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Dufu (712-770)’s Poetry and His Life (2) Sueki FURUKAWA 16 http://portal.dl.saga-u.ac.jp/ bitstream/123456789/118575/1/furukawa_201108.pdf 1021 _ J. Fac. Edu. Saga Univ. Vol.16, No. 2 2012)(15)~(36) 176(15)

Sueki Fportal.dl.saga-u.ac.jp/bitstream/123456789/119427/1/...杜 甫 の 詩 と 生 活 ( 二 ) ( 現 代 文 に よ る 新 し い 訓 読 の 試 み ― 漢 文 教 育

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杜甫の詩と生活

(二)

(現代文による新しい訓読の試み―漢文教育の一探求として)

Dufu

(712-770)’sPoetry

andH

isL

ife(2)

SuekiFU

RU

KA

WA

『要旨』

本稿は、本誌前号の『佐賀大学文化教育学部研究論文集第16集1号』

(2011年8月)に掲載した「現代文による新しい訓読の試み―漢文

教育の一探求として―杜甫の詩と生活(一)」(http://portal.dl.saga-u.ac.jp/

bitstream/123456789/118575/1/furukaw

a_201108.pdf

)の続編である。依拠

したテキストや訳注本、また体裁等は前稿に同じである。一部、詳注本

を取らず、他のテキストに拠ったところがある。詩の背景や交友関係に

ついては、陳冠明・孫

『杜甫親眷交游行年考

外一種

杜甫親眷交

游行年表』(上海古籍出版社、二〇〇六年)をも参照している。毎章の

中心には、詩の原文とその伝統的な訓読を示し、次に段落をかえて、本

稿で新しく試みる現代文による訓読、その後に注解も含めた解説的な口

語訳をおいている。詩の前には、詩の外側に属する大ざっぱな伝記的状

況を説明し、詩の後には、詩の中味や表現について、私の思うところを

いささか書きつらねている。また注を付けないのも、前稿と同じである。

桃の花

開いて

あるじ無し

﹇1021_

江畔獨歩尋花七絶句﹈其五、其七

上元二年(七六一)、成都草堂二年目の春、杜甫は浣花渓の春景色に

魅了され、気も狂わんばかりになっていた。この爛漫の春光を分かち合

こくしゆう

おうと、飲み友達の斛斯融の家を訪ねていったが、あいにく彼は十日あ

まり前に、家を出たままであった。

杜甫はやむなくひとりで、咲きほこる花に包まれた、浣花渓の河畔を

歩いて行った(其二)。さらに進めば川も深くなり、竹林の静かなたた

ずまいには、二、三軒の家があった(其三)。東の成都の少城の方角を

眺めると、春霞が立ちこめている。誰かその高楼に、舞姫を呼んで酒宴

を開き、私を招待してくれないものかと想像した(其四)。黄という名

の和尚の仏塔の前を通り過ぎ(其五)、黄四娘と呼ばれる婦人が切り盛

りする、おそらくは酒屋に立ち寄った(其六)。

J. Fac. Edu. Saga Univ.Vol.16, No. 2(2012)(15)~(36)176(15)

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杜甫はこの濃艶な春色のなかで、ほとんど躁状態になって河畔を歩き

回り、当地の民間の艶歌である「竹枝詞」をもとにして、七首の絶句の

連作詩を作った。次に掲げるのは、其の五と其の七である。

こうはんどっぽ

はな

たず

しちぜっく

江畔獨歩尋花、七絶句

江畔独歩して花を尋ぬ、七絶句

其五

其の五

こうしとうぜん

こうすいひがし

黄師塔前江水東、

黄師塔前

江水東し

しゅんこう

らんこん

びふう

春光懶困倚微風。

春光に懶困して

微風に倚る

とうかいちぞく

ひら

しゅな

桃花一簇開無主、

桃花一簇

開きて主無し

しんこう

あい

せんこう

あい

可愛深紅愛淺紅。

深紅を愛す可きや

浅紅を愛すべきや

かわ

ほとり

ひと

あゆ

はな

たず

なな

ぜっく

江の畔

独り歩み

花もとめ

尋ねゆく、七つの絶句、其の五

こうおしょう

とう

まえ

かわ

みず

ひがし

黄師

ほうむらるる

塔の前

江の水は

東にながれ

はる

けしき

ものう

つか

かすか

かぜ

春の光に

こころ懶く

からだ困れ

微な風に

みを倚せまかす

もも

はな

ひとむらが

ひら

あるじ

桃の花

一簇り

さかんに開き

はなの主の

いますこと無し

ふか

くれない

あい

あさ

くれない

深き紅を愛す可きや

はたまた浅き紅を愛すべきや

「浣花渓の岸べをひとり歩きつつ、春の花々をたずねゆく」その五

黄という名の和尚が葬られている、仏塔の前までやってくると、川の

水が東へ東へと流れていた。わたしはあでやかな春景色に、ものうく疲

れを感じ、吹かれるままにわが身をそよ風のなかにおいていた。

所有者もいない桃の花が、野辺にひとかたまりむらがって、誰のため

というわけでもなく、今をさかりに咲きほこっている。濃いくれない色

のほうを愛すべきか、それとも浅い薄くれないのほうを愛すべきか。ど

ちらがよりきれいなのか迷ってしまう。

しち

其七

其の七こ

はな

すなわ

ほっ

あら

不是愛花即欲死、

是れ

花を愛して

即ち死せんと欲するには

ずた

おそ

はなつ

ろうあ

もよお

只恐花盡老相催。

只だ恐る

花尽きて

老相い催すを

はんし

ようい

ふんぷん

繁枝容易紛紛落、

繁枝は容易に

紛紛と落つ

どんしん

しょうりょう

さいさい

ひら

嫩蕊商量細細開。

嫩蕊は商量して

細細に開け

なな

其の七

はな

あい

すぐさまし

花を愛するや

あいして即死せんと欲るほどなるも

いまは是れ

あら

には不ず

はな

われ

もよお

おそ

尽きれば

老いの

さらにまたひとつ

相に催すを

只だ恐る

るのみ

しげ

えだ

たやす

ふんぷん

繁れる枝に

さくはなは

いとも容易く

紛紛とみだれて

ちり落

つらん

うらわか

はな

かんが

はか

すこ

すこ

ひら

嫩き

蕊のつぼみよ

商え量りて

細し細しに開けよ

死ぬほどわたしは花を愛しているが、いまわたしが言いたいのはそう

いうことではない。花が咲き終われば、またわたしはひとつ年老いてし

まうことになる。そのことをわたしは恐れているのだ。

盛んに咲きほこる枝からは、花は紛々といりみだれ、いともたやすく

散り落ちてしまいやすいもの。花のつぼみたちよ、よくよく考えて、ど

うか少しずつ花を咲かせておくれ。

其の五の詩には、黄師という固有名詞が突然出てくる。しかもそれは、

当地の人しか知らないような非常にローカルな、具体的な人名である。

普通、抒情的な詩には、固有名詞はあまり使われない。作者の抒情の普

遍性を強調するためには、個別的な事柄はない方がいいからであろう。

たとえばこの連作詩の其の一でも、春景色を共に楽しもうと「南の隣の

現代文による新しい訓読の試み (16)175

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酒を愛する伴(ともがら)」を誘うと書いてあり、具体的な人名が書い

てあるわけではない。普通はそのような書き方がなされるであろう。そ

の友人の名前が斛斯融だと分かるのは、杜甫の自注が付いているからで

ある。

にもかかわらず、黄師という固有名詞が書かれたのは、意図するとこ

ろがあったのだと思う。杜甫が浣花渓のほとりを歩いたその日その時、

たまたま、本当に黄師の塔の前を過ぎたという事実を、そのまま書いて

いるというスタンスの表明といってよい。そうした事実の偶然性を大事

にしている。そのことによって、詩に個別性が与えられる。このとき感

じた杜甫の感情は、誰のものでもない、自分自身のものだというような。

これも杜甫の試みの一つかもしれない。

世話してもらう主人もいない、桃の樹が打ち捨てられている。それに

もかかわらず春ともなれば、盛んに紅の花を咲かせる。そのなんと美し

いことか。杜甫は思わず自分のものにしたいと思ったのだろう。深紅も

いいし薄くれないもいい。どれが最もいいのかを決めるのは不可能で、

杜甫はこんな些細な事で真剣に迷っている。しかし実はこんな事で、悩

みを感じるのも私たちによくある事実。そこが人々の共感を生むところ

であろう。あれにしようか、これにしようか、といういわば贅沢な悩み

が、「愛〜紅」の民歌調の繰り返しによって、心地よいリズム感を生み

出している。

其の七の詩、花への執着を死と結びつけるところは、わが西行の「願

はくは花の下にて春死なむ

そのきさらぎの望月のころ」(続古今和歌

集)を思い起こす。

花よ、君たちは散りやすいのだから、後先のことを考えて、どうか計

画的に散っておくれと願うのは、理知的、説明的な言い方であり、宋詩

への連続を思わせる。花が散り終わると、またひとつわたしは年を取っ

てしまうからという衰老への恐れは、杜甫に特有な感情というよりは、

中国の詩人にしばしば見られるところである。

老いたる妻と小舟に乗る

﹇1022_

進艇﹈

ひきつづき、上元二年、浣花草堂の二年目である。春が過ぎて夏にな

り、杜甫は都長安から、遠く南へ離れた成都の地で、二度目の夏を迎え

ている。二年前、天子のおそば近く仕える左拾遺から、華州の地方官へ

と左遷され、杜甫はみずからその官を辞し、成都に流れきて、今はこの

地でなかば農夫となった気持ちで、隠遁の身である。故郷の洛陽をはじ

め、長安の北方方面は、いまだに反乱軍の手中におちたままである。草

堂の北の窓べにすわって、北の方角を眺めやれば、そのことに自然に思

いが到り、悲しみがまたこみ上げる。しかしそんなときでも、この質素

な隠遁生活に楽しみを見出すことができる。そしてそれが杜甫の悲しみ

を慰めてくれるのである。

ある日、杜甫は小舟を手に入れ、草堂のそばを流れる浣花渓に浮かべ

て、妻と一緒に舟遊びをした。自分の子供らが川辺で水遊びしているの

が見え、蝶々がたわむれつつ飛び、ハスの花が仲良く花ひらいていた。

しんてい

進艇

進艇

なんけい

きゅうかく

なんぽ

たが

南京久客耕南畝、

南京の久客

南畝に耕やし

ほくぼうしょうしん

ほくそう

北望傷神坐北窗。

北望傷神して

北窓に坐す

ひる

ろうさい

しょうてい

晝引老妻乘小艇、

昼には

老妻を引いて

小艇に乗り

せいこう

よく

晴看稚子浴清江。

晴れには

稚子の

清江に浴するを看る

とも

ちょう

もとあ

倶飛

蝶元相逐、

倶に飛ぶきょう

蝶は

元相い逐い

へいてい

ふよう

もとおのずか

なら

並蔕芙蓉本自雙。

並蒂の芙蓉は

本自ら双ぶ

めいいんしゃしょう

ところ

たずさ

茗飲蔗漿攜所有、

茗飲蔗漿は

有る所を携え

しゃ

ぎょく

こう

無謝玉為缸。

瓷おう

も謝する無し

玉を缸と為すに

古 川 末 喜174(17)

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こぶね

すす

艇をうかべ

進めこぎいだす

みなみはたけ

たが

みなみ

みやこ

ひさ

たびびと

南の畝

耕やし

南の京に

久しくとどまる

客のわれ

きた

まど

すわ

きた

のぞ

こころ

いた

北の窓べに坐り

北のかた

はるかに望めば

わが神を傷ましむ

ひる

つま

ちい

ふね

昼のあるひ

とし老けたる妻を引きつれ

小さき艇に乗り

おさ

きよ

かわ

みまも

晴れたるなか

稚なき子らの

清き江に

みず浴びするを看る

とも

ちょう

もと

たがい

倶に

たわむれ飛ぶ

ちょう

蝶は

元より相に

逐いかけつかまえ

うてな

なら

はすのはな

もと

おのずか

つが

ひとつ蒂に

並びあう芙蓉

本より自ら

なかよく双う

おちゃ

さとうきび

しる

もの

たずさ

飲む茗と

蔗の漿は

有りあわする

所を携え

いしやき

ぎょく

つく

かめ

おと

わがやの瓷のかめ

玉もて為れる

とうとき缸にも

謝ること無し

「小舟を出して漕ぎいだす」

南の都の成都に、わたしは長らく旅人となったまま、南向きの日当た

りのいい畑を耕して、なかば農夫となっている。涼しげな北側の窓辺に

すわって、はるかに北の方角をながめやると、わたしのこころは思わず

悲しくなってくる。

ある日の昼間、わたしは長年つれそった妻を引きつれて小舟に乗っ

た。晴れわたった天気のなかに、まだおさない息子たちが、澄みきった

川のなかで泳ぐのを、二人して見守った。

二匹つれだって飛んでいる蝶々は、もとからずっとそうやって、互い

にたわむれ追いかけあっているのだろう。一つの萼に二つの花をつけて

いる蓮の花は、はじめからおのずと一対になって生えているのだ。……

家族というものも、そんなものかもしれない。

貧しいながらも、あり合わせのお茶と甘いサトウキビ汁を持って、わた

しと妻は小舟に乗り込んだ。舟に持ち込んだ、我が家の陶磁器の酒がめ

は上等ではないが、玉で作った高級な容器にも、決して劣ることはない。

一、二句目の調子がいい。一つの句に「南京」「南畝」、「北望」「北窗」

というように、同じ字が繰り返しつつ、対になっている。心地よさは、

この対になった同字の、リフレインから生まれている。これは当句対と

呼ばれ、以前からあるにはあるのだが、とくに杜甫が意識的に使いはじ

めた句法である。より厳密な意味での当句対は、上下句で対になった一

聯において、それぞれの句中に、また対をなす語があり、しかもその対

語は同じ字を用いるという超絶技法である。韓成武氏は、杜甫の七言詩

では厳密に数えた場合、八例ほどしかみあたらない、という。

たとえばそのなかから一つ挙げてみよう。この詩のちょうど一年前、

成都草堂で詠じた﹇0930

_

江村﹈の詩である。

きよ

かわ

ひと

むら

いだ

清江一曲抱村流、

清き江は

一たび曲がって

わが村を

抱くがご

なが

とく流れゆき

ひなが

なつ

かわ

むら

ことごと

長夏江村事事幽。

長の

夏のひ

江べの村は

事事に

ひっそりと

おくぶか

幽し

おのずか

おのずか

はり

うえ

つばめ

自去自來梁上燕、

自ら去り

自ら来たる

梁の上の燕

われ

した

われ

ちか

みず

なか

かもめ

相親相近水中�。

相に親しみ

相に近づく

水の中の�

つま

かみ

ごばん

老妻畫紙為棋局、

とし老けたる妻は

紙に

せんを画きて

棋局の

かわりと為し

おさ

ばり

たた

つり

かぎばり

稚子敲針作釣鉤。

稚なき子らは

ぬい針を敲いて

うお釣の鉤と作

この三、四句目の対句が、それぞれ七文字の中でさらに「自去」「自来」、

「相親」「相近」と対の語をつくっているので、当句対となっている。(ち

なみに一、二句目は「江」「村」を上句で分離し、下句で結合させてい

ねんぽう

る。粘法、反法など平声と仄声の配置も、みなともに律詩として規則通

りである。)

ところで、奇しくもこの詩もまた、ある夏の日の草堂での、生活の一

現代文による新しい訓読の試み (18)173

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コマを描いている。この二つの詩を重ね合わせると、もっと具体的に当

時の杜甫の生活の様子が浮かび上がる。

ちゃんとした碁盤がないので、妻は紙に線を引っぱって、その替わり

としているし、子供らも、家の前の川で魚釣りをするために、縫い針を

叩いて釣り針を作り出している。舟遊びでもしようかと、杜甫は妻を誘っ

て小舟に乗り込み、酒のほかにも、妻のためにお茶や甘いサトウキビ汁

を持ち込んでいる。晴れた日に、裸で泳ぎ回る子供たちの楽しげな水浴

びを、妻と二人して、おだやかな目で見守っている。詩はある日の出来

事として書いてあるが、そういったことが、よく行われていたと読んで

もよいだろう。伝統的な訓読の方では、わざとそう読んでいる。

そんな子供や夫婦のありかたを象徴するがごとくに、詩には植物や小

動物たちが配されている。南から渡ってきたつばめは子育てに熱心で、

草堂の軒深くまで入り込む。かもめは、隠遁者の身軽さ、自由さを想起

させる鳥であるが、人を警戒することなく、無心の自分になれ近づいて

くる。ちょうちょうは、後になり先になり、戯れながら追いかけあい、

ハスの花は最初からそうであったかのように、一つの萼に仲良く花を咲

かせている。配された景物と人物が、分かちがたく融合している。

この時期、外ではいまだ戦乱がやまず、人々が傷つき苦しんでいる。

そのことを杜甫は痛いほどよく知っている。だからこそ、この草堂での、

この小さな家族の平和が、この上なく貴重なものに思えてくる。たしか

にこの情景は、一つの理想の姿として、美化して描き出されているのか

もしれない。質素な暮らしながらも、家には欠ける者は無く、みな打ち

そろって、楽しくおだやかに過ごす、そういう家族の日常生活のイメー

ジが、かくも美しく、かくもありありと、思い浮かべられるように作り

出された、その意義は小さくはない。

学ぶことを

やめし息子の

なまけのままに

まかせん

﹇1069_

屏跡三首﹈其三

ここまで紹介した詩から、ほぼ一年後、上元三年(七六一)の、晩春

から初夏にかけての作である。杜甫、五十一歳。それ以前の詩から、こ

こで取り上げる詩までの一年間は、どのようであったのか、以下概略を

述べておこう。

上元二年の秋は、草堂がちょっとした災難に見舞われた。台風で草堂

のかやぶきの屋根が吹き飛び、草堂の前の楠の大木が倒れたのである。

かや

いえ

あき

もちろん杜甫はひどく嘆き悲しんだが、我々に﹇1033

_

茅ぶきの屋

かぜ

ため

やぶら

のおお風の為に

破所るるの歌﹈の名作を残してくれた。

その年の秋から冬にかけて、近辺の青城や蜀州に小旅行に出かけてい

る。生活の援助を求めてであろう。冬には、友人の高適が杜甫の草堂を

訪ねてきてくれた。このとき高適は蜀州長官の身分で、臨時に成都の長

官を代行していた。

このころ成都の副長官の徐九という人物が、手厚い礼物を持って草堂

を訪れた。杜甫はいたく感激して、感謝の詩を残している。近年の陶敏

氏の研究ではこの徐九が、翌年成都で謀反を起こした徐知道ということ

が明らかになっている。徐知道の乱はただちに鎮圧されたが、幸い杜甫

は成都から遠く離れていたので、その係累が及ぶことはなかった。人に

頼ることしか経済的基盤のなかった杜甫は、このように何度か危ない橋

を渡っている。

年末には、杜甫への最大の支援者である厳武が、成都長官に任命され

た。これ以後しばらくは、杜甫の生活は安定したのだと思われる。以前

のような、切羽詰まった困窮生活を訴える詩が、さしあたっては見えな

くなる。

古 川 末 喜172(19)

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明けて、上元三年の春を迎えると、もう浣花草堂での生活も三年目に

入る。この春は、杜甫の気分はひどく落ち込んでいた。一年前の、春爛

漫の花の色に、まるで気が触れたかのように、興奮していた時とは大違

いである。すっかり隠遁モードに入り込んだような、もっと言えば生き

る目標を失ったような書きぶりの詩が多い。

へいせき

さんしゅ

さん

屏跡、三首、其三

屏跡、三首、其の三

ばんき

いえ

なにごと

晩起家何事、

晩起

家に何事かあらん

えいな

うた

ゆう

無營地轉幽。

営無く

地は転た幽なり

ちくこう

やしょく

あつ

竹光團野色、

竹光

野色に団まり

しゃえい

こうりゅう

ただよ

舍影漾江流。

舎影

江流に漾う

しつがく

らん

まか

失學從兒懶、

失学

児の懶なるに従せ

ちょうひん

うれ

まか

長貧任婦愁。

長貧

婦の愁うるに任す

ひゃくねん

すべ

百年渾得醉、

百年

渾て酔うを得ん

いちげつ

あたまくしけず

一月不梳頭。

一月

頭を梳らず

あしあと

かく

さんしゅ

さん

わが

いきざまの

跡を屏す、三首、其の三

おそ

いえ

なん

こと

あさ晩く

とこより起ききたり

家には何の

なすべき事かあらん

いとな

いよいよおくぶか

あれこれと

はげみ営むこと

とくに無ければ

この地は転

幽く

して

ものさびし

たけ

かがやき

けしき

あつま

竹ばやしの

みどりの光は

野の色のなかに

むらがり団り

いえ

かげ

かわ

なが

ただよ

わが舎の影

江の

おもにうつって

流れのなかに漾う

まな

うしな

むすこ

おこた

まか

学ぶことを失うも

ままよ

児の懶るままに

従せ

つね

まず

つま

うれ

まか

長に貧しくも

なすすべなく

婦の愁うるままに

任す

ひゃくねん

すべ

じんせい

百年

渾てつねに

酔いつづくるを

得んとぞ

おもう

ひとつき

あたまくしけず

たれにもあわで

一月

頭を梳らざらんと

ねがう

「わが生き様をかくして隠遁する、三首、その三」

わたしが朝おそく床から起きあがるのは、これといって家に、なすべ

きことなど何もないからである。あれこれ励んで営む仕事もないので、

この成都草堂の地はますます、人目につかずひっそりとしている。

広い野原の風景のなかで、草堂に生えている竹林は、緑の光沢がひと

かたまりに集まって輝いている。草堂の屋舎の影は、浣花渓の水面に映っ

て、流れのままに揺れ動いている。

中途で勉強をやめてしまった長男の宗文は、致し方のないこと、彼の

懶惰なままにまかせるしかない。わたしの生き方が不器用なため、常に

貧しさの中にあるが、これはどうしようもないこと。これもまた、わが

妻の悲しむままにまかせるしかない。

人生百年、ずっと酔っぱらい続けることができたらばと思う。まるま

るひとつき人に会う必要もなく、髪を洗って整えたりしなくてよいなら

ばと願う。

春のこの一時期、杜甫は気分が滅入り、誰にも会いたくなくなって、

現実から逃避したいと思っていた。この詩の其の一では「幽居」、其の

二では「高臥」と詠じ、自分の状況を述べるのに、いずれも隠遁に類似

した表現を用いている。同じころ作った「人の訪問をおそれる」と題す

る詩にも、

おそ

きず

畏人成小築、

人のおとずれくるを畏れ

小さきいえを

築くを成し

せま

さが

おくぶか

にあ

褊性合幽棲。

こころ褊き

わが性は

幽くかくれ棲むにぞ合いたる

﹇1068_

畏人﹈

のように「幽棲」の語を用いて、隠遁に似た状況を詠じている。

おそ

詩の冒頭の「あさ晩く起きる」とは、宮仕えでは無いからそうできる

のであり、「営むことも無い」とは、ここには経営すべき家業も持たな

いからである。期待の長男はおよそ勉学には向かず、とうとう学問を放

現代文による新しい訓読の試み (20)171

Page 7: Sueki Fportal.dl.saga-u.ac.jp/bitstream/123456789/119427/1/...杜 甫 の 詩 と 生 活 ( 二 ) ( 現 代 文 に よ る 新 し い 訓 読 の 試 み ― 漢 文 教 育

棄し、妻は長い貧乏生活を嘆いている。もういっそ、このままずっと酔っ

ぱらい続け、誰とも顔など合わせたくないと、自棄になっている。杜甫

のこのひどい落ち込みようときたら、いったい、どうしたものか。この

同じ人物が、国家の悲運、社会の不公正、人民の不幸を真っ向から取り

上げ、権勢におもねらず、堂々と歌い続けた詩人だとは、にわかには信

じがたい。

杜甫がこんなにも落ち込み、投げやりになるなんて!しかし実際、彼

にもこんなことがあったのだ。このようなマイナーな気分さえ、読者に

しっかりと、しかもかなり誇張されて伝わってくる。ここではそういう

自画像を、描き出しているのである。こういう多面的な顔を見せるとこ

ろがまた、私たちを飽きさせないところではあるまいか。

がくもんたっと

杜甫には男児が二人いた。長男には「文を宗ぶ」を意味する宗文と

名づけ、次男には「文武」の「武」を振り分けたのであろう、宗武と名

づけている。このとき長男は数えで十三歳ぐらい、次男は九歳ぐらいに

なっていたろうか。このころ杜甫は、長男に対する学問教育に、見切り

を付けたのかもしれない。その後、次男には『文選』を暗唱させたりし

ているので、学問を続けさせていることがわかる。しかし長男には、鶏

の柵を作らせるなど、実生活で筋力を使う作業や労働を、きちんとやり

通すことに、しつけの重点を置くようになる。三、四年後、南の雲安、

しゅう

州に移り住んでからのことである。

その

州に到着した当初は、宿泊所の西閣に仮住まいしていたが、そ

の時「西閣を離れず」と題する詩で、

まな

うしな

おろ

むすこ

まか

失學從愚子、

学ぶこと失うも

愚かなる子に従せん

いえな

まか

無家任老身。

すむ家無きも

この老いたる

わが身に任せん

﹇1815_

不離西閣二首﹈其一

と詠じている。あきらめようとしても、まだあきらめきれない、残念そ

うな杜甫の気持ちが伝わってくる。とはいえ、勉学に不向きだからと言っ

まか

て、長男にいらだっているわけではない。二度とも「従す」という字を

用いて、現実をありのままに認め、それはそれで仕方あるまい、と言い

なしているところに、子供への愛情が充分に伝わってくる。

驚きて

落馬し

うでを折る

﹇1111_

戲贈友、二首﹈其二

上元三年四月、太上皇帝の玄宗が崩御した。病床にあった息子の粛宗

皇帝は宝応と改元した。継いでひと月も置かずして、粛宗皇帝も崩御し、

さらにその子の代宗が即位した。かくて粛宗の時代が終わりを告げ、代

宗の時代が始まった。

玄宗皇帝は杜甫にとっては、最高かつ理想の皇帝であった。しかし一

度は唐王朝を破滅寸前まで追い込んだ皇帝でもあり、杜甫はそのことを

はっきりと認識していた。その息子の粛宗に対しては、謂わば愛憎相半

ばする感情を持っていたのではなかろうか。杜甫は粛宗のもとで左拾遺

に取り立ててもらったのだが、その杜甫を冷遇し、遠ざけたのも粛宗で

あった。杜甫は、自分に対する粛宗皇帝の感情に見切りをつけ、左遷さ

れた華州の地方官を辞し、今、成都に流れ着いているのである。

代宗に対しては、もともと何の幻想も抱いていないが、あるいはもっ

と失望しているか、ときには批判的にさえなっている。しかし王権が粛

宗から代宗に変わったことによって、粛宗時代に冷遇されたり左遷され

たりしていた者たちが、復権してくる。それは杜甫の周囲にも顕著にあ

らわれ、それが杜甫の人生にも大きく影響してくる。ただし、以下に紹

介する詩は、それらとは関係が無い、技巧的な軽い戯れの詩である。杜

甫五十一歳、初夏、旧暦四月の作である。

古 川 末 喜170(21)

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たわむ

とも

おく

にしゅ

戲贈友、二首、其二

戯れて友に贈る、二首、其の二

がんねん

けんし

つき

元年建巳月、

元年

建巳の月

かん

おうしちょく

官有王司直。

官に

王司直

有り

うまおどろ

馬驚折左臂、

馬驚きて

左臂を折り

ほねお

めん

すみ

ごと

骨折面如墨。

骨折れて

墨の如し

どたい

しんでい

まん

駑駘漫深泥、

駑駘

深泥を漫にす

なん

うしょく

何不避雨色。

何ぞ

雨色を避けざる

きみ

すす

たんこん

勸君休嘆恨、

君に勧む

嘆恨するを休めよ

いま

かなら

ふく

未必不為福。

未だ必ずしも

福と為らずんばあらず

たわむ

とも

おく

にしゅ

戯れつつ

このうたを

わが友に

贈る、二首のうた、其の二

がんねん

つき

元年のとし

ひしゃくぼし

巳のかたを

建ししめす

月のこと

つかさ

おう

なお

おかみの官に

王というもの有り

そのひと

ひとのあやまちを直

つかさど

すを司る

うまおどろ

ひだり

うで

そのひとの

馬驚きて

はねあがれば

うまよりおちて

左の臂

をへし折り

ほね

つら

すみ

ごと

骨くだけ折れ

面よごれ

まくろき墨の如し

にぶ

おろ

ふか

ぬかるみ

あなど

駑く駘かなる

うまなれば

深き泥を

漫らんに

なん

あめ

けはい

きみ

何ぞ

雨の色する

そらあいを

避けざるや

なげ

うら

きみ

すす

嘆き恨むは

ほどほどにして休めよ

と君に

勧めん

いま

かなら

ふく

未だ必ずしも

ことわざのごとく

わざわいてんじて福と

為らず

んば

あらざればなり

「たわむれにこの歌をつくって友人におくる、二首連作」その二

ひしゃく

ときは宝応元年、北斗星の柄杓が、南南東の巳の方角を指し示す四

月のことである。役人に司法官の王という者がいた。

彼が乗った馬が何かに驚いて跳ね上がり、彼は馬から落ちて左の腕を

へし折った。その結果、腕は骨折し、顔面はまるで墨のように真っ黒に

汚れてしまった。

まぬけな駑馬だったら、ぬかるみの深みに、はまりそうなことなどお

かまいなしに、軽率に突きすすむだろう。きみはどうして、雨の降りそ

うな気配の天気を避けて、晴れのいい日を選ばなかったのか。

だが、腕を骨折したからといって、悲しみ恨むことなどはないと、君

じんかん

さいおう

に進言しよう。あの「人間万事、塞翁が馬」の諺にあるように、落馬で

骨折した人は、従軍をまぬがれ戦死せずにすんだ。そんなふうで、わざ

わいが転じて、福とならなかったためしはないのだから。

戯れの詩である。詩の冒頭から、元年建巳の月などと、ものものしい

書きぶりで、何の重大事件かと思いきや、人が馬から落ちて骨折したと

いう、どこにでもありそうな小さな話である。「司直」という官名をも

つ役人がいたのだが、人の過失を立て直すのを司る、というその官の名

義からして、いかにも厳格で堅苦しそうな人物ではある。そんな人がの

ろまな馬にのって、注意散漫で落馬したのである。このコントラストも

戯れである。さぞかし痛かったろうが、顔が泥で真っ黒けという描写に

よって、骨折傷害の深刻さがうすらぎ、ユーモラスにさえなっている。

詩の最後は、怪我という不運が、一命を取り留める幸運に、転ずること

だってあるのだからと、慰めている。

一方、其の一の詩は、図書係りのある役人が、あばれ馬に乗って振り

落とされ、前歯をへし折った話。

あるひ

うま

一朝被馬踏、

一朝

うまよりおちて

馬のあしに踏ま被るや

くちびる

いた

まえば

脣裂板齒無。

裂け

板のごとく

ひらたき歯

かけて無くなれり

さか

おもい

壯心不肯已、

そのひと

壮んなる心つよければ

あきらめ

とり已

がえ

むるを

肯んぜず

ひがし

えびす

とら

欲得東擒胡。

さらに

東のかた

胡のわるものを

ゆきて擒えんと

現代文による新しい訓読の試み (22)169

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ほっ

するを

得んと欲す

﹇1111_

戲贈友二首﹈其一

彼は負傷にも懲りず、前線に出むいて、敵を生け捕りにすると息まい

ている。図書がかりという役職からして文弱そうな人物が、かえって血

気にはやるのも、ミスマッチの対比から、どこかおかしみがただよう。

二つとも同年同月に起こったこととして描かれている。同じ落馬を題

材にしながら、其の一は、それでも戦争に出かけようとし、其の二は、

戦争に行かずに、一命を取り留めることを示唆する。其の一は戦争に積

極的で、其の二は消極的。其の一は激励で、其の二は慰め。二首で対を

なし、バランスがうまく取れている。

この詩は古体詩で、近体詩の対極にある。それを示すために、押韻を

ねんぽう

仄声にしたり、隣同士の聯で二字目、四字目の平仄を同じにする粘法を

外してみたり、一、二句目や末句などで措辞を散文風にしたりと、律詩

とは異なる風をはっきりと見せようとしている。一見、いかにも他愛の

ない詩だが、そういう形式面でも、杜甫の詩作への執念が、並々ならぬ

ことが見てとれる。

落馬の事故は、詩にはあまり多く歌われていないようであるが、実は

しゅう

杜甫自身も、五年後の

州で、酒に酔っ払って落馬したことがある。

たずさ

われ

﹇1830_

酔いて馬より墜つるところと為り、諸公、酒を携えて相を看ま

う﹈と題する詩に述べてある。その時も、自分の失敗を茶化し、戯画化

している。このような戯れの詩の多さや、自己のみじめさを戯画化して

描くのは、杜甫詩の特徴の一つである。

老妻より

なつかしき数枚の

ふみ

来たる﹇1132

_

客夜﹈

粛宗が亡くなり、代宗皇帝が即位すると、粛宗朝で遠ざけられていた

玄宗の旧臣たちが復権してきた。その動きのなかで、この宝応元年の六

月、厳武が朝廷に召しかえされることになった。このたびの帰朝では、

厳武は宰相になるかもしれない、と杜甫は考えていたようである。

思えば昨年の末、厳武が成都長官に任命され、杜甫はこの異郷の地で

強力な後ろ盾を得たのであった。今年の晩春から夏にかけて、二人の交

流は盛んで、長官の厳武が杜甫の質素な草堂を訪ねたのも、一度ではな

かった。そういうなかで厳武が突然、成都からいなくなるのである。杜

甫の心中は如何なるものであったろうか。

長安に帰っていく厳武を、杜甫は三百五十里もの長い道中をともにし

ながら、綿州まで見送っていった。さらに綿州から三十里の奉済駅で、

ようやく厳武に別れを告げることになった。七月のころである。

厳武に代わって、近くの蜀州刺史の高適が成都長官に任命されたのだ

が、その隙をねらって、副長官の徐知道が長官と偽って、成都で反乱を

起こした。成都はこの反乱で甚大な被害をこうむった。杜甫は成都への

帰路を断たれた。

反乱軍は内部抗争を引き起こして徐知道は部下に殺され、翌月の八月

には平定された。とはいえ、安史の乱がまだ完全に終結しない中で、こ

の成都だけは比較的平和だと思っていた杜甫に、徐知道が謀反を起こし

たことは、まさに寝耳に水であった。しかも半年あまりまえ、首謀者の

徐知道は、手厚い礼をもって杜甫草堂を訪れ、杜甫は感謝の詩を送って

いたのである。成都長官に着任した友人の高適は、反乱平定の功績を誇

るかのように「逆賊の徐知道を斬るを賀するの表」を皇帝にたてまつっ

古 川 末 喜168(23)

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ている。

実は杜甫は二年後に、厳武が再び成都長官に任ぜられたことを知り、

非常な喜びをもって成都に帰っていく。その時、徐知道の乱がいかに悪

行の限りを尽くした非道な反乱であったかを、つぶさに詩に描いている

が、反乱は内部崩壊したかのように描かれ、高適については何の言及も

ない。

徐知道の乱が終結し、成都に秩序が回復したあと、杜甫は一度、成都

の長官だった高適に詩を送り、暗に自分の帰還を打診している。しかし

高適からは色よい返事は得られなかったようである。杜甫は成都へ帰る

気持ちを、ほとんど無くしてしまったと思われる。

ししゅう

さて、厳武を見送って別れたあと、杜甫は綿州から梓州に向かった。

たまたま、皇室につらなる漢中王の李う

が、梓州に来ており、杜甫は李

と旧識だった。その李

を頼っていったのである。その後、杜甫はこ

しゅう

の梓州、さらに東の

ろう

州方面で、思いがけず二年近くもの長逗留をす

ることになる。次の詩は杜甫が梓州に移って間もなくのものであろう。

家族は、厳武を見送っていったはずの杜甫が、二三ヶ月たっても帰って

こないので、ひどく心配していたに違いない。

かくや

客夜

客夜

かくすい

なん

かつ

ちゃく

客睡何曾著、

客睡

何ぞ曾て著せん

しゅうてん

秋天不肯明。

秋天

肯えて明けず

れん

ざんげつ

かげ

入簾殘月影、

簾に入る

残月の影

まくら

たか

えんこう

こえ

高枕遠江聲。

枕に高き

遠江の声

けい

せつ

いしょくな

計拙無衣食、

計は拙にして

衣食無く

みちきわ

ゆうせい

途窮仗友生。

途窮まって

友生に仗る

ろうさい

しょすうし

老妻書數紙、

老妻より

書数紙

まさ

じょう

應悉未歸情。

応に悉くすべし

未帰の情

たび

よる

客にありての夜

たび

なん

かつ

ねむ

客にしあれば

何ぞ曾て

やすやすと睡りに著かん

あき

そら

がえ

よるの秋の天は

あさの明けんとするを

なかなかに肯んぜず

すだれ

はい

のこ

つき

ひかり

簾のなかに

入りくるは

あけがたの

残んの月の

つめたき影

まくら

たか

とお

おおかわ

おと

枕もと

高きあたりに

きこえくるは

遠き江の

なみの声

はかりごとつたな

ことか

くらしをたつる計に拙くて

衣るもの食うもの

みな無き

みち

ゆきづ

たよ

わが

いきる途は窮まり

友生の

たすけに

ただ仗るのみ

つま

ふみ

すう

かみ

老いし妻より

かきよせきたる

なつかしの書は

数まいの紙

さねたり

いま

かえ

ありさま

まさ

かえしぶみには

未だ帰りえざるの情を

応にこまかに

かき悉く

すべし

「旅にすごす夜」

旅のなかですごしてきた夜は、これまでもよく寝付けたことはなかっ

た。今宵も眠りつけないままに、秋の夜長は、なかなかに明けようとは

してくれない。

夜は静かで、枕のすぐ耳元の高きあたりまで、遠くにあるはずの川の

波音が聞こえてくる。とうとうまんじりともせずに一夜をすごすと、明

け方ちかい空に残月がかかり、月の光が部屋の簾の中にまで入ってく

る。私

は、生計を立てていくやり方がへたで、食うものにも着るものにも、

みな事欠くありさま。生きていく道には行き詰まり、こうやって我が身

は、見知らぬ梓州の地で、友人の助けにただただ頼りきっている。

子供らとともに成都にいる妻から、家のことなどこまごまと、数枚に

わたって手紙が書き送られてきた。その返事には、すぐには帰ることが

できないこちらの事情を、くわしく書き送らなくてはなるまい。

現代文による新しい訓読の試み (24)167

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この詩は、旅先での寝付けない夜のことを歌った詩である。だとする

と、四句目の「高枕」の意味には、注意が必要である。「高枕」とは文

字通り、枕を高くすることである。どこから高くするかというと、世俗

生活の低きところから。そこから離脱して、高きところに頭を置いて眠

るので、世のわずらいを避けて隠遁するとか、心やすらかに眠るなどの

意味が出てくる。杜甫もそういう意味で何度か使っているが、ここでは、

その意味だと齟齬が生じる。

杜甫はいま、生計が立たず、経済的にはすっかり人の援助に頼りきっ

ている状態である。しかも成都の草堂に残してきた妻からは、長い手紙

が届いて、どんな返事を書こうかと眠れないでいる。生活の低いところ

で、今まさに生活と格闘している状況である。こんな彼の旅寝の枕元に、

遠い川の水音が聞こえてくる。よってここは、古注などを参考にしつつ、

すぐ耳元の高いところに、または、高い波音で、眠れぬ杜甫の耳元にま

で川の音が、聞こえてきていると解しておくことにしたい。

七句目の「老妻書数紙」は、数枚の手紙というのは、妻から杜甫に届

いたものか、杜甫が今から妻へと書き送ろうとしている手紙か、二つの

解釈がある。どちらにせよ杜甫と、離ればなれになっている妻との間で、

手紙がやり取りされていたことは確かである。杜甫は遠くにいる弟たち

に、また家族と別れて暮らさねばならなくなったとき、よく手紙を書い

ている。とくに戦乱の続く中にあっては、杜甫にとって家族からの手紙

は、次の有名な詩にもあるように、万金にも値するものであった。

のろし

みつき

つら

烽火連三月、

いくさの烽火

はるの三月にわたって

連なりつづき

いえ

ふみ

ばんきん

あた

家書抵萬金。

家よりとどきし書

そのねうち

万金に抵る

﹇0421_

春望﹈

今、この時期、杜甫は成都に家族を残したまま、一人梓州に来ており、

妻との間に頻繁に手紙を往来させている。この詩の直前に作られた詩で

は、

いえとお

ふみ

つた

家遠傳書日

家遠く

書かき伝え

おくる

日び

﹇1131_

悲秋﹈

しゅう

と詠じている。また杜甫は梓州から、さらに翌年の秋には

ろう

州に向か

い、

州滞在が長引いて妻から手紙を受け取った。娘が病気になったと

いう知らせである(後述﹇1270

_

中﹈)。このように家族と離れてい

るとき、手紙は、杜甫が家族とつながっていることを実感できる唯一の

ものとなっていた。そしてそのことを詩の題材にもしていた。杜甫の生

活、詩的人生にとって、家族との手紙がいかに大きな意味を持っていた

かが分かる。

また手紙に対する描写の仕方も、同時代の平均的な描写を一歩越え出

ているところがある。杜甫の詩にも、手紙は何度も出てくるが、普通は

単に「書」と書かれることが多い。しかしいくつかの詩では、ひどく個

性的な書きぶりとなっている。たとえばこの詩では、一般的な手紙では

なく、妻、しかも老妻からの手紙であるし、数枚にもわたって書かれた

厚い手紙である。さらにその返書は、自分が帰れない事情を細々と書き

連ねなければならない詳細な手紙である。このように描写される手紙は

具体的、個別的で、杜甫がその時、そこで書かねばならなかった手紙、

そこで受け取った手紙という個別性が強く表れている。このような具体

的で個性的な表現は、近代以後の我々にも、そのまま通じる感覚であろ

う。六

酔うを得たれば

すなわち

そこをば家となす

﹇1152_

陪王侍御宴通泉東山野亭﹈

宝応元年(七六二)の徐知道の乱後、杜甫は厳武と別れた綿州にしば

らく滞在していた。その後、漢中王の李う

を頼って梓州に行った。前述

したとおりである。李

がたまたま梓州に来ていたのは、杜甫には非常

古 川 末 喜166(25)

Page 12: Sueki Fportal.dl.saga-u.ac.jp/bitstream/123456789/119427/1/...杜 甫 の 詩 と 生 活 ( 二 ) ( 現 代 文 に よ る 新 し い 訓 読 の 試 み ― 漢 文 教 育

に幸運だった。李

は、寧王李憲の子であり、粛宗とは従兄弟関係にあ

る。李

の父の寧王は玄宗の兄であり、一度は皇太子の位にも即いてい

たが、玄宗に皇帝の位を譲り、玄宗から終始敬愛された。安史の乱の前、

杜甫が長安で職を求めていたころ、すでにその李寧の子の李

に、親し

い詩を送ることのできる間柄になっている。

その昔、杜甫が李

と面識を得たのは、李

の兄、李しん

との交流を通

じてであろう。李

は寧王の長子で、玄宗皇帝からも寵愛されていた。

杜甫は三十代半ばのころから、その李

に可愛がられていたのである。

玄宗の甥っ子にあたる李

・李

の兄弟から、このように親しい交際を

許されていたことは、無位無官の杜甫が、梓州のような新しい土地で、

官僚たちの援助を得ながら生きていくうえで、有利に働いたに違いな

い。杜

甫は梓州滞在中に、当地の地方官たちから手厚くもてなされてい

る。梓州の長官たちが開く宴席で、杜甫は李

に親しくはべり、皆を感

嘆させる詩を作り、宴会の場で重んぜられる存在であったろう。

ただ李

はまもなく梓州を去って、任地に帰っていった。杜甫はこの

年の秋の末から冬の初めころ、一度成都に帰り、家族を引き連れて梓州

にもどってきている。成都での生活に見切りをつけ、このまま梓州から

こう

江を南下して長江に下っていこうと考えていた。

冬ごろには杜甫は、梓州の

江沿いのすぐ下流にある射洪県を、また、

さらにその下流にある通泉県をおとずれている。通泉県では、成都から

来ていた王侍御と出会い、彼の宴席に侍った。

王侍御は、杜甫が粛宗朝に仕えていた時からの知り合いだったと思わ

れるが、成都で再会し、二人はさらに親近感を深めたようである。王侍

御は一年前には、酒を持って杜甫の浣花草堂を訪問している。侍御の官

は、中央の検察官の身分をもって地方に出むき、その地方の軍政を分担

する。だから、通泉県のような小さな県の知事にとって、この王侍御は、

決して粗略にあつかうことのできない貴賓である。王侍御が来たとき、

通泉県の知事であった姚氏は、連日の下にも置かない歓待ぶりで、杜甫

は少しやり過ぎではないかと、姚知事を暗に諷したぐらいである。

次の詩は、冬十一月、通泉県の東山の、ある風流な亭で、王侍御が開

いた姚知事等へのお返しの宴だと思われるが、その宴に陪席したとき

に、おそらくは即興で作ったものである。

おうじぎょ

つうせん

とうざんやてい

えん

ばい

陪王侍御宴通泉東山野亭

王侍御が通泉の東山野亭に宴するに陪す

こうすい

とうりゅう

江水東流去、

江水

東流して去り

せいそん

なな

清樽日復斜。

清樽

日は復た斜めなり

いほう

おな

えんしょう

異方同宴賞、

異方

同じく宴賞せば

いず

ところ

けいか

何處是京華。

何れの処か

是れ京華

ていけい

さんすい

のぞ

亭景臨山水、

亭景

山水に臨み

そんえん

たい

村煙對浦沙。

村煙

浦沙に対す

きょうか

けいしょう

狂歌遇形勝、

狂歌

形勝に遇い

すなわ

いえ

得醉即為家。

酔うを得たれば

即ち家と為す

じぎょ

おう

つうせん

とうざん

あずまや

みやこの侍御の王どのが

ここ通泉の

東山の野にある亭にて

うたげ

はべ

宴するに

そのおそばに陪る

かわ

みず

ひがし

なが

江の水

東のかたへと

流れ去り

きよ

たる

清くすみたる

樽のうまざけ

くみかわす

日は復た

かたむき

なな斜

めなり

こと

くに

おな

うたげ

ここはみやこに異なる

よその方

同じく宴ひらきて

賞で

たの

しめば

はな

みやこ

いず

ところ

華やかなる京

是れ何れの処なるかを

などか

しらん

あずまや

かげ

やま

みず

のぞ

亭の

おとす景

うるわしき山と水のけしきに

臨みあい

むら

けむり

うら

まさご

むか

村ざとの

めしたく煙たちのぼり

かわべの浦の

沙のはまに対い

現代文による新しい訓読の試み (26)165

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あう

かたちすぐ

でお

くる

うた

形勝るる

よきながめに遇うては

狂わんばかりに

うた歌う

すなわ

いえ

こころゆくまで酔うを得たれば

即ち

そこをば

わが家と為さん

つうせん

とうざん

「中央から出向して来た検察官の王殿が、通泉県東山の、野趣にと

あずまや

んだ亭で開きなさった酒宴に陪席する」

こう

かりょうこう

この通泉県を流れる

江は、嘉陵江に合流して長江にはいり、東へ

流れ下ってやがて東海に入る。濁り酒ならぬ、上級の樽酒の清酒をくみ

かわすうちに、今日もまた日は西に傾いていく。

ここは都の長安から離れた異郷の国だが、皆でこうやって酒宴を開

き、この山水の美を味わいながら楽しんでいると、花の都の長安がどこ

にあるのかなど、そんなことはどうでもよくなってくる。

この亭のつくる影は、東山の美しい山水に向かい合っており、

江の

水辺の砂浜の向こうには、村里の夕餉の炊煙が立ちのぼっている。

このようなすばらしい風景に思いがけずに出会って、わたしは狂った

ように大声で歌をうたう。そして思い切り酔うことができるなら、すぐ

さまそこをわたしの家としよう。

これは宴会の席上で作られた詩である。だから宴会の詩としての、常

套的な表現がいくつか用いられている。

たとえば二句目の「清樽」は、濁り酒ではない上等の酒であることを

意味し、さらにその宴席が、俗気のない雅な酒の席であることを示す。

また宴会の詩のお決まりとして、宴会の主宰者を褒めあげるし、それ

が礼儀でもある。たとえば六句目の「村煙」は、村里に立ちのぼる炊煙

の意味だが、村に炊煙が見られるというのは、食事時に民には、飯を炊

くべき食糧がちゃんと確保されているからである。これによって、通泉

県の姚知事の治政の良さを持ち上げている。村里の炊煙が空にのぼり、

川の砂浜が長く横たわっている。この景色の縦と横の構図は、一句内で

の垂直方向と水平方向の対として作られている。

それはともかく、こういうお決まりの言い方の中にも、詩人の個性や

思想は自ずとあらわれる。地方に出回っている官僚たちは、王侍御にし

ろ姚知事にしろ、たいていみな常に都の長安を気にかけているものだ

が、特に杜甫は、長安や故郷洛陽への思いが人一倍強い。

そういう一般的な状況を念頭においてみると、三、四句目では、異郷

であっても、皆でかくも素晴らしき宴席を共にすれば、長安など気にか

ける必要はないと歌っている。この歌い方は三人に共通する感情であろ

うが、とりわけ杜甫の普段からの思いが、端無くも吐露されてしまった

と見なすことができる。この強がりの言い方の裏にある、杜甫の望郷の

念が、この詩の基調となって、うら悲しい気分を醸しだしている。だか

らこそ、その故郷を悲しく懐かしむ気持ちを逆転する、李白ばりの最後

の句が生まれても来るわけである。

この詩で一番気の利いた部分は、その最後の聯であろう。素晴らしい

景色に出会い、思いっきり歌うたい、とことん酔っ払うことができさえ

すれば、そこをこそ我が家ともなそうと詠じる。これが杜甫の詩である

と知らなければ、李白か誰かの詩と見まがってしまいそうである。そう

いう意味ではあまり杜甫らしくない詩、杜甫でなくても外の詩人にも書

ける詩とも言える。しかし杜甫のすぐれたところは、こういう李白めい

た詩でさえ、宴席の場でいとも簡単に作ってしまうところである。杜甫

の詩風の広さ、どんな詩だって作れないことは無い杜甫の力量、を示す

詩ではある。

とはいえこれが単なるリップサービスかと言えば、必ずしもそうでは

あるまい。すぐとその気になって、天まで舞い上がってしまう杜甫から

すれば、恐らくこの言い方は少なくともこの時点では、かなり本気でそ

う思ったのに違いない。この気持ちは宴会の参列者たちに共通する思い

古 川 末 喜164(27)

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であり、この詩で場が一気に盛り上がった様子が目に浮かぶ。みなが漠

然と心に感じて、はっきりと言葉にできずにいるとき、またたくまにそ

れを美しい言葉に仕立てて顕在化できること、それこそが詩人というも

のであろう。かつての宴会には、歌舞管弦と同じように、詩人は不可欠

だった。

妻を

ふりかえりみれば

その愁い

いずくにかある

﹇1157_

聞官軍收河南河北﹈

昨年、冬に入るころ、杜甫はいったん成都の浣花草堂を引き払って、

家族を梓州に落ち着けた。その年の大晦日は一家団欒で梓州で過ごすこ

とができた。

明けて宝応二年(七六三)の正月、月末の三十日、西暦では七六三年

二月十七日、都長安には、自ら首くくった史朝義の首が、河北から送り

届けられた。これによって、天宝十四年から、九年の長きに及んだ安史

の乱がついに終結したのである。この知らせは、長安からすぐさま早馬

で、全国に駅道ぞいに伝えられた。

翌、閏正月の月初めには、梓州の杜甫の耳にも届いた。突然の捷報で

あった。しかし、勝利の予感が無かったわけではない。前年の十月には、

雍王(後の徳宗)が天下兵馬元帥となって、諸軍を統帥し、ウイグルの

援兵を借りて、総攻撃を開始したのだが、そのとき、杜甫は﹇1154

_

陽﹈の詩を作っていた。その詩では、唐軍が総反撃に転じたため、賊軍

の将軍たちが唐に帰順しようかと、浮き足立ち始めたと詠じている。家

族を迎えたころである。

十月末には賊の拠点であった洛陽が陥落した。杜甫の故郷は、ようや

く賊軍から解放されたのである。ただ洛陽の開城は、主力はウイグルの

援兵によってなされたもので、その報償として、ウイグル兵は洛陽及び

その周辺都市の掠奪を許された。略奪行為は三ヶ月も続き、人々は何も

かもはぎ取られ、紙の衣服を着る始末だったという。洛陽にあった杜甫

の荘園も、おそらく同じ運命におちいったであろう。官軍勝利の大ニュー

スのかげに、このような悲劇は伝えられなかったと思われる。杜甫がそ

のことを知るのは、もう少し後のことである。

かんぐん

かなんかほく

おさ

聞官軍收河南河北

官軍の河南河北を収むるを聞く

けんがいたちま

つた

けいほく

おさ

劍外忽傳收薊北、

剣外忽ち伝う

薊北を収むと

はじ

ているい

いしょう

初聞涕涙滿衣裳。

初め聞いて

涕涙

衣裳に満つ

さいし

かえ

うれいいずく

卻看妻子愁何在、

妻子を却り看れば

愁何にか在る

まん

ししょ

よろこ

きょう

ほっ

漫卷詩書喜欲狂。

漫に詩書を巻き

喜び狂せんと欲す

はくしゅほうか

すべからしょうしゅ

白首放歌須縱酒、

白首放歌

須く縦酒すべし

せいしゅんはん

きょう

かえ

青春作伴好還郷。

青春伴を作し

郷に還るに好し

すなわ

はきょうよ

ふきょう

うが

即從巴峽穿巫峽、

即ち巴峡従り

巫峡を穿ち

すなわ

じょうよう

くだ

らくよう

便下襄陽向洛陽。

便ち襄陽に下って

洛陽に向かわん

でんえん

とうけい

﹇余田園在東京

余が田園は東京に在り﹈

かんぐん

こうが

みなみ

こうが

きた

おさ

われらが官軍が

河の南と河の北を

いくさにかちて収めとる

聞く

けんもん

そと

たちま

つた

けい

きた

おさ

ここ剣の外

忽ち伝わりくるは

かんぐんが

薊の北を収めとると

はじ

なみだ

ころも

もすそ

初めて聞きしとき

涕涙こぼれおち

衣と裳に満ちあふれたり

かえ

うれ

いずく

妻子を

ふり却り看れば

つねなる愁い

おもよりきえうせ

何に

あか在る

おざなり

かきもの

よろこ

くる

漫に

よみかけの詩書

巻きもどし

喜びあまりて

狂わんと欲

しろ

こうべ

まか

うた

すべから

さけ

白き首のわれ

おもうに放せ

こえはりあげて歌い

須く酒を

ほしいまま

にのむべし

あお

はる

ともづれ

ふるさと

かえ

青きこの春

よき伴と作し

きたの郷に還らんに

いまぞ好し

現代文による新しい訓読の試み (28)163

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すぐさ

はきょうよ

ふきょう

うが

即ま巴峡従りふねにのり

けわしき巫峡を

つらぬき穿ち

ただ

じょうよう

くだ

らくよう

便ちに

襄陽に下り

さらに

きたのかた洛陽に向かって

かえ

りゆかんわが

でんえん

ひがし

みやこ

﹇余いえの田園は東の京のかたに在り﹈

「わが唐の官軍が、河南と河北の地を、賊軍の手から取り戻したと

いう知らせを聞きおよんで」

この蜀地は、都からみて剣門山の関所の外にあたるのだが、ここにも、

官軍が河北の薊州の北を奪いかえしたという知らせが、思いがけなく、

突如として伝わってきた。最初この朗報を聞いたとき、感激のため涙が

流れてとどまらず、衣服に満ちあふれるほどだった。

妻を振り返りみると、常々彼女の顔に浮かんでいる愁いの表情は、すっ

かり消えうせてしまい、どこにいってしまったのやら。わたしは読みか

けの巻物の本をそそくさと巻き戻して、喜びのあまり気も狂わんばか

り。白

髪あたまとなったわたしだが、思い切り声を張り上げて喜びの歌を

うたい、好きなだけ祝い酒を飲むがよかろう。草木みな青き、この美し

い春景色をともない、故郷に帰っていくのに、今日こそが一番ふさわし

い。い

ますぐにも船に乗って、上流の巴州方面の峡谷から一気に、険しい

巫峡のなかを突き抜けて、そのまままっすぐ襄陽まで下り、さらに北に

転じて、洛陽(わたしの故郷の荘園はこの東都にある)に向かって帰り

行こう。

有名な詩である。全篇が異様なまでの興奮と高揚した気分に満ちあふ

れている。その根本的な要因は、捷報を得ての詩だからである。杜甫最

大の願いであるところの、官軍の勝利によって安史の乱が終結し、唐王

朝が復興して、国内にふたたび平和と安定がもたらされること、それが

思いがけなくも、もたらされたことにある。しかも不意打ちを食らった

ように突如としてである。その驚きも高揚感を高めている。

しかしこの詩には、単なる勝ちいくさの喜びだけではない、スケール

の大きさとダイナミックな躍動感がある。

その理由を考えてみると、まずは地名の多さであろう。詩題、詩中に

地名をあらわす言葉が八ヶ所もあり、しかもそれが中国の版図の二分の

一ほどの広さのなかにちりばめられている。北は北京方面から、中原の

洛陽、南は長江中流域、西は四川、これによって地理的空間が一気に広

がる。

次には、詩のなかに盛り込まれている感情の多様さと、その起伏の大

きさであろう。一句目で捷報に驚き、二句目で感激して涙し、三句目で

は妻の愁いが雲散霧消し、四句目は狂わんばかりに喜び、五句目で酒と

高歌のやり放題、六句目ではいざ帰らんと意気込む。このように色々な

心の動きが次々に生起し、めくるめく動き移ろっていく。そして最後の

七、八句目で、これらの心の動きが、具体的な帰郷の行動提起でしめく

くられる。しかも帰還の経路は、中国の西半分を反時計回りに大きく円

を描き、きわめてスピード感がある。さらにそれを裏づけるかのように、

表現面でも、厳密な意味での当句対(二章を参照)を作り上げ、最もリ

ズミカルな七言と、伸びやかな平声陽韻の脚韻をもちいて、歌いきって

いるのである。このような真実の感動に裏打ちされた内容と、ていねい

に作り込まれた形式の両者が相まって、この名品が生まれているのであ

ろう。

しかし私がこの詩でもっとも注目したいのは、三句目、妻をかえり見

れば、の一句である。この句の重要さは、これが無かった場合のことを

考えてみればよく分かる。感情の大きさ、真実味、スケールの大きさ、

躍動感などは、盛唐の詩人にも共通するものであり、これに類する詩は

古 川 末 喜162(29)

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つと

李白でも作れたかもしれない。たとえば李白の名篇「早に白帝城を発す」

の詩の、

あした

はくてい

さいうん

かん

朝に辞す

白帝

彩雲の間

せんり

こうりょう

いちじつ

かえ

千里の江陵

一日にして還る

りょうがん

えんせい

両岸の猿声

啼きて住まず

けいしゅう

すで

ばんちょう

やま

軽舟

已に過ぐ

万重の山

このスピード感と気分の高揚は、たしかに杜甫の詩によく似ている。し

かし李白の詩は、そこに描かれるのは作者一人である。

杜甫のこの詩が他の詩人と違うのは、杜甫がこれほど感激し喜んだと

き、すぐそばに妻がいたということである。もちろん、他の詩人でも、

妻子はすぐ横にいたかもしれない。しかしそれを詩に描き込むかどうか

は、決定的に違う。妻子が詩人のすぐ隣にいたとしても、それを描き込

まないのが、これまでの詩の通則であった。士大夫としての詩人は、そ

の悲しみやら喜びやら、その時々の抱負やら感懐やらは、少なくとも詩

の中では一人で思い、一人で耐えるものであった。しかし杜甫の場合は、

最も感激したとき、その決定的瞬間にもすぐそばに妻がいて、いかにも

自然に、妻とその感激を共有しようとしている。杜甫詩にはタブーが無

いのである。わずか一行ではあるが、これまでの詩人が決して、書き込

むことの出来なかった一行である。そしてこのわずか一行によって、一

本調子では無い、人間味のある幅広い、そして近代の感覚にも通じるよ

うな詩となったのである。

首を伸ばして

舟のせまり来るに

怒る

﹇1231_

舟前小鵝兒﹈

安史の乱は終結したが、杜甫は梓州を去って故郷に向かうことはでき

なかった。宝応二年(七六三)の春は、梓州近辺の町に出かけたり、帰っ

こう

てきたりと、慌ただしく過ごした。

江ぞいの梓州から、東へ山越えし

かりょうこう

て塩亭を過ぎて、嘉陵江ぞいの

州に行き、また梓州に帰ってきた。

だこう

すぐまた

江の上流の綿州に行き、陸路で西へ向かい沱江ぞいの漢州に

びんこう

行った。漢州からさらに西の岷江系の成都へは、一両日の旅程でさほど

遠くない。杜甫はしばらく漢州に滞在したあと、また綿州を経て

江を

下り、梓州にもどってきた。

この嘉陵江、

江、沱江、岷江は、成都盆地を並行して北から南へ下

り、東流する長江に合流するが、この五本の大河の位置関係は、ちょう

ど右手のひらを顔の前で大きく開いたときのようになっている。人差し

指から小指までが、嘉陵江から岷江までに相当し、親指が長江で、親指

が反り返っている当たりから三峡が始まる。人差し指の第一関節を

とすると、中指の指先が綿州、第一関節が梓州、薬指の指先が漢州、小

指の第一関節が成都あたりとなる。杜甫は半年あまり前、小指あたりか

らやってきて、この春は薬指、中指、人差し指の間を行ったり来たりし

ながら、いずれ親指まで下っていこうと考えているのである。

ぼう

粛宗から漢州刺史に左遷されていた宰相の房

かん

が、この春、特進刑部

尚書として都に呼び戻された。代宗の世となって復権が始まっていたの

である。杜甫は房

の中央復帰を祝い、見送るためにこの漢州に来てい

たのではないかと思われる。杜甫の人生の命運の半分は、房

とともに

あったといってよい。そもそも杜甫が、鳳翔の臨時政府で左拾遺に任命

されたのは、杜甫が無官の時代から尊敬する、房

の推薦があったから

で、その後の運命が一変するのも、房

を弁護して粛宗の怒りを買った

からである。その結果としていま杜甫は、こうやって四川に流浪してい

るのである。

は漢州で刺史の任にあったとき、官有の池に手を加えて、風光明

媚な湖に仕上げていた。それは房公湖と呼ばれ、後の宋代まで人々から

愛された。そこには房

が飼っていた一群の鵞鳥がいたが、杜甫はそれ

現代文による新しい訓読の試み (30)161

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をあとで譲り受けている。

と入れ替わりに、王氏という新任の漢州刺史が赴任してきた。王

刺史は房公湖に船を浮かべ、綿州刺史の杜氏を招待して宴席をもよおし

た。杜甫も陪席した。次の詩はそのころ作った詩である。

しゅうぜん

しょうが

舟前小鵝兒

舟前の小鵝児

かんしゅうじょう

せいほくかく

かんち

つく

(漢州城西北角官池作

漢州城

西北角の官池にて作る)

さけ

鵝兒黄似酒、

鵝児

黄なること酒に似て

さけ

たい

しんが

あい

對酒愛新鵝。

酒に対して

新鵝を愛す

くび

ふね

せま

いか

引頸嗔船逼、

頚を引きて

船の逼るを嗔り

こうな

みだ

おお

無行亂眼多。

行無くして

眼を乱すこと多し

つばさひら

しゅくう

翅開遭宿雨、

翅開きて

宿雨に遭い

ちからしょう

そうは

こん

力小困滄波。

力小にして

滄波に困す

かくさん

そうじょうく

客散層城暮、

客散じて

層城暮れ

なんじ

いかん

狐狸奈若何。

狐狸

若を奈何せん

ふね

まえ

ちい

がちょう

舟の前の小さき鵝の児

かんしゅう

まち

せいほく

すみ

おかみ

いけ

つく

(漢州の城の西北の角なる

官の池にて作る)

がちょう

さけ

鵝の児

その黄なること

酒のいろに似たり

さけ

むか

わか

がちょう

いとおし

酒に対いて

さけをのみつつ

われは新き鵝を

愛む

ふね

せま

くびひ

いか

がちょうのこ

船の逼りくれば

頚引きのばして

嗔りをあらわし

なら

みだ

おお

れつつくって

行びおよぐこと無く

わが眼を

かき乱すこと多し

つばさひら

のこ

あめ

であ

翅開きてかわかすは

さくやの宿り雨に

遭えばなり

ちからちい

あお

なみ

くる

力小さければ

滄あおとしたる

いけの波に困しむ

きゃくち

かさ

じょうへき

客散って

かえりさり

たかく層なれる城に

ひの

暮れゆかば

きつねたぬき

なんじ

いかん

狐や狸のおそいかからんとするに

若を

まもらんには

奈何せん

「舟の前に浮かんでいる小さなガチョウの子」

(漢州城内の西北隅の、官の管轄下にある池にて作る)

ガチョウの子の、その柔らかい黄色の毛色は、なんとも醸造酒の色に

似ていることよ。わたしは酒に向かいあいつつ、その若いガチョウの子

たちを心からいとおしむ。

ガチョウの子らは、彼らのほうに迫ってくる船にむかって、かないも

しないのに、首を伸ばしてはげしく怒りをあらわす。列を作って並び泳

ぐこともなく、てんでバラバラにあちこち泳ぎ回るので、眺めているわ

たしの目をチラチラさせてしまう。

また前の晩からの、残り雨に降られてびしょぬれになり、羽をひろげ

て乾かしている。まだ幼くて力が小さいため、青々とした池の波にもて

あそばれては苦しむ。

池に船を浮かべて宴遊していたお客たちが、散り散りに帰っていき、

やがてこの漢州城に日が暮れてゆく。夜になればキツネやタヌキが、お

前らを襲おうとするであろう。そのとき、お前たちを守るには、いった

いわたしはどうしたらよいであろうか。

房公湖に浮かぶ小舟の前を泳ぐ、鵞鳥の子に想を得て作った、軽い詠

物の詩である。杜甫は短い漢州滞在中に、この房公湖の鵞鳥の一群を、

恐らくは新任の漢州刺史の王氏から贈られている。だからこの詩を作っ

たというわけではないが、鵞鳥の子をとても可愛いと思っている。

一句目に「鵞」と「酒」を詠み込み、二句目ではそれを逆にして繰り

返している。厳密な律詩では行われない戯れである。また詩題の「鵞」

を脚韻の字に用いている。ア

ヒル

三句目、同じ家禽でも家鴨なら首が短いから伸ばしようがなかろう

スワン

が、鵞鳥なら、白鳥とまではいかないが首が長いので、いかにも「引頸」

の語がふさわしい。まだ世間知らずで、恐いもの知らずの子供の鵞鳥な

古 川 末 喜160(31)

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ので、舟が接近すると大きな声を出して威嚇する。その鳴き声の形容に

は「気を盛んにす」(『説文』)と、注される「嗔」の字が似つかわしい。

これらの行為はユーモラスでさえある。また四句目、我がまま気ままな

子供たちだから、好き勝手に動き回り、見ている人間の方の目がちらつ

いてしまう。

そんな天衣無縫な子供たちだが、所詮子供は子供、まだ羽も身体も完

全に大人になりきってはいない。五、六句目では、雨に打たれては、中

まで濡れた羽を広げて乾かし、池の小さな波にさえ、あらがう力が弱く

て、疲れきっている。そして最後は、この漢州の町に宵闇が垂れこみ、

キツネやタヌキが忍び寄ってくる。かわいい鵞鳥の子たちを、どのよう

に守ってあげたらよいのか、杜甫にはまったく打つ手がない。

杜甫のこの鵞鳥の子の描き方は、妙に具体的で、どこか思わせぶりな

所がある。鵞鳥を描いていながら、いつのまにか人間を描いているよう

でもあり、どこまでが鵞鳥で、どこからが人間の描写か、区別がはっき

メタファー

アレゴリー

りしてこなくなる。西欧風の隠喩とか寓喩とかの言葉で片づけたくない

ような、境界が曖昧だが、やけに具体的な写実描写である。

目の前に立ちはだかる舟、自分を翻弄する池の波、情け容赦なく一晩

中降り続ける雨、わが命をねらう狐狸、そういうものに対して、か弱い

鵞鳥の子が、精一杯立ち向かい生きている。人間によって創り出された

家禽は、人間の手助けなしに、自然界では生きていくことが難しい。そ

の子供はもっと弱々しい。そんな弱く小さきものにたいして、杜甫は情

愛のこもった視線をじっと注いでいる。それはそのまま、悪逆無道の輩

に踏みつけられ、脅かされている人民に、憐憫の熱い涙を流す杜甫の姿

と重なってくる。いやもっと言えば、この鵞鳥の子は、杜甫自身の姿で

あるかもしれないのである。

黄なるもの見えきて

蜜柑の近づき来たるを

よろこび知る

﹇1259_

放船﹈

房公湖で遊んだ漢州をあとにして、杜甫は綿州を経由してまた梓州に

帰っていった。宝応二年(七六三)、春の末である。夏から秋にかけて

しょうい

は、新任の梓州刺史章彝との交流が盛んであった。

ぼう

しゅう

秋八月、房

かん

が都に帰り着くことなく、旅途の

ろう

州で死去した。六

十七歳であった。杜甫は九月中旬、

州におもむき、房

をとむらった。

もと

しょうこく

九月二十二日の日付のある、その哀悼文の﹇2515

_

故の相国の清河の房

公を祭る文﹈は、杜甫第一の文とまで称され、名文の誉れが高い。

十月、十一月、杜甫は引き続き単身、

州にいた。

州は今年二度目

の滞在である。滞在中に人を見送って、

州から少し上流の蒼渓県まで

行った。次の詩は、蒼渓県からまた

州に戻ってくる時の詩である。

ふね

はな

放船

船を放つ

かく

おく

そうけいけん

送客蒼溪縣、

客を送る

蒼渓県

やまさむ

あめひら

山寒雨不開。

山寒くして

雨開けず

すべ

うれ

直愁騎馬滑、

直だ

騎馬の滑るを

愁え

ことさら

ふね

はな

かえ

故作放舟迴。

故に

舟を放ちて迴るを

作す

あお

ほうらん

青惜峰巒過、

青には

峰巒の過ぐるを惜しみ

きつゆう

黄知橘柚來。

黄には

橘柚の来たるを知る

こうりゅう

はなは

じざい

江流大自在、

江流

大だ自在なり

ざおだや

きょう

ゆう

かな

坐穩興悠哉。

坐穏かにして

悠なる哉

ふね

はな

船のともづなを

とき放ちて

ふなです

そうけいけん

たびびと

おく

蒼渓県に

われ

客を送りきたり

現代文による新しい訓読の試み (32)159

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やま

さむ

あま

ひら

寒くして

雨ぐも

いまだ開けず

うま

すべ

うれ

馬に騎りて

かえらんとすれば

みち滑らんかと

直だただ

愁え

あやぶみ

わざわざ

ふね

はな

かえ

舟を放ちて

ふねにのりて迴りゆくを

作す

あお

やまなみ

青きもの

とおざかれば

峰巒の過ぎさりゆくに

なごりを惜しみ

みかん

黄なるもの

みえくれば

さまざまなる橘柚の

ちかづき来たるか

知りてよろこぶ

かわ

なが

おのずか

おお

江の流れは

こころ自ら在るがままに

大いに

やすらかなり

すわ

おだや

おもい

ゆる

坐りごこち穏かに

わが興

のびのびと悠やかなるかな

「船のともづなを解き放って出航する」

わたしは、旅立つ友人を見送りながら、

州の西北二十四、五キロの

蒼渓県までやってきた。山あいのこの地は寒く、降り続く雨もまだあが

らない。

ここから陸路で、馬に乗って帰れば、山道が滑るのではないかと、ま

ことに心配される。そこでわざわざ船路で帰っていくことにした。

船に乗って外を眺めていると、やがて青い色が過ぎ去っていき、それ

は蒼渓県の峰々の景色であって、わたしはそれをいとおしむ。と思うま

もなく、黄色いものが見えてきて、それは

州の地に多い種々の蜜柑の

類であるとわかり、心楽しくなってくる。

この嘉陵江の川の流れは、はなはだ自在でやすらかである。船に乗っ

ていると、とても安定していて、わたしの気持ちもゆったりとしてくる

ことよ。

蒼渓県から二十キロあまり南の

州にもどるのに、陸路ではなく水路

にしたことを歌った詩。なぜ船旅のほうを選んだのか、わざわざ説明を

しているところが言い訳めいていて、思わずニヤリとしてしまう。なぜ

弁解めいたことを、言わなければならないのか、理由をあれこれ想像し

たくなるではないか。

三、四句目、船旅にした結果と、その理由を説明した部分は、流水対

という句法で作られている。「馬だと滑るので船にした」と、本来なら

一つの文のなかで言い終えることができるのだが、それを二句に分けて

対句仕立てにしている。だから上の句と下の句に分かれているのに、一

本の川の水が流れるように、上下で意味がとどこおりなくつながってい

る。これが流水対と呼ばれるもので、唐代から盛んになった。難易度が

高いとされる。杜甫はその最初期の名手で、多くの流水対の名篇を残し

ている。

それはともかく、こういう言い訳をする必要も無く、実は杜甫は川や

船が大好きなのである。杜甫は洛陽一帯の黄土地帯で育ち、二十歳のこ

ろはじめて江南に旅した。南船北馬ではないが、そのときはじめて杜甫

は、網の目のように発達した水路交通の便利さ、面白さを体験したに違

いない。また成都草堂にいたときは、小舟を所有していたし、先に紹介

あお

したように家族での舟遊びも楽しんだ。二年前の成都では「かわの滄き

波も、老いたる樹も、うまれつきの性として、わが愛する所なり」﹇1032

_

�樹為風雨所拔歎﹈と歌っていた。この杜甫の川好きは、高邁な理想

や、社会の矛盾に立ち向かう、彼の現実的な主張とはなんの関係もない。

個人の嗜好のレベルであって、理屈抜きに好きなものは好きなのであ

る。ここには杜甫の生活レベルでの、個人的な好みがあらわれていて興

味深い。

最後の聯は、詩題の船出に呼応して詩を締めくくっている。……山道

が雨で濡れて、馬でいくと滑りそうで不安だったが、船旅にして本当に

よかったことよ、落ち着いて安心して、乗っておれるわいな、と。ここ

が杜甫の一番言いたかった所であろう。

しかし、この詩のもう一つのピークは六行目「黄には…」の句ではな

古 川 末 喜158(33)

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かろうか。…青い峰々が過ぎ去っていくのは残念だが、黄色い蜜柑の木々

が近づいてくるのが嬉しい。平らかに訳せばそうなるのだが、ここは普

通なら上二字と下三字で意味が切れるはずの五言句が、上一字と下四字

で切れる、やや特殊な句作りとなっている。

その一・四の句切れに、忠実にしたがって読みなおせば、まず黄色い

色が杜甫の目に飛び込んでくる。最初はどんな物かよくわからない。し

かし、色だけは黄色とわかる。だんだん近づいてくると、それは私の大

好きな蜜柑だったではないか。という驚きになる。ロングショットから

次第にクローズアップする映画の手法を思い浮かべればよい。

動いていく景物が、杜甫の目から頭の中に反映され、それが蜜柑だと

認識されていく過程、それは一つの感動の過程であるのだが、それがそ

のまま詩として再現されている。その結果がこのような特殊な句の構造

を作らせたのであろう。もしも「船で流れ下り、岸辺に黄色い蜜柑の木

があらわれた」という語順で句を作ったら、その驚き、感動が半減して

しまうではないか。

恐らくはまずこの句が出来て、それと対にするために「青には…」の

上の句が作られたのであろう。よくあることである。しかし杜甫の力量

に感嘆するのは、そうやって謂わば二番煎じで、ひねり出された句であっ

たにせよ、その句も、真実味がこもって実によく出来ていることである。

杜甫は蜜柑が大好きだった。四年後の

州では、蜜柑園も経営した。

そのことはいずれ取り上げるであろう。

むすめ病みて妻うれえ

帰らんとする

わが心いそぐ

﹇1270_

中﹈

この時期、杜甫は成都の浣花草堂に見切りをつけていた。成都に戻ら

ず、梓州から船に乗り、

江を下って長江に入っていくつもりだった。

春から夏ごろまでは、少なくともそう思っていたようである。船も用意

していた。ところが、秋に

州に来てからは、

州から船に乗り、嘉陵

江を下って長江に入る計画に変更したと思われる。宝応二年(七六三)

の九月中旬から年末まで、杜甫は一時期をのぞいて、ずっと

州に滞在

していた。(七月に広徳と改元したので秋以降は、広徳元年となる。)

この年の正月は、安史の乱が終結し、中原以北がようやく一応の平和

を取り戻した。しかし、秋になると今度は西南から、吐蕃の勢力が長安

をうかがうようになっていた。ついに十月には長安が占領され、代宗皇

帝は長安を逃げ出すありさまであった。代宗が陝州に避難したという

ニュースは少し遅れながらではあったが、

州の杜甫の耳にも届いてい

た。杜甫が成都に来る前、一時は本気で隠遁しようかと考えていた秦州

や同谷あたりは、みな吐蕃に占領されたし、また吐蕃の騎兵は、成都西

北の山岳地帯にも迫っていた。杜甫の心中はおだやかでは無かった。

このころ杜甫は、巴蜀地方の防衛策を皇帝に訴える上奏文を、

州長

官のために代作している(﹇2501

_

州の王使君の為に、巴蜀の安危を論

ずる表を進む﹈)。その上奏文は、従来からの杜甫の主張と共通する部分

があり、そういう点からも杜甫と

州刺史との関係は、かなり密接だっ

たと考えられる。その

州刺史の援助のもとで、杜甫は翌年の長江下り

を準備していたのであろう。

そんななか、十二月、梓州にいる妻から手紙が届き、娘の病を告げて

きた。杜甫は急ぎ梓州に帰ることにした。

州から梓州までは二百二十

里、百二十キロ余りの道のりである。

ちゅう

はっ

ろう

中を発す

まえ

どくじゃあ

あと

もうこ

前有毒蛇後猛虎、

前に毒蛇有り

後には猛虎あり

けいこう

じんじつ

そんお

溪行盡日無村塢。

渓行すること尽日

村塢

無し

こうふう

しょうしょう

くも

はら

江風蕭蕭雲拂地、

江風

蕭蕭として

地を払い

現代文による新しい訓読の試み (34)157

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さんぼく

さんさん

てん

あめふ

ほっ

山木慘慘天欲雨。

山木

惨惨として

雨らんと欲す

むすめや

つまうれ

きゅう

女病妻憂歸意急、

女病みて妻憂え

帰意

急なり

しゅうか

きんせき

たれ

かぞ

秋花錦石誰能數。

秋花

錦石

誰か復た数えん

いえ

わか

さんげつ

いっしょき

別家三月一書來、

家に別れて三月

一書来たる

いず

とき

しゅうく

まぬが

避地何時免愁苦。

避地

何れの時か

愁苦を免れん

ちゅう

たびだ

ろう

中を発つ

まえ

どく

へびあ

しりえ

たけだけ

とら

わが前には

毒もつ蛇有り

後には猛しき虎あり

たにがわ

いちにち

どて

むら

渓ぞいに行くこと

まる日を尽くすも

塢をめぐらす村は無し

かわ

かぜ

しょうしょう

くも

江べの風はものさびしく蕭蕭とふき

雲はおもくたれて地にとど

はら

ちを払わんばかり

やま

さんさん

てん

あめふ

山の木ぎは

惨惨としてうすぐらく

天は

いましも雨らんと欲

むすめやまい

つま

うれ

かえ

こころ

病にかかり

妻こよなく憂え

いえに帰らんとする

わが意

いそ

あせりて急がば

あき

はな

にしき

いし

たれ

きたるときの

秋の花

うつくしき錦の石も

かえるとき

誰か復

かぞ

ふたたび数えん

かぞく

わか

みつき

家に別れをつげしより

三月はへにけり

たちまちにして

つまよ

ひと

ふみき

一つの書来たる

いず

とき

うれ

くる

まぬが

地を避け

さすらう

わがみ

何れの時か

愁い苦しみより

免れ

んやち

ゅう

「ろう

中郡を旅立つ」

旅ゆく道中のわたしの前には毒をもつ蛇がいて、後ろには猛々しい虎

がいる。谷川沿いに一日中いっても、一つの村落もない。

川辺にはヒュウヒュウと、ものさびしげに風が吹きわたり、空の雲は

どんよりと、低く垂れ込めて大地に触れんばかり。山の木々は気が滅入

るようにうす暗く、今しも雨が降りだしそうな気配である。

娘が病気になり、妻がひどく心配してき、わたしは一刻も早く帰りた

くて心はあせっている。来るときに咲いていた秋の花や、谷川の色鮮や

かな錦の石を、いま急ぎ家に帰り行くとき、いったい誰がまたゆっくり

と、数えあげ、めでる余裕などあろうか。

家族に別れを告げ

中に来て、三ヶ月がすぎさり、たちまち妻から一

通の手紙が届いた。戦乱から身を避け、さすらいの旅にあるわたしは、

いったい何時になったら、こんなつらい苦しみから、のがれることがで

きるのだろうか。

旅立ちの歌であり、その道中も歌う。この詩の書き出しの、なんと恐

ろしいことか。前には毒の牙をもつ蛇がおり、後ろには人食い虎が迫っ

ているのだ。毒蛇が冬にいるのかどうかはひとまず置くとしても、虎が

そんな身近にいたのか、単なる修辞ではないのかと疑ってしまう。しか

し当時、虎が人里近く出没していたことは、三峡の山沿いの町の、

時期の詩にしばしば出てくる。杜甫も自分の住まいの近くで何度か虎の

足跡を目撃している。この

州に下る途中、谷あいのさびしい青渓駅に

泊まったときには、

おそ

かたら

みみざとき虎に

ききつけられんかと畏れて

ひとと語うを得ず

畏虎不得語

と歌って、やはり旅先での虎を警戒している(﹇1441

_

宿青溪驛奉懷張員

外十五兄之緒﹈)。

実際に虎が出そうだったかどうかはともかく、この旅では、毒蛇や虎

が出そうな、そういう恐怖感に駆られている。まる一日行っても、まる

で人の気配はなく、山は薄暗く、川はわびしく風が吹き、雲は重く垂れ

込んで、天は今にも泣き出しそうな気配である。この前半四句の旅路の

風景は、恐怖や、ただならぬ不安をかりたてる情景として描かれる。そ

してその四句が、すべて次の五句目におおいかぶさってくる。……娘が

古 川 末 喜156(35)

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病気となって、妻が心配し、私は帰路を急いでいる……。この一句こそ

が、旅路の情景も気分も、そのすべてを支配している。ここに至って、

前半の恐れと不安の情景が、この時の杜甫の心のなかの情景として、描

かれていることが理解されてくる。

杜甫は、いましもこんな不穏な道中を、娘の病気を心配し、頼る人も

なく、不安がっている妻を気づかいつつ、心は千々に乱れて先を急いで

いるのだ。以前、杜甫は、疎開先にあずけた乳飲み子の女の子を、飢え

でなくしたことがある。そんな不吉な思いが、脳裡をかすめているのか

もしれない。病気を知らせてきた妻の手紙を受け取るや、居ても立って

もおれなくなり、とにかく

州を発って急ぎ梓州へ向かうという行動を

取ったのである。わが子のためにこんなに狼狽している杜甫。この時、

杜甫を旅立たせた動機は、ほかでもない、わが娘の病気である。

それまで、詩のなかで旅や交通の移動が描かれるのは、官の離任や赴

任、職を求めての旅、科挙の受験や落第のための上京や帰郷、同僚や読

書人の友人間での物見遊山や送別など、いずれも公的な場面が多かっ

た。しかしこの詩はまったく私的な、個人的な理由で旅している。しか

も男児のためではない。いずれ嫁に出す娘のためである。そんな娘のた

めに、杜甫はこんなに不安になって、慌てふためいている。むすこもむ

すめも区別はない。なんと情愛に満ちた父親であることか。そういう家

族の個人的な事情を、前面に打ち出した詩の作りかたが、詩の歴史の上

で画期的だなどという文学史的意義は、この際どうでもよくなってく

る。ひとえにわが子の病気を案ずる杜甫、それもまた、戦乱や重税で苦

しむ、農民を憐れむ杜甫と同じように、私たちの心を強く打つ。

五句目と七句目は、事が起こった順序からいうと、まず後ろの七句目

があって、前の五句目がある。つまり妻から杜甫へ手紙が来て、はじめ

て娘の病気も妻の心配も、杜甫は知ったのである。しかし作品上では、

その二つの句は、前後を逆にして、しかも分離してある。それによって

感情が、奥行きと広がりを持つことになったのである。仮にその二つを

時間順に並べなおして、一つの聯のなかでまとめて述べてしまうと、ま

るで散文のようになってしまわないか。

みつき

ふみ

むすめ

つま

うれ

家に分かれ

三月ぶりに

一つの書来たる、女は病み

妻は憂え

きゅう

わが帰らんとする意は急なり

これでは読者は、その因果関係をひろうのに気を取られ、余韻も生じな

いし、抒情もただよわない。詩は現実どおりに書けばよいというのでは

ない。ここには詩人としての冷静な思考がある。しかしそれは、あくま

で自分の真の気持ちを、そのまま表現するための作為であって、単に詩

のためになす技巧ではない。揺れ動く不安な気持ちをきちんと伝え、読

者にはストレートな事実関係だけで片づけて欲しくない、そういう杜甫

の願いがあるように思う。

(次号に続く)

古川末喜(佐賀大学

文化教育学部

日本・アジア文化講座)

本論は、学術研究助成基金助成金(基盤研究�)「中国古典文学におけ

るタブーの基礎的研究」(代表者:

釜谷武志・神戸大学教授)の研究成

果の一部である。

現代文による新しい訓読の試み (36)155