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Title 香りと記号 : 源氏香之図をめぐって Author(s) 岩崎, 陽子 Citation デザイン理論. 49 P.3-P.17 Issue Date 2006-11-18 Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/11094/52852 DOI rights Note Osaka University Knowledge Archive : OUKA Osaka University Knowledge Archive : OUKA https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/ Osaka University

Osaka University Knowledge Archive : OUKA · 学術論文 『デザイン理論』49/2006 香りと記号 源氏香之図をめぐって 岩 崎 陽 子 同志社大学ヒューマン・セキュリティ研究センター

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Title 香りと記号 : 源氏香之図をめぐって

Author(s) 岩崎, 陽子

Citation デザイン理論. 49 P.3-P.17

Issue Date 2006-11-18

Text Version publisher

URL http://hdl.handle.net/11094/52852

DOI

rights

Note

Osaka University Knowledge Archive : OUKAOsaka University Knowledge Archive : OUKA

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/

Osaka University

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学術論文 『デザイ ン理論』49/2006

香 りと記号源氏香之図 をめ ぐって

岩 崎 陽 子同志 社 大 学 ヒュー マ ン ・セ キ ュ リテ ィ研 究 セ ンタ ー

キ ー ワ ー ド

源 氏 香 之 図,香 道,九 鬼 周 造,記 号,香

Genji-ko-no-zu,TraditionalJapaneseartofscents,

ShuzoKuki,Sign,Scent

0.は じめに

1.源 氏香之 図

1-1香 道 の成立

1-2源 氏香之図の成立

2.源 氏 香之 図の意匠

2-1九 鬼周造 と源氏香之図

2-2様 々な源氏香之図 一 意匠 としての使用法

3.香 りと記号

4.結 びにか えて

0.は じめに

源氏香之図 は,江 戸寛永期に成立 したと言われ,5本 の縦線の上

部を52通 りの横線でつないだ図柄である 〔図1〕。形体は,す べて直

線で構成された,非 常にシンプルで幾何学的なものである。図の各々

には,源 氏物語の帖名が当てられており,直 線 による単純な構成の

背後に奥行きのある文学の世界を併せ持つ。源氏香之図は,「組香」

(香道における,競 技の一種)に 用いられる図柄として成立 し,意 匠

としても江戸期か ら現代まで広範囲にわたって親しまれてきた。そ

の使用は建築,着 物柄 〔図2〕(次 頁),和 菓子の文様 〔図3〕(次 頁),

包装紙等々に及ぶ。また,源 氏物語各帖の内容に因む吉凶をさりげ

なく示す ものとして,慶 弔の小物にあしらわれることもある。

覦 飜 羸 醸欄 飜 夢曲、 夕・A螢 ・ 鮎 凪、 残飛 繕

毳`傘 駄「 萼;を

飆 鐸鬆 簸懿 喩 嫐 韃廟 肖裏 奪'鬢 謹.簍:溺 鵐

黼 隰 贓 瀦r61照1'.

寉.避'嚢'畏1馨 衾'魚 ト

翻 藤 臟1照 飆1覦 謄蹂

蓑'蓬 鬟1竈1瓢 鼕'豪

馴轗 曝 聯睡響酵・ 袷 熹`'陰 隻氈 職

璽辱璽響璽攣 攣飜 礪 飜 跏 譲き蘿1購蕃韮き癈纛

sβ 躱 陣 ζxi富

ヨ、 灘 聯 覦 韈廱1癜 灘譲 謡 餅・ 嫁、 三;,・ 瘍ゆ κ 歯 竃 鵬 曁

〔図1〕 源 氏 香 之 図

しか し多様な場で用いられてきたこの源氏香之図について,先 行研究では図柄の成立経緯や

香道史における位置づけをとりあげることはあっても,意 匠としてこの図柄が もつ本質ともい

うべき,簡 潔で洗練された形体と豊かな意味内容との結びつきについて分析 したものは皆無で

ある。

本稿の 目的は,先 行研究にみる史実関係や文様の形成の検証をふまえつつこれに終始するこ

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とな く,源 氏香之図がす ぐれた意匠として用いられてきた理由を理

論的に分析す ることにある。またこの分析をより発展させ,源 氏香

之図を意匠として考える上で,香 りと記号との結びつきが深 く関係

することを指摘する。

このため,第1節 では,香 道史 とそこにおける源氏香之図の成立

について簡潔に述べる。第2節 では,九 鬼周造の論文 「「いき』の構

造」を使 って,源 氏香之図が,そ の簡潔な形体のなかに内在的に含

みもつ,意 匠 としての可能性を分析する。第3節 ではあいまいでと

らえどころのない香 りを,客 観的に固定するために使用す る記号の

役割について述べ,こ れが源氏香之図の意匠としてのあり方 に関わ

ることを明らかにする。

もともと香 りはあいまいで表現が困難なものであり,香 道におい

て も嗅覚のみならず五感の全てを使 ってその存在が表現されてきた。

香道のなかでの競技の一種である組香には,そ の競技の内容を和歌

や文学 に因んで設定 し,文 芸の表現世界にその情景を借 りて香 りを

〔図2〕 鶯色縮緬地源氏散草花

染小袖

〔図3〕 とらや 和菓子

表現するものが非常に多い。とらえどころがない香 りを,文 学との結びつきによって一つの世

界として方向付け,競 技に参加する人々が清景を共有 し楽 しむことができるようにするわけで

ある。源氏香之図は源氏香という組香の競技の中で使用 される記号であるが,五 つの香 りを記

号 に変換 し,こ の記号が源氏物語という壮大な文学世界の中へと誘 う装置 となる。組香 という

競技の中で,と らえどころのない香 りを単純化 して記号 となし,こ れを各人の想像力の力を借

りて奥深い文学世界と結びつけるというあり方が,意 匠としての源氏香之図に本質的な影響を

与えていることを検証する。

1.源 氏香之図

1-1香 道の成立

古来よ り宗教的儀礼や身を清めるための手段 として,香 は実利的に使用されてきた。 日本に

は鑑真和上 によって初めて香がもたらされたが,仏 教儀礼の際に用いるものとして紹介された。

平安貴族達 はこの香において,遊 戯性や芸術性を高めようとした。香を宗教儀礼や衛生と切 り

離 し,そ のものとして楽 しむこと,こ れが日本における香道の誕生につながる。以下において

香が日本においては遊戯 として発展 し,後 の 「香道」の誕生へといたる歴史を概観することに

しよう。

香は,原 料が日本では手に入 らない貴重なものであり,は るか東南アジアやインドか ら舶載

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された。こうした高価で稀少価値の高い香料を手に入れることができたのは,一 部の支配階級

であった。その結果,香 の使用は権力者の歴史 と共に発展 してきた。

香についての最古の記述である 『日本書紀』は,聖 徳太子の時代に,香 木が現在の淡路島に

流れ着いたことを伝えている2。

奈良時代,海 を渡って日本に辿 り着いた僧 ・鑑真によって,8世 紀には唐における香の使用

方法が,日 本に具体的に伝えられた。鑑真の伝えた内容は,今 となっては明らかではないが,

おそらく仏教儀式の際に用いられる香を,幾 つかの原料で配合 した ものと考えられている。香

がいくつもかけ合わされていたということは,香 は唐において,も はや仏教儀式のみならず,

健康維持や娯楽の一種 として広まっていたことを推測させる。

鑑真の伝えた香の配合は,平 安時代には貴族の間で和風化され,日 常生活で用いられ,遊 戯

として発展 していくようになった。 この一種が煉香(薫 物)で ある。煉香(薫 物)は,香 の原

料を粉末にして混ぜ合わせ,蜜 や梅肉といった糟 性のあるもので丸めて,好 みの香 りを調合す

るものである。煉香には 「梅花」,「荷葉」,「菊花」,「落葉」,「侍従」,「黒方」といった文学的

な銘がつけられ,季 節感や文学的素養が重視された。 ここにおいて既に,香 りと文学的素養と

の深い関わ りが見られるようになる。

また煉香は,源 氏物語にもみられるように,「薫物合わせ」という遊戯 にも用いられた3。こ

れは季節ごとのテーマに沿 って独自の煉香(薫 物)を 制作 し,そ の優劣を競 うものであった。

この煉香(薫 物)や 薫物合わせという香の形式によって,平 安貴族達が各々独自に香の配合を

し,そ れによって様々な香 りの表現を行 うようになった。香が仏教儀式や日常生活における清

めの道具 といった使用から離れて,「遊戯」や 「楽 しみ」 となったことは,後 の香道の誕生に

大きな関わりをもつ。

このような平安貴族に代わって,12世 紀には武士の時代が到来す

る。武士は平安貴族のように,手 間のかかる煉香 よりもむしろ,香

木をそのまま熱 してその香 りを楽 しんだ 〔図4〕。裕福な武士は,南

方から大量の香木を舶載 した。「太平記』の中の有名な逸話に,婆 沙

羅大名 として有名な佐 々木道誉が,大 原野の花見で,一 斤もの香を

一度に焚き上げたとある4。

〔図4〕 香の種 類

室町時代に足利義政の命によって,武 士の間で収集されていた香木を,そ の香りや産地によっ

て体系的に分類 したのは,志 野宗信と三條西実隆であった。志野宗信は足利義政の軍師であっ

たのみならず,茶 道や歌道にも通 じた文化人であった。また公家の出である三條西実隆 も,宗

祇より古今伝授を受けてお り,歌 道に秀でていた。両者は膨大な数の香木を分類 し,銘 をつけ

た。また香木を使う遊戯に,一 定の作法や道具類を定めた。これが香道の始まりであると言わ

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れている。「志野流」 と 「御家流」 という,香 道の現在の主要な2つ の流派は,そ れぞれ志野

宗信と三條西実隆を流祖とする。

ところで香道が決 して単独で現われたものではなく,足 利義政を中心 とする一種の文化サロ

ンの中で,他 の芸道 と呼応 して花開いたという点にも注目しておかなければならない。連歌の

宗祇,古 今伝授の三條西実隆,絵 師の能阿弥,相 阿弥,立 花の池坊,茶 の村田珠光たちによっ

て東山文化が栄えたのと時を同じくして,香 道は様々な日本文化の担い手達の総合的な営みの

中で作 り上げられた。香道の成立事情は,多 岐の文化に通じ,ま たそれを基礎として究めると

いう現在の香道のあり方に影響を与えている。香道の作法やきまりには,諸 芸道に通 じるもの

があり,浸 透 しあって形成されたものである。

江戸時代に入 り戦乱の時代か ら離れ,政 治の中心が京都から江戸に移ると,京 都の公達は,

政治に関わるよりも,文 芸の復興に尽 くすようになる。香道 もこの頃より隆盛 し,当 初は男子

の教養や嗜みであったものが,良 家の子女の教養として定着するようになった5。後水尾天皇

に輿入れ した二代将軍 ・徳川秀忠の娘,東 福門院は香に熱中し,豪 華な道具や香の蒐集に力を

入れた。香道の隆盛は,こ うした後水尾天皇と東福門院の経済的 ・精神的な尽力によるところ

が大きい。

また,香 道の重要な一要素 としての 「組香」が多 く生まれたのも,こ の時代である。組香 と

は,平 安時代の薫物合や,室 町時代の武士の香合に端を発 した香遊びである。組香では,2種

類以上の香が姓かれる。その香 りを区別 し,香 りによって醸 され,和 歌や古典文学によって方

向付けられたイメージの世界を,参 席者が共有する。それは決して優劣を競 うためだけのもの

ではな く,む しろ幻想的な世界に遊ぶためのものである。 こうした組香は 「源氏物語』や 『伊

勢物語』 といった古典文学,葵 祭や競馬といった季節の行事や,四 季折々の題材から着想を得

て創作された ものであり,現 在その数は,一 説に700種 にも

のぼると言われている。 したがって このような組香をこな

し,か つ楽 しむためには 日本の古典文学や和歌,王 朝の雅

な文化に通 じている必要があった。

こうして室町時代に基礎づけられ,江 戸時代 に発展を遂

げた香道が,現 在 も受け継がれている 〔図5〕。〔図5〕 香席夙景

1-2源 氏香之図の成立

「源氏香」 は組香の一種であり,そ こで使用される図柄が 「源氏香之図」である。

既に述べたように組香とは,幾 人かが集い,香 をめぐって行う一種のゲームである。香を遊

戯として楽 しんだ初期の段階では,そ の形式は単純な ものが多かったが,後 に源氏香のような

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複雑な遊びも現れる。一説に享保年間にまで遡ると言われている源氏香が,正 確にいつ成立 し

たものか,誰 が考案 したのかは定かではない。 しか し3種 の香をた く三種姓の三種香,四 種姓

の系図香を経て,五 種焼の源氏香の形ができあがったものと思われる6。

源氏香では5種 の香を準備 し,各5包 計25包 をうち混ぜる。その中から5包 を取 り出 して

姓き出す。参席者は順にその5つ の香を聞き,記 紙に結果を書き付ける。この際,描 かれるの

が源氏香之図である。源氏香之図は,右 から順に縦線を5本 引 く。これが右から順に一炉の香,

二炉の香と続き,そ して一番左端が五炉の香を示す。 このうち,同 じ香だと思われるものを横

線で結ぶ。そうすることによって,52通 りの図が存在 し得る。 これらの図に源氏物語54帖 の

うち,最 初の桐壺 と最後の夢浮橋をのぞ く52帖 の名がつけられている。5本 の縦線 とそれを

上部でつな ぐ横線 のヴァリエー ションが,52通 りあるということか ら源氏物語が連想 され,

図柄と巻名が結び付けられた。(例 えば第一香と第二香が同 じものであり,あ との三香がそれ

ぞれ異なる場合,こ れは 「空蝉」である。)5つ の香を聞き終えた後,参 席者は記紙に源氏香

之図を描 く。そして順に回されてくる 「源氏香之図帖」をみて,自 分の図の名称を確認 し,そ

の図の下に若紫や,初 音といった名称を書き込む。正解者には 「玉」という字があてられる。

これは玉 という字が5画 であること,ま た源氏物語の冒頭にあるように,光 源氏が 「玉」のよ

うな男の子であったいうことに由来するものである。単なるゲームとして解答の正否を競 うの

ではなく,源 氏物語によって繰 り広げられる優雅な王朝絵巻のイメージを,参 席者全員で楽 し

むことが趣旨とされる。

江戸時代以降,多 くの場で意匠として親 しまれてきた源氏香之図であるが,そ の図柄 と巻名

の結び付きについてはっきりとしたことはわかっていない。最初の桐壺と最後の夢浮橋を除 く

と,帚 木と手習は,図 柄として巻の始 まりと終わ りを示すのに相応 しい。 しかしその他の図柄

については,そ こに法則性を見出すことは困難である。 これを説明 しようとする先行研究 もい

くつかあり,例 えば和算によって数学的に説明したものや,各 縦線を源氏物語の中の登場人物

の人間関係 になぞ らえるもの7,源 氏香之図と同様に52種 ある トランプとの類似性を指摘する

ものもある。 しか し,源 氏香之図の魅力は,図 柄 と源氏物語の巻名との結び付きについての謎

解きにではなく,シ ンプルで幾何学的でありながら存在感のある図柄そのものと,こ れが背後

に持つ豊かな文学的世界にある。 この魅力のゆえにこそ,源 氏香之図は組香で使用される図柄

から独立 して,和 菓子,着 物,工 芸品などに意匠として使用 されるようになった。

2.源 氏香之図の意匠

2-1九 鬼周造 と源氏香之図

源氏香之図に魅せられた文豪(例 えば泉鏡花は,師 の尾崎紅葉の名に因んだ 「紅葉賀」の図

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柄を,自 らの身辺で多用 した)や,各 界の老舗(商 標に使用 した)の ように,そ の図柄を好み,

身近に親 しんだ例は枚挙に暇がない。また,学 問的に源氏香之図と源氏物語との関連を探求 し

た り,数 学的に解明する試みがあることも既に紹介 した。 しかし,源 氏香之図のその形体性の

魅力に注 目し視覚的に分析 している数少ない例として,九 鬼周造(1888-1941)の 「『いき』

の構造」(1930)が あげられる。

九鬼は 「『いき』の構造」の中で,と りわけ源氏香之図を中心に分析 しているというわけで

はない。 しか しいわゆる 「野暮」ではない,「 いき」な ものの例として源氏香之図に言及がな

されていることを思えば,源 氏香之図の魅力を 「いき」の側面からとらえることは十分可能で

ある。

ところで九鬼は,芸 術を表現の対象によって大きく 「客観的芸術」と 「主観的芸術」に分け

る。客観的芸術は,芸 術内容が具体的表象に規定 される場合であり,絵 画,彫 刻,詩 がこれに

あたる。主観的芸術は具体的表象に規定 されずに,自 由かつ抽象的に創作がなされ得るもので

ある。そして主観的芸術はその例を建築,音 楽 とするが,興 味深いのはそれらに加えて 「模様」

があげられていることである。客観的芸術において 「いき」は,「 いきな女を描いた」浮世絵

のごとく,直 接的に表現 される。 これに対 して,模 様や建築,音 楽といった主観的芸術におい

て 「いき」は具体的な形体をもっては表現されえず,抽 象的な形体に多分にその表現内容を預

けることとなる。 しか し九鬼によれば,そ れがゆえにかえって 「いき」がそこで鮮明になる。

その理由については想像力の問題と関連 して後で考察することにして,九 鬼が重点をおいた

主観的芸術の中の模様,と りわけ 「縦の平行線」について,源 氏香之図を念頭におきつつみて

いこう。九鬼が源氏香之図について述べているのは,「 いき」 と 「縦の平行線」やその例示と

しての縞模様についての分析においてである8。九鬼はいう。「自由藝術として第一に模様は

『いき』の表現と重大な関係をもっている。然 らば,模 様としての 「いき』の客観化はいかな

る形を取つてゐるか。先づ何等か 『媚態』の二元性が表はされてゐなければならぬ。またその

二元性は 「意気地』と 『諦め』の客観化 として一定の性格を備へて表現されてゐることを要す

る。さて,幾 何学的図形としては,平 行線ほど二元性を善 く表はしてゐるものはない。永遠に

動 きつつ永遠に交はらざる平行線は,二 元性の最 も純粋なる視覚的客観化である。」9まずここ

で言われている 「二元性」についてであるが,こ れは男女間のつかず離れずの緊迫 した関係に

たとえられるように,「何かが起こりそうで決 して起こらない」という,「こと」の生起が嘱望

されなが らも未発生な在 り方を示 している。 これを幾何学的図形としてみるならば,矢 印やバ

ツ印のように何らかの対応関係を示すものとして形体そのもので完結するのではなく,た だひ

たす ら何をも指し示すことな く延びていく平行線がまさにそのようなあり方であろう。こうし

た平行線の中でもさらに,縦 の平行線 こそが 「いき」であるとされる。九鬼は横線よりも縦線

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の方が,平行線を平行線 として容易に知覚できると述べ る。その理由として人間の目は左右に

水平 についているので,横 線そのものを継起的に見るのに反 して,縦 線は2線 の乖離に目が向

き平行線 として知覚されやすいとする。縦の平行線が横のそれに比 して人間の知覚に抗うこと

な く,す んなりと受け入れ られやすい性格をもつということは,重 力を考えてみて もわかると

九鬼 はいう。確かに,横 の平行線は静止を思わせるが,縦 の平行線 は,落 下する小雨をみて も

わかるように,自 然の原理に沿 った動きを示 している。

知覚の習慣に従 うという意味では,九 鬼は言及 していないが,縦 の平行線の中で も,右 か ら

左へと平行線を見るということの方が,逆 の左か ら右へよりも我々に日本人にとっては容易で

あるといえよう。 これは日本語の縦書きの表記方法,ま た絵巻物の進行方向を考えて もわかる

ように,日 本では古 くか ら右か ら左へと表記の進行方向が規定 されていたか らである。このこ

とは源氏香之図の描き方にも関係がある。これが香席で右から左へと描かれ,模 様として も右

から左へと見 られるべきであるのは,日 本人の知覚にすれば,習 慣的に無理のないものであっ

た1°。 こうした縦の平行線への志向を,九 鬼は着物の 「縞柄」を例に挙げて述べているが,確

かに当時の浮世絵に様々な種類の縞柄を見ることができる。

さて,九 鬼は縦の平行線のみが 「いき」であると限定するわけではない。横線が縦線と同時

に用いられる場合,例 えば縦線が 「くくりをつけ られた」 ときに横線 も 「いき」であるとされ

る。 これには 「縦縞の着物に対 して横縞の帯を用いる」 とか,「下駄の木 目または塗 り方に縦

縞が表れているとき緒に横縞を用いる」 といった具体的な例があげられているlI。そしてここ

にはあげられていないなが らも,ま さに縦線とそれをつな ぐ横線で構成されている源氏香之図

もこの例に合致するものであるといえよう。こうして,横 線との関係 も含めて縦の平行線は,

その縦線の引かれる順序や方向か らしても日本人の知覚に無理のないかたちですんな りと受け

入れられることから 「いき」であると結論づけられる。

これに対 して,絵 画的な模様は 「いき」ではないとされる12。つまり現実の事物に即 した具

体的な模様は直接的に対象を指 し示 し,見 るものに想像の余地を与えない。つま り 「いき」の

構造にはまた一方で,想 像力が非常に重要な役割を果たすということになる。九鬼は 「いき」

なものの具体的な例として,湯 上が り,薄 ものをまとうこと,素 足,襟 あし,薄 化粧などをあ

げているが,そ れ らに共通するのは生身の身体に直接的に触れることなく,想 像力をかきたて

ることである。 しかしここで肝心な点は,そ れらの素足や襟足が欲望の対象そのものではない

ことである。想像力とは,縦 の平行線の分析と同様 に,望 みつつ未だ現実化されていない対象

に関わる。既に述べたように,模 様や建築,音 楽 といった主観的芸術において 「いき」が具体

的な形体で表現されず,抽 象的な形体に依 るがゆえにかえって鮮明になるというのは,そ こに

想像力が働 くからである。源氏香之図に触れて九鬼が述べたのは,縦 の平行線の文脈において

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のみであった。 しかし縦の平行線における 「ことが嘱望されつつも未発生であること」という

性質を敷衍すると,「いき」の本質 にある想像力の問題に行き着 く。そしてこれが源氏香之図

の意匠にかかわる重要な視点である。源氏香之図は源氏物語の各帖に広がる奥深い世界を,逐

一絵画化することや言葉によるくだくだしい表現をなすことなしに,簡 潔な形体によって巻の

名を示 してそこに現出する情景を見る者の想像力に委ねる。

こうした九鬼の分析 とそれを敷衍 した理論か ら,源 氏香之図が着物の縞模様に織 り込まれる

等 「いき」な意匠としてしばしば用いられていることの理由が理解されよう。また,源 氏香之

図が多分に想像力を働かせる装置 として機能するのも,そ れが単純で似たような形体でありな

がら,一 つのグループの中で実に52通 りものヴァリエー ションを もち,そ れぞれの世界が源

氏物語の四季や悲喜 こもごもの世界と密接にかかわっているからに他ならない。こうした一群

の図柄は他に類を見ない貴重な ものであるといえよう。

2-2様 々な源氏香之図 一 意匠としての使用法 一

「『いき』の構造」 における九鬼の分析を,さ らに展開させることによって,源 氏香之図の

意匠としての使用法に具体的に言及 しよう。

ところで,源 氏香之図を一見 して源氏物語の帖名を言い当てる人がどれほど存在するであろ

うか。特に現代ではこれを知 る人が少な くなりつつあるが,か つてはその図柄が源氏物語に関

係 しているということは周知の事実であった。 したがって江戸期の着物や歌舞伎の衣装,浮 世

絵では季節や内容に配慮 して,そ の場 に相応 しい源氏香之図が選択された。こうした江戸時代

か ら現代までの浮世絵や,工 芸品での源氏香之図の使用のされ方を見る限 り,概 ね3通 りの方

法があるといえよう。

第一に,源 氏香之図を文様として取 り入れるのみならず,そ こに源氏物語の世界を意図的に

現出させ る意図を もつ ものである。 〔図6〕 は源氏物語に登場する末

摘花を浮世絵美人 として描いたものである。着物 には末摘花の意匠

のみならず,い くつかの源氏香之図が大き く散 らされており,見 る

ものの目を引 く。あ くまで もこれは,源 氏香之図の意匠が源氏物語

に因むことが気づかれることを前提としているが,そ の気づきの瞬

間から,見 るものの想像力の発動と共に,源 氏物語 の世界が動き出

す。 これに似たものとしては,「留守文様」が連想されよう。これは

工芸品において,し ば しば古典 に題材をとりつつ も,あ えて主人公

を描かずに,そ の場面 に登場す る印象的な風景や事物によって,見

るものの想像力を喚起 し,情 景を再現させる手法である。源氏物語〔図6〕 歌川豊国 「源氏後集余

情 末摘花」

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の場合,鳥 居や御所車,雀 と伏せ籠などが配 される。 こうした留守文様の究極のかたちが源氏

香之図であるといえるかもしれない'3。光源氏や物語の中の象徴的な事物さえ も描かずに,シ

ンプルな記号で源氏物語を示すこと,そ れは見る人に最大限の想像力を要求 し,そ れぞれの内

部に固有の世界の広が りを促す。

第二に,背 後に意味世界を持たない,純 粋な意匠として源氏香之図が用いられることもある。

つまり季節や源氏物語の内容とは無関係に,源 氏香之図を散 らして,そ の幾何学的な効果を楽

しむわけである。 ここで興味深いのは,意 匠を優先するあま り,「存在 しない源氏香之図」を

描 く場合があるという点である。例えば本来5本 のところを,3本 や6本 の縦の平行線を用い

たり,横 線を下にず らした もの も存在する。これ らは源氏香之図としては存在 しないものであ

りながら,一 見まるで源氏香之図のように見せかけられている 〔図7〕。一説 によれば,江 戸

時代の工芸品で源氏香之図を用いた ものの大半が,こ うした 「偽源氏香之図」 ともいうべきも

のであったとされる㌔ これ らは単に源氏香之図を描き損なったものなどではない。これ らの

図は,各 々の帖との対応関係によって源氏物語と関係をもつものではないが,意 匠としての新

奇 さや斬新 さを追い求あつつ,や はり尚一本の細い糸で源

氏物語の世界ともつながっている。そうした変則的なあり

方 も,源 氏香之図の もつ意匠の面 白みの幅として広 く受け

入れ られていたのではないだろうか。〔図ア〕円に源氏香文腰帯

現代においては,京 都な どの伝統的な都市に居住するか,茶 道や香道に関わる場合を除いて,

源氏香之図を生活の中で見いだすことは稀となり,ま た見ても気づかない人の方が大半であろ

う。当然ながら,そ うした中では源氏香之図はまた別の意味を帯びて くる。それが次に述べる

源氏香之図の第三の用いられ方である。端的に述べればそれは,源 氏香之図そのものをして 日

本文化の粋を体現させようとするあり方である。例えば季節毎に決まって用いられる小物にそ

の季節に合 った源氏香之図をあしらい,季 節の和菓子の意匠として,ま た建築物に和風の要素

を取 り入れるための意匠として源氏香之図を取 り入れる。松栄堂や鳩居堂といった,香 を販売

している老舗の製品には,源 氏香之図が季節感に配慮 して配されており,ま た包装紙などにも

源氏香之図が取り込まれている。現代的な概観で知 られる京都駅 ビルの中の老舗料亭の和室に

は 「源氏の間」として釘隠に源氏香之図を清水焼で象っている。こうした 「和」や 「伝統文化」

が主張される場で,国 民文学ともいうべき源氏物語に由来する図柄が用いられるのは不自然な

ことではない。 しかし季節を吟味 し,源 氏物語の内容による吉凶を厳密に区別するような15,

現代における源氏香之図の使用のされ方を見る限り,そ こに江戸期の 「偽源氏香之図」(〔図7〕

参照)の ようなあそびの要素は存在 しない。 これは源氏香之図そのものが滅多に用いられなく

なったことの裏返 しであろう。あそびがあそびとして成立するのは,正 統なかたちが大衆に流

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布 していることが前提 となっているといえよう。正統な源氏香之図ですら目にする機会が少な

くなった中での 「偽源氏香之図」の使用は,源 氏物語とのつながりを失った別様の意匠として

見 られる危険性をもち,も はや源氏香之図の一種 としては成立 し得ない。正統な源氏香之図は,

和菓子や着物の意匠に見 られるとはいえ,京 都の老舗陶磁器店では何年 も前にこれをあしらっ

た重箱を作成 したきりその意匠を使った製品は売 り出していないという。源氏香之図が大衆 に

流布するといった状況でなくなった現在,こ の形体を 「偽源氏香之図」のようにあそび心で崩

す といったことなく,正 統に用いて日本の伝統文化をさりげな く演出する役割をこの図柄に担

わせているのではないだろうか。

さて,こ れまで源氏香之図の用いられ方の特徴を概観 してきた。 これらの過去から現在にわ

たる様々な用いられ方の背後には,単 なる文様や図柄ではない,記 号性を併せ持つものとして

の特徴が特殊なあり方 として関わっている。それは,世 界でも類をみない香道の発展からもわ

かるように香 りを文化 としてとらえ,こ れを記号として表現 しようとしてきた独特の感性に由

来す る。

3.香 りと記号

既に触れたように,九 鬼は芸術を客観的芸術(絵 画,彫 刻,詩)と 主観的芸術(模 様,建 築,

音楽)に 分類 した。これと似た視点で,絵 画と模様(装 飾)を 取 り上げ,絵 画を再現的美術 と

し,模 様はそれとは異なる見方を要求するものであると主張 したのは,ゴ ンブリッチ(E.H.

GOMBRICH1909-2001)で ある。彼は 『装飾芸術論』(1979年)の 中で,「 視ること(see-

ing),眺 めること(looking),注 目す ること(attending),読 みとること(reading)の 違

いを忘れてはならない。一 中略一 壁紙やカーテンの模様,額 縁の渦巻飾 りなどは情報を伝

えないので,意 識的な精査を誘うことがほとんどない。部屋にかけてある絵に気づかないこと

も確かにあるし,壁 のつ くろいとしかみなさないこともあろう。 しかし私たちは絵 というもの

はつねに焦点を合わせて熟視するものだと心得ている。注目に値するか否かを問わず,絵 画は

話 しかけるのと同じで,暗 黙のうちに注 目を求めるものである。装飾は,こ の要求ができない。

装飾の効果は,私 たちが周囲に目くばせ している間は払わな くてもよい,実 にあやふやな注 目

に普通は依存 している」isと述べている。 ここにあるのは対象を記号としてその背後に広がる

何ものかを見るか否かの問題である。 ゴンブリッチによれば,絵 画は一種の象徴 として見 られ

ているのに対 し,装 飾や模様ではその機能があやふやである。またゴンブリッチは同書の 「記

号のデザイン」という章で リーグルの 「装飾 と象徴の境界を明確にす るのは,と くに困難な課

題の一つである。」17という言葉を引きつつ,装 飾におけるモティーフと意味の関係性を逐一取

り上 げることの困難 さを語 る。本来,何 らかの形象であったものが簡略化 されてしまったよう

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なものを,そ の起源にまで遡 って解明するのも,そ の象徴性が失われて しまっていては難 しい。

ところが興味深いことに,む しろデザインの世界ではそうしたものの方が,神 秘的な力を発

揮すると彼は述べ る。「意味が既に忘れ去 られた神秘的象徴が投げかける呪縛ほど強いものは

ない。 これらの不思議な形に具現化された古代人の知恵を,誰 が教えられるであろうか。読む

前からただよっているエジプ トの象形文字をとりまくアウラは,人 間の創造に働きかけて くる

神秘 に他ならない,太 古の知識と知恵に起源を探るのに,何 か目に見え,連 想可能な印の助 け

を借 りることになる。」18

ゴンブ リッチの象徴や記号に関する見解を,源 氏香之図についてあてはめるとどうか。源氏

香之図の図柄そのものが,源 氏物語の帖の内容を形体的に表 しているかは明確でない。図柄の

縦線の離れ具合が別離を象徴 しているという説も存在するように,図 そのものに記号 としての

何らかの象徴作用をみるということも可能であるかもしれない。また,そ れが源氏香之図であ

ると認識 されないなら,こ れ ら一群の図はエジプ トの象形文字 と似て非常に神秘的なアウラを

漂わせるであろう。 しかし一方で,源 氏香之図を知る人にとって,こ の図柄は厳然とした記号

でもある。それは源氏物語のうちの52帖 の各 々の物語を背後にもち,そ の内容を知る人に,

図柄を契機 とした別世界の現出を約束 して くれる。

九鬼によれば,源 氏香之図を含む模様というものは,絵 画のように形象として直接何 らかの

「もの」を表 さないがゆえに 「いき」であるとされた。 ゴンブリッチも装飾の模様において,

象形文字のように何かの形を象っているようであ りながらその出自がわからないものに,神 秘

的なアウラを感 じると述べる。両者は,記 号が特にある対象を直接的に表さないという点に共

通 して価値を見出している。

しかし象形文字のアウラが,そ の もともとの形象の喪失によってもたらされるのとは異なり,

源氏香之図の魅力 は,一 群の記号の52通 りもの縦線 と横線の微妙な配置によって,万 華鏡 の

変化するようにその意味内容が変わることにある。実際の源氏香の香席では,5つ の香が出回

り,参 席者が源氏香之図を描 くと,「香之図帖」〔図8〕 がまわされる。これは参席者が自分の

描いた源氏香之図が,源 氏物語の どの帖名にあたるのかを確認する

ためのものである。一般的に小 さく折 りたたまれ,源 氏物語54帖 の

うち,表 の桐壷,裏 の夢浮橋 にはさまれるかたちで52通 りの源氏香

之図と,各 帖に因んだ事物,ま た和歌などが描き込まれている。こ

れは一般的に非常に繊細で華麗なつ くりにな っており,手 に取るだ

けでも心躍 るものである。 自分の回答 として描いた源氏香之図がど

こにあるのかを一つ一つ丹念にみていく過程で,源 氏物語の世界へ

とひき込 まれていく。源氏香之図という一種の記号が香 りと物語の〔図8〕 宝鏡寺蔵源氏香図

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世界との架け橋になるその時間は,日 常のときの流れとは異なる時間を露わにする。また意匠

として用いられた源氏香之図も,ど の図柄を用いるかによって,物 語の内容によって慶弔や属

性を表現す ることが十分可能であり,ま たその使用のされ方は,一 見 してそのものと特定でき

るような表現ではなく,さ りげな くその意味内容を伝えるというものである。

したがって,源 氏香之図の意匠としての魅力は,香 道における 「香 りを記号化する」 という

志向,つ まり香 りのあいまいさを,単 純な形式の記号によって,文 学世界の一つの共通概念に

固定 しようとする意志に根本的に関係する。 こうした香 りの記号への志向性によって,源 氏香

之図は源氏物語の52帖 の世界を漂 う契機を与えてくれる。そしてまたこの香 りの記号化への

意志が源氏香之図の根底に存在 し,図 柄が一群で52通 りもあるがゆえに一時に源氏物語の華

麗で多彩な世界と結びつ くことを可能にしている。

そもそも,源 氏香之図は香道の組香において,香 りを記号化 したものであった。五つの香の

異同を,参 席者たちが回答する際に用いるものであった。 しか し遊戯の優劣を競 うだけである

な ら,図 そのものでよかったのであり,そ れにわざわざ源氏物語の帖名まで付加 しなくてもよ

いはずである。香りの世界では,し ばしばこのように,文 学や和歌との密接な結びつきが存在

する。これは香りというあいまいでとらえどころのないものを手がかりに,幾 人かで一つの世

界を共有するための工夫であった。香 りはそれほど表現が困難なものである19。

香道の成立の際,膨 大な数の香木が分類されたことは,既 に述べた。そのあいまいで表現が

困難な香 りにしたが って,香 木を記号化,分 類する方法は二つあった。「立国」 と 「五味」で

ある。これ らを併せてしばしば 「立国五味」という。「立国」 とは,香 木の産地 にしたが って

「伽羅,羅 国(タ イ),真 那賀(マ ラッカ),真 南蛮(マ ナガル ・インド),佐 曾羅(サ スバール ・

イン ド),寸 門多羅(ス マ トラ)」というように,産 地別に分類することを指す(し かし厳密な

産地は香木を舶載する際に大抵不明になるので,日 本に入 ってきた後で恣意的に良質の香木を

伽羅,そ れよりも質の劣るものを寸門多羅,と いうように香を分類 した)。一方,「五味」は,

商人で東福門院に才能を見出された,米 川常白という香の名人が編み出した分類法である。彼

は 「甘,酸 辛,苦,鹹(か ん ・塩からい)」 という5つ の味覚表現を,嗅 覚を表現する際に

用いることを考案 した。香木を熱 した際に立ち上る香を,「甘 い香 り」や 「辛い香 り」 と識別

す るのである。例えば,最 高級の香木であるとされる伽羅のうちでも,特 に名香 と賞される,

正倉院宝物である 「蘭奢待」 は,こ れら五つの味を併せ持つ とされる。このように嗅覚を味覚

の表現を借 りて記号化するのは,嗅 覚が非常にあいまいなものだからであろう。その上,人 間

の鼻はす ぐに香 りに慣れて しまい,判 断そのものが長続きしない。 したがって,先 人の知恵は

嗅覚を味覚で表 し,あ いまいな香 りを記号によって記憶の中に固定化することを考え出 した。

組香にしばしば古典文学や和歌が取 り入れられるのは,こ うした香 りを味覚で表現する以上

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に高度な遊戯性をもって,文 学や和歌の世界へと結びつけるための手段であった。そうした中

で も,源 氏香之図は,香 りと源氏物語の世界を,シ ンプルな形の記号 として結び,ま たその記

号そのものが非常にす ぐれた意匠をもつという,特 殊な存在である。

4.結 びにかえて

九鬼周造は,1928年 にパ リで 「時間論」 と題する講演を行 っている。その中で彼は以下の

ように述べる。「日本芸術は,精 神生活の要素として,無 限といかなる関係を有 しているであ

ろうか。精神生活の活動の場面は時間である。時間のうちに閉 じこめられて,人 は時間を解脱

せんと切望する。か くして彼は永遠を求める。すなわち,真 ・善 ・美を索める。芸術の機能は,

はかない瞬間の不滅化にあるのではなくむ しろ永遠の創造 にあるのだ。」2°彼は 「日本芸術にお

ける 『無限』の表現」について,日 本の絵画,詩 歌,音 楽をとりあげ,そ れらの芸術の最 も優

れた特徴を 「『無限』の表現」,そ れも有限によって無限を表現することであるとする。例えば

絵画は本来空間として表現 されるものであるが,月 並みの表現を壊 して,現 在の呪縛を解 くこ

とによって無限へといたる。そのために,日 本の絵画 には,正 確な遠近法が壊 されていること,

また形にこだわらない自由な構成があること,ま た線が生きていること,そ して白と黒という

水墨画に見られるような単純な色合い,と いった諸特性をもっていることが必要とされる。

こうした分析は,詩 歌,音 楽にも及ぶのであるが,概 括すれば,日 本の芸術は 「最小限の表

現で,最 大の表現をなす」 ということになる。そしてシンプルな意匠の背後に,非 常に豊かな

源氏物語の世界が広がるという特異なあり方をする源氏香之図とは,ま さに最小限の表現によっ

て,最 大限の表現を行 ったものである。香 り(嗅 覚)と いう諸感覚の中で最 も表現の語彙に乏

しい感覚を記号化 し,源 氏物語の情景や情念の無限の襞のうちへと誘 うのが源氏香之図である。

またこうした香 りの記号化による文学世界との結びつきというあり方が,源 氏香之図の意匠と

しての多彩な用いられ方に大きく影響 しているといえよう。

1「 源氏香之図」という図の名称については,他 にも 「香の図」や単に 「源氏香」,「源氏香文」等と俗

称されるが,正 確には 「源氏香之図」である(『香と香道』,香道文化研究会編1993年,56頁)。 し

たがって本稿では正式名称であるところの 「源氏香之図」という図の名称を使用する。図版の中で

「源氏香の図」[図1]や 「源氏香」[図2]と あるのは,正 式には 「源氏香之図」であるが,著 作か

らの転写であるためそのままで使用している。尚,本 稿内での 「源氏香」は,組 香(競 技)を 指すも

のとする。

2『 日本書紀』巻第二十二 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇 「三年夏四月,沈 水漂着於淡路嶋。其大一圍。

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嶋人不知 沈水,以 交 薪焼於竃。其烟気遠薫。即 異以 献之。(三 年 の夏 四月 に,沈 水,淡 路嶋 に漂着れ

り。其の大 きさ一囲。嶋人,沈 水 といふ ことを知 らず して,薪 に交 てて竈 に焼 く。其の烟気,遠 く薫

る。即 ち異な りとして献 る。)」(坂本太郎他校 注,岩 波文庫,第 四巻,2001年 。)

3『 源氏物語』梅枝の巻 に,明 石の姫 君のために薫物 を作 る場 面が描 かれている。 このような 「そ の場

にふ さわ しい香 を調 合す る」 といった意識が,優 劣比 較を生み,「 薫物合」 というゲーム にまで発展

した。

4『 太平記』巻39厂 大 夫入道道朝讒言 に依 て没落 のこ と」(長 谷川端校注 ・訳,新 編 日本古 典文学全集

56,1997年,394頁 。)

5江 戸時代,大 名の婚 礼の際には,婚 礼調度 によって家格 が測 られた。 したが って,競 って華美な もの

が用意 され意 匠が尽 くされた。香道具 も婚礼調度 の一部 と して誂え られ,香 が生活 ・教養の一部 と し

て浸透 していた ことが窺 われ る。

こうした絢爛豪華 な婚礼道具 の香道具 の中で頂点を極 めた ものが,徳 川三代将軍 家光の娘 ・千 代姫

が,尾 張徳川家二代光友 に輿入れ した際 に揃えた 「初音の調度」(徳 川美術館蔵)で あ ろう。 「初 音」

その ものが源氏物語 に由来す る題材 であるのも興味深 い。

6こ の間 の経緯 については,畑 正高,『 香三才 一 香 と日本人 のものがた り』,東 京書 籍,2004年,157-

170頁参照。

7早 川甚三,「 いわゆる源氏香図 につ いて」,日 本香道協会会誌第12,13号,1978年 。

8「 模様 が平行線 と して の縞か ら遠 ざか るに従つて,次 第 に 『いき』か らも遠 ざかる。枡,目 結,雷,

源氏香 図などの模様 は,平 行線 と して知覚 され ることが必ず しも不可能でない。殊 に縦 に連繋 した場

合 がさうである。 したが って また 『いき』であ る可能性を もってゐ る。」 九鬼周造,「 『いき』 の構造」,

九鬼周造全集第一巻,岩 波書店,1981年,57頁 。

9同53頁 。

10松 栄堂代表取締役社長 ・畑正高先生 は 「香三才 一 香 と日本人の ものがた り』 の中で,源 氏 香之 図の

縦線が右 か ら左へ と引かれ ることの重要性 について言及 されてお り(169頁),こ れ について 日本人 の

知覚の習慣性か ら説明で きるのではないか と思 われる。

11九 鬼周造,前 掲諸,55頁 。

12「 絵画的模様はその性質上,二 元性 をすつき りと言 表はす といふ可能性 を,幾 何学 的模様 ほどには も

つてゐな い。絵画的模様が模 様 として 『いき』 であ り得 ない理 由はその点 に存 して ゐる。光琳模様,

光悦模様 などが 『いき』でな いわ けも主 と して この点によつて ゐる。「いき』 が模様 として客観化 さ

れ るのは幾何学的模様の うち においてである。 また幾何学 的模様 が真 の意味 の模様で ある。即 ち,現

実界の具体的表象に規定 されないで,自 由に形式 を創造 する 自由藝術 の意味 は,模 様 と しては,幾 何

学的模様 にのみ存 してゐる。」 同59頁 。

13並 木誠 士監修,「 日本 の伝統 文様 名品で楽 しむ文様 の文化』,東 京美術,2006年,118,119頁 参照。

同著 で も,源 氏雲文 ・源氏車 文等 を,源 氏物語 の登場人物 や場面,モ ティー フな どを直接 的に描 い

た ものではないが,源 氏 の名 を冠 して源氏物語の世界 をイメー ジ化す るもの と して あげて いる。 また

源氏香文(本 稿 では源氏香之 図)に つ いて もこれ と同様 に述べ ている。

14河 本敦夫 他,「 日本 の文様」22文 字 ・記号,光 琳社 出版,1976年 。

15源 氏香之 図の吉 凶につ いては,香 道文化研究会編,「 香 と香道」,雄 山閣 出版,1993年,62頁 参照。 同

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著 で特 に現 代 に お け る使 用 法 につ いて 以 下 の よ う に 述 べ て い る。 「い ま染 物 屋 さ ん で用 い て い る 『紋

帖』 な どを 見 る と,江 戸 時代 の きま りを 受 け つ い だ と お ぽ しい"但 し書"が つ い て い る。 た とえ ば

『帚 木 』 の形 は 『吉,五,六 月 』,『花 散 里 』 は 『凶,五 月 』,『行 幸 』 は 『吉,秋 冬 』 な ど と,そ の 文

様 の吉 凶 と季 節 が くわ し く指 定 され て い る。」(前 掲 書)そ の 他,紫 の上 の亡 くな る 「御 法 」 の 図 柄 は

葬 装 品 に あ し らわ れ る と され る。

16ゴ ンブ リ ッチ,『 装飾 芸 術 論 』,岩 暗 出 版 社,1989年,222頁 。(E.H.Gombrich,Thesense(ゾordθr'

astudyinthepsychologyofdecorativeart,Ithaca:CornellUniversityPress,1984,p.116)

17リ ー グル,『 美 術 様 式 論 』,岩 暗 美 術 社,1970年 。

18ゴ ンブ リ ッチ,前 掲 書,400頁 。

19こ の点 に関 して は拙 論 を 参 照 され た い。 以 下 の 二稿 で はい ず れ も,香 の共 通 感 覚 的 な あ り方 を,五 感

全 て との 関連 で述 べ て い る。 岩 暗 陽 子,『 奈 良芸 術 短 期 大 学 研 究 紀 要 』,創 刊 号,2003年,「 香 り と芸

術 一 日本 の 伝 統 芸 術 『香 道 』 を あ ぐ っ て 一 」。 他 に も,YokolWASAKI,AESTHETICS:

LookingatJapaneseculture,No.11,"Artandthesenseofsmell:ThetraditionalJapaneseart

ofscents(ko)",2004.

20九 鬼 周 造 全 集 第 一 巻428頁 。

図 版

〔図1〕 源 氏 香 の 図(「 香 三 才 一 香 と 日本 人 の 物 語』,畑 正 高,東 京書 房,2004年,163頁 。)

〔図2〕 鶯 色 縮 緬 地 源 氏 散 草 花 染 小 袖,江 戸 時 代(『 日本 の 文 様 』22「 文字 ・記 号 」,河 本 敦 夫 他,光 琳 社,

1976年,図 版9。)

〔図3〕 と らや 和 菓 子 源 氏 香(『 香 三 才 一 香 と 日本 人 の 物 語 』,畑 正 高,東 京 書 房,2004年,5頁 。)

〔図4〕 香 の種 類(『 香 三 才 一 香 と 日本 人 の物 語 』,畑 正 高,東 京 書房,2004年,64-65頁 。)

〔図5〕 香 席 風 景(『 香 千 載 一 香 が 語 る 日本 文 化 史』,畑 正 高監 修,光 村 推 古 書 院,2001年,31頁 。)

〔図6〕 歌 川 豊 国(三 代)源 氏 後 集 余 情 末摘 花,1858年(『 香 三 才 一 香 と 日本 人 の物 語 』,畑 正高,東

京 書 房,2004年,4頁 。)

〔図7〕 円 に源 氏 香 文 腰 帯,江 戸 時 代(『 日本 の 文 様』 別 冊2「 角 と丸」,近 藤 信 彦,光 琳 社,1978年,図

版73。)

〔図8〕 源 氏 香 図,本 覚 院 宮 筆,宝 鏡 寺 所 蔵,18世 紀(『 香 道 入 門 』,淡 交 社,2000年,11頁 。)

※本 稿 は,意 匠学 会 第46回 大 会(2004年11月21日,成 安 造 形 大 学)に お け る 口頭 発 表 を 加 筆 修 正 した もの

で あ る。

尚,本 文 中 に 使 用 した 図 の う ち,〔 図1〕 〔図3〕 〔図4〕 〔図5〕 〔図6〕 は 「香 が語 る 日本 の文 化 史 ・

香 千 載 』(畑 正 高 監 修,光 村 推 古 書 院,2001年)と 『香 三 才 一 香 と 日本 人 の物 語 』(畑 正 高,東 京 書 房,

2004年)よ り許 可 を 得 て 転 写 した 。

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