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卒業論文 「中国の貧困問題について」 12/31/06 国際学部国際学科4年 佐々木 由季 20227143

「中国の貧困問題について」...2004 年の夏、筆者は上海の復旦大学に1 年留学の為、初めて中国へ行った。今までイギ リスを初めとし、カナダ・ニュージーランド・オーストラリアへ行ったことはあった。中

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卒業論文 「中国の貧困問題について」

12/31/06

国際学部国際学科4年

佐々木 由季

20227143

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目次

はじめに:中国留学で感じた都市部の貧困

第一章:都市部における貧困とその原因の問題点

第二章:中国の農村問題

第三章:希望工程

終章:まとめ

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はじめに 2004 年の夏、筆者は上海の復旦大学に 1 年留学の為、初めて中国へ行った。今までイギ

リスを初めとし、カナダ・ニュージーランド・オーストラリアへ行ったことはあった。中

国に着いて、中国はどこの国とも似ても似つかなく、どこか怖い感情に襲われた。空港を

出て直ぐに、見知らぬ中国人に周りを囲まれ、スーツケースを引っ張られる。彼らは、不

正なタクシードライバーだ。客引きの為、かなり強引な方法で客を自分の車に乗せようと

してくるのだ。まず、筆者はこの行為に驚きを隠せなかった。 何日間がすぎ友達と買い物へでかけた。外国人観光客の多いところにはいつも物乞いが

あふれていた。そこで筆者が感じたことは、物乞いをする人はお年寄りと子供が圧倒的に

多いということだった。そんな時、まだ 5~6 歳くらいの男の子が筆者にお金をくれと物乞

いをしてきた。中国のお金は日本円よりもかなり安いので、筆者は彼にお金をあげようと

した。その時、警察官にお金をあげる事を止められた。ふと気づくと彼の姿はもうなかっ

た。警察官は筆者に「絶対にお金をあげないでくれ。あの子供の近くに父親らしき人がい

たが、あれは本当のお父さんではないのだ。あのような子供は貧しい農村から売られてき

た子供たちなのだ。最近は外国人の数が増えたため、このような物乞いの子供たちが前よ

りもはるかに増えてきている」といわれた。途上国の中で群を抜いて進歩し続ける中国で

このようなことが行われていることに、無知な私は大きな衝撃を得た。 上海の生活にもなれた頃、段々と中国が抱える貧困問題がどれほど大きな問題になって

いるかが見えてきた。上海のとある有名なストリートには日本の高級デパートや高級ブテ

ィックが建ち並び、買い物する人もお金に余裕のある人ばかりだ。そんな時、筆者はふと

一本道のそれた小道に迷い込んでしまった。すると、表の華やかさとは 180 度まるっきり

違う世界がそこにはあった。子供は外で体を洗い、大人たちは何をするわけでもなく、い

すに座ってボーっとしている。経済が日に日に進歩し、裕福な人が多く現れる中、中国に

おける貧困の差はこれから大きな問題になるのではないかと強く感じた。 日本語クラスの生徒たちにしても、日本人と同じような金銭感覚で遊べる人たち。それ

に対し、4 畳に 6 人の風呂なし寮に住み、毎月 5000 円で全てをやりくりしている人、それ

以下のお金で生活をやりくりしている人など、小さなコミュニティーにおいても、これだ

けの格差が出てしまうのだ。 これらの現状を肌で感じ、筆者は「中国における貧困」というものをもっと知り、調べ、

卒業論文として書くことを決めた。 第一章:都市部における貧困とその原因 中国人民共和国は 1978 年から計画経済路線を調節し、外貨導入という「改革開放」政策

を推進し、1992 年からは、市場の調整に重点を置く「社会市場主義経済」を打ち出した。

所得政策では「富になれるものは先に富になり、低収入層を引き上げる」路線をとってき

た。しかし、一部の人々がこの政策による、法の未整備、二重価格制度などを利用し、株

や不動産などで所得を膨大に増やした。また、1990 年代後半以降、激しい市場競争による

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業績の悪化、国有企業改革における企業再編が行われ、更に一時帰休という名の事実上の

解雇が急増した。このような状況により、失業率が増加したのである。2003 年における貧

困層は都市部で 10.7%とされ、都市貧困人口は 2053 万人となった。(参考) 中国は現在、都市住民の最低生活保障ラインを下回る都市貧困人口を抱えているとし、

労働能力、法定扶養家族、その他収入源がないという、いわゆる「3 なし」層は全体の 5%を占めているに過ぎず、大部分は雇用や失業、社会保障制度に未確立などによって生まれ

た貧困層だと指摘されている。2005 年中国における年の失業者数は 835 万人である。しか

し、中国の失業率はその定義が特殊であるため、実際の失業実態を正確に表していない。

その為、一時帰休者を含めると、実際はその 2 倍かそれ以上とされている。 例えば、中国政府が公式に発表する「都市部登録失業率」はその対象範囲がせまい。対

象者は、都市戸席を持つもの。男 16~50 歳。女 16~45 歳以内。求職意欲の有るもの。地元

の就業サービス機関に登録している失業者のみ。この事から、一時帰休者は失業率には反

映されていないのである。そして、この一時帰休者は 1995~2003 年末までにおいて約 4000万人とされている。(参考文献)

失業保険制度の問題 中国の失業保険制度は 1986 年に正式に導入された。国務院は 1986 年に「国営企業社員

失業保険の暫定規定」を公布し、国営企業社員に対する失業保険制度の導入を明確に規定

した。国有企業改革と労働制度改革の一環である。[人民 j.people.com.cn2003/05/03] 1995 年の 1 年間に中国で支出された失業保険資金は、18 億 9000 万元(約 283 億 5000

万円)で、このうち失業救済や再就職促進のために支出したのは、15 億 1000 万元(約 226億 5000 万円)にのぼり、総資金の 79.9%を占めた。2003 年度における失業保険の支出額

は 200 億元を超えた。また、総支出の 20%以上である 3 億 8000 万元(約 517 億円)の失

業保険資金が救済に使われなかった。もしこの資金が失業保険の管理費用に支出されたと

したら、この管理支出は大きすぎることになる。そして、もしこれが他に流用されたとし

たら、失業保険事業の正常な発展に影響を及ぼすことになる。 2003 年末、失業保険の加入者は 1 億人あまり、これに対し受給者の総数は 742 万人程度

と非常に少ない。この理由は、都市部では個人経営者、学生、県以下の小集団企業、出稼

ぎ農民が受給の対象外とされているからである。また、受給資格として、失業保険費を 1年以上納付していること。本人の意思によらない退職であること、失業登録手続きを行い、

再就職の意思があることを定めている。このように、受給資格や対象範囲が極めて限られ

ていることから、受給者の数が加入者の割合よりもはるかに少ないのである。 [人民.people.com.cn] このように失業保険は未だに整備途上となっている。 筆者が上海留学中に出会った学生がいた。彼女は復旦大学という中国の名門大学にいた。

彼女は大学の寮に住んでおり、四畳一間に六人で暮らしている。三段ベッドを二つ並べ、

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自分のスペースはベッドの上だけだ。一年間で寮費は約 6000 円である。(外国人寮は一ヶ

月 45000 円)彼女は月 5000 円で全てをやりくりしているという。食費、雑費、交際費。

かたや、ある女生徒はいつも外国人と時間を共にしていた。この意味は、外国人と同じ金

銭感覚をもっているということである。外国人留学生は、あまり自炊せず、ほぼ毎日外食

をしていた。一度の食事でだいたい 400 円。1 日 2 回外食すると、前者の学生は 1 週間で 1か月分の生活費を使ってしまう事になる。しかし、後者の学生は、留学生のイベントや日々

の交際費などを含め、相当のお金を使っていると感じた。ある日、その彼女に、月いくら

使っているのか尋ねると、約 40000~50000 円。そして月のアパート代が 20000 円。合計月

60000~70000 円ものお金を使っていたのだ。彼女の父親は日本の貿易会社に勤務している

ということで、この小さなコミュニティーでもこれだけの差があるのである。前者の少女

は、高校生まで、一度として友達と放課後遊んだことが無いそうだ。これは中国で珍しい

ことではなく、将来のためにいい大学に行き、外資系の会社に行くことが夢である。彼女

の家は裕福ではない。しかし、貧乏でもない。子供を大学に生かせられる事が出来るから

だ。 筆者は町へ出た時、物乞いの人たちへの調査をした。しかし、みな生きる為に必死で筆

者に本当の事を話そうとしない。よくある話が、「私は上海のものではなく、農村部から来

たものです。しかし、戸席制度の問題で、都市戸席の無い私達に仕事は無い。子供は病気

で死んでしまい、もう一人の子供も難病で治療費を稼がなければいけないのです。」これが、

物乞いの年老いた女性がよく言ういい訳である。現実的に戸籍制度問題や失業保険制度の

問題、失業問題、などでお金を稼ぐあてがなく、物乞いをしているようだ。しかし、子供

の場合は特殊で、決して自分の事を口にしようとはしない。1 度 1 人の男の子が両親はいな

いといった以外に、他の物乞いの子供達は、「お金ちょうだい」以外の言葉は口にしません

でした。そして、必ず彼らの周りには父親に扮した、大人が周りで見張りをし、彼の稼い

だお金は全て彼に渡されていた。近くにいた警察官に話を聞くと、あの子供達は農村部か

ら連れてこられ、孤児の子供を買って働かせているとの事だった。最近は外国人観光客の

数も増え、この様な子供達が増えたとの事だった。観光地などで体に障害も持つ人や、両

手両足が切断されない人などが自らを見世物にし、お金を稼いでいる姿もよく目にした。

この人々の多くは闇の組織によって人身売買された人や農村部の人がお金を稼ぐためにや

むをえなくやっているそうである。都市戸籍のある者も、失業によって職を失い子供を学

校に行かせられない者も少なくないようである。確かに平日の昼間に子供が両親らしき人

と一緒にいる所をしばしば見た。中国語のあるサイトには上海のある小学校では親の年収

によって制服のスカーフの色を変えているそうだ。 中国における大都市ではこのように貧困の現状がくっきりと写しだされているのが現状

である。

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第 2 章 中国の農村問題 第 1 節 農村部の都市部に住む若者の違い 農村に生まれ育った少女と少年の 2 つのお話をしたい。

まず彼女の住んでいる村は、とでも貧しい村で、村人がみな農家である。地質も悪く、雨

も降らない為収入は 1 年間で約 1 万円ほどだ。彼女の父は体が弱く仕事が出来ず、母が毎

日畑仕事をしていた。その為、彼女が毎日朝食と夕食を作っていた。家事の後片道 3 時間

をかけ、学校へ通っていた。昼食もお金が無い為に、水でお腹を膨らますのだ。彼女はク

ラスでいつも 1 番の優等生であった。彼女は中学への進級を控えていた。しかし、中学は

今よりも遥かに遠い場所にあり、ほとんどの生徒が寮に入り、寮へ入る為の前金として、1万円を払わなければいけなかった。しかし、彼女の家計から 1 万円を払うことは厳しく、

彼女は小学校さえも行かなくなった。学校の先生は彼女の将来を考え、両親を説得するが、

彼女の両親は、今彼女が家からいなくなると、家事や水くみをする人がいなくなるから、

中学への進学は反対であった。彼女は勉強が大好きで中学への進学を望んでいた。しかし、

自分の置かれた状況や環境を十分に理解していた。そして、彼女は両親の意見を尊重し、

中学への進学を諦めたのだ。彼女の先生は、「農村に住む人々は教育を受け、きちんと大学

へ出ないと、一生この暮らしから抜け出すことが出来ないのです。彼女は頭もよく、きち

んとした教育を受ければ将来が約束されたのに。」と残念そうに言っていた。筆者も先生の

意見に同感する。この様な村に住む人々はきちんとした教育を受けない限り、貧しく、閉

鎖的な環境を変えることは難しい。しかし、彼女の家の環境を考えると彼女が中学へ行く

事を強く志願することは非常に難しいのである。1 以下の話は筆者が 2006 年度の「中国現

在論」を受講した際に見たビデオのドキュメント内容である。 この青年は北京にある日本企業への就職を手に入れた。一般の中国人が月平均 2000 元~

3000 元の所、彼は日本の JAICA という大きな会社に入り月 6000 元の給料を得ることが出

来た。彼も貧しい農村部の村の出身者だ。しかし、前者の彼女と違っていたことは、両親

が彼の教育のために、周りから借金をし、お金を捻出したことだ。彼は幼い頃からお金持

ちになることを夢見、勉強に命をかけてきたそうだ。そして、いつか日本企業へ入る為に、

独学で日本語を習得した。彼の村から今まで北京のような大都市へ就職したものは一人と

していなかったそうだ。彼は、「僕が日本企業に就職しお金に裕福になった事で、人一倍勉

強したものが成功することを学びとって欲しい。そして、大都市で外資系企業に入ること

も夢では無いと言うことを分かって欲しい。」と語っていた。彼は両親の支えと自信の努力

によって成功を手にし、親の借金も初任給で返済してしまった。今の中国の農村部におい

て、教育は人生を 180 度変えるほどの大きなものであると実感した。この様な例から中国

農村部の貧困原因、状況、そして政府の打開策などを論じて行きたい。 第二節 三農問題 農村・農民・農業という三農問題はかねてから深刻な話題の一つである。「三農問題」は、

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1996 年に、経済学者の温鉄軍博士がはじめて提唱したとされる。2000 年には、湖南省の農

村部の共産党幹部が朱鎔基・首相(当時)に手紙を書いたことが、社会的な話題になった。 2003 年には、中国共産党が政治上のテーマとして、正式に取り上げるようになった。

1980 年代から人民公社の解体や生産請負制度の導入などで、農村部の生産性は向上し、い

わゆる万元戸などが登場した。つまり、教条的な社会主義経済に対して 1990 年代に改革開

放が本格化すると、農業の発展は急速な工業や商業の発展の影にかすむようになった。そ

の結果、90 年代後半には、農民が現金収入を求めて、臨時の仕事口を得ようと都会部に押

し寄せる「盲流」などの現象が発生した。

多くの農民が農業に魅力を感じなくなった結果、農業生産力は低下した。小麦の場合、

2000 年から 2003 年まで生産量が減少しつづけた。また、農村部と都市部住民の収入格差も

目立つようになった。中国経済体制改革研究会の楊啓先・副会長は 2005 年 1 月 18 日、農

業産業化投資シンポジウムで「中国の都市部と農村部における所得比が 3.5 対 1 となり、

合理的とされる 1.5 対 1 を大幅に上回っている」と発言している。「三農」問題とは、都市

部と農村部の所得格差、都市への出稼ぎに行く人達の就労環境、農村の余剰労働力および

雇用問題、農産物価格の上昇、教育や医療などの問題である。

政府は、「三農」問題の解決をすべての政策の中で最重要項目に置き、農業政策に取り組

んでいる。政策の三本柱は、農業の発展、農村社会での教育及び衛星・医療面におけるシ

ステムの整備。都市部と農村部の差である。農業生産の発展の内容は 1、耕地の確保。2、農産物の品質と競争力の向上を推進。3、食料をめぐる改革。農業生産財の価格への監督管

理を強化し農民の利益を保護する。4、融資と技術普及による農村支援である。 農村社会

での教育及び衛星・医療面におけるシステムの整備の内容は 1、教育面での、学校、教師、

学生に対する援助。2、衛星、医療の改善がある。 都市部と農村部の差の内容は 1、出稼ぎ労働者に対する都市での待遇改善。就労手続きの簡

略化。2、農村での負担軽減。税制改革より「三農」に対する資金投入を増やし、少なく徴

収し多く援助することである。2004 年からは葉タバコを除く全ての農業特産品税が撤廃さ

れ、年約 1 ポンド以上引き下げ、5 年以内に農業税を廃止する計画をしている。 そして、2004 年に十八年ぶりに、中共中央は「一号文件」を公布した。一号文件とは農

民収入の促進を目的とした文件で、ようやく中国共産党中央委員会が「一号文件」によっ

て農村問題を強調し、新しい政府の表明したのである。そして「一号文件の」の内容は次

のようになる。 「2004 年の国務院の「一号文件」は多くの内容に言及している。農業税率の引き下げ、

タバコ以外の農業特産品税の撤廃などが含まれている。また、三農問題への政府財政支出

を増やし、食糧の流通体制を改革し、食糧を生産する農民への直接補助を行うなどの施策

も策定された。さらに、「都市に就職する農民がすでに中国の産業労働者の重要な構成部分

になっている」ことを強調した。これは今までの中共中央通達では初めての表現である。

大雑把に計算してみると、「一号文件」は少なくとも農民に 200 億元以上の直接的収入の増

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加とそれを上回る間接的利益をもたらすだろう。新しい政府の「親民」姿勢、温家宝首相

の「三農問題」に対する深い理解、など多くの意見がこの「一号文件」に存分に現れてお

り、感慨を覚える。」[実事求事 2003 年] ところが、中国における「三農問題」の本質はいかに農民の収入を増加させるかではな

く、何故に農民を重荷から解放し、平等な権利を持つ中国の国民にさせるかである。中国

の改革において、全体にみられる漸進性はすべての問題に対して温和的な政策をとること

を意味していない。中国における「三農問題」は、すでに徹底的に解決しなければならな

い問題になっており、先延ばしにしてはいけないのである。 第 1 に、土地所有権の明確化しそれを保障することである。現在、中国の農民は土地に

よって生計を立てているのである。しかし、各種の税金も土地を課税対象にしているので

ある。農民にとっては、土地が自らの命であると同時に、首にかけられた鎖でもある。な

ぜなら、土地は彼らに属していないからである。もし土地の所有権が徐々に明確になって

いかなければ、中国の農民問題は解決できないだろう。中国の法律では公共の利益のため

に限って政府により土地を徴用することができると明確に規定しているが、現在、公共の

利益と私的利益は事実上ほとんど区分されていない。農民に対しての剥奪は、まず農民の

請負土地を徴用することから始まる。それから、その土地から生み出した生産品をも剥奪

する。さらに、土地に縛られている農民からさらに直接剥奪する。これらのすべての行為

は現状では容易である。このようなことをなくすために、郷鎮以下の機構改革を伴い、中

国の農民の土地所有権を保障しなければならない。当面、宅地や個人保有地を直接に農民

に帰属させ、譲渡売買も可能にすることが必要である。集団用地に関してもその財産権(所

有権)を徐々に明確にしなければならない。しかも農民たちの集団協議によって決めるべ

きである。地方政府がブローカーになり、公益の名目で、農民のほうから安価で土地を徴

用し、高値で土地開発企業に売却する行為は、土地を失う農民と失業農民の急増をもたら

し、社会的矛盾を激化させばかりである。

第 2に、農村への公共サービスの提供である。1人の北京生まれの赤ん坊と中部地域の農村

に生まれた赤ん坊は、たとえその先天的素質と後天的な努力が完全に等しいとしても、彼

らの運命は全く異なる。1950 年代、学者はすでに次のように指摘していた。中国の農民は

大変な生活を送っている。農村のインフラ、社会救済、基礎教育などの面からみると、極

めて悪い状況である。農村の高齢者、身体障害者などに最低限度の生存権と医療サービス

を提供すること、用水、電力、交通、通信などにおいて農村を都市と乖離させないこと、

農民の 9年義務教育の普及を強制教育ではなく本当の義務教育にすること、などが大事で

ある。これらの実現は、次のような政策設定によると思われる。まず、農村への移転支出

を増やし、特に県の財政による移転支出を強化し、中央―省―県という 3段階の移転支出

の枠組みをつくりあげることが重要である。新しい政権に変わってからは、農業への支援

資金が著しく増加した。しかし、これまでに農村の公共サービスの供給が非常に低水準に

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とどまっていることと比べると、その分は依然として不十分であると言わざるを得ない。

その一方で、県レベル以下の行政機関に対して、思い切った改革が必要である。現在、農

村の治安を維持するために設置されている警察機関のほかには、郷・鎮・村の行政機関が

存在する必要はほとんどない。そのため、それらを基本的な社会事務管理機能をもつ自治

機構に転換するか、直ちに撤廃するべきである。現に、基礎行政組織と農民との対立や、

一部地域での農民反乱が頻繁に発生している。このようなことも基礎行政組織における変

化とそれらが維持困難であることを示している。

第 3に戸籍制度の改革である。実際に、公民が自由に移動できないことや、自由に職を選

択できないことが、都市と農村の分断をもたらしている。現在、農民の半分以上の現金収

入は都市への出稼ぎによるものである。彼たちにとって、出稼ぎは若い時しかできないこ

とである。農作業によって食糧を確保し、それ以外の消費が出稼ぎによって賄われるとい

う現状は次のことを示している。つまり、農民が都市へ移り、産業労働者になることは農

民たちの収入の増加、皆で繁栄を分かち合うためのカギである。増収問題の本質とは、農

民には土地を所有し農民という職業を選択する権利、また、土地を放棄することができ産

業労働者を選択する権利があるということである。このようなことが実現できれば、農民

という巨大なグループの収入の増加の目標が実現できる。この過程において、土地の所有

権に対する明確な解釈と保護が必要である。また、戸籍制度を人口の登録制度だけにする

必要もある。現在、毎年都市と農村の間の移動人口は延べ 2億人以上になっている。土地

と戸籍制度を変革させた後、農民が都市へ大量に入り、都市のインフラの重圧になるはず

である。これによって、治安問題や、都市と農村の結合地帯で貧民窟の形成、という問題

をもたらすであろう。しかし、このような問題は我々が経験しなければならないことであ

り、支払わなければならないコストである。前述のように、都市人口が相対的によい生活

を暮らしていることは、都市と農村が分断している現状に依存しており、これによる代価

と不義は都市人口にとってすでに重荷となっており、反省あるいは懺悔をする必要がある。

第 4に農業税を撤廃する。現在の農業税は年間約 800 億元しかない。しかし、それ付属し

ている各種の費用が驚くほど多い。これらの費用に対しては、直接撤廃することしかない。

また、租税の種類の設定からみても、農業税は取引税でもなければ、所得税でもない。さ

らに、課税最低基準もなく、まったく税とはいえない。あえて呼ぶならば、「人頭税」と

しか呼べない。もちろん、農業税の撤廃は中央と地方の財政に大きな打撃をもたらすかも

しれない。なぜならば、このような直接的な撤廃は地方の財政に大きな穴をあけてしまう

からである。しかし、様々な弊害を考えると、漸進的にやるより思い切ってやったほうが

いいかもしれない。1980 年代以降、数多くの農村改革に関しては、資金の無駄遣いをし、

後退したとしか言いようがない。それらの改革は国に取り戻せない損失を与え、農民に辛

抱する気持ちを失わせたのである。農業税の撤廃による財政への打撃についても測定がな

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される必要がある。少なくとも、公務員の昇給のための財政資金を使えば、農業税の撤廃

による穴を埋められるはずである。

この様に、農民の収入を増やすために、農民に押し付けられた様々な重荷(所有権が保障

されていない土地、不足している公共サービス、都市と農村を切り離す戸籍制度、見通し

のつかない郷鎮改革、負担の重い農業税などを含む)を下ろすことが重要である。重荷か

ら解放された農民が継続的に農民という職を選択するか、他の職を選択するか(言い換え

れば、土地に収入を求めるか、それとも賃金に頼って生計を立てるか)ということは、彼

らの自分自身の問題であり、自分の運命を自分で決めることなのである。

第 3 節 「中国農民調査」

ここで 1冊の本を紹介したい。「中国農民調査」は 2004 年 1 月に中国で出版され、その

都市の 3月に発売禁止を受けた。本書は若き毛沢東が 1920 年代から 1930 年代に行った農

民調査によって「大公無私」「大衆路線」の思想を生み出してから約七十年後の農村の実

態と農村政策の改革の歩みを描きだし、現在の問題点を如実に浮き彫りにしたものである。

本書では村落共同体を支配する悪徳役人の搾取、暴力、殺人、弾圧の数々です。本書のフ

ィールドは中国安徽省である。安徽省都の合肥までは北京から 1110 キロ、列車で 11 時間、

上海からは 600 キロ、列車で七時間近い距離にある。安徽省には南部に長江が、北部には

洪沢湖に注ぐ huai he(わい河)が流れ、例年洪水で悩まされ貧しい地方である。1960 年~

1970 年代、上海の多くの青年が安徽省に下放され、今上海に出稼ぎ労働に来る労働者の多

くが安徽省の出身者だ。主たる産業は農産業と手工業である。

13 億の人口をかかえる中国は全人口のうち 9 億人が農民という農業大国である。しかし、

大多数の都市住民は農村に生きる農民達がどのような生活環境に置かれているか知らない

のである。一時的に農民たちは豊かになったかもしれない。だがその後、都市部の改革が

進められると、農業・農村・そして農民に関する情報はしだいに都市住民から遠ざかった。

ところがやがて彼らは気づくのである。おのれの命にも等しい土地を手放し、生活の頼り

の村を離れ、黙々と励んできた農業をやめ、さみしく、くやしさ、つらさをうけることを

知っていながら、各地の都市になだれ込んでくる農民達が徐々に増えてきた。流入農民は

やがて 100 万をこえるほどに膨れ上がり、出稼ぎ農民の群れとなって押し寄せたのだ。 ここ数年、著者はこの本の執筆の為に、多くの農村各地を取材して歩きながら、多くの

農民と交友関係を結び、しばしば農村の事情を語ってもらった。著者は貧しい県として知

られる利辛県に入り、紀王場郷の路営村へどう行くのかと大勢の人に聞いた。答えてくれ

た人からは、道を教えてくれる前に必ずもの珍しそうに丁作明のところに行くのか?と尋

ねられた。 丁作明はいたって普通の農民だ。ただ、他の農民よりも勉強家で小学校から高校まで行

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きとてもまじめな人であって。家は大変貧しく、水を飲んでお腹の空腹を満たしていた。

大学受験もしたが、合格ラインにほんの少し足りず、路営村に帰る他道は無かった。こう

して、まったく字が読めない普通の農民と同じになり、中国の全ての農民と同じように田

畑を耕し、作物を育てていた。普通と違うことは、新聞を読んだり、ラジオを聴き、文章

を書き、ものを考えたことだ。しばしば自分の理屈をはっきりと主張し、村や郷のお偉方

にも堂々と話をした。まさにこれが原因で、他の者に比べて面倒がられ、最後は死を招く

ことになるのだ。 2 本節は陳桂隷・春桃(2004)『中国農民調査』文藝春秋、を参照している。 この“路営村”は救いようの無いほど貧しい地区で、村内の 1 人当たりの平均収入は 400

元(1 元約 16 円 2006 年)に満たないというのに、上からはさまざまな負担金が課せられ、

1 人あたり合計 103.17 元が割りふられたのである。朝から晩まで真っ黒になって 1 年中働

きつめで、足は細り、腰は曲がるという思いをして収穫した食料は、自宅で食べる分以外

は全部、村政府が決めた堤留金としてもっていかれてしまうのだ。何世帯かは徴収額に達

していない理由から村政府と郷政府が警察と結託して、「払わなければ拘留するぞ」と脅し

をかけてきたのだ。丁作明は中国の農民は解放されて国の主人公になったのになぜにこん

なに苦しい思いをしなければいけないのか。徹底して人民の利益のために働くはずの党の

農村幹部がなぜこんなひどいことをするのか。こうして彼は、路営村のほかの人間ではや

れないことを始めたのだ。彼はテレビや新聞のニュースで、党中央が北京で全国農村工作

会議を開催した事を知り、いく晩かかけて中央の新しい政策を収集し、誰にでもわかる資

料にまとめ、こっそり各世帯をまわり、「村の幹部がこうやって公益金や管理費を徴収する

事は、中央の精神に反しているのだ」と伝えてまわったのだ。彼は村人に、国務院の最新

の規定を一字一句ゆっくりと読んで聞かせた。「農民から徴収する堤留金は一人あたり平均

収入の 5 パーセントを超えてはならない」とくに彼は 5 パーセントの所を彼は強調して言

った。「わかるでしょ、村政府が僕達から取っている堤留金はとっくにこの規定を超えてい

ますよ。5 パーセントの 5 倍でも足りないくらいだ。今回開かれた農村工作会議でははっき

りと『農民の利益を守り、農民の負担を軽くしなければいけない』としているんです。村

政府はまったくでたらめだ。僕達は郷政府にいって話をつけようじゃありませんか。」そし

て、話せば話すほどみな腹が立ってきて、丁作明に意見を求めた。「布靴を作る為には針と

布がいる。人を告発するには証拠がいる」と、丁作明に言った。その日、丁作明は 7 人の

村人を率いて郷の党委員会を訪れた。郷の党委員会で法律担当の副書記の任開才が、路営

党の党書記に向かって堤留金の取りすぎ問題について説明するように述べた。すると、董

応福は頭から湯気を立て怒りだした。堤留金のとり過ぎなど、どの村でもあることだ。俺

に指一本触れてみろ。ただじゃすまないぞ。しかし、議長であり郷の法律担当の福書記は

それを制止しなかった。これを聞いた村人は怒りを爆発させた。郷の党員会ではこの問題

を解決してくれないと踏み、彼らはその上の利辛県の紀律検査委員会へ資料をもって行く

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事を決めた。村人はなけなしのわずかな金を持ち寄り、丁作明を含む八人の村人代表の旅

費を作った。県の党委員会の王主任は告訴状を目にし、路営村の農民達がこんなにもずさ

んな状況に置かれていることに驚いた。そしてすぐさま、郷役場に会計監査チームを作り、

路営行政幹部の帳簿を監査することを約束してくれた。村人は喜びで胸いっぱいになって

いた。しかし、この後丁作明に阿蘇路しい出来事が待ち受けてようとは誰も予想しなかっ

た。 県や郷から路営村委員会に対し、圧力がかかった事に対し、憤慨した副所長丁言楽が丁作

明に言いがかりをつけに来た。その際、彼が丁作明を殴ろうとした為、丁作明がうまく体

をかわすと、丁言楽はバランスを崩し、畑に落ちてしまった。彼はこれで正々堂々報復の

理由をつけることに成功したのだ。丁言楽、路営村の党支部書記董応福が手を組み、傷害

事件として丁作明を厳しく取り締まった。自分は潔白だと、丁作明は自ら派出所に出向い

た。派出所に出向いた瞬間、丁作明はこの世が何もかも逆さまになっている事を知った。『鹿

を指して馬となす』とは『史記』に書かれた故事だけの話ではない。鹿を指して強引に馬

だと言い張った宦官の趙高もこれほどの悪人ではあるまい。派出所の副所長、彭志中が丁

作明に向かって言った第一声はこうだ。『お前は、なんで丁言楽を殴った』丁作明は『僕は

殴っていません。人を殴った事などありません』彭志中が次に言ったのは最初の質問と同

じだった。丁作明はもう一度釈明した。そして、彼は丁作明に対し、二つの処分を言い渡

した。『1.丁作明は丁言楽に 280.5 元の医療費を払うこと。2.丁言楽の妻が農業市の時、

荷車を引いて、病院に行き、丁言楽を乗せて家に送る届けること。』こんな是非も真偽も無

い人を陥れる為の処分があるものか。丁作明はもちろん納得できない。彭志中は机を叩い

て言った。『お前は本官の話を無視するつもりか。言っておくが、もう裁決されたのだ。さ

ぁ金を出すのか出さないのか。』丁作明は普段から法律の知識を仕入れていたので、こう言

った。『ぼくが丁言楽を殴っていないのに、あなたがこんな裁決を下すというなら、僕だっ

て上へ告発しますよ。』これで、丁作明は丁言楽を本気で怒らせてしまった。そして、治安

共同防衛隊の祝伝済、紀洪礼、趙金喜の三人を呼び、丁作明を非合法の留置所に入れた。

派出所に留置所を作っていけないと、1989 年に国家公安部から出されているのである。 彭志中の命令で治安共同防衛隊は殴る蹴るなどの暴行を丁作明にし続けた。しかし、丁

作明は自分の無実を言い続けた。そして丁作明は「村の幹部が農民に負担を強いるのは党

の政策違反している。こんなことくらい、怖くない。殺されたって言いなりにはならない

ぞ。化けてでも告訴してやる。お前達も一緒にだ。」 病気で休んでいた派出所の指導員である趙西印が気づくまで、この暴行は続けられていた。 丁作明は腹部をひどく殴打されており、郷の病院では処置が施せず、そのまま利辛県の病

院に搬送された。翌日の午前 8 時、丁作明に脾臓破裂の大出血が認められて、緊急輸血を

したが、持ち直すことはなかった。何もかも遅すぎたのだ。息子の死を告げられた父親は

泣き崩れ、200 元ばかりの金と自分の命を引き換えにするなんて。病気ばかりしている年寄

りと、こんな小さな子供3人も残して一人で逝ってしまうなんて。この後、どうやって生

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活すればいいんだ」 「路営村の人々は激怒した。人々は体面も何もかも殴り捨てて家を飛び出し、丁言楽の

家に押しかけ、門の前で丁言楽夫妻に出てこいと叫んだ。だか、丁言楽は空気を察して一

族朗党、路営村を出てしまいもぬけの殻だった。その後 8 年の歳月が流れ、私達が路営村

に行くまで、丁言楽一族の姿を見た住民はいなかった。彼らは上海か南京、北京に行った

という人もいる。いずれにせよ、故郷を捨て、出稼ぎ労働で食いつないでいるのだ。もと

もと路営村でどんなに頑張った所で、田舎の副所長でしかなった。その後は放浪の生活で

流れ流れる悲しい流浪者になったのだ。」 1993 年 2 月 21 日、安趙省利辛県紀王場郷の派出所で発生した『丁作明リンチ殺人事件』

は将来書かれるであろう『中国農業発展史』の中に書き残されるであろう。丁作明は 9 億

人の中の 1 人の農民で、農民負担の重さを訴えた為に殺された最初の人物であり、自分の

若い命を犠牲にして、中国の最初の厳しい現実から目をそらしてはならないと人々に教え

た人だからである。 中国は国土があまりに広すぎる為、上がいくら法律や規則を決めていても、末端にいる田

舎の農民達には反映されていなかった。今回の丁作明の事件が最初で最後のリンチ事件で

あると多くの農民や党幹部は思った。しかし、それから 5 年後更にむごい事件が起きたの

である。未だ多くの問題が残る農村問題であるが、以前に比べると格段に良くなっている

ことは前で述べたと通りである。それも、これも、丁作明含め、多くの犠牲者と農民の努

力と願いの表れであると感じる。

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第 3 章 希望工程 <第 1 節> 希望工程 希望工程とは中国青少年発展基金を指し、1989 年 10 月 30 日に設立された。主に長期的

に貧困の続く地域に希望小学校の設立・希望文庫の寄贈・農村教師の育成を目的としてい

る。またこの希望工程の由来はこうである。「子供は私達の希望であり、彼らの教育レベル

がこの国の未来を左右し創り上げていく。」そして、希望工程という名前が決められたので

ある。 以下は希望工程の柱の 1 つである希望小学校についてである 対象地域:貧困地域(特に中国西部地域) 費用:500 元、小学 6 年間(中学生には寄付不可)

※ しかし、500 元で小学 6 年間の費用をまかなう事は出来ないので、各地方政府より「結

対資助」を受けた学生に対して各種費用の優遇をとっている。つまり、500 元+現地政

府の優遇で個人負担無しに卒業できる事を目指している。 説明:

・ 寄付対象の省、民族、性別、学級を要求化

・ 6 月 15 日と 12 月 15 日に、年 2回分け、6月分までの寄付は 9月開学の生徒向けで 12

月分までの寄付は 3月開学の生徒向け

・ 手続期間は約 2ヶ月半

・ 定期的に学生から手紙で連絡あり

・ 小学生に限定

・ 寄付金は現地の希望工程実施機構に払込み、現地機構により、各学期毎に学校へ学費

を払込みとする。

希望工程が出来るまで

まず、希望工程小学校を建設する際、地区の選択には「実際の需要」と「寄付者の意

向」の 2 つの要素を考慮する。実際の需要として、就学困難な学生が多い地域を優先し

ている。希望小学校が西部に多く集中しているのもその為である。また、寄付者の意向

として、その地区の学校数や貧困度にもよるが、なるべく出資者の希望を尊重するよう

になっている。また、希望工程プロジェクト初期は一校 20 万人民元(訳 320 万円)だっ

た援助建設費用が今年から 25 万人民元に値上がりした。その理由とし、希望工程プロジ

ェクト初期の頃は、より多くの寄付者を得られるよう、額を 1校 20 万人民元としてきた

が、物価の変動に合わせて価格を調整する方針が採られた。また、農村の学校教育水準

向上のため、現在は小規模な学校を編成し、大規模な宿舎制学校を建設するようになっ

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た為、費用が以前よりも高くなった。

地区の選択から、建設完了までに原則として訳 1 年間を要する。しかし、地域によって

工事できない時期もあり、一定では無い。例えば、北方は冬季、南方は雨季の期間中は

工事が出来ない。

希望小学校建設の過程

1. 出資者と建設地区を協議する。

2. 地区が決定した後、その地区の青基会と連絡をとる。

3. 政府の指定した大規模学校の建設予定校から、具体的な寄付先を選択する。

4. 寄付予定学校の予算と寄付額を合わせた費用で建設可能かどうか検討する。

5. 必要に応じて地方政府や県、郷、村委員会に出資を依頼する。

6. 県政府と契約書にサインをする。

7. 半額を寄付する。

8. 学校側が中間報告書を提出する。

9. 残りの半額を寄付する。

10. 新しい希望小学校の完成。

中国青少年発展基金会 北京事務所 常務副秘書長のコメント

「日本は希望工程プロジェクトへの理解が深く、出資の最も多い国の一つで、共同通

信社、大和証券、ソニー、NECなど多くの大企業に積極的に寄付に協力して頂いてい

ます。また、北京日本人会は毎年一校ペースで既に 10 校の希望工程小学校を建設してい

ます。日本の方々が中国の経済発展のみならず、環境、教育、貧富格差といった社会問

題に着目してくださる事は非常に喜ばしい事です。

日中関係とは貿易の利益ばかりを追求するものでなく、政治家が争うテーマでもあり

ません。国民間の友好的な交流は過去の多くの矛盾を乗り越える力を持っていると思っ

ています。

現状として、希望工程小学校は建設後のケアが足りていません。いくら学校に寄付で

きるかが最も大事な事ではなく、交流する事が大切なのです。

中国青少年発展基金会発足当時のスローガンは『手をつなごう』であり、豊かな地域

と貧しい地域の人々の『相互理解』を目指しています。」[フリーペーパー北京トコトコ

参考]

<第 2 節> 中国青少年発展基金

1989 年に就学援助プロジェクト「希望工程」が始動した。集められた資金は中国青少

年発展基金によって運営されている。この中国青基金は全国的な非営利団体であり、募

金による資金援助で貧困地域の教育環境の改善や経済的に困難な学生の就学援助、貧困

家庭の青少年への医療援助と生活扶助、積極的な環境保護活動の展開など、各種の公益

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活動を展開し、青少年の交流と資質の向上を促す事を主な任務としている。 青少年発展基金は 1988 年に成立し、1989 年 10 月に「中華全国青年連合会」の提唱・主

導の下「希望工程プロジェクト」がスタートした。その当時、中国の改革開放は既に一

定の成功を収めていた。しかし、青少年の教育事業は慢性的な資金不足に悩んでいた。

その為、中華全国青年連合会は基金会の形式で国内外から教育事業向けの募金を行う事

を決定し、中国史青少年発展基金が設立された。この青基会が設立する以前は中国障害

者基金会や中国児童少年基金が既に存在し、国内外の募金を障害者及び児童向けの社会

福祉活動に提供していたが、貧困地区の青少年就学問題を対象にしたのは、国内ではこ

の中国史少年発展基金が初めてとなる。基金の主な活動は大きく 3 つの分野に分かれる。 ● 教育:農村に学校を建設する「希望工程プロジェクト」や、農村出身の学生と出稼ぎ

労働者の子供向け奨学金など。 ●環境:植林によって母なる大河の環境保護に努める「保護母親河プロジェクト」 ● 大学生向けのエイズ予防知識の普及とエイズ患者の子供への就学援助。 ○ 北京支部 中国史青少年発展基金 北京支部は 1994 年に設立された。2005 年までに約二億円の資金が寄付された。全国、

省、市、自治区 30 箇所に小学校を 291 校と、倉庫を 321 個作ることを目標としている。

また、経済的に苦しい家庭の小学生 60227 人、経済的に苦しい家庭の大学生 3494 人、

そして、農村地域から出稼ぎに来ている青少年 15474 人に“愛心基金”によって奨学金

などにより彼らの生活を扶助している。そして、農村地域から来た女性工務員に対して、

教育の扶助も行っている。 <第三節>北京日本人会 希望小学校

北京日本人会希望小学校(第1校目)竣工式の模様

小学校の概要(当時)

所在地:河北省武強県西王郷西王村(北京から南約 250km)

学校名:北京日本人会希望小学校

着工:1995 年 5 月

普通教室をはじめ、職員室、音楽室、実験室などがあり、建築費用 25 万元の内北京日本人

会が 20 万元を寄付。

2. 竣工式の様子

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以下は北京日本人会のホームページに掲載された当日の様子である。

「1月 27 日、橋本公使はじめ大使館の皆様、報道の方々そして北京日本人の方々とマイク

ロバスに分譲して日の出前に長富宮飯店を出発、正味4時間をかけて武強県到着した。県

境からは出迎えのパトカーに先導され招待所へ、招待所では出迎えしてくれた中国側要人

(党武強県委員会書記、人民政府関係者、発展基金会)、関係者と挨拶、一緒に食事を取

った後、竣工式会場へ向かう。会場の手前数百メートルで、マイクロバスが止まった。そ

こには、ドラや太鼓の楽隊が並び、多くの村民がぎっしりと立っていた。そして小学校の

入り口までの長い道の両側には児童達が一列に並んで「歓迎!歓迎」と迎えてくれている。

その中を通り、関係者一同着席すると、先ほどの生徒たちも会場を取り囲むようにして、

村あげての竣工式が開幕した。式典は、出席者紹介、国家演奏、国旗掲揚 花束贈呈、要

人挨拶と続き、中国側要人の挨拶終了後にテープカットが行われた。併せて、大使館、北

京日本人会から、学用品等の記念品を贈呈した。児童たちは、大人の挨拶にも一所懸命拍

手をしてくれていた。日本の報道機関だけではなく、中国側の報道機関も取材していた。

盛大な式典が無事終わると、県の責任者が学校を案内しながら状況を説明してくれた。校

庭には北京日本人会の寄付でこの学校が設立されたとの由来が刻まれた大きな石碑が武強

県人民政府により建立されていた。また、広い敷地には春になったら木を植え、花壇を作

るということであり、楽しみである。

新校舎が出来る前の校舎は、教室が4教室しかなく、そのうち3教室は危険な状態で、電

灯、暖房もなく、窓はビニィール張りで雨が降れば授業が出来ない状態だった。しかも5,

6年生は教室が無い状態であったから、この希望小学校のもたらす効果、意義は大きい。」

[北京日本人会HP 2006]

2006 年までに北京日本人会は合計 9校の希望小学校を建設した。

筆者が中国に来て最初に感じた事は、西部の地域と内モンゴル地域を除く他の地域の子

供たちのほとんどが不自由なく学校に通っている事だ。筆者は、もっと多くの子供たちが

学校に行く事が出来ないと思っていた。ある日、筆者のクラスの先生が、「希望工程を知

っているか?」と尋ねた。多くの学生は聞いたことはあるが詳しい事は知らないと答えた。

筆者は先生に幾つかの質問をした。まず「希望工程を必要とする地域は主にどこの地域

か?」先生は「西部と内モンゴル地区」と答えた。それ以外の地域の就学率は 90%を越す

と言った。また先生は「他の地域でも来年からは小・中学校での完全無料化を行うと政府

が発表した。」と教えてくれた。実際は既に小・中学校は全て無料化だが、雑費代として

年に幾らかのお金が徴収されていた。この雑費代なども来年からすべて払う必要がなくな

るのである。

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中国の学生は勤勉だ。ほとんどの学生が大学に行かせてくれた両親に多大な感謝の気持

を持っており、両親の期待を裏切らない為に、毎日毎日勉強に励んでいる。ある日、筆者

は夜中に友達とあるファーストフード店に出かけた。大学の周辺で唯一 24 時間営業のお店

だ。中は以外にも人で席が埋まっていた。ほとんどが中国人学生だ。夜中の三時半をすで

にまわっていた。中国人学生の寮は基本的に何人かの学生とルームシェアをする。また何

棟かの寮は十一時を過ぎると電気が消されてしまう。だから、多くの学生がこうして夜遅

くまでファーストフード店で勉強をしているのだ。しかし、勉強の環境はいいとは言えな

い。ファーストフード店だけあって、椅子は硬く・油くさい・そして五月蝿い。しかし、

彼らにとってはたいした問題にはならないようだ。そして、日本ではこの様な光景を見る

事はまず出来ないだろう。

希望工程によって学校に行く機会ができる事は素晴らしいと思う。学校で教育を受ける

事により、自分の人生の選択を考え、選ぶチャンスが生まれる。また、学ぶ喜びを感じる

事ができるだろう。しかし、希望工程などにより小学校・中学校の数は人口の割合に段々

近づいてきた。しかし、圧倒的に高校の数が少ない。最もの原因として言われるのが、労

働力確保の為と言われている。その為に、中学を卒業したが、高校の数が少ない為に、入

れる割合も少なくなる。そして多くの若者は都市に出て働くという選択肢を選ぶのだ。こ

の情報を知って感じた事は、お金に余裕があるもの。成績がいいもの。この2つの者がエ

リートの道を行くという事だ。希望工程でせっかく学校に行き、学ぶ機会が得られたのに

も関わらず、中学卒業と同時にまた希望が失われるような気がし、残念に感じた。

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終章 2006 年 9 月に東南アジア諸国連合(ASEAN)プラス中日韓の「10+3」地域の貧困支援

に関する第 2 回トップフォーラムが 25 日、北京で開催された。国務院の回良玉副総理(中

国共産党中央政治局委員)は開幕式に出席し、中国政府を代表して挨拶を述べた。 発言の要旨は以下の通り。 「 中国は人口の多い発展途上国であるとともに、世界における貧困削減事業の重要な実行

国だ。新中国成立後、特に改革開放以来、中国政府は組織的・計画的に、大規模な貧困支

援を実施するとともに、「政府が主導し、社会が参与し、自力更生と全面的発展を目指す貧

困支援」を行う方針に基づいて、中国の国情に合った貧困支援の道を歩み、2 億人以上の農

村貧困人口の衣食問題を解決した。これは中国史においても偉大な快挙であるだけでなく、

世界の反貧困事業に貢献した行為といえる。 中国はいまだ発展途上国であり、一人当たりの平均収入レベルはまだ低い。都市と農村間、

また地区間のバランスのとれた発展を目指す上での問題はまだ大きく、貧困支援は依然と

して重い任務だ。貧困を減らし、共に豊かになるという目標を達成するにはまだ長い努力

が必要となる。私たちは、「以人為本」(人民を基本とする)を堅持し、持続可能な科学的

発展観に基づき、農業、農村、農民問題の解決を最重視し、都市と農村発展を統一して計

画していくとともに、工業が農業の発展を牽引し、都市が農村に対して『多く与えて少な

く取り、活性化させる』方針を維持していく。また農業・農村発展へのサポートを強化し、

貧困支援を強め、貧困地区の生産・生活条件を改善するとともに、残る貧困人口の衣食問

題を解決し、貧困地区経済社会の全面的発展を促進する。中国は自国の貧困問題を解決し、

平和的発展を堅持し、富国繁栄を目指していくことで、世界平和の保護と、共同発展の促

進に貢献していく。」[人民インターネット HP 2005 年 9 月 26 日記事] 中国政府は自国の貧困問題の解決に力を入れると同時に、アジアと全世界における貧困

削減事業に積極的に参加していく。中国は発展途上国の貧困問題における交流や協力を強

め、力の及ぶ限り、貧困国家への発展援助を増加していく。中国政府は中国国際貧困扶助

センターを国際社会、特にアジア地区の貧困扶助交流と協力を行う重要なプラットフォー

ムとしている。 東アジア地区の貧困対策事業の発展には各国のさらなる協力が必要だ。中国は、東アジ

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アの貧困を解決し、「10+3」地域での協力を強め、平和で調和の取れた東アジアを作るた

め、各国と共に努力していく事が必要だ。 世界銀行は中国国務院貧困扶助開発指導グループはこのほど北京で、貧困扶助発展プロ

ジェクトを共にスタートさせた。このプロジェクトの投資額は 4800 万人民元で、その実地

により 10 万の農民が利益を得られるという事になる。伝えられる所、このプロジェクトの

実施期間は 2 年間で広西チワン族自治区、四川省、陝西省と内モンゴル自治区にある 60 の

貧しい村が受益するが、主には地元のインフラ整備、生態環境の保護および農民への貸付

などに充てられる。中国の山間地区では、貧困問題が今でも深刻で中国の 13 億人のうち未

だ一億人あまりが、国際的に定められた貧困ライン以下、つまり毎日の生活費が 1 ドル以

下という状態だ。また同日に北京を訪問中の国際農業開発基金(IFAD)のバジェ総裁は1

日、「中国の社会主義の新しい農村作りのため、貸付やその他金融サービスを中国の最も貧

しい農村地区で拡大していく」と述べた。

これは、バジェ総裁が記者のインタビューに答えた際述べたもので、バジェ総裁は「IFAD

は今年、中国で新たな貧困扶助プロジェクトの実施を計画しており、貧困扶助の対象は、

中国西部甘粛省山間地区の貧しい農村である。IFAD は、世界食糧計画(WFP)と共に、貧

困扶助計画実施のため、8000 万ドルあまりの資金を調達し、これによって 30 万世帯の農

家が利益を得ることができる」と述べた。[CRInline 2005 年6月]

<中国の生活水準>

中国 287 都市の生活水準ランキングで、北京五輪を 2年後に控えた首都・北京が昨年の 4

位から14位に転落した。住宅価格の上昇、慢性的な交通渋滞が原因で、五輪開発の陰で

庶民が不満を募らせている現状が浮かび上がった。21 日付の中国紙「新京報」などが伝え

た。

全国の都市住民 77.3 万人を対象に、衣食住の満足度▽交通状況▽社会・医療保障▽教育

▽公共の安全など 12 項目を「中国都市生活指数」としてネット上でアンケート調査を実施

し、都市をランク付けした。結果は 20 日に開催された「都市フォーラム」で公表された。

上位都市は(1)深セン(広東省)(2)青島(山東省)(3)杭州(浙江省)(4)寧波(同)(5)

上海(6)無錫(江蘇省)-だった。

北京は順位こそ落としたものの「健康」「消費」「教育環境」などはプラス面として挙げ

られている。また、平均寿命は 80.9 歳(昨年末)で 2001 年に比べ 4.24 歳も延びており、

「医療施設が国際水準に近づき、社会保険制度が推進されている」と分析されている。

深センが昨年に続き連続トップになったのは「医療衛生」「交通状況」「教育環境」「収入」

がよいという理由からで、全国 1位の平均年収、1万人当たり医師 60 人、公共バス 115 台

などの暮らしやすさが評価された。

「不動産価格の高騰」「治安悪化」「就業状況」が都市住民には一番頭の痛い問題である

ことも調査からは浮き彫りになっている。[産経新聞 2006 年 9 月 26 日]

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今中国・北京に留学して感じる事。それは 2年前に比べて人の生活水準は上がり、段々

と首都の貧困は良くなっていると感じる。街中には多くの出稼ぎ労働者が汗を流して働い

ている。需要と供給が以前よりも噛み合ってきたと感じる。しかし、2008 年の北京オリン

ピックに向けて不動産価格の高騰・治安悪化・就業状況と貧困問題が前進しつつも、毎日

毎日新しい問題が生まれてくるのだ。

参考文献

陳桂隷・春桃(2006)『中国農民調査』文藝春秋 山本秀也(2004)『本当の中国を知っていますか』草思社 清水美和(2002)『中国農民の反乱』講談社 フリーペーパー(2006)『北京トコトコ』 産経新聞(2006 年 9 月 22 日発行)

参考HP

人民網:http://j.people.com.cn 北京日本人会:http://www.arp-nt.co.jp 北京放送:http://jpbbs.cri.cn 北京日本人会:http://www.arp-nt.co.jp 中国青少年発展基金会:http://www.cydf.org.cn 希望工程:http://gqt.ankang.gov.cn/hbgqt 日本総研:http://www.jri.co.jp