12)総平均

    綿糸

    白木綿全巾

    大・9年 10 11 12 13 14 15 3 4 5 6昭・23 6 9 12 3 6 9 12 3 6 9 12 3 6 9 12 3 6 9 12 3 6 9 12 3 6 9 12 3 6 9 12 3 6 9 12 3 6 9 12 3 6 9 12 3 6 9 12

    第9次操短 第11次操短第10次操短

    第1図 綿糸・布卸売価格指数の推移(大正9─昭和6年)

    (注)1.明治 33 年 10 月= 1002.現代日本産業発達史研究会『現代日本産業発達史XI 繊維 上』,昭和 39 年,交社出

    版局,417 頁。

    (単位:1000 円)綿 糸 綿 布

    大正 9 年 152,394 335,26610 80,568 203,67311 114,723 221,95212 78,512 234,74813 109,611 326,58714 123,117 432,85015 70,716 416,155

    昭和 2 年 38,794 383,8373 25,895 352,2184 26,756 412,7075 15,033 272,1176 8,510 198,372

    第9表 綿糸・布輸出高(大正9-昭和6年)

    (注)現代日本産業発展史研究会『現代日本産業発展史XI 繊維 上』,昭和 39 年,交社出版局,418 頁。

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 23 ─

    6月5日勅命で「改正工場法」実施を発表し,大正 15 年7月1日より施行

    した(41)。

    綿糸紡績は「改正工場法」の施行により,16 歳未満の労働者と女子労働

    者は午後 10 時から午前5時の間深夜業は禁止となった(但し,政府の許可が

    あれば午後 11 時まで労働できる例外規定があった)。

    しかし,昼夜交替制で就業の場合は,施行3年間の適用延期=準備期間が

    認められたため,実質的に深夜業が撤廃されるのは「改正法施行ノ日タル大

    正十五年七月一日ヨリ右三年ヲ起算スル時ハ昭和四年六月三十日」(42)であ

    った。綿糸紡績業における深夜業完全撤廃は,明治 30 年の起草以来 30 余年

    を経て昭和4年7月1日ようやく実現したのである。

    かくして,綿糸紡績業における深夜業は昭和4年に完全に撤廃されたが,

    発展した紡績業にとっては,廃止による影響はそれほど受けなかった。

    その理由は,①「工場法」の施行までにかなりの年月を要し(明治 44 年公

    布,昭和4年完全撤廃実施),準備期間が充分存在したこと,②世界恐慌(昭

    和4年)以降,綿糸・綿布輸出は減少(第9表)し,綿糸・綿布相場も下落

    年 度 錘 数大正 9 年 3,813,580

    10 年 4,161,12611 年 4,517,61212 年 4,197,96613 年 4,870,23214 年 5,447,18415 年 5,679,852

    昭和 2 年 6,116,2663 年 6,467,1744 年 6,836,5165 年 7,214,0016 年 7,535,146

    第 10表 綿糸紡績の錘数

    (注)社団法人日本綿業倶楽部『昭和7年版内外綿業年鑑』昭和7年,361 頁。

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 24 ─

    (第1図)して,昭和4年当時は操業短縮(第1図)しており,深夜業の廃止

    が容易であったこと,③全綿糸紡績会社の据付錘数は大正9年 381 万錘であ

    ったが,昭和6年には 753 万錘へと拡大し(第 10 表),深夜業の撤廃による

    操業時間の減少を錘数の増加で充分補えたこと,などがあげられる(43)。

    5.紡績業の深夜業撤廃と工場内学校

    (1)深夜業撤廃と紡績労働者への影響

    「改正工場法」によって綿糸紡績業の深夜業は昭和4年7月1日以降禁止

    されたが,禁止に先立って日清紡績は同年1月 31 日,東洋紡績,日本紡績

    は2月1日,内海紡績は2月 22 日,大日本紡績,富士瓦斯紡績は3月1日,

    大阪合同紡績,錦華紡績,福島紡績,鐘紡,倉敷紡績,和泉紡績は4月1日,

    明治紡績は5月1日以降早々と深夜業を撤廃している(44)。

    また,深夜業撤廃が避けられなくなった綿糸紡績業には合理化が不可避と

    なり,積極的に機械設備の近代化・自動化をはかった。その結果,深夜業撤

    廃前後には,生産指数・労働生産指数など生産性の向上と女工1人当りの生

    産性も向上(第 11 表,第 12 表)した。他方,一連の合理化は設備当り雇用

    指数の低下(第 11 表)や在籍女工数の減少(前掲第1表)をもたらし,労働

    賃金部分の比重も低下した。

    また,深夜業撤廃前の紡績業の労働時間は,昭和2年当時で倉敷紡績の

    場合は,昼業7時~ 18 時(休憩時間 11 時 20 分~ 11 時 40 分,14 時 40 分~ 15

    時 00 分),夜業 18 時~5時(休憩時間 23 時 00 分~ 23 時 40 分,2時 10 分~2

    時 30 分)。日清紡績の場合は,昼業7時~ 18 時(休憩時間9時 15 分~9時 30

    分,11 時 30 分~ 12 時 00 分,15 時 00 分~ 15 時 15 分),夜業 18 時~5時(休

    憩時間 21 時 15 分~ 21 時 30 分,23 時 30 分~ 24 時 00 分,3時 00 分~3時 15 分)。

    大日本紡績,富士瓦斯紡績の場合も 11 時間労働で,この頃には休憩時間を

    含め 11 時間労働が一般的であった(45)。

    また,16 歳未満の紡績職工は,昭和3年で製糸,紡績,撚糸,織物,製綿,

    その他紡織業など業界全職工総数の 29.5%を占めていた(46)。

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 25 ─

    年次運転錘数(千錘)

    使用女子工 員 数(千人)

    女 子 工 員1人当り1カ月生産高(梱)

    1 万錘当り女子工員数(人)

    大正9年 3373 118 1.29 352昭和4年 5711 125 1.85 219昭和6年 5837 98 2.17 169

    第 12表 紡績女工1人当り生産高

    (注)飯島幡司著『日本紡績史』創元者,昭和 24 年,241 頁。

    年次 設備指数 生産指数 雇用指数労働生産性指数

    設備当り雇用指数

    明治 36 年 100 100 100 100 10040 112.3 124.0 108.1 114.7 96.3

    大正 元年 152.9 170.5 134.6 126.7 88.03 182.6 210.1 155.3 135.3 85.05 212.4 242.8 164.4 147.7 77.49 245.9 229.1 195.1 117.4 79.311 305.7 281.0 235.4 119.4 77.014 359.8 307.3 235.6 130.4 65.5

    昭和 2 年 372.2 319.2 230.9 138.2 62.03 373.6 309.2 209.1 147.9 55.94 445.6 352.2 216.7 162.5 48.75 454.4 318.4 188.9 168.5 41.66 454.9 323.8 165.1 196.1 36.37 486.0 354.4 172.1 205.9 35.48 519.1 390.9 175.7 222.5 33.89 578.0 437.9 191.9 227.1 33.210 631.6 449.1 207.0 217.0 32.811 646.6 455.0 204.8 222.2 31.712 691.3 500.2 225.0 222.3 32.513 635.1 321.8 205.0 156.9 32.314 625.4 328.6 182.0 180.5 29.115 543.1 260.0 154.5 168.3 28.5

    第 11表 綿糸紡績業の設備指数と労働生産性

    (注)1.明治 36 年を 100 とする。2.日本繊維協議会編『日本繊維産業史 総論編』繊維年鑑刊行会,昭和 33 年,374 頁。

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 26 ─

    これら 16 歳未満の労働者と女子労働者の労働時間は深夜業撤廃後には,

    ① 22 時まで操業の場合は,前番5時~ 13 時 30 分まで(休憩時間 30 分),後

    番 13 時 30 分~ 22 時まで(休憩時間 30 分),② 23 時まで操業の場合は,前

    番5時から 14 時まで(休憩時間 30 分),後番 14 時~ 23 時まで(休憩時間 30

    分)となり(47),労働時間は9時間(正味8時間半)へと短縮した。

    また,深夜業撤廃によって,罹病率が男工で 56.4%,女工で 23.2%減少し

    たが,特に感冒,結核,消化器疾患,循環器疾患の減少が顕著であった(48)。

    女工の平均出勤率も前番で増加している。

    しかし,深夜業撤廃後は,休憩時間の大部分が食事時間に振替られるなど

    休憩時間の短縮や,1人当たり受持錘数が 269 錘から 284 錘へと増加(増加

    率 5.6%)する(49)など同時に労働強化もみられた(第 13 表)。

    しかし,紡績女工にとって深夜業の撤廃は労働時間の短縮や罹病率の低下

    をもたらした上に,女工が自分のために使用する自由時間(余暇)も増えて,

    時間的余裕が生じたのである。

    (2)紡績工女の余暇と工場内学校

    深夜業の撤廃,労働時間の短縮は労働強化の一面も見られたが,労働の軽

    減,健康増進をもたらし,余暇時間も以前より増加した。深夜業撤廃によ

    種別製品別

    前 後

    綿 紡(1) 269.1(錘) 284.4(錘)綿 紡(2) 219.5 235.0絹 紡 225.9 236.9毛 紡 143.6 156.0麻 紡 70.8 73.9

    第 13表 紡績業女工1人当り受持錘數

    (注)1.前,後とは深夜業廃止前,後を意味する。2.綿紡(1)及(2)は兼営綿織物工場を有する紡績

    及独立綿紡工場を意味する。3.内務省社会労働部『深夜業禁止の影響調査』,

    昭和6年,70 頁。

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 27 ─

    って「前番は午後二時以降,後番は午前中始業開始迄,約7時間の餘暇が出

    来」「そのうち約二時間餘を食事入浴等に費やすとしても,純餘暇は五時間

    殘」(50)り,時間的余裕が生じ女工の生活は明治期に比べ大きく改善された。

    紡績経営者は,労務管理上寄宿舎に収容している大勢の女子労働者に生じ

    た余暇時間対策に苦慮した。そこで女工の「餘暇を善用して知識をみがき,

    福利を増進せん」(51)として①将来主婦になるのに必要な裁縫・手芸・家事

    等を中心とした花嫁教育の実施,②健康増進のための体育倶楽部の奨励,③

    趣味・慰安・娯楽施設の設置と奨励,④すでに紡績工場に併置されている補

    習学校,補習教場を基盤に,補習女学校・実科女学校を開設する,等の対策

    をとった。

    内務省社会局労働部が深夜業撤廃後に紡績工場・紡績労働者の実態を調査

    した報告書『深夜業禁止の影響調査』(昭和6年)によると,紡績経営者が

    余暇利用=労務管理対策として最も奨励した第1は,体育倶楽部であった。

    同調査によると体育倶楽部の奨励のため,体育館・体育施設を設置した紡

    績会社は全会社の 91%にも達している。女子に推奨した体育倶楽部種目は

    ダンス(ダンスは全種目中 30%を占める),体操(28%),テニス(12%)で,そ

    の他,卓球,バスケットボール,バレーボール,水泳等であった(52)。

    体育倶楽部以外に,少数の工場では花畑や農園を作り,花や農作物の栽培

    をも奨励している。

    次に多かったのは,裁縫・手芸を中心とした家庭婦人の育成・花嫁技芸教

    育に関するものであった。

    たとえば裁縫のために設置された教育施設は,裁縫女学校(全教育施設の

    6%),補習学校の分科(分校)として開設(28%),一般裁縫教育(44%),

    裁縫講習会(10%)で,「実施せず」が 12%であった。裁縫女学校は3年制,

    補習学校分科は2年制で,学校の実技指導教師には有資格の専門教師があた

    り,卒業時には修了証書が交付された。

    裁縫・手芸の他,扶茶,生け花,琴,編物,看護,染色,絞り染,作法,

    割烹等の設備も備えて教授した工場もあった。

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 28 ─

    『影響調査』には裁縫・手芸・家事教育は女工の興味をひき,その結果

    「成績の向上」が顕著で「著しい成果」がみられたと指摘している(53)。

    次に,多くの紡績工場では,尋常小学校程度の工場内補習学校が工場内に

    設置されていたが,余暇時間の増加にともなって,補習女学校,実科女学校,

    実業補習学校など,もう「一歩進んだ段階」の就学(工場内学校)が奨励さ

    れるようになった。

    紡績工場に併置された「工場内学校」は,①実科女学校,②補習女学校,

    ③女工普通補習学校,④実業補習学校などで,日清紡績西新井工場天真女学

    校のように県知事認可の正規の学校も数多く存在した(54)。その他,工場内

    で教育するのではなく,社費で公立学校に教育を委託する「委託学校」もみ

    られた。

    他方,工場内学校を設置していない紡績工場は,207 工場中 74 工場(全

    体の 36%)みられた。

    補習女学校と実業補習学校の修業年限は4年間,実科女学校は2年間で,

    1日の授業は午前・午後の部いずれも2~3時間であった。また,女工の工

    場内学校への平均的授業出席率は 50 ~ 80%で,中には 100%の学校もみら

    れた(55)。明治期の「工場内補習学校」の出席状況と比較すると深夜業撤廃

    による労働時間の短縮,余暇時間の発生がそのまま授業出席率に現れている

    ことが分かる。『影響調査』は,紡績工場に設置されている工場内学校につ

    いて 「職工が教育に関して興味を感じ,注意力の集中,学校成績の向上等に

    於て著しい結果を示している 」と指摘し,工場内学校の就学情況を「特記す

    べき効果」と高く評価している(56)。

    このように女工に対して工場内学校を開設したが,男工に対しても職工教

    育,技術教育を施す工場が多く存在し,職工養成所や養成講座・講習を開設

    し,就学を奨励している。

    職工養成所としては優秀工教育所,青年訓練所職業科が開設され,養成講

    座・講習としては能率講座,短期講習会が,上級技術者養成としては高級技

    術者研究会があった。その他,組長見廻り教育,他工場見学なども実施され

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 29 ─

    ている(57)。

    このように余暇時間を利用した体育倶楽部への参加,裁縫・手芸・家事教

    育や工場内学校への就学が盛んに奨励され,『影響調査』はいずれも大きな

    成果をあげている点を高く評価している。深夜業撤廃の頃には,紡績女工の

    義務教育修了率は約 80%(残りの 20%は中退者または未就学)に達し,明治

    期(前掲第4表)と比べ,義務教育(尋常小学校)を卒業した者が多数を占め

    (第 14 表),余暇時間を利用してさらに一段上の学校で就学しょうとする意

    欲のある者も数多くみられたのである(58)。

    6.むすび

    これまで考察した如く,明治期の工場内補習学校は,教育効果を上げた工

    場もあったが,劣悪な労働条件(昼夜二交替制,深夜業,長時間労働)のため,

    多くの紡績女工は学びたくても肉体的疲労が激しく「行きたくても行けな

    い」のが実態であった。就学意欲のある女工が進んで工場内学校へ通えるよ

    うになるには,過酷で劣悪な労働条件の改善=労働保護立法の制定が不可欠

    であった。

    労働保護立法として「工場法」が制定(公布)されたのは明治 44 年3月

    数程度

    実数 比率

    尋小中退以下 4,327(人) 19.8尋 少 卒 14,695 67.3高少中退 1,132 5.2高 少 卒 1,097 5.0女学校中退 68 0.3女学校卒業以上 49 0.2不   詳 484 2.2計 21,852 100.0

    第 14表 教育程度表(本局調査)

    (注)1.大正 13 年調査。2.内務省中央職業紹介局『紡績労働婦人調査 5 職業別労働事

    情』,昭和4年,17 頁。

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 30 ─

    であった。しかし,「工場法」に猛烈に反対する紡績資本に配慮し,深夜業

    禁止規定の適用を施行後 15 年間猶予する特例を設けたため,深夜業禁止規

    定は有名無実化した。しかも「工場法」の実施期日を定めなかったため,実

    施されたのは大正5年9月で,紡績業に深夜業禁止規定が適用されたのは

    15 年後(15 年後とは大正 20 年=昭和6年)であった。「工場法」公布にもか

    かわらず,紡績業にとって 20 数年間何ら影響を受けることなく,劣悪な労

    働条件は存続した。

    その後,日本の深夜業が国際的論議を呼び,国内でも労働運動が高揚し,

    社会主義思想(運動)の蔓延を恐れた政府は深夜業禁止の撤廃を目指して

    「工場法」を改正し,大正 12 年3月「改正工場法」を公布した。しかし,そ

    の実施は関東大震災のためにさらに延期され,「改正工場法」が施行された

    のは大正 15 年7月であった。紡績業にはさらに深夜業撤廃の準備期間をも

    うけ,3年間猶予したため,紡績業から女子労働者・年少労働者の深夜業が

    完全に撤廃されたのは昭和4年7月1日であった。

    「改正工場法」の施行は,本法の主眼であった女子労働者・年少労働者の

    深夜業撤廃,1日の就業時間の制限(労働時間の短縮)など労働条件を緩和

    するとともに罹病率の低下,余暇時間の増加をもたらした。

    「改正工場法」の施行は過酷な労働に悩まされていた綿糸紡績女子労働者

    10 数万人(前掲第1表)に余暇時間を生み,日常生活にも多少のゆとりが生

    じた。他方,紡績経営者にとって寄宿舎に収容している大勢の女子労働者に

    余暇時間が生じたことは,労務管理上大きな問題であった。

    そこで,紡績経営者が労務対策として女工に奨励したのは①健康・体力増

    進のための体育倶楽部,②将来の主婦になるのに必要な裁縫・手芸・家事の

    花嫁技芸教育,③趣味・慰安・娯楽の奨励,④実科女学校,補習女学校,女

    工普通補習学校,実業補習学校などの「工場内学校」を設置する,等であっ

    た。

    とりわけ,工場内学校は,全綿糸紡績工場の 64%が設置していた。紡績

    女工の向学心と工場内学校への就学率は,明治期の「工場内補習学校」に比

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 31 ─

    べて飛躍的に向上したのは一目瞭然であった。「改正工場法」施行後に内務

    省が行った実態調査では,これらの工場内学校は「著しい成果」を上げたと

    報告している。

    かくして「改正工場法」の施行は綿糸労働者の労働条件を緩和し,余暇時

    間を生み,1日の生活にも多少のゆとりが生まれた。このゆとりが工場内学

    校の就学率を高め,中には就学率 100%の工場もみられた。労務対策上とは

    言え事業主が種々の工場内学校を設置し,大勢の紡績女工に就学の機会を与

    えた意義は非常に大きかったと言える。

    注(1) 農商務省商工局『職工事情 上』,岩波書店,平成 10 年,25 頁。(2) 農商務省工務局『工業調査彙報第2卷第1号』,大正 13 年,70 頁。(3) 福岡地方職業紹介事務局『出稼女工に関する調査』,福岡県,昭和3年,34

    ~5頁。(4) 労務管理史料編纂会『日本労務管理年誌,第1編 上』,日本労務管理年誌

    刊行会,昭和 39 年,附表 48 頁。(5) 農商務省商工局『工場及職工ニ關スル通幣一斑』(『生活古典叢書第3卷』,

    光生館,昭和 56 年)55 ~6頁。(6) 宇野利右衛門編述『職工問題資料第1巻』,工業教育会出版,明治 45 年,

    998 頁。(7) 川嶋保良著『婦人・家庭欄こと始め』,青蛙書房,平成8年,114 頁。(8) 川嶋保良著『同上書』,113 頁。(9) 「工業之大日本 第4巻8号」明治 40 年8月,工業の日本社,76 頁。拙稿「明治後期綿糸紡績業における企業内職工養成制度」(駒沢大学経済学会『経済学論集』,第 33 巻第3・4合併号)170 頁参照。

    (10) 農商務省商工局『職工事情 上』,190 頁。(11) 大日本綿糸紡績同業連合会『紡績職工事情調査概要報告書』,明治 31 年,

    120 頁。(12) 横山源之助著『日本の下層社会』,岩波書店,平成 10 年,216 頁。(13) 産業訓練白書編集委員会『産業訓練百年史』,日本産業訓練協会,昭和 46 年,

    150 ~ 1 ,287 頁。(14) 「工業之大日本 第2巻8号」明治 38 年8月,61 頁。「工業之大日本 第4

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

    ─ 32 ─

    巻8号」明治 40 年,67 ~ 8 頁。拙稿「明治後期綿糸紡績における企業内職工養成制度」(同上書),189 頁参照。

    (15) 農商務省商工局『職工事情 下』,296 ~7頁。(16) 農商務省商工局『同上書』,363 ,452 ~ 3 頁。(17) 横山源之助著『前掲書』,205 頁。(18) 横山源之助著『同上書』,216 頁。(19) 紡績女工の感想文「工場の学校」(玉城肇著『日本教育発展史』,三一書房,

    昭和 45 年),128 頁。(20) 農商務省商工局『職工事情 下』,456 頁。(21) 日本繊維協議会編『日本繊維産業史 総論編』,繊維年鑑刊行会,昭和 33 年,

    367 頁。(22) 横山源之助著『前掲書』,189 頁。(23) 農商務省商工局『職工事情 上』,49 頁。(24) 社会政策学会編『工場法と労働問題』,同文館,明治 42年,59~ 60 ,129 頁。(25) 岡 実著『工場法論 全』,有斐閣,大正6年,3~ 13 ,35 頁。(26) 岡 実著『同上書』,3~ 11 ,35 頁。(27) 『工塲法案調査資料』,東京商業会議所,明治 36 年,1~2頁。岡 実著『同上書』,41 ~2頁。

    (28) 岡 実著『同上書』,37 頁。鐘紡支配人武藤山治は「我紡績業の如きは,何時工場法案の發布を見るも,苦痛を感ずるもの絶無なるべく,職工優待の方法等について指示する處多からんには,寧ろ速くに該法の制定を期待する」と述べている。ただし,工場法の労働時間について「餘りに急激に,從夾十二時間のものを八時間に短縮するが如きは雇主被雇者双互に取り不利益尠からざるべきにより,先ず十二時間を十一時間に短縮することを命令し,更に機を見て十時間にせば,弊害の生ずべき餘地もなく,頗る圓滿に施行せらるるなるべし」と述べ,工場法制定を容認するが,労働時間の大幅な短縮には反対している(「工業之大日本 第3巻第9号」,明治 39 年9月,19 頁)。

    (29) 社会政策学会編『工場法と労働問題』,同文館,明治 42 年,40 ~1頁。菅谷章著『日本社会政策史論』,日本評論社,昭和 63 年,41 頁。

    (30) 小林端五著『工場法と労働運動』,青木書店,昭和 43 年,266 頁。(31) 綿糸紡績連合会は「八時間労働にして夜業禁止と言ふ事にせば,紡績業で

    は,總錘數三二〇萬錘の三分ノ一即ち百萬錘は生産を減じられる。之を補ふには壹億五千萬圓の新資本を要する。又生産減少の結果は職工の賃金収入不足となり,且他方に価格の騰貴を伴ふて來る。併し夜業が衛生上有害なのは

  • 「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇(谷敷)

    ─ 33 ─

    明白な事實であるから此は往く往くは廃止せねばならぬが,今急に歐米と同じ様にすることは出來ない。それ故日本の産業状態をよく説明して,列國の委員會に諒解を求め,漸次改善して行くと言ふ方針をとる外はあるまい」と反対している(大阪商科大学経済研究所『深夜業廃止問題』,有斐閣書房,昭和 6年,38 頁)。また,下野紡績の田村正寛専務は綿糸紡績業者の多くは「古来被傭者傭主の間に一種の温情あり主従に近き関係あり,主は従を遇するに自己の子弟に於けるが如くし,従は労働の為に養を得る外に時としては一死猶之れが為めに惜しざる気魄を有す。即ち両者の間全く意気を以って相結べり。此の美風は今日猶厳存して,比較的主従関係の薄きが如く見ゆる会社工場に於ても,自然に此美風は行われあるのみならず,被傭者は金の為めに働くにあらず人の為に働くなりとの意気ありて傭主も社給の給料の外自己の懐より 時々金銭を給し又は衣食を贈る等事もありて自己を己の上役の辞職に進退を共にするに至る。故に権利義務を法定せる国とは全く其の実情を異にす」とし,工場法を制定することはかえってわが国の温情美風を破壊する事になるとして「工場法」に強く反対している(神田孝一著『日本工場法と労働保護』同文館,4~5頁)。

    (32) 岡 実著『工場法論 全』,50 ~1頁。(33) 岡 実著『同上書』,60 ~1頁。(34) 岡 実著『同上書』,76 ~7頁。(35) 内務省社会局『大正 12 年工場監督年報 第8回』,大正 14 年,357 ~ 8 頁。

    岡 実著『同上書』,81 ~2頁。   「工場法」の公布は,明治 33 年 「 治安警察法 」 による労働運動の取締り,日露戦争後頻発した労働争議の弾圧(明治 43 年大逆事件)に対する政府の労働宥和策でもあった。

    (36) 岡 実著『同上書』,88 頁。(37) 農商務省商工局工場課『大正5年工場監督年報 第1回』,大正7年,3頁。

    神田孝一著『日本工場法と労働保護』,同文館,大正8年,85 頁。(38) 農商務省商工局工場課『大正6年工場監督年報 第2回』,大正8年,71 ~

    2 頁。松沢 清著『改正工場法 就業制限論』,有斐閣,昭和2年,540 頁。(39) 現代日本産業発達史研究会『現代日本産業発達史XI 繊維 上』,交詢社

    出版局,昭和 39 年,444 ~5頁。(40) 内務省社会局『大正 12 年工場監督年報 第8回』,380 ,384 頁。大阪商科

    大学経済研究所『深夜業禁止問題』,有斐閣書房,昭和6年,69 頁。(41) 内務省社会局『大正 15 年(昭和元年)工場監督年報 第 11 回』,昭和3

    年,1頁。間 宏著『日本労務管理史研究』,ダイヤモンド社,昭和 39 年,

  • 駒沢大学経済学論集 第 35 巻第3号

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    326 ~7頁。(42) 松沢 清著『改正工場法 就業制限論』,有斐閣,昭和2年,540 頁。(43) 間 宏著『日本労務管理史研究』,327 頁。高橋亀吉著『日本近代経済発達

    史第2巻』,東洋経済新報社,昭和 48 年,336 ~7頁。日本繊維協議会編『日本繊維産業史 各論編』,36 ~7頁。

    (44) 大阪商科大学経済研究所『前掲書』,75 ~ 81 頁。(45) 内務省中央職業紹介事務局『紡績労働婦人調査5 職業別労働事情』,昭和

    4年,60 ~2頁。内務省社会局労働部『昭和 3 年工場監督年報 第 13 回』,昭和 5年,65 ~ 6 頁。11 時間労働は「大正十五年七月一日改正工場法實施セラルルヤ,保護職工ノ最長就業時間ハ原則トシテ十一時間」となり,「改正工場法實施前ニ比シ一時間ノ短縮」となったためである(内務省社会局労働部『昭和元年工場監督年報 第 11 回』,昭和3年,41 頁)。

    (46) 内務省中央職業紹介事務局『同上書』,11 ~2頁。(47) 内務省社会局労働部『昭和4年工場監督年報 第 14 回』,昭和6年,48 頁。

    「改正工場法 」では午後 10 時から午後5時までが深夜業の禁止時間とされたが,「紡績業には特例が認められ,夜間1時間の延長が可能であったから,大多数の企業ではこれを利用し,午後5時から午後 11 時までの 18 時間が操業時間」であった(間 宏著『日本労務管理史研究』,357 頁)。

    (48) 内務省社会局労働部『深夜業禁止の影響調査』,昭和6年,80 ~4頁。(49) 内務省社会局労働部『同上書』,68 頁。(50) 大阪商科大学経済研究所『深夜業禁止問題』,91 ~2頁。(51) 内務省社会局労働部『深夜業禁止の影響調査』,99 頁。   大正に入ると綿糸紡績業でも,深夜業改善,解雇問題,賃金改善など待遇改善をめぐり労働争議が頻発し,紡績経営者は一方で労働争議に強い態度でのぞみ,他方ではこの余暇時間を利用し,「労務対策」として福利厚生策を展開しており,これら一連の「余暇時間対策」もその一環として実施された。

    (52) 内務省社会局労働部『同上書』,119 ~ 22 頁。(53) 内務省社会局労働部『同上書』,112 ~5頁。(54) 産業福利協会編『工場鉱山の福利施設調査 第1教育修養施設』,昭和7

    年,9頁。(55) 内務省社会局労働部『深夜業廃止の影響調査』,109 ~ 10 頁。(56) 内務省社会局労働部『同上書』,106 ~ 11 頁。(57) 内務省社会局労働部『同上書』,111 ~2頁。(58) 内務省中央職業紹介事務局『紡績労働婦人調査5』,17 頁。