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27 体育史研究 第32号 2015年 3 月 27 ~ 40頁 国民学校「体錬科」の構想過程に関する一考察 ―教育審議会(1937.12 ~ 1938.12)での審議を中心に― 崎 田 嘉 寛 A Study on the Planning Processes of Physical Training TAIRENin the National School Focusing on Conference Records of the Educational Council (1937.12-1938.12) SAKITA Yoshihiro 研究資料 原稿受理:2014年11月10日 広島国際大学 Hiroshima International University はじめに アジア・太平洋戦争下において、学生・生徒は 段階的に国策の重要な人的資源とみなされ、初等 教育段階の児童も例外ではなかった。このことは、 1938(昭和13)年12月 8 日の教育審議会答申「国 民学校、師範学校及幼稚園ニ関スル件」(「国民学 校ニ関スル要綱」)に基づいて、1941年 3 月 1 日 に公布された「国民学校令」(勅令第148号)で制 度化される。この「国民学校令」によって、教科 名称が「体操科」から「体錬科」に改編され、初 等教育の正課に武道が位置づいたことは周知の通 りである。 「体錬科」については、総括的な評価 1) に加えて、 「体錬科」を構成する内容(体操、教練、武道、 衛生、航空体育)に関する研究 2) が蓄積されてき た。一方で、「体錬科」を含む国民学校の成立史 研究では、教育審議会を中心として研究が整備さ れてきた。具体的には、教育審議会の答申に大き な影響を与えた「幹事試案」とその修正過程 3) あるいは「教科課程案」の成立過程 4) が、会議録 を中心資料として明らかにされてきた。この中で、 「体錬科」に関する審議内容としては、「体育科」 という教科名称が審議の俎上に載っていたこと、 教科内容として武道と教練の位置づけが論議の対 象となっていたこと、が指摘されている。また、 桑原らは、審議会で取り上げられた体育問題を「体 位向上と合科の問題」、 「保健衛生・栄養問題」、 「『体 錬科』の設置」、「武道の正課必修」に整理し、そ れぞれの問題に対する議論の推移を掘り下げて論 及している 5) 。しかしながら、これらの研究では、 審議展開に沿って、どのような文脈で「体錬科」 の構想が確立されたのかを把握するには判然とし ない部分がある。とりわけ、「体錬科」としての 基本的な枠組みが合意される直前の審議は、速記 を中止した懇談会となっているため、会議録では 審議内容を把握することができない。このような 資料的制約に対して、米田 6) は国民学校の審議全 般を詳述する際に、速記中止部分を部分的に把握 できる資料を補って詳述していることは注目され る。ただし、「体錬科」の基本的な枠組みが合意 された懇談会の部分は、記述に十分に反映されて いない。 そこで本研究の目的は、教育審議会の審議を中 心として、国民学校における「体錬科」の構想過 程を明らかにすることである。具体的な課題は、 教育審議会で取り扱われた体育的課題を「体錬科」 の構想過程として捉え、審議展開に沿って、先行

国民学校「体錬科」の構想過程に関する一考察 · SAKITA Yoshihiro* 研究資料 原稿受理:2014年11月10日 *広島国際大学 Hiroshima International

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27体育史研究 第32号 2015年 3 月 27 ~ 40頁

国民学校「体錬科」の構想過程に関する一考察

―教育審議会(1937.12 ~ 1938.12)での審議を中心に―

崎 田 嘉 寛*

A Study on the Planning Processes of “Physical Training(TAIREN)” in the National SchoolFocusing on Conference Records of the Educational Council(1937.12-1938.12)

SAKITA Yoshihiro*

研究資料

原稿受理:2014年11月10日*広島国際大学 Hiroshima International University

はじめに

アジア・太平洋戦争下において、学生・生徒は段階的に国策の重要な人的資源とみなされ、初等教育段階の児童も例外ではなかった。このことは、1938(昭和13)年12月 8 日の教育審議会答申「国民学校、師範学校及幼稚園ニ関スル件」(「国民学校ニ関スル要綱」)に基づいて、1941年 3 月 1 日に公布された「国民学校令」(勅令第148号)で制度化される。この「国民学校令」によって、教科名称が「体操科」から「体錬科」に改編され、初等教育の正課に武道が位置づいたことは周知の通りである。「体錬科」については、総括的な評価1)に加えて、「体錬科」を構成する内容(体操、教練、武道、衛生、航空体育)に関する研究2)が蓄積されてきた。一方で、「体錬科」を含む国民学校の成立史研究では、教育審議会を中心として研究が整備されてきた。具体的には、教育審議会の答申に大きな影響を与えた「幹事試案」とその修正過程3)、あるいは「教科課程案」の成立過程4)が、会議録を中心資料として明らかにされてきた。この中で、「体錬科」に関する審議内容としては、「体育科」という教科名称が審議の俎上に載っていたこと、

教科内容として武道と教練の位置づけが論議の対象となっていたこと、が指摘されている。また、桑原らは、審議会で取り上げられた体育問題を「体位向上と合科の問題」、「保健衛生・栄養問題」、「『体錬科』の設置」、「武道の正課必修」に整理し、それぞれの問題に対する議論の推移を掘り下げて論及している5)。しかしながら、これらの研究では、審議展開に沿って、どのような文脈で「体錬科」の構想が確立されたのかを把握するには判然としない部分がある。とりわけ、「体錬科」としての基本的な枠組みが合意される直前の審議は、速記を中止した懇談会となっているため、会議録では審議内容を把握することができない。このような資料的制約に対して、米田6)は国民学校の審議全般を詳述する際に、速記中止部分を部分的に把握できる資料を補って詳述していることは注目される。ただし、「体錬科」の基本的な枠組みが合意された懇談会の部分は、記述に十分に反映されていない。そこで本研究の目的は、教育審議会の審議を中

心として、国民学校における「体錬科」の構想過程を明らかにすることである。具体的な課題は、教育審議会で取り扱われた体育的課題を「体錬科」の構想過程として捉え、審議展開に沿って、先行

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は総会に加えて特別委員会(委員長:田所美治)と整理委員会(委員長:林博太郎)が設置されている。総会は教育審議会の最終決定機関とされているが、答申案等の原案は特別委員会が決定し、特別委員会の原案は整理委員会で検討されている。初等教育に関する審議は、表 1のように進行する。およそ一年間にわたり、総会 9回10)、特別委員会14回、整理委員会16回が、初等教育に関する答申作成に注力されている。「体錬科」の構想に関わる重要な審議は、1938年 7 月中に実施された整理委員会(第 5 ~ 12回)、および 9月後半の整理委員会(第17 ~ 19回)である。しかし、本稿では審議の順序を重視し、「体錬科」構想の審議展開を踏まえて、次のように区分した。第 1 ~ 8回総会と第 1 ~ 8回特別委員会(第 2章)、第 5~ 6回整理委員会と第18 ~ 20回特別委員会(第3章)、第 7 ~ 9回整理委員会(第 4章)、第10~ 17回(前半)整理委員会(第 5章)、第17回整理委員会(後半)から第10回総会まで(第 6章)。

2 .教育政策としての「体位ノ向上」

(1)「体位ノ向上」11)に関する見解1937年12月23日の第 1回総会では、まず、総理大臣による挨拶が代読される。この中で、「重要ナル問題」の一つとして「国民体位ノ向上」総1-4

が示されている。続いて、諮問第一号が提案され、伊東延吉(幹事長)によって趣旨説明が行なわれる。ここでは、「知・徳・体ノ三ツヲ一体ニ致シマシタ実践的ナ又独創的ナ教育ニ改メマスルガ如キ肝要ナル問題」として、「国民ノ体育ノ振作ヲ図ル」が例示されている1-7。このように、教育活動全般において「体位ノ向

上」を中心とした体育的な課題が示唆されたことを受け、第 8回総会までの間、各委員は通告によって意見を述べる。まず、国民体位の向上に関する見解は、体位の低下という現状から言及されている。たとえば、「徴兵検査ノ結果過半ガ不合格」(田尻常雄総3-16)、「我ガ国民ノ体位ガ外国人ニ比シテ

研究で論及されていない審議内容を含めて精緻に掘り起し、考察することである。使用する資料は、まず、『教育審議会総会会議録』

(第一、二輯)、『教育審議会諮問第一号特別委員会会議録』(第一、二、五、六輯)、『教育審議会諮問第一号特別委員会整理委員会会議録』(第一~三輯)である。なお、これらの資料を引用する際は、総会を「総」、特別委員会を「特」、整理委員会を「整」と略記し、輯とページを下付きで本文に示す(たとえば、整理委員会会議録の第一輯の24ページならば、「整1-24」とする。また適宜「総」、「特」、「整」は省略する)。また、発言者は初出時のみ氏名を明記する(同一姓は除く)。次に、各会議で配布された資料である。総会に関しては『教育審議会第一回乃至第八回ニ於ケル意見ノ内容別分類』、特別委員会については文部省教育調査部審議課「教育審議会諮問第一号特別委員会審議要領」(野間教育研究所所蔵)7)、整理委員会については文部省教育調査部審議課「教育審議会諮問第一号特別委員会整理委員会審議要領」(東京大学大学史史料室所蔵)8)を使用する。これらの資料は、いずれも各会議の審議要点を列挙した会議資料である。特に、「審議要領」については、「速記中止」・「懇談会」として会議録に掲載されていない内容を部分的に把握できる。会議録および審議要領などを引用する際は、旧

字体を新字体に改めている。

1 .教育審議会と初等教育に関する審議の概要

教育審議会9)は、1937年12月10日の「教育審議会官制」(勅令711号)により内閣に設置された、「教育ノ刷新振興ニ関スル重要事項ヲ調査審議」する諮問機関である(1942年 5 月 9 日廃止)。諮問第一号は「我ガ国教育ノ内容及ビ制度ノ刷新振興ニ関シ実施スベキ方策如何」であり、「内容」を「制度」より前に示すことで、「内容」改革が重視されている。委員構成は、最大79名であり戦前の教育関係審議会では最大のものとなっている。運営

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29国民学校「体錬科」の構想過程に関する一考察

劣ツテ居ル」(小倉正恒3-55)、「乳児、幼児ノ死亡率ガ高イ、又幼年青年ノ死亡率ガ高イ」(下村宏

3-158)、といった現状が指摘されている。一方で、競技選手の育成に偏向している(大蔵公望3-11、小倉3-55)というスポーツ・競技偏重傾向や、学科学習に追われている(田尻3-16、下村寿一3-130)という知育偏重に対して、体位向上を視点とした改善の必要性が述べられている。次に、具体的な振興方策としては、入学試験における体格の重視(田尻3-16)、優秀な体育教師を養成するための「体育大学」の特設(林博太郎3-78 ~ 80)、体操時間数の増加(下村寿一3-130 ~ 131)、体操科の地位向上(同前)、衛生教育の充実(下村宏3-158 ~ 159)、女子体育の振興(下村寿一3-131、吉岡弥生3-143)、女子武道として薙刀を課すこと(香坂昌康3-112 ~ 113)、四・五十歳への体育の普及(椎尾弁匡3-121 ~ 122)が提示されている。ここまでの総会では、議事進行が意見開陳に制

約されていたため、対象や方法についての一貫性がない意見と振興策が提示されている。ただし、「体位ノ向上」の必要性は喫緊の教育政策的課題として認識されている。そのため、課題と改善策が広範囲にわたって提示されたことは、直後の初等教育を対象とした特別委員会での審議に対する

議論の下地をある程度ではあるが形成したと考えられる。

( 2)義務教育年限延長の根拠としての「体位ノ向上」第 8回総会後に特別委員(30名)が指名され、1938年 4 月14日から第 1回特別委員会が開始される。その後、第 8回特別委員会までに初等教育に関する意見が述べられる。まず、「体位ノ向上」に関する見解は、「義務教育の年限延長」を表明する際の一つの理由として示される。たとえば、発育期(12 ~ 14歳程度)の児童・生徒を労務に従事させることは体位を低下させることになる(関口八重吉特1-91)、といった見解に端的に表れている。加えて、義務教育の年限が延長された際の重要な内容として、「心身の発達」、「体位向上」が取り上げられている(上原種美特1-104、野村益三特2-3、西田博太郎2-7、田中穂積2-14)。一方で、第 6回特別委員会で野村は「体位ノ向上」に関する科学的調査に基づいた具体的な目標値を要求している2-48

12)。次に、具体的な振興方策としては、尋常小学校の五年以上に正課として水泳を位置づけること(野村2-6)、小学校における選手制度の全廃(佐々井信太郎2-84 ~ 85)、遠足等を教育的に改善すること

表1 初等教育に関する審議経過の概要

註 1:各会議録に示された開催年月日に基づいて、引用者が作成。註 2:「総」は総会、「特」は特別委員会、「整」は整理委員会の略。註 3:「総 9」は7月 15日に開催されている。「特 9 ~ 17」( 5月20日から 6月17日)は師範学校および青年学校に関   する審議を行なっている。「整 1 ~ 4」( 6月22日から29日)は青年学校に関する審議を行ない、「整20 ~ 29」   (10 月 7 日から11月11日)は師範学校に関する審議を行なっている。

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(同前)、日常の行動を体育的に改善すること(佐藤寛次2-92)、体育と勤労・奉仕作業との結合(下村宏2-120)、衛生道徳の訓練(同前)、健康検査の実施(同前)が提示されている。これらの提言は、教科(正課)の枠にとどまらない積極的な改善・振興案となっている。また、岩原拓(文部省体育課長)が招聘された際に、初等中等教育は室内教授を午前中に止めて、午後は作業と身体修練による活動的な教育をすべきであると述べている点は注目される2-148。積極的な振興策が示される一方で、添田敬一郎

は、体育も進めなければならないが、同時に知育も決してこのままで良いわけではないと発言し、伊東(幹事長)も同調している2-10 ~ 11,23。また、「体育ノコトサエ確カリヤツテ置ケバ国民教育ノコトハ出来ルノダト云フ風ニ考ヘテ居ツタ者モアルノデハナイカ」(三国谷三四郎2-63)といった抑制的な見解も示されている。さらに、香坂は総会での自身の見解を発展させ、武道は技術ではなく精神であり、発育に応じてどのようにでも課すことができるという理由から、小学生(尋常一年生)から武道を正課とすることを要望している。続けて、「日本ノ武道ト云フモノハ決シテ体育トシテ見ルベキモノデハナイ」2-127と強調していることは重要である。そして、後藤文夫は「修身ガ体育ニ結付クノデハナク、体育自体ガ修身トナツテ行クヨウニト云フコトガ体育ノ上ニ於テ最注意モサレナケレバナラヌ」2-162と述べている。ここまでの特別委員会では、義務教育年限延長

の一つの根拠として「体位ノ向上」が認識されている。ただし、積極的な改善・振興を求める意見に対して、概括的ではあるが抑制的な見解が述べられたことは、議論の余地があることを示すと同時に対立点の前兆として捉えることができる。また、初等教育への武道の導入や修身と体育の一体化といった意見は、体育に精神的要素を含ませるかどうかに関わる重要な論点の提起となっている。

3 .「幹事試案」における「体錬」と「体育科」構想

1938年 6 月17日に整理委員会(委員長・林)が発足する(後藤、下村寿一、田中、関口、香坂、森岡常蔵、佐々井、三国谷および特別委員長・田所)。初等教育に関する審議は、7月 1日の第 5回整理委員会終盤から開始される。同審議中に突然、伊東(幹事長)は「国民学校、国民実修学校要項」13)を「幹事試案」14)として提出する(表 2 -左列)。この「幹事試案」ではじめて「体錬」という新語が明示される。伊東は、「体錬 ― 是ハ体操ト云フノハ如何ニモ西洋式デ身体ヲ操ルト云フノデ拙イカラ体錬トシタ」整1-220と説明し、「体操」という用語を消失させている。加えて、教科名として「体育科」を採用し、低学年から「衛生」、高学年から「武道」を正課に位置づける構成案を提出している。ただし、伊東は教科名称の変更理由および「体育科」の採用理由について説明していない。この点については、総会の趣旨説明で、体育運動審議会の答申・決議が「審議ノ基礎トナリ、有力ナル参考トナリ、又有益ナル資料トナル」総1-9と指摘されたことなどが影響したと推察される15)。「幹事試案」の取り扱いを巡っては、第18回特別委員会において、特別委員会に差し戻して審議すべきとされる。そして、伊東は、再度、第18回特別委員会において「幹事試案」特5-47 ~ 50の説明を行なっている。「体錬」に関しては、次のように説明している。「体操トアリマスノヲ体錬ト致シマシタノハ、体操ト云フノハ余リニ何ダカ手足ヲ唯動カスダケト云フヤウナ意味デ鍛練的意識モ十分デナイシ、又唯手足ヲ動カスト云フヤウナ機械的ノコトニナリ易イト云フコトヲ避ケル為ニ体錬ト致シタノデアリマス」5-36。このように、第 5回整理委員会での説明とほぼ同じ内容を繰り返している。そのため「幹事試案」段階での「体錬」は、機械的な体操に鍛錬という方法論的な意識を付与するという意味でしかないことを確認できる。ただし、「訓練科」の説明において、体錬、教練、

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31国民学校「体錬科」の構想過程に関する一考察

遊戯、衛生は不可分であることを強調し、各内容は「礼法」によって統一されるとの見解を示している点は重要である5-36。その後、特別委員会では第19回と第20回で「幹

事試案」が検討される。「体育科(訓練科)」に関する検討内容を示す。まず、低学年の「訓練科」から「体育科」を独立させてもよいのではないかという意見が表明されている(松井茂5-57、三国谷5-95)。次に、初等教育段階での「教練」実施に対する抵抗感(長与又郎5-66、田尻5-81)が示されている。教練については、伊東が既に実施している内容であるとして理解を求めている5-68。同様に、「体錬、教練、遊戯」の内容が曖昧なため、「体育」(長与5-66)か「体操」(田尻5-81)という名称でまとめた方が良いという意見が述べられている。最後に、下村宏が「体錬ノ『レン』ガ金偏デ、教練ノ『レン』ガ糸偏」5-71であることの理由を照会している16)。「幹事試案」における「体育科(訓練科)」に限定して意見を見てみると、「体錬」という表現や教練の位置づけにおいて否定的な発言が少なからずある。また、低学年の「訓練科」から「体育科」を独立させる意見については、「幹事試案」の趣旨を全面的に汲み取ったものかどうかは疑問が残る。なぜなら、「幹事試案」における「訓練科」は「礼法」によって統一が図られることを企図しているため、低学年において「体育科」を独立させる提案は、「礼法」からの分離を意味すると考えられるからである。

4 .「体錬科」の創出

(1)「幹事試案」の修正特別委員会での「幹事試案」に対する意見表明が終了し、「幹事試案」は「参考」案として取り扱うことが提案され、審議の場を整理委員会(第7回)に戻した。以下、「幹事試案」における「体育科」の修正過程の概要を示す。まず、第 8回整理委員会では、下村寿一が低学年に「体育科」が設置されていないことを問題視している。この理

由については、高学年から「体育科」を設置するのでは、国民体位の向上(体操、保健衛生の習慣養成、栄養食)という重要な問題を小学校において軽視していると捉えられかねないため、としている整2-50。また、三国谷も「個人々々ニハ自分ノ身体ノコトハ重ンジナケレバナラヌト云フ考エ方ヲ子供ノ時カラ養成スルト云フ意味」で、小学校一年生から体育を重視し、「体育科」を独立させるべきだと再度指摘している2-67。続いて、第 9回整理委員会では、まず、いくつかの科目構成案が提起される。まず、田所(特別委員長)は茗溪会の案(「人文科」、「理科」、「技能科」、「実業科」、「体育科(体操其の他)」、「家事科」)が適当と提案している2-93。続いて、林(整理委員長)は、田所が提案した 6科では多すぎるため、「皇民科」、「理科」、「技能科」、「体育科あるいは体錬科」を提案する2-94。ここで初めて教科名としての「体錬科」が、突然、整理委員長より提案されている。さらに、後藤が「幹事試案」の修正案を提示する17)(表 2 -中列)。この後藤の修正案における「体育科」では、「教練」を重視する構想を明確にしている。この後藤の修正案を巡って「武道」の取り扱い

に関する議論が展開される。まず、香坂は、武道の精神性を重視して、武道を「幹事試案」の「訓練科」、あるいは後藤の修正案の「修練科」に位置づけることを提案する2-98。これに対して後藤は、「体育科」は精神的修練を含むものでなければならないため、「武道」を「体育科」に位置づけても問題はないと説明する2-98 ~ 99。さらに、三国谷がこれらのやりとりを受けて、精神訓練として重要な武道は「皇民科」に位置づけたほうが、趣旨が徹底されると提案する2-104。この三国谷の意見について、香坂は国粋的な武道の位置づけであるとして賛意を表明している2-106。ここまでの議論において、ようやく「体育科」を巡る対立点が明確になる。すなわち、「体育科」に精神的修練(訓練)を含ませるのか、身体的発育・訓練に限定するのか、という対立である。前者は「幹事試案」およびその趣旨を積極的に汲み

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32崎 田 嘉 寛

取った後藤であり、後者は三国谷である。そのため、三国谷が武道を皇民科に位置づけようとする提案は、「体育科」を身体的発育・訓練に限定するための代替案としても解すことができよう。なお、香坂の発言は武道の位置づけに限定されたものであり、「体育科」の全体構想に関わる発想の形跡を読み取ることができない。そのため、結果として三国谷の意見を支持する意見となっていると考えられる。

( 2)「体錬科」創出と「武道」を巡る議論第 9回整理委員会では議論が細部に及んできた

ため、林(整理委員長)が速記を中止して懇談会(11時32分~ 12時 8分、13時31分~ 15時47分)に入る18)。まず、教科名について「頑是ナイ児童ヲソダテル意デ体育科ノ方ガ宜シイトモ考ヘラレルガ、『錬』ガ『育』モ含ムコトニシテ体育科ヲ『体錬科』ト改称致シ度イ」と提案されている。この教科名として「体錬科」を採用することについては、反論も代案も「審議要領」には示されていない。一方で、武道の位置づけを巡っては激しい議論

が展開されたと考えられる。具体的には、武道を「皇民科」に位置づけるか「体育科(体錬科)」に位置づけるかで論戦が展開された様子が窺える。まず、武道を「体育科(体錬科)」に位置づける理由としては、「武道ヲ体育カラトツテシマウト体育ガ単ニ肉体ノ発育ノミヲ中心トスル様ニナラウ」、「武道ヲ皇民ニ入レ・・・ルノハ科学的デナイ」、「体育ニ武士道精神ヲ入レタイ」、「武道ヲ体錬科ノ第一位ニ置キ、ソレニヨツテ体育全体ガ武道精神ニヨッテ指導セラルヽ様ニ致シ度イ」、「武道ハ日本ニ発達セル日本的武道トシテハ皇民科中ニ入ルベキモ、身体ヲ通ジテノ精神的訓練ナレバ体育科或ハ体錬科中ニ入レテ然ルベシ」という見解が示されている。次に、武道を「皇民科」に位置づける理由としては、「日本人ノ教育トシテハ士道教育ノ意味カラ武道ヲ皇民科ニ入レテモ良カロウ。武技ナラ体育ニ入レルノモヨイガ、武道ニハ精神的ナモノガアル」、「武道ヲ皇民科ニ入レルコトニヨリ日本的教育ノ立場ガ明瞭ニナル」、「真

ノ日本人錬成ノ為日本ノモノトシテ存続セル武道ヲ取リ上ゲ皇民科ニ入レルベキ」という見解が示されている。すなわち、「体育科」派は精神的訓練の重視という方法・手段論を唱え、「皇民科」派は国粋的な武道・本質論を根拠としている。懇談会終了後、林(委員長)は教科名を「体錬科」とし、武道を「体錬科」に入れて「威信ヲ保ツ」ことで収束を図っている整2-111。このことで、「体操」という用語が科目名として復活し、「体錬科」は「武道」と「体操」が中心となる。ここでの懇談会での議論は、資料的制約がある

ため、具体的な発言者を特定することは困難である。ただし、この懇談会における対立の調整の結果を見れば、「幹事試案」の「体育科」構想の趣旨が弱められることなく合意が図られたと考えられる。すなわち、教科名として「体錬」の名辞が使用され、内容に武道が正式に位置づいたことは、「幹事試案」で企図された「体育科」での精神的修練の実施を、当初の試案とは異なるものの具現化する結果となったと考えられる。

5 .「体錬科」の内容構成

(1)「教練」の位置づけを巡る議論「武道」の位置づけが「体錬科」で定まった後、「体錬科」の内容構成について審議される。第10回整理委員会では、会議冒頭から懇談会となり、再度、後藤から「整理試案」整2-167 ~ 168(表 2 -右列)が提示されている。後藤の「整理試案」では、前回の懇談会の内容を踏まえて、教科名を「体錬科」としている。また、「体錬科」の内容構成については、「教練」の位置づけを後退させているが、独立科目という構成案である。続いて、仮決議案として「国民学校教科案」(第11回整理委員会)2-214 ~ 215および「国民実修学校教科案」(第12回整理委員会)2-245が幹事から示される。表 3 -左列に、その内容の一部を示す(「備考」は「体錬科」に関連するものに限定した)。この仮決議案を巡って、後藤が従来の審議では

「教練」は「体操」に含めずに取り扱ってきたの

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33国民学校「体錬科」の構想過程に関する一考察

表2 第5~10回整理委員会における教科構成案の変遷

註1

: 「国民学校、国民実修学校要項」(野間教育研究所所蔵)、文部省教育調査部審議課「教育審議会諮問第一号特別委員会第九回整理委員会審議要領」

pp.3

-4。

    「第十回整理委員会ニ於テ整理委員ヨリ提出セル印刷物」(整2

-167~168)から引用者が作成。

註2

: 下線は引用者による。

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34崎 田 嘉 寛

ではないかという疑義を示す(第12回整理委員会)

2-261。これを端緒として、「体錬科」の内容構成の記載を巡っていくつかの案が提示される(各委員の発言に基づいて引用者が作成2-261 ~ 76)。

①「武道・体操(教練、遊戯及競技、衛生)」(文部省、三国谷、田中)②「武道・教練・体操(遊戯及競技、衛生)」(林、後藤)③「武道・教練・体操(遊戯及競技)、衛生」(香坂:第一案)④「武道・体操(教練、遊戯及競技)、衛生」(下村)⑤「武道(教練含ム)・体操(遊戯及競技ヲ含ム)、衛生」(香坂:第二案)

「教練」を独立的な科目内容として位置づけるべきだと強調したのは、後藤である。彼の主張は、「教練」がある意味で現時の武道であるから、「武道」を独立させたのと同様に「教練」を独立させるべきである、というものであった2-261,263。そのため、⑤の香坂のような案が提起される2-265。これに対して、文部省の見解は、「教練」を分離することは内容面からも教授配当時間数からも困難であることを示し、委員からも現行規定(「改正学校体操教授要目」)に従い「教練」を分離する必要はないことが述べられている(下村寿一、三国谷2-262 ~ 263)。この案件については、岩原(体育課長)が招聘され、「教練」が団体行動の基礎訓練であることを強調し、教練と体操の関係を解説し、教練と武道が異なることを説明している2-266~ 268。最終的に他教科の表記との整合性(下村)や現行規定との一貫性(岩原)という運用レベルでの発言が重視され、「武道・体操(教練、遊戯及競技、衛生ヲ含ム)」で合意されている2-273 ~ 274。なお、後藤は合意時点では一時退席していたが、審議終盤に戻った際にやむなく同意している2-286 ~ 287。この教練の位置づけが合意されたことで、体錬科における内容構成が、表現も含めて確定された。残された課題は、女子に対する武道の取り扱いだ

けとなった。

( 2)「女子武道」の取り扱いを巡る議論仮決議案については、「体錬科」における「備考」の表記も問題となる。第11回整理委員会において、下村寿一が表記にある「随意科」(表 3 -左列)の意味を照会し2-240、藤野(普通学務局長)が必置であり女子のための随意であると回答する2-240。また、専任指導者は考えておらず、女子師範で薙刀、弓道を課し初歩程度の指導をできるようすると述べている(藤野2-240)。続いて、三国谷が女子について武道を必設科目とするのは無理ではないかと提起したことを受けて、委員長が速記を止め懇談( 2分間)に入る2-242 ~ 243。懇談会では、「武徳会ト関東ト流儀ガ異ナル故、全国一様ニ実施スルノハ困難ナラン」、「女学校ハ兎モ角、小学校程度デノ武道必設ハ無理ナリ。『女子ニ在リテハ之ヲ課セザルコトヲ得』デハ如何」が提案されている19)。そして、速記開始後、委員長が「女子ニ在リテハ之ヲ課セザルコトヲ得」2-243で一旦まとめて、合意を留保している。その後、第12回整理委員会において、田所(特別委員長)が再度、武道に関する議論を再展開する。田所は、自身を「武道奨励論者」であるとしつつも、「尋常小学校ノ部分ニ当ル五年六年デ武道ヲ必修的ニヤラスノハ少シ行過ギ」とし、武道の基本形を体操に含め、実修学校部分では「随意科」、女子については「当分欠クコトヲ得」とすることを提案する2-264。この理由については、「体育ノ他ノ部分ヲ増進シテ置クト云フ方ガ良クハナイカ」2-264と述べている。これに対して、伊東(幹事長)は「武道カラ従来ノ体操ニモ精神的ニ好イ影響ヲ与エテ行カウ」2-265とこれまでの経緯を繰り返している。田所は、武道の正課導入によって武道に時間を割くよりは、体操、教練、遊戯に重点を置く方が発育の順序から適当ではないかと述べ、発育上の観点に立って五・六年から体操等を犠牲にして武道をやらせることの必要性がどこにあるか、出席していた岩原(体育課長)に問いただしている2-268 ~ 269。

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この点について、岩原は、武道導入によって時間数が追加されるのではないかと、曖昧な見通しを述べることしかできていない2-269。また、女子武道に関する研究は文部省では組織的に行なわれていないことも述べている2-276。女子に対する武道の取り扱いを取りまとめる段

階で、林(整理委員長)は「課セザルコトヲ得」を主張し、田所(特別委員長)は「課スルコトヲ得」を主張したため、両委員長の見解が分かれる2-275。最終的に、内容・指導者の状況を踏まえた実施可能性の見地および表記の整合性を踏まえて、国民学校については「第五学年以上ノ男子ニ課シ、女子ニモ之ヲ課スルコトヲ得」で合意し、国民実修学校については、必設科目として取り扱うことはせずに、「体錬科ノ武道ハ女子ニ在リテモ之ヲ課スルコトヲ得」で合意する2-276。女子武道の取り扱いを「課スルコトヲ得」と合

意したことは、実際的に科目として「課さなくてもよい」との見解を暗示したという意味で重要である。なぜなら、「国民学校令」ではこの点が「欠クコトヲ得」に修正され、課す必要性が強調されているからである。

6 .「全校体育」の案出と「国民学校ニ関スル要綱」案の審議

(1)「全校体育」の案出第12回整理委員会終了後、審議会は夏休みに入る。9月 4日に再開された第13回整理委員会から第17回整理委員会( 9月28日)の午前中までは、特に「体錬科」や体育的課題に関する一貫した議論は行なわれていない。その後、第17回整理委員会の午後から、「国民学校ニ関スル要綱」案の逐条審議が開始される。表 3 -中列に関連する部分を示す。まず、「児童ノ環境、土地ノ情況ニ応ジテ養護、

鍛錬ニ関スル施設及制度ヲ整備拡充スル」の条項に関する審議は、第18回整理委員会にて行なわれる。この条項について、藤野(幹事)は、これまでの審議を踏まえて総括的に記述したことを説明

する3-324。この説明を受けて、後藤は具体的な記述を例示するよう要請し、香坂が同意する3-325。一方で、田中は「児童ノ品性ヲ陶冶スルト同時ニ体位ノ向上ヲ図ルガ為施設及制度ヲ整備拡充スルコト」3-326に修正することを提案する。続けて、佐々井が「精神修練」という用語を使用し、「体位ノ向上ニ付キ一層其ノ実ヲ挙グル為」を冒頭に追加するという対案を示す3-326。最終的には、林が「身心一如ノ鍛錬ヲヤルト云フ強イ意味ヲ冒頭ニ加エ」、修正案を検討するよう文部省側に差し戻して、合意を留保している3-326。そして、修正案は、5日後の第19回整理委員会で以下のように提案される3-330。

一 身心一体ノ訓練ヲ重視シテ児童ノ養護、鍛錬ニ関スル施設及制度ヲ整備拡充シ特ニ左ノ事項ニ留意スルコト(一)都市児童ノ為校外学園等ノ施設ヲ

奨励スルコト(二)全校体育、学校給食其ノ他ノ鍛錬

養護施設ノ整備拡充ヲ図ルコト(三)学校衛生職員ニ関スル制度ヲ整備

スルコト

修正案の趣旨は、招聘された岩原(体育課長)が説明している3-331 ~ 335。まず、岩原は、この条項が体錬科とは別様であるとの認識に立ち、積極的に児童の体力増進・体位向上のために、至急実施すべき三点を審議内容に基づいてまとめたことを述べている。特に「全校体育」については、新たに創作された造語であるとしつつ、「全職員全生徒ガ一体トナツテ一定ノ時間或ハ一斉ニ体育ニ従事スル」とし、趣旨の理解を求めている。「全員体育」ではなく「全校体育」とした理由は、「全校ガ一体トナツテ鍛錬ニ励ムト云フ思想ヲ現ワス為」としている。説明直後に、三国谷は、だしぬけに提示されたものをその場で決議することは困難ではないかと咎めている3-336 ~ 338。このことについては、藤野(幹事)から、全く新しい内容についての審議ではな

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く、これまでの委員会での意見を取りまとめたものを示したとして理解を求めている3-340 ~ 341。そのため、本条項の審議では、全体として趣旨は賛成するが、名称などの細部に疑義を呈す程度となる。「全校体育」については、「普通解釈致スモノト違ツタモノ」(三国谷3-337)、「新シイ言葉デ熟シテ居ラヌ」(下村寿一3-342)としつつも対案を示すにはいたっていない。また、岩原(体育課長)が再度、「全校体育」は「比較的実行簡易ニシテ効果ノ非常ニ多イモノ」3-340として理解を求めている。最終的には、「着想ハ非常ニ良イト思フ」(下村寿一3-342)といった賛意(佐々井3-343 ~ 344、田所

3-347)が示され、三国谷3-351も最後には同調する。「全校体育」という新しい用語の例示は、「体錬」と同様に文部省の主導で提案されている。この背景には、田所(特別委員長)が、第12回整理委員会で、発育上の観点から体操等を犠牲にして武道をやらせることの必要性を岩原に問いただした発言が、少なからず影響したのではないかと推察される。すなわち、体操・衛生等の合理的な体位向上に関わる正課での内容が、武道の正課導入によって縮小されることも懸念されたため、課外教育で補てんするために「全校体育」が案出されたと考えられる。少なくとも、「全校体育」の例示は、課外教育とはいえ、体育的活動の全体的な時間数を増加・確保する提案であった。また、「全校体育」の内容は規定されていないが、武道も念頭に置かれている3-333。「体錬科」の審議内容を踏まえれば、「全校体錬」とすべきであったと考えられる。しかし、条項が「体錬科」とは別様との認識があったため「体育」という用語を使用したと推察される。最終的には、修正された条項は、教科案とともに原案通りに整理委員会で承認される3-393 ~ 399。

( 2)「国民学校ニ関スル要綱」の可決整理委員会で決議した「国民学校ニ関スル要綱」は、第21回特別委員会に提出されるまでの間に、一部が修正・変更されている。体育的課題に関する条項や「体錬科」に関する文言についての変更はない。唯一、先述の条項「身心一体ノ訓練を重

視シテ・・・」に「九」の項目番号が付されている。また、「(一)都市児童の・・・」が第30回整理委員会(11月25日の午前中)の審議を経て第23回特別委員会(同日午後から)で「(一)特に都市児童の・・・」に修正されている。一方で、「教科案」は、第22回特別委員会で審議される。「体錬科」については、西村房太郎が、国民学校の児童に対しては「鍛錬ヲスルト云フコトガ必要デアルト同時ニ、衛生、保健、養護ト云フコトモ必要ニナツテ来ル」として、教科名を「体育科」とすることが妥当であると指摘する特6-114。すなわち、衛生的内容を含めるならば、「体錬科」ではなく「体育科」とすべきであると表明する。これに対して、林(整理委員長)は、「体育科」という用語は「身体ヲ通シテ教育ヲスル」という意味を体現するため望ましいとしつつも、「国民ノ錬成」という趣旨を重視し「身体ヲ鍛錬スルト共ニ精神的ノ訓練モヤル」ため「体錬科」となったことを説明し理解を求めている6-115。加えて、内容構成については、「武道精神」と「体操的ナモノ」をまとめたとしつつ、衛生は論理的な教科目配列からして妥当ではないが、「衛生ニ依ツテ身体ヲ丈夫ニシナケレバナラヌノデ、外ニ入レル所ガナイモノデスカラ、一番近イノガ此ノ辺ダラウト云フノデ、此ノ中ニ入ツタ」6-115と述べている点は注目される。ただし、ここまでの初等教育に関する審議において、衛生の位置づけが対立的に議論された形跡はない。ここでは、「体錬科」を統合的な教科として成立させることの問題と限界が暗示されていたといえよう。最終的に、第23回特別委員会で「国民学校ニ関スル要綱」案が決議され、字句の修正を経て第10回総会に諮られ、原案が全会一致で可決される。確認のために、関係する原案を表 3-右列に示す。

まとめにかえて

本研究の目的は、教育審議会における審議を中心として、国民学校「体錬科」の構想過程を明らかにすることであった。すなわち、教育審議会で

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表3 第11回整理委員会から第10回総会における関連条項および教科構成案の変遷

註1

: 整2-214~215、245。整3-273~276。総5-4~8から引用者が作成。

註2

: 下線は引用者による。

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の初等教育に関する審議を「体錬科」創出の初期成立過程と位置づけ、審議展開に沿って、審議内容を精緻に抽出し、「体錬科」の構想過程を詳述することであった。審議展開に沿って記述することで、「体錬科」の構想過程を構造的に把握することができた。また、審議内容を精緻に抽出することで、議論の対立点を明らかにすることが可能となった。以下、本稿をまとめつつ今後の課題について述べる。教育審議会の開始時における体育的課題は、「体

位ノ向上」とそれに関連する振興策が第一義であった。総会(第 1 ~ 8回)では、体位低下に関する原因が多岐にわたって示され、振興策も対象や方法を限定しない意見が提示されている。続いて、特別委員会(第 1 ~ 8回)では、対象が初等教育に限定されたため、義務教育年限延長の根拠および内容として「体位ノ向上」が表明される。具体的な振興策としては、教科外の活動を重視する意見が出された一方で、体育的活動を抑制する意見や体育に精神的要素を求める意見の萌芽を確認できる。状況が急変したのは、第 5回整理委員会におい

て「幹事試案」が提示されてからである。この試案から初等教育段階における正課体育を中心とした審議が展開される。「幹事試案」で特筆すべきは、一つは「体錬」という新語の創出によって「体操」という用語を消滅させている点である。もう一つは、教科名を「体育科」とし、武道や衛生を新たに位置づけて統合的な教科を構想している点である。ただし、「武道科」や「衛生科」を新設せずに「体育科」に統合せざるを得なかった提案は、後の修正審議にいくつかの対立点を顕在化させることになる。「幹事試案」の修正過程で重要な争点は教科名称と「武道」の位置づけであり、両者は不可分な問題であったと考えられる。教科名称については、「体錬」という用語を案出時の意図から変針し「体錬科」を採用している。この背景には正課体育にも精神的要素・訓練を含ませたい思惑が少なからず作用し、このことを体現する明示的な内容が「武

道」であった。そのため、「体錬科」という教科名称の採用は、結果として「武道」の正課導入の原拠として作用したと言えよう。ただし、この武道精神を背景とした正課体育の確立という「体錬科」構想は、「武道」の内容・方法・指導者などの実質的問題を不問に付していたため、「皇民科における武道」論や「教練と武道の結合」論といった異論を制御しなければならず、禍根を残す結果となっている。また、時間的な制約がある正課においては、「武道」の正課導入が必然的に「体操」と「衛生」の矮小化をもたらし、「体位ノ向上」という本質的課題と齟齬をきたすとの懸念を抱かせるものであった。唯一、「武道」に関して妥協的に合意されたのが、女子武道の取り扱いを「課スルコトヲ得ルコト」と明記することで、実際的に科目として「課さなくてもよい」との見解を暗示した点である。「体錬科」の構想過程における審議上の課題は、正課体育において「体位ノ向上」に対する方策を明確に反映できなかったことである。そのため、課外体育の拡充を具体的に明示することで整合性を図らざるを得なかったと考えられる。つまり、「全校体育」という新語を審議終了直前に案出することで身体運動を量的に保障し、「郊外学園」・「学校給食」・「学校衛生職員」と併記して提示することで質的・施設的に担保するよう企図している。ただし、これらの内容は、「体錬科」構想から見れば付帯条項的であり、その後の法整備過程や現場での対応を踏まえつつ精査する必要がある20)。今後の課題としたい。

注および引用・参考文献

1 )木村吉次「戦前・戦時下の学校体育行政」『教育課程(各論) 戦後日本の教育改革 第七巻』東京大学出版、1969、p.374。加賀、「日本の総動員体制下の学校体育とスポーツ」梅根悟(監)『世界教育史体系 31 体育史』大日本印刷、1975、p.342。入江克己『日本ファシズム下の体育思想』不昧堂出版、1986、p.148。

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2)佐久間康「戦時体制下における小学校の『武道』教育に関する研究―体育教材としての『武道』の採用について―」『東京経営短期大学紀要』第 2巻、1994、pp.111-122。野村良和「国民学校令期の学校衛生に関する研究―体錬科『衛生』の史的役割の検討を中心に―」『筑波大学体育科学系紀要』第24巻、2001、pp.97-105。鈴木明哲「戦時下における教練の変容」『東京学芸大学紀要 芸術・スポーツ科学系』第62巻、2010、pp.31-37。七木田文彦『健康教育教科「保健科」成立の政策形成 均質的健康空間の生成』学術出版会、2010。鈴木明哲「太平洋戦争下の航空体育―戦争と体育の直接的関係―」阿部生雄(監)『体育・スポーツの近現代―歴史からの問いかけ―』不昧堂出版、2011、pp.187-200。3 )小沢熹「教育審議会に提出された小学校制度改革に関する幹事試案」『東北大学教育学部研究年報』第16集、1968、pp.197-220。同前「教育審議会幹事試案の修正Ⅰ」『同前書』第17集、1969、pp.79-89。同前「教育審議会幹事試案の修正Ⅱ」『同前書』第18集、1970、pp.53-66。4 )八本木浄「教育審議会に於ける国民学校教科課程案の成立」『山形女子短期大学紀要』第2集、1968、pp.155-183。5 )桑原和美、西村絢子「戦前・教育審議会で扱われた体育問題―初等・中等教育について―」『就実論叢』第16号其の二、1986、pp.35-49。6 )米田俊彦『教育審議会の研究 教育行財政改革 ―付 国民学校・幼稚園審議経過―』(野間教育研究所紀要 第44集)野間教育研究所、2002。7 )野間教育研究所所蔵「国民学校師範学校ニ関スル教育審議会要領」に綴られている「第三回」から「第八回」まで。8)東京大学大学史史料室所蔵、西村房太郎関係資料「国民学校師範学校ニ関スル教審委員会意見要領」に綴られている「第七回」から「第十九回」まで。9)教育審議会に関する基本的な情報は、次を参照した。清水康幸ほか(編)『資料 教育審議会(総説)』(野間教育研究所紀要 第34集)野間教育

研究所、1991。10)第 1 ~ 8回総会は初等教育に限定された審議ではなかったが、直後に初等教育を対象とした特別委員会が開催されているため、本研究でも取り扱うこととした。11)この時期の「体位」は、体格に加えて体質、健康状態、体力などの広範な概念であることが指摘されている。安倍弘毅「遺伝と国民体位の向上」『教育学全集10 身体と教育』小学館、1968、p.348。12)この要求に対しては、第 8回特別委員会において岩原拓(文部省体育課長)が招聘され、身長・体重・胸囲、その他に児童・生徒の各種疾病状況の説明を行なっている特2 -142 ~ 150。なお、岩原は、委員および幹事ではなく「番外」という位置づけである。本研究の範囲内では、特別委員会の第 8・22回、整理委員会の12・19回に出席が確認できる。13)「第五回整理委員会ニ於テ提出セル幹事試案」

整1-233 ~ 236として会議録に添付されているが、本項では野間教育研究所所蔵の「国民学校、国民実修学校要項」の原本を参照した。14)「幹事試案」は伊東延吉(文部次官)と思想を同じくする数名の官僚によって秘密裡に立案された私案であることが指摘されている(久保義三『新版 昭和教育史―天皇制と教育の史的展開―』東信堂、2006、p.417)。なお、伊東については次も参照のこと。前田一男「『教学刷新』の設計者・伊東延吉の役割」『近代日本における知の配分と国民統合』第一法規出版、1993、pp.368-388。15)たとえば、1928年の体育運動主事会議では、教科名を「体操科」から「体育科」に変更することが建議されている。文部大臣官房体育課『体育運動主事会議要録 自大正十三年度至昭和十四年度』1940、p.89(木下秀明『社会体育スポーツ基本史料集成』第19巻、大空社、1993)。また、1930年の体育運動審議会答申では、教科名称を変更することが適当である旨の説明がなされている。文部大臣官房体育課「体育運動ノ合理的

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振興方策ニ関スル件答申並特別委員長説明要旨」、1932、p.25。(国立国会図書館デジタルアーカイブ参照)。さらに、1937年 7 月の「茗溪会教育制度調査部案」では、国民学校高等科において教科名として「体育科」を採用し、教科内容として「体操・競技・教練・武道・水泳・衛生」を掲げている。文部省教育調査部『学制改革諸案』1937、p.159。

16)第 6回整理委員会において、「練成」と「錬成」、あるいは「鍛錬」と「鍛練」についてやり取りがあったが結論は示されていない整1-241,263。しかし、伊東は議論の結果として「体錬」の「レン」が「錬」となったと回答している特5-77。17)文部省教育調査部審議課「教育審議会諮問第一号特別委員会第九回整理委員会審議要領」pp.3-4。18)この懇談会については、審議の経過および発言者が明らかにされていない。なお、本項の懇談会部分は、全て次の資料からの引用である。文部省教育調査部審議課「教育審議会諮問第一

号特別委員会第九回整理委員会審議要領」pp.15-24。19)文部省教育調査部審議課「教育審議会諮問第一号特別委員会第十二回整理委員会審議要領」p.3。20)岩原は「国民学校ニ関スル要綱」が総会で可決された直後の『小学校体育』の紙面上で「時局下に於ける全校体育の提唱」というタイトルで執筆を行なっている。岩原拓「時局下に於ける全校体育の提唱」『小学校体育』第 4巻第 1号、1939、pp.4-5。

〔付記〕本研究は,科学研究費補助金・若手研究(B)

(24700682)の助成を受けたものである。

〔謝辞〕本研究の遂行にあたり、東京学芸大学の鈴木明哲先生に多大な協力をいただいた。記して謝意を表します。