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民博通信 2015 No.15114
きっかけはいつもカヴァ・ボールの横「応援」について通文化比較をしたら面白いのではないかと思ったきっかけは、2012年のフィジー滞在中にさかのぼる。十年一日のごとく夕方のカヴァ(オセアニアの伝統的飲料)飲みをしていたときのことである。スポーツニュースが始まるため、カヴァの手をとめ、おしゃべりも一休みと、みなテレビに視線を集中させた。フィジーの人々は、男女を問わず多かれ少なかれラグビー狂なので、どれほど騒がしくてもこの瞬間だけは静かになったりする。そもそもテレビをみる習慣がなく、スポーツにも関心のない筆者は、画面をみるともなく眺めていた。報道されていたのは、ジンビ(cibi)をボレ(bole)にかえ
るという、ラグビー関連のニュースであった。ニュージーランドのラグビーのナショナルチーム(オールブラックス)による、試合前に敵を歓迎すると同時に威圧するパフォーマンスとして有名なハカ(haka)にならい、フィジーのチームは、ジンビという戦いの舞踏を披露することをつねとしていた。報道の趣旨は、ジンビは「戦勝を祝う」という意味があるため、試合が始まる前に行うには適切でない。そこで、「挑戦を受ける」という意味のボレに名称を変更するというものだった。「サンドーヌ(もっともである)」とフィジーの友人はみな
口々に述べ、カヴァの座を取り仕切る役目の若者は、器たっぷり盛られたカヴァを再びかき混ぜはじめた。隣に座った知り合いに「(伝統的な意味に即する)素晴らしいアイディアだな!」と話しかけられ、筆者は曖昧に賛意を表した。そもそもあのパフォーマンスは、ニュージーランドのハカ
に対抗するためにフィジーのある地方の戦争舞踏を流用したものとされる。部族戦争の時代は 19世紀に終わり、伝統的な意味での戦争を直接目にした者はもちろん、間接的に体験談を聞いた人さえまれなのが現状である。それにも関わらず、おそらく彼らにとってもなじみのないパフォーマンスの意味をそこまで気にするのかと、ただただ感心していたのである。
応援文化としてのひろがりに開眼そして同時に、ニュージーランドのハカがフィジーに伝播
したような現象は、結構あることではないかと思った。似たような慣習を共有する集団が対立を通じて差異を先鋭化させるように、ある種の類似した形式的な行動が、多少の差異を伴いつつ対抗的に拡散する。そしてそこに、伝統的なるものが、イディオムとして再帰的に利用される。ナショナル・アイデンティティの議論ではおなじみのこうしたパターンは、むしろ身近な(見方によっては卑近な)応援という例からの方が、事態の本質にせまれるのではないだろうか、などと漠
カパハカ舞踊団「ナ・ホウ・エ・ファ」(Ngā Hau E Whā)による、ニュージーランドマオリのカパハカ。2007年 9月、国立民族学博物館研究公演にて (国立民族学博物館提供)。
応援の人類学の挑戦 文
丹羽典生
共同研究 ● 応援の人類学―政治・スポーツ・ファン文化からみた利他性の比較民族誌(2015-2018)
民博通信 2015 No.151 15
然と思いを巡らせもした。たとえば、日本の応援団。さまざまな大学応援
団の記念誌などを読み比べてみると、応援団の起源は戦前にさかのぼり、当初は、野次隊などと呼ばれるまとまりを欠いた自生的な組織であったようである。応援合戦は過熱化し、フーリガン的な暴力的争いに転化することがあったため、それを矯めるため(観衆を統制するため)に応援団として組織化された側面もある。それが、大学の公的活動として、次第に認可されていくようになり、応援団の拡大につれて団独自の応援パフォーマンスが案出されだした。応援に集団による組織的行動をもちこむアイ
ディアは、アメリカの大学におけるスポーツ応援のカレッジ・エールを参考にした節もあるとされる(中村 2009: 44)。応援団というといまでも多かれ少なかれバンカラなイメージと重ねられるが、この歴史的経緯が事実ならば、意外にもバタ臭い起源ということになる。さらに、我々が応援と聞いたときにイメージする、ブラスバンド部、チアリーダー部と合わせた三部一体の応援方式に至っては、戦後にすぎない。
旅する応援先ほど、アメリカにおけるカレッジ・エールの交換を参考
にしたと軽く書き流したが、違和感をもった人がいるかもしれない。アメリカの応援といえば女の子によるチアリーダーではないかというわけである。実は、チアリーダーが女性中心の団体となり、そのように認知されだしたのは、1950年代以後のことである。もともとチアリーダー(cheerleader)とは男性で構成さ
れた組織であった。いまでも一部の大学に残るエール・リーダー(yell leader)と同じように、スポーツなどの対抗試合の場で、掛け声などを通じて盛りあげる役割であった。1890年頃、大学による公的組織として認可を受け、1900年代には組織として自立化をはじめるが、当時は男性メンバーだけで構成される団体としてあった(Adams and Bettis 2005)。いまではアメリカの中学高校までのチアリーダーといえば、
全校の憧れの的となるような眉目秀麗・成績優秀な女子生徒で占められている。ただし大学のチアリーダーでは事情が異なり、男子学生が一定程度在籍していることは珍しくない。チアリーダーのアメリカ社会における位置づけもまことに
興味深く、大統領経験者にも、元チアリーダー部がいるほどである。まさにアメリカのアイコンである。日本の首相経験者に、大学応援団出身の方はいるのであろうか。彼我の違いがイメージできよう。
応援の比較文化論に向けてこのようにオセアニアのハカからはじまり、日本の応援団
を経て、アメリカのチアリーダーに思いをはせつつ、比較文化論的なスケッチを描いてみると、法政大学の山本真鳥教授が、雑談の折に、anthropology at homeの文脈で、日本の大学応援団はいい材料ではないかと話されていたことなども、あらためて思い出しもした。以上を着想の背景として、応援に関する研究プロジェクトを立ちあげた次第である。
広辞苑第五版を参照すると、応援とは、「助け救うこと」で、「(競技などで)声援を送って、味方を元気づけること」を意味する。似た言葉には、声をかけて励ましたり助勢したりする声援、資材や兵力などを提供して助ける後援、行政用語にも用いられ、助け支えることを意味する支援などがある。本共同研究では、こうした応援という言葉のひろがりを含みこんで、ひろく応援(support)と定義し、その行為一般を対象として、民族誌的データをもとに比較分析を行うことにした。そのうえで、こうした応援という行為が比較的顕在化しや
すい領域と思われる、政治、スポーツ、ファンにとくに着目している。これらの領域は個人的な応援の行為があらわれるだけでなく、集団で応援するための組織が形成される接点であるため、本研究会の興味深い例となることが、期待できるからである。さらには、合理的経済人という人間観が影響力をもちやす
いグローバル経済が支配的な時代背景の中で、応援という独自の視点から、他者のための行為を考察し、利他性を問い直すことで、人間性とは何かという古典的な問いを再考する社会哲学的な意義も遠く念頭においている。本共同研究を通じて、応援の人類学という新しい研究領域を開拓していきたい。研究会はまだはじまったばかりであり、どのような方向に
ひろがり、どのような結論に落ち着くのかは研究代表者である筆者にもわからないが、本研究会を開催するにあたってのもくろみについて、夢は大きく大風呂敷を広げてみた次第である。
【参考文献】Adams, Natalie and Pamela Bettis. 2005. Cheerleader!: An American Icon.
England: Palgrave Macmillan.国立民族学博物館編 2015「特集 野次と喝采」『月刊みんぱく』4:2-9。中村哲也 2009『近代日本の中高等教育と学生野球自治』一橋大学社会学
研究科博士論文。
にわ のりお
国立民族学博物館研究戦略センター准教授。専門は、オセアニアの社会人類学。著書に、『現代オセアニアの〈紛争〉―脱植民地期以降のフィールドから』(石森大知共編 昭和堂 2013年)、『脱伝統としての開発―フィジー・ラミ運動の歴史人類学』(明石書店 2009 年)
第五高等学校文科理科ボートレースにおける応援団(昭和 16年頃、熊本市江津湖、熊本大学五高記念館提供)。