2
Reserch of Vienna No.02 Ⅱ . ロマネスク期 円環状都市壁の形成 5 世紀初め、古代ローマ人都市ウィーンはドナウ北岸から渡ってきたゲル マン人によって徹底的に破壊され、都市壁外は次第にゲルマンの都市と なっていく。その後、残された都市壁内に安息を求め人々が住みつくよう になり、破壊された古代ローマの格子状の規則的な街路網であった都市構 造の上に、湾曲し不規則な街路網による都市が重層していった。ここから、 計画の意図が反映されない、自然発生的な迷路的な街路と広場による中世 の都市空間が始まった。 1156 年、ウィーンとその周辺を統治し始めたバーベンベルク家 *3 は 居城をクロスターノイブルク *4 からウィーンへ移す。これによりローマ 帝国時代の属州上部パンノニアの首都カルヌントゥムに代わって、その防 衛を担っていたウィーンが政治的にも経済的にもオーストリアの中心都市 としての地位を占め、体制を整えていく。同時期、都市の拡張・整備が行 われ、ローマ時代の都市壁は取り除かれ、新たにより広い市域を取り囲む 都市壁と濠が、ローマ期の正方形に対し円環状に建設された。この新たな 都市域は、大きな都市空間の変貌を見せる 1857 年まで、ウィーンの都市 空間を規定した。 Ⅲ . ゴシック期 帝国の宮廷都市へ 13 世紀に入り、バーベンベルク家による移住統治 *5 から、ハプスブルク 家による定住統治へと移行するにつれ、ウィーンは首都・宮廷都市として 認知され始める。 14 世紀以降、後に僧院の取り壊しや閉鎖令が出るほど、ゴシック様式の 僧院・教会が林立された。 Ⅳ . ルネサンス期 近代型要塞の形成 1529 年、30 万もの大軍を率いたトルコ軍に包囲され、ウィーンはこの攻 囲戦により陥落の危機にさらされた。この攻囲戦の結果、中世に構築され た城塞の改築・補強が急務となり、トルコ軍退去の翌年から皇帝フェルナ ンド 1 世 (1526-1564) がニュルンベルクの築城家や最先端のイタリア技 師を招き、強固な稜堡 ( バスティオーン ) を具えた城壁、幅広い斜堤 ( グ ラシー ) の構築に着手した。改築補強工事はフェルナンド 2 世 (1619-1637) など各時代の皇帝へ受け継がれ、レオポルト 1 世 (1658-1705) 統治の 1672 年に 150 年の月日を経て完了した。この近代的稜堡と斜堤は、今日 までのウィーンの都市空間を大きく規定した。【fig.03】 Ⅴ . バロック期 トルコ軍再包囲と戦争終結 ハプスブルク朝はハンガリーまで迫っているオスマン帝国と平和外交政策 により均衡を保ってきたが、1683 年にその均衡が破れ、25 万ものトル コ軍が再度ウィーンを包囲した。近代的な要塞への改築補強工事により前 回ほど危機的状況ではなかったが都市壁と市民の家々は多大な損害を被っ た。トルコ軍の退去後 20 年が経った 1704 年、再度の襲来に備えウィー ンは市壁から 1.5-2km 遠まきを囲むように全長 20km に及ぶ防塁壁 ( リー ニエンヴァル ) を建設。【fig.04】オスマン帝国との戦争終結は、市民に生 活の安定と経済的発展をもたらし、ウィーン全体に建設と都市整備とを促 した。 Ⅵ . 新古典主義期 市壁内と市壁外 ヨーゼフ 2 世 * は啓蒙の精神に燃え、ウィーンの都市空間と関連する社 会改革を進めた。ユダヤ教会の建設、僧院の跡地の賃貸住居化、役所・学 校・病院など実用を主とする目的建築の建設や、自らが所有する狩領地を 市民に開放し公園にするなどした。しかし市壁内におけるヨーゼフ 2 世の 改革が行われても慢性的な住居難は解決されず、急激な人口増加は工業化 によって拍車をかけられ、市壁外の防塁壁に囲まれた郊外地に押し寄せた。 市壁内の宮廷都市景観に対し、市壁外の賃貸住居群による市街地の景観と いう 2 つの対照的な景観がウィーンの都市景観となった。 Ⅶ . 近代都市形成期 リングシュトラーセの形成 19 世紀に入ると、封建主義農業経済に変わって都市流通経済が進むにつ れ、ウィーンの人口は急増した。他方、武器の発達により効力を失いつつ あった城壁・斜堤を撤去し都市の大改造が要求された。1848 年の 3 月革 命を機に政治的にも軍事的にも私生活における斜堤に地位を見直させるこ とになり、終息した 1857 年 12 月 20 日、皇帝フランツヨーゼフ 1 世 *6 は陸軍用土地を民間使用のために解放する意向 ( 城壁施設の撤去・環状道 路の建設 ) を表明し、その開発を遂行する目的で「都市拡張委員会」を設 置した。軍事、教会関係の建物はすべて排除され、代わってオペラ劇場・ ブルク劇場 *・大学など芸術文化施設、議事堂・新市庁舎など立憲君主を 支える公共建築物が建設された。 さらに 19 世紀前半に既に始まっていた防塁壁外部への市街化は、帝国周 辺地域からウィーンを目指して移住する人たちによる爆発的な人口増加に よって一挙に進み、城壁・斜堤と同様存在意義を失った 18 世紀初当建設 の防塁壁は1890年に取り壊された。【fig.05】 ※ 1 ウィンドボナ ローマ帝国の植民地・軍団基地を起源とする諸都市は、川の北に住む蛮族に対し川の南側に立地し、 都市壁の周囲の濠に川から水を引き流した。 ex. ケルン・ボン・マインツ・レーゲンスブルク ※ 2 古代ローマ都市プラン 厳密に南北に走る主要街路カルド・マクシムスと東西に走る主要街路デクマヌス・マクシムスにより 4 分割された正方形プラン。4 地区ごとそれぞれの組織体が都市運営を行い、規則正しく格子状の細 街路網が形成された。 ※ 3 バーベンベルク家 神聖ローマ皇帝オットー II 世によってマジャール族に対する東辺境伯領オーストマルク ( オーストリ ア国名の前身 ) の領主とされ、976-1246 年の 270 年間 12 代に渡りオーストリア領主として力を持っ た。 ハプスブルク家が領主になる前のオーストリアの領主。バーベンベルク王朝をオーストリアの第一王 朝とすれば、ハプスブルクは第二王朝と考えられる。バーベンベルク時代にオーストリアの国名・国旗・ 領地がほぼ現在のようになり、ウィーンに首都が置かれるようになった。 ※ 4 クロスターノイブルク Klosterneuburg オーストリア、ニーダーエスターライヒ州、ウィーン北部郊外にある町。バーベンベルク家レオポル ド 3 世が 12 世紀に創設したクロスターノイブルク修道院を中心とする。 ※ 5 移住統治 中世ドイツにおいて国王はある特定の王宮に定住するのでなく、常に旅をして各地の王宮を巡る統治 形態をとっていた。 ※ 6 Franz Joseph I, (1830.08.18 - 1916.11.21) オーストリア帝国における実質的な最後の皇帝。在位は 1848-1916 の 68 年間。その期間中、政治的 には多くの難題に直面したが、文化的にはリングシュトラーセをはじめ、急速な発展に貢献した。 medium_loos 100531 担当 : 本橋・原 Theme:CITY fig. 02 ウィンボトナ / 今日のウィーン fig.01 1858 fig. 03 1773 新設の公共建築 ①陸軍省 ②郵便貯金局 ③美術工芸学校 ④市立 ⑤楽友協会 ⑥芸術家会館 ⑦オペラ劇場 ⑧美術アカデミー ⑨新王宮 ⑩自然史・美術史博物館 ⑪司法省 ⑫国会議事堂 ⑬ブルク劇場  ⑭市庁舎 ⑮ウィーン大学 ⑯ヴォティーフ教会 ⑰証券取引所 ⑱ロッサウアー兵舎 fig.04 リーニエンバル 1770 fig.05 リングシュトラーセ Ⅰ . 古代ローマ時代 古代ローマ都市プランの適用 紀元前 1 世紀、アウグストゥス帝の時代に既にアルプス北方の国々を帝国 に組み入れていたローマ帝国は、紀元後 1 世紀以降、北の蛮族ゲルマン人 の攻撃を防ぐためドナウ - ライン川沿いに防護線 ( リメス ) を築き増強し ていった。その防御拠点のひとつが古代ローマ軍が駐屯する軍団基地ウィ ンドボナ *1 である。古代ローマ都市プラン ローマ正方形・四分法 ( ローマ・ クァドラータ )*2 に従い、建設された。ウィーンはドナウ川支流に接する という地形的制約から厳密な正方形でなく、456m × 531m の規模で最大 3m厚の都市壁で囲まれ、これが今日の旧市街地の核部分と重なる。【fig.02】 【参考文献】 C.E.ショースキー『世紀末ウィーン』(1983,岩波書店) 加藤雅彦 『ウィーン多民族文化のフーガ』(2010,大修館書店) ヴィルデ・シュピール『ウィーン黄金の秋』(1993,原書店) 増谷英樹『歴史のなかのウィーン』(1993, 日本エディタースクール出版部) 【図版出典】 fig.01 http://images.nationmaster.com/images/motw/historical/vienna_1858.jpg fig.02 『ウィーン多民族文化のフーガ』(2010,大修館書店) p.45 fig.03/05 『ウィーン多民族文化のフーガ』(2010,大修館書店) p.94 fig.04 『ウィーン多民族文化のフーガ』(2010,大修館書店) p.29 fig.06 『歴史のなかのウィーン』p.65 fig.07 『歴史のなかのウィーン』p.59 ウィーンの都市の変遷は、 戦争の歴史を背景とした軍事・経済的要求の変遷に一致する。

Reserch of Vienna NoReserch of Vienna No.02 Ⅱ.ロマネスク期 円環状都市壁の形成 5世紀初め、古代ローマ人都市ウィーンはドナウ北岸から渡ってきたゲル

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Page 1: Reserch of Vienna NoReserch of Vienna No.02 Ⅱ.ロマネスク期 円環状都市壁の形成 5世紀初め、古代ローマ人都市ウィーンはドナウ北岸から渡ってきたゲル

Reserch of Vienna No.02Ⅱ . ロマネスク期 円環状都市壁の形成5 世紀初め、古代ローマ人都市ウィーンはドナウ北岸から渡ってきたゲル

マン人によって徹底的に破壊され、都市壁外は次第にゲルマンの都市と

なっていく。その後、残された都市壁内に安息を求め人々が住みつくよう

になり、破壊された古代ローマの格子状の規則的な街路網であった都市構

造の上に、湾曲し不規則な街路網による都市が重層していった。ここから、

計画の意図が反映されない、自然発生的な迷路的な街路と広場による中世

の都市空間が始まった。

 1156 年、ウィーンとその周辺を統治し始めたバーベンベルク家 *3 は

居城をクロスターノイブルク *4 からウィーンへ移す。これによりローマ

帝国時代の属州上部パンノニアの首都カルヌントゥムに代わって、その防

衛を担っていたウィーンが政治的にも経済的にもオーストリアの中心都市

としての地位を占め、体制を整えていく。同時期、都市の拡張・整備が行

われ、ローマ時代の都市壁は取り除かれ、新たにより広い市域を取り囲む

都市壁と濠が、ローマ期の正方形に対し円環状に建設された。この新たな

都市域は、大きな都市空間の変貌を見せる 1857 年まで、ウィーンの都市

空間を規定した。

Ⅲ . ゴシック期 帝国の宮廷都市へ

13世紀に入り、バーベンベルク家による移住統治 *5 から、ハプスブルク

家による定住統治へと移行するにつれ、ウィーンは首都・宮廷都市として

認知され始める。

14世紀以降、後に僧院の取り壊しや閉鎖令が出るほど、ゴシック様式の

僧院・教会が林立された。

Ⅳ . ルネサンス期 近代型要塞の形成1529 年、30万もの大軍を率いたトルコ軍に包囲され、ウィーンはこの攻

囲戦により陥落の危機にさらされた。この攻囲戦の結果、中世に構築され

た城塞の改築・補強が急務となり、トルコ軍退去の翌年から皇帝フェルナ

ンド 1世 (1526-1564) がニュルンベルクの築城家や最先端のイタリア技

師を招き、強固な稜堡 ( バスティオーン ) を具えた城壁、幅広い斜堤 ( グ

ラシー)の構築に着手した。改築補強工事はフェルナンド2世(1619-1637)

など各時代の皇帝へ受け継がれ、レオポルト 1世 (1658-1705) 統治の

1672 年に 150 年の月日を経て完了した。この近代的稜堡と斜堤は、今日

までのウィーンの都市空間を大きく規定した。【fi g.03】

Ⅴ . バロック期 トルコ軍再包囲と戦争終結ハプスブルク朝はハンガリーまで迫っているオスマン帝国と平和外交政策

により均衡を保ってきたが、1683 年にその均衡が破れ、25 万ものトル

コ軍が再度ウィーンを包囲した。近代的な要塞への改築補強工事により前

回ほど危機的状況ではなかったが都市壁と市民の家々は多大な損害を被っ

た。トルコ軍の退去後 20年が経った 1704 年、再度の襲来に備えウィー

ンは市壁から 1.5-2km遠まきを囲むように全長 20kmに及ぶ防塁壁 (リー

ニエンヴァル ) を建設。【fi g.04】オスマン帝国との戦争終結は、市民に生

活の安定と経済的発展をもたらし、ウィーン全体に建設と都市整備とを促

した。

Ⅵ . 新古典主義期 市壁内と市壁外ヨーゼフ 2世 * は啓蒙の精神に燃え、ウィーンの都市空間と関連する社

会改革を進めた。ユダヤ教会の建設、僧院の跡地の賃貸住居化、役所・学

校・病院など実用を主とする目的建築の建設や、自らが所有する狩領地を

市民に開放し公園にするなどした。しかし市壁内におけるヨーゼフ 2世の

改革が行われても慢性的な住居難は解決されず、急激な人口増加は工業化

によって拍車をかけられ、市壁外の防塁壁に囲まれた郊外地に押し寄せた。

市壁内の宮廷都市景観に対し、市壁外の賃貸住居群による市街地の景観と

いう 2つの対照的な景観がウィーンの都市景観となった。

Ⅶ . 近代都市形成期 リングシュトラーセの形成19 世紀に入ると、封建主義農業経済に変わって都市流通経済が進むにつ

れ、ウィーンの人口は急増した。他方、武器の発達により効力を失いつつ

あった城壁・斜堤を撤去し都市の大改造が要求された。1848 年の 3月革

命を機に政治的にも軍事的にも私生活における斜堤に地位を見直させるこ

とになり、終息した 1857 年 12 月 20 日、皇帝フランツヨーゼフ 1世 *6

は陸軍用土地を民間使用のために解放する意向 ( 城壁施設の撤去・環状道

路の建設 ) を表明し、その開発を遂行する目的で「都市拡張委員会」を設

置した。軍事、教会関係の建物はすべて排除され、代わってオペラ劇場・

ブルク劇場 *・大学など芸術文化施設、議事堂・新市庁舎など立憲君主を

支える公共建築物が建設された。

さらに 19世紀前半に既に始まっていた防塁壁外部への市街化は、帝国周

辺地域からウィーンを目指して移住する人たちによる爆発的な人口増加に

よって一挙に進み、城壁・斜堤と同様存在意義を失った 18世紀初当建設

の防塁壁は 1890 年に取り壊された。【fi g.05】

※ 1ウィンドボナ

ローマ帝国の植民地・軍団基地を起源とする諸都市は、川の北に住む蛮族に対し川の南側に立地し、

都市壁の周囲の濠に川から水を引き流した。

ex. ケルン・ボン・マインツ・レーゲンスブルク

※ 2古代ローマ都市プラン

厳密に南北に走る主要街路カルド・マクシムスと東西に走る主要街路デクマヌス・マクシムスにより

4分割された正方形プラン。4地区ごとそれぞれの組織体が都市運営を行い、規則正しく格子状の細

街路網が形成された。

※ 3バーベンベルク家

神聖ローマ皇帝オットー II 世によってマジャール族に対する東辺境伯領オーストマルク ( オーストリ

ア国名の前身 ) の領主とされ、976-1246 年の 270 年間 12代に渡りオーストリア領主として力を持っ

た。

ハプスブルク家が領主になる前のオーストリアの領主。バーベンベルク王朝をオーストリアの第一王

朝とすれば、ハプスブルクは第二王朝と考えられる。バーベンベルク時代にオーストリアの国名・国旗・

領地がほぼ現在のようになり、ウィーンに首都が置かれるようになった。

※ 4クロスターノイブルク Klosterneuburg

オーストリア、ニーダーエスターライヒ州、ウィーン北部郊外にある町。バーベンベルク家レオポル

ド 3世が 12世紀に創設したクロスターノイブルク修道院を中心とする。

※ 5移住統治

中世ドイツにおいて国王はある特定の王宮に定住するのでなく、常に旅をして各地の王宮を巡る統治

形態をとっていた。

※ 6 Franz Joseph I, (1830.08.18 - 1916.11.21)

オーストリア帝国における実質的な最後の皇帝。在位は 1848-1916 の 68 年間。その期間中、政治的

には多くの難題に直面したが、文化的にはリングシュトラーセをはじめ、急速な発展に貢献した。

medium_loos 100531 担当 : 本橋・原

Theme:CITY

fi g. 02 ウィンボトナ /今日のウィーンfi g.01 1858 fi g. 03 1773

新設の公共建築

①陸軍省 ②郵便貯金局 ③美術工芸学校 ④市立 ⑤楽友協会 ⑥芸術家会館 ⑦オペラ劇場

⑧美術アカデミー ⑨新王宮 ⑩自然史・美術史博物館 ⑪司法省 ⑫国会議事堂 ⑬ブルク劇場 

⑭市庁舎 ⑮ウィーン大学 ⑯ヴォティーフ教会 ⑰証券取引所 ⑱ロッサウアー兵舎

fi g.04 リーニエンバル 1770 fi g.05 リングシュトラーセ

Ⅰ . 古代ローマ時代 古代ローマ都市プランの適用紀元前 1世紀、アウグストゥス帝の時代に既にアルプス北方の国々を帝国

に組み入れていたローマ帝国は、紀元後 1世紀以降、北の蛮族ゲルマン人

の攻撃を防ぐためドナウ - ライン川沿いに防護線 ( リメス ) を築き増強し

ていった。その防御拠点のひとつが古代ローマ軍が駐屯する軍団基地ウィ

ンドボナ*1である。古代ローマ都市プラン ローマ正方形・四分法(ローマ・

クァドラータ )*2 に従い、建設された。ウィーンはドナウ川支流に接する

という地形的制約から厳密な正方形でなく、456m× 531mの規模で最大

3m厚の都市壁で囲まれ、これが今日の旧市街地の核部分と重なる。【fi g.02】

【参考文献】

C.E. ショースキー『世紀末ウィーン』(1983,岩波書店)

加藤雅彦 『ウィーン多民族文化のフーガ』(2010,大修館書店)

ヴィルデ・シュピール『ウィーン黄金の秋』(1993,原書店)

増谷英樹『歴史のなかのウィーン』(1993, 日本エディタースクール出版部)

【図版出典】

fi g.01 http://images.nationmaster.com/images/motw/historical/vienna_1858.jpg

fi g.02 『ウィーン多民族文化のフーガ』(2010,大修館書店) p.45

fi g.03/05 『ウィーン多民族文化のフーガ』(2010,大修館書店) p.94

fi g.04 『ウィーン多民族文化のフーガ』(2010,大修館書店) p.29

fi g.06 『歴史のなかのウィーン』p.65

fi g.07 『歴史のなかのウィーン』p.59

ウィーンの都市の変遷は、

戦争の歴史を背景とした軍事・経済的要求の変遷に一致する。

Page 2: Reserch of Vienna NoReserch of Vienna No.02 Ⅱ.ロマネスク期 円環状都市壁の形成 5世紀初め、古代ローマ人都市ウィーンはドナウ北岸から渡ってきたゲル

カミロ・ジッテ

Camillo Sitte(1843-1903)

オーストリアの建築家・画家・都市計画家。

1860-1873 年、父親建築家フランツ・ジッテの

 もとで建築を学ぶ。

1863 年、ギムナジュウム修了。

1868 年、ウィーン大学にて考古学と美術史を専攻

 る傍ら、都市計画に関心をもつ。

1875-1883 年、ザルツブルクの国立工芸学校長

ロマンチックな尚古主義者の立場から、近代的な技術や実利から人間

を救済するために歴史主義の拡張を試みた。リングシュトラーセ建設

者たちの歴史的・美的抱負を真剣に受けとめ、その上で彼らが近代生

活の要求のために伝統を裏切ったことを批判。

著書『都市計画』(1889 ) で主張される思想は、建物単体でなく都市の「秩

序ある連続」であり、理想とするモデル都市は、古代ギリシアや中世ヨー

ロッパなど過去の都市であった。

オットー・ヴァーグナー

Otto Wagner(1841-1918)

1857-1859 年、ウィーンの工科学院

1860-1861 年、新古典主義建築の中心であった

 ベルリン建築アカデミー

1863 年、ウィーン美術学校卒業

 ドナウ運河の水門、ウィーン環状鉄道の駅舎、

 トンネル、橋梁や都市計画などに関わる。

1899 年、分離派に加わるが、内部の対立から

  クリムトとともに 1905 年脱退。

合理的な機能主義者の立場から、合理的で都会的な文明の価値のため

に歴史主義の後退を試みた。近代技術のブルジョワ的な是認から、ジッ

テの批判した街路の主動性を本質として受け入れ、リングシュトラー

セが近代性とその機能とを歴史的様式の陰に隠したことを批判。

著書『近代建築』(1895)において、機能性を見た目の効果(絵画的な効果)

の犠牲にしているという理由からリングシュトラーセを批判した。

リングシュトラーセ 2つの立場からの批判

この2つの立場からの批判は、リングシュトラーセの遺産の相容れな

い構成要素により必然的に生じるものであり、互いに補完し合ってい

たと言える。

城壁やリーニエによって、政治的社会的役割が、層状に

はっきりっと区分けされたこの構造が、破綻を迎えたのは、

1848 年の革命の際であった。パリでの革命を契機として、

学生を主体として市民を巻き込みながら、「市内区」におい

て暴動が起こる。しかし、ここで城壁が、革命を大きくして

しまう要因ともなってしまった。学生達に合流しようとして

リーニエの外部から市外区の人々を巻き込みながら市内区に

向かった労働者や「プロレタリアート」は、郡によって閉じ

られた城壁によって、全く独自の革命を追求することになっ

てしまった。故に、この革命は、「市内区の革命」と「リー

ニエの外の革命」とに大きく区別して扱われる。攻撃の対象

としたものも、両者で大きく異なる。「市内区の革命」が、

いわば政治的革命を要求したのに対して、「リーニエの外の

革命」は、市外区の悪徳パン屋や肉屋を襲ったり、境界には

革命後の市の委員会でも帝国議会においても、このことは

大きな問題となった。この革命により、面目をつぶされた軍

部にとっても、労働者「プロレタリアート」に怯えるブル

ジョワジーにとってもこの城壁は、むしろ古風な危険なもの

にしかならなくなてしまった。一方で、革命におびえる軍部

は、城壁にかわるなにものかを必要としていた。彼らにとっ

ての、最大の敵は、リーニエの外の「プロレタリアート」で

あり、市外区はは、両者の間の緩衝帯になるはずであった。

ここに市内区を囲む幅 50mの城壁をつくることに委員会の

意見は一致した。これこそ「リングシュトラーセ (Wiener

Ringstraße)」である。このリングには、つまり二つの意味

が含有されているのである。商業的にも文化的にもウィーン

に発展をもたらすという意味合いと同時に、軍部にとっては

明らかな軍用道路であったのである。それは、この道路と隣

接したドナウ運河のほとりにある兵舎がものがたる。それは

ちょうど市内区を二等辺三角形で囲む場所に存在しているの

である。そして、そこからは環状道路を利用して、何時でも

市内区を守る位置へと軍隊を移動させることが出来る様に仕

組まれていたのである。皇帝は、民心を懐柔させる為に、協

会の設立を命じた。『世紀末ウィーン』の著者である C・E・

ショースキーは、「宗教とサーベルの支配」と揶揄している。

本来は、外敵から守るという役割であった城壁であったが、

オスマンの圧力が遠のくにつれ、別の意味合いを持つよう

になる。つまり、

ウィーンという

都市を政治的社

会的に区分けす

る役割を担うよ

うになったので

ある。便宜的に

城壁内部を「市

内区」・城壁と

リーニエの間を

「市外区」・リー

ニエの外を「リー

ニエの外」とお

くことにする。

市内区には、王

宮が存在し、貴

族や高級官僚、

富裕層が住む政

治的には保守派

である。市外区

に住む人々は多彩であった。畑や葡萄園もあり、農民や小営

業者も多数住んでいた。政治的には進歩的とは言えないが、

批判的な人々が住んでいた。城壁は、厳然と市の内部と外部

を分け隔てており、あたかも市内区の財産を守るための存在

にも見えて来るようになった。

城壁の役割の変化

プロレタリアート

都市拡張委員会

Wiener Ringstraße

fug.07 18 世紀ウィーン

シャリヴァリ (charivari) をかけるなどしたり、物価騰貴の

元凶とされた消費税の徴収所や、自分たちを解雇したリーニ

エの外の工場に火を放ったり

などした。この革命はむしろ

社会的なものであった。

革命が続くにつれ、新しい展

開を迎える。革命ハンガリー

の鎮圧の為の軍隊出動を巡

り、この二つの革命が接近し、

皇帝と軍隊を追放したのであ

る。皇帝軍は、外からウィー

ンを取り囲み、革命政府が強

固な城壁とリーニエを盾に

ウィーンに立て篭ったのであ

る。武器と弾薬と訓練の勝る

皇帝軍の勝利に終わるもの

の、城壁が逆手に取られてし

まったことは大変な衝撃を与

えた。

fig.06 1840 年頃のウィーン。

層状の構造がはっきりと見て取れる