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はじめに ドイツのボン大学には,いわゆるトラウツ・コレクションという 1936 年当時日本する資料所蔵されている。フリードリヒ・マクシミリアン・トラウツ(1877 1952 )は, 第一次大戦参戦後,ベルリン大学日本卒塔婆する論文いて博士号取得し, 1927 年日本研究所(ベルリン)所長1934 京都ドイツ研究所(または日独文化研究所 Deutsches Forschungsinstitut in Kyoto所長などを歴任した人物である。九州沖縄サミット 2000 )で,当時のドイツ首相シュレーダーが宮古島れたことをきっかけとして,こ のトラウツ・コレクションが周知されるようになった。ボン大学はこの資料をアーカイ することに着手し,宮古島市接触めた。現在このアーカイヴ化事業は,東京大学 馬場章研究室との協働められている 1) このトラウツ・コレクションの特筆すべきことのひとつは,1969 11 1 開催 され,これまで国内映像資料番組)として宮古島最古映像われていた NHK当時 本土復帰前OHK日曜日昼放映番組「のど自慢」より 30 年以上前という映像れていたことである。この映像存在は,トラウツ・コレクションをしく紹介しているヨ ハネス・ 春水 ・ヴィルヘルムのシンポジウム資料中でも「式典記録動画2とあるだけで, その内容についてしくじられたものはなかった。 しかし,現市長下地俊彦氏宮古島教育委員会尽力により,この映像提供され,『良市史』の編纂委員長であった仲宗根將二氏一般社団法人 ATALAS ネットワークのメン バーとのいので,ある程度まで,その内容らかになった。 この論文目的は,仲宗根氏解説がかりに,この映像にある内容撮影手法分析し,当時国際情勢視野れながら,片岡宮古島出身映像制作わって きた宮国映像資料価値検討することにある。 ・ロベルトソン号遭難事件とドイツ皇帝博愛記念碑建碑 1936 11 14 から 16 にかけて,宮古島でドイツ皇帝博愛記念碑建碑 60 周年式典 15 宮古島最古の映像に関する一考察 片岡 慎泰宮国 優子

宮古島最古の映像に関する一考察宮古島最古の映像に関する一考察 が開催された。この式典がおこなわれるきっかけの事件となったのは,1873

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  • はじめに

    ドイツのボン大学には,いわゆるトラウツ・コレクションという 1936年当時の日本に関する資料が所蔵されている。フリードリヒ・マクシミリアン・トラウツ(1877年~ 1952年)は,第一次大戦に参戦後,ベルリン大学で日本の卒塔婆に関する論文を書いて博士号を取得し,1927年日本研究所(ベルリン)所長,1934年に京都ドイツ研究所(または日独文化研究所 Deutsches Forschungsinstitut in Kyoto)所長などを歴任した人物である。九州沖縄サミット(2000年)で,当時のドイツ首相シュレーダーが宮古島を訪れたことをきっかけとして,このトラウツ・コレクションが広く周知されるようになった。ボン大学はこの資料をアーカイヴ化することに着手し,宮古島市と接触し始めた。現在このアーカイヴ化事業は,東京大学馬場章研究室との協働で進められている 1)。このトラウツ・コレクションの中で特筆すべきことのひとつは,1969年 11月 1日に開催

    され,これまで国内映像資料(番組)として宮古島最古の映像と言われていた NHK(当時は本土復帰前で OHK)日曜日昼の放映番組「のど自慢」より 30年以上前という映像が遺されていたことである。この映像の存在は,トラウツ・コレクションを詳しく紹介しているヨハネス・春水・ヴィルヘルム氏のシンポジウム資料中でも「式典の記録動画」2)とあるだけで,その内容について詳しく論じられたものはなかった。しかし,現市長下地俊彦氏,宮古島教育委員会の尽力により,この映像が提供され,『平

    良市史』の編纂委員長であった仲宗根將二氏と一般社団法人 ATALASネットワークのメンバーとの話し合いの中で,ある程度まで,その内容が明らかになった。この論文の目的は,仲宗根氏の解説を手がかりに,この映像の中にある内容や撮影手法を

    分析し,当時の国際情勢を視野に入れながら,片岡と宮古島出身で映像制作に長く関わってきた宮国で映像資料の価値を検討することにある。

    Ⅰ・ロベルトソン号遭難事件とドイツ皇帝博愛記念碑建碑

    1936年 11月 14日から 16日にかけて,宮古島でドイツ皇帝博愛記念碑建碑 60周年式典

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    宮古島最古の映像に関する一考察

    片岡 慎泰・宮国 優子

  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    が開催された。この式典がおこなわれるきっかけの事件となったのは,1873年(明治 6年)7月シナの福州からオーストラリアのアドリードに茶葉を運ぼうとしたドイツの商船ロベルトソン号が,宮古島に座礁して島民に救出された出来事である。「宮古学の父」と言われる慶世村恒任は,以下のように述べる。

    「明治六年七月獨逸國の商船エル・イ・ロベルトソン號が,下地村の宮國近海で坐礁難破したが,島民は激浪怒濤を冒して,船長ヘルンシャイン以下の船員を救い出した。而して之を歡待するこ 三十四日の後那覇に送致して皈國せしめた。獨逸皇帝は之を聞召され,島民の仁慈博愛の心あるを嘉みし,大いに感恩の情が起り,永く之を記念せんが爲め,明治九年(皇紀二五三六)五月軍艦を派遣して漲水港頭の小屋毛に石碑を建設せしめた」3)。この難破事件とその後の石碑建設,ならびにその後に開催された建碑 60周年式典行事に

    関しては,これまで多くの言及がされてきた。しかし,博愛記念碑建碑 60周年式典の具体的内容について映像資料に基づき,公的に詳細に分析し発表された文献は,筆者の調査するかぎり存在していない。まず,ロベルトソン号事件の概要ならびに「ドイツ皇帝博愛記念碑」の建立の経緯につい

    て,辻朋季氏(明治大学)の論文 4)を援用しながら,述べることにしたい。ドイツ商船ロベルトソン号は,1870年から貿易事業を始めたエドゥアルト・ヘルンスハイムが,兄のフランツと 1972年に東アジアーオーストラリア間の物資貿易をおこなうために購入した 2艘目の船である。彼は,この商船を買った年にすぐさまカルディブで石炭を積み込んで,香港でこれを売却し,引き続き福州で茶葉を積んでオーストリアのシドニーへ運んだ。この時,ヘルンスハイムは東アジアから南洋諸島を経てオーストラリアまでの地域が,大きな商業的成功を収めるポテンシャルをもっているのに気づく。そこで翌 1873年 7月 3日にシナの福州で茶葉を仕入れ,オーストラリアのアデレードに向かい出航した。しかし黄海上を航行中に台風に遭い,7月 9日に宮古島の宮国沖で難破した。乗員数は合計 10名で,ドイツ人が 8人,シナ人が 2名いた。なおドイツ人の 1名は女性である。ドイツ人 2名は海に投げ出され溺死し,3本のマストの内 2本は損傷し,倒れたマストでドイツ人 2名とシナ人 1名が負傷した。航行不能になったロベルトソン号は,海流の関係で 7月 11日夜に当時シナから太平山と呼ばれていた宮古島に座礁する。生存中の乗組員は,翌 12日同島の島民により救助される。最初は宮古島宮国村の島民と考えられていたが,現在では宮古島本島ではなく,伊良部島の佐良浜の漁民に救助されたことが判明し,記念碑も建っている。さて,宮国村の役所である番屋の周りに作られた仮屋にロベルトソン達は収容され,飲食

    の提供を受ける。他方,島の役人は飛脚をとばして,「首里王府」にドイツ人救助の経緯を報告するととともに,ロベルトソン号に代わる官船の貸与を求めた。しかし,再度の要請も首里王府から回答はなく,ドイツ人側から何度も帰郷の申し出があったため,宮古島に停泊していた琉球藩の官船を島の役人は自らの判断で乗組員に供与した。8月 17日に,ドイツ人ら乗組員は,宮古島を出発し,台湾の基隆に向かった。37日間の滞在は,「博愛美談」と

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    いう名で後に語られることになる。そのきっかけは,ヘルンスハイムから海難事故と救助の顛末を聞いた在香港ドイツ領事

    が,1873年 9月にベルリンの外務省に報告したことである。その後,シュトラースブルガー・ツァイトゥンク紙でヘルンスハイムの体験談が掲載され,ドイツでもあまねく知られることとなった。そこでドイツは,時の皇帝ヴィルヘルム一世の名で,宮古島民の救助を顕彰することにし,現地に記念碑の建立を決定した。普仏戦争の勝利後,国民国家として出発し,高揚期を迎えていたためであろう,すぐさまこの決定は実現化した。上海でドイツ語および中国語でヴィルヘルム一世の謝辞が刻まれた二枚の大理石が,フォン・ライヒェ海軍少尉(Lieutenanf)を艦長とする軍艦チクロープ号によって,琉球の那覇を経由し,宮古本島に到着したのは,1876年 3月 16日朝のことである。フォン・ライヒェは,到着後すぐに碑の建立場所の選定にとりかかり,ロベルトソン号の乗組員が上陸した地点の近くの小高い丘の上に決めた。翌日からすぐに作業に移り,20日には礎石を埋設し,ヴィルヘルム一世の誕生日である 3月 22日に記念碑を建立して除幕式を開催した。その際,島の役人 6人に望遠鏡や懐中時計が贈られた。その後,記念碑が語るはずであったロベルトソン号をめぐる「博愛美談」は,歴史の闇に

    消え去っていく。それを自然な「忘却」と呼ぶか,意識的な「隠蔽」と呼ぶか,あるいは他の理由に求めるか,今後の研究が俟たれるところである。ともあれ,この石碑が「再発見」されたのは,1929年に日本勧業銀行那覇支店店長松岡

    益雄が宮古島に旅行した際に,趣味の拓本をしていたところ,偶然見つけた時に始まるとされる 5)。その後,日本が大恐慌から軍国主義に向かう中で,ドイツと接近し,1936年ドイツ皇帝博愛記念碑の建立 60周年という「節目」に, 11月 13日から 15日まで博愛記念碑建碑 60周年記念式典が盛大に挙行された。日独防共協定が結ばれる旬日前の式典であった。 宮古島では宮古教育部会が主催し,関西在住の沖縄県出身有志による期成会と提携して式典の準備が進められた。後援には外務省,日独協会,日独文化協会,京都ドイツ研究所,大阪朝日新聞社,大阪毎日新聞社等が参加した。

    1936年 11月 13日~ 15日の記念式典を含む予定されていた事業は,以下のとおりである 6)。一 慰霊祭二 救助者並に遺族に記念品贈呈三 宮国海岸に記念碑建立四 日独文化講演会五 遺物並に関係品展覧会六 式典 活動写真撮影七 普通写真撮影八 記念冊子発刊記念式典そのものは,14日午前,平良・西里のドイツ博愛皇帝記念碑の前で始まり,日

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    本側は広田弘毅首相をはじめとする,内務,外務,文部大臣の祝辞,ドイツ側は,駐日大使代理,トラウツ博士夫妻等が出席して,外務,海軍大臣の祝辞を披露した。内容は宮古の「博愛」と「日独親善」を強調したものであった。午後は宮国海岸に移り,大阪で制作した近衛文麿揮毫の「独逸商船遭難之碑」の除幕式を催した。この模様は,日本全国に報道された 7)。当時の時代背景を思い合わせると国策の一環のように考えられるが,実際に当時の沖縄振

    興費の内訳には,この式典のための予算が特別に付けられていない 8)。この式典の開催に大きな役割を果たした人物は,宮古島出身で大阪の計理士だった下地玄信と岡崎出身で沖縄高等師範学校の校長であった稲垣國三郎である。日独防共協定の直前で,日独交流の式典とはいえ,民間人への監視が強められつつあった時代に,二人は驚くべき行動力でこの式典の開催に奔走した。たとえば,この式典の提唱者とされる稲垣國三郎は,「博愛の日」の 1月 25日に合わせて宮古島を訪れて,「久松五勇士」に関し各地を講演し,またロベルトソン号遭難の目撃者から当時の聞き取りをおこなうなど宮古本島での地ならしをしていたようである 9)。下地玄信は,1936年 5月中旬に外務省,陸海軍省の三省を訪問し,各省の協力をとりつけ,すぐに大阪に戻ると,主催や実行委員会のメンバー,後援者をとりつけている 10)。しかしながら,二人の真のモチベーションがどこにあったのかは今のところ判明せず,今後の研究を期待したい。本稿では,現在調査や聞き取りができた範囲内で,映像資料の解説と分析をしながら,三

    日間にわたる式典の経過を現存する文献資料とつき合わせて,論を進めることにする。

    Ⅱ・当時の映画制作やフィルムを取り巻く状況について

    まず,映像資料の背景として,当時の映像文化を知るために,この資料を映したカメラやフィルムの特定をすることから考察を始めたい。この映像はフル画面になっており,エッジが切り取られているため,残念ながらフィルム本体からカメラの特定はできない。また通常は,フィルムはケース保存されており,ケースに技術的な記載がされている。しかし,ケースそのものを確認することができなかったため,ドイツ皇帝博愛碑の建立 60周年を映像に残したカメラの詳細はわからない。すなわち,通常あるはずの製造マークや製造記号もないこのデジタル映像からは,どのカメラで撮影したかについては,一切情報が得ることができない。

    そこで,当時の映画産業を知る岡田秀則氏(東京国立近代美術館 フィルムセンター主任研究員),ならびに長年映画産業に携わり,1990年代にフィルムのデジタル化初期の現場で活躍した松崎みどり氏から話をうかがう機会を筆者はもった。岡田氏は映像資料を見て,開口一番「映画用大型カメラではない」と断言された。当時の

    大型カメラの技術者は各会社が専属で雇用しているため,カメラマン個人で依頼を受けることはできないとのことである。当時,個人撮影は「小型映画」と呼ばれ,セミプロレベルのカメラマンが多数いた。小型カメラの愛好者が愛読する雑誌として『パテシネ』と『ベビー

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    シネマ』が刊行されており,アマチュア映画愛好家は,日本全国で,好事家の集う団体を結成していた。これらの雑誌を読むと,撮影技法の記事も散見され,撮影のコツを発表する場になっており,また誌上において交流の様子も掲載されている。さらに,コンクールも含めた形で小型カメラの愛好者が発表する機会もあった。そこでの話題の多くは「文化映画」についてである。岡田氏によれば,「1930年代後半が文化映画隆盛期だった」そうである。「文化映画」とは,いわゆる「劇映画ではない映画」を指して「教育映画」や「記録映画」を意味する。

    1920年代から 30年代は,フランスのカメラで撮影される 9.5ミリフィルムやアメリカのカメラで撮影される 16ミリフィルムが主流であった。岡田氏によれば,記録映画と呼ばれる分野では,小型カメラを用いたことも多かった。また,当時はカラーフィルムも発売されていたが,一般のアマチュア映画愛好家が普通に使用することは,値段の関係からできなかった。「映像がモノクロであることからも小型カメラの可能性が高い」とのことである。他方,松崎氏は,映像資料を見て,パンするシーンのスピードに注目された。パンとはカメラを左右に振る技術のことであり,「極めて技術的に難しい」。そして「ある程度カメラの水平を保ち,この映像には画面に合ったサイズの映像美があることから,このカメラマンは撮影の初心者ではなく,かなり撮影技法に心得のある人」であると語った。松崎氏は,日本の民放テレビをはじめ,教育記録映画などで数多くのフィルムを編集した人物である。「この映像はゆったりとした広いサイズで,三脚を用いていないにもかかわらず,カメラをぶれさせていない。斜めから撮影する画角や角力の土俵全体を狙っているショットは,プロらしい落ち着いた雰囲気がある」と続けた。現在の映像業界においてフィルムを使用した映像は,テレシネをするのが必須である。テ

    レシネとは,フィルムをビデオ信号に変換し,デジタルデータに変更することである。今日では,フィルムで撮影される番組は少数になっているが,過去のフィルムのリマスターを含め,テレシネの技術は向上し続けている。資料 2は,松崎氏の 1990年代の編集作業用メモである。「テレシネ」や「キネコ」,「ムー

    ビートーン」という言葉が並存していることからわかるように,デジタル黎明期に,関係各社がアナログからデジタル化する方法を試行錯誤し,混乱した様子がうかがえる。資料 1の映写時間早見表や資料 3のフィルムの相違の理解がフィルム編集者として必須の知識であった。同じように,ドイツ皇帝博愛記念碑建碑時代における 16ミリフィルム,9.5ミリフィルム,8ミリフィルムの混在は,フィルムの黎明期ならではの現象といえよう。後にフィルムは,8ミリが個人撮影の主流になったように,「テレシネ」と呼ばれる技術が主流となった。日本カメラ博物館発行『なつかしのホームムービー展』の「16ミリフィルムは,小型ムー

    ビーの中では画面サイズが大きく,画質を重視した映画撮影に使用された。そのためのアマチュアに限らず,プロ用のフォーマットとしても今日まで活躍してきた。なお,パーフォレーションは初めフィルムの両端に設けられたため,画面自体の幅は 10ミリ程度となってい

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    る。これに対し,9.5ミリフィルムは,パーフォレーションがフィルムの中央,画面のコマ間に 1つずつあり,フィルム幅の割りに大きな画面サイズを持っていた。日本では『九ミリ半』と呼ばれ,16ミリに比べフィルムが安価で入手できたこともあり,多くの愛好家を誕生させたが,次の 8ミリの登場以降,次第にその影は薄くなっていった」11)という記述からフィルムの変遷の背景が見えてくる。映像が,映画撮影から個人撮影まで広がりをみせた 1930年代に,ロベルトソン号 60周年式典映像は撮られたものである。映像で記録を撮りたいとトラウツ博士や下地玄信らが発案したのも,至極自然な流れであると考えられる。トラウツ・コレクションの中には,カメラマンの渡航費が捻出されている資料が現存することからも,この映像が式典を意識的に記録として残そうとしたものと考えられる。しかし,当時はまだ高級品だったカメラをどのように入手し,フィルムを購入し,カメラマンに撮影依頼したかを示す資料は見つかっていない。また,音声が残されていないことから,録音技師の手配がつかなかったことがわかる。なぜなら録音技術者は映画業界においてのみしかスペシャリストがいなかったからである。岡田氏は「音声も採取されておらず,その様子もないことから劇映画ではなく,記録映画,記録映像として撮影されたものであろう」と語った。同様に松崎氏も「フィルムに傷が少なく,とても綺麗な状態なので,上映したとしても何度も上映したとは思えない。ほとんど素材フィルムに近い状態」であると述べた。東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵する 1936年頃のアマチュア映画愛好家の雑誌『パテシネ』を調べても,音声に関しての記事はきわめて少ない。そもそも,この映像には冒頭タイトルも最終エンドクレジットないことから,作品として

    は成立していない。商業用である場合は,通常何らかのテロップ処理などがおこなわれる。この映像は,「いわゆる素材そのものに近い状態で,またそれ故にその価値が高いと考える」とフィルム編集歴三十年近くある松崎氏は感想を述べた。「映写機に頻繁にかけていないこ

    資料1 資料2 資料3

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    とから,フィルム自体の痛みも少ない。それが現存する同年代の映画より,クリアなデジタル映像として保存できた最大の理由ではないか」と岡田氏も同様の見解を示している。当時の日本は軍国主義の時代であり,映像には検閲の手が入った。岡田氏は「検閲をおこなった理由は,公開用を前提にしている」と語っている。他方,松崎氏は,検閲を済ませたとしても「フィルムがカットされている痕跡がないため,これが素材のほとんどであろう」という判断であった。

    Ⅲ・映像資料の検討

    さて,トラウツ・コレクションの映像資料の検討をおこないたい。フィルムは,冒頭の 5秒は黒味が入っており,最終の 04:14まで,映画的なシーンの数え方から行くと,22シーン,カット数は 47カットある。「同じポジションから撮ったカットも多いが,時間差でカメラのスイッチを入れたり切ったりしている」と松崎氏は話す。カットの間には,2種類の黒味と白味が混じったものが入っており,ひとつは同位置からのカメラの電源のスイッチをオンオフした技術的なもので,もうひとつは場所を移動した事や日付が変わったことによるものであると思われる。その際は,画面全体に大きく傷がついており,斜めや横の亀裂のようなものがある。

    資料 400:05から 00:29までは,ワンシーンといえる。資料 4のファーストカットは (00:05から

    00:14)港に待ち受ける島民らの映像から始まる。このシーンでは,カメラが右から左に大きく振られていて,港から町の様子までが撮影されている。子供を含めた島民がトラウツ博士をはじめ下地玄信らのために,いわば花道を作っている様子が映像に映し出されている。6人の制服の警官も撮影されていることから,警備が厳重だった様子がわかる。

    1936年 11月 14日付けの琉球新報の見出しが「埠頭にそびえる歓迎門ト博士一行無事着 漲水港頭に歓声挙る(十三日宮古支局発)」(12)となっており,13日の上陸の様子がわかる。

    資料4

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    「船は九時頃宮古に着いたが桟橋には宮古一流の名士が百名以上もずらりと並び埠頭には歓迎のアーチがたてられ桟橋から宮古支庁に至る四,五丁の沿道には男女小中学生徒並びに一般民衆が道の両側に並んで歓迎し宮古では空前の繁盛を呈した」とあることから,続くシーンが同日に撮影されたことがわかる。

    資料 5 資料 6港の岸壁まで人が立っており,宮古の当時の港湾の様子が記録されている。またサバニと

    呼ばれる小型ボートと中型の船舶が紐状のものでつながれて,撮影されている。大型船舶である湖北丸から先にマスコミを含めた映像カメラマンが,島にサバニや小型船で上陸したと思われる。トラウツ博士をはじめとする来賓らはまだ到着しておらず,またその到着の様子も撮影されていない。     「宮古博愛碑記念祭へ列席する多数の名士を乗せて那覇港を出帆した湖北丸は凪の航海に恵まれ」13)とあることから資料 5の丸印をした右手奥に見える船が湖北丸と推測される。

    資料5 資料6

    資料7

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    資料 7港は,現在と違い,すべて埋め立てされておらず,すぐに平良の町の大きな通りにつながっている。「手前に倉庫などがあり,港で商売をしていた寄留商人らがその土地の多くを活用していた。二階建ての建物も多くあり,大きな瓦屋根などを見てわかるように島の中心であった」と仲宗根氏は語った。『目で見る島尻・宮古・八重山の 100年』には「乗用車が入ったのは昭和四年で,それも少数の医者が使用するだけであった。客馬車が大正五年に現れたが,バスは昭和一二年に出たといわれる。(略)昭和初期の町の商店は統計によれば約四百軒で一番多いのが雑貨商一八四軒,理髪業が二一軒,上布洗濯二一軒,呉服商一一軒,飲食店一七軒,履物屋が九軒,小間物店が一〇軒で,少ないので書籍商三軒,映画館一軒となっている」14)とある。

    資料 8カメラの位置が変わり,2シーン目と考える。1シーン目に撮影されている場所より少し高台になっている。1シーン目の左手にいた市民らの真後ろから,当時の式典以外の船着き場を撮影している。そこにも倉庫および旅館などの大型の建物が見える。

    2ヶ所に島民らがおり,1ヶ所だけではなく,港の少なくとも 3ヶ所で市民らは歓待の準備をしていたことになる。しかし,その後は,現在の市役所あたりの映像に切り替わっており,トラウツ博士ら一行すべてが上陸する様子はこのシーンでは撮影されていないが,ヒルダ夫人が歓迎される様子は写されている。

    資料8

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    資料 9「 十三日湖北丸にて到着したトラウツ博士夫妻及二見事務官一行の賓客を迎えた宮古島では郡民小学児童多数が漲水港頭で盛大な出迎へ歓迎をなし発動機船競争や展覧会及び料理屋組合の余興及相撲等で一行は島の第一日を送り」15)とあることから,00:32~ 01:36まではその余興と思われる。場所は,仲宗根氏の指摘によると「現在の宮古島市市役所のあたり」である。「午后二時

    より宮古紹介舞踊を平二校校庭観覧,ト博士夫妻大満悦,下地村の棒踊クイチャーに武の国宮古を見,狩俣女青の根間の主,豊年の歌に博愛の情緒を窺ひ絶えず耳をそばだてゝ流暢な宮古の歌に聞きほれ(以下略)」16)とあるところから,現在の宮古島市市役所あたりにあった平二校であったという推測がたつ。平二校とは,正式名称は平良第二尋常高等小学校であり,現在の宮古島市立北小学校(宮古島市字西里 217番地)のことである。北小のホームページには「昭和 4年 平良尋常高等小学校を平良第二尋常高等小学校と改称し,字東仲宗根,字西仲宗根,字荷川取三か字の児童を就学させる」17)とある。

    1936年 11月 13日に行われた同余興の場所は,仲宗根氏によると,1929年に開校された平良第二尋常高等小学校である。現在では道路の拡張などによってはっきりとした場所が確定できないが,現在の宮古島市役所一帯であったことは間違いない。映像自体はロングショットで右から左にパンをおこなっている。「三日間に亘る大行事は本朝十時の発動機船競争を始めとし,午後二時より料理屋の手踊り,各字青年団の余興があって四時より講演会をなし夜は提灯行列と一行の歓迎会を月見亭に開く事になっている」18)という記述から,このフィルムが手つかずの素材であり,順番に撮影されてことを考えると「料理屋の手踊り」と考えられる。このシーンでは,一番左手には,尺八と思われるたて笛のような楽器を演奏している。その隣に当時の一般庶民の正装である着物を身につけ,手には「四つ竹」と呼ばれる房の飾りがついた楽器を両手に持ち踊っている女性達がいる。「四つ竹」とは,竹片を両手に二枚ずつ合わせたものである。手のひらで開閉することによって打ち鳴らし,拍子を取る。琉球舞踊には欠かせない楽器であり,民衆の楽器とも言われ下座音楽で

    資料9

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    用いられる。それに対して,中央より右手前列,日本風の晴れ着で手に日の丸を持ち,また旗を掲げている。その後ろに,琉球王府時代の王族や士族が着用した伝統衣装で,琉装と呼ばれる衣装を身につけた女性らがおり,一般庶民と違う振り付けで踊っていることが,その次のカットでは明確に区別できる。

    資料 10先のカットである資料 9の映像の続きである。踊り手達はクバガサと呼ばれる帽子状のも

    のに飾りをつけた,祭り用の帽子をかぶっている。また袈裟をはおり,手になんらかの楽器を持ち拍子をとっている。その隣の一団は,紋付きの着流しや祭り用のクバガサや日本風の網代笠をかぶっているも

    のもいるように見受けられる。鹿児島県,宮崎県の一部に伝わる刀を模した木刀を使った「刀踊り」もあることから,同種のものである可能性がある。「刀踊り」「棒踊り」は,島津藩が農民らに棒術を教え,他にも長刀や鎌を使ったと言われる。主に戦さに備えていたという説が主流である。刀踊りは,島津藩領であった薩摩,大隅,宮崎に残っている。現在,刀踊りは,鹿児島県曽於市の溝ノ口集落の踊り保存会によって継承されている。当時「料理屋の手踊り」のなかに刀踊りも披露されていたことがわかる 19)。

    資料10

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    資料 11カメラはこの市役所の冒頭シーンでは,2回とも右から左にパンしている。高い位置から

    の撮影であることや左手に写っている男性がカメラのようなものを手にしていることから(00:37~ 00:40)撮影用に最前列に場所を確保してあることがわかる。また,左手奥で踊っている最中に,次の踊りの準備をしている島民が見える。この後,各集落などの踊りが披露される。

    資料 12-A 資料 12-B資料 12-Aでは「棒踊り」を踊っている。現在,旧下地町の川満集落が継承しており,宮

    古島市指定の無形民俗文化財である。資料 12-Bの 2013年「第 49回青年ふるさとエイサー祭り」20)で,披露された川満の棒踊りの画像と比べてみると,同じ踊り方であることがわかる。だがコマ数の関係で映像資料の方が若干早く感じられる。川満の棒踊りは方言で「ぼう・っふ」と呼ばれ,厄払いの踊りとして,今も旧下地町の川満棒踊り保存会で継承されている。川満集落では,その時の由来が口伝えで残っている。「プーキ(疫病)」で死者が増えていく中,神からのお告げに導かれて「マムヌ(魔物)」を退治した。目に見えない「マムヌ」を村人

    資料11

    資料12-B資料12-A

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    が取り囲んで,棒で殴ったと言われている。無病息災を祈って,棒踊りが発生し,奉納するようになったと伝承されている。当時,種類は 2人棒,3人棒,5人棒,10人棒の 4種類あったが,2人棒と 5人棒しか残っていない。資料 12-Bの映像は 5人棒の踊りである。労働祭事,奉納芸としての側面もある。

    資料 13-A 資料 13-B 資料 13-Cこの映像では,音声がないので断定はできないが,踊りと衣装で旧下地町与那覇集落の

    「与那覇のヨンシー」ではないかと思われる。「午后二時より宮古紹介舞踊を平二校校庭観覧,ト博士夫妻大満悦,下地村の棒踊クイチャーに武の国宮古を見,(以下略)」21)という記述から下地のヨンシーであること,また,現在も同じように手を伸ばしたり,リズムに合わせて斜めに手を振り下げる振り付けであることから,現在と同じ与那覇のヨンシーと思われる。与那覇のヨンシーは,現在の国頭村奥間発祥の「国頭サバクイ(くんじゃん さばくい)」が元歌である。現在では,種子島,名護市と広く歌われ,木材を運搬するときに歌った労働歌である。各地域で元歌とは異なる歌詞になっている。琉球王朝時代は,その指揮にあたった

    資料13-A 資料13-B

    資料13-C

    27

  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    役人を「サバクイ」と呼んだ。現在は,浴衣にステテコを身につけ,クバガサに飾り花をする衣装がスタンダードとされている。他にも「保良ヨンシー」 22)などがある。資料 13-Cの写真 23)が現在の「与那覇のヨンシー」である。

    資料 14「宮国男女青年が民謡に合せて踊る豊年踊り,ネマーシュ(根間の主),棒踊り等の質朴な舞踊は人気を呼び博士一行はこれに見ほれ熱狂し(以下略)」24)から読み取ると,男女が踊っているシーンは宮国集落の舞踊であることがわかる。現在は宮古島では似たような踊りが見受けられないため,詳細は不明である。「クイチャー」のような動作も見られる。「宮国のクイチャーは,女の歌には男が,男の歌には女がそれぞれ交互に踊るという特徴をもち」(25)

    とあるように,男女の歌の掛け合いで踊る特色がある。またクイチャーの歌詞や節回しも宮国独自で,踊る際に持つ四つ竹にも通常より大きめの房飾りがついている 26)。

    資料14

    資料15

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    資料 15女性らが頭に布をまいて,踊る様子が映し出されている。「記念祭前奏曲賑やかに踊り抜く宮古の娘達=豊年祭と尾類馬行列=歓喜の一夜明けて」が見出しとなっている記事に「余興中,狩俣女子青年団八〇人余の妙齢の娘等が揃ひの元禄絣の姿もやさしく豊年踊りと『ニイマの主』を踊りぬいたのには来賓一同割れるが如き拍手を送り中には涙ぐむものさえあつた」27)とある。音声がないため,はっきりとはわかならないが,その一部の映像であることは確かであろう。また「狩俣女青の根間の主,豊年の歌に博愛の情緒を窺ひ絶えず耳をそばだてゝ流暢な宮古の歌に聞きほれ」28)とあることから狩俣女子青年団の女性達が歌いながら踊ったと思われる。

    資料 16「飛入角力大会」29)という記載どおり,仲宗根氏は「宮古角力だ。最初から組み合う形の角力が宮古角力と言えば当時も一般的だった」と語った。行司は紅白の旗を持ち,勝敗を知らせている様子が撮影されている。

    資料16

    資料17-A 資料17-B

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    資料 17-A 資料 17-B01:52から 02:18までは式典の様子が撮影されている。しかし式典そのものは収められておらず,関係者の顔のアップのみである。石碑の建立場所は,宮古島市平良字西里 183-4である。昭和 11年 11月 17日付けの沖縄朝日新聞には,当時の記念式典の全景の写真が掲載されている。

    資料 18-A 資料 18-B現在のうえのドイツ文化村で,慰霊祭後に記念撮影をおこなったと考えられる。この碑の

    現在の所在地は,宮古島市上野字宮国 749-17(うえのドイツ文化村内)である。湖北丸で宮古へ来島した全員がこの映像に収まっているとは考えにくいが,式典の「記録映像」として重要なシーンであろう。資料 18-Aと 18-Bがあるように,二度に渡り撮影したことからも,そう考えるのが妥当である。「人事消息(昨日の湖北丸で当地へ)敬称略す△エム,エフ,トラウツ博士△同夫人△佐藤幸一 県学務部長△栗屋協二 水産学校長△崎濱秀生 那覇商業学校長△平山愼英 那覇地方裁判所長△下地玄信 計理士(厳父同伴)△島袋源一郎 県教育会主事△明知支庁長△山城篤男 県立二中校長△與那原良知 那覇市収入役△天野春吉 謝花小学校長△比嘉良兒 大毎那覇通信部△豊平良顯 大朝那覇通信部△志良堂清英 沖縄毎日記者△宮里辰雄 宮古商会△豊田信次郎 県立二中教諭△仲宗根朝松 沖縄毎日記者△仲里松吉 県視学△鉢嶺清介 中央気象台沖縄支台△外山貞男 大朝写真部△二見孝平 外務省事務官△島袋全章 那覇地方裁判所監督書記△眞榮田勝朗 琉球新報大阪支局△照屋林顯 県農産会副会長△高木宗治 那覇憲兵隊△比嘉定英 三高女教諭△新城長伴 警察部保安課警部補△上江洲由和 女子工芸校教諭△添田種貫 那覇税務署△大桝久雄 県警察部警部△宮田敏彦 男師教諭△西崎憲雄 一高女教諭△松本美鬼 一中教諭△奥濱惠俊 那覇税関支署△松村敏之 大阪市△津田松苗 京都帝大理学士△尚 信△笹本幹男 日刊沖縄記者△山城辰助 県立二中高女教諭△松本吉英 宮古署巡査△下地昌俊 宮古支庁△狩俣惠盛 県水産会△稲福政一 沖縄毎夕記者」30)とある。

    資料18-A 資料18-B

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    しかしながら,資料 18-Bからうかがえるように,列の最前列のトラウツとヒルダ夫人だけがヒトラー式の敬礼をし,後の人物がバンザイをしているところから,記念式典にしては,細部にわたる相互理解に基づき,打ち合わせをしたと思えない。

    資料 19-A,19-B,19-C,19-D02:39~ 03:06までは大綱引きの様子が映し出されている。資料 19-A,19-B, 19-Cは,大

    綱引きが始まる前の「弁慶と牛若丸」の余興である。現在も,沖縄県本部町でおこなわれているものとほとんど同様の型で「東の牛若丸,西の弁慶」としての余興がおこなわれる。綱の結び目でにらみ合い,戦いのパフォーマンスである。映像では,西に牛若丸で東に弁慶となっている。今のところ,本部町となぜ違うのか不明である 31) 32) 。資料 19-Dが大綱引きで「商工会主催綱曳 宮古支庁躍りで宮古商工会主催で勇壮で活発な綱曳を午後五時迄に行ふ」(33)という記述から,この映像が綱引きであることがわかる。『平成 22年宮古島市の文化財要覧 宮古島市の文化財』よると「宮国部落の旧盆の行事の一つで,キャーン(和名:シイノキカズラ)という植物を材料に綱をつくり,宮国公民館前の大通りで行われる。『西里(いす°ざと)』と『東里(あがす°ざと)』に分かれて綱を引き,その後,若者達はデーロイと呼ばれる押し合いを公民館前の四つ角で行う。その後,老若男女が円陣を組み,宮国のクイチャーを夜更けまで踊る。この大綱引きは,豊穣を祈願する祭

    資料19-C

    資料19-A 資料19-B

    資料19-D

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    りであるが,その起源については不明である。しかし,農作物の収穫を祝い祈願する御願綱として,また,疫病が流行すると災厄を追い払うために,時には旱魃が続くと雨乞いのために,あるいは,農作物の豊凶を占う等の意味があると伝えられている」 34)と記載されており,国指定である無形民俗の「クイチャー」と「大綱引き」を同時に行うことで更に「大綱引き」の意味を深めたと思われる。

    資料 2003:06~ 03:09と短い映像には,当時の青年らがスタート地点で準備している様子が映し出されている。「群連合青年競技会 明十五日午前八時より群運動場に於て記念行事の棹尾を飾る最も盛観たるべき青年競技会が行なはる」35)ところであると思われる。そのすぐ後の映像には,沖縄県立宮古高等女学校の女子生徒らの演舞が始まる。場所は群運動場となっており,『宮古島市史第一巻通史編』に写真が掲載されている災害復興記念陸上競技会が行われた記念運動場(宮古島市平良字下里のあたり,通称馬場)36)であると仲宗根氏が特定した。

    資料20

    資料21

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    当時,馬場は島内各所にあったが,背景のなだらかな風景は現平良字下里の馬場にしかなかった。

    資料 21ダンスを踊る少女らは,沖縄県立宮古高等女学校の女子生徒である。『平良市史』第四巻資料編 2によると,1936年の 3月 20日に宮古郡各町村組合立として沖縄県宮古郡平良町字下里東大原一,一二二番地ノ一に創立 37)された。昭和十一年度教員組織予定表に掲載された大日本体育会体操学校卒業した宮古出身者の砂川玄隆が教諭となり指導した 38)。同校は1940年に,沖縄県立宮古高等女学校と改称された。当時,唯一の女子中等教育機関であり,1948年宮古女子高等学校に改称後,1954年沖縄県立宮古高等学校に統合された。

    資料 22-A 資料 22-B,同群連合青年競技会では,沖縄県立宮古高等女学校の女子生徒による演舞が終了し,徒競

    走がおこなわれている。先の 03:06~ 03:09とは違い,ユニフォームもバラバラで,年齢の異なる生徒が多いことから集落対抗の徒競走と推測される。左から右のパンは,松崎氏によれば「カメラマンは,プロフェッショナルな技術の持ち主である」と感想をもらした。

    資料22-A 資料22-B

    資料23

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    資料 23沖縄県立宮古高等女学校の女子生徒が 14世紀起源と言われる「クイチャー」または「クイチャーをアレンジした創作舞踊」を踊っている可能性が高い。手を頭の上部にあげ,リズムに合わせて足をあげ,前に進む。前述の『平成 22年宮古島市の文化財要覧 宮古島市の文化財』によると「宮古のクイチャーは,宮古諸島各地に伝承されている集団の踊りである。豊年祭や雨乞い等の機会に,また,随時娯楽として,集落ごとに生き生きと踊られてきた。クイチャーは,通常野外で男女が輪になって歌い踊るものである。皆で声を合わせて歌いながら,円陣をつくり両手を前後左右に振り,大地を踏みしめ跳びはねる動作を繰り返し,合間に手拍子を打つ。歌は豊穣を祈る歌,雨乞いの歌,恋人への思いを込めた歌,生活や労働の喜び,苦しみなどを歌った歌など多様な内容を示している」39)とあるように多種多様なクイチャーがあり,沖縄県立宮古高等女学校の女子生徒の演舞もそのひとつと思われる。クイチャーは,宮古の方言で「クイ(声)を合わせる(チャー)する」ということが語源

    と言われている。特に楽器などの囃子もなく,合いの手のであるかけ声を全員でおこなう。「ニノヨイサッサ」や「サッサー・サッサー」というかけ声が主流である。クイチャーは,基本的に集落ごとに踊りのルールや踊り手の人数,歌の内容も違うことも多く,多様である。踊り出しの踏み出す足の歩幅が二倍ほども違うダイナミックなクイチャーもあり,通底するのは「雨乞いや豊年祈願の踊り」という認識である。また,クイチャーは円陣をつくって踊る。この演舞も同様に歩きながら円陣を作り,手を頭の上部で振り上げるような動作になっている。

    資料 24-A 資料 24-B004:02~ 04:09まで,手に花のような飾りを持ち演舞している。クイチャーなどの民族舞

    踊とは趣が違う。仲宗根氏によると「砂川玄隆教諭は沖縄県立宮古高等女学校に着任前,福島県で体育教師をしていたこともあった。4月に開校したばかりの沖縄県立宮古高等女学校の生徒らが 11月にはここまで演舞できるようになったのは彼の指導のたまものだと思う」と語った。

    資料24-A 資料24-B

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    資料 25-A 資料 25-B04:09から 04:14には,わずかであるが,馬場の様子が撮影されている。当時は在来種で

    ある宮古馬が多く成育されており,映像に映っている馬も大きさから推測すると宮古馬の成馬だと思われる。また,04:13から 04:14にわずかながら別のカットが撮影されている。遠くに海が見えることから「下里の馬場に間違いないであろう」と仲宗根氏は語った。

    おわりに

    トラウツ・コレクションに含まれる宮古島最古の映像資料について,仲宗根氏,岡田氏,松崎氏からの聞き取りや,現在手に入る文献資料と比較し,当時の映像技術や映像文化の背景を踏まえて考察をおこなった。すべてにわたり論ずることはできなかったが,おおまかな輪郭を浮き彫りにすることはできたと考える。多くの論点が未整理なままであるが,筆者はシュレーダー来島以降,その存在が知られながら,その内容に関して述べられることのなかったドイツ皇帝博愛記念碑建碑 60周年の映像資料を部分的にせよある程度詳しく紹介し,検討を加えた。特に強調しておきたいのは,まず,この資料がおそらくあまり上映されていなかっただけに,きわめて良好な状況で保存されていることである。次に,内容がドイツ皇帝博愛記念碑建碑 60周年の「記録映画」として撮影されながら,式典そのものよりも,宮古島の踊りなどが中心に撮影され,おそらくカメラマンと撮影依頼者との間にきちんとした打ち合わせがなかったことが想像されることである。しかし,筆者はそれだけに,映像美とその当時の生き生きとした様子が映し出されていると考える。なお,この映像資料の後には,黒味が 4:14から 4:20あり,最後に高野山の映像などが 4:20から 4:46まで続くことを付言しておく。

    仲宗根氏によれば,宮古島がいわゆる日本史に登場するのは,三度だけである。最初の事件は,台湾出兵(1874年)のきっかけとなった宮古島島民遭難事件(1871年)である。二度目の事件は,この論考で扱ったロベルトソン号遭難事件(1873年)である。三度目の事件は日露戦争(1904年~ 1905年)で,日本海海戦でロシアのバルチック艦隊発見の知らせを石垣島まで伝えた 5人の漁民を讃える「久松五勇士」の話である。それぞれ,語られる歴

    資料25-A 資料25-B

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    史と実際の史実には当然ながら違うが,ロベルトソン号遭難に関する歴史も,さまざまな謎や争点があり,今後の研究成果を期待したい。本論考もその一助となれば幸甚である。最後にこの映像資料を快く,提供してくださった宮古島市役所ならびに宮古島市教育委員会に感謝の念を記して,結びの言葉としたい。

    1) url: http://chi.iii.u-tokyo.ac.jp/?p=2898(2014年10月3日現在)。 2) ヨハネス・春水・ヴィルヘルム「ボン大学日本文化研究所にあるトラウツ資料の1936年11月

    の宮古島博愛記念碑記念式典に関する式典の報告」(『「第4回沖縄国際研究シンポジウム ヨーロッパ大会 世界に拓く沖縄研究』(第4回沖縄国際研究シンポジウム実行委員会2003年)119頁。

    3) 慶世村恒仁『宮古史伝』(吉村玄得 1976年復刻版,オリジナル版は1927年)240頁。 4) 辻朋季「宮古島「博愛記念碑」をめぐる史実と言説―(1)ドイツ商船遭難事件と植民地主義」『Zeitschrift – für Germanistik』第23号(筑波ドイツ文学会2007年)39~57頁。辻朋季「宮古島「博愛記念碑」をめぐる史実と言説―記念碑の「再発見」と「博愛美談」の誕生」『Zeitschrift – für Germanistik』第24号(筑波ドイツ文学会2008年)99頁~122頁。

    5) 江崎悌三「宮古島のドイツ商船遭難救助記念碑」『南島 第三輯』(臺灣出版文化株式會社 1944年)72頁。

    6) 『平良市史』第十巻資料編9(以下『資料編9』とする)(平良市史編さん委員会 2005年)602頁。 7) 『みやこの歴史』宮古島市史第一巻通史編(宮古島市史編さん委員会 2013年新装版)319頁。 8) 『資料編9』582頁~584頁。 9) 同書592頁。10) 同書576~577頁。11) 『なつかしのホームムービー展』(日本カメラ博物館 1997年)4頁~5頁。12) 『資料編9』606頁。13) 『資料編9』606頁。14) 『目で見る島尻・宮古・八重山の100年』(郷土出版社 2003年)218頁。15) 『資料編9』604頁。 16) 『資料編9』613頁。17) url:http://www.miyako-net.ne.jp/~kitasyou/gaiyou/ayumi/ayumi.htm(2014年10月3日現在)。18) 『資料編9』606頁。19) url:https://www.youtube.com/watch?v=H6Zi-Bx2wPY(2014年10月3日現在)。20) url:https://www.youtube.com/watch?v=Tag1WcvPoGs(2014年10月3日現在)。21) 『資料編9』613頁。22) url:https://www.youtube.com/watch?v=S_FPDYk16Gk(2014年10月3日現在)。23) http://www.miyakomainichi.com/2012/11/42192/(2014年10月3日現在)。24) 『資料編9』617頁。25) 『平成22年宮古島市の文化財要覧 宮古島市の文化財』(教育委員会 2011年)111頁。26) url:https://www.youtube.com/watch?v=HhBYxDzm8R0(2014年10月3日現在)。

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    27) 『資料編9』606頁。28) 同書613頁。29) 同書621頁。30) 同書615 ~ 616頁。31) url:https://www.youtube.com/watch?v=S_FPDYk16Gk20140921(2014年10月3日現在)。32) url:http://motobu-m.town.motobu.okinawa.jp/index.php?oid=56&dtype=1000&pid=1(2014年10

    月3日現在)。33) 『資料編9』604頁。34) 『平成22年宮古島市の文化財要覧 宮古島市の文化財』111頁。35) 『資料編9』604頁。36) 『宮古島市史第一巻通史編』(宮古島市史編さん委員会 2013年新装版)31頁。37) 『平良市史』第四巻資料編2(平良市史編さん委員会 2005年)―以下資料編2とする) 316頁。38) 『資料編2』327頁。39) 『平成22年宮古島市の文化財要覧 宮古島市の文化財』19頁。

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  • 宮古島最古の映像に関する一考察

    映像資料に関するデータ一覧

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