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二葉亭四迷『浮雲』における受身表現の選択 せき かず 同志社大学日本語・日本文化教育センター嘱託講師 キーワード 小説テクスト,二葉亭四迷,人称,語り手,被視点人物,受身表現 要旨 本稿では、二葉亭四迷の『浮雲』において有情物が被視点人物となる受身表現を対象に 考察を行った。その結果、客観的に捉えていた主人公以外の人物に焦点を当てる場合には、 語り手は主人公から焦点を移動させて主人公以外の人物を被視点人物にした受身表現が 選択され、それが文脈転換の起点になること、その文脈転換は主人公や主要人物以外の場 合にも起こり得ること、さらに表現効果として心理描写を付け加えると同時に主人公の間 接的な心情を描く効果も付け加えることができることを指摘した。 1.はじめに 小説テクストにおける受身表現の選択については、多くの文学作品では、従来の文法論 においては主人公など軸となる人物の立場から述べる文が優先され、人物の視点が固定化 された際に受身表現が選択されると論じられている。 注1) 確かに、これは受身表現が選択 される理由として認められるが、本稿ではさらに小説テクストにおいては語り手がそれま で焦点を当てていた人物Aから背景化していた人物Bに焦点を当て、その人物 B を前景化 させた受身表現が選択され、それが文脈の転換の起点となることを述べる。また、それま で語り手が焦点を当てていた主人公Aの様子や心情を表すために他の人物Cに一時的に 焦点を当てて語る必要がある場合に受身表現が選択されることを指摘する。 そこで、本稿では、小説テクストの中で有情物が主体となる受身表現を分類し、二葉亭 四迷の三人称小説『浮雲』の描かれ方とそれに伴う受身表現の選択について考察していく ことにする。 2.語り手、語り手の視点、視点人物、被視点人物 まず、小説テクスト内での「語り手」と「語り手の視点」、「視点人物」「被視点人物」を 定義しておきたい。小説テクストには、小説に登場する人物とは別に小説を語る表現主体 である「語り手」が存在する。その語り手の立つ位置を視点という。 小説テクストの中で一人称小説の場合「私」で語られ、「私」と語り手が同化している場 1

二葉亭四迷『浮雲』における受身表現の選択 - …...説テクストを通して受身表現の特徴について考察していくことにする。 4. 小説テクストにおける受身表現

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  • 二葉亭四迷『浮雲』における受身表現の選択

    井い

    関せ き

    和か ず

    恵え

    同志社大学日本語・日本文化教育センター嘱託講師

    キーワード

    小説テクスト,二葉亭四迷,人称,語り手,被視点人物,受身表現

    要旨

    本稿では、二葉亭四迷の『浮雲』において有情物が被視点人物となる受身表現を対象に

    考察を行った。その結果、客観的に捉えていた主人公以外の人物に焦点を当てる場合には、

    語り手は主人公から焦点を移動させて主人公以外の人物を被視点人物にした受身表現が

    選択され、それが文脈転換の起点になること、その文脈転換は主人公や主要人物以外の場

    合にも起こり得ること、さらに表現効果として心理描写を付け加えると同時に主人公の間

    接的な心情を描く効果も付け加えることができることを指摘した。

    1.はじめに

    小説テクストにおける受身表現の選択については、多くの文学作品では、従来の文法論

    においては主人公など軸となる人物の立場から述べる文が優先され、人物の視点が固定化

    された際に受身表現が選択されると論じられている。注1)確かに、これは受身表現が選択

    される理由として認められるが、本稿ではさらに小説テクストにおいては語り手がそれま

    で焦点を当てていた人物Aから背景化していた人物Bに焦点を当て、その人物 B を前景化

    させた受身表現が選択され、それが文脈の転換の起点となることを述べる。また、それま

    で語り手が焦点を当てていた主人公Aの様子や心情を表すために他の人物Cに一時的に

    焦点を当てて語る必要がある場合に受身表現が選択されることを指摘する。

    そこで、本稿では、小説テクストの中で有情物が主体となる受身表現を分類し、二葉亭

    四迷の三人称小説『浮雲』の描かれ方とそれに伴う受身表現の選択について考察していく

    ことにする。

    2.語り手、語り手の視点、視点人物、被視点人物

    まず、小説テクスト内での「語り手」と「語り手の視点」、「視点人物」「被視点人物」を

    定義しておきたい。小説テクストには、小説に登場する人物とは別に小説を語る表現主体

    である「語り手」が存在する。その語り手の立つ位置を視点という。

    小説テクストの中で一人称小説の場合「私」で語られ、「私」と語り手が同化している場

    1

  • 面が多い。そのため、語り手が小説テクスト内で「私」として語り、「私」が「視点人物」

    となる。一方、三人称小説の場合は、「彼」「彼女」「○○さん」などで語られ、語り手は小

    説テクストの外の位置からある作中人物を取り上げて対象化して語る形式をとる。その語

    り手によって焦点を当てて見られる対象となった登場人物を「被視点人物注2)」(語り手に

    よって焦点化されて主語となる人物)と定義する。三人称小説テクストの中で語り手は主

    に主人公に焦点を当てて語り、物語が展開されていくことが多いため、被視点人物は主人

    公であることが多いことが予想される。

    例えば、三人称小説テクストの中で、「主人公Aは会社からの帰宅途中に偶然友人Bと会

    い、Bと食事することになり、お店に入った。そこでBと酒を酌み交わし始めると、突然

    Bから来月会社を辞めると告白された。その瞬間Aは動揺してしまった。」という文章は、

    語り手が主人公Aに焦点を当ててAを前景化して語る中で、背景化されているBが発した

    動作においてもAに焦点を当て続け「Bから来月会社を辞めると告白された。」と、被視点

    人物が固定された受身表現が選択された例である。一方、「Aは友人のBと店に入り、お酒

    を酌み交わしていた。すると、Bから来月会社を辞めると告白された。Aはその言葉に驚

    き「えっ!」と言った瞬間、持っていた酒瓶が隣の人に当たってしまい、酒をかけてしま

    った。不意に酒をかけられた隣の客Cは慌てておしぼりで自分の服をふいたが、取れない

    ので、大声で店員を呼んだ。」という文章は、語り手がAに焦点を当てて見られる対象にな

    ったAを前景化して語る中で、背景化されているBが発した動作においてもAに視点をあ

    て続ける(a1)。しかし、AがCに酒をかけてしまったときに、Cの感情や様子を描写する

    必要がある場合に、それまで背景化していたCに語り手が焦点を移動させて、Cを前景化

    させて語る(a2)。その時に被視点人物にした受身表現が選択される。つまり、それまで背

    景化していた人物が前景化し、被視点人物として受身表現が選択された例である。これを

    図にすると、以下のようになる。

    図1 「AはBに告白された」 図2「不意に酒をかけられた隣の客Cは」

    語り手 語り手

    被視点人物 被視点人物

    小説テクスト内 小説テクスト内

    本稿では、三人称小説テクストの中で受身表現が選択される動作を受ける主たる被視点

    人物に着目して、受身表現の選択について考察していくことにする。

    3.『浮雲』の構造と語り手の姿勢

    ここでは『浮雲』の構造について説明しておく。『浮雲』は明治 20 年 6 月から 22 年 8

    A B A

    a1

    a2

    2

  • 月までおよそ 3 年にわたって発表されたもので、第一篇(一回~六回)、第二篇(七回~十

    二回)、第三篇(十三回~十九回)とあるが、最後は二葉亭四迷の執筆放棄によって未完と

    なった作品である。主な登場人物は、主人公である官吏を職とする内海文三、文三が下宿

    している叔父の娘であるお勢、叔父の妻であり文三の叔母にあたるお政、そして、文三と

    同僚でライバルである本田昇の四人である。そして、作品の中では文三とお勢と昇の恋模

    様からそれに伴う登場人物の行動や心情が語られていくものである。

    『浮雲』の語りについて、二葉亭四迷も後に「予が半生の懺悔」の中で、「文章は、上巻

    の方は、三馬、風来、全交、饗庭さんなぞがごちゃ混ぜになってる。中巻は最早日本人を

    離れて、西洋文を取って来た。つまり西洋文を輸入しようという考えからで、先ずドフト

    エフスキー、ガンチャロフ等を学び、主にドフトエフスキーの書方に傾いた。それから下

    巻になると、矢張り多少はそれ等の人々の影響もあるが、一番多く眞似たのはガンチャロ

    フの文章であった。」とあるように、篇によって語りを意図的に変えていることが読み取れ

    る。

    まず、第一篇では三馬の滑稽本、風来や全交などの戯作などを手本にし、語り手が駄洒

    落や言葉遊びを織り交ぜながら主に主人公文三に焦点を当てて、主体的に文三とお勢の恋

    模様を語っている。第二篇ではドフトエフスキーの書き方に傾いたとあるように、語り手

    が主人公である文三の心情に入っていこうとする姿勢が見られる。第三篇では、第十三回

    の初めに「心理の上から観れば、智愚の別なく人咸く面白味はある。内海文三の心状を観

    れば、それは解ろう。」とあるように第三篇では、語り手が客観的に主人公である文三の心

    情を描こうとしている姿勢が窺える。 このように、第一篇では語り手は概ね主人公である文三を被視点人物にして語る。さら

    に、第二篇では語り手は文三の心情に入っていこうとすることから、文三を被視点人物に

    して語ることはもとより文三の心情に同化して語る場面があることが窺える。しかし、第

    三篇では語り手は主人公文三を客観的に描こうとしていることから、文三を取り巻くお勢

    と昇にも焦点を当てて客観的に語る場面が多いことが考えられる。実際、第三篇十七回十

    八回では文三は登場せず、主にお勢に焦点が当てられている。 以上のことから、『浮雲』という三人称小説テクストの中で有情物における受身表現の選

    択に語り手が主人公である文三を被視点人物にするだけでなく主要人物となるお勢や昇、

    お政を被視点人物にする場面があることが窺える。さらに、主人公と主要人物のみならず、

    客観的に捉えているその他の人物にも焦点を当てる場面があることが予想される。そこで、

    次節以降では、有情物が主体となる受身表現を被視点人物毎に分類して、『浮雲』という小

    説テクストを通して受身表現の特徴について考察していくことにする。

    4.小説テクストにおける受身表現

    ここで、小説テクストにおける受身表現について考えてみたい。小説テクストでは、語

    り手が主人公を被視点人物にして寄り添って語ることが多い。そのため、受身表現が出現

    3

  • 【表1 『浮雲』における受身表現分類】

    ①A ①B ②A ②B

    被視点人物

    意味迷惑・恩恵

    中立迷惑・恩恵

    中立

    固定 移動

    する箇所においても被視点人物は語り手が焦点を当てる主人公である場合が多く、被視点

    人物は固定されていることが多いことが予想される。しかしながら、語り手がそれまで客

    観的に捉えていた人物を動作を被ったことがきっかけになり、前景化させて被視点人物に

    して受身表現が選択されることも予想される。そこで、まず、小説テクストの中で受身表

    現を分類する際に、1)受身表現の主体である被視点人物が固定化されているか移動した

    箇所か、2)受身の意味分類として被視点人物が動作を受けることによって「迷惑」や「恩

    恵」の気持ちを伴うか、被視点人物が動作を受けても感情の変化は伴わない「中立」であ

    るかの 2 点に着目し、分類を行うことにする。 これは、語り手が被視点人物Aに寄り添い叙述が展開される中で、客観的に捉えられて

    いた人物Bが動作を被ったことにより前景化し、人物Bを被視点にした受身表現が選択さ

    れて、それが被視点人物が移動して文脈転換の起点になる可能性があるのではないか、ま

    た被視点人物Aに焦点を当てて叙述が展開される中で語り手が被視点人物Aではなく、そ

    れまで客観的な目で捉えていた人物Bが動作を被ったことで、一時的に人物Bを被視点人

    物にした受身表現が選択されることがあるのではないかと考えられるため、このように分

    類することにしたのである。

    その分類を上記の【表1】に示した。

    以下に【表1】の用例を挙げる。

    *各例文で は被視点人物、 部分は動作主体、 は態を表す動詞で、 部分

    が心情の意味に関わる句、 は被視点人物が移動する前の被視点人物である。

    【受身】

    ①A 被視点人物:固定 意味:迷惑・恩恵

    前回参看、文三は既にお勢に窘められて、憤然として部屋へ駈戻ッた。さてそれか

    らは獨り演劇、泡を嚙だり、拳を握ッたり。どう考えて見ても心外でたまらぬ。

    [第三篇 十三回]

    ①B 被視点人物:固定 意味:中立

    夏の初より賴まれてお勢に英語を敎授するように成ッてから文三も些しく打解け

    出して折莭は日本婦人の有樣束髪の利害さては男女交際の得失などを論ずるように成

    ると不思議や今まで文三を男臭いとも思わず太平樂を並べ大風呂敷を擴げていたお勢

    が文三の前では何時からともなく口數を聞かなく成ッて何處ともなく落着て優しく女

    性らしく成ッように見えた、 [第一篇 二回]

    ②A 被視点人物:移動 意味:迷惑・恩恵

    「オイ内海君

    4

  • ト云う聲が頭上に響いて誰だか肩を叩く者が有る 吃驚して文三がフッと貌を振揚

    げて見ると手摺れて垢光りに光ッた洋服加之も二三カ所手痍を負うた奴を着た壮年の

    男が余程酩酊していると見えて鼻持のならぬ程の熟柿臭い香をさせ乍ら何時の間にか

    目前に突立ッていた

    是れは舊と同僚で有ッた山口某という男で第一囘にチョイト噂をして置いたアノ山

    口と同人で矢張り踏外し連の一人

    「ヤ誰かと思ッたら一別以来だネ

    「ハハハ一別以來か 「大分御機嫌のようだネ

    「然り御機嫌だ シカシ酒でも飲まんじゃー堪らん アレ以來今日で五日になるが毎

    日酒浸しだ

    ト云ッてその證據立の爲めにか胸で妙な間投詞を發して聞かせた

    「何故また然う Despair を起したもんだネ

    「Despair じゃー無いが シカシ君面白く無いじゃーないか 何等の不都合が有ッて我々共を追出したんだろう、また何等の取得が有ッて彼樣な庸劣な奴計りを撰んで

    殘したのだろう、その理由が聞いて見度いネ

    ト眞黑に成ッてまくし立てた その貌を見て傍を通りすがッた黑衣の園丁らしい男

    が冷笑した、文三は些し氣まりが悪くなり出した

    「君も然うだが僕だッても事務にかけちゃー……

    「些し小いさな聲で咄し給え人に聞える」 ト(山口は文三に)氣を附けられて俄に聲を低めて

    「事務に懸けちゃこう云やア可笑しいけれども跡に殘ッた奴等に敢て多くは譲らん積

    りだ 然うじゃないか

    「そうとも

    「然うだろう

    ト乗地に成ッて [第二篇 九回] ②B 被視点人物:移動 意味:中立

    其後(お勢は)英學を初めてからは、惡足掻もまた一段で襦袢がシャツになれば唐

    人髷も束髮に化けハンケチで咽喉を緊め欝陶敷を耐えて眼鏡を掛け獨よがりの人笑わ

    せ有晴一個のキャッキャとなり濟ました 然るに去年の暮例の女丈夫は教師に雇わ

    れたとかで退塾して仕舞い其手に屬したお茶ッぴい連も一人去り二人去して殘少なに

    なるにつけお勢も何となく我宿戀しく成ッたなれど正可そうとも言い難ねたか漢學は

    荒方出來たと拵らえて退塾して宿所へ歸ッたは今年の春の暮櫻の花の散る頃の事で」

    [第一篇 二回]

    以上を踏まえて、『浮雲』における有情物が被視点人物となる受身表現を分類した。

    5

  • 【表3 『浮雲』における登場人物別の受身表現分類】

    ①A ①B ②A ②B 合計

    意味迷惑・恩恵

    中立迷惑・恩恵

    中立

    文三 59 1 0 0 60

    お勢 40 3 1 0 44

    昇 4 2 0 0 6

    お政 4 1 3 0 8

    その他 0 0 6 2 8

    例 計 107 7 10 2 126

    % 計 84.9 5.6 7.9 1.6 100

    固定 移動

    被視点人物

    【表2 『浮雲』における有情物が被視点人物となる受身表現分類】

    ①A ①B ②A ②B 合計

    被視点人物

    意味迷惑・恩恵

    中立迷惑・恩恵

    中立

    例 107 7 10 2 126% 84.9 5.6 7.9 1.6 100

    固定 移動

    5.『浮雲』おける受身表現の選択

    5.1『浮雲』おいて有情物が被視点人物となる受身表現の分類

    『浮雲』の地の文において有情物が被視点人物となる受身表現を【表1】に則して分類

    した結果が【表2】である。

    【表2】を見ると、まず受身表現の意味分類においては、全 126 例のうち迷惑恩恵の

    受身の用例は 117 例(①A+②A)で全体の 92.8%、中立の受身の用例は 9 例(①B+②

    B)で全体の 7.2%であり、殆どが迷惑・恩恵の感情を伴う受身表現が選択されているこ

    とがわかる。

    次に、全 126 例のうち被視点人物が固定されている用例は 114 例(①A+①B)で全体の 90.5%である。一方、被視点人物が移動した用例は 12 例(②A+②B)で全体の 9.5%

    である。この結果から『浮雲』の作品世界においては、ある一つのまとまった文章で語り

    手は主人公文三にほぼ焦点を当て文三に寄り添い語り、その他の登場人物が動作主体であ

    っても動作を受けたのが文三である場合は文三を被視点人物として固定するために受身表

    現が選択される用例が多いことが読み取れる。但し、『浮雲』では語り手は主人公文三のみ

    ならず主人公を取り巻くお勢や昇などに焦点を当て被視点人物にして語る場面があるため、

    以下では登場人物別に分類していくこととする。

    『浮雲』における受身表現の被視点人物をさらに主人公文三、お勢、昇、お政、その他

    の登場人物別に分類した結果が【表3】である。

    【表3】を見ると、受身表現の被視点人物は主人公文三が 60 例と最も用例数が多いが、

    文三が恋心を抱くお勢も 44 例と用例数が多い。それ以外の主要人物である昇とお政は 6

    例、8 例であり、その他の登場人物も 8 例であることからすると、これらの登場人物は全

    体から見ると用例数が少ないが、主要でないその他の人物で最も②A が多いことが注目さ

    れる。全体には、語り手は文三に寄り添って語ることが多く、文三を被視点人物に固定し

    6

  • た受身表現が多く選択され、主人公文三が登場せず主にお勢に焦点が当てられた第三篇十

    七回十八回を中心に語り手はお勢に寄り添い、お勢を被視点人物にした受身表現が選択さ

    れていることが読み取れるが、一方で主要人物以外の場面にも注意すべき点がある。

    そこで、次項では被視点人物が固定された受身表現と被視点人物が移動した受身表現の

    それぞれの特徴を捉えながら、小説テクストにおける受身表現の選択の特徴を考察してい

    くことにする。

    5.2『浮雲』における被視点人物が固定された受身表現の選択

    ここでは、【表3】をもとに被視点人物が固定された受身表現の選択について考察する。

    『浮雲』は、官吏として勤めていたが免職になった主人公である内海文三に語り手が焦点

    を当てる場面が多く、文三を被視点人物にした受身表現が 60 例であり、最も用例数が多

    い。以下にその一例を示す。

    (1) 枕頭で喚覺ます下女の聲に見果てぬ夢を驚かされて文三が狼狽た顔を振揚げて向

    うを見ればはや障子には朝日影が斜めに射している 「ヤレ寐過したか……」と思

    う間もなく引續いてムクムクと浮み上ッた「免職」の二字で狹い胸がまず塞がる…

    …芣苢を振掛けられた死蟇の身で躍上り衣服を更めて夜の物を揚げあえず楊枝を口

    へ頰張り故手拭を前帶に插んで周章て二階を降りる [第一篇 五回]

    (1)において「驚かされ」「振り掛けられ」と、文三を被視点人物に固定した受身表現①

    A が選択されている。

    次の例文も語り手が文三に焦点を当て文三の叔母に対する態度と心情を語っている場

    面である。 (2) 文三は篤實溫厚な男 假令その人と爲りは如何有ろうとも叔母は叔母有恩の人に

    相違ないから尊尚親愛して水乳の如くシックリと和合し度いとこそ願え決して乖背し

    睽離したいとは願わ無いようなものの心は境に隨ッてその相を顯ずるとかで叔母に斯

    う仕向けられて見ると萬更好い心地もしない 好い心地もしなければツイ不吉な顏も

    したくなる、が其處は篤實溫厚だけに何時も思返してジッと辛抱している 蓋し文三

    の身が極まらなければお勢の身も極まらぬ道理親の事なら其れも苦勞になろう 人世

    の困難に遭遇て獨りで苦惱して獨りで切抜けると云うは俊傑の為る事、並や通途の者

    ならば然うはいかぬがち、自心に苦惱が有る時は必ずその由來する所を自身に求めず

    して他人に求める 求めて得なければ天命に歸して仕舞い求めて得れば則ちその人を

    媢嫉する 然うでもしなければ自ら慰める事が出来ない 「叔母もそれでこう辛く當

    るのだな」トその心を汲分けて(叔母に)如何な可笑しな處置振りをされても文三は

    眼を閉ッて默ッている [第二篇 十一回] (2)においても「仕向けられ」「處置振りをされ」と、文三が被った動作に対して文三を

    被視点人物に固定した受身表現①A が選択されて語られている。

    以上のように、多くの回では語り手は主に文三に寄り添い、文三を被視点人物して語

    ることが多いため、文三が動作を受けた場面においても文三を被視点人物に固定した受

    7

  • 身表現が選択される用例が多いのである。

    一方、第三篇十七回十八回では主人公文三は登場せず、語り手は主にお勢を被視点人

    物にして語る場面が多くみられる。以下に例を示す。

    (3) 一週間と經ち、二週間と經つ。昇は、相かわらず、繁々遊びに來る。そこで、お

    勢も益々親しくなる。

    けれど、其親しみ方が、文三の時とは、大きに違う。彼時は華美から野暮へと感

    染れたが、此度は、其反對で、野暮の上塗が次第に剝げて漸く木地の華美に戻る。兩

    人とも顔を合わせれば、只戯ぶれる計り、落着いて談話などした事更に無し。それ

    も、お勢に云わせれば、昇が宜しく無いので、此方で真面目にしているものを、とぼ

    けた顏をし、剽輕な事を云い、輕く、氣無しに、調子を浮かせてあやなしかける。其

    故、念に掛けて笑うまいとはしながら、おかしくて、おかしくて、どうも堪らず、唇

    を嚙締め、眉を釣上げ、真赤になッても耐え切れず、つい吹出して大事の大事の品格

    を落して仕舞う。果は、何を云われんでも、顏さえ見れば、可笑しくなる。「本當に

    本田さんはいけないよ、人を笑わして計りいて。」お勢は絶えず昇を憎がッた。 [第三篇 十八回]

    (3)は、第三篇十八回であり、語り手は主にお勢に焦点を当てて語っている。そのお勢

    が被視点人物になっているため、昇がお勢に言った動作であっても、お勢が昇から「云

    われた」とお勢を被視点人物に固定した受身表現が選択されるのである。

    5.3『浮雲』における被視点人物が移動した受身表現の選択

    ここでは、被視点人物がそれまでの登場人物Aから登場人物Bに移動し、登場人物Bの

    迷惑恩恵の意味を持つ分類②Aの受身表現が選択されている用例を挙げて考察する。

    以下は、文三が観菊から帰ってきたお勢と話をする場面である。

    (4)「貴孃も」ト(文三は)口頭まで出たが如何も鐵面皮しく嫉妬も言いかねて思い返し

    て仕舞い

    「兎も角も一日も早く身を定めなければ成らぬと思ッて今も石田の所へ往ッて賴んで

    は來ましたがシカシ是れとても宛にはならんシ實に……弱りました 唯私一人苦しむ

    のなら何でもないが私の身が定らぬ爲めに「方々」が我他彼此するので誠に困る

    ト萎れ返ッた

    「然うですネー

    ト今まで冴えに冴えていたお勢もトウトウ引込まれて共に氣をめいらして仕舞い

    暫らくの間默然としてつまらぬものでいたが頓て小さな欠伸をして

    「アア寐むく成ッた ドレ最う往ッて寐ましょう お休みなさいまし ト會釋をして起上ッてフト立止まり

    「ア然うだッけ……文さん貴君はアノー課長さんの令妹を御存知

    「知りません

    「そう、今日ネ、團子坂でお眼に懸ッたの 年紀は十六七でネ隨分別品は……別品だ

    8

  • ッたけれども束髮の僻にヘゲル程お白粉を施けて……薄化粧なら宜けれども彼樣なに

    施けちゃア厭味ッたらしくッてネー……オヤ好氣なもんだ、また噺込んでいる積りだ

    と見えるよ お休みなさいまし

    ト再び會釋してお勢は二階を降りて仕舞ッた

    椽側で唯今歸ッた計りの母親に出逢ッた

    「お勢

    「エ

    「エじゃないよ、またお前二階へ上ッてたネ また始まッたと云ッたような面相をしてお勢は返答をもせず其儘子舎へ這入ッて仕

    舞ッた [第二篇 八回]

    (4)では、文三が自分の将来の不安をお勢に吐露したところ、お勢は励ますこともなく、

    文三の萎れ返った感情に引き込まれて、お勢も気がめいったという心情を表すために、語

    り手が焦点を当てて見られる対象となった登場人物を文三から、それまで客観的に捉えら

    れていたお勢に焦点を移動させたと考えられる。また、ここでは語り手の視線がお勢の心

    情に向いたことを契機に、それまでの被視点人物が文三からお勢に移動し、その後の文脈

    はお勢を前景化して語られている。つまり、文脈転換の起点になったことが窺える受身表

    現の例である。

    次に、被視点人物Aに寄り添い叙述が展開される中で、それまで登場していなかった人

    物Cが被視点人物Aから動作を被ったことによって、一時的にその人物Cに被視点が移り、

    そのCを通してAの強い心情を表す際に受身表現が選択される場合がある。以下に例を示

    す。

    (5) トは知らずしてお勢が怜悧に見えても未惚女の事なら蟻とも螻とも糞中の蛆とも

    云いようのない人非人利の爲めにならば人糞をさえ甞めかねぬ廉耻知らず、昇如き者

    の爲めに文三が嘲笑されたり玩弄されたり侮辱されたりしても手出をもせず阿容々々

    として退いたのを視て或は不甲斐ない意久地が無いと思いはしなかッたか……假令お

    勢は何とも思わぬにしろ文三はお勢の手前面目ない耻かしい…… 「ト云うも昇、貴様から起ッた事だぞ ウヌどうするか見やがれ

    ト憤然として文三が拳を握ッて齒を喰切ッてハッタとばかりに疾視付けた、疾視付

    けられた者は通りすがりの巡査で、巡査は立止ッて不思議そうに文三の背長を眼分量

    に見積ッていたが、それでも何とも言わずにまた彼方の方へと巡行して往ッた

    愕然として文三が夢の覺めたような面相をしてキョロキョロと四邊を環視わして見

    れば何時の間にか靖國神社の華表際に鵠立でいる、考えて見ると成程俎橋を渡ッて九

    段坂を上ッた覺えが微に殘ッている [第二篇 九回]

    (5)では、語り手は文三に焦点を当てて文三を被視点人物にして、昇に「瘦我慢なら大抵

    にしろ」と言われたことに対する悔しさで憤然とした心情を描いている。その心情から文

    三は拳を握って歯を食いしばって、だれそれとなく疾視付けた。しかし、文三が疾視付け

    9

  • た者は巡査であり、その巡査は不思議そうに文三を見積るが何も言わずに巡行して往った

    という場面である。ここでの文三の拳を握って歯を喰切ッて疾視付ける行為は、巡査から

    見て、暴れてはいないものの普通の動作ではない不思議な行為であった。それを表現する

    ため、ここでは文三が疾視付けた場面でそれまで登場していなかった人物である巡査を一

    時的に前景化させて被視点人物に変えて、「文三が疾視付けた者」ではなく「疾視付けられ

    た者」と描くことで、文三の巡査をも不思議がらせるほどの強烈な動作を通して、文三の

    心情の強さを表す表現効果をもたせている。そのため、ここでは「疾視付けられ」と巡査

    を被視点人物にした受身表現を用いる必要があったことが考えられる。 また、以下は文三がお勢と話し合おうとお勢の母親お政がいない隙にお勢の部屋へ行っ

    たが、お勢は文三と話そうとしなかったため、文三はお勢の袂をつかんでしまった。その

    ことをお勢が文三のいる前でお政に泣きながら告白する場面である。

    (6) 「お勢!」

    と一句に力を籠めて制する母親、その聲ももウ斯う成ッては耳には入らない。文三

    を尻眼に懸けながらお勢は切齒りをして、 「まだ三日も經たないうちに、人の部屋へ……」

    「これ、どうしたもンだ……。」

    「だッて私ア腹が立つものを。人の事を浮気者だなンぞッて罵ッて置きながら、三日

    も經たないうちに、人の部屋へつかつか入ッて來て……人の袂なンぞ捉えて、咄が有

    るだの、何だの、種々な事を云ッて……なんぼ何だッて餘り人を輕蔑した……云う事

    が有るなら、玆處でいうがいい、慈母さんの前で云えるなら、云ッてみるがいい……」 留めれば留めるほど、尚お喚く。散々喚かして置いて、最う好い時分と成ッてから、

    お政が「彼方へ、」と顋でしゃくる。しゃくられて、放心して人の顏ばかり視ていたお

    鍋は初めて心附き、倉皇箸を棄ててお勢の傍へ飛んで來て、いろいろに賺かして連れ

    て行こうとするが、仲々素直に連れて行かれない。

    「いいえ、放擲ッといとくれ。何だか云う事が有ッていうンだから、それを……聞か

    ないうちは……いいえ、私しゃ……あンまり人を輕蔑した……いいえ、其處お放しよ

    ……お放しッてッたら、お放しよッ……」

    けれども、お鍋の腕力には敵わない。(お勢は)無理無體に引立られ、がやがや喚き

    ながらも坐舗を連れ出されて、稍々部屋へ收まッたようす。

    となッて、文三始めて人心地が付いた。 [第三篇 十五回]

    (6)では、語り手はお勢に焦点を当ててお勢の怒りが頂点に達して喚き散らしている様子

    を描いている。それを事のいきさつを何も知らない下女のお鍋はただ放心してお勢の様子

    を見ている。そこへお政が冷静にお鍋に顎でしゃくって指示を出し、それによってお鍋は

    我に返るといった場面である。ここでは、お勢の喚き散らしているところを背景化されて

    いた人物であるお鍋が放心して視ている様子を前景化して描くことで、お勢の喚いた程度

    が尋常ではないことを表す効果をもたせている。そのため、ここでは「しゃくられ」とお

    10

  • 【表4 『浮雲』登場人物別・篇毎における受身表現分類】

    ①A ①B ②A ②B 合計

    意味迷惑・恩恵

    中立迷惑・恩恵

    中立

    第一篇 18 1 0 0 19第二編 22 0 0 0 22第三篇 19 0 0 0 19

    第一篇 1 3 0 0 4第二編 3 0 1 0 4第三篇 36 0 0 0 36

    第一篇 1 1 0 0 2第二編 0 0 0 0 0第三篇 3 1 0 0 4

    第一篇 1 1 0 0 2第二編 0 0 0 0 0第三篇 3 0 3 0 6

    第一篇 0 0 1 2 3第二編 0 0 2 0 2第三篇 0 0 3 0 3

    例 107 7 10 2 126% 84.9 5.6 7.9 1.6 100計

    その他

    被視点人物

    固定

    移動

    お勢

    文三

    お政

    鍋を被視点人物にした受身表現を用いる必要があったことが考えられる。こうした緊迫し

    た場面においても、語り手は一時的に背景化していた人物の感情も表現することがあり、

    それまで背景化していた人物を被視点人物にして語る場合があるのである。

    5.4『浮雲』篇毎における受身表現の選択の特徴

    最後に『浮雲』の篇における受身表現の選択の特徴について触れておきたい。『浮雲』の

    篇における受身表現の被視点人物を主要人物とその他の人物別、篇毎に分類した結果が【表

    4】である。

    この【表4】から窺える篇毎における受身表現の選択について考えてみたい。

    まず、登場人物別に考察したい。主人公文三が被視点人物になる用例は、第一篇 19 例、

    第二篇 22 例、第三篇 19 例であり、どの篇においても主人公文三が被視点人物となる用例

    は多く、さらに受身表現では文三に被視点人物が固定されていることが多いことがわかる。 次に、文三の恋敵である昇が被視点人物になる受身表現は、第一篇 2 例、第二篇 0 例、

    第三篇 4 例と用例数は少なく、被視点人物に移動した用例は 0 例である。その中で、昇が

    被視点人物となる用例が最も多い第三篇の 4 例のうち、1 例は第十四回で文三が登場せず

    お勢と昇とお政がやり取りする場面、2 例は文三が登場しない十七回、1 例は最後の十九

    回で語り手が主要登場人物それぞれの現在の想いを語っている場面である。このことから、

    全体に語り手が昇に焦点を当てることは少ないことが読み取れる。 それに対して、文三の想い人であるお勢が被視点人物になる受身表現は全体で 44 例と

    用例数も多い。篇毎にみると、第一篇と第二篇では受身表現の用例がいずれも4例ずつで

    あり、その中で第二篇では例(4)に示したように文三からお勢に被視点人物が転換した例

    が 1 例ある。しかし、第三篇になると、先述したように語り手は文三が登場している場面

    11

  • でも文三の心情を客観的に描くようになり、第三篇十七回十八回に限っては文三は登場せ

    ず、主にお勢に被視点が当てられているため、お勢が被視点人物になる例が第三篇 36 例中 27 例もあり、その結果第三篇では主人公文三よりも用例数が多くなるという特徴が見

    られる。

    また、お政については、第一篇 2 例、第二篇 0 例、第三篇 6 例と用例数は全体としては

    それほど多くはないが、第三篇に用例数が多く、その中で被視点人物が移動した例が 3 例

    あることに着目したい。そこで、その被視点人物がお勢からお政に一時的に移動した用例

    3 例を以下に挙げる。 (7) そのうちにお勢が編物の夜稽古に通いたいといいだす。編物よりか、心易い者に日

    本の裁縫を教える者が有るから、昼間其所へ通えと、母親のいうを押反して、幾度か、

    幾度か、掌を合せぬばかりにして是非に編物をと賴む。西洋の處女なら、今にも母の

    首にしがみ付いて頬の邊に接吻しそうに、あまえた、強請るような眼付で顔をのぞか

    れ、やいやいとせがまれて、母親は意久地なく、「ええ、うるさい! どうなと勝手

    におし」と賺されて仕舞ッた。 編物の稽古は、英語よりも、面白いとみえて、隔晩の稽古を楽しみにして通う。お

    勢は、全體、本化粧が嫌いで、これまで、外出するにも、薄化粧ばかりしていたが、

    編物の稽古を初めてからは、「皆が大層作ッて來るから、私一人なにしない……」と咎

    める者も無いに、我から分疏をいいいい、こッてりと、人品を落すほどに粧ッて、衣

    服も成たけ美いのを撰んで着て行く。夜だから、此方ので宜いじゃないかと、美くな

    い衣服を出されれば、それを厭とは拒みはしないが、何となく機嫌がわるい。 [第三篇 十八回]

    (7)は主人公文三が登場しない第三篇十八回であり、語り手はお勢に焦点を当てて語って

    いる場面である。ここではお勢が昇と外で二人だけで会うために編物の稽古に通いたいと

    母親のお政にお願いをするが、お政はそれを許さず、自分の知り合いの心易い者の家に裁

    縫を習いに通えと言うが、それでも是非にとお勢が頼む。ここでお勢がお政に行った「お

    政に顔を覗かし、やいやいとせがむ」という動作について、お政を被視点人物にして「(お

    政はお勢に)顔をのぞかれ、やいやいとせがまれ」とし、その結果「賺されてしまった」

    と受身表現が選択されている。これはお政がお勢の妙に甘えてしつこくお願いする動作に

    迷惑を被っていることを表現すると同時に、お勢の強い心情を映す効果が生じている。

    最後の主要人物以外のその他の登場人物については、8 例全て被視点人物が移動した際

    に受身表現が選択されている。篇毎においても第一篇 3 例、第二篇 2 例、第三篇 3 例と篇

    毎の用例数の割合に差はほとんどない。意味分類においては、迷惑恩恵の受身表現 6 例、中立の受身表現 2 例と、迷惑恩恵の受身表現が多い。そこで先述した(5)(6)の例におい

    ては、受身表現を通して主要人物の強い心情を描く効果が考えられた。しかし、第三篇で

    は、客観的描写の中でその他の人物に受身表現が用いられる場合が見られる。以下にその

    例を挙げる。

    12

  • (8) (お政の知己「須賀町のお浜」という婦人の娘が)縁付ると聞いて、お政は羨まし

    いと思う心を、少しも匿さず、顏はおろか、口へまで出して、事々しく慶びを陳べ

    る。娘の親(須賀町のお浜)も親で、慶びを陳べられて、一層得意になり、さも誇

    貌に婿の財産を數え、または支度に費ッた金額の總計から内譯まで細々と計算をし

    て聞かせれば、聞く事毎にお政は且つ驚き、且つ羨やんで、果は、どうしてか、婚

    姻の原因を娘の行状に見出して、これというも平生の心掛がいいからだと、口を極

    めて賞める、 [第三篇 十八回]

    (8)では、語り手はお政に焦点を当てている場面である。お政が須賀町のお浜の娘が縁付ることを心から羨ましがっている様子を描いている。その中でお政がお浜に喜びを述べる

    ことよってお浜が得意な気持ちになり、結婚相手の婿の家の細部について詳細にお政に話

    して聞かせる節のみ、語り手はそれまで焦点を当てていたお政からお浜に一時的に被視点

    人物を移動させて語っている。これは、語り手が焦点を当てていたお政が喜びを述べたの

    を受けて、お浜の反応を客観的に描いた部分であり、お政とお浜の二人の人物の心情が交

    互に述べられている。そのため、それまで背景化されていたお浜を一時的に前景化させて、

    お浜を被視点人物にした受身表現が選択されたものと考えられる。このように、主要人物

    以外の登場人物の心情を一時的に客観的に描く際にも受身表現が選択されることが窺える。

    また、被視点人物が移動した用例を篇毎にみると、第一篇では 3 例、第二篇では 3 例、

    第三篇では 6 例と第三篇で用例数が多く、第三篇では主人公以外の登場人物に焦点が当た

    る場面が多くなるため、被視点人物が移動することも多くなったと考えられる。

    6.おわりに

    本稿では、二葉亭四迷の三人称小説『浮雲』における有情物が被視点人物となる受身表

    現を対象に被視点人物が固定された場合と移動した場合について考察を行った。その結果、

    以下のことが明らかとなった。

    小説テクスト内での受身表現の選択においては、被視点人物を固定させるために受身表

    現が選択されることが多い(例(1)(2)(3))。このような場合に迷惑恩恵の意味が多く見られることは、主要人物の心理描写にも受身表現が間接的に関わっていることを示してい

    ると思われる。しかし一方で、『浮雲』のように語り手の態度が篇や部によって異なる三人

    称視点の小説では、語り手が焦点を当てる被視点人物が移動する場合がある。それは、大

    きく三つの場合が指摘できる。

    ① 被視点人物Aに寄り添い叙述が展開される中で、それまで客観的に捉えられてい

    た人物BがAから動作を被ったことにより、人物Bを被視点人物にした受身表現

    が選択され、それが文脈転換の起点になる場合(例(4))

    ② 被視点人物Aを取り巻く背景的な人物Cに受身表現を用いることでAの強い心理

    や緊迫した場面を映し出す場合(例(5) (6) (7))

    ③ 特に主要人物でない人物同士のやりとりを客観的に描く中で、被視点人物が移動

    13

  • するのに伴って受身表現が用いられる場合(例(8))

    即ち、本稿において従来から奥津(1983)や小嶋(2004)が指摘しているように、語り手が主人公に寄り添い語る場面ではほぼ被視点人物を整えるために主人公に固定された

    受身表現が選択されるが、それまで客観的に捉えていた主人公以外の人物に焦点を当てる

    場合には、語り手は主人公から焦点を移動させて主人公以外の人物を被視点人物にした受

    身表現が選択される。そして、それは文脈転換の起点になること、その文脈転換は主人公

    や主要人物以外の場合にも起こりえること、さらに表現効果として心理描写を付け加える

    と同時に主人公の間接的な心情を描く効果を付け加えることができることを指摘した。ま

    た、主要人物が登場しないその他の人物同士のやりとりの中では、被視点人物が移動する

    のに伴って受身表現が用いられることも指摘した。

    本稿では考察の対象を二葉亭四迷の『浮雲』に限ったが,今後は他の作品における語り

    手の描き方と受身表現の選択に関して考察することを課題としたい。

    【引用テキスト】

    『二葉亭四迷全集』(1984~1985)筑摩書房をテキストとし、旧仮名遣いを現代仮名遣いに改めて引

    用した。

    【注】

    1)奥津(1983)は受身の選択理由に一度立てた主語は必要のない限り途中で変えないという「視点

    固定の原則」を挙げ、小嶋(2004)は文学作品における受身について「多くの文学作品では,主

    人公など軸となる人物の立場から述べる文が優先されている」と述べている。

    2)糸井(2009)は、被視点について「被視点とは、見られる対象(ものごと)で、主体が、何を・

    どこを見ているかが焦点化される、言わば認知における対象面である。客観的な目で捉えられた

    対象であっても、焦点化されると、対象(ものやこと)の前景化する面や背景化する面が生まれ

    る。」と述べている。

    【参考文献】

    糸井通浩 半沢幹一 編(2009)『日本語表現学を学ぶ人のために』世界思想社

    奥津敬一郎(1983)「何故受身か?-<視点>からのケーススタディ-」『国語学』132 巻

    奥津敬一郎(1992)「日本語の受身文と視点」『日本語学』11 巻 9 号

    小嶋栄子(2004)「文学作品における効果的なうけみ文の使用」『21 世紀言語学研究 鈴木康之教授古

    希記念論集』白帝社

    小森陽一(1988)『構造としての語り』新曜社

    小森陽一(2012)『文体としての物語・増補版』青弓社

    佐藤政光(1982)「『浮雲』について-二葉亭のリアリズム」『明治大学日本文学』10,49-61, 明治大

    学日本文学研究会

    14

  • 橋本陽介(2017)『物語論 基礎と応用』講談社

    浜下昌宏(2003)「存範疇としての「戯作的」 -ある二葉亭四迷論-」『神戸女学院大学文学部紀要

    論文』50 巻 1 号 50,69-83

    福沢将樹(2015)『ナラトロジーの言語学』ひつじ書房

    山崎誠(1995)『二葉亭四迷研究』有精堂

    山岡實(2001)『「語り」の記号論 日英比較物語文分析』松柏社

    山本和恵(2011)「小説テクストにおける受身表現の使用傾向」『同志社国文学』第 74 号

    山本和恵(2014)「夏目漱石の三人称小説テクストにおける発言動詞の受動態の選択-能動態との比

    較を通じて-」『同志社大学日本語・日本文化研究』第 12 号

    山本和恵(2015)「受身表現における視点人物の転換 -夏目漱石『明暗』を通じて-」『同志社日本

    語研究』第 19 号

    15

    ②本文 1②本文 2②本文 3②本文 4②本文 5②本文 6②本文 7②本文 8②本文 9②本文 10②本文 11②本文 12②本文 13②本文 14②本文 15