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- 99 - Shelley “To a Sky-Lark” -その注釈と翻訳 Shelley’s “To a Sky-Lark”: Annotated and Translated 原 田 Hiroshi HARATA はじめに P. B. シェリーの “To a Sky-Lark”「告 天子へ」は、彼のみならず、イギリス文学史上においても、代表 作と目されている詩劇 Prometheus Unbound に添えられて 1820 年出版された。本詩と並んでよく知られ ている “Ode to the West Wind”「西風への賦」(この詩の最終行 “If Winter comes, can Spring be far behind? 「冬来りなば、春遠からじ」は、日本語の格言扱いを受けているほど人口に膾炙している)も同様であ る。さて、小鳥ヒバリ(学名 Alauda arvensis)を告天子と表記したことについて一言触れておきたい。 この詩の最も早い翻訳は、末松謙澄が 1882 年(明治 15)11 月9日付の郵便報知新聞に掲載した「雲雀 詩」という漢訳である。ここでは雲雀という漢字が当てられている。ところが、ほぼ 10 年後の 1891 年 に、山内晋が第二高等中学校の文学会雑誌に、同じく漢訳(部分訳)で「告天子歌」と題して掲載して いる。また、1894 年には、大和田建樹が「告天子」と題して『欧米名家詩集』に七五調の和訳を載せ ている。その後はしばらく「告天子」という漢字が当てられていたが、夏目漱石が 1906 年刊行の『新 小説』9月号に『草枕』を掲載し、次のように記している。 雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀が鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体で 鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたものゝうちで、あれ程元気のあるものはない。あゝ愉快だ。 かう思って、かう愉快になるのが詩である。 忽ちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えた所だけ暗誦して見たが、覚えて居る所 は二三句しかなかった。其二三句のなかにこんなのがある。 漱石はヒバリを「雲雀」と表記し、シェリーの “To a Sky-Lark” から 86-90 行目までを引用して、それ に彼自身の和訳を付している。上記の部分を抜き出した理由は二つある。 まず、これ以降ヒバリの表記は「雲雀」が主流となり、「告天子」は見当たらなくなった、というこ とである。ただし、すべての訳業を渉猟したのではないから、絶無、とはいえないかも知れないが。近 年では「ひばり」と平仮名に表記したものも目立つ。「雲雀」からはスズメが想起される。スズメは人 間の身近な小鳥であり、時には遊び相手にならないかと誘われたり、時には子どもにつかまるものであ る。スズメからはどうしてもそのようなことが連想されるため、「雲雀」という表記を避けたのかもし れない。さて、二つ目の理由は、漱石の作品鑑賞能力の高さである。引用した部分には、シェリーの詩 を思い出した、といっているだけで、この詩への評価は一言もしていない。ただヒバリの鳴き方が物理 的肉体的に鳴くのではなく、精神的に魂全体で鳴くのだ、述べているだけである。実は、この洞察は シェリーの詩を熟読玩味した後に得られたものに相違ない、と考える。漱石は、シェリーのこの詩から ヒバリの鳴き声をそのように理解して、その後実際にヒバリの鳴き声を聞いた時にそのように聞こえた のである。従って、ヒバリの鳴き方についての漱石の叙述は、シェリーの詩の本質を理解した者にだけ にできるものである。「覚えて居る所は二三句しかなかった」というのは、漱石一流の自己韜晦である。 なぜこのような解釈が成立するかといえば、オスカー・ワイルドの “The Decay of Lying”「虚言の衰退」 にある一大警句「芸術は自然の模倣ではなく、自然こそ芸術の模倣なのである。」を想起するならば、 山梨大学教育人間科学部紀要 第 15 巻 P99~112 平成25年 (2013年) 度

Shelley “To a Sky-Lark” -その注釈と翻訳

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Shelley の “To a Sky-Lark” -その注釈と翻訳

Shelley’s “To a Sky-Lark”: Annotated and Translated

原 田  博Hiroshi HARATA

はじめに

 P. B. シェリーの “To a Sky-Lark”「告ひ ば り

天子へ」は、彼のみならず、イギリス文学史上においても、代表

作と目されている詩劇 Prometheus Unbound に添えられて 1820 年出版された。本詩と並んでよく知られ

ている “Ode to the West Wind”「西風への賦」(この詩の最終行 “If Winter comes, can Spring be far behind?「冬来りなば、春遠からじ」は、日本語の格言扱いを受けているほど人口に膾炙している)も同様であ

る。さて、小鳥ヒバリ(学名 Alauda arvensis)を告天子と表記したことについて一言触れておきたい。

この詩の最も早い翻訳は、末松謙澄が 1882 年(明治 15)11 月9日付の郵便報知新聞に掲載した「雲雀

詩」という漢訳である。ここでは雲雀という漢字が当てられている。ところが、ほぼ 10 年後の 1891 年

に、山内晋が第二高等中学校の文学会雑誌に、同じく漢訳(部分訳)で「告天子歌」と題して掲載して

いる。また、1894 年には、大和田建樹が「告天子」と題して『欧米名家詩集』に七五調の和訳を載せ

ている。その後はしばらく「告天子」という漢字が当てられていたが、夏目漱石が 1906 年刊行の『新

小説』9月号に『草枕』を掲載し、次のように記している。

 雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀が鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体で

鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたものゝうちで、あれ程元気のあるものはない。あゝ愉快だ。

かう思って、かう愉快になるのが詩である。

 忽ちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えた所だけ暗誦して見たが、覚えて居る所

は二三句しかなかった。其二三句のなかにこんなのがある。

漱石はヒバリを「雲雀」と表記し、シェリーの “To a Sky-Lark” から 86-90 行目までを引用して、それ

に彼自身の和訳を付している。上記の部分を抜き出した理由は二つある。

 まず、これ以降ヒバリの表記は「雲雀」が主流となり、「告天子」は見当たらなくなった、というこ

とである。ただし、すべての訳業を渉猟したのではないから、絶無、とはいえないかも知れないが。近

年では「ひばり」と平仮名に表記したものも目立つ。「雲雀」からはスズメが想起される。スズメは人

間の身近な小鳥であり、時には遊び相手にならないかと誘われたり、時には子どもにつかまるものであ

る。スズメからはどうしてもそのようなことが連想されるため、「雲雀」という表記を避けたのかもし

れない。さて、二つ目の理由は、漱石の作品鑑賞能力の高さである。引用した部分には、シェリーの詩

を思い出した、といっているだけで、この詩への評価は一言もしていない。ただヒバリの鳴き方が物理

的肉体的に鳴くのではなく、精神的に魂全体で鳴くのだ、述べているだけである。実は、この洞察は

シェリーの詩を熟読玩味した後に得られたものに相違ない、と考える。漱石は、シェリーのこの詩から

ヒバリの鳴き声をそのように理解して、その後実際にヒバリの鳴き声を聞いた時にそのように聞こえた

のである。従って、ヒバリの鳴き方についての漱石の叙述は、シェリーの詩の本質を理解した者にだけ

にできるものである。「覚えて居る所は二三句しかなかった」というのは、漱石一流の自己韜晦である。

なぜこのような解釈が成立するかといえば、オスカー・ワイルドの “The Decay of Lying”「虚言の衰退」

にある一大警句「芸術は自然の模倣ではなく、自然こそ芸術の模倣なのである。」を想起するならば、

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このことを自然に了解してもらえよう。漱石は全 105 行のシェリーの詩におけるヒバリの存在を聖なる

魂の歌声、と理解したのである。漱石が山道で聞いたヒバリは、シェリーのヒバリの鳴き声の反響であっ

た。そういう非俗性と非肉体性を持つヒバリが天上から歌っている構図を喚起しようとして、今回あえ

て「告天子」という表記を復活した次第である。なお、余談ではあるが、葛飾北斎の版画や岡田紅陽の

写真を観たものは、それらを思い出すことなく、富士山を眺望することはないであろう。

 シェリーの「告天子へ」は、1820 年6月から7月にかけてイタリアの西海岸にリヴォルノで書かれ

た。7月 12 日付の友人ピーコック宛の手紙には2篇の詩を同封する、と書いてある。そのうちの一つ

は “Ode to Liberty”(これも Prometheus Unbound に添えられて出版された)であることがわかっている。

もう一つは多分本詩であろう。というのは、妻メアリの日誌によれば、6月下旬から7月下旬にかけて

夕方散策した折にヒバリが囀っていた、と記しているからである。また、彼女が記したシェリーの「1820

年の詩」につけた注にも、“It was on a beautiful summer evening, while wandering among the lanes whose myrtle-hedges were the bowers of the fire-flies, that we heard the carolling of the skylark which inspired one of his most beautiful of his poems.” と記されている。後述するように、ヒバリが歌うことを “carolling” と表記し

宗教性を帯びさせていることに着目しておきたい。また、蛍もこの詩に登場する。シェリーはヒバリ

の囀りにある種の聖性を感得したのである。ところで、ヒバリはどう鳴くのであろうか。鳥類学者(小

西正一『小鳥はなぜ歌うのか』(岩波書店、1994)によれば、小鳥のなかで、ヒバリは最も早口で一番

長く尾を引きかつ多彩な音調を駆使して、あたかも作曲しているかのごとく歌うそうである。シェリー

の「告天子へ」は、その韻律と詩型において、余人に真似ができないような、複雑な構成をとっている。

一つの連(スタンザ)は5行からなり、1行目から4行目までは強弱3歩格(Trochaic Trimeter)、そし

て5行目は弱強6歩格(Iambic Hexameter)である。行末は1行目と3行目がそして2行目と4行目と

最後の5行目がそれぞれ押韻(ライム)している。これはまさにヒバリの巧妙な囀りを詩型に転移した

ものである。シェリーはヒバリの鳴き方をまねた律格(プロソディー)で、ヒバリに祝福の呼びかけを

行い、その飛行や様相や囀りなどを様々な比喩を駆使して描写し、自己(人間)の至らなさを嘆き、そ

れを克服せんがために最後にヒバリに教えを乞うている。その間 105 行をまさに息つく暇もないくらい

一気呵成に歌い上げている。漱石が指摘したように詩人は魂全体を使って、魂の活動を声に転化せしめ

ている。ヒバリの音調を借りた詩人の魂の叫びである。しかもそれは様式美・形式美という詩的濾過装

置によって純化された表現である。シェリーは、通常、自己の感情の赴くままに歌った抒情詩人、とい

われているが、実はその感情をいかに効果的に発露させるかを入念に実践した技巧に長けた詩人でも

あった、と理解すべきであろう。例えば、上に挙げた “Ode to Liberty” は、驚くほど複雑な律格を備え

ている。そのような英語で書かれた詩作品を、言語系統を全く異にする日本語に翻訳することは、もと

より無謀であり不可能であろう。英語を含めて7言語に通じていたシェリーは、翻訳、特に詩の翻訳

は、不可能である、といっていた。それでも彼はホメロスやプラトンやゲーテ等の翻訳を試みた。

 シェイクスピアの翻訳が何種類もあるように、優れた作品は翻訳されるのを自ずと望んでいる。シェ

リーのこの「告ひ ば り

天子へ」も明治初期以降幾度となく翻訳されてきた。それだけこの詩は文学者や研究者

や愛好者たちを誘発するのであろう。今回新たに試訳を提示しようとした理由には二つある。一つは語

義や統語や句読法(パンクチュエイション)を精査し直すと共に、文脈のつながりやイメージもできる

だけ詳らかにすることにある。これらがやや曖昧にされてきた嫌いがあるためである。今ひとつは翻訳

の文体、換言すれば、言葉の調子とか雰囲気の再現性に係わることである。魂全体を使って、無駄な表

現を削ぎ落として、極度に緊張した文体で書き上げられたこの詩は、もしかすると、漢訳が最もふさわ

しいかも知れない。明治初期の文学者の何人かが漢訳こそ本詩の翻訳に叶う、と考え実践したことに敬

意を表したい。できれば、漢詩にも長じていた漱石に漢語で翻訳してついでに読み下し文を付してもら

いたかったくらいである。しかし、現代において漢訳することは、時代錯誤であり、第一筆者にはその

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(原田 博)Shelley の “To a Sky-Lark” -その注釈と翻訳

能力は皆無である。では、私たちが日常的に使用している現代口語で翻訳するのはいかがであろうか。

確かに読みやすいかも知れない。また親しみやすいかも知れない。しかし、原詩に漲る格調の再現性は

ほとんど犠牲にせざるを得ないのではなかろうか。また親しみやすさ、ということにも一言しておく必

要がある。シェリーは決して親しんでヒバリに呼びかけてはいない。俗なる小鳥であるヒバリが、そ

の姿が判別できないほど天空高く飛翔しながら歓喜の囀りを慈雨のごとく地上に降り注ぐのを聴いて、

シェリーはそこに聖なるものを発見したのである。上記のメアリの注に使われていた “carolling” には鳥

が囀るということと、聖歌を楽しく喜ばしく歌う、ということが重ね合わされていることを思い出され

たい。世俗の塵埃にまみれながらも、そこから一歩たりとも離脱することのできない悲しみの「我=詩

人」と天空高い聖域で歓喜の歌を囀る「御身=告天子」には埋めがたい間隙がある。シェリーは、この

詩の冒頭において、謹んでかつ崇敬の念をもって、告天子に挨拶を捧げているのである。余談となるが、

この詩は、教会によって公認された教義を誉め称える正統賛美歌や正統聖歌に対して、一羽の小鳥のな

かに聖性を見いだしてそれを誉め称える代替・対抗賛美歌や代替・対抗聖歌、といってもよいであろう。

ここにシェリーの深い、ある意味恐るべき、ラディカリズムがある。

 さて、文体の問題に立ち返らなければならない。上述した理由から現代語に文語(古典語)と漢語と

を混交したものなっている。現代語はもとより古典語や漢語に至ってはまったくの門外漢による無謀な

試みではあるが、詩は、本来、声に出して読む(詠ずる)ものであるから、そうした場合に、原詩の意

味と雰囲気とが、少しでも、この試訳の行間から感じとられるならば、望外の喜びである。幸い歴史的

言葉使いについては、同僚の長谷川千秋氏(国語学)から数々の貴重な助言をいただくことができた。

あつく御礼申し上げる次第である。もしもこの訳が、途轍もなく誤った表現を免れているならば、それ

は同氏のおかげである。しかし筆者の浅学ゆえに思わぬ誤りや未熟さがなお潜んでいるかも知れない。

ご教示を仰ぎたい。

 最後に、本稿の構成について述べることにする。先ず、詩本文を置き、次に注釈を、最後に拙訳を配

置する。注釈の項にある最初の算用数字は行番号を示す。その後に該当の語句などを引用し、それに注

記を施す。注は初学者にも配慮したつもりである。詩本体を三つに分かち、それぞれに注解と試訳とを

対応させている。初段は1行目から 30 行目までである。ここで詩人は「喜びの御み た ま

魂」である告天子へ

祝福を捧げるとともに天空へと飛翔する見えざる姿と地上に降り注ぐ囀りとを描写する。中段は 31 行

目から 60 行目までである。ここで告天子の正体を明らかにするために様々な比喩を列挙していく。終

段は 61 行目から最後の 105 行目までである。ここで私(私たち人間)と告天子との相違を明らかにし、

告天子に向けてその喜びの歌を教え給え、と祈願して締めくくっている。なお、試訳のなかで、行中に

1字空けたところがあるが、それは原文にカンマやダッシュなどがあったことを示している。行末にカ

ンマやダッシュがあった場合は、それをどのように表記するかという工夫はとらなかった。詩の行末に

は、多くの場合、休止を置くからである。

 本詩の底本には、Shelley’s Poetry and Prose, Selected and Edited by Donald H. Reiman and Neil Fraistat (A Norton Critical Edition: Second Edition, 2002) を用い、The Poems of Shelley 1819-1820, Edited by Jack Donovan, Cian Duffy, Kelvin Everest and Michael Rossington (Longman Annotated English Poets, 2011) を適宜参照し

た。双方の脚注は非常に参考になった。明治時代のシェリーの翻訳については原田博編『日本におけ

るシェリー研究文献目録』(1993)および松田上雄編『明治時代の P.B. シェリー文献 目録と抄録』

(2008)に拠った。特に後者から得るものがあった。辞書類としては主として A Lexical Concordance to the Poetical Works of Percy Bysshe Shelley, Compiled and Arranged by F.S. Ellis (1892) と The Oxford English Dictionary (OED) に当たった。

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山梨大学教育人間科学部紀要 第 15 巻平成25年 (2013年) 度

【本文】       To a Sly-Lark

Hail to thee, blithe Spirit! Bird thou never wert— That from Heaven, or near it, Pourest thy full heart In profuse strains of unpremeditated art. 5

Higher still and higher From the earth thou springest Like a cloud of fire; The blue deep thou wingest, And singing still dost soar, and soaring ever singest. 10

In the golden lightening Of the sunken Sun— O’er which cloud are brightening, Thou dost float and run; Like an unbodied joy whose race is just begun. 15

The pale purple even Melts around thy flight, Like a star of Heaven In the broad day-light Thou art unseen, —but yet I hear thy shill delight, 20

Keen as are the arrows Of that silver sphere, Whose intense lamp narrows In the white dawn clear Until we hardly see—we feel that it is there. 25

All the earth and air With thy voice is loud, As when Night is bare From one lonely cloud The moon rains out her beams—and Heaven is overflowed. 30

【注釈】

1. Hail: 挨拶を送る間投詞。OED が定義しているように、通常は上位にあるものや崇高なものへの

尊敬とか崇敬の念を込めたものである。シェリーは、この語を使うとき “Hail Mary, full of grace, the Lord is with thee.”「めでたし聖寵満ち満てるマリア、主おんみとともにまします。」という the Annunciation「受胎告知」」(これは聖母マリアのキリストへの取りなしを祈願する『天使祝詞』と

して知られている)を当然意識していたはず。もっとも彼は、処女懐胎は信じていなかったが。

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(原田 博)Shelley の “To a Sky-Lark” -その注釈と翻訳

これに前置詞 to がついた用例としてシェリーのこの部分が OED に引用されている。

blithe Spirit: ワーズワスの “To the Cuckoo” の冒頭 “O blithe New-comer!” および 14-6行目の “Even yet thou art to me / No bird, but an invisible thing, / A Voice, a mystery” を念頭に置いたもの。ワーズワ

スの「郭公へ」が、バラッドで書かれ、のどかな感じを上手に表現していることに注意。それに

対して、シェリーの「告ひ ば り

天子へ」は張り詰めた緊張感に満ちている。blithe は現代英語では用いら

れなくなった「喜び」「歓喜」を示す形容詞。

2. Bird thou never wert: 補語 Bird が主語の前に置かれ強意とともに音調を Trochaic 強弱調にしている。

動詞 wert は主語 thou をうける art(現代英語は are)の過去形。ここでは直説法過去ではなく、仮

定法過去の仮定文を示す。帰結文にあるべき wouldst/shouldst は省略されて1行目にある。即ち、

1行目と2行目とを統語に則して書き改めると、Hail to thee, (who wouldst/shouldst be) blithe Spirit! if thou wert never Bird. となる。このような仮定文の倒置(やや変則的ではあるが)が起きた場合に

は、if は省力される。英語国民のなかでも学者や研究者には違和感のない用法であろうが(その

ためか Concordance にはここの wert の用例は挙げられていない)、私たち日本人には難しい語法・

文法。それにしても、シェリーの絶妙な言語感覚には驚嘆させられる。

3. That: 理由を示す接続詞。現代英語では ...in that.... と用い、「... という理由で」となり because に

近い意味。

4. Pourest: 主語が thou の時動詞には (e)st という接尾辞をつける。上記のように would/should は

wouldst/shouldst になる。これ以降地上に降り注ぐひばりの歌声は、天上からの降雨に譬えられて

いる場面が頻出する。シェリーは、『旧約聖書』「創世記」(I: 7)にある、「神は ... おおぞらの下

の水とおおぞらの上の水とに分けられた」を念頭に置いていたのかも知れない。

5. profuse: 通例第二音節に強勢が置かれるが、ここでは音調を Iambic(弱強調)にするため第一音節

に移動されている。なおこの語はラテン語の「(大量に)水を注ぐ」と関連ある語なので Pourestに対応して極めて適切な用語。

unpremeditated art: これら二つの単語は修辞法の撞着語法 oxymoron となる。なぜならば、「予め熟

考しなかった(されなかった)」art「芸術・技術・技芸」は、通常、成立しないからである。ただし、

ミルトンは、その Paradise Lost (IX, 24) で my unpremeditated verse といっている。ミルトンはその

作品冒頭で詩神(ミューズ)に invocation(霊感を与え給えと祈願すること)を行っている。一方、

シェリーは invocation を省き、告天子の第一声で直接霊感を感得したのである。彼は、このような

撞着語法を 103 行目で harmonious madness「諧調ある狂気」と繰り返しているが、その思想の複雑

性を示す事例である。なお、unpremeditated は第一、第三そして第五音節の三カ所に強勢が置かれ、

残り三つは profuse strain に一つずつと最後の art にある。

6-7. Higher still...From the earth thou springest:シェリーがこの詩を書く少し前に読んでいたプラトンの『パ

イドロス』(246)には、「霊魂は完全な翼を持てば天高く飛翔する」とソクラテスが述べている箇

所がある。

9. The blue deep:「蒼穹」。

15. unbodied joy: シェリーの詩の解釈においてかつて議論を呼んだ語。ある学者が embodied とすべき、

としたが、シェリーの手稿には unbodied と書かれてあることが確認されている。この語は OED の

第二の定義「抽象的なもしくは非物質的なことについて。つまり肉体を持たぬこと」の事例とし

て挙げられている。ただし第一の定義「霊魂あるいは精神について、肉体を持たぬこと、肉体を

纏わぬこと」にも通じている。「純粋な、まじりけなしの」の意、と考えればわかりやすい。上記

『パイドロス』には、不完全なる翼を身につけた霊魂は肉体を纏う、とある。未だ塵埃にまみれて

いない純粋無垢の喜び。やや趣を異にするが、ブレイクの Songs of Innocence and of Experience にあ

る “Infant Joy” を想起してもよい。ただし、多分シェリーはブレイクを読んでいなかった。

race is just begun:「競争」ではなく「人生の行路」が今始まったばかり、の意。シェリーにとって

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山梨大学教育人間科学部紀要 第 15 巻平成25年 (2013年) 度

人生とは、“Ode to the West Wind” には “I fall upon the thorns of life! I bleed! / A heavy weight of hours has chained and bowed / One too like thee: tameless, and swift, and proud.” とある。

18. a Star of Heaven: 宵の明星(金星)。

20. Thou art unseen—but yet I hear thy shrill delight: 鋭い光(金星)と音声(告天子)とはシェリーにとっ

て harmonious にしてかつ喜び (delight) の源泉。一種の synesthesia(共感覚)の例。シェリーにとっ

て、存在は光や音や芳香によって確認される。

22. that silver sphere: 明けの明星(金星)。上記宵の明星との対。ヒバリは早朝も飛翔する。

25. we hardly see—we feel it is there: 20 行目と同様にシェリーの見えざる聖性への憧憬と確信。「(ほと

んど)見えない」、といいながら、ともにダッシュを用い前言を打ち消している。シェリーの文章

構成美の例。

28. As when Night is bare: As の次に if を補い、As if「あたかも月輪が ...であるかのように」と解釈する。

Night は擬人化されていることに注意。夜はたった一片の雲を除きほかに身に纏うものをもたない

裸体である。そこに月輪がその雲陰から顔を出し全天に光を注ぐ構図。

【試訳】          告

ひ ば り

天子へ

御身に祝福あれ 喜びの御み た ま

魂よ

  小鳥なんぞに御身は断じてなかりせば

天界 あるいは天辺より

  御身の思いの丈を融通無碍の

技わ ざ

芸に乗せ満ち満てる歌声として降り注ぐが故に 5

さらに高くそしていや高く

  地上より御身は跳躍す

巻き上がる火ほ む ら

炎の如く

  御身は蒼穹を飛翔す

そして絶えず歌いつつ上昇し さらに上昇しつつ歌う 10

彩雲の輝きわたるもとに

  沈める日輪の名残が放つ

金色の光芒の中を

  御身は浮遊しかつ疾走す

それ命の行路今始まれる肉に く

体を纏わぬ喜びそのものの如し 15

薄紫の夕暮れも

  御身の飛行に溶けゆかむ

  譬うれば天に懸かる宵の明星の

     真昼間に全天の光の中にある如く

御身は目には見えず されど我には聞こゆ御身の玲瓏たる喜びの声が 20

その声の鋭きこと銀しろがね

の明けの明星が

  放てる矢の如し

かの白熱する天体もさえざえと

  白みゆく夜明けとなれば

Page 7: Shelley “To a Sky-Lark” -その注釈と翻訳

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(原田 博)Shelley の “To a Sky-Lark” -その注釈と翻訳

我らには見え難し されど我らは感知す彼か し こ

処に在りと 25

地上にも空中にもあまねく

  御身の歌声が響きわたる

それあたかも夜が何も身に纏わぬとき

  ただ一つ残る雲陰より

月輪がその豊かなる光を雨と降り注ぐが如し そして天は満ち溢る 30

【本文】

What thou art we know not;  What is most like thee? From rainbow clouds there flow not  Drops so bright to see  As from thy presence showers a rain of melody. 35

Like a Poet hidden  In the light of thought, Singing hymns unbidden,  Till the world is wrought   To sympathy with hopes and fears it heeded not: 40

Like a high-born maiden  In a palace-tower, Soothing her lave-laden  Soul in secret hour,  With music as love—which overflows her bower: 45

Like a glow-worm golden  In a dell of dew, Scattering unbeholden  Its aerial hue  Among the flowers and grass which screen it from the view: 50

Like a rose embowered  In its own green leaves— By warm winds deflowered—  Till the scent it gives  Makes faint with too much sweet these heavy-winged thieves: 55

Sound of vernal showers  On the twinkling grass, Rain-awakened flowers,  All that ever was  Joyous, and clear and fresh, thy music doth surpass. 60

Page 8: Shelley “To a Sky-Lark” -その注釈と翻訳

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山梨大学教育人間科学部紀要 第 15 巻平成25年 (2013年) 度

【注釈】

31. art: thou を受ける直説法現在形。What thou art は know の目的語。

32. What is most like thee:「御身に何がもっとも似ていようか。」これ以降から 60 行目まで、告天子の

類似を求めて直喩を重ねていく。

33-5. ここも統語をわかりやすくすると以下のようになる。Drops so bright to see flow not from rainbow clouds as a rain of melody showers from thy presence.so...as「... ほどには ... でない。」に注意。告天

子の囀りが、月光とか雨のように、天から降り注がれるものに譬えられていることに注意。

36-7. 以下、告天子の比喩の対象・客体が、Like「譬うれば」、という前置詞で導かれていく。その姿は

見えないが、それが発する音声や光や芳香によりその存在は黙示される。すがたの見えない告天

子と詩人に訴えるその聖なる歌声、という関係に通じる。「詩人は思想の光に包まれているが故に、

世人にその姿は見えない。」

38. Singing hymns unbidden: unbidden は副詞で「命じられなくとも自然に」の意。賛(美)歌・聖歌は

強制されて作詩したり歌うものではない、というシェリーの意見。5行目の unpremeditated やワー

ズワスの有名な一句 “spontaneous overflow of powerful feelings” に通じる。

39. wrought: work の古い形の過去分詞で、今日では限定的に使われる。ここは「ある状態へと導く」

の意。

40. it: the world「世人」を指す。前行から続くこの行は、詩人の自然の発露から生じた作品は、世人

に影響を及ぼすことができる、というシェリーの確信を示す。この行末と 45 行目、50 行目、55

行目はコロンで終わっていることへ注意。60 行目はフルストップ(ピリオド)になっており、一

連の直喩の列挙が終結したことを表している。

46. dell: OED の第二の定義「小規模の自然にできた窪地や谷、側面は通常木々や群葉で覆われてい

る」がぴたりと当てはまる。岩だらけの谷を想像してはならない。

48. unbeholden: 現代英語辞典にある「恩義を受けていない」や「義務のない」ではなく、「目には触

れずに」の意。ちなみにこの語はシェイクスピアでは使用されていない。

49. aerial: airy と同じく「淡い」「幽かそけ

き」の意。

50. 蛍が放つ光を、谷間(窪地)の花々や草が視線から遮るのである。姿は見えないが確かに蛍は存

在する。

51. embowered: 木陰や葉陰に隠された。

52. 一輪のバラの花が枝にある多くの緑の葉の陰になっていて、それ自体は目には見えないこと。

53. 統語的には、deflowered by warm winds となり、暖かい風によってバラの花が散らされたこと。

54-5. この文の主語は the scent でそれを受ける makes は these heavy-winged thieves(明示はされていな

いが、「重い羽を持つ盗人」とは蜜蜂を指す。羽が重いのはバラの花の蜜がついているから。)を

目的語として faint は目的格補語。つまり、主語+動詞+目的語+目的格補語の第五文型を構成。

なお、the scent it gives とは「それ(=バラの花)が放つ芳香」の意。さらに、the scent と it との

間に関係代名詞の that か which があると想定する。

56-7. vernal: ラテン語に由来する「春らしい」「春めいた」の意。ここの2行は、チョーサーの Canterbury Tales における “The General Prologue” の有名な冒頭2行 “Whan that Aprill with his shoures sote / The droughte of Marche hath perced to the rote.”「4月になれば甘露のごとき雨が降り、3月(冬から続

く乾期を指す)の乾きを根元まで潤してくれる。」を念頭に置いたのかも知れない。

58. 「雨に目覚めた花々」の意。

59. All that ever was: このスタンザのなかでは直前の「春の驟雨の響き」と「雨に目覚めた(色鮮やか

な)花々」をさすが、修辞の流れからすれば Like で導かれた直喩「詩人」、「高貴な乙女」、「蛍」、

そして「バラの花」を包括すべき。was と過去形になっている理由は、告天子の鳴き声に出会う

以前はすべて美しくかつ喜ばしかったが、しかし今は違う、の含意ゆえ。シェリーの緻密な文法

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(原田 博)Shelley の “To a Sky-Lark” -その注釈と翻訳

意識の表れ。

60: 統語的には、thy music doth surpass all that ever was joyous, and clear, and fresh. となる。

【試訳】

御身が何者か我らは知らず

  されば御身に何がもっとも似ていようか

虹に懸かる雲からもかほどに

  見目輝かしき雨滴は降らず

御身の光こうりん

臨から雨なす旋律が燦々と降りかかるほどには 35

譬うれば思想の

  光輝に沈潜せる詩人のごとし

彼求められずとも讃歌を歌えば

  やがて世人もかつては

気にも留めざりし希望と不安に共感の念を抱くべし 40

譬うれば王宮の塔に

  おわす高貴なる乙女のごとし

彼か

の姫恋に悩める心を

  慰めんとて愛の優しき

楽の音ね

を密かに奏でしも それ深窓より溢れ出い

づ 45

譬うれば露けき小さき谷の

  黄金色なる一疋の蛍のごとし

すがたは見せずにその幽かそけ

き光を

  そこに彼か し こ

処に振り撒けど

花々や叢草に遮られ己が自身は人の目には入い

らず 50

譬うれば己が緑の葉は

叢むら

  すがた隠せる一輪の薔薇のごとし

それ暖かき風に散りぬれど

  そが放てる芳香の

余りに甘き故に蜜盗む翼重たき者どもの気を失う

せしむ 55

きらめく草葉に降り当たる

  春の驟雨の物の音ね

雨に目覚めし花々など

  かつては嬉しきまた

輝かしきまた鮮烈なりしすべてのものに 御身の歌声は立ち勝る 60

【本文】

Teach us, Sprite or Bird,  What sweet thoughts are thine; I have never heard

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山梨大学教育人間科学部紀要 第 15 巻平成25年 (2013年) 度

 Praise of love or wine  That panted forth a flood of rapture so divine: 65

Chorus Hymeneal  Or triumphal chaunt Matched with thine would be all  But an empty vaunt,  A thing wherein we feel there is some hidden want. 70 What objects are the fountains  Of thy happy strain? What fields or waves or mountains?  What shapes of sky or plain?  What love of thine own kind? What ignorance of pain? 75

With thy clear keen joyance  Languor cannot be— Shadow of annoyance  Never came near thee;  Thou lovest—but ne’er knew love’s sad satiety. 80

Waking or asleep,  Thou of death must deem Things more true and deep  Than we mortals dream,  Or how could thy notes flow in such a chryrstal stream? 85

We look before and after  And pine for what is not— Our sincerest laughter  With some pain is fraught—  Our sweetest songs are those that tell of saddest thought. 90

Yet if we could scorn  Hate and pride and fear; If we were things born  Not to shed a tear,  I know not how thy joy we ever should come near. 95

Better than all measures  Of delightful sound— Better than all treasure  That in books are found—  Thy skill to poet were, thou Scorner of the ground! 100

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(原田 博)Shelley の “To a Sky-Lark” -その注釈と翻訳

Teach me half the gladness  That thy brain must know, Such harmonious madness  From my lips would flow,  The world should listen then—as I am listening now. 105

【注釈】

61. Sprite: 第1行目の Spirit と同義。Sprite としたのは律格を整えるため音節を一つ節約したため。

62. sweet: 意外と訳しづらい語。本来は味覚の良さ(甘さ)を伝える語。そこから聴覚に心地よく訴

える響きとなり、音楽にも関係を持つことになった。ここでは告天子の囀りが耳に心地よいのは、

その根源をなす思い thoughts が beautiful とか graceful である、の意。

64. Praise of love or wine: 恋や美酒への賛歌はギリシアの詩人アナクレオンに起源を持つ伝統とされ

る。

65. so divine: この後に as thine あるいは as thy music「御身のものほど」とか「御身の音楽ほど」を

補う。

66. Chorus Hymeneal:「祝婚の合唱歌」。Hymen はギリシア神話の結婚を司る女神。

67. chaunt: 現代英語では chant と綴る。単調な詠唱。歌としてあまり高度なものを指さない chauntを凱旋・戦勝歌に当てたのは平和主義者であるシェリーの見識。

68. Matched with thine would be all: やや複雑な構文。(if they [Chorus Hymeneal and triumphal chaunt] are) matched with thine を挿入文とする。matched は「比較されれば」の意。would be は全文の動詞。

主語は「祝婚の合唱歌」と「凱旋歌」。補語は 69 行目。all は強意を表わす。「まったく」の意。

69. vaunt:「虚しい倨傲」とか「見せかけ」や「はったり」。

70. A thing: 前行の vaunt と同格

want:「欠落」の意。

71. objects:「対象」とか「客体」の意。

73-5. 上記「対象」や「客体」の具体的名称を列挙している。対象物を問い詰めていくシェリーの俊

敏な言葉回し。

75. ignorance:「無学」や「無知」ではなく「... への無垢の状態」を示す。OED の ignorant への定

義 2b を参照。

76. With:「... があれば」と解釈する。

77. cannot be:「あるはずがない」の意。be は存在を意味する。Languor cannot be with....「倦怠は ...with以下と併存するはずがない」と解釈してもよい。

79. came: ここの過去形は直接法。かつてそのようなことはなかった、と意味を強める効果あり。

80. knew: 主語が Thou であるから knewest となるべき所(律格を整えるためには1音節省略した

knew’st がこの場合は正しい)。ここでも過去形が使われているのは、シェリーの個人的(あるい

は人間であることの宿命的)経験を実際に味わったが、告天子にはなかった、ということに力

点を置くため。

love’s sad satiety:「愛の哀しい膨満感」そしてそれに伴う愛への「倦怠感」や「嫌悪感」を指す、

として OED はシェリーのこの行を挙げている。

82-3. ここの2行の統語を整えれば、Thou must deem of death (as) / Things more true and deep. となる。

84. mortals: we の同格。

85. Or:「さもなければ」の意。

could: 上4行をあたかも条件文と解釈してそれに対応する帰結文の助動詞。「... できるであろ

うか」の意。

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山梨大学教育人間科学部紀要 第 15 巻平成25年 (2013年) 度

86. ここは従来指摘されてきたように、シェイクスピアの Hamlet (IV, iv, 37) にある “Looking before and after” を念頭に置いたもの。

これはハムレットが、叔父(現王)によって、イギリス送りにされる際の独白に含まれている。

この前後を以下に引用する。

          人間とは一体、なんだ。

  食って寝るだけが人生の能だとしたら?畜生とどこが違う?

  前を見、後ろを見、それで物事を考え計画する、

  そんな知力を人間にふんだんに授けてくださった方は、

  この能力、神のごとき理性が、まさか使われずに黴 (かび )を生やすなどとは、

  思ってもいらっしゃらなかったにちがいない。

          野島秀勝訳『ハムレット』(岩波書店、2002)

87. is not:「存在しないもの」の意。この is は 77 行目の cannot be の be と同義。

89. fraught: with を伴って「... に付き添われて」、「... を伴っている」の意。

90. those: 当然 songs の代名詞。

91-3. ここでの仮定法は、even if とか even though つまり「たとい ... であったとしても」という譲歩節。

95. thy joy: 正しい統語としては行末に置かれるべき。

96. measures:「尺度」や「方法」ではなく「音楽的(詩的)韻律、旋律」を指す。

98-9. この2行は、ワーズワスの “The Tables Turned”の第3スタンザ(9-12行目)を念頭に置いたもの。

以下に引用する。

  Books! ‘tis a dull and endless strife:   Come, hear the woodland linnet,   How sweet his music! On my life,   There is more of wisdom in it.

西洋文学や西洋思想についてそれこそ万巻の書を読破したシェリーの到達した一つの側面。こ

れをもって、彼が読書から離れた、と理解するのはむろん誤りではあるが、ヒバリや西風や雲

や草木など自然の具体的対象を歌い込んで行くその姿勢は、ワーズワスへの心理的接近がうか

がわれる。

100. Thy skill to poet were: この were は直説法過去ではなく、仮定法過去、つまり第1スタンザ冒頭の

用法と同じ。帰結文は次の最終スタンザの命令文に持ち越される。この were の補語は 96-9行

目まで、となり補語が文頭に立つ倒置となっている。つまり、Thy skill to poet were better than ... better than ... are found「御身の技が詩人にとって ... であるならば」と解釈する。

Thou Scorner of the ground: Scorner は Thou の同格、言い換え。

101. Teach me: 上記仮定文「もしも ... であるならば」をうけて祈願を発する命令文。

101-2. half the gladness / That thy brain must know: 上述したように、この詩がワーズワスの作品を意識し

て書かれたところがある、と指摘してきたが、この2行も彼の Peter Bell: A Tale in Verse (1819) という作品にある “When shall I be as good as thou? / “Oh I would, poor beast, that I had now / “A heart but half as good as thine!” をまじめにパロディー化したもの、と推測する。主人公ピーター・ベル

が主人を亡くしたロバに向かって、「いつになったらお前と同じように善良になれるだろうか 

/ ああ、気の毒な獣よ、お前の心の / 半分でもよいから善良な心を持ちたいものだ」、と

嘆願する場面である。ここでは、紙幅の都合上これ以上詳述できないので、拙論「義憤と嘲笑

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(原田 博)Shelley の “To a Sky-Lark” -その注釈と翻訳

-シェリーの『ピーター・ベル三世』」『山梨大学教育人間科学部紀要 第 14 巻』(2013 年3月)、

152-63 頁を参照していただきたい。

103. harmonious madness: 修辞法の撞着語法。unpremeditated art(5行目)と同じく相反するものを並

立する技法。「狂気」については、前に指摘したプラトンの『パイドロス』(245)には、「ミュー

ズによる狂気が霊魂をとらえる。この狂気なくして、技術のみでは、真の詩人になり得ない。

だから神々による狂気を恐れてはならない。」という趣旨をソクラテスが述べている。シェリー

は当然これを念頭に置いていた。また、ワーズワスの “To a Sky-Lark” の 12-3行目には “There is madness about thee, and joy divine/In that song of thine.” とある。ワーズワスもヒバリの鳴き声に

は狂気と聖なる喜びがあることを認めている。ただし、同じヒバリを扱った詩でも、その評価

を軽々に下すべきではないかも知れないが、シェリーの方が内容と形式において優れている、

と判断せざるをえない。さらに付け加えるならば、シェリーは、イートン在学中に上級生によ

る fagging に反抗して Mad Shelley と呼ばれていたことも無関係ではあるまい。ともあれ、「諧

調的狂気」という忘れがたい表現は、単なる修辞の冴えを超えて、詩作についての根本姿勢を

問うている。この詩では、詩人に聖なる狂気を与えるのは、ミューズではなく告天子である。

Such harmonious madness とは、利害損得を離れ一心不乱に喜びの歌を歌う告天子に感化したシェ

リーの詩魂。従って、101 行目の gladness と韻を踏ませているのは絶妙の配置。

104. would: このスタンザは命令文で始まっている。その命令を肯定する場合(つまり、告天子が詩

人に教授してくれるならば)は and で応じる。従って、前行 Such harmonious madness の先頭に

And を想定すべき。この would は「そうすれば ... するであろう」の意。

105. should listen: これも命令文を受けて、話し手(詩人)の希望・意思を込めて「当然 ... するであろう」

の意。また listenの後に to meを想定する。シェリーは、自分の詩がたいして人気がないことを知っ

ていたが、作品の価値は posthumous(死語)に決定されるもの、と信じていた。

【試訳】

我らに教え給え 御み た ま

魂よ小鳥よ

  いかなる心地よき思いが御身のものなるかを

我は断じて聞いたためしなし

  恋や酒への祝ほぎうた

歌なんぞが

かくも聖なる歓喜となりて滔々と溢れ出い

づるを 65

祝婚の合唱も

  あるいは凱旋の詠唱も

御身の歌唱に比ぶればただ

  まったく虚ろなる大言壮語と

つまり我らは隠れたる欠落ありと感知する端は も の

物と成り果てむ 70

御身の幸多き調べの

  源おおもと

泉はいかなるものにかあらむ

そはいかなる野辺かあるいは波涛かあるいは山並か

  大空や平原のいかなる姿形か

御身の親う か ら

族に寄せるいかなる愛か 苦悩へのなんという無垢か 75

御身の明澄にして鮮烈な歓喜あらば

  憂愁は在りうべからず

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山梨大学教育人間科学部紀要 第 15 巻平成25年 (2013年) 度

焦燥の暗き影は

  御身には断じて近づかざりき

御身は愛す されど愛の飽満の哀しき嫌悪は断じて知らざりき 80

現うつつ

なるときもあるいは眠れるときも

  御身は死ぬることをはるかに

真正にして深遠なるものと思うに相違なし

  我ら人間ごときが夢想するよりも

さもなくばいかにして御身の音調はかほどの清澄なる流れとならむ 85

我らは来し方行く末を見渡しては

  在らざるものに恋い焦がる

我らが誠心誠意の笑いにも

  ある苦悩が混在す

我らが心しんそこ

底心地よき歌すらも心しんそこ

底哀しき思いを語るもの 90

さらにたとい我らが憎悪や

  傲慢や恐怖を蔑なみ

すとも

たとい我らが涙一滴こぼさぬ

  ものに生まれ来しとも

我は知らずいかにすれば御身の喜びに我ら近づけるかを 95

喜ばしき響き持つ

  すべての詩歌に立ち優らば

万巻の書を積み見い出さる

  百科の宝典に立ち優らば

もしも御身の技わ ざ

芸が詩人にとりてかくあらば 御身地上を貶さげす

む方かた

よ 100

されば我に御身の知力が知るべき

  その喜びの半ばたりともお教え下され

さすればかくも諧調せる狂気が

  我が唇からも流れ出い

でむ

さすれば世人も必ずや耳傾けむ 今し我聞き入りたるがごとくに 105