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Hokkaido University of Education Title �1Author(s) �, Citation �. �, 64(2): 1-16 Issue Date 2014-02 URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/7320 Rights

北海道教育大学紀要. 教育科学編, 64(2): 1-16 URL ...s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/.../bitstream/123456789/7320/6/64-2-kyoiku-… · T)yke(民間情報教育局長,Sept.1945-May1946)の4

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Hokkaido University of Education

Title 戦後日本の初期政治改革と教育管理(1)

Author(s) 古野, 博明

Citation 北海道教育大学紀要. 教育科学編, 64(2): 1-16

Issue Date 2014-02

URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/7320

Rights

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北海道教育大学紀要(教育科学編)第64巻 第2号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(Education)Vol.64,No.2

平成26年2 月 February,2014

戦後日本の初期政治改革と教育管理(1)

古 野 博 明

北海道教育大学名誉教授

AlliedPowersEducationalSystemControIFormed

aPartofInitialPostSurrenderPoliticalReforminJapan(1)

KONO Hiroaki

ProfessorE上11eritus,HokkaidoU11lversltyofEducatioll

概 要

1945年10月4日の政治的社会的宗教的自由令に始まるGHQ/SCAPの政治管理は,その初期

において,教育関係諸覚書を伴いつつ翌46年1月4日の公職追放令・或る種政治団体等廃止令

へと展開し,わが国政治行政機構から軍国主義・超国家主義を除去しつつ天皇制統治機構・囲

骨豊護持政治瓦解への道を拓いてゆく。本稿は,降伏後初期の教育管理諸法令をかかる政治改革

の一環に位置づけ直すことをつうじて,それらの戦後教育改革立法史において占める位置と意

義の再整序をめざしたものである。そのうち本号では政治的社会的宗教的自由令,教育制度経

営管理令,教職適格審査令等を取り上げるほか,11月3日の初期基本的指令に言及する。

数的自由令または10.4日由令,10.4覚書と略称)がその

起動点であったのは周知の事柄である。対日教育

管理はかかる初期政治改革の一環として展開し

た。

思うに,政治改革(教育管理を含む)をめざす

戦後初期の諸々の覚書で命じられた諸事項が日本

側で法制的行政的に実行に移される歴史過程,つ

まり日本政治行政の機構と機能,その一部である

文部省や地方教育行政機構,官公私立諸学校の,

軍国主義と極端な国家主義の醜から解放されてゆ

くプロセスとの聯関が戦後教育改革史研究からド

ロップするのは,方法的に考えていかにもまずい。

そこで本稿において著者は,1945(昭20)年10月

はじめに

(1)1945(昭20)年10月2日聯合国軍最高司令官

総司令部GHQ/SCAPがアメリカ太平洋陸軍

USAFPACの総司令部を母胎に正式に設立される

と,占領軍の日本管理は日本軍の解体,軍の行政

関与排除,戦犯容疑者逮捕への着手という当初の

段階からさらに進んで,治安維持法等の極端な国

家主義装置を標的にすえた政治管理を起動力とし

て,本格的な展開を始めた。10月4日の政治的民

事的及宗教的自由二対スル制限ノ撤廃二関スル覚

書MemorandumconcerningRemovalofRestrictionon

Political,CivilandReligiousLiberties(以下政治的社会的宗

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吉 野 博 明

から翌46(昭21)年1月までの対日教育管理諸覚

書を,法論理的聯関に即して政治管理の史的連鎖

の中に位置づけ直し,その鎖の環の一つ一つを整

序し直すことによって,教育管理諸法令の教育改

革立法史的意義と問題点を究める準備作業を試み

てみる。(また軍国主義・極端な国家主義からの

解放が不徹底に終わる過程との聯関を抜きに教育

「逆コース」を語るのがいっそうまずいことをも,

この際あらためて合わせて自覚したいと思う)。

(2)このような見地から諸資料を通覧中著者の限

を引いたのは,行政法学者田中二郎が1946(昭21)

年6月発行の『日本管理法令研究』第1巻第3号

中「法令解説」の概説に臨んで書いた次のような

断片であった。彼は政治的社会的宗教的自由令の

発出について当時すでにその重要な意義をこう説

いていた。

「ポツダム宣言には,日本国民の問に於ける民主主義

的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべきこと

並に,言論,宗教及び思想の自由並に基本的人権を尊重

すべきことを明らかにしており(10項),米国の初期対日

方針には,その具体的な方策として,秘密警察組織の解消,

宗教的信仰の自由,集会及び公開言論の権利を保有する

民主的政党の奨励,人種,国籍,信教又は政治的見解を

理由とする差別待遇の禁止,これを定めた法規並に,こ

れが実施を特にその任務とする諸機関の廃止又は改組,

政治的理由により不法に監禁せられ居る者の解放等をあ

げて居るが,この目的を実現する為に発せられたのが,

正に,この政治的,民事的及宗教的自由に対する制限撤

廃に関する覚書である。初期の対日方針に掲げられた一

部がそのまゝこゝに実現を見ることになった。」「この覚

書は日本政治の民主主義化におおきな礎石を置いたもの

であり,軍国主義的指導者の追放及び同種の政治団体等

ママ の解放等を指令した諸覚書(1946年1月4日)と共に,

我国の政治組織の上に一種の無血革命を断行したものと

いつてよいであらう。」〔「法令解説・概説」 『日本管理法

令研究』第1巻第3号(大雅堂,昭21),71頁,傍点は引

用者。〕

加えて田中(二)は別に,10.4覚書や翌年1月

4日の二つの覚書(好ましくない人物の公職よりの除去

に関する覚書MemorandumconcerningRemovalandEx一

clusionofUndesirablePersonnelfromPublicOfnce,或る

種類の政党,協会,結社その他の団体の廃止に関する覚書

MemorandumconcerningAbolitionofCertainPolitical

Parties,Associations,SocietiesandOtherOrganizations)

は「新聞言論の自由確立の為めの諸覚書,国教分

離に関する覚書(12月15R)等をその支翼として,

日本政治の民主主義化に大きな礎石を置いた」

(「政治的民事的及宗教的自由に対する制限の撤廃に関する

覚書」同前106頁,傍点は引用者)と述べてもいた。こ

こに9月10日の言論及新聞ノ自由二関スル覚書

MemorandumconcerningFreedomofSpeech

andPressなど言論報道関係の諸覚書や12月15日

の国家神道(神社神道)ニ対スル政府ノ保澄,支

援,保全,監督並二弘布ノ廃止二関スル覚書

MemorandumconcerningAbolitionofGov-

ernmentalSponsorship,Support,Perpetuation,

Control,andDisseminationofStateShinto

くKokkaShinto,Jinja,Shinto〉等を1O月4日や1

月4日の覚書の支翼と見定めて政治改革の意義を

説くその論法は簡便ながら明敏堅実で,いまなお

妥当と思われる。またかかる表記中「等」の中に

10月22日の日本教育制度ノ行政二関スル覚書

MemorandumconcerningAdministrationofthe

EducationalSystem,10月30日の教職員ノ調査,

精選,資格決定二関スル覚書Memorandumcon-

CerningInvestigation,ScreeningandCertifica-

tionofTeachersandEducationalOfficials,12月

31日の修身,日本歴史及地理ノ学科課程停止二関

スル覚書MemorandumconcerningSuspension

ofcoursesinMorals〔Shushin〕,JapaneseHis-

toryandGeograph等を含めて読んでも離齢は生

じないだろう。

かくして著者は,遅ればせながら,降伏直後か

ら日本管理法令研究に従事した実定法学者の,上

記諸断片を導きの糸とした,政治改革の一環たる

対日教育管理法令の再整序作業が,戦後教育改革

立法政策生成過程の探究には方法的に不可欠と考

えるに至ったしだいである。

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戦後日本の初期政治改革と教育管理(1)

限を聯合国軍側に転ずると,この覚書は初期対

日方針にもとづき短期間のうちにGHQ/USAFPAC

の軍政局MilitaryGovernmentSectionで作成さ

れたものであった。(3)また10月4日夕方の手交

は哲学者三木清の獄死(9月26日)等に対する米国

内外の憂慮,批判に押されてGHQ/SCAPが急い

だがためとみられている。(4)これの決定に関与

し詳細を承知していたのはマッカーサー元帥

Gen.DouglasMacArthur(Aug.1945-Apr.1951),サ

ザーランド中将Lt.Gen.RichardK.Sutherland

(参謀長Aug.1945-Dec.1945),クリスト准将Brig.

Gen.WilliamE.Crist(軍政局長Aug.1945,民政局長

Oct.1945-Dec.1945),ダイク大佐Col.KennethR.

T)yke(民間情報教育局長,Sept.1945-May1946)の4

人だけだったようであるが,ここにダイクの参画

(ただし「小間題ノミ承知」)には教育管理とのから

みで留目があっていい。(5)

具体的内容

では,政治的社会的宗教的自由令とは具体的に

どんな内容の覚書であったかというに,ポツダム

宣言第10項中・後段,これらを敷術した初期対ロ

方針第3部(政治)c項(個人ノ自由及民主主義過程ヘ

ノ巽求ノ奨励)にいう政治改革の根本原則をさらに

具体の形で規定して,同令は第一に,「政治的,

民事的及宗教的自由二対スル制限並二人種,国籍,

信仰又ハ政見ヲ理由トスル差別待遇ヲ撤廃スルタ

メ」に次のような類の法律,勅令,省令,命令,

規則一切の廃止と効力即時停止を指令している。

(1)天皇,天皇制及日本帝国政府二関スル自由ナル討議

ヲ含ム思想,宗教,集会及言論ノ自由二対スル制限ヲ

設定又ハ之ヲ維持スルモノ

(2)情報ノ蒐集及頒布二対スル制限ヲ設定シ又ハ之ヲ維

持スルモノ

(3)法令ノ条文又ハ其ノ適用ニヨリ,人種,国籍,信仰

又ハ政見ヲ理由トシテ,特定ノ者二対シ不当ナル恩恵

又ハ不利ヲ輿フルモノ(以上1項a号)

かかる諸事項に該当する法令として,(全面改

訂された)治安維持法(昭16法律54),思想犯保護

観察法(昭11法律29),保護観察所官制(昭11勅令403),

予防拘禁手続令(昭16司法省令49),予防拘禁処遇令

1 国債護持政治瓦角牢の端緒

(1)10月4日の政治的社会的宗教的自由令

問題の諸相 やまぎき

よく引かれるように10月3日になっても,山崎 いわあ 巌内相がロイター通信東京特派員と会見し「思

ひみつけいさつ 想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けてをり,

せんしゃたいほ 反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕す

ぶくたいほ る」「政府転覆を企む者の逮捕も続ける」と明言

いわた したり,中国中央通訊社特派員に応答して岩田 ちゅうぞう 宙造法相が,司法当局としては「政治犯人の釈

放の如きは考慮してゐない」,修正の要はあって

も「治安維持法の撤廃は考慮してゐない」,「囲腰

ぎひこうげん の変更,不敬罪を構成する如き運動は厳重に取り しま 締る」などと広言して慣らなかったほど(以上ル

ビは原文),東久邁内閣の治安維持法体制維持の姿

勢は依然顕著であった。(1)こんな調子のまま4

日午後6時に突然治安維持法体制解体を指令した

政治的社会的宗教的自由令を受け取ったのだか

ら,同内閣にとってそれはまさに寝耳に水,日本

政府全体に衝撃が走ったのはいうまでもなかろ

う。と同時に,9月22日の降伏後二於ケル米国ノ

初期ノ対日方針UNITEDSTATESINITIALPOST

SURRENDERPOLICYFORJAPAN(以下初期対日方針

と略称)はすでに一般にも公表済みであった。こ

の点に鑑みれば,形式上GHQ/USAFPACに対

する訓令的な文書だったとはいえ,これに示され

た占領軍の方針を知りながら具体的には竜も反応

しなかった日本支配層の,10.4自由令交付に対す

る抵抗姿勢には活眼が必要である。また丸山眞男

がかつて「共産党の人たちを獄中から釈放して,

自由に活動させるというところまでは,想像が及

ばなかった。言論,出版,結社の自由,それが回

復されるということと,実際の政策とが,そこま

で結びつかなかった」(2)と率直に語っていたよう

に,その自由民主主義的なラディカルな内容への

知識人文化人,国民サイドの驚きもまた小さくは

なかった。日本人の全予測を超えたまさに電撃的

な10.4覚書発出の作用,反作用が文部行政に影響

を与えていないはずはないのである。

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吉 野 博 明

(昭16司法省令30),国防保安法(昭16法律49),弁護

士指定規程(昭16司法省令47),軍機保護法(昭12法

律72,昭16改正法律58),宗教団体法(昭14法律77)な

ど計16本の法令を具体的に列挙し,これらの「修

正,補足若ハ実施二関スルー切ノ法律,勅令,省

令,命令及規則」を追加規定した第1項b号も重

要である。1920年代に再編が始まり以来増殖が続

いたわが国治安法体系は,当時現行の憲法秩序の

作用ではなく超憲法的法秩序の作用によって,こ

こにようやく終止符を打ち始めるのである。

媛慢ではあったが,教育法利から極端な国家主

義が除去されてゆく起動点もまたかかる政治法制

改革の具体化指令にあるというべく,1890年教育

勅語をはじめ教育にかんする勅語・詔書類の自由

な討議(再解釈,批判,改廃論議)もまたこれを

起点に解禁に向かったのであった。なお文部行政

が関係する諸法令は,宗教的自由制限撤廃規定に

直裁に抵触する宗教団体法を除いて廃止・効力停

止の例示対象に上がっていない。が,このことは

GHQ/SCAPの政治管理が教育法令の改廃を自由

制限撤廃措置の対象外とみなしていたことを意味

するものではなく,如上第1項の意図は,10月22

日の日本教育制度ノ行政二関スル覚書等に敷街適

用されて,影響は教育法制の機能改善にも及んで

ゆくとみるべきであろう。

第二に,ヒトの肉眼に直接映じて日本支配層の

動揺を激しくし,また人々をもっとも驚かせたの

は,かかる政治法制改革の実際の効用を直裁に知

らしめるべく規定された,第1項a号を適用した

具体的措置であった。①その一つは,次のような

事情により「拘留,投獄,保護観察或ハ他ノ方法

二依り自由ヲ束縛サルルー切ノ者」の釈放を「1945

年10月10日迄二完了」するよう命じた第1項C号

の規定である。

(1)上記第1項a及bニ示サレタル法規二基クモノ

(2)何等ノ指名ナキモノ革withoutcharge

(3)拘留,投獄,保護観察或ハ自由ノ束縛ノ真ノ理由ガ

其ノ者ノ思想,言論,宗教,政見又ハ集会二存スルニ

拘ラズ技術的ニハ軽微ノ犯罪ヲ理由トシテ其ノ罪ヲ間

フ場合

*原秀成『日本国憲法制定の系譜Ⅲ』(日本評論社,2006)

では「嫌疑のない場合」と訳されている。758頁。

要するに日本政府は,治安維持法等違反を問わ

れて拘留,投獄中や保護・観察下の者,なんら嫌

疑もないのにまたじっさいには思想・言論・宗

教・政治的信条・集会が理由であるのに二次的な

軽い罪名で自由を制限されている者一切の,(と

りわけ共産主義者については)覚書が交付される

までは考えもしなかった即時釈放を強いられたわ

けである。

②その二つは,この政治犯思想犯解放規定と一

体に,前記諸法令の「各条項ヲ遂行スル為二設置

サレタルー切ノ組織又ハ機関,並二斯ル条項ヲ遂

行スル上二於テ之ヲ補足若クハ援助スル他ノ官庁

又ハ関係部局ハ機能ヲ廃止スベキモノトス」と,

政治弾圧思想弾圧の組織的手段すべての解体が指

令されたことである。「一切ノ秘密警察機関」,出

版物・集会結社の取締や映画検閲等に当たった内

務省警保局,警視庁特別高等警察部・大阪府その

他の都市警察部・北海道庁警察部・各府県警察

部,思想,言論,宗教,集会の統制事務に従事し

た内務省他部局や各府県の部局等,さらに保護観

察や思想等の統制に当たった司法省の保護観察審

査会や傘下の保護観察所が標的として列挙され,

本規定の適用は以上に「限ラルルコトナシ」と但

し吾が付いていた。(以上1項d号)

③さらに支配層を震撼させた三つ目は,かかる

諸機関をじっさいに成り立たせ機能せしめていた

人的要素,つまり内務大臣以下内務省警保局長,

警視総監,大阪府警察局長・その他各都市警察署

長,北海道庁警察部長,各府県警察部長,各道府

県特高警察課の全員,および司法省保護観察審査

会,保護観察所の職員一切の罷免が命じられ,こ

れらの者はすべて「今後内務省,司法省其ノ他日

本二於ケル如何ナル警察機関二於テモ再ビ登用サ

ルルコトナキモノトス」とその再任用停止が規定

されたことであった。(以上1項e号)かかる追放

措置は天皇制ファシズム機構の心臓部を直撃した

のであったが,(ポツダム宣言第10項中段の規定

に照らせば)GHQ/SCAPにとってそれは当面の

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戦後日本の初期政治改革と教育管理(1)

緊急部分措置にすぎず,軍国主義者極端な国家主

義者追放政策のエリアは内務省機構,司法省機構

に限られていたわけではなかった。じっさい第1

項e号の意図は教育分野には,10月22日の日本教

育制度ノ行政二関スル覚書の該条項や同30日の教

職員ノ調査,精選,資格決定二関スル覚書で具体

化されてゆく。

以上のほかに,第1項a,b号に該当する法令

や同d号の機構と機能にかかわった警察官吏等の

活動禁止(1項f号),拘留,投獄,保護観察下に

ある何人へも身体的刑罰・不当な待遇の禁止等

(1項g号),廃止機関の全記録資料保全と破棄・

移動・改変停止(1項h号),本指令全条項にかか

る包括的実施報告書の10月15日までの碇出(1項

i号)といった規定があった。これらを加えて政

治的社会的宗教的自由令は,日本型ファシズムを

作り上げた天皇制統治とこれを無批判に継受した

囲骨豊護持政治の法制度上行政機構上のネガティヴ

でハードな根幹を直接かつ具体的に全否定したの

である。そのうえで同令は以上全条項の適用を受

ける政府官僚・下級官吏各自の本指令遵守・固守

責任responsibilityを指摘し,その厳格な履行責

任accountabilityを果たすよう求めるという,間

接統治ゆえの指示を規定して(第2項)終わって

いる。上記諸規定の実際の効果はSCAPの「制限」

下日本側の法制的行政的機能に委ねられたので

あった。

東久邁内閣瓦解下日本政府の反応

8月17日の組閣以来,「終戦」の詔書のプログ

ラムにもとづき治安維持法体制の維持強化,思想

取締機構の拡充をめざしてきた東久邁内閣がその

体勢全否定の重圧に耐えかねて,10月5日政権を

投げ出し総辞職したのは周知のとおりである。け

れども,日本政府は事態を座視していたわけでは

全然ない。外相吉田茂は10月5日午後5時サザー

ランド参謀長を往訪して内閣総辞職を報告,その

際「内務大臣其他警察機関ヲ撤去シ更二人獄中ノ

政治犯人ヲ釈放セヨト云フハ赤色革命ヲ奨励スル

カ如キモノニシテ日本政府トシテハ平和秩序ヲ維

持スルコトヲ得ス混乱状態二陥ル外ナシ」といっ

た旨を述べて覚書実施猶予の交渉に動き,

GHQ/SCAPへの抵抗姿勢を露わにしている。(6)

そこで教育法制史的探究の本稿においても,荒

敬『日本占領史研究序説』(柏書房,1994)等(7)に

拠りながら日本政府の直後の反応を素描しておく

のが有意義かと思う。第一に,内務省はただちに

特高警察機構解体に代わる警察力の増強を策し,

作戦参謀副長DeputyChiefofStaffforOper-

ations〔チェンバレン少将Maj.Gen.RichardK.Cham-

berlin(Oct.1945-Apr.1946)〕に対し,10月5日と8

日の二度にわたり,①警察官員数の倍増(現在定

員92,713人→概数186,648人),②各種騒擾事件等に対

処するための常設約2万人その他約4万人の武装

警察隊整備,③約2万人の水上警察強化を交渉す

る挙に出た。(8)さすがにGHQは,10月11日の警

察力増強についての日本政府提案拒否に関する総

司令部覚書JapaneseGovernmentProposalto

IncreaseDomesticPoliceOffice(9)でその受け入

れを拒否したのであったが,内務省のかかる行動

は,10.4覚書の「実施を遅らすための一方策でも

あったのであろう」(10)とみられている。

第二に,先掲第1項d号の実施に抵抗して内務

省は,10月5日「罷免官吏ノ再採用ハ内務省,司

法省以外ノ官庁二対シテハ支障」ないのではない

か等々(11)諸々の疑義や要求を,この件について

は矛先を変えて一般参謀部GeneralStaffSec-

tions第二部(諜報担当G-2)の部長Assistant

ChiefofStaffウイロビー少将Maj.Gen.CharlesA.

will。。ghby(A。g.1945-M。y1951)に申し立てた。(12)

GHQ側の回答は10月10日「聯合軍最高司令部発

日本帝国政府二対スル覚書」(13)で罷免・再任用

停止範囲をあらためて指示する形でなされたが,

その中に「(内務・司法両省の)責任アル地位ヨ

リ除カレタル官吏ハ他省二於ケル責任アル地位二

移ササルコトナカルベシ」「特高警察職員ハ下級

官吏ヲ含ミ文部省二就職セラルルコトナカルベ

シ」「右ノ職員ヲ他省二再任命スル場合ニハ本司

令部二之ガ情報ヲ碇出スベシ」(1項)と,司法・

内務両省官吏の,(文部省を除く)他省等採用を

容認する内容が含まれていたのには要注意であ

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吉 野 博 明

る。特高警察官吏を含む追放該当者のかかる行政

機構残存策は追放政策が不徹底に終わる始まりと

いうべく,GHQ側に早くも妥協の要素が認めら

れ,日本側の抵抗がすでに一定の成果をあげてい

た事実は軽視できない。

第三に,内務省・司法省はさらにウイロビーに

対し数度にわたり,治安維持法等廃止への疑義を

発し覚書の意図を質している。治安維持法存置は

成らなかったもののこの策は,同法中「囲骨豊変革

ノ企図云々」の趣旨残存を策した「刑法中不敬罪

ハ其ノ債トスル」ことについて,「言論ノ自由ハ

完全ナルヲ要スルヲ以テ天皇,囲腰,政府二関ス

ル論議ヲ制限スルガ如キハ許サレズ,但シ刑法不

敬罪ノ規定ノ廃止等迄モ要求スルモノニハアラ

ズ,且言論ノ自由ガ公安,風俗ヲ害スルノ故ヲ以

テ制限ヲ受クベキハ勿論ノ義ナルコト」とか,治

安対策について,「暴力等現実二治安ヲ撹乱スル

ガ如キ行動二出デタル場合,之ヲ取締ルガ如キハ

当然ノ事理ニシテ何等之ヲ禁止スルモノニ非ザル

コト」といった回答を引き出すことに成功し

た。(14)ちなみに不敬罪が大逆罪とともに廃止さ

れるのは新憲法下1947(昭22)年10月26日の刑法

の一部を改正する法律(昭22法律124)においてで

あった。

たたかであった。

第一に,しぶしぶとはいえ幣原内閣発足翌日の

10月10日,獄中にあった政治犯思想犯数百人の釈

放が実行された。10月22日付けGHQへの報告に

よると,この日を皮切りにして22日現在,司法省

関係で政治犯釈放者の総数は439人,保護観察処

分解除者の総数は2,026人で,ほかに海軍省関係28

人,陸軍省関係1人があった。(15)ただし刑法犯

経済犯を伴うとの理由で覚書適用を除外された政

治犯37人が存し,その釈放が遅延した事実は,日

本政府の抵抗姿勢を冷厳に物語っている。(16)と

はいえかかる政治犯思想犯の釈放措置は,日本社

会に自由解放の空気を一気に吹き込み,労働運動,

社会運動,知識人文化人の諸活動を次々と生起さ

せる方向につよく作用した。生起した諸道動が主

に高学歴者のリードする現象であった(17)とみ

られる点とともに注視が必要であろう。

第二に,新内閣は東久邁内閣とはかなり違って,

SCAPの意向を付度しながら囲骨豊護持政治の自由

主義化を図り始める。10月11日首相就任挨拶を兼

ねた幣原のマッカーサー訪問は,その姿勢を決定

づけたとみられよう。よく知られているように,

この日のマッカーサー会談では(1)(憲法の自由主

義化をふくめて)ポツダム宣言の達成,(2)人々の

心を奴隷化する,統治機構の日常生活への秘密調

査や思想・言論・宗教の自由の統制からの解放,

(3)かかる諸要求実現・諸目的達成のための改革開

始,①参政権の付与による女性解放,②労働組合組織化の

奨励,(卦自由な教育への学校開放,④秘密の取調・拷問に

より人々の恐怖を常態化してきた機構の廃止,(釘経済制度

の民主化・独占的な産業支配の是正,(4)疫病,病気,

飢餓その他重大な社会的破局を防止するため住

宅・食糧・衣料にかかる政府の力強い,迅速な行

動,の四項目が指示されたのであった。(18)ちな

みに上記第3項のいわゆる五大改革中,教育の自

由主義化にかかる③の次のような指示もよく知ら

れているが,囲骨豊護持教育法制の機能の自由主義

化に踏み出す幣原内閣前田文政の安定化を助長す

る方向に働いたと思われる。

、、■ 三,学校ヲヨリ自由主義的ナル教育ノ為開校スルコト

(2)固骨豊護持政治の危機に立ち向かう幣原内閣

10.4自由令の実施と幣原内閣の姿勢

こうしたリアクションが水面下で続けられる しではらきじゆうろう

中,10月9日外交官出身で当時73歳の幣原喜重郎 きどこういち

を首蛙とする新内閣が成立する。内大臣木戸幸一

を中心に後継を検討した日本政治の支配者たちは

GHQ/SCAPの受けを付度しながら,5日夕刻か

ら6日にかけての談合で,第一次・第二次加藤高

明内閣(1924.626.1),第一次若月礼次郎内閣

(1926.1-27.4),浜口雄幸内閣(1929.4-31.4),第二

次若月内閣(1931.4-31.12)の元外相を選んだので

ある。文相の前田多門は吉田茂外相,岩田宙造司 ほりきりぜんじろう

法相らとともに留任,内相には堀切善次郎が起用

された。かかる新内閣の変わり身の様態も注目で,

その動き方は発足直後から以下のごとくじつにし

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戦後日本の初期政治改革と教育管理(1)

以テ国民力事実二基礎付ケラレタル知識二依り自身ノ

将来ノ発展ヲ形成スルコトヲ得政府カ国民ノ主人master

ニアラスシテ使用人servantタルノ制度ヲ理解スルコ

∴・・・ トニ依り解答スルbenefitヲ得ヘシ(19)

第三に10月12日(官報13日),昭和二十年勅令第

五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾二伴ヒ発ス

ル命令二関スル件二基ク国防保安法廃止等二関ス

ル件(昭20勅令568)によって,国防保安法,軍機

保護法,軍用資源秘密保護法,不穏文書臨時取締

法(昭11法律45),言論,出版,集会,結社等臨時

取締法(昭16法律97),国防保安法施行令,軍用資

源秘密保護法施行令等が廃止された。続いて13日

(官報15日),昭和二十年勅令第五百四十二号「ポ

ツダム」宣言ノ受諾二伴ヒ発スル命令二関スル件

二基ク治安維持法廃止等ノ件(昭20勅令575)が公

布せられて,治安維持法,思想犯保護観察法,思

想犯保護観察法施行令,明治32年勅令第352号(条

約若ハ慣行こ依り居住ノ自由ヲ有セサル外国人ノ居住及営

業等二関スル件)等の廃止と司法省官制中該条項の

削除改正が実行された。また内務省官制中改正等

ノ件(昭20勅令567)では内務省官制(明31勅令259),

警視庁官制(大2勅令149),地方官官制(大15勅令147)

等が改正され,特高警察関係の規定削除,内務省

警保局と同保安課,外事課,検閲課の廃止が実行

された。10月20日(官報22日)には保護観察所官制

廃止等二関スル件(昭20勅令590)により,保護観

察所官制(昭11勅令403),保護観察所審査会官制(昭

11勅令405),予防拘禁所官制(昭16勅令557),予防拘

禁委員会官制(昭16勅令558)等あわせて関係9件

の勅令が廃止され,さらに以上に加えて21日治安

警察法廃止等ノ件(昭20勅令638)が公布された。

第四に,10月22日付けGHQへの報告によると,

内務省官制が改正された10月13日,同9日付けで

内務大臣,11日付けで内務省警保局長および警視

総監は罷免,13日付けで大阪府警察局長,北海道

庁警察部長,警視庁特高警察部長,各府県警察部

長,各道府県特高課長・外事課長が休職となった

(以上高等官)。また地方庁判任官の休職が各地方

長官により14日一斉に発令され,以上の措置によ

る罷免警察官吏の総数は4,958人にのぼった。こ

れは,12日サザーランド参謀長に対し「下級警察

官吏ノ罷免免除及ビ警察部長,特高課長等ノ再任

命二付,好意的考慮」を求めて重ねて行われた堀

切新内相の「懇願」の結果を受けて執られた措置

である。また司法省機構では10月22日までに保護

観察所職員977人(他に兼務者9人),保護観察審

査会職員199人が罷免された。(20)ただし,思想

検察はかかる罷免の対象からはずされていた。

以上は天皇制統治機構と囲骨豊護持政治には大き

な打撃となったが,追放政策の始まりにすぎな

かった。教職追放にかぎらず指導者追放という政

治改革の大問題を直視し,日本側の抵抗・思惑と

GHQ側の妥協によって不徹底さを残しながら推

移していくその後のプロセスと結果の,文部行政

と公教育機構への影響を究めて方法的に考え抜く

ことは,戦後教育改革研究の欠くことのできない

重要なイッシュウである。

固骨豊護持政治の自由主義化

こうした情勢を背負いながら新内閣は11日の

マッカーサー指示に幣原流に即応して動き,

GHQ/SCAPとの正面衝突を避けつつ囲膿護持政

治の危機打開を主導的に図る方向へと舵を切っ

た。第一に,(推測によると)10月13日閣議で憲

法問題調査委員会の設置を決定(閣議了解),25

日には同委員会を非公式に発足させた。(21)政治

的社会的宗教的自由令後の新情勢に対応するべく

27日より,あくまで天皇の国家統治の大権擁護を

めざす憲法問題の調査審議が開始された事実は,

囲骨豊護持教育法制そのものの堅持を奨める動きと

して教育法制史的にも軽視できない出来事であ

る。

第二に11月26日招集の第89回帝国議会において

は,年齢20歳以上男女の選挙権,25歳以上男女の

被選挙権を定めた衆議院議員選拳法中改正法律

(昭20法律42),労働者すなわち「職業ノ種類ヲ間

ハズ賃金,給料其ノ他之二準ズル収入二依り生活

スル者」の団結権保障,団体交渉権保護を目的と

する労働組合法(昭20法律51),自作農創設強化や

小作料金納化等を図った農地調整法中改正法律

(昭20法律64)を次々と成立させて,囲骨豊護持的な

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吉 野 博 明

政治経済社会の機構と機能の自由主義的改良を日

本側主導で促進し社会改造を穏便な範域に納めよ

うと注目の転身を図ってゆく。

第三に,治安対策が放棄されたわけではむろん

ない。幣原内閣はGHQの治安確保態勢を見極め

ながら10月19日「大衆運動ノ取締二関スル件」(18

日司法省作成)を閣議決定,「共産主義者,朝鮮人,

華人労務者等ノ集会,大衆的示威運動等」には司

法権を発動し断固たる処置に出る方針を鮮明にし

た。(22)1945年末までの時期は,治安維持法的な

予防・事前取締姿勢を「根強く伏在」させつつ,

新情勢下「政治的自由を全面的に行使する大衆運

動をいかに規制,抑圧するか」を課題とした戦後

治安対策の模索期だった,といわれている。(23)

こうした治安維持的消極作用の対角に位置する前

田文政に,国民再統合への積極作用が期待されて

くるのは必然であろう。

以上囲腰護持をめざす憲法問題調査,地主制の

ドラスティックな改革回避,労働政策社会政策の

推進(大衆の体制内取り込み),司法権発動によ

る大衆的示威運動の取締強化等々これらは幣原内

閣の囲骨豊護持政治危機の打開策がそれぞれの側面

で現れたものとみられるが,その起動的位置を占

めていたのが新選挙法下総選挙の早期実施策で

あった。12月15日衆議院議員選拳法中改正法律が

成立すると幣原内閣は,労働組合法案,農地調整

法改正法律案の貴放院通過を待って17日解散奏講

の閣議決定へとじつに周到に動く。衆議院は18日

4年8ケ月ぶりに解散,幣原は1946年1月22日総

選挙実施を決断し(24)民心による囲腰護持政治の

自由主義的安定化に打って出ようとしたのであっ

た。こうした中11月6日の持株会社ノ解体二関ス

ル覚書MemorandumconcerningDissolutionof

HoldingCompaniesによる財閥解体への着手,12

月9日の農地改革二関スル覚書Memorandum

concerningRuralLandReformにもとづく地主

制の本格的解体に向けた動きが始まっていた。

前田文政の再転進

こういうわけであるから,幣原内閣前田文政の

実体は政治的社会的宗教的自由令以後の以上のよ

うな政治動向のなかでリアルかつ的確に掴まれる

必要がある。と同時に慎重な見極めを要するのは,

同令が前田文政と文部省をも極端な国家主義の醜

から解放した事実であろう。有光日記10月9日

(火)省議の記述にはこうある。(25)

2 前田文相留任挨拶

軍国主義的毒一教育二代ヘルニ,個性ノ完成卜国家

社会ヘノ奉仕ヲ目標トスル進歩的教育制度ヲ確立シ,

人文及ビ自然科学ノ振興二一段ノ努力ヲ致ス所存デア

ル。特二今日ノ変革期ニ,ヤヤモスレバ陥り易キ自暴

自棄的ナ気風ヲー掃シ,士気ヲ昂揚シテ道義ノ作興卜

進取ノ気風ノ振興トニ万遺漏ナキヲ期スル覚悟デアル。

事務能率ノ増進,人員半減,官紀振粛。

3 教学関係者中ヨリ軍国主義的又ハ極端ナル国家主義

的傾向ヲ排除スルコトニツイテ前田文部大臣ノ希望。

1 democracyハ可ナルモ訳語ハヨクナイ。民主主義

ヲ振リマハサヌコト。文部省ハ「民意ノ暢達」デ行

キ度。

Z 専制,寡頭,貴族主義二対スル意味デノdemocracy

ナレバ立憲君主主義等ハ十分包含スルモノト考フ。

ここに戦後文部行政史上はじめて公教育から極

端な国家主義の排除が,その実体はどうであれ,

課題祝されるに至ったのである。が,極端な国家

主義に代わるのは民主化ではなく,立憲君主主義

にもとづく「民意ノ暢達」路線であった。このよ

うな枠組みは10月15・16日に文部省が開催した新

教育方針中央講習会(於:東京女子高等師範学校講堂)

での,前田文相をはじめ文部省首脳の教育施政方

針演述に如実に現れている。つまり前田が従前の

慎重さを脱しこうして攻勢に転じたのには,それ

を可能にする現実的政治基盤が生まれたというこ

とである。教育自主改革をめざして「文部省ノ政

治力強化」が課題祝され始めるのは,政治的社会

的宗教的自由令を決定的契機とした内務省の威信

低下という,新しい政治環境のもとにおいてで

あった。教育管理諸法令はこうして再転進を始め

た前田文政に向けられたものだったのである。

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戦後日本の初期政治改革と教育管理(1)

ミードJ.Ashmead,ドノヴァンE.R.Donovan,

ホール,ワンダリックH.J.Wunderlichの10名に

増員されている。

こうみてくるとCI&Eの正式発足直後の,教

育・宗教担当部門の少なくとも量的な(そしてた

ぶん教育専門的にも)人員不足は否めない。この

ことは初期対日教育管理に不十分さが生まれざる

を得なかったことを示唆するものであって,初期

政治改革が日本政治の民主主義化に礎石を築いた

とみなされるとはいえ,われわれにはその支翼た

る教育管理を過大に評価するのを避ける努力が求

められるといえよう。

教育管理にかんする覚書の実際

教育管理にかんする諸覚書のうち従来から「四

大教育指令」と呼ばれて日本教育改革への地なら

しをしたとみられてきたのは,先掲の①1945(昭

20)年10月22日の日本教育制度ノ行政二関スル覚

書,②同10月30日の教職員ノ調査,精選,資格決

定二関スル覚書,③同12月15日の国家神道(神社

神道)ニ対スル政府ノ保言登,支援,保全,監督並

二弘布ノ廃止二関スル覚書,④同12月31口の修身,

日本歴史及地理ノ学科課程停止二関スル覚書で

あった。けれどもGHQの発した教育管理の覚書

はこれらだけではなく,また上の③は第一義的に

は国家と神社神道の分離を命じる政治改革法令の

性格をもつ。そこで念のために,以上のほか1946

年1月までに発せられた教育関係の主な覚書を掲

げておくと,次のとおりであった。

1945(昭20)年

10月16日 映画企業二対スル日本政府ノ統制ノ撤廃二関

スル覚書MemorandumconcerningEliminationof

JapaneseGovernmentControloftheMotionPicture

Industry

lO月24日 信教ノ自由二関スル覚書MeITK)randumconceming

ViolationofReligiousFreedom

ll月12日 美術品,記念物,及文化的並に宗教的地域,施設

ノ保護二関スル政策及手続二関スル覚書Memorandum

COnCerningPoliciesandProceduresRelatingtothe

ProtectionofArts,Monuments,andCulturaland

ReligiousSitesandInstal1ations

2 日本教育管理の根本方針

(1)対日教育管理の開始

民間情報数育局Cl&Eの発足

GHQ/SCAPが正式に設立されたその同じ日の

10月2日,特別参謀部SpecialStaffSectionの一

部局として,教育,新聞,放送,出版,演劇,映

画,宗教,文化財等々の業務を担当する民間情報

教育局CivilInformationandEducationSection

(以下CI&Eと略称)がUSAFPACのCI&Eからそ

のまま移行する形で正式に発足する。事務所は引

き続き内幸町の東京放送会館に置かれた。初代の

CI&E局長はダイク陸軍大佐Col.KennethR.

Dyke(のち陸軍准将)であった。

CI&Eの機構と人事をGHQ/SCAPの電話帳に

着目して究めようとした研究によると(26),1946

年5月までの期間は課・蛙・係などのCI&E内

部機構は未成立で,電話帳には職務分担が並列的

に示されているにすぎない。発足直後の10月段階

ではCI&Eは統括部Executive,運営部Admi-

nistrationなど総務部門のほか,企画,指揮,報

道,編集案出Editor,放送Radio,社説,雑誌,

写真,言語,映画の諸部門(幹部人員18人)で出発

していた。教育や宗教部門はとくに名付けて設け

られていないが,編集案出担当者として電話帳に

名のあるヘンダーソンH.G.Henderson,ファー

E.H.Farr,ホールR.K.Hallがこの事務に従事

していたと推測されている。11月になると,総務

部門のほか企画,新聞・出版,教育・宗教,放送,

言語,映画,調査・分析など「のちの内部構成の

原型と覚しきもの」で編制されるが(幹部人員20人),

教育・宗教を担当したのは上記3名で,ヘンダー

ソンが責任者だったと思われる。なお11月末から

12月初めごろには教育・宗教部門が教育と宗教の

二つに分割されたとする指摘がある。(27)また

1946年1月の電話帳が記す教育部門担当スタッフ

は,主任官ニュージュント陸軍中佐Lt.Col.D.R.

Nugentを筆頭に,ファー,アロウッドR.W.

Arrowood,マッカレンH.G.McAllen,ノー

ヴイールJ.W.Norviel,オアM.T.Orr,アッシュ

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吉 野 博 明

11月18日 商業用並二民間航空事業二関スル覚書

MemorandumofCommercialandCivilAviation(第

5項に注目。)

1946(昭21)年

1月9日 日本の教育者委員会に関する覚書Memorandum

COnCerningCommitteeofJapaneseEducators

l月17日 日本教育制度施行に関する1945年10月22日附

の聯合国最高司令官の指令の適用に関する覚書

MemorandumconcerningApplicationofSCAP

DirectiveAG350(220ct45)onAdministrationof

EducationalSystemofJapan

l月28日 映画検閲二関スル件(仮訳)Memorandum:

MotionPictureCensorship(28)

政治管理の一環たるCI&Eの対日教育管理の

実像は,10.4自由令を起点にこれらが形づくって

いる鎖の環の一々を相互の聯関に注意しながら整

序することを通路として丁寧に究められるべきで

ある。以卜時系列に即しまずは45年10月段階の諸

覚書を通覧することから出発するゆえんである。

た覚書の一つとして戦後教育改革立法史に正当に

位置づけられていい。ちなみに映画自由令は12月

26日映画法廃止法律(昭20法律61),映画法施行令

廃止ノ件(昭20勅令714),同施行規則廃止(昭20閣・

内・文・厚令1)等により,極端な国家主義的統制

を廃し「映画の自由の確立」(30)へと展開してゆ

く。

教育制度経営管理令

10月22日の日本教育制度ノ行政二関スル覚書

(以下教育制度経営管理令または10.22覚書と略称)は,

発足したばかりの新内閣に,教育にかんする「占

領ノ目的及ビ方針」を知らしめることを本旨とす

るものではあった(1項)。これを起草したのはR.

K.ホールであったとみられている。(31)内容を丁

寧に検討してみて著者が注目したのは,第一に,

「一切ノ教育ノ内容」に対する批判的な検討,改

訂,統制を方向づけた経営管理administrationの,

次のような二項目の方針,つまり「教育の根本

方針」(32)を定めた第1項a号の規定である。

(1)軍国主義的,並二極端ナル国家主義的観念ノ普及ハ

コレヲ禁止シ,凡ユル軍国主義的教育及ビ訓練ハ之ヲ

中止セラルベシ

(2)代議政治representativegovernment,国際平和,個

人ノ尊厳,思想及集会,言論,信教ノ自由ノ如キ基本

的人権ト調和スル概念ノ注入卜実践ノ樹立ハ奨励セラ

ルベシ

これらはポツダム宣言第10項中・後段や初期対

日方針の第1部(究極ノ目的)前段b項や第3部(政

治)a項の政治改革根本原則を公教育に敷術した

規定として,直接教育管理を対象としなかった政

治的社会的宗教的自由令第1項を補完する意義を

担って登場したと解しうる。そのような意味で教

育制度経営管理令は政治的社会的宗教的自由令と

一体に読まれるべきものであろう。しかしながら

上記二つの規定は(軍国主義的・極端な国家主義

的な観念の)普及や教育訓練の禁止中止,(代議

制・国際平和・人権に調和する概念の)奨励を規

定するに止まっていて,それは,教育法令の改廃

を指令する規定ではなかった。

第二に,第1項b号にあらゆる教育機関の教職

(2)10.4自由令直後の教育管理諸法令

映画自由令

10月16日の映画企業二対スル日本政府ノ統制ノ

撤廃二関スル覚書(以下映画自由令と略称)は,「映

画二於ケル,言論ノ自由」(映画人の表現の自由)

への「平時並二戦時制限ノ実施ノ為ノ諸手続ヲ直

チニ無効」にするために,映画検閲の禁止規定を

もつ9月27日の新聞,言論ノ自由ヘノ追加措置に

関する覚書MemorandumconcerningFurther

StepstowardFreedomofPressandSpeechに

追加する形で(1項),また映画検閲等を任務とし

た内務省警保局等の廃止を定めた先掲10.4自由令

の意図の映画企業,映画人に対する適用をより明

確にする趣旨(2項)で発せられたものであった。

同時に9月15日新聞報道の,文部省の「新日本建

設ノ教育方針」が「美術,音楽,映画,演劇,出

版等国民文化ノ興隆二付具体案ヲ計画中デア

ル」(29)と,広く映画等の興隆を含めて社会教育

方針を開明していたことに鑑みれば,全11項にわ

たるこの覚書は広い意味で社会教育管理に関連し

10

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戦後日本の初期政治改革と教育管理(1)

員の「調査,認可若クハ退職,復職,任命,再教

育及ビ監督」の根本方針が規定されたのにも同様

の省察が要る。軍国主義者,極端な国家主義者の

教職追放,自由主義的反軍国主義思想・活動によ

る解職者等の教職復職を規定してこうある。

(1)教師及ビ教育職員ハ可及的速カニ之ヲ調査シ,一切

ノ職業軍人,軍国主義,及ビ極端ナル国家主義ノ積極

的提唱者,並二占領ノ方針二積極的二敵意ヲ有スル者

ハ退職セシメラルベシ

(2)教師及ビ教育職員ニシテ自由主義的,又ハ反軍的思

想又ハ活動ヲ行ヒタル廉ニヨリ解職,休職,又ハ辞職

ヲ強制セラレタル者ハ直チニ復職シ得ベキコトヲ宣言

シ,モシ適当ナル資格ヲ有スルトキハ優先的二復職セ

シメラルベシ

初期対日方針第3部(政治)a項教育関係事項

の具体化規定,また10.4自由令第1項e号の意図

を教職に適用しこれを補う規定とみられよう。第

1項a号の教育根本方針規定を実現する手段とし

て,なによりも軍国主義者,極端な国家主義者の

教職追放・自由主義者等の復職が不可欠とみられ

たのはここに明瞭である。が,それいじょうに剖

目を要するのはこれらに続く以下の三項目であろ

う。

(3)人種,国籍,信条,政治的意見,又ハ社会的地位ヲ

理由トスル生徒,教師,又ハ教職員二対スル差別的待

遇ハ之ヲ禁止セラルベク斯ル差別ヨリ生ズル不衡平ヲ

是正スルタメ直チニ必要ナル措置ヲ採ルベシ

(4)生徒,教師,及ビ教育職員ハ教育ノ内容ヲ批判的ニ,

理智的二評価スルコトヲ奨励サレ,政治的,市民的civn,

及ビ宗教的自由二係ハル問題ノ自由且ツ無制限ノ討議

ヲ許可セラルベシ

(5)年徒,教師,教育職員,及ピー般公衆ハ占領ノ目的

及ビ方針,代議政治ノ理論卜実際,並二国民ヲ戦争二

捲込ミ,ソノ不可避ノ結果トシテ敗北,困窮,及ビ日

本国民ノ現在ノ悲シムベキ状態ヲ斎ラシタル軍国主義

指導者,ソノ積極的協力者,及ビ消極的追随者ノ演ジ

タル役割等二関シテ報道ヲアタヘラルベシ(以上1項

b号)。

ここに人種,国籍,信条等を理由とする生徒・

教師らへの差別を禁じた(3)は文部省等教育行政棟

関や国公私立学校の機構と機能にかかる規定であ

り,生徒・教師・教職員への人種・国籍・信条等

による差別待遇禁止文言の実現には当時現行教育

法令のなんらかの改廃措置を要したはずとみられ

よう。にもかかわらず,続くかかる差別で生じた

不公平措置是正の指令規定は,日本の当時現行制

度の自由主義的運用を指示する傾きをつよくも

つ。教育の内容への批判的理智的評価の奨励を求

めた(4)は,学校の経営管理に生徒,教師・教育関

係官吏の探究の自由保障を求めた規定である。こ

こに「政治的市民的及ビ宗教的自由」に「係ハル

問題ノ自由且ツ無制限ノ討議」の許可とは,10.4

自由令第1項a号(1)にいう「天皇,天皇制及日本

帝国政府二関スル自由ナル討議」の教育版として,

1890年教育勅語等への自由討議(解釈,批判,改

廃論議)を含意すると解しうるが,具体的な明示

はない。さらに(5)が占領の目的と方針,代議制統

治の理論と実際,軍国主義指導者・積極的協力

者・消極的追随者の演じた役割にかんする,今流

にいえば知る権利の保障を求めているのには注目

できようが,指示の仕方がなんとも具体性を欠く。

こうして第1項b号は教職追放の根本方針のみな

らず,教育界から軍国主義・極端な国家主義を除

去するための当時現行制度の経営管理,つまり教

育法令達用の根本方針を具体的に規定する性質を

帯びていた。教職追放はそのために必要不可欠な

手段とみられたように思われる。

第三に第1項C号には,「教育棟構instrumentalities

ofeducationalprocess」すなわち教育の過程の技

術的手段の批判的吟味,改訂,統制にかんする根

本方針が3点にわたり規定されている。

(1)現存ノ学科curricula,教科書,教範teachingmanuals,

及び教材ハソノ使用ヲ緩急ノ必要二基キー時的二許可

セラルルモ,可及的速カニ之ヲ検討シ,軍国主義的又

ハ極端ナル国家主義的観念ノ促進ヲ目的トスル箇所ハ

除去セラルベシ

(2)教養アリ,平和的ニシテ責任アル市民citizenヲ作リ

アゲントスル新規ナル学科,教科書,教範,及び教材

ヲ可及的速カニ準備シ,現在ノモノニ代替セシムベシ

(3)正常二活動スル教育制度educationalsystemハ可及

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吉 野 博 明

的速カニ再建セラルベシ。但シ施設ガ限ラレタル場合

ハ,国民学校数育elementaryeducation,及ビ教師養

成teachertrainingヲ優先的二取り扱フベキモノl、ス

(以上1項C号)

11月以降教師用指導書の作成作業や教科書改訂

作業は急ピッチで進んだし,12月末の公民教育刷

新委員会答申や修身国史地理停止令が新しい教

科,社会科の創設に向けた改革作業をプッシュす

るなど(33) ,これら第1項C号の諸規定は,

CI&Eとの間に実務上の乱傑がなくはなかったと

はいえ(34),概して順調に実施されたとみられる。

なお第2項は文部省とCI&Eとの連絡保持と本

指令諸規定実施措置にかんする報告書の提出を,

第3項は日本政府官吏,公私立学校教員・学校職

員の本指令遵守を求めた規定であった。

以上をふまえると,第一に10.22覚書は,政治

管理の支翼の一つではあったが,題名のとおり当

時現行教育制度の経営管理の根本方針を定める趣

意を具体化したものとなっている。このような意

味でそれは教育関係諸覚書の中心に位置する。第

二に,その経営管理の根本方針には公教育からの

軍国主義,極端な国家主義の除去と政治的社会的

精神的自由の確立という二つのイッシュウをセッ

トに,つまり同じ事柄を別の側面から言い表しな

がら登場していることを摘出できよう。軍国主

義・極端な国家主義批判論と政治的社会的精神的

自由論の尭離はそれぞれの未確立未達成を産みや

すく,教育法令の運用面への指令とはいえこの視

点にはくれぐれも注意が必要である。

しかしながら第三に,ドロップさせてならない

のは,10.4自由令が極端な国家主義の法制度や機

構を人的要素を含めて具体的に標的にして,それ

らの廃止,機能停止,追放を指令していたのに対

し,教育制度経営管理令には改廃を要する教育法

令への言及,追放該当例の指摘がまったくなく,

自由討議の具体的対象事項などの明示すらないと

いう冷厳な事実である。経営管理の根本方針を規

定したのだからあたりまえと見る向きもあるかも

しれないが,じつはこのことはCI&Eが初期教

育管理において教育法制の根本的改革を指向して

いなかったことを示唆している。ここにCI&E

の日本教育法制に対する研究不足は否めず,当然

の結果としてこの覚書は10.4自由令の作用とは著

しく異なって,当時現行の日本教育法制の諸法令

改廃に直接大きく連動することはなかった。軍国

主義・極端な国家主義の除去と政治的社会的精神

的諸自由を教育法令の運用面において指令すると

いうこの根本方針の向きが,前田文政の姿勢を生

かしてしまう性質を帯びてくるのは必定であろ

う。戦時教育改革法制の改廃措置が遅延するのに

はかかる事情がからんでいる。

信教の自由侵害是正令

10月24日の信教ノ自由二関スル覚書(以下信教の

自由侵害是止令と略称)は,外国のキリスト教徒に

よって設立維持される教育機関が軍国主義的,極

端な国家主義的目的に悪用されたことに注意を喚

起した指令であった。立教学院が顕著な事例に上

げられたことから,この信教の自由侵害是正令は,

第一に,同学院の総長,大学部学監(兼中学校長),

生徒指導主事などの解職,彼らの公私教育機関宗

教施設等への就業禁止,同学院の改組・寄附行為

にしたがった経営を指令することとなっている

(4項aC号)。と同時に第二に,その他のキリス

ト教系学校についても,戦争中解職せられた職員

の表と解職理由,解職者に代替された職員すべて

の表と任命事情,キリスト教的礼拝や教育の変更

点,財産への蛮行・破壊損傷行為等にかんする調

査と報告が命じられていることを見落としてはな

らない。(同前d号)

キリスト教系私立学校に限定された覚書とはい

え,教職員,学生・生徒のキリスト教信仰の自由

の問題が軍国主義的,極端な国家主義的な分子お

よび措置の除去ということと不可分に提示されて

いて,それらが個別私立学校の経営管理のあり方

をそれぞれ別の側面から言い表して登場している

のにはくれぐれも注意深い観察が必要であろう。

教職員適格審査令

続いて10月30日教職員ノ調査,精選及資格決定

二関スル覚書(以下教職員適格審査令または10.30覚書

と略称)が発せられたが,これは先掲教育制度経

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戦後日本の初期政治改革と教育管理(1)

(昭21勅令263)においてであった。

1945年10月段階の教育関係覚書の内容はおおむ

ね以上のとおりである。ここに重要なことは,第

一に,広く社会教育管理を含んだ教育の経営管理

の根本方針においても,10.4自由令に顕著な政治

的社会的宗教的自由の制限撤廃と軍国主義・極端

な国家主義除去の表裏不可分の関係を析出できる

という点であろう。それは幣原内閣前田文政の

辿った歴史過程の実体と本質を批判的に究明すめ

るための方法的な鍵の一つである。

しかしながら第二に,CI&Eの教育管理には,

公教育分野の政治的社会的宗教的自由の制限撤廃

=軍国主義・極端な国家主義の除去という主題に

とって不可欠だったはずの,法制的な具体的アプ

ローチの姿勢が著しく稀薄であった。つまり

CI&Eの教育管理は囲骨豊護持教育法制の機能の自

由主義化を促す向きに作用はしても,その根本的

改革を遅らせる大きな要因の一つを作っているよ

うに著者には思われるのである。この点を見逃す

とCI&Eの教育管理に対する過大な評価が生ま

れかねないので,あえて一言するしだいである。

営管理令第1項b号(1)の規定をより具体化する形

で,また10.4自由令第1項e号の規定を敷術する

位置を担っているとみて的をはずすことはないだ

ろう。ホールが起草し,ヘンダーソン,ファー,

バンスとの討論,ダイク局長との検討を経て決定

されたとみられている。(35)

第一に,第1項では,教職追放の原則すなわち

日本の教育機構より「軍国主義的,極端ナル国家

主義的諸影響ヲ払拭」し,「軍事的経験或ハ軍卜

密接ナ関係アル教員並二教育関係者ヲ雇傭スルコ

トニ依テ右思想ノ影響継続ノ可能性ヲ防止」する

ための根本方針を三つにわけて規定していた。

a.軍国主義者トシテ,極端ナル国家主義者トシテ,又ハ,

聯合筆ノ占領ノ臼的及ビ政策二対スル反対者トシテ知

ラレ,且ツ現在日本ノ教育事業二現実二従事セルー切

ノ人ハ直チニ解職サレ,日本ノ教育事業二於ケル如何

ナル地位モ占ムコトヲ禁止セラルベシ

b.現在日本ノ教育事業二現実二従事セルー切ノ他ノ人

ハ追ツテ指示アル迄文部省ノ裁量二依り現職二留マル

コトヲ許サルベシ

C.現ニR本軍隊二属シ,又ハ終戦後R本軍隊ヨリ復員

セルー切ノ人ニシテ,現在日本ノ教育事業二現実二従

事セザルモノハ追ツテ指示アル道本ノ教育事業二於ケ

ル如何ナル地位占ムコトヲ禁止セラルベシ

第二に,審査機関の設置,審査手続,これらの

報告要求を指示した規定も重要である。すなわち

第2項は,現職の教師・教育職員,将来これらに

就く候補者のうち「(いかなる者が適当な資格を

有し)如何ナルモノガ日本ノ教育事業二従事スル

ニ不適当ニシテ,ソノ如何ナル地位ヨリモ解職,

除外,禁止セラレザルベカラザルカ」を決定する

ために,まず調査,適格審査および資格決定を行

うための「適当ナル行政機関卜手続キ」を設ける

こと(2項a号)を,次いで審査機関と手続きにか

んする文部省の措置を記した報告書をできるだけ

すみやかにGHQに碇出すべきこと(2項b号)を

定めていた。が,これが実施に移されるのは,1946

年5月7日の昭和二十年勅令第五百四十二号「ポ

ツダム」宣言ノ受諾二伴ヒ発スル命令二関スル件

二基ク教職員ノ除去,就職禁止及復職二関スル件

3 11月3日の初期基本的指令

(1)初期基本的指令とは

ところでポツダム宣言の内容を敷術した根本方

針をSCAPに指示して日本管理を方向づけた政

策文書には,9.22初期対日方針のほかにもう一つ

重要な指令が存する。当時公表されなかったが,

1945年11月3日の日本占領及び管理のための聯合

国最高司令官に対する降伏後における初期の基本

的指令BasicInitialPostSurrenderDirectiveto

SupremeCommanderfortheAlliedPowersfor

theOccupationandControlofJapan(以下初期基

本的指令と略称)(36)がそれである。米国の陸軍省海

軍省の間を調整する統合参謀本部JointChiefsof

Staff(以下JCSと略称)から発せられたこの文書は

その成立経緯からみても「『初期の対日方針』の

延長線上に位置する」(37)ものであった。

指令の目的・範囲を定めた第1項,総則的政治

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吉 野 博 明

改革的な2~10項(第1部),経済改革・民生物資

供給および救済を定めた第11~33項(第2部),財

政金融改革規定の第34~50項(第3部)から成る

この文書は,SCAPに対する軍令的な政策文書

であって,直接日本政府に宛てられたものではも

ちろんない。けれども日本管理法令のなかに占め

るその位置と意義は9月22日の初期対日方針と同

様に考えてよく,それはポツダム宣言の根本原則

を一般および政治(第1部),経済および民生物資

供給(第2部),財政金融(第3部)の三分野にあら

ためて敷術し直し,同宣言と関連各種覚書等との

間を架橋して,SCAPに対しその具体化をさら

に促すデイレクティヴであった。なおSWNCC発

の初期対日方針は三省協調(調整)委員会指令

(SWNCC指令),JCS発のこの文書は統合参謀

本部指令(JCS指令)と呼ばれることがある。(38)

間義勇隊・憲兵隊を含むすべての軍事組織・準軍

事組織さらに在郷軍人会その他の軍国主義的団体

の恒久的解体,航空機を含む軍用器材の押収・破

壊,生産停止,日本の潜在的戦争能力を破壊する

適当な措置が明示され,第7項では①軍事参議

院・元帥府・大本営・参謀本部・軍令部の構成員

全部,②憲兵隊の将校全部および陸海軍将校のう

ち好戦的国家主義者・侵略の重要な推進者全部,

③超国家主義的結社,暴力的結社および愛国的秘

密結社の枢要な会員全部,④戦争犯罪人容疑者等

の逮捕・抑留,さらには政治経済金融その他で侵

略計画策走実行に重要な役割を演じた者や大日本

政治会,大政翼賛会,大政翼賛政治会等の幹部全

部の抑留などがより具体的に規定されていた。

軍国主義・超国家主義イデオロギーの弘布禁止

および国家神道への援助停止

第二に,第9項「政治活動」には次のような規

定があった。

(a)日本の軍国主義的及び超国家主義的イデオロギーと

宣伝とのいかなる形式における弘布も,禁止されかつ

且つ完全に抑圧される。貴官は,R本政府に対し国家

神道施設への財政的その他の援助を停止するように要

求する。

(e)信教の自由は,日本政府によって速ゃかに宣言され

るべきである。貴官の軍事占領の安全及びその目的の

達成が害われない限度において,又上記第9節(a)及び

(c)に従うことを条件として,貴官は,意見,言論,出

版及び集会の自由を確実にする。

ここに注目は,軍国主義・極端な国家主義イデ

オロギーの弘布禁止の具体的標的として,国家神

道施設NationalShintoestablishmentsが掲げら

れたことである。かかる規定が12月15日の国家神

道(神社神道)ニ対スル政府ノ保言筐,支援,保全,

監督並二弘布ノ廃止二関スル覚書に敷術具体化さ

れて,これの発出を強くプッシュする役割を演じ

たのはいうまでもない。また意見,言論,出版,

集会の自由に先駆けてなによりも「信教の自由」

のすみやかな宣言を日本政府に求めるよう指令し

ているのも重要な観察ポイントであろう。かくし

て神社崇敬は宗教上の信仰ではないと言い続ける

(2)政治改革の根本方針

間接統治と非軍事化規定

では第1部「一般及び政治」の諸規定が定める

政治改革方針の内容を手短に概括しておこう。第

一に初期基本的指令は,その成立経緯から当然に

推論できるように,初期対日方針と同旨のあるい

はこれをさらに補強し後押しする規定を有する。

最初にSCAPの権限authority権力powerの最

高性を確認しながら,その権力は「日本国天皇又

は日本政府を通じて」行使すべきだと言い(2項),

聯合国の終局の目的はポツダム宣言の実施にある

としている。(3項)SCAPの軍事的権限を確立し

て,ポツダム宣言の「達成を阻害」しまた降伏文

書やJCS指令に抵触する「すべての法律,命令,

規則」や「政治的及び市民的civil自由の制限と,

人種,国籍,信仰又は政見による差別とを設け且

つ維持したすべての法律,命令,規則」の廃止を

求めていること(4項f号)などには,CI&Eの教

育管理との関連で教育法制史的にも留目があって

いい。

次いで第6項では,憲兵隊・民間義勇隊・すべ

ての準軍事組織の武装解除,軍事参議院・元帥

府・大本営・参謀本部・軍令部・陸軍・海軍・民

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戦後日本の初期政治改革と教育管理(1)

内務省,文部省がこれら規定の標的となった。

指導者追放規定

第三の注目点は,初期基本的指令が初期対日方

針該条項を超出してさらに政治,経済,金融等日

本社会全分野の指導者追放をSCAPに指令した

ことである。第5項「政治的及び行政的改組」は

追放という地方・中央行政機関の機能存続条件を

明示(a号)のうえ,追放該当者には内大臣,枢

密顧問,内閣総理大臣,閣僚を含めうる旨示唆(C

号),受け容れがたい裁判官・裁判所員の排除(e

号)を明記したほか,さらに次のような規定を有

していた。

(b)下記第7節(C)に示されている場合を除き,好戦的国

家主義及び侵略の積極的推進者,日本の起国家主義的

結社,暴力的結社,又は愛国的秘密結社,その出先機

関又は参加団体の有力な会員であった者,下記第5節-

(g)に列挙されている他の団体の活動に勢力をもってい

た者又は軍事占領目的に敵意を示した者は,いかなる

事情の下においても公職又は公的企業若しくは重要な

私的企業における責任ある又は有力ないかなる他の地

位をも保持することをゆるされない。

(f)司法及び普通警察機関並びに貴官が適当な監督の下

に残置することを適当と考えるような他の警察機関か

ら信頼しがたい分子,好ましくない分子,特に超国家

主義的結社,暴力的結社及び愛国的秘密結社の会員を

追放しなければならない。

(g)日本全国を通じて,貴官は,大日本政治会,大政翼

賛会,大政翼賛政治会,これらの参加団体及び出先機

関又は後継団体並びに日本のすべての超国家主義的結

社,暴力的結社及び愛国的秘密結社,これらの出先機

関及び参加団体の解散を確実にする。(以上5 政治的

及び行政的改組)

初期基本的指令が10.4覚書の範囲を超えて,指

導者追放の対象エリアを日本の統治機構・社会全

体に広げるよう求める指令だったのはここに明ら

かである。その実施と帰趨が文部行政の展開の仕

方に作用するのも不可避だったといえよう。

針をもっていたかというに,第1部第10項がこれ

に言及していた。以下はその全文である。

10 教育,美術及び文書

(a)教育機関は,できる限り速やかに再開される。好戦

的国家主義及び侵略の積極的推進者であったすべての

教師及び軍事占領の目的に積極的に反対し続けている

すべての教師は,受け容れうる有資格後継者と取り替

える。すべての学校における日本の軍事的及び準軍事

的教育及び教練は,禁止される。貴官は,貴官に受け

容れられる教科がすべての学校で採用され,そのうち

には上記第3節(a)に示されている観念を含むことを確

保する。

(b)貴官は,すべての政府事業,準政府事業,重要な民

間の金融,産業,製造及び商業会社並びに上記第5節

(f)に述べられている日本の記録を,貴官の参考及び使

用の目的のために保存させるべきである。

(c)貴官は,できる限りすべての歴史的,文化的及び宗

教的物件を占領軍その他によって略奪されないよう保

護させかつ保存させる。

みられるように初期基本的指令は,初期対日方

針とは違って教育文化分野の方針を項を起こして

述べている。が,第10項a号のそれは,10.22教

育制度経営管理令等ですでに着手済みの事項であ

る。文書保存の方針を教育・文化事項に包括して

指示したb号,11月12日の美術品,記念物,及文

化的並に宗教的地域,施設ノ保護二関スル政策及

手続二関スル覚書との関連では歴史的文化的宗教

的物件保護を規定したC号は留目に催しようが,

教育・文化の改革方針が全体として日本教育改革

への積極的インパクトに欠けるのは否めない。

しかしながら政治改革にかんする該条項がポツ

ダム宣言との間を架橋して神社神道国家的保護廃

止令や公職追放令・或る種政治団体等廃止令に敷

術具体化されていくのは疑いなく,戦後教育改革

史研究はこの軍令的政策文書の日本管理法令的性

格をもっと注視するべきだろう。(続く)

(1)1945(昭20)年10月5日朝日新聞

t3)教育改革の根本方針

次に初期基本的指令はどのような教育改革の方

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吉 野 博 明

(2)『加藤周一対話集②』(かもがわ出版,2000),12-13頁(初

出は『朝日ジャーナル』1959年8月9日号)。

(3)荒敬『日本占領史研究序説』(柏書房,1994),26貞。

(4)「政治的,公民的及宗教的自由二対スル制限除去ノ

件(昭20,10,5)」,粟屋憲人郎編『資料日本現代史3敗

戦直後の政治と社会②』(大月書店,1981),237頁。竹前栄治,

『占領戦後史』(双柿社,1980),103頁。荒敬,前掲書,

28頁。

(5)同前「政治的,公民的及宗教的自由二対スル制限除

去ノ件」,竹前栄治,同前書,155頁。在任期間の表示は,

大蔵省財政史室編・秦郁彦薯『アメリカの対日占領政

策』(昭和財政史~終戦から講和まで~第3巻,東洋経済新報社,

昭51)巻末の「付属資料」中「Ⅵ.連合国の主要占領機

構担当者一覧」(43頁以下)に拠った。

(6)昭和20年10月6日朝日新聞,「吉田外務大臣『サザー

ランド』参謀長会談録」粟屋憲太郎編,前掲書,238頁。

(7)荒敬,前掲書,28-30頁,粟屋憲太郎編,同前書「解

説」,440-447頁。

(8)昭和20年11月15日付け「執務報告(第1号)終戦連絡

中央事務局第一部」,粟屋憲太郎編,同前,210-228頁。

(9)外務省特別資料部編『日本占領及び管理重安文書集』

第2巻(外務省,昭24),118頁,引用は復刻本(日本図書

センター,1989)から。

(1¢)粟屋憲太郎編,前掲書「解説」,443頁。

(川 今枝信雄編『戦後自治史Ⅵ(公職追放)』(自治大学枚,

昭39),36-37頁,荒敬,前掲書,29頁。

(1勿 今枝信雄編,同前書,36頁。

(13)昭和20年10月10日付け「聯合軍最高司令部発日本帝

国政府二対スル覚書」,粟屋憲太郎編,前掲書,243-244

頁,今枝信雄編,同前書,37-38頁,荒敬,前掲書,29

頁。

(14)前掲「執務報告(第1号)」および荒敬,前掲書,29

頁および36頁の睦帥など。

(15)昭和20年10月22日附日本政府発聯合国軍総司令部宛

覚書,粟屋憲太郎編,前掲書,245-247頁,竹前栄治,

前掲書,156頁。

(16)粟屋憲太郎編,同前書「解説」,443-444頁。

(17)二村一夫「戦後社会の起点における労働組合運動」

参照,渡辺治編『戦後改革と現代社会の形成(日本近現

代史4)』(岩波書店,1994)所収。

(18)江藤淳編『占領史録3憲法制定経過』(講談社,1989),

111-114頁,なお原秀成『日本国憲法制定の系譜Ⅲ 戦

後日本で』(日本評論社,2006)792795頁を参照した。

(1錦 岡前。

餉 前掲「執務報告(第1号)」。

帥 佐藤達夫『日本国憲法成立史』第1巻沌斐閥,昭37),

252-253頁。

佃 粟屋憲太郎編,前掲書,244-245頁。

錮 同前,「解説」,445頁。

糾 昭和20年12月18,19日朝日新聞,升味準之輔『日本

政治史4占領改革,自民党支配』(東京大学出版会,1988),

69貞など。

錮 『有光次郎日記』(第一法規,平元),827頁

郎)佐藤秀夫「連合国軍最高司令官総司令部民間情報教

育局の人事と機構について」『連合国軍最高司令官総司

令部民間情報教育局の人事と機構』(国立教育研究所,昭

59)。

佃 大原康男『神道指令の研究』(原書房,平5)は12月3

日(8頁),片上宗二『日本社会科成立史研究』(風間書房,

平5)は11月28日(83頁)としている。

鯛 文部大臣官房文書課編『終戦教育事務処理提要』第

2輯(昭21),106-107頁。引用は復刻本(国書刊行会,平

9)から。

佃 文部大臣官房文書課編『終戦教育事務処理提要』第

1輯(昭20),68頁。引用は¢鋸こ同じ。

鍋 田中二郎「法令解説 映画企業に対する日本政府の

続制の撤廃に関する覚書」,日本管理法令研究会編『日

本管理法令研究』第1巻第4号(大雅堂,昭21),56頁。

帥 鈴木英一『日本占領と教育改革』(勤草書房,1983)64-65

貞。

舶 田中二郎「法令解説 概説」日本管理法令研究会編,

前掲書,36・37頁,横田喜三郎「法令解説 日本ノ教

育制度ノ行政二関スル覚書」,同69頁。

餉 久保義二『占領と神話教育』(青木書店,1988)第1・

2章,片上宗二,前掲書,第2・3章参照。

朗)読売新聞戦後史班編『昭和戦後史・教育のあゆみ』(読

売新聞社,1982),113頁以下,久保義三『昭和教育史』

下巻(三一書房,1994),52-54頁。

㈲ 鈴木英一,前掲書,69頁。

郎)出典は『日本占領管理重要文書集』第1巻(外務省政

務局特別資料課,昭24),111-166頁。ただし日付は秦郁彦

前掲書に「11月3日SCAPへ伝達」とあり(182頁),ま

た増田弘「公職追放令(SCAPIN-550・548)の形成過

程」(『国際政治』85,1987)にも「11月3日」「GHQへ公

式に伝達される」とある(82頁)のに拠った。

郎)増田弘,同前論文,82頁。

㈱ H.オズワルド著/袖井林二郎訳『指導者追放』,増田

弘,同前論文参照。

*なお注を付していない覚書は『日本管理法令研究』(大雅堂)巻

末の「法令条文」欄を典拠とした。

(北海道教育大学名誉教授)

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