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repo.komazawa-u.ac.jprepo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/29204/rkb044-04.pdf · 国 語 史 資 料 と し て の 高 山 寺 蔵 「 五 蘊 觀 聞 書 」 に つ い て

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国語史資料としての高山寺蔵

五蘊觀

聞書」

について

はじめに

鎌倉時代の言語は、周知の如く、平安時代における和文語、漢文訓読語、記録語に当代の新語等の種々の要素が複

雑に混交し、更に書記上の各諸相の特質が柔軟に重なり合った極めて雑多な体系を成している。個々の資料において

どの部面の特徴がどのレベルで選択されるかは、資料の目的や対象、成立事情に伴う表現者の言語意識に応じて個別

に決定されるものである。そこには相当程度の可変性が認められるが、各要素の濃淡を決定する条件や法則性に言語

意識の側面から統一的な説明を与えることは今のところ困難であって、混沌とした可変性そのものが当代言語の特徴

であり、鎌倉時代書記言語の複層的な成熟の諸相を示していると見ることができる。従って、特定資料を国語史資料

として定位させることは実は容易ではなく、現状では、個々の資料の成立背景を可能な限り明らかにし、想定される

表現者の言語意識を汲み取って、言語的特徴との相関性の具体相を丹念に検証していく以外に適切な方法はない。又、

���

鎌倉時代は、依然として平安時代語以来の規範性の束縛が強く、多様な伝存資料の中に古代語の規範から逸脱した例

を積極的に見出すことは困難であるという築島裕博士

(

1)

の鎌倉時代語資料に対する評価は、新たな文献の発掘研究が格

段の深まりを見せた今日においても大局的には変わるところがない。特に学問、宗教上の第一義的な目的を有してい

る資料においては、少なくとも資料の目的の一つとして「

規範の弛緩」

を意図的に実現しようとした資料は非常に少

数と見られる。口語的徴証の混入が期待される片仮名交り文の法談聞書類においても総体的には同様であって、膨大

な伝存量に比して、口語的徴証の認められる資料は�かである。講師の口頭の言説に立脚して成立したことが明らか

な資料であっても、その注釈言語はむしろ平安時代語以来の言語規範の枠内で十分に達成されている場合が多い。聞

書であることが口語性混入の主因にはならないことを端的に示すものである。一方で、その弛緩が比較的目立つ資料

も確かに存在している。その代表的な文献群の一つが栂尾・高山寺の明恵上人とその弟子に関係する聞書類の中の一

群である。同聞書類に確認される和語に対する声点の機能

(

2)

、内部構造に看取される編集上の工夫と用語との関係

(

3)

等の

諸点を他の学統の聞書類と比較してみると、明恵上人関係聞書類における「

規範の弛緩」

には講者の口頭の表現を意

図的に保存、記録しようとした特殊な尊重意識の介在を想定せざるを得ない点があることは明らかであり、個々の資

料の分析を丹念に積み重ねることによって、これらの意識の内実を解明していくことが今後の重要な課題になると考

えられる。

右の問題意識に基づき、本稿は、近時、法談聞書類としての存在が明らかとなった高山寺蔵「

五蘊觀�

聞書」

を中

心として、その資料的性格と言語的特徴との概要を記述し、今後の鎌倉時代法談聞書類の研究の礎石とすることを目

的とするものである。

��

書誌の概略と成立背景

「五蘊觀�聞書」

の書誌と成立背景との概略は先に拙稿

(

4)

で整理したが、若干の修正を要する点もあるので、再度確

認しておきたい。

高山寺蔵「五蘊觀�聞書」

一冊

(

第四部第一二五函第三十三号)

は、高山寺・十無盡院の永辨

(

一六二六〜一六九四〜?)

によって元禄七年

(一六九四)

六月に書写されたもので、澄観�述「

五蘊觀」

(

別称

華厳五蘊観」)

を原典とする講説の

聞書類である。残念ながら鎌倉時代書写本は今日に伝わっていない。表紙一丁、本文墨付三十八丁、裏表紙一丁の全

四十丁から成り、料紙に楮紙、袋綴装四穴に紙縒を用いて大和綴に装丁する。法量は縦二十八・五糎、横二十一・〇

糎を算し、表紙左上に外題「五蘊觀�聞書」

、右下に「

高山寺/十無盡院」

を墨書する。永辨は、琳辨と共に江戸時代

の高山寺において華厳学を含む明恵教学の再興を主とする伝統教学の興隆に尽力した学僧であって、本資料の他にも

高山寺蔵「

華厳佛光観聞書」

、同「

五教章上巻聞書」

、同「

光言句義釈聴集記」

、同「

光真言句義釋鈔」

等を書写してい

る。第二十二丁裏には「

五蘊觀聞書巻上終」なる祖本の尾題があるから、元来は上下二巻仕立てであったことがわか

る。袋綴された料紙の内側にもほぼ同文の「五蘊觀�聞書」

本文を有するが、表面の本文はこれを浄書したものであ

る。表裏を比較すると、浄書の際に元来の書写形式に変更を加えた点が確認されるから、国語史資料としては表裏の

本文を相補的に扱う必要がある。本資料には左の如く祖本の成立事情を窺わせる本奥書を有している。

寫本云

��

五蘊觀兩通聞書了第一計本文第

二計初度第三計第二度第四計

勘文也本文逐可勘入仍有闕行也

又未書入事一兩ヶ条有之償未再

治之物也却能ヽ可直之者也

右の識語の意味するところは分明でない点もあるが、「

五蘊觀兩通聞書」

なる記述は原姿より二巻仕立てであったこ

とを示しており、前述の現存本の状況と符合している。「

第一計本文」

とは恐らく注釈に先立って原典本文を講師と共

に「

読」

したこと、「第二計初度」「

第三計第二度」

とはその後二回に亘って講説が実施されたことを指し、「

第四計勘

文也」

とは、聞書を現状の形に編集したことを指すものと推測される。その後に、次の書写本奥書を有している。

弘安二年四月十八日夜於高山寺下屋

子尅許書之了

明聲之本

同十九日夜丑尅一交了

右により本資料の祖本は、弘安二年

(

一二七九)

四月十八日、十九日の二日間に亘って高山寺において明聲が書写、

校合を行ったものであることがわかる。明聲については他資料に見出すことができず、詳かでない。

更に、原典部分と後の聞書部分とには、それぞれ独自に元禄七年

(

一六九四)

十五日の道棟書写本奥書を有している。

その約四ヶ月後の元禄七年六月に「

道棟本」

を借用して書写したとする永辨本奥書は原典部分になく、聞書部分にの

み存しているから、両書は元来別個に伝存していたものと推定される

(

5)

。従って、この二書を最初に一具の如く扱った

��

のは道棟であって、それを永辨が一書の形に書写、装丁したものが現状の「

五蘊観�

聞書」

ということになる。

講師は明恵上人

(

一一七三〜一二三二)

又は弟子の義林房喜海

(

一一七八〜一二五〇)

が比定される。前稿では内部徴

証により義林房喜海の方が蓋然性がやや高いものと推定したが、明恵上人である可能性も高く有しており、先ずこの

点から改めて内部徴証

(

6)

の検証を試みておきたい。

第一の徴証は、「

問己イカニト心ニハ取テオキ候哉

答各ヒシト居�テ/ヲハシマス取テカク心ニ置テ候ヌルハ/問了想

ノ心所外境ヲ心ニ置テ領納セハ相ヲマツ可/建立如何

答領納ノ性アルカ故ニ境ヲハウツス也(

八オ)

、「

問大(

7)北州ニ

生ス

ル無我觀ト云ハ何樣候哉答北州ニ

生/スル無我觀ト云ハ人空無我觀ニハアラヌ也タヽ無我觀/也」

(

一四ウ)

の如く、

問答体の「

問」

の冒頭右傍に付されている「

大」「

了」「

己」

なる略称の存在である。本資料の場合は問答における発

問者名を示しているものと考えられるが、他の同類資料を見ると、明恵と喜海とのそれぞれが講説を行ったところを

筆録して成立した「

起信論本疏聴集記・同別記聴集記」

に同様の略称が付されており、その内、喜海講の聞書部分の

みに「

了」

の名が見える。「

起信論本疏聴集記・同別記聴集記」

の明恵講の聞書と喜海講の聞書とのそれぞれに付され

ている略称は一致せず、それぞれの講説は聴聞僧を異にしていたことを示すものと推定される。従って、仮に本資料

の「

了」

が「

起信論本疏聴集記・同別記聴集記」

における喜海講の聞書の「

了」

と同一人物であるとすれば、本資料

も義林房喜海の講説に基づくという類推が一応可能となる。

第二の徴証は、「

信種義ニソ書テ候」

という記述が見られる点である。

[

例1]

我カ那智世智辨聽等ヲノソミテ生死ヲ出ス也/是カサレハ分難コト也法相名數ヲ知ルニ

邪分別シ難キ也

是カ丁

チヤウ

/(

ハカ)

ウカ�

ト思ヘトモ難成也

信種/義ニソ書テ候

初ノ如来法身無性徳ト終ノ/如来實無三世徳トガ

(

ママ)

アウヘキ

��正其ツホヲ得

事難成也

也」(

二九丁オ)

信種義」

とは明恵上人が承久三年

(

一二二一)

に�述した「

華厳信種義」

のことであって、右は本資料の成立年代

の上限を意味する。「

信種義ニソ書テ候」

の如く対者敬語を使用して「

書」

したことに言及しているが、このような表

現を行う人物としては�述者たる明恵上人を比定するのが最も自然であろう。

第三の徴証は、講説の場における講師の所作を割注で描写した例が認められる点である。

[

例2]

変易ト/云ハカク物ノ色ノカハルヤウニ

真如ノ法ハ/変易ナキニ是ニカハリテ三細ノ生滅アル也

(

二十三オ六)

[

例3]

五蘊空ト知ヌレハ其山タウ/レテ平垣ノ地ニ

ナリテ其上ニ

无量ノ

法ヲ建立ス/ル也此檜木

ハ極微成

ソナニソト/見ルコトニ候ソ(

一七ウ一〇)

例2は、「

変易」

の説明に物の色が変化することを喩えとして利用した際に、講師が自分の両手を重ねる所作を行っ

て解説したというもの、例3は講説に於いて檜木を指し示して解説した際に、「

ツケムロ」

の長押を叩かせたというも

のである。「

ツケムロ」

は分明でないが、講説の場の近くにあった建物であろうか。いずれも敬語を用いて動作主体を

待遇しており、講者の所作を示すものとしてよく理解できる。割注の一般的な性格としては、聞書本文に対する補足

的注釈を施す例が大半であって、当該の割注が聴聞僧によるものか、或いは後の編者によるものかの判断は困難な例

が多いが、右は聴聞僧が講説の場の講師の所作を実見して記録したものであって、少なくとも前後の本文は講師の口

頭の言説を直接に踏まえた、文字通りの聞書であることを示唆している。この種の割注は、明恵講の聞書にはしばし

ば散見するが、喜海講の聞書には見出すことができない。

��

ツケムロノナケシ

ヲタヽカシメ給

自ノ諸手ヲツミテ

被仰

第四の徴証は、譬喩表現の特徴である。明恵上人が講説の場において特徴的な譬喩表現を使用したことは種々の聞

書類において指摘されている

(

8)

。特に建物関係の語として「

ハシラ(

柱)」「

ケタ(

桁)」「

ウツバリ(

梁)」

、人に関する

語として「

アカゴ(

赤子)」

をしばしば使用することが大きな特徴であるが、本資料にもこれらを使用した譬喩表現を

確認することができる。

【ハシラ(柱)

、ケタ(

桁)

、ウツバリ(

梁)

[

例4]

五蘊ノ自相ト云ハ「・」

惣相ニ

反ス「・」

家ト云ハ

此ケ/タウツハリヲ取アツメタリ「・」

其ヲ

家ト

思ハ「・」

家惣/相ニ

迷也「・」

サテ

ケタウツハリニ迷ヲ法執ト云

也(

五ウ五)

[

例5]

此舎ハ柱ラケタ梁リノ外更ニ

別ノ舎ノ躰/無ト知ルハ「・」

是二乗也「・」

大乗ハ法執ヲ亡シテ法无我/ヲ得ルカ故

此ノ

ケタウツハリ同ク空ナリト知ル也「・」

(

六オ十)

[

例6]

家ヲ見テ/オサナキ者ハ

マンマロニ家ト

執スルヲ「・」

ケタウツハリ/ト見ツレハ「・」

家ノ執ナキカ如シ「・」

(

六ウ

八)

【アカゴ(

赤子)

[

例7]

壽/ト云ハ息風ヲ躰トス母ノ腹ノ中ニ

有テハ「・」

全ニ母ノ/息ヲ以テ我息トセリ「・」

思ヤルニ腹ノ中ニ

アラン時

/イキタハシカリヌヘケレトモ誠ニ

母ノ

息ヲ我息トセ/ハ「・」

サイハレタル事ナリ「・」

サテ生シ出テ赤子カラ我

/躰ト云モノ實ニ

有ト思テ「・」

ウレシキヲハ咲ヒ「・」

ワヒシ/キニハ泣ク「・」

(

四オ九)

このように第二、第三、第四の徴証は講師が明恵上人であることを強く示唆するものである。

右の推定が妥当であるとするならば、前述の第一の徴証、即ち本資料の基となった講説の聴聞僧の一人であること

��

ニハ

が確実な略称「

了」

なる人物と明恵上人との関係を再確認しておく必要があろう。「

了」

が比定される人物として最も

有力視される学僧は、了達房圓辨である。奥田勲氏

(

9)

によれば、了達房圓辨は、明恵上人の説戒に参席した「

着座衆」

の一人であること

(「

栂尾説戒日記」)

、行遍の付法

(

高山寺代々記)

であることから仁和寺系の学僧である可能性がある

こと、天福三年

(

一二三三)

三十一歳の折に定真から伝授を受けているところから明恵上人より三十歳年下の建仁三年

(

一二〇三)

生まれであること(

高山寺蔵

文殊師利菩�念誦次第」

(

第一部一四号))

、金沢文庫蔵「

解脱門義聴集記」

巻十

嘉禄二年

(一二二六)

奥書に「

了達房籠居之初、為彼被談之」

とあることから、その頃高山寺に入って修行を始めた学

僧であることが推定されている。このように、明恵上人による「

華厳修禅観照入解脱門義」

の講説が行われた嘉禄二

(

一二二六)

時には既に了達房圓辨は高山寺に止宿して明恵上人と接点を有している。更に、「

解脱門義聴集記」

本文内には、右の例の他に「了記云私云依止大智中ヨリ下ハ「

・」

普賢爲躰ノ義ヲ釋スル歟「

・」」(

巻五)

、「

法文性相者

多是林師記/破文料簡者多是了記/一事廣記者多是愚記」

(

巻十奥書)

の如く「

了」

と略称され、明恵上人による「

厳修禅観照入解脱門義」

の講説に参席し、かつその聞書が「

解脱門義聴集記」

の素材として利用されている。これら

を併せ考えると「

華厳五蘊觀」

の講説に了達房圓辨が参席していたと考えても何ら矛盾しない。以上のことから、講

師はむしろ明恵上人と考える方が蓋然性が高いとの考え方も成り立つようである。

本資料の編纂者は不明であるが、聞書の諸処に僧名の略称の付加が確認される聞書類は、「

起信論本疏聴集記・同別

記聴集記」

、東大寺図書館蔵「

五教章類集記」

の二資料のみであって、いずれも十恵房順高

(

一二一八〜一二七二〜)

編集したものであることを考えると、本資料の編者も十恵房順高である可能性を一応指摘できる。順高の文永九年

(

一二七二)

以降の事績は不明であるが、右の推定が正しいとすれば、明聲が本資料を書写した弘安二年

(

一二七九)

��

順高の最晩節の頃か、示寂して間もなくの時期ということになろう。

内部の構造と注釈の方法

本資料は、片仮名交り文による聞書に先立って、先ず原典「

華厳五蘊觀」

の全文を冒頭二丁

(

全二十五行)

に置き、

第三丁より片仮名交り文の聞書を開始している。原典本文は一般に知られている『

新纂大日本続蔵経』

所収「

華厳五

蘊觀」

本文とは異同が認められ、その本文的価値としても注目される。原典本文には朱筆による仮名点、返点、合点、

句切点、朱引及び書き入れが加えられているが、これは江戸時代に高山寺で活躍した�友

(

一七七五〜一八五三)

によ

る文政七年

(

一八二四)朱書校合奥書と同筆であって、同年の�友による加点であることがわかる。

第三丁より開始される片仮名交り文による聞書部分は、先ず冒頭に注釈対象となる原典の本文を無点のまま見出し

の如く抜き書きし、その末尾に小書き右寄せで「

文」

を付して、その後に対応する片仮名交り文による注釈、即ち聞

書を置く形式を採り、これを単位として一つの注釈段落を形成している。冒頭に原典章句の見出しを持たない注釈段

落は存在しないが、見出しの後を改行せず、聞書部分を連続させている点、私説の付加が極めて少ない点、他典籍か

らの纏まった引用文が比較的少量であるという点において、「

解脱門義聴集記」

、「

起信論本疏聴集記・同別記聴集記」

五教章類集記」

等の編集が行き届いた聞書類とはかなりの径庭がある

(

10)

聞書部分に於いて原典の字句を直接に引用する場合の形式は、大半が「(

原典字句)

ト云ハ………也

(

ナリ)」

「(

典字句)

ハ………也

(

ナリ)」

の古代語以来の注釈文体二形式を主とする。この中に一例のみであるが、「

トハ」

によっ

��

て注釈対象字句を引用した中世語的形式が認められる。

[

例8]

若能依此身心相「・」

諦觀分明文。諦觀分明ト

云ハ我ト云ハ/マンマロニマツ我ト云モノアリト思ヲ五ツニワリテ

見レハ我トハトコヲ執スルソ(

一一ウ五・上覧外

(

表本文は欠損。裏面本文より補う))

「トハ」

形式は当代の資料には比較的多く散見するが、高山寺関係の聞書類においても、

[

例9]

「大師トハ釋尊也」

(

起信論本疏聴集記巻一本)

[

例10]

「百一十ノ城トハ五十五ノ知/識ト其又知識ノ一ゝニ」

(

佛光観聞書二ウ)

[

例11]

初ノ淨三業トハ種子ト/現行トノ雖有異一共ニ是頓也」

(

真聞集第二・二〇オ)

[

例12]

發心住トハ初テ眞理ヲ比觀/起ル惠ヲ云フ」

(

栂尾御物語下・一九ウ)

[

例13]

サル/時ニ定三僧�トハアタメシト云也(

五教章類集記巻二十八)

の如く相当数が確認される。一方で明恵自�の「

光明真言土沙勧信記」

には認められず、�述書と聞書類との間の注

釈文体における規範性の差異を示す一つの徴証として注意される。

本資料には言語量に比して問答体が多用されている点も特徴である。明恵上人関係の聞書類の問答体及び疑問表現

の実態については、近時高宮幸乃氏

(

12)

が文章構成との関係から分析し、編集の度合い

(

13)

が低い資料ほど疑問表現のバリエー

ションに多様性があり、度合いの高い資料ほど多様性が低い傾向の存在することを指摘している。本資料の問答体の

問」

における表現全二十例を整理すると次の通りである。(

1)「

―ヤ」

………4例

(

2)「

―カ

(

歟)」

………3例

��(

11)

(

3)「

不定詞カ―ヤ」

………2例

(

4)「

不定詞―ヤ

(

哉)」

………3例

(

5)「

―如何」

………5例

(6)

非疑問文………3例

(「

―可修之也」

2例、「

―ニ非ス也」

1例)

高宮氏によれば、(

3)「

不定詞カ―ヤ」

は平安時代の漢文訓読語に一般的な形式であり、「

華厳信種義聞集記」

のよ

うに問答体の疑問表現とそれ以外とを使い分ける傾向のある資料における問答体に集中する形式であること、(

1)「

ヤ」

、(

2)「

―カ(歟)」

、(

5)「

―如何」

は資料間或いは資料内の文章構成間の偏在は認められず、一般的な疑問表現

の形式と見なし得ること、との説明が可能のようである。(

4)「

不定詞―ヤ

(

哉)」

は、本資料の場合、文末が漢字表

記「

哉」

であって、語形が明確ではないが、明恵上人関係の聞書類には、

[

例14]

問云何會之哉・/答林師云・大師ノ御意ハ・名号四諦光明覺ノ三品ヲ以テ・信カ中ノ所信ノ果ト判スレトモ・

攝シテ以テ心ニツイテ信行ヲ成セシム・」

(

解脱門義聴集記第一)

[

例15]

問ウハ塞戒経ヲハ何教ヲ以テ化身ニ約ト可/心得哉

答当時ノ佛カ化身ニテアルテ/我何ニカシ仏ノ御前ニ

供養シタリシ等ト説/給カ故也云々(五教章類集記巻二十八)

の如く散見する。

(

6)

非疑問文の形式については、他の明恵上人関係聞書類を見てみると、編集の手がさほど施されていない「

厳信種義聞集記」

第一

(

14)

に集中して見出されることが注目される。

[

例16]

問信ハ是忍許ノ義□リ・爾者於悪/法ニ(

返点)忍許ノ義□□□・是モ信ノ心/所ト云ヘシ也・答不□□□

��

信ト云ハ三/性門中ニハ一向是善ノ攝也・(

華厳信種義聞集記第一)

本資料の用例を掲げておくと次の通りである。

[例17]

豈可離也文五蘊ヲハ離ルヘシヤト云也問今五蘊觀/モ必ス坐禅等ノ作法ニ付テ可修之也

答シカランハ/上

品ナルヘシタトヒ不然トモタヽ行住坐臥ニ心ニカ/クヘシ(

三十四オ四)

[

例18]問必ス信/智具足シテ是ヲ可修也

答具足センハ上品也即/信ナキ�ハ邪見ヲ長シ「・」

(

三十五ウ九)

[

例19]

問圓覺疏ニ離蘊ノ我ハ通一切異生「・」

即蘊/我ハ「・」

三宗外道ニ通スト云ウ「・」

離蘊即蘊ハ/トモニ外道ノ執ニ非ス

也「・」答外道所執離/蘊即蘊ト云ハ(

三十七オ七)

右の意義付けには慎重を期さなければならないが、問答体における疑問表現形式が編集の深化に伴って多様な表現

形式から固定的な疑問表現へと統一化が図られたことに連動する問題であるとすれば、生の聞書の実態の残存度を計

るマーカーとなり得る可能性を有している。抑も問答体は注釈上の一つの修辞法として中国�述の仏書注釈書を初め

として、漢文、片仮名交り文を問わず教学資料に広く認められるものである。聞書類もその本来的目的は注釈の実現

であって、例外なく編集の手が加えられている以上、その全てが講師の口頭の言説に端を発する問答体であるとは限

らず、聞書筆録者の表現意識に基づく修辞である可能性も高い。しかし、拙稿

(

15)

で指摘した如く、法談聞書類には明ら

かに講説の場における講師と聴聞僧の応答の実際が筆録されたものと推定される例が存在している。前掲した問答体

の右傍に付された略称もその傍証の一つである。このように問答体は、現状本文における表現形式の多様性の問題の

みならず、本文の内部構造、講説の場の問答の反映の可能性、後人による改修の可能性

(

16)

等、種々の類層的な事情が複

雑に絡んでいることが想定される。これらを顧慮した上で慎重に位置付けていく必要があろう。

��

さて、一般に仏書注釈書は、大日経疏等の一部の聖教や空海�述書等に対する資料は例外として、原典の訓法に対

する解説や字句の訓詁を示す例は比較的少数であって、その主たる目的は教義的内容の解説にある。特に、明恵上人

�述書を原典とする聞書類では、この傾向が強く、自筆加点本が伝存する「

華厳信種義」

華厳修禅観照入解脱門義」

とその聞書類「

華厳信種義聞集記」

解脱門義聴集記」

とを比較してみても、原典の訓法を聞書で積極的に言及した例

は原則として存しない

(

17)

。中国�述仏典を原典に持つ「

起信論本疏聴集記・同別記聴集記」

五教章類集記」

では、その

言語量の多さも手伝って字句に対する訓詁を示す例が比較的多く、大広益会玉�や改編本系類聚名義抄の逸文も注釈

に利用されている

(18)

。本資料は言語量が比較的少なく、古辞書逸文の利用は認められないが、本文の字句に対してその

語義を単字単位で示した次の例を拾うことができる。

[

例20]

変易生死文/変易ト云ハ不生不滅真如ニカハリテ微細ニ生死ノ報/□変易スル也易ノ字訓ハ是カハル義也

(

二十三オ三)(

【対応する原典本文】一切

ノ」

苦/厄

ヲ」「

一」 「・」

ルヲ」「

二」

変易生死

一」 「・」)

[

例21]

今此ノ

堅潤等ト云ハ實ノ/四大種也此身ニ

付テ云ニ

堅則チ地ト云ハ此身ヲ/探ルニカタキ性也潤ハウルヲヘル性

也�(=

煖)

ハアタヽカナル/性動ハアチコチハタラク性也(

七オ一〇)

(

【対応する原典本文】堅

ハ」

則地「・」

ハ」

水「・」� 「

ハ」

(=

煖)

則火「・」

動則風観/心則四蘊「・」)

又、聞書類では、注釈の典拠や関連する学説を確認するために他の典籍からの章句を引いて、注釈の深化に利用し

た例がしばしば見られ、特に大がかりな編集が為された言語量の多い聞書類には膨大な引用典籍が認められるのが常

である。本資料においては、「

因果経」

「�舎論」

成実論」

「阿毘達摩大毘婆沙論」

六祖大師法寶壇經」

といった漢訳、

中国�述仏典の他に、空海�述「

秘蔵寶鑰」

の利用が認められる。この中には、次の例のように聞書の中で、成実論

��

を踏まえた解説に対し、その典拠箇所を当該聞書部分の直後に引用増補して確認した例が見られる。

[

例22]

但シ數論/ハ四大ハ假色香味ハ

實ト云フ佛法ハ

四大ハ實色香味ハ

/假ト云ウ成實論ニソ外道ノ如ク立タル其ヲハ

/哥梨跋摩ハモト數論ノ

門流ナリ

始テ

佛法ニ

入テア/マリトク作テ如此ク法相イマタ認

シタヽ

マラサレトモ所説ノ/法印

實義ヲソムカサレハ成實論ニハ

故我欲正論三/蔵中實義ト云テカタハラニハ

法空ヲ説リ。故ニ

ユヽ/シキ論トテモ

テナス也

成實論巻第一云

鳩摩羅什譯/發聚中佛寶論初具足品第一/前所應礼自然正智者一切智應供大師利世/間亦礼真

浄法及聖弟子衆今欲解佛語饒益於/世間論應修多羅不達實法相亦入善寂中是/名正智論

(

19)

欲令法久住不為名聞

故廣習諸異論偏/知智者意欲造斯實論唯一切智知諸比丘異/論種ゝ佛皆聽故我欲正論三藏中實義文

(

一〇オ〜一一ウ)

この種の増補は、「

解脱門義聴集記」

起信論本疏聴集記・同別記聴集記」

五教章類集記」

といった周倒な編集が施

された聞書類に最も典型的に認められるものであって、素材としての「

聞書」

から独立した「

注釈書」

へと資料的性

格が変化、発展させられていく過程を端的に示す事例である。

三、国語史的諸事象

右に見てきたように、本資料には他の同類資料に共通して認められる「

聞書」

から「

注釈書」

への発展を志向した

編集上の工夫が随所に確認される。特に本資料はいわゆる一等資料でないため、永辨の書写に至る過程に想定される

��

転写の各段階において、本文に様々な改修の手が加わっている可能性を否定できない。

従来、一等資料でない転写本を国語史資料として扱う場合に努めて慎重な態度が要求されることは、文献学におけ

る基本的な常識とされてきた。これは、言うまでもなく転写時において新時代の言語的徴証が入り込み、言語の年代

性に均質性を欠いて、国語史資料としての信頼性が損なわれる可能性のあることを恐れるからに他ならない。しかし、

後人の本文に対する改修が具体的に確認される資料を分析すると、殊、法談聞書類においては、後に転写されて改修

がなされた資料の方に、むしろ規範的な言語を使用している例の多いことが確認される。原態の聞書本文に混入して

いる「

反書記言語規範的事象」

は、後人の改修によってむしろ古代語以来の書記言語規範、即ち「

整った文語」

に回

帰させられているのである

(

20)

。即ち、「

転写時に入り込む新しい言語的要素」

は、全てが国語史上の新生的な言語徴証で

あるとは限らないことを端的に示している。換言するならば、口語的徴証の意図的な記録、保存には、師の講説の場

に参席してその謦咳に接した弟子のみが有する、師の言説に対する特殊な尊重意識の存在が不可欠であったことを示

唆している。一方、講師を直接知ることのない後代の学僧にとっては、聞書本文の意義は一般的な仏書注釈書のそれ

と同列に過ぎず、あくまで教義理解上の価値のみが意識されていた。結果として、後代の学僧によって本文に改修が

加えられる際は、口語的徴証の保存に殊更には配慮されず、当時の学問資料一般の書記言語規範に則って行われるの

が普通であった、と捉えるならば、右の状況はよく理解される。従って、本資料のように転写された法談聞書類を国

語史資料として扱う場合は、書写年代と言語の年代性とを短絡させることなく、あくまで「

生の聞書」

としての面目

をどの程度保持しているか、或いは失っているかという点を常に顧慮しつつ国語史資料としての信頼性と価値とを吟

味する必要があるものと考えられる。

��

さて、本資料の言語的特徴を総括するならば、大局的には平安時代以来の言語規範をよく守っており、語彙的にも

平安時代語の踏襲が圧倒的多数であることを先ず確認しておく必要がある。特に活用、接続面の規範から外れる例は

極めて少なく、�かに次の例を見るのみである。

[例23]

問圓覺疏ニ離蘊ノ我ハ通一切異生「・」

即蘊/我ハ「・」

三宗外道ニ通スト云ウ「・」

離蘊即蘊ハ/トモニ外道ノ執ニ非ス

也「・」(

三七オ九)

右は、「アラザルナリ」

とあるべきところを「

アラズナリ」

の形としており、終止形連体形合一に基づく助動詞「

リ」

の接続の混乱例と見なすことが一応可能である。同様の例は「

却癈忘記

(

21)」「

華厳信種義聞集記

(

22)」

等にも確認される。

一方で、当時の教学資料一般の書記言語には見られない徴証が確認されるのも事実であって、その多くは、一等資

料の明恵上人関係聞書類の特徴と共通している。

以下、本資料における種々の注目すべき国語史的諸事象の一端を記述して、今後の分析の基礎作業としたい。

先ず、代名詞では、中世語「

アチコチ」

1例の使用が確認される。

【代名詞】

[

例24]

性動ハアチコチハタラク性也(

七ウ一)

アチコチ」

は明恵上人関係聞書類には比較的目立って使用されており、「

是等ノ義ハ・アチコチ・入リクミタル事

トモ也」

(

解脱門義聴集記第三)

、「

隨派分岐ト云ハ。派ト云ハ。水ノアチコチナカレワカレタルニ名ク」

(

起信論本疏聴集

記第一本)

、「

サレハ信ナキ智ハ邪見ヲ長スト云ハ、智ハアチコチ物ヲサ

(

上)

(

上濁)

リアルキテ」

(

光言句義釈聴集

記)

、「

此十煩悩ヲアチコチツラネテオホキコトモアル也」

(五教章類集記巻三十)

の如く散見し、「

明恵上人夢記」

にも

��

アチコチ曵廻シテ」

(

第十五�)が確認される。

イヅコ」

の母音交替形「

イドコ」

から更に狭母音\i\が脱落した「

ドコ」

は将門記承徳三年点の例が初出例と

して知られており

(

23)

、院政期から確認されるが、本資料では、例26のように「

ドコガ………ラン、イヅクガ………ラン」

という慣用的な不定表現として使用された例が認められ、注目される。

[

例25]マツ我ト云モノアリト思ヲ五ツニワリテ見レハ我トハトコヲ執スルソ(

一一ウ五)

[

例26]

若五蘊ノ真妄ヲ/不知ハトコカ小乗ナルラントイツクカ大乗ナルランモ分別スヘカラスト云也(

二三ウ六)

動詞では、「マログ」

1例、「

ウレシガル」

1例、「

アヤシガル」

1例、「

ノボリタガル」

1例、「

アサヰシタガル」

例、「

クソマル」

1例が注意される。「

クソマル」

を除き、平安時代語には確認されない。

[

例27]

即チ身ハ身ノ相受ノ相也「・」

此/五蘊ヲマロケテ一ニ執スルハ人執也「・」

(

五オ三)

[

例28]

如/此理リヲ不知ト云トモ「・」

タヽウバ

(

ママ)

モ阿弥陀佛ト

申セハ「・」

/佛ウレシカラセ玉トテ(

七オ二)

[

例29]

物カヲス間ニ

アヤシカリテメヽザ

(

ママ)

クモノボ

(

ママ)

リ/タガ

(

ママ)

ルカ如ク非想天マテセメ上リテ究竟トスレトモ猶三/界ヲ

出ツ究竟解脱處ニ

ハアラサル也(一四ウ一)

[

例30]

我ハ極メテアサヰシタガ

(

ママ)

ルニ師ヨリサキニ/ヲキヨ「・」

師ノ水瓶ニ水タヤスナト云ハ「・」

心ニ無我ノ道/理知

ル人ナレハ師資展轉スレトモ「・」

(

二〇ウ八)

[

例31]

故ニ無我也大集経ニハ林ヲ/風ノ吹通リタルカ如シト云リカク云ヒタテハ物クヒク/ソマルマテモ無我也

(

三四ウ四)

例27「

マログ」

は宇治拾遺物語が初出例と思われるが、極めて珍しい動詞であって、他の明恵上人関係聞書類には

��

例を見ない。例28〜例31の動詞的接尾辞「

ガル」

が付いた派生動詞は中世語的言語事象としてよく知られる例である。

例31「

クソマル」

は日本書紀訓注や成実論天長点の例が指摘されており、上代より確認されるが、本資料では「

物ク

ヒクソマルマテモ無我也」

の如く「

徹頭徹尾」

最初から最後まで」

の意の一種の譬喩表現として用いられており、仏

書の注釈言語としてはかなりくだけた表現と言える。

形容詞では、「

キハドシ」

1例、「

メメザシ」

2例が注目される。

[

例32]

建立スル時ハキハド

(

ママ)

ウ法相名數ヲ取リ集テ云ヘ/シ(

二八ウ二)

キハドシ」は管見では愚管抄の「

ハラアシクヨロヅニキハドキ人ナリケルガ」

が初出例と思われる。鎌倉時代の用

例は非常に少なく、他の明恵上人関係聞書類でも確認できない。

[

例33]

然レハ/非相非ゝ想處ニ

向テ目鼻モナク上ヘ向テノホラントノ/ミスル也メヽザ

(

ママ)

クシテダ

(

ママ)

ニモセヲカシヘノホ

ル也(

一四オ八)

[

例34]

物カヲス間ニ

アヤシカリテメヽザ

(

ママ)

クモノボ

(

ママ)

リ/タガ

(

ママ)

ルカ如ク(

一四ウ一)

メメザシ」

は管見では類例が確認できない。他例を俟ちたい。

副詞では、「

ミサミサト」

1例、「

クリラト」1例、「

カウカカウカト」

1例、「

チヤウト」

1例、「

ホツト」

1例といっ

た情態副詞に注目される語が目立つ。

[

例35]

如此識六ニ

ナルヲワカルト云別スルニヨテ其ヲサトル也/別セサレハミサ�トアリ(

一〇ウ一)

[

例36]

學生ト云ニシタカイテ目クリラトアル我ヲ作ル也(一五ウ三)

[

例37]

是カ丁

チヤウ

/(

ハカ)

ウカ�ト思ヘトモ難成也(

二九オ三、本文欠損部分は裏面本文により補う)

��

�[

例38]

サレハチヤウト過現ノ諸佛ニヲイツク也(

二九ウ一)

[

例39]

聊カシヰタランホトニ又或時ホツト身即チ/浄鏡ノ如クオホユル躰ノ事共モ有ヘシ(

三一オ一〇)

右はいずれも鎌倉時代初見の語である。例35「

ミサミサト」

、例38「

チヤウト」

、例39「

ホツト」

は、他の明恵上人

関係聞書類にも類例が確認される。

[

例40]サテ託法進修成從分ト云ハ・成從ノ因トイフハ・離世間品ニ・ミサ�トタヽ・人ノ能様ヲ説也(

解脱門義

聴集記第四)

[

例41]

観智純熟マテナラストモ・或時ホット

(

ママ)

(

上○○)

シツマル位ニ・十信終心ト・云ハルルトコロノ・アルヘキ

也・(

解脱門義聴集記第四)

[

例42]

妄情ノ前ヘハ夢幻

ユメマホロ

シノ/ヤウナレトモ我法ヲ執シテホツト中ニ生ルレハ十方界立ス(

光言句義釈聴集記下六

九)

[

例43]

此ノ六相ヲ以テ・チヤウト(上上上平濁)

・マロカシツレハ・唯心廻轉善成門ト云ニ・十方ノ佛ヲ融シテ・

(

解脱門義聴集記第四)

[

例44]

信カアリテチヤウトヒカヘテ惠ヲ以テ觀察スル所ニ道理ハ出クル也(

起信論本疏聴集記七本)

例41「

ホット」

は平声の声点が付され、「

ツ」は小書きとなっている。例43「

チヤウト」

には「

上上上平濁」

の声点

が付されており、語末に濁音を有していることがわかる。例36「

クリラト」

、例37「

カウカカウカト」

は他に例を見な

い。疑

問副詞としては、「

イカニト」

1例、「

イカサマニモ」

3例、「

ナジニ」

1例が認められる。いずれも平安時代語に

��

は認め難い。

[

例45]

問己イカニト心ニ

ハ取テオキ候哉答各ヒシト居�テ/ヲハシマス(

八オ九)

[例46]

答イカサマニ/モ當時ノ我等ハ人空ノ理タニモ知ルコトカタケレハ「・」

二乗/ノ果ヲ證マテオツヘキヤウナシ

(

二〇オ一)

[

例47]法空/ト云モイカサマニモ先ツ人躰ヲ空シテ其上ニ

可立コト/也「・」

(

一九ウ七)

[

例48]

答イカサマニ/モ當時ノ我等ハ人空ノ理タニモ知ルコトカタケレハ「・」

二乗/ノ果ヲ證マテオツヘキヤウナシ

(

二〇オ一)

[

例49]

サレハ/一切佛法ハイカサマニモマツ人空法空ヲ地盤ニ

テ/起レハ也「・」

(

二一オ五)

[

例50]

ナシニ人空法空トハ云ソト也(

二三ウ三)

例45「

イカニト」

は、副詞「イカニ」

に格助詞「

ト」

が下接して副詞化した用法であって、平安時代には用例を見

ず、鎌倉時代においても珍しい例と言える。

助動詞では、推量「

ウ」

1例、完了「タリ」

の並列用法「

………タリ………タリ」

1例が見られる。

[

例51]

但シ實/ニサトラウ日ハタヽ不生不滅ト云ン其義カ皆具/スル也(

二七オ九)

[

例52]

コレラヲ/ヨセ合セタリ取ノケタリシテ開合ノ不同アリト云/(

ヘト)

モツヰニ我ゝ所ヲ離レ人無我智ヲ得シ

メ/(

ンカ)

タメ也(

二七オ一)

例51「

ウ」

は院政期より確認されることが知られている。並列用法「

………タリ………タリ」

は、鎌倉時代以降以

降に出現した用法であって、「

解脱門義聴集記」

、「

華厳信種義聞集記」

、「

起信論本疏聴集記・同別記聴集記」

、「

五教章

��

類集記」

等、明恵上人関係聞書類にも散見する。

[

例53]

答心ハ無明ニ障サ

□レタ/ル物ニテアルニ深心ニ信シタリ智恵ヲ起シタリ/スルニ速疾ノ益アルナリ其ハ無明

カ去ルト/コロニ信シタリ智恵ヲ起シタリスル也(

華厳信種義聞集記第四)

この他に注意される語ものを挙げると、接頭辞「

ヒタ」

とその慣用句的表現2例、接頭辞「

マ(

ン)」

3例がある。

[

例54]如/此理リヲ不知ト云トモ「・」

タヽウバ

(

ママ)

モ阿弥陀佛ト

申セハ「・」

/佛ウレシカラセ玉トテ「・」

ヒタ申シニ申テ「・」

往生ス「・」

(

七オ一)

[

例55]

故ニ

入寂/スルヲ無餘涅槃ト

云ウ是ハヒタムクロニカタ�落テイ/キタル也(

一三オ八)

[

例56]

我ト云ハ

タヽマヽロニ我ト

思ヲ云/也「・」

是ヲ五ツニワレハ「・」

一我ノ執ヲヤル也「・」

家ヲ見テ/オサナキ者ハ

マンマ

ロニ家ト

執スルヲ「・」ケタウツハリ/ト見ツレハ「・」

家ノ執ナキカ如シ「・」

(

六ウ六)

[

例57]

諦觀分明ト

云ハ我ト云ハ/マンマロ『 (

24)

ニマツ我ト云モノアリト思ヲ五ツニワリテ見レハ我トハトコヲ』

/執ス

ルソ(

一一ウ五)

接頭辞「

マ」

については、本資料の場合撥音「

ン」

が介入した例のみであって、「

解脱門義聴集記」

に見える促音介

入の例は認められない

(

25)

おわりに

以上、高山寺蔵「

五蘊觀�聞書」

について、書誌の概略、成立背景、講者と編者との問題、内部構造と資料的性格

��

との関係、国語史的諸事象等の諸問題から、その概要を極く大雑把に記述した次第である。

抑も高山寺における教学の歴史において、本資料の講者に比定される明恵上人が示寂して以降、特に華厳学の学統

は、その弟子である義林房喜海、順性房高信、更には本資料の編者として比定される十恵房順高に継承されたが、高

信が高山寺を出て神尾山寺に活動の場を移して以来、華厳の教学に伴う講説の実践は、むしろ高山寺では下火となり、

それが資料の伝存状況とも深く関係している

(

26)

。本資料は、残念ながら江戸時代書写本のみが今日に伝存するものであ

るが、前述の如く鎌倉時代弘安年間において高山寺に確かに所蔵されていた「

五蘊觀�

聞書」

が今日に伝存していな

いのは、右のような高山寺の歴史が直接に反映した結果と考えられる。その意味では、現存する永辨書写本は、高山

寺華厳の歴史的空白期を埋める、極めて貴重な存在と位置付けることができる。従来、本資料の法談聞書類としての

国語史的価値は知られておらず、今般新たに明恵上人関係聞書類として、中世語的言語事象の貴重な用例を提供する

資料の一つに加えられることとなった。鎌倉時代の広汎な文献の広がりにおいて、同聞書類は極めて重要な存在の一

つとなることは言を俟たないが、一方で、他の寺院や学統において、これに匹敵する法談聞書類は未だ認められず、

その意味では資料的に孤立している状況とも言える。本聞書類の国語史資料としての定位のためには残された課題が

非常に多いが、本稿は個々の資料の記述的研究に基づいた法談聞書類の総合的な分析のための一階梯と位置付けてお

きたい。

注(

1)

築島裕

鎌倉時代の言語体系について」

(「

国語と国文学」第五十一巻第四号、昭和四十九年四月)

��

(

2)

拙稿

鎌倉時代法談聞書類の差声和語について」

(「

訓点語と訓点資料」

第一〇二輯、平成十一年三月)

(

3)

拙稿

講義と聞書及びその言語意識とについて―明恵と喜海との言説をめぐって―」

(「

中央大学国文」

第三十六号、平成五

年五月)

拙稿

高山寺関係聞書類の資料的性格と学統

―講説聞書と伝授聞書とをめぐって―」

(「

訓点語と訓点資料」

第九十五輯、

平成七年三月)

(

4)拙稿

高山寺蔵

五蘊觀�聞書」

について

(

上)」(「

平成十七年度高山寺典籍文書綜合調査団研究報告論集」

平成十八年三

月)において書誌の概略と共に全四十丁の内の第二十丁に至る本文の翻刻を示した。第二十一丁以降についても近く翻刻を公

表する予定である。

(

5)

拙稿

高山寺蔵

五蘊觀�聞書」

について

(

上)」(「

平成十七年度高山寺典籍文書綜合調査団研究報告論集」

平成十八年三

月)

で述べたように、「

方便智院聖教目録第二」

第四十五

木中」

五蘊観聞書

(

欠損)」

とあり、これとは別に同目録

第五十八

顕章疏下」に

「五蘊観門」

と記載されているから、文明年間頃には両書はそれぞれ別の経函に収められて高山寺方便

智院に伝存していたことが判明する。

(

6)

以下、用例の掲出に際しては、原本における改行を

/」

、朱筆を

「」

で示す。

(

7)「

問」

字の右傍に存する

大」字は大半が欠損。紙背本文により補う。

(

8)

田中久夫

明恵上人の講義の聞書にみえる譬喩」

(「

日本歴史」

三五八、昭和五十三年三月)

(

9)

奥田勲

明恵上人関係聞書類に見える人物について」

(『

明恵上人資料第三』

解説編、昭和六十二年二月、東京大学出版会)

(

10)

拙稿

高山寺関係聞書類の資料的性格と学統

―講説聞書と伝授聞書とをめぐって―」

(「

訓点語と訓点資料」

第九十五輯、

平成七年三月)

(

11)

築島裕「

定家本古今和歌集の本文の一側面―「したてるひめとは/あめわかみこのめなり」

をめぐって」

(「

武蔵野文学」

42、

平成六年十二月)

(

12)

高宮幸乃「

明恵上人関係講説聞書類における「

問…答…」という文章形式と疑問文の表現形式との関係―文体と文法の交渉」

(「

三重大学日本語学文学」

第十三号、平成十四年六月)

��

(

13)

拙稿

高山寺関係聞書類の資料的性格と学統

―講説聞書と伝授聞書とをめぐって―」

(「

訓点語と訓点資料」

第九十五輯、

平成七年三月)

(

14)

拙稿

金沢文庫保管

華厳信種義聞集記」

の本文の性格について」

(「

金澤文庫研究」

第三〇一号、平成十年九月)

(15)

拙稿

義林房喜海の講義とその聞書について―国語史資料としての検討―」

(

中央大学

大学院研究年報」

(

文学研究科�)

第二十二号、平成五年二月)

拙稿

東大寺図書館蔵

五教章類集記」

の資料的性格―義林房喜海による講説の聞書類として―」

(『

築島裕博士古稀記念国

語学論集』

平成七年十月、汲古書院)

(

16)

拙稿

「鎌倉時代法談聞書類における本文の受容と改修の問題」

(「

実践国文学」

第五十二集、平成九年十月)

(

17)

拙稿

「『

華嚴修禪観照入解脱門義』

及び

華嚴信種義』

の講義とその聞書」

(『

明恵上人資料第五』

、平成十二年二月、東京大

学出版会)

(

18)

拙稿

起信論本疏聴集記に見る

聞書」

の注釈書化と古辞書の利用―大広益会玉�逸文及び改編本系類聚名義抄逸文をめ

ぐって―」

(『

古辞書の基礎的研究』

、平成六年六月、�林書房)

(

19)

大正新修大蔵経所収本

「成実論」

巻一によれば、「

論」

欲」

との間に、「

譬如天日月

其性本明淨

煙雲塵霧等

五翳則

不見

邪論覆正經

其義不明照

正義不明故

邪智門則開

罪負惡名聞

心悔疲�等

此衰惱亂心

皆由邪智起

若人欲除此

罪負等衰惱

為求正論故

當近深智者

親近深智者

是正論根本

因此正論故

能生福勝等

雖有利智人

誦百千邪論

於衆

不能得

辯才名聞利

知佛法第一

説亦得樂果」

あり。

(

20)

拙稿

鎌倉時代法談聞書類における本文の受容と改修の問題」

(「

実践国文学」

第五十二集、平成九年十月)

拙稿

金沢文庫保管

華厳信種義聞集記」

の本文の性格について」

(「

金澤文庫研究」

第三〇一号、平成十年九月)

(

21)

小林芳規

中世片仮名文の国語史的研究」

(

広島大学文学部紀要特輯号三、昭和四十六年三月)

(

22)

拙稿

鎌倉時代法談聞書の国語学的一考察

―金沢文庫蔵華厳信種義聞集記をめぐって―」

(

中央大学

大学院研究年報」

(

文学研究科�)第十九号、平成二年三月)

(

23)

小林芳規

中世片仮名文の国語史的研究」

(

広島大学文学部紀要特輯号三、昭和四十六年三月)

��

(

24)『

ニマツ我ト云モノアリト思ヲ五ツニワリテ見レハ我トハトコヲ』

は、「

マンマロ」

執」

との間に墨筆圏点を付し、上欄

外に本文と同筆にて墨筆書入。

部分は欠損。紙背本文により補う。

(

25)

小林芳規

中世片仮名文の国語史的研究」

(

広島大学文学部紀要特輯号三、昭和四十六年三月)

柳田征司

「『

栂尾御物語』

備忘」

(「

鎌倉時代語研究」

第一一輯、昭和六十三年三月)

(26)

拙稿

高山寺関係聞書類の資料的性格と学統

―講説聞書と伝授聞書とをめぐって―」

(「

訓点語と訓点資料」

第九十五輯、

平成七年三月)

[

付記]

本稿を成すにあたっては、高山寺御当局並びに高山寺典籍文書綜合調査団関係各位より格別の御高配を賜っ

た。記して厚くお礼申し上げたい。

本稿は日本学術振興会科学研究費補助金・基盤研究(

C)「

鎌倉時代語コーパスの作成を目的とした聞書、

注釈類の発掘とデータベースの構築」

の成果の一部である。

(

どい・こうゆう/本学助教授)

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