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末子相続の経済的利点
――クルグズ民族の末子相続の事例を踏まえて――
大倉 忠人
本論は、末子相続に関して、先行研究を整理したうえで、遊牧文化を根底に持つクルグズ
人に対するヒアリング調査により実態を把握し、経済的な利点を見出すものである。
末子相続とは、末子が家督を承継し、親の面倒を最後まで看る代わりに親が生前所有して
いた土地や家屋、家畜や金銭などの資産を優先的に相続する慣習である。現在でも、クルグ
ズのみならず、カザフスタンやモンゴルなどの遊牧文化を根底にもつ地域社会に加え、社会
慣習の一つとして世界各地に広く存在している。
末子相続に関する先行研究の主な論点は、①分布実態、②起源、③存在理由の三つに集約
される。まず、①末子相続の分布については、1910 年代にイギリスの民族学者であるフレ
ーザーによって実態調査が行われ、世界では長子相続が主流ではあるものの、末子相続は世
界中において広く散見されることが明らかになった。次に、②末子相続の起源については、
前述したフレーザーが牧人説を唱えたことに始まる。牧人説とは、文字通り、遊牧民族の間
で生まれたというものであり、遊牧民と流浪民との社会秩序とされている。牧人説以外には
偏愛説、平等愛説、初夜権説などがあるが、今日では牧人説が有力視されている。さらに、
③末子相続の存続理由については、モンゴルの家族制度の研究においては「遊牧的経済形態」
や「自然環境」という二点が主流である。一方、モンゴルにおける相続が結婚や独立時に発
生していることから、子どもを独立させるという親の基本的な「義務の達成」や「親族間の
軋轢回避」という観念などによるものだという研究もある。以上、先行研究を踏まえながら
も、経済的な利点の内在こそがこの慣習の存続理由であると筆者は考えており、経済的な利
点に着目した先行研究が見当たらないことから、本研究には一定の独自性と先駆性があると
考える。
JACAS WS 発表要旨
日本中央アジア学会報 第 12 号
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電話による簡易ヒアリング調査では、末子相続を単なる家督の承継や資産の相続という観
点で捉えず、クルグズ人の文化の一つとして、広義に認識されていることが確認できた。例
えば、末子が親の面倒を看たり、家を守ったりすることの重要性についてである。こうした
認識は、実際の相続の場面においても重要視されており、残された子が集まり、親や家に対
する貢献の度合いや残された子の個々の経済的状況を鑑み、協議して遺産の配分を決めると
いう点などに表れている。また、今日のクルグズにおいて、農村部と都市部との間に末子相
続の形態のかい離が進んでいるということであった。具体的には、都市部では少子化が進み
富める家においては親の生前に莫大な資産が承継されたり、晩婚化の影響で長子や次子がな
かなか実家から自立出来ず、親元でニートのような生活を送ったりしているとのことである。
なお、今日のクルグズ共和国の法制(税法や民法)において末子相続は一切規定されていな
い。つまり、末子相続は社会的慣習としてのみ存続している。
末子相続には、①相続争いの回避と規模の経済の維持、②社会的コストの抑制、③末子以
外の子の早期自立による市場への労働力の放出という三つの経済的利点があると筆者は考え
る。まず、①末子相続の慣習の下では、基本的に末子が家督を承継し、資産を優先的に相続
することが不文律となっているため、子どもや利害関係者の間で相続争いが勃発しにくい。
また、親の面倒を看た末子が親の資産を優先的に相続することにより、資産が散逸しにくく、
規模の経済を維持することができるという利点である。次に、②末子相続の慣習の下では、
基本的に末子が最後まで継続的に親を扶養することができるため、養介護などの社会的コス
トが抑えられ、親の効用も高いという利点である。今後は先進諸国と同じように社会保障費
の増大が見込まれるため、末子相続の慣習を積極的に推し進めることにより親の養介護を家
庭内で留め外部化しないことがクルグズの国家財政を考える際に得策ではないかと考える。
さらに、③末子以外の子が早期に家を出て自立するという末子相続の慣習は、クルグズの労
働力を早期に社会に放出することになるという利点である。近年労働力の大半はロシアやカ
ザフスタンなどへの出稼ぎへと向かっている。また、長子相続と違って、親が経済力や生活
力を失った際に長子が家に戻る必要がないため、長子の経済力の一時的な低下は基本的に起
こりえないという利点もある。
なお、本報告に際して当日フロアからは、①家督の承継はいつどのように行われるのか、
②前近代から現代において何が遺産として相続されてきたのか、③家族構成などの違いを踏
まえて末子相続のパターンをモデル化した方がよいのではないか、といった有意義な視点を
頂戴した。今後このような視点を盛り込みつつ、本論で積み残したクルグズにおける研究動
向を把握に加えて、世代並びに居住地域、経済状況の観点において幅を持たせたヒアリング
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やアンケートを実施することにより調査の有意性を高め、本論の論拠を一層強化していきた
い。
以上、独立して自らの家庭を持つことが一人前と認められるクルグズ社会においては、家
を出て自立し、家庭を持ち、いずれは親のいる家を側面から支援することは今日における人
生の成功モデルの主流となっている。こうした思想を支えてきたものの一つに末子相続があ
ると考えてよいであろう。しかし、少子化やグローバル化が進む昨今、これまでのライフス
タイルが変容しつつあり、末子相続という慣習を支える基盤自体が揺らぎつつあることも確
かである。今後末子相続の経済的利点をキルギス社会や経済の活性化に活かしていくために
は、将来の社会変容を視野に入れたうえで、末子相続自体の変容を許容しながら、活用の方
法を模索する努力が必要となろう。その際、本論が一つの視座を提供することができればと
考えている。
※ 本論は報告の発表者が所属する組織を代表する意見ではありません
(キヤノン株式会社)
大 倉[発表要旨]