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Ⅰ 問題意識
高齢者雇用の問題は,人的資源管理における重要な検討分野である。しかし,その実態が望ましい方向に展開を見せているとは言い難い。高齢者の活用が必要不可欠であるとの認識は総論としては共有されているが,政府が推し進めるような「70歳まで働ける」という目標1にはなかなか到達できてはいない。たとえば,独立行政法人労働政策研究・研修機構の調査によると,高齢者は自身の引退に関し,年齢に関係なく働きたいと考える人が30.3%おり,引退を考えたことのある人のうち,引退希望年齢は65歳とする人が最も多く(41.5%),以下,70歳(27.1%),60歳(11.8%)と続いている(労働政策研究・研修機構2010b pp.14-15)状況である。これに対して,同機構の別の調査によれば,定年制を定めている会社は94.8%と大多数を占め,その年齢
(複数定年年齢がある場合に対象者がもっとも多い年齢に限定)は60歳が86.1%と大多数を占めている(労働政策研究・研修機構2010a pp.13-14)。政府の意図,働く側の希望,そして企業の間には依然乖離が見られるのが実情である。高齢者雇用に関し,具体的な対処方法については個々の企業に任されている状況下ではやむを得ない面がある。こうした現状に加え,年金制度の改正による支給開始年齢引上げとの接合,定年制度の扱い,高年齢者の人的処遇など,高齢
者雇用問題は整理・解決すべき課題が多い。高齢者雇用問題に関しては,経営学のほか,多様な分野からの考察がある。法律の解釈論,立法(政策)論,経済学などの立場から議論がなされている。また,心理学,老年社会学分野でも高齢者の労働という点に注目して研究がなされている。人的資源管理論においては殊に法律,法政策によって外的環境とも言うべき規整がなされていることを前提とし,その枠組みの中でよりよい管理・活用手段を見出していくことが求められており,法律分野の進展にはより留意が必要である。 上記の点を踏まえ,本稿においては,法律の分野において構想・呈示されている「キャリア権」という概念に注目して,この理解を土台に人的資源管理の観点から高齢者雇用の問題を論考する。キャリア権とは働く人の主体的なキャリア展開を基礎づける権利であるとされ,キャリア権が法概念として確立し,それが高年齢労働者に対して向けられた場合,高齢者雇用,ことにキャリア問題にどのような影響を与えるのかという点に筆者の関心の中心はある。さらに,キャリア権という切り口を基に,雇用政策論の立場から示される問題を,人的資源管理の観点からどのように受け止めるべきか,ということにも興味があり,かかる点を明らかにしていくことが本稿の主題である。
* 早稲田大学大学院商学研究科博士後期課程
「キャリア権」と人的資源管理─高齢者雇用を中心に─
吉澤昭人*
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Ⅱ キャリア権の構造
「キャリア権」とは,諏訪康雄法政大学大学院教授が提唱している法概念で,「働く人の一生
(ライフ・キャリア)に大きな位置を占める職業キャリア(職業経歴)を法的に位置づけ,概念化しようとする試み」(諏訪2002b 4p)である。法学界で広く一般的に認められたものとまではいえない面もあるが,高齢者雇用を人的資源の面から考える上できわめて示唆に富んでいる。そこで本章では諏訪の考え方に沿ってキャリア権を高齢者雇用との関係で把握し,その構造を明らかにしていく。また,上述のようにキャリア権はいまだ完全に受け入れられた法的概念ではないため,諏訪の考え方に対する批判にも言及する。
1.前提 キャリア権を議論する際に,その前提として理解しておくべき点があると考える。それは,同権利の労働法における位置づけである。そもそも労働法分野においては,個別的労働関係法
(個々の労働者と使用者の関係を規律),団体的労使関係法(労働者の団結権を保障し,労働組合と使用者が団体交渉を行って労働条件を決定することを促進する),労働市場法(または雇用政策法)の三領域に分けた理解がなされている2。諏訪自身の解釈によれは,労働市場法または雇用政策法は,「(労働市場の)主に制度設計と機能運営の側面に対処する。そして,狭義の需給調整以外にも,労働市場に関連した能力開発,雇用管理・雇用安定,人材事業,失業給付などへの対応を守備範囲とする」(諏訪2005 2p)ものである。キャリア権はかかる労働市場法の領域において論じられているコンセプトである。 諏訪(1999)によれば,雇用政策法の分野は,従来は法律的な議論が活発でなかったとされる。実務の現場で重視されていた同分野は,解釈論に対する要請が強くないため,法解釈を中心とした議論を積み重ねる法学研究においては考察
が深まらなかったとする。また,実務に根ざした技術論が強いため,立法論は研究者の得意分野ではなかったという。しかし,雇用を取り巻く環境や雇用自体の変化により,雇用政策法の前提が大きく変化し,従来の枠組みや手法では対処しきれず,新しい方向が必要とされるようになってきているのだという3。諏訪が提唱するキャリア権も,かかる文脈において捉えるべきものであると考えてよいであろう。
2.定義,位置づけ 諏訪自身は,まず職業キャリアを「人が職業に就くことを準備し,職業を選択し,あるいは職業を転換し,その遂行能力を高めたりするなかで,経済的報酬や社会的評価を獲得するとともに,自己実現をしていく過程,および,その結果としての経歴」(諏訪 2002b 1p)と捉えた上で,キャリア権(正しくは職業キャリア権=right to career)を以下のように定義あるいは説明している。
「この権利概念は,働く人びとの主体的キャリア展開を基礎づける権利として構想された。すなわち,人びとがそれぞれに教育訓練,学習活動,資格取得などの職業へ向けた準備をし,職業を選択し,これに就き,職業上の活動を展開し,場合によっては転職を経験し,最後には職業活動から離れる一連の過程につき,人々の主体的な職業生活の展開が可能となるよう保障しようとするものである」(諏訪2007 2p 下線は筆者)「職業上のキャリアを準備し,展開していくうえですべての労働者に認められる現代的な基本的人権」(諏訪2009 16p)
諏訪は,上述の定義に加え,キャリア権の法的性格についてより精緻な説明をしている(諏訪2002b 3p, 2007 2p)。そもそも人には人生キャリア展開の自由が保障されており(広義のキャリア権),これは憲法13条の幸福追求権すなわち自己決定権を根拠として保障されているとする。
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職業キャリア権は,狭義のキャリア権であり,生存権(憲法25条),教育学習権(憲法26条),職業選択の自由(憲法22条),勤労権(憲法27条)などの職業生活に関連した基本権が連携の上に統合されている。かくて,キャリア権は,「社会権としての労働権が深さと広がりをもった現代版の労働基本権(キャリア権)として再構成される」(諏訪2007 2p),あるいは「特別に加重された権利保障のもとにある」(諏訪2004 43p)としている。
3.キャリア権の内容 キャリア権の内容に関し諏訪(2002b)は,キャリア権は理念の側面と基準の側面とを併せ持っているが現状では前者の域を大きく出ていないとし,後者については今後の立法措置が必要としている。その上で理念面では①労働権思想が内包する重要な核概念である,②キャリア権を労働権に読み込んだとしてもプログラム規定としての社会権という基本的な性格の変化はない。ただし雇用政策のいくつかの場面において,これまでとは異なった対応が要請される,③職業選択の自由との関係で,個人の主体性と自由意志を尊重する性格がある,④教育の権利との関係で,権利を子どもだけの問題と限るのは不適当,⑤職業をめぐる自己実現の権利である以上,狭い意味での雇用(民法623条)などにかぎることなく,労働政策,労働法の対象を広く解すべき,また,個人的・社会的なリスクの増大に対応する政策や支援策も必要,としている。なお,上記②と関連して,キャリア権が単なる憲法上の理念でなく,すでに雇用対策法や職業能力開発法にも理念や職業生活設計などが規定されたことで,すでに実定法化されている面もあるとしている。また,③,⑤と関連して,キャリア権は自己決定権を重視することから年齢差別禁止(エイジフリー)が重要な課題となるとしている(諏訪2007)。 また,職業キャリア権というものは,歴史的にみると「職業は財産」,「雇用は財産」,「キャリアは財産」,という段階をたどってきていると
している(諏訪2004)。19世紀ごろまでは,職業は「家業」であり,そこにおいてキャリア形成は職務を得ることだという発想であったという。これが20世紀には組織の時代となり,日本の場合高度成長期において雇用労働者が主流となることで,「雇用が財産」と言いうべき状態が出現した。しかし21世紀に入ると組織主体の集団主義への懐疑心がたかまり,特定の組織の「安定」と「拘束」のなかでキャリア形成をすることが動揺している。ここで新しいモデルとして「キャリアは財産」という方向性が生まれるとしている。
4.キャリア権への批判・評価 諏訪の考え方に対する批判・評価には以下のものがある。たとえば,両角他(2009)は諏訪がキャリア権を考える前提として,労働法を市場経済を支えるサブシステムのひとつとして捉えている点について,労働市場の位置づけは労働法理論の根幹に関わる問題であるとして,その位置づけが適切であるかどうかに疑問を付している。また,市場は本当に個人が自由を追求できる場となるか,という点で市場重視の考え方にも批判的である。大内ら(2009)も同様の趣旨の指摘を行っている。また,大内らは加えて,「キャリア権」を労働市場法,さらに労働法全体を支配するような基礎概念,新たなパラダイムとすることにも疑問を投げかけている。一方で,「キャリア権構想は使用者の雇用責任を後退させ,解雇の自由へ大きく道をひらくものである」という批判に対しては,雇用流動化が進んでいくであろう状況を前提に,使用者に対して雇用保証責任にかわるキャリア保証責任のようなものを課すという議論であると反論をし,諏訪の考え方を擁護している(大内他2002 15p)。 本稿は法的分野における専門的な議論に徒に論評することを趣旨としているものではない。諏訪の構想のもつ限界や現段階での評価を一応踏まえたうえで,(いわば「ある種の仮組み」として)諏訪の考え方に沿って高齢者雇用の問題を捉えようとしているものである。したがって
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その意図を明確にする上で,どのような批判がある「仮組み」であるのかを示すため,批判・評価を呈示したものである。
上述までの理解に従うと,キャリア権は高齢者雇用との関係では以下の特徴があることが確認できると考える。① 労働権がさらに進化したものであるが,依然
抽象性が強い(プログラム規定的性格)。②職業生活の退出局面も射程においてはいる。③エイジフリー(年齢差別禁止)が課題となる。④ 組織内でなかば自動的に形成されるキャリア
のみならず,その次の段階をも想定しており,個人の主体性と自由意志を尊重する。
以下ではこうしたキャリア権についての理解を踏まえ,高齢者雇用の問題点とキャリア権の関係について考察を進めていく。
Ⅲ 高齢者雇用とキャリア
本章では高齢者雇用を人的資源管理の観点を主にして考える。人的資源管理あるいは人事管理の分野においては,人の管理を時系列で捉えた場合,採用,配置(異動も含む),昇進,昇格,退職というおおよそのステージがあるとの理解が通常である。採用されると,配置(異動)の後,教育,評価,報酬,昇進,昇格が一定期間ごとに繰り返され,最終的に退職というステージ(退出局面)に到達する。 従来,高齢者の雇用問題はいわゆる退出局面の問題として位置づけられてきた。今日でもその基本的なあり方は変わらないが,年金支給開始年齢の繰り下げならびに65歳までの雇用延長の企業への義務付けや,70歳まで働ける社会の形成へと導く政府の動向等を考え合わせると,人の一生における労働期間の延長に伴い,単に退出局面としてのみで捉えることだけでは不十分ではないかと考えられる。以下,高齢者雇用における現状の問題点を把握し,次いでキャリア権ならびに雇用政策法との関係を考察し,そこから得られる含意を考える。
1.現状 まず,高齢者雇用における現状の問題点を考えてみる。具体的には雇用継続の問題である。2004年の高齢者雇用安定法の改正により,65歳までの雇用確保措置が企業に義務付けられ,①定年の引上げ,②継続雇用制度の導入,③定年の廃止,のいずれかの措置をとることが必要となっている(高年齢者雇用安定法9条)。厚生労働省の発表(2010年10月,同年6月1日現在)によると,①が2.8%,②が83.3%,③が13.9%となっており,大半の企業が継続雇用制度を採用していることがわかる。同制度で注目すべきは,対象者の問題である。希望者全員の雇用が原則であるが,これには特例措置が設けられており,対象者を限定することができる。現状では,希望者全員としている企業が29.8%,希望者のうち,継続雇用制度の対象者についての基準に適合する者としている企業が70.2%となっている。また,継続雇用制度の雇用上限年齢は65歳としている企業が86.5%と最も多くなっている(労働政策研究機構2010a 16p)。おおよその傾向として,企業は法令に反しないように配慮しつつも,60歳定年を中心に,必要な人材については65歳まで雇用確保,と言うことを基本的なスタンスとしていることが伺える。 かかる現状において問題となる点は何か。高齢者の雇用自体の確保という面では一応の形は整っているかのようにも思われる。しかし,これをキャリアという面から考えた場合はどうなるのであろうか。 典型例で考えた場合,人はおおよそ20歳前後で職につく。つまり,「働く」という意味において社会人となる。その後様々な形でキャリアを重ねていくことになるが,企業組織あるいは官公庁などでの勤務を想定した場合,50歳代で役職定年となることが少なくないようである。その後継続雇用など,何らかの形で65歳まで働けたとしても,職業キャリアの後期約10年,長い場合は職業生活全体のおよそ三分の一にわたる期間において,キャリアを積む,より端的に言うと「上昇」することとは縁遠い職業生活をお
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くることになる。無論,役職に就き続ける,あるいはいわゆる出世をしていくことだけがキャリアの形成の仕方ではないとはいえ,単に「ベテラン」あるいは「経験豊富な人」という一種の「美事麗句」のみで高齢者を処遇することには限界がある。実際,高齢者の雇用の場の確保にあたっての課題として,「特に課題はない」とする28.5%を除くと,「高年齢者の担当する仕事を自社内に確保するのが難しい」(27.2%),「管理職社員の扱いが難しい」(25.4%),「定年後も雇用し続けている従業員の処遇の決定が難しい」(20.8%)などが上位を占めており,中高年期以降の従業員のキャリア形成に関連した課題が中心となっている(労働政策研究・研修機構2010a 42p)。 ここで「ホールド・アップ」と呼ばれる問題について若干の考察をしてみる。ホールド・アップ問題とは,関係特殊的な資本への投資を行った後に発生する問題のことを指す。キャリアとの関係で見た場合は,労働者が企業特殊的技能を修得し終えてから,企業が事後的に機会主義的行動をとると,労働者が身動きできない状況になるというものである。奥林ら(2010)は企業が高齢者のリストラを行うときにホールド・アップ問題が発生し(不本意な労働条件でもリストラされるよりはましとして受け入れざるを得ない),その際には次世代の労働者が企業特殊的人的資本投資を身につけることを躊躇することになるとしている。この結果,企業は必要な企業特殊的人的資本投資を失うことになるというのである。 高齢者雇用の視点から考えると,彼・彼女らのキャリア形成(狭義のみならず,広義のキャリアも含む)に対して企業が機会主義的な行動をとる(順法のため,形式的には雇用年齢の延長をするように見せかけつつも,一方で出向・転籍を促す,あるいは,該当者全員を継続雇用の対象とはしないなど,事実上の選別をしていく,また役職定年後のキャリアを示さない)場合,類似の現象が起こるのではないかと推測される。すなわち,必要最小限の高年齢者を義務
として雇用しておくような好ましくない状況下でも,その企業で働く人々は企業特殊的な投資をしてしまっているため不利な条件でも受け入れざるを得ない。この場合,リストラのケースと類似の形となり,次世代社員は企業特殊的な技能を身につける意欲を低下させる恐れがある。その結果,企業にとって貢献度の低い社員が増え,それが徐々に蓄積する。時間の経過とともにそうした人びとが年齢を重ねて高齢者社員となっていく。そして彼・彼女らに対する最終段階でのキャリアを提示していくことが示せない……。これはある種の負のスパイラルといってもよいであろう。ミルグラム(1998)らのいう
「共同特化の関係」にある人的資本(技能)を企業の側で毀損しており,企業,労働者ともに損失を得ることになるのである。かかるスパイラルに陥らないためには,中高年期以降のキャリアの呈示と展開がきわめて重要になると考える。4
2.キャリアと雇用政策法 本節ではキャリア権の基盤となっている雇用政策法のスタンスについてキャリア全般という観点から言及する。諏訪自身の説明(諏訪1995)によれば,雇用政策法の体系は労働生活のライフサイクルに沿って分類・分析した場合,①労働能力の基礎的な形成,②求職活動,③労働関係の形成・展開・終了,④失業・再就職,⑤引退,という形で整理することができるとする。このなかで,キャリアと関連すると解される職業能力開発促進法などは「能力開発」という小分類で③に,高年齢者雇用安定法は「引退生活」という小分類で⑤に区分されている。そして,以下のように説明をする。
「これまで(とりわけ消極的労働市場政策の時代)は,主として「外部労働市場」(上記の①・②・④・⑤(筆者注 原文のまま))における労働者の諸問題を守備領域としてきたが,最近は企業内訓練や雇用維持さらには雇用管理などといった形で,「内部労働市場」(同③)
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における問題へも広く各種の促進的な措置(助成金)をとるようになってきているのが特徴的である。」(諏訪1995 8p)5
諏訪の説明にあるように,雇用政策は徐々に内部労働市場へも関心を強めているものの,基本的には外部労働市場の整備を念頭に置いている。すなわち,「政策法の中心概念は「安定」であり」,それは「「終身雇用」という用語に極言される長期雇用を可能とするために,各種の立法と政策措置がとられてきた。そのための方向は企業による雇用維持であ」ったというのである。一方内部労働市場への介入については「企業を核として,これに雇用維持と人材育成を義務づけたり,あるいは最大限に奨励するという方向がとられている」。つまり,「企業が中心に来る労働市場介入方式」であったという。その上で「雇用あるいはキャリア面における「個人の幸福追求」のための制度は尚かなり貧弱なままできている」としている(諏訪1995 pp.10-12)。 要するに,雇用政策法において,個人によるキャリア形成については極めて消極的なまま今日に至っているということである。前述の通り,法律の世界において,雇用政策分野は今まで議論があまり深められてこなかった分野であり,ようやく方向性を変えようとしている段階にあるものと解される。したがって,「高齢者」を対象とするキャリア形成についての意識はなおさらまだ極めて薄いと言ってよいと思われる。 なお,諏訪の分類では,高齢者雇用安定法が引退生活の範疇に入れられていることに多少の留意をすべきであろう。
3.キャリア権・雇用政策法から考える高齢者雇用
前節までにおいて,キャリア権の内容と,高齢者雇用の現状,雇用政策法にけるキャリアについて論じてきた。本節において,キャリア権ないし雇用(キャリア)政策と高齢者雇用(特にキャリア問題)を相照らし合わせた場合,どのようなことが問題として浮かび上がるのかを
考えてみる。 「キャリア権」の存在を理由として,高齢者の安定的な雇用確保,具体的にはたとえば定年年齢の延長を促すことは難しい。そもそも,キャリア権は依然として抽象的な権利であり,キャリア権を根拠として,直接的に雇用機会の延伸を求めることはできないと考えられるからである。また,キャリア権はその性格上,個人の主体性や自由意志あるいはエイジフリーとの親和性が高いが,その故をもって,定年制の廃止といった議論にまで一足飛びに発展させるのはかなり無理があるように思われる。何より働く側の人々の認識において,定年制廃止の希望はそれ程高いものではない6。さらにいえば,そもそもキャリア権の射程として一応高齢者も範疇に入れて想定はしているように解せられるが,その議論はまだ法律の専門家の間においても未発達であると思われる。 高齢者雇用において,真に考えるべきは中高年齢者にふさわしいキャリアの呈示をすることであるが,法的観点から見た場合の支援はキャリア権のみならず,雇用政策法全般の観点から見た場合でも難しいと考えられる。これは雇用政策法のこれまでのあり方が関係する。その歴史的経緯により雇用政策分野自身がようやく企業を対象として「内部市場」へと着目し始めたと言うのである。また高齢者のキャリアを対象とした法政策というものが現状では存在していないと解せられる7。単なる個別技能育成ではない,いわゆるキャリアの形成について,法政策のスキームを頼りにできる段階にはまだないといえる。 総括すれば,キャリア権の持つ法思想と高年齢者キャリア形成のためのニーズとの間には齟齬あるいは溝があり,それはかなり大きいといえよう。また,雇用政策法全般からの支援はまだ期待できる段階ではない。同時に,キャリア権の理念と雇用政策法のスタンスのズレの存在も看過できないポイントとなっているといえよう。
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Ⅳ 結び・今後の展望
本稿ではキャリア権について,高齢者雇用との関係という視点からで理解をしたうえで,高齢者雇用の問題をキャリア形成機能の不在と捉え,そこにキャリア権の考え方(および関連する雇用政策法のスタンス)をいわば照射することによって浮かびあがる問題を考察した。 結論として,キャリア権という法概念の性格上の限界,雇用政策法全般のスタンス,さらにキャリア権と従来の雇用政策法との構造関係
(両社がどのような関係性をもつことになるのか)の不明確さといった点から,法の立場からは高齢者のキャリア形成という問題について対処することがまだ難しいということが確認できた。見方を変えれば,キャリア権のもつ理念に沿って高齢者雇用を考えるためには,雇用の終了局面の捉え方を変える,すなわち,定年制の是非も含め,高齢者雇用に関する発想を大きく転換させることの必要性が示唆されていると考えられる。これは,法分野での整備が不十分という理解とは次元が異なる。すくなくとも人的資源管理の立場で受け止めるべきは,単に法の施策を待ち,それを後追いで受け入れて辻褄あわせのごとき対応をするのみでは,よりよい形で解決する方向へは行きづらいということであろう。かかる点が間接的にせよ明らかにできたのではないかと思われる。 無論,現状においても法の持つ力は小さいものではない。前述の通り,改正高年齢者雇用安定法の改正により,少なくとも形の上では雇用保障の年齢は上昇しつつある。高齢者雇用の分野において,法が果たす役割は決して看過できるものではないのである。ただ,その雇用延長に伴って生ずる,キャリアの問題については,現段階では対処がまだ難しいという認識は重要である。何より強調しておくべきはキャリア権が確立した法概念となっても,高齢者雇用の問題はそれだけでは解消に向かうわけではないということである。
たとえば,キャリア権の進展に伴い,エイジフリー,すなわち年齢差別の禁止という問題が高齢者雇用において重要になっていくと諏訪自身が指摘している。しかし,同時に当の諏訪自身が「エイジフリーは年齢だけの問題にとどまらず,仕事中心の処遇,成果主義,そして能力不足による解雇の容認などといった問題に波及して行きかねないだけに,簡単に結論が出そうにない」(諏訪 2005 11p)としており,問題の複雑性を指摘している。エイジフリーと高年齢者雇用の直接的な関連で言えば,定年制の廃止という問題も当然視野に入ってくるが,この点についても議論はあまり進んでおらず,解決は当分困難であると考える。8
それでは,本考察からの含意は何であろうか。思うに,高齢者雇用におけるキャリア形成,あるいはキャリアモデルの構築は企業の側に主たるイニシアチブがあると考えるべきなのではないだろうか。キャリアをうまく形成させ,それを活かしきり,退職という最後のステージに至るまで,当事者が納得する働き方(敢えて言えば「生き方」)をしてもらうことができれば,企業としては人材を極めて有効に活用したことになり,(トラブルによる中途退職,病気,訴訟リスクといったネガティブな点も含めて)トータルで見た場合は企業にとって利益になる。利益,不利益という範疇に入る問題であれば,企業が主体となって行うことが合理的であろう。高齢者の雇用確保のための雇用年齢伸張のように,公平あるいは公正の点から全体で一斉に行うほうがやりやすい,あるいは効果があるものは法的な枠組みで行うのが望ましともいえるが,キャリア形成による企業への貢献度上昇は,個々の企業が中心となって取り組んだほうが好ましいものであると考える。あたかも,「お上が決めたから従うしかない」かのように,法の枠組みをみて消極的に対応するのでなく,企業の側で実例を見出し,実践していくことで,キャリア権という概念もより使いやすく地に足が着いたものへと変化していくと思われる。 高齢者雇用,ことに高齢者のキャリア形成は,
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一部の高度熟練技能者のような場合を除けばあまりよいモデルがあるとは思えない。端的に言えば,上昇・向上し続けるだけのモデルでなく,いかにソフトランディングさせるかということも含め,企業はより高度なレベルでのキャリア形成の実践が求められている。研究分野としての人的資源管理との関係で言えば,人的資源管理の立場からの解決策の呈示が法分野に対しても求められているのである。 最後に本稿における限界ならびに今後の展望を示す。高齢者雇用の問題は単純にキャリアの問題だけに収斂するものではない。マネジメントサイドの雇用管理や賃金制度の問題,年金制度との関係,当事者の健康の問題,あるいは個々人のライフスタイルとの相応等々多くの要素が絡む複雑な問題である。本稿では「キャリア権」に対応する形で,「キャリア」に焦点を絞って論考することになったが,それ以外の要素も考慮をしなければ,キャリアの問題も新たな展開を求めることは難しい。高齢者雇用をとりまく様々な要素への更なる考察が,個々の問題の解決と同時にトータルで高齢者雇用を考えていくこととなるのである。特定の問題分野にのみ固執することなく,多面的な考察が重要なのであり,かかる認識と実行を今後自己に課せられた課題としたい。(了)
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大内伸哉・唐津博・盛誠吾(2002)「労働法理論の現在」『日本労働研究雑誌』No.499,pp.2-47
奥林康司・上林憲雄・平野光俊 編(2010)『入門 人的資源管理(第2版)』中央経済社
菊澤研宗(2006a)『組織の経済学入門』有斐閣菊澤研宗(2006b)『業界分析 組織の経済学─
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一試論」『日本労働研究雑誌』No.468,pp.54-64
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諏訪康雄(2003)「能力開発法政策の課題─なぜ職業訓練・能力開発への関心が薄かったのか」『日本労働研究雑誌』No.514,pp.27-37
諏訪康雄(2004)「キャリア権をどう育てていくか?」『 季 刊 労 働 法207号(2004年 冬 季 )』,pp.40-49
諏訪康雄(2005)「労働市場と法─新しい流れ─」『季刊労働法211号(2005年冬季)』,pp.2-14
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独立行政法人労働政策研究・研修機構(2010a)『高年齢者の雇用・採用に関する調査 JILPIT調査シリーズNo.67』独立行政法人労働政策研究・研修機構
独立行政法人労働政策研究・研修機構(2010b)『高年齢者の雇用・就業の実態に関する調査 JILPIT調査シリーズNo.75』独立行政法人労働政策研究・研修機構
ポール・ミルグラム,ジョン・ロバーツ,(奥
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野・伊藤・今井・西村・八木 訳)(1998)『組織の経済学』NTT出版
両角道代・森戸英幸・梶川敦子・水町勇一郎(2009)『労働法』有斐閣
八代充史「定年延長か継続雇用か?」佐藤博樹編著(2009)『人事マネジメント』第6章所収 ミネルヴァ書房
厚生労働省ホームページ http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000000uosd.html
2010年11月10日閲覧
注
1 厚生労働省告示252号(平成21年4月1日)に基づいている。
2 上記分類に加え,労働紛争の処理に関する特別な手続きを定める法分野(労働紛争処理法)を一分野として,計四分野で把握する考え方もある。たとえば両角他(2009 5p),諏訪(1999b)。
3 両角らはかかる状況を「いわば,労働法の世界から排除されていた「労働市場」という概念が再発見された」としている。両角他(2009),299p.
4 奥林他も「自立的なキャリアやエンプロイヤビリティという近年の考え方は,このホールド・アップ問題と無関係ではない」としている。奥林他(2010)247p。
5 一般に,「外部労働市場」とは企業横断的な労働力需給調整システムを,「内部労働市場」とは,企業内の労働力需給調整システムを指す。
6 定年制に対する要望は,60歳より上の年齢での定年を望む人が全体のおよそ6割であり、そのうち望ましい年齢を65歳とする人が8割である。定年制を廃止したほうがよいと考える人は2割弱である(独立行政法人労働政策研究・研修機構2010b pp.21-22)。
7 やや古い研究となるが,諏訪(1995)によると,戦後の労働立法における目的規定の中において「市場」という言葉の使用は法律件数,用語件数ともにゼロであるという。諏訪は明記していないが,「キャリア」についても同様であると推測される。ちなみに「教育訓練」及び「知識」については法律件数,用語件数ともに1である。
8 定年制度の現状については,拙稿「定年制度
の今日的位置」(早稲田大学大学院商学研究科紀要71号2010)を参照されたい。