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お問合せ先 茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係 http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ) Title Kot Diji文化の起源に関する考察 Author(s) 徐. 朝竜 Citation 茨城大学教養部紀要(28): 1-36 Issue Date 1995-03 URL http://hdl.handle.net/10109/9766 Rights このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属 します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。

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お問合せ先

茨城大学学術企画部学術情報課(図書館)  情報支援係

http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html

ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)

Title Kot Diji文化の起源に関する考察

Author(s) 徐. 朝竜

Citation 茨城大学教養部紀要(28): 1-36

Issue Date 1995-03

URL http://hdl.handle.net/10109/9766

Rights

このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。

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Kot Diji文化の起源に関する考察

AStUdy of the Rise of the Kot Dijian Culture

徐 朝 龍

(Xu Chaolong)

はじめに

 およそ紀元前四千年紀後半から二千年紀初頭にいたる千数百年の間に,インダス北部平原におい

てrKot Diji式土器」という土器群を特徴とする農耕文化が展開していた[徐1989]。この文化は,

特にいわゆるインダス文明を代表する「HarapPa文化」の最盛期(およそ紀元前2600~2100年頃)

に先立ち,前三千年紀前半にわたって北部平原を占拠し繁栄を極めていた。しかし,のちになって

「Harappa文化」が拡張し,インダス平原主体部において支配的な地位を確立するにっれ, Kot Diji

文化は衰退を余儀無くされ,前三千年紀後半(Harappa文化全盛期)を通じてGoma1平野, Bannu

盆地およびPotwar盆地などといった限られた北西地方に存続していたのである。これまでこの文化

にっいては,主にHarappa文化との関係にからんでさまざまな角度から議論されてきたが,それ自

身の起源問題はほとんど研究されていないのが現状である。しかし,編年的に見れば,バルチスター

ン丘陵,インダス平原を含む広大な地域においてこれまで発見された考古学資料の中には,Kot Diji

文化の起源段階にあたる物質文化の証拠がすでに含まれており,理論的には,それらはわれわれの

手中に把握されていると考えられる。この点については,おそらく誰もが疑わないであろう。この

意味において,Kot Diji文化の起源問題を解き明かす前提条件はインダス文明の起源問題を解明する

それよりはるかに有利になっているとさえ言える。問題は,Kot Diji文化の起源を考えるという立場

からそれらの資料をどのようにして洗い直し,インダス流域における先史文化のなかでいかに正し

く位置付けてゆくかなのである。この問題について真剣に考え,綿密に研究しようとする学者がこ

れまであまりいないだけに取り組む意味は大きいと筆者は考えている。そこで,この小論において,

とくにバルチスターン丘陵とインダス北部平原を中心とした地域における土器資料を検討し,Kot

Diji文化の起源問題を解明する突破口を切り開いてみたい。

インダス平原における起源の可能性について

 インダス北部平原でKot Diji文化が開花する前に,インダス平原においてはいくっかの地域に農

耕文化の存在が知られている。たとえば,今澗れていたHakra 一 Ghaggar川沿いのCholistan地方に

Hakra土・器期文化(Hakra Ware Period),北のPotwar盆地にSarai Khola I期文化, Bannu盆地に

Shari Khan Tarakai-A文化,上Sind地方にAmri I A~B期文化(この文化についてはのちにまた

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2 茨城大学教養部紀要(第28号)

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鮮インダス平原初期農耕文化遺跡

遵バルチスターンの農耕文化遺跡

    図1. 紀元前4000年紀後半におけるインダス平原の初期農耕文化分布1.Amriとその周辺,2. Kalat南部,3, Kachl平原,4. Quetta盆地,5Zhob-Loralai地方,

6.Gomal平原,7. Bannu盆地,8. Potwar盆地,9. Multan近辺,10 CholIstan地方

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徐:Kot Diji文化の起源に関する考察 3

詳しく述べる)がそれぞれ確認されている[図1]。

 一方,北部平原に関していえば,先行する農耕文化を受け継ぐのがKot Dlji文化であることは周

知されている事実である。しかし,このKot Diji文化ははたしてCholistan地方, Sarai Kholaおよ

びShari Khan Tarakaiなどの在来文化を母体に生まれたのか,それとも外部から入って来たものな

のかが,議論の的になってきた。言い換れば,Kot Diji文化は上述の各地においてその先行文化とは

一体どのような関係にあるのか,という点が問題の核心なのである。この点を明らかにするために,

ここではまずCholistan地方, Sarai KholaとBannu盆地という順で資料を検証することとする。

 Cholistan地方では正式な発掘がまだ行われない今, Kot Diji文化と先行した農耕文化との関係に

関する情報が,極めて限られているため正確なことはわからない。しかし,限られた調査で明らか

にされた一つの明確かっ重要な現象は,rHakra Ware」を特徴とする文化が新しいKot Diji文化の

母体ではない可能性を示唆していることである。まず,Cholistan地方における99にものぼる「Hakra

Ware Period」遺跡のうち,「Kot Dijian」と呼ばれる新しい文化内容をもつものとして確認されたの

が,わずかに三っしかない,という事実に注目したい[Mugha11982:91]。一方, Kot Diji文化

のみが存在すると確認された遺跡が39ある。これは,即ち上述の三個の遺跡を除いて,絶対多数を

占める96のrHakra Ware Period」文化の遺跡にKot Diji文化が重なっていないことになるのであ

る。もし両文化が一脈継承の関係にあるものであったならば,このような現象はよほど非常な事態

によるものでないかぎり,説明しにくい。もし,調査者の観察が正しければ,この現象にっいては

まず次の二っの可能性が考えられよう。

 [1],全体の96%をも占める集落(遺跡)はある時期になってなにかの原因で一斉に放棄された。

その後人々はその地で場所を変えてそれまでと異なったKot Diji式土器を特徴とする新しい文化様

相を作り出して生活を再開するようになった。

 [2],すべての集落(遺跡)はKot助i文化が到来する直前に放棄されたか,あるいはKot Diji文

化のこの地域への侵入によって荒廃された。その後,わずか三っの従来の集落にKot Diji文化の人々

が住み着くようになり,他の39のKot Diji文化のみが確認された遺跡は,いずれも彼らによって新

しく作られた居住地である。そして,従来の住民たちはどこかへ逃げ去ったか,あるいはこうして

新しくできたKot Diji文化の居住地の中に吸収されていったか,という運命になった。

 筆者の考えでは,二っの可能性を比較してみると,[1]の場合は必然性を欠いているように思う。

分布図を見てもわかるように,Hakra土器期文化の遺跡とKot Diji文化の遺跡とはほぼ同じ地域を

カバーしている(図2)。したがって,両者が同じ文化であったならば,集落の位置をある時点にお

いて一斉に移動させる必要性はなかったはずである。かりに自然災害などでそうした移動が起きた

としても,移動後に文化の様相がまったく変わったことは同じ系譜の文化にしてみれば不自然であ

る。したがって,[2]の場合では[1]より理屈にかなっているといえる。Cholistan地方に観察さ

れたこうした重要な現象は,新旧文化の間の継続性を否定する意味をもつ一方,Kot Diji文化のこの

地における出現の在り方に大きなヒントを与えるものと考えられる。確かに「Hakra Mud Applique」

という土器には一部のロクロによる成形で,薄い器壁をもち,頚部に黒い帯状文をめぐらした良質

土器も見られる[Mughal 1981:fig.2;1982:P1.7.1]。そして,こうした黒い帯状文はKot Diji

式土器の最大の特徴とされているので,Hakra土器期文化はKot Diji文化の前身ではないか,とい

う推測に余地を残しているわけである。しかし,全体として両者の土器様相には相違が共通点をは

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4 茨城大学教養部紀要(第28号)

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●急展開したK。IDiji文化遺跡

OQuetta文化期(DS II、III}遺跡

       図2. 紀元前3000年紀前半インダス平原における遺跡分布図

1.Amrl,2. Kot Diji,3. Moen」o-Daro,4Surab Damp,5An」lra,

6.Mehrgarh,7. Damp Sadaat,8. Sur Jangal,9Rana Ghundai,10.Perlano Ghunda1,11 Gumla,12. Rehman Dheri,13 Tarakai Qila, Lewan,14.Sarai Khola,15. Ja田pur, 16. Harappa, 17 Cholistan Desert,

18 Bln」or-1,19 RD-89,20. Kallbangan

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徐:Kot Diji文化の起源に関する考察 5

るかに上回ることは一目瞭然である。Hakra土器期文化の中に見られる黒い帯状文をめぐらした土

器は外部からやってきたKot Diji文化から影響を受けた結果であるという可能性もまったくないわ

けでもない。実際にrHakra Mud ApPlique」土器はKot Diji文化期になっても存続している[同前

掲注:fig.10]ので,両文化の間においては交替のための一定の併存期間があったことが想定できる

し,また逆にKot Diji文化が成立したあと,在来の文化が吸収されていったという過程も当然考え

られよう。この意味においては,先行したHakra土器期文化がKot Diji文化に寄与した認識として

も無理はない。このように,文化様相における明確な相違と両者の遺跡のありかたから,Hakra土

器期文化がKot Diji文化とは基本的に系譜を異にするものであることが明らかである。

 一方,Ravi川下流域のほとりに位置するJalilpur遺跡も興味深い事実を提供している。 Jalilpur-

1期と「Kot Diji文化」とされるll期との間には漸進的かっ断絶なしに文化の移行が行われていたと,

発掘者であるMughalは記述している[Mughal 1972a:119]。一方,1期の末から,「新しいロク

ロ成形による土器の形式」,「新しい彩文スタイル」および「新しい製造物(Artifacts)」などが登場

した事実も,同時に氏によって指摘されている[Mughal 1974a:110]。しかし,これらの新しい

要素がJalilpur-1期の文化の中から産み出されたものと考えられる材料は乏しく,特にそのうちに

おける二色彩文土器をはじめとする,バルチスターン丘陵における土器伝統の色彩を強く帯びる彩

文土器はそれらの新要素が伝わって来た方向を示唆している。そもそもJalilpur遺跡の地理的な位置

は,Hakra土器期文化の時代にインダス平原の中で最も人口の集中していたと思われるCholistan地

方とその西のバルチスターン丘陵との中間にあり,バルチスターン丘陵からCholistan地方への人間

や文化の流入にあたって一つのトランジットポイントのような性格をもっていたと考えられる(ま

た,その遺跡から西へChenab川を越えてインダス川の東岸に立地するLeiah遺跡も同じ性格を帯び

るものと思われる)。一方,Jalilpur- 1期において,「Hakra lncised」土器の存在がないことと,彩

文土器の出現が比較的早いことなども注目すべき現象である。これらの点を念頭に置いて考えると,

もし,Hakra土器期文化がHakra川流域で自生する文化であったとすれば, Jalilpur- 1期文化は時

期的にはそれより新しいこともありうる。言い換れば,おそらくHakra土器期文化の後半期になっ

てCholistan地方とバルチスターン丘陵との交流が頻繁に行われるようになり,その交流の必要性に

応じて生まれたのがLeiahや, Jalilpurといった中継地的な集落であったかもしれない,というわけ

である。そして,早い話しだが,その交流の積み重ねの結果として,のちにHakra=Ghaggar流域

へのKot Diji文化が進入するルートが用意できたとも思われる。

 一方,Kot Diji文化に先行した文化が確認された北西部においても,それが在地で産み出された証

拠は認められない。Sarai Khola遺跡では土器や石器などの時期的な変化を表わす統計表に象徴され

るように,1期文化とII期文化との間に急激な文化の変容があり, ll期におけるKot Diji式土器の

大量出現は新しい人問集団の到来を思わせるものである[PA 1972:37-40]。一方, Bannu盆地

ではShari Khan Tarakai遺跡においてKot Diji文化の存在が認められない。かわりに, Tarakai Qila

やLewanなどの遺跡に見られるように,最初からKot Diji式土器を用いたとされる集団がそこに住

みはじめたという[Allchin and Knox 1981]。また,これと同じ現象は, Bannu盆地の南のGomal

平野においても観察されている。たとえばRehman Dheri遺跡では発掘者がその1期文化の低い発達

度を強調しようとしたものの,最初の定住者たちが黒い帯状を頚部や胴体にめぐらし,鮮やかな幾

何学文様や動物文を施したKot Diji式土器と認定できる土器をすでに所有していた[Durrani 1988:

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6 茨城大学教養部紀要(第28号)

27]。したがって,そこにはKot Diji文化が起源からそこまで発達した過程はたどれない。 Rehman

Dheri遺跡の近くにあるGumla遺跡でも, Kot Diji文化は1期の「無土器新石器文化」の蓄積から成

立したのではなく,急に展開した形で現われたのである[Dani 1970/71]。こうして,関連遺跡で

観察された多くの証拠と共通の現象はKot Diji文化が土着で成長したものではなく,どこか外部の

世界から移動してきた文化であることを,強く示唆しているのである。

 Kot Diji文化の出現という新しい文化の動きをめぐり,学者の間では解釈が多岐に分かれている。

Mughalは, Cholistan地方を中心とするインダス平原の中部地方をKot Diji文化の中心地と見る一一

方,北西方面からインダス平原へのKot Diji文化の流入があった可能性を否定している[Mugha1

1970:98-100;1982:84]。彼の理解から,むしろインダス北西部平原に広がる新しいKot Diji

文化は,Cholistan地方という中心地から波及していった結果であるような印象さえ受ける。しかし,

そう主張する前に,Kot Diji文化がCholistan地方におけるHakra土器期文化を母体にして成立した

ことを,証明しておかなければならない。これはMughalにはできていない。 Mughalのこうした見

解に対してA.Daniが異論を唱え, Gumla遺跡における発掘の結果をもとにKot Diji文化はGomal

平野で発生し,そこから東方面へとインダス平原に広がるばかりではなく,西の北部バルチスター

ン地方にも浸透していたと説明している[Dani 1970/71:167]。即ち, Daniにとって, Gomal

平野こそKot Diji文化の発祥地であるというわけである。 F. A. Durraniも基本的にDaniと似たよう

な認識をもっていることは,彼がRehman Dheri-1期をrProto-Kot Diji文化」と定義していると

ころからでも窺われる。しかし,Bannu盆地やPotwar盆地における事実をあげるまでもなく,

Rehman Dheri- I A期に見られるように,最初段階における文化内容(土器様相の発達度や城壁(City

Wal1)の建築など)は, Kot Diji文化がそこに起源したことを否定する傾向を強めるものばかりで

ある。

 一方,S, Asthanaが上記の学者たちと異なる認識をもっている。彼女の考えをまとめると,次の

ようになる[Asthana 1985]。およそ紀元前3500年を前後にして,つまり, Mehrgarh-IV期, Kili

Gul Mohammad-IV期およびDamb Sadaat- 1期という時期に,北バルチスターン地方(筆者のいう

中央バルチスターン地方を含む)からAmri文化とKot Diji文化の人々が南へ移動し, Sind地方に

定着するようになった。そして,Amri文化の人々は上Sind地方に止まるのに対して, Kot Diji文

化の人々は紀元前3000年を前後に,移民の第二波としてさらにインダス川を越え北東を目指して

Punjab, RajasthanおよびHaryanaなどの地域に進入した。一方,北方ではGumla-H期には

rNamazga一皿期」の文化要素と初期段階のKot Diji文化要素とが, Zhob-Loralai地方の集落から

流れてきた。そして,Gumla一皿期になると,南トルクメニアの文化要素の衰退に伴い, Kot Diji文

化の特徴が主体性をもって鮮明に現われるようになった[Asthana 1985:230-232]。彼女に言わ

せれば,Kot Diji文化はバルチスターン丘陵を原郷としている,ということのようであるが,その後,

それを具体的に究明する作業を彼女はまったく進めていない。しかもこうして主張する一方,彼女

はKot Diji文化が上Sind地方へ下りるために通らなければならなかったはずのKachi平原にある

Mehrgarh遺跡ではKot Diji式土器の出現がかなり遅い(W期,三千年紀前期後半)とも指摘するな

ど,自分の解釈に戸惑いを見せている。このように,彼女の見解には矛盾する部分が少なくはない

が,かなり合理的な要素も含まれている(ただ具体的に立証していかないのが残念である)。

 要するに,それらの解釈にもかかわらず,筆者による前述の事実は,Kot Diji文化が最初からイン

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徐:Kot Diji文化の起源に関する考察 7

ダス平原で生成したものでないということを,強く示唆するものばかり.である。筆者としては,か

ねてからインダス北部平原におけるKot Diji文化の成立が,外部からの人間集団の移入によるもの

と考えている(この点ではAsthanaの認識と基本的に共通しているが,具体的な解釈は異なる)[徐

1989:57]。それ以来,その起源を探るべく研究を進めてきた。その結果,いまになってインダス

文明(Harappa文化)の起源問題と同等に重要な意味をもつこの問題について,かなりの確証をも

って具体的な答えを出すことができるようになったのである。

バルチスターン丘陵への起源追求

 まず,結論からいうと,筆者は,インダス北部平原に展開する「移民文化」と思われるKot Diji文

化が紀元前四千年紀の後半に,南トルクメニアからやってきたNamazga一皿期の移民文化によって

中央バルチスターン地方を追われ,北部バルチスターン地方経由で北部インダス平原へ流れ込んだ

「Kech Beg式土器群」をもつ集団の文化を主流として,在地の文化を吸収しながら成立し発達をと

げた文化であると考えている。その主な理由は次のような点からなる。

 [1],土器の証拠が示すKech Beg文化がKot Diji文化に対する時期的な先行

 [2],土器の様相に認められるKech Beg文化とKot Diji文化との明確な継承関係

 [3],中央バルチスターン地方におけるDamb Sadaat-1期とll期との間に見られる急激な文化的

変貌とインダス北部平原におけるKot Diji文化の出現との因果関係

 [4],Kech Beg文化とKot Diji文化との継承関係に関する実年代上の合致

以下はこの順を追って上の四つの理由を論証してゆきたい。

[1]土器の証拠が示すKech Beg文化がKot Diji文化に対する時期的な先行

 この問題意識は,「初期Harappa文化」ことKot Diji文化とQuetta盆地の文化との交渉が, Damb

Sadaat-1期(以下行論の便利上DSと略す)の始まりまでさかのぼるというMughalの主張[MughaI

1970:269-272]によって触発されたものである。彼がこのように主張したのは,Kech BegやDS

-1期など(筆者はともにKech Beg文化としてとらえている)に存在する「Mian Ghundai Dark Rim」

という土器を「典型的なKot Diji式土器」として認定したからである。実はこのように主張された

時期的並行関係に従うと,バルチスターン丘陵とインダス平原との間における文化関係に対する理

解はもとより,バルチスターン丘陵自体における諸文化の関係への認識にも大きな混乱が生じかね

ないのである。Mughalによる比較研究を見てもわかるように,彼は平原部と丘陵部の文化の年代並

行関係を確立させようという性急さのあまりに,単一の類似土器の証拠を突出させて極力強調して

いたが,一っの文化期における土器群としての全体性,っまり,証拠土器に共伴した他の土器に対

してはほとんど注意を払わなかったようである。そこで,筆者はMughalとは逆な立場をとり,証拠

となる個々の土器より,それが共伴土器との関係を重視する立場から総合的に検討を進めてきた。そ

の結果,以下に述べるように,Mughalの示した見解とは全く異なり,しかも確証に基づいた結論に

いたったのである。

 中央バルチスターン地方におけるDS-1期や, Kech Beg遺跡から得られた遺物アセンブリジーに

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8 茨城大学教養部紀要(第28号)

よって代表されるKech Beg文化は,インダス平原におけるKot Diji文化とは地理的に見れば,大き

くわけて北と南,それぞれ二つの接点をもっていたと考えられる。まず北の方では,Zhob-Lorarai

地方から東へGomal渓谷を抜けると,インダス北部平原とバルチスターン丘陵とを結ぶGoma1平野

がある。そして,南ではQuetta盆地からBolan峠を下りてMehrgarh遺跡やAmri遺跡などがあるイ

ンダス川西岸の上Sind地方がある。しかし,すでによく知られているように, Kot Diji文化は主に

インダス北部平原に分布しており,南のSind地方ではインダス川東岸に位置するKot Diji遺跡があ

るのみである。したがって,rKot Diji文化」そのものとの接点を重視する立場をとれば,バルチス

ターン丘陵に直結する北のGomal平野が,インダス川を隔ててKot Diji遺跡のある東岸の上Sind地

方よりまず議論の対象とされるべきであろう。ここでは二つの接点をめぐり,まず土器の様相を検

討し,Kech Beg文化とKot Diji文化との時代関係をいくっかの確証でもって明らかにしたい。

 [北方の接点]

 [1],Gomal平野において, Gumla I期やRehman Dheri-1~II期におけるKot Diji文化がDS

-1期のKech Beg文化との時代的前後関係を示す証拠は,まずその土器の彩文様相に端的に現われ

ている。そこに登場する土器の文様には幾何学文様と動物文様が含まれている[Dani 1970/71;

Durrani 1988]。ことに幾何学文様は比較表[1]を見てもわかるように, Kechi Beg式土器の文様

の要素がめったに少なく,そのかわり,バルチスターン丘陵においてDS-II期から登場するrQuetta

Ware」土器の文様の影響がすでに強く見出されている。一方,動物文様については,周知のとおり,

Quetta盆地ではDS-1期にはそれがまったく存在せず, DS-ll期になってそれははじめてrQuetta

Ware」土器のユニークな幾何学文様とともに土器表面に登場するのである。この点は実におおいに

注目すべきところである。というのは,動物文様の有無は時代の前後関係をはっきりと示唆してい

るからである。「Quetta Ware」土器に描かれた典型的な文様がGoma1平野における最初の文化段階

に属する彩文土器に用いられていることは,両地の文化の間における基本的な時代関係を明確に示

す指標を与える。これは,即ちGumla(ll期)やRehman Dheri(1期)などにおいてKot Diji文

化が現われるようになったのは,DS-1期の間ではなく,「Quetta Ware」土器を特徴とするDS-ll

期に入ってからのことであることになる。言い換れば,Goma1平野における最初のKot Diji文化は

「Quetta Ware」土器が登場する前のDS-1期のKech Beg文化より時代が新しいというわけである。

この事実はDS-1期のKech Beg文化とKot Diji文化との時代関係を理解する上で決定的な意味を

もつものである。

 一方,「Quetta Ware」土器群は,南トルクメニアからNamazga一皿期文化の人たちの移動にとも

なってアフガンニスターン南部を経由して中央バルチスターン地方に持ち込まれてきたと一般に考

えられている。地理的に見ても,その移動はまず東のGomal平野に及んだ上,そこからおりかえし

てQuetta盆地に向かったというようなことはまずありえないといってよかろう。したがって, Gomal

平野におけるQuetta文化の要素がQuetta盆地のそれより新しいことはあっても古いことはないと考

えて自然である。このように,「Quetta Ware」土器文様の存在は中央バルチスターン地方における

Kech Beg(DS--1期)文化がインダス北部平原のKot Diji文化より時代的に古いことを証明する決

め手となったのである。そして,MughalがKot Diji文化をDS-1期と並行させた誤りも,これに

よって文句なしに正されたことになる。

 [2],Sur Jangal一皿期に出現した「Jangal Polychrome」という多色彩文土器もインダス北部平原

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徐:Kot Diji文化の起源に関する考察 9

Quetta Valley(DS-ll~皿)

Damb Sadaat Il:Na 131

Damb Sadaat ll一皿:Na 249

Damb Sadaat ll一皿(?):fig.49上例

Damb Sadaat皿:Nα199

Damb Sadaat皿:Nα 265

Damb Sadaat皿:Na 258

Damb Sadaat皿:Na 408

Q-37(表):No. 367

Q-?:Nα 366

Damb Sadaat(表):Na 502

Indus Valley(Kot Dijian)

Sarai Khola皿:fig.23:145

Binjor-1.1:fig.7:㎜Binjor- 3:fig.3:11.11a

Banawali l:fig.2:下列

Jalilpur皿:P1.XXV∬:B:10

Gumla H:fig.123-4

Rehman Dheri IB. ll:fig. m:18.10

Sarai Khola∬:fig.15:86

Hathala:Pl.65:13

Jalilpur il:PI XXV[:B:1

Hathala:P1.66:1

Rehman Dheri I B:fig. LV:1.4

Gumal il:fig.18:128

Hathala:P1.65:4

Hathala:P1.65:6

Jalilpur l:Pl. XXVI:A:9

Satal Khola ll:Na 143

Rehman Dheri(表):fig.㎜:5aKalibangan I:fig.14:43[1961-62】

Hathata:Pl.:65:2

Rehman Dheri皿B:fig. XLIX:1

Kalibangan I:fig.2:T[1961-62】

Gumla ll:Pl.78:7-10

Sarai Khola l l:No.155

Rehman Dheri(表):fig. XXXV:2

Kalibangan I:fig.2. J[1961-62]

Gumla H:fig.18:142

Rehman Dheri I B:fig. L皿:14

「表1-A」Quetta盆地(DS- ll~皿)とインダス平原(Kot Diji文化)との文様比較

(Kot Diji文化)と中央バルチスターン地方(Kechi Beg文化)との年代関係を考える上で非常に注

目に値する証拠である[Fairservis 1959:369,373;430;No. 415-424]。この土器は赤いスリッ

プのかかった土器の表面に黒,または褐色によって縁取られて屈折のある白い帯文が描かれるもの

である。これは,基本的にはGumla-ll期[Dani 1970/71:No. 103-110]と, Rehman Dehri-1

・一 ll期[Durrani 1988:fig. L皿:1~8]に存在する多色彩文土器と同じ種類に属するものである

と見てほぼ間違いない。Sur Jangal遺跡において「Kech Beg Polychrome」土器をはじめとする

「Kech Beg Wet」,「Khojak ParalIel-Striated」土器などといったKech Beg式土器群の基本構成は

ll期において「Jangal Painted」や「Loralai Striped」土器などと併存しているが,そこには「Jangal

Polychrome」土器は姿を現わしていない[Fairservis 1959:300,385]。この事実を根拠にして考

えると,北部バルチスターン地方ではKech Beg式土器群は時代的にはSurJangal一皿期になって始

あて登場するrJangal Polychrome」土器より古いことになる。さらに,この証拠をQuetta盆地にお

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10 茨城大学教養部紀要(第28号)

Quetta Valley(DS 一一 ll~皿)

Damb Sadaat I-11:No. 233

Damb Sadaat皿:No. 142:(表)No. 372

Damb Sadaat H:No. 242

Damb Sadaat II:Na 253

Damb Sadaat皿:Na 327

Damb Sadaat皿:No. 344.45

Damb Sadaat皿:Nα347

Damb Sadaat II:Nα356

Damb Sadaat II:Na 370

Damb Sadaat∬:Nα390

Damb Sadaat ll:No.406

Damb Sadaat ll:No. 549

Damb Sadaat H:Nα431.437

Damb Sadaat∬(?):No. 391

Damb Sadaat II:Na 161

Damb Sadaat il:No. 414

Indus Val藍ey(Kot Dijian)

Lewan II Pit.9:Sheei.12:5

Gumla I【:fig.18:134

Rehman Dheri I B:fig. L皿:17

Jalilpur l:P1.㎜:A:1

Cholistam:P1.9:下列左から二つ目

Gumla ll:fig.18:139.137

Rehman Dheri I B:fig. L皿:16

Kalibangan I:fig.2:D[1961-62]

Saral Khola皿:No. 22:136

Gumla H:Pl.82:8

Rehman Dheri IB:fig.正V:3

Gumla I:fig.18:148

Saral Khola l 1:fig.16:90:fig. 22:137

Rahhi Shahpur 1:PL㎜:8Jal ilpur II:Pl. XXVI:A:10

Kalibangan I:fig.2:J【1961-62]

Rehman Dheri(表):P1.70:14[1970/71]

Rehman Dheri I B:fig. XW:7-10

Sarai Khola I A:Pl. XXI:4

Rehman Dheri皿:fig. XLIX:10

Lewan l House B:Sheet.2:19

Rehman Dheri IB:fig. LV:3

Rehman Dheri ll:fig. H:3

Rehman Dheri皿B:fig. XXXI:3

Jalilpur ll:P1. XXV旺:B:9

Kalibangan I:fig.14:48【1961-62】

「表1-B」Quetta盆地(DS一皿~皿)とインダス平原(Kot Diji文化)との文様比較

けるDS-・ 1期文化とDS-∬期文化と関連させて見ると,即ち,「Kech Beg式土器群」を特徴とする

DS-1期文化は, rJangal Polychrome」土器を最初から伴うGumla-H期などのKot Diji文化には先

行しているという結論を間接的に得ることもできたわけである。一方,Periano Ghundai遺跡ではこ

の種の土器が中層においてrPeriano Painted」土器(DS-II~皿期並行,下述」と典型的なKot Diji

式顎付き壷とともに共伴している[Mughal 1974b:140-1:Pl.㎜:11-2;Pl.㎜](り

いでに指摘しておくが,Mehrgarh遺跡ではKech Beg式土器群を中心としたIV期(DS-1期並行と

されている)に継ぐV期に「Jangal Polychrome」土器の存在も確認されている[Jarrige and

Lechevallier 1979:fig.22:1,2])。なお, Sur Jangal遺跡ではll期から皿期へ移ると,「Jangal

Coarse Painted」,「KGM Buff-on-Red Slip」,「Jangal Dark Slip」などの土器が急に姿を消したと

いう[Fairservis 1959:fig.10]。そのかわりに,「Periano Painted」,「Rana Ghundai Red-on-Red

Slip」,「Faiz Mohammad Painted」,「Hanna Coase」などの土器が「Jangal Polychrome」土器とと

もに登場した。このことに示唆されるように,北部バルチスターン地方ではその時期になにか大き

な変動があったようである。この現象は,中央バルチスターン地方で知られているDS-1期とDS一

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徐:Kot Diji文化の起源に関する考察 11

Periano G.(表):fig.44:e

Periano G.(表):fig.44:j

Periano G.(表):fig.44:k

Periano G.(表):fig.48:b

Periano G.(表):fig.43:k

Periano G.(表):fig.43:1

(Moghul G. Pl.M:MM. N.10.31[1929】

Periano G.(表):fig.44:a

(Moghul G. Pl. X正:MM. E 6[1929】

Periano G.(表):PL. V:P. 28[1929】

Rana Ghundai(表):239

Sur Janga1(表):219

Sur Janga1(表):242

Kot Dijian Ware

Rehman Dheri I B:fig. L:12

Rehman Dheri(表):Pl.69:11[1970/71】

Hathala:P1.65:3

Kalibangan I:fig.14:35:fig.15:10

Kalibangan I:fig.5:E

Jalilpur ll:Pl. X]X VII:B:3

Rehman Dheri ll:fig。 LV:4-A

Rehman Dheri I B:fig, XLy旺:2

Gumla ll:P1.79:3

Rehman Dheri ll:fig.町:1

Kalibangan I:fig.14β0【1961-62】

Gumla ll:Pl. 79:5

Rehman Dheri I B:fig..LI:13

Sarai Khola H:fig.14:69

Cholistan:Pl.9:右端中[Mugha11981]

Gumla I:Pl.79:8

Rehman Dheri I B:fig, LI:14

Sarai Khola皿:fig.13:65

Kalibangan I:fig.14:45【1961-62]

Rehman Dheri ll:fig. V皿:16

Gumla ll:Pl,79:7

Hathata:P1.68:6

Cholistan:P1.9:中列左から三っ目

Hathala:P1.65:10

Gumla H:Pl. 77:9

Rehman Dheri I B:fig, VLIX:6

Jalilpur(表)fig.2:4

SiswalA:Pl.㎜:3Gumla II:Na 104-5

「表2-A」Periano Painted土器とKot Diji式土器との文様比較

皿期(「Quetta Ware]土器とともに[Periano Painted]土器も登場下述)との間における文化の

急激な変容を連想させるものである。

 [3],「Periano Painted」という特徴の鮮明な土器が上述の「Jangal Polychrome」土器と同様,編

年的に大きな意味をもつものである。深赤いスリップをかけた表面に黒色によるラフな幾何学文様

を力強く描いたこの土器はrQuetta Ware」土器とrKot Diji式土器」とは外見といい,文様装飾と

いい,基本的に異なりながらも,後者の両者とも密接な関連があるのである[表2]。まず,それが

Quetta盆地に現われたのは,「Quetta Ware」土器が登場したDS-H期になってからである[Fairservis

1956:No.505~530;P.401;報告書では「Black-on- Red Slip」とされている]。そして,「Periano

Painted」土器と「Quetta Ware」土器との間に文様構成の上,多くの類似する要素が認められるこ

とはよく知られている事実である。このことは,つまり北部バルチスターン地方における「Periano

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12 茨城大学教養部紀要(第28号)

Periano G.中層:Pl. XXX皿:5[1972]

同上:同上:6

同上:同上:14

同上:同上:16

同上:同上:13

同上:同上:12

Sur Janga1皿:Na 265

Sur Janga1皿:Na 271:fig.68:h

Sur Janga1皿:Na 303

Sur Jangal皿:Nα333

Sur Jangal皿:Nα336

Sur Jangal皿:Na 303

Kot Dijian Ware

Gumla∬:P1.79:6Rehman Dheri ll:fig. L:10

Kalibangan I:fig.2:X

Hathata:Pl.65:181

Harappa Pre-Defence:fig.9:32.32a

Hathata:Pl.68:2

Tarakai Qila:fig.13:左上端

Jalilpur 11:P1. XXV旺:B:2

Kalibangan I:fig.14:24

Rehman Dheri丑:fig.皿:1-2

Rehman Dheri I B:fig.皿:3

Gumla皿:P1.77:8.10Rehman Dheri I B:fig. L皿:17

Gumla皿:P1.79:14Kalibangan I:fig.13:15[1961-62】

Jalilpur ll:P1.㎜:A:1

Rehman Dheri I B:fig. XIII:3

Kalibangan I:fig.14:29【1961-62]

Lewan ll:Sheet 8:24

Jalilpur II :fig.38:9

Binjor l:1:fig.9:H

Rehman Dheri(表)fig, XVII[:11

Jalilpur ll:Pl.㎜:A:7

Rehman Dheri皿:fig. LVI:2.8

Rehman Dheri(表)fig. X皿:11

Jalilpur I :fig.38:9

「表2-B」Periano Painted土器とKot Diji式土器との文様比較

Painted」土器の時代が, Quetta盆地におけるDS-1期のそれより新しく, DS-ll 一皿期と時期的

にほぼ並行することをなによりも明確に示しているのである。なお,この特徴の鮮明な土器はQuetta

文化におけるもう一つの中心的な土器である「Faiz Mohammad Gery」土器とともに, Sur Jangal遺

跡では皿期に現われ[Fairservis 1959:fig,10;P.300], Rana Ghundai遺跡では皿a期から流行

するようになった[Level D,同前303-5]。また, Rana Ghundai一皿a期には,これらの土器に加

えて「Rana Ghundai Red-on-Red Slip」土器も登場し,同種の土器をもっSur Jangal一皿期との時

代的な並行を裏付けることになる。よって,そのDS-1期との並行関係も問接的に把握されよう。一

方,Gomal平野では, Kot Diji文化の彩文土器に最初段階からrPeriano Painted」土器の影響がす

でに顕著に現われている[表2]。そして,北部バルチスターン地方においてKot Diji式土器の典型

的な顎付きの壷をコピーした壷が最も多く見られる土器群もこの「Periano Painted」土器をおいて

ほかにない[Fairservis 1959:fig.44:b, fig.46:9, fig.48:9-j, Desig ns. No.237,240]。し

たがって,「Periano Painted」土器は北部バルチスターン地方と北部インダス平原との文化の間にお

ける並行関係を示す最も有力な指標になっているといえる。

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徐:Kot Diji文化の起源に関する考察 13

Sur Jangal皿:Nα170

Rana Ghundai皿a:53

Rana Ghundai(表):Na 397

Rana Ghundai(表):fig.48:a

Rana Ghundai(表):Nα 379

Periano G.中層:Pl.㎜:10【1972】

PedanoG中層:Pl.㎜:4Periano G(表):fig.47:b-c

Periano G.(表):Pl.VI:P.82

Pana G.(表):No. 340

Sur Janga1皿:Na 333

Sur Jangal(表):Na 335

Rana G.(表):No. 409

Rana G.(表):Pl.澗:R. G.25[1929]

Rana G(表):Pl.皿:R. G.26【1929]

Sur Jangal皿:Pl. XXI:S. J.逝.13【1929]

SurJanga皿(?):PlXXI:S. J. V.16【1929】

Sur Janga1皿:No.56

Periano G(表):fig.44:k

Periano G.中層:Pl.㎜:13Sur Janga1(表):Na 174

Periano G.(表)P1. V:P.19[1929】

Sur Jangal(表):Nα174

Amrian Wares(ID 一 ll期)Wares

Amri-IC:Na 157

Amri-IC:Nα160Amri 一 IC:No. 167

Amri-IC:No. 155

Amri-IC:Nα 161

Amr卜ID:No. 209

Amri-ID:No. 225

Amri-ID:No. 239

Amri-ID:Nα230

Amri-ID:Nα208

Amri-ID:Na 235

Amri-ID:Nα231

Amri-ID:Na 214

Amri-ID:No. 237

Amri 一 ID:Nα 224

Amri-ID:Na 238

Amri-ID:Nα222

Amri-ID:Nα124

Amri-HA:No. 266

Amri-HB:Nα252Amri-ll B:Na 255b

Amri-11 B:No. 304

Amri-ll B:Nα255b

「表3」 北部バルチスターンの文化とAmri(℃~ll)との文様比較

 こうして,Goma1平野における「Quetta Ware」土器の影響や「Periano Painted」土器の出現時

期を踏まえ,さらにQuetta盆地に見られる「Periano Painted」土器と「Quetta ware」土器との共

存に示された時代並行関係に基づいて考えると,Gumla-ll期やRehman Dheri-1期におけるKot

Diji文化は,時期的には中央バルチスターン地方のDS-ll期をさかのぼれないことが一層明確にな

るのである。

 一方,MughalがSur Jangal-ll期と「初期HarapPa文化」との並行を証明するためにあげた証拠

にも大きな問題がある[Mugha11970:239]。たとえば,彼はSteinによる「上層トレンチ(UpPer

Trenches i,ji)」から彼の分類によるKD一皿式とKD -XIY式土器を見い出した[Stein 1929:P1.

xxI:s. J. i,31;Pl.xx:s. J. il,9;Pl.xxI:s. J. i,47]。そして,魚鱗文[同前 P1.

XX I:S. J. hi,13;S. J. iii,23]も一緒に証拠としてとりあげている。ところが, Steinの発掘で

届いた深さはFairservisによる層位図によれば, Sur Jangal 一皿期以内に止まっており,その出土品

が「この遺跡における最後の文化層の一時期を代表するものである」と指摘されている[Fairservis

1959:fig.6,8;293-299]。一方,魚鱗文がSur Jangal遺跡で出現したものもSur Jangal一皿期に

なっている[同前 No. 56]。また, Sur Jangal遺跡における「Main Ghundai Buff Slip」土器の中に

見られる顎付きの壷[同前fig. 77:i]も単に「Main Ghundai Buff Slip」が「Sur Jangal- ll期か

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14 茨城大学教養部紀要(第28号)

ら皿期へと次第に増加してゆく」[Mughal 1970:235]という曖昧なことを理由に証拠としてあげ

られたのである。しかし,この一点にすぎないMughal分類のKD一皿式土器がいったいSur Janga1

-ll期のものか,それとも皿期のものかは実は確定できないでいるのである。そして, Rana Ghundai

遺跡で表面採集された二点の土器破片を,Mughalは「Main Ghundai Buff Slip」土器として証拠に

使っている[Mughal 1970:234]が,報告書をよく調べると,それは「Main Ghundai Buff Slip」

土器でなく,「Periano Painted」土器となっているのである[Fairservis 1959:Designs. Na 237,

240]。なお,Periano Ghundai遺跡の中層(Middle Strata)に「Main Ghundai Buff Slip」土器が

存在した[Mug hal 1970:234]ことも,その層には「Periano Painted」土器のみならず,「Faiz

Mohammad Painted土器,「Quetta wet」土器などもすでに登場している[Mughal 1972:140-1;

Pl.xxx皿]という事実から考えると, Mughalの主張には傍証材料に全くならない。さらに,「Quetta

Wet」土器はSur Janga1-ll期に発見されていると, Mughalは理解しているようである[Mughal

1970:240]が,実はそれがSur Jangal-1期には存在していないと報告書にははっきりと記録され

ているのである[Fairservis 1959:fig.10;300]。 Mughalは, Sur Jangal- ll期を「初期HarapPa

文化期」に並行させるために「Kech Beg wet」土器と「Quetta wet」土器とを一括して単に「wet

Ware」土器と見なし,「Quetta Wet」土器の時期をSur Jangal-1期末までさかのぼらせようとした

が,二っの「Wet」土器は時代の差のみならず,技術的にも明確に異なるのである。そればかりか,

Sur Jangal一皿期の「Kech Beg Wet」土器と, Sur Jangal一皿期の「Quetta wet」土器とは,それぞ

れ異なる共伴土器群を伴うことも報告書の中では明らかにされている[Fairservis 1959]。両者が発

掘者によって明確に区別扱いされているのは,その層位的,時期的な違いがあったからこそのこと

なのである。これに対して,「Periano Wet」土器と「Quetta Wet」土器とが同一視されたことも時

期的な並行と共伴土器の共通という基本事実があるめで,納得できる[Fairservis 1959:330-333]。

っまり,前者は「Periano Painted」土器や「Periano Reserve Slip」土器や「Faiz Mohammad Painted」

と,後者も「Quetta ware」土器のほか,「Periano Painted」土器や「Faiz Mohammad Painted」と

それぞれ共伴しているからである。したがって,以上の事実を踏まえてみれば,Mughalのような資

料操作には同意しかねるところが少なくない。そして,当然のことにMughalのとりあげている

rPeriano Reserve Slip」土器と, Periano Ghundai遺跡の中層, Gomal平野の遺跡ひいてはMohenjo

Daro下層において共伴する「Wet Ware」土器[Mughal 1970:241]もSur Jangal-ll期やDS-1

期にある「Kech Beg Wet」土器ではありえなく,Periano Ghundai遺跡の中層に存在する「Periano

wet」土器やSur Jangal一皿期, DS-H期になってから出現したrQuetta Wet」土器の類にあたるは

ずである。またPeriano Ghundai遺跡およびGomal平野に見られる「Wet Ware」土器が表面処理を

除いて,かぎりなくKot Diji式土器[Mughal分類KD一皿, IV;1970:241]に似ているのも,そ

の土器がPeriano Ghundai遺跡の中層とGomal平野で「Periano Painted」土器やKot Diji式土器と

共存し,時代をともにした結果にほかならない。明らかに,以上のような証拠は,Mughalによる「初

期HarapPa文化期(Kot Diji文化)」が, Sur Jangal-ll期と並行関係にあるという主張に対しては,

いずれも否定的な材料になっている。Sur Jangal-II期の文化はDS-1期のKech Beg文化と並行し,

DS-1期のQuetta文化に先行していたのである。

 さて,Mughalは, DS-1期が「初期HarapPa文化(Kot Diji文化)」と並行することを主張する

ため,証拠として「Kech Beg Polychrome」土器に見られる一つの網状文を描かれた壷[Fairservis

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徐:Kot Diji文化の起源に関する考察 15

1956:fig.53:下列中]をも?て, Sur Jangal-ll期にある類似する壷[Fairservis 1959:No.86;

fig.65c],そして, HarapPa城塞下のある壷[Wheeler 1947:fig.8:13]と比較させている[Mughal

1970:270;239]。しかし,彼はそこで一っの重大な事実を見落としてしまったのである。っまり,

DS-1期とSur Jangal- ll期では「Periano Painted」土器はまだ現われていないのに対して, HarapPa

城塞下層に共伴する土器の中には「Periano Painted」土器はすでに多くあったのである[Wheeler

1947:fig. 9:31-32a;Pl.XLIf:9-9a;93~95]。 SurJangal-H期がDS-1期と並行するのは

Kech Beg式土器の共有関係に基づいて見ると,当たり前のことであるが,インダス北部平原の

HarapPa城塞下層にあるKot Diji文化が,「Periano Painted」土器との関連を考慮すれば,上の両者

より時期的に新しいということは明白である。

 ところで,Rana Ghundai一皿a・-c期が初期HarapPa文化期(Kot Diji文化)と並行するという

Mughalの認識には基本的に賛成する[Mughal 1970:243-250]。しかし,そのように主張した以

上,Rana Ghundai一皿a期とSur Jangal-ll期との並行も同時に証明しなければならない。なぜなら,

MughalはSur Jangal-1期をも初期HarapPa文化期と並行させているからである。ところが,

Mughalはなぜかこの作業を省いたのである。実はもしこの作業をおこなうことになると,自説に矛

盾が出てしまうことが避けられない。というのは,Rana Ghundai一皿a~c期とSur Jangal-H期と

がそれぞれ所有する土器の内容があまりにも異なっているからである。実際にRana Ghundai一皿期

と「初期Harappa文化期」との関係を論じた際に彼自身が引用したSur Jangal関連の二っの証拠も,

いずれもSur Jangal一皿期からのものである[Mughal 1970:248(脚注458),249(脚注464)]。

Rana Ghundai一皿a期がSur Jangal一皿期とは並行関係にあり, DS-1期より新しいことは,発掘者

による結論と前章における検討結果によって裏付けられる。

 以上の証拠を踏まえて見ると,DS-1期の遺物を代表とするKech Beg文化が北部インダス平原に

おけるKot Diji文化に時期的に先行するという結論はもはや動き難いといえよう。これに対して,後

者は,基本的に「Quetta Ware」土器を特徴とするDS-1期の始まりを前後にして北部インダス平原

で展開するようになる。これについてはのちにさらに詳しく議論する。

 [南方の接点]

 インダス南部平原に唯一のKot Diji文化の遺跡は川の東岸にある標準遺跡Kot D巧iである。バル

チスターン丘陵と隣接する川の西岸にはKot Diji文化そのものの存在はなく, Amri文化が知られて

いる。Kot Diji式土器に代表される「初期HarapPa文化」の遍在を主張するために, Mughalは,

Amri- I A期にすでにrKot Diji式土器」が存在しているというrMughal 1970:85」。しかし,そ

れらの土器を「Kot Diji式土器」として認定できるかどうかは,単なる外観上の類似に基づくのでは

なく,やはり共伴土器と時期的に並行する他の遺跡の土器内容との比較をもとに総合的に判断すべ

き問題であろう。この問題を解決するために,以下の幾つかの具体的な例に即して考えてみたい。

 [1],Amri遺跡では中央バルチスターン地方との関連から考えると,「Quetta Ware」土器の出現

時期がKot Diji文化との相対関係を理解するのに一つの重要な判断基準となる。この遺跡では,

rQuetta Ware」の特徴の鮮明なコブ牛や羊をはじめとする幾何学文様が登場したのは1-D期である

[Casa11964:fig.62-66]。この点について学界においてはすでに共識になっている。一方, Amri

-IA期については, DS-1期になって現われた「Main Ghundai Dark Slip」土器の存在[同前:fig.

40:21-22,27]をはじめ,多くのKech Beg土器の文様と共通するものが認められ, Kech Beg文

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16 茨城大学教養部紀要(第28号)

化と強いっながりをもっことを示している。また,Togau-C土器の存在もAmri文化の成立がKili

Gul Mohammad文化(KGM一皿期, Meh㎎arh一皿期)のすぐ後になることを示唆している[同前:

fig.39:7-7a]。 Amri-一 I B~C期にわたって, Amri文化は自らの特色を強めながら発達をとげて

いった。こうしてみると,中央バルチスターン地方でDS 一一 ll期に登場する「Quetta Ware」土器の要

素がAmri-ID期に浸透するまで, I A~C期の文化は時期的にはDS-1期のKech Beg文化と並

行していたことになる。そこで,前述のKot Diji文化とDS-1期のKech Beg文化との間における

明確な時代関係を踏まえて考えると,DS-1期と並行するAmri-IA~C期からMughalがあげて

いるrKot Diji式土器」[同前掲注:fig.42:33]とは,実はKot Diji文化より古いKech Beg文化

の「Main Ghundai Dark Rim」土器が中央バルチスターン地方からAmri遺跡に搬入されたものと見

てしかるべきである。

 Kalat南部のSurab地方においても同じ状況が認められる。 Siah Damb遺跡(以下SDと略す)に

おいては,Kech Beg式土器の要素がSD-一皿期のi- il亜期に流行している[de Cardi 1965:fig.

13~14]。SD 一・ ll期のi-ii亜期は時期的にはDS-1期, Amri-IA-C期に並行するとMughal自

身は考えている[Mughal 1970:288]。ところが,そこでは彼はKot Diji式土器を発見することが

できず,SD-il期の血亜期の土器にKot Diji式土器(報告書ではrAnjira color-coated」とされて

いるが)を見出している[同前:290]のである。となると,Amri-IA期で彼が指摘したいわゆ

る「Kot Diji式土器」の出現を念頭に時代関係を考えれば,矛盾が生じてくる。実はSD-ll期のi

亜期にはTogau-B土器も同時に存在しており, SD-II期のil亜期からはTogau- C土器がはじめ

て主要な存在になるのである。したがって,もし,Togau-C土器を基準に並行関係を考えれば,同

じくそれを伴うAmri-IA期はSD一皿期のil亜期と並行すると見て妥当であろう。このことを傍証

するためには,Amri-IA期に出現する表面に泥によるコーティングのある土器[Casal 1964:Na

6,55]がSD- ll期のti亜期になって登場する「Granulated Ware」[de Cardi 1965:173;fig.22]

とよく比較できることを証拠としてあげられよう。SD-II期のhi亜期になると, Nal式土器[同前

fig.15:49,54,55,57]の登場とともに, Togau-C土器も存続している[同前 fig.15:45-

7]。その段階において「Main Ghundai Dark Rim Fine」とされる土器が存在していると報告された

[同前 fig.15:48,51;p.147-8]。同時に,わずか一点の「Quetta Wet」も検出された[同前

fig. 2 3:22]が,典型的な「Quetta ware」土器そのものはまだ現われていない。この点から見ても,

SD-ll期の血亜期はrQuetta Ware」土器要素が顕在化するAmri-ID期より古い時期(IB-C期?)

にあたると見るべきであろう。

 なお,北部バルチスターン地方において,DS-II期と並行するRana Ghundai一皿a~c期とAmri

との時代関係を論じた際に,Mugha1が証拠として引用したのは, Amri- 1-CとD期からのものば

かりである[Mughal 1970:248~249]。これは基本的に正しい認識である[表3]。しかし,この

ことは,同時にAmri-IA期に見られるいわゆる「Kot Diji式土器」が実はより古い段階のDS-1

期(Kech Beg文化)に属する「Main Ghundai Dark Rim」土器である可能性を逆に示唆する結果に

なったのである。

 [2],Amri-IA期にいわゆるrKot Diji式土器」があったということは, DS-1期のKech Beg

文化がインダス平原のKot Diji文化そのものと同格させることができない限り,それらの土器が上

Sind地方のインダス川の東岸にある唯一のKot Diji文化遺跡であるKot Dijiから運ばれてきたこと

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徐:Kot Diji文化の起源に関する考察 17

を意味すること以外考えられないかもしれない。しかし,そのKot Diji遺跡が実はAmri-ID期に

なって始めて上Sind地方に出現したことを裏付ける,言い換れば, Kot Diji遺跡の始まりとAmri-

ID期との間における時期的な並行をもつことを明確に示す最も有力な証拠があるのである。 Kot

Diji遺跡では, Mughalがその土器型式分類から排除したが,実はほぼKot璃i文化全層位を通して

最も主流的な存在をなす,ビーズ状縁をもつ球形壷がそれである[Khan 1965:fig.17:9-11, fig.

18:9,fig.19:1-3,8, fig.20:2-4,10, fig。21:15-6, fig.23:5,18, fig:1,3, fig.13:1,

2,fig.14:1, fig.15:3-5]。 Kot Diji遺跡において初期(14A層,それ以下の厚さ約60センチ足

らずの15層と16層は建物の基礎であるという)から存在するこのような壷は,Amri遺跡ではID

期になって始めて姿を現わし,それから,土器全体の1%からIIA~B期に向けて2%を占めるよう

にその量を次第に増してゆく[Casa11964:Nα 229]。一方,バルチスターン丘陵においては,こ

の種の壷はAnjira-IV期に見られる[de Cardi 1965:fig.18:A15]し, Damb Sadaat遺跡でいわ

ゆる「Sadaat Phase A」からもその存在が認められる[Fairservis 1956:fig.66:k~i, n, o, fig.

68:u,fig.69:c]。そのいずれもDS-1期,即ち, Kech Beg式土器群より新しい時期に属するも

のであることには疑う余地がない。また,Amri遺跡がKot Diji遺跡と類似する土器を多く共有する

ようになるのはAmri文化が大きく変容し始めたID期以降であり,それ以前の典型的なAmri式土

器はKot Diji遺跡ではほとんど発見されていない。したがって, Amri-ID期頃になって上Sind地

方に現われたKot Dljiという居住地がそれより古いAmri-IA~C期に土器を輸出することは考え

られない。この事実からも,Amri 一 I A期にrKot Diji式土器」が存在したという説は成り立たな

い。一方,DS-ll期に登場したrQuetta Ware」土器の要素とKot Dijiからきた土器とがAmri- I D

期において共存していることは,北部の接点で明らかにされたKot Dlji文化とDS- ll期のQuetta文

化との時期的上限の一致を裏付ける形となった。

 [3],Amri遺跡の状況をMehrgarh遺跡のそれと照らしてみると,時代関係は一層明らかになる。

Mehrgarh遺跡(以下MRと略す)では, Kot Diji式土器が少量に現われたのはW期に入ってからで

あるという[Jarrige and Lechevallier 1979:72]。こうなると,前四千年紀前半から始まるとされ

るAmri 一一 I A期にすでに「出現した」Kot Diji式土器と,前三千年紀前半にあたると考えられてい

るMR-W期におけるKot Diji式土器との問に,大きな時期的な隔たりが存在する,という極めて不

自然な状況が生じるわけである。MR-IV期(DS-1期並行)では, Kech Beg式土器とともにTogau

-BとC土器がAmd-IA期の土器と併存しているとされている[同前:71]が,そこにはKot Dlji

式土器は存在しない。その隔たりはあまりにも開きすぎるとかねてから筆者は疑問に思っていた。そ

のため,Mehrgarh遺跡の資料を再検討してみたところ,新しい証拠が浮かんできたのである。

 インダス北部平原との関連から言えば,Meh㎎arh遺跡ではIv期からrQuetta ware」土器の要素

が登場するVI期への「移行期」とされるV期は非常に注目すべきである。この時期はほぼDS-1期

から1期へ移行する問にあたるわけであるが,そこに胴下部に屈折のある典型的なKot Diji式小鉢

が現われている。小鉢は外表面の下半分には赤い地に黒で縁どりの白色の帯文様そして,上半分

には白い地に黒い文様で飾られている[同前:37,fig.22:1,2]。これは北部バルチスターン地方

にあるSur Jangal一皿期に出現する「Jangal Polychrome」土器にあたるものであり,この種の土器

がGomal平野でKot Diji文化の初期段階からかなり流行していたことは前にもふれた。特にこの典

型的Kot Diji式小鉢に描かれた文様と全く同じ文様はGomal平野におけるHathala遺跡[Dani 1970

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18 茨城大学教養部紀要(第28号)

/71:P1.65:1], Rehman Dheri遺跡[Durrani 1988:fig. XLIX:2]などにも見られる。した

がって,Mehrgarh遺跡におけるKot Diji文化との関連は,正確にはKech Beg文化を主体としたIV

期からDS一皿期のQuetta文化が主体になったvl期への「移行期」であるV期から始まるのだと理解

すべきかもしれない。それ以降DS- ll期と並行するとされるVI期の問に何かの原因によりKot Diji

文化の存在が希薄になり,W期になって再現するようになる。しかし,それにしても,この遺跡の

Kot Diji文化とのかかわりはKech Beg式土器を中心とするDS-1期(MR-IV期)より時期的に新

しいことには変わりはない。ちなみに,発掘者によると,V期を受継ぐV【期は時期的にAmri-ll A

期と並行するという。このことからも,V期はAmri- I D期とは少なくとも並行する時期をもつは

ずであると考えられる。

 以上の証拠に基づいて,DS-1期によって代表されるKech Beg文化はインダス平原におけるKot

Diji文化(Mugha1のいう初期HarapPa文化)とは時期的に並行するのではなく,それより先行する,

という確固たる結論を得ることができた。実はこの結論は極あて重大な意味をもっている。という

のは,それはインダス平原におけるKot Diji文化の出現を新しい視点と新たな資料分析を通じて解

明するのに理論的な見通しを提供しているからである。この結論に立つと,われわれの目は,自然

にKech Beg文化を代表するKech Beg式土器群と, Kot Diji文化を特徴づける土器群との間におけ

る関連性に導かれてゆくことになったのである。

土器の様相に認められるKot Diji文化とKech Beg文化との明確な継承関係

 実はMughalがAmri-IA期に出現したrMain Ghundai Dark Rim」土器をrKot Diji式土器」と

決め付けたのも無理のないことである。これは,「Main Ghundai Dark Rim」土器は確かに典型的な

Kot Diji式土器と限りなく似ているからである。さらに,上に立証されたKech Beg文化とKot Diji

文化とが時代的に前後関係にあるという事実を考えると,両者の土器における類似はその前後関係

とはどのような関連性があるのか,という問題が浮上してくるのである。もし,両者間に系譜関係

があったと想定することができれば,常識的には,時代の新しいKot DOi文化の土器はより古いKech

Beg文化から影響を受けた,あるいはその伝統を継承したとしか考えられないであろう。しかし,そ

れを実証するには両者の土器に対して検証を行わなければならない。

 Kot Diji式土器を念頭にKech Beg式土器を観察してみると,驚くことに,両者の類似はrMain

Ghundai Dark Rim」土器という一種にとどまらず, Kech Beg式土器群そのものに全体的にわたっ

て見られることに気がっいた。そして,同時にバルチスターン丘陵全体における土器の流れを通し

て見ても,Kech Beg式土器群ほど多くの基本要素においてKot Diji式土器と強い類似性をもっもの

はないということもわかる。では,以下にKot Diji式土器とのその類似性を具体的にとりあげてみ

たい。

 よく知られているように,Kot Diji式土器群における最大の特徴は土器の口縁部の内外か,胴部に

黒色,または赤色の広い帯状文を好んでめぐらすことである。広大なインダス北部平原にわたって,

各地のKot Diji式土器は文様の内容において一部地域色が見られるにもかかわらず,帯状文を土器

の特定な位置に施すという伝統はどこでも無条件に守られていたようである。おそらく,Kot Diji文

化の人々にとってはこの施文伝統を守ることは自分たちが同一文化共同体に基づいたアイデンティ

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徐:Kot Diji文化の起源に関する考察 19

ティーをもつことを証明するための行為であったかもしれない。一方,Kech Beg式土器群に目を向

けると,まず目につくのはその土器のほとんどがKot Diji式土器と同じように広い帯状文を口縁に

一周しているというところであろう。特に「Main Ghundai Dark Rim」土器に限らず,「Spezand

Black-and-Red Rim」土器[Fairservis 1956:265-6]のほかに,「Kech Beg White-on-Dark

Slip」土器や「Kech Beg Polychrome」土器といった中心器種も,ほとんど広い帯状文をめぐらすと

いう同様な施文方法が見られる[同前257-9;259-61]。このことは,即ちKech Beg式土器群の

主体をなす土器がいずれも帯状文をめぐらす特徴を備えているということを意味している。この点

を見てもわかるように,帯状文はKech Beg式土器群においてももはや単に文様構成の一部をなすの

ではなくて,装飾という実用性を越えて他の文化集団から自らを区別させるためのシンボールマー

ク的な存在であるという性格をもつ文化的要素になっているのである。これは,Kech Beg式土器群

における帯状文がKot Diji式土器におけるそれとは共通する性格をもつものであることを物語る。し

たがって,「Main Ghundai Dark Rim Fine」土器のみならず,その他のKech Beg式土器も多くの基

本要素において限りなくKot Dlji式土器に接近していることがあったとしても何の不思議もない。と

いうのは,以下の論証を見てさらに明らかなように,両者の間において異なるのは時期的な差だけ

であり,後者にとって前者はその源流的な存在にあたるからである。

 Kot Diji式土器の彩文におけるもう一つの突出した特徴は,黒と赤のほかに白色を盛んに用いるこ

とである。インダス南部平原のKot Diji遺跡からKalibangan遺跡, Sothi遺跡, Banawali遺跡のあ

る北部平原東部を経てSarai Khola遺跡, Rehman Dehri遺跡, Gumla遺跡などのある北西部にかけ

て白色は土器の装飾文様の中に遍在している。一方,周知の通り,バルチスターン丘陵におけるす

べての土器群の中で彩文に白色を用いるのは,Kech Beg式土器群(Kech Beg White-on-Dark)の

みである。中央バルチスターン南方のSurab地方において白色彩文を用いる[Zari Ware]土器が知

られているが,それが基本的にはKech Beg式土器の派生であることは一般に認められている。また,

北部バルチスターン地方に見られる白色を用いる「Jangal Polychrome」土器は時期的にKech Beg

式土器群より新しく,すでにKot Diji式土器の系統に属していたことは先に述べた通りである。 Kech

Beg式土器とKot Diji式土器との関係を考える上でさらに注目すべきは, Kech Beg式土器における

白彩の使用がQuetta盆地ではDS-II期の始まりを境に跡絶えたという現象である。一方, Kot Diji

式土器の文様を見ると,その文様構成において最初から「Quetta Ware」土器の影響が現われてはい

るが,Kech Beg式土器に対する継承は明白である[表4]。そして,その色彩の使用においては,

「Quetta Ware」土器のそれとはっきりと一線を画して,白色を黒と赤色に混用させるというKech

Beg式土器の伝統が堅実に継承されているのである。このことも, Kot Diji文化の人々にとって白色

の利用が単なる装飾という実用性より,文化伝統としての継承という意味をもっていたことを示唆

している。

 DS-1期に盛んに作られていたとされるrMalik Dark Slip」という土器も, Kot Diji式土器群の

中に継承されているようである。Dehman Dheri遺跡[Durrani 1988:fig.】㎝:3;fig. LIII:5]

のみならず,Sarai Khola遺跡[PA 1972:fig.20:124,126], Cholistan地方[Mughal 1981:

P1.4],インド側のRD-89遺跡[Dala11981:fig.2], Kalibangan-1期[IA1962-63:fig。

6:8]などにおいて,いずれもこのような土器の存在が確認されている。土器の表面に黒いスリッ

プをかけるという技法は,Kech Beg式土器とKot Diji式土器との問における重要な共通点の一っで

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20 茨城大学教養部紀要(第28号)

Kech Beg Wares

Damb Sadaat I:fig.53.:下列中

Damb Sadaat I:No. 89

Damb Sadaat I(?):fig. 57Al:右下

KGM-IV:No. 44b

KGM-IV:Na 45

Q-23(表):Na 73

Q36:Nα g2

Q8,13,14,24,(?):fig.54B:右下

同上        :fig.54B:左下

Sur Jangal皿:Na 185

Sur Jangal Cut l:Na 166

Rana Ghundai(表):Nα 167

Sur Janga1(表):Na 174

Sur Jangal(表):No. 187

Sur Jangal皿:No、188

Sur Jangal(表):No. 191

Rana Ghundai(表):No. 412-3

Mehrgarh rV:fig.18:5

Mehrgarh IV:fig.18:4

Mehrgarh IV:P1.6.15[Ja㎡ga 1982]

Kot Dijian Pottery

Jalilpur ll:P1.㎜:B:12

Kalibangan I:fig.9:7

Rehman Dheri I B:fig. L:12

Harappa Pre-Defence:fig.8:13

Kalibangan I:fig.3:10.21

Rehman Dheri皿:fig. X口:5

Jalilpur H:Pl.㎜:A:11

Jalilpur皿:Pl.㎜:B:9Rehman Dheri I B:fig.皿:11

Jalilpur ll:Pl.㎜:5

Jalilpur l:Pl. XXYII:B:7

Rehman Dheri I A:fig. tW:2

Sarai Khola I:fig.22:139

Hathla:Pl.66:5

Kalibangan I:fig.14:28

Kalibangan I:fig.2:D

Siswal A:fig。2:5,7[1973]

Kalibangan I:fig.14:49[1961-62]

Kalibangan I:fig.2:M, R

Jalilpur ll:Pl.㎜:A:7

Rehman Dheri I B:fig. XLV匿:3

Hathala:Pl.66:2

Lewan I:Sheet。1:15

Sarai Khola ll:fig.24:165

Jalilpur ll:P1.㎜:B:10

Kalibangan I:fig.5 :F

Gumla I:P1.80:11

Rehman Dheri ll:fig. XLIX 10

Hathala:Pl.65:4

Rehman Dheri I B:fig. LV:1,4

Rehman Dheri I:fig. X皿:1,2

Kalibangan I:fig.14:51

Rehman Dheri I B:fig.-IX:7

Sarai Khola H:fig.22:133

Gumla ll:Pl,77:1,2,3

Rehman Dheri I B:fig. XV皿:12

Sarai Khola I:P1. XXI:10

「表4」 Kech Beg式土器とKot Diji式土器との文様比較

ある。

 Kech Beg式土器におけるもう一つの中心的な土器であるrKhojak Parallel Striated」土器は,泥

コーティングや押捺などの技法で表面に施された文様によって特徴づけられている[Fairservis 1956:

fig.58, P.268;同1959:fig.19:e~f;fig.50:0~q;図4-A:12-13]。この種の土器は,

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徐:Kot Diji文化の起源に関する考察 21

技法といい,質といい,発掘者の指摘した通りに「Periano Reserve Slip」土器の前身である[同前:

P.382]。特に「Khojak Parallel Striated」という独特な技法による土器は,中央バルチスターン地

方においてDS-ll期以降は激減したが,北部バルチスターン地方では状況はやや異なる。 Quetta盆

地より東のLorarai地方では,この土器はSur Jangal一皿期に存続している[同前:fig.10]が,イ

ンダス北部平原寄りのZhob盆地では,この土器は「Periano Reserve Slip」土器として「Periano

Painted」土器「Periano Wet」土器などとともに, Periano Ghundai遺跡の中層から流行し始めたの

である[同前:fig.52]。この土器が「Periano Reserve Slip」土器と特別に命名された最大の理由

は,おそらくその口縁部に常に黒い帯状文や線文がb・・一・一周していることであり,それが「Khojak Parallel

Striated」土器とわずかに異なる点なのかもしれない。しかし,これはKech Beg式土器群自身にお

ける変化によるものか,あるいはZhob盆地がインダス北部平原に地理的に近いため,そこの人々が

インダス北部平原のKot Diji文化と密接な関係をもってその影響を受けたからとも推測できるかも

しれない。したがって,Mughalも指摘するように,この土器は「Periano Wet」土器と同じように

口縁に黒い帯状文をめぐらすなど,限りなくKot Diji式土器に似ている[Mug hal 1970:240-241]

という印象を与えるとしても,不思議ではない。

 一方,rKhojak Parallel Striated」土器という製作伝統も,またインダス北部平原におけるKot Diji

式土器群に忠実に受継がれている。Rehman Dheri遺跡ではそれが初期段階から用いられていた[図

4-B:13-14;Durrani 1988:fig. X-M]。そして, Gumla遺跡において皿期にその存在が認めら

れる[Dani 1970/71:fig.14:56]。また,このユニークな技法による土器はCholistan地方にお

けるKot Diji式土器の中[Mughal 1982:P1.7.5]にも見られるのみならず, Hakra川をさかの

ぼってインド側に入ると,Binjor- 1遺跡[Dalal 1987:fig,9:RG.], Binjor-3遺跡[Dalal

1980:fig.4], Kalibangan-1期[IA1962-63:fig. 4]などでも発見されている。これらの土

器はインダス北部平原においてKot Diji式土器群の一部をなしていたが,その源流は明らかに

「Khojak Parallel Striated」土器にある。こうして,両者の継承関係は,そのままKech Beg文化と

Kot Diji文化との時代前後関係と系譜継承関係を象徴するものといえよう。

 最後に,色彩や装飾の面ばかりではなく,資料に限りがあるにもかかわらず土器型式の面におい

てもKech Beg式土器とKot Diji式土器との間に驚くほどの類似が認められるのである。ここでは,

典型的なKech Beg式土器と,これまで出土資料の最も豊富なRehman Dheri遺跡におけるKot Diji

式土器とについて型式学の角度から比較を行ってみたい。

 器形の面においてかなり複雑な様相を見せているKech Beg式土器だが,大きく鉢と壷とに分類す

ることができる。鉢の類についてみると,まず口縁が軽く外反し胴の下方に屈折のある小鉢

(Carinated bowl)がRehman Dheri遺跡で多数を占める同型式の鉢にとってまさにモデルのような

存在と見られてよかろう[図3-A:1;図3-B:1]。口の開いた大鉢は深さにより大きく二つに分

かれている[図3-A:3-12;図3-B:3~12]。これらの型式の鉢はRehman Dheri遺跡において

最初から作られ,以来土器の主要な構成部分をなしている。さらにKech Beg式土器にある口開きが

大きく底が浅い皿(Pan)はユニークな器種として注目される[図3-A:11,14-15]が,それと

同じ型式をする皿はRehman Dheri遺跡では数少なくない[図3-B:11,14,15]。そして最後に

器壁の厚い盆[図3-A:13]は,典型的なKot Diji式土器としてRehman Dheri遺跡に多く見られ

ている[図3-B:13]。

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22 茨城大学教養部紀要(第28号)

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23徐:Kot Diji文化の起源に関する考察

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徐:Kot Diji文化の起源に関する考察

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26 茨城大学教養部紀要(第28号)

 一方,壷の種類についてもKech Beg式土器からKot Diji式土器の原形とみなすものが認められる。

頚部が小高く立ち上がり口唇部がない壷[図4-A:3-5,10;図4-B:3-4,10]と,口縁の立

ち上がりがそのまま軽く外反する壷[図4-A:1,2,6]と,口縁部の外反が長く頚部と胴体の境

に軽い凹みがある壷[図4-A:7]などはKot Diji式土器の主要な器種であるKD-1式にあたり[徐

1989:44-5],Rehman Dheri遺跡の初期段階からこれらと類似した土器を多く見出すことができ

る[図4-B:1-2,5,6;Durrani 1988:皿一XN]。そして,土器型式の上で最もKot Diji式土器

を代表するとされる顎状突帯付きの壷[筆者分類のKD一皿式,徐1989:45]もKech Beg式土器

群の中に存在しているのである[図4-A:8]。但し,Kech Beg文化の段階ではこの型式の壷は顎

状突帯がそれほど発達せず,主要な型式にはなっていないようである。しかし,Kot Diji文化の最初

段階においても,このユニークな土器は少数に限られており,それはRehman Dheri-IA期[Durrani

1988:fig. XXIII:3], Gumla-ll期[Dani 1970/71:fig.16:93]およびSarai Khola-IA

期[Table 9:type皿,皿A]などの例を見てよくわかる。この点は,インダス平原の奥部における

HarapPa城塞下層, Kalibangan遺跡,そしてKot Diji遺跡についても同じことが言える。したがっ

て,顎状突帯をつけるというユニークな技法はKot Diji文化が確立してからはじめて発達をとげる

ようになったものと見てよいかもしれない。

 また,「Khojak Parallel Striated」と名付けられた土器[図4-A:11]はKech Beg式土器の中で

重要な構成として知られているが,Rehman Dheri遺跡で類似した技法による壷が見られる[図4-

B:12]。Kech Beg式土器にある梨の形をした小壷[図4-A:9]は, Rehman Dheri遺跡におい

て1期から皿期にわたって流行していた同形の壷の原形と見られる[図4-B:9]。さらに器壁が直

立して胴の深い壷[図4-A:15-16]はRehman Dheri遺跡に住んでいたKot Diji文化の人々が作

ったものと似ている[図4-B:11,16]。「Kech Beg White- on-Dark Slip」という土器類に非常

にユニークな蓋(Lid)と見られる器形[図4-A:14]があるが,それをモデルに作られたらしい

蓋はRehman Dheri遺跡では多数出土している[図4-B:15]。

 このように,時期の下がる段階(Rehman Dheri一皿一B期)に現われる少数の新しい型式を除いて,

Rehman Dheri遺跡におけるKot Diji式土器のほとんどはKech Beg式土器群の中からその原形を見

出すことができたわけである。Rehman Dheri遺跡におけるKot Diji式土器はほとんど全部ロクロに

よる成形であり,報告書における型式整理が示すように,定型化の程度がかなり高く量産によるも

のであるという印象を強く与える。即ち,これらの土器はもはや手作り技法に頼った時代のように

随意性がなく,すでに確立したモデル系統に基づいて大量に製作されたものなのである(この事実

も以上の型式比較の有効性を支持するものである)。以上の比較を通じて明らかなように,その確立

したモデル系統にあたるものと考えられるのはほかでもなく,Kech Beg文化伝統を象徴し,かつて

中央バルチスターン地方(DS-1期)で流行していたKech Beg式土器群なのである。

 このように土器の基本要素の類似と時代的な前後関係を念頭に置いて考えると,中央バルチスター

ン地方でKech Beg式土器群を使用していた文化グループと,インダス北部平原におけるKot Diji文

化グループとの関係は自然に焦点に浮上してきたのである。しかし,ここでKot Diji文化は中央バ

ルチスターンから北部バルチスターン地方を経てインダス北部平原に移住したKech Beg文化の人々

によって基礎を敷かれたという結論をより確固たるものにするには,さらにKech Beg文化の中心地

であるQuetta盆地における文化的背景を検討しなければならない。

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徐:Kot Diji文化の起源に関する考察 27

中央バルチスターン地方におけるDamb Sadaat-1期とII期との間に見られる急激な

文化変貌とインダス北部平原におけるKot Diji文化の出現との因果関係

 紀元前四千年紀の後半,インダス北部平原においてKot Diji文化が出現する前に,中央バルチス

ターン地方における文化には大きな地殻変動があった。Quetta盆地についてまず注目しておきたい

のは,DS-1期とDS-H期との間に大きな土器群の交替があったという,極めて重要な事実である。

南トルクメニア(Namazga一皿)からrQuetta ware」土器を特徴とする土器群がQue廿a盆地に進入

してくることをきっかけに,DS-1期以来の土器群に著しい再編が起きたのである。即ち,「Quetta

Ware」土器という新しい土器群の流行を控えるDS-1期末には,それまでKech Beg式土器群の

中心的な構成をなしてきた「Kech Beg Polychrome」土器,「Spezand Black-and-Red Rim」土器,

「Kech Beg White- on-Dark Slip」土器,「Wali Sand-and-Gravel」土器,「Adam Sandy」土器な

どといった中心的な土器器種が急に姿を消したり,また「Khojak Parallel Striated」土器,「Main

Ghundai Dark Rim」土器,「Malik Dark Slip」土器などといった土器が激減したりする,という異

常な現象が観察されているのである[Fairservis 1956:331-2]。これらの土器は,いずれも発掘者

によって設定された編年の「H2」段階(Kech Beg, DS-1期にあたる)においてその流行のクラ

イマックスに達するとされている[同前1956:259,265-6,257-9,248,250,268,266,253]。

これほど明確かっ急激な土器様相の変化は,単なる同一文化内における土器流行の変化だけではと

ても説明のできないものである。筆者は,DS-1期とDS-ll期との変わり目に起きた土器の急激な

変化があったことに着眼し,それをもってすこし時期遅れてのインダス北部平原におけるKot Diji文

化の登場と結び付けて考えた結果,その変化がとりもなおさずバルチスターン丘陵における文化実

体そのものの大きな変動を反映していると認識するに至った。

 このような変化は実は土器に限らず,Quetta盆地におけるDS-1期とDS-H期の遺跡のありかた

にも反映している。つまり,Quetta盆地に限って見れば,その間に属する遺跡はおおよそ三っの状

況に分かれていることがわかる[Fairservis 1956]。

 [1]・Q-14(Kech Beg標準遺跡)とQ-29遺跡などのように新しい「Quetta ware」土器群を

全く受け入れず,Kech Beg式土器群のままで終焉を迎えたものである。

 [2].rQuetta ware」土器をもつ新しい文化がKech Beg文化層の上に重なるもの。この種の遺

跡は,代表的な遺跡であるDamb Sadaatを含めて十数ヵ所に数えられる。

 [3]・Q-13,16,20,37,17遺跡などのように,Kech Beg文化の存在が認められず,「Quetta

Ware」土器を単純にもつ新しい文化でもってスタートしたものである。

 そこで,かりに[2]の場合のように文化層が重なっているので,土器様相の急激な変容だけでは

文化の激変を説明するのに不十分だとされても,Q-14, Q-29のような集落はなぜ新しいQuetta

文化を受け入れずに放棄されたのか,そして,「Quetta Ware」土器群のみをもっ新しい集落が多数

出現したのはなにを意味するのか,といった自然に出てくる問題には解釈を与えなければならない。

筆者としては,DS-1期とDS一皿期との変わり目に起きた土器の急激な変化と,それにともなう遺

跡のありかたの変動はとりもなおさずQuetta盆地においてかなり大きな文化の交替が起きたことを

裏付けるものと認識している。

 一方,この変化期にあたって,中央バルチスターン地方の周辺地域においても同様な動きがあっ

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28 茨城大学教養部紀要(第28号)

たことも見逃せない。たとえば,北部バルチスターン地方では,Rana Ghundai-II期の後に集落の

一時放棄があった(皿a~c期がDS-ll A.r皿期やKot Diji文化と並行する)。そして南アフガン地方

では,Mundigak-1【期に二色,多色彩文土器の激減と単色土器の急増に示されるように文化の変貌

が起きた(皿期がDS・-ll期と並行する)。また, Kachi平原では, Mehrgarh-V期にもKech Beg式

多色,二色彩文土器が単色土器に道を譲ることにともなって集落は一時に衰退に陥っていたと報告

されている。「Quetta Ware」土器群の出現を前にバルチスターン各地で起きたこれらの現象は, DS

-1期末に見られるQuetta盆地におけるこうした変動を傍証するものと見てよい。

 ここで特に注目したいのは,最初から最後までKech Beg式土器だけをもつ標準遺跡のKech Beg

遺跡(Q-14)である。もしこの遺跡が単一文化の内容をもつという点を重視して,あるいはこの集

落がKech Beg文化期に土器生産センターであった可能性が想定できれば,その放棄は単なる偶然の

出来事ではなく,Quetta盆地におけるKech Beg式土器伝統の消滅と密接にかかわる結果であるよ

うに思われる。つまり,「Quetta Ware」土器群を用いる人々の進出を受けてそれまでKech Beg式

土器を作ってきた陶工たちは,全部ではないかもしれないが,Quetta盆地を去ってほかの地域へ移

った可能性があると考えているわけである。前にも述べたように,少なくともKech Beg式土器群の

中で最も高い技術を要する「Kech Beg Polychrome」土器,「Kech Beg White-on-Dark Slip」土

器,「Kech Beg Black-on- Buff Slip」土器,「Spezand Black-and-red Rim」土器などが姿を消し,

「Khojak Parallel Striated」土器,「Main Chundai Dark Rim」土器,「Wall Sand and Gravel」土器,

「Sultan Purple」土器などが激減したことは,従来の技術伝統の崩壊と関連があったといえる。文化

の交替は全面的にでなくても,急激な変化により部分的に人間の移動を引き起こしたことは充分に

考えられよう。もしそれが事実であったならば,そうした移動の路線に関しては,Kech Beg文化期

末にQuetta盆地を取り巻く情勢に対する分析を通じておおよそその跡をたどることができる。

 まず,北西方向では,新しい「Quetta文化」がバルチスターン丘陵へと入ってきた経路なので, Kech

Beg文化の移民たちがそれに向かって移動することは考えられない。一方, Quetta盆地から南へ行

くと,中央バルチスターン南部と南バルチスターン地方では,その時Nal文化とAmri文化という二

っのグループがすでに勢力を得ていた。そして,Kech Beg文化期の問にさえその地域におけるKech

Beg式土器の存在がすでにかなり変容したものであることを考えると,その方向へDS-1期末の文

化が移動した可能性は低い。さらにBolan峠を下りてKachi平原に行く手もあるが, Mehngarh-V【

期にも見られるように,「Quetta Ware」土器や土器全体の50%をも占める,ピパル葉の描かれた赤

い土器および「Faiz Mohammad Grey Ware」が主流になっているのに対して, Kot Diji文化の存在

は最後まで希薄である。したがって,Kech Beg文化の人々は明らかに南東方向へBolan峠を下る道

を選ばなかった。となると,残っている北部バルチスターン地方が焦点にのぼってきたわけである。

 北部バルチスターン地方は,Kech Beg文化期の問に南バルチスターン地方と異なって, Kech Beg

式土器群そのものが比較的に早くから深く浸透していたようである。そして,さらに重要なのは,こ

の地域においてKech Beg式土器伝統の延命が比較的長いという事実である。たとえば, Sur Jangal

一皿期やRana Ghundai一皿a期などで知られているように, DS-H期に並行する「Periano Painted」

土器,「Rana Ghundai Red-on-Red Slip」土器,「Jangal Polychrome」土器,「Quetta Wet」土器,

Faiz Mohammad Painted土器などとともに,一部のKech Beg式土器が共伴していた。一方,上に

あげた土器が文様の上でいずれもKot Diji式土器と密接に関連していることは前に証明したとおり

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徐:Kot Diji文化の起源に関する考察 29

である。しかし,同時に注目すべきことに,時代的に並行し,しかも交流もあったはずにもかかわ

らず,北部バルチスターン地方では,Quetta盆地における典型的な「Quetta ware」土器そのものの

存在はあまり見られない。これは,DS-∬~皿期の文化が栄えていたQuetta盆地と,「Periano

Painted」土器を特徴とする文化が展開していた北部バルチスターン地方とは,その時期を通じてそ

れぞれ独自なテリトリーを形成していたことを示している。この点は「Quetta Ware」土器群の侵入

と,Quetta盆地から排除され,北部バルチスターン地方,そしてインダス北部平原へのKech Beg式

土器群の移動といった現象,およびrPeriano Painted」土器群とKot Diji式土器との強いっながり

と関連して考えると,極めて興味深い。要するに,Kot Diji文化の成立は,基本的にDS-1期末か

らインダス北部平原へ流れ込んだ一部のKech Beg文化の移民によるものと考えられるが,その発展

期は特に北部バルーチスターン地方の文化,そして,中央バルチスターン地方の文化と関係してい

たわけである。これはKech Beg文化とKot Diji文化との関係を認識する基本点の一つである。

 最後に指摘したいのは,インダス文明が勃興する前に北部バルチスターン地方からインダス北部

平原にかけて,ラピス・ラズリを中心とした交易のルートが存在していたことが広く知られている

ことである。このルートが繁盛していた期間は,まさにKot Diji文化が全盛を極めていた紀元前四

千年紀前半にあたるのである。そして,このルートが次第に廃れるにつれ,Kot Diji文化も従来の勢

力を失ってゆき,かわりに,南方の海上交易などを通じて栄え,平原全域に拡大してきたHarappa

文化が勢いを得るようになった。それからインダス平原はインダス文明期の本格的な幕開けを迎え

たのである。このような北方交易ルートの存在は北部バルチスターン地方とインダス北部平原との

間に密接な関係があったことを物語るばかりではなくて,崩壊したKech Beg文化の行方を考える

上でも示唆的である。

Kech Beg文化とKot Diji文化との継承関係に関する実年代上の合致

 南アジア先史考古学の世界では,これまで実年代の枠組みを確立するためにC-14年代のデータ

が積極的に活用され,多くの経験が積み重ねられてきた。インダス文明全盛期関連のもののみなら

ず,これまで,数多くのC-14年代はバルチスターン丘陵とインダス北部平原における非Harappa

文化関係遺跡からも得られている。そして,その多くはわれわれの議論にかかわるものである。上

述の有力な証拠の数々を踏え,これらの実年代に対して検討をおこなうことがKech Beg文化とKot

Diji文化との関係を立証するのに有効である。

 Kech Beg文化の実年代について,まずDamb Sadaat遺跡におけるデータをみよう。 DS-1期に

前3365-2785年と前3155-2895年という二っの年代が測定されている。これはDamb Sadaatに

おけるKech Beg文化の年代と見られてよかろう。一方, DS- ll期には前3370-2865年という同様

なデータが三っ,前2665-2530年が一っ与えられている。そして,DS一皿期には前2880-2395年

というデータが出ている[Possehl 1988]。 II期の年代が1期のそれよりも古いということは不自然

なことであり,また,皿期の年代を視野に入れて見ると,DS 一 ll期の年代は明らかに1期と皿期と

の問において認識されてはじめて整合性があるように思われる。II期の年代を考える上で無視でき

ないのはAmri遺跡の年代の参考価値である。前記のように, Quetta文化の要素がAmri遺跡に現わ

れたのが1-D期からであるということは一般的な認識になっている。その前の1-C期については

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30 茨城大学教養部紀要(第28号)

前3375-3020年というデータが公表されている。そして,Kech Beg文化期に属するMehrgarh遺

跡のIV期に与えられた実年代が前3025-2635年となっている。これらの年代も,少なくともKech

Beg文化の下限年代の決定に指針となろう。即ち,紀元前四千年紀の末期という年代はバルチスター

ン丘陵においてKech Beg文化が終焉を迎え, Quetta文化が登場する時期なのである。

 一方,Kech Beg文化の上限年代はQuetta盆地では明確なデータが得られていないので,他の遺

跡か,周辺地域における年代を参考に推定するしかない。まず,DS-1期に最も接近している年代

をもっ遺跡はおそらくMundigak遺跡である。その1-4期が多色彩文土器の登場でKech Beg文化

に属するとされているが,1-5期には前3690-3495年というデータがある。そのため,そこのKech

Beg文化は前3690-3495年をさかのぼって考えるべきかもしれない。同じことはAmri遺跡につい

てもいえる。Amri遺跡では1-B期に前3660-3365年が測定されているが,1-A期がKech Beg

文化の始まりと並行すると考えられているので,その年代も1-B期のそれをさかのぼることになる。

また,Mehrgarh遺跡ではIV期がKech Beg文化期であるが,その前のKill Gul Mohammad文化の

皿期を隔てるII-B期に前4545-3795年というデータが出されている。これらの年代関係を参考に

勘案すると,Kech Beg文化の上限年代は紀元前四千年紀前半に入っていると推定してよかろう。

 しかし,われわれの関心はなんといってもKech Beg文化とKot Diji文化との年代関係にある。そ

れを知るためには,上述の分析結果をインダス北部平原における状況と結び付けて考える必要があ

るのである。

 バルチスターン丘陵とインダス平原との境にあたる北西地方において,Kot Diji文化の出現年代を

証明する多くの年代がこれまで公表されている。Rehman Dheri遺跡では,1期から前3055-2885

年,前2920-2775年,前3380-2940年,前3360-2910年といった複数の年代が出ている。Gumla

遺跡では,Kot Diji文化が登場したll期も前3040-2640年,前2870-2545年という年代が測定さ

れている。また,Bannu盆地にあるTarakai Qila遺跡で得られた最も古い年代が前2875-2530年

となっている。そして,Sarai Khola遺跡でもKot Diji文化が現われたll期に前2950-2315年とい

う年代が測定されている。これらの年代を平均的にみると,Kot Diji文化がそれらの遺跡に出現した

時期はほぼ紀元前三千年紀の初頭にかけての問にあたることがわかる。この年代をもって上述のKech

Beg文化の下限年代である紀元前四千年紀末期に照らしてみると,両者がほぼ前後に順序よくっな

がっていることが明らかである。また,各遺跡の年代を見ると,Goma1平原における最大の遺跡で

あるRehman Dheriと, Gumla遺跡のそれが相対的に古く, Kech Beg文化の末期により接近してい

るのである。それもそのはずである。というのは,Gomal地域はインダス北部平原へ入るのに真っ

先に通らなければならないところだからである。おそらく,最初のKech Beg文化の移民はその地で

一旦止まり,Rehman Dehriのような巨大な居住地を築きあげ,平原部への前進基地としていたのか

もしれない。そして,そこを通って,移民たちが次々と新天地を求めて豊かなインダス平原へと進

出していったのである。この意味において,Bannu盆地やSarai Khola,および東の平原部における

Kot Diji文化が, Gomal平原のKot Diji文化よりは時代的に多少新しいと認識されてもよいかもし

れない。たとえば,インダス平原に深く進入したKot Diji文化は紀元前三千年紀の初頭という初期

年代をもっている。Kalibangan遺跡では,1期から前2980-2655年,前2900-2615年,前2890

-2540年といった最古の年代が出されている。また,南部平原のKot Diji遺跡では,「市街地」の最

下層から得られた前2980-2545年,前2900-2525年という二っの年代がこの遺跡にKot Diji文化

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徐:Kot Diji文化の起源に関する考察 31

が定着した時期を示している[徐1988]。北西部に対して,南東部(平原部)のKot Diji文化が時

期的に下がることはこの文化の成立経緯に合致している。

 こうして・土器の様相の検討を通じで明らかにされたKech Beg文化とKot Diji文化との継承関係

のみならず,実年代の面においても,両者は前後関係で結ばれていることが明らかになった[年表]。

年代(BC) バルチスターン丘陵(中央) バルチスターン丘陵(北部) インダス平原

7000頃 Mehrgarh I~H

Kili Gul Mohammand I一皿

(KGM彩文土器文化が成立する)

4500頃 Mehrgarh皿 Rana Ghundai I期

Kili Gul Mohammad皿 Peviano Ghundai下層

Sur Jangal I期 Shed Khan Tarakai(A)

(Kech Beg多色彩文土器文化が成立する)…一一一…一一一…一一一一一一一…一一騨騨曹曹}響-一一一一一一一卿一一一一一葡___

4∞0頃 Mehrgaeh IV.Kech Beg. Rana Ghundai I期 Hakra Ware Pedod

Kili Gul Mohammad IV Sur Jangal H期 Sarai Khola I

Damb Sadaat I Periano Ghundai中層(下部) Amri-IA-C(南トルクメニアからNamazga一皿期文化流入)一一…一一一……一…一 卿 響 一 一 ■ 一 一 一 一 騨 層 一 一 一 曽 一 一 一 一 一 一 一 一 騨 一

3200頃 Damb Sadaat I~皿 Rana Ghundai皿a期 Rehman Dhed I期

Mehrgah VI期 Sur Janga1皿期 Amri-ID

Periano Ghu哩凱中層(上層) Gumla H期

Jalilpur H期

Sarai Khola皿期

Harappa城塞下層

・.・F・:。 Kalibangan I期

Kot Diji

29∞頃

バルチスターン丘陵とインダス平原との文化の年代関係表

結び

 以上の論証で明らかになったように,紀元前四千年紀末期から三千年紀の初頭にかけてインダス

北部平原で急展開し始めたKot Diji文化は,バルチスターン丘陵で南トルクメニアからの外来文化

の侵入を受けて崩壊し,北部バルチスターン地方を東へと移動したKech Beg文化の一部を母体に平

原部で成長をとげたものである。多くの確証に基づいた総合的な分析によって確認された両文化の

前後関係,両土器群の間に認められた驚異的な類似,バルチスターン丘陵における文化の激変とイ

ンダス平原におけるKot Diji文化の登場との因果関係,および放射性炭素年代による両文化間の実

年代上の合致などは,Kech Beg文化とKot Diji文化との系譜関係にかかわる幾っかの根本的な側面

を明確に裏付けているのである。これは,即ち,Kot Diji文化はインダス平原そのもので独自に発生

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32 茨城大学教養部紀要(第28号)

したものではなく,Kech Beg文化を源流とした移民文化なのである。この特徴の強い文化は紀元前

四千年紀の中頃までHarappa文化より一足早く北部平原を中心に栄えていたが,全盛期Harappa文

化時代(いわゆるインダス文明期)になってからも,平原部へ進出した時の足場になっていた北西

周辺地域で紀元前二千年紀初頭まで息長く存続し,その文化伝統の強靱な生命力を示していた。こ

のように,紀元前三千年紀を通してKot Diji文化とHarappa文化とがインダス平原において併存し,

交替に繁栄を極めていた,という基本的な構図が一層明確になったのである。

 以上の論証を通じてKot Diji文化の起源という問題核心をとらえることができたが,いうまでも

なくこれでは決して充分とはいえない。発掘資料不足といった制限があるものの,これからも可能

な限り,生産道具,住居様式,宗教生活などの面から検証を進め,上述の結論を一層完壁なものに

してゆきたい。そして,最後に特に指摘したいのは,紀元前四千年紀末期にKech Beg文化がインダ

ス北部平原へと進出するまで,広大な平原部では農耕文化の発展がバルチスターン丘陵のそれより

大きく立ち遅れ,ほとんど「空白」な状態が続いていた,という事実である。丘陵部では,Mehrgarh

遺跡やKili Gul Mohammad遺跡などで知られるように,紀元前七千年紀の中頃から遊牧生活から定

住農耕へとの転換がすでに実現したが,インダス平原部では,紀元前四千年紀の前半になってよう

やく周辺地域(Amri遺跡, Sheri Khan Tarakai遺跡, Sarai Khola遺跡およびCholistan地方など)

において初期的な定住農耕生活が始まったのである。そこで,それまではあの雄大かっ豊かなイン

ダス平原部は,エジプトのナイル流域,メソポタミア,および中国の黄河流域と揚子江流域と異な

って,なぜ,非常に早い段階から漸進的な農耕文化の発展がなかったのか,という問題が残ってい

る。それはインダス平原における独特な自然条件が初期の農耕民たちに平原進出をためらわせたか

らかもしれないが,農耕文化が丘陵部から平原部へと本格的に移転することが,南トルクメニアか

らNamazga-M期文化の波が中央バルチスターン地方に及んできたという突発的な事件によって実

現したことは,計画的な都市,発達した煉瓦生産,進んだ排水系統文字システムなどと並んで,世

界中の大河流域文明の中におけるインダス平原の文明のもっ特異性を際立たせることになったので

ある。

 この小論は筆者が1990年5月に京都大学大学院に提出した博士学位論文の第三章第二節に基づき

一部加筆してできたものである。論文作成にあたって資料提供から具体的な指導まで大変お世話に

なった桑山正進教授(京都大学人文科学研究所)に感謝の意を表わしたい。

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1987),Cholistan(Mughal 1982), Damb Sadaat(Fairservis 1956), Gumla(Dani 1970/71),

Hathala(Dani 1970/71), Jalilpur(Mughal 1972a), Kalibangan(IA 1962~63), Kech Beg

(Fairservis 1956), Lewan(Allchin and Knox 1986), Periano Ghundai(Fairservis 1959), Rahhi

Shahpur(Suraj Bhan 1973), Rana Ghundai(Fairservis 1959), Rehman Dheri(Durrani 1988),

Sarai Khola(Mugha11972b), Siswal(Suraj Bhan 1973), Sur Jangal(Fairservis 1959), Tarakai

Qila(Allchin and Knox 1986),

Page 36: ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポ …ir.lib.ibaraki.ac.jp/bitstream/10109/9766/1/CSI2010_1825.pdfここではまずCholistan地方, Sarai KholaとBannu盆地という順で資料を検証することとする。

徐:Kot Diji文化の起源に関する考察 35

追記:

 別々の土器群の文様を対照比較する表1~4については,本来は個々の文様を具体的にヴィジュア

ルに示すのが筋であり,このまま提示されても具体的な文様をイメージできないために解りにくい

という問題が生じるかもしれない。疑問をもっ読者にそれらの文様を一々確認することを要求する

ことは事実上不可能だとは知っているが,スペースのことに加え,時間的な制限や作業上の煩雑さ

などもあるため,今回は出典だけをあげることにし,自分の学問的責任でそれらを一っの結果とし

て証拠に使わせていただいた。これに関してすこし遺憾は残るが,今後これを補う機会を得られる

ことを念願している。

          AStudy of the Rise of the Kot Dijian Culture

                                   Xu. Chaolong

                     Abstract

  To properly understand the prehistorical cultures in the Greater lndus Valley, the Kot Dijian

Culture is the absolutly indispensable. Being distributed over northern Indus Valley and lasting

for more than a millennium, the culture was the key counterpart of the Harappan Culture to share

space as well as time with, and was connected with the latter in many aspects. Although the region

of its distribution was such a vast and the duration of its existence was considerablly long, the

culture has not been treated suitably, for the study of the Indus Civilization(the Harappan

Culture)has attracted overwhelmingly the attentions of the scholars in the world. Therefore the

problem of its origin has been shadowed under the main current of pursuiting the rise of the lndus

Civilization.

  Since the author has already made clear that the Kot Dijian Culture was not the ancestor of

the Harappan Culture and had have nothing to do with the rise of the latter, accordingly what he

must explain is where the Kot Dijian Culture came from and what was its origin, before answer

the problem of the rise of the Harappan Culture. In this thesis,the author takes the responsibility

and attempt to approach to this problem through careful studies mainly on the following four

aspects:

(1)the Kech Beg Culture absolutly preceding to the Kot Dijian Culture, based on the analysis of

the pottery groups in Baluchistan and northern lndus Valley.

(2)the ancestra1 Kech Beg Culture and its successor, the Kot Dijian Culture, as indicated by the

most convincing evidence of the comparative studies on the Kech Beg pottery and the Kot Dijian

Pottery.

(3)the rapid cultural changes observed in central Baluchistan around the late second half of the

4th millennium and its connection with the sudden occurence of the Kot Dijian Culture in

northern Indus Valley.

(4)the exact chronological relations from the radiocarbon datings to support the consequential

conclusion of the successive relation between the Kech Beg Culture and the Kot Dijian Culture.

Page 37: ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポ …ir.lib.ibaraki.ac.jp/bitstream/10109/9766/1/CSI2010_1825.pdfここではまずCholistan地方, Sarai KholaとBannu盆地という順で資料を検証することとする。

36 茨城大学教養部紀要(第28号)

  As a result, this study has led to a decisive consequence showing that the Kot Dijian Culture has

its origin in the preceding Kech Beg Culture of central Balichistan, and it basically is an

immigrant culture to the Indus Valley although its full-development was completed there.

Conceming the process of this development, what deserves specia}emphasis is that the fu11-

scaled establishment of setting agriculture in the Indus Valley was realized only through the

contingency of the Namazga III cultural penetration into central Baluchistan, that drove the Kech

Beg culture(a part of them?)out to flow into northern Indus Valley to become the core of the

newly-found Kot Dijian Culture!Without this contingency hapPening in the late second of 4th

millennium, probably the lndus Valley would have still remained in scarcity of settled agriculture

and have been farer behind the development of Baluchistan, where the first agricultural society

was established even in the middle of 7th millennium. This phenomenon makes the Indus Valley

peculiar against Egypt, Mesopotemia and the Yellow River Valley of China where settled

ag riculture started in the river valley proper from very early time.