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-1- スマイル会平成 28 2 25 日 例会報告 青木満男 H27/8 月に「日本の一番ながい日」のリメーク版映画を見、今まで漠然と頭の 中にあった当時の状況を時系列で整理してみました。 昭和天皇とポツダム宣言受諾・終戦への動き S20/ 2 月 天皇が重臣層(元首相等)から戦局につき意見聴取 近衛のみ「遺憾ながら敗戦は最早必死なり。直ちに戦争の終結に踏み切るべ き」 他は「有利な時機をとらえて終戦」 天皇「もう一度戦果を挙げてからでないと難しい」 S20/ 4 ソ連中立条約の延長拒否の連絡(期限 S21/4 月) (スターリンは S20/2 月のヤルタ会談で独降伏 3 か月後の参戦約束) S20/ 4 小磯首相辞任 鈴木内閣成立(79 歳) 5 8 日 ドイツ無条件降伏 天皇は S20/ 5 までは、陸軍のいう「本土決戦で米に打撃を与え、それにより 有利な条件で講和に持って行く」を支持していた。 6 東久邇宮盛厚王からの具体的報告に驚く{盛厚王は S19~ 36 軍情報 参謀・陸軍少佐(36 軍は 19/ 7 月に本土決戦兵団として編成)} 同時期に侍従武官からも、現地戦力出張調査の報告を受ける。 長谷川大将(海軍戦力査閲使)から海軍基地の調査報告を受ける 天皇「決戦師団さえ武器が満足にない。諸種の情報で戦争継続は不可能と 確信した」・・昭和天皇独白録(寺崎英成 記録) (本土決戦に備え関東地方に配備された第 12 方面軍の新設部隊の小銃充足率 S20/6 月時点で 40%・・・ 戦後の防衛庁調査) 6 18 最高戦争指導会議( 鈴木首相、米内海将 東郷外相 阿南陸相 豊田軍令部総長 梅津参謀総長の6人) より、「我が方に有利な仲介をなさしめるため日ソ間の協議を開始する」 との報告が天皇へ 6 月 広田元首相―マリク駐日大使と会談を始めるも進展せず 6 22 日 最高戦争指導会議で天皇より「すみやかに終戦工作に入り、その実 現に努力するよう希望する」 23 日沖縄戦終了 23 日に戦時緊急措置法公布(男 1560 歳女 1740 歳を本土決戦に備え動

昭和天皇とポツダム宣言受諾・終戦への動き · 2016-03-03 · その後に東郷外相が参内「回答を受け入れて差し支えない」と内容を上奏

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Page 1: 昭和天皇とポツダム宣言受諾・終戦への動き · 2016-03-03 · その後に東郷外相が参内「回答を受け入れて差し支えない」と内容を上奏

-1- スマイル会平成 28 年 2 月 25 日 例会報告

青木満男 H27/8 月に「日本の一番ながい日」のリメーク版映画を見、今まで漠然と頭の 中にあった当時の状況を時系列で整理してみました。

昭和天皇とポツダム宣言受諾・終戦への動き

S20/ 2 月 天皇が重臣層(元首相等)から戦局につき意見聴取 近衛のみ「遺憾ながら敗戦は最早必死なり。直ちに戦争の終結に踏み切るべ

き」 他は「有利な時機をとらえて終戦」 天皇「もう一度戦果を挙げてからでないと難しい」 S20/ 4 ソ連中立条約の延長拒否の連絡(期限 S21/4 月) (スターリンは S20/2 月のヤルタ会談で独降伏 3 か月後の参戦約束) S20/ 4 小磯首相辞任 鈴木内閣成立(79 歳) 5 月 8 日 ドイツ無条件降伏 天皇は S20/ 5 までは、陸軍のいう「本土決戦で米に打撃を与え、それにより 有利な条件で講和に持って行く」を支持していた。

6 月 東久邇宮盛厚王からの具体的報告に驚く{盛厚王は S19~ 第 36 軍情報

参謀・陸軍少佐(36 軍は 19/ 7 月に本土決戦兵団として編成)} 同時期に侍従武官からも、現地戦力出張調査の報告を受ける。 長谷川大将(海軍戦力査閲使)から海軍基地の調査報告を受ける

天皇「決戦師団さえ武器が満足にない。諸種の情報で戦争継続は不可能と 確信した」・・昭和天皇独白録(寺崎英成 記録) (本土決戦に備え関東地方に配備された第 12 方面軍の新設部隊の小銃充足率

は S20/6 月時点で 40%・・・ 戦後の防衛庁調査) 6 月 18 日 最高戦争指導会議( 鈴木首相、米内海将 東郷外相 阿南陸相 豊田軍令部総長 梅津参謀総長の6人) より、「我が方に有利な仲介をなさしめるため日ソ間の協議を開始する」 との報告が天皇へ 6 月 広田元首相―マリク駐日大使と会談を始めるも進展せず 6 月 22 日 最高戦争指導会議で天皇より「すみやかに終戦工作に入り、その実

現に努力するよう希望する」 23 日沖縄戦終了 23 日に戦時緊急措置法公布(男 15~60 歳女 17~40 歳を本土決戦に備え動

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-2- 員できるもの)

7 月 元首相近衛は訪ソの準備をしたがソ連からの受入回答はなし(スターリ

ン、モロトフ外相は 14 日ポツダムへ) 7 月 16 日 原爆実験成功 22 日,米英首脳会談(トルーマン、チャーチルとも

原爆完成によりソ連参戦は不要となったが、あえて阻止はしない) バーンズ米国務長官(日本がソ連参戦前に降伏することを祈った)

7 月 25 日 トルーマン原爆投下命令にサイン 7 月 27 日 ポツダム宣言 受信 天皇「戦争をやめる見通しがついたね」 政府:S18/12 のカイロ宣言と同じであり、ソ連に和平仲介を依頼してい

る段階なので・・重要視せず黙殺することで指導者間で一致(28 日夕方) 日本の同盟通信社が イグノア と訳して世界へ発信 29 日朝 米の AP が リジェクト と報道 政府→佐藤駐ソ大使に仲介プッシュの指示するもソ連に相手にされず カイロ宣言(S18/12 月 ルーズベルト、チャーチル、蒋介石会談)

公文書はない。無条件降伏を求める。 日本は満州、台湾、澎湖諸島を中国に返還、朝鮮は独立する。 日本の領土は、本州、四国、九州、北海道及び我等の決定する諸小島に 限定される (樺太?) 8 月 6 日 午前 8:15 分広島に原爆 8 月 9 日 午前1時ソ連参戦(スターリンは 15 日以降であった予定を早めた) 午前 10 時 18 分長崎に原爆 同時刻に最高戦争指導会議開催中 ポツダム宣言の諾否を議論

鈴木、米内、東郷:国体護持(天皇制)を留保条件として受諾 阿南、梅津、豊田:国体護持のほか 1.保障占領は小範囲、短期間 2.武装解除と戦犯処置は日本がやる (国体護持以外の条件を出して決裂した場合) 米内:勝つ自信はあるのか

阿南:死中活を求める戦法に出れば、戦局は好転し得る

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-3- 米内:物心両面より見て勝ち目はない。戦争は完全に敗北している

最高戦争指導会議では結論でず、決定は閣議に持ち越されたがまとまらず。 8 月 10 日午前 2:20 分 天皇「速やかに戦争を終結させたい。これ以上戦争を続

けることは我が民族を滅亡させることになる」 陸軍は国体護持の保証がないとして外務省に米の意向を聞くよう強硬に求め

た。国体護持のみを条件に受諾を決定。 (最高戦争指導会議及び閣議出席者でポツダム宣言が無条件降伏の最後通牒

であることを理解した者は一人もいなかった) 阿南大臣午前 9 時 30 分閣議から帰り、聖断を説明「勝手な行動はするな」

と命令。 外務省は同日朝スエーデン公使館に 条件付き受諾の電報。英、ソ連にスエー

デン経由通告を指示。 米担当はスイス公使館。 条件:国家統治の大権に変更を加うるが如き要求は、包含しないものと了解し て受諾する スエーデン外務大臣(国際法学者):? 岡本公使:日本は天皇中心の国だから、これだけは動かせない との表現と

思う

8 月 10 日 首相官邸で重臣会議(首相、議長経験者で構成。東條出席) 東條の手記「新爆弾やソ連の参戦に腰を抜かし、屈辱和平、降伏を言い出

す者がいるのは情けない。戦は最後の一瞬に決するのが常則だ、持てる力

を十二分に発揮することなく敵の前に屈するとは情けない」 8 月 11 日 モロトフ→米へ 「日本の回答は無条件降伏受諾ではないから

満州での進撃は止めない」。12 日ソ連軍南樺太へ侵攻。 8 月 11 日 日本への対応につき米政府内で協議。バーンズ国務長官は条件

をつけるのは米国で日本ではないと主張。トルーマンよりバーンズに回

答を作るよう指示。 8 月 12 日 午前0時米より回答(サンフランシスコ放送) 国体護持については「日本国の最後の政治形態は国民の自由に表現された意 思によるものとする」

午後4時からの閣議:結論出ず 正式回答の公電午後 6 時到着。日本側の出した条件を直接認めてはいない

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-4- が、日本側には希望を残す文章(バーンズ国務長官作成)

米の意向は、5 月 18 日にグルー(国務次官)とトルーマンが会談、グルー の力もあった模様。

その後に東郷外相が参内「回答を受け入れて差し支えない」と内容を上奏 天皇→東郷に 「既定方針どおり進め」

12 日 皇族会議開催 天皇の方針を支持、短時間で終了

8 月 13 日 最高戦争指導会議、閣議が開かれ延々と続いたが進展はなし。 6人の佐官がクーデターを阿南に説明 大臣認めず(6 人は畑中少佐等)

8 月 14 日 天皇が御前会議を招集 10 時 30 分~12 時 (最高戦争指導会議構

成員 閣僚 平沼枢密院議長) 鈴木首相より今までの会議の意見不一致を述べ聖断を願った。 天皇「反対の意見もあるが、私の考えは 10 日に申したことと変りは無い。

これ以上戦争を継続するのは無理である。自分は如何になろうとも 万民の命を助けたい。」

「受諾やむなし」と決定。 (天皇:私はこの席で最後の引導を渡した。) 阿南「国体護持が明確でない」 天皇「余には国体護持の確信が有る。敵は認めると思う」 確信とはどこから来たか?天皇は米の日本向け短波放送を聞いていた ので、そこからと推理(寺崎英成御用係り日記) なお、この会議に先立ち陸海軍から木戸内務大臣に元帥に会って欲しいと希望 あり、3 人(永野、杉山、畑)にあったが、3 人とも戦争継続を主張。畑俊六 は小磯首相辞任(45/4)の際東條が後任に推した

午後 1 時からの閣議でポツダム宣言受諾と戦争終結を決定。閣僚全員が署名。 内閣情報室より日本放送協会会長へ天皇放送の準備指示 午後 8 時 30 分終戦の詔書出来上がり 午後 12 時頃録音出来上がり 午後 11 時にスイス公使館に宣言受諾を各国に連絡するよう電報。 同時刻頃在外公館に「居留民は出来得る限り現地定着の方針を執る」との 暗号電報発信。

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-5- 阿南、梅津は午後陸軍省にてクーデターは認めないと通達

8 月 15 日 阿南大臣午前5時割腹自殺 8 月 15 日 反乱軍が森近衛師団長、同室の白石中佐を殺害。(畑中少佐、

窪田少佐、上原大尉が) 午前2時に皇居へ。 録音盤発見できず。一説によれば、徳川侍従が保管部屋に 「女官寝室(湯殿の説もある)」の札を掛けたためと伝えられている。 3:30 分反乱軍(畑中少佐)NHK へ。その予定放送の中止と、自分達の主張の放

送を要求 館野「今警戒警報発令中で、その間は東部軍管区の許可がないと放送はできない」

と説明 午前8時東部軍管区 高島参謀長が電話で畑中少佐を説得。退去。 なお、反乱に加わった将校達は、敗戦により軍事裁判、刑事責任を問われず 反乱に加わり首相邸等を焼きうちした学生(横浜工専等)7人は裁判で 1 年半

の刑。 12 時玉音放送 高松宮(海軍大佐)→海軍省軍務局高田少将に「詔書の中に

天皇が国民に詫びる言葉はないね」 以上記した状況、経過についての私見 1.終戦まぎわの閣僚等幹部の議論、発言は「国体(天皇制)護持」のみで国民

の事が全く頭に無い。 2. ソ連に和平の仲介を依頼。それによりポツダム宣言への対応を誤る。 あまりにソ連及びその状況を知らなすぎた。 3 軍部は本土決戦で相手に打撃を与え、有利な条件で終戦にと主張していたが、 彼我の実力差を知らさすぎた。 4 「絶対国防圏」を設けたが、それが破られた時に終戦への舵をきるべきだっ

た。 18 年 9 月の御前会議:米軍の反攻で苦戦続きの状況から戦線の整理、縮

小が必要として 絶対確保すべき要域「絶対国防圏」を設定。 (19 年 7 月サイパン 8 月グアム陥落 この時点で終戦に向かうべきだ

った) 参考 1.「昭和天皇独白録」(正式の表題ではない)

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-6- 寺崎英成(宮内省御用掛)の遺族のもとに残っていた。文芸春秋 90/12 月号

に出た。 これは内容を抜粋、加工されたもので、正本は木下侍従次長が作

成。表の2枚しか残ってない。 寺崎は米人と結婚(子供 マリコ)

天皇の戦犯対策として、天皇が如何に平和主義者であったかを示すための資

料作り。 S21/3 月~4 月にかけて、5人の側近に戦争での実状を天皇に語ってもらっ

たもの (S21 年春の米世論調査 天皇を処刑が 33% 裁判にかける 17% 終身禁固 11%)

2.「昭和天皇実録」侍従日誌等をもとに宮内庁作成 全 21 巻のうち 2 巻の

み 2015 年に発刊 作成の基本方針は、昭和天皇の生涯が「平和主義と国際協調を目指したもの」 であったことを基本としていると見られる。

参考資料 大日本帝国最後の四カ月 迫水久常 1973 昭和天皇とその時代 升味準之輔 1998 あの戦争と日本人 半藤一利 2011 「昭和天皇実録」に見る開戦と終戦 〃 2015 昭和史の焦点 保坂正康 2006 昭和史の深層 〃 2010 昭和天皇の終戦史 吉田 裕 1992 無条件降伏(大日本帝国のさいご)平塚柾緒 2006 トルーマン回顧録

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