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Instructions for use Title 「思慮ある人」をめぐる認知的卓越性の関連 : アリストテレス『ニコマコス倫理学』における理想の人間像 を探る Author(s) 土谷, 志帆 Citation 哲学, 45, 1-19 Issue Date 2009-03-21 Doc URL http://hdl.handle.net/2115/39630 Type bulletin (article) File Information APS_001.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

「思慮ある人」をめぐる認知的卓越性の関連 : アリストテレ …...北海道大学哲学会『哲学.i45号(2009年2月) 「思麗ある人」 をめぐる認知的卓越牲の関連

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Instructions for use

Title 「思慮ある人」をめぐる認知的卓越性の関連 : アリストテレス『ニコマコス倫理学』における理想の人間像を探る

Author(s) 土谷, 志帆

Citation 哲学, 45, 1-19

Issue Date 2009-03-21

Doc URL http://hdl.handle.net/2115/39630

Type bulletin (article)

File Information APS_001.pdf

Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

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北海道大学哲学会『哲学.i45号 (2009年2月)

「思麗ある人」

をめぐる認知的卓越牲の関連

iltアリストテレス「ニコマコス論理学』における理醐抑制の人関像を探る

i腕

1.理想の人間像、「思慮ある人」

「あらゆる技術、あらゆる研究、同様にあらゆる行為も、選択も、すべてみな何らかの養を目指していると思われ

る」(口定己)とアリストテレスは一一言う。すなわち、技術を開発し研究を進め、選択し行為するものである人間は、

善を目指すものとして捉えられる。

i

行為する際、人は算段して最善の状態を選択しようと努める。的確に素早く状況を判断し、最善の結論を導き出し

てそれを行為する人、すなわち行為者として人を捉えた場合の理想の人間像が「思慮ある人」である。

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』

6巻で思患および思慮ある人について論じ、いくつかの認知的卓越性(お

よびその卓越性を備えた人)との比較を通じて、思慮ある人の特徴を分析している。その中でも思患を詳説する

5章

と、思慮の議論のまとめに当たる日章を取り上げ、理想の人間像としての思慮ある人を明らかにしたい。

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2.「思慮ある人」の特徴

アリストテレスは

6巻

5章で、思慮と思慮ある人の関係、思慮と熟慮の関係、思慮が対象とするものとしないもの

の関係を頗に論じ、思慮の特徴を分析する。

また、思慮に関してはこのように把握できるであろう、すなわち我々が誰を思慮ある人と呼ぶかを理論的に考

察しきることで。さて思慮ある人については、自分にとってよいものと利益になるものに関して適切に熟慮する

ことができると考えられている。適切な熟慮は、たとえば健康や体力増進のためにはどのようなことがふさわし

いかというように、部分的にではなく、

よく生きるにはどのようなことがふさわしいかというように、全体的に

なされる。その証拠に、我々があることについて恩恵ある人々と呼ぶのは、その人々が技術の関わらない領域に

フ勾

おいて、あるすぐれた終局を目指してよく算段する場合だからである。

ゆえに全体的な仕方でも、熟慮する人が

思慮ある人であろう。

他の仕方でありえないものについては誰も熟慮しないし、また自ら行為できないものについてもそうである。

したがって、かりにも知識は論証を伴い、諸原理が他の仕方でありうるもの、このようなものについて論証はな

いのであるから(このようなものはすべて他の仕方でありうるのでてまた必然的にあるものについては熟慮す

ることはないのであるから、思慮は知識でも技術でもないであろう。知識ではないのは、行為されることは他の

仕方でありうるからであって、技術ではないのは、行為の類と制作の類は別だからである。

そこで残されているのは、恩恵は人間における善悪についての行為に関わる、ロゴ(ねを伴、つ真なる状態である

ということである。制作の終局は制作と異なるが、行為の終局は行為とは異ならないであろう。よい行為自身が

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終局であるからである。それゆえ、我々はベリクレスやベリクレスのような人を思鷹ある人であると思っている。

つまり、彼らは彼ら自身にとっての善、また人間にとっての善を理論的に考察できるからである。また、家政に

精通した人や政治家もこのような人であると我々は想定している

(HHAF()向一区山一区。ずHH)

ここでまず「思慮ある人」は自分にとってよいことを適切に、全体的に熟慮する人として捉えられている。では、

熟慮する人とはどのような人であろうか。

熟慮は

6巻1意および

2章で、他の仕方でありうるものを対象とする魂のロゴスを持つ部分の働きとされる。この

部分は算段的部分と呼ばれ、行為に関わる思考を司る。アリストテレスはここ

5章でも熟患が対象とするのは他の仕

方でありうるもの、すなわち行為しうるものであることを確認している。したがって、「熟憲する人」である思麗あ

る人も知識ではなく行為を対象とする。また、「制作の類と行為の類は異なる」ので、制作は思慮ある人の対象では

今、JV

ない。ただし、制作は行為なしにありえないと考えられるためであろう、

アリストテレスは制作と行為の違いを繰り

返し確認する。

2章でも「制作する人は皆、何かのために制作し、制作されるものは端的には終局ではなく(そうで

はなく、何かとの関係において、また何かのためにある)、他方、行為において為されることは端的に終局だからで

ある」

(HHω

宰ゲω)

と述べ、この笛所でも「制作の終局は制作と異なるが、行為の終局は行為とは異ならないであろ

う。よい行為自身が終局であるからである」と補足する。

行為と制作の違いを鈷の摂取と飴の制作を例に考えてみよう。まず、制作されるものである飴は「飴を作る」とい

う制作の過程の結果であるが、人によって祇められることでその人に何らかの利益(栄養補給、休息時間の目安など)

を与えるために存在する。すなわち飴は「何かのため」にあり、端的な終局ではない。飴の甘さや大きさを決める制

作に関わる思考は、飴の摂取が何のためであるかを思考した上で進められる。したがって、飴の制作に関わる思考は

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飴の摂取という行為に関わる思考に従属しており、この点から行為と制作は従属関係にある別のものと言える。

さらに、「よい行為自身が終局である」(口ちミ)ことから、適切な行為は終局として認められると考えられる。

たとえば栄養補給を目的として飴を祇める場合には、飴を祇める行為が目的の達成であり、その行為は終局である。

しかし問じ行為も体重を減らすことが目的であれば、目的が達成されないので終局として認められないだろう。すな

わち行為は、自分にとっての善である目的にかなっている場合には端的に終局である。

これらの観点を踏まえて、アリストテレスは、思慮とは「人間における善悪についての行為に関わる、ロゴスを伴

う真なる状態」であると述べる。思慮ある人は「適切に」「熟憲する」人であるから、思慮は熟慮の対象である行為

についてあり、その行為が端的に終局かどうか、すなわち人間にとっての善悪に関わる。そして思慮が「ロゴスを伴

う真なる状態」であるとは、思慮がロゴスすなわち算段過程およびそれによって得られる一言明を伴う状態であり、ま

たその一一一一口明が、終局である目的にかなったよい行為を導くものであることを表していると考えられる。したがって思

-4-

慮とは、人間にとっての善を果たすべく算段的部分が働き、その結果として得られた一言明に基づいて忠虚の備わるそ

の人に目的にかなったよい行為をとらせる状態であると言えるだろう。

これに続く箆所では、思慮および思慮を保持する人の特徴がさらに論じられている。

この点から、また、我々が健全性(ソ

iプロシユネl)をその名で呼ぶのも、思慮(プロネ

iシス)を保全す

(ソlゼイン)ものとしてである。健全性は行為されることについての判断を保全する。快苦は、三角形が二

直角を持っか持たないかという判断がそうであるように、すべての判断を損ねたりねじ曲げたりはしないが、行

為されることについての判断を損ねたりねじ曲げたりするからである。行為されることの諸原理は行為がそのた

めであるところのものである。快楽や苦痛によって損なわれた人には、直ちには原理が露わに見えず、またこの

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原理のために、そしてこの原理のゆえに、すべてを選んで行為しなければならないことも露わに見えない。悪は

原理を損なうものであるから。ゆえに、必然的に、思慮とは、人間の行為に関わる普についての、

ロゴスを伴う

真なる状態である。

しかし、実に、技術に必要とされる卓越性はあるが、思慮にはない。さらに技術においては故意に誤る人はよ

り望ましいが、思慮については、諸々の卓越性についての場合と同様に、より望ましくない。したがって、思慮

が何らかの卓越性であって技術ではないことは明らかである。

魂のロゴスを持つ部分はふたつあり、思慮はその一方、ドクサ的部分における卓越性であろう。ドクサは他の

仕方でありうるものに関わり、思慮もまたそうであるから。しかし、

ロゴスを伴う状態というだけではない。そ

のような状態については忘却があるが、

思慮にはないことがその証拠である

(HH品。ぴ]己目ω。)0

-5一

この館所の文脈を整理すると、思慮の特徴として、卓越性であることと忘却がないことが挙げられている。また思

慮を保全する人の特徴としては、「行為されることについての原理が露わに見える」が挙げられる。

これまでの議論から、思慮ある人は行為されることを対象として全体的な善を目指して算段し、それを行為する人

である。すなわち、思慮ある人に備わる状態にそくせば目的にかなった終局として行為を導くことに成功するという

ことであろう。このような、その状態にそくした活動が成功する状態を卓越性と呼ぴ、したがってこの観点からも思

慮は卓越性である。また「忘却がない」という特徴から、思慮とは身についた状態であることが言える。

さらに鍵となるのは、思慮を保全する人に「原理が露わに見える」という特徴である。ここでは快苦によって損な

われている人の側に立って思慮ある人が特徴づけられる。快苦によって損なわれている人には、行為がそのためであ

るところの「行為されることの諸原理」、すなわち終昂として認められる行為を考えた場合に目的にあたるものが露

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わに見えないのであろう。さて原理を捉えるものとして、

6章で知性が挙げられる。

もし他の仕方でありえないもの、および他の仕方でありうるものについて、それによって我々が真理を証し決

して誤らないようにするものが、知識、思慮、知恵、知性であり、そのうちの三つはいずれも原理についてはあ

りえないとすれば、(わたしが三つというのは思慮、知識、知恵である)知性が原理についてあることが残され

ている

(]=hFHωωa∞)

0

ここから、原理が露わに見える「思慮を保全する人」においては知性が働いていると考えられる。そして原理が露

わに見えない理由として、人が快苦によって損なわれていて知性が働いていない可能性が考えられる。ただし、

5章

ではアリストテレスはその理由を「悪は原理を損なうものであるから」と述べるにとどまる。

5章はあくまで思慮の

6

議論であり知性に言及する段階ではなく、したがって原理が露わに見えない直接の理由である、悪による原理の損壊

のみに言及したと思われる。

あらためて、「快によって損なわれる」とは、快楽に因われることで本来のその人の活動が為されていない状態で

あろう。行為においてそれは行為に関わるあらゆる活動が適切に行われないこと、すなわち算段的部分や知性が働か

ないことを示唆している。ここで「原理が露わに見えない」という特徴が挙げられることも、その人の行為に関わる

知性が働いていないことを灰めかす。また、ある特定の快によって損なわれた人のその快は、その人を損なっている

点において、悪である。したがって、その人の活動を損なう快が原理自体を損壊している可能性、たとえばその人が

快こそが幸福であると原理をねじ曲げているケ!スなどが考えられる。

以上より、「原理が露わに見える」という観点は、思慮ある人が自身を損なう快苦を持たないことのみならず、知

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性が働いていることを示唆すると思われる。また知性と思慮の原理への関わり方も窺える。快苦によって損なわれた

人には、

(a)「直ちには原理が露わに見えず」、そして

(b)「この原理のために、そしてこの原理のゆえに、すべて

を選んで行為しなければならないことも露わに見えない」。端的に「原理についてある」と言われうる唯一のものは

知性であるから

(HEUV∞)、知性が働いていないことが

(a)を引き起こす。そして、行為における原理は、「行

為がそのためであるところの」原理であるから、これが露わに見えない

(a) の事態が生起した場合には、算段の指

針が見えず、熟慮が基づくべき原理に基づいて行われない。すなわち、

(a)ゆえに

(b)が生じ、その人は算段的

部分の卓越性を備えた「思慮ある人」

ではありえないことになる。したがって、思慮ある人には原理が露わに見えて

いるが、それは思慮ある人において知性が働いているからであって、思慮は、端的には原理についてではなく原理に

基づいて導かれる算段についてあると考えられる。

以上の議論から、思慮とは、行為が終局であるべく、すなわち人間にとって善である白的にかなったものであるべ

く、算段的部分が働き、知性が原理を捉えられる状態であり、またその状態を保全する人が「思慮ある人」である。

-7-

3

「思慮ある人」をめぐる認知的卓越性

以上の思慮および思慮ある人の特徴をふまえて、恩恵の議論のまとめである

6巻口章から、思慮と認知的な諸卓越

性の関連を明らかにしたい。

アリストテレスは議論の突破江として冒頭で公正さを分析する。

ところで、見識と呼ばれるものは、我々がそれにそくして察しがよいと言い、また見識を持っていると一言うと

ころのものであるが、これは公正な人の正しい判別である。これを一不さねばならないが、これは、我々がとりわ

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け公正な人のことを察しがよいと

ぃ、またいくつかの事柄に関して察しがよいことが公正であるとも一一一一口うから

である。そして察しがよいとは、公正な人が正しく判別した見識である。また正しく判別したとは、真一なるもの

の見識のことである

(]{]広

ω白HmvgNAF)

見識を持つことと察しがよいこと、公正であることは、同じ人に属すると述べられている。見識は「公正な人の正

しい判別」

であり、察しがよいことは「公正な人が正しく判別した見識」を持つことであるから、公正な人は察しが

よく、また見識を持っている。次の段落で、この箇所が実は「思慮ある人」を特殻づける議論の入り口であることが

わかる。すなわち、公正であることを手がかりに、諸卓越性がいずれも思慮ある人に属すると論じられるのである。

さて、これらすべての状態は、道理を持った仕方で、同一の方へ向かうものである。なぜなら我々は見識、理

8

解、思慮、知性を同じ人々に帰し、その人々は見識を持ち、また現に知性を持っており、思慮ある人でありかっ

理解する人であると一一言うからである。これは、これらすべての能力が最終のものについてあり、また個別につい

てあるからである。また、思慮ある人がそれについてあるところのものに関して判別しうる人であることにおい

て、その人は理解する人であり、またよい見識を持ち、察しがよいのである。これは、他者との関係において、

公正であることがおよそすべての善なる人々に共通であるからである。他方、すべて行為されることは個別につ

いて、また最終のものについてある。これは、思慮ある人がこれらを認識せねばならず、理解と見識が行為され

ることについてあり、行為されることとは最終のものであるからである。また、知性は両方の最終のものについ

てある。なぜなら第一の諸項と最終のものについてあるのは知性であって言明ではないからであり、知性は論証

においては不動かつ第一の項に、また行為されることにおいては最終のもの、他の仕方でありうるもの、さらに

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小前提についてあるからである。これらが、「何かのため」の原理であるから。これは、個別のものから普遍の

ものが導かれるからである。それゆえ、これらの感覚を持たなければならない。これが知性なのである

(HHAFω印

ωmgHH品ωず印)

0

この段落では、見識、理解、思慮、知性は同じ人々に帰されること、またその理由は「これらすべての能力は最終

のものについてあり、また偲別についてある」こと、および「他者との関係において、公正であることがおよそすベ

ての蓄なる人々に共通である」ゆえに「思慮ある人がそれについてあるところのものに関して判別しうる人であるこ

とにおいて、その人は理解する人であり、またよい見識を持ち、察しがよい」ことであると述べられ、さらにその理

由が説明されている。

引用の後半(「他方、すべて行為されることは」

(HHAFω

忠N)

以下)が前者の理自の説明なので、先に後者を考える。

9

思慮ある人は善である終局を呂指してそれを行為でき、その点で善なる人と形容されうる。「他者との関係において

公正であること」が「善なる人々に共通である」ので、思慮ある人は地者との関係においては「公正な人」であり、

したがって見識を持つと言える。また、印章で理解は「思慮におけるものについて」あり、「たんに判別しうるもの」

であるとされていることから、思慮ある人の特別は理解であると考えられる。したがって、思慮ある人は患慮の対象

について判別しうる点では理解する人である。以上より思慮、理解、見識のすべてを間じ人に帰することができる。

ただし、理解と思慮が異なるように、思慮と見識も同じ状態ではない。公正な人は思慮ある人と対象の範囲の違いに

よって区別される。他者との関係が最も重んじられるのではない行為においては、思慮ある人を公正な人として扱う

のは適切ではない。

それでは、引用の後半から前者の理由を検証する。この理由は諸卓越性の対象が同じであるゆえにどれも同一の方

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へ向かうという観点から述べられている。まず、これらの卓越性がすべて「最終のもの」あるいは「個別」について

あるという叙述を確認しよう。思慮ある人は正しいロゴスに基づく行為をとるので、行為においてロゴスが表すもの、

すなわち算段の諸前提および結論の一言明を認識している。したがって思慮ある人は結論である一言明が表す、行為され

ることについてあると言える。(たとえば結論の言明「これを飲む」が表すのは、これを飲むことすなわち「行為さ

であるo)

また、理解は行為において算段的部分の対象を対象とする。見識は他者との関係における思麗

れること」

ある人の判別であろうから、行為における対象は理解と同じである。以上より、思慮、理解、見識はいずれも行為さ

れることについてある。そして、行為されることは行為を過程として捉えれば最終のものである。また、「弱いもの

を助けるべきである」という普遍の言明ではなく「この人を助ける」という個別の言明が行為されることを表してい

るように、行為されることは個別についてある。したがって思慮、見識、理解は「最終のもの」そして「個別」につ

いである。

10

また行為における知性に関し、

5章で思慮ある人には原理が露わに見えていること

HHAFOずHHBωC)

、6章で知性が

原理についてあることが述べられていた

(HEEV∞)

0

ここでは知性が行為されることにおいては「最終のもの、他

の仕方でありうるもの、小前提」を対象とするという新たな観点が提示される。行為しうることにおける原理は「何

かのための原理である」が、この「何かのため」は選択の原理である「欲求と何かのためのロゴス」の「何かのため」

と同じもの、したがって行為あるいは行為によって達成される事柄を指すであろう。すなわち知性は行為において、

最終のもの、他の仕方でありうるもの、小前提を行為あるいは行為によって達成される事柄の原理として捉えると考

えられる。

さらに、「個別のものから普遍のものが導かれる」ゆえに「これらの感覚を持たねば」ならず、これが知性である

と言われる。「感覚を持つ」とは、算段の過程を経ずに対象を揺むことであろう。また、両方の「最終のもの」につ

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いであるのは知性であって一言明ではないとも言われる。以上から、行為において知性が捉える「最終のもの」のあら

われ方が類推できる。知性が働けば「行為されることにおける最終のもの」を人は掴むが、ただし知性によって掴ん

だ対象は言明によって分節されていない「個別のもの」である。行為されることは個別についてあるゆえに、知性が

働いている人は適切な行為をとる。また、算段を可る部分の卓越性である思慮は、知性が掘んだ個別のものを分節し

普遍の相の下に位置づけ、行為が常に適切であることを証する。すなわちブロ

lデイが一言うように、「最終のものの

把握に言明を伴わないことと、把握された最終のものが算段あるいは推論を通じて説明されることは、矛盾をきたさ

ない。把握された対象は、対象が行為に関わる場合は熟慮によって、理論に関わる場合は第一原理への科学的推論に

よって説明される」と考えられる。また彼女は「感覚を持つ」という表現についても、知性が算段なしに対象を把握

することを表していると論じる。「答が見えていればその答にたどり着くために更に思考を重ねる余地はない。実捺

に対象を感覚している場合に、感覚したらどのように見え、どのような感触が得られるのかと推測する余地がないの

と同じである」

0

ブロ

lディは実践的な知性に関し、

6巻

6章と

8意を挙げ、「知性は厳密には理論的なものであり、「類似性(富田

OB'

σEロ円。)」においてのみ実践的な知性が存在するとアリストテレスは一一一一口うかもしれない。ただし明言はしない

と述

ベる06章では知性が原理についてあることが論じられ、また

8章では、思慮と知性が対比され、思慮が対象とする

(お)

行為されるものは最終のものであり、それは思慮ではなく感覚であるとされる。知性の対象の捉え方は「感覚」と表

される(口

85)。対象を掴むものとして知性を捉えた場合、知性は未だ実践の範陪曙情にない対象についてあるので、

実践から切り離されているとも一ヰ一古2

るいは行為が生起し、うつるし、また「人は知性が統制力を持っかどうかによって、抑制がある、あるいは抑制がないと

言われる」

(MMgσEag)とされ、知性は人の実践に統制力を持ちうる。したがって、知性は対象を捉える働きによっ

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て実践における統制力を持つ点では、実践的であると考えられる。ブロ

iディが一言、つように理論的な厳密性との類似

性においてではなく、その発動の持つ効力という働きにおいて分節することで実践的な知性を語りうるだろう。

以上より、思慮、理解、見識、知性がいずれも行為において「個別」あるいは「最終のもの」、すなわち「行為さ

れるもの」についてあり、またある人がそれを認識し行為できるということは、その人が諸卓越性を備えた行為にお

ける「善なる人」であることを表していると考えられる。

次の段落ではさらに、思慮ある人の正しさの根拠が論じられる。

ゆえにまた、これらは自然的であるとも考えられる。誰も自然に知恵ある人にはならないが、他方、見識、理

解、知性を自然に持つのである。これを示すのは、自然が原因であるゆえに、これらが年齢に従うものであり、

この年齢が知性や見識を持つと我々が考えているということである。〔それゆえ、知性は原理であり終局である。

論証はこれらに基づき、これらについてあるから。]したがって、経験者や年長者、あるいは思慮ある人の論証

されていない一言や見解に、論証に劣らず、向き合わなければならない。なぜなら、彼らは経験に基づく目を持つ

-12-

ていることのゆえに、正しく見るからである(戸島σφ広)

0

人は自然に見識、知性、理解を持ち、またそれらには恩恵も伴う。したがって、思慮ある人の正しさは行為におい

て人が見識と知性、理解を持つ点にあると言える。

思慮ある人が算段のみによってある行為にたどり着くことは考えられるが、その人が適切な算段を進める上で必要

となる原理を把握したのは知性であろう。また知性は両方の最終のものを把握しうるから、知性が働いて個別を把握

し終局としての行為を導くこともあるだろう。思慮ある人とは算段がつねに適切に働く人であるが、算段が働く状態

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が整っている場合、たとえばこれまで算段して行為してきたことの積み重ねである経験が豊富であれば、算段過程を

省いて結論の言明が表す行為に至ることがある。すなわち、思慮ある人であることが知性による最終のものの把握を

可能にすると考えられる。さらに、経験が豊富でも、「よいものを目指す」という行為がそれのためであるところの

原理が破壊されている、あるいは捉えられていなければ、算段の指針がないので算段過程は適切に進まない。すなわ

ち原理を捉える知性がなければ人は「思慮ある人」ではありえない。

4.「思慮ある人」の行為における知性の働き

思慮ある人が行為する時には、必ず知性の働きが関わる。思慮を保全するには、原理が損なわれずに露わに見えて

いなくてはならず、そのためには知性が必要である。また思慮ある人に帰されるような知性は、算段過程を経ずに最

終のものを捉えて行為を導くこともある。ただし知性の役割は原理や個別を「捉えること」であるから、捉えるべく

並べられるものがない(経験がないてあるいは捉えた事柄を算段する力が弱い(思考能力がない)場合には、その

人には思慮も知性も備わらない。なぜなら、何であれ捉えたものをもとに人は算段して行為に至り、そして行為に熟

達して人は思慮を備えたとみなされるからである。すなわち、経験をつみ、経験から指針を見出し、算段し、行為す

ることの繰り返しによって人はそれぞれの過程に熟達する。その結果、行為において原理を捉えること、あるいは正

しい終局を捉えることに熟達し、知性を備えた「思慮ある人」と呼ばれるようになる。

このように思慮ある人において知性の働きはとくに重要である。そこで、ブロ

lデイの見解を手がかりに、行為に

おける知性の働きをより詳細に捉えたい。

普遍的な原則が選択の際に算段の大前提となり小前提を伴って結論を導く場合、個別の状況を把揖し算段を発動さ

13-

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せるものが問題となる。その候補として知性が考えられる。ブロ

lディは、「知性は、行為者の人梅がその状況の如

(認)

何に応じて反応を一不すような仕方で倍加の状況を読む能力として登場している」と言う。すなわち、知性は算段を発

動させるものとして状況を読み、その人の人格において保持されている普遍の一言明を大前提とする行為を導きうる。

また行為を導く人格的性情もたんに個別を待つのではなく、「当該の対象となる種類のものに関して全体的な認識的

(お)

注意を払っている」。したがってその人格的性情は、常に個別を捉える知性の働きに備えている。

ここから、算段過程を経て行為に至る場合の思慮ある人における知性の働きを説明できる。彼女の発想で重要なの

は、行為における知性の働きを「状況を読む」能力として捉える点である。人は思慮が備わっているゆえに適切な普

遍の言明を保持し、また普通の言明が正しいロゴスとして行為を導くべく、知性の発動に備えている。やがて知性は

正しいロゴスに基づく行為に主るような個別を把握する。思慮ある人は知性の働きによって行為に至るが、それを可

能にするのは思慮である。

14

また本論3で論じたように、知性は一行為によって達成される事柄すなわち算段において結論で表されるものを算段

によらずに把握すると考えられるが、ブロ

lディの一一言、っ、「状況を読む」能力が「主体の願望に関する語棄にすでに

(剖)

現存する普遍の一例として個別を認識する」ケlスはこれに当たると思われる。これは「ひとつのそのような、また

別の普遍を例示化するものとして知覚された状況に対する適切な反応」である。算段過程を経る場合には、知性によ

る個別の把握は、保持している普遍の一言明が大前提となり行為を導く契機となる。それに対しこの場合、知性は個別

を普遍の一例として把握するので、把握された個別は算段の端緒とならずにただちに行為を生起させる。普遍の一例

として儒別を把握するには、その倍加が算段の結果普遍の言明に適うことが明らかでなくてはならない。すなわちこ

れは、経験を積んだ思慮ある人に生ずる知性の働きであろう。

以上より知性は、思慮ある人において普遍の一一一一口明に適う適切な算段の端緒となる個別を、あるいは普遍の一例であ

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るような個別を捉え、適切な行為を導くものであると考えられるだろう。

5.結論

アリストテレスは

2巻

4章で、行為者は「何度も正しい行為や健全な行為をとる」ことで正しい人や健全な人の状

(部)

態を身につけると論じている。人は何度も行為を重ね、その経験から理解を身につけ、見識を得て、算段を繰り返し、

適切な行為を導く知性が働くようになると考えられる。そしてそのことがまた適切な理解や見識、算段の糧である経

験として蓄えられ、この繰り返しによって人は諸卓越性を備えた「思慮ある人」となる。すなわち、行為において思

慮と知性、そして他の卓越性はまさしく「同じ人に帰される」と言えるだろう。

(l)ロゴスは理性とも訳されるが、「理性」が含意する脳の働きや思考能力のみならず思考の過程あるいはその結采である言明も指

示する。

6巻で扱う魂のロゴスを持つ部分は、対象を理論的に考察する(脚注2参照)ので、思考能力を持つと考えられる。しかし

アリストテレスは

1巻で、魂のロゴスを持つ部分について「ひとつは主要な意味でロゴスを持つ部分、すなわちそれ自身のうちにロ

ゴスを持つ部分、もうひとつは父親の言葉を開くようにロゴスに耳を傾けることでロゴスを持つ部分」(己呂田NI印)と述べ、「ロゴス

に耳を傾ける」部分も「ロゴスを持つ」と呼ぶ。したがって主姿な意味でロゴスを持つ場合でもっロゴス」の意味を思考能力に限定

-15-

するのは適切ではないと考え、カタカナ表記とする。

(2)6巻1掌では、魂のロゴスを持つ部分の区別が論じられる。「ロゴスを持つ部分はふたつあり、ひとつは、存在するもののうち

諸原理が他の仕方ではありえない限りのものを理論的に考察し、もうひとつは、それでもって、存在するもののうち諸原理が他の仕

方でありうるものを理論的に考察する、と想定しよう

oi中略

iでは、これらの魂のロゴスを持つ部分の一方を知識的部分、他方を

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算段的部分と呼ぼう。な、ぜなら、熟慮と算段的思考は同じであり、誰も他の仕方でありえないものについては熟慮しないからである」

(同呂田急ム印)0

また

2章では行為の原理として選択が、選択の原理として欲求と「何かのためのロゴス」が挙げられる。行為におけ

る「何かのため」の「何か」とは、他の仕方でありうる何らかの事柄(行為そのものあるいは行為によって達成される事柄)であろ

うから、行為に関わる思考として熟慮を考えられる。訳語について、

Z包田立ぎロおよび宮性

Ngg仲は、「理知的部分」「理知的に考え

る」(朴)、「勘考的部分」「勘考する」(古岡田)とω

訳されている。ここでは、ぷ即日口己主守03(岡山。唱P∞g出会。(凶)参照、および

mgp出dgEE

参照)という英訳を参考に、「他の仕方でありうるものについて理論的に考察する」という特徴を表し、知識を対象とした考察と区

別がつく語義として「算段的部分」「算段する」を選んだ。

(3)知識は他の仕方でありえないものである。

(4)「終局」(テロス)は問。丘、すなわち目的が達成された地点および時点を指す。

(5)「健全性」(ソiプロシユネi)は「節制」(朴、高田)、武自主向田仲FOロョ(問。耳P回

gE5(日)参照)、

RS臣官5

5

0

3

(伺。田少同三ny凶器

参照)と訳される。思慮の保全から帰結するのは最善の行為をとりうる状態であり、ム日制則的側面を必ずしも持たないので、

HLEO日目白出品

向山口02の英訳公団O

出口門山口⑦出国D同

55円Jをふまえて「健会性」とした。

16

(6)「露わに間見える」はギリシャ器開官

}gscの受動彩。英訳は

gHHM⑦gH仲間同戸ゲ吉田窓口

U8-520

(7)思慮を保全する人のあり方として健全性が挙げられ、健全性の考祭から思慮ある人の判断の保全、ひいては「原理が露わに見え

る」という特徴が語られている。スチユワlトはここで

1巻3章に一言及し、パトスが倫理的に制制御されていない人は何が正しく何が

間違いであるかを知らないので、快苦の中間にある健全な人はそれとは対照的であると論じる(∞什自宅ミグ匂・会)

0

アリストテレスは

1巻3章で、パトスに動かされやすい若者には「認識が無駄になる」と一一一回う。パトスに動かされない健全な人は、認識を無駄になら

ないよう保全していると考えられる。この「認識」とは、

6巻

5章で詳述されているように、思慮ある人の判断であろう。したがっ

て、健全な人は思慮ある人の判断を保全し、思慮ある人にはその判断を出すための原理が鋒わに見えている。

(8)善について一般的に論じる文脈において、善は卓越性に基づいて為されると考えられている。たとえば第l巻7章(HC匂∞田∞心。)

では、善、あるいは「よく」が働きについて言われ、卓越性に恭手ついて果たされる働きはそうではない働きに対し優越している。

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(9)ギリシャ誇はエピエイケス。「口問佼ある人」(朴)、「宜しきひと」(高田)、

JS田S日立冊目

)28ロョ

(HW

。君。w

M

凶『。邑ー芯(日)参照)、

RZ£SE

ぴぽ

g由民二寸ゲ

cggロ)と訳される。状況に対し適正にふるまう人であり、他者との関係において語られることから、「公正な人」とし

た。(叩)「察しがよい」(シュングノ!メ

i)の原義は見解を共にすることである。その結果ゆるすことを合意するので「寛宏」を指す場

合もあり、「同情」(高回)、「思いやり」(朴)と訳される。ここでこの誌は「公正な人の正しい判別」を指し、また

6巻で扱う認知

的卓越性のひとつであることをふまえ、認知的側面を重視した訳語を選択した。

(日)「見識を持つ」

(HH8同日。)と「よい見識を持つ」(戸島忠。)は同じ内容を指す。前者はギリシャ諾の用法を確認する文脈なので

「よい」がつかず、後者は実際に見識が属する人間についての説明なので、何らかの理由で「見識」と呼ばれる不完全な、あるいは

悪いものを見識として捉える可能性を排除するために「よい」を添えている。

(ロ)「理解は思慮におけるものについてあるが、理解と思慮は問じものではない。思慮は指令しうるものであるから。なぜなら、何

を為すべきか、あるいは何を為すべきではないか、これが思慮の終局であるからである。他方、理解はたんに判別しうるものである。

なぜなら、理解とよい理解は同じであり、また理解する人とよく理解する人も同じであるからである己(戸島田由E

己)また、理解は

ワー

「知識あるいは見解と全般に同じものではなく、中略また部分における知識のひとつでもない」(己お己'Sとされ、「我々はし

ばしば学ぶことを理解することであると一言う」(己色白弓

Eg)0知識の対象を「学ぶ」ように、思慮の対象を「学ぶ」すなわち「判別

する」ことが理解と呼ばれる(己む巴ゲお)

0

(日)脚注ロ参照

(HH82a∞)0

理解と思慮は終局が異なる。

(M)脚注2参照。思慮におけるものとはここでは「人が迷い熟慮するであろうもの」(=邑田空、すなわち算段的部分の対象である。

(日)脚注2参照。選択の原理は欲求と「何かのため」のロゴスである。

(時)人が普遍のロゴスを持つ場合、算段によって普通から個別に至って行為が可能となる。たとえばある人に普遍のロゴス「転がっ

てきたボlルは持ち主に返すべきである」があれば、「ボlルが転がってきた」「ボ!ルを投げ返せる距離に持ち主がいる」という認

識がもたらされた場合に、「ボlルを投げる」という個別に至り行為が生起する。

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(口)切さ包-ぽ(凶)弘一-∞斗∞「算段あるいは推論」は

ggOHM-口問一語である。対象が行為と知識なので二諾に訳した。

(お)切さ包ー目。(凶)旭日ν-U4∞ブロ16ディは「適切であるか否かに関してどのような碁準を適用するにせよ、適切な答にたどり着いたとき

にそれが「見え」ないとすれば、不明瞭な対象を論理的に探ることも無駄になるであろうから」とも述べる。算段の場合に最終のも

のが正しい終局として「露わに見える」のは知性が働いているからであるという解釈であろう。

5意から、知性は知性が備わる人が

算段する場合に原理を露わにすることで終局を露わにすると考えられる。

(印

)}wg同任。(日)wH)・∞斗∞

(お)「さて思慮が知識ではないことは明らかである。まさしく言われていたように、思慮は最終のものについてあるから。行為され

ることとはそのようなことであるから。そこで、思慮は知性と対比される。知性はホロスについてあり、ホロスはロゴスではなく、

思慮は最終のものについてあり、最終のものは知識ではなく感覚である。この感覚は感覚に悶有ではなく、それによって我々が数学

で三角形を最終のものとして感覚するところの感覚である。そこでも終わるであろうから。しかしこれはむしろ感覚であって思慮で

はないし、数学の感覚は別の種類である」(口色むい印。)。この箇一昨と日血早から、思慮ある人の知性のあり方を類推できる。思慮ある

人は算段によって「行為されるもの」にたどり着き、したがって「行為されるもの」を表す一一一日明を保持する。しかし「行為されるも

18

の」そのものは一言明ではなく、知性によって算段過程を経ずに把握される「感覚」である。思慮ある人はその「最終のもの」を行為

するから、その感覚を持たねばならない。すなわち思慮ある人には知性が備わっている。

(幻)ギリシャ語クラテイン。「支配している」(朴)。原義は「カがある」ことである。

(辺)切さ邑芯(同)V}UNEw-H日「読む」はお足の訳語。文脈から、「見て取った有様から真理を推測する」という意図はなく、「見て取

る」ことを意味すると思われる。

(お)∞『O

阻止。(同)uHM-MmYM-∞∞

(包)凶吋。田島お(同)wMYM印YF

品印

(お)凶吋己担任。(同)uMYM印Hu--品印

(お)「諮卓越性にそくして生じるものは、何らかの仕方で問じ結果を持つにしても、正しく、あるいは健全に為されたことにはなら

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