18
BEPPU CONJYAKU (1) 13 殿

sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

  • Upload
    others

  • View
    29

  • Download
    1

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

BEPPU CONJYAKU

旧国道物語り(1)

   

第二百四十二話●

人間は板橋、牛馬や車は川の中を…

   

第二百四十三話●

親族の票だけでも五千票持つ荒金市長

   

第二百四十四話●

自動車の制限速度が時速13キロ

   

第二百四十五話●

変転の歴史を歩いた竹の師匠たち

   

第二百四十六話●

文部大臣が小学生に暗算の質問

   

第二百四十七話●

元日には児童たちにも祝い酒を出した小学校

   

第二百四十八話●

明治時代に全国でも珍しい住宅頼母子講

   

第二百四十九話●

殿様よりぜいたくをした

              

「たばこ屋」一族の系図

   

「別府今昔」「オオイタデジタルブック」について

   

初版

二〇〇六年十一月十日発行

Page 2: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.�

 

府内街道の銭瓶峠から高崎山のふ

もとを赤松―赤野―

浜脇西町と結ん

だ旧国道は、西町のはずれで朝見川

の土手ぞいにおよそ一丁(百メート

ル)あがると庚神橋(現在は中央

橋)、橋といっても明治末期までは

荒い竹カゴに石をつめて沈めたのが

川の中に三、四個ならび、その上に

一枚板をつぎたしただけで、人間は

この板橋の上を渡り、牛馬や車はそ

の横の浅いところをジャブジャブと

川の中を渡っていった。

 

川を渡ると土手の所に石造りの庚

神仏がまつってあった。明治三十七

年に写した写真を見ると、この付近

にカワラぶきの家が一軒、ワラぶき

の住家三軒、納屋一軒だけ。国道の

南町はここから始まるが南町側の朝

見川の土手道が八幡朝見神社の「お

通り道」。朝見、田野口、浜脇、別

府の四カ村の境界を通る道順だけ

に、どの村にも公平なコースだっ

た。

 

庚神橋から朝見まで家らしい家が

なかったので、お祭りの行列が松原

のお旅所を出て土手の「お通り道」

人間は板橋、

牛馬や車は川の中を…

●旧国道物語り 

第二百四十二話

昭和四十年八月二日掲載

明治 37 年ごろの南町庚神橋付近

を「高張りちょうちん」の光りの列

になって八幡様に帰ってくるのが手

にとるようによく見えた。朝見神社

の伝承によるとずっと昔はこの道路

が狭くて石ころ道のため、夜間に行

列をつくって多くの人数で歩くのが

あぶなくて、「お帰り」も明るいう

ちに行なわれたという。

 

朝見神社の現宮司神喜久男

(七七)は「第三十六代」、世襲でつ

づく家系は同社の社史とともに貴重

な「歴史」文献の宝庫となっている。

お祭りの行事は昔から同社維持の家

式を持つ「神家(じんか)十六軒、

畑(はた)八軒」の人たちを中心に、

Page 3: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.�

れた朝見の山波を背景に、水害の心

配のない景勝の場所を選んだ山岳信

仰の形を持ち、樹齢七百年の古杉

や千年といわれるご神木の「クスの

木」など、別府住民の信仰を集めた

歴史とともに、村から町、町から市

へと発展した別府の姿を由緒の八幡

様は見守ってきた。

 

現主喜久男は大正から昭和の神社

経営にすばらしい手腕を残してい

る。

 

小学生時代に先生の態度がなっと

らんと腹をたて「番号」の号令で生

徒が順番に一、二、三…と答えたと

き、十五番目の喜久男が大きな声で

馬にまたがった宮司をかこんで各町

内の「高張りちょうちん」の列がつ

づいた。喜久男の時代からは行列に

も「文明」がとり入れられ馬に代わっ

て「人力車」が登場する。

 「お帰り」の行列が全員無事に八

幡様に帰りつき、やれやれといった

あんばいで町内ごとに朝見の坂を下

るころ、宮司の家はそれからがたい

へん、「神家(じんか)十六軒はじ

め供回りのおもな人たちを全員招い

た酒宴が行なわれた。

 

高膳(ぜん)で本膳ごしらえの料

理と神酒、この酒宴が午前二時ごろ

までもつづいた。あと片づけの女の

「一升五合」とどなって先生をジロ

リとにらみ返したのは古老の間にい

まも残る「きもっ玉の太い話」…。

人たちがカンピンをふいたりしてい

るうちに「一番どり」が鳴くことさ

えもあった。

 

八幡朝見神社の創立は建久七年十

月大友初代の能直(よしなお)が豊

後の守護職となったとき、鎌倉の鶴

ケ岡八幡を勧請、大友二十二代四百

年間、大友家の尊敬を集めて基礎

を固めたものだが、宇佐領との関係

を考えると、それ以前にも八幡様は

あったとみられ、それを大友家が再

興したという説もある。

 

初代の神主は福田(さいた)高政、

鎌倉からきた人で神一族の始祖、別

府一帯の山の中でも原始林につつま

Page 4: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.�

 

明治中期。庚神橋から「庚神仏」

と呼ばれる南町の一帯をすぎておよ

そ百メートルばかりの所が、このか

いわいで一番の旧家荒金一族の家。

「迫」(さこ)の荒金一門の系図で周

囲はたんぼばかりだった。

 

明治中期から別府、浜脇の大きな

建築を手がけた荒金作八の家とその

隣が本家の荒金兼太郎。作八夫婦は

子供がなかったので当時五歳になっ

ていた奥さんの妹の子啓治を養子に

して話題になったのは劇場の松擣館

はじめ、浜脇の登佐屋、海岸のみな

と屋、旅館泉孫、長松寺本殿の改修

など、そして跡取りの啓治も二十歳

のとき浜脇の泉丈旅館の三階建てを

設計した。

 

二階建てまでは県の許可は不要、

三階建てから県に設計書を出して

許可を得ねばならなかった。啓治

が設計した泉丈旅館が建ててから

四十四、五年にもなるのにビクとも

しないところをみると啓治の腕前も

相当なものといえよう。

 「迫の荒金」「河内の佐藤」という

二つの旧家は深い血縁で結ばれ、さ

親族の票だけでも

 

五千票持つ荒金市長

●旧国道物語り 

第二百四十三話

昭和四十年八月三日掲載

もらった。荒金啓治は永石の信用金

庫支店の近くに住んでいた荒金弥吉

のむすこ、子供のないオバの家によ

く遊びに出かけたが、そのまま養子

にもらわれた格好で、別府一番の棟

梁(とうりょう)の子として育てら

れた。

 

明治の文明開化が温泉町の家々を

新しい姿に変えていく時代だった。

作八の家には坂ノ市や大在の大工た

ちをまじえていつも四、五十人の常

雇いがいた。三度三度の食事から「コ

ビリ」のお茶の世話まできりまわす

ので家の者は朝早くから夜までヒマ

なしの忙しさだった。大きな仕事と

昭和四十年七月現在の庚神橋(

別名中央橋)

Page 5: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.�

らに「河内の佐藤」には赤野糸永本

家の系図の中の一人が「河内の佐藤

に入る」となっていて赤野糸永とも

無関係でない。

 「迫」から出てきた荒金一族はい

まや市長荒金啓治によって名門の系

図をほこっているが、浜脇から別

府、石垣、実相寺、亀川まで一族に

つらなる親類縁者は六百戸ほどもあ

り、選挙の票読みにすると五千票を

超えるという。

 

古い系図の家柄もかなり多いが、

荒金一族ほど系類の糸がはっきりと

つかめ、その糸が織りかさなりなが

ら近代でまた結びあうといったかた

ちの家系は珍しい。

 

作八の生まれ故郷は岡山県浅口

(あさくち)郡富田村字道口、旧家

の荒金家がいわば「流れ者」の作八

青年を養子にとったのは、作八の大

工の腕前があまりにもみごとなこと

と、誠実、努力、深い同情心など「世

にもまれな青年」としての作八に一

族の者が「ほれた」ためだった。

 

機械ノコのなかった明治時代に二

階や三階建ての大きな建てものを人

間の手でひくノコやノミ、カンナだ

けで造ることはたいへんな苦労だっ

た。啓治は作八や住み込みの大工の

苦労を見ながら育った。作八は製材

業もやっていた。青年時代の啓治は

木材の買い出しに大野郡から国東方

面まで走りまわった。

 

そして彼が二十一歳(大正六年)

のとき、別府で第一号の競走用オー

トバイを商売用に買ってもらった。

いまのようにスピード制限がなかっ

たので大きな爆音をたててぶっとば

した。

 

当時のオートバイは免許不要の無

免許運転。自動車やオートバイが珍

しい時代だけに人間もびっくりした

が、犬はもっとびっくりしてどこ

の町でも犬にほえつかれた。モダン

ボーイの啓治もこの犬どもには手を

焼いた。啓治は市長に当選すると第

一番に全国にさきがけて犬をつなぐ

「畜犬条例」をつくった。よほどこ

たえたものらしい。

Page 6: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.�

がどんなものだったかがわかる。た

だしスピード違反は昔も同じでかな

りのスピードを出していたらしい。

 

西町から南小学校前を通る南新道

ができると庚申橋-南町のコースよ

りも便利がよいので、西町裏通り―

朝見川橋―

南新道が新国道となり、

朝見川橋の橋のたもとに別府町、浜

脇町学校組合立の別府工業徒弟学校

が開設されたのは明治三十五年二月

二十六日。もちろん当時はまだ自動

車はなくて、開校式には両町の有力

者たちは人力車で乗りつけた。

 

朝見川橋は幅も広く、ランカンが

しゃれた鉄製で、工業徒弟学校のモ

 

大正七年七月十三日に出た自動車

取り締まりに関する条例で初めてス

ピード制限が示されたが、それによ

ると市街地は一時間八マイル(十三

キロ)、その他は十八マイル(三十

キロ)。自動車そのものの馬力も弱

かったが市街地が時速十三キロでは

走った方が早かった。

 

このごろの駅伝競走の選手のス

ピードが平均二十二、三キロで走っ

ていることを考えると初期の自動車

ダンな建て物とともに朝見川畔で一

番文化的なムードを出していた。高

度な産業教育機関としては大分県で

初めての学校だけに見学者も多く、

明治四十年十一月には皇太子殿下

(のちの大正天皇)が立ち寄られて

生徒の製作品をお買い上げになった

こともある。

 

徒弟学校は開設当初、指物(さ

しもの)十一人、ひき物五人、漆

(うるし)五人、蒔絵(まきえ)二

人、竹藍十一人の五科三十四人の生

徒でスタート、明治三十九年四月

に別府、浜脇両町の合併を機会に別

府町立となって建築科を追加、明治

自動車の制限速度が

     

時速13キロ

昭和四十年八月四日掲載

旧国道物語り 

第二百四十四話●

朝見川橋畔にあった明治 37 年ごろの別府工業徒弟学校

Page 7: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.�

という名人芸の人が竹を美術工芸の

線に引きあげる努力をかさね、そ

のでしに大分県が生んだ日本の名人

「生野祥雲斎」が若い芽をのばして

いた。

四十三年四月に県立に移管、大分県

立別府工業徒弟学校と改称、大正四

年四月に生徒定員百五十人、名前を

県立工業徒弟学校、そして同年十二

月に大分市との話し合いで、大分に

ある物産陳列所を別府にもらう条件

で徒弟学校は大分市南勢家に移っ

た。

 

この徒弟学校が大正七年四月に甲

種工業学校の認可を得て大分県立大

分工業学校、現在の工業高校であ

る。

 

日本における産業革命の波をいち

早くキャッチした先覚者たちは別府

の産業構造をこの工業徒弟学校を中

心に考えたが、明治四十年の入学者

百九人のうち卒業したもの三十四

人、しかも竹藍科では市場が狭いの

に竹細工の技術者が次々に卒業した

のでは過当競争が起こりメシのくい

上げになるというので明治三十七年

竹藍科を廃止したこともあった。

 

このとき失業した竹の先生を手島

森太郎がやとって別府竹製工芸研究

所をつくったのが、別府の竹製品

の量産と質の向上に大きな役割りを

果たしながら昭和前期まで「竹の別

府」の名声を天下に高めた。

 

手島はのちに浜協出身の市会議員

として議長までつとめ、永年勤続議

員のトップに立った円満な人格者、

経済人としても広い視野を持ってい

た。

 

生まれ故郷の別府をあとに少年時

代を下関の貿易商社で働いた手島

は、別府に帰ると特産の竹に目をつ

け、竹工芸を別府の産業の主体に考

えた。全国の博覧会や共進会を捜

し求めるようにして宣伝旅行をつづ

け、入湯にくる宮様方のみやげ物に

も献上を忘れなかった。北は北海

道、それに朝鮮、満州でも見本市を

開いた。

 

このような竹工芸の量産と販路拡

大の努力に並行しながら佐藤竹邑斎

Page 8: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.�

変転の歴史を歩いた

竹の師匠たち

旧国道物語り 

第二百四十五話

昭和四十年八月五日掲載

細工が産業工芸に発展、さらに美術

工芸の分野にまで進出しようとした

明治末期から大正時代の別府の竹工

芸は、技術の主流が大きく三つに分

かれていた。

 

A…不老町の室積小太郎

 

B…羽衣町の橋本啓次郎

 

C…別府駅前の桐野安太郎

 

この三人の師匠たちにそれぞれす

ぐれた「でし」がいた。室積には名

人といわれた佐藤竹邑斎(ちくゆう

さい)、本名を千代馬といい、のち

に「智世太」と名乗った。晩年の号

を竹邑斎、若いとき別府から一時東

京をぶらついたこともあったがまた

 

近代産業として竹工芸が発展する

以前、竹細工と呼ばれていたように

昔はミスやスダレ、ミソコシの類だ

けだった。

 

ただしミスとスダレは徳川後期、

別府や浜脇の入湯みやげとしてはか

なり有名だった。客の見ている前で

実演しながら紋切り型を使って客の

注文する定紋(じょうもん)をいぶ

し染めにして売っていたという。

 

百十八年前の弘化年間(一八四七

年)ミスやスダレの製造に乗り山し

た在原某という人が、入湯みやげに

始めたのがその元祖といわれ、別府

市では市制二十周年記念のとき在原

の系図をひく松原町の得丸積を産業

功労者の家系をつぐ人物として表彰

した。同家が店を出していた楠本町

六丁目では町内から産業功労者を出

したというので大よろこび、高級座

ぶとん二組を花輪のように飾り立て

て得丸におくった。

 

工業徒弟学校ができてから竹工芸

の分野に花器などの新しい技術が登

場、手島森太郎は技術者の養成と販

路拡張に独特の手腕を発揮した。竹

別府名産の竹工芸品

Page 9: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.�

別府に落ちついた。この人の一番「で

し」が生野祥雲斎。

 

橋本の流れでは佐藤竹邑斎と並び

称された岩尾直、号を好竹斎のちに

光雲斎と改めたが、岩尾の流れは二

男の勝太郎が家系をついでいる。光

雲斎(六五)は現存する師匠のな

かの最長老、長男の秀樹が絵かきに

なって大分県が期待する国画会の中

堅「岩尾秀樹」。

 

桐野の仕事場は別府駅前、現在山

名ラジオのある通り、菓子型製作で

有名な大倉製作所の前にあった。桐

野は松山の生まれ、一番「でし」に

平原幸一がいた。平原は竹筍斎(ち

くじゅんさい)と号したが、現在は

竹工芸の仕事からはなれている。

 

竹工芸の歴史の中で太平洋戦争は

大きなブレーキになった。不急産業

のレッテルをはられて技術者は戦場

や他の軍需工業に出ていった。原料

や製品を運ぶ輸送面でも最低の取り

扱いを受けた。そして終戦を迎えた

あと、第二の大きな波「プラスチッ

ク製品」が家庭用の竹細工の上にの

しかかってきた。

 

潮がひくように台所から消えた竹

製品、手島森太郎らが明治―

大正―

昭和前期にかけて開拓した販路は夢

のように消えるのか…暗い運命が別

府の竹工芸関係者をおびえさせる数

年がたったが、技術を高める運動と

国内需要の新しい動向、それに海外

貿易、三田川産業らを中心とする近

代企業者たちの努力が局面を打開し

ていった。

 

終戦直後、生野祥雲斎が発案した

「鉄鉢盛りかご」も大きな流行を全

国に巻き起こした。

▽主(ぬし)は若竹、ひごろ寒竹、

 

ぐちをいうのが女竹

 

もうそう、はちくの竹までも

 

義理をつらぬく男竹

▽雪折れ笹にむらスズメ

 

せめて今宵は七夕の一夜竹

 

竹は新しい時代を迎えたが、歴史

の変転をくぐり抜け竹職人に歌われ

てきたこのような「小唄調」の竹の

古歌は岩尾直(光雲斎)のしぶいノ

ドによって正確に伝えられている。

「竹の別府」に伝承しておきたい貴

重な古歌といえよう。

Page 10: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.10

 

旧校舎を工業徒弟学校に譲り、向

かい側のたんぼの中に新築されたの

が浜脇小学校。

 

創立当時は浜脇の河内川のほとり

の修福寺にあって修福寺学校と呼

ばれた時代もあったが、南町の南

新道ぞいに落成式をあげたのは明治

三十四年三月二十三日。近代的な新

校舎ができあがったので浜脇町では

別府町に対して鼻高々で自慢、お祝

いのモチまきも西町の平尾謙平の所

旧国道物語り 

第二百四十六話

昭和四十年八月六日掲載

文部大臣が

小学生に暗算の質問

でついて、大八車に山盛りつみ、児

童がそのモチ車に綱をつけて掛け声

も勇ましくひいた。

 

明治三十九年四月一日浜脇町と別

府町が合併したとき、浜脇小学校

の名前も別府町立南尋常小学校に変

わった。

 

明治十三年三月一日の創立だから

別府では一番古い歴史を持つ小学校

だった。学校の新校舎の前にただ一

軒の民家「加賀タタミ屋」がポツン

と立っていた。それから永石までほ

とんどがたんぼだった。

 

浜脇小学校がまだ旧校舎時代の明

治二十年二月二十五日に文部大臣森

有礼が視察にきた。そのときの学校

日誌をみると大臣は校長室で職員一

同に訓示をしたあと、狭い教室を一

つ一つ回り、おしまいには自分で教

壇に立った。先生も児童もびっくり

したが「諸君、わがはいがこれから

算術の暗算を質問する。できた者は

手をあげよ」…。

 

遠い明治中期の話ではあるがカス

リの着物をきた鼻たれ小僧の小学生

を相手に、教壇に立った鼻ヒゲにフ

ロックコートスタイルの大臣と、暗

算に答える小学生。…日本を文明開

化にするための努力が、国をあげて

教育問題を考えさせた明治中期のほ

南小学校の創立当時。校舎になった修福寺

Page 11: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.11

大きなおきゅうをすえられ、まった

く泣きづらにハチだった」。

 

封建時代とはいえ、昔は小学校の

バツがウソのようにきびしかった。

ほえましい情景だった。

 

そのころの校長先生の月給が十

円、次席の先生が八円、代用教員は

二円五十銭ぐらい。

 

浜脇小学校に教育勅語が伝達され

たのが明治二十三年、そしてこの年

から国歌「君が代」を女子児童だけ

に歌わせた。…別府の人たちが教育

勅語と「君が代」というものに初

めてお目にかかった歴史的な年であ

る。

 

ところがその年の末に三百二十四

人いた児童が翌年末に二百十四人に

減った。原因はそれまで無料の月謝

を二十四年度から四銭とることにし

 

明治三十年ごろの思い出ばなしに

よると一番の重罰は教室の床下に入

れられることだった。しかし元気の

いい児童は床下をはいまわって「石

筆(せきひつ)」を拾ったりした。うっ

かりして先生が床下の児童を忘れた

まま帰ると、親が「ちょうちん」を

さげて捜しにきた。

 

当時「床下のバッ」をよくくって

いた浜脇のT氏(故人)

の「小学校

の思い出」の中に「床の下で夜にな

り、心細かったが、ちょうちんをさ

げて家の人が迎えにきてくれたので

ホッとした。ところが家に帰ったら

家でもたいへんしかられ、おしりに

たためで、向浜の貧しい漁師の家の

子はほとんどやめてしまった。体操

の時間になるとはおりハカマ姿の先

生がハカマのスソをからげ、タスキ

をかけて号令をかけた時代だった。

 

秋の運動会は北小学校と合同で別

府公園に出かけた。

 

町民の慰安もかねた運動会で、弁

当だけでなく酒も持参したので、午

後の部になると酔った父兄が飛び出

した。当日の別府公園は松の大木の

こずえに日の丸の大国旗を立てるの

が習慣になっており、両方の小学校

から木登りのじょうずな若い先生が

選ばれた。

Page 12: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.1�

 

大正十年ごろから南尋常小学校が

「算術の学校」として全国的に話題

を呼んだことがある。

 

河野三五郎という熱心な数学の先

生がいて、つるかめ算を中心に独特

な算術教育法を展開、ひどいときは

三時間連続で算術を教えたりするの

で児童はかなりへこたれたが、算

術の実力は大いについたらしく、全

国から参観にくる先生たちもびっく

り、ウワサはウワサを呼んで多い日

バンをやるなど当時の別府では音楽

文化運動の第一人者だった。松栄館

を借りて教え子といっしょに音楽と

バレエの夕べを開い

たこともあった。

 

この平岡の子が僧

籍に入って禅海和尚

で有名な湯布院町の

禅寺「興禅院」の現

住職「平岡虎峰」。

 

小学校の校史とい

うものはその地域社

会の貴重な歴史を形

成しているが、南校

の場合も古い学校日

は数百人も参観者が詰めかけた。

 

この時代、同校に在職したM先生

の思い出の記に

 「参観者は日を追うて多人数とな

り、その応接に目の回るほどの忙し

さ。近所の飲食店は昼食を運ぶのに

大繁昌、一部の旅館は満員になるほ

どだった」…

 

そして当時の南校には音楽教師に

平岡繁、植物に加藤嘉一郎という有

名な教師もおり、河野とともに「南

校の三羽ガラス」と呼ばれた。平

岡はバイオリンをひき、バレエを教

え、梅田凡平らと満州や朝鮮まで出

かけて別府の宣伝と児童文化キャラ南小学校の大ソテツ

昭和四十年八月七日掲載

旧国道物語り 

第二百四十七話

元日には児童たちにも

祝い酒を出した小学校

Page 13: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.1�

誌をめくるとおもしろいものが多

い。

ん坊をおんぶし、小さい弟妹の手

をひいて登校し、廊下で子もりを

しながら授業を受けたり、自分の

机の横にすわらせていた(このよ

うな情景は大正時代までよくあっ

た)。

明治二十五年、礎正吉という若い

先生が初めて背広の洋服を着て登

校、他の先生も児童もびっくりし

た。ネクタイというものを初めて

見た児童たちはワイワイ騒ぎなが

ら先生をとりまいた。礎先生大い

に得意そうに校内をやたらに歩き

まわった。

明治三十五年ごろの女子児童の服

装は木綿手織りの着物に「くけ

帯」を貝の口にしめ、前掛けをか

け、手ぬぐいを腰にさげて学用品

はふろしき包み、げたか「ぞうり」

ばき、髪は「おけし」「おさげ」「と

んぼ」「どじょうのぼり」「おもい

づき」「うしろわけ」「ちごわ」

帰校の途中他校の児童から「浜脇

学校突っ張り学校」と悪口いわれ

た児童が心配になって学校まで引

き返し、校舎をぐるっと回ってみ

て突っ張りがしてないので大いに

安心、「どこにも突っ張りがない」

といばって歩いた。

高橋欽哉、山田耕平、永井相次ら

浜脇の金持ちの若ダンナ三人が組

み、「二週間十五円」という高額

の教授料を納め、自転車を借り、

自転車乗りのけいこを浜脇小学校

の校庭でやっていた(明治三十年

ごろ)…。

一月一日、新年の四方拝の日に

小学校でお祝いの酒が児童にも出

た。赤いサカズキが次々と回され

酒のサカナに目刺しまでついてい

た(明治二十七年ごろ)

別府と浜脇は何かにつけて対立し

ていたが、双方から成績のよい児

童を選んで両町対抗学科大試験を

やった。試験科目は算術、国語、

作文(明治二十四年ごろ)。

イリコが豊漁の日は向浜の漁師の

子はほとんど学校を休んだり、赤

▽▽

▽▽ ▽▽▽

Page 14: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.1�

三十年代にこのような進歩的な町づ

くり制度を考え出したことは全国で

も珍しい。

 

荒金作八の家からたんぼをへだて

て「こう屋」の高橋金吾との間に朝

見川の小さな支流が流れていた。「こ

う屋」の仕事にはこの支流の水が使

われたが、たんぼのアゼ水のような

支流の水でもゴミ一つ流れていない

ので飲料水にも使われた。「こう屋」

の三代目が高橋賤蔵(七三)、その

長男の剛一がクリーニング店「ホー

ムランドリー」を経営している。

 

ここから朝見への道筋に「潮地

蔵」がある。

 

南町は単に「南」と呼ばれて旧

国道筋の中では一番実力のある町筋

だった。一つの通りに祭りの山車(だ

し)が「御酒山車(みきやま)」「三

昧線山車」「大山車」と三台もあっ

て小さいこどもから、女子、青年、

中老、古老がそろいのユカタで繰り

出した。山車を納めるりっぱな格

納庫が秋葉神社の境内に設けてあっ

た。

 

祭りのときには南の全町民が参加

する格好で、旧国道を野口の方まで

にぎやかな「はやし」といっしょに

行進、甲斐仁右衛門の油屋付近から

引き返して、ぞろぞろとまたもとの

道を松原のお旅所まで引き回した。

 

明治三十二年ごろの記録による

と、南の町筋に点在しているワラぶ

きの家を近代的なカワラぶきの家に

改築して、町筋をりっぱにするため

町内に「改良講」という頼母子講が

つくられている。世話人は「南の紺

屋」で有名な「こう屋(染めもの屋)」

の高橋。日掛け金額は五銭と十銭の

二種類、現在の住宅金融公庫のよう

な役割りを果たしていたが、明治

●旧国道物語り 

第二百四十八話

昭和四十年八月九日掲載

明治時代に全国でも珍しい

     

住宅頼母子講

時勢の波に流される潮地蔵

Page 15: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.1�

らこの社宅の前の横丁を入ったとこ

ろに、昔ながらの二本の古松に抱か

れるようなかたちでひっそりとまつ

られている。

 「南無延命潮地蔵尊」…洪水の流

れから町を守ってくれたお地蔵様が

いまでは時代の流れに押し流されて

いる。

 

松原一帯が海岸の時代、台風のた

びに打ち寄せる大波と高潮が住民の

恐怖だったころ、朝見一帯の土手が

切れるたびに南町も洪水に見舞われ

ていた。潮地蔵は海岸近くから現在

の場所に移され、朝見の御幸橋付近

の一番切れやすい土手を守る守護地

蔵としてまつられた。

 

大正から昭和へ―

別府の町づくり

が進み、朝見川の堤防工事がりっぱ

になってくると潮地蔵の存在も住民

から忘れられてきた。

 

明治の昔(三十六年)大きな水害

のあった年に御幸橋のたもとの「い

さやん」のワラぶきの家が土台もろ

ともあっというまに流されたとき

は、地蔵様側の住民たちは向かい

岸のこの惨状を見ながらお地蔵様に

安全を祈願、線香や供え物が絶えな

かったという。

 

周囲にしだいに家が建ちならん

できた昭和三年、朝見生まれの大

野光正という信仰の厚い人が玉がき

(垣)の建設を思い立って、南町か

ら楠銀天街などに寄進を求めて歩い

た。ところが、ちょうどその時代は

大正末期からつづいた深刻な不景気

のため寄付金が集まらず、玉がきが

でき上がるまでには、相当の苦労を

した。

 

そのとき寄付問題で亀の井バスを

たずねたこの大野光正が、不景気を

嘆く油屋熊八と重役の薬師寺知朧に

「遊覧バスの中で女車掌に歌わせた

ら人気が出るじゃろう」と貴重なヒ

ントをあたえたという話が残ってい

る。

 「お地蔵様をもっと大切にしない

とバチが当たるぞ」と大野老人はそ

の後も潮地蔵の堂もりをしながら別

府のめまぐるしい変転のなかに数年

前他界した。

 

永石通りから御幸橋に入る百メー

トルほど手前に、関西汽船の新しい

社宅がならび、潮地蔵は永石通りか

Page 16: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.1�

ばこ屋の土地」とまでいわれた大豪

商たばこ屋荒金一族の家なみが、ひ

ときわ高くならん

でいた。

 

府内藩の殿様の

住んだ大分市の荷

揚城内の御殿も小

藩のため「別府の

荒金たばこ屋」一

族の住居におよば

なかった。

 「荒金たばこ屋

およびもないが、

せめてなりたや殿

様に」

 

別府警察署が永石通りに新築され

たのは明治二十六年三月だった。昭

和四年七月に現在の場所に移るまで

三十八年間を永石通りですごした。

そしてその跡に現在の永石温泉が開

設された。

 

警察署の跡の利用が問題になった

とき、県ではカトリック教会に払い

下げる計画を示したが、教会よりも

共同温泉を切望する地元の有志が、

荒金作八はじめ藤沢徳三、河村観

分家荒金辰十郎の建て

物の一部が残っている

長寿ミソの坂本商店

殿様よりぜいたくをした

  「

たばこ屋」一族の系図

旧国道物語り 

第二百四十九話

昭和四十年八月十日掲載

三、平居伊三郎の四氏に頼みこみ、

この四人の出資で用地を確保、念願

の永石温泉が設けられた。

 

南町かいわいは生活の豊かな連中

が多かったので若い者たちの間に

「ニワカ」と喜劇のしろうと劇団を

つくって町内をねり歩いたりお盆行

事に寸劇を演じたりした。日露戦争

の戦勝祝賀行事(明治三十八年)の

とき南町青年会の「ニワカ」は別府

でも一番の人気を集めた。

 

そしてこの南町から中町にかけて

旧国道の中心地帯に殿様の御殿より

も豪華けんらんの大建築と、別府の

町全部の土地のうち九割までは「た

Page 17: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.1�

 

というような歌の文句が残ってい

るのは「つくり話」のようなほんと

うの話である。

 

殿様よりも「ぜいたくな生活」を

した「荒金たばこ屋」最後の直系五

郎が明治時代まではなやかな話題を

残しながら、大正時代に入ってつい

に一文無しの哀れな姿で他界、一門

の栄華の歴史を閉じた話は、別府生

まれの老人ならだれ一人知らない者

はない。

 

ただ不思議なことは江戸時代から

明治にかけて数百年つづく「たばこ

屋」の歴史が古老の伝承、しかも江

戸末期あたりからのものしかなく、

全国にも珍しい大金持ちの「たばこ

屋」物語りを正確な歴史考証のうえ

から解明したものがきわめて少ない

ことである。

 

▽江戸時代「ラン」の愛好家たち

が珍重した「松葉ラン」の一種が別

府の鶴見山の絶壁に群生していたの

を「たばこ屋」がひと手に集めて江

戸に送った。このランは「たばこ屋

ラン」と呼ばれ、一株で別府の田畑

が一ヘクタールも買えるほどの高価

なものだった。「たばこ屋」はこの

ランによって別府の土地のほとんど

を買いしめた。…というはなし。

 

▽大友宗麟が外国貿易をやった

とき別府湾にきたポルトガル人が

タバコを初めて大分県に持ってき

た。日本に入ったタバコは天正年間

(一五七三-一五九二年)に渡来し

たポルトガル船の船員によったとい

われており、タバコの歴史では大分

県は全国の先進地。このタバコの栽

培か、集荷の権利を江戸後期から得

て屋号を「たばこ屋」と名乗り、財

産を蓄積した。

 

▽江戸後期から酒の製造で財産を

ふやした。

 

このようなさまざまな物語りを伝

える「たばこ屋」…

 

ところがこの「たばこ屋」の「荒

金家代々系図」という貴重な古文書

が、同家ともっとも縁の深い本町の

西法寺でこのほど(昭和四十年七

月)発見された。

 

秘密のベールに包まれた「たばこ

屋」の実体を系図が初めて解いてい

く。

Page 18: sss s ssssssssssssss sss ù Ä Åj sss ù Ä ¿ Åj sss ù Ä …ssssssssssssss # ¨¹ # _ · Ë s ss # E» %# # êêäÿøÿ+ #-ï# ´ ¯ sss ? yyÁ0 _ 大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

P.1�

大分合同新聞社「別府今昔-旧国道物語り(1)」

 オオイタデジタルブックは、大分合同新聞社と学校法人別

府大学が、大分の文化振興の一助となることを願って立ち上

げたインターネット活用プロジェクト「NAN-NAN(なんな

ん)」の一環です。NAN-NAN では、大分の文化と歴史を伝承

していくうえで重要な、さまざまな文書や資料をデジタル化

大分合同新聞社 別 府 大 学

して公開します。そして、読者からの指摘・追加情報を受け

ながら逐次、改訂して充実発展を図っていきたいと願ってい

ます。情報があれば、ぜひNAN-NAN事務局にお寄せください。

 NAN-NAN では、この「別府今昔」以外にもデジタルブッ

ク等をホームページで公開しています。インターネットに接

続のうえ下のボタンをクリックすると、ホームページが立ち

上がります。まずは、クリック!!!

■別府今昔

 

大分合同新聞夕刊に一九六四年

十一月一日から一九六五年十二月

四日にかけて連載された記事。明

治大正のころを知る三百六十九人

に対する取材をもとに、同紙の故

是永勉氏が書き上げた。挿し絵は

大分大学教授だった故武藤完一氏

が担当した。

©大分合同新聞社

 

デジタル版

  

「別府今昔」旧国道物語り

(1)

   

二〇〇六年十一月十日初版発行

  

著者  

是永 

  

さし絵 

武藤 

完一

  

編集 

大分合同新聞社

  

制作 

別府大学情報教育センター

  

発行 

NAN‐NAN事務局

     〒八七〇‐八六〇五

       

大分市府内町三‐九‐一五

       

大分合同新聞社 

総合企画室内

 

問合・情報提供はこちらからも→クリック