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4 「話す機械」としてのフォノグラフ―録音再生技術史再考 音を記録し、再生することのできる最古の録音再生技術は、1877 年にトーマス・アルヴァ・ エジソン(Thomas Alva Edison, 1847-1931)によって発明されたと言われている。同年 12 月 4日、アメリカ合衆国ニュージーシュー州にあるメンロー・パーク研究所では、その試作機を 完成させたエジソンの助手たちが、できあがったばかりの装置に声を録音する実験をおこなっ ていた。彼らのひとりが大声で言葉を吹き込むと、その装置からは「どうです、分かりますか!? How do you get that!?」という声がたしかに聞こえたという。その後、二日にわたり調整を続 けた末、エジソンが自ら装置を試験し、今度は彼自身が吹き込んだ「メリーさんの羊 Mary Had a Little Lamb」の歌詞がはっきりと聞き取れるかたちで再生されるのを確かめたと言われ ている。公式の記録では、これが歴史上はじめて、人類が音の機械的な記録と再生に成功した 瞬間であったとされている。「フォノグラフPhonograph」と名づけられたその機械は、完成の 報が同日のうちに複数の新聞に掲載されるやいなや、「世紀の大発明」としてまたたくまに知 れ渡った。その発明が世に与えた衝撃によって、エジソンが「メンロー・パークの魔術師 The Wizard of Menlopark」の異名をほしいままにしたことはよく知られている。ところが、そう した「世紀の大発明」として知られる知名度に比べると、フォノグラフが発明された経緯や背 景は、驚くほどに知られていない。というのも、エジソンを含む開発者らは、フォノグラフの 発明を動機づけた着想や製作の過程に関して、詳細な記述を残していないからである。後述す るように、エジソンはある記事で、フォノグラフの開発に乗り出した最初のきっかけを述べて はいるものの、その後の経過については、あまり詳しく述べていないのである。 そのような資料の乏しさによる困難が予想されるなかで、私たちがあえてフォノグラフの発 明史に取り組むのは、エジソンの偉業をあらためて確認するためではない。そうではなく、私 たちはフォノグラフの由来を再考することを通じて、このテクノロジーが身体をめぐる認識に 0.はじめに 秋 吉 康 晴 AKIYOSHI Yasuharu 「話す機械」としてのフォノグラフ ―― 録音再生技術史再考――

「話す機械」としてのフォノグラフ - Kyoto Seika University...エジソン(Thomas Alva Edison, 1847-1931)によって発明されたと言われている。同年12月

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  • ― 4 ― 「話す機械」としてのフォノグラフ―録音再生技術史再考

    音を記録し、再生することのできる最古の録音再生技術は、1877 年にトーマス・アルヴァ・

    エジソン(Thomas Alva Edison, 1847-1931)によって発明されたと言われている。同年 12 月

    4日、アメリカ合衆国ニュージーシュー州にあるメンロー・パーク研究所では、その試作機を

    完成させたエジソンの助手たちが、できあがったばかりの装置に声を録音する実験をおこなっ

    ていた。彼らのひとりが大声で言葉を吹き込むと、その装置からは「どうです、分かりますか!?

    How do you get that!?」という声がたしかに聞こえたという。その後、二日にわたり調整を続

    けた末、エジソンが自ら装置を試験し、今度は彼自身が吹き込んだ「メリーさんの羊 Mary

    Had a Little Lamb」の歌詞がはっきりと聞き取れるかたちで再生されるのを確かめたと言われ

    ている。公式の記録では、これが歴史上はじめて、人類が音の機械的な記録と再生に成功した

    瞬間であったとされている。「フォノグラフ Phonograph」と名づけられたその機械は、完成の

    報が同日のうちに複数の新聞に掲載されるやいなや、「世紀の大発明」としてまたたくまに知

    れ渡った。その発明が世に与えた衝撃によって、エジソンが「メンロー・パークの魔術師 The

    Wizard of Menlopark」の異名をほしいままにしたことはよく知られている。ところが、そう

    した「世紀の大発明」として知られる知名度に比べると、フォノグラフが発明された経緯や背

    景は、驚くほどに知られていない。というのも、エジソンを含む開発者らは、フォノグラフの

    発明を動機づけた着想や製作の過程に関して、詳細な記述を残していないからである。後述す

    るように、エジソンはある記事で、フォノグラフの開発に乗り出した最初のきっかけを述べて

    はいるものの、その後の経過については、あまり詳しく述べていないのである。

    そのような資料の乏しさによる困難が予想されるなかで、私たちがあえてフォノグラフの発

    明史に取り組むのは、エジソンの偉業をあらためて確認するためではない。そうではなく、私

    たちはフォノグラフの由来を再考することを通じて、このテクノロジーが身体をめぐる認識に

    0.はじめに

    秋 吉 康 晴AKIYOSHI Yasuharu

    「話す機械」としてのフォノグラフ――録音再生技術史再考――

  • ― 5 ―京都精華大学紀要 第四十七号

    もたらした歴史的な変化について考えてみたいのである。こうした観点から録音技術史をとら

    える本論文は、マーシャル・マクルーハンの『メディアの理解(メディア論)』1(1964) を嚆

    矢とするメディア理論に多くを負っている。メディアを身体の拡張という観点から定義するマ

    クルーハンは、近代に登場したコミュニケーションのメディアないし複製技術を「中枢神経系

    の拡張ないし外化」として位置づけたことで知られる。つまり、電話は耳の拡張であり、フォ

    ノグラフはその外化であるというように、彼はこれらのメディアを身体機能の拡張として、中

    枢神経系の機能を外部から物理的に拡張するテクノロジーとしてとらえるのである。そうした

    マクルーハンの思想は、技術決定論という問題点を指摘されながらも、後続の研究者によって

    批判的に継承され、発展させられてきた。本論文にとって重要な文献としては、フリードリヒ・

    キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』(1986)2 とジョナサン・スターン

    の『聞こえる過去』(2003)3 があげられるだろう。後述するように、前者はいわば「書く機械」

    の系譜に、後者は「聞く機械」の系譜にフォノグラフを位置づけながら、このテクノロジーを

    機械論的な感覚理解の産物としてとらえている。

    本論文の課題は、これらの先行研究を批判的に検討しながら、これまであまり論じられてこ

    なかったフォノグラフのもうひとつの由来、すなわち「話す機械」としての由来を明らかにす

    ることにある。書く機械と聞く機械という形象はなるほど、録音機構の由来を説明することに

    は役立つかもしれない。ただし、それらの形象はともに、「記録」のメカニズムに合致するか

    もしれないが、「再生産」のメカニズムを欠いている。このことはフォノグラフを先行する記

    録のテクノロジーから区別することを困難にしてしまう。というのも、音を物理的な痕跡のか

    たちで記録するメカニズムだけでいえば、フォノグラフとよく似た装置は以前にも存在したか

    らである。フォノグラフがフォノグラフになるには、書く機械や聞く機械というだけでは不十

    分であり、そこに音を再生産するという発想が加えられる必要があったはずである。では、音

    を記録する機械から音を再生産する機械への飛躍は、どのようにして起きたのだろうか。私た

    ちの考えでは、そこで鍵となるのが、「話す機械」というもうひとつの系譜である。結論を先

    取りするなら、音を記録する機械は、言語の発音を機械によって模倣するという試みと出会う

    ことで、はじめてフォノグラフになったと推測されるのである。もっとも、最初に述べたよう

    に、エジソンはそうした動機をはっきりと書き残しているわけではないし、周囲の人物が残し

    た証言にしても同じことが言える。しかし、電信や電話といった他の音響メディアとの関連に

    注目するならば、フォノグラフは音声の再生産をめぐるさまざまな試みの集大成として発明さ

    れたテクノロジーであるということが浮かび上がってくるだろう。

    こうした目論見のもと、本論文では以下のような手続きをとる。第一章では、エジソンが残

    した文章をとりあげながら、先行する議論がフォノグラフの発明史をどのように説明してきた

  • ― 6 ― 「話す機械」としてのフォノグラフ―録音再生技術史再考

    のかをまとめる。先行する議論の多くは、名称と構造の類似性によって、フォノグラフを「フォ

    ノトグラフ phonautograph」というグラフ装置(音の波形を記録する装置)に由来するテクノ

    ロジーとみなしてきた。このことは決して間違いではなく、フォノグラフがフォノトグラフと

    何らかの類縁関係を持つことは否定できないが、先に述べたように、それに注目するだけでは

    「再生産」のメカニズムが加えられた理由を説明することはできない。そこで第二章ではまず、

    フォノグラフに先行するかたちで同じくフォノトグラフから派生したテクノロジーとして、電

    話をとりあげ、その発明の過程について考察する。発明者のアレクサンダー・グラハム・ベル

    (Alexander Graham Bell,1847‒1922)が残した証言によれば、彼はもともと言語音を機械的に

    再生産することを試みるなかで、電話の着想を得たという。そうした記述からは、再生産のメ

    カニズムが、「話す機械」と呼ばれる先行のテクノロジーを発展させようとする探求のなかで

    着想されたことが明らかになるだろう。最後に第三章では、エジソンが電話を発展させるかた

    ちでフォノグラフを発明したことを確認しながら、この発明品を「話す機械」の系譜に位置づ

    けることを試みる。こうした作業によって、フォノグラフは必ずしも今日考えられているよう

    な「記録」のテクノロジーではなく、むしろ、「合成」のテクノロジーに近い発想のなかから

    生まれたことが明らかになるはずである。本論文では最後に、そのような発想の背景に、「話

    す身体」の不在化をめぐる探求を見出して論を締めくくりたいと思う。

    1.音を書く耳

    1- 1.録音技術史の源流

    音を物体上に記録し、再生産するという着想はいったいどのように生まれたのだろうか。それ

    を考える前に、まずはフォノグラフという装置の仕組みをおおまかに説明しておきたい。公開直

    後の1877年 12月 22日に『サイエンティフィック・アメリカン』誌に掲載された記事によると、フォ

    ノグラフは四つの部品によって構成されている 4。ひとつ目は録音機構にあたる「マウスピース」

    であり、その管の末端には音波に共鳴する「振動板」と、振動板の震えを録音媒体に記録する「針」

    が取り付けられている([図1]のA)。ふたつ目は録音媒体にあたる「シリンダー」であり、回

    転すると軸に沿って真横にずれていくように作られていた([図1]のB)。三つ目は動力部にあ

    たる「クランク」であり、シリンダーを回転させるのに用いられる。最後のひとつは再生機構に

    あたる「読み取りの機構reading mechanism」であり、柔軟なバネを挟んで、振動板に針が取り

    付けられている。以上の四つが、フォノグラフを構成する主要な部品である。続いて、操作の手

    順を説明しておこう。録音時にはまず、録音媒体となる錫箔をシリンダーに巻き付け、録音用の

    針をそれに接触させる。録音を開始する際、操作者はマウスピースに口を近づけ、声を出しなが

  • ― 7 ―京都精華大学紀要 第四十七号

    らクランクを一定の速度で回転させる。す

    ると、マウスピースの末端にある振動板が

    音に共鳴して、その震えを針に伝達し、音

    波に対応する凹凸の溝を錫箔の上に刻み込

    むのである(同記事では「くぼみをつける

    indent」という言葉が使われている)。逆に

    再生時には、シリンダーの位置をもとに戻

    し、再生用の針を錫箔の溝にセットする。

    クランクを回すと、針は凹凸の溝をなぞ

    り、バネで柔軟に上下しながら振動板に

    振動を伝える。この振動板の震えはさら

    に空気に伝わり、私たちの耳に音として

    届くのである。

    こうした操作手順が示唆するように、フォノグラフは主にその利用者が自分自身の声を録音

    するように作られていた。それは当時の技術的な限界によってそうせざるをえなかったからと

    いうわけではなく、もともとそのように意図されていたと考えられる。エジソンが人間の声、

    それも主に話し言葉を記録することをフォノグラフの利用法として想定していたことはよく知

    られている。たとえば、1878 年5・6月号の『ノースアメリカン・レヴュー』誌に掲載され

    た「フォノグラフとその未来」という記事のなかで、エジソンはフォノグラフの利用法を 10

    項目以上にわたり列挙している。以下はその抜粋である 5。

    ①手紙の筆記 ②口述筆記 ③本 ④教育的な目的 ⑤音楽 ⑥家族の記録 ⑦音で書か

    れた本 ( フォノグラフィック・ブック ) ⑧ミュージカル・ボックス、玩具など ⑨玩具

    ⑩時計 ⑪広告など ⑫演説その他の発言

    注目すべき点は、これらの項目がすべて何らかのかたちで言語的な発音に関連しているという

    ことである。現代の表現に置き換えつつ簡単に説明するなら、①はボイス・メッセージ、②は

    ボイス・レコーダーとしての用途、③と⑦はオーディオ・ブック(⑦は作家本人が録音したも

    のということで③と区別されている)、④は語学の教材、⑨は言葉を再生する人形、⑩は時間を

    声で伝える時計、⑪は文字どおり宣伝用の録音、⑫は著名人の言葉の記録を指している。また、

    ⑤と⑧は音楽に関連しているが、器楽ではなく、声楽を対象としている(⑤は友人同士での歌

    の交換、⑧は職業歌手による歌の録音ということで区別されている)。要するに、エジソンが挙

    げている利用法は、話し言葉や歌といった音声を対象としているのであり、そこでは他の音が

    図 1

  • ― 8 ― 「話す機械」としてのフォノグラフ―録音再生技術史再考

    入る余地はまるでないようにみえるのである。このことを考えても、フォノグラフはもともと

    音声を対象としたテクノロジーとして開発されたことが分かる。では、エジソンはどのような

    経緯から、そのような機械を製造することを思いついたのだろうか。

    残念ながら、エジソンや彼の周囲の人物が残した証言からは、発明の動機や過程を順序だっ

    たかたちで読みとることは難しい。そもそも彼らは、製作の状況に関して、わずかな情報しか

    開示していないのである。ただし、管見の限り、エジソンはある記事のなかでフォノグラフの

    発明を思いついた経緯を自らの言葉で説明している。該当する箇所を引用してみたい。

    「こうしたこと〔音を記録すること〕が可能になるだろうという私自身の発見は、ほと

    んど偶然に、しかも別の目的でおこなっていた実験のさなかにもたらされた。私は凹凸

    indentations によって紙の上に記録されたモールス符号を反復することを目的とした、あ

    る機械〔の製作〕に従事していた。その凹凸は回路の末端にある装置に接続されたトレー

    シング用の針の下を通過するとき、それらのメッセージを別の回路に自動的に伝達するよ

    うになっていた。この機械を操作した際に私は、凹凸の入ったシリンダーを支える紙を非

    常に素早く回転させると、その凹凸からブーンとうなるようなノイズ humming noise̶̶

    ぼんやりと聞こえてくる人間のおしゃべり human talk に似た、音楽的でリズミックな

    音̶̶が出ているのに気づいた。このことが私をその機械に振動板を取り付けるという試

    みに導いたのである。」6

    この引用文は1888年 6月発行の『ノースアメリカン・レヴュー』誌に掲載された、エジソンの

    記事「完成されたフォノグラフ」から抜粋したものである。上の文章によると、フォノグラフ

    の原型となるアイデアは、モールス符号を機械的に反復する実験をおこなっているとき、ほと

    んど「偶然」に生まれたものであるという。エジソンはその実験がおこなわれた期間を「1877

    年の春」7 としているが、この当時の彼はモールス通信の高速化と効率化を目的とした機器の

    開発に主に従事していた。上で触れられている「ある機械」というのも、おそらくは「自動電

    信automatic telegraph」と呼ばれた機器のことを指している。それは電信を通して受信したモー

    ルス符号をパラフィン紙に刻み込み、任意の速度で反復することのできる機械であった。引用

    文で説明されているように、彼はこの機械を用いて、モールス符号を高速で反復する実験をお

    こなっていたようである。そのとき、彼には「人間のおしゃべり」に似た「ブーンというノイズ」

    ないし「音楽的でリズミックな音」が聞こえたというが、このような効果が生まれたのはおそ

    らく、モールス符号を構成する「短信(トン)」と「長信(ツー)」の断続音が、高速再生によっ

    て、連続的な音声と似たような働きをしたためだろう。いずれにせよ、その音がたまたま「人

    間のおしゃべり」に聞こえたことがきっかけとなって、話し声を記録するというアイデアを思

  • ― 9 ―京都精華大学紀要 第四十七号

    いついたとエジソンは述べているのである。

    エジソン自身による説明ではこうなっているが、フォノグラフが単なる「偶然」から生まれ

    たというのは言い過ぎかもしれない。というのも、フォノグラフの原理自体は、エジソンがそ

    れを発明する以前には、すでに出そろっていたからである。初期の録音再生技術に関して詳し

    い『錫箔からステレオまで』によれば、音の記録に「振動板」を用いるというアイデアは、フ

    ランス人の技師レオン・スコット(Édouard-Léon Scott de Martinville, 1817-1879)によって

    1857年に公表された「フォノトグラフ」にまで遡ることができる。フォノトグラフは音声を再

    生産するのではなく、視覚的に記録することを目的に作られた装置であったが、その形状はな

    るほど、フォノグラフと酷似している。フォノグラフと同じく、フォノトグラフは手動式のク

    ランクで回転するシリンダーを備えており、吹き込み口を通じて声を出すと、煤を塗った紙の

    上に波形がかき傷として記録されるようになっていた。乱暴に言ってしまえば、フォノグラフ

    を作るには、そこにもうひと組の振動板と針を取り付け、音の痕跡をたどりなおすだけでよかっ

    たのである。また、音の再生産に振動板を用いるというアイデアも、エジソンがはじめて考案

    したというわけではなく、1876年に発明された電話にすでにみられる。そこで振動板は音波に

    共鳴し、その震えを電磁石に伝える送話器のメカニズムと、逆に電磁石の動きを空気に伝え、

    電流を音に変える受話器のメカニズムの中枢を担っていた。さらに言えば、音を記録再生する

    というアイデアも、エジソンが最初に考案したものとは限らない。周知のように、フランスで

    は1877年4月に詩人のシャルル・クロ(Charles Cros, 1842-1888)が、「聴覚によって知覚され

    る現象の記録と再生」をテーマにした封緘論文をフランス科学アカデミーに提出している。彼

    のアイデアは記録用の針を用いて音を煤箔に記録し、その振動の痕跡を他の支持体に転写する

    というものであった。この装置は実作されることはなかったものの、これをもってクロを録音

    再生技術の正当な発明者とみなす向きもフランスではあるようだ 8。

    これらのことを考慮に入れるなら、フォノグラフの発明が「偶然」の産物であったとは考え

    にくい。むしろ、フォノグラフは先行するテクノロジーとの相関関係のなかで、それらのテク

    ノロジーを発展させるかたちで発明されたものであると考えるほうが自然だろう。19 世紀の後

    半には、現代社会を形づくるような音響テクノロジーが次々と発明されていたのであり、その

    ような開発競争のなかでフォノグラフは誕生したのである。では、電話やフォノグラフといっ

    た音響テクノロジーはなぜ19世紀になって相次いで発明されたのだろうか。いくつかの先行研

    究によれば、その背景にはある傾向を見出すことができるという。すなわち、フォノグラフを

    はじめとする近代の音響テクノロジーは音と聴覚をめぐる知の変容を背景にして発明されたと

    いうのである。

  • ― 10 ― 「話す機械」としてのフォノグラフ―録音再生技術史再考

    1- 2.「書く機械」と「聞く機械」─キットラーとスターン

    先行研究のなかでもとくに重要なものとして、ここでフリードリヒ・キットラーとジョナサ

    ン・スターンの論考をそれぞれみていくことにしたい。主著『グラモフォン・フィルム・タイ

    プライター』において、フリードリヒ・キットラーが表題にある三つのメディアを「文字の寡

    占支配」̶̶マクルーハンの言葉を借りるなら、「グーテンベルクの銀河系」̶̶の終焉を告

    げるべく登場した記録のテクノロジーとして論じたことはよく知られている。端的に要約する

    なら、彼がいう「文字の寡占支配」とは、活版印刷と義務教育の普及によって識字化が格段に

    進んだ、19 世紀ヨーロッパの状況を指している。そこでは、黙読という新しい読書のテクニッ

    クによって、文字がいわば内面化された結果、精神の表象として絶対的な信頼を獲得するとい

    う状況が生まれた。すなわち、書き手の側では自らの思い描いた世界や思想を余すところなく

    文字で表現できるという信念が説得的に語られるようになり、読み手の側では書物によって表

    象された世界をあたかも現実の出来事のように錯覚するという体験がまかり通るようになった

    のである――後者を象徴する事件として、キットラーは『若きヴェルテルの悩み』の読者のあ

    いだで後追い自殺が流行したことをあげている 9。ところが、そのような文字の支配的地位は、

    文字にとって異質な記録のテクノロジーが登場することによって終焉を迎える。つまり、一方

    では蓄音機と映画が文字を使わずに感覚的なデータを記録するようになり、他方ではタイプラ

    イターが純粋なシニフィアンとしての文字を記録するようになり、文字の絶対性を脅かしはじ

    めたのである。その結果、文字によって力を与えられていた精神もまた、かつてのような主体

    の地位を失い、その座を機械の領域に譲り渡すことになる。キットラーの考えでは、かつて精

    神のもつ力を象徴していた「書く」という行為は、いまや機械の領域に移され、技術的に操作

    されうるものとなったのである。

    では、そのようなテクノロジーのひとつとして、フォノグラフが発明されたのはなぜか。キッ

    トラーはその背景として、音と言語の関係が変化したことをあげている。音という現象はかつ

    て、アルファベットや音符といった、慣習的に定められた記号の格子を介して分節化され、認

    識されていた。逆に言えば、そうした格子に収まらない非分節的な要素、たとえば声や楽器の

    音色、連続的な変化といったものは、これらの記号では「ノイズ」として処理され、排除され

    ていたのである。ところが、19 世紀の前半に発展した音響学において音が「音波」として、

    すなわち、空気の振動という連続的な現象として理解されるようになると、音を表象するうえ

    での言語の限界が明らかとなった。それとともに、科学者のあいだでは、音波という連続的な

    現象を連続的な現象として記録し、観察するための手段が求められるようになる。たとえば、

    先にあげたフォノトグラフは、そのような要請のなかで登場した記録装置であった。それは「ど

    こにもけっして書き込むことができないということが最大の特徴となっていたデータの流れを

  • ― 11 ―京都精華大学紀要 第四十七号

    自動的に筆記してしまう装置」10 として、すなわち、言葉や音楽に分節化される手前の音響現

    象そのものを記録する装置として作られたのである。キットラーによれば、録音再生技術とは

    そうした新しい記録装置が次々に開発されていった時流のなかで、いわば文字というメディア

    の絶対性に対する不信感を背景にして生まれたテクノロジーであった。そのようなテクノロ

    ジーとして、フォノグラフは「人間の喉というものが、いかなる記号の秩序にも、あらゆる言

    葉の意味にもさきがけてまず外に投げだすノイズ」11 を言説の対象に変えたのである。こうし

    た観点からみるなら、フォノトグラフやフォノグラフといった記録装置の名称が「書記」のア

    ナロジーによってとらえられていたのは興味深い。それらはともにギリシア語で「音声」を意

    味する「フォネー」と「書く」を意味する「グラフ」を名称に含んでおり、前者は「音を自動

    的に書く」、後者は「音を書く」装置という意味を与えられているのである。しばしば指摘さ

    れるように、同様のことはフォノグラフ以外にも「グラフォフォン graphophone」や「グラモ

    フォン gramophone」といった初期の蓄音機の名称には共通してみられる。これらの名称はな

    るほど、キットラーが主張するように、録音再生技術が旧来の「書字」に代わる新しい記録の

    テクノロジーとして位置づけられていたことを示唆しているように思われる。

    以上のように、フォノグラフを「書く機械」として位置づけるキットラーに対して、ジョナ

    サン・スターンは、近代的な音響テクノロジー一般に議論を広げながら、それらを「聴覚」の

    歴史のなかに位置づけている。スターンによれば、電話、蓄音機、マイクロフォン、ラジオと

    いった近代的な音響再生産のテクノロジーは、「音を何か別のものに変え、その何かを再び音

    に戻す」ような「変換機 transducer」として定義されうる 12。たとえば、電話は音を電気に変

    換し、それを再び音に戻すのであり、蓄音機は音を錫箔や蜜蝋といった物体の溝に変換し、そ

    れを再び音に戻すのである。このような「変換機」の仕組みは、「振動板」を用いることで成

    り立っている。たとえば、フォノグラフの場合、振動板は音波の振動を針に伝え、凹凸の溝に

    「変換」する機構に、電話の場合には、振動を電磁石に伝え、電流に「変換」する機構に使わ

    れている。

    スターンはこの仕組みの由来を吟味するにあたり、電話の発明者ベルが 1874 年に製作した

    「イヤー・フォノトグラフ ear phonautograph」なる器具をとりあげている。名称が示唆するよ

    うに、この器具はフォノトグラフをモデルにして製作されたものであるが、本物の耳を一部に

    利用しているという点で、スコットのそれとは異なっていた。この器具には、遺体から摘出さ

    れた中耳の解剖標本が部品に使われていたのである。木製の台上には吹き込み口の部分に鼓膜

    がネジで止められており、鼓膜と接する耳小骨(アブミ骨、キヌタ骨、ツチ骨の三つからなる

    微小な骨)の先端には、麦わらの小片が取り付けられていた。フォノトグラフでいえば、鼓膜

    は振動板にあたる部分、耳小骨と麦わらは針にあたる部分ということになる。この器具は非常

  • ― 12 ― 「話す機械」としてのフォノグラフ―録音再生技術史再考

    にグロテスクで奇怪に見えるかもしれないが、そのアイデアの源泉はオリジナルのフォノトグ

    ラフにおいてすでにみられる。キットラーも指摘するように、スコットは植字工として物理学

    の教科書を印刷していた際に、たまたま耳の解剖図を目にしたのがきっかけで、フォノトグラ

    フを製作したと言われている 13。ベルは耳のメカニズムを機械に応用するというそのアイデア

    を、いわばスコットよりも忠実に追求した結果、先の器具を作り出したのである。スターンに

    よれば、ベルはこのことがきっかけとなって、その後、音を電流に変換する電話の原理を思い

    つくことになる。このとき彼が発見したのは、非常に薄い鼓膜が音に共鳴することで、それよ

    りも重い骨片を動かす力をもつということであったという。この発見のおかげで、彼は小さな

    膜であっても、弱い音波のエネルギーを電磁石に伝えるには十分だということを知ったのであ

    る 14。スターンが主張するには、このことは近代的な音響テクノロジーを特徴づける「変換機」

    のメカニズムが、「鼓膜的な装置」15 という一種の機械として聴覚を理解するような知のあり

    方に由来することを意味している。この点で、スターンが指摘するように、ベルが聾唖教育に

    携わるなかで、フォノトグラフを聴覚障害者のための補助器具としてとらえていたことは注目

    に値する。というのも、この事実は彼が聴覚障害者の耳を代理するようなものとして、この装

    置をとらえていたことを示唆しているからである。グラハム・ベルは当時、聾唖者の発音を矯

    正する試みに取り組んでおり、彼らが自身の発音を目で見て確かめる手段としてフォノトグラ

    フを用いることを考えていたという。こうした経緯に注目することで、スターンは近代的な音

    響テクノロジーが登場した背景として、聴覚の機能を機械に「委譲 delegate」し、人間の耳を

    補完することを求めるような傾向を見出す。つまり、彼によれば、電話やフォノグラフといっ

    たテクノロジーは、人間の耳に代わって音を「聞く機械」として作られたというのである。

    さて、以上みてきたように、キットラーとスターンは音響メディア史を過去に遡ることで、

    単に技術史的な起源を明らかにしようとするのではなく、むしろ音響メディアを介して、音や

    感覚といった観念にもたらされた変化を読みとっている。一方で、キットラーはフォノトグラ

    フとフォノグラフを「書記」のメディアという観点から関連づけることで、フォノグラフを人

    間に代わり、音を「書く機械」として位置づける。彼によれば、それは言葉や音楽を「書く」

    という、かつては文化の中心にあった表象の行為に代わり、あらゆる音を自動的かつ物理的に

    記録する自動筆記の機械として登場したのである。他方で、スターンはフォノトグラフを人間

    の代わりに「聞く機械」としてとらえることで、電話とフォノグラフといった音響テクノロジー

    を感覚の歴史のなかに位置づける。スターンによれば、それらのテクノロジーは諸感覚をそれ

    ぞれ独立した機能を負った機械のようにとらえ、その仕組みを実際に機械に応用しようとする

    科学的かつ技術的な試みのなかでもたらされた人工物なのである。彼らはそれぞれ異なる観点

    から音響メディア史を論じているが、いずれの論考も録音再生技術の来歴を考えるうえで貴重

  • ― 13 ―京都精華大学紀要 第四十七号

    な示唆を私たちに与えてくれる。たとえば、キットラーの論考は、先述したようにエジソンが

    フォノグラフの主要な利用法として「手紙の執筆 Letter-Writing」と「口述筆記 Dictation」を

    挙げていることの背景を、彼個人の関心を超えてより広い観点から考察するのに役立つかもし

    れない。また、電話の発明史を聾唖との関連で文脈化するスターンの論考は、フォノグラフよ

    りも電話に重点を置いているとはいえ、エジソンが電話の改良に携わっていたことや、彼自身

    が難聴を患っていたなかでフォノグラフを発明したという事実を加味するなら、録音技術史と

    も無関係ではないことが分かる。

    このように両者の議論は、録音技術史あるいはより広く音響テクノロジーの歴史を感覚や思

    考の本質にかかわる問題として考察する視点を提示しているという点で、単なる技術史を超え

    た学術的な意義をもっている。ただし、彼らの議論に不足していることとして、次のようなこ

    とが言えるかもしれない。「書く機械」と「聞く機械」の原理がフォノトグラフの時点ですで

    に達成されていたことを考えると、両者の切り口ではフォノグラフとフォノトグラフの差異を

    うまく説明できないのである。言い換えるなら、彼らの論考はいずれも、フォノトグラフに「再

    生産」のメカニズム(レコードの溝や電気信号を再び音に変換する機構)が加えられたことの

    由来を十分に論じていないように思われるのだ。そこで以下では、「話す機械」という観点か

    らフォノグラフを考えることで、この問題に取り組んでみたい。ここで注目してみたいのは、

    エジソンが 1877 年 12 月 24 日に出願したフォノグラフの特許書類である。そのタイトルには

    「フォノグラフもしくは話す機械における改良 Improvement in Phonograph or Speaking

    Machines」とあり、エジソンがフォノグラフを「話す機械」の改良版として言い換えている

    ことが分かる。このことは、彼にとってフォノグラフが(フォノトグラフではなく)フォノグ

    ラフであるには、音を記録するだけでは不十分であり、音を再生産すること、しかも、とくに

    言語的な音を再生産することが重要であったことを示唆しているのではないだろうか。さらに

    注目すべき点として、エジソンが「話す機械」という名詞を複数形で表記しているということ

    もあげておきたい。つまり、彼はそこでフォノグラフを「話す機械」という技術群の改良版と

    して提示しているのである。ただし、特許書類のなかでは、そうした機械にどのようなものが

    あるかは明記されていない。

    そこで次節ではまず、ベルが残したいくつかのテキストをとりあげながら、フォノグラフ

    の前史として電話の発明史をたどってみたい。その来歴をたどることは、フォノグラフの発明

    史を再考するという私たちの目的にとっても有益な作業となるはずである。というのも、あま

    り知られてはいないが、ベルはまさしく「話す機械」と呼ばれた装置に対する関心から出発し

    て発明家の道に進み、電話の発明へといたったと考えられるからである。

  • ― 14 ― 「話す機械」としてのフォノグラフ―録音再生技術史再考

    2.電話の来歴、あるいは「話す機械」の系譜

    2- 1.電話の前史─視話法と話す機械

    フォノグラフの由来についてあまり語ることのなかったエジソンに比べると、ベルは電話の

    来歴を公的に語ることを厭わず、多くの講演や手記のなかで、雄弁なまでにそれを説明してく

    れている。そのなかからまずは、少年時代の体験を綴ったものとして、1922 年3月号の『ナショ

    ナル・ジオグラフィック』誌に掲載された「電話の前史となる日々」というテキストをとりあ

    げてみたい。このテキストで、ベルは「幼年期の生活をかたどり、電話の方向へと否応なしに

    私を導いた少年時代と、親や環境から受けたさまざまな影響」16 に関して、カナダに移住する

    1870 年以前にスコットランドのエディンバラで過ごした時代(1847-1863 年)のエピソードを

    振り返っている。そのなかで彼が大きくとりあげているのは、祖父のアレクサンダー・ベル

    (Alexander Bell, 1790-1865)や父のアレクサンダー・メルヴィル・ベル(Alexander Merville

    Bell, 1819-1905)から受けた英才教育の影響である。ベルの一族は弁論術の専門家として知ら

    れるが、なかでも父は 1860 年代に「視話法 visible speech」というアルファベットのシステム

    を考案したことで世界的に知られている 17。簡単に説明するなら、視話法とは耳が聞こえなく

    ても発音の練習ができるように、舌の位置や唇の開き方など、発音にかかわる器官の動かし方

    を図形的に表わした音声記号のことを指し、実際に聾唖者や吃音者の発音教育に用いられた。

    また、視話法は音声を図形で表象するという独自の方法を用いたことで、理論的にはあらゆる

    言語の発音を表象することができるとされ、このことから「普遍アルファベット」とも呼ばれ

    た。息子のベルも後に視話法の普及に尽力したことで知られるが、その経歴には少年時代の経

    験が大きく影響したようである。

    ベルの回想によれば、父メルヴィル・ベルはある日、若き日の息子を家から連れ出し、物理

    学者のチャールズ・ウィートストーン(Charles Wheatstone, 1802-1875)のもとを訪れたとい

    う――文中には年が書かれていないが、ある伝記では 1863 年(16 歳の頃)となっている 18。

    この頃、ウィートストーンはハンガリーの発明家ヴォルフガング・フォン・ケムペレン(Wolfgang

    von Kempelen, 1734-1804)による 1791 年の著作『話す機械の描写とともにみる人間の音声の

    メカニズムMechanismus der Menschlichen Sprache nebst Beschreibung seiner Sprechenden Maschine』(文中では、“The Mechanism of Human Speech”と表記されている)の記述と図版を参考に、ケムペレンが製作した「話す機械」の復元模型を製作していた。その機械は発声

    器官によく似た構造をしており、操作を加えることで、いくつかの言語的な音を発することが

    できたという。父はこの機械を見るためにウィートストーンのもとを訪れたのであるが、その

    とき横にいたベルは「発音の明瞭度はがっかりするほどひどかったが、私の心に強い印象を残

  • ― 15 ―京都精華大学紀要 第四十七号

    した」19 と述べているように、話す機械のメカニズムにすっかり魅了されてしまったという。

    帰りの道中では、ウィートストーンから借りたケムペレンの著作の仏訳を貪るように読んだと

    回顧している。

    その後、彼は父に薦められたこともあり、二歳上の兄メルヴィル・ジェームズ・ベル(Merville

    James Bell, 1845-1870)と協力して、話す機械を自ら製作することを試みるようになる。しかも、

    「ケムペレンやウィートストーンの足跡をたどることを推奨するよりも、〈自然〉そのもの

    Nature herself を写しとらせようとした」20 という父の方針に従ったベル兄弟は、発声器官の

    構造をできる限り忠実に再現することに腐心したらしい。たとえば、本物の人間の頭蓋骨を鋳

    型に使うことや、解剖のために猫を毒殺すること̶̶ただし、のたうち回る猫を目にしたショッ

    クで、解剖は諦めたという̶̶も厭わなかったと述べているように、彼らの探究心は徹底した

    ものであったようだ。そのような試行錯誤の結果として、彼らは一台の機械を完成させること

    に成功する。この機械はふいごで空気を送りながら、唇や舌の部分を動かすと、「アー ah」と

    いう母音のように聞こえる音と、「マ・マ・マ・マ ma・ma・ma・ma」という断続的な発音

    を出すことができた。さらにそれらを組み合わせれば、「英国流」の発音で二番目の音節にア

    クセントを置いた、「ママ mamma」という発音を作り出すこともできたという 21。それを知

    ると、彼らはさっそく成果の程度を確かめるために、ある悪戯を隣人に対してしかけたという

    が、その結果は以下のようであったと書かれている。

    「私の兄は気管〔にあたる管〕を口に突っ込んで力いっぱい息を吹き込み、私は〔話す

    機械の〕唇を操作した。すぐに階段には、「ママ!ママ!ママ!」という、この上なく悲

    痛な声が響き渡った。それはほんとうに、小さな子どもがひどい苦痛のなかで、母親を呼

    び求めているかのような音だった。

    やがて、上階でドアが開き、ひとりのご婦人が「まあなんてこと、あの赤ちゃんはどう

    したのかしら!」と叫ぶのが聞こえてきた。

    私たちの幸福を満たすのに必要なことは、それで十分だった。成功に気をよくした私た

    ちは、静かに父の家に戻り、そっとドアを閉めると、いまや静かになった子どもを無駄に

    探しまわっているご婦人をそのままにしておくことにした。

    話す機械がこのときよりもはるかに進歩したとは、私は思わない。だが、話す機械が父

    の要求を実現することに成功したのはまちがいない。父の要求とはすなわち、彼の息子ら

    が話す機械という手段を通じて、実際の発話の道具やさまざまな音声器官の機能に徹底的

    に精通するということだったのである。」22

    ベル兄弟の機械は「ママ」というたった一語しか発音できなかったというが、それでも隣人

  • ― 16 ― 「話す機械」としてのフォノグラフ―録音再生技術史再考

    の耳を騙すことに成功するには十分な明瞭性をもっていたようである。彼らの悪戯の犠牲に

    なった婦人は、機械の音をほんものの子どもによる発音と誤認し、実在しない子どもを救おう

    と探しまわっていたのである。この悪戯は一見すると無邪気にみえるかもしれないが、それを

    成功させるには、同年代の少年に求められるものをはるかに超えた、発声器官に関する高度な

    専門知識が必要であったことはまちがいない。ベルによれば、学校ではけっして学ぶことので

    きない、そのような知識を自ら学ばせることこそ、父の狙いであったという。というのも、発

    声器官の構造や発声のメカニズムに関する知識は、彼が推奨する視話法の基礎となるものであ

    るからだ。少年時代からそれに精通していたベルは、父の思惑どおり、彼の有能な助手となり、

    視話法の普及に貢献することになるのである。

    こうしたエピソードにおいて注目すべき点は、ベルの父が発声器官を徹底して機械的な構造

    体としてとらえる考え方を彼に学ばせようとしていたということである。彼にとって、発声器

    官は一種のメカニズムであり、実際に機械に応用されうるものであった。だからこそ、話す機

    械を通じて得た知識は、視話法を運用する際、人間にも応用されうるのである。興味深いこと

    に、そうした生ける「機械」たちのなかには、当のベル自身も含まれていたようである。同じ

    エッセイで、彼は 1860 年代のエディンバラで父がおこなった講演の様子を想起している。少

    し長いが該当箇所を引用してみたい。

    「私は父が彼の普遍アルファベット〔視話法のこと〕のシステムについて公開講演をお

    こなったのを覚えている。そのとき、私は少年だったが、ときおり父の助手を務めていた。

    私がホールから追い出されると、聴衆のうち何人かのメンバーは、彼らが望む任意の

    音̶̶父によって記号化されるべき音̶̶を出すように求められた。咳、クシャミ、また

    は馬に合図する舌打ちの音を綴るのは、彼にかかれば、人間の話し言葉の要素を形づくる

    音を綴るのと同じくらい簡単なことだった。

    志願者たちは舞台に上げられると、そこでとんでもなく奇妙で不気味な噪音を発したが、

    その間、私の父は彼らの口を観察し、彼が観察した発声器官の動きを記号で表現すること

    を試みていた。

    私がまた呼び入れられると、それらの記号を通訳するように手渡された。すると、私は

    それぞれの記号のなかに、口をどう動かすべきかという指示を読みとることができたので

    ある。

    私はあるときその指示に従うという試みが、私にはまったく分からない、何か気になる

    ようなギリギリいう噪音を生じさせたことがあったのを思い出す。それなのに、聴衆のほ

    うではすぐに万来の拍手喝采で応えたのである。彼らにはそれが木をノコギリで切る噪音

  • ― 17 ―京都精華大学紀要 第四十七号

    の真似だと分かったからだ。それはアマチュアの腹話術師が試しに出した音だった。」 23

    この公開講演で、ベル少年は視話法の実践者として、公開講演に参加している。視話法が聴覚

    障害者にも通用すること、また、どんな発音にも通用することを証明するために、彼は被験者

    が発音しているあいだ、別室に移されて待機していたという。それにもかかわらず、彼は父が

    書き取った記号に従い、もとの音を再現することができたのである。音声を精確に記号で書き

    取り、再び音声に戻した親子の腕前は驚くべきものであるが、この実演は単なる見世物以上の

    意味をもっている。そこで若き日のベルは、最も精密な話す機械として、聴衆と父による操作

    に従っているからである。彼は自分が作りあげた機械と同じく、自分が何をおこなっているか

    も知らない、ただ「話す」だけの機械として振る舞っているようにみえる。このようなベルの

    体験は、これまでも電話の前史としてとりあげられてきた。たとえば、先にあげたスターンも

    そのひとりである。ただし、それはベルの関心が「聴覚のメカニズム」に移る前のエピソード

    として対比的に紹介されているにすぎない。だが、見方によっては、話す機械は電話の発明に

    つながる側面をもっていたと考えることもできる。たとえば、メディア史家のジョン・ピーター

    スは、上記のパフォーマンスを、音響メディア史の原点を示すものとして解釈している。

    「これこそがプログラミングによって現前を代替することの原光景である。説得力のあ

    る行為にとっては、オリジナルなものは重要ではない。うまくいくコミュニケーションに

    とっては、いかなる内面性も必要ではない。〔中略〕したがって、ベルは近代的なメディ

    アの至上の目標を発見したのである。それはすなわち、オリジナルなものに十分に代わる

    ものとして通用しうるコードである。」 24

    ピータースによれば、ベルがおこなったパフォーマンスは、「オリジナル」な現前を「プログ

    ラミング」ないし「コード」によって代替することに成功したという意味で、電話からフォノ

    グラフを経て、デジタル・サウンドにいたる音響メディア史の「原光景」をなすものであった

    という。視話法のパフォーマンスで、ベルの父は、視話法の裏をかこうと躍起になる被験者た

    ちの発話行為をコード化し、彼らの身体からその行為のデータのみを抽出してしまう。他方で、

    彼の息子は、プログラムを実行するコンピュータのように、そのデータを読みとり、まったく

    同じ音声を再生産する。ピータースによれば、ベルはそこに音響メディアがめざすべき「至上

    の目標」を予見したのであるという。すなわち、コミュニケーションが成立するのに、「オリ

    ジナル」なもの、あるいは主体としての精神や意識といった「内面性」は必ずしも必要ではな

    いということを、彼はそのとき身をもって知ったというのである。ピータースが主張するには、

    この体験こそが、電話の発明を動機づけた原初の体験であった。視話法からデジタル・メディ

  • ― 18 ― 「話す機械」としてのフォノグラフ―録音再生技術史再考

    アにいたる歴史を一貫した流れとしてみる彼の議論は、いささか乱暴にもみえるが、話す機械、

    視話法、電話を不連続なテクノロジーとみなすのではなく、相互に関連づけるのに役立つかも

    しれない。それらは皆、「内面性」の問題を考慮に入れることなしに、音声を再生産するとい

    う点では共通しているように思われるからである。しかし、結論を急ぐ前に、話す機械を製作

    して以降の、グラハム・ベルの動向もみておくことにしたい。というのも、彼が電話を着想す

    るには、ある意味で話す機械の一形態ともとることのできるある装置との出会いが必要であっ

    たと考えられるからである。

    2- 2.音声生理学から音響学へ─音声合成と電話

    1877 年 10 月 31 日にロンドンで開かれた電信技師学会 The Society of Telegraph Engineers

    の集会で、ベルは「エレクトリック・テレフォニーの研究」と題された講演をおこなった。「エ

    レクトリック・テレフォニー」とは、現在で言うところの電話のことを指しており、この講義

    で彼は電気を用いた遠距離音声通信すなわち電話を発明した経緯を詳しく語っている。先にと

    りあげた資料と時代は前後するが、ここでは同学会から 1878 年に出版された講演録をもとに、

    話す機械を製作して以降のベルの足跡をたどってみたい。

    この講演録でベルが述べるには、音声通信の研究に着手するようになる直前、彼は父親とと

    もに「母音の自然な音高」を特定する研究に従事していたという̶̶1866 年、ベル一家がロ

    ンドンに住んでいた 19 歳の頃と推定されている 25。彼らがなぜそのような研究をおこなって

    いたのかという理由は、講演録では述べられていないが、それは視話法に付随して、抑揚を教

    育するために必要であったのではないだろうか。視話法を用いた教育では、言語を構成する音

    節の発音を学ぶことはできても、それらの音を調節して、抑揚を作る段階までいくことはむず

    かしかっただろう。「自然」に聞こえる抑揚を学ぶには、どうしても聴覚が必要であったのだ。

    ベル親子はおそらく、この問題に対処するために、まずは母音の標準的な音高を特定すること

    を求めていたと考えられる。そこでベルが考えたのが、共鳴現象を利用するという方法であっ

    た。音叉を口に近づけて発音すると、音叉の固有振動数に一致する場合には共鳴が起こり、音

    叉が振動するという現象が起こる。この現象は弦楽器を調律する際にも用いられるが、彼はそ

    れを利用して、母音の音高を特定することを試みていたのである。ところが、その実験中に、

    彼は思いがけない事実を発見する。彼は「母音の多くが、ふたつの音高をもっている――その

    ひとつはおそらく、口腔内で生じる空気の共鳴によるものであり、もうひとつは喉頭と咽頭を

    含む、舌の後ろの空洞に収められた空気の共鳴によるものである――ように思われる」26 とい

    うことに気づいたのである。

    講演録によれば、ベルは、このような発見を研究成果としてまとめ、父の同僚であった音声

  • ― 19 ―京都精華大学紀要 第四十七号

    学者アレクサンダー・ジョン・エリス

    (Alexander John Ellis, 1814-1890) の

    もとに手紙で送ったという。そこで、

    彼はウィートストーンを介してケムペ

    レンの著作を知ったように、彼の経歴

    に大きく影響を与えることになる、第

    二の著作に出会う。それはドイツの物

    理学者ヘルマン・フォン・ヘルムホル

    ツによる『音感覚論』(1863)である。

    エリスは 1875 年にこの著作を英訳し、

    ヘルムホルツの音響学を英米圏に紹介

    した功績で知られるが、この時点で彼

    の著作を知るひとはイギリスではまだ少なかっただろう。ベルはエリスから、ひとつの母音が

    複数の音高によって構成されているという事実はすでにヘルムホルツによって発見されている

    という事実を教えられたという。さらに、このとき彼はヘルムホルツが「母音をその音楽的な

    構成要素に分析しただけでなく、母音の合成を実際におこなっていた」27 という事実を知るこ

    とになる。ここで彼が言及しているように、ヘルムホルツは母音の合成をたしかにおこなって

    いる。『音感覚論』では、彼が倍音理論の実効性を証明するために考案した音声合成機が紹介

    されている[図2]。倍音とは音色の要素を数量的に規定するために練り上げられた概念のこ

    とを指している。それによれば、人間に聞こえる音は、広い範囲の周波数振動を含んでおり、

    その範囲は可聴周波数のなかで最低の周波数から最高の周波数にまで及ぶ。ある音を構成する

    部分音のなかで最も低い音は「基音」と呼ばれ、音高の要素を決定するが、その周波数の整数

    倍にあたる「倍音」の成分は、音色の要素を決定するのである。この理論を応用することで、

    ヘルムホルツは倍音を人工的に作り出し、A、Ä、E、O、Ö、U という六つの母音を合成する

    ことに成功した。彼が用意した装置には、基音となる一個の音叉と、それに対して倍音の関係

    にある七個の音叉が用いられた。この音叉は電磁石の力で断続的に振動し、その振動は対面す

    る共鳴管によって増幅される。また、共鳴管は蓋の開き方を調整できるようになっており、そ

    れによって各音叉の音量を調節することができた。ヘルムホルツはそれぞれの音叉の音量を調

    整し、倍音の成分を変えることで上記のような母音を合成したのである。ベルはこの装置に関

    する説明を、エリスに面会した際に受けたとしている。

    この装置との出会いは、ベルの経歴においてふたつの点で、重要な意味をもっている。ひと

    つは、彼が音と電気を関連づけて考えるようになったということである。このことは彼が電気

    図 2

  • ― 20 ― 「話す機械」としてのフォノグラフ―録音再生技術史再考

    工学を学び、電気的な通信技術に関心をもつようになるきっかけとなった。もうひとつは、彼

    がヘルムホルツの著作を通じて、「合成」という概念を知ったということである。それによっ

    て彼は、発声器官の構造を再現しなくても、人間の音声に似た音を作り出すことができるとい

    うことを知ることになる。つまり、ベルはケムペレンの話す機械とはまったく異なるやり方で、

    音声を再生産するという可能性に出会ったのである。実はこの発見こそが、電話の発明を導い

    た大きな要因になったと考えられる。1874 年頃と思われるが、ベルはヘルムホルツの音声合

    成器を改良する計画を考えていたという。

    「ヘルムホルツの計画では、音叉自体が同じ強さの音を作り出すため、音の大きさは外

    部からの補強によって変えられる。しかし、私は同じ結果が、音叉自体をさまざまな振幅

    の度合いで振動させることによって得られること、しかも、はるかに完璧なやり方で得ら

    れることを思いついたのである。」 28

    ここで述べられている「外部からの補強」とは、共鳴器のことである。ヘルムホルツの母音合

    成器では、音叉はすべて同じ振幅で発音するため、それぞれの音量は共鳴器の開閉によって後

    から変えられていた。このやり方に対して、ベルが考案したのは、音叉に発音させる時点で、

    その振幅を連続的に変化させるというやり方であった。そうすれば、蓋を開閉するよりも、「完

    璧なやり方で」、音声を合成できるようになるだろうというのである。なるほど、このやり方

    が実現すれば、周波数成分を複雑に変化させられるため、ヘルムホルツの装置よりも多様な音

    声を合成できるにちがいない。だが、すぐに想像できるように、複数の音叉の振幅を同時に制

    御するのは、コンピュータでも使わない限り、きわめてむずかしい。ベルも同じ問題に直面し

    たのではないだろうか。彼がたどりついたのは、音叉の代わりに、「ハープ」または「ピアノ」

    のように長さの異なる鉄製の弦を用いた電磁石をふたつ用意し、互いを電線でつなぎ合わせる

    というアイデアであった[図3]。電池さえも用いないこのシンプルな装置は、にもかかわらず、

    ヘルムホルツの母音合成機よりもはるかに多様な音声を合成できるはずであった。彼はその仕

    組みを次のように説明している。

    「一方のピアノに向かって歌うと、器具のなかの特定の弦が、声の作用により、さまざ

    まな振幅の度合いで共鳴振動し、発音された母音に似た音がピアノから生じる。理論は、

    そのピアノがより多数の弦をオクターヴに対して備えていれば、母音は完璧に再生産され

    るだろうということを示している。」 29

    彼の記述をより具体的に説明しなおすなら、次のようになる。ハープ型の器具の一方に向けて

    話しかけると、長さの異なる弦はそれぞれに対応する周波数に共鳴して振動する。そうすると、

  • ― 21 ―京都精華大学紀要 第四十七号

    弦の振動は電磁誘導の原理

    によって、各周波数の振幅

    に応じた強さの電流を発生

    させるだろう。それが他方

    に伝わると、今度は電磁石

    が各周波数に対応する弦を

    振動させ、音声を合成しな

    おすのである。引用文で示

    唆しているように、この理

    論でいくと、弦の数を増やせば、人間の声により近いものになるはずであった。ところが、そ

    のように述べながらも、ベルはそれを実際に作ることはなかったようである。その理由を、彼

    は端的に「そのような装置を組み立てるには費用」がかかったからだとしている。そのため、

    彼は「思い切ってその製作に進む前に、装置を簡略化することを試みた」30 という。彼の言葉

    を信じるなら、この「簡略化」によって生まれたのが、後の電話であった。つまり、彼は無数

    の弦を利用する代わりに、一枚の振動板を用いることで、その仕組みを「簡略化」したのであ

    る。そのような「簡略化」が実現されたきっかけは先に述べたようにフォノトグラフに出会っ

    たことが大きかったようだが、発明者自身による説明を信じるなら、彼にとってはヘルムホル

    ツの母音合成器から発展した先の装置こそが、電話の原型と呼ぶにふさわしいものであったと

    いうことになる。彼がこの講演でこの装置を「言葉を発する電話 articulating telephone の最初

    の形態」31 と呼んでいることを考えても、それはまちがいないと思われる。

    このような電話の理解は、現代の私たちが受け容れている電話のイメージからは大きくかけ

    離れているように思われる。私たちの多くが電話とはメッセージをある場所から別の場所に向

    けて「伝達」する装置であると考えているのに対して、ベルはもともと音声を「合成」する装

    置を作ろうとしていた可能性が高い。より正確に言えば、彼は音声を「分析」し、再び「合成」

    する装置を作ろうとしていたと考えられるのである。このようにみるなら、視話法と電話のあ

    いだには、ピータースが主張するように、ある点でつながりがみえるかもしれない。すなわち、

    音声を記号に翻訳するベルの父を送話器の側に、その記号を再び音声に翻訳しなおすベルを受

    話器の側に置き換えるなら、電話を視話法の機械化されたヴァージョンとみなすことができる

    だろう。ただし、ピータースの議論に追加すべき点があるとすれば、ベルが電話を発明するに

    は、ケムペレンの話す機械とはまったく異なる手法の、「人造の声」に出会う必要があったと

    いうことである。彼がヘルムホルツを通して知ったのは、音声を人工的に作りだすのに、発声

    器官は必ずしも必要ではないということであった。いまや音声は「内面性」の問題のみならず

    図 3

  • ― 22 ― 「話す機械」としてのフォノグラフ―録音再生技術史再考

    「器官」の問題をも考慮に入れることなく、そのものとして「合成」できるものとみなされる

    のである。

    さて、本章では電話の発明史を話す機械と関連づけながらたどってきた。ここで明らかになっ

    たことは、大きく二点に要約することができる。ひとつは、ベルが父の視話法とケムペレンの

    話す機械を通じて、音声を徹底して「器官」の問題として考える視点を培ったということであ

    る。もうひとつは、ベルがヘルムホルツの音声合成器を通じて、音声を徹底して「振動」とい

    う物理現象として考える視点を培ったということである。そのような視点からみたとき、声と

    いう現象は「内面性」からだけではなく、発話の「身体」からも分離され、「音」のひとつと

    してとらえられるようになる。つまり、ここで声の「内面性」や声の「主体」といったものを

    いかに定義するにせよ、電話とは声という現象を徹底的に「身体」の外部においてとらえるよ

    うな思考のなかで生みだされたテクノロジーであったのだ。では、こうした電話の発明史を踏

    まえて、フォノグラフの来歴をたどるならどのようなことが分かるだろうか。

    3.「話す機械」としてのフォノグラフの来歴 ――身体の不在化をめぐる探求

    3- 1.電話からフォノグラフへ

    本章で私たちはエジソンが「話す機械」の改良版と述べたフォノグラフの来歴を、可能なか

    ぎり明らかにすることを試みる。ただし、あらかじめ断っておかねばならないが、エジソン自

    身の言葉からは、結局のところその理由を明確に読みとることはできない。先に述べたように

    エジソンはそもそも、フォノグラフの発明にいたるまでの開発の過程やそれを動機づけた思考

    の流れを仔細に説明しているわけではないからである。開発過程を記した日誌は残されている

    ものの、ほとんどの場合、彼は実験の結果を端的に記述するにとどめている。

    そうしたエジソンの態度は前章でみたように、ベルが少数であれ、いくつかの文章で電話の

    来歴をこと細かに説明しているのとは対照的である。両者の違いは、「発明」に対する両者のバッ

    クグラウンドの違いを反映しているのかもしれない。科学者の家系に育ち、少年時代から生理

    学や音響学に親しんでいたベルは、発明を科学的な探求としておこなっていたふしがあり、先

    にあげた講演録にしても、発明品そのものというより、そこにいたった探求の過程を重視して

    いるような様子がみられる。対してエジソンは理論を仔細に検証することや、学問に貢献する

    ことにはほとんど関心がなく、発明を明確にビジネスとしてとらえていた様子がみられる。た

    とえば、エジソンがある記事でフォノグラフの由来を簡単に説明していることは先に述べたが、

    彼はその記述を一頁にも満たない紙幅で早々に切り上げるや、録音媒体を錫箔から蜜蝋に変更

  • ― 23 ―京都精華大学紀要 第四十七号

    することで得られた改善点や今後予定されている改良など、有用性にかかわる問題に論点を移

    している。乱暴にいってしまうと、要するに彼は発明の過程よりも、発明品をいかに商品とし

    て運用するかということをもっぱら重視していたように思われるのである。とはいえ、フォノ

    グラフが発明された過程は、まったくの謎に包まれているというわけではない。残された開発

    日誌からは、確実に言えることとして、エジソンがフォノグラフを電話の発展形としてとらえ

    ていたことが分かる。

    「フォノグラフ」という名称が定まる以前のことになるが、その原型となるアイデアが日誌

    に現れるのは、1877 年 7 月 18 日である。この日、エジソンはふたりの技師(Charles

    Batchelor と James Adams の署名あり)とともに、電話の音質(歯擦音の発音)を改良する

    実験をおこなっていたようであるが、日誌の最後には、フォノグラフの原案ともとれる文章が

    書かれている。

    「浮き彫り用の針を備えた一枚の振動板で実験をおこなった。パラフィン紙に押しつけ、

    すばやく動かすと、新しい発話の振動がうまい具合に刻みつけられる。私が人間の声を完

    璧に保存し、しかも未来の時点で自動的に再生産できるようになることはまちがいない。」 32

    この日にいたるまでの期間に、エジソンがどのような経緯でそのアイデアをかたちにしたのか

    はまったく分からない。結果だけを端的に記述しているのが、彼らしいといえば、彼らしいが、

    ともかく上の文章がフォノグラフの原案とみてまちがいないだろう。先にみた記事で 1877 年

    の「春」とされていた着想の瞬間は、実際にはこの日であった可能性が高い。この時点では、

    振動の記録に成功していたものの、再生するにはいたっていないようである。その後、8 月 12

    日の日誌に「フォノグラフ」という名称がはじめて登場する。同じ日誌にはデッサンも描かれ

    ており、「話す spk」と「聞く listen」と書かれた再生用と記録用の部品が示されている。ただし、

    録音媒体には後のような錫箔ではなく、ロール紙を用いることが計画されていたようである。

    また、この時点でのフォノグラフは単体で用いられる装置ではなく、電話の付属品となるべき

    装置として想定されていた様子がみられる。文中には「ベルの電話の改良」とあり、フォノグ

    ラフとは電話の音声を記録し、電話を介して音声を再生産する装置であることが示されている

    のである。この日に記された基本的なアイデアは、その後、いくつかの変更が加えられてはい

    るものの、設計案が最終的に固まる 11 月下旬まで継続していたとみられ、広報のエドワード・

    ジョンソンを介して雑誌でも公表されている 33。11 月 17 日発行の『サイエンティフィック・

    アメリカン』誌には、フォノグラフの具体的な利用法が以下のように記されている。

  • ― 24 ― 「話す機械」としてのフォノグラフ―録音再生技術史再考

    「ボストンで演説家が話せば、凹凸の入った紙の帯が明らかな結果としてもたらされる。

    さらに、この帯は電話につなげられた第二の機械を通過する。話し手の声はすぐに、たと

    えばサンフランシスコで聞こえるが、その帯をもういちど再生機に通すと、彼の声は明日、

    または来年、もしくは次の世紀に聞こえるかもしれない。彼の発話はまず記録されると同

    時に伝達され、それから無限の反復が可能になるのである。」 34

    この引用文で、ジョンソンはフォノグラフを明確に電話の中継機として説明している。すなわ

    ち、フォノグラフとはもともと電話の音声を記録しておき、同時に別の地点へ送ったり、時間

    をずらして送信したりするような装置になるはずであったのだ。こうした記述からは、この時

    点でのエディソンが電話の機能を拡張することにフォノグラフの利用目的を見出していたこと

    が分かる。同様の記述は、同じ記事に掲載された、編集者宛の書簡の文末にもみられる。該当

    箇所を引用してみたい。

    「彼〔エディソン〕はスピーキング・テレフォン〔電話〕の原理をすでに応用しており、

    それによって電磁石を動かし、刻引用の振動板を操作している。だから、彼はまちがいな

    く議事堂でおこなわれた発話をワシントンからニューヨークに伝達して、同じものを

    ニューヨークで自動的に記録しておき、さらにスピーキング・テレフォンによってそれを

    ニューヨーク中の新聞記者の耳に再配信できるようになるだろう。」 35

    ここで、ジョンソンはフォノグラフの有用性を報道という観点からより具体的に説明している。

    電話とフォノグラフを用いれば、たとえばワシントン D.C. の議事堂でおこなわれる発言を

    ニューヨークに送信し、そこから中継して、さらに複数の新聞社に同時に送ることができると

    いうのである。

    このように、エジソンがフォノグラフを電話の発展形としてとらえていたのはおそらく偶然

    ではない。というより、エジソンはそもそもフォノグラフの原理を電話から知った可能性が高

    い。彼は 1876 年 7 月初頭にフィラデルフィア万国博覧会を訪れたジョンソンから、そこに出

    品されていた電話の情報を得たと考えられている。エジソンは電話の音質を改善することに関

    心をもっていたようであり、同年の 10 月ごろには、振動を電磁石に伝える導体として炭素粉

    を用いる方式を実際に考案している 36。そうした背景を考えるなら、彼はフォノグラフの原理

    を独自に考案したというより、電話を通して知ったと考えるほうが自然だろう。このようにエ

    ジソンがフォノグラフを構想した経緯は、「発明」に対する態度の違いを明確に物語っている。

    ここでエジソンはベルのように原理の検証から出発して発明にたどり着いたというより、既存

    のテクノロジーの応用から出発し、実用性の向上という明確に経済的な目的意識のなかでフォ

  • ― 25 ―京都精華大学紀要 第四十七号

    ノグラフにたどり着いたと考えられるからだ。つまり、彼はフォノグラフという中継機によっ

    て、通信の効率化と高速化を図るというビジョンをもっていたと思われるのである。このよう

    な意識は、フォノグラフの着想を得るきっかけになったという「自動電信」においてすでにみ

    られる。1872 年ごろより、エジソンは電信の信号を自動反復する機械の開発を進めており、

    数年をかけて関連するいくつかの装置を開発していた。そうした装置としてはたとえば、テー

    プ状の紙にアルファベットの文字を穿孔機で打ち込み、遠隔地に自動送信する機械や、モール

    ス信号をディスク型の記録媒体に刻印し、遠隔地に自動送信する機械があげられるが、これら

    に共通するのは、「電信を打つ」あるいは「電信を読む」という、それまで人間がおこなって

    いた作業を機械で置き換えようとする意図であるように思われる。同様の意図は明らかにフォ

    ノグラフの開発動機にも結びついている。

    3- 2.主体なき声

    このようにみると、エジソンがフォノグラフを発明した動機は、目的意識という点において、

    ベルとは大きく異なるようにみえるかもしれない。しかしながら、両者は発話の行為を機械に

    よって代理できると考えていたという点で、共通の認識を音響メディアに対してもっていたと

    言えるかもしれない。それは先にみたように、コミュニケーションの成立にとって、身体の現

    前は必ずしも必要ではないという認識である。ただし、エジソンは音声の再生産に「反復」と

    いう要素を持ち込んだことで、そのような意味での身体の不在を電話よりもさらに推し進めた

    と言えるかもしれない。そうした側面は、エジソンが採用したフォノグラフの最終的な設計に

    色濃く表れているように思われる。

    電話の中継機というフォノグラフの原案は、その完成形から一見して分かるように、最終的

    には棄却されている。11 月 17 日の時点でジョンソンが予告していた内容とは異なり、結果的

    に公表されたフォノグラフは電話に付随する装置ではなく、単体で作動する装置であったから

    だ。わずか二週間足らずのあいだに、メンロー・パーク研究所で何が起きていたのかは謎に包

    まれているが、日誌の内容からその理由の一端を推測することは可能であるかもしれない。11

    月 23 日付の日誌には、次のように書かれているのである。少し長いが、日誌のほぼ全文を引

    用してみたい。

    「私は人形に話させたり、歌わせたり、泣かせたり、さまざまな音を出させるために、フォ

    ノグラフの原理を応用しようと思っている。また、犬のような動物、鳥類、は虫類、人間

    の姿をしたあらゆる種類の玩具にそれを応用することも考えている。それらの玩具にさま

    ざまな音を出させたり、エンジンの玩具に蒸気を吐かせて、排気や汽笛を模倣させたりす

  • ― 26 ― 「話す機械」としてのフォノグラフ―録音再生技術史再考

    るのだ。また、交響楽的な器楽と声楽の両方の音楽をシートから再生産させるということ

    も考えている。つまり、私が考えているのは、完璧な記録〔の能力〕をもった製版機を使

    い、前もって鉄に切り込みを入れることで用意しておいた金型もしくは抜き型、または電

    気版から音楽〔レコード〕をプレスするか、錫箔の上に記録されたオリジナルから鋳造す

    るということである。一家に一台の機械と 1000 枚の音楽があれば、尽きぬ娯楽をもたら

    すことができる。また、私はいくつかの楽曲を演奏したり、いくつかの文章を話したりす

    る玩具のミュージック・ボックスとトーキング・ボックスを作ることや、日中の時間を読

    みあげたり、ひとを目覚めさせる時計や懐中時計を作ることも考えている。通行人の注意

    をひきつけるために、時計仕掛けで連続的に回転しつづける広告〔のためにフォノグラフ

    を使うことも考えている〕。〔中略〕

    伝声管を電話に取り付ければ、フォノグラフは電話するひとの片方にとって代わるかも

    しれない。または、鉄の振動板を動かすために、受信側の磁石を〔フォノグラフに〕接続

    してもよい。再生産のみが要求されるような玩具や装置の場合、文字 characters が刻引

    されるか、浮き彫りにされるかもしれない――。」 37

    この日誌でエジソンは、当初のように電話の音声を記録する利用法の他にも、いくつかの利

    用法を列挙している。これは明らかに、発明後に書かれたフォノグラフの利用法のもとになっ

    ているが、これらの利用法がその最終案とともに提出されたことは、ある可能性を指し示して

    いるように思われる。それはすなわち、フォノグラフを電話から切り離すことでエジソンは、

    利用法を大幅に広げようとしていたのではないかということである。まず注目したいのは、音

    の種類である。ここで録音の対象として提示されている音の種類は、非常に多岐にわたり、人

    間の声以外にも、種々の生き物の鳴き声、蒸気機関の音、器楽などが含まれている。また、人

    間の声に対応する場合にも、当初予定されていたような話し声だけでなく、笑い声や泣き声、

    歌声、時報、宣伝文など、多様な広がりをもっている。もうひとつ注目したいのは、フォノグ

    ラフが電話だけでなく、その他さまざまな日用品に応用されているということである。つまり、

    ここで録音は、人形、蒸気機関の模型、玩具、時計、広告など、身の回りにある事物に声やそ

    の他の音を与えるために利用されることが示唆されているのである。

    ここで示されている利用法は、フォノグラフが電話から独立した理由を説明することに役立

    つだけではなく、声という現象に対してエジソンがとっていた基本的なスタンスを理解するこ

    とにも役立つかもしれない。第一に、多様な録音対象のリストからは、エジソンが声を身体か

    ら分離してとらえていたことを読みとることができる。「話す身体」から独立しているからこそ、

    フォノグラフは人間の声だけではなく、他の動物の声、機械の音、楽器の音などを含む音一般

  • ― 27 ―京都精華大学紀要 第四十七号

    を再生産できるのである。第二に、人形、玩具、広告、時計に録音を組み合わせるというアイ

    デアは、エジソンが声という現象を「オリジナル」な行為主体から独立したものとしてとらえ

    ていたことを示唆しているように思われる。ここでエジソンは録音を何らかの行為の「記録」

    としてとらえるのではなく、あたかも人形や玩具といった事物が話している、あるいは歌って

    いるかのように聴くことを薦めているかにみえる。つまり、フォノグラフの音声は、発話をお

    こなった「オリジナル」な行為主体とは何ら関係がないものとして聴くことができるというこ

    とがここでは示されているのである。このような意味での主体の不在は、引用文の最後に示さ

    れている提案において際立ってくる。そこで彼は「再生産のみが要求される玩具や装置の場合、

    文字は刻引されるか、浮き彫りにされるかもしれない。」と提案しているが、ここで言われて

    いる「文字」が音の溝を意味しているとすれば、この箇所は記録媒体に直接溝を彫り込んで音

    を作るという手法を指しているととれるかもしれない。音を凹凸の溝に変換できるのなら、逆

    に凹凸を彫り込んで音を作ることもなるほど不可能ではないだろう。もしこの解釈が妥当であ

    るとすれば、フォノグラフは必ずしも今日の私たちがそう理解しているような「記録」の装置

    ではなく、実在の人物とは無関係に、声を「合成」する装置のようなものとしても理解されて

    いたかもしれないのである。

    このような解釈が行き過ぎであるとしても、「話す人形」や「歌う人形」を作りたいという

    エジソンのアイデアは、「話す機械」の伝統を意識していたことを連想させる。ただし、その