12
機シ:統計熱力学 2020 (松本):p. 49 6 化学ポテンシャル,さまざまな統計集団 第4章および第5章で, 内部エネルギー E が一定の系 孤立系 温度 T が一定の系 熱浴 と接している系 温度 T も圧力 P も一定の系 熱浴 + 圧力溜 と接している系 について,それぞれ出現確率を求め,また,その規格化因子 = 分配関数 が各種の自由エネ ルギーと密接な関係があることを見た.「熱エネルギーの出入り」,「体積変化による仕事」,と くると,あと残っているのは「質量の出入り」,あるいは「粒子の出入り」による変化であ る.この章では,「粒子溜 に接している系」についても,これまでの章と類似の取り扱いがで mass reservoir あるいは particle reservoir という用語が一般的である. きることを眺める.これで,初等統計力学の道具立ては全て揃う ことになる. 6.1 問題設定 これまでと同様に,「大きな系 2」と接している「注目している系 1」を考える.今回は,系 1 と系 2 の間に,エネルギーの出入り粒子の出入りがある ものと仮定する.もちろん,こ Heat Bath T Particle Reservoir μ V: fixed E: variable N: variable energy exchange particle exchange 今度は,§5.4 のように体積の変化を考 えることはしない.もし,エネルギー 交換,粒子交換,体積変化のすべてが 可能であれば,系 1 をきちんと定義す ることは不可能になるからである.極 端な話,系 1 が完全につぶれてしまう (粒子数ゼロ,体積ゼロ,もちろんエネ ルギーもゼロ)ことも可能となってし まう. の時に「どんな状態がどんな確率で出現するか?」が問題である. 6.2 熱力学の復習:自由エネルギーの粒子数依存性 熱力学の授業の中では,温度依存性 圧力依存性 を考える機会は数多いはずだが,粒子数 依存性 を扱うことはあまりなかったかも知れないので,簡単に復習しておこう. 粒子数が変化する場合,エネルギー保存の式熱力学第1法則),(3–62) は次のように修 正される: dE = T dS - P dV +μdN (6–157) 右辺第3項が粒子数 N の微小変化による内部エネルギーの変化を表す.係数 μ 化学ポ テンシャル chemical potential とよばれている. 化学ポテンシャルと名付けられたのは, 粒子数の変化が重要になる代表的な現 象として,化学反応があるからである. もちろん,この式は,化学反応以外に も一般に成り立つ. 言い換えれば,次式によって 化学ポテンシャルを定義する のである: μ = ( ∂E ∂N ) S,V (6–158)

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機シ:統計熱力学 2020 (松本):p. 49

6 化学ポテンシャル,さまざまな統計集団

 第4章および第5章で,

• 内部エネルギー E が一定の系 = 孤立系

• 温度 T が一定の系 = 熱浴 と接している系

• 温度 T も圧力 P も一定の系 = 熱浴 + 圧力溜 と接している系

について,それぞれ出現確率を求め,また,その規格化因子 = 分配関数 が各種の自由エネ

ルギーと密接な関係があることを見た.「熱エネルギーの出入り」,「体積変化による仕事」,と

くると,あと残っているのは「質量の出入り」,あるいは「粒子の出入り」による変化であ

る.この章では,「粒子溜に接している系」についても,これまでの章と類似の取り扱いがで mass reservoir あるいは particle

reservoir という用語が一般的である.きることを眺める.これで,初等統計力学の道具立ては全て揃う ことになる.

6.1 問題設定

 これまでと同様に,「大きな系 2」と接している「注目している系 1」を考える.今回は,系

1と系 2の間に,エネルギーの出入りと粒子の出入りがあるものと仮定する.もちろん,こ

Heat Bath T

Particle Reservoir µ

V: fixedE: variableN: variable

energy exchangeparticle exchange

今度は,§5.4のように体積の変化を考えることはしない.もし,エネルギー

交換,粒子交換,体積変化のすべてが

可能であれば,系 1 をきちんと定義す

ることは不可能になるからである.極

端な話,系 1 が完全につぶれてしまう

(粒子数ゼロ,体積ゼロ,もちろんエネ

ルギーもゼロ)ことも可能となってし

まう.

の時に「どんな状態がどんな確率で出現するか?」が問題である.

6.2 熱力学の復習:自由エネルギーの粒子数依存性

熱力学の授業の中では,温度依存性 や 圧力依存性 を考える機会は数多いはずだが,粒子数

依存性 を扱うことはあまりなかったかも知れないので,簡単に復習しておこう.

粒子数が変化する場合,エネルギー保存の式(熱力学第1法則),(3–62)は次のように修

正される:

dE = TdS − PdV+µdN (6–157)

右辺第3項が粒子数N の微小変化による内部エネルギーの変化を表す.係数 µは 化学ポ

テンシャル chemical potential とよばれている.

化学ポテンシャルと名付けられたのは,

粒子数の変化が重要になる代表的な現

象として,化学反応があるからである.

もちろん,この式は,化学反応以外に

も一般に成り立つ.

 言い換えれば,次式によって 化学ポテンシャルを定義する のである:

µ =

(∂E

∂N

)S,V

(6–158)

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機シ:統計熱力学 2020 (松本):p. 50

前章で述べた Legendre変換の話は,もちろん µを含む項についてもそのまま成り立つ.たと

えば Helmholtz自由エネルギーは

F = E − TS (6–159)

と定義されるので

dF = −SdT − PdV + µdN (6–160)

また Gibbs自由エネルギーは

G = F + PV (6–161)

なので

dG = −SdT + V dP + µdN (6–162)

よって,化学ポテンシャルは次のように自由エネルギーの微係数 (1次導関数)としても求め

られる: もちろん,エンタルピー H(S, P ) を

使って

µ =

(∂H

∂N

)S,P

も成り立つ.

µ =

(∂F

∂N

)T,V

=

(∂G

∂N

)T,P

(6–163)

 これだけなら,µは単なる(自由)エネルギーの微係数 という位置づけに過ぎないが,次

の 有名な議論 から,µは特に Gibbs自由エネルギーと深い関係があることがわかる:

Gibbs自由エネルギー G(T, P,N)を考える.温度 T と圧力 P を同じに保ったまま,

全体を α倍しよう.この時,T と P は示強性変数 qualitative variable だから,粒子数 あるいは,同じ系を α個寄せ集めると

考えた方がわかり易いかもしれない.N のみが α倍になる.自由エネルギーは示量性 quantitative variable だから

αG(T, P,N) = G(T, P, αN) (6–164)

とならなければならない.両辺を,αで微分すると

G(T, P,N) =

(∂G

∂N

)T,P

N = µN (6–165)

つまり

µ =G

N(6–166)

以上の議論から,化学ポテンシャルとは 1粒子あたりの Gibbs自由エネルギー であること

がわかる.

 なお,2種類以上の粒子が存在する場合は,式 (6–157)を次のように拡張すればよい:

dE = TdS − PdV +∑k

µkdNk (6–167)

ここで,∑k

は,粒子の種類 kについて和をとることを意味する.他の自由エネルギーについ

ても同様である.

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機シ:統計熱力学 2020 (松本):p. 51

当然ながら,

µk =

(∂E

∂Nk

)S,V,Nj(j =k)

=

(∂F

∂Nk

)T,V,Nj(j =k)

=

(∂G

∂Nk

)T,P,Nj(j =k)

(6–168)

である.式 (6–165)の議論も次のように拡張できる:

αG(T, P,N1, N2, . . .) = G(T, P, αN1, αN2, . . .) (6–169)

を αで微分することにより

G(T, P,N1, N2, . . .) =∑k

µkNk (6–170)

となることがわかる.

6.3 粒子溜と接している系の確率分布

 さて,「熱浴+粒子溜」に接している系に戻ろう.問題は,「温度 T,化学ポテンシャル µ

の巨大な reservoir と接している系の確率分布を求める」,ということになる.方法は,前章

とほぼ同じであり,多重度を平衡状態のまわりで展開する.なお今回は体積変化は考えない

から,変数 V をあらわに表記することは省略する.また,簡単のために,1成分系について

の計算を示すが,多成分の場合も全く同様に導出できる.

 全エネルギー E0 = E1 + E2 と全粒子数N0 = N1 +N2 を定数とし,reserviorの多重度

g2(E0 − E1, N0 −N1)を Eeq1 とN eq

1 のまわりで展開する:

P (E1, N1) ∝ g1(E1, N1) exp [log g2(E0 − E1, N0 −N1)]

≃ g1(E1, N1) exp[log g2(E0 − Eeq

1 , N0 −N eq1 )

−∂ log g2∂E2

(E1 − Eeq1 ) + o(E1 − Eeq

1 )

−∂ log g2∂N2

(N1 −N eq1 ) + o(N1 −N eq

1 )

]ここで,やはり,Boltzmannの関係式 kB log g = S から

∂ log g

∂E=

1

kB

(∂S

∂E

)V

=1

kBT(6–171)

dE = TdS − PdV + µdN

より,

dS =1

TdE +

P

TdV−

µ

TdN

となる.

∂ log g

∂N=

1

kB

(∂S

∂N

)E

= − µ

kBT(6–172)

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機シ:統計熱力学 2020 (松本):p. 52

よって,

P (E1, N1) ∝ g1(E1, N1) exp

[−∆E1 + µ∆N1

kBT

](6–173)

が得られる.まとめると,

Ξ はギリシャ文字 ξ の大文字で,アル

ファベットの Xに相当する.英語では

xi と綴り ザイ あるいは サイ と発音

するが,日本語ではグザイと読む人も

多い.

温度 T,化学ポテンシャル µが与えられている条件下で,注目している系がエネルギーE,

粒子数N となる確率は

P (E,N) ∝ g(E,N) exp

[−E + µN

kBT

](6–174)

である.規格化因子

Ξ(T, µ) ≡∑N

∑E

g(E,N) exp

[−E + µN

kBT

](6–175)

は,大分配関数 grand partition function とよばれることがある.

 粒子数N を決めるごとに,エネルギー E についての和を独立して考えることができるか

ら,

数学的には,これも,§5.6で見たLaplace

変換の一種であると考えることができ

る.ただし N が粒子数なので,積分

ではなく,離散和である.

Ξ(T, µ) =∑N

exp

[µN

kBT

]∑E

g(E,N) exp

[− E

kBT

]=

∑N

exp

[µN

kBT

]Z(T,N) (6–176)

ここで,Z(T,N)は第4章で定義された分配関数である.なお,次式で定義される 絶対活動

度 absolute activity λ を導入すると

λ ≡ eµ

kBT (6–177)

大分配関数の表式が簡単になる:

Ξ(T, µ) =∑N

λNZ(T,N) (6–178)

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機シ:統計熱力学 2020 (松本):p. 53

6.4 大分配関数と自由エネルギー

 分配関数が Helmholtz自由エネルギーと関係し [式 (5–125)],T -P 分配関数が Gibbs自由

エネルギーと関係した [式 (5–146)]ように,大分配関数 Ξ(T, µ)も何らかの熱力学関数と関係

づけられることが予想できるだろう.次に,それを調べる.

 初等熱力学ではあまりなじみがないかも知れないが,次のような関数(グランドポテン 記号 Ω を使う教科書もある.

シャル grand potential と呼ばれる) J を定義しよう: G = µN を使うと,J の別の表現が

得られる.

J = F − G = −PVJ = F − µN (6–179)

これは,明らかに,Helmholtz自由エネルギーをLegendre変換 することによって (T, V,N) 前章では Helmholtz 自由エネルギー

F を Legendre変換して Gibbs自由

エネルギー G を得,対応する分配関

数 Z(T, V ) を Laplace 変換して得

られた T -P 分配関数 Y (T, P ) と関

係づけることができた.ここでも,そ

のアナロジーで話を進めている.こう

した一連の変数変換については,すぐ

後の節でまとめて示すことにする.

から (T, V, µ)に変数変換したものである.したがって

dJ = −SdT − PdV −Ndµ (6–180)

もちろん (∂J

∂T

)V,µ

= −S (6–181)(∂J

∂V

)T,µ

= −P (6–182)(∂J

∂µ

)T,V

= −N (6–183)

となる.この J を使ってエネルギー E を表しておこう.

E = F + TS

= J + µN + TS

=

(J − T

∂J

∂T

)+ µN

= −T 2 ∂(J/T )

∂T+ µN (6–184)

一方,大分配関数については,log Ξを温度 T で微分すると

∂ log Ξ

∂T=

1

Ξ

∂Ξ

∂T

=

∑N

[− µN

kBT 2

]exp

[µN

kBT

]∑E

g(E) exp

[− E

kBT

+

∑N

exp

[µN

kBT

]∑E

[E

kBT 2

]g(E) exp

[− E

kBT

= − µ

kBT 2⟨N⟩+ 1

kBT 2⟨E⟩ (6–185)

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機シ:統計熱力学 2020 (松本):p. 54

すなわち

⟨E⟩ = kBT2 ∂ log Ξ

∂T+ µ⟨N⟩ (6–186)

が得られる.先に導出した熱力学の関係式 (6–184)と比べると,予想通り,次の関係が得ら

れる:

 

J(T, V, µ) = −kBT log Ξ(T, V, µ) (6–187)

 

6.5 まとめ:統計集団,確率分布,分配関数,熱力学関数

 以上で,初等統計熱力学の重要な概念はほぼすべて出揃った.キーワードを補足しながら,

ここまでに得られた結果をまとめておこう.

等重率の原理 ともいう.

ensemble (アンサンブル):集団,集

合を意味するフランス語.合奏あるい

は合奏団を意味する音楽用語の「アン

サンブル」と同じ単語である.統計力

学では,同じ巨視的状態を示す微視的

状態の集合を意味する.

統計力学の出発点となる考え方は,与えられた巨視的条件の下で,多重度に比例した確

率で状態が観測されるという等確率の原理 principle of equal probability である.その背

後には,与えられた(巨視的)条件を満たす(微視的)状態は数多く存在するという事実

がある.このような,同一の巨視的条件を示す微視的状態の集団 を統計集団 statistical

ensemble と呼んでいる.巨視的な実験によって観測されるのは,こうした統計集団に対

する 平均値 である.

 これまでに扱った「巨視的条件」は4通りある.

• エネルギー E が一定

• 温度 T が一定

• 温度 T と圧力 P が一定

• 温度 T と化学ポテンシャル µ が一定

それぞれについて,出現の確率分布,その規格化因子としての分配関数,対応する熱力学関

canonical (形) 規準的な,標準的な.

キリスト教の教会法令を意味する canon

に由来する.

数,を表 6–1にまとめた.なお,すでに述べたように,数学的には,分配関数の間の変換は

Laplace変換,熱力学関数の間の変換は Legendre変換,という統一的な美しい構造をして

いる.

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表 6–1: 統計力学における各種統計集団のまとめ

独立変数 統計集団の名称 出現確率 規格化因子と名称 対応する熱力学関数 マクロとミクロをつなぐ関係

N , E, V

小正準集団micro-canonicalensemble

g(N,E, V )

多重度,縮退度— S

エントロピー

S = kB log gBoltzmann の関係式

N , T , V

正準集団canonicalensemble

g · exp[− E

kBT

]Boltzmann因子

Z =∑E

g exp[− E

kBT

]分配関数

F = E − TSHelmholtz 自由エネルギー

F = −kBT logZ

N , T , PT -P 集団T -P ensemble g · exp

[−E + PV

kBT

]  Y =

∫dV exp

[− PV

kBT

]Z(N,T, V )

  T -P 分配関数

G = F + PVGibbs 自由エネルギー

G = −kBT log Y

µ, T , V

大正準集団grandcanonicalensemble

g · exp[µN − E

kBT

]Gibbs 因子とよばれることがある

Ξ =∑N

exp[µN

kBT

]Z(N,T, V )

大分配関数

J = F − µNグランドポテンシャル

J = −kBT log Ξ

演習

明らかに,3組の独立変数ペア (つまり共役変数.P. 41を参照) が存在していることがわかるだろう:

E ←→ T

V ←→ P

N ←→ µ

だとすると,理論的には,この表に示した4通り以外に,さらに4通りの組み合わせがあるはずである.しかし,この表以外の組み合わせは実際に使われることはほとんどない.その理由を考えてみよ.

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機シ:統計熱力学 2020 (松本):p. 56

6.6 大正準集団の例:固体表面への吸着モデル

 次章以降で,化学ポテンシャルや大正準集団が活躍する例をいくつか見ることになるが,

ここでは,有名な例を1つだけ紹介しよう.

6.6.1 表面吸着のモデル

例題:吸着等温線

 固体触媒などに用いられる結晶表面には,特定の気体分子と強く結合するサイトが存在

することがある.このようなサイトをM 個もった結晶を考えよう.各サイトには,高々

1つの気体分子が吸着し,そのときのエネルギー(吸着エネルギー)が−ϵ (ϵは正の定数)

であると仮定する.一定温度 T のもとで,気体(理想気体と仮定する)の圧力と吸着量の

関係を調べよう.

• Step 1: 大正準集団を構成する

まず,気体の化学ポテンシャルが µのときの平均吸着量を求めよう.大正準集団の考え

方から,M 個のサイトのうちN 個に吸着している確率は

P (N) ∝ M !

N !(M −N)!exp

[Nµ−N(−ϵ)

kBT

]=

M !

N !(M −N)!exp

[N(µ+ ϵ)

kBT

](6–188)

となる.従って,平均吸着分子数(つまり吸着量)は

⟨N⟩ =

M∑N=0

NP (N)

=

∑N

NM !

N !(M −N)!exp

[N(µ+ ϵ)

kBT

]∑N

M !

N !(M −N)!exp

[N(µ+ ϵ)

kBT

]これは単純な2項分布だから,容易に計算できる.まず

分母 =大分配関数 Ξ =

(1 + exp

[µ+ ϵ

kBT

])M

(6–189)

次に∂Ξ

∂µ=

1

kBT×分子 (6–190)

となるから,

⟨N⟩ = kBT∂ log Ξ

∂µ=

M exp[µ+ϵkBT

]1 + exp

[µ+ϵkBT

] (6–191)

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機シ:統計熱力学 2020 (松本):p. 57

• Step 2

次に,理想気体の圧力と化学ポテンシャルの関係を調べよう.理想気体については,後

の章で詳しく取り上げる予定だが,理想気体の状態方程式

PV = NkBT

と,熱力学の一般式∂G

∂P= V

から,

G(P )−G(P0) =

∫ P

P0

V dP =

∫ P

P0

NkBT

PdP = NkBT log

P

P0

G = Nµの関係を思い出すと

µ− µ0 = kBT logP

P0(6–192)

すなわち

exp

[µ− µ0

kBT

]=

P

P0(6–193)

であることがわかる.ただし,P0 はある基準状態 での値である. 一貫性があればどんな状態を基準として

もよいが,例えば,標準状態 standard

ambient temperature and pressure,

T0 = 298.15K

P0 = 105Pa

がよく用いられる.

• Step 3

式 (6–193)を式 (6–191)に代入すると,結局,

⟨N⟩ = M

PP0

exp[ϵ+µ0

kBT

]1 + P

P0exp

[ϵ+µ0

kBT

]= M × P

P0e− ϵ+µ0

kBT + P(6–194)

が得られる.

 図 6–10に,

被覆率 ≡ ⟨N⟩M

=1

P0

Pexp

[−ϵ+ µ0

kBT

]+ 1

(6–195)

のグラフの例を載せた.このタイプの吸着量変化は,不均質触媒 heterogeneous catalyst など 反応物と均一に混じることなく働く触

媒で,固体表面の触媒作用などが典型

的な例.によく見られ,ラングミュアの吸着等温線 Langmuir’s adsorption isotherm と呼ばれている.

Irving Langmuir (1881–1957) 米

国の物理化学者.ドイツのゲッチンゲ

ン大学で Nernst の指導の下に気体の

解離平衡の研究で学位を取得後,GE

社で吸着などの界面物理化学の研究に

従事.1932 年ノーベル化学賞.

0

0.2

0.4

0.6

0.8

1.0

0 0.5 1.0 1.5 2.0 2.5 3.0

Ad

so

rptio

n R

atio

P / P0

kT / ε =0.5kT / ε =1.0kT / ε =2.0

図 6–10: Langmuirの吸着等温線の例.

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機シ:統計熱力学 2020 (松本):p. 58

6.6.2 (発展) 多層吸着のモデル

  Langmuirはこのモデルを 1918年に提案したが,実際の吸着現象はもっと複雑であろう.

例えば,吸着層の上にさらに吸着が起こることは容易に想像される.1938年,S. Brunauer,

P. H. Emmett,E. Tellerは,後にBET吸着式 と呼ばれるようになる多層吸着モデルを提

案した.その導出は,分配関数を求める良い練習になるので,ここでその概略を説明する.

 固体表面への直接吸着は,Langmuirモデルと同じで,1分子が吸着するとエネルギーが

−ϵ だけ減少するとする.固体表面がある程度吸着層で覆われると,その上に次々と分子が吸 こんなモデルを考えている:

着され,1分子あたり −ϵ′ のエネルギー減少があるとする.以上の仮定をおくと,M サイト

のうちN1個が第1層目の吸着分子で覆われ,さらにそのうちのN2個の上に第2吸着分子が

つき,さらにそのうちのN3 個の上に…,という確率は

P (N1, N2, N3, . . .) ∝ M !

N1!(M −N1)!exp

[N1(µ+ ϵ)

kBT

]× N1!

N2!(N1 −N2)!exp

[N2(µ+ ϵ′)

kBT

]× N2!

N3!(N2 −N3)!exp

[N3(µ+ ϵ′)

kBT

]× · · ·

=M !

(M −N1)!(N1 −N2)!(N2 −N3)! . . .

× exp

[(N1 +N2 +N3 + · · ·)(µ+ ϵ′) +N1(ϵ− ϵ′)

kBT

](6–196)

大分配関数は

Ξ(µ) =∑M

∑N1

∑N2

· · ·P (N1, N2, N3, . . .) (6–197)

である.もし Ξ(µ)が求まれば,明らかに

吸着分子数の平均 = ⟨N1 +N2 + · · ·⟩ = kBT∂ log Ξ

∂µ(6–198)

のように求めることができる.

 式 (6–197)を求めるのは難しそうに見える.しかし,見方を変えて,この吸着分子モデル

を「縦」に眺めると,M 個の吸着サイトそれぞれが,0, 1, 2, . . .個の分子を吸着していると考

すなわち,こんな風に見方を変える:

L=1 L=2 L=0L=0 L=1 L=3 L=2 L=1 L=0

このように,少し眺め方を変えると分

配関数がうまく手計算で求まることは

よくある.次の量子統計の章でも類例

に出会うだろう.

えることができる.吸着サイトに L個の分子が吸着しているとき,そのエネルギーは

E =

0 (L = 0)

−ϵ (L = 1)

−ϵ− ϵ′ (L = 2)

−ϵ− 2ϵ′ (L = 3)

. . .

(6–199)

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機シ:統計熱力学 2020 (松本):p. 59

すなわち明らかに,()M 内の無限等比級数は,

exp

[µ + ϵ′

kBT

]< 1

でのみ収束する.すなわち,µ < −ϵ′

でなければならない.−ϵ ≤ µ での発

散は,物理的には,「理想気体を仮定し

ているのに固体表面上に凝縮してしま

う」という不自然な現象に対応する.な

お,この等比級数を L = 1で打ち切っ

たものが,先に述べた Langmuirモ

デルである.

Ξ(µ) =

(1 + exp

[µ+ ϵ′ + (ϵ− ϵ′)

kBT

]+ exp

[2(µ+ ϵ′) + (ϵ− ϵ′)

kBT

]+exp

[3(µ+ ϵ′) + (ϵ− ϵ′)

kBT

]+ · · ·

)M

=

(1− exp

[ϵ− ϵ′

kBT

]+ exp

[ϵ− ϵ′

kBT

] ∞∑L=0

exp

[L(µ+ ϵ′)

kBT

])M

=

1− exp

[ϵ− ϵ′

kBT

]+

exp[ϵ−ϵ′

kBT

]1− exp

[µ+ϵ′

kBT

]M

(6–200)

従って,式 (6–198)より

⟨N⟩ = Mexp

[µ+ϵkBT

](1− exp

[µ+ϵ′

kBT

])(1− exp

[µ+ϵ′

kBT

]+ exp

[µ+ϵkBT

]) (6–201)

が得られる.これに,式 (6–193)を代入すると

⟨N⟩ = M

P0

P exp[ϵ+µ0

kBT

](

P0

P − exp[ϵ′+µ0

kBT

])(P0

P − exp[ϵ′+µ0

kBT

]+ exp

[ϵ+µ0

kBT

]) (6–202)

図 6–11に,ϵ′/ϵ = 0.5の場合の吸着量の圧力依存性をプロットしてみた.

 現在でも,このモデルを基にした吸着等温線が実験の解析によく用いられている.図 6–12

たとえば,脱臭剤に使われている活性炭 activated carbon は,植物原料を炭化することでナノサイズの孔がたくさん生成され,非常に大きな表面積をもつ.その炭素表面に各種の「におい分子」を吸着することで,脱臭作用を発揮する.その性能評価のための表面積測定に,こうした吸着等温線が利用されている.

東京都水道局のホームページから

に IUPAC (International Union of Pure and Applied Chemistry, 国際純正応用化学連合) が

提案している表面吸着等温線の6分類を示す.大まかには,分類 Iが Langmuirモデルに,分

類 IIが BETモデルに,それぞれ対応していると考えられる.

0

2.0

4.0

6.0

8.0

10.0

0 0.2 0.4 0.6 0.8 1.0

Ad

so

rptio

n

Relative Pressure

kBT/ε=0.5kBT/ε=1.0kBT/ε=2.0

図 6–11: 多層吸着モデルによる計算例.

図 6–12: IUPACによる表面吸着タイプの分類.出典:K. S. Sing et al., “Reporting Physisorption Datafor Gas/Solid Systems with Special Reference to theDetermination of Surface Area and Porosity,” Pureand Applied Chemistry, 57 (1985) pp. 603–619.

Page 12: 化学ポテンシャル,さまざまな統計集団...機シ:統計熱力学2020 (松本):p. 49 6 化学ポテンシャル,さまざまな統計集団 第4章および第5章で,

機シ:統計熱力学 2020 (松本):p. 60

6.7 この章のまとめ

 ここでは,最後の統計集団として,化学ポテンシャルを指定したときの大正準集団の考え

方を紹介した.これにより,主要な4つの統計集団 が出揃ったことになり,初等統計力学の

基本概念の導出は終了した.

• 小正準集団 (microcanonical ensemble)

• 正準集団 (canonical ensemble)

• T -P 集団 (T -P ensemble)

• 大正準集団 (grand canonical ensemble)

それぞれの集団に関する主要事項は,p. 55の表 6–1にまとめてある.

 次章からは,これらの道具立てを応用して,さまざまな現象を微視的な立場から理解して

いくことにする.