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BLAZBLUE ―ブレイブルー―1 カラミティトリガー�上> 原案・監修 森利道(アークシステムワークス) 駒尾真子 富士見書房 550

t1501 ブレイブルー1 面付BLAZBLUE―ブレイブルー―1 カラミティトリガー 上> 原案・監修 ‥ 森利道(アークシステムワークス) 著‥駒尾真子

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Page 1: t1501 ブレイブルー1 面付BLAZBLUE―ブレイブルー―1 カラミティトリガー 上> 原案・監修 ‥ 森利道(アークシステムワークス) 著‥駒尾真子

BLAZBLUE―ブレイブルー―1カラミティトリガー上gt

原案監修 森利道(アークシステムワークス)著

駒尾真子

富士見書房

550

目プロローグ

5

第一章

Stra

tum city

||階層都市

16

第二章

Spira

l fate

||盤ばん上じようの駒こま

78

第三章

Grim

Rea

per

||死神と呼ばれた男

118

第四章

Burn

ed church

||兄弟

174

第五章

Calamity b

lack

||黒の終しゆ焉うえん

231

あるひとつのおわり

280

あとがき

287

3

口絵本文イラスト

杉山友希(アークシステムワークス)

プロローグ

人ひと里ざと離はなれた森の近くに一いつ軒けんの教会が建っていた

白い壁かべに緑色の屋根の建物で近くには大きな木が寄り添そうように佇たたずんでいる

周囲はなだらかな平地だ

の低い緑の草が大地を埋うめて生おい茂しげりあちこちで白や黄色の

花がやわらかな風に揺ゆれるその中を一本の小道が緩ゆるやかにもっとも近いhelliphellipといってもお世

辞にも近所とは言えない村への道のりを描えがいていた

そこはかつて大規模な戦争が行われた場所だった人類の存続をかけた巨きよ大だいな魔ま物ものとの

戦い||暗黒大戦世界中の人類が立ち向かった戦争の終結の地がここだ

絶望と向かい合った決戦からもう七十年以上たつ

今では大

が命を落とし血を流した場とは思えない豊かな自然に恵めぐまれた穏おだやかな景色が

広がっていた

その景色の中緑と土の匂においをたっぷり含ふくんだ心ここ地ちいい風を浴びながらひとりの女性が玄げん

かん前を箒ほうきで掃はいていた

踝くるぶしあたりまである白と黒の服は古めかしいデザインの修道服で頭にも揃そろいの頭ず巾きんをかぶっ

プロローグ5

製のベリージャムが昨日でなくなってしまっていたのを思い出した明日はお願いしている食

料品の配達が来るから残っている小麦でパンを焼こうと思っていたのに

「今からじゃ駄だ目めよねぇhelliphellip日が暮れてしまうもの」

教会の後ろに広がる森をながめてシスターは残念そうにため息をついた

何十年も出入りしている森はもう庭のような気軽さで歩き回れるもし足あし腰こしが十代のころ

のような丈じよ夫うぶさであったなら今からでも遅おそくはないだろうがさすがに体がそれを許してはく

れないだろう

もっとも十代のころはしょっちゅう道を見失ってジャム用に採ってきた果物を食べなが

ら何時間も森の中をさまよい歩いていたのだが

「忘れっぽくていやねふふっ私ももう立

なおばあちゃんだわ」

仕方がないからジャムは明日にしようそう思って箒に手を添える

だがそのときふとシスターは空気のにおいが変わったことに気づいて顔を上げた

血のにおいがするそう思った

のしゆ間んかん彼女は森からなにかが飛び出してくる物音を

た草

を踏むふたつの音は二足の動物のものいや動物というよりこれは人の足音だった

シスターは箒を

の脇わきに立てかけると長い修道服の裾すそを持ち上げて教会の裏手へ駆かけ出す

すぐに見つけた小さな人ひと影かげがふたつこちらに向かって歩いてきている

そのうちの先頭を行く

を目に留めた途と端たんシスターは思わず足を止めた両手で口を覆っ

プロローグ7

ている彼女はこの教会に暮らすシスターだもう何十年もたったひとりでこの土地に住ん

でいる

なにもない場所だ教会と共に集落があったわけでもなければここまではるばる救いを求

めて人が来るわけでもない

戦争が終わったあとどこからともなくやってきてここに教会を建て以来ずっとこの土地

を守るかのようにひとりひっそり暮らしている

彼女のかぶる頭巾の内側からは微かすかに茶交じりの白しら髪がが覗のぞいていた体はほっそりとやせ

気味で箒を操あやつる手もまた細く皺しわに覆おおわれている穏やかな午後の陽光に自然と優やさしい微笑ほほえ

みを浮うかべた顔も深い皺がいくつもあってもう若い娘むすめの張りからは程ほど遠とおい

それでも彼女は濡ぬれた大地の色を思わせる深い茶色の瞳ひとみを持つ彼女は若かりしころの面おも

影かげを失わず快活な生命力にあふれていた

齢よわいはもう百近いはずだと噂うわさされているけれどどうしてかそれにしてはあまりに若く見え

る容

と身のこなしだ

とびらのすぐ近くでぼんやりしている小さな虫を見つけて間まちがって踏ふんではいけないとしゃが

み込んで摘つまみ上げひょいと草地へ放ほうる動作もとても百近い老女とは思えない軽さだ

「あいけないいいお天気だったら森でなにか果くだ物もの採ってこようと思ってたのにすっかり

忘れてたわhelliphellip」

再び掃き掃そう除じを再開しようとして歳としを重ねたシスターははたと気づき頰ほおに手をあてる手

6

「久しぶりだなシスター」

猫の口を歪ゆがませて負傷した獣人獣兵

は皮肉っぽく笑った

シスターはその場に膝ひざをついて目線を義兄と合わせた近づくとなお一層不穏な臭いが濃こく

感じられて悪お寒かんが

筋をくすぐっていく

「お久しぶりですけどまあなんてことhelliphellip傷だらけじゃないですか一体どうしたっていう

の獣兵

さん」

「色々とあってな悪いが事情を全部説明している時間はない」

楽な状態ではないだろうにボロボロに傷ついた猫人は苦痛をにおわせない平常の声こわ色いろで答

える

そんな様に眉まゆを寄せてシスターは反射的に手を獣兵

の額にかざしただが数秒のうちに

その手を力なく握にぎりこむ

「ああhelliphellipそうだったわもう治してあげられないんだった」

かつてこの手には治ちゆの力があった触ふれて念じるだけで傷をいやし痛みを遠ざけることが

できただがその力も歳を重ねるごとに徐じよじ々よに薄うすれ数年前にはすっかり失われてしまった

獣兵

が小さく首を振ふる

「気にすることはないかすり傷だそんなことよりお前に頼たのみたいことがある」

「頼み」

尋たずねながらシスターはなにを託たくされるのか薄く

していた

プロローグ9

て目を見開く驚おどろいた

シスターを見つけてわずかに歩調を速めた人影は正確には人ではなかった

は人間の子供程度全身は白と茶色のツートーンの体毛で覆われていて先が二ふた股またに分か

れた長い尾おを低く下げている羽織った上着のフードには三角の耳が取り付けられていてそ

の下には本物の三角耳が隠かくれているはずだ

歩み寄ってくる人物は二足で立つ猫ねこの

をしていた獣じゆ人うじんだ今はもう世界中に数えるほど

しかいない希少な種

だがシスターが驚いたのは珍めずらしい獣人を目もく撃げきしたからではないそれが自分の姉の夫何

十年も顔を合わせていなかった義あ兄にだったからだ

「獣じゆ兵うべえさん」

名を呼び我に返ってまた走る血のにおいだ近づいてくる獣兵

から漂ただよってきている

目の前まで駆け寄ってシスターは再度驚くどこか怪け我がでもしているのかと思っていたが

間近でよく見ると一つや二つの怪我ではなく全身傷だらけだったのだ

フードの下から覗く猫の顔は額から出血しており黒く変色した血が茶色い毛を汚よごしている

服は埃ほこりと血で不ふ穏おんなま斑だら模様になっていた傷を押さえているのか腹部に巻きつけられたボロ

布には赤黒い血がべったりと滲にじんでいる

その

からなにがあったのかを推おし量ることはできないけれどなにかがあったことだけは

その血が鮮せん烈れつに物語っていた

8

「大丈夫だ信じろラグナ」

もう一度獣兵

が拒こばむ少年を説く

その低くたしなめるようでもあった呟つぶやきに小さくシスターが息をのんだ

「helliphellipラグナ」

思わずく唇ちびるからこぼすように呼んだ

その名に弾はじかれたように少年が獣兵

の肩から手を離して腕に抱だく少女を隠すように身を

引いた

まるで怯おびえた子犬のようだ傷ついて空腹で苦しくてだけど自分より小さな者を守らねば

と懸けん命めいに足を踏ん張りきばを剥むくそんないじらしい

にシスターは微笑みを浮かべて温かく

少年を見つめた

「貴方あなたラグナというの」

向けられた視線にか声色にかそれとも言葉にか少年は戸と惑まどったようにうろたえ獣兵

を見てその

の少年と自分の腕の中の少女を見たそれからためらうようにシスターへと

視線を戻もどすとhelliphellip警けい戒かいの針を向けながらも小さく浅く頷うなずく

間シスターは胸に温かなものが灯ともるのを感じた

まだ若かったころ目め尻じりに深い皺もなく髪も白くなかったころ出会いそして別れた人

を思い出す

少年はあの人によく似ているそして記憶の中のあの人もラグナという名前を持っていた

プロローグ11

獣兵

は小さな子供を

負っていた少年だぐったりともたれかかった体は力なく気を

失っているか深く眠ねむっているかのどちらかだろう

後方にはもうひとり少年がいたこちらは獣兵

負われている少年よりもいくつか年上

のようで荒あらい呼吸に

せた肩かたを上下させながらまるで手負いの獣けもののようにシスターを見つ

め睨にらんでいる彼の腕うでの中にももうひとりこちらは小さな少女がやはり意識なく身を預けて

いた

三人の子供よく似ている不健康なほど白い肌はだに薄うす汚よごれた金色の髪かみ瞼まぶたを持ち上げている

のは自分の足で立っている年上の少年だけだったが彼の風ふう貌ぼうからするにきっと三人とも美し

い緑色の瞳を持っているのだろう

「この三人を預かってくれこの教会に置いて育ててやってほしい」

そう言って獣兵

に載のせていた少年をシスターに渡わたそうとする

だがその前に後方にいた少年が自分と同じくらいの位置にある獣兵

の肩を摑つかんだ傷だ

らけの腕で抗こう議ぎするように強く

「心配するなシスターなら大だい丈じよ夫うぶだいやhelliphellipシスターでなければ駄目なんだここ以上に

安全な場所はない」

なだめるように獣兵

が語りかける

だが少年は緑色の瞳を鋭するどく尖とがらせ眠る少年に触れることを許さないとばかりにシスターを

眼光で射い貫ぬいていた

10

「こいつらを頼めるか」

普ふ段だんならば愛らしくもある猫の容

で獣兵

は重く問う

そんな重さをいとも容易たやすく掬すくい上げるようにシスターは軽かろやかに顎あごを引く

「もちろんいいえむしろ私からお願いするわこの子たちの面めん倒どうをみさせて」

ジンの頭をそっと抱き寄よせて乞こうようにシスターは言う

涙なみだが出そうだった溺おぼれるような嬉うれしさゆえだこんな未来がこんな運命が待っているな

んて思ってもみなかった

「この子たちを守る役目を私にちょうだい」

シスターの言葉に獣兵

はため息をついて猫

の肩を落とした安あん堵どの吐と息いきだった

「ラグナ彼女がhelliphellipシスターだ」

彼女の本名を告げるかどうか迷って結局近年呼び慣れた呼こし称ようで紹しよ介うかいすると獣兵

は後方の少年を前へと出した

彼はどうしたらいいのかわからないらしく険しい表情を頑かたくなに守ろうとしながらも困こん惑わくに

瞳を揺ゆらしシスターを見る

その強張った顔にシスターが手を伸のばすと小さなラグナはびくりと肩を飛び上がらせ下が

ろうとした

構わずにシスターは彼の頭へ手を置いたぽんぽんと髪を押さえるように撫なでる

「初めまして貴方たちに会えて嬉しいわようこそ私の教会へ今日からここが貴方たち

プロローグ13

ああまるで魔ま法ほうみたいだそれとも奇き跡せきだろうかシスターは瞼を伏ふせると感謝の祈いのり

を捧ささげた

その瞼が再び持ち上がるのを待って獣兵

が改めて

の少年を下ろしたシスターに差し

出すラグナという名の少年は迷いながらも今度は制止しなかった

眠り続ける細い体を受け止めてシスターは意識のない少年を胸に抱く腕の中の小さな体

の温ぬくもりがシスターの過去の記憶をより鮮せん明めいにさせた

「この少年がジンであいつが抱いている少女がサヤだそれから今も言ったがあいつの名

前がラグナ」

獣兵

が少年たちを順に紹介していく

ジンサヤラグナ

教えられた名前をシスターは胸中で何度も繰くり返した何度も何度も大切なものを包み込

むような温かさで何度も

「ジンにサヤそうこの子たちが貴方のラグナの弟と妹なのね」

「ん

その通りだがhelliphellipシスターどうして知っている」

「だって昔に

いたんだもの大切な弟と妹がいるって」

そうずっと昔にあの人から

いた大事な約束を交かわしたあの人から

義兄はなにかを思い出すような目でどこか遠くを見やり力を抜くように笑む

そうかと低く独りごちるように呟いてから改めてシスターを見た

12

近くに小川が流れすぐ裏手には実り豊かな森がある

そこはかつて大きな戦争があった時代の決戦の地けれど今は誰だれもが忘れた土地

緩やかで草深い草原の中ぽつんと建つ小さな教会で

老いたシスターと三人の子供の慎つつましくも賑にぎやかな生活がこの日始まった

||ねえラグナあなたは私に会えたかな

プロローグ15

の家よ」

温かく話しながらシスターは思う

遠い日に交わした約束それが果たされる日をずっと待っていたこの日が来るのをずっと

ずっと待っていた

ジャムを作らなかったことを頭の隅すみで後こう悔かいするもし作ってあったならこの子たちにお茶

と一いつ緒しよにジャムをたっぷり塗ぬったパンを食べさせてあげられたのに

「お帰りなさいラグナ」

きっと声が震ふるえていたせいだろう

口を結んだまま警戒を緩ゆるめられずにいるラグナの緑色の双そう眸ぼうに一

心配するような色がよ

ぎるから

やっぱり本当は優しい子なのだと思ってしまったから

シスターは目尻から透とう明めいな雫しずくをこぼしながら喜びのままに少女のように微笑ほほえんだ

||ねえ覚えてる

||あの約束を覚えてる

||私は会えたよ

||ねえ貴方は会えた

14

げる

身を隠かくすつもりは毛頭なかったむしろ向こうが見つけて仕し掛かけてくるならその都度叩たたき

のめすのが彼のやり方だ

こそこそやるのは性しように合わないどうせ目立つならできるだけ

手に振る

っていつか自

分の襲しゆ来うらいを

いただけで連中がに

げ出すようになればいいと思う

もっともそんな虫のいい話はないだろうと思ってもいるが

すぐに青と白を基調とした制服に身を包んだ男が五六人銃じゆうを抱かかえて走り込んでくる

こちらの位置に気付いていなかったのかはち合わせた途と端たんに先頭の数名が動どう揺ようして足を止

めた

だが彼は止まらない歩みを疾しつ走そうに変えて一直線に突つっ込こむと手の剣を大きく振ふりかぶっ

「止まれ

止まらなければ撃うつ」

制止の声に意味はない

制服

の男たちがそれぞれに銃を構えた即そく座ざに全員が発はつ砲ぽうするけたたましい発砲音が廊

下に響く

がその直後彼は振りかぶった剣を

いよく薙ないだ

「うらぁぁぁぁぁっ」

剣から黒く禍まがま々がしい揺らめきが放たれて宙を駆かけ迫せまる銃じゆ弾うだんのすべてをの

み込んで掻かき消し

第一章 Stratum city 階層都市17

第一章

Stra

tum city

||階層都市

アーチ状に造られた白く高い天てん井じように慌あわただしい足音がいくつも響ひびいていた

誰もが口々に警戒と攻こう撃げき指示を口にする侵しん入にゆ者うしやを捕つかまえろ殺せこれ以上進ませるな

そう叫さけぶ声はしつ

咤たや激げき励れいというよりもっと

痛な音に引きつっておりひどく追い詰つめられた

状じよう

況きようを如によ実じつに物語っていた

廊ろう下かの先から

こえてくるそれらを

きながら

彼は迷いや躊躇ためら

いなど微み塵じんもなくいっそ悠ゆう然ぜんとした振るま

いで近付いてくる足音のほう

へと進んでいた

白い髪に左が緑で右が赤という左右で色のちが

う瞳ひとみがっしりした体つきに黒い服を纏まとい

その上に目の覚めるような真っ赤なコートを羽織っている

(helliphellip後から後からよく集まってくるもんだ)

ぼやくように思いながら彼はそれまで肩に担いでいた幅はば広びろで分厚い刀身の剣けんを手にぶら下

16

彼はなにもひっそりとここに忍しのび込んだわけではない

を守る警

員を殴なぐり倒して正面

から堂々と侵入したのだ

まるで自分の力と存在を誇こ示じし深く爪つめ痕あとを残すように彼は暴れに暴れて手あたり

第に破

壊し奥へと進んだ立ちはだかるものはなんであろうと斬きり倒すそんな暴力的な歩みで進

んで進んでhelliphellip

そうして彼が到とう達たつしたのは長い長いし昇ようこう装置で

りた先のぽっかりと口を開けたような

地下深い広間だった

helliphellipそこはもうこれまで通ってきた廊下や部屋とは

う世界だった

空気が

う温度が

床ゆかも壁も天井も金属に似た質感の板で覆おおわれており広場を見下ろす位置にガラス張りの小

部屋が設けられているその下にも重じゆ厚うこうな機械類が並んでおりそれらが見み据すえる先で異様に

大きななにかの装置が沈ちん黙もくしていた

人は誰もいないここにいたはずの人間は皆みな襲しゆ撃うげきの知らせを受けて避ひ難なんしたのだろうそ

してここに駆けつけるはずの人間は皆白はく髪はつの侵入者が蹴け散ちらしてしまった後だ

一歩一歩彼は広間の奥に鎮ちん座ざしている巨きよ大だいな装置へと足を進めた

異質さが体にまとわりつくようだった

第一章 Stratum city 階層都市19

てしまう

揺らめきはそのまま炎ほのおの速さで走りじ弾だんを浴びせる制服たちへと迫ると一息に吹ふき飛ばし

たご

うと炎が逆巻くような音が巻き起こり男たちの体は

鳴ごと攫さらわれて壁かべに叩きつけら

れる衝しよ撃うげきに負けて壁に太くヒビが走った

たった一撃それだけで銃を構え勇ましくも侵入者を迎むかえ撃とうとしていた男たちは全員

意識を失い廊下に倒たおれ伏した

「helliphellip倒されるってわかってんだからのこのこ出てくんじゃねぇよ馬ば鹿かが」

あっけないものだ倒れた制服

を横目に見やると大きな剣を携たずさえた彼はすぐさま廊下を

走り出す

いつまでもこんなところで時間を食っている場合ではない

向かうのはこの施し設せつの一番奥最下層だ

また廊下の奥から青と白の制服

が現れる口々に叫びながら銃を構えあるいは剣を抜ぬい

た人

数はさっきよりも多いがだからといって彼のやることに変わりはない

真正面から突っ込んですべてを振り払はらい叩きのめす

々に制服

の力ない体が廊下のあちこちに転がりセキュリティ装置はことごとく破は壊かいさ

れ口を閉とざすとびらすら叩き切られて鉄くずに変えられた

18

この世でありながら別の世であるかのような本能が警告するい和わ感のようなものが空気の

代わりに漂ただよっている

けれど彼には慣れた空気だった

もう幾いく度どもこういうところにはやってきているのだここと同じ構造をして同じ装置を地

下に隠した施設をこれまでいくつ訪ねたかわからない

毎度訪問の目的はひとつ

この巨大な装置の破壊だ

彼は床を踏ふみしめるようにして歩み寄る

これがなんのために存在しているのかここで働いていた者のどれほどが把は握あくしていたのだ

ろう

来るたびに彼は棘とげのような疑問を感じる

これがなにをもたらすと思って毎日毎日こんな陰いん気き臭くさい地下深くまで

りてきて用よう途とも

わからないチカチカ光る計器をいじくり回していたのだろう

縁へりまで来ると彼はそれを睨にらみ据すえる

銀色の金属で組み立てられた装置は見上げるほどに高くそびえ見下ろすほどに深く大き

かった

メインとなる部分は彼が見下ろす円形の部分だ

これは『窯かま』だった

20

第九階層都市アキツ世界虚こ空くう情報統制機構支部

都市の中心に建っていた施設が何者かの襲撃によって崩ほう壊かいしその騒動で都市全体が混乱し

ている中

赤いロングコートを着た白髪の男はひとりひっそりと都市から去ろうとしていた

もうここでやるべきことは終わった長居は無用だ

施設での

手な立ち回りに反して外では人目につかぬよう入り組んだ道を通りできるだ

け薄うす暗ぐらい出口を選んだ

街中で制服を着た

士たちに見つかれば振り払うために戦わねばならないそれが煩わずらわし

い錆さび

臭くさい鉄門をくぐって奥にあるポートへ向かうその脇わきにある通路を下れば外に出られる

はずだ

そのときふと薔ばら

の香かおりが彼の鼻び孔こうをくすぐった

「まるで行き場を失った野の良ら犬みたいね」

淡たんた々んとしたあざけり

の声が

こえ彼は足を止めて振り向いた傍かたわらに佇たたずむ細い外灯を見上げる

先せん端たん

が二ふた股またに分かれたシンプルなそれの上にひとりの少女が立っていた

歳としは十を過ぎて数年といった程度だろうかまだ幼い顔立ちをしながらも足元からの薄暗

い明りに照らされて浮うかぶ赤い瞳は外見の年とし頃ごろに似合わぬ聡そう明めいさをたたえている

第一章 Stratum city 階層都市23

今はいくつもの金属板が折り重なるようにして口を閉ざしているが開けば内は火山の火口

のようになっている炎えん色しよくの溶よう岩がんのようなものが渦うずを巻いて覗のぞき込む者のすべてをのみ込ま

んと燃え盛さかっているのだ

だが中でわだかまっているものは決して溶岩や炎などではない

そこにあるのは異界だ人が本来あるべきではない世界のひずみ走った亀き裂れつの向こう側

見てはいけなかった踏み込んではいけなかった世界のからの外側

彼が見下ろす金属の装置はこの窯を制せい御ぎよしまた窯に干渉するためのものだ

本来及およぶべきものではない異界||境界に触ふれるための装置

彼は世界中に散らばるこの窯を破壊して回っていた

こうして

めてみても今いま更さら感かんがいもない

彼は剣を腰こしに戻もどすと右手を装置へと向けて突き出した何事か呟つぶやくもう何度も繰くり返し

口にしてきた破壊をもたらす言葉

言葉は彼の右みぎ腕うでで眠ねむっていた力を呼び起こし力は彼の右腕に蒼あおい光を生んだ

またたく間に辺りを埋うめ尽つくすほどに増ぞう幅ふくされた光を彼は装置に向けて思い切り放つ

のしゆ間んかん地下深くで口を閉ざしていた異界への門はそれを囲む広大な部屋ごと跡あと形かたもな

く吹き飛んだ

22

別に行き先などどこでもいいカグツチならここアキツからでもそう遠くはない

彼は忌いまい々ましげに少女の消えた辺りを睨みつけると示された

の目的地を目指して歩き出し

た数

日後彼の名は世界中に指名手配犯として公開された

ラグナザブラッドエッジ

それが『死神』の異名を持つ史上最高額の賞金首の名だった

2199年12月30日||13時27分

約百年前世界は一度滅ほろびかけたという

突とつ如じよ現れ世界中を破壊して回った巨大にして異形の怪かい物ぶつhelliphellip『黒き獣けも』の

その圧あつ倒とう的な力に人類は為なす術すべもなくあっという間に世界の人口は半分に減った

ところがそこに六人の勇士が現れた

第一章 Stratum city 階層都市25

下方の彼を見やって少女は薄うすく微笑ほほえんだ

「薄うす汚ぎたない迷子の野良犬さん

に貴方あなたが行くべき場所を教えてあげましょうか」

「helliphellipなに企たくらんでいやがる今まではそんなこと教えなかったじゃねぇか」

吐はき捨てるように彼は低く呻うめいた

少女は呆あきれたように眉まゆ尻じりを下げる

「心外ね教えてきたじゃないhelliphellipもう何度も」

「はぁ

なに言ってんだテメェ」

「覚えていないならいいのよ期待もしていないわ」

指に絡からまった糸くずでも払うように言うと少女はある方向をその白く小さな手で示した

その先に広がるのは暗雲を抱いだく暗い夜空星も月もない夜はまるで不ふ穏おんな予感を掻きたてよ

うとするかのように重苦しく静かだった

「第十三階層都市カグツチ」

そこが貴方が導かれるべき場所よ

そう告げると少女は薔

の香りを漂わせ風が吹き抜けるように

を消した

甘い花の香りが消えると白昼夢から現実に引き戻されたかのようにどこからか金属とくさ

った水の臭においが漂ってくる

気分のいい場所ではない

「カグツチhelliphellipね」

24

た街は山の高度に沿って上下に広がり結果幾いく重えにも市街のプレートが重なった狭せまくも高

い都市が生まれたのだ

ここ第十三階層都市カグツチもまた世界中の都市がそうであるように複雑な多重構造と

なっている都市だった

その中の折り重なった市街のひとつオリエントタウンの入り組んだ細い道を彼は少々ふ

らついた足取りで歩いていた

白い髪かみに左は緑右は赤という左右で色のちが

う瞳ひとみ全身を包む黒い服に目の覚めるよう

な真っ赤なロングコート腰には幅はば広びろで分厚い刀身がと特くち徴よう的な剣けんが下げられている

ラグナザブラッドエッジ

世界虚空情報統制機構の支部を各地で壊かい滅めつさせているSS級の指名手配犯であり史上最高

額の賞金首が彼だ

とはいえ周囲を行き交かう街の住人は誰もラグナを気にしたりはしないどうせまたどこか

らか無法者が入ってきたのだろうそんな程度の視線が時折興味もなさそうに掠かすめては離れ

ていく

ここはオリエントタウンカグツチの下層に位置する街だ

階層都市はその構造上上層の街であるほど魔素から遠く安全で清潔で逆に下層に行くほ

ど管理が行き届かず魔素に近い階層都市において上下は住みやすさだけでなく晒さらされる命

の危険の度合いをも意味している

第一章 Stratum city 階層都市27

彼らは事象兵器

アークエネミーと呼ばれる武器を手に黒き獣にいどみ災さい厄やくの魔ま物ものを倒し人類に未来をもた

らした

六英えい雄ゆうと讃たたえられた彼らは人知れず歴史の海に

を消し行ゆく方え不明となったがそれでも彼ら

の栄光は伝説として語かたり継つがれた

それは近くも遠い昔の話

今の世にかつての黒き獣との戦争||暗黒大戦の誰だれもが知るような名な残ごりがあるとすれば

それは大きく数えてふたつだろう

ひとつは世界虚空情報統制機構

暗黒大戦のとき六英雄と共に戦った世界的な連合軍が母体となった組織であり現在は世界

中をこの組織が統とう括かつしている

そしてもうひとつが魔素

災厄の魔物黒き獣の出現と共に世界中であふれ出した物質で黒き獣が倒たおされた後も依い然ぜんと

して世界の空気中に残り続けた

今では様々なテクノロジーにも利用され人々が暮らしていくうえでなくてはならないもの

となっているがそれでも多量の摂取は人体への危険を伴ともなう

そのため人類は魔素を利用しながらも魔素を避さけて生活しなければならなかった

魔素は地表に近いほど濃こく滞たい留りゆうしているそこで考え出されたのが階層都市だ

高山を基き軸じくにしてそこからプレート状に築いた市街を突つき出させるようにして街を建設し

26

っている

そのうえあちこちの路地を塞ふさぐように木箱やらなにかの詰つまった袋ふくろやらが我が物顔で腰を下

ろしているものだから何気なく入った路地が通り抜ぬけられないこともしばしばある

赤い柱にぎょろついた目玉のついた奇きみ妙ような像街中に小さな明かりの灯った提ちよ灯うちんがぶら下げ

られていてそれ以上におびただしい数の大小の看板が眩まぶしいネオンを輝かがやかせている

普ふ通つう下層の街というのはいくつもある上層の基き盤ばんに陽光をさえぎら

れて昼間でも薄暗く場所に

よっては真っ暗になるものだがここはそんな暗がりとは無む縁えんのようだ

路地を抜けると少し開けた通りへ出た

左右にずらりとなにかの店が並んでいてどうやらこの辺りのメインストリートらしかった

その分掲かかげられた看板の数もその

手な色しき彩さいも段だんちがいだ

(この辺なら統制機構の連中もいねぇだろ)

比ひかく的広い通りでもいかにもこの街の住人といった人間ばかりが歩いていて世界虚空情報

統制機構の例の忌いまい々ましい青と白を基調にした制服は見当たらない

ありがたい話だもし見つかれば曲がりなりにもラグナは重大犯

者周囲への配はい慮りよもな

にもなく雨あられと発はつ砲ぽうされ

から

へと集まってくる

士たちと追いかけっこを演じなけ

ればならなくなる

ラグナは左右をきょろきょろと見回しながら腹部に手をやった

疲労より空腹が辛つらいカグツチに入ってからというもの食料品を扱う店に巡り合えず持

第一章 Stratum city 階層都市29

当然最上層を占せん拠きよしているのは管理機

でもある世界虚空情報統制機構だその

連施し

設せつや

係者の住宅が市街のほとんどを占しめている

続いて権力に近く裕ゆう福ふくである者が上層階に住まいそうでない者はその

産や身分に順列を

つけるように下へ下へと下っていく

オリエントタウンに住んでいるのはそういった順列の結果ここまで追いやられてきた人間

たちだった

誰も彼もお世辞にも裕福とは言えない自分と家族それから少しの親しい人間の生活の

ことで精いっぱいで見るからに異質な白髪の男にかかわって余計な面めん倒どうに首を突っ込みたが

る酔すい狂きよ者うものなどほとんどいないのだ

もっともラグナ自身も周囲の人間の様子に気を配っている余よ裕ゆうはあまりなかった

今は使われていないは搬んに入ゆう口からカグツチに侵しん入にゆうしたのが二日前それからずっと人の通ら

ない裏道や廃はい棄きされたエリアを通ってきた図はかったわけでもないのに延々と歩かざるを得なか

った悪路に正直疲ひ労ろうが募つのっている

帰りはもっとまともな道を通ろうそう決めていた

「にしても下層にしちゃ賑にぎやかな街だな」

辺りを見回しラグナはぼやくように率そつ直ちよくな感想を口にした

オリエントタウンは無計画にとにかく乱雑に家を建て並べたことがよくわかる入り組んだ

造りをしていた道は狭くやたらに折れ曲がり家々は今にも密着しそうに身を寄せ合って建

28

「うhelliphellipう」

微かすかに震ふるえる声で呻き少女はゆっくり顔を上げる

ラグナを見上げたフードの中におそらく誰もが想像するであろう少女の顔はなかった

あるのは黒い暗い闇やみを詰め込んだような陰かげその中でへなりと下がった赤い目らしき丸と

白い歯の並ぶ下を向いた三日月形の口だけが浮かんでいる

ぴくぴくと痙けい攣れんするようにフードについている三角の耳が震えた

人間ではないけれど獣のような尻尾や耳を持つ獣じゆ人うじんとも様子が

「もしかしてhelliphellipカカ族か」

このような奇きみ妙ような風ふう貌ぼうの生き物をラグナは過去にも一度見たことがあった確か剣けんの師しし匠よう

を訪ねてきたはずだ同じような黒い顔に実にシンプルな顔のパーツ目の前にいる少女とそ

のとき目にしたカカ族の女は明らかに別人だがこのと特くち徴よう的な容

は他にあるまい

もっとも『カカ族』という名めい称しようを知っているだけでつまりどういう一族なのかをラグナは

知らないのだが

さてこの少女をどうしたものか

わらずに引き返すべきか見なかったことにして先へ

進むか

咄とつ嗟さのことに決めあぐねていると顔だけを起こしたカカ族の少女はその弱り切った様から

は想像もできない俊しゆ敏んびんさで突如ラグナの足にしがみついた

「うおぁっななんだ」

第一章 Stratum city 階層都市31

ち歩いていた保存食も底をつき昨日の夜からなにも食べていないのだそろそろいい加減

限界が近い

いくら下層街でもこの雰ふん囲い気きなら飲食店くらいいくつかあるだろうそう思って雑多な看

板からそれらしい名前を探しているとhelliphellip

なにかやわらかいものを踏ふんだ

「ブニャッ」

同時になにかの鳴き声が足元から

こえた

「げっ」

犬か猫ねこでも踏みつけたかと思ってラグナは慌あわてて足をどける

が見下ろしたそれは予想に反してずいぶんと大きなものだった

というより人だったり両よう腕うで両足を地べたに投げ出し力なく倒れ伏ふしている少女だ全身

をすっぽりと覆おおうフードつきのローブから長い三つ編みの髪とかつ色しよくの肌はだの足が覗のぞき見えてい

るhellip

hellipいや

「なhelliphellipなんだテメェ」

警けい戒かいというより疑問一色の声で問いかけるラグナの視界でひょろりと弱々しく細長い尻しつ尾ぽ

が揺ゆれた

尻尾はその倒れた少女から生えていた

30

「はぁ

おおいどうした大だい丈じよ夫うぶか」

あまりにも切せつ羽ぱ詰つまった声を出すものだからさすがに少し心配になった持ち上げていた足

を下ろして陰を詰めこんだような顔を覗きこむ

まるで黒いお面のような顔は目も口も情けなく下げてラグナを見上げ今にも気を失いそう

な弱さで訴えた

「おhelliphellipお腹なかが空すいたhelliphellipニャス」

黄色いクロスがかけられた丸いテーブルの上にいくつもの皿が並んでいた

揚あげた鶏とり肉にくに薬味だれをたっぷりかけたもの肉団子と色いろ鮮あざやかな野菜の甘あま酢ずあん炒いため四

角く切り分けた豚ぶた肉にくを甘あま辛からく味付けしたこってりとした煮に物ものに山と盛られた炒め飯牛肉と

野菜を濃い味の味み噌そで炒めたもの細切りにした野菜を薄うすい皮で包んだパリパリの春巻きに

挽ひいた肉を包んで蒸むしたふかふかの饅まん頭じゆhellipうhellip

白い湯気と共に胃いぶ袋くろを震わせずにはおかない匂においを放つ数々の料理を三角耳のついたフー

ドの奇妙な少女は椅い子すからずり落ちそうなほど身を乗り出して忙いそがしく口に掻かき込んでいた

「はぐはぐはぐニャスはぐはぐはぐはぐはぐニャスはぐはぐ」

料理を頰ほお張ばる音なのか箸はしをしゃぶる音なのか空気の抜けるような声が絶えず漏もれていた

第一章 Stratum city 階層都市33

「うぅぅニャhelliphellipた助けてhelliphellipニャス」

驚おどろいて足を持ち上げ振ふり払はらおうとしたラグナの足に両腕を絡めてぶら下がり三角耳に尻尾

を生やした少女はあわれっぽく訴うつたえる

しがみつく腕うでをほどこうとラグナは足を大きく上下に振ふりまくるが少女の腕がどういう

わけか一向に離れない

「くっこの離しやがれ

なんなんだよテメェは」

「離さないニャス絶対に離さないニャスぅhelliphellip助けてくれないとこのままオマエの足を食う

ニャスよぉぉhelliphellip」

声だけは弱々しくだが腕は言葉に反して力強くラグナの足を摑つかんで離さない

この騒さわぎでも周囲の人間は奇き怪かいなものでも見るような視線を一いつしゆんくれるだけでそれ以上

わろうとせず通り過ぎて行く

面倒なトラブルに巻き込まれる心配はなかったが少なくとも親切な通行人の手助けは見込

めなさそうだった

何度目かでいい加減に諦あきらめるラグナは足を中ちゆ途うと半はん端ぱに持ち上げたまま縋すがり崩くずれるカカ族

の少女を憔しよ悴うすいの表情で見下ろした

「待て待て待て足を食うなてか意味わかんねぇよ助けるってなんだよ」

「うぅぅhelliphellipよhelliphellipよくぞ

いてくれたニャスタオは今とってもピンチなのネもうhelliphellip

もう限界ニャス」

32

た中皿いっぱいに盛ってあったはずの春巻きはいつの間にか最後のひとつになっていた

「こんなにうまいご飯を

ってくれるなんて白い人はいい人ニャスタオはとぉ〜っても感

謝してるのニャス」

両腕を大きく振り回して少女は喜びの度合いを示そうとするその手は指先まですっぽり

と袖そでの中に隠かくれていて猫の前脚を模したように大きく丸くなっていた

ラグナは春巻きを飲み込んでから尋たずねる

「タオってのはお前の名前か」

「ニャス

タオカカニャス」

大きく頷うなずくと尻尾を持つカカ族の少女タオカカはもう一方の手に持ったままだった肉饅

頭をまた一口で頰張り飲み込こんだ

「タオは村を出て勇ましく旅立ったんニャスがhelliphellipすっかりお腹が空いて動けなくなってたの

ニャあのときいい人が助けてくれなかったらタオは今ごろ干からびてカカの干物になって

たニャスこの『ごおん』は忘れないニャスよ」

勝手に身の上話を始めながらタオカカは味噌炒めの皿を抱かかえて残っていた分を全すべて口の中

に流し込んでしまう

まだそれ食ってなかったんだけどとは言えずラグナは渋じゆ面うめんでその様を見守った仕方な

く肉饅頭をひとつ確保すると呆れを込めてため息に肩かたを落とす

「はいはいなにがご恩だよどうせ飯食ったら忘れるだろお前」

第一章 Stratum city 階層都市35

さっきまで力なく下がっていた目も今はまん丸で口も上向きの三日月形となっている

その様を横目に呆あきれ顔でながめながら向かいの席に座っていたラグナは揚げた鶏肉を口に運

んだ分厚い衣ころもがカリカリとしていてうまい久しぶりに直じか火びで炙あぶっただけでない手の込ん

だ食事だった

「helliphellipうまいか」

料理は凄すさまじい速度で減っていく奇妙な少女が嬉きき々として大量のメニューを注文し始めた

ときはラグナはとてもそんなに食べきれないと青ざめたがそんな心配は無用だったようだ

むしろ今となっては支し払はらいのほうがよほど心配だ

先だけ白くなっている尻尾をふりふりと上じよ機うきげんに揺らす奇妙な少女はふかふかの饅頭を両

手に摑つかんで顔を上げた

「うまいニャス

あれもこれもそれもぜ〜んぶうまうまニャス」

「そうかそうかそらよかったよはぁhelliphellip」

こうも屈くつ託たくなく当然のように貪むさぼられるとこいつの頭に遠えん慮りよという言葉はないのかだとか

そもそもどうして自分が見ず知らずの正体不明な少女に食事をおごっているのかだとかなぜ手

を引かれるままに大人しくこの店まで来てしまったのかだとか尽つきることなく浮うかんでくる

疑問もどうでもよくなってくる

少女はうまそうに肉饅頭を一口で頰張る

あっという間に飲み込む様に思わず苦くし笑ようを漏らしてラグナは春巻きをひとつ箸で取り上げ

34

だが現在はどちらかというと統制機構の手に負えない凶きよ悪うあ犯くはんや行ゆく方えの知れないとう

亡ぼう犯など

にかけられた多額の賞金を得て日ひ銭ぜにを稼ぐ者のことを表している

それが全てというわけではないが多くはまともな

につけなかった荒あらくれが暴力手段で稼

げる口として選ぶ道だ

女の咎追いが珍めずらしいわけではないがこれほど無防

でき緊んち張よう感のない咎追いはラグナは見

たことがなかった

「そうニャス今日からなったニャス」

「今日からかよ」

「そんでこいつを摑まえるのネ」

なぜだか誇ほこらしげにタオカカは皺を伸ばした紙をラグナに差し出した

ラグナは肉団子を野菜と一いつ緒しよに口の中で嚙かみ砕くだきながらそれを受け取る街角などに貼はら

れているような指名手配書だったあまりお目にかかれない気前のいい賞金額と共にひどく

不細工な男の似顔絵が描えがかれている

賞金首の名前はラグナザブラッドエッジ

「ぶはほっ

その名前を見た途と端たんラグナは盛せい大だいに肉団子と野菜を咀そし嚼やくしたものを噴ふき出した

「ぶにゃにゃ

いきなりご飯噴き出すなんていい人ばっちいニャもったいないニャスよ」

横で抗こう議ぎしながら最後の肉饅頭を頰張るタオカカの声も耳に入らないラグナはまじまじ

第一章 Stratum city 階層都市37

「忘れないニャス」

突とつ然ぜんピンと尻尾を真まっ直すぐに立ててタオカカはずいと身を乗り出すとテーブルの上からラ

グナを見上げた瞳どう孔こうのない丸い目ときばを並べた三日月の口がお面のようで不気味だ不気味

であるはずなのにどうしてか見つめられると愛あい嬌きようを感じる

「カカは義ぎ理り堅がたい一族ニャス受けた恩は忘れないのネいつかタオが大金持ちになったら

今度はタオがいい人にご飯を

ってやるニャス」

「大金持ちってhelliphellipお前な腹減りで行き倒だおれてた奴やつがなに言ってんだアテもねえくせに」

「ぬっふふふアテならあるニャスよ」

言ってひょいと肉団子を三つ箸に刺さして口に放ほうるとタオカカは椅子までずりずりと体を下

げて服の中からなにかを取り出した

くしゃくしゃになった一枚の紙だタオカカはそれを丸い手でテーブルの上に広げて皺しわを伸の

ばす

「タオは咎とが追おいニャス悪い奴をとっちめてたくさんお金をもらうのネ」

「咎追いだ」

怪けげんそうにラグナは眉まゆを寄せた

咎追いとはいわば賞金稼かせぎだ

元は大量の魔ま素そによって生態系が乱れ大量の新種生物が発生した

にそれらを討とう伐ばつする

べく統制機構が武装を許可した者たちのことを指した

36

「うニャいいニャスよいい人はタオのおんじんニャスからねどーんと任せておくといい

ニャス」

そう言ってタオカカはニシシと笑うと綺き麗れいに舐めた皿をドンとテーブルに置いた

その目の前に

「お待たせしました〜」

若いウエイトレスが新しくいくつもの皿を並べた

肉味噌ののっためん

とパリパリに揚がった

にたっぷりの野菜が入ったあんをかけたもの

焼き豚ぶたをスライスしたものの盛り合わせエビのすり身やら豚のひき肉と香こう味み野菜やらをもっ

ちりとした皮でくるんだ無数の蒸し物

できたての遠えん慮りよ容よう赦しやのない湯気が豊かな香かおりと一緒に天てん井じようへ上がる

「helliphellipは」

頼たのんだ覚えはないそう抗議しようとして気がついた

あのときhelliphellipラグナが自分の手配書を見ていたときだあのときタオカカが一口で食べた肉

饅頭が皿に残っていた料理の最後だった

その直後そういえばタオカカがメニューへ手を伸ばしていたような気がする

「ひゃほ〜ぅうまそうニャス

秘密の抜け道は危ないところなのネいい人もお腹いっぱ

いにしておかないとお腹空いちゃうニャスよ〜」

悪びれるどころか嬉しそうに蒸し物を引き寄せるタオカカの手をラグナは思い切り摑んだ

第一章 Stratum city 階層都市39

と手にした手配書を見る細かく手が震えた

(なhelliphellipなんっだよこの似顔絵

いくらなんでも似てなさすぎだろ

そもそもよくわかっ

てねぇなら似顔絵なんか載のせんなよ俺がこういう顔だみたいに広めてんじゃねぇよ

まさかこれがカグツチの街中にベタベタ貼ってあるのではないだろうかだとしたら憂ゆう鬱うつだ

この顔が『ラグナザブラッドエッジ』の顔だと思われていることもだがこの額で手配

書が出回っているとなるとずいぶんな数の咎追いがラグナを探しているはずだそういう咎追

いはこのカグツチにも多くたむろしているだろう

(普ふ通つうに街中通ってくのはまずいかhelliphellip)

あの青と白の制服連中に見つかるのも厄やつ介かいだが咎追いに見つかるのも厄介だそれこそこ

っちの都合などお構いなしに街中だろうがどこだろうが構わず『仕事』に取り掛かるに

ない

「helliphellipなあタオカカだっけかお前カグツチの上のほうに行く抜ぬけ道とか知らねぇか」

くしゃくしゃの手配書を返しながらラグナは心持ち身を屈かがめて声を低めたもしあるなら

多少悪路であっても面めん倒どう事ごとを引き起こすよりはずっといい

タオカカは甘酢あんだけが残った肉団子の大皿を舐なめながら答える

「おう秘密の抜け道ネ知ってるニャスよ」

「本当か

そりゃいいなあ飯

ってやる代わりにその抜け道まで案内してくんねぇ

か」

38

の腕うでを摑むとウエイトレスの手を強く払った

荷物でも担かつぐようにタオカカを肩に抱だき上げて弾はじかれたように店を飛び出す

「うニャニャッ

タオのご飯

まだ食べてないニャスよ」

「うるせぇ

それどころじゃねえんだよ」

肩かた口ぐちで

痛な声をあげ追いすがるように手を伸のばすタオカカへラグナは焦あせりのままに声を

荒げた

オリエントタウンの大通りへ出ると人波を掻かき分けて持てるき脚やく力りよくの限界にいど

いで走る

「待て

誰だれか捕まえて食いに

げだよ

後方からウエイトレスの金切り声が追いかけてくる

ぎょっとすることにウエイトレスの足はラグナに負けていなかったしゆ

念うねんのせいかもしれな

いラ

グナは足を動かしながら何度も悪態をついたまさかカグツチにやってきて最初に引き起

こす騒そう動どうが食い

げだとはこの街に上がってきたときには思いもしなかった

担がれたタオカカはしょんぼりと尻しつ尾ぽを垂らしてまだ諦あきらめ切れないのか後方へ向けて空を

掻いていた

「うう〜っタオのご飯がぁhelliphellip」

「いいから抜け道の場所を教えろ

店の奴に摑まってミンチにされてぇのか」

「みんち」

第一章 Stratum city 階層都市41

いのあまり腰こしが浮く

「おおまっなに勝手に追加してんだよ

「ニャ

いい人もうお腹いっぱいニャス

ならタオが全部helliphellip」

「ちげぇよ

こんな山ほど注文されていくらなんでも払はらえるか

俺はそんなに金持って

ねぇんだよ

そもそもラグナは仕事を持っていない時折咎追いの真ま似ねごとや日ひ雇やといの仕事で旅費を稼い

だりもするがそんなものは一時しのぎだ金がなくてまともな宿さえ取れないというのに

さっきまでの注文に加えてまだ追加がくるなんてとても財さい布ふの中身が足りると思えない

息巻くラグナの肩に手を置く者があった

ラグナは一度うるせぇとそれを払い落すだが手はすぐにもう一度ラグナの肩を叩たたき手

の主が低く

後から問うた

「お客さん

今helliphellip金持ってないって」

「helliphellipあ」

言われラグナが振ふり向いた先に立っていたのはラグナよりずっと

の低いウエイトレス

だったにこやかに微笑ほほえんでいるがその目はどこか殺気じみている

「金持ってないって」

ウエイトレスはもう一度問う

その直後ラグナはまるで事態がわかっておらず蒸し物をパクパク口に運んでいたタオカカ

40

2199年12月30日||13時35分

灰色の雲に閉とざされた空を

景に一そう

の船が港に到とう着ちやくした

船といっても海を渡わたる船ではない渡るのは空だ

膨れた腹部に人間や機材といった貨物を詰つめて運び左右に伸びた翼つばさに魔素を取りこみ飛行

する魔操船

当然空飛ぶ魔操船が停てい泊はくする港も相応の造りをしている

第十三階層都市カグツチ第五番ポート他に比べて小さく目立たない造りになっている

そこはある特定の目的に多く使われるポートだった

身を寄せるように入港した暗色の魔操船の重々しい稼か働どう音おんが止まりハッチが開いて細身の

階段が下方へ伸びる

銃じゆうを肩かたに下げた青と白の制服

士が数名

りてきて慌あわただしく持ち場につき無線機で

なにやら報告を交かわす

それから遅れることしばしポートの平たい地面に向かう階段に黒い革かわぐつの足がかけられ

た続いてひょいと細身を覗のぞかせるように現れたのは黒いスーツに身を包んだ

の高い男だ

第一章 Stratum city 階層都市43

「肉だよ肉

さっき並んでた料理になりたくなきゃさっさと教えろ」

なにも本気で店員が自分たちをミンチにすると思って言ったわけではないが遅れて意味を

理解したタオカカは真に受けたらしいびくりと尻尾が飛び上がって警けい戒かいするように太く膨ふく

れる

「お肉にされたらお肉が食べられなくなっちゃうニャス

それはいやニャス」

肩の上で器用に身を捻ひねってラグナの前に着地するとタオカカは獣けもののように両手を地面につ

いて走り出す

「いい人こっちニャス」

「よしわかった」

タオカカが飛び込むようにして細い路地に入るい一つしゆん反応が遅おくれたもののラグナも空の籠かご

をひっくり返しながらそれに続いた

ネオンの看板から遠くなりぐっと辺りが薄うす暗ぐらくなる

走りながらラグナはげんなりと自じちようするように思った

今日の食い

げの分明日から自分にかけられている賞金が増額するかもしれないなhelliphellipと

42

青のブーツで雨水を

ね上げながらハザマのいる管理小屋の前まで行くと軽く息を整えて

を正す

空色の瞳ひとみは凜りんとしており生き真ま面じ目めな表情をしていた

「お待たせしてしまってすみませんでも一声かけてくださればよろしかったのにhelliphellipまだ

中にいらっしゃるのかと思って探しておりました」

「おやおやそれはそれはお手数をおかけしましたツバキヤヨイ少しよ尉うい」

その瞳が示す通りどこまでも生真面目に話す女性をツバキと呼んでハザマは口の端はしを深く

吊つり上げ笑えみを浮うかべた

ツバキヤヨイ少尉彼女はハザマのように諜報部の所属ではなく世界虚空情報統制機構

武装魔ま術じゆ師つし第四師団の所属だった

世界虚空情報統制機構とは国家というがい

念ねんのなくなった現世界においてその代役を担になう重

大にして巨きよ大だいな機

だ帝みかどと呼ばれる絶対的な決定権を持つ存在を頂点に掲かかげ世界中の施し政せい

司法軍事あらゆる社会的基き盤ばんを管理し運営している

それだけに設けられている部署は膨ぼう大だいであり役割の異なる部署が共にひとつの任務に当た

ることはひん

繁ぱんにあることではない

だがツバキとハザマはちが

う部署でありながらとある任務のためにふたりでカグツチへとや

ってきていた

「いやぁしかし生あい憎にくの天気ですねぇこの雨の中広いカグツチでひとりの男を捜そう索さくすると

第一章 Stratum city 階層都市45

った

緑の髪かみにのせた黒い帽ぼう子しを指で押さえて男は尖とがった顎あごを上向かせ空を仰あおぐ目ま深ぶかにかぶっ

た帽子のせいで目元は見えないが薄うすいく唇ちびるは不満そうにへの字に歪ゆがんでいた

「あらま雨ですか」

空一面を埋うめ尽つくすように広がる灰色の雲からは静かな雨が

っていた

もうずいぶん前から

り続いていたようで狭せまい五番ポートはどこもかしこもすっかり濡ぬれ

ている雲に動きもないようだししばらくはこのまま

り続けるだろう

やれやれとうんざりしたようにため息をつくと男は足早に屋根のある場所へと移動した

黒スーツの男は世界虚こ空くう情報統制機構||多くは統制機構とり略やく称しようで呼ぶ機

のち諜よう報ほう部に

在ざい籍せきしている名はハザマ階級は大たい尉い

彼が乗ってきたこの魔操船はその諜報部の名前で使用された船だ

この五番ポートはそういう統制機構の中でも公おおやけにできない任務や用件のときに多く利用さ

れるいわば人目を避さけるためのポートだった

「ハザマ大尉

外にいらしたのですね」

魔操船の階段から女の声がかかりスーツについた水すい滴てきを払っていたハザマは顔を上げた

青と白の制服にそろいのポンチョを羽織った若い女性が足早に階段を駆け下りてきた青の

ベレー帽ぼうをかぶっておりそこから腰をも越こすほど長く伸のばされた鮮やかなカメリアレッド

の髪が流れている

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視線を上げればここからでも高山の頂上から突つき出るようにそびえる美しく壮そう麗れいな支部の

が見られたただ今日は悪天候のため雨のカーテンが視界を煙けむらせる

霞かすむ支部を見上げてツバキはわずかに眉まゆを寄せた

「helliphellipなぜキサラギ少佐はカグツチなどに」

それはジンのことを知る者なら誰もが抱くような疑問だった

第四師団団長ジンキサラギは

常に冷静な人物だメリットとデメリットを十分分ぶん析せきした

上で行動する思し慮りよ深ぶかさを持っているしなにより突然統制機構に

を向けて己の立場を危あやうく

させるような愚ぐち直よくなタイプではない

こんなことは実に『彼らしくない』行いだ

思い悩なやむようなツバキの

にハザマは少し驚おどろいたように「おや」と言った

「これは意外ですねツバキヤヨイ嬢じよう貴女あなた

ほどの聡そう明めいで優ゆう秀しゆうな方がおわかりにならな

い」

口元に笑みを刻んで問うハザマの試ためすような口調にツバキは小さく胸中がざわつくのを感

じたいや

味みな言い方をする男だ

ツバキはハザマという男をよくは知らないだから彼がどういうつもりでこういった物言い

をするのか

しもつかない

だがこの一言だけで黒いスーツに身を包んだ彼を好ましくないと判断する程度には気に障さわ

る語調だった

第一章 Stratum city 階層都市47

なると中々骨が折れそうです」

また帽子に手をやって雨を

りこぼす曇どん天てんを見上げハザマが今度はどこか愉ゆ快かいそうに言う

彼らの任務は人探しだった誰を探すのかといえば

「それでもなんとしてもキサラギ少しよ佐うさを探しませんとhelliphellip」

ツバキは視線を足元に落とし己おのれに言い

かせるように呟つぶやく

ジンキサラギ少佐それがツバキとハザマが探している男の名前だった

武装魔術師第四師団の団長でありツバキにとっては直属の上司だ彼の秘書官として側そばに

仕え支えてきた

その彼が数日前突とつ然ぜん統制機構の本部から

を消した

任務でもなく届け出もないこれは統制機構において重大な規律い反はんだ

一師団を預かる団長が独断行こう為いにより行ゆく方え不明などという事態は前代未みもんだ部下や他師

団に影えい響きようを与あたえるからと今のところこの一件は公になっていない

だが現状がどこからか漏えいする可能性もあるその前になんとしても連れ戻もどさなければと

ごく秘ひ任務を命じられたのがハザマであり彼が協力者に選んだのがジンキサラギの秘書官で

あるツバキだった

冷たい雨が空気を冷やすそのせいだろうか五番ポートは金属のにおいがたちこめていた

濡れた灰色の階段の向こうに上層階らしい整理された街並みがうかがえる奥へ進んでいくつか

階層を上がれば最上層である世界虚空情報統制機構カグツチ支部だ

46

だがハザマは欠片かけら

も気にした様子なくむしろそれこそ子供の反はん抗こう的な物言いに噴ふき出すよ

うに軽く笑った

「あららそっちでしたかこれは失礼いたしましたツバキヤヨイ少尉」

帽子に手をやりわずかに持ち上げて会えし釈やくしてみせるその間もずっと彼の細い首はくつく

つと喉のどを鳴らすような笑いに震ふるえていた

「少佐がなにをお考えなのかなんて我々にわかるはずもありませんよそれこそご本人を見

つけて直接お尋たずねになってはいかがです」

そうできないから疑問なのだと苦く胸中で思ったもののツバキは余計な言葉を奥にしまい

こんだ今必要なのは疑問でも感情でもないそう自分に言い

かせる

「helliphellip了りよ解うかいしました大尉」

ツバキが生き真ま面じ目めに答えるとハザマはもうひとつ笑ってから切り出した

「さていつまでもおしゃべりしていても仕方ありませんしそろそろお仕事を始めるとし

ますか」

仕事つまりはジンキサラギの捜索だ

ツバキはハザマへのけん

悪お感ではなく任務への使命感に表情を引き締しめる

ハザマは雨に濡れたカグツチの街並みを見やりながらにんまりと唇を引いて言葉を続けた

「まず確かく認にんしておきましょう我々の任務はジンキサラギ少佐を捕ほ獲かくし本部へ強制帰き還かんさ

せることただし少佐の失踪の件は公にされていませんからカグツチの

士たちへは内密に

第一章 Stratum city 階層都市49

小波のような不快感を飲み込んでツバキは

士の顔を取り繕つくろいせ筋すじを伸ばすたとえ好ま

しくなくてもツバキは少尉でハザマは大尉上官だ

「申し訳ありません大尉私にはhelliphellip」

「貴女からの報告にあったではありませんかキサラギ少佐は例の『死神』に

する報告を受

けた翌日に

を消したのだと」

ハザマは両手を軽く広げてみせる

さっきのからかうような物言いのせいだろうかそんな仕草でさえツバキにはどこか

に映る

「報告の中には『死神』つまり指名手配中のラグナザブラッドエッジがカグツチに向か

っているらしいという情報もあったそのうえで少佐がカグツチに向かったのならそれはも

う『死神』を追っての行動だとしか考えられないでしょう」

統制機構を出たジンの行き先がカグツチであるとの情報を持ってきたのはハザマだった

うっかりそんな情報を摑つかんでしまったがためにこんな辺へん鄙ぴな場所への任務を命じられてしま

ったと愚ぐ痴ちめいたことをツバキは魔操船の中で散々

かされていた

「恐おそれながらハザマ大尉それは私にもわかります私が疑問なのはなぜ少佐が統制機構を

飛び出してまで『死神』を追わなければならなかったかです」

いささかむっとしてツバキは言う言ってからすぐ無礼が過ぎたかと危きぐが過よぎった

にあるまじき子供じみた態度だったかもしれない

48

てもらえますか」

「別件ですか」

戸と惑まどうように尋ねたツバキの質問に対しハザマは肩をすくめるような苦くし笑ようだけを返し具

体的な言葉は告げなかった

ハザマの所属は諜報部だ他部署へ言えぬ用事も多かろう見えない目的に少々の怪けげん

さを

感じながらもツバキは配はい慮りよのつもりでそれ以上尋ねるのをやめておいた

「わかりましたでは下層のhelliphellipオリエントタウンの辺りから調査してみます」

「そうですねあそこはカグツチでも一番広いエリアですし身を隠かくすにはうってつけですか

らいいと思いますよ」

うんうんと適当に頷うなずきながらハザマは一歩歩み寄るとわざわざ腰こしを折って下方から覗のぞき込

むようにツバキを見た

帽子のつばで瞳が見えないけれど絡からみつくような視線が確かにこちらを捉とらえているのがわ

かる

子供に言い

かせでもするようにハザマは人差し指を一本立てた

「ただひとつ気を付けてくださいね治安が行き届いていない場所はキサラギ少佐が身を隠

している可能性も高いですが同時にラグナザブラッドエッジがうろついている可能性も

あります万が一おふたりが鉢はち合あわせて戦せん闘とうなんてことになったらもう私たちには手も足も

出せませんから」

第一章 Stratum city 階層都市51

お願いしますよ部外者はもってのほかです」

「はい」

「それから現在カグツチにはラグナザブラッドエッジが潜せん伏ぷくしているとみられますそ

のためD警報が発令されていますのでそのつもりで」

D警報とはつまり統制機構による特別警けい戒かいが行われているという意味だそのためカグツ

チの住民でない者や統制機構とは

係のない他機

がこの都市でなにがしかの活動を行うこ

とを禁止している

「D警報に抵てい触しよくする者と接触した場合はカグツチの支部に連れん絡らくを取ればよろしいのでしょう

かそれともこちらで対処したほうが」

しゃんと

筋を伸ばしハザマを見み据すえて問うツバキの様はどこにでもいる一

士と片付け

るにはいささか毅き然ぜんとしすぎる品をたたえていた

それもそのはずだ彼女は統制機構を創設当初から支え幾いく人にんも重役をはい出しゆつしてきた十二宗家

のひとつヤヨイ家本家の娘むすめなのだから

だがハザマはツバキの纏まとう品もそこからくるどこまでも真面目な性しよ分うぶんもなにもかもが面めん

倒どうくさいと言わんばかりに口元を歪めると実に雑に答えた

「あー適当でいいですよお任せします」

「はhelliphellipはい」

「じゃあ私はちょっと支部に別件の用事があるんで先に下層のほうから捜索を始めておい

50

ハザマの気さくさに引きずられることなくツバキはあくまで部下として返事をすると堅かた

苦くるしく

筋を正した

「それでは大たい尉い私は下層を見て回ってきます」

「ええよろしくお願いしますよ今のカグツチは物ぶつ騒そうですからお気をつけて」

「はい失礼いたします」

腰を折って一礼しツバキは管理小屋の狭せまい軒のき先さきから雨の中へと駆かけ出した小さく水音を

はねさせながらポートから街中へと向かう階段を上がっていく

腰までを覆おおう青いポンチョがカメリアレッドの髪かみと共に躍おどり去っていくのをハザマは管理

小屋の壁かべに寄りかかって見送っていた

やがてひ翻るがえるポンチョの青もツバキが

ね上げる水の音も完全に雨の向こうに消えるとゆっ

くりと身を起こす

「本当にお気をつけて」

低く声を喉のど元もとで濁にごらせるように呟くとハザマもまた雨の中へと悠ゆうゆ々うと踏ふみ出した

第一章 Stratum city 階層都市53

「そうhelliphellipですね」

ツバキは身を引くように俯うつむいて苦々しく答えた

ジンは統制機構でも並ぶ者なしとまで言われる剣けんの使い手だそのうえ約百年前の黒き獣けものと

の戦争『暗黒大戦』で使われたとされている事象兵器

アークエネミー氷ひよ剣うけんユキアネサを所持している

そして『死神』ラグナザブラッドエッジはこれまで数々の統制機構支部をたったひとり

で壊かい滅めつさせてきた相応の力を持った人物

このふたりがもしも刃やいばを交えることになればツバキにもハザマにも止めることはできない

その最大の理由をハザマがなぜか陽気に言い放つ

「いやはやなにせ私も貴女も戦闘は専門外いざ荒あら事ごととなったらからきしですからねぇ」

ツバキは統制機構の士官学校を出ているため最低限の戦闘訓練は経験しているだがそれ

も護身術程度のことだ卒業後はジンの秘書官として日々書類や来客の相手ばかりしてきた

そんな状態で戦闘技術の向上が見込めるわけもない

一方のハザマも自身で言う通りち諜よう報ほう活動にこそスキルはあれど武力をもって事態に当たる

ことは不得手だった

ハザマは武具の似合わない生白い手でひらりと宙を払はらってにんまりとく唇ちびるを引く

「まお互たがい無理せずいきましょう我々のお仕事はキサラギ少佐を連れ帰ることですから

そこをお忘れなく」

「承知いたしました」

52

の声だった

「しhelliphellip失礼いたします」

答える声が震えたドアノブを摑む手はもっと震えていた

転んだりしたらどうしようああどんな顔をしていたらいいだろう顔が赤くなってしま

いそうでそれだけは必死に堪こらえて平静を取り繕って

ツバキは部屋の中へと入る

最初に目に入ったのは机に向かってペンを走らせるひとりの男性の

だった

後にある窓から入り込んだ日の光が掠かすめて彼の美しい金色の髪を煌きらめかせていた長い

睫まつ毛げの向こうで情感薄うすく書面を見下ろしている瞳ひとみは離はなれた部屋の入り口からでもわかる澄す

んだ緑色をしているはずだ

部屋には彼以外誰だれもいなかった

を丁てい寧ねいに閉めると室内にはツバキとふたりきりだ

何事か書き終わったらしく机に向かっていた彼はどこかおっくうそうに顔を上げるそれ

からその目を驚おどろきに見開いた

「ツバキhelliphellip」

呼んでくれた声は

の外で

いた義務的な声とはちが

っていた

感情の温度が灯ともった声こわ色いろは表情と同じように驚いた風でそのせいかさっきより少しだけ上うわ

ずったように音が高い

「どうしてお前がここにhelliphellip」

第一章 Stratum city 階層都市55

helliphellipそれはほんの数年前のけれどかけがえのない数年をさ遡かのぼった

ある日のことだった

世界虚こ空くう情報統制機構統合本部

真まっ直すぐに伸のびる白タイルの床ゆかをツバキは緊きん張ちようの面おも持もちで歩いていた

初めて袖そでを通してまだ日数のたっていない青と白の統制機構

士の制服はまだ体に馴な染じんだ

とは言いがたくて頭に載のせたつばのない帽ぼう子しもコツコツと床を叩たたくブーツもそつなく着

られているか心配で仕方ない

胸に書類のファイルを抱えてこれで何度目になるかわからないけれど最後にもう一度長く

伸ばした髪を指先で整えて

それからツバキは目的地であったとびらを控ひかえ目にノックした

「||入れ」

一いつ拍ぱくの間をおいて

の向こうから声が返ってくる

そのしゆ間んかんツバキの心臓がドキリと大きく

ねた

感情の遠い義務的な声けれどわずかに少年らしい響ひびきの残った声はツバキがよく知る人

54

十二宗家本家の出の者が同様に宗家本家の出であるジンの秘書に着くという事例は稀まれだ

その辺りからツバキの無茶を

したのだろうジンは呆あきれたように苦笑する

思わずツバキは震ふるえる吐と息いきを漏もらした久しぶりに見たジンの笑顔だった

「秘書が来るとは

いていたがまさかお前だったとはなhelliphellipよろしくツバキヤヨイ少

尉」そ

う言ってジンは白い手てぶ袋くろをはめた手を差し出す

ツバキはファイルを小こ脇わきに抱えると見上げてくる綺き麗れいな緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し

ながら差し出された手を握にぎった

この日この時からツバキの師団長秘書としての日々が始まった

を追いかけるばかりだった士官学校での後こうはい時代とは

うとなりに

側そばに立ち

務を支える

時間が始まったのだった

2199年12月30日||17時30分

カグツチの下層へ

りていきながらツバキは注意深く周囲へ視線を向けていた

もう少し先へ行けばオリエントタウンと呼ばれるエリアに入るはずだそこはカグツチの中

第一章 Stratum city 階層都市57

仕事中らしからぬ砕くだけた物もの腰ごしにツバキは強こわ張ばっていた頰ほおを緩ゆるめたすとんと緊張が抜ぬける

「書類は届いているはずですよお読みになっていないんですか」

ツバキはファイルを抱えて机の前まで行くといぶかしげな彼へ敬礼し

筋を伸ばした

「本日付けで武装魔ま術じゆ師つし第四師団団長ジンキサラギ少しよ佐うさの秘書官に任命されましたツバ

キヤヨイ少しよ尉ういであります少佐よろしくお願いいたします」

型通りだけれど昨晩から部屋で何度も練習した言葉だ

ミスなく言えたことにツバキがほっとしているとジンが驚おどろきに持ち上げていた眉まゆをわずか

に怪けげんそうに寄せた

「少しよ尉うい」

問われた理由はツバキにもよくわかる

ツバキは世界虚こ空くう情報統制機構において貴族的地位にある十二宗家の生まれだ十二宗家の

者は統制機構の士官学校卒業後最低でも中ちゆ尉ういの階級を与あたえられる

ツバキも例外ではなく卒業直後は中尉であったそれがなぜ現在少尉なのかというと

重大な理由がある

「それはその」

ツバキは言いにくそうに口ごもった

本来別の配属だったところをどうしてもジンの秘書官になりたいと粘ねばりその要望を通す代

わりに

格となったとは彼の前ではとても言えない

56

かしこも濡れていた

通り過ぎる建物細い横道の向こう物もの陰かげすれ

う人ツバキは視界に映るすべてに神経

を向ける

自然と歩調が速くなるのは募つのる焦あせりゆえだ知らず知らずのうちに手はきつく握られていた

(キサラギ少佐helliphellip)

もう何度心の内で呼びかけたかわからない

唇を固く引き結びまるで縋すがるように視線を左右へ走らせるその表情はただ行方ゆくえ

不明の上

官を探しているだけには留とどまらない深い感情の揺ゆれがあった

(どこにいるんですかhelliphellipジン兄様helliphellip)

ツバキはジンキサラギの秘書官だだがそれ以前からジンはツバキにとって特別な人だ

った

ツバキが十二宗家ヤヨイ家の娘むすめであるならジンは同じく十二宗家キサラギ家の子だ互い

に幼いころから知っていた幼いころから顔を合わせ言葉を交かわし時には子供らしく遊ん

だりもした

ツバキが統制機構の

士を目指して士官学校に入ったのも先に入学し将来は師団長を期待

されていたジンの後を追いかけたかったからだ

ジンは勉強も武術もなんでもできたけれどツバキは運動が苦手だっただからせめて勉強

だけは追いつこうと必死に学んだ学生時代はジンが会長を務める生徒会で共に働いたことも

第一章 Stratum city 階層都市59

でも一ひときわ広く人口の密集したエリアだと

いている

人を探すには不向きな場所だだがだからこそジンが足を向けた可能性はあるとツバキは

考えていた

そこならば容易に人ごみに紛まぎれることができるし入り組んだ路地や階層都市の構造のすき間ま

に身を隠すこともできるなにより下層は統制機構の

士が少なく上層に比べて監かん視しの目が

緩い

統制機構が追手をかけることはジンも十分わかっているだろうならばその目を避さけるのは

当然のことだ

同時に同じように追われる身であるラグナザブラッドエッジが下層を潜せん伏ぷく場所に選ぶ

可能性もジンならば考えたはずだ

硬かたい地面に青いブーツのくつ音おとを響かせてツバキは足早に歩く鮮あざやかな色の髪がしっとり

と雨に濡ぬれる

短い階段を

りるとその先はオリエントタウンの街外れだった

使われているのかいないのかわからない寂さびれた雰ふん囲い気きの倉庫が並びその先にわずかに芝しば生ふ

の植えられた広場のようなものがあるぽつんと佇たたずむ外灯は所々に錆さびの染しみがこびりついてい

た下

層は上層の地盤があるためほとんどが空をさえぎられ屋外でありながら屋内であるかのよう

に天候の影響を受けにくいだがこの辺りはまだ他層より突つき出しているらしく雨でどこも

58

けれど『死神』を統制機構の他

士と同じように考えるのは危険だ

彼は単身で統制機構を相手に反逆行こう為いを繰くり返かえしこれまでただの一度も拘こう束そくされることな

くとう

亡ぼうを続けている並なみ大たい抵ていの力では不可能だということを彼を追うべき立場でもあるツバ

キはよく理解していた

ラグナはおそらくとても強いもしかしたらジン以上に

それになにより恐おそれるべきはそのき凶よう悪あく犯が持つ魔ま導どう書しよだ

||蒼の魔道書

ブレイブルー

かつて黒き獣けものと戦った暗黒大戦時代にある魔ま法ほう使つかいによって術式という技術が開発された

魔法を模したもので魔素を使い火を熾おこしたり水を呼んだりと様々な現象を引き起こすことが

できる技術だ

その術式を扱あつかうために必要な鍵かぎが魔道書だった

蒼の魔道書

ブレイブルー

は世界中に数え切れないほど存在している魔道書の中でも最強と囁かれている

(ジン兄様でも蒼の魔道書

ブレイブルー

を相手にして無傷でいられるはずがない下手をしたらhelliphellip)

そこまで考えてツバキは走った悪お寒かんに身を震ふるわせた

蒼の魔道書

ブレイブルー

は最強とその威いり力よくを絶大に評価されながらも詳くわしいことは知られていないとい

う奇きみ妙ような魔道書でもあった

そもそも魔道書は〞書〝でありながら形状は様々で本の形をしているとは限らない

ラグナザブラッドエッジの蒼の魔道書

ブレイブルー

も彼が持っているという事実は認にん識しきされている

第一章 Stratum city 階層都市61

あった

淡たん白ぱくな物言いをしたり鋭えい利りな目つきをすることがあったから周囲は時折彼のことを冷たい

人だと囁ささやいた

けれどツバキにとってはいついかなるときも彼は優やさしい兄だった

細く美しい金色の髪に涼すずしげな緑色の瞳すらりとした体たい軀くに白い肌はだ整った顔立ちそ

の聡そう明めいな横顔に時々本当に時々だけれどhelliphellip見み惚とれたりもした

頼れるツテというツテを頼ってどうにかジンの秘書官の座を手にしたときはどれほど嬉うれし

かったことか

慕したっていた憧あこがれていた屋や敷しきの奥でひとり毬まりつきをしていた幼子のころから今でもずっ

「ジン兄様helliphellipっ」

急ぎ足だった歩調はいつしか小走りに変わっていた爪つま先さきが小さな水たまりを踏んで水すい滴てきを

ね上げる

一刻も早く見つけ出したかった心臓が軋きしむように胸を打つ

ツバキの頭に浮うかぶ最悪のケースはやはりどこかでジンと『死神』ラグナザブラッド

エッジが遭そう遇ぐうしてしまうということだった

ジンは強い統制機構の中でも彼とまともに剣けんを交えることができるのは数えるほどしか

いないだろう

60

ぎゅっと一ひときわきつくこぶしを

胸むな元もとで握るとツバキは首をふって雑念を払はらった

余計なことを推測している場合ではない今は一刻も早くジンを探すことそれだけを考え

なければ万が一今回の行動のせいでジンが反逆者とみなされたりしたら取り返しがつか

ない

急ごう自分をしつ

咤たするように大きく足を踏ふみ出してなにやら小さく物音の

こえた広場

の裏手へ回ってみる

物置だろうかふたつ並んだ小屋の裏を通り抜けようと狭せまい角を曲がった

その途と端たん目の前に壁かべが現れた

「きゃっ

あまりに突とつ然ぜんのことでとても対処できずツバキは進入した

いそのままに壁に激げき突とつした

だが直後に気付く

壁というにはあまりに分厚く建材にしては感かん触しよくがやわ

らかい

「むhelliphellip」

壁の向こうから声がした腹に響ひびくような低い男の声だ

ツバキの目の前にそびえるそれは壁などではなく見上げるほど巨きよ大だいな男の

中だった

「ああすまなかった怪け我がはないか」

そびえる巨きよ軀くはその異様なまでの圧あつ迫ぱく感に似合わぬ紳しん士し的な物もの腰ごしで語りかけのそりと重く

振ふり返る

第一章 Stratum city 階層都市63

もののそれがどんな形状をしているのかはわかっていない

それどころかいつどこで蒼の魔道書

ブレイブルーが造られその秘ひめたる力はどんなものなのか世界

虚空情報統制機構のち諜よう報ほう部ですら正確には把は握あくしていないという

ただでさえ強い『死神』であるのにそのうえ正体のわからない魔道書まであってどう楽

観視できるというのか単身でいどみかかるなど無茶にもほどがある

(helliphellipジン兄様はラグナザブラッドエッジを捕つかまえるためにひとりでカグツチまで来た

のかしら)

物もの影かげに目を凝こらしながらツバキは独り言のように思った

たとえ独断行動によって強制帰き還かん命令が下されているとしてもジンは統制機構の

士であ

り師団長だ『死神』を追って統制機構を飛び出したのだとしたらその目的は凶悪犯の捕ほ縛ばく

以外に

えられないとツバキは思っていた

けれど本当にそうなのだろうかふとそんな疑念が過よぎる

(でもだってそれならどうして誰にも言わないで出ていく必要があったっていうの私に

もなにも言わないで)

なによりそのことが胸に突き刺ささる

ジンは心根の読めない人だけれどそれでもなにかあったときはいつだって一声かけてくれ

たのに

「ううん理由はジン兄様を見つけてから直接

けばいいことよ」

62

者も多いそのほとんどはべつ

称しようとしての呼称だ

赤鬼と呼ばれた巨きよ漢かんがどんなつもりでその

称を使ったのかはツバキには読めないけれど

好感情でないことは見るからに明らかだった

テイガーは身構えることこそしなかったものの眉み間けんに深い皺しわを刻み厳いかめしい渋じゆ面うめんでツバ

キを見み据すえる

「helliphellipすまん図書館の

士と接せつ触しよくした」

ツバキから視線を逸そらし耳元へ大きな手をやってテイガーが低く何者かへ告げる直後に

ノイズのような音が走った通信だ

「通信を切ってくださいそこを動かないで」

素す早ばやくツバキは護身用に支給されているけん

銃じゆうを腰こしから抜ぬいたしっかりと両手で握にぎり銃口

を赤鬼へ向ける

テイガーはわずかに首を動かしてツバキを見やったもっとも分厚いレンズの丸眼鏡ごし

では奥の眼まな差ざしまではうかがえない

見下ろす威い圧あつ感に気け圧おされそうになりながらもツバキは努めて厳しく赤鬼を睨にらみ据すえた

「現在第十三階層都市カグツチにはD警報が発令されています第七機

を含ふくめ全すべての他機

の介かい入にゆうは禁止です答えなさいここで一体なにをしていたのですか」

「やれやれ銃を下ろせ

士の少女そんな玩おも具ちやのようなものでは私のボディを傷つけるこ

とすらできんぞ」

第一章 Stratum city 階層都市65

異様なのはなにも体の大きさだけではなかった

人の肌にしては赤みの強すぎる肌の色ただでさえ屈くつ強きような太い腕うでに取りつけられたぎ仰ようぎ々ようしい

手て枷かせのようなパーツ引き締しめられたく唇ちびるから上向きに伸のびる白いきば

鬼おに

約百年前に滅ほろびた日本という国の昔話にそんな怪かい物ぶつが登場したはずだツバキは幼いころに

読んだ絵本を思い出す

それと同時に目の前にいる赤い巨きよ人じんが誰だれなのかを思い出した

「貴方あなたhelliphellip第七機

の赤あか鬼おに」

呼ぶと同時にツバキは数歩下がって身構えた

第七機

術式を主体とした統制機構の世界統治に異を唱え術式に頼たよらない世界を作ろう

と企くわだてている外部機

赤鬼はその第七機

に所属する兵士でありその巨軀からも想像できるように圧あつ倒とう的てきな制圧

力を誇ほこる

正式名めい称しようはTR0009アイアンテイガー

第七機

の研究者によって造られたサイボーグだ

向こうもこちらの

に気付いたようでツバキの胴どう回りよりも太そうな足を一歩引いた

「その制服図書館か」

術式の乱用を防ぐために世界中の魔道書を集め管理していることから統制機構をそう呼ぶ

64

きません」

まるでなだめるように語りかけるテイガーの語調が余計にツバキの態度を頑かたくなにさせる

ここで弱よわ腰ごしを見せればそれは統制機構そのものが第七機

に対して弱腰になったとみなさ

れるようなそんな気がしていたそんなことは許されない

世界の秩ちつ序じよを守る統制機構の

士が平和のために戦う武装魔ま術じゆ師つし第四師団の団長秘書が

規律を犯おかした第七機

の兵士と取り引きめいたことをするなんて

銃を構え巨体の赤鬼を見据えたままツバキは手の中に握りこめる小さな通信機を取り

出した

ひとりでは対処しきれない早急に応おう援えんを呼ぶ必要があった

「武装魔術師第四師団所属ツバキヤヨイ少しよ尉ういです現在カグツチ下層オリエントタウンで第

七機

のhelliphellip」

「参ったなできれば穏おん便びんに済ませたかったのだが」

赤鬼が低くなにごとか呟つぶやく

その言葉の意味をツバキが理解するより早くテイガーが大きく前に踏み出した

伸ばされた腕がまたたく

間にツバキに迫せまる軽く握られていた

がツバキの目の前で開かれるや

否いなや

「きゃぁっhelliphellip」

放たれた電でん撃げきが通信機を弾はじき飛ばしツバキに細い

鳴を上げさせた

第一章 Stratum city 階層都市67

「っそんなことは

いていません質問に答えてください」

呆あきれたようなテイガーの物言いに咄とつ嗟さに腕を引き戻もどしそうになったがそれを堪こらえてツバキ

は銃口と眼光を向け続ける

相手はサイボーグだ戦いになったらもちろん勝ち目はないがそれ以上ににげられたらと

ても追いつけない

自分の任務はジンキサラギの捜そう索さくだと重々承しよ知うちしているだが周囲には他に統制機構の

士の

はないここで見みのがせば彼ら第七機

がカグツチと統制機構にどんな混乱をもたら

すかわからないと

えるととても目をつぶることなどできなかった

ザザッと再びノイズが走る

「ああ大だい丈じよ夫うぶだ問題ないすぐに任務に戻る」

通信の相手の声はツバキには

こえないただそれに答えるテイガーの声はあまりに危機感

から遠くすでにツバキとの問題は解決したとでも言うかのようだ

侮ぶじ辱よくされたような思いに駆かられてツバキは鋭するどく声を尖とがらせる

「通信を切りなさい

勝手な行動は許しません」

「そういきり立つな我々はなにも統制機構の業務を妨ぼう害がいするためにカグツチに来たわけでは

ないどうだここはお互たがいかかわらなかったことにしないかこのまま行ってくれれば私は

お前に危害を加えなくてすむ」

「それは反逆の意志ありということですか

どんな目的にせよこの場を見

すわけにはい

66

2199年12月30日||18時00分

幾いくつの路地を抜け幾つの角を曲がっただろう

人のような

をしながら人にあるまじき動きで先導するタオカカがラグナを連れてやってき

たのは外の明かりも差し込まぬ暗い暗い下水道だった

「こっちニャスよいい人〜」

呼びかけタオカカは投とう棄きされたらしい瓦が礫れきやら壊こわれた家具やらの山をひょいとと

び越こえた

外から隔かく離りされた場である上に時間も遅おそいたとえ微かすかなすき

間まがあってもわずかな光さえ

望めない

それなのにラグナやタオカカが問題なく歩けているのは投棄された瓦礫や積み上がったヘ

ドロにこびりついて生えている奇きみ妙ような苔こけのおかげだった

それらがほのかに青緑色の光を帯びているせいで下水道は一寸先も見通せない暗くら闇やみに閉とざ

されずにすんでいる

タオカカを追いかけて粗そ悪あくな足場に多少もたつきながらもラグナが続く

「おい本当にここから上に出られるんだろうな」

第一章 Stratum city 階層都市69

その一撃だけでツバキの意識は遠のいたかくりと膝ひざが折れ力なく崩くずれ落ちる

「っとhelliphellip」

そのたおやかな体が硬かたい地面に倒たおれ伏ふす前についさっきまで電撃を纏まとっていたテイガーの

腕が受け止める

そのまま抱かかえ上げると力なく気を失った青と白の制服の少女を見下ろしテイガーはため息

をついた

「やはりひ戦せん闘とう要員か無茶をする」

『helliphellip言っておくが

わるなよ』

ノイズが走りテイガーの通信機から不ふ愉ゆ快かいそうな女の声が漏もれた

ツバキを抱えたままテイガーは空いていたもう一方の手を耳元にやる上向きの

のよう

な犬歯が突つき出た口元はツバキと対たい峙じしていた先さき程ほどよりもさらに苦々しく歪ゆがんでいた

「雨の中でこんな街外れに放ほうり出すわけにもいかないだろうまだ若い娘むすめだ」

『任務が最優先だ余計な時間はない』

「helliphellip少しの間通信を切るぞココノエ」

『なんだと

おい勝手な真ま似ねはhelliphellip』

装着している本人以外には

こえないであろう小さな音をたてて通信は途と切ぎれた

テイガーは雨

る広場に

を向けて歩き出したその足が向かう先には空を上層の市街に

さえぎられ提ちよ灯うちんの明かりとネオンが煌きらめく薄うす暗ぐらい街オリエントタウンが広がっていた

68

「ニャス」

「かっぱらいじゃねぇか」

張り上げたラグナの声はくわんと寒々しく下水道に響ひびいた

その反はん響きようが

まると今度はまたじめっとした静けさがやってくるどこからか滴したたり落ちて

床では

ねる水の音がいちいち不気味だった

色いろ濃こい影かげの向こうで得体の知れないものが蠢うごめいてこちらを覗のぞきこんでいるような錯さつ覚かくを抱

くぞ

っと走った悪お寒かんにラグナはぶるりと身み震ぶるいし先を行くタオカカの後を追う

がhelliphellipラグナは不意に顔をしかめると足を止めた

(錯覚じゃねえ誰かがこっちを見ていやがる)

淡あわく光る苔が刻んだ色濃い影の奥歪いびつな瓦礫の山のどこか

視線を感じる

いや視線だなんて生易しいものではないもっと根本的なもの存在や意志そのものとい

ったものがこちらを一心不乱に捉とらえているようだ

「いい人〜

どしたニャス」

ラグナがついてこないのを不思議に思ってタオカカが引き返してくる積み上げられたな

にかの残ざん骸がいを軽かろやかに

び越え着地するその小さな足音がきっかけになったのだろうか

「キキキキキキキキキキキキ」

第一章 Stratum city 階層都市71

瓦礫の山から飛び

りた先がオイルかなにかでぬめるラグナは反射的に顔をしかめて三

角耳がぴくつく白いフードの後頭部へ少々の苛いら立だちを込めて問うた

抜け道とは往々にして楽な道ではないとラグナはこれまでの経験で学んでいただがここ

は今まで通って来た『抜け道』と比べても相当な悪路だ

濡ぬれているわけでもないのに床ゆかの壁も天てん井じようもじっとりとしていていやな湿しつ気けが外から入り

込んでいるらしい濃こい魔ま素そと混ざって肌はだと肺にこれでもかと不快感をくれる

一段

りたところには廃はい棄き物ぶつと一体化した汚お水すいが吐はき気けをもよおす悪あく臭しゆうを放ちながら泥どろ水みず

のような重さで流れている

これが街からそう離はなれていない場所を流れ通っているというのに外にはさほどふし臭ゆうが漏れな

いことを思うと階層都市の工事技術はでたらめに見えて意外としっかりしているようだ

もうすっかり馬ば鹿かになった鼻をこすりラグナはぽつりとそんな感想を抱いだいた

「本当ニャスよくここ通って上でパンとかお菓か子しとかもらってくるニャス」

言ってタオカカは下水道の天てん井じようを見上げた黒ずんだ頭上は突つき出た鉄パイプや金属板が

複雑に組み合っておりその奥のずいぶんと高いところに張りついた闇やみのような天井が見てと

れる

さらにずっと向こうに目指している上層の街があるのだろう

つられて見上げてラグナはため息に肩かたを落とした

「もらってくるってまさか店のもん勝手に持ってってるんじゃねぇだろうな」

70

気味の悪さに怖おぞ気けよりもけん

悪お感が走る

影はいやに粘ねん着ちや質くしつな動きでぬめる床に着地するとむくりと上体を起こすような動きを見せ

た判然としないが苔光で浮かび上がる奴やつの足元でなにか小さな生き物が蠢いている気がす

る戸と

惑まどいつつも身構えるラグナのすぐ側そばにタオカカが駆け込んできて頭を低くさせ唸うなった

長い尾おがぴんと立ち上がって毛を逆立て膨ふくれている

「コイツうねうねニャス」

「うねうね

なんだそりゃ」

「悪いヤツなのネ

タオたちの村を襲って小さいカカを食べちゃうのニャス」

さっきまで陽気だった表情を目め尻じりをつり上げた憤ふん怒ぬのそれに変えてタオカカはわんと声を

響かせ威い嚇かくする

その様をあざ

笑わらうかのように白い面を浮かべた影は全身をあわ

立だてるように震ふるわせた

「キヒヒヒいる

いるぞ

るぞ力蠢く醜しゆうな

想を叶かなえ

ために肯

は不可欠

がい

念ねんの否定

閉とざ

た門が招くはずだ

ちが

いギヒヒヒヒヒヒ」

影が震え笑うたびに空気が淀よどむ

ラグナは険しく顔をしかめた

これは魔素だ

外から流れ込んできているのではないこの目の前にわだかまる影からあふ

れ漂ただよい下水道の

第一章 Stratum city 階層都市73

空気を引き裂さくような声と共に突とつ然ぜん影かげから影が飛び出したさらにそこから槍やりのような鋭

い影が無数に飛び出しラグナに襲おそいかかる

「ぅぐぁっ」

あまりに唐とう突とつであまりに周囲に同化した

に反応が遅おくれた分厚く布の裂ける音が散り一いつ

緒しよに皮ひ膚ふと肉をえぐり刺さすように持っていかれる

火がついたように痛む肩を引いてもう一方の腕うでで剣けんを抜き目の前の影を払はらった

手て応ごたえはないまるで本物の影を切り払ったかのようだ

「グギギギhelliphellip真

理へ至

我が

を求

我に求め

真相を

くhelliphellip」

人の声のようなそうでないような奇き怪かいな声こわ色いろで奇怪な言葉を口走りながら影は

び退すさっ

た高質化したヘドロと瓦礫の間でふわりと浮ういてわだかまる

初めラグナはどこからか紛まぎれこんだ魔まじ獣ゆう||高こう濃のう度どの魔素によって歪んだ生態系が生んだ

理性なき凶きよ暴うぼうな獣けものかと思った

だがどうにもちがう不定形なそれは奇妙で歪いびつで不可解で生物とはとても思えぬ

形をして

いた

ぐるりと影が動くとわだかまる闇の内側から面が現れる

白い円形に三つただ孔あなを開けただけの目と口顔のつもりだろうかそれが黒ずんだ不定

形の影の中で唯ゆい一いつの定形であるようだった

「なんhelliphellipなんだこいつは」

72

ふつとい憤きどおりがラグナの腹の底で沸わく

統制機構が大事に大事に抱えて地下深くにしまい込んでいる窯それを統制機構だけでなく

あちこちの機

や研究員学者が欲ほつしている窯を所有するということは窯が繫ぐ境界の一いつ

端たんを所有することと同意だからだ

誰も彼も境界には人じん智ちを超こえる素す晴ばらしい財産が眠ねむっていると信じている人智を超えた

ものなど人間に御ぎよせるはずもないのに

まったくいや

気けが差す頭にくるそんな窯を我が物顔で掻かき回す統制機構もそれを追いか

けるように窯を求める連中もどいつもこいつも

「こうなっちまったらもうどうしようもねえ悪く思うなよhelliphellipもっとも人を怨うらむほどの

理性があればの話だけどよ」

このままこいつをここに放置すればタオカカの言っていた『村』に留とどまらずさっきのオリ

エントタウンや下層の街に出て人を襲うようにもなるだろう

ラグナは剣の切っ先を下方に向けたまま化け物に深く踏ふみ込んだ

カグツチにはなんの思い入れもないがだからといってあからさまな害悪を目の前に置かれ

て放ほうっておけるほど利口でもない

迎むかえ撃うつように身を広げるアラクネの胴どうを||胴らしき部分を横よこ薙なぎに切り払う

「グポポhelliphellip」

「ちぃっ」

第一章 Stratum city 階層都市75

ありとあらゆるものを侵しん食しよくしているのだ

それはこの影のような物体のまとう黒いものが全て魔素であることを意味していたそし

て魔素のか塊たまりであるこの奇怪な化け物がその容

に似合わず人の言葉らしい音を発しているの

はこれが元々人語を解する存在であったことを物語っている

つまり人間だ

タオカカが『うねうね』と呼びオリエントタウンの一部の人はアラクネと呼ぶ黒ずんだ不

定形の化け物はこうなる前人間だった

ラグナはこみ上げてきた

悪感を舌打ちに変えて吐き出した

「こいつ境界に触ふれたなhelliphellip」

ラグナが各地の統制機構支部を回り

々に破は壊かいしている支部地下の『窯かま』その窯によっ

て現世と繫つながれた異界||境界

そこは人知の及およばぬ不定形の場であり中は地表の比ではない濃のう度どの魔素が渦うず巻まいていると

いう

濃い魔素が魔獣を生んだように人もまた高濃度の魔素に触れ続ければ理性が魔素にのみ込

まれやがて境界に引きずり込まれて人でいられなくなる

臭にまみれて粘ねん液えきのような体を蠢かせ奇怪な音で語るこの黒い化け物アラクネは

そうして人でいられなくなった誰だれかのなれの果てだった

「あんなもんに手ぇ出してなにがしたかったのか知らねえがhelliphellipこの馬鹿が」

74

だ身が捻ねじれ後方へべちゃりと倒たおれる

それと同時にタオカカの体がひらりとラグナのとなりに

着地した爪を

めた大きな手をシュッ

と前に突つき出して威嚇する

それを横目にラグナは軽く笑った会って間もないこちらも奇妙な生物だが『うねう

ね』と

ってこいつと並ぶのは悪い気がしない

「何年目じゃなくてここで会ったが百年目な」

「おおんじゃあ百年分ギタギタにしてやるのネ」

「まなんでもいいか」

抜ぬけ落ちるような緊きん迫ぱく感を再び引き寄せてラグナはしっかりと剣を握にぎる

一度は黒い泥溜だまりのようになったアラクネはすぐさま波打つような動きで起き上がると

ごぼりと足元を鳴らし魔素を噴ふき散らす

「ギギギhelliphellipよこ

よこせ

れは我

らう

淵えんがい

見て

目からのが

れな

運命

らはのが

れない」

「なに言ってんのかわけわかんねぇんだよ

楽にしてやるからとっととくたばりやがれ

この生ゴミ野や郎ろう」

ついた魔素を払うように乱暴に剣を振るうとラグナは腹から雄お叫たけびをあげつつ高く得物を

振り上げ魔素に取り込まれた人ならざる者へと叩きつけた

第一章 Stratum city 階層都市77

ごぼごぼと濁にごった音をたててアラクネの体がしゆ時んじにラグナの視界から消える

下だ舌打ちしながら蹴けりつけるラグナの足の下を通ってアラクネは赤いコートの

後で

再び体を持ち上げる

「キサマキサ

くらう

人間であるならあるいは四し肢しを持つ生物であるならおよそあり得ない角度から黒い塊が

ラグナを

ね上げるように突とつ出しゆつする

咄とつ嗟さにラグナはそれを剣で受けた感かん触しよくは重くどろりとしている

さらにもたれかかるように剣の表面を伝う泥どろのような魔素から突とつ然ぜん奇き怪かいな蟲むしが飛び出して

きた見たこともないひたすらに

悪感をあおるような不可解で不ふ愉ゆ快かいな蠢くもの

「うげっ」

吐き気のような

悪感に弾はじかれるようにしてラグナの足が勝手に距きよ離りを空ける

その間に割って入るように鋭するどい爪つめが振ふり下ろされ飛び出した無数の蟲を切り裂いて叩たたき落

とした

勇ましく飛び込んできたのはタオカカだ

「うねうね

ここで会ったが何年目

タオがぎったぎたにしてやるのネ」

爪を振り下ろす動作から着地をはさまず宙で身を捻ひねるとタオカカは反対側の爪でアラクネを

切り裂く

爪はえぐるようにアラクネの顔らしき部分を捉えた陶とう器きが割れるような音をたてて黒ずん

76

双そう眸ぼうは薔

さえ霞かすむ深しん紅くで容

からうかがえ

る幼さには似合わないほどの気品と優美さをたたえ

ていた

少女の名はレイチェルアルカード

十を超えた程度のまだあどけない少女のように見えるがその実約百年を生き続ける吸きゆう

血けつ鬼きだ

千年以上前から続く吸血鬼の一族アルカード家の現当主であり薔

園を見下ろす城の主あるじで

あり

月と夜空と薔

と城を抱いだくこの常夜の空間の主でもある

ここは世界のあらゆる場所から断絶された地点でありながら世界のあらゆる地点へ繫が

る場所

空間と空間の間に漂い世界と世界の狭はざ間まに留とどまる領域

アルカード家の当主が管理する特別な住まいだった

カップを金のスプーンが横たわるソーサーへと戻もどしレイチェルは物もの憂うげに吐と息いきをく唇ちびるから漏も

らした

蔦つた模様に絡からみ合うスチールテーブルの上に飾られた薔

の切り花が微かすかに香かおる

レイチェルは昼の来ない領地での時間をこうして薔

園のテラスで多く過ごした

は好きだ美しいし香りがいいそれになにより遠き日に亡なくなった父が愛した花

だから

第二章 Spiral fate 盤上の駒79

第二章

Spira

l fate

||盤ばん上じようの駒こま

真っ赤な薔ばら

に彩いろどられた見事な庭園を青白い満月が見下ろしていた

静かな夜だった空気は凜りんと冷え夜の帳とばりが世界はここまでだと区切るように色濃く辺り一

帯を包んでいる

園の奥にはおとぎ話の中から抜け出てきたかのような美しく愛らしい城がそびえており

だ橙いだいい色いろをした明かりの揺ゆれる窓が無数の瞳ひとみのようだ

その城を赤薔

の生いけ垣がきの向こうになが

める庭園のテラスでひとりの少女が小さな丸テーブ

ルに向かい優ゆうがにティーカップを傾かたむけていた

月下にありながら眩まぶしいほどに輝かがやく長い金色の髪かみを左右でふたつに結ゆわえ大きなリボンで

飾かざられている華きやしやで小さな体には黒い豪ごうしやなドレスを纏まといそこから伸のびるやはり小さな手

は陶器のように白く滑なめらかだ

カップの中で揺れる紅茶を

めていてもどこか遠く世界の果てを見み据すえているかのような

78

「今夜も見事でしょう

お父様」

ふとわく感傷に任せて呟つぶやいてみて彼の愛した薔

の香りの紅茶を飲むそんなときのほん

の一

レイチェルの心は微かに慰なぐさめられるのだ

夜の終わらないこの城は時間の流れとは無む縁えんだ夜が永遠であるように時間もまた永遠

でありレイチェルの時間もまた永遠であった

それでも退たい屈くつはやってくる時にはこうしていつかの日を想おもいため息でもついてみねば

枯かれることのない薔

のように言葉を忘れてしまいそうだった

「失礼いたしますレイチェル様」

コツと革かわぐつの硬かたい音がテラスの煉れん瓦がタイルを叩きしわがれた声が穏おだやかに呼びかけた

レイチェルを振り向かせることなく乱れない歩調で少女の視界の端はしまでくると声の主白はく

髪はつを

で束ねた長身の老人は胸むな元もとに手をあて浅く腰こしを折る

ヴァルケンハインRヘルシングレイチェルの父クラヴィスアルカードの代からアル

カード家に仕え今はレイチェルと共に在る老しつ事じだ

微びし笑ように皺しわを刻みすきなく佇たたずむ

はレイチェルに劣おとらず品がいい

だが彼もまた人間ではなかった人であり獣けものでありどちらでもありどちらでもないおおかみ

男おとこだ

外見から想像できる重ねた歳としよりずっとたくましい肉体が質のいいバトラースーツの上からで

える

80

つぶらな瞳と口角の上がった口がやはり小さく愛らしい

黒くろ猫ねこのソファはナゴ赤いゴム毬まりはギィ共にレイチェルの使い魔だ

「姫様のお気に入りっすよねー姫様ってああいう男が好みなんすか

意外とダメな男に引ひ

っ掛かかるタイプっすね」

小さな羽を忙いそがしくパタつかせて楽しそうにギィが話すとその

らかな両りよ頰うほhellipおhellipというよ

り頭部を素す早ばやく伸びたレイチェルの手が摑つかみ左右に思い切り引っ張った

「なに

よく

こえなかったわもう一度言ってみてもらえるかしら言えるものならね」

「イデデデデひひめひゃまいひゃいいひゃいれすぅぅぅぅぅ」

「アンタってほんと口で身を滅ほろぼすタイプよねぇ」

通常の二倍に顔を広げたギィを見やってナゴが呆あきれたようにため息を送る

情けない

鳴をひとしきり

いた後にレイチェルはあっさりギィから手を離はなしたバチン

と音がして赤い頰が元の真ん丸い形状に戻る

それを横目にレイチェルはテーブルの上に生けられた赤薔

の花弁へ触ふれた

「彼がそこまで来たのならもうすぐ二一九九年も終わるのね」

「左様でございますな」

どこか歌うように呟くレイチェルへ恭しくヴァルケンハインが返す

「そして世界も」

微かな声で付け足された一言にはヴァルケンハインはなにも返さなかったレイチェルが

第二章 Spiral fate 盤上の駒83

「どうしたのヴァルケンハイン」

白い指先をティーカップの縁ふちで遊ばせレイチェルが赤い瞳を向けて問う

ヴァルケンハインは頭を下げたままう恭やうやしく答えた

「ラグナザブラッドエッジがカグツチに現れたようです」

無む駄だなく必要なだけを伝えるヴァルケンハインの言葉にレイチェルは陶器の縁をなぞる指

先を止めた

そのまま指を小さな取っ手に引っかけ中身の少なくなったカップを持ち上げて一口飲み

それをソーサーに戻してからやっとレイチェルは唇を動かした

「そうhelliphellipもうそんな時間なのね」

独り言のようなレイチェルの呟きに続いて

唐とう突とつにふたつの声がこれまでの静かで密ひそやかだった雰ふん囲い気きを不意に賑にぎやかせた

「あらぁん姫ひめ様ラグナってあの白いツンツン頭のボウヤよね」

「オイラも覚えてるっすよあの生意気なヤツっす」

先にハスキーな猫ねこなで声で言ったのはレイチェルが腰こしかけている椅い子すそのものだった一

見黒いソファに見えたそれはよく見ると

もたれの上部に三角の耳と猫の顔がありその猫の

顔が話していたのだ

続いた甲かん高だかい陽気な声はレイチェルの足元から弾はずんだゴム毬まりのようにとび上がった赤くて

丸い生き物のもの見るからにやわらかそうな体からは小さな手足と小さな羽が突き出ており

82

影の中に浮うかぶ幼児の落書きのような目玉らしき緑色の丸と不気味に裂さけた赤い口が椅

子に腰かけるレイチェルを見つけて気味悪く笑えむ

どこからどう見ても人ではなくましてや吸血鬼でも

男でもない

これは思念だ肉体を持たない意志だけの存在ある男の精神体だった

「よ〜うクソ吸血鬼今回もお供と犬っころ連れてお茶会か

ずいぶんのん

気きなもんだなぁ

オイ」

許可もなく薔

園に踏ふみ入ってきた無作法者の精神体はこもった声でいや

味みに語りかける

とたんにヴァルケンハインが険しく顔をしかめギィは情けない

鳴をあげてそれこそゴ

ム毬のような俊しゆ敏んびんさで主の黒いドレスの

後へと隠かくれた

レイチェルは冷やかに影を見据える

軽く腰を浮かせるとそれまで椅子としてそこにいたナゴが体をくねらせて

を黒い傘かさへと変

えレイチェルはそれを手に立ち上がった

唇にこそ優美な笑みを浮かべていたが少女の深紅の瞳にはただただけん

悪お感かんが塗ぬり固かためられ

ている

を見せるだけでこれほどまで人を不快な気持ちにさせるのはある意味

能ね感心する

わテルミ」

の香りのように

らかにけれど薔

の蔦のように刺とげと々げしくレイチェルは言い放つ

言葉の先にいた精神体の男テルミと呼ばれた影は風にでもあお

られたかのように体を揺らし

第二章 Spiral fate 盤上の駒85

求めていないことを理解していたからだ

代わりに

男の老

事は乱れぬ声こわ色いろで問う

「レイチェル様紅茶を新しいものにお取り換かえいたしましょうか」

「helliphellipそうねお願いしようかしら」

本当は出かける用事ができたところだったけれど今はもう少しだけここでの無益な時間を

浪ろう費ひしたい気分だっただって

(今回もいい結果は期待できそうにないものね)

独り言のような呟きを胸の内でそっとこぼしレイチェルは掠かすれ消えるような吐息をつく

がすぐにその息を

み込むように眼光を鋭くさせた

真紅の視線が見据えるのは延々と続く薔

園のほうだ

「ヴァルケンハイン招いてもいない客が来たようね」

深い緑の葉をざわめかせて風が吹ふく風を招いたのはレイチェルだ涼すずしい夜気に混じって

漂ただよってきたいやな気配をはね退のけるために

円形に整えられたテラスの隅すみのほう薔

の生け垣の前の空間が目め眩まいでも起こしたかのよう

にくらりと歪ゆがむ

そうして現れたのは影かげだった

黒い体に緑色を纏まとわりつかせたような色しき彩さいでぼんやりと漠ばく然ぜんとした人型のなにかがそこに

立っていた

84

敵てき愾がい心しん

「それで一体なんの用

今がどういうじ状よう況きようなのかわかっているのでしょう貴方あなた

だって暇ひま

ではないのではなくて」

ヴァルケンハインほどあからさまな敵意ではないものの突つき放し追い立てるような調子で

レイチェルが言う

テルミはけだるい仕草で首を傾かたむけまたケタケタと不ふめ明いり瞭ような体を揺ゆらすようにして笑った

「別にぃ〜ただそろそろ今回のエンディングも近いわけだしそろそろ一度テメェらの腑ふ抜ぬ

けた面を拝んどこうかと思ってよ」

低めた声は悦えつっぽく笑みを濁にごらせる

レイチェルはその様を無感動に淡たんた々んと赤い瞳ひとみに映した

「懲こりない男ね」

囁ささやくようにレイチェルは告げる冷えた声は空に浮かぶ欠けることのない月の光に似ている

「何度繰くり返したって結果は同じ世界は何度だって巻き戻ってあの日あの時からまた始ま

るだけよ」

ざとレイチェルと影の間を横切るように風が渡わたる薔ばら

の香りがま

う中で幽ゆう鬼きのよう

なテルミの

はあまりに不気味で不似合いだった

場ばちが

いであると思い知らせるかのように濃のう密みつな花の香りを纏う風の中でテルミは深く深

く笑みを浮かべる

第二章 Spiral fate 盤上の駒87

た笑っているのだ

「そいつぁお互たがい様じゃねぇかこっちもテメェのクソむかつく面つら見てると胸むな糞くそ悪くなって

くる」

ユウキテルミそれが影の名前だった

「ならば早々に立ち去るがいいここは貴様のようなやからが気安く踏み入っていい場所ではない

ぞ」重

々しくけれど遠えん慮りよ容よう赦しやのない敵意を込こめてヴァルケンハインが進み出たレイチェルに

対して見せていた穏やかな品の良さは影を潜ひそめ白髪の老人とは思えぬ力強く攻こう撃げき的な眼まな差ざし

で揺れる影を睨にらみ据すえる

途と端たんにテルミは面おも白しろくなさそうに口らしき赤色を歪めた

「はっテメェも相変わらずイラつくなキャンキャン吠ほえてんじゃねぇよボケ犬が殺しち

まうぞあぁ」

「面白い吠えるしか能がないのはどちらか確かめるとしようか

体のない今の貴様に一体

なにができる」

「ちっhelliphellipうぜぇジジイだテメェもあんとき殺しときゃよかったぜ」

「九十年前に反省するべきだったな」

テルミが悪態を吐つけばヴァルケンハインはそれを踏み潰つぶすような敵意を返す

そこには根深い因いん縁ねんの沼ぬまが広がっているかのようだった浮かぶのは憎ぞう悪おでもけん悪おでもなく

86

覗のぞき見えていた

「んじゃなせいぜい高みの見物でもしてろや」

吐き捨てるようにそう言うとテルミは靄もやが空気に溶とけてやがて目視できなくなるように

音もなくその場から消える

あとにはなにも残らないただレイチェルが日々当たり前に

めている真っ赤な薔

が咲さ

き誇ほこる庭園が広がるばかりだ

緩ゆるやかな風が抜ぬけて甘い薔

の香かおりが漂うまるでテルミによって生じた不快感を拭ぬぐい払はら

うように

ヴァルケンハインはそれまでの飛びかかって喉のど笛ぶえでも食い破りそうな敵意を呼吸ひとつのう

ちにしまい込みしつ

事じの顔に戻もどるすき

なく

筋を伸のばしレイチェルへと向き直った

「いかがなさいますかレイチェル様」

主人がすでに決めているであろう腹の内を促うながすように問う

レイチェルは手にしていた傘状のナゴを開いたパラソルでも扱あつかうように肩かたにかけヴァル

ケンハインを見やる

「ヴァルケンハインやっぱりお茶はまたあとでにするわ」

あんなにも単純で粗そ暴ぼうなちよ

発うはつに乗るのは癪しやくだけれどそうとわかっていて顔をそむ

けることを

弱気ゆえと受け取られてはもっと癪だなによりあの男に好き勝手を許すのは面白くない

「ナゴギィ出かけるわよ」

第二章 Spiral fate 盤上の駒89

「そうしたらまた始めるさ」

這はうような声で語る

な気配がレイチェルの誘さそう風さえ汚よごすようだった

「何度でもいいぜ

そのたびに俺はやり直すだけだ何度でも何度でもテメェがいい加減

飽あきてお城から出てこなくなっても何度でも何度でもhelliphellip何度でもなぁ」

「悪あくしゆ味みね」

「テメェが言うかよクソ吸きゆ血うけ鬼つき」

テルミがせせら笑う

深い皺を眉み間けんに刻みい憤きどおりを腹に抱かかえるヴァルケンハイン怯おびえ様子をうかがうナゴとギィ自分

の周りにいる者たちをながめてレイチェルはく唇ちびるを優美なカーブに曲げた

彼の言うことに同意するのは心底不ふ愉ゆ快かいだけれど確かに悪

味なのはレイチェルも同じだ

何度も何度もこんなやりとりを何度もここで行った

繰り返す時間の中で繰り返される会話はいわば一種の通過儀ぎ礼れいだ

これから始まる数時間めまぐるしく運命は交差して離れ剥はがれ崩くずれ乱れるその結末

をし粛ゆくし々ゆくと見届けるためのお決まりの行事

「まいいや俺はそろそろ最後の仕上げの準

しねぇといけねぇから行くわいちいち相手

すんのも面めん倒どうくせぇからテメェらはそこで茶でもしながら終わるのを待ってろよ」

言いながらテルミは一歩大きく退いた

影がぼやけて消えるように彼の

が揺らめく黒い体の向こうには薄うっすらと薔

の赤が

88

城から外へと出ていった

の残り香がが夜気に吸い込まれて消えるまで待ってヴァルケンハインはテラスのテーブ

ルに残されたティーセットをワゴンに載せて片付け始める

せめて今回はあの小さな主人の心が慰なぐさめられるようなそんななにかがあるようにと胸中で

願いながら

2199年12月30日||9時23分

カグツチの朝方普ふ段だんなら東空は陽光の白に輝かがやき地表で淀よどむ魔素の存在など忘れさせてく

れるかのように眩まぶしい

だが今日は生あい憎にく朝早くから分厚い雲が空を覆おおう曇どん天てんだった広がっているのは雨雲だ昼

前には雨が

り出すだろうと湿しめった空気が教えてくれる

第十三階層都市カグツチの外れ都市の一部として建設されたのではなくこの地に流れ着い

た難民が自発的に建設した市街のひとつ浪ろう人にん街

第二章 Spiral fate 盤上の駒91

「はぁ〜い姫様」

「了りよ解うかいっす」

傘のままナゴがしなを作りさっきまでの怯えが噓うそのように元気よくギィが飛び上がる

二匹ひきの使い魔まを従えレイチェルは宙へ手を差し出したすると煉れん瓦がタイルが敷しき詰つめられ

た足元に薔

色の魔法陣じんがほのかな光を宿して浮かび上がる

転移の魔法だ

今の世界の基き盤ばんともいえる術式の元になった太古の技術魔法けれど今はもう使える人間

はほとんどいない失われた技術だ

転移はそんな魔法の中でも特に多くの魔力と集中力を要し特別難解な制せい御ぎよを求められる魔

法だったそれゆえに人類の歴史においても使い手と呼べるほど扱いに長たけた者は数えるほ

どしかいない

転移魔法を自在に扱うレイチェルもまた自分以外にこの魔法を使いこなせている者をひと

りしか知らなかった

「カグツチまで行ってくるわヴァルケンハイン留守をお願いね」

「かしこまりましたお気をつけて行ってらっしゃいませ」

理想的な角度に腰こしを折ってヴァルケンハインは魔法陣の中から語りかける幼い容

の主あるじを

見送る

ふわりと風が

い上がり目眩を誘うほどの薔

の香りを振ふりまいてレイチェルは常夜の居

90

屈くつ強きようで大柄な体たい軀く隠すことなく晒さらされた広い

中顔に刻まれた十字の傷きず跡あとそして首に

巻かれた真っ赤な布その真っ赤な布がけい

谷こくの風に

られたなびくたびに誰だれもが彼を振り返

らずにおかない

なにも衣装の特とく徴ちようが浪人街の人の目を集めるのではない

このマフラーのように巻かれた赤く長い布は目印なのだ

迷える難民をまとめ先頭に立って浪人街を築きこうして日々浪人街を歩いては住民にト

ラブルや困りごとがないか見回るイカルガ忍にん者じやの頭領にして浪人街のヒーローシシガミバ

ングの

「おはようございますバングさん」

「バング殿どの

先日は

げたに鶏わとりの捕ほ獲かくを手伝っていただいてありがとうございます」

「バング様〜

こんにちは〜」

街のあちこちからかかる声に手を挙げて応こたえバングは朗ほがらかな笑え顔がおを返す

「うむおはようでござる

おおそうだ今日は雨が

るだろうから雨あま漏もりする家がある

なら拙せつ者しやに声をかけるでござるよすぐに飛んでいって修理を手伝うでござるからな」

通り中に響くような声で言いながらバングは前へ前へ歩む

天気はよくないがバングの心は今日も晴れやかだった仲間がいて住む場所があるこ

れがどれほど喜ばしいことか数年前までは忍として戦争の裏側を奔ほん走そうしてきたバングは日々

身をもって思い知り嚙かみ締しめていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒93

ここは五年前に終結したイカルガ内戦という戦争の敗者イカルガ連れん邦ぽうに住んでいた者たち

が造り上げた市街だった

内戦によって彼らの故郷は失われた行き場のないイカルガの民たみは世界のあちこちに散り

その中でもカグツチににげ延のびた者たちがここで身を寄せ合って暮らしている

複雑で街を築くのに適しているとはとても言えない地形だカグツチのある高山の下方に

位置しながら辺りは岩だらけで亀き裂れつや絶ぜつ壁ぺきが目立つ

それでもイカルガの難民たちは岩場に足場を組み亀裂に橋をかけ絶壁に階段を作り半

分宙に浮ういているかのような入り組んだ街を作り上げた

小さな街だありあわせの材料を組み合わせてできた粗そ末まつな街だがそれにしては整えられ

たイカルガじ情よう緒ちよ漂ただよう街並みにhelliphellip朗々と男の声が今日も響ひびき渡っていた

「おお皆みなの衆

今日も元気に平和に過ごしておるな

うむうむよきかなよきかながっ

はっはっはっは」

太く伸びやかな声の主はシシガミバング

浪人街の中心である一番開けた通りのど真ん中を歩きながら道行くすべての人に威いせいよく

挨あい拶さつして回っている大おお柄がらな筋肉質の男がそうだ

ぼさついた黒くろ髪かみは高くまとめ深い緑色の独特な装しよ束うぞくを身に着けている着ているのはイカ

ルガ伝統の忍しのびの服だ本来は闇やみに紛まぎれ隠おん密みつにことを済ますのが忍の

だがこのシシガミバ

ングという男はまるで逆にとにかく人の目を引いた

92

カグツチの

士であるならばこんな下層まで

りてくることなどそうそうないし別の支部

士ならばもっと上層からカグツチに入るはず

この街に統制機構の制服はあまりにも不自然だった

金髪の青年はなにも答えず冷ややかな緑の瞳ひとみでバングを

めていたがやがて色の薄うすい唇を

開きぼそりと低く呟つぶやいた

「その服helliphellipイカルガの忍か」

およそ好意的でない声

人によってはその内にさげすみ

やあざけり

いただろうだがバングはそのひどく温度の低い声こわ色いろ

を警けい戒かいゆえと受け取った

身構えるように低くさせていた体を起こしバングは慌あわてて制止するように広げた手を突つき

出だす

「ああいや誤解めされるななにも一戦交えようというわけではござらんぞ確かにここは

イカルガの民が住まう街で拙者はイカルガの忍であった男だが五年前にイカルガ内戦は終

わっておるのだ」

バングは太い腕うでをがっしりと組むと神しん妙みような

顔つきで何度か頷うなずくようにしながら先を続けた

「確かに終戦のきっかけは戦いくさではなく我等の首都イブキドの爆ばく発はつ事故であった」

イカルガ内戦は世界虚空情報統制機構に対し第五階層都市イブキドを首都と掲かかげるイカル

ガ連邦が独立を宣言して始まった内戦だ統制機構は武力でもってそれを制圧しようとしイ

第二章 Spiral fate 盤上の駒95

平和はいい平和の中にこそ愛はあるのだ

「うん」

ふと前を行く

を目に留めてバングがいぶかしげに声を唸うならせた

見慣れない男が歩いている浪人街の住民ではないバングはこの街に住むイカルガの民の

顔と

格好をすべて覚えていた

短い金きん髪ぱつの細身の男だ歩き方からしてまだ若い

なにより気にかかるのはその男が着ている服だ青と白によって構成されたその服はおそ

らく世界虚こ空くう情報統制機構の制服だろう

「そこのお主

待たれい」

叫さけぶように声をかけながらバングは高くとんだ空を駆かけるような長いちよ躍うやくは前を行く金

髪の青年の頭上を越こえて彼の正面へと着地する

行く手を塞ふさがれる形となった見慣れぬ男は足を止めバングの唐とう突とつな登場に戸と惑まどったように

眉まゆを寄せていた

やはり若い男まだ少年の面おも影かげも残した青年だ着ているものも統制機構の制服に間まちがいな

く手には青い鞘さやに

めた刀を一ひと振ふり摑つかんでいる

バングはますます募つのる怪けげんに青年よりも深く眉間に皺しわを刻んだ

「お主我等が街になんの目的で参られた

その服装統制機構の

士であろう」

カグツチの

士だろうかバングは彼に見覚えがない

94

金髪の青年はなにも言わず静かにバングを見み据すえている

なにを考えているのかどこかぼうっとしたようにも見える無表情からは思考どころか感情

さえ読み取れない

話を

いているのだろうかバングは不安に思いながら改めてさっきの質問を繰くり返す

「してお主は一体何者で浪人街になんの用でござるか」

「helliphellip用などない」

ようやく青年がバングの問いにまともに答えた

まともというにはあまりに素っ気なく突き放した物言いだったが返ってきた言葉が思いの

外ほか穏おん便びんでバングは軽く安あん堵どを抱いだく

イカルガの残党狩がりだなどと言われてその手の刀を抜ぬき放たれたら多くの住民が行き交かう

街の中心で大立ち回りを演じなければならなくなるそうなればいくつかの家は巻き添ぞえをく

っただろうし何人かは怪け我がをしたかもしれなかった

青年は変わらず冷たい無表情のままでバングの向こうにそびえる山へ目を向けたこの上

にいくつもの市街が建設され頂上には世界虚空情報統制機構のカグツチ支部が建っている

「貴様たちのことなどに興味もない僕は上へ行きたいだけだ」

「上

というと統制機構の支部でござるか」

「じや

魔まだそこをどけhelliphellipああいや」

冷れい徹てつに言い放ってから青年は思い直したようにけれどそれでも冷ややかに声を低めた

第二章 Spiral fate 盤上の駒97

カルガ連邦も武力でもって抵てい抗こうした

それが四年続いたある日のことだ

イカルガ連邦首都であり指揮系統の中心であった第五階層都市イブキドの地下で突とつ然ぜん原因

不明の大爆発が起こりイブキドは跡あと形かたもなく消しよ滅うめつした

爆発はイカルガ連邦はもちろん交戦の真っ最中であった世界虚空情報統制機構側にも大き

く戦力を損そこなわせる痛手を負わせた戦争を続けるだけの力をイカルガ連邦と統制機構が爆

発事故をきっかけに同時に失ったのだ

結局イカルガ連邦はバラバラとなり最終的には組織としての形を失ったけれど統制機構も

己おのれを立て直すのに手て一いつ杯ぱいで追つい撃げきどころではなく内戦はしぼんで消え入るようにいつの間に

か終わったのだった

「それでも我等は負けたのだその現実を認めずに今ある平和を投げうってまで統制機構に

楯たて突つくつもりはござらんよ」

そう言うとバングは眉み間けんを中心に走る十字傷に分厚い手で触ふれ苦々しくも笑みを浮かべ

たこ

の傷はその爆発事故のときに負ったものだ内戦を終わらせたあの事故が自分にとって幸

であったのか不幸であったのかバングには未いまだわかりかねる

ただイカルガの民はもうじ充ゆう分ぶん戦ったこれからはたとえ楽な生活でなくとも平和に過ご

してほしいとバングは思っている

96

れるだとかそんな幽ゆう霊れい話じみた現象が起こるはずもない

勝手なイメージでそう結論づけるとバングは気を取り直してそのたくまし

い胸むな板いたを張った

まだ浪人街の見回りは途とち中ゆうだ曇天の色はますます濃こくなってきている雨が

り出す前に

修理の必要な家がないかどうか確かく認にんしておかなければならない

「いやぁまったく最近の若者は覇は気きが足らんでござるなぁ

陰いん気きな顔をしていないでも

っと威い風ふう堂どうど々うと力強くそして

くあらねばそうこの愛と正義の忍者シシガミバング

のように」

辺り一帯に響く盛せい大だいな声で笑うとバングは街の見回りを再開させた

これが終わって部下のけい

古こが終わってそれでも時間があったなら憧あこがれの女性が住むオリ

エントタウンまで足を延ばして挨拶に行こうとそう心の中で計画をたてていた

今日も浪ろう人にん街は平和だ

それがなにより素す晴ばらしい

2199年12月30日||18時21分

第二章 Spiral fate 盤上の駒99

「ついでだ貴様カグツチで白い髪かみに赤いコートを着た男を見なかったか」

そう尋たずねる青年の表情はまるで凍こおりついたかのように無表情から動こうとしないだという

のに緑の瞳だけは妙みように楽しげに煌きらめいていたようにバングには見えた

バングは顎あごに手をやり考えこむ

「白い髪に赤いコートhelliphellipふぅむいやこの辺りでは見かけてござらんそれほど目立つ容

ならば一度目にすれば覚えようがhelliphellip」

「そうかならいい」

しゆ時んじにバングからあらゆる興味を失ったように青年は滑すべるような歩みで横を通り抜ける

すれちがう風はいやに冷たいまるで氷でも掠かすめたかのようだ

「ああお主

拙者はシシガミバングと申すお主の名はなんと申す

すたすたと足早に山へ向かう細身の後ろ

へバングは追いかけるように声をかけた

だが青年は振ふり向かないまるでバングの声など耳に入っていないかのような頑かたくなな

中で

なにかに突き動かされるような足取りで歩き去りそのうちに浪人街の外れへと

を消してし

まった

バングは引き止めるように宙へ伸のばした腕もそのままに難しく顔を歪ゆがめて首を捻ひねった

「はてhelliphellip奇きみ妙ような男でござったななんというかこうた魂ましいが抜けているようというかhelliphellipなに

かに取り憑つかれでもしているかのようであったわ」

もっとも今は日もこれから高くなろうという真昼間魂が抜けるだとかなにかに取り憑か

98

形よく張り出した豊かな胸に引き締まった腰こしそこから滑なめらかに続く肉感的な臀でん部ぶと華きやしや

な足首に向かって続く絵に描かいたような曲線

同性の憧れと異性の動どう揺ようを誘さそわずにおれない肢し体たいのシルエットだけでも彼女は道行く人の

視線を釘くぎ付づけにする

そんな麗うるわしき女医ライチがこの街にやってきたのは約一年前のことだ

突然現れ住まいと仕事を求めたライチをこの辺りの住人は快く受け入れた

彼女は自分がどこから来たのかどんな生おい立ちなのかなぜオリエントタウンへひとりで

やってきたのか名前以外のことはなにも話そうとはしなかった

素すじ性ようの知れない女など怪あやしまれて当然だろうけれどライチが出会ったオリエントタウンの

住人は皆みんな彼女が口を閉とざすと深くは追つい及きゆうしようとはしなかった

そのことをライチは一年たった今でも来たばかりのころと変わらず感謝している

こうして日々病院のとびらを

開けなるべく気軽に安価で治ちり療ようが受けられるよう心がけているの

も生活のためというより拒きよ絶ぜつや敬遠ではなく寛かん大だいさと優やさしさをもって自分を迎むかえてくれた

オリエントタウンへの恩返しの意味が強い

「さてと」

少年の

が曲がり角の向こうに消えるとライチは細い肩かたをすとんと落として息をついた

オリエントタウンはすでに夜の闇やみに包まれていてあちこちにぶら下げられた小さな提ちよ灯うちんや

ランプが家々を照らしていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒101

オリエントタウンは第十三階層都市カグツチの下層にこそあれど広く活気にあふれた賑にぎやか

な街だ

限りある土地を時に譲ゆずり合い時に共有して身を寄せ合うように家を建て並べ今にも壁かべが

触れそうなほど密接したりん家かとは家族のように付き合える

誰だれも彼も決して裕ゆう福ふくではないけれど薄うす暗ぐらい路地に不ふ穏おんな影かげが横切ることもあるけれどそ

れでもこの街は温かい

ここオリエントタウンの一角で小さな病院を開いている医者ライチフェイリンは常々

そう感じていた

「痛みが引くまで無理は禁物よいいわね」

階段から落ちて捻ねん挫ざしたという少年を病院の入り口まで見送ってライチは頭を下げる小さ

な彼に笑顔で手を振る

ライチは美しい女性だった

足元まで伸ばした艶つややかな黒くろ髪かみを高く結ゆわえてくるりと巻き大きなアップヘアにまとめて

いる化けし粧ようで飾かざらずとも美しいラインを描えがく眉に伏ふせれば影ができるほどに長い睫まつ毛げ黒い

縁ふちの眼鏡ごしに見える瞳は大きく知的な光を宿しているけれどややつり上がった目元はどこ

か媚び態たいを想像させる色いろ香かを匂わす

美び麗れいなのはなにも容よう貌ぼうだけではない

100

こんなにも温かく名を呼ぶのはひとりだけだhelliphellip今は

両手で二の腕をさすりながら振り返りライチは少し驚おどろいたように目を丸くさせる

そこにいたのはやはり予想通りの人物だったけれど彼の腕には予想とは

うものが抱だき

かかえられていた

声の主の大きな体が建物の色いろ濃こい影の中から出てくるライチとて

の低いほうではないけ

れど彼の

は見上げるほどだ

通常の人間ならありえないほど屈くつ強きような体に赤い肌はだ第七機

の赤あか鬼おにと呼ばれるサイボーグ

の男だった

「テイガーhelliphellip」

ライチが小さな声で名を呼び返すうちにテイガーは周囲に人ひと気けがないことを素早く確認す

ると近くまでやってくる

彼の腕うでにはひとりの少女の

があった気を失っているのかぐったりと力なく体を預け

ている長くやわらかなカメリアレッドの髪に華

な体そして青と白の世界で一番有名な制

服helliphellip統制機構の制服

「テイガーこれはどういうこと

どうしてhelliphellip」

どうして統制機構の

士を抱かかえてこんなところにいるのかそう問おうとしたライチの疑問

をさえぎっ

てテイガーは抱えていた少女の体を託たくすように差し出した

「すまんがこの少女を頼たのめないだろうか訳あって気絶させてしまったのだが放ほうり出すわ

第二章 Spiral fate 盤上の駒103

遠くには雨音が

こえる昼過ぎに

り出してから今までもずっと続いていたのだろう空

を上層に閉とざされたこの辺りもすっかり空気が湿しめっていてずいぶんと冷え込んでいた

ゆったりとした白いブラウスとその上に着込んだロング丈たけの真っ赤なチャイナドレスという

服装はライチのみ惑わく的なボディラインをくっきりと描き出すには適しているけれど寒空の

下に立つにはあまり向いているとはいえない

不意に抜けた冷たい風にぶるりと身み震ぶるいしてライチは豊満な胸元を合わせるように己おのれを抱

いたまとめ上げた髪にしがみつくようにくっついている小さなパンダの髪かみ飾かざりも心なしか寒

そうだ

今夜はきっと冷えるだろうとはいえかつて黒き獣けものが現れ魔ま素そが世界に広がるまでは十二

月といえばもっと寒くこんな薄うす手での服装ではとても外を歩けなかったそうだから当時を思

えば涼すずしい程度の気温なのかもしれない

昔はこの時期この辺りでも雪が

ったらしい魔素が狂くるわせ失わせた冬らしい季節という

ものを少々勿もつ体たい無く思いながらライチは病院へ戻もどるべく踵きびすを返した

だがただでさえ長い脚あしをさらにすらりと見せる踵の尖とがったくつが屋内に踏ふみ入る前に

後か

ら唐とう突とつに声がかかった

「ライチ」

落ち着きのある低い男の声だ

それが誰なのかライチは呼びかける一言でわかった自分のことを呼び捨てる者の中で

102

「お前になら構わんか実はhelliphellip」

『とう

亡ぼうしたサンプルの回

だ』

突とつ然ぜん第三の声が割って入った

「ココノエ

周囲に配はい慮りよしてか声は抑おさえたもののテイガーが驚きにうろたえる

ライチの表情に糸を張るような緊きん張ちようが走った

第三の声はテイガーの耳元から

こえてきたそこには小さな通信機が取り付けられている

その向こうにいるのが声の主でありテイガーの上司にして製作者でありhelliphellip一年前までは

ライチの上司でもあった人物ココノエだった

『なにを驚いている回線に入り込む程度なんでもないわかったら勝手に通信を切るんじ

ゃないいいなテイガー』

テイガーへ向けてだけでなくその周囲にも

こえるよう操作された音声が感情の波を抑え

た低い女声で語る他者の意見をは

ねのけるような語調と声色には有う無むを言わさぬ威い圧あつ感と

神経質さが現れていた

ライチも一年前まではよくこの声にしつ

咤たされたものだ懐なつかしさと一いつ緒しよに苦い思いがこみ

上げてきてライチは声から目をそむ

けるようにテイガーから視線を外す

「ココノエ博士helliphellip」

『久しぶりだなライチお前こそこんなところでなにをしている』

第二章 Spiral fate 盤上の駒105

けにも統制機構に連れん絡らくするわけにもいかなくてな」

ひどく困った様子で懇こん願がんしてくる

そんな顔でそんなことを言われては断ろうにも断れない自分の性格をわかっているくせに

と思いつつもライチはテイガーの腕の中の少女を覗のぞきこんだ

は正常だ外傷は特になく呼吸も安定しているただ単純に強い衝しよ撃うげきで意識がなくなり

そのまま眠ねむり込んでいる状態だろう

「つまり彼女の意識がないのは貴方あなたの仕し業わざってことね」

ちらりと眼鏡のすき間まからテイガーの赤い顔を見上げてライチはほんの少しの小言めいた響ひび

きを込こめて言った

テイガーとこの少女の間にちょっとした荒あら事ごとがあったことは想像に難かたくない

統制機構と第七機

係についてはよく知っているなにせライチはオリエントタウンへ

来る前テイガーと同じ

場で同じ上司の下で働いていたのだから

「helliphellipどうして貴方がカグツチにいるの」

少女の身み柄がらは引き取るそう物もの腰ごしで伝えながらもライチは堅かたい声こわ色いろで尋ねた

テイガーが所属している第七機

はカグツチから離はなれた場所に研究所を構えているカグツ

チへふらりと私用で来るような距きよ離りではない

テイガーは困こん惑わくしたように言葉に迷ったが難しそうな顔をしながらも上向きのきばが覗く

口を動かした

104

「まだわかりません」

ねのけるようにライチは大きく首を振ふった

そこにはオリエントタウンの住人が知る優しく穏おだやかで時々厳しいそんな女医の

はなか

ったあるのはなにかを必死で守ろうとする弱々しい少女のような顔だ大切な宝物を取り上

げられまいと首を振るようなそんな

ライチは厳しく引き締しめた顔でテイガーをその耳元にある通信機を見つめる

「なぜ博士はそう簡単に割り切れるんですか

すべての手を尽つくしたわけではないのにあ

の人はただ少し間まちが

えてしまっただけです少し急ぎすぎただけでそれに彼は貴女あなた

のhelliphellip弟で

子しだった人じゃないですか」

ライチの声は情感に揺ゆれていた震ふるえているといってもいい

解げせない飲み込めない受け入れたくないそんな拒絶が声だけでなく

しげに眉まゆを寄

せた表情にも浮うかんでいる

もう一度通信機からココノエのため息が

こえた今度は呆れているというより苛いら立だっ

たような吐と息いきだった彼女が頭をかきむしる仕草が見えるようだ

「すみません博士helliphellipでも私はhelliphellip諦められません」

ライチはきつく胸の前で手を握にぎり締める

だけど本当はわかっているライチは医者であり一年前までは研究者だっただから自分

でもいや

になるほど冷静で理性的な部分はもうとっくに理解していた

第二章 Spiral fate 盤上の駒107

どんな顔をしていたらいいかわからないライチは寒さではなく別のものから己を守るよう

に身を抱く手に力を込める

知性と理性で研といだココノエの鋭するどく射い貫ぬくような眼まな差ざしが通信越ごしにこちらを見み据すえてい

るのがわかった

「そんなのhelliphellip博士ならもうおわかりでしょう」

なぜライチがカグツチにいるのかもなぜカグツチの中でも下層のオリエントタウンを住ま

いに選んだのかもなぜ第七機

を出たのかも全部全部彼女はお見通しのはずだ今いま更さら説

明しなければならないことなどなにもないのだ

『まだあいつのことを諦あきらめきれんのか』

ほらとライチは思う答えずともココノエはわかっている知っているライチがなにを

考えてここにいるのかを

だからだろうか通信機越しに

こえるかつての師の声はまるで咎とがめ責めているように

こえた

「諦めるだなんてどうしてそんなことができますか」

胸の内から絞しぼり出すようにしてライチは答える

通信機からノイズが漏もれたココノエのため息だろう呆あきれ果てたといったような音だ

『もう一度言うあいつを助けようなどと無む駄だなことを考えるのは止よせあいつはもうどうに

もならんお前の力では助けられない』

106

ライチは顔を上げられなかった愚おろかだと思うのは自分も同じだ反論はない

重苦しい沈ちん黙もくが数秒流れたときだったパタパタと軽やかな足音がライチのいる病院の入り

口へと駆かけてきた

「ただいまhelliphellipってうわデカっ

やってきたのは小こ柄がらな少女だったかつ

色しよくの肌はだに黒くろ髪かみをアップにまとめており動きやすそう

な服を身に着けている

少年とも見まごう細い腕うでと胸には紙かみ袋ぶくろに入った日用品を抱かかえていたが近づいて改めて見上

げたテイガーの巨きよ体たいに思わず驚おどろいてぐしゃりと抱だき潰つぶす

「リンファhelliphellip

おおかえりなさい」

いささか慌あわててライチは向き直った

彼女はリンファライチの病院で助手として手伝いをしている医者志望の少女だ

リンファは大きな黒目をさらに大きく見開いて遠目で見るよりずっと大迫はく力りよくなテイガーを

ぽかんと見上げていた

「たただいま先生えっとhelliphellipこの人誰だれ

お客さん」

「ああそのhelliphellip」

ライチは言葉を濁にごして迷った

リンファは公私ともに支えてくれる頼たのもしい助手だがライチは彼女に自分の過去を教えて

いないし教えるつもりもなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒109

自分にできることなどなにもないのだと

||一年前ライチがココノエやテイガーと共に過ごし研究に励はげんでいた第七機

を飛び出

したのはある人を助けるためだった

その人は魔素とそれを世界にもたらしたとされる境界について研究していた

けれどあるとき彼はおかしくなってしまった常に錯さく乱らんしたようになってやがて人前に

を見せなくなり最終的には人でなくなってしまった

魔素に触ふれ続け境界に近づきすぎたがゆえの結果だった自分と境界の境目がわからなく

なってあるべき形を失った

消化してしまったものを元の食品の形に戻せないように境界に取り込まれて同化したもの

を元の

になど戻せはしない

彼を追ってここカグツチのオリエントタウンまで来てもこの街に留とどまり続けても彼の

噂うわさを耳にしては飛び出し黒く蠢うごめく影かげを探しても魔素や人ならざる種族について研究を重ね

ても彼と同じように境界に手を伸のばしても

なにも変えられない

ライチが探している『あの人』はオリエントタウンから入ることができるカグツチ下層の

下水道をねぐらとして日々ただ本能の赴おもむくままにさまよい続けている

『どいつもこいつも私の弟子は馬ば鹿かばかりだhelliphellip』

ココノエが吐はき捨てるように言う

108

意識のない女

士が身に着けている青と白の制服は苦しい生活や貧しい環かん境きようをもたらした

元げん凶きようをし象よう徴ちようしているようなものだ

その気持ちをわかりながらもライチは

めるように言う

「誰であろうと患かん者じやは患者よリンファベッドの用意をしておいて」

「helliphellipはいライチ先生」

リンファとてライチの言い分はわかっている

もう一度きつく腕の中の紙袋を抱だきしめるとリンファは渋しぶし々ぶ頷うなずきそれでも足早に病院の

奥へと駆けていった

それを横目に見送りながらライチはぐったりとした少女の腕を肩かたに担ぐようにして濡ぬれ

た体を支える

最後にと見上げた知的な瞳ひとみにテイガーは告げた

「ライチこれだけは伝えておきたいココノエはお前が機

に戻もどることを望んでいるお前

にその意思があるならいつでも手を貸すつもりだ」

それこそがわざわざ通信回路をねじ込んでまで口をはさ

んできたココノエが言いたかったこ

とだろうとテイガーは解かい釈しやくしている

あの気難しく神経質な声で話す上司は人に情じよ緒うちよめいたことを伝えるのがとても苦手だ誰よ

りも側でココノエの仕事を手伝ってきたテイガーはそのことを身にしみて実感している

ライチは驚いたような顔を見せそれから頰ほおを緩ゆるめるように力を抜ぬくと

しげに首を横に振ふ

第二章 Spiral fate 盤上の駒111

間まちがってもテイガーやココノエとの会話を

かれるわけにはいかないのだライチは素早く

助けを求めるような視線をテイガーに向ける

だがそのときにはもうすでにテイガーは通信をオフにしていたライチがなにをきらうのか

は見かけによらず理性的な巨きよ漢かんは十分理解している

ただしその代わりにとばかりに抱えていた意識のない少女をライチの腕の中に押し付ける

ように託たくした

「私は任務があるもう行かなければとにかくこの娘むすめを頼む」

テイガーがここを訪れたのはなにもココノエの心情を伝えるためでも上司とライチを口論

させるためでもなくこの赤い髪かみの少女の身の安全のためだ

「わかったわ預かる」

このじ状よう況きようで拒きよ否ひするわけにもいかないライチは素直に少女の身み柄がらを引き受けた

力なくもたれかかる少女の体は決して軽くはないが支えながら引きずってベッドへ運ぶく

らいはできる医者や研究者に相応ふさわしくない程度にはライチは力には自信があった

ライチが受け取った人物の

を見てリンファが不ふ愉ゆ快かいそうに眉まゆを寄せた

「この人図書館の

士じゃんなんでhelliphellip」

なんで

士なんかを預かるのかのみ込まれたリンファの言葉はそう続くはずだった

リンファはオリエントタウンの生まれだ下層の住人の大半がそうであるように彼女もま

た高圧的な統制機構の施し政せいに大いに不満を抱いて生活している

110

雨の中運ばれてきたせいで少女の体はすっかり冷えていた

リンファが整えてくれたベッドまで運ぶと清潔なシーツの上に横たえ

士の制服である青

い帽ぼう子しとブーツを脱ぬがせる指先まですっかり力を失った手を取り手てぶ袋くろと硬かたい金具のついた

袖そでを外した

となりの部屋でリンファが買ってきた日用品の片づけをしている物音を

きながら上等とは言

えない毛布と布団を眠ねむる少女の体にそっとかけてやる

「helliphellip今夜はこれじゃ少し寒いかもしれないわね」

青と白の帽子や袖をたな

へしまいながらライチは声に出して呟つぶやいた

そのしゆ

間んかん目に見えない糸が切れたような不思議な感覚がライチの

筋を掠かすめていったの

だけれど

ライチはそれを冷えてきたがゆえの悪寒だと思って新しい患者にかけてやる毛布を取りに

行くため部屋を出た

この

間ライチの大切なものがひとつ喪うしなわれたと彼女が知ることはなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒113

った

「helliphellip私は戻れないわあの人のことが片付かない限りは」

戻ればきっと後こう悔かいするお門かどちがいにもココノエを恨うらむかもしれない

「そしてもし片が付いて私があそこに戻ろうとしてもそのときは今度は博士が私を受け入れ

ない」

もしあの人を戻せるとしたらその方法が容易たやすくそして人道に則のつとったものであるはずがな

い触ふれてはならないものに触れなければならないだろう見てはならないものを見なければ

ならないだろう知ってはいけないものを知らなければならないだろう

そうなったときココノエが自分をどんな目で見るかライチはあまり想像したくはなか

った

難しそうに唸うなりテイガーが小さく顎あごを引く歪ゆがんだ口元は苦々しい

「そうか難しいことは私にはわからんが」

いつまでも話してばかりはいられないテイガーは広く赤い

中をライチへ向けた

「今はこれで失礼するhelliphellip達者でな」

それだけ告げるとテイガーは後うしろ髪がみを引かれる様子もなく来た道を引き返していった暗

い影かげの中に入るとやがて大きな

中はオリエントタウンの路地裏に消える

ライチもまた立ち去る

を向けて預かった

士の少女を病院の中へと運び込んだ

後ろ手にとびらを閉めればそこはもう慣れ親しんだ小さな自分の病院だ

112

まったくうんざりするこれからこんな風雨の下でひとりで作業しなければならないな

んて

「helliphellipっていつまでもぐちぐち言っていてもしょうがないですか」

自分で自分を哀あわれみながらハザマはスーツの内ポケットから小さな通信機を取り出した

耳に当ててしばらく待つ

とうに日は落ちて辺りは暗くこの分厚い雨雲で月明かりが望めるわけもないハザマの後

方で灯ともる屋上入り口の白々しい明かりがスポットライトのように円形の濡れた屋上を寒々し

く照らしていた

『||私だ』

通信機の向こうから声が応こたえた

男の声だ低く感情らしい響ひびきは一いつ切さいない

ハザマはズボンのポケットに手を突つっ込こむと心持ち

筋を伸ばした

「お疲つかれ様ですハザマですとりあえず現場に到とう着ちやくしましたよ雨ざらしですけど」

『そうかでは始めろ』

「あらら冷たいですねぇねぎらいの言葉もなしですか技術大たい佐さ」

帽子のつばなどまるで意味がない濡れて額にはりつく前まえ髪がみを指先でのけながらハザマは口

角を引いて苦くし笑ようする

もっとも通信機の向こうにいる男にねぎらいの言葉などかけられたらそれはそれで気味

第二章 Spiral fate 盤上の駒115

2199年12月30日||18時21分

雨はまだ

り続いていた

曇どん天てんはますます色いろ濃こくついには強い風まで吹ふき始める

夜ともなれば空気は冷えるただでさえここは高い場所でhelliphellipそう地上から数えればとん

でもなく高い場所でそのうえ風雨をさえぎるものがないというのに

「あーあhelliphellipもう最悪ですね」

世界虚こ空くう情報統制機構カグツチ支部の屋上つまり第十三階層都市カグツチにおいて最も高

い場所に立つハザマは

り止む気配のない雨空を見上げて心底辟へき易えきしていた

制服ではない自前の黒いスーツも雨除よけにはならない帽子も上がってきて数秒でびしょ濡ぬ

れだ

少し待てば雨足も弱まるのではないかと思って無益に潰つぶした時間は一体なんだったのだろ

うか

「これが上官命令でもあの人の言いつけでもなかったら体調不良でも持ちだして即そつ刻こく本部に

帰るところですよ」

114

歩きながらもハザマは笑っていた両手をポケットに突っ込んでいるせいで細い肩が少しだ

け持ち上がって喉のどを鳴らすたびに小刻みに揺ゆれる

誰もいない鳥さえ近づかないカグツチの頂でハザマはどこか摑つかみどころなくにゆ

和うわに笑い

かけた

彼にだけわかる人物へまるでなだめすかすように

「そう急せかさないでくださいよ焦あせらなくてもいずれ取り戻せますって」

||ねえテルミさん

第二章 Spiral fate 盤上の駒117

が悪くてとても仕事どころではないのだけれど

『あまり時間がないさっさとしろ』

「はいはいまったく貴方あなたもあの人も人使いが荒あらいんですから」

ではまた後ほどそう言葉を足して通信を終えるとハザマは手の中に握にぎり込めるくらい

小さな通信機を玩がん具ぐでも扱あつかうように宙へ放ほうり投げキャッチした

雨が冷たい

ハザマは目ま深ぶかにかぶっていた黒の帽子をほんの少しだけ持ち上げた

濡れた髪の向こうから金色の瞳ひとみが覗のぞいていた照明の中でちらつく無数の雨あま粒つぶを鋭えい利りな狡こう猾かつ

さで見み据すえる一いつ緒しよにその向こうで静かに濡れるがらんと空くう虚きよななにもない屋上の空間を

軽く肩をすくめるようにしてハザマが笑えみの息を漏もらしたまるで誰かになにごとか語り

かけられたかのように

「わかっていますよ私だってさっさと片付けたいですからね」

さあさあと雨の音が途切れることなく続いている

そこにハザマ以外の誰かの声はなくもちろんハザマ以外の

はない

暗い夜の屋上は雨あま霧ぎりの中でなにひとつ文句も言えず濡れるばかりでハザマに何事か語りか

けるはずもない

ハザマは通信機をしまうとちょいと帽子を直し屋上の中央に向かって足を踏ふみ出した硬

い革かわぐつが濡れた床ゆかを叩たたいて微かすかな水音を弾はずませる

116

Page 2: t1501 ブレイブルー1 面付BLAZBLUE―ブレイブルー―1 カラミティトリガー 上> 原案・監修 ‥ 森利道(アークシステムワークス) 著‥駒尾真子

目プロローグ

5

第一章

Stra

tum city

||階層都市

16

第二章

Spira

l fate

||盤ばん上じようの駒こま

78

第三章

Grim

Rea

per

||死神と呼ばれた男

118

第四章

Burn

ed church

||兄弟

174

第五章

Calamity b

lack

||黒の終しゆ焉うえん

231

あるひとつのおわり

280

あとがき

287

3

口絵本文イラスト

杉山友希(アークシステムワークス)

プロローグ

人ひと里ざと離はなれた森の近くに一いつ軒けんの教会が建っていた

白い壁かべに緑色の屋根の建物で近くには大きな木が寄り添そうように佇たたずんでいる

周囲はなだらかな平地だ

の低い緑の草が大地を埋うめて生おい茂しげりあちこちで白や黄色の

花がやわらかな風に揺ゆれるその中を一本の小道が緩ゆるやかにもっとも近いhelliphellipといってもお世

辞にも近所とは言えない村への道のりを描えがいていた

そこはかつて大規模な戦争が行われた場所だった人類の存続をかけた巨きよ大だいな魔ま物ものとの

戦い||暗黒大戦世界中の人類が立ち向かった戦争の終結の地がここだ

絶望と向かい合った決戦からもう七十年以上たつ

今では大

が命を落とし血を流した場とは思えない豊かな自然に恵めぐまれた穏おだやかな景色が

広がっていた

その景色の中緑と土の匂においをたっぷり含ふくんだ心ここ地ちいい風を浴びながらひとりの女性が玄げん

かん前を箒ほうきで掃はいていた

踝くるぶしあたりまである白と黒の服は古めかしいデザインの修道服で頭にも揃そろいの頭ず巾きんをかぶっ

プロローグ5

製のベリージャムが昨日でなくなってしまっていたのを思い出した明日はお願いしている食

料品の配達が来るから残っている小麦でパンを焼こうと思っていたのに

「今からじゃ駄だ目めよねぇhelliphellip日が暮れてしまうもの」

教会の後ろに広がる森をながめてシスターは残念そうにため息をついた

何十年も出入りしている森はもう庭のような気軽さで歩き回れるもし足あし腰こしが十代のころ

のような丈じよ夫うぶさであったなら今からでも遅おそくはないだろうがさすがに体がそれを許してはく

れないだろう

もっとも十代のころはしょっちゅう道を見失ってジャム用に採ってきた果物を食べなが

ら何時間も森の中をさまよい歩いていたのだが

「忘れっぽくていやねふふっ私ももう立

なおばあちゃんだわ」

仕方がないからジャムは明日にしようそう思って箒に手を添える

だがそのときふとシスターは空気のにおいが変わったことに気づいて顔を上げた

血のにおいがするそう思った

のしゆ間んかん彼女は森からなにかが飛び出してくる物音を

た草

を踏むふたつの音は二足の動物のものいや動物というよりこれは人の足音だった

シスターは箒を

の脇わきに立てかけると長い修道服の裾すそを持ち上げて教会の裏手へ駆かけ出す

すぐに見つけた小さな人ひと影かげがふたつこちらに向かって歩いてきている

そのうちの先頭を行く

を目に留めた途と端たんシスターは思わず足を止めた両手で口を覆っ

プロローグ7

ている彼女はこの教会に暮らすシスターだもう何十年もたったひとりでこの土地に住ん

でいる

なにもない場所だ教会と共に集落があったわけでもなければここまではるばる救いを求

めて人が来るわけでもない

戦争が終わったあとどこからともなくやってきてここに教会を建て以来ずっとこの土地

を守るかのようにひとりひっそり暮らしている

彼女のかぶる頭巾の内側からは微かすかに茶交じりの白しら髪がが覗のぞいていた体はほっそりとやせ

気味で箒を操あやつる手もまた細く皺しわに覆おおわれている穏やかな午後の陽光に自然と優やさしい微笑ほほえ

みを浮うかべた顔も深い皺がいくつもあってもう若い娘むすめの張りからは程ほど遠とおい

それでも彼女は濡ぬれた大地の色を思わせる深い茶色の瞳ひとみを持つ彼女は若かりしころの面おも

影かげを失わず快活な生命力にあふれていた

齢よわいはもう百近いはずだと噂うわさされているけれどどうしてかそれにしてはあまりに若く見え

る容

と身のこなしだ

とびらのすぐ近くでぼんやりしている小さな虫を見つけて間まちがって踏ふんではいけないとしゃが

み込んで摘つまみ上げひょいと草地へ放ほうる動作もとても百近い老女とは思えない軽さだ

「あいけないいいお天気だったら森でなにか果くだ物もの採ってこようと思ってたのにすっかり

忘れてたわhelliphellip」

再び掃き掃そう除じを再開しようとして歳としを重ねたシスターははたと気づき頰ほおに手をあてる手

6

「久しぶりだなシスター」

猫の口を歪ゆがませて負傷した獣人獣兵

は皮肉っぽく笑った

シスターはその場に膝ひざをついて目線を義兄と合わせた近づくとなお一層不穏な臭いが濃こく

感じられて悪お寒かんが

筋をくすぐっていく

「お久しぶりですけどまあなんてことhelliphellip傷だらけじゃないですか一体どうしたっていう

の獣兵

さん」

「色々とあってな悪いが事情を全部説明している時間はない」

楽な状態ではないだろうにボロボロに傷ついた猫人は苦痛をにおわせない平常の声こわ色いろで答

える

そんな様に眉まゆを寄せてシスターは反射的に手を獣兵

の額にかざしただが数秒のうちに

その手を力なく握にぎりこむ

「ああhelliphellipそうだったわもう治してあげられないんだった」

かつてこの手には治ちゆの力があった触ふれて念じるだけで傷をいやし痛みを遠ざけることが

できただがその力も歳を重ねるごとに徐じよじ々よに薄うすれ数年前にはすっかり失われてしまった

獣兵

が小さく首を振ふる

「気にすることはないかすり傷だそんなことよりお前に頼たのみたいことがある」

「頼み」

尋たずねながらシスターはなにを託たくされるのか薄く

していた

プロローグ9

て目を見開く驚おどろいた

シスターを見つけてわずかに歩調を速めた人影は正確には人ではなかった

は人間の子供程度全身は白と茶色のツートーンの体毛で覆われていて先が二ふた股またに分か

れた長い尾おを低く下げている羽織った上着のフードには三角の耳が取り付けられていてそ

の下には本物の三角耳が隠かくれているはずだ

歩み寄ってくる人物は二足で立つ猫ねこの

をしていた獣じゆ人うじんだ今はもう世界中に数えるほど

しかいない希少な種

だがシスターが驚いたのは珍めずらしい獣人を目もく撃げきしたからではないそれが自分の姉の夫何

十年も顔を合わせていなかった義あ兄にだったからだ

「獣じゆ兵うべえさん」

名を呼び我に返ってまた走る血のにおいだ近づいてくる獣兵

から漂ただよってきている

目の前まで駆け寄ってシスターは再度驚くどこか怪け我がでもしているのかと思っていたが

間近でよく見ると一つや二つの怪我ではなく全身傷だらけだったのだ

フードの下から覗く猫の顔は額から出血しており黒く変色した血が茶色い毛を汚よごしている

服は埃ほこりと血で不ふ穏おんなま斑だら模様になっていた傷を押さえているのか腹部に巻きつけられたボロ

布には赤黒い血がべったりと滲にじんでいる

その

からなにがあったのかを推おし量ることはできないけれどなにかがあったことだけは

その血が鮮せん烈れつに物語っていた

8

「大丈夫だ信じろラグナ」

もう一度獣兵

が拒こばむ少年を説く

その低くたしなめるようでもあった呟つぶやきに小さくシスターが息をのんだ

「helliphellipラグナ」

思わずく唇ちびるからこぼすように呼んだ

その名に弾はじかれたように少年が獣兵

の肩から手を離して腕に抱だく少女を隠すように身を

引いた

まるで怯おびえた子犬のようだ傷ついて空腹で苦しくてだけど自分より小さな者を守らねば

と懸けん命めいに足を踏ん張りきばを剥むくそんないじらしい

にシスターは微笑みを浮かべて温かく

少年を見つめた

「貴方あなたラグナというの」

向けられた視線にか声色にかそれとも言葉にか少年は戸と惑まどったようにうろたえ獣兵

を見てその

の少年と自分の腕の中の少女を見たそれからためらうようにシスターへと

視線を戻もどすとhelliphellip警けい戒かいの針を向けながらも小さく浅く頷うなずく

間シスターは胸に温かなものが灯ともるのを感じた

まだ若かったころ目め尻じりに深い皺もなく髪も白くなかったころ出会いそして別れた人

を思い出す

少年はあの人によく似ているそして記憶の中のあの人もラグナという名前を持っていた

プロローグ11

獣兵

は小さな子供を

負っていた少年だぐったりともたれかかった体は力なく気を

失っているか深く眠ねむっているかのどちらかだろう

後方にはもうひとり少年がいたこちらは獣兵

負われている少年よりもいくつか年上

のようで荒あらい呼吸に

せた肩かたを上下させながらまるで手負いの獣けもののようにシスターを見つ

め睨にらんでいる彼の腕うでの中にももうひとりこちらは小さな少女がやはり意識なく身を預けて

いた

三人の子供よく似ている不健康なほど白い肌はだに薄うす汚よごれた金色の髪かみ瞼まぶたを持ち上げている

のは自分の足で立っている年上の少年だけだったが彼の風ふう貌ぼうからするにきっと三人とも美し

い緑色の瞳を持っているのだろう

「この三人を預かってくれこの教会に置いて育ててやってほしい」

そう言って獣兵

に載のせていた少年をシスターに渡わたそうとする

だがその前に後方にいた少年が自分と同じくらいの位置にある獣兵

の肩を摑つかんだ傷だ

らけの腕で抗こう議ぎするように強く

「心配するなシスターなら大だい丈じよ夫うぶだいやhelliphellipシスターでなければ駄目なんだここ以上に

安全な場所はない」

なだめるように獣兵

が語りかける

だが少年は緑色の瞳を鋭するどく尖とがらせ眠る少年に触れることを許さないとばかりにシスターを

眼光で射い貫ぬいていた

10

「こいつらを頼めるか」

普ふ段だんならば愛らしくもある猫の容

で獣兵

は重く問う

そんな重さをいとも容易たやすく掬すくい上げるようにシスターは軽かろやかに顎あごを引く

「もちろんいいえむしろ私からお願いするわこの子たちの面めん倒どうをみさせて」

ジンの頭をそっと抱き寄よせて乞こうようにシスターは言う

涙なみだが出そうだった溺おぼれるような嬉うれしさゆえだこんな未来がこんな運命が待っているな

んて思ってもみなかった

「この子たちを守る役目を私にちょうだい」

シスターの言葉に獣兵

はため息をついて猫

の肩を落とした安あん堵どの吐と息いきだった

「ラグナ彼女がhelliphellipシスターだ」

彼女の本名を告げるかどうか迷って結局近年呼び慣れた呼こし称ようで紹しよ介うかいすると獣兵

は後方の少年を前へと出した

彼はどうしたらいいのかわからないらしく険しい表情を頑かたくなに守ろうとしながらも困こん惑わくに

瞳を揺ゆらしシスターを見る

その強張った顔にシスターが手を伸のばすと小さなラグナはびくりと肩を飛び上がらせ下が

ろうとした

構わずにシスターは彼の頭へ手を置いたぽんぽんと髪を押さえるように撫なでる

「初めまして貴方たちに会えて嬉しいわようこそ私の教会へ今日からここが貴方たち

プロローグ13

ああまるで魔ま法ほうみたいだそれとも奇き跡せきだろうかシスターは瞼を伏ふせると感謝の祈いのり

を捧ささげた

その瞼が再び持ち上がるのを待って獣兵

が改めて

の少年を下ろしたシスターに差し

出すラグナという名の少年は迷いながらも今度は制止しなかった

眠り続ける細い体を受け止めてシスターは意識のない少年を胸に抱く腕の中の小さな体

の温ぬくもりがシスターの過去の記憶をより鮮せん明めいにさせた

「この少年がジンであいつが抱いている少女がサヤだそれから今も言ったがあいつの名

前がラグナ」

獣兵

が少年たちを順に紹介していく

ジンサヤラグナ

教えられた名前をシスターは胸中で何度も繰くり返した何度も何度も大切なものを包み込

むような温かさで何度も

「ジンにサヤそうこの子たちが貴方のラグナの弟と妹なのね」

「ん

その通りだがhelliphellipシスターどうして知っている」

「だって昔に

いたんだもの大切な弟と妹がいるって」

そうずっと昔にあの人から

いた大事な約束を交かわしたあの人から

義兄はなにかを思い出すような目でどこか遠くを見やり力を抜くように笑む

そうかと低く独りごちるように呟いてから改めてシスターを見た

12

近くに小川が流れすぐ裏手には実り豊かな森がある

そこはかつて大きな戦争があった時代の決戦の地けれど今は誰だれもが忘れた土地

緩やかで草深い草原の中ぽつんと建つ小さな教会で

老いたシスターと三人の子供の慎つつましくも賑にぎやかな生活がこの日始まった

||ねえラグナあなたは私に会えたかな

プロローグ15

の家よ」

温かく話しながらシスターは思う

遠い日に交わした約束それが果たされる日をずっと待っていたこの日が来るのをずっと

ずっと待っていた

ジャムを作らなかったことを頭の隅すみで後こう悔かいするもし作ってあったならこの子たちにお茶

と一いつ緒しよにジャムをたっぷり塗ぬったパンを食べさせてあげられたのに

「お帰りなさいラグナ」

きっと声が震ふるえていたせいだろう

口を結んだまま警戒を緩ゆるめられずにいるラグナの緑色の双そう眸ぼうに一

心配するような色がよ

ぎるから

やっぱり本当は優しい子なのだと思ってしまったから

シスターは目尻から透とう明めいな雫しずくをこぼしながら喜びのままに少女のように微笑ほほえんだ

||ねえ覚えてる

||あの約束を覚えてる

||私は会えたよ

||ねえ貴方は会えた

14

げる

身を隠かくすつもりは毛頭なかったむしろ向こうが見つけて仕し掛かけてくるならその都度叩たたき

のめすのが彼のやり方だ

こそこそやるのは性しように合わないどうせ目立つならできるだけ

手に振る

っていつか自

分の襲しゆ来うらいを

いただけで連中がに

げ出すようになればいいと思う

もっともそんな虫のいい話はないだろうと思ってもいるが

すぐに青と白を基調とした制服に身を包んだ男が五六人銃じゆうを抱かかえて走り込んでくる

こちらの位置に気付いていなかったのかはち合わせた途と端たんに先頭の数名が動どう揺ようして足を止

めた

だが彼は止まらない歩みを疾しつ走そうに変えて一直線に突つっ込こむと手の剣を大きく振ふりかぶっ

「止まれ

止まらなければ撃うつ」

制止の声に意味はない

制服

の男たちがそれぞれに銃を構えた即そく座ざに全員が発はつ砲ぽうするけたたましい発砲音が廊

下に響く

がその直後彼は振りかぶった剣を

いよく薙ないだ

「うらぁぁぁぁぁっ」

剣から黒く禍まがま々がしい揺らめきが放たれて宙を駆かけ迫せまる銃じゆ弾うだんのすべてをの

み込んで掻かき消し

第一章 Stratum city 階層都市17

第一章

Stra

tum city

||階層都市

アーチ状に造られた白く高い天てん井じように慌あわただしい足音がいくつも響ひびいていた

誰もが口々に警戒と攻こう撃げき指示を口にする侵しん入にゆ者うしやを捕つかまえろ殺せこれ以上進ませるな

そう叫さけぶ声はしつ

咤たや激げき励れいというよりもっと

痛な音に引きつっておりひどく追い詰つめられた

状じよう

況きようを如によ実じつに物語っていた

廊ろう下かの先から

こえてくるそれらを

きながら

彼は迷いや躊躇ためら

いなど微み塵じんもなくいっそ悠ゆう然ぜんとした振るま

いで近付いてくる足音のほう

へと進んでいた

白い髪に左が緑で右が赤という左右で色のちが

う瞳ひとみがっしりした体つきに黒い服を纏まとい

その上に目の覚めるような真っ赤なコートを羽織っている

(helliphellip後から後からよく集まってくるもんだ)

ぼやくように思いながら彼はそれまで肩に担いでいた幅はば広びろで分厚い刀身の剣けんを手にぶら下

16

彼はなにもひっそりとここに忍しのび込んだわけではない

を守る警

員を殴なぐり倒して正面

から堂々と侵入したのだ

まるで自分の力と存在を誇こ示じし深く爪つめ痕あとを残すように彼は暴れに暴れて手あたり

第に破

壊し奥へと進んだ立ちはだかるものはなんであろうと斬きり倒すそんな暴力的な歩みで進

んで進んでhelliphellip

そうして彼が到とう達たつしたのは長い長いし昇ようこう装置で

りた先のぽっかりと口を開けたような

地下深い広間だった

helliphellipそこはもうこれまで通ってきた廊下や部屋とは

う世界だった

空気が

う温度が

床ゆかも壁も天井も金属に似た質感の板で覆おおわれており広場を見下ろす位置にガラス張りの小

部屋が設けられているその下にも重じゆ厚うこうな機械類が並んでおりそれらが見み据すえる先で異様に

大きななにかの装置が沈ちん黙もくしていた

人は誰もいないここにいたはずの人間は皆みな襲しゆ撃うげきの知らせを受けて避ひ難なんしたのだろうそ

してここに駆けつけるはずの人間は皆白はく髪はつの侵入者が蹴け散ちらしてしまった後だ

一歩一歩彼は広間の奥に鎮ちん座ざしている巨きよ大だいな装置へと足を進めた

異質さが体にまとわりつくようだった

第一章 Stratum city 階層都市19

てしまう

揺らめきはそのまま炎ほのおの速さで走りじ弾だんを浴びせる制服たちへと迫ると一息に吹ふき飛ばし

たご

うと炎が逆巻くような音が巻き起こり男たちの体は

鳴ごと攫さらわれて壁かべに叩きつけら

れる衝しよ撃うげきに負けて壁に太くヒビが走った

たった一撃それだけで銃を構え勇ましくも侵入者を迎むかえ撃とうとしていた男たちは全員

意識を失い廊下に倒たおれ伏した

「helliphellip倒されるってわかってんだからのこのこ出てくんじゃねぇよ馬ば鹿かが」

あっけないものだ倒れた制服

を横目に見やると大きな剣を携たずさえた彼はすぐさま廊下を

走り出す

いつまでもこんなところで時間を食っている場合ではない

向かうのはこの施し設せつの一番奥最下層だ

また廊下の奥から青と白の制服

が現れる口々に叫びながら銃を構えあるいは剣を抜ぬい

た人

数はさっきよりも多いがだからといって彼のやることに変わりはない

真正面から突っ込んですべてを振り払はらい叩きのめす

々に制服

の力ない体が廊下のあちこちに転がりセキュリティ装置はことごとく破は壊かいさ

れ口を閉とざすとびらすら叩き切られて鉄くずに変えられた

18

この世でありながら別の世であるかのような本能が警告するい和わ感のようなものが空気の

代わりに漂ただよっている

けれど彼には慣れた空気だった

もう幾いく度どもこういうところにはやってきているのだここと同じ構造をして同じ装置を地

下に隠した施設をこれまでいくつ訪ねたかわからない

毎度訪問の目的はひとつ

この巨大な装置の破壊だ

彼は床を踏ふみしめるようにして歩み寄る

これがなんのために存在しているのかここで働いていた者のどれほどが把は握あくしていたのだ

ろう

来るたびに彼は棘とげのような疑問を感じる

これがなにをもたらすと思って毎日毎日こんな陰いん気き臭くさい地下深くまで

りてきて用よう途とも

わからないチカチカ光る計器をいじくり回していたのだろう

縁へりまで来ると彼はそれを睨にらみ据すえる

銀色の金属で組み立てられた装置は見上げるほどに高くそびえ見下ろすほどに深く大き

かった

メインとなる部分は彼が見下ろす円形の部分だ

これは『窯かま』だった

20

第九階層都市アキツ世界虚こ空くう情報統制機構支部

都市の中心に建っていた施設が何者かの襲撃によって崩ほう壊かいしその騒動で都市全体が混乱し

ている中

赤いロングコートを着た白髪の男はひとりひっそりと都市から去ろうとしていた

もうここでやるべきことは終わった長居は無用だ

施設での

手な立ち回りに反して外では人目につかぬよう入り組んだ道を通りできるだ

け薄うす暗ぐらい出口を選んだ

街中で制服を着た

士たちに見つかれば振り払うために戦わねばならないそれが煩わずらわし

い錆さび

臭くさい鉄門をくぐって奥にあるポートへ向かうその脇わきにある通路を下れば外に出られる

はずだ

そのときふと薔ばら

の香かおりが彼の鼻び孔こうをくすぐった

「まるで行き場を失った野の良ら犬みたいね」

淡たんた々んとしたあざけり

の声が

こえ彼は足を止めて振り向いた傍かたわらに佇たたずむ細い外灯を見上げる

先せん端たん

が二ふた股またに分かれたシンプルなそれの上にひとりの少女が立っていた

歳としは十を過ぎて数年といった程度だろうかまだ幼い顔立ちをしながらも足元からの薄暗

い明りに照らされて浮うかぶ赤い瞳は外見の年とし頃ごろに似合わぬ聡そう明めいさをたたえている

第一章 Stratum city 階層都市23

今はいくつもの金属板が折り重なるようにして口を閉ざしているが開けば内は火山の火口

のようになっている炎えん色しよくの溶よう岩がんのようなものが渦うずを巻いて覗のぞき込む者のすべてをのみ込ま

んと燃え盛さかっているのだ

だが中でわだかまっているものは決して溶岩や炎などではない

そこにあるのは異界だ人が本来あるべきではない世界のひずみ走った亀き裂れつの向こう側

見てはいけなかった踏み込んではいけなかった世界のからの外側

彼が見下ろす金属の装置はこの窯を制せい御ぎよしまた窯に干渉するためのものだ

本来及およぶべきものではない異界||境界に触ふれるための装置

彼は世界中に散らばるこの窯を破壊して回っていた

こうして

めてみても今いま更さら感かんがいもない

彼は剣を腰こしに戻もどすと右手を装置へと向けて突き出した何事か呟つぶやくもう何度も繰くり返し

口にしてきた破壊をもたらす言葉

言葉は彼の右みぎ腕うでで眠ねむっていた力を呼び起こし力は彼の右腕に蒼あおい光を生んだ

またたく間に辺りを埋うめ尽つくすほどに増ぞう幅ふくされた光を彼は装置に向けて思い切り放つ

のしゆ間んかん地下深くで口を閉ざしていた異界への門はそれを囲む広大な部屋ごと跡あと形かたもな

く吹き飛んだ

22

別に行き先などどこでもいいカグツチならここアキツからでもそう遠くはない

彼は忌いまい々ましげに少女の消えた辺りを睨みつけると示された

の目的地を目指して歩き出し

た数

日後彼の名は世界中に指名手配犯として公開された

ラグナザブラッドエッジ

それが『死神』の異名を持つ史上最高額の賞金首の名だった

2199年12月30日||13時27分

約百年前世界は一度滅ほろびかけたという

突とつ如じよ現れ世界中を破壊して回った巨大にして異形の怪かい物ぶつhelliphellip『黒き獣けも』の

その圧あつ倒とう的な力に人類は為なす術すべもなくあっという間に世界の人口は半分に減った

ところがそこに六人の勇士が現れた

第一章 Stratum city 階層都市25

下方の彼を見やって少女は薄うすく微笑ほほえんだ

「薄うす汚ぎたない迷子の野良犬さん

に貴方あなたが行くべき場所を教えてあげましょうか」

「helliphellipなに企たくらんでいやがる今まではそんなこと教えなかったじゃねぇか」

吐はき捨てるように彼は低く呻うめいた

少女は呆あきれたように眉まゆ尻じりを下げる

「心外ね教えてきたじゃないhelliphellipもう何度も」

「はぁ

なに言ってんだテメェ」

「覚えていないならいいのよ期待もしていないわ」

指に絡からまった糸くずでも払うように言うと少女はある方向をその白く小さな手で示した

その先に広がるのは暗雲を抱いだく暗い夜空星も月もない夜はまるで不ふ穏おんな予感を掻きたてよ

うとするかのように重苦しく静かだった

「第十三階層都市カグツチ」

そこが貴方が導かれるべき場所よ

そう告げると少女は薔

の香りを漂わせ風が吹き抜けるように

を消した

甘い花の香りが消えると白昼夢から現実に引き戻されたかのようにどこからか金属とくさ

った水の臭においが漂ってくる

気分のいい場所ではない

「カグツチhelliphellipね」

24

た街は山の高度に沿って上下に広がり結果幾いく重えにも市街のプレートが重なった狭せまくも高

い都市が生まれたのだ

ここ第十三階層都市カグツチもまた世界中の都市がそうであるように複雑な多重構造と

なっている都市だった

その中の折り重なった市街のひとつオリエントタウンの入り組んだ細い道を彼は少々ふ

らついた足取りで歩いていた

白い髪かみに左は緑右は赤という左右で色のちが

う瞳ひとみ全身を包む黒い服に目の覚めるよう

な真っ赤なロングコート腰には幅はば広びろで分厚い刀身がと特くち徴よう的な剣けんが下げられている

ラグナザブラッドエッジ

世界虚空情報統制機構の支部を各地で壊かい滅めつさせているSS級の指名手配犯であり史上最高

額の賞金首が彼だ

とはいえ周囲を行き交かう街の住人は誰もラグナを気にしたりはしないどうせまたどこか

らか無法者が入ってきたのだろうそんな程度の視線が時折興味もなさそうに掠かすめては離れ

ていく

ここはオリエントタウンカグツチの下層に位置する街だ

階層都市はその構造上上層の街であるほど魔素から遠く安全で清潔で逆に下層に行くほ

ど管理が行き届かず魔素に近い階層都市において上下は住みやすさだけでなく晒さらされる命

の危険の度合いをも意味している

第一章 Stratum city 階層都市27

彼らは事象兵器

アークエネミーと呼ばれる武器を手に黒き獣にいどみ災さい厄やくの魔ま物ものを倒し人類に未来をもた

らした

六英えい雄ゆうと讃たたえられた彼らは人知れず歴史の海に

を消し行ゆく方え不明となったがそれでも彼ら

の栄光は伝説として語かたり継つがれた

それは近くも遠い昔の話

今の世にかつての黒き獣との戦争||暗黒大戦の誰だれもが知るような名な残ごりがあるとすれば

それは大きく数えてふたつだろう

ひとつは世界虚空情報統制機構

暗黒大戦のとき六英雄と共に戦った世界的な連合軍が母体となった組織であり現在は世界

中をこの組織が統とう括かつしている

そしてもうひとつが魔素

災厄の魔物黒き獣の出現と共に世界中であふれ出した物質で黒き獣が倒たおされた後も依い然ぜんと

して世界の空気中に残り続けた

今では様々なテクノロジーにも利用され人々が暮らしていくうえでなくてはならないもの

となっているがそれでも多量の摂取は人体への危険を伴ともなう

そのため人類は魔素を利用しながらも魔素を避さけて生活しなければならなかった

魔素は地表に近いほど濃こく滞たい留りゆうしているそこで考え出されたのが階層都市だ

高山を基き軸じくにしてそこからプレート状に築いた市街を突つき出させるようにして街を建設し

26

っている

そのうえあちこちの路地を塞ふさぐように木箱やらなにかの詰つまった袋ふくろやらが我が物顔で腰を下

ろしているものだから何気なく入った路地が通り抜ぬけられないこともしばしばある

赤い柱にぎょろついた目玉のついた奇きみ妙ような像街中に小さな明かりの灯った提ちよ灯うちんがぶら下げ

られていてそれ以上におびただしい数の大小の看板が眩まぶしいネオンを輝かがやかせている

普ふ通つう下層の街というのはいくつもある上層の基き盤ばんに陽光をさえぎら

れて昼間でも薄暗く場所に

よっては真っ暗になるものだがここはそんな暗がりとは無む縁えんのようだ

路地を抜けると少し開けた通りへ出た

左右にずらりとなにかの店が並んでいてどうやらこの辺りのメインストリートらしかった

その分掲かかげられた看板の数もその

手な色しき彩さいも段だんちがいだ

(この辺なら統制機構の連中もいねぇだろ)

比ひかく的広い通りでもいかにもこの街の住人といった人間ばかりが歩いていて世界虚空情報

統制機構の例の忌いまい々ましい青と白を基調にした制服は見当たらない

ありがたい話だもし見つかれば曲がりなりにもラグナは重大犯

者周囲への配はい慮りよもな

にもなく雨あられと発はつ砲ぽうされ

から

へと集まってくる

士たちと追いかけっこを演じなけ

ればならなくなる

ラグナは左右をきょろきょろと見回しながら腹部に手をやった

疲労より空腹が辛つらいカグツチに入ってからというもの食料品を扱う店に巡り合えず持

第一章 Stratum city 階層都市29

当然最上層を占せん拠きよしているのは管理機

でもある世界虚空情報統制機構だその

連施し

設せつや

係者の住宅が市街のほとんどを占しめている

続いて権力に近く裕ゆう福ふくである者が上層階に住まいそうでない者はその

産や身分に順列を

つけるように下へ下へと下っていく

オリエントタウンに住んでいるのはそういった順列の結果ここまで追いやられてきた人間

たちだった

誰も彼もお世辞にも裕福とは言えない自分と家族それから少しの親しい人間の生活の

ことで精いっぱいで見るからに異質な白髪の男にかかわって余計な面めん倒どうに首を突っ込みたが

る酔すい狂きよ者うものなどほとんどいないのだ

もっともラグナ自身も周囲の人間の様子に気を配っている余よ裕ゆうはあまりなかった

今は使われていないは搬んに入ゆう口からカグツチに侵しん入にゆうしたのが二日前それからずっと人の通ら

ない裏道や廃はい棄きされたエリアを通ってきた図はかったわけでもないのに延々と歩かざるを得なか

った悪路に正直疲ひ労ろうが募つのっている

帰りはもっとまともな道を通ろうそう決めていた

「にしても下層にしちゃ賑にぎやかな街だな」

辺りを見回しラグナはぼやくように率そつ直ちよくな感想を口にした

オリエントタウンは無計画にとにかく乱雑に家を建て並べたことがよくわかる入り組んだ

造りをしていた道は狭くやたらに折れ曲がり家々は今にも密着しそうに身を寄せ合って建

28

「うhelliphellipう」

微かすかに震ふるえる声で呻き少女はゆっくり顔を上げる

ラグナを見上げたフードの中におそらく誰もが想像するであろう少女の顔はなかった

あるのは黒い暗い闇やみを詰め込んだような陰かげその中でへなりと下がった赤い目らしき丸と

白い歯の並ぶ下を向いた三日月形の口だけが浮かんでいる

ぴくぴくと痙けい攣れんするようにフードについている三角の耳が震えた

人間ではないけれど獣のような尻尾や耳を持つ獣じゆ人うじんとも様子が

「もしかしてhelliphellipカカ族か」

このような奇きみ妙ような風ふう貌ぼうの生き物をラグナは過去にも一度見たことがあった確か剣けんの師しし匠よう

を訪ねてきたはずだ同じような黒い顔に実にシンプルな顔のパーツ目の前にいる少女とそ

のとき目にしたカカ族の女は明らかに別人だがこのと特くち徴よう的な容

は他にあるまい

もっとも『カカ族』という名めい称しようを知っているだけでつまりどういう一族なのかをラグナは

知らないのだが

さてこの少女をどうしたものか

わらずに引き返すべきか見なかったことにして先へ

進むか

咄とつ嗟さのことに決めあぐねていると顔だけを起こしたカカ族の少女はその弱り切った様から

は想像もできない俊しゆ敏んびんさで突如ラグナの足にしがみついた

「うおぁっななんだ」

第一章 Stratum city 階層都市31

ち歩いていた保存食も底をつき昨日の夜からなにも食べていないのだそろそろいい加減

限界が近い

いくら下層街でもこの雰ふん囲い気きなら飲食店くらいいくつかあるだろうそう思って雑多な看

板からそれらしい名前を探しているとhelliphellip

なにかやわらかいものを踏ふんだ

「ブニャッ」

同時になにかの鳴き声が足元から

こえた

「げっ」

犬か猫ねこでも踏みつけたかと思ってラグナは慌あわてて足をどける

が見下ろしたそれは予想に反してずいぶんと大きなものだった

というより人だったり両よう腕うで両足を地べたに投げ出し力なく倒れ伏ふしている少女だ全身

をすっぽりと覆おおうフードつきのローブから長い三つ編みの髪とかつ色しよくの肌はだの足が覗のぞき見えてい

るhellip

hellipいや

「なhelliphellipなんだテメェ」

警けい戒かいというより疑問一色の声で問いかけるラグナの視界でひょろりと弱々しく細長い尻しつ尾ぽ

が揺ゆれた

尻尾はその倒れた少女から生えていた

30

「はぁ

おおいどうした大だい丈じよ夫うぶか」

あまりにも切せつ羽ぱ詰つまった声を出すものだからさすがに少し心配になった持ち上げていた足

を下ろして陰を詰めこんだような顔を覗きこむ

まるで黒いお面のような顔は目も口も情けなく下げてラグナを見上げ今にも気を失いそう

な弱さで訴えた

「おhelliphellipお腹なかが空すいたhelliphellipニャス」

黄色いクロスがかけられた丸いテーブルの上にいくつもの皿が並んでいた

揚あげた鶏とり肉にくに薬味だれをたっぷりかけたもの肉団子と色いろ鮮あざやかな野菜の甘あま酢ずあん炒いため四

角く切り分けた豚ぶた肉にくを甘あま辛からく味付けしたこってりとした煮に物ものに山と盛られた炒め飯牛肉と

野菜を濃い味の味み噌そで炒めたもの細切りにした野菜を薄うすい皮で包んだパリパリの春巻きに

挽ひいた肉を包んで蒸むしたふかふかの饅まん頭じゆhellipうhellip

白い湯気と共に胃いぶ袋くろを震わせずにはおかない匂においを放つ数々の料理を三角耳のついたフー

ドの奇妙な少女は椅い子すからずり落ちそうなほど身を乗り出して忙いそがしく口に掻かき込んでいた

「はぐはぐはぐニャスはぐはぐはぐはぐはぐニャスはぐはぐ」

料理を頰ほお張ばる音なのか箸はしをしゃぶる音なのか空気の抜けるような声が絶えず漏もれていた

第一章 Stratum city 階層都市33

「うぅぅニャhelliphellipた助けてhelliphellipニャス」

驚おどろいて足を持ち上げ振ふり払はらおうとしたラグナの足に両腕を絡めてぶら下がり三角耳に尻尾

を生やした少女はあわれっぽく訴うつたえる

しがみつく腕うでをほどこうとラグナは足を大きく上下に振ふりまくるが少女の腕がどういう

わけか一向に離れない

「くっこの離しやがれ

なんなんだよテメェは」

「離さないニャス絶対に離さないニャスぅhelliphellip助けてくれないとこのままオマエの足を食う

ニャスよぉぉhelliphellip」

声だけは弱々しくだが腕は言葉に反して力強くラグナの足を摑つかんで離さない

この騒さわぎでも周囲の人間は奇き怪かいなものでも見るような視線を一いつしゆんくれるだけでそれ以上

わろうとせず通り過ぎて行く

面倒なトラブルに巻き込まれる心配はなかったが少なくとも親切な通行人の手助けは見込

めなさそうだった

何度目かでいい加減に諦あきらめるラグナは足を中ちゆ途うと半はん端ぱに持ち上げたまま縋すがり崩くずれるカカ族

の少女を憔しよ悴うすいの表情で見下ろした

「待て待て待て足を食うなてか意味わかんねぇよ助けるってなんだよ」

「うぅぅhelliphellipよhelliphellipよくぞ

いてくれたニャスタオは今とってもピンチなのネもうhelliphellip

もう限界ニャス」

32

た中皿いっぱいに盛ってあったはずの春巻きはいつの間にか最後のひとつになっていた

「こんなにうまいご飯を

ってくれるなんて白い人はいい人ニャスタオはとぉ〜っても感

謝してるのニャス」

両腕を大きく振り回して少女は喜びの度合いを示そうとするその手は指先まですっぽり

と袖そでの中に隠かくれていて猫の前脚を模したように大きく丸くなっていた

ラグナは春巻きを飲み込んでから尋たずねる

「タオってのはお前の名前か」

「ニャス

タオカカニャス」

大きく頷うなずくと尻尾を持つカカ族の少女タオカカはもう一方の手に持ったままだった肉饅

頭をまた一口で頰張り飲み込こんだ

「タオは村を出て勇ましく旅立ったんニャスがhelliphellipすっかりお腹が空いて動けなくなってたの

ニャあのときいい人が助けてくれなかったらタオは今ごろ干からびてカカの干物になって

たニャスこの『ごおん』は忘れないニャスよ」

勝手に身の上話を始めながらタオカカは味噌炒めの皿を抱かかえて残っていた分を全すべて口の中

に流し込んでしまう

まだそれ食ってなかったんだけどとは言えずラグナは渋じゆ面うめんでその様を見守った仕方な

く肉饅頭をひとつ確保すると呆れを込めてため息に肩かたを落とす

「はいはいなにがご恩だよどうせ飯食ったら忘れるだろお前」

第一章 Stratum city 階層都市35

さっきまで力なく下がっていた目も今はまん丸で口も上向きの三日月形となっている

その様を横目に呆あきれ顔でながめながら向かいの席に座っていたラグナは揚げた鶏肉を口に運

んだ分厚い衣ころもがカリカリとしていてうまい久しぶりに直じか火びで炙あぶっただけでない手の込ん

だ食事だった

「helliphellipうまいか」

料理は凄すさまじい速度で減っていく奇妙な少女が嬉きき々として大量のメニューを注文し始めた

ときはラグナはとてもそんなに食べきれないと青ざめたがそんな心配は無用だったようだ

むしろ今となっては支し払はらいのほうがよほど心配だ

先だけ白くなっている尻尾をふりふりと上じよ機うきげんに揺らす奇妙な少女はふかふかの饅頭を両

手に摑つかんで顔を上げた

「うまいニャス

あれもこれもそれもぜ〜んぶうまうまニャス」

「そうかそうかそらよかったよはぁhelliphellip」

こうも屈くつ託たくなく当然のように貪むさぼられるとこいつの頭に遠えん慮りよという言葉はないのかだとか

そもそもどうして自分が見ず知らずの正体不明な少女に食事をおごっているのかだとかなぜ手

を引かれるままに大人しくこの店まで来てしまったのかだとか尽つきることなく浮うかんでくる

疑問もどうでもよくなってくる

少女はうまそうに肉饅頭を一口で頰張る

あっという間に飲み込む様に思わず苦くし笑ようを漏らしてラグナは春巻きをひとつ箸で取り上げ

34

だが現在はどちらかというと統制機構の手に負えない凶きよ悪うあ犯くはんや行ゆく方えの知れないとう

亡ぼう犯など

にかけられた多額の賞金を得て日ひ銭ぜにを稼ぐ者のことを表している

それが全てというわけではないが多くはまともな

につけなかった荒あらくれが暴力手段で稼

げる口として選ぶ道だ

女の咎追いが珍めずらしいわけではないがこれほど無防

でき緊んち張よう感のない咎追いはラグナは見

たことがなかった

「そうニャス今日からなったニャス」

「今日からかよ」

「そんでこいつを摑まえるのネ」

なぜだか誇ほこらしげにタオカカは皺を伸ばした紙をラグナに差し出した

ラグナは肉団子を野菜と一いつ緒しよに口の中で嚙かみ砕くだきながらそれを受け取る街角などに貼はら

れているような指名手配書だったあまりお目にかかれない気前のいい賞金額と共にひどく

不細工な男の似顔絵が描えがかれている

賞金首の名前はラグナザブラッドエッジ

「ぶはほっ

その名前を見た途と端たんラグナは盛せい大だいに肉団子と野菜を咀そし嚼やくしたものを噴ふき出した

「ぶにゃにゃ

いきなりご飯噴き出すなんていい人ばっちいニャもったいないニャスよ」

横で抗こう議ぎしながら最後の肉饅頭を頰張るタオカカの声も耳に入らないラグナはまじまじ

第一章 Stratum city 階層都市37

「忘れないニャス」

突とつ然ぜんピンと尻尾を真まっ直すぐに立ててタオカカはずいと身を乗り出すとテーブルの上からラ

グナを見上げた瞳どう孔こうのない丸い目ときばを並べた三日月の口がお面のようで不気味だ不気味

であるはずなのにどうしてか見つめられると愛あい嬌きようを感じる

「カカは義ぎ理り堅がたい一族ニャス受けた恩は忘れないのネいつかタオが大金持ちになったら

今度はタオがいい人にご飯を

ってやるニャス」

「大金持ちってhelliphellipお前な腹減りで行き倒だおれてた奴やつがなに言ってんだアテもねえくせに」

「ぬっふふふアテならあるニャスよ」

言ってひょいと肉団子を三つ箸に刺さして口に放ほうるとタオカカは椅子までずりずりと体を下

げて服の中からなにかを取り出した

くしゃくしゃになった一枚の紙だタオカカはそれを丸い手でテーブルの上に広げて皺しわを伸の

ばす

「タオは咎とが追おいニャス悪い奴をとっちめてたくさんお金をもらうのネ」

「咎追いだ」

怪けげんそうにラグナは眉まゆを寄せた

咎追いとはいわば賞金稼かせぎだ

元は大量の魔ま素そによって生態系が乱れ大量の新種生物が発生した

にそれらを討とう伐ばつする

べく統制機構が武装を許可した者たちのことを指した

36

「うニャいいニャスよいい人はタオのおんじんニャスからねどーんと任せておくといい

ニャス」

そう言ってタオカカはニシシと笑うと綺き麗れいに舐めた皿をドンとテーブルに置いた

その目の前に

「お待たせしました〜」

若いウエイトレスが新しくいくつもの皿を並べた

肉味噌ののっためん

とパリパリに揚がった

にたっぷりの野菜が入ったあんをかけたもの

焼き豚ぶたをスライスしたものの盛り合わせエビのすり身やら豚のひき肉と香こう味み野菜やらをもっ

ちりとした皮でくるんだ無数の蒸し物

できたての遠えん慮りよ容よう赦しやのない湯気が豊かな香かおりと一緒に天てん井じようへ上がる

「helliphellipは」

頼たのんだ覚えはないそう抗議しようとして気がついた

あのときhelliphellipラグナが自分の手配書を見ていたときだあのときタオカカが一口で食べた肉

饅頭が皿に残っていた料理の最後だった

その直後そういえばタオカカがメニューへ手を伸ばしていたような気がする

「ひゃほ〜ぅうまそうニャス

秘密の抜け道は危ないところなのネいい人もお腹いっぱ

いにしておかないとお腹空いちゃうニャスよ〜」

悪びれるどころか嬉しそうに蒸し物を引き寄せるタオカカの手をラグナは思い切り摑んだ

第一章 Stratum city 階層都市39

と手にした手配書を見る細かく手が震えた

(なhelliphellipなんっだよこの似顔絵

いくらなんでも似てなさすぎだろ

そもそもよくわかっ

てねぇなら似顔絵なんか載のせんなよ俺がこういう顔だみたいに広めてんじゃねぇよ

まさかこれがカグツチの街中にベタベタ貼ってあるのではないだろうかだとしたら憂ゆう鬱うつだ

この顔が『ラグナザブラッドエッジ』の顔だと思われていることもだがこの額で手配

書が出回っているとなるとずいぶんな数の咎追いがラグナを探しているはずだそういう咎追

いはこのカグツチにも多くたむろしているだろう

(普ふ通つうに街中通ってくのはまずいかhelliphellip)

あの青と白の制服連中に見つかるのも厄やつ介かいだが咎追いに見つかるのも厄介だそれこそこ

っちの都合などお構いなしに街中だろうがどこだろうが構わず『仕事』に取り掛かるに

ない

「helliphellipなあタオカカだっけかお前カグツチの上のほうに行く抜ぬけ道とか知らねぇか」

くしゃくしゃの手配書を返しながらラグナは心持ち身を屈かがめて声を低めたもしあるなら

多少悪路であっても面めん倒どう事ごとを引き起こすよりはずっといい

タオカカは甘酢あんだけが残った肉団子の大皿を舐なめながら答える

「おう秘密の抜け道ネ知ってるニャスよ」

「本当か

そりゃいいなあ飯

ってやる代わりにその抜け道まで案内してくんねぇ

か」

38

の腕うでを摑むとウエイトレスの手を強く払った

荷物でも担かつぐようにタオカカを肩に抱だき上げて弾はじかれたように店を飛び出す

「うニャニャッ

タオのご飯

まだ食べてないニャスよ」

「うるせぇ

それどころじゃねえんだよ」

肩かた口ぐちで

痛な声をあげ追いすがるように手を伸のばすタオカカへラグナは焦あせりのままに声を

荒げた

オリエントタウンの大通りへ出ると人波を掻かき分けて持てるき脚やく力りよくの限界にいど

いで走る

「待て

誰だれか捕まえて食いに

げだよ

後方からウエイトレスの金切り声が追いかけてくる

ぎょっとすることにウエイトレスの足はラグナに負けていなかったしゆ

念うねんのせいかもしれな

いラ

グナは足を動かしながら何度も悪態をついたまさかカグツチにやってきて最初に引き起

こす騒そう動どうが食い

げだとはこの街に上がってきたときには思いもしなかった

担がれたタオカカはしょんぼりと尻しつ尾ぽを垂らしてまだ諦あきらめ切れないのか後方へ向けて空を

掻いていた

「うう〜っタオのご飯がぁhelliphellip」

「いいから抜け道の場所を教えろ

店の奴に摑まってミンチにされてぇのか」

「みんち」

第一章 Stratum city 階層都市41

いのあまり腰こしが浮く

「おおまっなに勝手に追加してんだよ

「ニャ

いい人もうお腹いっぱいニャス

ならタオが全部helliphellip」

「ちげぇよ

こんな山ほど注文されていくらなんでも払はらえるか

俺はそんなに金持って

ねぇんだよ

そもそもラグナは仕事を持っていない時折咎追いの真ま似ねごとや日ひ雇やといの仕事で旅費を稼い

だりもするがそんなものは一時しのぎだ金がなくてまともな宿さえ取れないというのに

さっきまでの注文に加えてまだ追加がくるなんてとても財さい布ふの中身が足りると思えない

息巻くラグナの肩に手を置く者があった

ラグナは一度うるせぇとそれを払い落すだが手はすぐにもう一度ラグナの肩を叩たたき手

の主が低く

後から問うた

「お客さん

今helliphellip金持ってないって」

「helliphellipあ」

言われラグナが振ふり向いた先に立っていたのはラグナよりずっと

の低いウエイトレス

だったにこやかに微笑ほほえんでいるがその目はどこか殺気じみている

「金持ってないって」

ウエイトレスはもう一度問う

その直後ラグナはまるで事態がわかっておらず蒸し物をパクパク口に運んでいたタオカカ

40

2199年12月30日||13時35分

灰色の雲に閉とざされた空を

景に一そう

の船が港に到とう着ちやくした

船といっても海を渡わたる船ではない渡るのは空だ

膨れた腹部に人間や機材といった貨物を詰つめて運び左右に伸びた翼つばさに魔素を取りこみ飛行

する魔操船

当然空飛ぶ魔操船が停てい泊はくする港も相応の造りをしている

第十三階層都市カグツチ第五番ポート他に比べて小さく目立たない造りになっている

そこはある特定の目的に多く使われるポートだった

身を寄せるように入港した暗色の魔操船の重々しい稼か働どう音おんが止まりハッチが開いて細身の

階段が下方へ伸びる

銃じゆうを肩かたに下げた青と白の制服

士が数名

りてきて慌あわただしく持ち場につき無線機で

なにやら報告を交かわす

それから遅れることしばしポートの平たい地面に向かう階段に黒い革かわぐつの足がかけられ

た続いてひょいと細身を覗のぞかせるように現れたのは黒いスーツに身を包んだ

の高い男だ

第一章 Stratum city 階層都市43

「肉だよ肉

さっき並んでた料理になりたくなきゃさっさと教えろ」

なにも本気で店員が自分たちをミンチにすると思って言ったわけではないが遅れて意味を

理解したタオカカは真に受けたらしいびくりと尻尾が飛び上がって警けい戒かいするように太く膨ふく

れる

「お肉にされたらお肉が食べられなくなっちゃうニャス

それはいやニャス」

肩の上で器用に身を捻ひねってラグナの前に着地するとタオカカは獣けもののように両手を地面につ

いて走り出す

「いい人こっちニャス」

「よしわかった」

タオカカが飛び込むようにして細い路地に入るい一つしゆん反応が遅おくれたもののラグナも空の籠かご

をひっくり返しながらそれに続いた

ネオンの看板から遠くなりぐっと辺りが薄うす暗ぐらくなる

走りながらラグナはげんなりと自じちようするように思った

今日の食い

げの分明日から自分にかけられている賞金が増額するかもしれないなhelliphellipと

42

青のブーツで雨水を

ね上げながらハザマのいる管理小屋の前まで行くと軽く息を整えて

を正す

空色の瞳ひとみは凜りんとしており生き真ま面じ目めな表情をしていた

「お待たせしてしまってすみませんでも一声かけてくださればよろしかったのにhelliphellipまだ

中にいらっしゃるのかと思って探しておりました」

「おやおやそれはそれはお手数をおかけしましたツバキヤヨイ少しよ尉うい」

その瞳が示す通りどこまでも生真面目に話す女性をツバキと呼んでハザマは口の端はしを深く

吊つり上げ笑えみを浮うかべた

ツバキヤヨイ少尉彼女はハザマのように諜報部の所属ではなく世界虚空情報統制機構

武装魔ま術じゆ師つし第四師団の所属だった

世界虚空情報統制機構とは国家というがい

念ねんのなくなった現世界においてその代役を担になう重

大にして巨きよ大だいな機

だ帝みかどと呼ばれる絶対的な決定権を持つ存在を頂点に掲かかげ世界中の施し政せい

司法軍事あらゆる社会的基き盤ばんを管理し運営している

それだけに設けられている部署は膨ぼう大だいであり役割の異なる部署が共にひとつの任務に当た

ることはひん

繁ぱんにあることではない

だがツバキとハザマはちが

う部署でありながらとある任務のためにふたりでカグツチへとや

ってきていた

「いやぁしかし生あい憎にくの天気ですねぇこの雨の中広いカグツチでひとりの男を捜そう索さくすると

第一章 Stratum city 階層都市45

った

緑の髪かみにのせた黒い帽ぼう子しを指で押さえて男は尖とがった顎あごを上向かせ空を仰あおぐ目ま深ぶかにかぶっ

た帽子のせいで目元は見えないが薄うすいく唇ちびるは不満そうにへの字に歪ゆがんでいた

「あらま雨ですか」

空一面を埋うめ尽つくすように広がる灰色の雲からは静かな雨が

っていた

もうずいぶん前から

り続いていたようで狭せまい五番ポートはどこもかしこもすっかり濡ぬれ

ている雲に動きもないようだししばらくはこのまま

り続けるだろう

やれやれとうんざりしたようにため息をつくと男は足早に屋根のある場所へと移動した

黒スーツの男は世界虚こ空くう情報統制機構||多くは統制機構とり略やく称しようで呼ぶ機

のち諜よう報ほう部に

在ざい籍せきしている名はハザマ階級は大たい尉い

彼が乗ってきたこの魔操船はその諜報部の名前で使用された船だ

この五番ポートはそういう統制機構の中でも公おおやけにできない任務や用件のときに多く利用さ

れるいわば人目を避さけるためのポートだった

「ハザマ大尉

外にいらしたのですね」

魔操船の階段から女の声がかかりスーツについた水すい滴てきを払っていたハザマは顔を上げた

青と白の制服にそろいのポンチョを羽織った若い女性が足早に階段を駆け下りてきた青の

ベレー帽ぼうをかぶっておりそこから腰をも越こすほど長く伸のばされた鮮やかなカメリアレッド

の髪が流れている

44

視線を上げればここからでも高山の頂上から突つき出るようにそびえる美しく壮そう麗れいな支部の

が見られたただ今日は悪天候のため雨のカーテンが視界を煙けむらせる

霞かすむ支部を見上げてツバキはわずかに眉まゆを寄せた

「helliphellipなぜキサラギ少佐はカグツチなどに」

それはジンのことを知る者なら誰もが抱くような疑問だった

第四師団団長ジンキサラギは

常に冷静な人物だメリットとデメリットを十分分ぶん析せきした

上で行動する思し慮りよ深ぶかさを持っているしなにより突然統制機構に

を向けて己の立場を危あやうく

させるような愚ぐち直よくなタイプではない

こんなことは実に『彼らしくない』行いだ

思い悩なやむようなツバキの

にハザマは少し驚おどろいたように「おや」と言った

「これは意外ですねツバキヤヨイ嬢じよう貴女あなた

ほどの聡そう明めいで優ゆう秀しゆうな方がおわかりにならな

い」

口元に笑みを刻んで問うハザマの試ためすような口調にツバキは小さく胸中がざわつくのを感

じたいや

味みな言い方をする男だ

ツバキはハザマという男をよくは知らないだから彼がどういうつもりでこういった物言い

をするのか

しもつかない

だがこの一言だけで黒いスーツに身を包んだ彼を好ましくないと判断する程度には気に障さわ

る語調だった

第一章 Stratum city 階層都市47

なると中々骨が折れそうです」

また帽子に手をやって雨を

りこぼす曇どん天てんを見上げハザマが今度はどこか愉ゆ快かいそうに言う

彼らの任務は人探しだった誰を探すのかといえば

「それでもなんとしてもキサラギ少しよ佐うさを探しませんとhelliphellip」

ツバキは視線を足元に落とし己おのれに言い

かせるように呟つぶやく

ジンキサラギ少佐それがツバキとハザマが探している男の名前だった

武装魔術師第四師団の団長でありツバキにとっては直属の上司だ彼の秘書官として側そばに

仕え支えてきた

その彼が数日前突とつ然ぜん統制機構の本部から

を消した

任務でもなく届け出もないこれは統制機構において重大な規律い反はんだ

一師団を預かる団長が独断行こう為いにより行ゆく方え不明などという事態は前代未みもんだ部下や他師

団に影えい響きようを与あたえるからと今のところこの一件は公になっていない

だが現状がどこからか漏えいする可能性もあるその前になんとしても連れ戻もどさなければと

ごく秘ひ任務を命じられたのがハザマであり彼が協力者に選んだのがジンキサラギの秘書官で

あるツバキだった

冷たい雨が空気を冷やすそのせいだろうか五番ポートは金属のにおいがたちこめていた

濡れた灰色の階段の向こうに上層階らしい整理された街並みがうかがえる奥へ進んでいくつか

階層を上がれば最上層である世界虚空情報統制機構カグツチ支部だ

46

だがハザマは欠片かけら

も気にした様子なくむしろそれこそ子供の反はん抗こう的な物言いに噴ふき出すよ

うに軽く笑った

「あららそっちでしたかこれは失礼いたしましたツバキヤヨイ少尉」

帽子に手をやりわずかに持ち上げて会えし釈やくしてみせるその間もずっと彼の細い首はくつく

つと喉のどを鳴らすような笑いに震ふるえていた

「少佐がなにをお考えなのかなんて我々にわかるはずもありませんよそれこそご本人を見

つけて直接お尋たずねになってはいかがです」

そうできないから疑問なのだと苦く胸中で思ったもののツバキは余計な言葉を奥にしまい

こんだ今必要なのは疑問でも感情でもないそう自分に言い

かせる

「helliphellip了りよ解うかいしました大尉」

ツバキが生き真ま面じ目めに答えるとハザマはもうひとつ笑ってから切り出した

「さていつまでもおしゃべりしていても仕方ありませんしそろそろお仕事を始めるとし

ますか」

仕事つまりはジンキサラギの捜索だ

ツバキはハザマへのけん

悪お感ではなく任務への使命感に表情を引き締しめる

ハザマは雨に濡れたカグツチの街並みを見やりながらにんまりと唇を引いて言葉を続けた

「まず確かく認にんしておきましょう我々の任務はジンキサラギ少佐を捕ほ獲かくし本部へ強制帰き還かんさ

せることただし少佐の失踪の件は公にされていませんからカグツチの

士たちへは内密に

第一章 Stratum city 階層都市49

小波のような不快感を飲み込んでツバキは

士の顔を取り繕つくろいせ筋すじを伸ばすたとえ好ま

しくなくてもツバキは少尉でハザマは大尉上官だ

「申し訳ありません大尉私にはhelliphellip」

「貴女からの報告にあったではありませんかキサラギ少佐は例の『死神』に

する報告を受

けた翌日に

を消したのだと」

ハザマは両手を軽く広げてみせる

さっきのからかうような物言いのせいだろうかそんな仕草でさえツバキにはどこか

に映る

「報告の中には『死神』つまり指名手配中のラグナザブラッドエッジがカグツチに向か

っているらしいという情報もあったそのうえで少佐がカグツチに向かったのならそれはも

う『死神』を追っての行動だとしか考えられないでしょう」

統制機構を出たジンの行き先がカグツチであるとの情報を持ってきたのはハザマだった

うっかりそんな情報を摑つかんでしまったがためにこんな辺へん鄙ぴな場所への任務を命じられてしま

ったと愚ぐ痴ちめいたことをツバキは魔操船の中で散々

かされていた

「恐おそれながらハザマ大尉それは私にもわかります私が疑問なのはなぜ少佐が統制機構を

飛び出してまで『死神』を追わなければならなかったかです」

いささかむっとしてツバキは言う言ってからすぐ無礼が過ぎたかと危きぐが過よぎった

にあるまじき子供じみた態度だったかもしれない

48

てもらえますか」

「別件ですか」

戸と惑まどうように尋ねたツバキの質問に対しハザマは肩をすくめるような苦くし笑ようだけを返し具

体的な言葉は告げなかった

ハザマの所属は諜報部だ他部署へ言えぬ用事も多かろう見えない目的に少々の怪けげん

さを

感じながらもツバキは配はい慮りよのつもりでそれ以上尋ねるのをやめておいた

「わかりましたでは下層のhelliphellipオリエントタウンの辺りから調査してみます」

「そうですねあそこはカグツチでも一番広いエリアですし身を隠かくすにはうってつけですか

らいいと思いますよ」

うんうんと適当に頷うなずきながらハザマは一歩歩み寄るとわざわざ腰こしを折って下方から覗のぞき込

むようにツバキを見た

帽子のつばで瞳が見えないけれど絡からみつくような視線が確かにこちらを捉とらえているのがわ

かる

子供に言い

かせでもするようにハザマは人差し指を一本立てた

「ただひとつ気を付けてくださいね治安が行き届いていない場所はキサラギ少佐が身を隠

している可能性も高いですが同時にラグナザブラッドエッジがうろついている可能性も

あります万が一おふたりが鉢はち合あわせて戦せん闘とうなんてことになったらもう私たちには手も足も

出せませんから」

第一章 Stratum city 階層都市51

お願いしますよ部外者はもってのほかです」

「はい」

「それから現在カグツチにはラグナザブラッドエッジが潜せん伏ぷくしているとみられますそ

のためD警報が発令されていますのでそのつもりで」

D警報とはつまり統制機構による特別警けい戒かいが行われているという意味だそのためカグツ

チの住民でない者や統制機構とは

係のない他機

がこの都市でなにがしかの活動を行うこ

とを禁止している

「D警報に抵てい触しよくする者と接触した場合はカグツチの支部に連れん絡らくを取ればよろしいのでしょう

かそれともこちらで対処したほうが」

しゃんと

筋を伸ばしハザマを見み据すえて問うツバキの様はどこにでもいる一

士と片付け

るにはいささか毅き然ぜんとしすぎる品をたたえていた

それもそのはずだ彼女は統制機構を創設当初から支え幾いく人にんも重役をはい出しゆつしてきた十二宗家

のひとつヤヨイ家本家の娘むすめなのだから

だがハザマはツバキの纏まとう品もそこからくるどこまでも真面目な性しよ分うぶんもなにもかもが面めん

倒どうくさいと言わんばかりに口元を歪めると実に雑に答えた

「あー適当でいいですよお任せします」

「はhelliphellipはい」

「じゃあ私はちょっと支部に別件の用事があるんで先に下層のほうから捜索を始めておい

50

ハザマの気さくさに引きずられることなくツバキはあくまで部下として返事をすると堅かた

苦くるしく

筋を正した

「それでは大たい尉い私は下層を見て回ってきます」

「ええよろしくお願いしますよ今のカグツチは物ぶつ騒そうですからお気をつけて」

「はい失礼いたします」

腰を折って一礼しツバキは管理小屋の狭せまい軒のき先さきから雨の中へと駆かけ出した小さく水音を

はねさせながらポートから街中へと向かう階段を上がっていく

腰までを覆おおう青いポンチョがカメリアレッドの髪かみと共に躍おどり去っていくのをハザマは管理

小屋の壁かべに寄りかかって見送っていた

やがてひ翻るがえるポンチョの青もツバキが

ね上げる水の音も完全に雨の向こうに消えるとゆっ

くりと身を起こす

「本当にお気をつけて」

低く声を喉のど元もとで濁にごらせるように呟くとハザマもまた雨の中へと悠ゆうゆ々うと踏ふみ出した

第一章 Stratum city 階層都市53

「そうhelliphellipですね」

ツバキは身を引くように俯うつむいて苦々しく答えた

ジンは統制機構でも並ぶ者なしとまで言われる剣けんの使い手だそのうえ約百年前の黒き獣けものと

の戦争『暗黒大戦』で使われたとされている事象兵器

アークエネミー氷ひよ剣うけんユキアネサを所持している

そして『死神』ラグナザブラッドエッジはこれまで数々の統制機構支部をたったひとり

で壊かい滅めつさせてきた相応の力を持った人物

このふたりがもしも刃やいばを交えることになればツバキにもハザマにも止めることはできない

その最大の理由をハザマがなぜか陽気に言い放つ

「いやはやなにせ私も貴女も戦闘は専門外いざ荒あら事ごととなったらからきしですからねぇ」

ツバキは統制機構の士官学校を出ているため最低限の戦闘訓練は経験しているだがそれ

も護身術程度のことだ卒業後はジンの秘書官として日々書類や来客の相手ばかりしてきた

そんな状態で戦闘技術の向上が見込めるわけもない

一方のハザマも自身で言う通りち諜よう報ほう活動にこそスキルはあれど武力をもって事態に当たる

ことは不得手だった

ハザマは武具の似合わない生白い手でひらりと宙を払はらってにんまりとく唇ちびるを引く

「まお互たがい無理せずいきましょう我々のお仕事はキサラギ少佐を連れ帰ることですから

そこをお忘れなく」

「承知いたしました」

52

の声だった

「しhelliphellip失礼いたします」

答える声が震えたドアノブを摑む手はもっと震えていた

転んだりしたらどうしようああどんな顔をしていたらいいだろう顔が赤くなってしま

いそうでそれだけは必死に堪こらえて平静を取り繕って

ツバキは部屋の中へと入る

最初に目に入ったのは机に向かってペンを走らせるひとりの男性の

だった

後にある窓から入り込んだ日の光が掠かすめて彼の美しい金色の髪を煌きらめかせていた長い

睫まつ毛げの向こうで情感薄うすく書面を見下ろしている瞳ひとみは離はなれた部屋の入り口からでもわかる澄す

んだ緑色をしているはずだ

部屋には彼以外誰だれもいなかった

を丁てい寧ねいに閉めると室内にはツバキとふたりきりだ

何事か書き終わったらしく机に向かっていた彼はどこかおっくうそうに顔を上げるそれ

からその目を驚おどろきに見開いた

「ツバキhelliphellip」

呼んでくれた声は

の外で

いた義務的な声とはちが

っていた

感情の温度が灯ともった声こわ色いろは表情と同じように驚いた風でそのせいかさっきより少しだけ上うわ

ずったように音が高い

「どうしてお前がここにhelliphellip」

第一章 Stratum city 階層都市55

helliphellipそれはほんの数年前のけれどかけがえのない数年をさ遡かのぼった

ある日のことだった

世界虚こ空くう情報統制機構統合本部

真まっ直すぐに伸のびる白タイルの床ゆかをツバキは緊きん張ちようの面おも持もちで歩いていた

初めて袖そでを通してまだ日数のたっていない青と白の統制機構

士の制服はまだ体に馴な染じんだ

とは言いがたくて頭に載のせたつばのない帽ぼう子しもコツコツと床を叩たたくブーツもそつなく着

られているか心配で仕方ない

胸に書類のファイルを抱えてこれで何度目になるかわからないけれど最後にもう一度長く

伸ばした髪を指先で整えて

それからツバキは目的地であったとびらを控ひかえ目にノックした

「||入れ」

一いつ拍ぱくの間をおいて

の向こうから声が返ってくる

そのしゆ間んかんツバキの心臓がドキリと大きく

ねた

感情の遠い義務的な声けれどわずかに少年らしい響ひびきの残った声はツバキがよく知る人

54

十二宗家本家の出の者が同様に宗家本家の出であるジンの秘書に着くという事例は稀まれだ

その辺りからツバキの無茶を

したのだろうジンは呆あきれたように苦笑する

思わずツバキは震ふるえる吐と息いきを漏もらした久しぶりに見たジンの笑顔だった

「秘書が来るとは

いていたがまさかお前だったとはなhelliphellipよろしくツバキヤヨイ少

尉」そ

う言ってジンは白い手てぶ袋くろをはめた手を差し出す

ツバキはファイルを小こ脇わきに抱えると見上げてくる綺き麗れいな緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し

ながら差し出された手を握にぎった

この日この時からツバキの師団長秘書としての日々が始まった

を追いかけるばかりだった士官学校での後こうはい時代とは

うとなりに

側そばに立ち

務を支える

時間が始まったのだった

2199年12月30日||17時30分

カグツチの下層へ

りていきながらツバキは注意深く周囲へ視線を向けていた

もう少し先へ行けばオリエントタウンと呼ばれるエリアに入るはずだそこはカグツチの中

第一章 Stratum city 階層都市57

仕事中らしからぬ砕くだけた物もの腰ごしにツバキは強こわ張ばっていた頰ほおを緩ゆるめたすとんと緊張が抜ぬける

「書類は届いているはずですよお読みになっていないんですか」

ツバキはファイルを抱えて机の前まで行くといぶかしげな彼へ敬礼し

筋を伸ばした

「本日付けで武装魔ま術じゆ師つし第四師団団長ジンキサラギ少しよ佐うさの秘書官に任命されましたツバ

キヤヨイ少しよ尉ういであります少佐よろしくお願いいたします」

型通りだけれど昨晩から部屋で何度も練習した言葉だ

ミスなく言えたことにツバキがほっとしているとジンが驚おどろきに持ち上げていた眉まゆをわずか

に怪けげんそうに寄せた

「少しよ尉うい」

問われた理由はツバキにもよくわかる

ツバキは世界虚こ空くう情報統制機構において貴族的地位にある十二宗家の生まれだ十二宗家の

者は統制機構の士官学校卒業後最低でも中ちゆ尉ういの階級を与あたえられる

ツバキも例外ではなく卒業直後は中尉であったそれがなぜ現在少尉なのかというと

重大な理由がある

「それはその」

ツバキは言いにくそうに口ごもった

本来別の配属だったところをどうしてもジンの秘書官になりたいと粘ねばりその要望を通す代

わりに

格となったとは彼の前ではとても言えない

56

かしこも濡れていた

通り過ぎる建物細い横道の向こう物もの陰かげすれ

う人ツバキは視界に映るすべてに神経

を向ける

自然と歩調が速くなるのは募つのる焦あせりゆえだ知らず知らずのうちに手はきつく握られていた

(キサラギ少佐helliphellip)

もう何度心の内で呼びかけたかわからない

唇を固く引き結びまるで縋すがるように視線を左右へ走らせるその表情はただ行方ゆくえ

不明の上

官を探しているだけには留とどまらない深い感情の揺ゆれがあった

(どこにいるんですかhelliphellipジン兄様helliphellip)

ツバキはジンキサラギの秘書官だだがそれ以前からジンはツバキにとって特別な人だ

った

ツバキが十二宗家ヤヨイ家の娘むすめであるならジンは同じく十二宗家キサラギ家の子だ互い

に幼いころから知っていた幼いころから顔を合わせ言葉を交かわし時には子供らしく遊ん

だりもした

ツバキが統制機構の

士を目指して士官学校に入ったのも先に入学し将来は師団長を期待

されていたジンの後を追いかけたかったからだ

ジンは勉強も武術もなんでもできたけれどツバキは運動が苦手だっただからせめて勉強

だけは追いつこうと必死に学んだ学生時代はジンが会長を務める生徒会で共に働いたことも

第一章 Stratum city 階層都市59

でも一ひときわ広く人口の密集したエリアだと

いている

人を探すには不向きな場所だだがだからこそジンが足を向けた可能性はあるとツバキは

考えていた

そこならば容易に人ごみに紛まぎれることができるし入り組んだ路地や階層都市の構造のすき間ま

に身を隠すこともできるなにより下層は統制機構の

士が少なく上層に比べて監かん視しの目が

緩い

統制機構が追手をかけることはジンも十分わかっているだろうならばその目を避さけるのは

当然のことだ

同時に同じように追われる身であるラグナザブラッドエッジが下層を潜せん伏ぷく場所に選ぶ

可能性もジンならば考えたはずだ

硬かたい地面に青いブーツのくつ音おとを響かせてツバキは足早に歩く鮮あざやかな色の髪がしっとり

と雨に濡ぬれる

短い階段を

りるとその先はオリエントタウンの街外れだった

使われているのかいないのかわからない寂さびれた雰ふん囲い気きの倉庫が並びその先にわずかに芝しば生ふ

の植えられた広場のようなものがあるぽつんと佇たたずむ外灯は所々に錆さびの染しみがこびりついてい

た下

層は上層の地盤があるためほとんどが空をさえぎられ屋外でありながら屋内であるかのよう

に天候の影響を受けにくいだがこの辺りはまだ他層より突つき出しているらしく雨でどこも

58

けれど『死神』を統制機構の他

士と同じように考えるのは危険だ

彼は単身で統制機構を相手に反逆行こう為いを繰くり返かえしこれまでただの一度も拘こう束そくされることな

くとう

亡ぼうを続けている並なみ大たい抵ていの力では不可能だということを彼を追うべき立場でもあるツバ

キはよく理解していた

ラグナはおそらくとても強いもしかしたらジン以上に

それになにより恐おそれるべきはそのき凶よう悪あく犯が持つ魔ま導どう書しよだ

||蒼の魔道書

ブレイブルー

かつて黒き獣けものと戦った暗黒大戦時代にある魔ま法ほう使つかいによって術式という技術が開発された

魔法を模したもので魔素を使い火を熾おこしたり水を呼んだりと様々な現象を引き起こすことが

できる技術だ

その術式を扱あつかうために必要な鍵かぎが魔道書だった

蒼の魔道書

ブレイブルー

は世界中に数え切れないほど存在している魔道書の中でも最強と囁かれている

(ジン兄様でも蒼の魔道書

ブレイブルー

を相手にして無傷でいられるはずがない下手をしたらhelliphellip)

そこまで考えてツバキは走った悪お寒かんに身を震ふるわせた

蒼の魔道書

ブレイブルー

は最強とその威いり力よくを絶大に評価されながらも詳くわしいことは知られていないとい

う奇きみ妙ような魔道書でもあった

そもそも魔道書は〞書〝でありながら形状は様々で本の形をしているとは限らない

ラグナザブラッドエッジの蒼の魔道書

ブレイブルー

も彼が持っているという事実は認にん識しきされている

第一章 Stratum city 階層都市61

あった

淡たん白ぱくな物言いをしたり鋭えい利りな目つきをすることがあったから周囲は時折彼のことを冷たい

人だと囁ささやいた

けれどツバキにとってはいついかなるときも彼は優やさしい兄だった

細く美しい金色の髪に涼すずしげな緑色の瞳すらりとした体たい軀くに白い肌はだ整った顔立ちそ

の聡そう明めいな横顔に時々本当に時々だけれどhelliphellip見み惚とれたりもした

頼れるツテというツテを頼ってどうにかジンの秘書官の座を手にしたときはどれほど嬉うれし

かったことか

慕したっていた憧あこがれていた屋や敷しきの奥でひとり毬まりつきをしていた幼子のころから今でもずっ

「ジン兄様helliphellipっ」

急ぎ足だった歩調はいつしか小走りに変わっていた爪つま先さきが小さな水たまりを踏んで水すい滴てきを

ね上げる

一刻も早く見つけ出したかった心臓が軋きしむように胸を打つ

ツバキの頭に浮うかぶ最悪のケースはやはりどこかでジンと『死神』ラグナザブラッド

エッジが遭そう遇ぐうしてしまうということだった

ジンは強い統制機構の中でも彼とまともに剣けんを交えることができるのは数えるほどしか

いないだろう

60

ぎゅっと一ひときわきつくこぶしを

胸むな元もとで握るとツバキは首をふって雑念を払はらった

余計なことを推測している場合ではない今は一刻も早くジンを探すことそれだけを考え

なければ万が一今回の行動のせいでジンが反逆者とみなされたりしたら取り返しがつか

ない

急ごう自分をしつ

咤たするように大きく足を踏ふみ出してなにやら小さく物音の

こえた広場

の裏手へ回ってみる

物置だろうかふたつ並んだ小屋の裏を通り抜けようと狭せまい角を曲がった

その途と端たん目の前に壁かべが現れた

「きゃっ

あまりに突とつ然ぜんのことでとても対処できずツバキは進入した

いそのままに壁に激げき突とつした

だが直後に気付く

壁というにはあまりに分厚く建材にしては感かん触しよくがやわ

らかい

「むhelliphellip」

壁の向こうから声がした腹に響ひびくような低い男の声だ

ツバキの目の前にそびえるそれは壁などではなく見上げるほど巨きよ大だいな男の

中だった

「ああすまなかった怪け我がはないか」

そびえる巨きよ軀くはその異様なまでの圧あつ迫ぱく感に似合わぬ紳しん士し的な物もの腰ごしで語りかけのそりと重く

振ふり返る

第一章 Stratum city 階層都市63

もののそれがどんな形状をしているのかはわかっていない

それどころかいつどこで蒼の魔道書

ブレイブルーが造られその秘ひめたる力はどんなものなのか世界

虚空情報統制機構のち諜よう報ほう部ですら正確には把は握あくしていないという

ただでさえ強い『死神』であるのにそのうえ正体のわからない魔道書まであってどう楽

観視できるというのか単身でいどみかかるなど無茶にもほどがある

(helliphellipジン兄様はラグナザブラッドエッジを捕つかまえるためにひとりでカグツチまで来た

のかしら)

物もの影かげに目を凝こらしながらツバキは独り言のように思った

たとえ独断行動によって強制帰き還かん命令が下されているとしてもジンは統制機構の

士であ

り師団長だ『死神』を追って統制機構を飛び出したのだとしたらその目的は凶悪犯の捕ほ縛ばく

以外に

えられないとツバキは思っていた

けれど本当にそうなのだろうかふとそんな疑念が過よぎる

(でもだってそれならどうして誰にも言わないで出ていく必要があったっていうの私に

もなにも言わないで)

なによりそのことが胸に突き刺ささる

ジンは心根の読めない人だけれどそれでもなにかあったときはいつだって一声かけてくれ

たのに

「ううん理由はジン兄様を見つけてから直接

けばいいことよ」

62

者も多いそのほとんどはべつ

称しようとしての呼称だ

赤鬼と呼ばれた巨きよ漢かんがどんなつもりでその

称を使ったのかはツバキには読めないけれど

好感情でないことは見るからに明らかだった

テイガーは身構えることこそしなかったものの眉み間けんに深い皺しわを刻み厳いかめしい渋じゆ面うめんでツバ

キを見み据すえる

「helliphellipすまん図書館の

士と接せつ触しよくした」

ツバキから視線を逸そらし耳元へ大きな手をやってテイガーが低く何者かへ告げる直後に

ノイズのような音が走った通信だ

「通信を切ってくださいそこを動かないで」

素す早ばやくツバキは護身用に支給されているけん

銃じゆうを腰こしから抜ぬいたしっかりと両手で握にぎり銃口

を赤鬼へ向ける

テイガーはわずかに首を動かしてツバキを見やったもっとも分厚いレンズの丸眼鏡ごし

では奥の眼まな差ざしまではうかがえない

見下ろす威い圧あつ感に気け圧おされそうになりながらもツバキは努めて厳しく赤鬼を睨にらみ据すえた

「現在第十三階層都市カグツチにはD警報が発令されています第七機

を含ふくめ全すべての他機

の介かい入にゆうは禁止です答えなさいここで一体なにをしていたのですか」

「やれやれ銃を下ろせ

士の少女そんな玩おも具ちやのようなものでは私のボディを傷つけるこ

とすらできんぞ」

第一章 Stratum city 階層都市65

異様なのはなにも体の大きさだけではなかった

人の肌にしては赤みの強すぎる肌の色ただでさえ屈くつ強きような太い腕うでに取りつけられたぎ仰ようぎ々ようしい

手て枷かせのようなパーツ引き締しめられたく唇ちびるから上向きに伸のびる白いきば

鬼おに

約百年前に滅ほろびた日本という国の昔話にそんな怪かい物ぶつが登場したはずだツバキは幼いころに

読んだ絵本を思い出す

それと同時に目の前にいる赤い巨きよ人じんが誰だれなのかを思い出した

「貴方あなたhelliphellip第七機

の赤あか鬼おに」

呼ぶと同時にツバキは数歩下がって身構えた

第七機

術式を主体とした統制機構の世界統治に異を唱え術式に頼たよらない世界を作ろう

と企くわだてている外部機

赤鬼はその第七機

に所属する兵士でありその巨軀からも想像できるように圧あつ倒とう的てきな制圧

力を誇ほこる

正式名めい称しようはTR0009アイアンテイガー

第七機

の研究者によって造られたサイボーグだ

向こうもこちらの

に気付いたようでツバキの胴どう回りよりも太そうな足を一歩引いた

「その制服図書館か」

術式の乱用を防ぐために世界中の魔道書を集め管理していることから統制機構をそう呼ぶ

64

きません」

まるでなだめるように語りかけるテイガーの語調が余計にツバキの態度を頑かたくなにさせる

ここで弱よわ腰ごしを見せればそれは統制機構そのものが第七機

に対して弱腰になったとみなさ

れるようなそんな気がしていたそんなことは許されない

世界の秩ちつ序じよを守る統制機構の

士が平和のために戦う武装魔ま術じゆ師つし第四師団の団長秘書が

規律を犯おかした第七機

の兵士と取り引きめいたことをするなんて

銃を構え巨体の赤鬼を見据えたままツバキは手の中に握りこめる小さな通信機を取り

出した

ひとりでは対処しきれない早急に応おう援えんを呼ぶ必要があった

「武装魔術師第四師団所属ツバキヤヨイ少しよ尉ういです現在カグツチ下層オリエントタウンで第

七機

のhelliphellip」

「参ったなできれば穏おん便びんに済ませたかったのだが」

赤鬼が低くなにごとか呟つぶやく

その言葉の意味をツバキが理解するより早くテイガーが大きく前に踏み出した

伸ばされた腕がまたたく

間にツバキに迫せまる軽く握られていた

がツバキの目の前で開かれるや

否いなや

「きゃぁっhelliphellip」

放たれた電でん撃げきが通信機を弾はじき飛ばしツバキに細い

鳴を上げさせた

第一章 Stratum city 階層都市67

「っそんなことは

いていません質問に答えてください」

呆あきれたようなテイガーの物言いに咄とつ嗟さに腕を引き戻もどしそうになったがそれを堪こらえてツバキ

は銃口と眼光を向け続ける

相手はサイボーグだ戦いになったらもちろん勝ち目はないがそれ以上ににげられたらと

ても追いつけない

自分の任務はジンキサラギの捜そう索さくだと重々承しよ知うちしているだが周囲には他に統制機構の

士の

はないここで見みのがせば彼ら第七機

がカグツチと統制機構にどんな混乱をもたら

すかわからないと

えるととても目をつぶることなどできなかった

ザザッと再びノイズが走る

「ああ大だい丈じよ夫うぶだ問題ないすぐに任務に戻る」

通信の相手の声はツバキには

こえないただそれに答えるテイガーの声はあまりに危機感

から遠くすでにツバキとの問題は解決したとでも言うかのようだ

侮ぶじ辱よくされたような思いに駆かられてツバキは鋭するどく声を尖とがらせる

「通信を切りなさい

勝手な行動は許しません」

「そういきり立つな我々はなにも統制機構の業務を妨ぼう害がいするためにカグツチに来たわけでは

ないどうだここはお互たがいかかわらなかったことにしないかこのまま行ってくれれば私は

お前に危害を加えなくてすむ」

「それは反逆の意志ありということですか

どんな目的にせよこの場を見

すわけにはい

66

2199年12月30日||18時00分

幾いくつの路地を抜け幾つの角を曲がっただろう

人のような

をしながら人にあるまじき動きで先導するタオカカがラグナを連れてやってき

たのは外の明かりも差し込まぬ暗い暗い下水道だった

「こっちニャスよいい人〜」

呼びかけタオカカは投とう棄きされたらしい瓦が礫れきやら壊こわれた家具やらの山をひょいとと

び越こえた

外から隔かく離りされた場である上に時間も遅おそいたとえ微かすかなすき

間まがあってもわずかな光さえ

望めない

それなのにラグナやタオカカが問題なく歩けているのは投棄された瓦礫や積み上がったヘ

ドロにこびりついて生えている奇きみ妙ような苔こけのおかげだった

それらがほのかに青緑色の光を帯びているせいで下水道は一寸先も見通せない暗くら闇やみに閉とざ

されずにすんでいる

タオカカを追いかけて粗そ悪あくな足場に多少もたつきながらもラグナが続く

「おい本当にここから上に出られるんだろうな」

第一章 Stratum city 階層都市69

その一撃だけでツバキの意識は遠のいたかくりと膝ひざが折れ力なく崩くずれ落ちる

「っとhelliphellip」

そのたおやかな体が硬かたい地面に倒たおれ伏ふす前についさっきまで電撃を纏まとっていたテイガーの

腕が受け止める

そのまま抱かかえ上げると力なく気を失った青と白の制服の少女を見下ろしテイガーはため息

をついた

「やはりひ戦せん闘とう要員か無茶をする」

『helliphellip言っておくが

わるなよ』

ノイズが走りテイガーの通信機から不ふ愉ゆ快かいそうな女の声が漏もれた

ツバキを抱えたままテイガーは空いていたもう一方の手を耳元にやる上向きの

のよう

な犬歯が突つき出た口元はツバキと対たい峙じしていた先さき程ほどよりもさらに苦々しく歪ゆがんでいた

「雨の中でこんな街外れに放ほうり出すわけにもいかないだろうまだ若い娘むすめだ」

『任務が最優先だ余計な時間はない』

「helliphellip少しの間通信を切るぞココノエ」

『なんだと

おい勝手な真ま似ねはhelliphellip』

装着している本人以外には

こえないであろう小さな音をたてて通信は途と切ぎれた

テイガーは雨

る広場に

を向けて歩き出したその足が向かう先には空を上層の市街に

さえぎられ提ちよ灯うちんの明かりとネオンが煌きらめく薄うす暗ぐらい街オリエントタウンが広がっていた

68

「ニャス」

「かっぱらいじゃねぇか」

張り上げたラグナの声はくわんと寒々しく下水道に響ひびいた

その反はん響きようが

まると今度はまたじめっとした静けさがやってくるどこからか滴したたり落ちて

床では

ねる水の音がいちいち不気味だった

色いろ濃こい影かげの向こうで得体の知れないものが蠢うごめいてこちらを覗のぞきこんでいるような錯さつ覚かくを抱

くぞ

っと走った悪お寒かんにラグナはぶるりと身み震ぶるいし先を行くタオカカの後を追う

がhelliphellipラグナは不意に顔をしかめると足を止めた

(錯覚じゃねえ誰かがこっちを見ていやがる)

淡あわく光る苔が刻んだ色濃い影の奥歪いびつな瓦礫の山のどこか

視線を感じる

いや視線だなんて生易しいものではないもっと根本的なもの存在や意志そのものとい

ったものがこちらを一心不乱に捉とらえているようだ

「いい人〜

どしたニャス」

ラグナがついてこないのを不思議に思ってタオカカが引き返してくる積み上げられたな

にかの残ざん骸がいを軽かろやかに

び越え着地するその小さな足音がきっかけになったのだろうか

「キキキキキキキキキキキキ」

第一章 Stratum city 階層都市71

瓦礫の山から飛び

りた先がオイルかなにかでぬめるラグナは反射的に顔をしかめて三

角耳がぴくつく白いフードの後頭部へ少々の苛いら立だちを込めて問うた

抜け道とは往々にして楽な道ではないとラグナはこれまでの経験で学んでいただがここ

は今まで通って来た『抜け道』と比べても相当な悪路だ

濡ぬれているわけでもないのに床ゆかの壁も天てん井じようもじっとりとしていていやな湿しつ気けが外から入り

込んでいるらしい濃こい魔ま素そと混ざって肌はだと肺にこれでもかと不快感をくれる

一段

りたところには廃はい棄き物ぶつと一体化した汚お水すいが吐はき気けをもよおす悪あく臭しゆうを放ちながら泥どろ水みず

のような重さで流れている

これが街からそう離はなれていない場所を流れ通っているというのに外にはさほどふし臭ゆうが漏れな

いことを思うと階層都市の工事技術はでたらめに見えて意外としっかりしているようだ

もうすっかり馬ば鹿かになった鼻をこすりラグナはぽつりとそんな感想を抱いだいた

「本当ニャスよくここ通って上でパンとかお菓か子しとかもらってくるニャス」

言ってタオカカは下水道の天てん井じようを見上げた黒ずんだ頭上は突つき出た鉄パイプや金属板が

複雑に組み合っておりその奥のずいぶんと高いところに張りついた闇やみのような天井が見てと

れる

さらにずっと向こうに目指している上層の街があるのだろう

つられて見上げてラグナはため息に肩かたを落とした

「もらってくるってまさか店のもん勝手に持ってってるんじゃねぇだろうな」

70

気味の悪さに怖おぞ気けよりもけん

悪お感が走る

影はいやに粘ねん着ちや質くしつな動きでぬめる床に着地するとむくりと上体を起こすような動きを見せ

た判然としないが苔光で浮かび上がる奴やつの足元でなにか小さな生き物が蠢いている気がす

る戸と

惑まどいつつも身構えるラグナのすぐ側そばにタオカカが駆け込んできて頭を低くさせ唸うなった

長い尾おがぴんと立ち上がって毛を逆立て膨ふくれている

「コイツうねうねニャス」

「うねうね

なんだそりゃ」

「悪いヤツなのネ

タオたちの村を襲って小さいカカを食べちゃうのニャス」

さっきまで陽気だった表情を目め尻じりをつり上げた憤ふん怒ぬのそれに変えてタオカカはわんと声を

響かせ威い嚇かくする

その様をあざ

笑わらうかのように白い面を浮かべた影は全身をあわ

立だてるように震ふるわせた

「キヒヒヒいる

いるぞ

るぞ力蠢く醜しゆうな

想を叶かなえ

ために肯

は不可欠

がい

念ねんの否定

閉とざ

た門が招くはずだ

ちが

いギヒヒヒヒヒヒ」

影が震え笑うたびに空気が淀よどむ

ラグナは険しく顔をしかめた

これは魔素だ

外から流れ込んできているのではないこの目の前にわだかまる影からあふ

れ漂ただよい下水道の

第一章 Stratum city 階層都市73

空気を引き裂さくような声と共に突とつ然ぜん影かげから影が飛び出したさらにそこから槍やりのような鋭

い影が無数に飛び出しラグナに襲おそいかかる

「ぅぐぁっ」

あまりに唐とう突とつであまりに周囲に同化した

に反応が遅おくれた分厚く布の裂ける音が散り一いつ

緒しよに皮ひ膚ふと肉をえぐり刺さすように持っていかれる

火がついたように痛む肩を引いてもう一方の腕うでで剣けんを抜き目の前の影を払はらった

手て応ごたえはないまるで本物の影を切り払ったかのようだ

「グギギギhelliphellip真

理へ至

我が

を求

我に求め

真相を

くhelliphellip」

人の声のようなそうでないような奇き怪かいな声こわ色いろで奇怪な言葉を口走りながら影は

び退すさっ

た高質化したヘドロと瓦礫の間でふわりと浮ういてわだかまる

初めラグナはどこからか紛まぎれこんだ魔まじ獣ゆう||高こう濃のう度どの魔素によって歪んだ生態系が生んだ

理性なき凶きよ暴うぼうな獣けものかと思った

だがどうにもちがう不定形なそれは奇妙で歪いびつで不可解で生物とはとても思えぬ

形をして

いた

ぐるりと影が動くとわだかまる闇の内側から面が現れる

白い円形に三つただ孔あなを開けただけの目と口顔のつもりだろうかそれが黒ずんだ不定

形の影の中で唯ゆい一いつの定形であるようだった

「なんhelliphellipなんだこいつは」

72

ふつとい憤きどおりがラグナの腹の底で沸わく

統制機構が大事に大事に抱えて地下深くにしまい込んでいる窯それを統制機構だけでなく

あちこちの機

や研究員学者が欲ほつしている窯を所有するということは窯が繫ぐ境界の一いつ

端たんを所有することと同意だからだ

誰も彼も境界には人じん智ちを超こえる素す晴ばらしい財産が眠ねむっていると信じている人智を超えた

ものなど人間に御ぎよせるはずもないのに

まったくいや

気けが差す頭にくるそんな窯を我が物顔で掻かき回す統制機構もそれを追いか

けるように窯を求める連中もどいつもこいつも

「こうなっちまったらもうどうしようもねえ悪く思うなよhelliphellipもっとも人を怨うらむほどの

理性があればの話だけどよ」

このままこいつをここに放置すればタオカカの言っていた『村』に留とどまらずさっきのオリ

エントタウンや下層の街に出て人を襲うようにもなるだろう

ラグナは剣の切っ先を下方に向けたまま化け物に深く踏ふみ込んだ

カグツチにはなんの思い入れもないがだからといってあからさまな害悪を目の前に置かれ

て放ほうっておけるほど利口でもない

迎むかえ撃うつように身を広げるアラクネの胴どうを||胴らしき部分を横よこ薙なぎに切り払う

「グポポhelliphellip」

「ちぃっ」

第一章 Stratum city 階層都市75

ありとあらゆるものを侵しん食しよくしているのだ

それはこの影のような物体のまとう黒いものが全て魔素であることを意味していたそし

て魔素のか塊たまりであるこの奇怪な化け物がその容

に似合わず人の言葉らしい音を発しているの

はこれが元々人語を解する存在であったことを物語っている

つまり人間だ

タオカカが『うねうね』と呼びオリエントタウンの一部の人はアラクネと呼ぶ黒ずんだ不

定形の化け物はこうなる前人間だった

ラグナはこみ上げてきた

悪感を舌打ちに変えて吐き出した

「こいつ境界に触ふれたなhelliphellip」

ラグナが各地の統制機構支部を回り

々に破は壊かいしている支部地下の『窯かま』その窯によっ

て現世と繫つながれた異界||境界

そこは人知の及およばぬ不定形の場であり中は地表の比ではない濃のう度どの魔素が渦うず巻まいていると

いう

濃い魔素が魔獣を生んだように人もまた高濃度の魔素に触れ続ければ理性が魔素にのみ込

まれやがて境界に引きずり込まれて人でいられなくなる

臭にまみれて粘ねん液えきのような体を蠢かせ奇怪な音で語るこの黒い化け物アラクネは

そうして人でいられなくなった誰だれかのなれの果てだった

「あんなもんに手ぇ出してなにがしたかったのか知らねえがhelliphellipこの馬鹿が」

74

だ身が捻ねじれ後方へべちゃりと倒たおれる

それと同時にタオカカの体がひらりとラグナのとなりに

着地した爪を

めた大きな手をシュッ

と前に突つき出して威嚇する

それを横目にラグナは軽く笑った会って間もないこちらも奇妙な生物だが『うねう

ね』と

ってこいつと並ぶのは悪い気がしない

「何年目じゃなくてここで会ったが百年目な」

「おおんじゃあ百年分ギタギタにしてやるのネ」

「まなんでもいいか」

抜ぬけ落ちるような緊きん迫ぱく感を再び引き寄せてラグナはしっかりと剣を握にぎる

一度は黒い泥溜だまりのようになったアラクネはすぐさま波打つような動きで起き上がると

ごぼりと足元を鳴らし魔素を噴ふき散らす

「ギギギhelliphellipよこ

よこせ

れは我

らう

淵えんがい

見て

目からのが

れな

運命

らはのが

れない」

「なに言ってんのかわけわかんねぇんだよ

楽にしてやるからとっととくたばりやがれ

この生ゴミ野や郎ろう」

ついた魔素を払うように乱暴に剣を振るうとラグナは腹から雄お叫たけびをあげつつ高く得物を

振り上げ魔素に取り込まれた人ならざる者へと叩きつけた

第一章 Stratum city 階層都市77

ごぼごぼと濁にごった音をたててアラクネの体がしゆ時んじにラグナの視界から消える

下だ舌打ちしながら蹴けりつけるラグナの足の下を通ってアラクネは赤いコートの

後で

再び体を持ち上げる

「キサマキサ

くらう

人間であるならあるいは四し肢しを持つ生物であるならおよそあり得ない角度から黒い塊が

ラグナを

ね上げるように突とつ出しゆつする

咄とつ嗟さにラグナはそれを剣で受けた感かん触しよくは重くどろりとしている

さらにもたれかかるように剣の表面を伝う泥どろのような魔素から突とつ然ぜん奇き怪かいな蟲むしが飛び出して

きた見たこともないひたすらに

悪感をあおるような不可解で不ふ愉ゆ快かいな蠢くもの

「うげっ」

吐き気のような

悪感に弾はじかれるようにしてラグナの足が勝手に距きよ離りを空ける

その間に割って入るように鋭するどい爪つめが振ふり下ろされ飛び出した無数の蟲を切り裂いて叩たたき落

とした

勇ましく飛び込んできたのはタオカカだ

「うねうね

ここで会ったが何年目

タオがぎったぎたにしてやるのネ」

爪を振り下ろす動作から着地をはさまず宙で身を捻ひねるとタオカカは反対側の爪でアラクネを

切り裂く

爪はえぐるようにアラクネの顔らしき部分を捉えた陶とう器きが割れるような音をたてて黒ずん

76

双そう眸ぼうは薔

さえ霞かすむ深しん紅くで容

からうかがえ

る幼さには似合わないほどの気品と優美さをたたえ

ていた

少女の名はレイチェルアルカード

十を超えた程度のまだあどけない少女のように見えるがその実約百年を生き続ける吸きゆう

血けつ鬼きだ

千年以上前から続く吸血鬼の一族アルカード家の現当主であり薔

園を見下ろす城の主あるじで

あり

月と夜空と薔

と城を抱いだくこの常夜の空間の主でもある

ここは世界のあらゆる場所から断絶された地点でありながら世界のあらゆる地点へ繫が

る場所

空間と空間の間に漂い世界と世界の狭はざ間まに留とどまる領域

アルカード家の当主が管理する特別な住まいだった

カップを金のスプーンが横たわるソーサーへと戻もどしレイチェルは物もの憂うげに吐と息いきをく唇ちびるから漏も

らした

蔦つた模様に絡からみ合うスチールテーブルの上に飾られた薔

の切り花が微かすかに香かおる

レイチェルは昼の来ない領地での時間をこうして薔

園のテラスで多く過ごした

は好きだ美しいし香りがいいそれになにより遠き日に亡なくなった父が愛した花

だから

第二章 Spiral fate 盤上の駒79

第二章

Spira

l fate

||盤ばん上じようの駒こま

真っ赤な薔ばら

に彩いろどられた見事な庭園を青白い満月が見下ろしていた

静かな夜だった空気は凜りんと冷え夜の帳とばりが世界はここまでだと区切るように色濃く辺り一

帯を包んでいる

園の奥にはおとぎ話の中から抜け出てきたかのような美しく愛らしい城がそびえており

だ橙いだいい色いろをした明かりの揺ゆれる窓が無数の瞳ひとみのようだ

その城を赤薔

の生いけ垣がきの向こうになが

める庭園のテラスでひとりの少女が小さな丸テーブ

ルに向かい優ゆうがにティーカップを傾かたむけていた

月下にありながら眩まぶしいほどに輝かがやく長い金色の髪かみを左右でふたつに結ゆわえ大きなリボンで

飾かざられている華きやしやで小さな体には黒い豪ごうしやなドレスを纏まといそこから伸のびるやはり小さな手

は陶器のように白く滑なめらかだ

カップの中で揺れる紅茶を

めていてもどこか遠く世界の果てを見み据すえているかのような

78

「今夜も見事でしょう

お父様」

ふとわく感傷に任せて呟つぶやいてみて彼の愛した薔

の香りの紅茶を飲むそんなときのほん

の一

レイチェルの心は微かに慰なぐさめられるのだ

夜の終わらないこの城は時間の流れとは無む縁えんだ夜が永遠であるように時間もまた永遠

でありレイチェルの時間もまた永遠であった

それでも退たい屈くつはやってくる時にはこうしていつかの日を想おもいため息でもついてみねば

枯かれることのない薔

のように言葉を忘れてしまいそうだった

「失礼いたしますレイチェル様」

コツと革かわぐつの硬かたい音がテラスの煉れん瓦がタイルを叩きしわがれた声が穏おだやかに呼びかけた

レイチェルを振り向かせることなく乱れない歩調で少女の視界の端はしまでくると声の主白はく

髪はつを

で束ねた長身の老人は胸むな元もとに手をあて浅く腰こしを折る

ヴァルケンハインRヘルシングレイチェルの父クラヴィスアルカードの代からアル

カード家に仕え今はレイチェルと共に在る老しつ事じだ

微びし笑ように皺しわを刻みすきなく佇たたずむ

はレイチェルに劣おとらず品がいい

だが彼もまた人間ではなかった人であり獣けものでありどちらでもありどちらでもないおおかみ

男おとこだ

外見から想像できる重ねた歳としよりずっとたくましい肉体が質のいいバトラースーツの上からで

える

80

つぶらな瞳と口角の上がった口がやはり小さく愛らしい

黒くろ猫ねこのソファはナゴ赤いゴム毬まりはギィ共にレイチェルの使い魔だ

「姫様のお気に入りっすよねー姫様ってああいう男が好みなんすか

意外とダメな男に引ひ

っ掛かかるタイプっすね」

小さな羽を忙いそがしくパタつかせて楽しそうにギィが話すとその

らかな両りよ頰うほhellipおhellipというよ

り頭部を素す早ばやく伸びたレイチェルの手が摑つかみ左右に思い切り引っ張った

「なに

よく

こえなかったわもう一度言ってみてもらえるかしら言えるものならね」

「イデデデデひひめひゃまいひゃいいひゃいれすぅぅぅぅぅ」

「アンタってほんと口で身を滅ほろぼすタイプよねぇ」

通常の二倍に顔を広げたギィを見やってナゴが呆あきれたようにため息を送る

情けない

鳴をひとしきり

いた後にレイチェルはあっさりギィから手を離はなしたバチン

と音がして赤い頰が元の真ん丸い形状に戻る

それを横目にレイチェルはテーブルの上に生けられた赤薔

の花弁へ触ふれた

「彼がそこまで来たのならもうすぐ二一九九年も終わるのね」

「左様でございますな」

どこか歌うように呟くレイチェルへ恭しくヴァルケンハインが返す

「そして世界も」

微かな声で付け足された一言にはヴァルケンハインはなにも返さなかったレイチェルが

第二章 Spiral fate 盤上の駒83

「どうしたのヴァルケンハイン」

白い指先をティーカップの縁ふちで遊ばせレイチェルが赤い瞳を向けて問う

ヴァルケンハインは頭を下げたままう恭やうやしく答えた

「ラグナザブラッドエッジがカグツチに現れたようです」

無む駄だなく必要なだけを伝えるヴァルケンハインの言葉にレイチェルは陶器の縁をなぞる指

先を止めた

そのまま指を小さな取っ手に引っかけ中身の少なくなったカップを持ち上げて一口飲み

それをソーサーに戻してからやっとレイチェルは唇を動かした

「そうhelliphellipもうそんな時間なのね」

独り言のようなレイチェルの呟きに続いて

唐とう突とつにふたつの声がこれまでの静かで密ひそやかだった雰ふん囲い気きを不意に賑にぎやかせた

「あらぁん姫ひめ様ラグナってあの白いツンツン頭のボウヤよね」

「オイラも覚えてるっすよあの生意気なヤツっす」

先にハスキーな猫ねこなで声で言ったのはレイチェルが腰こしかけている椅い子すそのものだった一

見黒いソファに見えたそれはよく見ると

もたれの上部に三角の耳と猫の顔がありその猫の

顔が話していたのだ

続いた甲かん高だかい陽気な声はレイチェルの足元から弾はずんだゴム毬まりのようにとび上がった赤くて

丸い生き物のもの見るからにやわらかそうな体からは小さな手足と小さな羽が突き出ており

82

影の中に浮うかぶ幼児の落書きのような目玉らしき緑色の丸と不気味に裂さけた赤い口が椅

子に腰かけるレイチェルを見つけて気味悪く笑えむ

どこからどう見ても人ではなくましてや吸血鬼でも

男でもない

これは思念だ肉体を持たない意志だけの存在ある男の精神体だった

「よ〜うクソ吸血鬼今回もお供と犬っころ連れてお茶会か

ずいぶんのん

気きなもんだなぁ

オイ」

許可もなく薔

園に踏ふみ入ってきた無作法者の精神体はこもった声でいや

味みに語りかける

とたんにヴァルケンハインが険しく顔をしかめギィは情けない

鳴をあげてそれこそゴ

ム毬のような俊しゆ敏んびんさで主の黒いドレスの

後へと隠かくれた

レイチェルは冷やかに影を見据える

軽く腰を浮かせるとそれまで椅子としてそこにいたナゴが体をくねらせて

を黒い傘かさへと変

えレイチェルはそれを手に立ち上がった

唇にこそ優美な笑みを浮かべていたが少女の深紅の瞳にはただただけん

悪お感かんが塗ぬり固かためられ

ている

を見せるだけでこれほどまで人を不快な気持ちにさせるのはある意味

能ね感心する

わテルミ」

の香りのように

らかにけれど薔

の蔦のように刺とげと々げしくレイチェルは言い放つ

言葉の先にいた精神体の男テルミと呼ばれた影は風にでもあお

られたかのように体を揺らし

第二章 Spiral fate 盤上の駒85

求めていないことを理解していたからだ

代わりに

男の老

事は乱れぬ声こわ色いろで問う

「レイチェル様紅茶を新しいものにお取り換かえいたしましょうか」

「helliphellipそうねお願いしようかしら」

本当は出かける用事ができたところだったけれど今はもう少しだけここでの無益な時間を

浪ろう費ひしたい気分だっただって

(今回もいい結果は期待できそうにないものね)

独り言のような呟きを胸の内でそっとこぼしレイチェルは掠かすれ消えるような吐息をつく

がすぐにその息を

み込むように眼光を鋭くさせた

真紅の視線が見据えるのは延々と続く薔

園のほうだ

「ヴァルケンハイン招いてもいない客が来たようね」

深い緑の葉をざわめかせて風が吹ふく風を招いたのはレイチェルだ涼すずしい夜気に混じって

漂ただよってきたいやな気配をはね退のけるために

円形に整えられたテラスの隅すみのほう薔

の生け垣の前の空間が目め眩まいでも起こしたかのよう

にくらりと歪ゆがむ

そうして現れたのは影かげだった

黒い体に緑色を纏まとわりつかせたような色しき彩さいでぼんやりと漠ばく然ぜんとした人型のなにかがそこに

立っていた

84

敵てき愾がい心しん

「それで一体なんの用

今がどういうじ状よう況きようなのかわかっているのでしょう貴方あなた

だって暇ひま

ではないのではなくて」

ヴァルケンハインほどあからさまな敵意ではないものの突つき放し追い立てるような調子で

レイチェルが言う

テルミはけだるい仕草で首を傾かたむけまたケタケタと不ふめ明いり瞭ような体を揺ゆらすようにして笑った

「別にぃ〜ただそろそろ今回のエンディングも近いわけだしそろそろ一度テメェらの腑ふ抜ぬ

けた面を拝んどこうかと思ってよ」

低めた声は悦えつっぽく笑みを濁にごらせる

レイチェルはその様を無感動に淡たんた々んと赤い瞳ひとみに映した

「懲こりない男ね」

囁ささやくようにレイチェルは告げる冷えた声は空に浮かぶ欠けることのない月の光に似ている

「何度繰くり返したって結果は同じ世界は何度だって巻き戻ってあの日あの時からまた始ま

るだけよ」

ざとレイチェルと影の間を横切るように風が渡わたる薔ばら

の香りがま

う中で幽ゆう鬼きのよう

なテルミの

はあまりに不気味で不似合いだった

場ばちが

いであると思い知らせるかのように濃のう密みつな花の香りを纏う風の中でテルミは深く深

く笑みを浮かべる

第二章 Spiral fate 盤上の駒87

た笑っているのだ

「そいつぁお互たがい様じゃねぇかこっちもテメェのクソむかつく面つら見てると胸むな糞くそ悪くなって

くる」

ユウキテルミそれが影の名前だった

「ならば早々に立ち去るがいいここは貴様のようなやからが気安く踏み入っていい場所ではない

ぞ」重

々しくけれど遠えん慮りよ容よう赦しやのない敵意を込こめてヴァルケンハインが進み出たレイチェルに

対して見せていた穏やかな品の良さは影を潜ひそめ白髪の老人とは思えぬ力強く攻こう撃げき的な眼まな差ざし

で揺れる影を睨にらみ据すえる

途と端たんにテルミは面おも白しろくなさそうに口らしき赤色を歪めた

「はっテメェも相変わらずイラつくなキャンキャン吠ほえてんじゃねぇよボケ犬が殺しち

まうぞあぁ」

「面白い吠えるしか能がないのはどちらか確かめるとしようか

体のない今の貴様に一体

なにができる」

「ちっhelliphellipうぜぇジジイだテメェもあんとき殺しときゃよかったぜ」

「九十年前に反省するべきだったな」

テルミが悪態を吐つけばヴァルケンハインはそれを踏み潰つぶすような敵意を返す

そこには根深い因いん縁ねんの沼ぬまが広がっているかのようだった浮かぶのは憎ぞう悪おでもけん悪おでもなく

86

覗のぞき見えていた

「んじゃなせいぜい高みの見物でもしてろや」

吐き捨てるようにそう言うとテルミは靄もやが空気に溶とけてやがて目視できなくなるように

音もなくその場から消える

あとにはなにも残らないただレイチェルが日々当たり前に

めている真っ赤な薔

が咲さ

き誇ほこる庭園が広がるばかりだ

緩ゆるやかな風が抜ぬけて甘い薔

の香かおりが漂うまるでテルミによって生じた不快感を拭ぬぐい払はら

うように

ヴァルケンハインはそれまでの飛びかかって喉のど笛ぶえでも食い破りそうな敵意を呼吸ひとつのう

ちにしまい込みしつ

事じの顔に戻もどるすき

なく

筋を伸のばしレイチェルへと向き直った

「いかがなさいますかレイチェル様」

主人がすでに決めているであろう腹の内を促うながすように問う

レイチェルは手にしていた傘状のナゴを開いたパラソルでも扱あつかうように肩かたにかけヴァル

ケンハインを見やる

「ヴァルケンハインやっぱりお茶はまたあとでにするわ」

あんなにも単純で粗そ暴ぼうなちよ

発うはつに乗るのは癪しやくだけれどそうとわかっていて顔をそむ

けることを

弱気ゆえと受け取られてはもっと癪だなによりあの男に好き勝手を許すのは面白くない

「ナゴギィ出かけるわよ」

第二章 Spiral fate 盤上の駒89

「そうしたらまた始めるさ」

這はうような声で語る

な気配がレイチェルの誘さそう風さえ汚よごすようだった

「何度でもいいぜ

そのたびに俺はやり直すだけだ何度でも何度でもテメェがいい加減

飽あきてお城から出てこなくなっても何度でも何度でもhelliphellip何度でもなぁ」

「悪あくしゆ味みね」

「テメェが言うかよクソ吸きゆ血うけ鬼つき」

テルミがせせら笑う

深い皺を眉み間けんに刻みい憤きどおりを腹に抱かかえるヴァルケンハイン怯おびえ様子をうかがうナゴとギィ自分

の周りにいる者たちをながめてレイチェルはく唇ちびるを優美なカーブに曲げた

彼の言うことに同意するのは心底不ふ愉ゆ快かいだけれど確かに悪

味なのはレイチェルも同じだ

何度も何度もこんなやりとりを何度もここで行った

繰り返す時間の中で繰り返される会話はいわば一種の通過儀ぎ礼れいだ

これから始まる数時間めまぐるしく運命は交差して離れ剥はがれ崩くずれ乱れるその結末

をし粛ゆくし々ゆくと見届けるためのお決まりの行事

「まいいや俺はそろそろ最後の仕上げの準

しねぇといけねぇから行くわいちいち相手

すんのも面めん倒どうくせぇからテメェらはそこで茶でもしながら終わるのを待ってろよ」

言いながらテルミは一歩大きく退いた

影がぼやけて消えるように彼の

が揺らめく黒い体の向こうには薄うっすらと薔

の赤が

88

城から外へと出ていった

の残り香がが夜気に吸い込まれて消えるまで待ってヴァルケンハインはテラスのテーブ

ルに残されたティーセットをワゴンに載せて片付け始める

せめて今回はあの小さな主人の心が慰なぐさめられるようなそんななにかがあるようにと胸中で

願いながら

2199年12月30日||9時23分

カグツチの朝方普ふ段だんなら東空は陽光の白に輝かがやき地表で淀よどむ魔素の存在など忘れさせてく

れるかのように眩まぶしい

だが今日は生あい憎にく朝早くから分厚い雲が空を覆おおう曇どん天てんだった広がっているのは雨雲だ昼

前には雨が

り出すだろうと湿しめった空気が教えてくれる

第十三階層都市カグツチの外れ都市の一部として建設されたのではなくこの地に流れ着い

た難民が自発的に建設した市街のひとつ浪ろう人にん街

第二章 Spiral fate 盤上の駒91

「はぁ〜い姫様」

「了りよ解うかいっす」

傘のままナゴがしなを作りさっきまでの怯えが噓うそのように元気よくギィが飛び上がる

二匹ひきの使い魔まを従えレイチェルは宙へ手を差し出したすると煉れん瓦がタイルが敷しき詰つめられ

た足元に薔

色の魔法陣じんがほのかな光を宿して浮かび上がる

転移の魔法だ

今の世界の基き盤ばんともいえる術式の元になった太古の技術魔法けれど今はもう使える人間

はほとんどいない失われた技術だ

転移はそんな魔法の中でも特に多くの魔力と集中力を要し特別難解な制せい御ぎよを求められる魔

法だったそれゆえに人類の歴史においても使い手と呼べるほど扱いに長たけた者は数えるほ

どしかいない

転移魔法を自在に扱うレイチェルもまた自分以外にこの魔法を使いこなせている者をひと

りしか知らなかった

「カグツチまで行ってくるわヴァルケンハイン留守をお願いね」

「かしこまりましたお気をつけて行ってらっしゃいませ」

理想的な角度に腰こしを折ってヴァルケンハインは魔法陣の中から語りかける幼い容

の主あるじを

見送る

ふわりと風が

い上がり目眩を誘うほどの薔

の香りを振ふりまいてレイチェルは常夜の居

90

屈くつ強きようで大柄な体たい軀く隠すことなく晒さらされた広い

中顔に刻まれた十字の傷きず跡あとそして首に

巻かれた真っ赤な布その真っ赤な布がけい

谷こくの風に

られたなびくたびに誰だれもが彼を振り返

らずにおかない

なにも衣装の特とく徴ちようが浪人街の人の目を集めるのではない

このマフラーのように巻かれた赤く長い布は目印なのだ

迷える難民をまとめ先頭に立って浪人街を築きこうして日々浪人街を歩いては住民にト

ラブルや困りごとがないか見回るイカルガ忍にん者じやの頭領にして浪人街のヒーローシシガミバ

ングの

「おはようございますバングさん」

「バング殿どの

先日は

げたに鶏わとりの捕ほ獲かくを手伝っていただいてありがとうございます」

「バング様〜

こんにちは〜」

街のあちこちからかかる声に手を挙げて応こたえバングは朗ほがらかな笑え顔がおを返す

「うむおはようでござる

おおそうだ今日は雨が

るだろうから雨あま漏もりする家がある

なら拙せつ者しやに声をかけるでござるよすぐに飛んでいって修理を手伝うでござるからな」

通り中に響くような声で言いながらバングは前へ前へ歩む

天気はよくないがバングの心は今日も晴れやかだった仲間がいて住む場所があるこ

れがどれほど喜ばしいことか数年前までは忍として戦争の裏側を奔ほん走そうしてきたバングは日々

身をもって思い知り嚙かみ締しめていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒93

ここは五年前に終結したイカルガ内戦という戦争の敗者イカルガ連れん邦ぽうに住んでいた者たち

が造り上げた市街だった

内戦によって彼らの故郷は失われた行き場のないイカルガの民たみは世界のあちこちに散り

その中でもカグツチににげ延のびた者たちがここで身を寄せ合って暮らしている

複雑で街を築くのに適しているとはとても言えない地形だカグツチのある高山の下方に

位置しながら辺りは岩だらけで亀き裂れつや絶ぜつ壁ぺきが目立つ

それでもイカルガの難民たちは岩場に足場を組み亀裂に橋をかけ絶壁に階段を作り半

分宙に浮ういているかのような入り組んだ街を作り上げた

小さな街だありあわせの材料を組み合わせてできた粗そ末まつな街だがそれにしては整えられ

たイカルガじ情よう緒ちよ漂ただよう街並みにhelliphellip朗々と男の声が今日も響ひびき渡っていた

「おお皆みなの衆

今日も元気に平和に過ごしておるな

うむうむよきかなよきかながっ

はっはっはっは」

太く伸びやかな声の主はシシガミバング

浪人街の中心である一番開けた通りのど真ん中を歩きながら道行くすべての人に威いせいよく

挨あい拶さつして回っている大おお柄がらな筋肉質の男がそうだ

ぼさついた黒くろ髪かみは高くまとめ深い緑色の独特な装しよ束うぞくを身に着けている着ているのはイカ

ルガ伝統の忍しのびの服だ本来は闇やみに紛まぎれ隠おん密みつにことを済ますのが忍の

だがこのシシガミバ

ングという男はまるで逆にとにかく人の目を引いた

92

カグツチの

士であるならばこんな下層まで

りてくることなどそうそうないし別の支部

士ならばもっと上層からカグツチに入るはず

この街に統制機構の制服はあまりにも不自然だった

金髪の青年はなにも答えず冷ややかな緑の瞳ひとみでバングを

めていたがやがて色の薄うすい唇を

開きぼそりと低く呟つぶやいた

「その服helliphellipイカルガの忍か」

およそ好意的でない声

人によってはその内にさげすみ

やあざけり

いただろうだがバングはそのひどく温度の低い声こわ色いろ

を警けい戒かいゆえと受け取った

身構えるように低くさせていた体を起こしバングは慌あわてて制止するように広げた手を突つき

出だす

「ああいや誤解めされるななにも一戦交えようというわけではござらんぞ確かにここは

イカルガの民が住まう街で拙者はイカルガの忍であった男だが五年前にイカルガ内戦は終

わっておるのだ」

バングは太い腕うでをがっしりと組むと神しん妙みような

顔つきで何度か頷うなずくようにしながら先を続けた

「確かに終戦のきっかけは戦いくさではなく我等の首都イブキドの爆ばく発はつ事故であった」

イカルガ内戦は世界虚空情報統制機構に対し第五階層都市イブキドを首都と掲かかげるイカル

ガ連邦が独立を宣言して始まった内戦だ統制機構は武力でもってそれを制圧しようとしイ

第二章 Spiral fate 盤上の駒95

平和はいい平和の中にこそ愛はあるのだ

「うん」

ふと前を行く

を目に留めてバングがいぶかしげに声を唸うならせた

見慣れない男が歩いている浪人街の住民ではないバングはこの街に住むイカルガの民の

顔と

格好をすべて覚えていた

短い金きん髪ぱつの細身の男だ歩き方からしてまだ若い

なにより気にかかるのはその男が着ている服だ青と白によって構成されたその服はおそ

らく世界虚こ空くう情報統制機構の制服だろう

「そこのお主

待たれい」

叫さけぶように声をかけながらバングは高くとんだ空を駆かけるような長いちよ躍うやくは前を行く金

髪の青年の頭上を越こえて彼の正面へと着地する

行く手を塞ふさがれる形となった見慣れぬ男は足を止めバングの唐とう突とつな登場に戸と惑まどったように

眉まゆを寄せていた

やはり若い男まだ少年の面おも影かげも残した青年だ着ているものも統制機構の制服に間まちがいな

く手には青い鞘さやに

めた刀を一ひと振ふり摑つかんでいる

バングはますます募つのる怪けげんに青年よりも深く眉間に皺しわを刻んだ

「お主我等が街になんの目的で参られた

その服装統制機構の

士であろう」

カグツチの

士だろうかバングは彼に見覚えがない

94

金髪の青年はなにも言わず静かにバングを見み据すえている

なにを考えているのかどこかぼうっとしたようにも見える無表情からは思考どころか感情

さえ読み取れない

話を

いているのだろうかバングは不安に思いながら改めてさっきの質問を繰くり返す

「してお主は一体何者で浪人街になんの用でござるか」

「helliphellip用などない」

ようやく青年がバングの問いにまともに答えた

まともというにはあまりに素っ気なく突き放した物言いだったが返ってきた言葉が思いの

外ほか穏おん便びんでバングは軽く安あん堵どを抱いだく

イカルガの残党狩がりだなどと言われてその手の刀を抜ぬき放たれたら多くの住民が行き交かう

街の中心で大立ち回りを演じなければならなくなるそうなればいくつかの家は巻き添ぞえをく

っただろうし何人かは怪け我がをしたかもしれなかった

青年は変わらず冷たい無表情のままでバングの向こうにそびえる山へ目を向けたこの上

にいくつもの市街が建設され頂上には世界虚空情報統制機構のカグツチ支部が建っている

「貴様たちのことなどに興味もない僕は上へ行きたいだけだ」

「上

というと統制機構の支部でござるか」

「じや

魔まだそこをどけhelliphellipああいや」

冷れい徹てつに言い放ってから青年は思い直したようにけれどそれでも冷ややかに声を低めた

第二章 Spiral fate 盤上の駒97

カルガ連邦も武力でもって抵てい抗こうした

それが四年続いたある日のことだ

イカルガ連邦首都であり指揮系統の中心であった第五階層都市イブキドの地下で突とつ然ぜん原因

不明の大爆発が起こりイブキドは跡あと形かたもなく消しよ滅うめつした

爆発はイカルガ連邦はもちろん交戦の真っ最中であった世界虚空情報統制機構側にも大き

く戦力を損そこなわせる痛手を負わせた戦争を続けるだけの力をイカルガ連邦と統制機構が爆

発事故をきっかけに同時に失ったのだ

結局イカルガ連邦はバラバラとなり最終的には組織としての形を失ったけれど統制機構も

己おのれを立て直すのに手て一いつ杯ぱいで追つい撃げきどころではなく内戦はしぼんで消え入るようにいつの間に

か終わったのだった

「それでも我等は負けたのだその現実を認めずに今ある平和を投げうってまで統制機構に

楯たて突つくつもりはござらんよ」

そう言うとバングは眉み間けんを中心に走る十字傷に分厚い手で触ふれ苦々しくも笑みを浮かべ

たこ

の傷はその爆発事故のときに負ったものだ内戦を終わらせたあの事故が自分にとって幸

であったのか不幸であったのかバングには未いまだわかりかねる

ただイカルガの民はもうじ充ゆう分ぶん戦ったこれからはたとえ楽な生活でなくとも平和に過ご

してほしいとバングは思っている

96

れるだとかそんな幽ゆう霊れい話じみた現象が起こるはずもない

勝手なイメージでそう結論づけるとバングは気を取り直してそのたくまし

い胸むな板いたを張った

まだ浪人街の見回りは途とち中ゆうだ曇天の色はますます濃こくなってきている雨が

り出す前に

修理の必要な家がないかどうか確かく認にんしておかなければならない

「いやぁまったく最近の若者は覇は気きが足らんでござるなぁ

陰いん気きな顔をしていないでも

っと威い風ふう堂どうど々うと力強くそして

くあらねばそうこの愛と正義の忍者シシガミバング

のように」

辺り一帯に響く盛せい大だいな声で笑うとバングは街の見回りを再開させた

これが終わって部下のけい

古こが終わってそれでも時間があったなら憧あこがれの女性が住むオリ

エントタウンまで足を延ばして挨拶に行こうとそう心の中で計画をたてていた

今日も浪ろう人にん街は平和だ

それがなにより素す晴ばらしい

2199年12月30日||18時21分

第二章 Spiral fate 盤上の駒99

「ついでだ貴様カグツチで白い髪かみに赤いコートを着た男を見なかったか」

そう尋たずねる青年の表情はまるで凍こおりついたかのように無表情から動こうとしないだという

のに緑の瞳だけは妙みように楽しげに煌きらめいていたようにバングには見えた

バングは顎あごに手をやり考えこむ

「白い髪に赤いコートhelliphellipふぅむいやこの辺りでは見かけてござらんそれほど目立つ容

ならば一度目にすれば覚えようがhelliphellip」

「そうかならいい」

しゆ時んじにバングからあらゆる興味を失ったように青年は滑すべるような歩みで横を通り抜ける

すれちがう風はいやに冷たいまるで氷でも掠かすめたかのようだ

「ああお主

拙者はシシガミバングと申すお主の名はなんと申す

すたすたと足早に山へ向かう細身の後ろ

へバングは追いかけるように声をかけた

だが青年は振ふり向かないまるでバングの声など耳に入っていないかのような頑かたくなな

中で

なにかに突き動かされるような足取りで歩き去りそのうちに浪人街の外れへと

を消してし

まった

バングは引き止めるように宙へ伸のばした腕もそのままに難しく顔を歪ゆがめて首を捻ひねった

「はてhelliphellip奇きみ妙ような男でござったななんというかこうた魂ましいが抜けているようというかhelliphellipなに

かに取り憑つかれでもしているかのようであったわ」

もっとも今は日もこれから高くなろうという真昼間魂が抜けるだとかなにかに取り憑か

98

形よく張り出した豊かな胸に引き締まった腰こしそこから滑なめらかに続く肉感的な臀でん部ぶと華きやしや

な足首に向かって続く絵に描かいたような曲線

同性の憧れと異性の動どう揺ようを誘さそわずにおれない肢し体たいのシルエットだけでも彼女は道行く人の

視線を釘くぎ付づけにする

そんな麗うるわしき女医ライチがこの街にやってきたのは約一年前のことだ

突然現れ住まいと仕事を求めたライチをこの辺りの住人は快く受け入れた

彼女は自分がどこから来たのかどんな生おい立ちなのかなぜオリエントタウンへひとりで

やってきたのか名前以外のことはなにも話そうとはしなかった

素すじ性ようの知れない女など怪あやしまれて当然だろうけれどライチが出会ったオリエントタウンの

住人は皆みんな彼女が口を閉とざすと深くは追つい及きゆうしようとはしなかった

そのことをライチは一年たった今でも来たばかりのころと変わらず感謝している

こうして日々病院のとびらを

開けなるべく気軽に安価で治ちり療ようが受けられるよう心がけているの

も生活のためというより拒きよ絶ぜつや敬遠ではなく寛かん大だいさと優やさしさをもって自分を迎むかえてくれた

オリエントタウンへの恩返しの意味が強い

「さてと」

少年の

が曲がり角の向こうに消えるとライチは細い肩かたをすとんと落として息をついた

オリエントタウンはすでに夜の闇やみに包まれていてあちこちにぶら下げられた小さな提ちよ灯うちんや

ランプが家々を照らしていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒101

オリエントタウンは第十三階層都市カグツチの下層にこそあれど広く活気にあふれた賑にぎやか

な街だ

限りある土地を時に譲ゆずり合い時に共有して身を寄せ合うように家を建て並べ今にも壁かべが

触れそうなほど密接したりん家かとは家族のように付き合える

誰だれも彼も決して裕ゆう福ふくではないけれど薄うす暗ぐらい路地に不ふ穏おんな影かげが横切ることもあるけれどそ

れでもこの街は温かい

ここオリエントタウンの一角で小さな病院を開いている医者ライチフェイリンは常々

そう感じていた

「痛みが引くまで無理は禁物よいいわね」

階段から落ちて捻ねん挫ざしたという少年を病院の入り口まで見送ってライチは頭を下げる小さ

な彼に笑顔で手を振る

ライチは美しい女性だった

足元まで伸ばした艶つややかな黒くろ髪かみを高く結ゆわえてくるりと巻き大きなアップヘアにまとめて

いる化けし粧ようで飾かざらずとも美しいラインを描えがく眉に伏ふせれば影ができるほどに長い睫まつ毛げ黒い

縁ふちの眼鏡ごしに見える瞳は大きく知的な光を宿しているけれどややつり上がった目元はどこ

か媚び態たいを想像させる色いろ香かを匂わす

美び麗れいなのはなにも容よう貌ぼうだけではない

100

こんなにも温かく名を呼ぶのはひとりだけだhelliphellip今は

両手で二の腕をさすりながら振り返りライチは少し驚おどろいたように目を丸くさせる

そこにいたのはやはり予想通りの人物だったけれど彼の腕には予想とは

うものが抱だき

かかえられていた

声の主の大きな体が建物の色いろ濃こい影の中から出てくるライチとて

の低いほうではないけ

れど彼の

は見上げるほどだ

通常の人間ならありえないほど屈くつ強きような体に赤い肌はだ第七機

の赤あか鬼おにと呼ばれるサイボーグ

の男だった

「テイガーhelliphellip」

ライチが小さな声で名を呼び返すうちにテイガーは周囲に人ひと気けがないことを素早く確認す

ると近くまでやってくる

彼の腕うでにはひとりの少女の

があった気を失っているのかぐったりと力なく体を預け

ている長くやわらかなカメリアレッドの髪に華

な体そして青と白の世界で一番有名な制

服helliphellip統制機構の制服

「テイガーこれはどういうこと

どうしてhelliphellip」

どうして統制機構の

士を抱かかえてこんなところにいるのかそう問おうとしたライチの疑問

をさえぎっ

てテイガーは抱えていた少女の体を託たくすように差し出した

「すまんがこの少女を頼たのめないだろうか訳あって気絶させてしまったのだが放ほうり出すわ

第二章 Spiral fate 盤上の駒103

遠くには雨音が

こえる昼過ぎに

り出してから今までもずっと続いていたのだろう空

を上層に閉とざされたこの辺りもすっかり空気が湿しめっていてずいぶんと冷え込んでいた

ゆったりとした白いブラウスとその上に着込んだロング丈たけの真っ赤なチャイナドレスという

服装はライチのみ惑わく的なボディラインをくっきりと描き出すには適しているけれど寒空の

下に立つにはあまり向いているとはいえない

不意に抜けた冷たい風にぶるりと身み震ぶるいしてライチは豊満な胸元を合わせるように己おのれを抱

いたまとめ上げた髪にしがみつくようにくっついている小さなパンダの髪かみ飾かざりも心なしか寒

そうだ

今夜はきっと冷えるだろうとはいえかつて黒き獣けものが現れ魔ま素そが世界に広がるまでは十二

月といえばもっと寒くこんな薄うす手での服装ではとても外を歩けなかったそうだから当時を思

えば涼すずしい程度の気温なのかもしれない

昔はこの時期この辺りでも雪が

ったらしい魔素が狂くるわせ失わせた冬らしい季節という

ものを少々勿もつ体たい無く思いながらライチは病院へ戻もどるべく踵きびすを返した

だがただでさえ長い脚あしをさらにすらりと見せる踵の尖とがったくつが屋内に踏ふみ入る前に

後か

ら唐とう突とつに声がかかった

「ライチ」

落ち着きのある低い男の声だ

それが誰なのかライチは呼びかける一言でわかった自分のことを呼び捨てる者の中で

102

「お前になら構わんか実はhelliphellip」

『とう

亡ぼうしたサンプルの回

だ』

突とつ然ぜん第三の声が割って入った

「ココノエ

周囲に配はい慮りよしてか声は抑おさえたもののテイガーが驚きにうろたえる

ライチの表情に糸を張るような緊きん張ちようが走った

第三の声はテイガーの耳元から

こえてきたそこには小さな通信機が取り付けられている

その向こうにいるのが声の主でありテイガーの上司にして製作者でありhelliphellip一年前までは

ライチの上司でもあった人物ココノエだった

『なにを驚いている回線に入り込む程度なんでもないわかったら勝手に通信を切るんじ

ゃないいいなテイガー』

テイガーへ向けてだけでなくその周囲にも

こえるよう操作された音声が感情の波を抑え

た低い女声で語る他者の意見をは

ねのけるような語調と声色には有う無むを言わさぬ威い圧あつ感と

神経質さが現れていた

ライチも一年前まではよくこの声にしつ

咤たされたものだ懐なつかしさと一いつ緒しよに苦い思いがこみ

上げてきてライチは声から目をそむ

けるようにテイガーから視線を外す

「ココノエ博士helliphellip」

『久しぶりだなライチお前こそこんなところでなにをしている』

第二章 Spiral fate 盤上の駒105

けにも統制機構に連れん絡らくするわけにもいかなくてな」

ひどく困った様子で懇こん願がんしてくる

そんな顔でそんなことを言われては断ろうにも断れない自分の性格をわかっているくせに

と思いつつもライチはテイガーの腕の中の少女を覗のぞきこんだ

は正常だ外傷は特になく呼吸も安定しているただ単純に強い衝しよ撃うげきで意識がなくなり

そのまま眠ねむり込んでいる状態だろう

「つまり彼女の意識がないのは貴方あなたの仕し業わざってことね」

ちらりと眼鏡のすき間まからテイガーの赤い顔を見上げてライチはほんの少しの小言めいた響ひび

きを込こめて言った

テイガーとこの少女の間にちょっとした荒あら事ごとがあったことは想像に難かたくない

統制機構と第七機

係についてはよく知っているなにせライチはオリエントタウンへ

来る前テイガーと同じ

場で同じ上司の下で働いていたのだから

「helliphellipどうして貴方がカグツチにいるの」

少女の身み柄がらは引き取るそう物もの腰ごしで伝えながらもライチは堅かたい声こわ色いろで尋ねた

テイガーが所属している第七機

はカグツチから離はなれた場所に研究所を構えているカグツ

チへふらりと私用で来るような距きよ離りではない

テイガーは困こん惑わくしたように言葉に迷ったが難しそうな顔をしながらも上向きのきばが覗く

口を動かした

104

「まだわかりません」

ねのけるようにライチは大きく首を振ふった

そこにはオリエントタウンの住人が知る優しく穏おだやかで時々厳しいそんな女医の

はなか

ったあるのはなにかを必死で守ろうとする弱々しい少女のような顔だ大切な宝物を取り上

げられまいと首を振るようなそんな

ライチは厳しく引き締しめた顔でテイガーをその耳元にある通信機を見つめる

「なぜ博士はそう簡単に割り切れるんですか

すべての手を尽つくしたわけではないのにあ

の人はただ少し間まちが

えてしまっただけです少し急ぎすぎただけでそれに彼は貴女あなた

のhelliphellip弟で

子しだった人じゃないですか」

ライチの声は情感に揺ゆれていた震ふるえているといってもいい

解げせない飲み込めない受け入れたくないそんな拒絶が声だけでなく

しげに眉まゆを寄

せた表情にも浮うかんでいる

もう一度通信機からココノエのため息が

こえた今度は呆れているというより苛いら立だっ

たような吐と息いきだった彼女が頭をかきむしる仕草が見えるようだ

「すみません博士helliphellipでも私はhelliphellip諦められません」

ライチはきつく胸の前で手を握にぎり締める

だけど本当はわかっているライチは医者であり一年前までは研究者だっただから自分

でもいや

になるほど冷静で理性的な部分はもうとっくに理解していた

第二章 Spiral fate 盤上の駒107

どんな顔をしていたらいいかわからないライチは寒さではなく別のものから己を守るよう

に身を抱く手に力を込める

知性と理性で研といだココノエの鋭するどく射い貫ぬくような眼まな差ざしが通信越ごしにこちらを見み据すえてい

るのがわかった

「そんなのhelliphellip博士ならもうおわかりでしょう」

なぜライチがカグツチにいるのかもなぜカグツチの中でも下層のオリエントタウンを住ま

いに選んだのかもなぜ第七機

を出たのかも全部全部彼女はお見通しのはずだ今いま更さら説

明しなければならないことなどなにもないのだ

『まだあいつのことを諦あきらめきれんのか』

ほらとライチは思う答えずともココノエはわかっている知っているライチがなにを

考えてここにいるのかを

だからだろうか通信機越しに

こえるかつての師の声はまるで咎とがめ責めているように

こえた

「諦めるだなんてどうしてそんなことができますか」

胸の内から絞しぼり出すようにしてライチは答える

通信機からノイズが漏もれたココノエのため息だろう呆あきれ果てたといったような音だ

『もう一度言うあいつを助けようなどと無む駄だなことを考えるのは止よせあいつはもうどうに

もならんお前の力では助けられない』

106

ライチは顔を上げられなかった愚おろかだと思うのは自分も同じだ反論はない

重苦しい沈ちん黙もくが数秒流れたときだったパタパタと軽やかな足音がライチのいる病院の入り

口へと駆かけてきた

「ただいまhelliphellipってうわデカっ

やってきたのは小こ柄がらな少女だったかつ

色しよくの肌はだに黒くろ髪かみをアップにまとめており動きやすそう

な服を身に着けている

少年とも見まごう細い腕うでと胸には紙かみ袋ぶくろに入った日用品を抱かかえていたが近づいて改めて見上

げたテイガーの巨きよ体たいに思わず驚おどろいてぐしゃりと抱だき潰つぶす

「リンファhelliphellip

おおかえりなさい」

いささか慌あわててライチは向き直った

彼女はリンファライチの病院で助手として手伝いをしている医者志望の少女だ

リンファは大きな黒目をさらに大きく見開いて遠目で見るよりずっと大迫はく力りよくなテイガーを

ぽかんと見上げていた

「たただいま先生えっとhelliphellipこの人誰だれ

お客さん」

「ああそのhelliphellip」

ライチは言葉を濁にごして迷った

リンファは公私ともに支えてくれる頼たのもしい助手だがライチは彼女に自分の過去を教えて

いないし教えるつもりもなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒109

自分にできることなどなにもないのだと

||一年前ライチがココノエやテイガーと共に過ごし研究に励はげんでいた第七機

を飛び出

したのはある人を助けるためだった

その人は魔素とそれを世界にもたらしたとされる境界について研究していた

けれどあるとき彼はおかしくなってしまった常に錯さく乱らんしたようになってやがて人前に

を見せなくなり最終的には人でなくなってしまった

魔素に触ふれ続け境界に近づきすぎたがゆえの結果だった自分と境界の境目がわからなく

なってあるべき形を失った

消化してしまったものを元の食品の形に戻せないように境界に取り込まれて同化したもの

を元の

になど戻せはしない

彼を追ってここカグツチのオリエントタウンまで来てもこの街に留とどまり続けても彼の

噂うわさを耳にしては飛び出し黒く蠢うごめく影かげを探しても魔素や人ならざる種族について研究を重ね

ても彼と同じように境界に手を伸のばしても

なにも変えられない

ライチが探している『あの人』はオリエントタウンから入ることができるカグツチ下層の

下水道をねぐらとして日々ただ本能の赴おもむくままにさまよい続けている

『どいつもこいつも私の弟子は馬ば鹿かばかりだhelliphellip』

ココノエが吐はき捨てるように言う

108

意識のない女

士が身に着けている青と白の制服は苦しい生活や貧しい環かん境きようをもたらした

元げん凶きようをし象よう徴ちようしているようなものだ

その気持ちをわかりながらもライチは

めるように言う

「誰であろうと患かん者じやは患者よリンファベッドの用意をしておいて」

「helliphellipはいライチ先生」

リンファとてライチの言い分はわかっている

もう一度きつく腕の中の紙袋を抱だきしめるとリンファは渋しぶし々ぶ頷うなずきそれでも足早に病院の

奥へと駆けていった

それを横目に見送りながらライチはぐったりとした少女の腕を肩かたに担ぐようにして濡ぬれ

た体を支える

最後にと見上げた知的な瞳ひとみにテイガーは告げた

「ライチこれだけは伝えておきたいココノエはお前が機

に戻もどることを望んでいるお前

にその意思があるならいつでも手を貸すつもりだ」

それこそがわざわざ通信回路をねじ込んでまで口をはさ

んできたココノエが言いたかったこ

とだろうとテイガーは解かい釈しやくしている

あの気難しく神経質な声で話す上司は人に情じよ緒うちよめいたことを伝えるのがとても苦手だ誰よ

りも側でココノエの仕事を手伝ってきたテイガーはそのことを身にしみて実感している

ライチは驚いたような顔を見せそれから頰ほおを緩ゆるめるように力を抜ぬくと

しげに首を横に振ふ

第二章 Spiral fate 盤上の駒111

間まちがってもテイガーやココノエとの会話を

かれるわけにはいかないのだライチは素早く

助けを求めるような視線をテイガーに向ける

だがそのときにはもうすでにテイガーは通信をオフにしていたライチがなにをきらうのか

は見かけによらず理性的な巨きよ漢かんは十分理解している

ただしその代わりにとばかりに抱えていた意識のない少女をライチの腕の中に押し付ける

ように託たくした

「私は任務があるもう行かなければとにかくこの娘むすめを頼む」

テイガーがここを訪れたのはなにもココノエの心情を伝えるためでも上司とライチを口論

させるためでもなくこの赤い髪かみの少女の身の安全のためだ

「わかったわ預かる」

このじ状よう況きようで拒きよ否ひするわけにもいかないライチは素直に少女の身み柄がらを引き受けた

力なくもたれかかる少女の体は決して軽くはないが支えながら引きずってベッドへ運ぶく

らいはできる医者や研究者に相応ふさわしくない程度にはライチは力には自信があった

ライチが受け取った人物の

を見てリンファが不ふ愉ゆ快かいそうに眉まゆを寄せた

「この人図書館の

士じゃんなんでhelliphellip」

なんで

士なんかを預かるのかのみ込まれたリンファの言葉はそう続くはずだった

リンファはオリエントタウンの生まれだ下層の住人の大半がそうであるように彼女もま

た高圧的な統制機構の施し政せいに大いに不満を抱いて生活している

110

雨の中運ばれてきたせいで少女の体はすっかり冷えていた

リンファが整えてくれたベッドまで運ぶと清潔なシーツの上に横たえ

士の制服である青

い帽ぼう子しとブーツを脱ぬがせる指先まですっかり力を失った手を取り手てぶ袋くろと硬かたい金具のついた

袖そでを外した

となりの部屋でリンファが買ってきた日用品の片づけをしている物音を

きながら上等とは言

えない毛布と布団を眠ねむる少女の体にそっとかけてやる

「helliphellip今夜はこれじゃ少し寒いかもしれないわね」

青と白の帽子や袖をたな

へしまいながらライチは声に出して呟つぶやいた

そのしゆ

間んかん目に見えない糸が切れたような不思議な感覚がライチの

筋を掠かすめていったの

だけれど

ライチはそれを冷えてきたがゆえの悪寒だと思って新しい患者にかけてやる毛布を取りに

行くため部屋を出た

この

間ライチの大切なものがひとつ喪うしなわれたと彼女が知ることはなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒113

った

「helliphellip私は戻れないわあの人のことが片付かない限りは」

戻ればきっと後こう悔かいするお門かどちがいにもココノエを恨うらむかもしれない

「そしてもし片が付いて私があそこに戻ろうとしてもそのときは今度は博士が私を受け入れ

ない」

もしあの人を戻せるとしたらその方法が容易たやすくそして人道に則のつとったものであるはずがな

い触ふれてはならないものに触れなければならないだろう見てはならないものを見なければ

ならないだろう知ってはいけないものを知らなければならないだろう

そうなったときココノエが自分をどんな目で見るかライチはあまり想像したくはなか

った

難しそうに唸うなりテイガーが小さく顎あごを引く歪ゆがんだ口元は苦々しい

「そうか難しいことは私にはわからんが」

いつまでも話してばかりはいられないテイガーは広く赤い

中をライチへ向けた

「今はこれで失礼するhelliphellip達者でな」

それだけ告げるとテイガーは後うしろ髪がみを引かれる様子もなく来た道を引き返していった暗

い影かげの中に入るとやがて大きな

中はオリエントタウンの路地裏に消える

ライチもまた立ち去る

を向けて預かった

士の少女を病院の中へと運び込んだ

後ろ手にとびらを閉めればそこはもう慣れ親しんだ小さな自分の病院だ

112

まったくうんざりするこれからこんな風雨の下でひとりで作業しなければならないな

んて

「helliphellipっていつまでもぐちぐち言っていてもしょうがないですか」

自分で自分を哀あわれみながらハザマはスーツの内ポケットから小さな通信機を取り出した

耳に当ててしばらく待つ

とうに日は落ちて辺りは暗くこの分厚い雨雲で月明かりが望めるわけもないハザマの後

方で灯ともる屋上入り口の白々しい明かりがスポットライトのように円形の濡れた屋上を寒々し

く照らしていた

『||私だ』

通信機の向こうから声が応こたえた

男の声だ低く感情らしい響ひびきは一いつ切さいない

ハザマはズボンのポケットに手を突つっ込こむと心持ち

筋を伸ばした

「お疲つかれ様ですハザマですとりあえず現場に到とう着ちやくしましたよ雨ざらしですけど」

『そうかでは始めろ』

「あらら冷たいですねぇねぎらいの言葉もなしですか技術大たい佐さ」

帽子のつばなどまるで意味がない濡れて額にはりつく前まえ髪がみを指先でのけながらハザマは口

角を引いて苦くし笑ようする

もっとも通信機の向こうにいる男にねぎらいの言葉などかけられたらそれはそれで気味

第二章 Spiral fate 盤上の駒115

2199年12月30日||18時21分

雨はまだ

り続いていた

曇どん天てんはますます色いろ濃こくついには強い風まで吹ふき始める

夜ともなれば空気は冷えるただでさえここは高い場所でhelliphellipそう地上から数えればとん

でもなく高い場所でそのうえ風雨をさえぎるものがないというのに

「あーあhelliphellipもう最悪ですね」

世界虚こ空くう情報統制機構カグツチ支部の屋上つまり第十三階層都市カグツチにおいて最も高

い場所に立つハザマは

り止む気配のない雨空を見上げて心底辟へき易えきしていた

制服ではない自前の黒いスーツも雨除よけにはならない帽子も上がってきて数秒でびしょ濡ぬ

れだ

少し待てば雨足も弱まるのではないかと思って無益に潰つぶした時間は一体なんだったのだろ

うか

「これが上官命令でもあの人の言いつけでもなかったら体調不良でも持ちだして即そつ刻こく本部に

帰るところですよ」

114

歩きながらもハザマは笑っていた両手をポケットに突っ込んでいるせいで細い肩が少しだ

け持ち上がって喉のどを鳴らすたびに小刻みに揺ゆれる

誰もいない鳥さえ近づかないカグツチの頂でハザマはどこか摑つかみどころなくにゆ

和うわに笑い

かけた

彼にだけわかる人物へまるでなだめすかすように

「そう急せかさないでくださいよ焦あせらなくてもいずれ取り戻せますって」

||ねえテルミさん

第二章 Spiral fate 盤上の駒117

が悪くてとても仕事どころではないのだけれど

『あまり時間がないさっさとしろ』

「はいはいまったく貴方あなたもあの人も人使いが荒あらいんですから」

ではまた後ほどそう言葉を足して通信を終えるとハザマは手の中に握にぎり込めるくらい

小さな通信機を玩がん具ぐでも扱あつかうように宙へ放ほうり投げキャッチした

雨が冷たい

ハザマは目ま深ぶかにかぶっていた黒の帽子をほんの少しだけ持ち上げた

濡れた髪の向こうから金色の瞳ひとみが覗のぞいていた照明の中でちらつく無数の雨あま粒つぶを鋭えい利りな狡こう猾かつ

さで見み据すえる一いつ緒しよにその向こうで静かに濡れるがらんと空くう虚きよななにもない屋上の空間を

軽く肩をすくめるようにしてハザマが笑えみの息を漏もらしたまるで誰かになにごとか語り

かけられたかのように

「わかっていますよ私だってさっさと片付けたいですからね」

さあさあと雨の音が途切れることなく続いている

そこにハザマ以外の誰かの声はなくもちろんハザマ以外の

はない

暗い夜の屋上は雨あま霧ぎりの中でなにひとつ文句も言えず濡れるばかりでハザマに何事か語りか

けるはずもない

ハザマは通信機をしまうとちょいと帽子を直し屋上の中央に向かって足を踏ふみ出した硬

い革かわぐつが濡れた床ゆかを叩たたいて微かすかな水音を弾はずませる

116

Page 3: t1501 ブレイブルー1 面付BLAZBLUE―ブレイブルー―1 カラミティトリガー 上> 原案・監修 ‥ 森利道(アークシステムワークス) 著‥駒尾真子

プロローグ

人ひと里ざと離はなれた森の近くに一いつ軒けんの教会が建っていた

白い壁かべに緑色の屋根の建物で近くには大きな木が寄り添そうように佇たたずんでいる

周囲はなだらかな平地だ

の低い緑の草が大地を埋うめて生おい茂しげりあちこちで白や黄色の

花がやわらかな風に揺ゆれるその中を一本の小道が緩ゆるやかにもっとも近いhelliphellipといってもお世

辞にも近所とは言えない村への道のりを描えがいていた

そこはかつて大規模な戦争が行われた場所だった人類の存続をかけた巨きよ大だいな魔ま物ものとの

戦い||暗黒大戦世界中の人類が立ち向かった戦争の終結の地がここだ

絶望と向かい合った決戦からもう七十年以上たつ

今では大

が命を落とし血を流した場とは思えない豊かな自然に恵めぐまれた穏おだやかな景色が

広がっていた

その景色の中緑と土の匂においをたっぷり含ふくんだ心ここ地ちいい風を浴びながらひとりの女性が玄げん

かん前を箒ほうきで掃はいていた

踝くるぶしあたりまである白と黒の服は古めかしいデザインの修道服で頭にも揃そろいの頭ず巾きんをかぶっ

プロローグ5

製のベリージャムが昨日でなくなってしまっていたのを思い出した明日はお願いしている食

料品の配達が来るから残っている小麦でパンを焼こうと思っていたのに

「今からじゃ駄だ目めよねぇhelliphellip日が暮れてしまうもの」

教会の後ろに広がる森をながめてシスターは残念そうにため息をついた

何十年も出入りしている森はもう庭のような気軽さで歩き回れるもし足あし腰こしが十代のころ

のような丈じよ夫うぶさであったなら今からでも遅おそくはないだろうがさすがに体がそれを許してはく

れないだろう

もっとも十代のころはしょっちゅう道を見失ってジャム用に採ってきた果物を食べなが

ら何時間も森の中をさまよい歩いていたのだが

「忘れっぽくていやねふふっ私ももう立

なおばあちゃんだわ」

仕方がないからジャムは明日にしようそう思って箒に手を添える

だがそのときふとシスターは空気のにおいが変わったことに気づいて顔を上げた

血のにおいがするそう思った

のしゆ間んかん彼女は森からなにかが飛び出してくる物音を

た草

を踏むふたつの音は二足の動物のものいや動物というよりこれは人の足音だった

シスターは箒を

の脇わきに立てかけると長い修道服の裾すそを持ち上げて教会の裏手へ駆かけ出す

すぐに見つけた小さな人ひと影かげがふたつこちらに向かって歩いてきている

そのうちの先頭を行く

を目に留めた途と端たんシスターは思わず足を止めた両手で口を覆っ

プロローグ7

ている彼女はこの教会に暮らすシスターだもう何十年もたったひとりでこの土地に住ん

でいる

なにもない場所だ教会と共に集落があったわけでもなければここまではるばる救いを求

めて人が来るわけでもない

戦争が終わったあとどこからともなくやってきてここに教会を建て以来ずっとこの土地

を守るかのようにひとりひっそり暮らしている

彼女のかぶる頭巾の内側からは微かすかに茶交じりの白しら髪がが覗のぞいていた体はほっそりとやせ

気味で箒を操あやつる手もまた細く皺しわに覆おおわれている穏やかな午後の陽光に自然と優やさしい微笑ほほえ

みを浮うかべた顔も深い皺がいくつもあってもう若い娘むすめの張りからは程ほど遠とおい

それでも彼女は濡ぬれた大地の色を思わせる深い茶色の瞳ひとみを持つ彼女は若かりしころの面おも

影かげを失わず快活な生命力にあふれていた

齢よわいはもう百近いはずだと噂うわさされているけれどどうしてかそれにしてはあまりに若く見え

る容

と身のこなしだ

とびらのすぐ近くでぼんやりしている小さな虫を見つけて間まちがって踏ふんではいけないとしゃが

み込んで摘つまみ上げひょいと草地へ放ほうる動作もとても百近い老女とは思えない軽さだ

「あいけないいいお天気だったら森でなにか果くだ物もの採ってこようと思ってたのにすっかり

忘れてたわhelliphellip」

再び掃き掃そう除じを再開しようとして歳としを重ねたシスターははたと気づき頰ほおに手をあてる手

6

「久しぶりだなシスター」

猫の口を歪ゆがませて負傷した獣人獣兵

は皮肉っぽく笑った

シスターはその場に膝ひざをついて目線を義兄と合わせた近づくとなお一層不穏な臭いが濃こく

感じられて悪お寒かんが

筋をくすぐっていく

「お久しぶりですけどまあなんてことhelliphellip傷だらけじゃないですか一体どうしたっていう

の獣兵

さん」

「色々とあってな悪いが事情を全部説明している時間はない」

楽な状態ではないだろうにボロボロに傷ついた猫人は苦痛をにおわせない平常の声こわ色いろで答

える

そんな様に眉まゆを寄せてシスターは反射的に手を獣兵

の額にかざしただが数秒のうちに

その手を力なく握にぎりこむ

「ああhelliphellipそうだったわもう治してあげられないんだった」

かつてこの手には治ちゆの力があった触ふれて念じるだけで傷をいやし痛みを遠ざけることが

できただがその力も歳を重ねるごとに徐じよじ々よに薄うすれ数年前にはすっかり失われてしまった

獣兵

が小さく首を振ふる

「気にすることはないかすり傷だそんなことよりお前に頼たのみたいことがある」

「頼み」

尋たずねながらシスターはなにを託たくされるのか薄く

していた

プロローグ9

て目を見開く驚おどろいた

シスターを見つけてわずかに歩調を速めた人影は正確には人ではなかった

は人間の子供程度全身は白と茶色のツートーンの体毛で覆われていて先が二ふた股またに分か

れた長い尾おを低く下げている羽織った上着のフードには三角の耳が取り付けられていてそ

の下には本物の三角耳が隠かくれているはずだ

歩み寄ってくる人物は二足で立つ猫ねこの

をしていた獣じゆ人うじんだ今はもう世界中に数えるほど

しかいない希少な種

だがシスターが驚いたのは珍めずらしい獣人を目もく撃げきしたからではないそれが自分の姉の夫何

十年も顔を合わせていなかった義あ兄にだったからだ

「獣じゆ兵うべえさん」

名を呼び我に返ってまた走る血のにおいだ近づいてくる獣兵

から漂ただよってきている

目の前まで駆け寄ってシスターは再度驚くどこか怪け我がでもしているのかと思っていたが

間近でよく見ると一つや二つの怪我ではなく全身傷だらけだったのだ

フードの下から覗く猫の顔は額から出血しており黒く変色した血が茶色い毛を汚よごしている

服は埃ほこりと血で不ふ穏おんなま斑だら模様になっていた傷を押さえているのか腹部に巻きつけられたボロ

布には赤黒い血がべったりと滲にじんでいる

その

からなにがあったのかを推おし量ることはできないけれどなにかがあったことだけは

その血が鮮せん烈れつに物語っていた

8

「大丈夫だ信じろラグナ」

もう一度獣兵

が拒こばむ少年を説く

その低くたしなめるようでもあった呟つぶやきに小さくシスターが息をのんだ

「helliphellipラグナ」

思わずく唇ちびるからこぼすように呼んだ

その名に弾はじかれたように少年が獣兵

の肩から手を離して腕に抱だく少女を隠すように身を

引いた

まるで怯おびえた子犬のようだ傷ついて空腹で苦しくてだけど自分より小さな者を守らねば

と懸けん命めいに足を踏ん張りきばを剥むくそんないじらしい

にシスターは微笑みを浮かべて温かく

少年を見つめた

「貴方あなたラグナというの」

向けられた視線にか声色にかそれとも言葉にか少年は戸と惑まどったようにうろたえ獣兵

を見てその

の少年と自分の腕の中の少女を見たそれからためらうようにシスターへと

視線を戻もどすとhelliphellip警けい戒かいの針を向けながらも小さく浅く頷うなずく

間シスターは胸に温かなものが灯ともるのを感じた

まだ若かったころ目め尻じりに深い皺もなく髪も白くなかったころ出会いそして別れた人

を思い出す

少年はあの人によく似ているそして記憶の中のあの人もラグナという名前を持っていた

プロローグ11

獣兵

は小さな子供を

負っていた少年だぐったりともたれかかった体は力なく気を

失っているか深く眠ねむっているかのどちらかだろう

後方にはもうひとり少年がいたこちらは獣兵

負われている少年よりもいくつか年上

のようで荒あらい呼吸に

せた肩かたを上下させながらまるで手負いの獣けもののようにシスターを見つ

め睨にらんでいる彼の腕うでの中にももうひとりこちらは小さな少女がやはり意識なく身を預けて

いた

三人の子供よく似ている不健康なほど白い肌はだに薄うす汚よごれた金色の髪かみ瞼まぶたを持ち上げている

のは自分の足で立っている年上の少年だけだったが彼の風ふう貌ぼうからするにきっと三人とも美し

い緑色の瞳を持っているのだろう

「この三人を預かってくれこの教会に置いて育ててやってほしい」

そう言って獣兵

に載のせていた少年をシスターに渡わたそうとする

だがその前に後方にいた少年が自分と同じくらいの位置にある獣兵

の肩を摑つかんだ傷だ

らけの腕で抗こう議ぎするように強く

「心配するなシスターなら大だい丈じよ夫うぶだいやhelliphellipシスターでなければ駄目なんだここ以上に

安全な場所はない」

なだめるように獣兵

が語りかける

だが少年は緑色の瞳を鋭するどく尖とがらせ眠る少年に触れることを許さないとばかりにシスターを

眼光で射い貫ぬいていた

10

「こいつらを頼めるか」

普ふ段だんならば愛らしくもある猫の容

で獣兵

は重く問う

そんな重さをいとも容易たやすく掬すくい上げるようにシスターは軽かろやかに顎あごを引く

「もちろんいいえむしろ私からお願いするわこの子たちの面めん倒どうをみさせて」

ジンの頭をそっと抱き寄よせて乞こうようにシスターは言う

涙なみだが出そうだった溺おぼれるような嬉うれしさゆえだこんな未来がこんな運命が待っているな

んて思ってもみなかった

「この子たちを守る役目を私にちょうだい」

シスターの言葉に獣兵

はため息をついて猫

の肩を落とした安あん堵どの吐と息いきだった

「ラグナ彼女がhelliphellipシスターだ」

彼女の本名を告げるかどうか迷って結局近年呼び慣れた呼こし称ようで紹しよ介うかいすると獣兵

は後方の少年を前へと出した

彼はどうしたらいいのかわからないらしく険しい表情を頑かたくなに守ろうとしながらも困こん惑わくに

瞳を揺ゆらしシスターを見る

その強張った顔にシスターが手を伸のばすと小さなラグナはびくりと肩を飛び上がらせ下が

ろうとした

構わずにシスターは彼の頭へ手を置いたぽんぽんと髪を押さえるように撫なでる

「初めまして貴方たちに会えて嬉しいわようこそ私の教会へ今日からここが貴方たち

プロローグ13

ああまるで魔ま法ほうみたいだそれとも奇き跡せきだろうかシスターは瞼を伏ふせると感謝の祈いのり

を捧ささげた

その瞼が再び持ち上がるのを待って獣兵

が改めて

の少年を下ろしたシスターに差し

出すラグナという名の少年は迷いながらも今度は制止しなかった

眠り続ける細い体を受け止めてシスターは意識のない少年を胸に抱く腕の中の小さな体

の温ぬくもりがシスターの過去の記憶をより鮮せん明めいにさせた

「この少年がジンであいつが抱いている少女がサヤだそれから今も言ったがあいつの名

前がラグナ」

獣兵

が少年たちを順に紹介していく

ジンサヤラグナ

教えられた名前をシスターは胸中で何度も繰くり返した何度も何度も大切なものを包み込

むような温かさで何度も

「ジンにサヤそうこの子たちが貴方のラグナの弟と妹なのね」

「ん

その通りだがhelliphellipシスターどうして知っている」

「だって昔に

いたんだもの大切な弟と妹がいるって」

そうずっと昔にあの人から

いた大事な約束を交かわしたあの人から

義兄はなにかを思い出すような目でどこか遠くを見やり力を抜くように笑む

そうかと低く独りごちるように呟いてから改めてシスターを見た

12

近くに小川が流れすぐ裏手には実り豊かな森がある

そこはかつて大きな戦争があった時代の決戦の地けれど今は誰だれもが忘れた土地

緩やかで草深い草原の中ぽつんと建つ小さな教会で

老いたシスターと三人の子供の慎つつましくも賑にぎやかな生活がこの日始まった

||ねえラグナあなたは私に会えたかな

プロローグ15

の家よ」

温かく話しながらシスターは思う

遠い日に交わした約束それが果たされる日をずっと待っていたこの日が来るのをずっと

ずっと待っていた

ジャムを作らなかったことを頭の隅すみで後こう悔かいするもし作ってあったならこの子たちにお茶

と一いつ緒しよにジャムをたっぷり塗ぬったパンを食べさせてあげられたのに

「お帰りなさいラグナ」

きっと声が震ふるえていたせいだろう

口を結んだまま警戒を緩ゆるめられずにいるラグナの緑色の双そう眸ぼうに一

心配するような色がよ

ぎるから

やっぱり本当は優しい子なのだと思ってしまったから

シスターは目尻から透とう明めいな雫しずくをこぼしながら喜びのままに少女のように微笑ほほえんだ

||ねえ覚えてる

||あの約束を覚えてる

||私は会えたよ

||ねえ貴方は会えた

14

げる

身を隠かくすつもりは毛頭なかったむしろ向こうが見つけて仕し掛かけてくるならその都度叩たたき

のめすのが彼のやり方だ

こそこそやるのは性しように合わないどうせ目立つならできるだけ

手に振る

っていつか自

分の襲しゆ来うらいを

いただけで連中がに

げ出すようになればいいと思う

もっともそんな虫のいい話はないだろうと思ってもいるが

すぐに青と白を基調とした制服に身を包んだ男が五六人銃じゆうを抱かかえて走り込んでくる

こちらの位置に気付いていなかったのかはち合わせた途と端たんに先頭の数名が動どう揺ようして足を止

めた

だが彼は止まらない歩みを疾しつ走そうに変えて一直線に突つっ込こむと手の剣を大きく振ふりかぶっ

「止まれ

止まらなければ撃うつ」

制止の声に意味はない

制服

の男たちがそれぞれに銃を構えた即そく座ざに全員が発はつ砲ぽうするけたたましい発砲音が廊

下に響く

がその直後彼は振りかぶった剣を

いよく薙ないだ

「うらぁぁぁぁぁっ」

剣から黒く禍まがま々がしい揺らめきが放たれて宙を駆かけ迫せまる銃じゆ弾うだんのすべてをの

み込んで掻かき消し

第一章 Stratum city 階層都市17

第一章

Stra

tum city

||階層都市

アーチ状に造られた白く高い天てん井じように慌あわただしい足音がいくつも響ひびいていた

誰もが口々に警戒と攻こう撃げき指示を口にする侵しん入にゆ者うしやを捕つかまえろ殺せこれ以上進ませるな

そう叫さけぶ声はしつ

咤たや激げき励れいというよりもっと

痛な音に引きつっておりひどく追い詰つめられた

状じよう

況きようを如によ実じつに物語っていた

廊ろう下かの先から

こえてくるそれらを

きながら

彼は迷いや躊躇ためら

いなど微み塵じんもなくいっそ悠ゆう然ぜんとした振るま

いで近付いてくる足音のほう

へと進んでいた

白い髪に左が緑で右が赤という左右で色のちが

う瞳ひとみがっしりした体つきに黒い服を纏まとい

その上に目の覚めるような真っ赤なコートを羽織っている

(helliphellip後から後からよく集まってくるもんだ)

ぼやくように思いながら彼はそれまで肩に担いでいた幅はば広びろで分厚い刀身の剣けんを手にぶら下

16

彼はなにもひっそりとここに忍しのび込んだわけではない

を守る警

員を殴なぐり倒して正面

から堂々と侵入したのだ

まるで自分の力と存在を誇こ示じし深く爪つめ痕あとを残すように彼は暴れに暴れて手あたり

第に破

壊し奥へと進んだ立ちはだかるものはなんであろうと斬きり倒すそんな暴力的な歩みで進

んで進んでhelliphellip

そうして彼が到とう達たつしたのは長い長いし昇ようこう装置で

りた先のぽっかりと口を開けたような

地下深い広間だった

helliphellipそこはもうこれまで通ってきた廊下や部屋とは

う世界だった

空気が

う温度が

床ゆかも壁も天井も金属に似た質感の板で覆おおわれており広場を見下ろす位置にガラス張りの小

部屋が設けられているその下にも重じゆ厚うこうな機械類が並んでおりそれらが見み据すえる先で異様に

大きななにかの装置が沈ちん黙もくしていた

人は誰もいないここにいたはずの人間は皆みな襲しゆ撃うげきの知らせを受けて避ひ難なんしたのだろうそ

してここに駆けつけるはずの人間は皆白はく髪はつの侵入者が蹴け散ちらしてしまった後だ

一歩一歩彼は広間の奥に鎮ちん座ざしている巨きよ大だいな装置へと足を進めた

異質さが体にまとわりつくようだった

第一章 Stratum city 階層都市19

てしまう

揺らめきはそのまま炎ほのおの速さで走りじ弾だんを浴びせる制服たちへと迫ると一息に吹ふき飛ばし

たご

うと炎が逆巻くような音が巻き起こり男たちの体は

鳴ごと攫さらわれて壁かべに叩きつけら

れる衝しよ撃うげきに負けて壁に太くヒビが走った

たった一撃それだけで銃を構え勇ましくも侵入者を迎むかえ撃とうとしていた男たちは全員

意識を失い廊下に倒たおれ伏した

「helliphellip倒されるってわかってんだからのこのこ出てくんじゃねぇよ馬ば鹿かが」

あっけないものだ倒れた制服

を横目に見やると大きな剣を携たずさえた彼はすぐさま廊下を

走り出す

いつまでもこんなところで時間を食っている場合ではない

向かうのはこの施し設せつの一番奥最下層だ

また廊下の奥から青と白の制服

が現れる口々に叫びながら銃を構えあるいは剣を抜ぬい

た人

数はさっきよりも多いがだからといって彼のやることに変わりはない

真正面から突っ込んですべてを振り払はらい叩きのめす

々に制服

の力ない体が廊下のあちこちに転がりセキュリティ装置はことごとく破は壊かいさ

れ口を閉とざすとびらすら叩き切られて鉄くずに変えられた

18

この世でありながら別の世であるかのような本能が警告するい和わ感のようなものが空気の

代わりに漂ただよっている

けれど彼には慣れた空気だった

もう幾いく度どもこういうところにはやってきているのだここと同じ構造をして同じ装置を地

下に隠した施設をこれまでいくつ訪ねたかわからない

毎度訪問の目的はひとつ

この巨大な装置の破壊だ

彼は床を踏ふみしめるようにして歩み寄る

これがなんのために存在しているのかここで働いていた者のどれほどが把は握あくしていたのだ

ろう

来るたびに彼は棘とげのような疑問を感じる

これがなにをもたらすと思って毎日毎日こんな陰いん気き臭くさい地下深くまで

りてきて用よう途とも

わからないチカチカ光る計器をいじくり回していたのだろう

縁へりまで来ると彼はそれを睨にらみ据すえる

銀色の金属で組み立てられた装置は見上げるほどに高くそびえ見下ろすほどに深く大き

かった

メインとなる部分は彼が見下ろす円形の部分だ

これは『窯かま』だった

20

第九階層都市アキツ世界虚こ空くう情報統制機構支部

都市の中心に建っていた施設が何者かの襲撃によって崩ほう壊かいしその騒動で都市全体が混乱し

ている中

赤いロングコートを着た白髪の男はひとりひっそりと都市から去ろうとしていた

もうここでやるべきことは終わった長居は無用だ

施設での

手な立ち回りに反して外では人目につかぬよう入り組んだ道を通りできるだ

け薄うす暗ぐらい出口を選んだ

街中で制服を着た

士たちに見つかれば振り払うために戦わねばならないそれが煩わずらわし

い錆さび

臭くさい鉄門をくぐって奥にあるポートへ向かうその脇わきにある通路を下れば外に出られる

はずだ

そのときふと薔ばら

の香かおりが彼の鼻び孔こうをくすぐった

「まるで行き場を失った野の良ら犬みたいね」

淡たんた々んとしたあざけり

の声が

こえ彼は足を止めて振り向いた傍かたわらに佇たたずむ細い外灯を見上げる

先せん端たん

が二ふた股またに分かれたシンプルなそれの上にひとりの少女が立っていた

歳としは十を過ぎて数年といった程度だろうかまだ幼い顔立ちをしながらも足元からの薄暗

い明りに照らされて浮うかぶ赤い瞳は外見の年とし頃ごろに似合わぬ聡そう明めいさをたたえている

第一章 Stratum city 階層都市23

今はいくつもの金属板が折り重なるようにして口を閉ざしているが開けば内は火山の火口

のようになっている炎えん色しよくの溶よう岩がんのようなものが渦うずを巻いて覗のぞき込む者のすべてをのみ込ま

んと燃え盛さかっているのだ

だが中でわだかまっているものは決して溶岩や炎などではない

そこにあるのは異界だ人が本来あるべきではない世界のひずみ走った亀き裂れつの向こう側

見てはいけなかった踏み込んではいけなかった世界のからの外側

彼が見下ろす金属の装置はこの窯を制せい御ぎよしまた窯に干渉するためのものだ

本来及およぶべきものではない異界||境界に触ふれるための装置

彼は世界中に散らばるこの窯を破壊して回っていた

こうして

めてみても今いま更さら感かんがいもない

彼は剣を腰こしに戻もどすと右手を装置へと向けて突き出した何事か呟つぶやくもう何度も繰くり返し

口にしてきた破壊をもたらす言葉

言葉は彼の右みぎ腕うでで眠ねむっていた力を呼び起こし力は彼の右腕に蒼あおい光を生んだ

またたく間に辺りを埋うめ尽つくすほどに増ぞう幅ふくされた光を彼は装置に向けて思い切り放つ

のしゆ間んかん地下深くで口を閉ざしていた異界への門はそれを囲む広大な部屋ごと跡あと形かたもな

く吹き飛んだ

22

別に行き先などどこでもいいカグツチならここアキツからでもそう遠くはない

彼は忌いまい々ましげに少女の消えた辺りを睨みつけると示された

の目的地を目指して歩き出し

た数

日後彼の名は世界中に指名手配犯として公開された

ラグナザブラッドエッジ

それが『死神』の異名を持つ史上最高額の賞金首の名だった

2199年12月30日||13時27分

約百年前世界は一度滅ほろびかけたという

突とつ如じよ現れ世界中を破壊して回った巨大にして異形の怪かい物ぶつhelliphellip『黒き獣けも』の

その圧あつ倒とう的な力に人類は為なす術すべもなくあっという間に世界の人口は半分に減った

ところがそこに六人の勇士が現れた

第一章 Stratum city 階層都市25

下方の彼を見やって少女は薄うすく微笑ほほえんだ

「薄うす汚ぎたない迷子の野良犬さん

に貴方あなたが行くべき場所を教えてあげましょうか」

「helliphellipなに企たくらんでいやがる今まではそんなこと教えなかったじゃねぇか」

吐はき捨てるように彼は低く呻うめいた

少女は呆あきれたように眉まゆ尻じりを下げる

「心外ね教えてきたじゃないhelliphellipもう何度も」

「はぁ

なに言ってんだテメェ」

「覚えていないならいいのよ期待もしていないわ」

指に絡からまった糸くずでも払うように言うと少女はある方向をその白く小さな手で示した

その先に広がるのは暗雲を抱いだく暗い夜空星も月もない夜はまるで不ふ穏おんな予感を掻きたてよ

うとするかのように重苦しく静かだった

「第十三階層都市カグツチ」

そこが貴方が導かれるべき場所よ

そう告げると少女は薔

の香りを漂わせ風が吹き抜けるように

を消した

甘い花の香りが消えると白昼夢から現実に引き戻されたかのようにどこからか金属とくさ

った水の臭においが漂ってくる

気分のいい場所ではない

「カグツチhelliphellipね」

24

た街は山の高度に沿って上下に広がり結果幾いく重えにも市街のプレートが重なった狭せまくも高

い都市が生まれたのだ

ここ第十三階層都市カグツチもまた世界中の都市がそうであるように複雑な多重構造と

なっている都市だった

その中の折り重なった市街のひとつオリエントタウンの入り組んだ細い道を彼は少々ふ

らついた足取りで歩いていた

白い髪かみに左は緑右は赤という左右で色のちが

う瞳ひとみ全身を包む黒い服に目の覚めるよう

な真っ赤なロングコート腰には幅はば広びろで分厚い刀身がと特くち徴よう的な剣けんが下げられている

ラグナザブラッドエッジ

世界虚空情報統制機構の支部を各地で壊かい滅めつさせているSS級の指名手配犯であり史上最高

額の賞金首が彼だ

とはいえ周囲を行き交かう街の住人は誰もラグナを気にしたりはしないどうせまたどこか

らか無法者が入ってきたのだろうそんな程度の視線が時折興味もなさそうに掠かすめては離れ

ていく

ここはオリエントタウンカグツチの下層に位置する街だ

階層都市はその構造上上層の街であるほど魔素から遠く安全で清潔で逆に下層に行くほ

ど管理が行き届かず魔素に近い階層都市において上下は住みやすさだけでなく晒さらされる命

の危険の度合いをも意味している

第一章 Stratum city 階層都市27

彼らは事象兵器

アークエネミーと呼ばれる武器を手に黒き獣にいどみ災さい厄やくの魔ま物ものを倒し人類に未来をもた

らした

六英えい雄ゆうと讃たたえられた彼らは人知れず歴史の海に

を消し行ゆく方え不明となったがそれでも彼ら

の栄光は伝説として語かたり継つがれた

それは近くも遠い昔の話

今の世にかつての黒き獣との戦争||暗黒大戦の誰だれもが知るような名な残ごりがあるとすれば

それは大きく数えてふたつだろう

ひとつは世界虚空情報統制機構

暗黒大戦のとき六英雄と共に戦った世界的な連合軍が母体となった組織であり現在は世界

中をこの組織が統とう括かつしている

そしてもうひとつが魔素

災厄の魔物黒き獣の出現と共に世界中であふれ出した物質で黒き獣が倒たおされた後も依い然ぜんと

して世界の空気中に残り続けた

今では様々なテクノロジーにも利用され人々が暮らしていくうえでなくてはならないもの

となっているがそれでも多量の摂取は人体への危険を伴ともなう

そのため人類は魔素を利用しながらも魔素を避さけて生活しなければならなかった

魔素は地表に近いほど濃こく滞たい留りゆうしているそこで考え出されたのが階層都市だ

高山を基き軸じくにしてそこからプレート状に築いた市街を突つき出させるようにして街を建設し

26

っている

そのうえあちこちの路地を塞ふさぐように木箱やらなにかの詰つまった袋ふくろやらが我が物顔で腰を下

ろしているものだから何気なく入った路地が通り抜ぬけられないこともしばしばある

赤い柱にぎょろついた目玉のついた奇きみ妙ような像街中に小さな明かりの灯った提ちよ灯うちんがぶら下げ

られていてそれ以上におびただしい数の大小の看板が眩まぶしいネオンを輝かがやかせている

普ふ通つう下層の街というのはいくつもある上層の基き盤ばんに陽光をさえぎら

れて昼間でも薄暗く場所に

よっては真っ暗になるものだがここはそんな暗がりとは無む縁えんのようだ

路地を抜けると少し開けた通りへ出た

左右にずらりとなにかの店が並んでいてどうやらこの辺りのメインストリートらしかった

その分掲かかげられた看板の数もその

手な色しき彩さいも段だんちがいだ

(この辺なら統制機構の連中もいねぇだろ)

比ひかく的広い通りでもいかにもこの街の住人といった人間ばかりが歩いていて世界虚空情報

統制機構の例の忌いまい々ましい青と白を基調にした制服は見当たらない

ありがたい話だもし見つかれば曲がりなりにもラグナは重大犯

者周囲への配はい慮りよもな

にもなく雨あられと発はつ砲ぽうされ

から

へと集まってくる

士たちと追いかけっこを演じなけ

ればならなくなる

ラグナは左右をきょろきょろと見回しながら腹部に手をやった

疲労より空腹が辛つらいカグツチに入ってからというもの食料品を扱う店に巡り合えず持

第一章 Stratum city 階層都市29

当然最上層を占せん拠きよしているのは管理機

でもある世界虚空情報統制機構だその

連施し

設せつや

係者の住宅が市街のほとんどを占しめている

続いて権力に近く裕ゆう福ふくである者が上層階に住まいそうでない者はその

産や身分に順列を

つけるように下へ下へと下っていく

オリエントタウンに住んでいるのはそういった順列の結果ここまで追いやられてきた人間

たちだった

誰も彼もお世辞にも裕福とは言えない自分と家族それから少しの親しい人間の生活の

ことで精いっぱいで見るからに異質な白髪の男にかかわって余計な面めん倒どうに首を突っ込みたが

る酔すい狂きよ者うものなどほとんどいないのだ

もっともラグナ自身も周囲の人間の様子に気を配っている余よ裕ゆうはあまりなかった

今は使われていないは搬んに入ゆう口からカグツチに侵しん入にゆうしたのが二日前それからずっと人の通ら

ない裏道や廃はい棄きされたエリアを通ってきた図はかったわけでもないのに延々と歩かざるを得なか

った悪路に正直疲ひ労ろうが募つのっている

帰りはもっとまともな道を通ろうそう決めていた

「にしても下層にしちゃ賑にぎやかな街だな」

辺りを見回しラグナはぼやくように率そつ直ちよくな感想を口にした

オリエントタウンは無計画にとにかく乱雑に家を建て並べたことがよくわかる入り組んだ

造りをしていた道は狭くやたらに折れ曲がり家々は今にも密着しそうに身を寄せ合って建

28

「うhelliphellipう」

微かすかに震ふるえる声で呻き少女はゆっくり顔を上げる

ラグナを見上げたフードの中におそらく誰もが想像するであろう少女の顔はなかった

あるのは黒い暗い闇やみを詰め込んだような陰かげその中でへなりと下がった赤い目らしき丸と

白い歯の並ぶ下を向いた三日月形の口だけが浮かんでいる

ぴくぴくと痙けい攣れんするようにフードについている三角の耳が震えた

人間ではないけれど獣のような尻尾や耳を持つ獣じゆ人うじんとも様子が

「もしかしてhelliphellipカカ族か」

このような奇きみ妙ような風ふう貌ぼうの生き物をラグナは過去にも一度見たことがあった確か剣けんの師しし匠よう

を訪ねてきたはずだ同じような黒い顔に実にシンプルな顔のパーツ目の前にいる少女とそ

のとき目にしたカカ族の女は明らかに別人だがこのと特くち徴よう的な容

は他にあるまい

もっとも『カカ族』という名めい称しようを知っているだけでつまりどういう一族なのかをラグナは

知らないのだが

さてこの少女をどうしたものか

わらずに引き返すべきか見なかったことにして先へ

進むか

咄とつ嗟さのことに決めあぐねていると顔だけを起こしたカカ族の少女はその弱り切った様から

は想像もできない俊しゆ敏んびんさで突如ラグナの足にしがみついた

「うおぁっななんだ」

第一章 Stratum city 階層都市31

ち歩いていた保存食も底をつき昨日の夜からなにも食べていないのだそろそろいい加減

限界が近い

いくら下層街でもこの雰ふん囲い気きなら飲食店くらいいくつかあるだろうそう思って雑多な看

板からそれらしい名前を探しているとhelliphellip

なにかやわらかいものを踏ふんだ

「ブニャッ」

同時になにかの鳴き声が足元から

こえた

「げっ」

犬か猫ねこでも踏みつけたかと思ってラグナは慌あわてて足をどける

が見下ろしたそれは予想に反してずいぶんと大きなものだった

というより人だったり両よう腕うで両足を地べたに投げ出し力なく倒れ伏ふしている少女だ全身

をすっぽりと覆おおうフードつきのローブから長い三つ編みの髪とかつ色しよくの肌はだの足が覗のぞき見えてい

るhellip

hellipいや

「なhelliphellipなんだテメェ」

警けい戒かいというより疑問一色の声で問いかけるラグナの視界でひょろりと弱々しく細長い尻しつ尾ぽ

が揺ゆれた

尻尾はその倒れた少女から生えていた

30

「はぁ

おおいどうした大だい丈じよ夫うぶか」

あまりにも切せつ羽ぱ詰つまった声を出すものだからさすがに少し心配になった持ち上げていた足

を下ろして陰を詰めこんだような顔を覗きこむ

まるで黒いお面のような顔は目も口も情けなく下げてラグナを見上げ今にも気を失いそう

な弱さで訴えた

「おhelliphellipお腹なかが空すいたhelliphellipニャス」

黄色いクロスがかけられた丸いテーブルの上にいくつもの皿が並んでいた

揚あげた鶏とり肉にくに薬味だれをたっぷりかけたもの肉団子と色いろ鮮あざやかな野菜の甘あま酢ずあん炒いため四

角く切り分けた豚ぶた肉にくを甘あま辛からく味付けしたこってりとした煮に物ものに山と盛られた炒め飯牛肉と

野菜を濃い味の味み噌そで炒めたもの細切りにした野菜を薄うすい皮で包んだパリパリの春巻きに

挽ひいた肉を包んで蒸むしたふかふかの饅まん頭じゆhellipうhellip

白い湯気と共に胃いぶ袋くろを震わせずにはおかない匂においを放つ数々の料理を三角耳のついたフー

ドの奇妙な少女は椅い子すからずり落ちそうなほど身を乗り出して忙いそがしく口に掻かき込んでいた

「はぐはぐはぐニャスはぐはぐはぐはぐはぐニャスはぐはぐ」

料理を頰ほお張ばる音なのか箸はしをしゃぶる音なのか空気の抜けるような声が絶えず漏もれていた

第一章 Stratum city 階層都市33

「うぅぅニャhelliphellipた助けてhelliphellipニャス」

驚おどろいて足を持ち上げ振ふり払はらおうとしたラグナの足に両腕を絡めてぶら下がり三角耳に尻尾

を生やした少女はあわれっぽく訴うつたえる

しがみつく腕うでをほどこうとラグナは足を大きく上下に振ふりまくるが少女の腕がどういう

わけか一向に離れない

「くっこの離しやがれ

なんなんだよテメェは」

「離さないニャス絶対に離さないニャスぅhelliphellip助けてくれないとこのままオマエの足を食う

ニャスよぉぉhelliphellip」

声だけは弱々しくだが腕は言葉に反して力強くラグナの足を摑つかんで離さない

この騒さわぎでも周囲の人間は奇き怪かいなものでも見るような視線を一いつしゆんくれるだけでそれ以上

わろうとせず通り過ぎて行く

面倒なトラブルに巻き込まれる心配はなかったが少なくとも親切な通行人の手助けは見込

めなさそうだった

何度目かでいい加減に諦あきらめるラグナは足を中ちゆ途うと半はん端ぱに持ち上げたまま縋すがり崩くずれるカカ族

の少女を憔しよ悴うすいの表情で見下ろした

「待て待て待て足を食うなてか意味わかんねぇよ助けるってなんだよ」

「うぅぅhelliphellipよhelliphellipよくぞ

いてくれたニャスタオは今とってもピンチなのネもうhelliphellip

もう限界ニャス」

32

た中皿いっぱいに盛ってあったはずの春巻きはいつの間にか最後のひとつになっていた

「こんなにうまいご飯を

ってくれるなんて白い人はいい人ニャスタオはとぉ〜っても感

謝してるのニャス」

両腕を大きく振り回して少女は喜びの度合いを示そうとするその手は指先まですっぽり

と袖そでの中に隠かくれていて猫の前脚を模したように大きく丸くなっていた

ラグナは春巻きを飲み込んでから尋たずねる

「タオってのはお前の名前か」

「ニャス

タオカカニャス」

大きく頷うなずくと尻尾を持つカカ族の少女タオカカはもう一方の手に持ったままだった肉饅

頭をまた一口で頰張り飲み込こんだ

「タオは村を出て勇ましく旅立ったんニャスがhelliphellipすっかりお腹が空いて動けなくなってたの

ニャあのときいい人が助けてくれなかったらタオは今ごろ干からびてカカの干物になって

たニャスこの『ごおん』は忘れないニャスよ」

勝手に身の上話を始めながらタオカカは味噌炒めの皿を抱かかえて残っていた分を全すべて口の中

に流し込んでしまう

まだそれ食ってなかったんだけどとは言えずラグナは渋じゆ面うめんでその様を見守った仕方な

く肉饅頭をひとつ確保すると呆れを込めてため息に肩かたを落とす

「はいはいなにがご恩だよどうせ飯食ったら忘れるだろお前」

第一章 Stratum city 階層都市35

さっきまで力なく下がっていた目も今はまん丸で口も上向きの三日月形となっている

その様を横目に呆あきれ顔でながめながら向かいの席に座っていたラグナは揚げた鶏肉を口に運

んだ分厚い衣ころもがカリカリとしていてうまい久しぶりに直じか火びで炙あぶっただけでない手の込ん

だ食事だった

「helliphellipうまいか」

料理は凄すさまじい速度で減っていく奇妙な少女が嬉きき々として大量のメニューを注文し始めた

ときはラグナはとてもそんなに食べきれないと青ざめたがそんな心配は無用だったようだ

むしろ今となっては支し払はらいのほうがよほど心配だ

先だけ白くなっている尻尾をふりふりと上じよ機うきげんに揺らす奇妙な少女はふかふかの饅頭を両

手に摑つかんで顔を上げた

「うまいニャス

あれもこれもそれもぜ〜んぶうまうまニャス」

「そうかそうかそらよかったよはぁhelliphellip」

こうも屈くつ託たくなく当然のように貪むさぼられるとこいつの頭に遠えん慮りよという言葉はないのかだとか

そもそもどうして自分が見ず知らずの正体不明な少女に食事をおごっているのかだとかなぜ手

を引かれるままに大人しくこの店まで来てしまったのかだとか尽つきることなく浮うかんでくる

疑問もどうでもよくなってくる

少女はうまそうに肉饅頭を一口で頰張る

あっという間に飲み込む様に思わず苦くし笑ようを漏らしてラグナは春巻きをひとつ箸で取り上げ

34

だが現在はどちらかというと統制機構の手に負えない凶きよ悪うあ犯くはんや行ゆく方えの知れないとう

亡ぼう犯など

にかけられた多額の賞金を得て日ひ銭ぜにを稼ぐ者のことを表している

それが全てというわけではないが多くはまともな

につけなかった荒あらくれが暴力手段で稼

げる口として選ぶ道だ

女の咎追いが珍めずらしいわけではないがこれほど無防

でき緊んち張よう感のない咎追いはラグナは見

たことがなかった

「そうニャス今日からなったニャス」

「今日からかよ」

「そんでこいつを摑まえるのネ」

なぜだか誇ほこらしげにタオカカは皺を伸ばした紙をラグナに差し出した

ラグナは肉団子を野菜と一いつ緒しよに口の中で嚙かみ砕くだきながらそれを受け取る街角などに貼はら

れているような指名手配書だったあまりお目にかかれない気前のいい賞金額と共にひどく

不細工な男の似顔絵が描えがかれている

賞金首の名前はラグナザブラッドエッジ

「ぶはほっ

その名前を見た途と端たんラグナは盛せい大だいに肉団子と野菜を咀そし嚼やくしたものを噴ふき出した

「ぶにゃにゃ

いきなりご飯噴き出すなんていい人ばっちいニャもったいないニャスよ」

横で抗こう議ぎしながら最後の肉饅頭を頰張るタオカカの声も耳に入らないラグナはまじまじ

第一章 Stratum city 階層都市37

「忘れないニャス」

突とつ然ぜんピンと尻尾を真まっ直すぐに立ててタオカカはずいと身を乗り出すとテーブルの上からラ

グナを見上げた瞳どう孔こうのない丸い目ときばを並べた三日月の口がお面のようで不気味だ不気味

であるはずなのにどうしてか見つめられると愛あい嬌きようを感じる

「カカは義ぎ理り堅がたい一族ニャス受けた恩は忘れないのネいつかタオが大金持ちになったら

今度はタオがいい人にご飯を

ってやるニャス」

「大金持ちってhelliphellipお前な腹減りで行き倒だおれてた奴やつがなに言ってんだアテもねえくせに」

「ぬっふふふアテならあるニャスよ」

言ってひょいと肉団子を三つ箸に刺さして口に放ほうるとタオカカは椅子までずりずりと体を下

げて服の中からなにかを取り出した

くしゃくしゃになった一枚の紙だタオカカはそれを丸い手でテーブルの上に広げて皺しわを伸の

ばす

「タオは咎とが追おいニャス悪い奴をとっちめてたくさんお金をもらうのネ」

「咎追いだ」

怪けげんそうにラグナは眉まゆを寄せた

咎追いとはいわば賞金稼かせぎだ

元は大量の魔ま素そによって生態系が乱れ大量の新種生物が発生した

にそれらを討とう伐ばつする

べく統制機構が武装を許可した者たちのことを指した

36

「うニャいいニャスよいい人はタオのおんじんニャスからねどーんと任せておくといい

ニャス」

そう言ってタオカカはニシシと笑うと綺き麗れいに舐めた皿をドンとテーブルに置いた

その目の前に

「お待たせしました〜」

若いウエイトレスが新しくいくつもの皿を並べた

肉味噌ののっためん

とパリパリに揚がった

にたっぷりの野菜が入ったあんをかけたもの

焼き豚ぶたをスライスしたものの盛り合わせエビのすり身やら豚のひき肉と香こう味み野菜やらをもっ

ちりとした皮でくるんだ無数の蒸し物

できたての遠えん慮りよ容よう赦しやのない湯気が豊かな香かおりと一緒に天てん井じようへ上がる

「helliphellipは」

頼たのんだ覚えはないそう抗議しようとして気がついた

あのときhelliphellipラグナが自分の手配書を見ていたときだあのときタオカカが一口で食べた肉

饅頭が皿に残っていた料理の最後だった

その直後そういえばタオカカがメニューへ手を伸ばしていたような気がする

「ひゃほ〜ぅうまそうニャス

秘密の抜け道は危ないところなのネいい人もお腹いっぱ

いにしておかないとお腹空いちゃうニャスよ〜」

悪びれるどころか嬉しそうに蒸し物を引き寄せるタオカカの手をラグナは思い切り摑んだ

第一章 Stratum city 階層都市39

と手にした手配書を見る細かく手が震えた

(なhelliphellipなんっだよこの似顔絵

いくらなんでも似てなさすぎだろ

そもそもよくわかっ

てねぇなら似顔絵なんか載のせんなよ俺がこういう顔だみたいに広めてんじゃねぇよ

まさかこれがカグツチの街中にベタベタ貼ってあるのではないだろうかだとしたら憂ゆう鬱うつだ

この顔が『ラグナザブラッドエッジ』の顔だと思われていることもだがこの額で手配

書が出回っているとなるとずいぶんな数の咎追いがラグナを探しているはずだそういう咎追

いはこのカグツチにも多くたむろしているだろう

(普ふ通つうに街中通ってくのはまずいかhelliphellip)

あの青と白の制服連中に見つかるのも厄やつ介かいだが咎追いに見つかるのも厄介だそれこそこ

っちの都合などお構いなしに街中だろうがどこだろうが構わず『仕事』に取り掛かるに

ない

「helliphellipなあタオカカだっけかお前カグツチの上のほうに行く抜ぬけ道とか知らねぇか」

くしゃくしゃの手配書を返しながらラグナは心持ち身を屈かがめて声を低めたもしあるなら

多少悪路であっても面めん倒どう事ごとを引き起こすよりはずっといい

タオカカは甘酢あんだけが残った肉団子の大皿を舐なめながら答える

「おう秘密の抜け道ネ知ってるニャスよ」

「本当か

そりゃいいなあ飯

ってやる代わりにその抜け道まで案内してくんねぇ

か」

38

の腕うでを摑むとウエイトレスの手を強く払った

荷物でも担かつぐようにタオカカを肩に抱だき上げて弾はじかれたように店を飛び出す

「うニャニャッ

タオのご飯

まだ食べてないニャスよ」

「うるせぇ

それどころじゃねえんだよ」

肩かた口ぐちで

痛な声をあげ追いすがるように手を伸のばすタオカカへラグナは焦あせりのままに声を

荒げた

オリエントタウンの大通りへ出ると人波を掻かき分けて持てるき脚やく力りよくの限界にいど

いで走る

「待て

誰だれか捕まえて食いに

げだよ

後方からウエイトレスの金切り声が追いかけてくる

ぎょっとすることにウエイトレスの足はラグナに負けていなかったしゆ

念うねんのせいかもしれな

いラ

グナは足を動かしながら何度も悪態をついたまさかカグツチにやってきて最初に引き起

こす騒そう動どうが食い

げだとはこの街に上がってきたときには思いもしなかった

担がれたタオカカはしょんぼりと尻しつ尾ぽを垂らしてまだ諦あきらめ切れないのか後方へ向けて空を

掻いていた

「うう〜っタオのご飯がぁhelliphellip」

「いいから抜け道の場所を教えろ

店の奴に摑まってミンチにされてぇのか」

「みんち」

第一章 Stratum city 階層都市41

いのあまり腰こしが浮く

「おおまっなに勝手に追加してんだよ

「ニャ

いい人もうお腹いっぱいニャス

ならタオが全部helliphellip」

「ちげぇよ

こんな山ほど注文されていくらなんでも払はらえるか

俺はそんなに金持って

ねぇんだよ

そもそもラグナは仕事を持っていない時折咎追いの真ま似ねごとや日ひ雇やといの仕事で旅費を稼い

だりもするがそんなものは一時しのぎだ金がなくてまともな宿さえ取れないというのに

さっきまでの注文に加えてまだ追加がくるなんてとても財さい布ふの中身が足りると思えない

息巻くラグナの肩に手を置く者があった

ラグナは一度うるせぇとそれを払い落すだが手はすぐにもう一度ラグナの肩を叩たたき手

の主が低く

後から問うた

「お客さん

今helliphellip金持ってないって」

「helliphellipあ」

言われラグナが振ふり向いた先に立っていたのはラグナよりずっと

の低いウエイトレス

だったにこやかに微笑ほほえんでいるがその目はどこか殺気じみている

「金持ってないって」

ウエイトレスはもう一度問う

その直後ラグナはまるで事態がわかっておらず蒸し物をパクパク口に運んでいたタオカカ

40

2199年12月30日||13時35分

灰色の雲に閉とざされた空を

景に一そう

の船が港に到とう着ちやくした

船といっても海を渡わたる船ではない渡るのは空だ

膨れた腹部に人間や機材といった貨物を詰つめて運び左右に伸びた翼つばさに魔素を取りこみ飛行

する魔操船

当然空飛ぶ魔操船が停てい泊はくする港も相応の造りをしている

第十三階層都市カグツチ第五番ポート他に比べて小さく目立たない造りになっている

そこはある特定の目的に多く使われるポートだった

身を寄せるように入港した暗色の魔操船の重々しい稼か働どう音おんが止まりハッチが開いて細身の

階段が下方へ伸びる

銃じゆうを肩かたに下げた青と白の制服

士が数名

りてきて慌あわただしく持ち場につき無線機で

なにやら報告を交かわす

それから遅れることしばしポートの平たい地面に向かう階段に黒い革かわぐつの足がかけられ

た続いてひょいと細身を覗のぞかせるように現れたのは黒いスーツに身を包んだ

の高い男だ

第一章 Stratum city 階層都市43

「肉だよ肉

さっき並んでた料理になりたくなきゃさっさと教えろ」

なにも本気で店員が自分たちをミンチにすると思って言ったわけではないが遅れて意味を

理解したタオカカは真に受けたらしいびくりと尻尾が飛び上がって警けい戒かいするように太く膨ふく

れる

「お肉にされたらお肉が食べられなくなっちゃうニャス

それはいやニャス」

肩の上で器用に身を捻ひねってラグナの前に着地するとタオカカは獣けもののように両手を地面につ

いて走り出す

「いい人こっちニャス」

「よしわかった」

タオカカが飛び込むようにして細い路地に入るい一つしゆん反応が遅おくれたもののラグナも空の籠かご

をひっくり返しながらそれに続いた

ネオンの看板から遠くなりぐっと辺りが薄うす暗ぐらくなる

走りながらラグナはげんなりと自じちようするように思った

今日の食い

げの分明日から自分にかけられている賞金が増額するかもしれないなhelliphellipと

42

青のブーツで雨水を

ね上げながらハザマのいる管理小屋の前まで行くと軽く息を整えて

を正す

空色の瞳ひとみは凜りんとしており生き真ま面じ目めな表情をしていた

「お待たせしてしまってすみませんでも一声かけてくださればよろしかったのにhelliphellipまだ

中にいらっしゃるのかと思って探しておりました」

「おやおやそれはそれはお手数をおかけしましたツバキヤヨイ少しよ尉うい」

その瞳が示す通りどこまでも生真面目に話す女性をツバキと呼んでハザマは口の端はしを深く

吊つり上げ笑えみを浮うかべた

ツバキヤヨイ少尉彼女はハザマのように諜報部の所属ではなく世界虚空情報統制機構

武装魔ま術じゆ師つし第四師団の所属だった

世界虚空情報統制機構とは国家というがい

念ねんのなくなった現世界においてその代役を担になう重

大にして巨きよ大だいな機

だ帝みかどと呼ばれる絶対的な決定権を持つ存在を頂点に掲かかげ世界中の施し政せい

司法軍事あらゆる社会的基き盤ばんを管理し運営している

それだけに設けられている部署は膨ぼう大だいであり役割の異なる部署が共にひとつの任務に当た

ることはひん

繁ぱんにあることではない

だがツバキとハザマはちが

う部署でありながらとある任務のためにふたりでカグツチへとや

ってきていた

「いやぁしかし生あい憎にくの天気ですねぇこの雨の中広いカグツチでひとりの男を捜そう索さくすると

第一章 Stratum city 階層都市45

った

緑の髪かみにのせた黒い帽ぼう子しを指で押さえて男は尖とがった顎あごを上向かせ空を仰あおぐ目ま深ぶかにかぶっ

た帽子のせいで目元は見えないが薄うすいく唇ちびるは不満そうにへの字に歪ゆがんでいた

「あらま雨ですか」

空一面を埋うめ尽つくすように広がる灰色の雲からは静かな雨が

っていた

もうずいぶん前から

り続いていたようで狭せまい五番ポートはどこもかしこもすっかり濡ぬれ

ている雲に動きもないようだししばらくはこのまま

り続けるだろう

やれやれとうんざりしたようにため息をつくと男は足早に屋根のある場所へと移動した

黒スーツの男は世界虚こ空くう情報統制機構||多くは統制機構とり略やく称しようで呼ぶ機

のち諜よう報ほう部に

在ざい籍せきしている名はハザマ階級は大たい尉い

彼が乗ってきたこの魔操船はその諜報部の名前で使用された船だ

この五番ポートはそういう統制機構の中でも公おおやけにできない任務や用件のときに多く利用さ

れるいわば人目を避さけるためのポートだった

「ハザマ大尉

外にいらしたのですね」

魔操船の階段から女の声がかかりスーツについた水すい滴てきを払っていたハザマは顔を上げた

青と白の制服にそろいのポンチョを羽織った若い女性が足早に階段を駆け下りてきた青の

ベレー帽ぼうをかぶっておりそこから腰をも越こすほど長く伸のばされた鮮やかなカメリアレッド

の髪が流れている

44

視線を上げればここからでも高山の頂上から突つき出るようにそびえる美しく壮そう麗れいな支部の

が見られたただ今日は悪天候のため雨のカーテンが視界を煙けむらせる

霞かすむ支部を見上げてツバキはわずかに眉まゆを寄せた

「helliphellipなぜキサラギ少佐はカグツチなどに」

それはジンのことを知る者なら誰もが抱くような疑問だった

第四師団団長ジンキサラギは

常に冷静な人物だメリットとデメリットを十分分ぶん析せきした

上で行動する思し慮りよ深ぶかさを持っているしなにより突然統制機構に

を向けて己の立場を危あやうく

させるような愚ぐち直よくなタイプではない

こんなことは実に『彼らしくない』行いだ

思い悩なやむようなツバキの

にハザマは少し驚おどろいたように「おや」と言った

「これは意外ですねツバキヤヨイ嬢じよう貴女あなた

ほどの聡そう明めいで優ゆう秀しゆうな方がおわかりにならな

い」

口元に笑みを刻んで問うハザマの試ためすような口調にツバキは小さく胸中がざわつくのを感

じたいや

味みな言い方をする男だ

ツバキはハザマという男をよくは知らないだから彼がどういうつもりでこういった物言い

をするのか

しもつかない

だがこの一言だけで黒いスーツに身を包んだ彼を好ましくないと判断する程度には気に障さわ

る語調だった

第一章 Stratum city 階層都市47

なると中々骨が折れそうです」

また帽子に手をやって雨を

りこぼす曇どん天てんを見上げハザマが今度はどこか愉ゆ快かいそうに言う

彼らの任務は人探しだった誰を探すのかといえば

「それでもなんとしてもキサラギ少しよ佐うさを探しませんとhelliphellip」

ツバキは視線を足元に落とし己おのれに言い

かせるように呟つぶやく

ジンキサラギ少佐それがツバキとハザマが探している男の名前だった

武装魔術師第四師団の団長でありツバキにとっては直属の上司だ彼の秘書官として側そばに

仕え支えてきた

その彼が数日前突とつ然ぜん統制機構の本部から

を消した

任務でもなく届け出もないこれは統制機構において重大な規律い反はんだ

一師団を預かる団長が独断行こう為いにより行ゆく方え不明などという事態は前代未みもんだ部下や他師

団に影えい響きようを与あたえるからと今のところこの一件は公になっていない

だが現状がどこからか漏えいする可能性もあるその前になんとしても連れ戻もどさなければと

ごく秘ひ任務を命じられたのがハザマであり彼が協力者に選んだのがジンキサラギの秘書官で

あるツバキだった

冷たい雨が空気を冷やすそのせいだろうか五番ポートは金属のにおいがたちこめていた

濡れた灰色の階段の向こうに上層階らしい整理された街並みがうかがえる奥へ進んでいくつか

階層を上がれば最上層である世界虚空情報統制機構カグツチ支部だ

46

だがハザマは欠片かけら

も気にした様子なくむしろそれこそ子供の反はん抗こう的な物言いに噴ふき出すよ

うに軽く笑った

「あららそっちでしたかこれは失礼いたしましたツバキヤヨイ少尉」

帽子に手をやりわずかに持ち上げて会えし釈やくしてみせるその間もずっと彼の細い首はくつく

つと喉のどを鳴らすような笑いに震ふるえていた

「少佐がなにをお考えなのかなんて我々にわかるはずもありませんよそれこそご本人を見

つけて直接お尋たずねになってはいかがです」

そうできないから疑問なのだと苦く胸中で思ったもののツバキは余計な言葉を奥にしまい

こんだ今必要なのは疑問でも感情でもないそう自分に言い

かせる

「helliphellip了りよ解うかいしました大尉」

ツバキが生き真ま面じ目めに答えるとハザマはもうひとつ笑ってから切り出した

「さていつまでもおしゃべりしていても仕方ありませんしそろそろお仕事を始めるとし

ますか」

仕事つまりはジンキサラギの捜索だ

ツバキはハザマへのけん

悪お感ではなく任務への使命感に表情を引き締しめる

ハザマは雨に濡れたカグツチの街並みを見やりながらにんまりと唇を引いて言葉を続けた

「まず確かく認にんしておきましょう我々の任務はジンキサラギ少佐を捕ほ獲かくし本部へ強制帰き還かんさ

せることただし少佐の失踪の件は公にされていませんからカグツチの

士たちへは内密に

第一章 Stratum city 階層都市49

小波のような不快感を飲み込んでツバキは

士の顔を取り繕つくろいせ筋すじを伸ばすたとえ好ま

しくなくてもツバキは少尉でハザマは大尉上官だ

「申し訳ありません大尉私にはhelliphellip」

「貴女からの報告にあったではありませんかキサラギ少佐は例の『死神』に

する報告を受

けた翌日に

を消したのだと」

ハザマは両手を軽く広げてみせる

さっきのからかうような物言いのせいだろうかそんな仕草でさえツバキにはどこか

に映る

「報告の中には『死神』つまり指名手配中のラグナザブラッドエッジがカグツチに向か

っているらしいという情報もあったそのうえで少佐がカグツチに向かったのならそれはも

う『死神』を追っての行動だとしか考えられないでしょう」

統制機構を出たジンの行き先がカグツチであるとの情報を持ってきたのはハザマだった

うっかりそんな情報を摑つかんでしまったがためにこんな辺へん鄙ぴな場所への任務を命じられてしま

ったと愚ぐ痴ちめいたことをツバキは魔操船の中で散々

かされていた

「恐おそれながらハザマ大尉それは私にもわかります私が疑問なのはなぜ少佐が統制機構を

飛び出してまで『死神』を追わなければならなかったかです」

いささかむっとしてツバキは言う言ってからすぐ無礼が過ぎたかと危きぐが過よぎった

にあるまじき子供じみた態度だったかもしれない

48

てもらえますか」

「別件ですか」

戸と惑まどうように尋ねたツバキの質問に対しハザマは肩をすくめるような苦くし笑ようだけを返し具

体的な言葉は告げなかった

ハザマの所属は諜報部だ他部署へ言えぬ用事も多かろう見えない目的に少々の怪けげん

さを

感じながらもツバキは配はい慮りよのつもりでそれ以上尋ねるのをやめておいた

「わかりましたでは下層のhelliphellipオリエントタウンの辺りから調査してみます」

「そうですねあそこはカグツチでも一番広いエリアですし身を隠かくすにはうってつけですか

らいいと思いますよ」

うんうんと適当に頷うなずきながらハザマは一歩歩み寄るとわざわざ腰こしを折って下方から覗のぞき込

むようにツバキを見た

帽子のつばで瞳が見えないけれど絡からみつくような視線が確かにこちらを捉とらえているのがわ

かる

子供に言い

かせでもするようにハザマは人差し指を一本立てた

「ただひとつ気を付けてくださいね治安が行き届いていない場所はキサラギ少佐が身を隠

している可能性も高いですが同時にラグナザブラッドエッジがうろついている可能性も

あります万が一おふたりが鉢はち合あわせて戦せん闘とうなんてことになったらもう私たちには手も足も

出せませんから」

第一章 Stratum city 階層都市51

お願いしますよ部外者はもってのほかです」

「はい」

「それから現在カグツチにはラグナザブラッドエッジが潜せん伏ぷくしているとみられますそ

のためD警報が発令されていますのでそのつもりで」

D警報とはつまり統制機構による特別警けい戒かいが行われているという意味だそのためカグツ

チの住民でない者や統制機構とは

係のない他機

がこの都市でなにがしかの活動を行うこ

とを禁止している

「D警報に抵てい触しよくする者と接触した場合はカグツチの支部に連れん絡らくを取ればよろしいのでしょう

かそれともこちらで対処したほうが」

しゃんと

筋を伸ばしハザマを見み据すえて問うツバキの様はどこにでもいる一

士と片付け

るにはいささか毅き然ぜんとしすぎる品をたたえていた

それもそのはずだ彼女は統制機構を創設当初から支え幾いく人にんも重役をはい出しゆつしてきた十二宗家

のひとつヤヨイ家本家の娘むすめなのだから

だがハザマはツバキの纏まとう品もそこからくるどこまでも真面目な性しよ分うぶんもなにもかもが面めん

倒どうくさいと言わんばかりに口元を歪めると実に雑に答えた

「あー適当でいいですよお任せします」

「はhelliphellipはい」

「じゃあ私はちょっと支部に別件の用事があるんで先に下層のほうから捜索を始めておい

50

ハザマの気さくさに引きずられることなくツバキはあくまで部下として返事をすると堅かた

苦くるしく

筋を正した

「それでは大たい尉い私は下層を見て回ってきます」

「ええよろしくお願いしますよ今のカグツチは物ぶつ騒そうですからお気をつけて」

「はい失礼いたします」

腰を折って一礼しツバキは管理小屋の狭せまい軒のき先さきから雨の中へと駆かけ出した小さく水音を

はねさせながらポートから街中へと向かう階段を上がっていく

腰までを覆おおう青いポンチョがカメリアレッドの髪かみと共に躍おどり去っていくのをハザマは管理

小屋の壁かべに寄りかかって見送っていた

やがてひ翻るがえるポンチョの青もツバキが

ね上げる水の音も完全に雨の向こうに消えるとゆっ

くりと身を起こす

「本当にお気をつけて」

低く声を喉のど元もとで濁にごらせるように呟くとハザマもまた雨の中へと悠ゆうゆ々うと踏ふみ出した

第一章 Stratum city 階層都市53

「そうhelliphellipですね」

ツバキは身を引くように俯うつむいて苦々しく答えた

ジンは統制機構でも並ぶ者なしとまで言われる剣けんの使い手だそのうえ約百年前の黒き獣けものと

の戦争『暗黒大戦』で使われたとされている事象兵器

アークエネミー氷ひよ剣うけんユキアネサを所持している

そして『死神』ラグナザブラッドエッジはこれまで数々の統制機構支部をたったひとり

で壊かい滅めつさせてきた相応の力を持った人物

このふたりがもしも刃やいばを交えることになればツバキにもハザマにも止めることはできない

その最大の理由をハザマがなぜか陽気に言い放つ

「いやはやなにせ私も貴女も戦闘は専門外いざ荒あら事ごととなったらからきしですからねぇ」

ツバキは統制機構の士官学校を出ているため最低限の戦闘訓練は経験しているだがそれ

も護身術程度のことだ卒業後はジンの秘書官として日々書類や来客の相手ばかりしてきた

そんな状態で戦闘技術の向上が見込めるわけもない

一方のハザマも自身で言う通りち諜よう報ほう活動にこそスキルはあれど武力をもって事態に当たる

ことは不得手だった

ハザマは武具の似合わない生白い手でひらりと宙を払はらってにんまりとく唇ちびるを引く

「まお互たがい無理せずいきましょう我々のお仕事はキサラギ少佐を連れ帰ることですから

そこをお忘れなく」

「承知いたしました」

52

の声だった

「しhelliphellip失礼いたします」

答える声が震えたドアノブを摑む手はもっと震えていた

転んだりしたらどうしようああどんな顔をしていたらいいだろう顔が赤くなってしま

いそうでそれだけは必死に堪こらえて平静を取り繕って

ツバキは部屋の中へと入る

最初に目に入ったのは机に向かってペンを走らせるひとりの男性の

だった

後にある窓から入り込んだ日の光が掠かすめて彼の美しい金色の髪を煌きらめかせていた長い

睫まつ毛げの向こうで情感薄うすく書面を見下ろしている瞳ひとみは離はなれた部屋の入り口からでもわかる澄す

んだ緑色をしているはずだ

部屋には彼以外誰だれもいなかった

を丁てい寧ねいに閉めると室内にはツバキとふたりきりだ

何事か書き終わったらしく机に向かっていた彼はどこかおっくうそうに顔を上げるそれ

からその目を驚おどろきに見開いた

「ツバキhelliphellip」

呼んでくれた声は

の外で

いた義務的な声とはちが

っていた

感情の温度が灯ともった声こわ色いろは表情と同じように驚いた風でそのせいかさっきより少しだけ上うわ

ずったように音が高い

「どうしてお前がここにhelliphellip」

第一章 Stratum city 階層都市55

helliphellipそれはほんの数年前のけれどかけがえのない数年をさ遡かのぼった

ある日のことだった

世界虚こ空くう情報統制機構統合本部

真まっ直すぐに伸のびる白タイルの床ゆかをツバキは緊きん張ちようの面おも持もちで歩いていた

初めて袖そでを通してまだ日数のたっていない青と白の統制機構

士の制服はまだ体に馴な染じんだ

とは言いがたくて頭に載のせたつばのない帽ぼう子しもコツコツと床を叩たたくブーツもそつなく着

られているか心配で仕方ない

胸に書類のファイルを抱えてこれで何度目になるかわからないけれど最後にもう一度長く

伸ばした髪を指先で整えて

それからツバキは目的地であったとびらを控ひかえ目にノックした

「||入れ」

一いつ拍ぱくの間をおいて

の向こうから声が返ってくる

そのしゆ間んかんツバキの心臓がドキリと大きく

ねた

感情の遠い義務的な声けれどわずかに少年らしい響ひびきの残った声はツバキがよく知る人

54

十二宗家本家の出の者が同様に宗家本家の出であるジンの秘書に着くという事例は稀まれだ

その辺りからツバキの無茶を

したのだろうジンは呆あきれたように苦笑する

思わずツバキは震ふるえる吐と息いきを漏もらした久しぶりに見たジンの笑顔だった

「秘書が来るとは

いていたがまさかお前だったとはなhelliphellipよろしくツバキヤヨイ少

尉」そ

う言ってジンは白い手てぶ袋くろをはめた手を差し出す

ツバキはファイルを小こ脇わきに抱えると見上げてくる綺き麗れいな緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し

ながら差し出された手を握にぎった

この日この時からツバキの師団長秘書としての日々が始まった

を追いかけるばかりだった士官学校での後こうはい時代とは

うとなりに

側そばに立ち

務を支える

時間が始まったのだった

2199年12月30日||17時30分

カグツチの下層へ

りていきながらツバキは注意深く周囲へ視線を向けていた

もう少し先へ行けばオリエントタウンと呼ばれるエリアに入るはずだそこはカグツチの中

第一章 Stratum city 階層都市57

仕事中らしからぬ砕くだけた物もの腰ごしにツバキは強こわ張ばっていた頰ほおを緩ゆるめたすとんと緊張が抜ぬける

「書類は届いているはずですよお読みになっていないんですか」

ツバキはファイルを抱えて机の前まで行くといぶかしげな彼へ敬礼し

筋を伸ばした

「本日付けで武装魔ま術じゆ師つし第四師団団長ジンキサラギ少しよ佐うさの秘書官に任命されましたツバ

キヤヨイ少しよ尉ういであります少佐よろしくお願いいたします」

型通りだけれど昨晩から部屋で何度も練習した言葉だ

ミスなく言えたことにツバキがほっとしているとジンが驚おどろきに持ち上げていた眉まゆをわずか

に怪けげんそうに寄せた

「少しよ尉うい」

問われた理由はツバキにもよくわかる

ツバキは世界虚こ空くう情報統制機構において貴族的地位にある十二宗家の生まれだ十二宗家の

者は統制機構の士官学校卒業後最低でも中ちゆ尉ういの階級を与あたえられる

ツバキも例外ではなく卒業直後は中尉であったそれがなぜ現在少尉なのかというと

重大な理由がある

「それはその」

ツバキは言いにくそうに口ごもった

本来別の配属だったところをどうしてもジンの秘書官になりたいと粘ねばりその要望を通す代

わりに

格となったとは彼の前ではとても言えない

56

かしこも濡れていた

通り過ぎる建物細い横道の向こう物もの陰かげすれ

う人ツバキは視界に映るすべてに神経

を向ける

自然と歩調が速くなるのは募つのる焦あせりゆえだ知らず知らずのうちに手はきつく握られていた

(キサラギ少佐helliphellip)

もう何度心の内で呼びかけたかわからない

唇を固く引き結びまるで縋すがるように視線を左右へ走らせるその表情はただ行方ゆくえ

不明の上

官を探しているだけには留とどまらない深い感情の揺ゆれがあった

(どこにいるんですかhelliphellipジン兄様helliphellip)

ツバキはジンキサラギの秘書官だだがそれ以前からジンはツバキにとって特別な人だ

った

ツバキが十二宗家ヤヨイ家の娘むすめであるならジンは同じく十二宗家キサラギ家の子だ互い

に幼いころから知っていた幼いころから顔を合わせ言葉を交かわし時には子供らしく遊ん

だりもした

ツバキが統制機構の

士を目指して士官学校に入ったのも先に入学し将来は師団長を期待

されていたジンの後を追いかけたかったからだ

ジンは勉強も武術もなんでもできたけれどツバキは運動が苦手だっただからせめて勉強

だけは追いつこうと必死に学んだ学生時代はジンが会長を務める生徒会で共に働いたことも

第一章 Stratum city 階層都市59

でも一ひときわ広く人口の密集したエリアだと

いている

人を探すには不向きな場所だだがだからこそジンが足を向けた可能性はあるとツバキは

考えていた

そこならば容易に人ごみに紛まぎれることができるし入り組んだ路地や階層都市の構造のすき間ま

に身を隠すこともできるなにより下層は統制機構の

士が少なく上層に比べて監かん視しの目が

緩い

統制機構が追手をかけることはジンも十分わかっているだろうならばその目を避さけるのは

当然のことだ

同時に同じように追われる身であるラグナザブラッドエッジが下層を潜せん伏ぷく場所に選ぶ

可能性もジンならば考えたはずだ

硬かたい地面に青いブーツのくつ音おとを響かせてツバキは足早に歩く鮮あざやかな色の髪がしっとり

と雨に濡ぬれる

短い階段を

りるとその先はオリエントタウンの街外れだった

使われているのかいないのかわからない寂さびれた雰ふん囲い気きの倉庫が並びその先にわずかに芝しば生ふ

の植えられた広場のようなものがあるぽつんと佇たたずむ外灯は所々に錆さびの染しみがこびりついてい

た下

層は上層の地盤があるためほとんどが空をさえぎられ屋外でありながら屋内であるかのよう

に天候の影響を受けにくいだがこの辺りはまだ他層より突つき出しているらしく雨でどこも

58

けれど『死神』を統制機構の他

士と同じように考えるのは危険だ

彼は単身で統制機構を相手に反逆行こう為いを繰くり返かえしこれまでただの一度も拘こう束そくされることな

くとう

亡ぼうを続けている並なみ大たい抵ていの力では不可能だということを彼を追うべき立場でもあるツバ

キはよく理解していた

ラグナはおそらくとても強いもしかしたらジン以上に

それになにより恐おそれるべきはそのき凶よう悪あく犯が持つ魔ま導どう書しよだ

||蒼の魔道書

ブレイブルー

かつて黒き獣けものと戦った暗黒大戦時代にある魔ま法ほう使つかいによって術式という技術が開発された

魔法を模したもので魔素を使い火を熾おこしたり水を呼んだりと様々な現象を引き起こすことが

できる技術だ

その術式を扱あつかうために必要な鍵かぎが魔道書だった

蒼の魔道書

ブレイブルー

は世界中に数え切れないほど存在している魔道書の中でも最強と囁かれている

(ジン兄様でも蒼の魔道書

ブレイブルー

を相手にして無傷でいられるはずがない下手をしたらhelliphellip)

そこまで考えてツバキは走った悪お寒かんに身を震ふるわせた

蒼の魔道書

ブレイブルー

は最強とその威いり力よくを絶大に評価されながらも詳くわしいことは知られていないとい

う奇きみ妙ような魔道書でもあった

そもそも魔道書は〞書〝でありながら形状は様々で本の形をしているとは限らない

ラグナザブラッドエッジの蒼の魔道書

ブレイブルー

も彼が持っているという事実は認にん識しきされている

第一章 Stratum city 階層都市61

あった

淡たん白ぱくな物言いをしたり鋭えい利りな目つきをすることがあったから周囲は時折彼のことを冷たい

人だと囁ささやいた

けれどツバキにとってはいついかなるときも彼は優やさしい兄だった

細く美しい金色の髪に涼すずしげな緑色の瞳すらりとした体たい軀くに白い肌はだ整った顔立ちそ

の聡そう明めいな横顔に時々本当に時々だけれどhelliphellip見み惚とれたりもした

頼れるツテというツテを頼ってどうにかジンの秘書官の座を手にしたときはどれほど嬉うれし

かったことか

慕したっていた憧あこがれていた屋や敷しきの奥でひとり毬まりつきをしていた幼子のころから今でもずっ

「ジン兄様helliphellipっ」

急ぎ足だった歩調はいつしか小走りに変わっていた爪つま先さきが小さな水たまりを踏んで水すい滴てきを

ね上げる

一刻も早く見つけ出したかった心臓が軋きしむように胸を打つ

ツバキの頭に浮うかぶ最悪のケースはやはりどこかでジンと『死神』ラグナザブラッド

エッジが遭そう遇ぐうしてしまうということだった

ジンは強い統制機構の中でも彼とまともに剣けんを交えることができるのは数えるほどしか

いないだろう

60

ぎゅっと一ひときわきつくこぶしを

胸むな元もとで握るとツバキは首をふって雑念を払はらった

余計なことを推測している場合ではない今は一刻も早くジンを探すことそれだけを考え

なければ万が一今回の行動のせいでジンが反逆者とみなされたりしたら取り返しがつか

ない

急ごう自分をしつ

咤たするように大きく足を踏ふみ出してなにやら小さく物音の

こえた広場

の裏手へ回ってみる

物置だろうかふたつ並んだ小屋の裏を通り抜けようと狭せまい角を曲がった

その途と端たん目の前に壁かべが現れた

「きゃっ

あまりに突とつ然ぜんのことでとても対処できずツバキは進入した

いそのままに壁に激げき突とつした

だが直後に気付く

壁というにはあまりに分厚く建材にしては感かん触しよくがやわ

らかい

「むhelliphellip」

壁の向こうから声がした腹に響ひびくような低い男の声だ

ツバキの目の前にそびえるそれは壁などではなく見上げるほど巨きよ大だいな男の

中だった

「ああすまなかった怪け我がはないか」

そびえる巨きよ軀くはその異様なまでの圧あつ迫ぱく感に似合わぬ紳しん士し的な物もの腰ごしで語りかけのそりと重く

振ふり返る

第一章 Stratum city 階層都市63

もののそれがどんな形状をしているのかはわかっていない

それどころかいつどこで蒼の魔道書

ブレイブルーが造られその秘ひめたる力はどんなものなのか世界

虚空情報統制機構のち諜よう報ほう部ですら正確には把は握あくしていないという

ただでさえ強い『死神』であるのにそのうえ正体のわからない魔道書まであってどう楽

観視できるというのか単身でいどみかかるなど無茶にもほどがある

(helliphellipジン兄様はラグナザブラッドエッジを捕つかまえるためにひとりでカグツチまで来た

のかしら)

物もの影かげに目を凝こらしながらツバキは独り言のように思った

たとえ独断行動によって強制帰き還かん命令が下されているとしてもジンは統制機構の

士であ

り師団長だ『死神』を追って統制機構を飛び出したのだとしたらその目的は凶悪犯の捕ほ縛ばく

以外に

えられないとツバキは思っていた

けれど本当にそうなのだろうかふとそんな疑念が過よぎる

(でもだってそれならどうして誰にも言わないで出ていく必要があったっていうの私に

もなにも言わないで)

なによりそのことが胸に突き刺ささる

ジンは心根の読めない人だけれどそれでもなにかあったときはいつだって一声かけてくれ

たのに

「ううん理由はジン兄様を見つけてから直接

けばいいことよ」

62

者も多いそのほとんどはべつ

称しようとしての呼称だ

赤鬼と呼ばれた巨きよ漢かんがどんなつもりでその

称を使ったのかはツバキには読めないけれど

好感情でないことは見るからに明らかだった

テイガーは身構えることこそしなかったものの眉み間けんに深い皺しわを刻み厳いかめしい渋じゆ面うめんでツバ

キを見み据すえる

「helliphellipすまん図書館の

士と接せつ触しよくした」

ツバキから視線を逸そらし耳元へ大きな手をやってテイガーが低く何者かへ告げる直後に

ノイズのような音が走った通信だ

「通信を切ってくださいそこを動かないで」

素す早ばやくツバキは護身用に支給されているけん

銃じゆうを腰こしから抜ぬいたしっかりと両手で握にぎり銃口

を赤鬼へ向ける

テイガーはわずかに首を動かしてツバキを見やったもっとも分厚いレンズの丸眼鏡ごし

では奥の眼まな差ざしまではうかがえない

見下ろす威い圧あつ感に気け圧おされそうになりながらもツバキは努めて厳しく赤鬼を睨にらみ据すえた

「現在第十三階層都市カグツチにはD警報が発令されています第七機

を含ふくめ全すべての他機

の介かい入にゆうは禁止です答えなさいここで一体なにをしていたのですか」

「やれやれ銃を下ろせ

士の少女そんな玩おも具ちやのようなものでは私のボディを傷つけるこ

とすらできんぞ」

第一章 Stratum city 階層都市65

異様なのはなにも体の大きさだけではなかった

人の肌にしては赤みの強すぎる肌の色ただでさえ屈くつ強きような太い腕うでに取りつけられたぎ仰ようぎ々ようしい

手て枷かせのようなパーツ引き締しめられたく唇ちびるから上向きに伸のびる白いきば

鬼おに

約百年前に滅ほろびた日本という国の昔話にそんな怪かい物ぶつが登場したはずだツバキは幼いころに

読んだ絵本を思い出す

それと同時に目の前にいる赤い巨きよ人じんが誰だれなのかを思い出した

「貴方あなたhelliphellip第七機

の赤あか鬼おに」

呼ぶと同時にツバキは数歩下がって身構えた

第七機

術式を主体とした統制機構の世界統治に異を唱え術式に頼たよらない世界を作ろう

と企くわだてている外部機

赤鬼はその第七機

に所属する兵士でありその巨軀からも想像できるように圧あつ倒とう的てきな制圧

力を誇ほこる

正式名めい称しようはTR0009アイアンテイガー

第七機

の研究者によって造られたサイボーグだ

向こうもこちらの

に気付いたようでツバキの胴どう回りよりも太そうな足を一歩引いた

「その制服図書館か」

術式の乱用を防ぐために世界中の魔道書を集め管理していることから統制機構をそう呼ぶ

64

きません」

まるでなだめるように語りかけるテイガーの語調が余計にツバキの態度を頑かたくなにさせる

ここで弱よわ腰ごしを見せればそれは統制機構そのものが第七機

に対して弱腰になったとみなさ

れるようなそんな気がしていたそんなことは許されない

世界の秩ちつ序じよを守る統制機構の

士が平和のために戦う武装魔ま術じゆ師つし第四師団の団長秘書が

規律を犯おかした第七機

の兵士と取り引きめいたことをするなんて

銃を構え巨体の赤鬼を見据えたままツバキは手の中に握りこめる小さな通信機を取り

出した

ひとりでは対処しきれない早急に応おう援えんを呼ぶ必要があった

「武装魔術師第四師団所属ツバキヤヨイ少しよ尉ういです現在カグツチ下層オリエントタウンで第

七機

のhelliphellip」

「参ったなできれば穏おん便びんに済ませたかったのだが」

赤鬼が低くなにごとか呟つぶやく

その言葉の意味をツバキが理解するより早くテイガーが大きく前に踏み出した

伸ばされた腕がまたたく

間にツバキに迫せまる軽く握られていた

がツバキの目の前で開かれるや

否いなや

「きゃぁっhelliphellip」

放たれた電でん撃げきが通信機を弾はじき飛ばしツバキに細い

鳴を上げさせた

第一章 Stratum city 階層都市67

「っそんなことは

いていません質問に答えてください」

呆あきれたようなテイガーの物言いに咄とつ嗟さに腕を引き戻もどしそうになったがそれを堪こらえてツバキ

は銃口と眼光を向け続ける

相手はサイボーグだ戦いになったらもちろん勝ち目はないがそれ以上ににげられたらと

ても追いつけない

自分の任務はジンキサラギの捜そう索さくだと重々承しよ知うちしているだが周囲には他に統制機構の

士の

はないここで見みのがせば彼ら第七機

がカグツチと統制機構にどんな混乱をもたら

すかわからないと

えるととても目をつぶることなどできなかった

ザザッと再びノイズが走る

「ああ大だい丈じよ夫うぶだ問題ないすぐに任務に戻る」

通信の相手の声はツバキには

こえないただそれに答えるテイガーの声はあまりに危機感

から遠くすでにツバキとの問題は解決したとでも言うかのようだ

侮ぶじ辱よくされたような思いに駆かられてツバキは鋭するどく声を尖とがらせる

「通信を切りなさい

勝手な行動は許しません」

「そういきり立つな我々はなにも統制機構の業務を妨ぼう害がいするためにカグツチに来たわけでは

ないどうだここはお互たがいかかわらなかったことにしないかこのまま行ってくれれば私は

お前に危害を加えなくてすむ」

「それは反逆の意志ありということですか

どんな目的にせよこの場を見

すわけにはい

66

2199年12月30日||18時00分

幾いくつの路地を抜け幾つの角を曲がっただろう

人のような

をしながら人にあるまじき動きで先導するタオカカがラグナを連れてやってき

たのは外の明かりも差し込まぬ暗い暗い下水道だった

「こっちニャスよいい人〜」

呼びかけタオカカは投とう棄きされたらしい瓦が礫れきやら壊こわれた家具やらの山をひょいとと

び越こえた

外から隔かく離りされた場である上に時間も遅おそいたとえ微かすかなすき

間まがあってもわずかな光さえ

望めない

それなのにラグナやタオカカが問題なく歩けているのは投棄された瓦礫や積み上がったヘ

ドロにこびりついて生えている奇きみ妙ような苔こけのおかげだった

それらがほのかに青緑色の光を帯びているせいで下水道は一寸先も見通せない暗くら闇やみに閉とざ

されずにすんでいる

タオカカを追いかけて粗そ悪あくな足場に多少もたつきながらもラグナが続く

「おい本当にここから上に出られるんだろうな」

第一章 Stratum city 階層都市69

その一撃だけでツバキの意識は遠のいたかくりと膝ひざが折れ力なく崩くずれ落ちる

「っとhelliphellip」

そのたおやかな体が硬かたい地面に倒たおれ伏ふす前についさっきまで電撃を纏まとっていたテイガーの

腕が受け止める

そのまま抱かかえ上げると力なく気を失った青と白の制服の少女を見下ろしテイガーはため息

をついた

「やはりひ戦せん闘とう要員か無茶をする」

『helliphellip言っておくが

わるなよ』

ノイズが走りテイガーの通信機から不ふ愉ゆ快かいそうな女の声が漏もれた

ツバキを抱えたままテイガーは空いていたもう一方の手を耳元にやる上向きの

のよう

な犬歯が突つき出た口元はツバキと対たい峙じしていた先さき程ほどよりもさらに苦々しく歪ゆがんでいた

「雨の中でこんな街外れに放ほうり出すわけにもいかないだろうまだ若い娘むすめだ」

『任務が最優先だ余計な時間はない』

「helliphellip少しの間通信を切るぞココノエ」

『なんだと

おい勝手な真ま似ねはhelliphellip』

装着している本人以外には

こえないであろう小さな音をたてて通信は途と切ぎれた

テイガーは雨

る広場に

を向けて歩き出したその足が向かう先には空を上層の市街に

さえぎられ提ちよ灯うちんの明かりとネオンが煌きらめく薄うす暗ぐらい街オリエントタウンが広がっていた

68

「ニャス」

「かっぱらいじゃねぇか」

張り上げたラグナの声はくわんと寒々しく下水道に響ひびいた

その反はん響きようが

まると今度はまたじめっとした静けさがやってくるどこからか滴したたり落ちて

床では

ねる水の音がいちいち不気味だった

色いろ濃こい影かげの向こうで得体の知れないものが蠢うごめいてこちらを覗のぞきこんでいるような錯さつ覚かくを抱

くぞ

っと走った悪お寒かんにラグナはぶるりと身み震ぶるいし先を行くタオカカの後を追う

がhelliphellipラグナは不意に顔をしかめると足を止めた

(錯覚じゃねえ誰かがこっちを見ていやがる)

淡あわく光る苔が刻んだ色濃い影の奥歪いびつな瓦礫の山のどこか

視線を感じる

いや視線だなんて生易しいものではないもっと根本的なもの存在や意志そのものとい

ったものがこちらを一心不乱に捉とらえているようだ

「いい人〜

どしたニャス」

ラグナがついてこないのを不思議に思ってタオカカが引き返してくる積み上げられたな

にかの残ざん骸がいを軽かろやかに

び越え着地するその小さな足音がきっかけになったのだろうか

「キキキキキキキキキキキキ」

第一章 Stratum city 階層都市71

瓦礫の山から飛び

りた先がオイルかなにかでぬめるラグナは反射的に顔をしかめて三

角耳がぴくつく白いフードの後頭部へ少々の苛いら立だちを込めて問うた

抜け道とは往々にして楽な道ではないとラグナはこれまでの経験で学んでいただがここ

は今まで通って来た『抜け道』と比べても相当な悪路だ

濡ぬれているわけでもないのに床ゆかの壁も天てん井じようもじっとりとしていていやな湿しつ気けが外から入り

込んでいるらしい濃こい魔ま素そと混ざって肌はだと肺にこれでもかと不快感をくれる

一段

りたところには廃はい棄き物ぶつと一体化した汚お水すいが吐はき気けをもよおす悪あく臭しゆうを放ちながら泥どろ水みず

のような重さで流れている

これが街からそう離はなれていない場所を流れ通っているというのに外にはさほどふし臭ゆうが漏れな

いことを思うと階層都市の工事技術はでたらめに見えて意外としっかりしているようだ

もうすっかり馬ば鹿かになった鼻をこすりラグナはぽつりとそんな感想を抱いだいた

「本当ニャスよくここ通って上でパンとかお菓か子しとかもらってくるニャス」

言ってタオカカは下水道の天てん井じようを見上げた黒ずんだ頭上は突つき出た鉄パイプや金属板が

複雑に組み合っておりその奥のずいぶんと高いところに張りついた闇やみのような天井が見てと

れる

さらにずっと向こうに目指している上層の街があるのだろう

つられて見上げてラグナはため息に肩かたを落とした

「もらってくるってまさか店のもん勝手に持ってってるんじゃねぇだろうな」

70

気味の悪さに怖おぞ気けよりもけん

悪お感が走る

影はいやに粘ねん着ちや質くしつな動きでぬめる床に着地するとむくりと上体を起こすような動きを見せ

た判然としないが苔光で浮かび上がる奴やつの足元でなにか小さな生き物が蠢いている気がす

る戸と

惑まどいつつも身構えるラグナのすぐ側そばにタオカカが駆け込んできて頭を低くさせ唸うなった

長い尾おがぴんと立ち上がって毛を逆立て膨ふくれている

「コイツうねうねニャス」

「うねうね

なんだそりゃ」

「悪いヤツなのネ

タオたちの村を襲って小さいカカを食べちゃうのニャス」

さっきまで陽気だった表情を目め尻じりをつり上げた憤ふん怒ぬのそれに変えてタオカカはわんと声を

響かせ威い嚇かくする

その様をあざ

笑わらうかのように白い面を浮かべた影は全身をあわ

立だてるように震ふるわせた

「キヒヒヒいる

いるぞ

るぞ力蠢く醜しゆうな

想を叶かなえ

ために肯

は不可欠

がい

念ねんの否定

閉とざ

た門が招くはずだ

ちが

いギヒヒヒヒヒヒ」

影が震え笑うたびに空気が淀よどむ

ラグナは険しく顔をしかめた

これは魔素だ

外から流れ込んできているのではないこの目の前にわだかまる影からあふ

れ漂ただよい下水道の

第一章 Stratum city 階層都市73

空気を引き裂さくような声と共に突とつ然ぜん影かげから影が飛び出したさらにそこから槍やりのような鋭

い影が無数に飛び出しラグナに襲おそいかかる

「ぅぐぁっ」

あまりに唐とう突とつであまりに周囲に同化した

に反応が遅おくれた分厚く布の裂ける音が散り一いつ

緒しよに皮ひ膚ふと肉をえぐり刺さすように持っていかれる

火がついたように痛む肩を引いてもう一方の腕うでで剣けんを抜き目の前の影を払はらった

手て応ごたえはないまるで本物の影を切り払ったかのようだ

「グギギギhelliphellip真

理へ至

我が

を求

我に求め

真相を

くhelliphellip」

人の声のようなそうでないような奇き怪かいな声こわ色いろで奇怪な言葉を口走りながら影は

び退すさっ

た高質化したヘドロと瓦礫の間でふわりと浮ういてわだかまる

初めラグナはどこからか紛まぎれこんだ魔まじ獣ゆう||高こう濃のう度どの魔素によって歪んだ生態系が生んだ

理性なき凶きよ暴うぼうな獣けものかと思った

だがどうにもちがう不定形なそれは奇妙で歪いびつで不可解で生物とはとても思えぬ

形をして

いた

ぐるりと影が動くとわだかまる闇の内側から面が現れる

白い円形に三つただ孔あなを開けただけの目と口顔のつもりだろうかそれが黒ずんだ不定

形の影の中で唯ゆい一いつの定形であるようだった

「なんhelliphellipなんだこいつは」

72

ふつとい憤きどおりがラグナの腹の底で沸わく

統制機構が大事に大事に抱えて地下深くにしまい込んでいる窯それを統制機構だけでなく

あちこちの機

や研究員学者が欲ほつしている窯を所有するということは窯が繫ぐ境界の一いつ

端たんを所有することと同意だからだ

誰も彼も境界には人じん智ちを超こえる素す晴ばらしい財産が眠ねむっていると信じている人智を超えた

ものなど人間に御ぎよせるはずもないのに

まったくいや

気けが差す頭にくるそんな窯を我が物顔で掻かき回す統制機構もそれを追いか

けるように窯を求める連中もどいつもこいつも

「こうなっちまったらもうどうしようもねえ悪く思うなよhelliphellipもっとも人を怨うらむほどの

理性があればの話だけどよ」

このままこいつをここに放置すればタオカカの言っていた『村』に留とどまらずさっきのオリ

エントタウンや下層の街に出て人を襲うようにもなるだろう

ラグナは剣の切っ先を下方に向けたまま化け物に深く踏ふみ込んだ

カグツチにはなんの思い入れもないがだからといってあからさまな害悪を目の前に置かれ

て放ほうっておけるほど利口でもない

迎むかえ撃うつように身を広げるアラクネの胴どうを||胴らしき部分を横よこ薙なぎに切り払う

「グポポhelliphellip」

「ちぃっ」

第一章 Stratum city 階層都市75

ありとあらゆるものを侵しん食しよくしているのだ

それはこの影のような物体のまとう黒いものが全て魔素であることを意味していたそし

て魔素のか塊たまりであるこの奇怪な化け物がその容

に似合わず人の言葉らしい音を発しているの

はこれが元々人語を解する存在であったことを物語っている

つまり人間だ

タオカカが『うねうね』と呼びオリエントタウンの一部の人はアラクネと呼ぶ黒ずんだ不

定形の化け物はこうなる前人間だった

ラグナはこみ上げてきた

悪感を舌打ちに変えて吐き出した

「こいつ境界に触ふれたなhelliphellip」

ラグナが各地の統制機構支部を回り

々に破は壊かいしている支部地下の『窯かま』その窯によっ

て現世と繫つながれた異界||境界

そこは人知の及およばぬ不定形の場であり中は地表の比ではない濃のう度どの魔素が渦うず巻まいていると

いう

濃い魔素が魔獣を生んだように人もまた高濃度の魔素に触れ続ければ理性が魔素にのみ込

まれやがて境界に引きずり込まれて人でいられなくなる

臭にまみれて粘ねん液えきのような体を蠢かせ奇怪な音で語るこの黒い化け物アラクネは

そうして人でいられなくなった誰だれかのなれの果てだった

「あんなもんに手ぇ出してなにがしたかったのか知らねえがhelliphellipこの馬鹿が」

74

だ身が捻ねじれ後方へべちゃりと倒たおれる

それと同時にタオカカの体がひらりとラグナのとなりに

着地した爪を

めた大きな手をシュッ

と前に突つき出して威嚇する

それを横目にラグナは軽く笑った会って間もないこちらも奇妙な生物だが『うねう

ね』と

ってこいつと並ぶのは悪い気がしない

「何年目じゃなくてここで会ったが百年目な」

「おおんじゃあ百年分ギタギタにしてやるのネ」

「まなんでもいいか」

抜ぬけ落ちるような緊きん迫ぱく感を再び引き寄せてラグナはしっかりと剣を握にぎる

一度は黒い泥溜だまりのようになったアラクネはすぐさま波打つような動きで起き上がると

ごぼりと足元を鳴らし魔素を噴ふき散らす

「ギギギhelliphellipよこ

よこせ

れは我

らう

淵えんがい

見て

目からのが

れな

運命

らはのが

れない」

「なに言ってんのかわけわかんねぇんだよ

楽にしてやるからとっととくたばりやがれ

この生ゴミ野や郎ろう」

ついた魔素を払うように乱暴に剣を振るうとラグナは腹から雄お叫たけびをあげつつ高く得物を

振り上げ魔素に取り込まれた人ならざる者へと叩きつけた

第一章 Stratum city 階層都市77

ごぼごぼと濁にごった音をたててアラクネの体がしゆ時んじにラグナの視界から消える

下だ舌打ちしながら蹴けりつけるラグナの足の下を通ってアラクネは赤いコートの

後で

再び体を持ち上げる

「キサマキサ

くらう

人間であるならあるいは四し肢しを持つ生物であるならおよそあり得ない角度から黒い塊が

ラグナを

ね上げるように突とつ出しゆつする

咄とつ嗟さにラグナはそれを剣で受けた感かん触しよくは重くどろりとしている

さらにもたれかかるように剣の表面を伝う泥どろのような魔素から突とつ然ぜん奇き怪かいな蟲むしが飛び出して

きた見たこともないひたすらに

悪感をあおるような不可解で不ふ愉ゆ快かいな蠢くもの

「うげっ」

吐き気のような

悪感に弾はじかれるようにしてラグナの足が勝手に距きよ離りを空ける

その間に割って入るように鋭するどい爪つめが振ふり下ろされ飛び出した無数の蟲を切り裂いて叩たたき落

とした

勇ましく飛び込んできたのはタオカカだ

「うねうね

ここで会ったが何年目

タオがぎったぎたにしてやるのネ」

爪を振り下ろす動作から着地をはさまず宙で身を捻ひねるとタオカカは反対側の爪でアラクネを

切り裂く

爪はえぐるようにアラクネの顔らしき部分を捉えた陶とう器きが割れるような音をたてて黒ずん

76

双そう眸ぼうは薔

さえ霞かすむ深しん紅くで容

からうかがえ

る幼さには似合わないほどの気品と優美さをたたえ

ていた

少女の名はレイチェルアルカード

十を超えた程度のまだあどけない少女のように見えるがその実約百年を生き続ける吸きゆう

血けつ鬼きだ

千年以上前から続く吸血鬼の一族アルカード家の現当主であり薔

園を見下ろす城の主あるじで

あり

月と夜空と薔

と城を抱いだくこの常夜の空間の主でもある

ここは世界のあらゆる場所から断絶された地点でありながら世界のあらゆる地点へ繫が

る場所

空間と空間の間に漂い世界と世界の狭はざ間まに留とどまる領域

アルカード家の当主が管理する特別な住まいだった

カップを金のスプーンが横たわるソーサーへと戻もどしレイチェルは物もの憂うげに吐と息いきをく唇ちびるから漏も

らした

蔦つた模様に絡からみ合うスチールテーブルの上に飾られた薔

の切り花が微かすかに香かおる

レイチェルは昼の来ない領地での時間をこうして薔

園のテラスで多く過ごした

は好きだ美しいし香りがいいそれになにより遠き日に亡なくなった父が愛した花

だから

第二章 Spiral fate 盤上の駒79

第二章

Spira

l fate

||盤ばん上じようの駒こま

真っ赤な薔ばら

に彩いろどられた見事な庭園を青白い満月が見下ろしていた

静かな夜だった空気は凜りんと冷え夜の帳とばりが世界はここまでだと区切るように色濃く辺り一

帯を包んでいる

園の奥にはおとぎ話の中から抜け出てきたかのような美しく愛らしい城がそびえており

だ橙いだいい色いろをした明かりの揺ゆれる窓が無数の瞳ひとみのようだ

その城を赤薔

の生いけ垣がきの向こうになが

める庭園のテラスでひとりの少女が小さな丸テーブ

ルに向かい優ゆうがにティーカップを傾かたむけていた

月下にありながら眩まぶしいほどに輝かがやく長い金色の髪かみを左右でふたつに結ゆわえ大きなリボンで

飾かざられている華きやしやで小さな体には黒い豪ごうしやなドレスを纏まといそこから伸のびるやはり小さな手

は陶器のように白く滑なめらかだ

カップの中で揺れる紅茶を

めていてもどこか遠く世界の果てを見み据すえているかのような

78

「今夜も見事でしょう

お父様」

ふとわく感傷に任せて呟つぶやいてみて彼の愛した薔

の香りの紅茶を飲むそんなときのほん

の一

レイチェルの心は微かに慰なぐさめられるのだ

夜の終わらないこの城は時間の流れとは無む縁えんだ夜が永遠であるように時間もまた永遠

でありレイチェルの時間もまた永遠であった

それでも退たい屈くつはやってくる時にはこうしていつかの日を想おもいため息でもついてみねば

枯かれることのない薔

のように言葉を忘れてしまいそうだった

「失礼いたしますレイチェル様」

コツと革かわぐつの硬かたい音がテラスの煉れん瓦がタイルを叩きしわがれた声が穏おだやかに呼びかけた

レイチェルを振り向かせることなく乱れない歩調で少女の視界の端はしまでくると声の主白はく

髪はつを

で束ねた長身の老人は胸むな元もとに手をあて浅く腰こしを折る

ヴァルケンハインRヘルシングレイチェルの父クラヴィスアルカードの代からアル

カード家に仕え今はレイチェルと共に在る老しつ事じだ

微びし笑ように皺しわを刻みすきなく佇たたずむ

はレイチェルに劣おとらず品がいい

だが彼もまた人間ではなかった人であり獣けものでありどちらでもありどちらでもないおおかみ

男おとこだ

外見から想像できる重ねた歳としよりずっとたくましい肉体が質のいいバトラースーツの上からで

える

80

つぶらな瞳と口角の上がった口がやはり小さく愛らしい

黒くろ猫ねこのソファはナゴ赤いゴム毬まりはギィ共にレイチェルの使い魔だ

「姫様のお気に入りっすよねー姫様ってああいう男が好みなんすか

意外とダメな男に引ひ

っ掛かかるタイプっすね」

小さな羽を忙いそがしくパタつかせて楽しそうにギィが話すとその

らかな両りよ頰うほhellipおhellipというよ

り頭部を素す早ばやく伸びたレイチェルの手が摑つかみ左右に思い切り引っ張った

「なに

よく

こえなかったわもう一度言ってみてもらえるかしら言えるものならね」

「イデデデデひひめひゃまいひゃいいひゃいれすぅぅぅぅぅ」

「アンタってほんと口で身を滅ほろぼすタイプよねぇ」

通常の二倍に顔を広げたギィを見やってナゴが呆あきれたようにため息を送る

情けない

鳴をひとしきり

いた後にレイチェルはあっさりギィから手を離はなしたバチン

と音がして赤い頰が元の真ん丸い形状に戻る

それを横目にレイチェルはテーブルの上に生けられた赤薔

の花弁へ触ふれた

「彼がそこまで来たのならもうすぐ二一九九年も終わるのね」

「左様でございますな」

どこか歌うように呟くレイチェルへ恭しくヴァルケンハインが返す

「そして世界も」

微かな声で付け足された一言にはヴァルケンハインはなにも返さなかったレイチェルが

第二章 Spiral fate 盤上の駒83

「どうしたのヴァルケンハイン」

白い指先をティーカップの縁ふちで遊ばせレイチェルが赤い瞳を向けて問う

ヴァルケンハインは頭を下げたままう恭やうやしく答えた

「ラグナザブラッドエッジがカグツチに現れたようです」

無む駄だなく必要なだけを伝えるヴァルケンハインの言葉にレイチェルは陶器の縁をなぞる指

先を止めた

そのまま指を小さな取っ手に引っかけ中身の少なくなったカップを持ち上げて一口飲み

それをソーサーに戻してからやっとレイチェルは唇を動かした

「そうhelliphellipもうそんな時間なのね」

独り言のようなレイチェルの呟きに続いて

唐とう突とつにふたつの声がこれまでの静かで密ひそやかだった雰ふん囲い気きを不意に賑にぎやかせた

「あらぁん姫ひめ様ラグナってあの白いツンツン頭のボウヤよね」

「オイラも覚えてるっすよあの生意気なヤツっす」

先にハスキーな猫ねこなで声で言ったのはレイチェルが腰こしかけている椅い子すそのものだった一

見黒いソファに見えたそれはよく見ると

もたれの上部に三角の耳と猫の顔がありその猫の

顔が話していたのだ

続いた甲かん高だかい陽気な声はレイチェルの足元から弾はずんだゴム毬まりのようにとび上がった赤くて

丸い生き物のもの見るからにやわらかそうな体からは小さな手足と小さな羽が突き出ており

82

影の中に浮うかぶ幼児の落書きのような目玉らしき緑色の丸と不気味に裂さけた赤い口が椅

子に腰かけるレイチェルを見つけて気味悪く笑えむ

どこからどう見ても人ではなくましてや吸血鬼でも

男でもない

これは思念だ肉体を持たない意志だけの存在ある男の精神体だった

「よ〜うクソ吸血鬼今回もお供と犬っころ連れてお茶会か

ずいぶんのん

気きなもんだなぁ

オイ」

許可もなく薔

園に踏ふみ入ってきた無作法者の精神体はこもった声でいや

味みに語りかける

とたんにヴァルケンハインが険しく顔をしかめギィは情けない

鳴をあげてそれこそゴ

ム毬のような俊しゆ敏んびんさで主の黒いドレスの

後へと隠かくれた

レイチェルは冷やかに影を見据える

軽く腰を浮かせるとそれまで椅子としてそこにいたナゴが体をくねらせて

を黒い傘かさへと変

えレイチェルはそれを手に立ち上がった

唇にこそ優美な笑みを浮かべていたが少女の深紅の瞳にはただただけん

悪お感かんが塗ぬり固かためられ

ている

を見せるだけでこれほどまで人を不快な気持ちにさせるのはある意味

能ね感心する

わテルミ」

の香りのように

らかにけれど薔

の蔦のように刺とげと々げしくレイチェルは言い放つ

言葉の先にいた精神体の男テルミと呼ばれた影は風にでもあお

られたかのように体を揺らし

第二章 Spiral fate 盤上の駒85

求めていないことを理解していたからだ

代わりに

男の老

事は乱れぬ声こわ色いろで問う

「レイチェル様紅茶を新しいものにお取り換かえいたしましょうか」

「helliphellipそうねお願いしようかしら」

本当は出かける用事ができたところだったけれど今はもう少しだけここでの無益な時間を

浪ろう費ひしたい気分だっただって

(今回もいい結果は期待できそうにないものね)

独り言のような呟きを胸の内でそっとこぼしレイチェルは掠かすれ消えるような吐息をつく

がすぐにその息を

み込むように眼光を鋭くさせた

真紅の視線が見据えるのは延々と続く薔

園のほうだ

「ヴァルケンハイン招いてもいない客が来たようね」

深い緑の葉をざわめかせて風が吹ふく風を招いたのはレイチェルだ涼すずしい夜気に混じって

漂ただよってきたいやな気配をはね退のけるために

円形に整えられたテラスの隅すみのほう薔

の生け垣の前の空間が目め眩まいでも起こしたかのよう

にくらりと歪ゆがむ

そうして現れたのは影かげだった

黒い体に緑色を纏まとわりつかせたような色しき彩さいでぼんやりと漠ばく然ぜんとした人型のなにかがそこに

立っていた

84

敵てき愾がい心しん

「それで一体なんの用

今がどういうじ状よう況きようなのかわかっているのでしょう貴方あなた

だって暇ひま

ではないのではなくて」

ヴァルケンハインほどあからさまな敵意ではないものの突つき放し追い立てるような調子で

レイチェルが言う

テルミはけだるい仕草で首を傾かたむけまたケタケタと不ふめ明いり瞭ような体を揺ゆらすようにして笑った

「別にぃ〜ただそろそろ今回のエンディングも近いわけだしそろそろ一度テメェらの腑ふ抜ぬ

けた面を拝んどこうかと思ってよ」

低めた声は悦えつっぽく笑みを濁にごらせる

レイチェルはその様を無感動に淡たんた々んと赤い瞳ひとみに映した

「懲こりない男ね」

囁ささやくようにレイチェルは告げる冷えた声は空に浮かぶ欠けることのない月の光に似ている

「何度繰くり返したって結果は同じ世界は何度だって巻き戻ってあの日あの時からまた始ま

るだけよ」

ざとレイチェルと影の間を横切るように風が渡わたる薔ばら

の香りがま

う中で幽ゆう鬼きのよう

なテルミの

はあまりに不気味で不似合いだった

場ばちが

いであると思い知らせるかのように濃のう密みつな花の香りを纏う風の中でテルミは深く深

く笑みを浮かべる

第二章 Spiral fate 盤上の駒87

た笑っているのだ

「そいつぁお互たがい様じゃねぇかこっちもテメェのクソむかつく面つら見てると胸むな糞くそ悪くなって

くる」

ユウキテルミそれが影の名前だった

「ならば早々に立ち去るがいいここは貴様のようなやからが気安く踏み入っていい場所ではない

ぞ」重

々しくけれど遠えん慮りよ容よう赦しやのない敵意を込こめてヴァルケンハインが進み出たレイチェルに

対して見せていた穏やかな品の良さは影を潜ひそめ白髪の老人とは思えぬ力強く攻こう撃げき的な眼まな差ざし

で揺れる影を睨にらみ据すえる

途と端たんにテルミは面おも白しろくなさそうに口らしき赤色を歪めた

「はっテメェも相変わらずイラつくなキャンキャン吠ほえてんじゃねぇよボケ犬が殺しち

まうぞあぁ」

「面白い吠えるしか能がないのはどちらか確かめるとしようか

体のない今の貴様に一体

なにができる」

「ちっhelliphellipうぜぇジジイだテメェもあんとき殺しときゃよかったぜ」

「九十年前に反省するべきだったな」

テルミが悪態を吐つけばヴァルケンハインはそれを踏み潰つぶすような敵意を返す

そこには根深い因いん縁ねんの沼ぬまが広がっているかのようだった浮かぶのは憎ぞう悪おでもけん悪おでもなく

86

覗のぞき見えていた

「んじゃなせいぜい高みの見物でもしてろや」

吐き捨てるようにそう言うとテルミは靄もやが空気に溶とけてやがて目視できなくなるように

音もなくその場から消える

あとにはなにも残らないただレイチェルが日々当たり前に

めている真っ赤な薔

が咲さ

き誇ほこる庭園が広がるばかりだ

緩ゆるやかな風が抜ぬけて甘い薔

の香かおりが漂うまるでテルミによって生じた不快感を拭ぬぐい払はら

うように

ヴァルケンハインはそれまでの飛びかかって喉のど笛ぶえでも食い破りそうな敵意を呼吸ひとつのう

ちにしまい込みしつ

事じの顔に戻もどるすき

なく

筋を伸のばしレイチェルへと向き直った

「いかがなさいますかレイチェル様」

主人がすでに決めているであろう腹の内を促うながすように問う

レイチェルは手にしていた傘状のナゴを開いたパラソルでも扱あつかうように肩かたにかけヴァル

ケンハインを見やる

「ヴァルケンハインやっぱりお茶はまたあとでにするわ」

あんなにも単純で粗そ暴ぼうなちよ

発うはつに乗るのは癪しやくだけれどそうとわかっていて顔をそむ

けることを

弱気ゆえと受け取られてはもっと癪だなによりあの男に好き勝手を許すのは面白くない

「ナゴギィ出かけるわよ」

第二章 Spiral fate 盤上の駒89

「そうしたらまた始めるさ」

這はうような声で語る

な気配がレイチェルの誘さそう風さえ汚よごすようだった

「何度でもいいぜ

そのたびに俺はやり直すだけだ何度でも何度でもテメェがいい加減

飽あきてお城から出てこなくなっても何度でも何度でもhelliphellip何度でもなぁ」

「悪あくしゆ味みね」

「テメェが言うかよクソ吸きゆ血うけ鬼つき」

テルミがせせら笑う

深い皺を眉み間けんに刻みい憤きどおりを腹に抱かかえるヴァルケンハイン怯おびえ様子をうかがうナゴとギィ自分

の周りにいる者たちをながめてレイチェルはく唇ちびるを優美なカーブに曲げた

彼の言うことに同意するのは心底不ふ愉ゆ快かいだけれど確かに悪

味なのはレイチェルも同じだ

何度も何度もこんなやりとりを何度もここで行った

繰り返す時間の中で繰り返される会話はいわば一種の通過儀ぎ礼れいだ

これから始まる数時間めまぐるしく運命は交差して離れ剥はがれ崩くずれ乱れるその結末

をし粛ゆくし々ゆくと見届けるためのお決まりの行事

「まいいや俺はそろそろ最後の仕上げの準

しねぇといけねぇから行くわいちいち相手

すんのも面めん倒どうくせぇからテメェらはそこで茶でもしながら終わるのを待ってろよ」

言いながらテルミは一歩大きく退いた

影がぼやけて消えるように彼の

が揺らめく黒い体の向こうには薄うっすらと薔

の赤が

88

城から外へと出ていった

の残り香がが夜気に吸い込まれて消えるまで待ってヴァルケンハインはテラスのテーブ

ルに残されたティーセットをワゴンに載せて片付け始める

せめて今回はあの小さな主人の心が慰なぐさめられるようなそんななにかがあるようにと胸中で

願いながら

2199年12月30日||9時23分

カグツチの朝方普ふ段だんなら東空は陽光の白に輝かがやき地表で淀よどむ魔素の存在など忘れさせてく

れるかのように眩まぶしい

だが今日は生あい憎にく朝早くから分厚い雲が空を覆おおう曇どん天てんだった広がっているのは雨雲だ昼

前には雨が

り出すだろうと湿しめった空気が教えてくれる

第十三階層都市カグツチの外れ都市の一部として建設されたのではなくこの地に流れ着い

た難民が自発的に建設した市街のひとつ浪ろう人にん街

第二章 Spiral fate 盤上の駒91

「はぁ〜い姫様」

「了りよ解うかいっす」

傘のままナゴがしなを作りさっきまでの怯えが噓うそのように元気よくギィが飛び上がる

二匹ひきの使い魔まを従えレイチェルは宙へ手を差し出したすると煉れん瓦がタイルが敷しき詰つめられ

た足元に薔

色の魔法陣じんがほのかな光を宿して浮かび上がる

転移の魔法だ

今の世界の基き盤ばんともいえる術式の元になった太古の技術魔法けれど今はもう使える人間

はほとんどいない失われた技術だ

転移はそんな魔法の中でも特に多くの魔力と集中力を要し特別難解な制せい御ぎよを求められる魔

法だったそれゆえに人類の歴史においても使い手と呼べるほど扱いに長たけた者は数えるほ

どしかいない

転移魔法を自在に扱うレイチェルもまた自分以外にこの魔法を使いこなせている者をひと

りしか知らなかった

「カグツチまで行ってくるわヴァルケンハイン留守をお願いね」

「かしこまりましたお気をつけて行ってらっしゃいませ」

理想的な角度に腰こしを折ってヴァルケンハインは魔法陣の中から語りかける幼い容

の主あるじを

見送る

ふわりと風が

い上がり目眩を誘うほどの薔

の香りを振ふりまいてレイチェルは常夜の居

90

屈くつ強きようで大柄な体たい軀く隠すことなく晒さらされた広い

中顔に刻まれた十字の傷きず跡あとそして首に

巻かれた真っ赤な布その真っ赤な布がけい

谷こくの風に

られたなびくたびに誰だれもが彼を振り返

らずにおかない

なにも衣装の特とく徴ちようが浪人街の人の目を集めるのではない

このマフラーのように巻かれた赤く長い布は目印なのだ

迷える難民をまとめ先頭に立って浪人街を築きこうして日々浪人街を歩いては住民にト

ラブルや困りごとがないか見回るイカルガ忍にん者じやの頭領にして浪人街のヒーローシシガミバ

ングの

「おはようございますバングさん」

「バング殿どの

先日は

げたに鶏わとりの捕ほ獲かくを手伝っていただいてありがとうございます」

「バング様〜

こんにちは〜」

街のあちこちからかかる声に手を挙げて応こたえバングは朗ほがらかな笑え顔がおを返す

「うむおはようでござる

おおそうだ今日は雨が

るだろうから雨あま漏もりする家がある

なら拙せつ者しやに声をかけるでござるよすぐに飛んでいって修理を手伝うでござるからな」

通り中に響くような声で言いながらバングは前へ前へ歩む

天気はよくないがバングの心は今日も晴れやかだった仲間がいて住む場所があるこ

れがどれほど喜ばしいことか数年前までは忍として戦争の裏側を奔ほん走そうしてきたバングは日々

身をもって思い知り嚙かみ締しめていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒93

ここは五年前に終結したイカルガ内戦という戦争の敗者イカルガ連れん邦ぽうに住んでいた者たち

が造り上げた市街だった

内戦によって彼らの故郷は失われた行き場のないイカルガの民たみは世界のあちこちに散り

その中でもカグツチににげ延のびた者たちがここで身を寄せ合って暮らしている

複雑で街を築くのに適しているとはとても言えない地形だカグツチのある高山の下方に

位置しながら辺りは岩だらけで亀き裂れつや絶ぜつ壁ぺきが目立つ

それでもイカルガの難民たちは岩場に足場を組み亀裂に橋をかけ絶壁に階段を作り半

分宙に浮ういているかのような入り組んだ街を作り上げた

小さな街だありあわせの材料を組み合わせてできた粗そ末まつな街だがそれにしては整えられ

たイカルガじ情よう緒ちよ漂ただよう街並みにhelliphellip朗々と男の声が今日も響ひびき渡っていた

「おお皆みなの衆

今日も元気に平和に過ごしておるな

うむうむよきかなよきかながっ

はっはっはっは」

太く伸びやかな声の主はシシガミバング

浪人街の中心である一番開けた通りのど真ん中を歩きながら道行くすべての人に威いせいよく

挨あい拶さつして回っている大おお柄がらな筋肉質の男がそうだ

ぼさついた黒くろ髪かみは高くまとめ深い緑色の独特な装しよ束うぞくを身に着けている着ているのはイカ

ルガ伝統の忍しのびの服だ本来は闇やみに紛まぎれ隠おん密みつにことを済ますのが忍の

だがこのシシガミバ

ングという男はまるで逆にとにかく人の目を引いた

92

カグツチの

士であるならばこんな下層まで

りてくることなどそうそうないし別の支部

士ならばもっと上層からカグツチに入るはず

この街に統制機構の制服はあまりにも不自然だった

金髪の青年はなにも答えず冷ややかな緑の瞳ひとみでバングを

めていたがやがて色の薄うすい唇を

開きぼそりと低く呟つぶやいた

「その服helliphellipイカルガの忍か」

およそ好意的でない声

人によってはその内にさげすみ

やあざけり

いただろうだがバングはそのひどく温度の低い声こわ色いろ

を警けい戒かいゆえと受け取った

身構えるように低くさせていた体を起こしバングは慌あわてて制止するように広げた手を突つき

出だす

「ああいや誤解めされるななにも一戦交えようというわけではござらんぞ確かにここは

イカルガの民が住まう街で拙者はイカルガの忍であった男だが五年前にイカルガ内戦は終

わっておるのだ」

バングは太い腕うでをがっしりと組むと神しん妙みような

顔つきで何度か頷うなずくようにしながら先を続けた

「確かに終戦のきっかけは戦いくさではなく我等の首都イブキドの爆ばく発はつ事故であった」

イカルガ内戦は世界虚空情報統制機構に対し第五階層都市イブキドを首都と掲かかげるイカル

ガ連邦が独立を宣言して始まった内戦だ統制機構は武力でもってそれを制圧しようとしイ

第二章 Spiral fate 盤上の駒95

平和はいい平和の中にこそ愛はあるのだ

「うん」

ふと前を行く

を目に留めてバングがいぶかしげに声を唸うならせた

見慣れない男が歩いている浪人街の住民ではないバングはこの街に住むイカルガの民の

顔と

格好をすべて覚えていた

短い金きん髪ぱつの細身の男だ歩き方からしてまだ若い

なにより気にかかるのはその男が着ている服だ青と白によって構成されたその服はおそ

らく世界虚こ空くう情報統制機構の制服だろう

「そこのお主

待たれい」

叫さけぶように声をかけながらバングは高くとんだ空を駆かけるような長いちよ躍うやくは前を行く金

髪の青年の頭上を越こえて彼の正面へと着地する

行く手を塞ふさがれる形となった見慣れぬ男は足を止めバングの唐とう突とつな登場に戸と惑まどったように

眉まゆを寄せていた

やはり若い男まだ少年の面おも影かげも残した青年だ着ているものも統制機構の制服に間まちがいな

く手には青い鞘さやに

めた刀を一ひと振ふり摑つかんでいる

バングはますます募つのる怪けげんに青年よりも深く眉間に皺しわを刻んだ

「お主我等が街になんの目的で参られた

その服装統制機構の

士であろう」

カグツチの

士だろうかバングは彼に見覚えがない

94

金髪の青年はなにも言わず静かにバングを見み据すえている

なにを考えているのかどこかぼうっとしたようにも見える無表情からは思考どころか感情

さえ読み取れない

話を

いているのだろうかバングは不安に思いながら改めてさっきの質問を繰くり返す

「してお主は一体何者で浪人街になんの用でござるか」

「helliphellip用などない」

ようやく青年がバングの問いにまともに答えた

まともというにはあまりに素っ気なく突き放した物言いだったが返ってきた言葉が思いの

外ほか穏おん便びんでバングは軽く安あん堵どを抱いだく

イカルガの残党狩がりだなどと言われてその手の刀を抜ぬき放たれたら多くの住民が行き交かう

街の中心で大立ち回りを演じなければならなくなるそうなればいくつかの家は巻き添ぞえをく

っただろうし何人かは怪け我がをしたかもしれなかった

青年は変わらず冷たい無表情のままでバングの向こうにそびえる山へ目を向けたこの上

にいくつもの市街が建設され頂上には世界虚空情報統制機構のカグツチ支部が建っている

「貴様たちのことなどに興味もない僕は上へ行きたいだけだ」

「上

というと統制機構の支部でござるか」

「じや

魔まだそこをどけhelliphellipああいや」

冷れい徹てつに言い放ってから青年は思い直したようにけれどそれでも冷ややかに声を低めた

第二章 Spiral fate 盤上の駒97

カルガ連邦も武力でもって抵てい抗こうした

それが四年続いたある日のことだ

イカルガ連邦首都であり指揮系統の中心であった第五階層都市イブキドの地下で突とつ然ぜん原因

不明の大爆発が起こりイブキドは跡あと形かたもなく消しよ滅うめつした

爆発はイカルガ連邦はもちろん交戦の真っ最中であった世界虚空情報統制機構側にも大き

く戦力を損そこなわせる痛手を負わせた戦争を続けるだけの力をイカルガ連邦と統制機構が爆

発事故をきっかけに同時に失ったのだ

結局イカルガ連邦はバラバラとなり最終的には組織としての形を失ったけれど統制機構も

己おのれを立て直すのに手て一いつ杯ぱいで追つい撃げきどころではなく内戦はしぼんで消え入るようにいつの間に

か終わったのだった

「それでも我等は負けたのだその現実を認めずに今ある平和を投げうってまで統制機構に

楯たて突つくつもりはござらんよ」

そう言うとバングは眉み間けんを中心に走る十字傷に分厚い手で触ふれ苦々しくも笑みを浮かべ

たこ

の傷はその爆発事故のときに負ったものだ内戦を終わらせたあの事故が自分にとって幸

であったのか不幸であったのかバングには未いまだわかりかねる

ただイカルガの民はもうじ充ゆう分ぶん戦ったこれからはたとえ楽な生活でなくとも平和に過ご

してほしいとバングは思っている

96

れるだとかそんな幽ゆう霊れい話じみた現象が起こるはずもない

勝手なイメージでそう結論づけるとバングは気を取り直してそのたくまし

い胸むな板いたを張った

まだ浪人街の見回りは途とち中ゆうだ曇天の色はますます濃こくなってきている雨が

り出す前に

修理の必要な家がないかどうか確かく認にんしておかなければならない

「いやぁまったく最近の若者は覇は気きが足らんでござるなぁ

陰いん気きな顔をしていないでも

っと威い風ふう堂どうど々うと力強くそして

くあらねばそうこの愛と正義の忍者シシガミバング

のように」

辺り一帯に響く盛せい大だいな声で笑うとバングは街の見回りを再開させた

これが終わって部下のけい

古こが終わってそれでも時間があったなら憧あこがれの女性が住むオリ

エントタウンまで足を延ばして挨拶に行こうとそう心の中で計画をたてていた

今日も浪ろう人にん街は平和だ

それがなにより素す晴ばらしい

2199年12月30日||18時21分

第二章 Spiral fate 盤上の駒99

「ついでだ貴様カグツチで白い髪かみに赤いコートを着た男を見なかったか」

そう尋たずねる青年の表情はまるで凍こおりついたかのように無表情から動こうとしないだという

のに緑の瞳だけは妙みように楽しげに煌きらめいていたようにバングには見えた

バングは顎あごに手をやり考えこむ

「白い髪に赤いコートhelliphellipふぅむいやこの辺りでは見かけてござらんそれほど目立つ容

ならば一度目にすれば覚えようがhelliphellip」

「そうかならいい」

しゆ時んじにバングからあらゆる興味を失ったように青年は滑すべるような歩みで横を通り抜ける

すれちがう風はいやに冷たいまるで氷でも掠かすめたかのようだ

「ああお主

拙者はシシガミバングと申すお主の名はなんと申す

すたすたと足早に山へ向かう細身の後ろ

へバングは追いかけるように声をかけた

だが青年は振ふり向かないまるでバングの声など耳に入っていないかのような頑かたくなな

中で

なにかに突き動かされるような足取りで歩き去りそのうちに浪人街の外れへと

を消してし

まった

バングは引き止めるように宙へ伸のばした腕もそのままに難しく顔を歪ゆがめて首を捻ひねった

「はてhelliphellip奇きみ妙ような男でござったななんというかこうた魂ましいが抜けているようというかhelliphellipなに

かに取り憑つかれでもしているかのようであったわ」

もっとも今は日もこれから高くなろうという真昼間魂が抜けるだとかなにかに取り憑か

98

形よく張り出した豊かな胸に引き締まった腰こしそこから滑なめらかに続く肉感的な臀でん部ぶと華きやしや

な足首に向かって続く絵に描かいたような曲線

同性の憧れと異性の動どう揺ようを誘さそわずにおれない肢し体たいのシルエットだけでも彼女は道行く人の

視線を釘くぎ付づけにする

そんな麗うるわしき女医ライチがこの街にやってきたのは約一年前のことだ

突然現れ住まいと仕事を求めたライチをこの辺りの住人は快く受け入れた

彼女は自分がどこから来たのかどんな生おい立ちなのかなぜオリエントタウンへひとりで

やってきたのか名前以外のことはなにも話そうとはしなかった

素すじ性ようの知れない女など怪あやしまれて当然だろうけれどライチが出会ったオリエントタウンの

住人は皆みんな彼女が口を閉とざすと深くは追つい及きゆうしようとはしなかった

そのことをライチは一年たった今でも来たばかりのころと変わらず感謝している

こうして日々病院のとびらを

開けなるべく気軽に安価で治ちり療ようが受けられるよう心がけているの

も生活のためというより拒きよ絶ぜつや敬遠ではなく寛かん大だいさと優やさしさをもって自分を迎むかえてくれた

オリエントタウンへの恩返しの意味が強い

「さてと」

少年の

が曲がり角の向こうに消えるとライチは細い肩かたをすとんと落として息をついた

オリエントタウンはすでに夜の闇やみに包まれていてあちこちにぶら下げられた小さな提ちよ灯うちんや

ランプが家々を照らしていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒101

オリエントタウンは第十三階層都市カグツチの下層にこそあれど広く活気にあふれた賑にぎやか

な街だ

限りある土地を時に譲ゆずり合い時に共有して身を寄せ合うように家を建て並べ今にも壁かべが

触れそうなほど密接したりん家かとは家族のように付き合える

誰だれも彼も決して裕ゆう福ふくではないけれど薄うす暗ぐらい路地に不ふ穏おんな影かげが横切ることもあるけれどそ

れでもこの街は温かい

ここオリエントタウンの一角で小さな病院を開いている医者ライチフェイリンは常々

そう感じていた

「痛みが引くまで無理は禁物よいいわね」

階段から落ちて捻ねん挫ざしたという少年を病院の入り口まで見送ってライチは頭を下げる小さ

な彼に笑顔で手を振る

ライチは美しい女性だった

足元まで伸ばした艶つややかな黒くろ髪かみを高く結ゆわえてくるりと巻き大きなアップヘアにまとめて

いる化けし粧ようで飾かざらずとも美しいラインを描えがく眉に伏ふせれば影ができるほどに長い睫まつ毛げ黒い

縁ふちの眼鏡ごしに見える瞳は大きく知的な光を宿しているけれどややつり上がった目元はどこ

か媚び態たいを想像させる色いろ香かを匂わす

美び麗れいなのはなにも容よう貌ぼうだけではない

100

こんなにも温かく名を呼ぶのはひとりだけだhelliphellip今は

両手で二の腕をさすりながら振り返りライチは少し驚おどろいたように目を丸くさせる

そこにいたのはやはり予想通りの人物だったけれど彼の腕には予想とは

うものが抱だき

かかえられていた

声の主の大きな体が建物の色いろ濃こい影の中から出てくるライチとて

の低いほうではないけ

れど彼の

は見上げるほどだ

通常の人間ならありえないほど屈くつ強きような体に赤い肌はだ第七機

の赤あか鬼おにと呼ばれるサイボーグ

の男だった

「テイガーhelliphellip」

ライチが小さな声で名を呼び返すうちにテイガーは周囲に人ひと気けがないことを素早く確認す

ると近くまでやってくる

彼の腕うでにはひとりの少女の

があった気を失っているのかぐったりと力なく体を預け

ている長くやわらかなカメリアレッドの髪に華

な体そして青と白の世界で一番有名な制

服helliphellip統制機構の制服

「テイガーこれはどういうこと

どうしてhelliphellip」

どうして統制機構の

士を抱かかえてこんなところにいるのかそう問おうとしたライチの疑問

をさえぎっ

てテイガーは抱えていた少女の体を託たくすように差し出した

「すまんがこの少女を頼たのめないだろうか訳あって気絶させてしまったのだが放ほうり出すわ

第二章 Spiral fate 盤上の駒103

遠くには雨音が

こえる昼過ぎに

り出してから今までもずっと続いていたのだろう空

を上層に閉とざされたこの辺りもすっかり空気が湿しめっていてずいぶんと冷え込んでいた

ゆったりとした白いブラウスとその上に着込んだロング丈たけの真っ赤なチャイナドレスという

服装はライチのみ惑わく的なボディラインをくっきりと描き出すには適しているけれど寒空の

下に立つにはあまり向いているとはいえない

不意に抜けた冷たい風にぶるりと身み震ぶるいしてライチは豊満な胸元を合わせるように己おのれを抱

いたまとめ上げた髪にしがみつくようにくっついている小さなパンダの髪かみ飾かざりも心なしか寒

そうだ

今夜はきっと冷えるだろうとはいえかつて黒き獣けものが現れ魔ま素そが世界に広がるまでは十二

月といえばもっと寒くこんな薄うす手での服装ではとても外を歩けなかったそうだから当時を思

えば涼すずしい程度の気温なのかもしれない

昔はこの時期この辺りでも雪が

ったらしい魔素が狂くるわせ失わせた冬らしい季節という

ものを少々勿もつ体たい無く思いながらライチは病院へ戻もどるべく踵きびすを返した

だがただでさえ長い脚あしをさらにすらりと見せる踵の尖とがったくつが屋内に踏ふみ入る前に

後か

ら唐とう突とつに声がかかった

「ライチ」

落ち着きのある低い男の声だ

それが誰なのかライチは呼びかける一言でわかった自分のことを呼び捨てる者の中で

102

「お前になら構わんか実はhelliphellip」

『とう

亡ぼうしたサンプルの回

だ』

突とつ然ぜん第三の声が割って入った

「ココノエ

周囲に配はい慮りよしてか声は抑おさえたもののテイガーが驚きにうろたえる

ライチの表情に糸を張るような緊きん張ちようが走った

第三の声はテイガーの耳元から

こえてきたそこには小さな通信機が取り付けられている

その向こうにいるのが声の主でありテイガーの上司にして製作者でありhelliphellip一年前までは

ライチの上司でもあった人物ココノエだった

『なにを驚いている回線に入り込む程度なんでもないわかったら勝手に通信を切るんじ

ゃないいいなテイガー』

テイガーへ向けてだけでなくその周囲にも

こえるよう操作された音声が感情の波を抑え

た低い女声で語る他者の意見をは

ねのけるような語調と声色には有う無むを言わさぬ威い圧あつ感と

神経質さが現れていた

ライチも一年前まではよくこの声にしつ

咤たされたものだ懐なつかしさと一いつ緒しよに苦い思いがこみ

上げてきてライチは声から目をそむ

けるようにテイガーから視線を外す

「ココノエ博士helliphellip」

『久しぶりだなライチお前こそこんなところでなにをしている』

第二章 Spiral fate 盤上の駒105

けにも統制機構に連れん絡らくするわけにもいかなくてな」

ひどく困った様子で懇こん願がんしてくる

そんな顔でそんなことを言われては断ろうにも断れない自分の性格をわかっているくせに

と思いつつもライチはテイガーの腕の中の少女を覗のぞきこんだ

は正常だ外傷は特になく呼吸も安定しているただ単純に強い衝しよ撃うげきで意識がなくなり

そのまま眠ねむり込んでいる状態だろう

「つまり彼女の意識がないのは貴方あなたの仕し業わざってことね」

ちらりと眼鏡のすき間まからテイガーの赤い顔を見上げてライチはほんの少しの小言めいた響ひび

きを込こめて言った

テイガーとこの少女の間にちょっとした荒あら事ごとがあったことは想像に難かたくない

統制機構と第七機

係についてはよく知っているなにせライチはオリエントタウンへ

来る前テイガーと同じ

場で同じ上司の下で働いていたのだから

「helliphellipどうして貴方がカグツチにいるの」

少女の身み柄がらは引き取るそう物もの腰ごしで伝えながらもライチは堅かたい声こわ色いろで尋ねた

テイガーが所属している第七機

はカグツチから離はなれた場所に研究所を構えているカグツ

チへふらりと私用で来るような距きよ離りではない

テイガーは困こん惑わくしたように言葉に迷ったが難しそうな顔をしながらも上向きのきばが覗く

口を動かした

104

「まだわかりません」

ねのけるようにライチは大きく首を振ふった

そこにはオリエントタウンの住人が知る優しく穏おだやかで時々厳しいそんな女医の

はなか

ったあるのはなにかを必死で守ろうとする弱々しい少女のような顔だ大切な宝物を取り上

げられまいと首を振るようなそんな

ライチは厳しく引き締しめた顔でテイガーをその耳元にある通信機を見つめる

「なぜ博士はそう簡単に割り切れるんですか

すべての手を尽つくしたわけではないのにあ

の人はただ少し間まちが

えてしまっただけです少し急ぎすぎただけでそれに彼は貴女あなた

のhelliphellip弟で

子しだった人じゃないですか」

ライチの声は情感に揺ゆれていた震ふるえているといってもいい

解げせない飲み込めない受け入れたくないそんな拒絶が声だけでなく

しげに眉まゆを寄

せた表情にも浮うかんでいる

もう一度通信機からココノエのため息が

こえた今度は呆れているというより苛いら立だっ

たような吐と息いきだった彼女が頭をかきむしる仕草が見えるようだ

「すみません博士helliphellipでも私はhelliphellip諦められません」

ライチはきつく胸の前で手を握にぎり締める

だけど本当はわかっているライチは医者であり一年前までは研究者だっただから自分

でもいや

になるほど冷静で理性的な部分はもうとっくに理解していた

第二章 Spiral fate 盤上の駒107

どんな顔をしていたらいいかわからないライチは寒さではなく別のものから己を守るよう

に身を抱く手に力を込める

知性と理性で研といだココノエの鋭するどく射い貫ぬくような眼まな差ざしが通信越ごしにこちらを見み据すえてい

るのがわかった

「そんなのhelliphellip博士ならもうおわかりでしょう」

なぜライチがカグツチにいるのかもなぜカグツチの中でも下層のオリエントタウンを住ま

いに選んだのかもなぜ第七機

を出たのかも全部全部彼女はお見通しのはずだ今いま更さら説

明しなければならないことなどなにもないのだ

『まだあいつのことを諦あきらめきれんのか』

ほらとライチは思う答えずともココノエはわかっている知っているライチがなにを

考えてここにいるのかを

だからだろうか通信機越しに

こえるかつての師の声はまるで咎とがめ責めているように

こえた

「諦めるだなんてどうしてそんなことができますか」

胸の内から絞しぼり出すようにしてライチは答える

通信機からノイズが漏もれたココノエのため息だろう呆あきれ果てたといったような音だ

『もう一度言うあいつを助けようなどと無む駄だなことを考えるのは止よせあいつはもうどうに

もならんお前の力では助けられない』

106

ライチは顔を上げられなかった愚おろかだと思うのは自分も同じだ反論はない

重苦しい沈ちん黙もくが数秒流れたときだったパタパタと軽やかな足音がライチのいる病院の入り

口へと駆かけてきた

「ただいまhelliphellipってうわデカっ

やってきたのは小こ柄がらな少女だったかつ

色しよくの肌はだに黒くろ髪かみをアップにまとめており動きやすそう

な服を身に着けている

少年とも見まごう細い腕うでと胸には紙かみ袋ぶくろに入った日用品を抱かかえていたが近づいて改めて見上

げたテイガーの巨きよ体たいに思わず驚おどろいてぐしゃりと抱だき潰つぶす

「リンファhelliphellip

おおかえりなさい」

いささか慌あわててライチは向き直った

彼女はリンファライチの病院で助手として手伝いをしている医者志望の少女だ

リンファは大きな黒目をさらに大きく見開いて遠目で見るよりずっと大迫はく力りよくなテイガーを

ぽかんと見上げていた

「たただいま先生えっとhelliphellipこの人誰だれ

お客さん」

「ああそのhelliphellip」

ライチは言葉を濁にごして迷った

リンファは公私ともに支えてくれる頼たのもしい助手だがライチは彼女に自分の過去を教えて

いないし教えるつもりもなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒109

自分にできることなどなにもないのだと

||一年前ライチがココノエやテイガーと共に過ごし研究に励はげんでいた第七機

を飛び出

したのはある人を助けるためだった

その人は魔素とそれを世界にもたらしたとされる境界について研究していた

けれどあるとき彼はおかしくなってしまった常に錯さく乱らんしたようになってやがて人前に

を見せなくなり最終的には人でなくなってしまった

魔素に触ふれ続け境界に近づきすぎたがゆえの結果だった自分と境界の境目がわからなく

なってあるべき形を失った

消化してしまったものを元の食品の形に戻せないように境界に取り込まれて同化したもの

を元の

になど戻せはしない

彼を追ってここカグツチのオリエントタウンまで来てもこの街に留とどまり続けても彼の

噂うわさを耳にしては飛び出し黒く蠢うごめく影かげを探しても魔素や人ならざる種族について研究を重ね

ても彼と同じように境界に手を伸のばしても

なにも変えられない

ライチが探している『あの人』はオリエントタウンから入ることができるカグツチ下層の

下水道をねぐらとして日々ただ本能の赴おもむくままにさまよい続けている

『どいつもこいつも私の弟子は馬ば鹿かばかりだhelliphellip』

ココノエが吐はき捨てるように言う

108

意識のない女

士が身に着けている青と白の制服は苦しい生活や貧しい環かん境きようをもたらした

元げん凶きようをし象よう徴ちようしているようなものだ

その気持ちをわかりながらもライチは

めるように言う

「誰であろうと患かん者じやは患者よリンファベッドの用意をしておいて」

「helliphellipはいライチ先生」

リンファとてライチの言い分はわかっている

もう一度きつく腕の中の紙袋を抱だきしめるとリンファは渋しぶし々ぶ頷うなずきそれでも足早に病院の

奥へと駆けていった

それを横目に見送りながらライチはぐったりとした少女の腕を肩かたに担ぐようにして濡ぬれ

た体を支える

最後にと見上げた知的な瞳ひとみにテイガーは告げた

「ライチこれだけは伝えておきたいココノエはお前が機

に戻もどることを望んでいるお前

にその意思があるならいつでも手を貸すつもりだ」

それこそがわざわざ通信回路をねじ込んでまで口をはさ

んできたココノエが言いたかったこ

とだろうとテイガーは解かい釈しやくしている

あの気難しく神経質な声で話す上司は人に情じよ緒うちよめいたことを伝えるのがとても苦手だ誰よ

りも側でココノエの仕事を手伝ってきたテイガーはそのことを身にしみて実感している

ライチは驚いたような顔を見せそれから頰ほおを緩ゆるめるように力を抜ぬくと

しげに首を横に振ふ

第二章 Spiral fate 盤上の駒111

間まちがってもテイガーやココノエとの会話を

かれるわけにはいかないのだライチは素早く

助けを求めるような視線をテイガーに向ける

だがそのときにはもうすでにテイガーは通信をオフにしていたライチがなにをきらうのか

は見かけによらず理性的な巨きよ漢かんは十分理解している

ただしその代わりにとばかりに抱えていた意識のない少女をライチの腕の中に押し付ける

ように託たくした

「私は任務があるもう行かなければとにかくこの娘むすめを頼む」

テイガーがここを訪れたのはなにもココノエの心情を伝えるためでも上司とライチを口論

させるためでもなくこの赤い髪かみの少女の身の安全のためだ

「わかったわ預かる」

このじ状よう況きようで拒きよ否ひするわけにもいかないライチは素直に少女の身み柄がらを引き受けた

力なくもたれかかる少女の体は決して軽くはないが支えながら引きずってベッドへ運ぶく

らいはできる医者や研究者に相応ふさわしくない程度にはライチは力には自信があった

ライチが受け取った人物の

を見てリンファが不ふ愉ゆ快かいそうに眉まゆを寄せた

「この人図書館の

士じゃんなんでhelliphellip」

なんで

士なんかを預かるのかのみ込まれたリンファの言葉はそう続くはずだった

リンファはオリエントタウンの生まれだ下層の住人の大半がそうであるように彼女もま

た高圧的な統制機構の施し政せいに大いに不満を抱いて生活している

110

雨の中運ばれてきたせいで少女の体はすっかり冷えていた

リンファが整えてくれたベッドまで運ぶと清潔なシーツの上に横たえ

士の制服である青

い帽ぼう子しとブーツを脱ぬがせる指先まですっかり力を失った手を取り手てぶ袋くろと硬かたい金具のついた

袖そでを外した

となりの部屋でリンファが買ってきた日用品の片づけをしている物音を

きながら上等とは言

えない毛布と布団を眠ねむる少女の体にそっとかけてやる

「helliphellip今夜はこれじゃ少し寒いかもしれないわね」

青と白の帽子や袖をたな

へしまいながらライチは声に出して呟つぶやいた

そのしゆ

間んかん目に見えない糸が切れたような不思議な感覚がライチの

筋を掠かすめていったの

だけれど

ライチはそれを冷えてきたがゆえの悪寒だと思って新しい患者にかけてやる毛布を取りに

行くため部屋を出た

この

間ライチの大切なものがひとつ喪うしなわれたと彼女が知ることはなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒113

った

「helliphellip私は戻れないわあの人のことが片付かない限りは」

戻ればきっと後こう悔かいするお門かどちがいにもココノエを恨うらむかもしれない

「そしてもし片が付いて私があそこに戻ろうとしてもそのときは今度は博士が私を受け入れ

ない」

もしあの人を戻せるとしたらその方法が容易たやすくそして人道に則のつとったものであるはずがな

い触ふれてはならないものに触れなければならないだろう見てはならないものを見なければ

ならないだろう知ってはいけないものを知らなければならないだろう

そうなったときココノエが自分をどんな目で見るかライチはあまり想像したくはなか

った

難しそうに唸うなりテイガーが小さく顎あごを引く歪ゆがんだ口元は苦々しい

「そうか難しいことは私にはわからんが」

いつまでも話してばかりはいられないテイガーは広く赤い

中をライチへ向けた

「今はこれで失礼するhelliphellip達者でな」

それだけ告げるとテイガーは後うしろ髪がみを引かれる様子もなく来た道を引き返していった暗

い影かげの中に入るとやがて大きな

中はオリエントタウンの路地裏に消える

ライチもまた立ち去る

を向けて預かった

士の少女を病院の中へと運び込んだ

後ろ手にとびらを閉めればそこはもう慣れ親しんだ小さな自分の病院だ

112

まったくうんざりするこれからこんな風雨の下でひとりで作業しなければならないな

んて

「helliphellipっていつまでもぐちぐち言っていてもしょうがないですか」

自分で自分を哀あわれみながらハザマはスーツの内ポケットから小さな通信機を取り出した

耳に当ててしばらく待つ

とうに日は落ちて辺りは暗くこの分厚い雨雲で月明かりが望めるわけもないハザマの後

方で灯ともる屋上入り口の白々しい明かりがスポットライトのように円形の濡れた屋上を寒々し

く照らしていた

『||私だ』

通信機の向こうから声が応こたえた

男の声だ低く感情らしい響ひびきは一いつ切さいない

ハザマはズボンのポケットに手を突つっ込こむと心持ち

筋を伸ばした

「お疲つかれ様ですハザマですとりあえず現場に到とう着ちやくしましたよ雨ざらしですけど」

『そうかでは始めろ』

「あらら冷たいですねぇねぎらいの言葉もなしですか技術大たい佐さ」

帽子のつばなどまるで意味がない濡れて額にはりつく前まえ髪がみを指先でのけながらハザマは口

角を引いて苦くし笑ようする

もっとも通信機の向こうにいる男にねぎらいの言葉などかけられたらそれはそれで気味

第二章 Spiral fate 盤上の駒115

2199年12月30日||18時21分

雨はまだ

り続いていた

曇どん天てんはますます色いろ濃こくついには強い風まで吹ふき始める

夜ともなれば空気は冷えるただでさえここは高い場所でhelliphellipそう地上から数えればとん

でもなく高い場所でそのうえ風雨をさえぎるものがないというのに

「あーあhelliphellipもう最悪ですね」

世界虚こ空くう情報統制機構カグツチ支部の屋上つまり第十三階層都市カグツチにおいて最も高

い場所に立つハザマは

り止む気配のない雨空を見上げて心底辟へき易えきしていた

制服ではない自前の黒いスーツも雨除よけにはならない帽子も上がってきて数秒でびしょ濡ぬ

れだ

少し待てば雨足も弱まるのではないかと思って無益に潰つぶした時間は一体なんだったのだろ

うか

「これが上官命令でもあの人の言いつけでもなかったら体調不良でも持ちだして即そつ刻こく本部に

帰るところですよ」

114

歩きながらもハザマは笑っていた両手をポケットに突っ込んでいるせいで細い肩が少しだ

け持ち上がって喉のどを鳴らすたびに小刻みに揺ゆれる

誰もいない鳥さえ近づかないカグツチの頂でハザマはどこか摑つかみどころなくにゆ

和うわに笑い

かけた

彼にだけわかる人物へまるでなだめすかすように

「そう急せかさないでくださいよ焦あせらなくてもいずれ取り戻せますって」

||ねえテルミさん

第二章 Spiral fate 盤上の駒117

が悪くてとても仕事どころではないのだけれど

『あまり時間がないさっさとしろ』

「はいはいまったく貴方あなたもあの人も人使いが荒あらいんですから」

ではまた後ほどそう言葉を足して通信を終えるとハザマは手の中に握にぎり込めるくらい

小さな通信機を玩がん具ぐでも扱あつかうように宙へ放ほうり投げキャッチした

雨が冷たい

ハザマは目ま深ぶかにかぶっていた黒の帽子をほんの少しだけ持ち上げた

濡れた髪の向こうから金色の瞳ひとみが覗のぞいていた照明の中でちらつく無数の雨あま粒つぶを鋭えい利りな狡こう猾かつ

さで見み据すえる一いつ緒しよにその向こうで静かに濡れるがらんと空くう虚きよななにもない屋上の空間を

軽く肩をすくめるようにしてハザマが笑えみの息を漏もらしたまるで誰かになにごとか語り

かけられたかのように

「わかっていますよ私だってさっさと片付けたいですからね」

さあさあと雨の音が途切れることなく続いている

そこにハザマ以外の誰かの声はなくもちろんハザマ以外の

はない

暗い夜の屋上は雨あま霧ぎりの中でなにひとつ文句も言えず濡れるばかりでハザマに何事か語りか

けるはずもない

ハザマは通信機をしまうとちょいと帽子を直し屋上の中央に向かって足を踏ふみ出した硬

い革かわぐつが濡れた床ゆかを叩たたいて微かすかな水音を弾はずませる

116

Page 4: t1501 ブレイブルー1 面付BLAZBLUE―ブレイブルー―1 カラミティトリガー 上> 原案・監修 ‥ 森利道(アークシステムワークス) 著‥駒尾真子

製のベリージャムが昨日でなくなってしまっていたのを思い出した明日はお願いしている食

料品の配達が来るから残っている小麦でパンを焼こうと思っていたのに

「今からじゃ駄だ目めよねぇhelliphellip日が暮れてしまうもの」

教会の後ろに広がる森をながめてシスターは残念そうにため息をついた

何十年も出入りしている森はもう庭のような気軽さで歩き回れるもし足あし腰こしが十代のころ

のような丈じよ夫うぶさであったなら今からでも遅おそくはないだろうがさすがに体がそれを許してはく

れないだろう

もっとも十代のころはしょっちゅう道を見失ってジャム用に採ってきた果物を食べなが

ら何時間も森の中をさまよい歩いていたのだが

「忘れっぽくていやねふふっ私ももう立

なおばあちゃんだわ」

仕方がないからジャムは明日にしようそう思って箒に手を添える

だがそのときふとシスターは空気のにおいが変わったことに気づいて顔を上げた

血のにおいがするそう思った

のしゆ間んかん彼女は森からなにかが飛び出してくる物音を

た草

を踏むふたつの音は二足の動物のものいや動物というよりこれは人の足音だった

シスターは箒を

の脇わきに立てかけると長い修道服の裾すそを持ち上げて教会の裏手へ駆かけ出す

すぐに見つけた小さな人ひと影かげがふたつこちらに向かって歩いてきている

そのうちの先頭を行く

を目に留めた途と端たんシスターは思わず足を止めた両手で口を覆っ

プロローグ7

ている彼女はこの教会に暮らすシスターだもう何十年もたったひとりでこの土地に住ん

でいる

なにもない場所だ教会と共に集落があったわけでもなければここまではるばる救いを求

めて人が来るわけでもない

戦争が終わったあとどこからともなくやってきてここに教会を建て以来ずっとこの土地

を守るかのようにひとりひっそり暮らしている

彼女のかぶる頭巾の内側からは微かすかに茶交じりの白しら髪がが覗のぞいていた体はほっそりとやせ

気味で箒を操あやつる手もまた細く皺しわに覆おおわれている穏やかな午後の陽光に自然と優やさしい微笑ほほえ

みを浮うかべた顔も深い皺がいくつもあってもう若い娘むすめの張りからは程ほど遠とおい

それでも彼女は濡ぬれた大地の色を思わせる深い茶色の瞳ひとみを持つ彼女は若かりしころの面おも

影かげを失わず快活な生命力にあふれていた

齢よわいはもう百近いはずだと噂うわさされているけれどどうしてかそれにしてはあまりに若く見え

る容

と身のこなしだ

とびらのすぐ近くでぼんやりしている小さな虫を見つけて間まちがって踏ふんではいけないとしゃが

み込んで摘つまみ上げひょいと草地へ放ほうる動作もとても百近い老女とは思えない軽さだ

「あいけないいいお天気だったら森でなにか果くだ物もの採ってこようと思ってたのにすっかり

忘れてたわhelliphellip」

再び掃き掃そう除じを再開しようとして歳としを重ねたシスターははたと気づき頰ほおに手をあてる手

6

「久しぶりだなシスター」

猫の口を歪ゆがませて負傷した獣人獣兵

は皮肉っぽく笑った

シスターはその場に膝ひざをついて目線を義兄と合わせた近づくとなお一層不穏な臭いが濃こく

感じられて悪お寒かんが

筋をくすぐっていく

「お久しぶりですけどまあなんてことhelliphellip傷だらけじゃないですか一体どうしたっていう

の獣兵

さん」

「色々とあってな悪いが事情を全部説明している時間はない」

楽な状態ではないだろうにボロボロに傷ついた猫人は苦痛をにおわせない平常の声こわ色いろで答

える

そんな様に眉まゆを寄せてシスターは反射的に手を獣兵

の額にかざしただが数秒のうちに

その手を力なく握にぎりこむ

「ああhelliphellipそうだったわもう治してあげられないんだった」

かつてこの手には治ちゆの力があった触ふれて念じるだけで傷をいやし痛みを遠ざけることが

できただがその力も歳を重ねるごとに徐じよじ々よに薄うすれ数年前にはすっかり失われてしまった

獣兵

が小さく首を振ふる

「気にすることはないかすり傷だそんなことよりお前に頼たのみたいことがある」

「頼み」

尋たずねながらシスターはなにを託たくされるのか薄く

していた

プロローグ9

て目を見開く驚おどろいた

シスターを見つけてわずかに歩調を速めた人影は正確には人ではなかった

は人間の子供程度全身は白と茶色のツートーンの体毛で覆われていて先が二ふた股またに分か

れた長い尾おを低く下げている羽織った上着のフードには三角の耳が取り付けられていてそ

の下には本物の三角耳が隠かくれているはずだ

歩み寄ってくる人物は二足で立つ猫ねこの

をしていた獣じゆ人うじんだ今はもう世界中に数えるほど

しかいない希少な種

だがシスターが驚いたのは珍めずらしい獣人を目もく撃げきしたからではないそれが自分の姉の夫何

十年も顔を合わせていなかった義あ兄にだったからだ

「獣じゆ兵うべえさん」

名を呼び我に返ってまた走る血のにおいだ近づいてくる獣兵

から漂ただよってきている

目の前まで駆け寄ってシスターは再度驚くどこか怪け我がでもしているのかと思っていたが

間近でよく見ると一つや二つの怪我ではなく全身傷だらけだったのだ

フードの下から覗く猫の顔は額から出血しており黒く変色した血が茶色い毛を汚よごしている

服は埃ほこりと血で不ふ穏おんなま斑だら模様になっていた傷を押さえているのか腹部に巻きつけられたボロ

布には赤黒い血がべったりと滲にじんでいる

その

からなにがあったのかを推おし量ることはできないけれどなにかがあったことだけは

その血が鮮せん烈れつに物語っていた

8

「大丈夫だ信じろラグナ」

もう一度獣兵

が拒こばむ少年を説く

その低くたしなめるようでもあった呟つぶやきに小さくシスターが息をのんだ

「helliphellipラグナ」

思わずく唇ちびるからこぼすように呼んだ

その名に弾はじかれたように少年が獣兵

の肩から手を離して腕に抱だく少女を隠すように身を

引いた

まるで怯おびえた子犬のようだ傷ついて空腹で苦しくてだけど自分より小さな者を守らねば

と懸けん命めいに足を踏ん張りきばを剥むくそんないじらしい

にシスターは微笑みを浮かべて温かく

少年を見つめた

「貴方あなたラグナというの」

向けられた視線にか声色にかそれとも言葉にか少年は戸と惑まどったようにうろたえ獣兵

を見てその

の少年と自分の腕の中の少女を見たそれからためらうようにシスターへと

視線を戻もどすとhelliphellip警けい戒かいの針を向けながらも小さく浅く頷うなずく

間シスターは胸に温かなものが灯ともるのを感じた

まだ若かったころ目め尻じりに深い皺もなく髪も白くなかったころ出会いそして別れた人

を思い出す

少年はあの人によく似ているそして記憶の中のあの人もラグナという名前を持っていた

プロローグ11

獣兵

は小さな子供を

負っていた少年だぐったりともたれかかった体は力なく気を

失っているか深く眠ねむっているかのどちらかだろう

後方にはもうひとり少年がいたこちらは獣兵

負われている少年よりもいくつか年上

のようで荒あらい呼吸に

せた肩かたを上下させながらまるで手負いの獣けもののようにシスターを見つ

め睨にらんでいる彼の腕うでの中にももうひとりこちらは小さな少女がやはり意識なく身を預けて

いた

三人の子供よく似ている不健康なほど白い肌はだに薄うす汚よごれた金色の髪かみ瞼まぶたを持ち上げている

のは自分の足で立っている年上の少年だけだったが彼の風ふう貌ぼうからするにきっと三人とも美し

い緑色の瞳を持っているのだろう

「この三人を預かってくれこの教会に置いて育ててやってほしい」

そう言って獣兵

に載のせていた少年をシスターに渡わたそうとする

だがその前に後方にいた少年が自分と同じくらいの位置にある獣兵

の肩を摑つかんだ傷だ

らけの腕で抗こう議ぎするように強く

「心配するなシスターなら大だい丈じよ夫うぶだいやhelliphellipシスターでなければ駄目なんだここ以上に

安全な場所はない」

なだめるように獣兵

が語りかける

だが少年は緑色の瞳を鋭するどく尖とがらせ眠る少年に触れることを許さないとばかりにシスターを

眼光で射い貫ぬいていた

10

「こいつらを頼めるか」

普ふ段だんならば愛らしくもある猫の容

で獣兵

は重く問う

そんな重さをいとも容易たやすく掬すくい上げるようにシスターは軽かろやかに顎あごを引く

「もちろんいいえむしろ私からお願いするわこの子たちの面めん倒どうをみさせて」

ジンの頭をそっと抱き寄よせて乞こうようにシスターは言う

涙なみだが出そうだった溺おぼれるような嬉うれしさゆえだこんな未来がこんな運命が待っているな

んて思ってもみなかった

「この子たちを守る役目を私にちょうだい」

シスターの言葉に獣兵

はため息をついて猫

の肩を落とした安あん堵どの吐と息いきだった

「ラグナ彼女がhelliphellipシスターだ」

彼女の本名を告げるかどうか迷って結局近年呼び慣れた呼こし称ようで紹しよ介うかいすると獣兵

は後方の少年を前へと出した

彼はどうしたらいいのかわからないらしく険しい表情を頑かたくなに守ろうとしながらも困こん惑わくに

瞳を揺ゆらしシスターを見る

その強張った顔にシスターが手を伸のばすと小さなラグナはびくりと肩を飛び上がらせ下が

ろうとした

構わずにシスターは彼の頭へ手を置いたぽんぽんと髪を押さえるように撫なでる

「初めまして貴方たちに会えて嬉しいわようこそ私の教会へ今日からここが貴方たち

プロローグ13

ああまるで魔ま法ほうみたいだそれとも奇き跡せきだろうかシスターは瞼を伏ふせると感謝の祈いのり

を捧ささげた

その瞼が再び持ち上がるのを待って獣兵

が改めて

の少年を下ろしたシスターに差し

出すラグナという名の少年は迷いながらも今度は制止しなかった

眠り続ける細い体を受け止めてシスターは意識のない少年を胸に抱く腕の中の小さな体

の温ぬくもりがシスターの過去の記憶をより鮮せん明めいにさせた

「この少年がジンであいつが抱いている少女がサヤだそれから今も言ったがあいつの名

前がラグナ」

獣兵

が少年たちを順に紹介していく

ジンサヤラグナ

教えられた名前をシスターは胸中で何度も繰くり返した何度も何度も大切なものを包み込

むような温かさで何度も

「ジンにサヤそうこの子たちが貴方のラグナの弟と妹なのね」

「ん

その通りだがhelliphellipシスターどうして知っている」

「だって昔に

いたんだもの大切な弟と妹がいるって」

そうずっと昔にあの人から

いた大事な約束を交かわしたあの人から

義兄はなにかを思い出すような目でどこか遠くを見やり力を抜くように笑む

そうかと低く独りごちるように呟いてから改めてシスターを見た

12

近くに小川が流れすぐ裏手には実り豊かな森がある

そこはかつて大きな戦争があった時代の決戦の地けれど今は誰だれもが忘れた土地

緩やかで草深い草原の中ぽつんと建つ小さな教会で

老いたシスターと三人の子供の慎つつましくも賑にぎやかな生活がこの日始まった

||ねえラグナあなたは私に会えたかな

プロローグ15

の家よ」

温かく話しながらシスターは思う

遠い日に交わした約束それが果たされる日をずっと待っていたこの日が来るのをずっと

ずっと待っていた

ジャムを作らなかったことを頭の隅すみで後こう悔かいするもし作ってあったならこの子たちにお茶

と一いつ緒しよにジャムをたっぷり塗ぬったパンを食べさせてあげられたのに

「お帰りなさいラグナ」

きっと声が震ふるえていたせいだろう

口を結んだまま警戒を緩ゆるめられずにいるラグナの緑色の双そう眸ぼうに一

心配するような色がよ

ぎるから

やっぱり本当は優しい子なのだと思ってしまったから

シスターは目尻から透とう明めいな雫しずくをこぼしながら喜びのままに少女のように微笑ほほえんだ

||ねえ覚えてる

||あの約束を覚えてる

||私は会えたよ

||ねえ貴方は会えた

14

げる

身を隠かくすつもりは毛頭なかったむしろ向こうが見つけて仕し掛かけてくるならその都度叩たたき

のめすのが彼のやり方だ

こそこそやるのは性しように合わないどうせ目立つならできるだけ

手に振る

っていつか自

分の襲しゆ来うらいを

いただけで連中がに

げ出すようになればいいと思う

もっともそんな虫のいい話はないだろうと思ってもいるが

すぐに青と白を基調とした制服に身を包んだ男が五六人銃じゆうを抱かかえて走り込んでくる

こちらの位置に気付いていなかったのかはち合わせた途と端たんに先頭の数名が動どう揺ようして足を止

めた

だが彼は止まらない歩みを疾しつ走そうに変えて一直線に突つっ込こむと手の剣を大きく振ふりかぶっ

「止まれ

止まらなければ撃うつ」

制止の声に意味はない

制服

の男たちがそれぞれに銃を構えた即そく座ざに全員が発はつ砲ぽうするけたたましい発砲音が廊

下に響く

がその直後彼は振りかぶった剣を

いよく薙ないだ

「うらぁぁぁぁぁっ」

剣から黒く禍まがま々がしい揺らめきが放たれて宙を駆かけ迫せまる銃じゆ弾うだんのすべてをの

み込んで掻かき消し

第一章 Stratum city 階層都市17

第一章

Stra

tum city

||階層都市

アーチ状に造られた白く高い天てん井じように慌あわただしい足音がいくつも響ひびいていた

誰もが口々に警戒と攻こう撃げき指示を口にする侵しん入にゆ者うしやを捕つかまえろ殺せこれ以上進ませるな

そう叫さけぶ声はしつ

咤たや激げき励れいというよりもっと

痛な音に引きつっておりひどく追い詰つめられた

状じよう

況きようを如によ実じつに物語っていた

廊ろう下かの先から

こえてくるそれらを

きながら

彼は迷いや躊躇ためら

いなど微み塵じんもなくいっそ悠ゆう然ぜんとした振るま

いで近付いてくる足音のほう

へと進んでいた

白い髪に左が緑で右が赤という左右で色のちが

う瞳ひとみがっしりした体つきに黒い服を纏まとい

その上に目の覚めるような真っ赤なコートを羽織っている

(helliphellip後から後からよく集まってくるもんだ)

ぼやくように思いながら彼はそれまで肩に担いでいた幅はば広びろで分厚い刀身の剣けんを手にぶら下

16

彼はなにもひっそりとここに忍しのび込んだわけではない

を守る警

員を殴なぐり倒して正面

から堂々と侵入したのだ

まるで自分の力と存在を誇こ示じし深く爪つめ痕あとを残すように彼は暴れに暴れて手あたり

第に破

壊し奥へと進んだ立ちはだかるものはなんであろうと斬きり倒すそんな暴力的な歩みで進

んで進んでhelliphellip

そうして彼が到とう達たつしたのは長い長いし昇ようこう装置で

りた先のぽっかりと口を開けたような

地下深い広間だった

helliphellipそこはもうこれまで通ってきた廊下や部屋とは

う世界だった

空気が

う温度が

床ゆかも壁も天井も金属に似た質感の板で覆おおわれており広場を見下ろす位置にガラス張りの小

部屋が設けられているその下にも重じゆ厚うこうな機械類が並んでおりそれらが見み据すえる先で異様に

大きななにかの装置が沈ちん黙もくしていた

人は誰もいないここにいたはずの人間は皆みな襲しゆ撃うげきの知らせを受けて避ひ難なんしたのだろうそ

してここに駆けつけるはずの人間は皆白はく髪はつの侵入者が蹴け散ちらしてしまった後だ

一歩一歩彼は広間の奥に鎮ちん座ざしている巨きよ大だいな装置へと足を進めた

異質さが体にまとわりつくようだった

第一章 Stratum city 階層都市19

てしまう

揺らめきはそのまま炎ほのおの速さで走りじ弾だんを浴びせる制服たちへと迫ると一息に吹ふき飛ばし

たご

うと炎が逆巻くような音が巻き起こり男たちの体は

鳴ごと攫さらわれて壁かべに叩きつけら

れる衝しよ撃うげきに負けて壁に太くヒビが走った

たった一撃それだけで銃を構え勇ましくも侵入者を迎むかえ撃とうとしていた男たちは全員

意識を失い廊下に倒たおれ伏した

「helliphellip倒されるってわかってんだからのこのこ出てくんじゃねぇよ馬ば鹿かが」

あっけないものだ倒れた制服

を横目に見やると大きな剣を携たずさえた彼はすぐさま廊下を

走り出す

いつまでもこんなところで時間を食っている場合ではない

向かうのはこの施し設せつの一番奥最下層だ

また廊下の奥から青と白の制服

が現れる口々に叫びながら銃を構えあるいは剣を抜ぬい

た人

数はさっきよりも多いがだからといって彼のやることに変わりはない

真正面から突っ込んですべてを振り払はらい叩きのめす

々に制服

の力ない体が廊下のあちこちに転がりセキュリティ装置はことごとく破は壊かいさ

れ口を閉とざすとびらすら叩き切られて鉄くずに変えられた

18

この世でありながら別の世であるかのような本能が警告するい和わ感のようなものが空気の

代わりに漂ただよっている

けれど彼には慣れた空気だった

もう幾いく度どもこういうところにはやってきているのだここと同じ構造をして同じ装置を地

下に隠した施設をこれまでいくつ訪ねたかわからない

毎度訪問の目的はひとつ

この巨大な装置の破壊だ

彼は床を踏ふみしめるようにして歩み寄る

これがなんのために存在しているのかここで働いていた者のどれほどが把は握あくしていたのだ

ろう

来るたびに彼は棘とげのような疑問を感じる

これがなにをもたらすと思って毎日毎日こんな陰いん気き臭くさい地下深くまで

りてきて用よう途とも

わからないチカチカ光る計器をいじくり回していたのだろう

縁へりまで来ると彼はそれを睨にらみ据すえる

銀色の金属で組み立てられた装置は見上げるほどに高くそびえ見下ろすほどに深く大き

かった

メインとなる部分は彼が見下ろす円形の部分だ

これは『窯かま』だった

20

第九階層都市アキツ世界虚こ空くう情報統制機構支部

都市の中心に建っていた施設が何者かの襲撃によって崩ほう壊かいしその騒動で都市全体が混乱し

ている中

赤いロングコートを着た白髪の男はひとりひっそりと都市から去ろうとしていた

もうここでやるべきことは終わった長居は無用だ

施設での

手な立ち回りに反して外では人目につかぬよう入り組んだ道を通りできるだ

け薄うす暗ぐらい出口を選んだ

街中で制服を着た

士たちに見つかれば振り払うために戦わねばならないそれが煩わずらわし

い錆さび

臭くさい鉄門をくぐって奥にあるポートへ向かうその脇わきにある通路を下れば外に出られる

はずだ

そのときふと薔ばら

の香かおりが彼の鼻び孔こうをくすぐった

「まるで行き場を失った野の良ら犬みたいね」

淡たんた々んとしたあざけり

の声が

こえ彼は足を止めて振り向いた傍かたわらに佇たたずむ細い外灯を見上げる

先せん端たん

が二ふた股またに分かれたシンプルなそれの上にひとりの少女が立っていた

歳としは十を過ぎて数年といった程度だろうかまだ幼い顔立ちをしながらも足元からの薄暗

い明りに照らされて浮うかぶ赤い瞳は外見の年とし頃ごろに似合わぬ聡そう明めいさをたたえている

第一章 Stratum city 階層都市23

今はいくつもの金属板が折り重なるようにして口を閉ざしているが開けば内は火山の火口

のようになっている炎えん色しよくの溶よう岩がんのようなものが渦うずを巻いて覗のぞき込む者のすべてをのみ込ま

んと燃え盛さかっているのだ

だが中でわだかまっているものは決して溶岩や炎などではない

そこにあるのは異界だ人が本来あるべきではない世界のひずみ走った亀き裂れつの向こう側

見てはいけなかった踏み込んではいけなかった世界のからの外側

彼が見下ろす金属の装置はこの窯を制せい御ぎよしまた窯に干渉するためのものだ

本来及およぶべきものではない異界||境界に触ふれるための装置

彼は世界中に散らばるこの窯を破壊して回っていた

こうして

めてみても今いま更さら感かんがいもない

彼は剣を腰こしに戻もどすと右手を装置へと向けて突き出した何事か呟つぶやくもう何度も繰くり返し

口にしてきた破壊をもたらす言葉

言葉は彼の右みぎ腕うでで眠ねむっていた力を呼び起こし力は彼の右腕に蒼あおい光を生んだ

またたく間に辺りを埋うめ尽つくすほどに増ぞう幅ふくされた光を彼は装置に向けて思い切り放つ

のしゆ間んかん地下深くで口を閉ざしていた異界への門はそれを囲む広大な部屋ごと跡あと形かたもな

く吹き飛んだ

22

別に行き先などどこでもいいカグツチならここアキツからでもそう遠くはない

彼は忌いまい々ましげに少女の消えた辺りを睨みつけると示された

の目的地を目指して歩き出し

た数

日後彼の名は世界中に指名手配犯として公開された

ラグナザブラッドエッジ

それが『死神』の異名を持つ史上最高額の賞金首の名だった

2199年12月30日||13時27分

約百年前世界は一度滅ほろびかけたという

突とつ如じよ現れ世界中を破壊して回った巨大にして異形の怪かい物ぶつhelliphellip『黒き獣けも』の

その圧あつ倒とう的な力に人類は為なす術すべもなくあっという間に世界の人口は半分に減った

ところがそこに六人の勇士が現れた

第一章 Stratum city 階層都市25

下方の彼を見やって少女は薄うすく微笑ほほえんだ

「薄うす汚ぎたない迷子の野良犬さん

に貴方あなたが行くべき場所を教えてあげましょうか」

「helliphellipなに企たくらんでいやがる今まではそんなこと教えなかったじゃねぇか」

吐はき捨てるように彼は低く呻うめいた

少女は呆あきれたように眉まゆ尻じりを下げる

「心外ね教えてきたじゃないhelliphellipもう何度も」

「はぁ

なに言ってんだテメェ」

「覚えていないならいいのよ期待もしていないわ」

指に絡からまった糸くずでも払うように言うと少女はある方向をその白く小さな手で示した

その先に広がるのは暗雲を抱いだく暗い夜空星も月もない夜はまるで不ふ穏おんな予感を掻きたてよ

うとするかのように重苦しく静かだった

「第十三階層都市カグツチ」

そこが貴方が導かれるべき場所よ

そう告げると少女は薔

の香りを漂わせ風が吹き抜けるように

を消した

甘い花の香りが消えると白昼夢から現実に引き戻されたかのようにどこからか金属とくさ

った水の臭においが漂ってくる

気分のいい場所ではない

「カグツチhelliphellipね」

24

た街は山の高度に沿って上下に広がり結果幾いく重えにも市街のプレートが重なった狭せまくも高

い都市が生まれたのだ

ここ第十三階層都市カグツチもまた世界中の都市がそうであるように複雑な多重構造と

なっている都市だった

その中の折り重なった市街のひとつオリエントタウンの入り組んだ細い道を彼は少々ふ

らついた足取りで歩いていた

白い髪かみに左は緑右は赤という左右で色のちが

う瞳ひとみ全身を包む黒い服に目の覚めるよう

な真っ赤なロングコート腰には幅はば広びろで分厚い刀身がと特くち徴よう的な剣けんが下げられている

ラグナザブラッドエッジ

世界虚空情報統制機構の支部を各地で壊かい滅めつさせているSS級の指名手配犯であり史上最高

額の賞金首が彼だ

とはいえ周囲を行き交かう街の住人は誰もラグナを気にしたりはしないどうせまたどこか

らか無法者が入ってきたのだろうそんな程度の視線が時折興味もなさそうに掠かすめては離れ

ていく

ここはオリエントタウンカグツチの下層に位置する街だ

階層都市はその構造上上層の街であるほど魔素から遠く安全で清潔で逆に下層に行くほ

ど管理が行き届かず魔素に近い階層都市において上下は住みやすさだけでなく晒さらされる命

の危険の度合いをも意味している

第一章 Stratum city 階層都市27

彼らは事象兵器

アークエネミーと呼ばれる武器を手に黒き獣にいどみ災さい厄やくの魔ま物ものを倒し人類に未来をもた

らした

六英えい雄ゆうと讃たたえられた彼らは人知れず歴史の海に

を消し行ゆく方え不明となったがそれでも彼ら

の栄光は伝説として語かたり継つがれた

それは近くも遠い昔の話

今の世にかつての黒き獣との戦争||暗黒大戦の誰だれもが知るような名な残ごりがあるとすれば

それは大きく数えてふたつだろう

ひとつは世界虚空情報統制機構

暗黒大戦のとき六英雄と共に戦った世界的な連合軍が母体となった組織であり現在は世界

中をこの組織が統とう括かつしている

そしてもうひとつが魔素

災厄の魔物黒き獣の出現と共に世界中であふれ出した物質で黒き獣が倒たおされた後も依い然ぜんと

して世界の空気中に残り続けた

今では様々なテクノロジーにも利用され人々が暮らしていくうえでなくてはならないもの

となっているがそれでも多量の摂取は人体への危険を伴ともなう

そのため人類は魔素を利用しながらも魔素を避さけて生活しなければならなかった

魔素は地表に近いほど濃こく滞たい留りゆうしているそこで考え出されたのが階層都市だ

高山を基き軸じくにしてそこからプレート状に築いた市街を突つき出させるようにして街を建設し

26

っている

そのうえあちこちの路地を塞ふさぐように木箱やらなにかの詰つまった袋ふくろやらが我が物顔で腰を下

ろしているものだから何気なく入った路地が通り抜ぬけられないこともしばしばある

赤い柱にぎょろついた目玉のついた奇きみ妙ような像街中に小さな明かりの灯った提ちよ灯うちんがぶら下げ

られていてそれ以上におびただしい数の大小の看板が眩まぶしいネオンを輝かがやかせている

普ふ通つう下層の街というのはいくつもある上層の基き盤ばんに陽光をさえぎら

れて昼間でも薄暗く場所に

よっては真っ暗になるものだがここはそんな暗がりとは無む縁えんのようだ

路地を抜けると少し開けた通りへ出た

左右にずらりとなにかの店が並んでいてどうやらこの辺りのメインストリートらしかった

その分掲かかげられた看板の数もその

手な色しき彩さいも段だんちがいだ

(この辺なら統制機構の連中もいねぇだろ)

比ひかく的広い通りでもいかにもこの街の住人といった人間ばかりが歩いていて世界虚空情報

統制機構の例の忌いまい々ましい青と白を基調にした制服は見当たらない

ありがたい話だもし見つかれば曲がりなりにもラグナは重大犯

者周囲への配はい慮りよもな

にもなく雨あられと発はつ砲ぽうされ

から

へと集まってくる

士たちと追いかけっこを演じなけ

ればならなくなる

ラグナは左右をきょろきょろと見回しながら腹部に手をやった

疲労より空腹が辛つらいカグツチに入ってからというもの食料品を扱う店に巡り合えず持

第一章 Stratum city 階層都市29

当然最上層を占せん拠きよしているのは管理機

でもある世界虚空情報統制機構だその

連施し

設せつや

係者の住宅が市街のほとんどを占しめている

続いて権力に近く裕ゆう福ふくである者が上層階に住まいそうでない者はその

産や身分に順列を

つけるように下へ下へと下っていく

オリエントタウンに住んでいるのはそういった順列の結果ここまで追いやられてきた人間

たちだった

誰も彼もお世辞にも裕福とは言えない自分と家族それから少しの親しい人間の生活の

ことで精いっぱいで見るからに異質な白髪の男にかかわって余計な面めん倒どうに首を突っ込みたが

る酔すい狂きよ者うものなどほとんどいないのだ

もっともラグナ自身も周囲の人間の様子に気を配っている余よ裕ゆうはあまりなかった

今は使われていないは搬んに入ゆう口からカグツチに侵しん入にゆうしたのが二日前それからずっと人の通ら

ない裏道や廃はい棄きされたエリアを通ってきた図はかったわけでもないのに延々と歩かざるを得なか

った悪路に正直疲ひ労ろうが募つのっている

帰りはもっとまともな道を通ろうそう決めていた

「にしても下層にしちゃ賑にぎやかな街だな」

辺りを見回しラグナはぼやくように率そつ直ちよくな感想を口にした

オリエントタウンは無計画にとにかく乱雑に家を建て並べたことがよくわかる入り組んだ

造りをしていた道は狭くやたらに折れ曲がり家々は今にも密着しそうに身を寄せ合って建

28

「うhelliphellipう」

微かすかに震ふるえる声で呻き少女はゆっくり顔を上げる

ラグナを見上げたフードの中におそらく誰もが想像するであろう少女の顔はなかった

あるのは黒い暗い闇やみを詰め込んだような陰かげその中でへなりと下がった赤い目らしき丸と

白い歯の並ぶ下を向いた三日月形の口だけが浮かんでいる

ぴくぴくと痙けい攣れんするようにフードについている三角の耳が震えた

人間ではないけれど獣のような尻尾や耳を持つ獣じゆ人うじんとも様子が

「もしかしてhelliphellipカカ族か」

このような奇きみ妙ような風ふう貌ぼうの生き物をラグナは過去にも一度見たことがあった確か剣けんの師しし匠よう

を訪ねてきたはずだ同じような黒い顔に実にシンプルな顔のパーツ目の前にいる少女とそ

のとき目にしたカカ族の女は明らかに別人だがこのと特くち徴よう的な容

は他にあるまい

もっとも『カカ族』という名めい称しようを知っているだけでつまりどういう一族なのかをラグナは

知らないのだが

さてこの少女をどうしたものか

わらずに引き返すべきか見なかったことにして先へ

進むか

咄とつ嗟さのことに決めあぐねていると顔だけを起こしたカカ族の少女はその弱り切った様から

は想像もできない俊しゆ敏んびんさで突如ラグナの足にしがみついた

「うおぁっななんだ」

第一章 Stratum city 階層都市31

ち歩いていた保存食も底をつき昨日の夜からなにも食べていないのだそろそろいい加減

限界が近い

いくら下層街でもこの雰ふん囲い気きなら飲食店くらいいくつかあるだろうそう思って雑多な看

板からそれらしい名前を探しているとhelliphellip

なにかやわらかいものを踏ふんだ

「ブニャッ」

同時になにかの鳴き声が足元から

こえた

「げっ」

犬か猫ねこでも踏みつけたかと思ってラグナは慌あわてて足をどける

が見下ろしたそれは予想に反してずいぶんと大きなものだった

というより人だったり両よう腕うで両足を地べたに投げ出し力なく倒れ伏ふしている少女だ全身

をすっぽりと覆おおうフードつきのローブから長い三つ編みの髪とかつ色しよくの肌はだの足が覗のぞき見えてい

るhellip

hellipいや

「なhelliphellipなんだテメェ」

警けい戒かいというより疑問一色の声で問いかけるラグナの視界でひょろりと弱々しく細長い尻しつ尾ぽ

が揺ゆれた

尻尾はその倒れた少女から生えていた

30

「はぁ

おおいどうした大だい丈じよ夫うぶか」

あまりにも切せつ羽ぱ詰つまった声を出すものだからさすがに少し心配になった持ち上げていた足

を下ろして陰を詰めこんだような顔を覗きこむ

まるで黒いお面のような顔は目も口も情けなく下げてラグナを見上げ今にも気を失いそう

な弱さで訴えた

「おhelliphellipお腹なかが空すいたhelliphellipニャス」

黄色いクロスがかけられた丸いテーブルの上にいくつもの皿が並んでいた

揚あげた鶏とり肉にくに薬味だれをたっぷりかけたもの肉団子と色いろ鮮あざやかな野菜の甘あま酢ずあん炒いため四

角く切り分けた豚ぶた肉にくを甘あま辛からく味付けしたこってりとした煮に物ものに山と盛られた炒め飯牛肉と

野菜を濃い味の味み噌そで炒めたもの細切りにした野菜を薄うすい皮で包んだパリパリの春巻きに

挽ひいた肉を包んで蒸むしたふかふかの饅まん頭じゆhellipうhellip

白い湯気と共に胃いぶ袋くろを震わせずにはおかない匂においを放つ数々の料理を三角耳のついたフー

ドの奇妙な少女は椅い子すからずり落ちそうなほど身を乗り出して忙いそがしく口に掻かき込んでいた

「はぐはぐはぐニャスはぐはぐはぐはぐはぐニャスはぐはぐ」

料理を頰ほお張ばる音なのか箸はしをしゃぶる音なのか空気の抜けるような声が絶えず漏もれていた

第一章 Stratum city 階層都市33

「うぅぅニャhelliphellipた助けてhelliphellipニャス」

驚おどろいて足を持ち上げ振ふり払はらおうとしたラグナの足に両腕を絡めてぶら下がり三角耳に尻尾

を生やした少女はあわれっぽく訴うつたえる

しがみつく腕うでをほどこうとラグナは足を大きく上下に振ふりまくるが少女の腕がどういう

わけか一向に離れない

「くっこの離しやがれ

なんなんだよテメェは」

「離さないニャス絶対に離さないニャスぅhelliphellip助けてくれないとこのままオマエの足を食う

ニャスよぉぉhelliphellip」

声だけは弱々しくだが腕は言葉に反して力強くラグナの足を摑つかんで離さない

この騒さわぎでも周囲の人間は奇き怪かいなものでも見るような視線を一いつしゆんくれるだけでそれ以上

わろうとせず通り過ぎて行く

面倒なトラブルに巻き込まれる心配はなかったが少なくとも親切な通行人の手助けは見込

めなさそうだった

何度目かでいい加減に諦あきらめるラグナは足を中ちゆ途うと半はん端ぱに持ち上げたまま縋すがり崩くずれるカカ族

の少女を憔しよ悴うすいの表情で見下ろした

「待て待て待て足を食うなてか意味わかんねぇよ助けるってなんだよ」

「うぅぅhelliphellipよhelliphellipよくぞ

いてくれたニャスタオは今とってもピンチなのネもうhelliphellip

もう限界ニャス」

32

た中皿いっぱいに盛ってあったはずの春巻きはいつの間にか最後のひとつになっていた

「こんなにうまいご飯を

ってくれるなんて白い人はいい人ニャスタオはとぉ〜っても感

謝してるのニャス」

両腕を大きく振り回して少女は喜びの度合いを示そうとするその手は指先まですっぽり

と袖そでの中に隠かくれていて猫の前脚を模したように大きく丸くなっていた

ラグナは春巻きを飲み込んでから尋たずねる

「タオってのはお前の名前か」

「ニャス

タオカカニャス」

大きく頷うなずくと尻尾を持つカカ族の少女タオカカはもう一方の手に持ったままだった肉饅

頭をまた一口で頰張り飲み込こんだ

「タオは村を出て勇ましく旅立ったんニャスがhelliphellipすっかりお腹が空いて動けなくなってたの

ニャあのときいい人が助けてくれなかったらタオは今ごろ干からびてカカの干物になって

たニャスこの『ごおん』は忘れないニャスよ」

勝手に身の上話を始めながらタオカカは味噌炒めの皿を抱かかえて残っていた分を全すべて口の中

に流し込んでしまう

まだそれ食ってなかったんだけどとは言えずラグナは渋じゆ面うめんでその様を見守った仕方な

く肉饅頭をひとつ確保すると呆れを込めてため息に肩かたを落とす

「はいはいなにがご恩だよどうせ飯食ったら忘れるだろお前」

第一章 Stratum city 階層都市35

さっきまで力なく下がっていた目も今はまん丸で口も上向きの三日月形となっている

その様を横目に呆あきれ顔でながめながら向かいの席に座っていたラグナは揚げた鶏肉を口に運

んだ分厚い衣ころもがカリカリとしていてうまい久しぶりに直じか火びで炙あぶっただけでない手の込ん

だ食事だった

「helliphellipうまいか」

料理は凄すさまじい速度で減っていく奇妙な少女が嬉きき々として大量のメニューを注文し始めた

ときはラグナはとてもそんなに食べきれないと青ざめたがそんな心配は無用だったようだ

むしろ今となっては支し払はらいのほうがよほど心配だ

先だけ白くなっている尻尾をふりふりと上じよ機うきげんに揺らす奇妙な少女はふかふかの饅頭を両

手に摑つかんで顔を上げた

「うまいニャス

あれもこれもそれもぜ〜んぶうまうまニャス」

「そうかそうかそらよかったよはぁhelliphellip」

こうも屈くつ託たくなく当然のように貪むさぼられるとこいつの頭に遠えん慮りよという言葉はないのかだとか

そもそもどうして自分が見ず知らずの正体不明な少女に食事をおごっているのかだとかなぜ手

を引かれるままに大人しくこの店まで来てしまったのかだとか尽つきることなく浮うかんでくる

疑問もどうでもよくなってくる

少女はうまそうに肉饅頭を一口で頰張る

あっという間に飲み込む様に思わず苦くし笑ようを漏らしてラグナは春巻きをひとつ箸で取り上げ

34

だが現在はどちらかというと統制機構の手に負えない凶きよ悪うあ犯くはんや行ゆく方えの知れないとう

亡ぼう犯など

にかけられた多額の賞金を得て日ひ銭ぜにを稼ぐ者のことを表している

それが全てというわけではないが多くはまともな

につけなかった荒あらくれが暴力手段で稼

げる口として選ぶ道だ

女の咎追いが珍めずらしいわけではないがこれほど無防

でき緊んち張よう感のない咎追いはラグナは見

たことがなかった

「そうニャス今日からなったニャス」

「今日からかよ」

「そんでこいつを摑まえるのネ」

なぜだか誇ほこらしげにタオカカは皺を伸ばした紙をラグナに差し出した

ラグナは肉団子を野菜と一いつ緒しよに口の中で嚙かみ砕くだきながらそれを受け取る街角などに貼はら

れているような指名手配書だったあまりお目にかかれない気前のいい賞金額と共にひどく

不細工な男の似顔絵が描えがかれている

賞金首の名前はラグナザブラッドエッジ

「ぶはほっ

その名前を見た途と端たんラグナは盛せい大だいに肉団子と野菜を咀そし嚼やくしたものを噴ふき出した

「ぶにゃにゃ

いきなりご飯噴き出すなんていい人ばっちいニャもったいないニャスよ」

横で抗こう議ぎしながら最後の肉饅頭を頰張るタオカカの声も耳に入らないラグナはまじまじ

第一章 Stratum city 階層都市37

「忘れないニャス」

突とつ然ぜんピンと尻尾を真まっ直すぐに立ててタオカカはずいと身を乗り出すとテーブルの上からラ

グナを見上げた瞳どう孔こうのない丸い目ときばを並べた三日月の口がお面のようで不気味だ不気味

であるはずなのにどうしてか見つめられると愛あい嬌きようを感じる

「カカは義ぎ理り堅がたい一族ニャス受けた恩は忘れないのネいつかタオが大金持ちになったら

今度はタオがいい人にご飯を

ってやるニャス」

「大金持ちってhelliphellipお前な腹減りで行き倒だおれてた奴やつがなに言ってんだアテもねえくせに」

「ぬっふふふアテならあるニャスよ」

言ってひょいと肉団子を三つ箸に刺さして口に放ほうるとタオカカは椅子までずりずりと体を下

げて服の中からなにかを取り出した

くしゃくしゃになった一枚の紙だタオカカはそれを丸い手でテーブルの上に広げて皺しわを伸の

ばす

「タオは咎とが追おいニャス悪い奴をとっちめてたくさんお金をもらうのネ」

「咎追いだ」

怪けげんそうにラグナは眉まゆを寄せた

咎追いとはいわば賞金稼かせぎだ

元は大量の魔ま素そによって生態系が乱れ大量の新種生物が発生した

にそれらを討とう伐ばつする

べく統制機構が武装を許可した者たちのことを指した

36

「うニャいいニャスよいい人はタオのおんじんニャスからねどーんと任せておくといい

ニャス」

そう言ってタオカカはニシシと笑うと綺き麗れいに舐めた皿をドンとテーブルに置いた

その目の前に

「お待たせしました〜」

若いウエイトレスが新しくいくつもの皿を並べた

肉味噌ののっためん

とパリパリに揚がった

にたっぷりの野菜が入ったあんをかけたもの

焼き豚ぶたをスライスしたものの盛り合わせエビのすり身やら豚のひき肉と香こう味み野菜やらをもっ

ちりとした皮でくるんだ無数の蒸し物

できたての遠えん慮りよ容よう赦しやのない湯気が豊かな香かおりと一緒に天てん井じようへ上がる

「helliphellipは」

頼たのんだ覚えはないそう抗議しようとして気がついた

あのときhelliphellipラグナが自分の手配書を見ていたときだあのときタオカカが一口で食べた肉

饅頭が皿に残っていた料理の最後だった

その直後そういえばタオカカがメニューへ手を伸ばしていたような気がする

「ひゃほ〜ぅうまそうニャス

秘密の抜け道は危ないところなのネいい人もお腹いっぱ

いにしておかないとお腹空いちゃうニャスよ〜」

悪びれるどころか嬉しそうに蒸し物を引き寄せるタオカカの手をラグナは思い切り摑んだ

第一章 Stratum city 階層都市39

と手にした手配書を見る細かく手が震えた

(なhelliphellipなんっだよこの似顔絵

いくらなんでも似てなさすぎだろ

そもそもよくわかっ

てねぇなら似顔絵なんか載のせんなよ俺がこういう顔だみたいに広めてんじゃねぇよ

まさかこれがカグツチの街中にベタベタ貼ってあるのではないだろうかだとしたら憂ゆう鬱うつだ

この顔が『ラグナザブラッドエッジ』の顔だと思われていることもだがこの額で手配

書が出回っているとなるとずいぶんな数の咎追いがラグナを探しているはずだそういう咎追

いはこのカグツチにも多くたむろしているだろう

(普ふ通つうに街中通ってくのはまずいかhelliphellip)

あの青と白の制服連中に見つかるのも厄やつ介かいだが咎追いに見つかるのも厄介だそれこそこ

っちの都合などお構いなしに街中だろうがどこだろうが構わず『仕事』に取り掛かるに

ない

「helliphellipなあタオカカだっけかお前カグツチの上のほうに行く抜ぬけ道とか知らねぇか」

くしゃくしゃの手配書を返しながらラグナは心持ち身を屈かがめて声を低めたもしあるなら

多少悪路であっても面めん倒どう事ごとを引き起こすよりはずっといい

タオカカは甘酢あんだけが残った肉団子の大皿を舐なめながら答える

「おう秘密の抜け道ネ知ってるニャスよ」

「本当か

そりゃいいなあ飯

ってやる代わりにその抜け道まで案内してくんねぇ

か」

38

の腕うでを摑むとウエイトレスの手を強く払った

荷物でも担かつぐようにタオカカを肩に抱だき上げて弾はじかれたように店を飛び出す

「うニャニャッ

タオのご飯

まだ食べてないニャスよ」

「うるせぇ

それどころじゃねえんだよ」

肩かた口ぐちで

痛な声をあげ追いすがるように手を伸のばすタオカカへラグナは焦あせりのままに声を

荒げた

オリエントタウンの大通りへ出ると人波を掻かき分けて持てるき脚やく力りよくの限界にいど

いで走る

「待て

誰だれか捕まえて食いに

げだよ

後方からウエイトレスの金切り声が追いかけてくる

ぎょっとすることにウエイトレスの足はラグナに負けていなかったしゆ

念うねんのせいかもしれな

いラ

グナは足を動かしながら何度も悪態をついたまさかカグツチにやってきて最初に引き起

こす騒そう動どうが食い

げだとはこの街に上がってきたときには思いもしなかった

担がれたタオカカはしょんぼりと尻しつ尾ぽを垂らしてまだ諦あきらめ切れないのか後方へ向けて空を

掻いていた

「うう〜っタオのご飯がぁhelliphellip」

「いいから抜け道の場所を教えろ

店の奴に摑まってミンチにされてぇのか」

「みんち」

第一章 Stratum city 階層都市41

いのあまり腰こしが浮く

「おおまっなに勝手に追加してんだよ

「ニャ

いい人もうお腹いっぱいニャス

ならタオが全部helliphellip」

「ちげぇよ

こんな山ほど注文されていくらなんでも払はらえるか

俺はそんなに金持って

ねぇんだよ

そもそもラグナは仕事を持っていない時折咎追いの真ま似ねごとや日ひ雇やといの仕事で旅費を稼い

だりもするがそんなものは一時しのぎだ金がなくてまともな宿さえ取れないというのに

さっきまでの注文に加えてまだ追加がくるなんてとても財さい布ふの中身が足りると思えない

息巻くラグナの肩に手を置く者があった

ラグナは一度うるせぇとそれを払い落すだが手はすぐにもう一度ラグナの肩を叩たたき手

の主が低く

後から問うた

「お客さん

今helliphellip金持ってないって」

「helliphellipあ」

言われラグナが振ふり向いた先に立っていたのはラグナよりずっと

の低いウエイトレス

だったにこやかに微笑ほほえんでいるがその目はどこか殺気じみている

「金持ってないって」

ウエイトレスはもう一度問う

その直後ラグナはまるで事態がわかっておらず蒸し物をパクパク口に運んでいたタオカカ

40

2199年12月30日||13時35分

灰色の雲に閉とざされた空を

景に一そう

の船が港に到とう着ちやくした

船といっても海を渡わたる船ではない渡るのは空だ

膨れた腹部に人間や機材といった貨物を詰つめて運び左右に伸びた翼つばさに魔素を取りこみ飛行

する魔操船

当然空飛ぶ魔操船が停てい泊はくする港も相応の造りをしている

第十三階層都市カグツチ第五番ポート他に比べて小さく目立たない造りになっている

そこはある特定の目的に多く使われるポートだった

身を寄せるように入港した暗色の魔操船の重々しい稼か働どう音おんが止まりハッチが開いて細身の

階段が下方へ伸びる

銃じゆうを肩かたに下げた青と白の制服

士が数名

りてきて慌あわただしく持ち場につき無線機で

なにやら報告を交かわす

それから遅れることしばしポートの平たい地面に向かう階段に黒い革かわぐつの足がかけられ

た続いてひょいと細身を覗のぞかせるように現れたのは黒いスーツに身を包んだ

の高い男だ

第一章 Stratum city 階層都市43

「肉だよ肉

さっき並んでた料理になりたくなきゃさっさと教えろ」

なにも本気で店員が自分たちをミンチにすると思って言ったわけではないが遅れて意味を

理解したタオカカは真に受けたらしいびくりと尻尾が飛び上がって警けい戒かいするように太く膨ふく

れる

「お肉にされたらお肉が食べられなくなっちゃうニャス

それはいやニャス」

肩の上で器用に身を捻ひねってラグナの前に着地するとタオカカは獣けもののように両手を地面につ

いて走り出す

「いい人こっちニャス」

「よしわかった」

タオカカが飛び込むようにして細い路地に入るい一つしゆん反応が遅おくれたもののラグナも空の籠かご

をひっくり返しながらそれに続いた

ネオンの看板から遠くなりぐっと辺りが薄うす暗ぐらくなる

走りながらラグナはげんなりと自じちようするように思った

今日の食い

げの分明日から自分にかけられている賞金が増額するかもしれないなhelliphellipと

42

青のブーツで雨水を

ね上げながらハザマのいる管理小屋の前まで行くと軽く息を整えて

を正す

空色の瞳ひとみは凜りんとしており生き真ま面じ目めな表情をしていた

「お待たせしてしまってすみませんでも一声かけてくださればよろしかったのにhelliphellipまだ

中にいらっしゃるのかと思って探しておりました」

「おやおやそれはそれはお手数をおかけしましたツバキヤヨイ少しよ尉うい」

その瞳が示す通りどこまでも生真面目に話す女性をツバキと呼んでハザマは口の端はしを深く

吊つり上げ笑えみを浮うかべた

ツバキヤヨイ少尉彼女はハザマのように諜報部の所属ではなく世界虚空情報統制機構

武装魔ま術じゆ師つし第四師団の所属だった

世界虚空情報統制機構とは国家というがい

念ねんのなくなった現世界においてその代役を担になう重

大にして巨きよ大だいな機

だ帝みかどと呼ばれる絶対的な決定権を持つ存在を頂点に掲かかげ世界中の施し政せい

司法軍事あらゆる社会的基き盤ばんを管理し運営している

それだけに設けられている部署は膨ぼう大だいであり役割の異なる部署が共にひとつの任務に当た

ることはひん

繁ぱんにあることではない

だがツバキとハザマはちが

う部署でありながらとある任務のためにふたりでカグツチへとや

ってきていた

「いやぁしかし生あい憎にくの天気ですねぇこの雨の中広いカグツチでひとりの男を捜そう索さくすると

第一章 Stratum city 階層都市45

った

緑の髪かみにのせた黒い帽ぼう子しを指で押さえて男は尖とがった顎あごを上向かせ空を仰あおぐ目ま深ぶかにかぶっ

た帽子のせいで目元は見えないが薄うすいく唇ちびるは不満そうにへの字に歪ゆがんでいた

「あらま雨ですか」

空一面を埋うめ尽つくすように広がる灰色の雲からは静かな雨が

っていた

もうずいぶん前から

り続いていたようで狭せまい五番ポートはどこもかしこもすっかり濡ぬれ

ている雲に動きもないようだししばらくはこのまま

り続けるだろう

やれやれとうんざりしたようにため息をつくと男は足早に屋根のある場所へと移動した

黒スーツの男は世界虚こ空くう情報統制機構||多くは統制機構とり略やく称しようで呼ぶ機

のち諜よう報ほう部に

在ざい籍せきしている名はハザマ階級は大たい尉い

彼が乗ってきたこの魔操船はその諜報部の名前で使用された船だ

この五番ポートはそういう統制機構の中でも公おおやけにできない任務や用件のときに多く利用さ

れるいわば人目を避さけるためのポートだった

「ハザマ大尉

外にいらしたのですね」

魔操船の階段から女の声がかかりスーツについた水すい滴てきを払っていたハザマは顔を上げた

青と白の制服にそろいのポンチョを羽織った若い女性が足早に階段を駆け下りてきた青の

ベレー帽ぼうをかぶっておりそこから腰をも越こすほど長く伸のばされた鮮やかなカメリアレッド

の髪が流れている

44

視線を上げればここからでも高山の頂上から突つき出るようにそびえる美しく壮そう麗れいな支部の

が見られたただ今日は悪天候のため雨のカーテンが視界を煙けむらせる

霞かすむ支部を見上げてツバキはわずかに眉まゆを寄せた

「helliphellipなぜキサラギ少佐はカグツチなどに」

それはジンのことを知る者なら誰もが抱くような疑問だった

第四師団団長ジンキサラギは

常に冷静な人物だメリットとデメリットを十分分ぶん析せきした

上で行動する思し慮りよ深ぶかさを持っているしなにより突然統制機構に

を向けて己の立場を危あやうく

させるような愚ぐち直よくなタイプではない

こんなことは実に『彼らしくない』行いだ

思い悩なやむようなツバキの

にハザマは少し驚おどろいたように「おや」と言った

「これは意外ですねツバキヤヨイ嬢じよう貴女あなた

ほどの聡そう明めいで優ゆう秀しゆうな方がおわかりにならな

い」

口元に笑みを刻んで問うハザマの試ためすような口調にツバキは小さく胸中がざわつくのを感

じたいや

味みな言い方をする男だ

ツバキはハザマという男をよくは知らないだから彼がどういうつもりでこういった物言い

をするのか

しもつかない

だがこの一言だけで黒いスーツに身を包んだ彼を好ましくないと判断する程度には気に障さわ

る語調だった

第一章 Stratum city 階層都市47

なると中々骨が折れそうです」

また帽子に手をやって雨を

りこぼす曇どん天てんを見上げハザマが今度はどこか愉ゆ快かいそうに言う

彼らの任務は人探しだった誰を探すのかといえば

「それでもなんとしてもキサラギ少しよ佐うさを探しませんとhelliphellip」

ツバキは視線を足元に落とし己おのれに言い

かせるように呟つぶやく

ジンキサラギ少佐それがツバキとハザマが探している男の名前だった

武装魔術師第四師団の団長でありツバキにとっては直属の上司だ彼の秘書官として側そばに

仕え支えてきた

その彼が数日前突とつ然ぜん統制機構の本部から

を消した

任務でもなく届け出もないこれは統制機構において重大な規律い反はんだ

一師団を預かる団長が独断行こう為いにより行ゆく方え不明などという事態は前代未みもんだ部下や他師

団に影えい響きようを与あたえるからと今のところこの一件は公になっていない

だが現状がどこからか漏えいする可能性もあるその前になんとしても連れ戻もどさなければと

ごく秘ひ任務を命じられたのがハザマであり彼が協力者に選んだのがジンキサラギの秘書官で

あるツバキだった

冷たい雨が空気を冷やすそのせいだろうか五番ポートは金属のにおいがたちこめていた

濡れた灰色の階段の向こうに上層階らしい整理された街並みがうかがえる奥へ進んでいくつか

階層を上がれば最上層である世界虚空情報統制機構カグツチ支部だ

46

だがハザマは欠片かけら

も気にした様子なくむしろそれこそ子供の反はん抗こう的な物言いに噴ふき出すよ

うに軽く笑った

「あららそっちでしたかこれは失礼いたしましたツバキヤヨイ少尉」

帽子に手をやりわずかに持ち上げて会えし釈やくしてみせるその間もずっと彼の細い首はくつく

つと喉のどを鳴らすような笑いに震ふるえていた

「少佐がなにをお考えなのかなんて我々にわかるはずもありませんよそれこそご本人を見

つけて直接お尋たずねになってはいかがです」

そうできないから疑問なのだと苦く胸中で思ったもののツバキは余計な言葉を奥にしまい

こんだ今必要なのは疑問でも感情でもないそう自分に言い

かせる

「helliphellip了りよ解うかいしました大尉」

ツバキが生き真ま面じ目めに答えるとハザマはもうひとつ笑ってから切り出した

「さていつまでもおしゃべりしていても仕方ありませんしそろそろお仕事を始めるとし

ますか」

仕事つまりはジンキサラギの捜索だ

ツバキはハザマへのけん

悪お感ではなく任務への使命感に表情を引き締しめる

ハザマは雨に濡れたカグツチの街並みを見やりながらにんまりと唇を引いて言葉を続けた

「まず確かく認にんしておきましょう我々の任務はジンキサラギ少佐を捕ほ獲かくし本部へ強制帰き還かんさ

せることただし少佐の失踪の件は公にされていませんからカグツチの

士たちへは内密に

第一章 Stratum city 階層都市49

小波のような不快感を飲み込んでツバキは

士の顔を取り繕つくろいせ筋すじを伸ばすたとえ好ま

しくなくてもツバキは少尉でハザマは大尉上官だ

「申し訳ありません大尉私にはhelliphellip」

「貴女からの報告にあったではありませんかキサラギ少佐は例の『死神』に

する報告を受

けた翌日に

を消したのだと」

ハザマは両手を軽く広げてみせる

さっきのからかうような物言いのせいだろうかそんな仕草でさえツバキにはどこか

に映る

「報告の中には『死神』つまり指名手配中のラグナザブラッドエッジがカグツチに向か

っているらしいという情報もあったそのうえで少佐がカグツチに向かったのならそれはも

う『死神』を追っての行動だとしか考えられないでしょう」

統制機構を出たジンの行き先がカグツチであるとの情報を持ってきたのはハザマだった

うっかりそんな情報を摑つかんでしまったがためにこんな辺へん鄙ぴな場所への任務を命じられてしま

ったと愚ぐ痴ちめいたことをツバキは魔操船の中で散々

かされていた

「恐おそれながらハザマ大尉それは私にもわかります私が疑問なのはなぜ少佐が統制機構を

飛び出してまで『死神』を追わなければならなかったかです」

いささかむっとしてツバキは言う言ってからすぐ無礼が過ぎたかと危きぐが過よぎった

にあるまじき子供じみた態度だったかもしれない

48

てもらえますか」

「別件ですか」

戸と惑まどうように尋ねたツバキの質問に対しハザマは肩をすくめるような苦くし笑ようだけを返し具

体的な言葉は告げなかった

ハザマの所属は諜報部だ他部署へ言えぬ用事も多かろう見えない目的に少々の怪けげん

さを

感じながらもツバキは配はい慮りよのつもりでそれ以上尋ねるのをやめておいた

「わかりましたでは下層のhelliphellipオリエントタウンの辺りから調査してみます」

「そうですねあそこはカグツチでも一番広いエリアですし身を隠かくすにはうってつけですか

らいいと思いますよ」

うんうんと適当に頷うなずきながらハザマは一歩歩み寄るとわざわざ腰こしを折って下方から覗のぞき込

むようにツバキを見た

帽子のつばで瞳が見えないけれど絡からみつくような視線が確かにこちらを捉とらえているのがわ

かる

子供に言い

かせでもするようにハザマは人差し指を一本立てた

「ただひとつ気を付けてくださいね治安が行き届いていない場所はキサラギ少佐が身を隠

している可能性も高いですが同時にラグナザブラッドエッジがうろついている可能性も

あります万が一おふたりが鉢はち合あわせて戦せん闘とうなんてことになったらもう私たちには手も足も

出せませんから」

第一章 Stratum city 階層都市51

お願いしますよ部外者はもってのほかです」

「はい」

「それから現在カグツチにはラグナザブラッドエッジが潜せん伏ぷくしているとみられますそ

のためD警報が発令されていますのでそのつもりで」

D警報とはつまり統制機構による特別警けい戒かいが行われているという意味だそのためカグツ

チの住民でない者や統制機構とは

係のない他機

がこの都市でなにがしかの活動を行うこ

とを禁止している

「D警報に抵てい触しよくする者と接触した場合はカグツチの支部に連れん絡らくを取ればよろしいのでしょう

かそれともこちらで対処したほうが」

しゃんと

筋を伸ばしハザマを見み据すえて問うツバキの様はどこにでもいる一

士と片付け

るにはいささか毅き然ぜんとしすぎる品をたたえていた

それもそのはずだ彼女は統制機構を創設当初から支え幾いく人にんも重役をはい出しゆつしてきた十二宗家

のひとつヤヨイ家本家の娘むすめなのだから

だがハザマはツバキの纏まとう品もそこからくるどこまでも真面目な性しよ分うぶんもなにもかもが面めん

倒どうくさいと言わんばかりに口元を歪めると実に雑に答えた

「あー適当でいいですよお任せします」

「はhelliphellipはい」

「じゃあ私はちょっと支部に別件の用事があるんで先に下層のほうから捜索を始めておい

50

ハザマの気さくさに引きずられることなくツバキはあくまで部下として返事をすると堅かた

苦くるしく

筋を正した

「それでは大たい尉い私は下層を見て回ってきます」

「ええよろしくお願いしますよ今のカグツチは物ぶつ騒そうですからお気をつけて」

「はい失礼いたします」

腰を折って一礼しツバキは管理小屋の狭せまい軒のき先さきから雨の中へと駆かけ出した小さく水音を

はねさせながらポートから街中へと向かう階段を上がっていく

腰までを覆おおう青いポンチョがカメリアレッドの髪かみと共に躍おどり去っていくのをハザマは管理

小屋の壁かべに寄りかかって見送っていた

やがてひ翻るがえるポンチョの青もツバキが

ね上げる水の音も完全に雨の向こうに消えるとゆっ

くりと身を起こす

「本当にお気をつけて」

低く声を喉のど元もとで濁にごらせるように呟くとハザマもまた雨の中へと悠ゆうゆ々うと踏ふみ出した

第一章 Stratum city 階層都市53

「そうhelliphellipですね」

ツバキは身を引くように俯うつむいて苦々しく答えた

ジンは統制機構でも並ぶ者なしとまで言われる剣けんの使い手だそのうえ約百年前の黒き獣けものと

の戦争『暗黒大戦』で使われたとされている事象兵器

アークエネミー氷ひよ剣うけんユキアネサを所持している

そして『死神』ラグナザブラッドエッジはこれまで数々の統制機構支部をたったひとり

で壊かい滅めつさせてきた相応の力を持った人物

このふたりがもしも刃やいばを交えることになればツバキにもハザマにも止めることはできない

その最大の理由をハザマがなぜか陽気に言い放つ

「いやはやなにせ私も貴女も戦闘は専門外いざ荒あら事ごととなったらからきしですからねぇ」

ツバキは統制機構の士官学校を出ているため最低限の戦闘訓練は経験しているだがそれ

も護身術程度のことだ卒業後はジンの秘書官として日々書類や来客の相手ばかりしてきた

そんな状態で戦闘技術の向上が見込めるわけもない

一方のハザマも自身で言う通りち諜よう報ほう活動にこそスキルはあれど武力をもって事態に当たる

ことは不得手だった

ハザマは武具の似合わない生白い手でひらりと宙を払はらってにんまりとく唇ちびるを引く

「まお互たがい無理せずいきましょう我々のお仕事はキサラギ少佐を連れ帰ることですから

そこをお忘れなく」

「承知いたしました」

52

の声だった

「しhelliphellip失礼いたします」

答える声が震えたドアノブを摑む手はもっと震えていた

転んだりしたらどうしようああどんな顔をしていたらいいだろう顔が赤くなってしま

いそうでそれだけは必死に堪こらえて平静を取り繕って

ツバキは部屋の中へと入る

最初に目に入ったのは机に向かってペンを走らせるひとりの男性の

だった

後にある窓から入り込んだ日の光が掠かすめて彼の美しい金色の髪を煌きらめかせていた長い

睫まつ毛げの向こうで情感薄うすく書面を見下ろしている瞳ひとみは離はなれた部屋の入り口からでもわかる澄す

んだ緑色をしているはずだ

部屋には彼以外誰だれもいなかった

を丁てい寧ねいに閉めると室内にはツバキとふたりきりだ

何事か書き終わったらしく机に向かっていた彼はどこかおっくうそうに顔を上げるそれ

からその目を驚おどろきに見開いた

「ツバキhelliphellip」

呼んでくれた声は

の外で

いた義務的な声とはちが

っていた

感情の温度が灯ともった声こわ色いろは表情と同じように驚いた風でそのせいかさっきより少しだけ上うわ

ずったように音が高い

「どうしてお前がここにhelliphellip」

第一章 Stratum city 階層都市55

helliphellipそれはほんの数年前のけれどかけがえのない数年をさ遡かのぼった

ある日のことだった

世界虚こ空くう情報統制機構統合本部

真まっ直すぐに伸のびる白タイルの床ゆかをツバキは緊きん張ちようの面おも持もちで歩いていた

初めて袖そでを通してまだ日数のたっていない青と白の統制機構

士の制服はまだ体に馴な染じんだ

とは言いがたくて頭に載のせたつばのない帽ぼう子しもコツコツと床を叩たたくブーツもそつなく着

られているか心配で仕方ない

胸に書類のファイルを抱えてこれで何度目になるかわからないけれど最後にもう一度長く

伸ばした髪を指先で整えて

それからツバキは目的地であったとびらを控ひかえ目にノックした

「||入れ」

一いつ拍ぱくの間をおいて

の向こうから声が返ってくる

そのしゆ間んかんツバキの心臓がドキリと大きく

ねた

感情の遠い義務的な声けれどわずかに少年らしい響ひびきの残った声はツバキがよく知る人

54

十二宗家本家の出の者が同様に宗家本家の出であるジンの秘書に着くという事例は稀まれだ

その辺りからツバキの無茶を

したのだろうジンは呆あきれたように苦笑する

思わずツバキは震ふるえる吐と息いきを漏もらした久しぶりに見たジンの笑顔だった

「秘書が来るとは

いていたがまさかお前だったとはなhelliphellipよろしくツバキヤヨイ少

尉」そ

う言ってジンは白い手てぶ袋くろをはめた手を差し出す

ツバキはファイルを小こ脇わきに抱えると見上げてくる綺き麗れいな緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し

ながら差し出された手を握にぎった

この日この時からツバキの師団長秘書としての日々が始まった

を追いかけるばかりだった士官学校での後こうはい時代とは

うとなりに

側そばに立ち

務を支える

時間が始まったのだった

2199年12月30日||17時30分

カグツチの下層へ

りていきながらツバキは注意深く周囲へ視線を向けていた

もう少し先へ行けばオリエントタウンと呼ばれるエリアに入るはずだそこはカグツチの中

第一章 Stratum city 階層都市57

仕事中らしからぬ砕くだけた物もの腰ごしにツバキは強こわ張ばっていた頰ほおを緩ゆるめたすとんと緊張が抜ぬける

「書類は届いているはずですよお読みになっていないんですか」

ツバキはファイルを抱えて机の前まで行くといぶかしげな彼へ敬礼し

筋を伸ばした

「本日付けで武装魔ま術じゆ師つし第四師団団長ジンキサラギ少しよ佐うさの秘書官に任命されましたツバ

キヤヨイ少しよ尉ういであります少佐よろしくお願いいたします」

型通りだけれど昨晩から部屋で何度も練習した言葉だ

ミスなく言えたことにツバキがほっとしているとジンが驚おどろきに持ち上げていた眉まゆをわずか

に怪けげんそうに寄せた

「少しよ尉うい」

問われた理由はツバキにもよくわかる

ツバキは世界虚こ空くう情報統制機構において貴族的地位にある十二宗家の生まれだ十二宗家の

者は統制機構の士官学校卒業後最低でも中ちゆ尉ういの階級を与あたえられる

ツバキも例外ではなく卒業直後は中尉であったそれがなぜ現在少尉なのかというと

重大な理由がある

「それはその」

ツバキは言いにくそうに口ごもった

本来別の配属だったところをどうしてもジンの秘書官になりたいと粘ねばりその要望を通す代

わりに

格となったとは彼の前ではとても言えない

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かしこも濡れていた

通り過ぎる建物細い横道の向こう物もの陰かげすれ

う人ツバキは視界に映るすべてに神経

を向ける

自然と歩調が速くなるのは募つのる焦あせりゆえだ知らず知らずのうちに手はきつく握られていた

(キサラギ少佐helliphellip)

もう何度心の内で呼びかけたかわからない

唇を固く引き結びまるで縋すがるように視線を左右へ走らせるその表情はただ行方ゆくえ

不明の上

官を探しているだけには留とどまらない深い感情の揺ゆれがあった

(どこにいるんですかhelliphellipジン兄様helliphellip)

ツバキはジンキサラギの秘書官だだがそれ以前からジンはツバキにとって特別な人だ

った

ツバキが十二宗家ヤヨイ家の娘むすめであるならジンは同じく十二宗家キサラギ家の子だ互い

に幼いころから知っていた幼いころから顔を合わせ言葉を交かわし時には子供らしく遊ん

だりもした

ツバキが統制機構の

士を目指して士官学校に入ったのも先に入学し将来は師団長を期待

されていたジンの後を追いかけたかったからだ

ジンは勉強も武術もなんでもできたけれどツバキは運動が苦手だっただからせめて勉強

だけは追いつこうと必死に学んだ学生時代はジンが会長を務める生徒会で共に働いたことも

第一章 Stratum city 階層都市59

でも一ひときわ広く人口の密集したエリアだと

いている

人を探すには不向きな場所だだがだからこそジンが足を向けた可能性はあるとツバキは

考えていた

そこならば容易に人ごみに紛まぎれることができるし入り組んだ路地や階層都市の構造のすき間ま

に身を隠すこともできるなにより下層は統制機構の

士が少なく上層に比べて監かん視しの目が

緩い

統制機構が追手をかけることはジンも十分わかっているだろうならばその目を避さけるのは

当然のことだ

同時に同じように追われる身であるラグナザブラッドエッジが下層を潜せん伏ぷく場所に選ぶ

可能性もジンならば考えたはずだ

硬かたい地面に青いブーツのくつ音おとを響かせてツバキは足早に歩く鮮あざやかな色の髪がしっとり

と雨に濡ぬれる

短い階段を

りるとその先はオリエントタウンの街外れだった

使われているのかいないのかわからない寂さびれた雰ふん囲い気きの倉庫が並びその先にわずかに芝しば生ふ

の植えられた広場のようなものがあるぽつんと佇たたずむ外灯は所々に錆さびの染しみがこびりついてい

た下

層は上層の地盤があるためほとんどが空をさえぎられ屋外でありながら屋内であるかのよう

に天候の影響を受けにくいだがこの辺りはまだ他層より突つき出しているらしく雨でどこも

58

けれど『死神』を統制機構の他

士と同じように考えるのは危険だ

彼は単身で統制機構を相手に反逆行こう為いを繰くり返かえしこれまでただの一度も拘こう束そくされることな

くとう

亡ぼうを続けている並なみ大たい抵ていの力では不可能だということを彼を追うべき立場でもあるツバ

キはよく理解していた

ラグナはおそらくとても強いもしかしたらジン以上に

それになにより恐おそれるべきはそのき凶よう悪あく犯が持つ魔ま導どう書しよだ

||蒼の魔道書

ブレイブルー

かつて黒き獣けものと戦った暗黒大戦時代にある魔ま法ほう使つかいによって術式という技術が開発された

魔法を模したもので魔素を使い火を熾おこしたり水を呼んだりと様々な現象を引き起こすことが

できる技術だ

その術式を扱あつかうために必要な鍵かぎが魔道書だった

蒼の魔道書

ブレイブルー

は世界中に数え切れないほど存在している魔道書の中でも最強と囁かれている

(ジン兄様でも蒼の魔道書

ブレイブルー

を相手にして無傷でいられるはずがない下手をしたらhelliphellip)

そこまで考えてツバキは走った悪お寒かんに身を震ふるわせた

蒼の魔道書

ブレイブルー

は最強とその威いり力よくを絶大に評価されながらも詳くわしいことは知られていないとい

う奇きみ妙ような魔道書でもあった

そもそも魔道書は〞書〝でありながら形状は様々で本の形をしているとは限らない

ラグナザブラッドエッジの蒼の魔道書

ブレイブルー

も彼が持っているという事実は認にん識しきされている

第一章 Stratum city 階層都市61

あった

淡たん白ぱくな物言いをしたり鋭えい利りな目つきをすることがあったから周囲は時折彼のことを冷たい

人だと囁ささやいた

けれどツバキにとってはいついかなるときも彼は優やさしい兄だった

細く美しい金色の髪に涼すずしげな緑色の瞳すらりとした体たい軀くに白い肌はだ整った顔立ちそ

の聡そう明めいな横顔に時々本当に時々だけれどhelliphellip見み惚とれたりもした

頼れるツテというツテを頼ってどうにかジンの秘書官の座を手にしたときはどれほど嬉うれし

かったことか

慕したっていた憧あこがれていた屋や敷しきの奥でひとり毬まりつきをしていた幼子のころから今でもずっ

「ジン兄様helliphellipっ」

急ぎ足だった歩調はいつしか小走りに変わっていた爪つま先さきが小さな水たまりを踏んで水すい滴てきを

ね上げる

一刻も早く見つけ出したかった心臓が軋きしむように胸を打つ

ツバキの頭に浮うかぶ最悪のケースはやはりどこかでジンと『死神』ラグナザブラッド

エッジが遭そう遇ぐうしてしまうということだった

ジンは強い統制機構の中でも彼とまともに剣けんを交えることができるのは数えるほどしか

いないだろう

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ぎゅっと一ひときわきつくこぶしを

胸むな元もとで握るとツバキは首をふって雑念を払はらった

余計なことを推測している場合ではない今は一刻も早くジンを探すことそれだけを考え

なければ万が一今回の行動のせいでジンが反逆者とみなされたりしたら取り返しがつか

ない

急ごう自分をしつ

咤たするように大きく足を踏ふみ出してなにやら小さく物音の

こえた広場

の裏手へ回ってみる

物置だろうかふたつ並んだ小屋の裏を通り抜けようと狭せまい角を曲がった

その途と端たん目の前に壁かべが現れた

「きゃっ

あまりに突とつ然ぜんのことでとても対処できずツバキは進入した

いそのままに壁に激げき突とつした

だが直後に気付く

壁というにはあまりに分厚く建材にしては感かん触しよくがやわ

らかい

「むhelliphellip」

壁の向こうから声がした腹に響ひびくような低い男の声だ

ツバキの目の前にそびえるそれは壁などではなく見上げるほど巨きよ大だいな男の

中だった

「ああすまなかった怪け我がはないか」

そびえる巨きよ軀くはその異様なまでの圧あつ迫ぱく感に似合わぬ紳しん士し的な物もの腰ごしで語りかけのそりと重く

振ふり返る

第一章 Stratum city 階層都市63

もののそれがどんな形状をしているのかはわかっていない

それどころかいつどこで蒼の魔道書

ブレイブルーが造られその秘ひめたる力はどんなものなのか世界

虚空情報統制機構のち諜よう報ほう部ですら正確には把は握あくしていないという

ただでさえ強い『死神』であるのにそのうえ正体のわからない魔道書まであってどう楽

観視できるというのか単身でいどみかかるなど無茶にもほどがある

(helliphellipジン兄様はラグナザブラッドエッジを捕つかまえるためにひとりでカグツチまで来た

のかしら)

物もの影かげに目を凝こらしながらツバキは独り言のように思った

たとえ独断行動によって強制帰き還かん命令が下されているとしてもジンは統制機構の

士であ

り師団長だ『死神』を追って統制機構を飛び出したのだとしたらその目的は凶悪犯の捕ほ縛ばく

以外に

えられないとツバキは思っていた

けれど本当にそうなのだろうかふとそんな疑念が過よぎる

(でもだってそれならどうして誰にも言わないで出ていく必要があったっていうの私に

もなにも言わないで)

なによりそのことが胸に突き刺ささる

ジンは心根の読めない人だけれどそれでもなにかあったときはいつだって一声かけてくれ

たのに

「ううん理由はジン兄様を見つけてから直接

けばいいことよ」

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者も多いそのほとんどはべつ

称しようとしての呼称だ

赤鬼と呼ばれた巨きよ漢かんがどんなつもりでその

称を使ったのかはツバキには読めないけれど

好感情でないことは見るからに明らかだった

テイガーは身構えることこそしなかったものの眉み間けんに深い皺しわを刻み厳いかめしい渋じゆ面うめんでツバ

キを見み据すえる

「helliphellipすまん図書館の

士と接せつ触しよくした」

ツバキから視線を逸そらし耳元へ大きな手をやってテイガーが低く何者かへ告げる直後に

ノイズのような音が走った通信だ

「通信を切ってくださいそこを動かないで」

素す早ばやくツバキは護身用に支給されているけん

銃じゆうを腰こしから抜ぬいたしっかりと両手で握にぎり銃口

を赤鬼へ向ける

テイガーはわずかに首を動かしてツバキを見やったもっとも分厚いレンズの丸眼鏡ごし

では奥の眼まな差ざしまではうかがえない

見下ろす威い圧あつ感に気け圧おされそうになりながらもツバキは努めて厳しく赤鬼を睨にらみ据すえた

「現在第十三階層都市カグツチにはD警報が発令されています第七機

を含ふくめ全すべての他機

の介かい入にゆうは禁止です答えなさいここで一体なにをしていたのですか」

「やれやれ銃を下ろせ

士の少女そんな玩おも具ちやのようなものでは私のボディを傷つけるこ

とすらできんぞ」

第一章 Stratum city 階層都市65

異様なのはなにも体の大きさだけではなかった

人の肌にしては赤みの強すぎる肌の色ただでさえ屈くつ強きような太い腕うでに取りつけられたぎ仰ようぎ々ようしい

手て枷かせのようなパーツ引き締しめられたく唇ちびるから上向きに伸のびる白いきば

鬼おに

約百年前に滅ほろびた日本という国の昔話にそんな怪かい物ぶつが登場したはずだツバキは幼いころに

読んだ絵本を思い出す

それと同時に目の前にいる赤い巨きよ人じんが誰だれなのかを思い出した

「貴方あなたhelliphellip第七機

の赤あか鬼おに」

呼ぶと同時にツバキは数歩下がって身構えた

第七機

術式を主体とした統制機構の世界統治に異を唱え術式に頼たよらない世界を作ろう

と企くわだてている外部機

赤鬼はその第七機

に所属する兵士でありその巨軀からも想像できるように圧あつ倒とう的てきな制圧

力を誇ほこる

正式名めい称しようはTR0009アイアンテイガー

第七機

の研究者によって造られたサイボーグだ

向こうもこちらの

に気付いたようでツバキの胴どう回りよりも太そうな足を一歩引いた

「その制服図書館か」

術式の乱用を防ぐために世界中の魔道書を集め管理していることから統制機構をそう呼ぶ

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きません」

まるでなだめるように語りかけるテイガーの語調が余計にツバキの態度を頑かたくなにさせる

ここで弱よわ腰ごしを見せればそれは統制機構そのものが第七機

に対して弱腰になったとみなさ

れるようなそんな気がしていたそんなことは許されない

世界の秩ちつ序じよを守る統制機構の

士が平和のために戦う武装魔ま術じゆ師つし第四師団の団長秘書が

規律を犯おかした第七機

の兵士と取り引きめいたことをするなんて

銃を構え巨体の赤鬼を見据えたままツバキは手の中に握りこめる小さな通信機を取り

出した

ひとりでは対処しきれない早急に応おう援えんを呼ぶ必要があった

「武装魔術師第四師団所属ツバキヤヨイ少しよ尉ういです現在カグツチ下層オリエントタウンで第

七機

のhelliphellip」

「参ったなできれば穏おん便びんに済ませたかったのだが」

赤鬼が低くなにごとか呟つぶやく

その言葉の意味をツバキが理解するより早くテイガーが大きく前に踏み出した

伸ばされた腕がまたたく

間にツバキに迫せまる軽く握られていた

がツバキの目の前で開かれるや

否いなや

「きゃぁっhelliphellip」

放たれた電でん撃げきが通信機を弾はじき飛ばしツバキに細い

鳴を上げさせた

第一章 Stratum city 階層都市67

「っそんなことは

いていません質問に答えてください」

呆あきれたようなテイガーの物言いに咄とつ嗟さに腕を引き戻もどしそうになったがそれを堪こらえてツバキ

は銃口と眼光を向け続ける

相手はサイボーグだ戦いになったらもちろん勝ち目はないがそれ以上ににげられたらと

ても追いつけない

自分の任務はジンキサラギの捜そう索さくだと重々承しよ知うちしているだが周囲には他に統制機構の

士の

はないここで見みのがせば彼ら第七機

がカグツチと統制機構にどんな混乱をもたら

すかわからないと

えるととても目をつぶることなどできなかった

ザザッと再びノイズが走る

「ああ大だい丈じよ夫うぶだ問題ないすぐに任務に戻る」

通信の相手の声はツバキには

こえないただそれに答えるテイガーの声はあまりに危機感

から遠くすでにツバキとの問題は解決したとでも言うかのようだ

侮ぶじ辱よくされたような思いに駆かられてツバキは鋭するどく声を尖とがらせる

「通信を切りなさい

勝手な行動は許しません」

「そういきり立つな我々はなにも統制機構の業務を妨ぼう害がいするためにカグツチに来たわけでは

ないどうだここはお互たがいかかわらなかったことにしないかこのまま行ってくれれば私は

お前に危害を加えなくてすむ」

「それは反逆の意志ありということですか

どんな目的にせよこの場を見

すわけにはい

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2199年12月30日||18時00分

幾いくつの路地を抜け幾つの角を曲がっただろう

人のような

をしながら人にあるまじき動きで先導するタオカカがラグナを連れてやってき

たのは外の明かりも差し込まぬ暗い暗い下水道だった

「こっちニャスよいい人〜」

呼びかけタオカカは投とう棄きされたらしい瓦が礫れきやら壊こわれた家具やらの山をひょいとと

び越こえた

外から隔かく離りされた場である上に時間も遅おそいたとえ微かすかなすき

間まがあってもわずかな光さえ

望めない

それなのにラグナやタオカカが問題なく歩けているのは投棄された瓦礫や積み上がったヘ

ドロにこびりついて生えている奇きみ妙ような苔こけのおかげだった

それらがほのかに青緑色の光を帯びているせいで下水道は一寸先も見通せない暗くら闇やみに閉とざ

されずにすんでいる

タオカカを追いかけて粗そ悪あくな足場に多少もたつきながらもラグナが続く

「おい本当にここから上に出られるんだろうな」

第一章 Stratum city 階層都市69

その一撃だけでツバキの意識は遠のいたかくりと膝ひざが折れ力なく崩くずれ落ちる

「っとhelliphellip」

そのたおやかな体が硬かたい地面に倒たおれ伏ふす前についさっきまで電撃を纏まとっていたテイガーの

腕が受け止める

そのまま抱かかえ上げると力なく気を失った青と白の制服の少女を見下ろしテイガーはため息

をついた

「やはりひ戦せん闘とう要員か無茶をする」

『helliphellip言っておくが

わるなよ』

ノイズが走りテイガーの通信機から不ふ愉ゆ快かいそうな女の声が漏もれた

ツバキを抱えたままテイガーは空いていたもう一方の手を耳元にやる上向きの

のよう

な犬歯が突つき出た口元はツバキと対たい峙じしていた先さき程ほどよりもさらに苦々しく歪ゆがんでいた

「雨の中でこんな街外れに放ほうり出すわけにもいかないだろうまだ若い娘むすめだ」

『任務が最優先だ余計な時間はない』

「helliphellip少しの間通信を切るぞココノエ」

『なんだと

おい勝手な真ま似ねはhelliphellip』

装着している本人以外には

こえないであろう小さな音をたてて通信は途と切ぎれた

テイガーは雨

る広場に

を向けて歩き出したその足が向かう先には空を上層の市街に

さえぎられ提ちよ灯うちんの明かりとネオンが煌きらめく薄うす暗ぐらい街オリエントタウンが広がっていた

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「ニャス」

「かっぱらいじゃねぇか」

張り上げたラグナの声はくわんと寒々しく下水道に響ひびいた

その反はん響きようが

まると今度はまたじめっとした静けさがやってくるどこからか滴したたり落ちて

床では

ねる水の音がいちいち不気味だった

色いろ濃こい影かげの向こうで得体の知れないものが蠢うごめいてこちらを覗のぞきこんでいるような錯さつ覚かくを抱

くぞ

っと走った悪お寒かんにラグナはぶるりと身み震ぶるいし先を行くタオカカの後を追う

がhelliphellipラグナは不意に顔をしかめると足を止めた

(錯覚じゃねえ誰かがこっちを見ていやがる)

淡あわく光る苔が刻んだ色濃い影の奥歪いびつな瓦礫の山のどこか

視線を感じる

いや視線だなんて生易しいものではないもっと根本的なもの存在や意志そのものとい

ったものがこちらを一心不乱に捉とらえているようだ

「いい人〜

どしたニャス」

ラグナがついてこないのを不思議に思ってタオカカが引き返してくる積み上げられたな

にかの残ざん骸がいを軽かろやかに

び越え着地するその小さな足音がきっかけになったのだろうか

「キキキキキキキキキキキキ」

第一章 Stratum city 階層都市71

瓦礫の山から飛び

りた先がオイルかなにかでぬめるラグナは反射的に顔をしかめて三

角耳がぴくつく白いフードの後頭部へ少々の苛いら立だちを込めて問うた

抜け道とは往々にして楽な道ではないとラグナはこれまでの経験で学んでいただがここ

は今まで通って来た『抜け道』と比べても相当な悪路だ

濡ぬれているわけでもないのに床ゆかの壁も天てん井じようもじっとりとしていていやな湿しつ気けが外から入り

込んでいるらしい濃こい魔ま素そと混ざって肌はだと肺にこれでもかと不快感をくれる

一段

りたところには廃はい棄き物ぶつと一体化した汚お水すいが吐はき気けをもよおす悪あく臭しゆうを放ちながら泥どろ水みず

のような重さで流れている

これが街からそう離はなれていない場所を流れ通っているというのに外にはさほどふし臭ゆうが漏れな

いことを思うと階層都市の工事技術はでたらめに見えて意外としっかりしているようだ

もうすっかり馬ば鹿かになった鼻をこすりラグナはぽつりとそんな感想を抱いだいた

「本当ニャスよくここ通って上でパンとかお菓か子しとかもらってくるニャス」

言ってタオカカは下水道の天てん井じようを見上げた黒ずんだ頭上は突つき出た鉄パイプや金属板が

複雑に組み合っておりその奥のずいぶんと高いところに張りついた闇やみのような天井が見てと

れる

さらにずっと向こうに目指している上層の街があるのだろう

つられて見上げてラグナはため息に肩かたを落とした

「もらってくるってまさか店のもん勝手に持ってってるんじゃねぇだろうな」

70

気味の悪さに怖おぞ気けよりもけん

悪お感が走る

影はいやに粘ねん着ちや質くしつな動きでぬめる床に着地するとむくりと上体を起こすような動きを見せ

た判然としないが苔光で浮かび上がる奴やつの足元でなにか小さな生き物が蠢いている気がす

る戸と

惑まどいつつも身構えるラグナのすぐ側そばにタオカカが駆け込んできて頭を低くさせ唸うなった

長い尾おがぴんと立ち上がって毛を逆立て膨ふくれている

「コイツうねうねニャス」

「うねうね

なんだそりゃ」

「悪いヤツなのネ

タオたちの村を襲って小さいカカを食べちゃうのニャス」

さっきまで陽気だった表情を目め尻じりをつり上げた憤ふん怒ぬのそれに変えてタオカカはわんと声を

響かせ威い嚇かくする

その様をあざ

笑わらうかのように白い面を浮かべた影は全身をあわ

立だてるように震ふるわせた

「キヒヒヒいる

いるぞ

るぞ力蠢く醜しゆうな

想を叶かなえ

ために肯

は不可欠

がい

念ねんの否定

閉とざ

た門が招くはずだ

ちが

いギヒヒヒヒヒヒ」

影が震え笑うたびに空気が淀よどむ

ラグナは険しく顔をしかめた

これは魔素だ

外から流れ込んできているのではないこの目の前にわだかまる影からあふ

れ漂ただよい下水道の

第一章 Stratum city 階層都市73

空気を引き裂さくような声と共に突とつ然ぜん影かげから影が飛び出したさらにそこから槍やりのような鋭

い影が無数に飛び出しラグナに襲おそいかかる

「ぅぐぁっ」

あまりに唐とう突とつであまりに周囲に同化した

に反応が遅おくれた分厚く布の裂ける音が散り一いつ

緒しよに皮ひ膚ふと肉をえぐり刺さすように持っていかれる

火がついたように痛む肩を引いてもう一方の腕うでで剣けんを抜き目の前の影を払はらった

手て応ごたえはないまるで本物の影を切り払ったかのようだ

「グギギギhelliphellip真

理へ至

我が

を求

我に求め

真相を

くhelliphellip」

人の声のようなそうでないような奇き怪かいな声こわ色いろで奇怪な言葉を口走りながら影は

び退すさっ

た高質化したヘドロと瓦礫の間でふわりと浮ういてわだかまる

初めラグナはどこからか紛まぎれこんだ魔まじ獣ゆう||高こう濃のう度どの魔素によって歪んだ生態系が生んだ

理性なき凶きよ暴うぼうな獣けものかと思った

だがどうにもちがう不定形なそれは奇妙で歪いびつで不可解で生物とはとても思えぬ

形をして

いた

ぐるりと影が動くとわだかまる闇の内側から面が現れる

白い円形に三つただ孔あなを開けただけの目と口顔のつもりだろうかそれが黒ずんだ不定

形の影の中で唯ゆい一いつの定形であるようだった

「なんhelliphellipなんだこいつは」

72

ふつとい憤きどおりがラグナの腹の底で沸わく

統制機構が大事に大事に抱えて地下深くにしまい込んでいる窯それを統制機構だけでなく

あちこちの機

や研究員学者が欲ほつしている窯を所有するということは窯が繫ぐ境界の一いつ

端たんを所有することと同意だからだ

誰も彼も境界には人じん智ちを超こえる素す晴ばらしい財産が眠ねむっていると信じている人智を超えた

ものなど人間に御ぎよせるはずもないのに

まったくいや

気けが差す頭にくるそんな窯を我が物顔で掻かき回す統制機構もそれを追いか

けるように窯を求める連中もどいつもこいつも

「こうなっちまったらもうどうしようもねえ悪く思うなよhelliphellipもっとも人を怨うらむほどの

理性があればの話だけどよ」

このままこいつをここに放置すればタオカカの言っていた『村』に留とどまらずさっきのオリ

エントタウンや下層の街に出て人を襲うようにもなるだろう

ラグナは剣の切っ先を下方に向けたまま化け物に深く踏ふみ込んだ

カグツチにはなんの思い入れもないがだからといってあからさまな害悪を目の前に置かれ

て放ほうっておけるほど利口でもない

迎むかえ撃うつように身を広げるアラクネの胴どうを||胴らしき部分を横よこ薙なぎに切り払う

「グポポhelliphellip」

「ちぃっ」

第一章 Stratum city 階層都市75

ありとあらゆるものを侵しん食しよくしているのだ

それはこの影のような物体のまとう黒いものが全て魔素であることを意味していたそし

て魔素のか塊たまりであるこの奇怪な化け物がその容

に似合わず人の言葉らしい音を発しているの

はこれが元々人語を解する存在であったことを物語っている

つまり人間だ

タオカカが『うねうね』と呼びオリエントタウンの一部の人はアラクネと呼ぶ黒ずんだ不

定形の化け物はこうなる前人間だった

ラグナはこみ上げてきた

悪感を舌打ちに変えて吐き出した

「こいつ境界に触ふれたなhelliphellip」

ラグナが各地の統制機構支部を回り

々に破は壊かいしている支部地下の『窯かま』その窯によっ

て現世と繫つながれた異界||境界

そこは人知の及およばぬ不定形の場であり中は地表の比ではない濃のう度どの魔素が渦うず巻まいていると

いう

濃い魔素が魔獣を生んだように人もまた高濃度の魔素に触れ続ければ理性が魔素にのみ込

まれやがて境界に引きずり込まれて人でいられなくなる

臭にまみれて粘ねん液えきのような体を蠢かせ奇怪な音で語るこの黒い化け物アラクネは

そうして人でいられなくなった誰だれかのなれの果てだった

「あんなもんに手ぇ出してなにがしたかったのか知らねえがhelliphellipこの馬鹿が」

74

だ身が捻ねじれ後方へべちゃりと倒たおれる

それと同時にタオカカの体がひらりとラグナのとなりに

着地した爪を

めた大きな手をシュッ

と前に突つき出して威嚇する

それを横目にラグナは軽く笑った会って間もないこちらも奇妙な生物だが『うねう

ね』と

ってこいつと並ぶのは悪い気がしない

「何年目じゃなくてここで会ったが百年目な」

「おおんじゃあ百年分ギタギタにしてやるのネ」

「まなんでもいいか」

抜ぬけ落ちるような緊きん迫ぱく感を再び引き寄せてラグナはしっかりと剣を握にぎる

一度は黒い泥溜だまりのようになったアラクネはすぐさま波打つような動きで起き上がると

ごぼりと足元を鳴らし魔素を噴ふき散らす

「ギギギhelliphellipよこ

よこせ

れは我

らう

淵えんがい

見て

目からのが

れな

運命

らはのが

れない」

「なに言ってんのかわけわかんねぇんだよ

楽にしてやるからとっととくたばりやがれ

この生ゴミ野や郎ろう」

ついた魔素を払うように乱暴に剣を振るうとラグナは腹から雄お叫たけびをあげつつ高く得物を

振り上げ魔素に取り込まれた人ならざる者へと叩きつけた

第一章 Stratum city 階層都市77

ごぼごぼと濁にごった音をたててアラクネの体がしゆ時んじにラグナの視界から消える

下だ舌打ちしながら蹴けりつけるラグナの足の下を通ってアラクネは赤いコートの

後で

再び体を持ち上げる

「キサマキサ

くらう

人間であるならあるいは四し肢しを持つ生物であるならおよそあり得ない角度から黒い塊が

ラグナを

ね上げるように突とつ出しゆつする

咄とつ嗟さにラグナはそれを剣で受けた感かん触しよくは重くどろりとしている

さらにもたれかかるように剣の表面を伝う泥どろのような魔素から突とつ然ぜん奇き怪かいな蟲むしが飛び出して

きた見たこともないひたすらに

悪感をあおるような不可解で不ふ愉ゆ快かいな蠢くもの

「うげっ」

吐き気のような

悪感に弾はじかれるようにしてラグナの足が勝手に距きよ離りを空ける

その間に割って入るように鋭するどい爪つめが振ふり下ろされ飛び出した無数の蟲を切り裂いて叩たたき落

とした

勇ましく飛び込んできたのはタオカカだ

「うねうね

ここで会ったが何年目

タオがぎったぎたにしてやるのネ」

爪を振り下ろす動作から着地をはさまず宙で身を捻ひねるとタオカカは反対側の爪でアラクネを

切り裂く

爪はえぐるようにアラクネの顔らしき部分を捉えた陶とう器きが割れるような音をたてて黒ずん

76

双そう眸ぼうは薔

さえ霞かすむ深しん紅くで容

からうかがえ

る幼さには似合わないほどの気品と優美さをたたえ

ていた

少女の名はレイチェルアルカード

十を超えた程度のまだあどけない少女のように見えるがその実約百年を生き続ける吸きゆう

血けつ鬼きだ

千年以上前から続く吸血鬼の一族アルカード家の現当主であり薔

園を見下ろす城の主あるじで

あり

月と夜空と薔

と城を抱いだくこの常夜の空間の主でもある

ここは世界のあらゆる場所から断絶された地点でありながら世界のあらゆる地点へ繫が

る場所

空間と空間の間に漂い世界と世界の狭はざ間まに留とどまる領域

アルカード家の当主が管理する特別な住まいだった

カップを金のスプーンが横たわるソーサーへと戻もどしレイチェルは物もの憂うげに吐と息いきをく唇ちびるから漏も

らした

蔦つた模様に絡からみ合うスチールテーブルの上に飾られた薔

の切り花が微かすかに香かおる

レイチェルは昼の来ない領地での時間をこうして薔

園のテラスで多く過ごした

は好きだ美しいし香りがいいそれになにより遠き日に亡なくなった父が愛した花

だから

第二章 Spiral fate 盤上の駒79

第二章

Spira

l fate

||盤ばん上じようの駒こま

真っ赤な薔ばら

に彩いろどられた見事な庭園を青白い満月が見下ろしていた

静かな夜だった空気は凜りんと冷え夜の帳とばりが世界はここまでだと区切るように色濃く辺り一

帯を包んでいる

園の奥にはおとぎ話の中から抜け出てきたかのような美しく愛らしい城がそびえており

だ橙いだいい色いろをした明かりの揺ゆれる窓が無数の瞳ひとみのようだ

その城を赤薔

の生いけ垣がきの向こうになが

める庭園のテラスでひとりの少女が小さな丸テーブ

ルに向かい優ゆうがにティーカップを傾かたむけていた

月下にありながら眩まぶしいほどに輝かがやく長い金色の髪かみを左右でふたつに結ゆわえ大きなリボンで

飾かざられている華きやしやで小さな体には黒い豪ごうしやなドレスを纏まといそこから伸のびるやはり小さな手

は陶器のように白く滑なめらかだ

カップの中で揺れる紅茶を

めていてもどこか遠く世界の果てを見み据すえているかのような

78

「今夜も見事でしょう

お父様」

ふとわく感傷に任せて呟つぶやいてみて彼の愛した薔

の香りの紅茶を飲むそんなときのほん

の一

レイチェルの心は微かに慰なぐさめられるのだ

夜の終わらないこの城は時間の流れとは無む縁えんだ夜が永遠であるように時間もまた永遠

でありレイチェルの時間もまた永遠であった

それでも退たい屈くつはやってくる時にはこうしていつかの日を想おもいため息でもついてみねば

枯かれることのない薔

のように言葉を忘れてしまいそうだった

「失礼いたしますレイチェル様」

コツと革かわぐつの硬かたい音がテラスの煉れん瓦がタイルを叩きしわがれた声が穏おだやかに呼びかけた

レイチェルを振り向かせることなく乱れない歩調で少女の視界の端はしまでくると声の主白はく

髪はつを

で束ねた長身の老人は胸むな元もとに手をあて浅く腰こしを折る

ヴァルケンハインRヘルシングレイチェルの父クラヴィスアルカードの代からアル

カード家に仕え今はレイチェルと共に在る老しつ事じだ

微びし笑ように皺しわを刻みすきなく佇たたずむ

はレイチェルに劣おとらず品がいい

だが彼もまた人間ではなかった人であり獣けものでありどちらでもありどちらでもないおおかみ

男おとこだ

外見から想像できる重ねた歳としよりずっとたくましい肉体が質のいいバトラースーツの上からで

える

80

つぶらな瞳と口角の上がった口がやはり小さく愛らしい

黒くろ猫ねこのソファはナゴ赤いゴム毬まりはギィ共にレイチェルの使い魔だ

「姫様のお気に入りっすよねー姫様ってああいう男が好みなんすか

意外とダメな男に引ひ

っ掛かかるタイプっすね」

小さな羽を忙いそがしくパタつかせて楽しそうにギィが話すとその

らかな両りよ頰うほhellipおhellipというよ

り頭部を素す早ばやく伸びたレイチェルの手が摑つかみ左右に思い切り引っ張った

「なに

よく

こえなかったわもう一度言ってみてもらえるかしら言えるものならね」

「イデデデデひひめひゃまいひゃいいひゃいれすぅぅぅぅぅ」

「アンタってほんと口で身を滅ほろぼすタイプよねぇ」

通常の二倍に顔を広げたギィを見やってナゴが呆あきれたようにため息を送る

情けない

鳴をひとしきり

いた後にレイチェルはあっさりギィから手を離はなしたバチン

と音がして赤い頰が元の真ん丸い形状に戻る

それを横目にレイチェルはテーブルの上に生けられた赤薔

の花弁へ触ふれた

「彼がそこまで来たのならもうすぐ二一九九年も終わるのね」

「左様でございますな」

どこか歌うように呟くレイチェルへ恭しくヴァルケンハインが返す

「そして世界も」

微かな声で付け足された一言にはヴァルケンハインはなにも返さなかったレイチェルが

第二章 Spiral fate 盤上の駒83

「どうしたのヴァルケンハイン」

白い指先をティーカップの縁ふちで遊ばせレイチェルが赤い瞳を向けて問う

ヴァルケンハインは頭を下げたままう恭やうやしく答えた

「ラグナザブラッドエッジがカグツチに現れたようです」

無む駄だなく必要なだけを伝えるヴァルケンハインの言葉にレイチェルは陶器の縁をなぞる指

先を止めた

そのまま指を小さな取っ手に引っかけ中身の少なくなったカップを持ち上げて一口飲み

それをソーサーに戻してからやっとレイチェルは唇を動かした

「そうhelliphellipもうそんな時間なのね」

独り言のようなレイチェルの呟きに続いて

唐とう突とつにふたつの声がこれまでの静かで密ひそやかだった雰ふん囲い気きを不意に賑にぎやかせた

「あらぁん姫ひめ様ラグナってあの白いツンツン頭のボウヤよね」

「オイラも覚えてるっすよあの生意気なヤツっす」

先にハスキーな猫ねこなで声で言ったのはレイチェルが腰こしかけている椅い子すそのものだった一

見黒いソファに見えたそれはよく見ると

もたれの上部に三角の耳と猫の顔がありその猫の

顔が話していたのだ

続いた甲かん高だかい陽気な声はレイチェルの足元から弾はずんだゴム毬まりのようにとび上がった赤くて

丸い生き物のもの見るからにやわらかそうな体からは小さな手足と小さな羽が突き出ており

82

影の中に浮うかぶ幼児の落書きのような目玉らしき緑色の丸と不気味に裂さけた赤い口が椅

子に腰かけるレイチェルを見つけて気味悪く笑えむ

どこからどう見ても人ではなくましてや吸血鬼でも

男でもない

これは思念だ肉体を持たない意志だけの存在ある男の精神体だった

「よ〜うクソ吸血鬼今回もお供と犬っころ連れてお茶会か

ずいぶんのん

気きなもんだなぁ

オイ」

許可もなく薔

園に踏ふみ入ってきた無作法者の精神体はこもった声でいや

味みに語りかける

とたんにヴァルケンハインが険しく顔をしかめギィは情けない

鳴をあげてそれこそゴ

ム毬のような俊しゆ敏んびんさで主の黒いドレスの

後へと隠かくれた

レイチェルは冷やかに影を見据える

軽く腰を浮かせるとそれまで椅子としてそこにいたナゴが体をくねらせて

を黒い傘かさへと変

えレイチェルはそれを手に立ち上がった

唇にこそ優美な笑みを浮かべていたが少女の深紅の瞳にはただただけん

悪お感かんが塗ぬり固かためられ

ている

を見せるだけでこれほどまで人を不快な気持ちにさせるのはある意味

能ね感心する

わテルミ」

の香りのように

らかにけれど薔

の蔦のように刺とげと々げしくレイチェルは言い放つ

言葉の先にいた精神体の男テルミと呼ばれた影は風にでもあお

られたかのように体を揺らし

第二章 Spiral fate 盤上の駒85

求めていないことを理解していたからだ

代わりに

男の老

事は乱れぬ声こわ色いろで問う

「レイチェル様紅茶を新しいものにお取り換かえいたしましょうか」

「helliphellipそうねお願いしようかしら」

本当は出かける用事ができたところだったけれど今はもう少しだけここでの無益な時間を

浪ろう費ひしたい気分だっただって

(今回もいい結果は期待できそうにないものね)

独り言のような呟きを胸の内でそっとこぼしレイチェルは掠かすれ消えるような吐息をつく

がすぐにその息を

み込むように眼光を鋭くさせた

真紅の視線が見据えるのは延々と続く薔

園のほうだ

「ヴァルケンハイン招いてもいない客が来たようね」

深い緑の葉をざわめかせて風が吹ふく風を招いたのはレイチェルだ涼すずしい夜気に混じって

漂ただよってきたいやな気配をはね退のけるために

円形に整えられたテラスの隅すみのほう薔

の生け垣の前の空間が目め眩まいでも起こしたかのよう

にくらりと歪ゆがむ

そうして現れたのは影かげだった

黒い体に緑色を纏まとわりつかせたような色しき彩さいでぼんやりと漠ばく然ぜんとした人型のなにかがそこに

立っていた

84

敵てき愾がい心しん

「それで一体なんの用

今がどういうじ状よう況きようなのかわかっているのでしょう貴方あなた

だって暇ひま

ではないのではなくて」

ヴァルケンハインほどあからさまな敵意ではないものの突つき放し追い立てるような調子で

レイチェルが言う

テルミはけだるい仕草で首を傾かたむけまたケタケタと不ふめ明いり瞭ような体を揺ゆらすようにして笑った

「別にぃ〜ただそろそろ今回のエンディングも近いわけだしそろそろ一度テメェらの腑ふ抜ぬ

けた面を拝んどこうかと思ってよ」

低めた声は悦えつっぽく笑みを濁にごらせる

レイチェルはその様を無感動に淡たんた々んと赤い瞳ひとみに映した

「懲こりない男ね」

囁ささやくようにレイチェルは告げる冷えた声は空に浮かぶ欠けることのない月の光に似ている

「何度繰くり返したって結果は同じ世界は何度だって巻き戻ってあの日あの時からまた始ま

るだけよ」

ざとレイチェルと影の間を横切るように風が渡わたる薔ばら

の香りがま

う中で幽ゆう鬼きのよう

なテルミの

はあまりに不気味で不似合いだった

場ばちが

いであると思い知らせるかのように濃のう密みつな花の香りを纏う風の中でテルミは深く深

く笑みを浮かべる

第二章 Spiral fate 盤上の駒87

た笑っているのだ

「そいつぁお互たがい様じゃねぇかこっちもテメェのクソむかつく面つら見てると胸むな糞くそ悪くなって

くる」

ユウキテルミそれが影の名前だった

「ならば早々に立ち去るがいいここは貴様のようなやからが気安く踏み入っていい場所ではない

ぞ」重

々しくけれど遠えん慮りよ容よう赦しやのない敵意を込こめてヴァルケンハインが進み出たレイチェルに

対して見せていた穏やかな品の良さは影を潜ひそめ白髪の老人とは思えぬ力強く攻こう撃げき的な眼まな差ざし

で揺れる影を睨にらみ据すえる

途と端たんにテルミは面おも白しろくなさそうに口らしき赤色を歪めた

「はっテメェも相変わらずイラつくなキャンキャン吠ほえてんじゃねぇよボケ犬が殺しち

まうぞあぁ」

「面白い吠えるしか能がないのはどちらか確かめるとしようか

体のない今の貴様に一体

なにができる」

「ちっhelliphellipうぜぇジジイだテメェもあんとき殺しときゃよかったぜ」

「九十年前に反省するべきだったな」

テルミが悪態を吐つけばヴァルケンハインはそれを踏み潰つぶすような敵意を返す

そこには根深い因いん縁ねんの沼ぬまが広がっているかのようだった浮かぶのは憎ぞう悪おでもけん悪おでもなく

86

覗のぞき見えていた

「んじゃなせいぜい高みの見物でもしてろや」

吐き捨てるようにそう言うとテルミは靄もやが空気に溶とけてやがて目視できなくなるように

音もなくその場から消える

あとにはなにも残らないただレイチェルが日々当たり前に

めている真っ赤な薔

が咲さ

き誇ほこる庭園が広がるばかりだ

緩ゆるやかな風が抜ぬけて甘い薔

の香かおりが漂うまるでテルミによって生じた不快感を拭ぬぐい払はら

うように

ヴァルケンハインはそれまでの飛びかかって喉のど笛ぶえでも食い破りそうな敵意を呼吸ひとつのう

ちにしまい込みしつ

事じの顔に戻もどるすき

なく

筋を伸のばしレイチェルへと向き直った

「いかがなさいますかレイチェル様」

主人がすでに決めているであろう腹の内を促うながすように問う

レイチェルは手にしていた傘状のナゴを開いたパラソルでも扱あつかうように肩かたにかけヴァル

ケンハインを見やる

「ヴァルケンハインやっぱりお茶はまたあとでにするわ」

あんなにも単純で粗そ暴ぼうなちよ

発うはつに乗るのは癪しやくだけれどそうとわかっていて顔をそむ

けることを

弱気ゆえと受け取られてはもっと癪だなによりあの男に好き勝手を許すのは面白くない

「ナゴギィ出かけるわよ」

第二章 Spiral fate 盤上の駒89

「そうしたらまた始めるさ」

這はうような声で語る

な気配がレイチェルの誘さそう風さえ汚よごすようだった

「何度でもいいぜ

そのたびに俺はやり直すだけだ何度でも何度でもテメェがいい加減

飽あきてお城から出てこなくなっても何度でも何度でもhelliphellip何度でもなぁ」

「悪あくしゆ味みね」

「テメェが言うかよクソ吸きゆ血うけ鬼つき」

テルミがせせら笑う

深い皺を眉み間けんに刻みい憤きどおりを腹に抱かかえるヴァルケンハイン怯おびえ様子をうかがうナゴとギィ自分

の周りにいる者たちをながめてレイチェルはく唇ちびるを優美なカーブに曲げた

彼の言うことに同意するのは心底不ふ愉ゆ快かいだけれど確かに悪

味なのはレイチェルも同じだ

何度も何度もこんなやりとりを何度もここで行った

繰り返す時間の中で繰り返される会話はいわば一種の通過儀ぎ礼れいだ

これから始まる数時間めまぐるしく運命は交差して離れ剥はがれ崩くずれ乱れるその結末

をし粛ゆくし々ゆくと見届けるためのお決まりの行事

「まいいや俺はそろそろ最後の仕上げの準

しねぇといけねぇから行くわいちいち相手

すんのも面めん倒どうくせぇからテメェらはそこで茶でもしながら終わるのを待ってろよ」

言いながらテルミは一歩大きく退いた

影がぼやけて消えるように彼の

が揺らめく黒い体の向こうには薄うっすらと薔

の赤が

88

城から外へと出ていった

の残り香がが夜気に吸い込まれて消えるまで待ってヴァルケンハインはテラスのテーブ

ルに残されたティーセットをワゴンに載せて片付け始める

せめて今回はあの小さな主人の心が慰なぐさめられるようなそんななにかがあるようにと胸中で

願いながら

2199年12月30日||9時23分

カグツチの朝方普ふ段だんなら東空は陽光の白に輝かがやき地表で淀よどむ魔素の存在など忘れさせてく

れるかのように眩まぶしい

だが今日は生あい憎にく朝早くから分厚い雲が空を覆おおう曇どん天てんだった広がっているのは雨雲だ昼

前には雨が

り出すだろうと湿しめった空気が教えてくれる

第十三階層都市カグツチの外れ都市の一部として建設されたのではなくこの地に流れ着い

た難民が自発的に建設した市街のひとつ浪ろう人にん街

第二章 Spiral fate 盤上の駒91

「はぁ〜い姫様」

「了りよ解うかいっす」

傘のままナゴがしなを作りさっきまでの怯えが噓うそのように元気よくギィが飛び上がる

二匹ひきの使い魔まを従えレイチェルは宙へ手を差し出したすると煉れん瓦がタイルが敷しき詰つめられ

た足元に薔

色の魔法陣じんがほのかな光を宿して浮かび上がる

転移の魔法だ

今の世界の基き盤ばんともいえる術式の元になった太古の技術魔法けれど今はもう使える人間

はほとんどいない失われた技術だ

転移はそんな魔法の中でも特に多くの魔力と集中力を要し特別難解な制せい御ぎよを求められる魔

法だったそれゆえに人類の歴史においても使い手と呼べるほど扱いに長たけた者は数えるほ

どしかいない

転移魔法を自在に扱うレイチェルもまた自分以外にこの魔法を使いこなせている者をひと

りしか知らなかった

「カグツチまで行ってくるわヴァルケンハイン留守をお願いね」

「かしこまりましたお気をつけて行ってらっしゃいませ」

理想的な角度に腰こしを折ってヴァルケンハインは魔法陣の中から語りかける幼い容

の主あるじを

見送る

ふわりと風が

い上がり目眩を誘うほどの薔

の香りを振ふりまいてレイチェルは常夜の居

90

屈くつ強きようで大柄な体たい軀く隠すことなく晒さらされた広い

中顔に刻まれた十字の傷きず跡あとそして首に

巻かれた真っ赤な布その真っ赤な布がけい

谷こくの風に

られたなびくたびに誰だれもが彼を振り返

らずにおかない

なにも衣装の特とく徴ちようが浪人街の人の目を集めるのではない

このマフラーのように巻かれた赤く長い布は目印なのだ

迷える難民をまとめ先頭に立って浪人街を築きこうして日々浪人街を歩いては住民にト

ラブルや困りごとがないか見回るイカルガ忍にん者じやの頭領にして浪人街のヒーローシシガミバ

ングの

「おはようございますバングさん」

「バング殿どの

先日は

げたに鶏わとりの捕ほ獲かくを手伝っていただいてありがとうございます」

「バング様〜

こんにちは〜」

街のあちこちからかかる声に手を挙げて応こたえバングは朗ほがらかな笑え顔がおを返す

「うむおはようでござる

おおそうだ今日は雨が

るだろうから雨あま漏もりする家がある

なら拙せつ者しやに声をかけるでござるよすぐに飛んでいって修理を手伝うでござるからな」

通り中に響くような声で言いながらバングは前へ前へ歩む

天気はよくないがバングの心は今日も晴れやかだった仲間がいて住む場所があるこ

れがどれほど喜ばしいことか数年前までは忍として戦争の裏側を奔ほん走そうしてきたバングは日々

身をもって思い知り嚙かみ締しめていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒93

ここは五年前に終結したイカルガ内戦という戦争の敗者イカルガ連れん邦ぽうに住んでいた者たち

が造り上げた市街だった

内戦によって彼らの故郷は失われた行き場のないイカルガの民たみは世界のあちこちに散り

その中でもカグツチににげ延のびた者たちがここで身を寄せ合って暮らしている

複雑で街を築くのに適しているとはとても言えない地形だカグツチのある高山の下方に

位置しながら辺りは岩だらけで亀き裂れつや絶ぜつ壁ぺきが目立つ

それでもイカルガの難民たちは岩場に足場を組み亀裂に橋をかけ絶壁に階段を作り半

分宙に浮ういているかのような入り組んだ街を作り上げた

小さな街だありあわせの材料を組み合わせてできた粗そ末まつな街だがそれにしては整えられ

たイカルガじ情よう緒ちよ漂ただよう街並みにhelliphellip朗々と男の声が今日も響ひびき渡っていた

「おお皆みなの衆

今日も元気に平和に過ごしておるな

うむうむよきかなよきかながっ

はっはっはっは」

太く伸びやかな声の主はシシガミバング

浪人街の中心である一番開けた通りのど真ん中を歩きながら道行くすべての人に威いせいよく

挨あい拶さつして回っている大おお柄がらな筋肉質の男がそうだ

ぼさついた黒くろ髪かみは高くまとめ深い緑色の独特な装しよ束うぞくを身に着けている着ているのはイカ

ルガ伝統の忍しのびの服だ本来は闇やみに紛まぎれ隠おん密みつにことを済ますのが忍の

だがこのシシガミバ

ングという男はまるで逆にとにかく人の目を引いた

92

カグツチの

士であるならばこんな下層まで

りてくることなどそうそうないし別の支部

士ならばもっと上層からカグツチに入るはず

この街に統制機構の制服はあまりにも不自然だった

金髪の青年はなにも答えず冷ややかな緑の瞳ひとみでバングを

めていたがやがて色の薄うすい唇を

開きぼそりと低く呟つぶやいた

「その服helliphellipイカルガの忍か」

およそ好意的でない声

人によってはその内にさげすみ

やあざけり

いただろうだがバングはそのひどく温度の低い声こわ色いろ

を警けい戒かいゆえと受け取った

身構えるように低くさせていた体を起こしバングは慌あわてて制止するように広げた手を突つき

出だす

「ああいや誤解めされるななにも一戦交えようというわけではござらんぞ確かにここは

イカルガの民が住まう街で拙者はイカルガの忍であった男だが五年前にイカルガ内戦は終

わっておるのだ」

バングは太い腕うでをがっしりと組むと神しん妙みような

顔つきで何度か頷うなずくようにしながら先を続けた

「確かに終戦のきっかけは戦いくさではなく我等の首都イブキドの爆ばく発はつ事故であった」

イカルガ内戦は世界虚空情報統制機構に対し第五階層都市イブキドを首都と掲かかげるイカル

ガ連邦が独立を宣言して始まった内戦だ統制機構は武力でもってそれを制圧しようとしイ

第二章 Spiral fate 盤上の駒95

平和はいい平和の中にこそ愛はあるのだ

「うん」

ふと前を行く

を目に留めてバングがいぶかしげに声を唸うならせた

見慣れない男が歩いている浪人街の住民ではないバングはこの街に住むイカルガの民の

顔と

格好をすべて覚えていた

短い金きん髪ぱつの細身の男だ歩き方からしてまだ若い

なにより気にかかるのはその男が着ている服だ青と白によって構成されたその服はおそ

らく世界虚こ空くう情報統制機構の制服だろう

「そこのお主

待たれい」

叫さけぶように声をかけながらバングは高くとんだ空を駆かけるような長いちよ躍うやくは前を行く金

髪の青年の頭上を越こえて彼の正面へと着地する

行く手を塞ふさがれる形となった見慣れぬ男は足を止めバングの唐とう突とつな登場に戸と惑まどったように

眉まゆを寄せていた

やはり若い男まだ少年の面おも影かげも残した青年だ着ているものも統制機構の制服に間まちがいな

く手には青い鞘さやに

めた刀を一ひと振ふり摑つかんでいる

バングはますます募つのる怪けげんに青年よりも深く眉間に皺しわを刻んだ

「お主我等が街になんの目的で参られた

その服装統制機構の

士であろう」

カグツチの

士だろうかバングは彼に見覚えがない

94

金髪の青年はなにも言わず静かにバングを見み据すえている

なにを考えているのかどこかぼうっとしたようにも見える無表情からは思考どころか感情

さえ読み取れない

話を

いているのだろうかバングは不安に思いながら改めてさっきの質問を繰くり返す

「してお主は一体何者で浪人街になんの用でござるか」

「helliphellip用などない」

ようやく青年がバングの問いにまともに答えた

まともというにはあまりに素っ気なく突き放した物言いだったが返ってきた言葉が思いの

外ほか穏おん便びんでバングは軽く安あん堵どを抱いだく

イカルガの残党狩がりだなどと言われてその手の刀を抜ぬき放たれたら多くの住民が行き交かう

街の中心で大立ち回りを演じなければならなくなるそうなればいくつかの家は巻き添ぞえをく

っただろうし何人かは怪け我がをしたかもしれなかった

青年は変わらず冷たい無表情のままでバングの向こうにそびえる山へ目を向けたこの上

にいくつもの市街が建設され頂上には世界虚空情報統制機構のカグツチ支部が建っている

「貴様たちのことなどに興味もない僕は上へ行きたいだけだ」

「上

というと統制機構の支部でござるか」

「じや

魔まだそこをどけhelliphellipああいや」

冷れい徹てつに言い放ってから青年は思い直したようにけれどそれでも冷ややかに声を低めた

第二章 Spiral fate 盤上の駒97

カルガ連邦も武力でもって抵てい抗こうした

それが四年続いたある日のことだ

イカルガ連邦首都であり指揮系統の中心であった第五階層都市イブキドの地下で突とつ然ぜん原因

不明の大爆発が起こりイブキドは跡あと形かたもなく消しよ滅うめつした

爆発はイカルガ連邦はもちろん交戦の真っ最中であった世界虚空情報統制機構側にも大き

く戦力を損そこなわせる痛手を負わせた戦争を続けるだけの力をイカルガ連邦と統制機構が爆

発事故をきっかけに同時に失ったのだ

結局イカルガ連邦はバラバラとなり最終的には組織としての形を失ったけれど統制機構も

己おのれを立て直すのに手て一いつ杯ぱいで追つい撃げきどころではなく内戦はしぼんで消え入るようにいつの間に

か終わったのだった

「それでも我等は負けたのだその現実を認めずに今ある平和を投げうってまで統制機構に

楯たて突つくつもりはござらんよ」

そう言うとバングは眉み間けんを中心に走る十字傷に分厚い手で触ふれ苦々しくも笑みを浮かべ

たこ

の傷はその爆発事故のときに負ったものだ内戦を終わらせたあの事故が自分にとって幸

であったのか不幸であったのかバングには未いまだわかりかねる

ただイカルガの民はもうじ充ゆう分ぶん戦ったこれからはたとえ楽な生活でなくとも平和に過ご

してほしいとバングは思っている

96

れるだとかそんな幽ゆう霊れい話じみた現象が起こるはずもない

勝手なイメージでそう結論づけるとバングは気を取り直してそのたくまし

い胸むな板いたを張った

まだ浪人街の見回りは途とち中ゆうだ曇天の色はますます濃こくなってきている雨が

り出す前に

修理の必要な家がないかどうか確かく認にんしておかなければならない

「いやぁまったく最近の若者は覇は気きが足らんでござるなぁ

陰いん気きな顔をしていないでも

っと威い風ふう堂どうど々うと力強くそして

くあらねばそうこの愛と正義の忍者シシガミバング

のように」

辺り一帯に響く盛せい大だいな声で笑うとバングは街の見回りを再開させた

これが終わって部下のけい

古こが終わってそれでも時間があったなら憧あこがれの女性が住むオリ

エントタウンまで足を延ばして挨拶に行こうとそう心の中で計画をたてていた

今日も浪ろう人にん街は平和だ

それがなにより素す晴ばらしい

2199年12月30日||18時21分

第二章 Spiral fate 盤上の駒99

「ついでだ貴様カグツチで白い髪かみに赤いコートを着た男を見なかったか」

そう尋たずねる青年の表情はまるで凍こおりついたかのように無表情から動こうとしないだという

のに緑の瞳だけは妙みように楽しげに煌きらめいていたようにバングには見えた

バングは顎あごに手をやり考えこむ

「白い髪に赤いコートhelliphellipふぅむいやこの辺りでは見かけてござらんそれほど目立つ容

ならば一度目にすれば覚えようがhelliphellip」

「そうかならいい」

しゆ時んじにバングからあらゆる興味を失ったように青年は滑すべるような歩みで横を通り抜ける

すれちがう風はいやに冷たいまるで氷でも掠かすめたかのようだ

「ああお主

拙者はシシガミバングと申すお主の名はなんと申す

すたすたと足早に山へ向かう細身の後ろ

へバングは追いかけるように声をかけた

だが青年は振ふり向かないまるでバングの声など耳に入っていないかのような頑かたくなな

中で

なにかに突き動かされるような足取りで歩き去りそのうちに浪人街の外れへと

を消してし

まった

バングは引き止めるように宙へ伸のばした腕もそのままに難しく顔を歪ゆがめて首を捻ひねった

「はてhelliphellip奇きみ妙ような男でござったななんというかこうた魂ましいが抜けているようというかhelliphellipなに

かに取り憑つかれでもしているかのようであったわ」

もっとも今は日もこれから高くなろうという真昼間魂が抜けるだとかなにかに取り憑か

98

形よく張り出した豊かな胸に引き締まった腰こしそこから滑なめらかに続く肉感的な臀でん部ぶと華きやしや

な足首に向かって続く絵に描かいたような曲線

同性の憧れと異性の動どう揺ようを誘さそわずにおれない肢し体たいのシルエットだけでも彼女は道行く人の

視線を釘くぎ付づけにする

そんな麗うるわしき女医ライチがこの街にやってきたのは約一年前のことだ

突然現れ住まいと仕事を求めたライチをこの辺りの住人は快く受け入れた

彼女は自分がどこから来たのかどんな生おい立ちなのかなぜオリエントタウンへひとりで

やってきたのか名前以外のことはなにも話そうとはしなかった

素すじ性ようの知れない女など怪あやしまれて当然だろうけれどライチが出会ったオリエントタウンの

住人は皆みんな彼女が口を閉とざすと深くは追つい及きゆうしようとはしなかった

そのことをライチは一年たった今でも来たばかりのころと変わらず感謝している

こうして日々病院のとびらを

開けなるべく気軽に安価で治ちり療ようが受けられるよう心がけているの

も生活のためというより拒きよ絶ぜつや敬遠ではなく寛かん大だいさと優やさしさをもって自分を迎むかえてくれた

オリエントタウンへの恩返しの意味が強い

「さてと」

少年の

が曲がり角の向こうに消えるとライチは細い肩かたをすとんと落として息をついた

オリエントタウンはすでに夜の闇やみに包まれていてあちこちにぶら下げられた小さな提ちよ灯うちんや

ランプが家々を照らしていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒101

オリエントタウンは第十三階層都市カグツチの下層にこそあれど広く活気にあふれた賑にぎやか

な街だ

限りある土地を時に譲ゆずり合い時に共有して身を寄せ合うように家を建て並べ今にも壁かべが

触れそうなほど密接したりん家かとは家族のように付き合える

誰だれも彼も決して裕ゆう福ふくではないけれど薄うす暗ぐらい路地に不ふ穏おんな影かげが横切ることもあるけれどそ

れでもこの街は温かい

ここオリエントタウンの一角で小さな病院を開いている医者ライチフェイリンは常々

そう感じていた

「痛みが引くまで無理は禁物よいいわね」

階段から落ちて捻ねん挫ざしたという少年を病院の入り口まで見送ってライチは頭を下げる小さ

な彼に笑顔で手を振る

ライチは美しい女性だった

足元まで伸ばした艶つややかな黒くろ髪かみを高く結ゆわえてくるりと巻き大きなアップヘアにまとめて

いる化けし粧ようで飾かざらずとも美しいラインを描えがく眉に伏ふせれば影ができるほどに長い睫まつ毛げ黒い

縁ふちの眼鏡ごしに見える瞳は大きく知的な光を宿しているけれどややつり上がった目元はどこ

か媚び態たいを想像させる色いろ香かを匂わす

美び麗れいなのはなにも容よう貌ぼうだけではない

100

こんなにも温かく名を呼ぶのはひとりだけだhelliphellip今は

両手で二の腕をさすりながら振り返りライチは少し驚おどろいたように目を丸くさせる

そこにいたのはやはり予想通りの人物だったけれど彼の腕には予想とは

うものが抱だき

かかえられていた

声の主の大きな体が建物の色いろ濃こい影の中から出てくるライチとて

の低いほうではないけ

れど彼の

は見上げるほどだ

通常の人間ならありえないほど屈くつ強きような体に赤い肌はだ第七機

の赤あか鬼おにと呼ばれるサイボーグ

の男だった

「テイガーhelliphellip」

ライチが小さな声で名を呼び返すうちにテイガーは周囲に人ひと気けがないことを素早く確認す

ると近くまでやってくる

彼の腕うでにはひとりの少女の

があった気を失っているのかぐったりと力なく体を預け

ている長くやわらかなカメリアレッドの髪に華

な体そして青と白の世界で一番有名な制

服helliphellip統制機構の制服

「テイガーこれはどういうこと

どうしてhelliphellip」

どうして統制機構の

士を抱かかえてこんなところにいるのかそう問おうとしたライチの疑問

をさえぎっ

てテイガーは抱えていた少女の体を託たくすように差し出した

「すまんがこの少女を頼たのめないだろうか訳あって気絶させてしまったのだが放ほうり出すわ

第二章 Spiral fate 盤上の駒103

遠くには雨音が

こえる昼過ぎに

り出してから今までもずっと続いていたのだろう空

を上層に閉とざされたこの辺りもすっかり空気が湿しめっていてずいぶんと冷え込んでいた

ゆったりとした白いブラウスとその上に着込んだロング丈たけの真っ赤なチャイナドレスという

服装はライチのみ惑わく的なボディラインをくっきりと描き出すには適しているけれど寒空の

下に立つにはあまり向いているとはいえない

不意に抜けた冷たい風にぶるりと身み震ぶるいしてライチは豊満な胸元を合わせるように己おのれを抱

いたまとめ上げた髪にしがみつくようにくっついている小さなパンダの髪かみ飾かざりも心なしか寒

そうだ

今夜はきっと冷えるだろうとはいえかつて黒き獣けものが現れ魔ま素そが世界に広がるまでは十二

月といえばもっと寒くこんな薄うす手での服装ではとても外を歩けなかったそうだから当時を思

えば涼すずしい程度の気温なのかもしれない

昔はこの時期この辺りでも雪が

ったらしい魔素が狂くるわせ失わせた冬らしい季節という

ものを少々勿もつ体たい無く思いながらライチは病院へ戻もどるべく踵きびすを返した

だがただでさえ長い脚あしをさらにすらりと見せる踵の尖とがったくつが屋内に踏ふみ入る前に

後か

ら唐とう突とつに声がかかった

「ライチ」

落ち着きのある低い男の声だ

それが誰なのかライチは呼びかける一言でわかった自分のことを呼び捨てる者の中で

102

「お前になら構わんか実はhelliphellip」

『とう

亡ぼうしたサンプルの回

だ』

突とつ然ぜん第三の声が割って入った

「ココノエ

周囲に配はい慮りよしてか声は抑おさえたもののテイガーが驚きにうろたえる

ライチの表情に糸を張るような緊きん張ちようが走った

第三の声はテイガーの耳元から

こえてきたそこには小さな通信機が取り付けられている

その向こうにいるのが声の主でありテイガーの上司にして製作者でありhelliphellip一年前までは

ライチの上司でもあった人物ココノエだった

『なにを驚いている回線に入り込む程度なんでもないわかったら勝手に通信を切るんじ

ゃないいいなテイガー』

テイガーへ向けてだけでなくその周囲にも

こえるよう操作された音声が感情の波を抑え

た低い女声で語る他者の意見をは

ねのけるような語調と声色には有う無むを言わさぬ威い圧あつ感と

神経質さが現れていた

ライチも一年前まではよくこの声にしつ

咤たされたものだ懐なつかしさと一いつ緒しよに苦い思いがこみ

上げてきてライチは声から目をそむ

けるようにテイガーから視線を外す

「ココノエ博士helliphellip」

『久しぶりだなライチお前こそこんなところでなにをしている』

第二章 Spiral fate 盤上の駒105

けにも統制機構に連れん絡らくするわけにもいかなくてな」

ひどく困った様子で懇こん願がんしてくる

そんな顔でそんなことを言われては断ろうにも断れない自分の性格をわかっているくせに

と思いつつもライチはテイガーの腕の中の少女を覗のぞきこんだ

は正常だ外傷は特になく呼吸も安定しているただ単純に強い衝しよ撃うげきで意識がなくなり

そのまま眠ねむり込んでいる状態だろう

「つまり彼女の意識がないのは貴方あなたの仕し業わざってことね」

ちらりと眼鏡のすき間まからテイガーの赤い顔を見上げてライチはほんの少しの小言めいた響ひび

きを込こめて言った

テイガーとこの少女の間にちょっとした荒あら事ごとがあったことは想像に難かたくない

統制機構と第七機

係についてはよく知っているなにせライチはオリエントタウンへ

来る前テイガーと同じ

場で同じ上司の下で働いていたのだから

「helliphellipどうして貴方がカグツチにいるの」

少女の身み柄がらは引き取るそう物もの腰ごしで伝えながらもライチは堅かたい声こわ色いろで尋ねた

テイガーが所属している第七機

はカグツチから離はなれた場所に研究所を構えているカグツ

チへふらりと私用で来るような距きよ離りではない

テイガーは困こん惑わくしたように言葉に迷ったが難しそうな顔をしながらも上向きのきばが覗く

口を動かした

104

「まだわかりません」

ねのけるようにライチは大きく首を振ふった

そこにはオリエントタウンの住人が知る優しく穏おだやかで時々厳しいそんな女医の

はなか

ったあるのはなにかを必死で守ろうとする弱々しい少女のような顔だ大切な宝物を取り上

げられまいと首を振るようなそんな

ライチは厳しく引き締しめた顔でテイガーをその耳元にある通信機を見つめる

「なぜ博士はそう簡単に割り切れるんですか

すべての手を尽つくしたわけではないのにあ

の人はただ少し間まちが

えてしまっただけです少し急ぎすぎただけでそれに彼は貴女あなた

のhelliphellip弟で

子しだった人じゃないですか」

ライチの声は情感に揺ゆれていた震ふるえているといってもいい

解げせない飲み込めない受け入れたくないそんな拒絶が声だけでなく

しげに眉まゆを寄

せた表情にも浮うかんでいる

もう一度通信機からココノエのため息が

こえた今度は呆れているというより苛いら立だっ

たような吐と息いきだった彼女が頭をかきむしる仕草が見えるようだ

「すみません博士helliphellipでも私はhelliphellip諦められません」

ライチはきつく胸の前で手を握にぎり締める

だけど本当はわかっているライチは医者であり一年前までは研究者だっただから自分

でもいや

になるほど冷静で理性的な部分はもうとっくに理解していた

第二章 Spiral fate 盤上の駒107

どんな顔をしていたらいいかわからないライチは寒さではなく別のものから己を守るよう

に身を抱く手に力を込める

知性と理性で研といだココノエの鋭するどく射い貫ぬくような眼まな差ざしが通信越ごしにこちらを見み据すえてい

るのがわかった

「そんなのhelliphellip博士ならもうおわかりでしょう」

なぜライチがカグツチにいるのかもなぜカグツチの中でも下層のオリエントタウンを住ま

いに選んだのかもなぜ第七機

を出たのかも全部全部彼女はお見通しのはずだ今いま更さら説

明しなければならないことなどなにもないのだ

『まだあいつのことを諦あきらめきれんのか』

ほらとライチは思う答えずともココノエはわかっている知っているライチがなにを

考えてここにいるのかを

だからだろうか通信機越しに

こえるかつての師の声はまるで咎とがめ責めているように

こえた

「諦めるだなんてどうしてそんなことができますか」

胸の内から絞しぼり出すようにしてライチは答える

通信機からノイズが漏もれたココノエのため息だろう呆あきれ果てたといったような音だ

『もう一度言うあいつを助けようなどと無む駄だなことを考えるのは止よせあいつはもうどうに

もならんお前の力では助けられない』

106

ライチは顔を上げられなかった愚おろかだと思うのは自分も同じだ反論はない

重苦しい沈ちん黙もくが数秒流れたときだったパタパタと軽やかな足音がライチのいる病院の入り

口へと駆かけてきた

「ただいまhelliphellipってうわデカっ

やってきたのは小こ柄がらな少女だったかつ

色しよくの肌はだに黒くろ髪かみをアップにまとめており動きやすそう

な服を身に着けている

少年とも見まごう細い腕うでと胸には紙かみ袋ぶくろに入った日用品を抱かかえていたが近づいて改めて見上

げたテイガーの巨きよ体たいに思わず驚おどろいてぐしゃりと抱だき潰つぶす

「リンファhelliphellip

おおかえりなさい」

いささか慌あわててライチは向き直った

彼女はリンファライチの病院で助手として手伝いをしている医者志望の少女だ

リンファは大きな黒目をさらに大きく見開いて遠目で見るよりずっと大迫はく力りよくなテイガーを

ぽかんと見上げていた

「たただいま先生えっとhelliphellipこの人誰だれ

お客さん」

「ああそのhelliphellip」

ライチは言葉を濁にごして迷った

リンファは公私ともに支えてくれる頼たのもしい助手だがライチは彼女に自分の過去を教えて

いないし教えるつもりもなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒109

自分にできることなどなにもないのだと

||一年前ライチがココノエやテイガーと共に過ごし研究に励はげんでいた第七機

を飛び出

したのはある人を助けるためだった

その人は魔素とそれを世界にもたらしたとされる境界について研究していた

けれどあるとき彼はおかしくなってしまった常に錯さく乱らんしたようになってやがて人前に

を見せなくなり最終的には人でなくなってしまった

魔素に触ふれ続け境界に近づきすぎたがゆえの結果だった自分と境界の境目がわからなく

なってあるべき形を失った

消化してしまったものを元の食品の形に戻せないように境界に取り込まれて同化したもの

を元の

になど戻せはしない

彼を追ってここカグツチのオリエントタウンまで来てもこの街に留とどまり続けても彼の

噂うわさを耳にしては飛び出し黒く蠢うごめく影かげを探しても魔素や人ならざる種族について研究を重ね

ても彼と同じように境界に手を伸のばしても

なにも変えられない

ライチが探している『あの人』はオリエントタウンから入ることができるカグツチ下層の

下水道をねぐらとして日々ただ本能の赴おもむくままにさまよい続けている

『どいつもこいつも私の弟子は馬ば鹿かばかりだhelliphellip』

ココノエが吐はき捨てるように言う

108

意識のない女

士が身に着けている青と白の制服は苦しい生活や貧しい環かん境きようをもたらした

元げん凶きようをし象よう徴ちようしているようなものだ

その気持ちをわかりながらもライチは

めるように言う

「誰であろうと患かん者じやは患者よリンファベッドの用意をしておいて」

「helliphellipはいライチ先生」

リンファとてライチの言い分はわかっている

もう一度きつく腕の中の紙袋を抱だきしめるとリンファは渋しぶし々ぶ頷うなずきそれでも足早に病院の

奥へと駆けていった

それを横目に見送りながらライチはぐったりとした少女の腕を肩かたに担ぐようにして濡ぬれ

た体を支える

最後にと見上げた知的な瞳ひとみにテイガーは告げた

「ライチこれだけは伝えておきたいココノエはお前が機

に戻もどることを望んでいるお前

にその意思があるならいつでも手を貸すつもりだ」

それこそがわざわざ通信回路をねじ込んでまで口をはさ

んできたココノエが言いたかったこ

とだろうとテイガーは解かい釈しやくしている

あの気難しく神経質な声で話す上司は人に情じよ緒うちよめいたことを伝えるのがとても苦手だ誰よ

りも側でココノエの仕事を手伝ってきたテイガーはそのことを身にしみて実感している

ライチは驚いたような顔を見せそれから頰ほおを緩ゆるめるように力を抜ぬくと

しげに首を横に振ふ

第二章 Spiral fate 盤上の駒111

間まちがってもテイガーやココノエとの会話を

かれるわけにはいかないのだライチは素早く

助けを求めるような視線をテイガーに向ける

だがそのときにはもうすでにテイガーは通信をオフにしていたライチがなにをきらうのか

は見かけによらず理性的な巨きよ漢かんは十分理解している

ただしその代わりにとばかりに抱えていた意識のない少女をライチの腕の中に押し付ける

ように託たくした

「私は任務があるもう行かなければとにかくこの娘むすめを頼む」

テイガーがここを訪れたのはなにもココノエの心情を伝えるためでも上司とライチを口論

させるためでもなくこの赤い髪かみの少女の身の安全のためだ

「わかったわ預かる」

このじ状よう況きようで拒きよ否ひするわけにもいかないライチは素直に少女の身み柄がらを引き受けた

力なくもたれかかる少女の体は決して軽くはないが支えながら引きずってベッドへ運ぶく

らいはできる医者や研究者に相応ふさわしくない程度にはライチは力には自信があった

ライチが受け取った人物の

を見てリンファが不ふ愉ゆ快かいそうに眉まゆを寄せた

「この人図書館の

士じゃんなんでhelliphellip」

なんで

士なんかを預かるのかのみ込まれたリンファの言葉はそう続くはずだった

リンファはオリエントタウンの生まれだ下層の住人の大半がそうであるように彼女もま

た高圧的な統制機構の施し政せいに大いに不満を抱いて生活している

110

雨の中運ばれてきたせいで少女の体はすっかり冷えていた

リンファが整えてくれたベッドまで運ぶと清潔なシーツの上に横たえ

士の制服である青

い帽ぼう子しとブーツを脱ぬがせる指先まですっかり力を失った手を取り手てぶ袋くろと硬かたい金具のついた

袖そでを外した

となりの部屋でリンファが買ってきた日用品の片づけをしている物音を

きながら上等とは言

えない毛布と布団を眠ねむる少女の体にそっとかけてやる

「helliphellip今夜はこれじゃ少し寒いかもしれないわね」

青と白の帽子や袖をたな

へしまいながらライチは声に出して呟つぶやいた

そのしゆ

間んかん目に見えない糸が切れたような不思議な感覚がライチの

筋を掠かすめていったの

だけれど

ライチはそれを冷えてきたがゆえの悪寒だと思って新しい患者にかけてやる毛布を取りに

行くため部屋を出た

この

間ライチの大切なものがひとつ喪うしなわれたと彼女が知ることはなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒113

った

「helliphellip私は戻れないわあの人のことが片付かない限りは」

戻ればきっと後こう悔かいするお門かどちがいにもココノエを恨うらむかもしれない

「そしてもし片が付いて私があそこに戻ろうとしてもそのときは今度は博士が私を受け入れ

ない」

もしあの人を戻せるとしたらその方法が容易たやすくそして人道に則のつとったものであるはずがな

い触ふれてはならないものに触れなければならないだろう見てはならないものを見なければ

ならないだろう知ってはいけないものを知らなければならないだろう

そうなったときココノエが自分をどんな目で見るかライチはあまり想像したくはなか

った

難しそうに唸うなりテイガーが小さく顎あごを引く歪ゆがんだ口元は苦々しい

「そうか難しいことは私にはわからんが」

いつまでも話してばかりはいられないテイガーは広く赤い

中をライチへ向けた

「今はこれで失礼するhelliphellip達者でな」

それだけ告げるとテイガーは後うしろ髪がみを引かれる様子もなく来た道を引き返していった暗

い影かげの中に入るとやがて大きな

中はオリエントタウンの路地裏に消える

ライチもまた立ち去る

を向けて預かった

士の少女を病院の中へと運び込んだ

後ろ手にとびらを閉めればそこはもう慣れ親しんだ小さな自分の病院だ

112

まったくうんざりするこれからこんな風雨の下でひとりで作業しなければならないな

んて

「helliphellipっていつまでもぐちぐち言っていてもしょうがないですか」

自分で自分を哀あわれみながらハザマはスーツの内ポケットから小さな通信機を取り出した

耳に当ててしばらく待つ

とうに日は落ちて辺りは暗くこの分厚い雨雲で月明かりが望めるわけもないハザマの後

方で灯ともる屋上入り口の白々しい明かりがスポットライトのように円形の濡れた屋上を寒々し

く照らしていた

『||私だ』

通信機の向こうから声が応こたえた

男の声だ低く感情らしい響ひびきは一いつ切さいない

ハザマはズボンのポケットに手を突つっ込こむと心持ち

筋を伸ばした

「お疲つかれ様ですハザマですとりあえず現場に到とう着ちやくしましたよ雨ざらしですけど」

『そうかでは始めろ』

「あらら冷たいですねぇねぎらいの言葉もなしですか技術大たい佐さ」

帽子のつばなどまるで意味がない濡れて額にはりつく前まえ髪がみを指先でのけながらハザマは口

角を引いて苦くし笑ようする

もっとも通信機の向こうにいる男にねぎらいの言葉などかけられたらそれはそれで気味

第二章 Spiral fate 盤上の駒115

2199年12月30日||18時21分

雨はまだ

り続いていた

曇どん天てんはますます色いろ濃こくついには強い風まで吹ふき始める

夜ともなれば空気は冷えるただでさえここは高い場所でhelliphellipそう地上から数えればとん

でもなく高い場所でそのうえ風雨をさえぎるものがないというのに

「あーあhelliphellipもう最悪ですね」

世界虚こ空くう情報統制機構カグツチ支部の屋上つまり第十三階層都市カグツチにおいて最も高

い場所に立つハザマは

り止む気配のない雨空を見上げて心底辟へき易えきしていた

制服ではない自前の黒いスーツも雨除よけにはならない帽子も上がってきて数秒でびしょ濡ぬ

れだ

少し待てば雨足も弱まるのではないかと思って無益に潰つぶした時間は一体なんだったのだろ

うか

「これが上官命令でもあの人の言いつけでもなかったら体調不良でも持ちだして即そつ刻こく本部に

帰るところですよ」

114

歩きながらもハザマは笑っていた両手をポケットに突っ込んでいるせいで細い肩が少しだ

け持ち上がって喉のどを鳴らすたびに小刻みに揺ゆれる

誰もいない鳥さえ近づかないカグツチの頂でハザマはどこか摑つかみどころなくにゆ

和うわに笑い

かけた

彼にだけわかる人物へまるでなだめすかすように

「そう急せかさないでくださいよ焦あせらなくてもいずれ取り戻せますって」

||ねえテルミさん

第二章 Spiral fate 盤上の駒117

が悪くてとても仕事どころではないのだけれど

『あまり時間がないさっさとしろ』

「はいはいまったく貴方あなたもあの人も人使いが荒あらいんですから」

ではまた後ほどそう言葉を足して通信を終えるとハザマは手の中に握にぎり込めるくらい

小さな通信機を玩がん具ぐでも扱あつかうように宙へ放ほうり投げキャッチした

雨が冷たい

ハザマは目ま深ぶかにかぶっていた黒の帽子をほんの少しだけ持ち上げた

濡れた髪の向こうから金色の瞳ひとみが覗のぞいていた照明の中でちらつく無数の雨あま粒つぶを鋭えい利りな狡こう猾かつ

さで見み据すえる一いつ緒しよにその向こうで静かに濡れるがらんと空くう虚きよななにもない屋上の空間を

軽く肩をすくめるようにしてハザマが笑えみの息を漏もらしたまるで誰かになにごとか語り

かけられたかのように

「わかっていますよ私だってさっさと片付けたいですからね」

さあさあと雨の音が途切れることなく続いている

そこにハザマ以外の誰かの声はなくもちろんハザマ以外の

はない

暗い夜の屋上は雨あま霧ぎりの中でなにひとつ文句も言えず濡れるばかりでハザマに何事か語りか

けるはずもない

ハザマは通信機をしまうとちょいと帽子を直し屋上の中央に向かって足を踏ふみ出した硬

い革かわぐつが濡れた床ゆかを叩たたいて微かすかな水音を弾はずませる

116

Page 5: t1501 ブレイブルー1 面付BLAZBLUE―ブレイブルー―1 カラミティトリガー 上> 原案・監修 ‥ 森利道(アークシステムワークス) 著‥駒尾真子

「久しぶりだなシスター」

猫の口を歪ゆがませて負傷した獣人獣兵

は皮肉っぽく笑った

シスターはその場に膝ひざをついて目線を義兄と合わせた近づくとなお一層不穏な臭いが濃こく

感じられて悪お寒かんが

筋をくすぐっていく

「お久しぶりですけどまあなんてことhelliphellip傷だらけじゃないですか一体どうしたっていう

の獣兵

さん」

「色々とあってな悪いが事情を全部説明している時間はない」

楽な状態ではないだろうにボロボロに傷ついた猫人は苦痛をにおわせない平常の声こわ色いろで答

える

そんな様に眉まゆを寄せてシスターは反射的に手を獣兵

の額にかざしただが数秒のうちに

その手を力なく握にぎりこむ

「ああhelliphellipそうだったわもう治してあげられないんだった」

かつてこの手には治ちゆの力があった触ふれて念じるだけで傷をいやし痛みを遠ざけることが

できただがその力も歳を重ねるごとに徐じよじ々よに薄うすれ数年前にはすっかり失われてしまった

獣兵

が小さく首を振ふる

「気にすることはないかすり傷だそんなことよりお前に頼たのみたいことがある」

「頼み」

尋たずねながらシスターはなにを託たくされるのか薄く

していた

プロローグ9

て目を見開く驚おどろいた

シスターを見つけてわずかに歩調を速めた人影は正確には人ではなかった

は人間の子供程度全身は白と茶色のツートーンの体毛で覆われていて先が二ふた股またに分か

れた長い尾おを低く下げている羽織った上着のフードには三角の耳が取り付けられていてそ

の下には本物の三角耳が隠かくれているはずだ

歩み寄ってくる人物は二足で立つ猫ねこの

をしていた獣じゆ人うじんだ今はもう世界中に数えるほど

しかいない希少な種

だがシスターが驚いたのは珍めずらしい獣人を目もく撃げきしたからではないそれが自分の姉の夫何

十年も顔を合わせていなかった義あ兄にだったからだ

「獣じゆ兵うべえさん」

名を呼び我に返ってまた走る血のにおいだ近づいてくる獣兵

から漂ただよってきている

目の前まで駆け寄ってシスターは再度驚くどこか怪け我がでもしているのかと思っていたが

間近でよく見ると一つや二つの怪我ではなく全身傷だらけだったのだ

フードの下から覗く猫の顔は額から出血しており黒く変色した血が茶色い毛を汚よごしている

服は埃ほこりと血で不ふ穏おんなま斑だら模様になっていた傷を押さえているのか腹部に巻きつけられたボロ

布には赤黒い血がべったりと滲にじんでいる

その

からなにがあったのかを推おし量ることはできないけれどなにかがあったことだけは

その血が鮮せん烈れつに物語っていた

8

「大丈夫だ信じろラグナ」

もう一度獣兵

が拒こばむ少年を説く

その低くたしなめるようでもあった呟つぶやきに小さくシスターが息をのんだ

「helliphellipラグナ」

思わずく唇ちびるからこぼすように呼んだ

その名に弾はじかれたように少年が獣兵

の肩から手を離して腕に抱だく少女を隠すように身を

引いた

まるで怯おびえた子犬のようだ傷ついて空腹で苦しくてだけど自分より小さな者を守らねば

と懸けん命めいに足を踏ん張りきばを剥むくそんないじらしい

にシスターは微笑みを浮かべて温かく

少年を見つめた

「貴方あなたラグナというの」

向けられた視線にか声色にかそれとも言葉にか少年は戸と惑まどったようにうろたえ獣兵

を見てその

の少年と自分の腕の中の少女を見たそれからためらうようにシスターへと

視線を戻もどすとhelliphellip警けい戒かいの針を向けながらも小さく浅く頷うなずく

間シスターは胸に温かなものが灯ともるのを感じた

まだ若かったころ目め尻じりに深い皺もなく髪も白くなかったころ出会いそして別れた人

を思い出す

少年はあの人によく似ているそして記憶の中のあの人もラグナという名前を持っていた

プロローグ11

獣兵

は小さな子供を

負っていた少年だぐったりともたれかかった体は力なく気を

失っているか深く眠ねむっているかのどちらかだろう

後方にはもうひとり少年がいたこちらは獣兵

負われている少年よりもいくつか年上

のようで荒あらい呼吸に

せた肩かたを上下させながらまるで手負いの獣けもののようにシスターを見つ

め睨にらんでいる彼の腕うでの中にももうひとりこちらは小さな少女がやはり意識なく身を預けて

いた

三人の子供よく似ている不健康なほど白い肌はだに薄うす汚よごれた金色の髪かみ瞼まぶたを持ち上げている

のは自分の足で立っている年上の少年だけだったが彼の風ふう貌ぼうからするにきっと三人とも美し

い緑色の瞳を持っているのだろう

「この三人を預かってくれこの教会に置いて育ててやってほしい」

そう言って獣兵

に載のせていた少年をシスターに渡わたそうとする

だがその前に後方にいた少年が自分と同じくらいの位置にある獣兵

の肩を摑つかんだ傷だ

らけの腕で抗こう議ぎするように強く

「心配するなシスターなら大だい丈じよ夫うぶだいやhelliphellipシスターでなければ駄目なんだここ以上に

安全な場所はない」

なだめるように獣兵

が語りかける

だが少年は緑色の瞳を鋭するどく尖とがらせ眠る少年に触れることを許さないとばかりにシスターを

眼光で射い貫ぬいていた

10

「こいつらを頼めるか」

普ふ段だんならば愛らしくもある猫の容

で獣兵

は重く問う

そんな重さをいとも容易たやすく掬すくい上げるようにシスターは軽かろやかに顎あごを引く

「もちろんいいえむしろ私からお願いするわこの子たちの面めん倒どうをみさせて」

ジンの頭をそっと抱き寄よせて乞こうようにシスターは言う

涙なみだが出そうだった溺おぼれるような嬉うれしさゆえだこんな未来がこんな運命が待っているな

んて思ってもみなかった

「この子たちを守る役目を私にちょうだい」

シスターの言葉に獣兵

はため息をついて猫

の肩を落とした安あん堵どの吐と息いきだった

「ラグナ彼女がhelliphellipシスターだ」

彼女の本名を告げるかどうか迷って結局近年呼び慣れた呼こし称ようで紹しよ介うかいすると獣兵

は後方の少年を前へと出した

彼はどうしたらいいのかわからないらしく険しい表情を頑かたくなに守ろうとしながらも困こん惑わくに

瞳を揺ゆらしシスターを見る

その強張った顔にシスターが手を伸のばすと小さなラグナはびくりと肩を飛び上がらせ下が

ろうとした

構わずにシスターは彼の頭へ手を置いたぽんぽんと髪を押さえるように撫なでる

「初めまして貴方たちに会えて嬉しいわようこそ私の教会へ今日からここが貴方たち

プロローグ13

ああまるで魔ま法ほうみたいだそれとも奇き跡せきだろうかシスターは瞼を伏ふせると感謝の祈いのり

を捧ささげた

その瞼が再び持ち上がるのを待って獣兵

が改めて

の少年を下ろしたシスターに差し

出すラグナという名の少年は迷いながらも今度は制止しなかった

眠り続ける細い体を受け止めてシスターは意識のない少年を胸に抱く腕の中の小さな体

の温ぬくもりがシスターの過去の記憶をより鮮せん明めいにさせた

「この少年がジンであいつが抱いている少女がサヤだそれから今も言ったがあいつの名

前がラグナ」

獣兵

が少年たちを順に紹介していく

ジンサヤラグナ

教えられた名前をシスターは胸中で何度も繰くり返した何度も何度も大切なものを包み込

むような温かさで何度も

「ジンにサヤそうこの子たちが貴方のラグナの弟と妹なのね」

「ん

その通りだがhelliphellipシスターどうして知っている」

「だって昔に

いたんだもの大切な弟と妹がいるって」

そうずっと昔にあの人から

いた大事な約束を交かわしたあの人から

義兄はなにかを思い出すような目でどこか遠くを見やり力を抜くように笑む

そうかと低く独りごちるように呟いてから改めてシスターを見た

12

近くに小川が流れすぐ裏手には実り豊かな森がある

そこはかつて大きな戦争があった時代の決戦の地けれど今は誰だれもが忘れた土地

緩やかで草深い草原の中ぽつんと建つ小さな教会で

老いたシスターと三人の子供の慎つつましくも賑にぎやかな生活がこの日始まった

||ねえラグナあなたは私に会えたかな

プロローグ15

の家よ」

温かく話しながらシスターは思う

遠い日に交わした約束それが果たされる日をずっと待っていたこの日が来るのをずっと

ずっと待っていた

ジャムを作らなかったことを頭の隅すみで後こう悔かいするもし作ってあったならこの子たちにお茶

と一いつ緒しよにジャムをたっぷり塗ぬったパンを食べさせてあげられたのに

「お帰りなさいラグナ」

きっと声が震ふるえていたせいだろう

口を結んだまま警戒を緩ゆるめられずにいるラグナの緑色の双そう眸ぼうに一

心配するような色がよ

ぎるから

やっぱり本当は優しい子なのだと思ってしまったから

シスターは目尻から透とう明めいな雫しずくをこぼしながら喜びのままに少女のように微笑ほほえんだ

||ねえ覚えてる

||あの約束を覚えてる

||私は会えたよ

||ねえ貴方は会えた

14

げる

身を隠かくすつもりは毛頭なかったむしろ向こうが見つけて仕し掛かけてくるならその都度叩たたき

のめすのが彼のやり方だ

こそこそやるのは性しように合わないどうせ目立つならできるだけ

手に振る

っていつか自

分の襲しゆ来うらいを

いただけで連中がに

げ出すようになればいいと思う

もっともそんな虫のいい話はないだろうと思ってもいるが

すぐに青と白を基調とした制服に身を包んだ男が五六人銃じゆうを抱かかえて走り込んでくる

こちらの位置に気付いていなかったのかはち合わせた途と端たんに先頭の数名が動どう揺ようして足を止

めた

だが彼は止まらない歩みを疾しつ走そうに変えて一直線に突つっ込こむと手の剣を大きく振ふりかぶっ

「止まれ

止まらなければ撃うつ」

制止の声に意味はない

制服

の男たちがそれぞれに銃を構えた即そく座ざに全員が発はつ砲ぽうするけたたましい発砲音が廊

下に響く

がその直後彼は振りかぶった剣を

いよく薙ないだ

「うらぁぁぁぁぁっ」

剣から黒く禍まがま々がしい揺らめきが放たれて宙を駆かけ迫せまる銃じゆ弾うだんのすべてをの

み込んで掻かき消し

第一章 Stratum city 階層都市17

第一章

Stra

tum city

||階層都市

アーチ状に造られた白く高い天てん井じように慌あわただしい足音がいくつも響ひびいていた

誰もが口々に警戒と攻こう撃げき指示を口にする侵しん入にゆ者うしやを捕つかまえろ殺せこれ以上進ませるな

そう叫さけぶ声はしつ

咤たや激げき励れいというよりもっと

痛な音に引きつっておりひどく追い詰つめられた

状じよう

況きようを如によ実じつに物語っていた

廊ろう下かの先から

こえてくるそれらを

きながら

彼は迷いや躊躇ためら

いなど微み塵じんもなくいっそ悠ゆう然ぜんとした振るま

いで近付いてくる足音のほう

へと進んでいた

白い髪に左が緑で右が赤という左右で色のちが

う瞳ひとみがっしりした体つきに黒い服を纏まとい

その上に目の覚めるような真っ赤なコートを羽織っている

(helliphellip後から後からよく集まってくるもんだ)

ぼやくように思いながら彼はそれまで肩に担いでいた幅はば広びろで分厚い刀身の剣けんを手にぶら下

16

彼はなにもひっそりとここに忍しのび込んだわけではない

を守る警

員を殴なぐり倒して正面

から堂々と侵入したのだ

まるで自分の力と存在を誇こ示じし深く爪つめ痕あとを残すように彼は暴れに暴れて手あたり

第に破

壊し奥へと進んだ立ちはだかるものはなんであろうと斬きり倒すそんな暴力的な歩みで進

んで進んでhelliphellip

そうして彼が到とう達たつしたのは長い長いし昇ようこう装置で

りた先のぽっかりと口を開けたような

地下深い広間だった

helliphellipそこはもうこれまで通ってきた廊下や部屋とは

う世界だった

空気が

う温度が

床ゆかも壁も天井も金属に似た質感の板で覆おおわれており広場を見下ろす位置にガラス張りの小

部屋が設けられているその下にも重じゆ厚うこうな機械類が並んでおりそれらが見み据すえる先で異様に

大きななにかの装置が沈ちん黙もくしていた

人は誰もいないここにいたはずの人間は皆みな襲しゆ撃うげきの知らせを受けて避ひ難なんしたのだろうそ

してここに駆けつけるはずの人間は皆白はく髪はつの侵入者が蹴け散ちらしてしまった後だ

一歩一歩彼は広間の奥に鎮ちん座ざしている巨きよ大だいな装置へと足を進めた

異質さが体にまとわりつくようだった

第一章 Stratum city 階層都市19

てしまう

揺らめきはそのまま炎ほのおの速さで走りじ弾だんを浴びせる制服たちへと迫ると一息に吹ふき飛ばし

たご

うと炎が逆巻くような音が巻き起こり男たちの体は

鳴ごと攫さらわれて壁かべに叩きつけら

れる衝しよ撃うげきに負けて壁に太くヒビが走った

たった一撃それだけで銃を構え勇ましくも侵入者を迎むかえ撃とうとしていた男たちは全員

意識を失い廊下に倒たおれ伏した

「helliphellip倒されるってわかってんだからのこのこ出てくんじゃねぇよ馬ば鹿かが」

あっけないものだ倒れた制服

を横目に見やると大きな剣を携たずさえた彼はすぐさま廊下を

走り出す

いつまでもこんなところで時間を食っている場合ではない

向かうのはこの施し設せつの一番奥最下層だ

また廊下の奥から青と白の制服

が現れる口々に叫びながら銃を構えあるいは剣を抜ぬい

た人

数はさっきよりも多いがだからといって彼のやることに変わりはない

真正面から突っ込んですべてを振り払はらい叩きのめす

々に制服

の力ない体が廊下のあちこちに転がりセキュリティ装置はことごとく破は壊かいさ

れ口を閉とざすとびらすら叩き切られて鉄くずに変えられた

18

この世でありながら別の世であるかのような本能が警告するい和わ感のようなものが空気の

代わりに漂ただよっている

けれど彼には慣れた空気だった

もう幾いく度どもこういうところにはやってきているのだここと同じ構造をして同じ装置を地

下に隠した施設をこれまでいくつ訪ねたかわからない

毎度訪問の目的はひとつ

この巨大な装置の破壊だ

彼は床を踏ふみしめるようにして歩み寄る

これがなんのために存在しているのかここで働いていた者のどれほどが把は握あくしていたのだ

ろう

来るたびに彼は棘とげのような疑問を感じる

これがなにをもたらすと思って毎日毎日こんな陰いん気き臭くさい地下深くまで

りてきて用よう途とも

わからないチカチカ光る計器をいじくり回していたのだろう

縁へりまで来ると彼はそれを睨にらみ据すえる

銀色の金属で組み立てられた装置は見上げるほどに高くそびえ見下ろすほどに深く大き

かった

メインとなる部分は彼が見下ろす円形の部分だ

これは『窯かま』だった

20

第九階層都市アキツ世界虚こ空くう情報統制機構支部

都市の中心に建っていた施設が何者かの襲撃によって崩ほう壊かいしその騒動で都市全体が混乱し

ている中

赤いロングコートを着た白髪の男はひとりひっそりと都市から去ろうとしていた

もうここでやるべきことは終わった長居は無用だ

施設での

手な立ち回りに反して外では人目につかぬよう入り組んだ道を通りできるだ

け薄うす暗ぐらい出口を選んだ

街中で制服を着た

士たちに見つかれば振り払うために戦わねばならないそれが煩わずらわし

い錆さび

臭くさい鉄門をくぐって奥にあるポートへ向かうその脇わきにある通路を下れば外に出られる

はずだ

そのときふと薔ばら

の香かおりが彼の鼻び孔こうをくすぐった

「まるで行き場を失った野の良ら犬みたいね」

淡たんた々んとしたあざけり

の声が

こえ彼は足を止めて振り向いた傍かたわらに佇たたずむ細い外灯を見上げる

先せん端たん

が二ふた股またに分かれたシンプルなそれの上にひとりの少女が立っていた

歳としは十を過ぎて数年といった程度だろうかまだ幼い顔立ちをしながらも足元からの薄暗

い明りに照らされて浮うかぶ赤い瞳は外見の年とし頃ごろに似合わぬ聡そう明めいさをたたえている

第一章 Stratum city 階層都市23

今はいくつもの金属板が折り重なるようにして口を閉ざしているが開けば内は火山の火口

のようになっている炎えん色しよくの溶よう岩がんのようなものが渦うずを巻いて覗のぞき込む者のすべてをのみ込ま

んと燃え盛さかっているのだ

だが中でわだかまっているものは決して溶岩や炎などではない

そこにあるのは異界だ人が本来あるべきではない世界のひずみ走った亀き裂れつの向こう側

見てはいけなかった踏み込んではいけなかった世界のからの外側

彼が見下ろす金属の装置はこの窯を制せい御ぎよしまた窯に干渉するためのものだ

本来及およぶべきものではない異界||境界に触ふれるための装置

彼は世界中に散らばるこの窯を破壊して回っていた

こうして

めてみても今いま更さら感かんがいもない

彼は剣を腰こしに戻もどすと右手を装置へと向けて突き出した何事か呟つぶやくもう何度も繰くり返し

口にしてきた破壊をもたらす言葉

言葉は彼の右みぎ腕うでで眠ねむっていた力を呼び起こし力は彼の右腕に蒼あおい光を生んだ

またたく間に辺りを埋うめ尽つくすほどに増ぞう幅ふくされた光を彼は装置に向けて思い切り放つ

のしゆ間んかん地下深くで口を閉ざしていた異界への門はそれを囲む広大な部屋ごと跡あと形かたもな

く吹き飛んだ

22

別に行き先などどこでもいいカグツチならここアキツからでもそう遠くはない

彼は忌いまい々ましげに少女の消えた辺りを睨みつけると示された

の目的地を目指して歩き出し

た数

日後彼の名は世界中に指名手配犯として公開された

ラグナザブラッドエッジ

それが『死神』の異名を持つ史上最高額の賞金首の名だった

2199年12月30日||13時27分

約百年前世界は一度滅ほろびかけたという

突とつ如じよ現れ世界中を破壊して回った巨大にして異形の怪かい物ぶつhelliphellip『黒き獣けも』の

その圧あつ倒とう的な力に人類は為なす術すべもなくあっという間に世界の人口は半分に減った

ところがそこに六人の勇士が現れた

第一章 Stratum city 階層都市25

下方の彼を見やって少女は薄うすく微笑ほほえんだ

「薄うす汚ぎたない迷子の野良犬さん

に貴方あなたが行くべき場所を教えてあげましょうか」

「helliphellipなに企たくらんでいやがる今まではそんなこと教えなかったじゃねぇか」

吐はき捨てるように彼は低く呻うめいた

少女は呆あきれたように眉まゆ尻じりを下げる

「心外ね教えてきたじゃないhelliphellipもう何度も」

「はぁ

なに言ってんだテメェ」

「覚えていないならいいのよ期待もしていないわ」

指に絡からまった糸くずでも払うように言うと少女はある方向をその白く小さな手で示した

その先に広がるのは暗雲を抱いだく暗い夜空星も月もない夜はまるで不ふ穏おんな予感を掻きたてよ

うとするかのように重苦しく静かだった

「第十三階層都市カグツチ」

そこが貴方が導かれるべき場所よ

そう告げると少女は薔

の香りを漂わせ風が吹き抜けるように

を消した

甘い花の香りが消えると白昼夢から現実に引き戻されたかのようにどこからか金属とくさ

った水の臭においが漂ってくる

気分のいい場所ではない

「カグツチhelliphellipね」

24

た街は山の高度に沿って上下に広がり結果幾いく重えにも市街のプレートが重なった狭せまくも高

い都市が生まれたのだ

ここ第十三階層都市カグツチもまた世界中の都市がそうであるように複雑な多重構造と

なっている都市だった

その中の折り重なった市街のひとつオリエントタウンの入り組んだ細い道を彼は少々ふ

らついた足取りで歩いていた

白い髪かみに左は緑右は赤という左右で色のちが

う瞳ひとみ全身を包む黒い服に目の覚めるよう

な真っ赤なロングコート腰には幅はば広びろで分厚い刀身がと特くち徴よう的な剣けんが下げられている

ラグナザブラッドエッジ

世界虚空情報統制機構の支部を各地で壊かい滅めつさせているSS級の指名手配犯であり史上最高

額の賞金首が彼だ

とはいえ周囲を行き交かう街の住人は誰もラグナを気にしたりはしないどうせまたどこか

らか無法者が入ってきたのだろうそんな程度の視線が時折興味もなさそうに掠かすめては離れ

ていく

ここはオリエントタウンカグツチの下層に位置する街だ

階層都市はその構造上上層の街であるほど魔素から遠く安全で清潔で逆に下層に行くほ

ど管理が行き届かず魔素に近い階層都市において上下は住みやすさだけでなく晒さらされる命

の危険の度合いをも意味している

第一章 Stratum city 階層都市27

彼らは事象兵器

アークエネミーと呼ばれる武器を手に黒き獣にいどみ災さい厄やくの魔ま物ものを倒し人類に未来をもた

らした

六英えい雄ゆうと讃たたえられた彼らは人知れず歴史の海に

を消し行ゆく方え不明となったがそれでも彼ら

の栄光は伝説として語かたり継つがれた

それは近くも遠い昔の話

今の世にかつての黒き獣との戦争||暗黒大戦の誰だれもが知るような名な残ごりがあるとすれば

それは大きく数えてふたつだろう

ひとつは世界虚空情報統制機構

暗黒大戦のとき六英雄と共に戦った世界的な連合軍が母体となった組織であり現在は世界

中をこの組織が統とう括かつしている

そしてもうひとつが魔素

災厄の魔物黒き獣の出現と共に世界中であふれ出した物質で黒き獣が倒たおされた後も依い然ぜんと

して世界の空気中に残り続けた

今では様々なテクノロジーにも利用され人々が暮らしていくうえでなくてはならないもの

となっているがそれでも多量の摂取は人体への危険を伴ともなう

そのため人類は魔素を利用しながらも魔素を避さけて生活しなければならなかった

魔素は地表に近いほど濃こく滞たい留りゆうしているそこで考え出されたのが階層都市だ

高山を基き軸じくにしてそこからプレート状に築いた市街を突つき出させるようにして街を建設し

26

っている

そのうえあちこちの路地を塞ふさぐように木箱やらなにかの詰つまった袋ふくろやらが我が物顔で腰を下

ろしているものだから何気なく入った路地が通り抜ぬけられないこともしばしばある

赤い柱にぎょろついた目玉のついた奇きみ妙ような像街中に小さな明かりの灯った提ちよ灯うちんがぶら下げ

られていてそれ以上におびただしい数の大小の看板が眩まぶしいネオンを輝かがやかせている

普ふ通つう下層の街というのはいくつもある上層の基き盤ばんに陽光をさえぎら

れて昼間でも薄暗く場所に

よっては真っ暗になるものだがここはそんな暗がりとは無む縁えんのようだ

路地を抜けると少し開けた通りへ出た

左右にずらりとなにかの店が並んでいてどうやらこの辺りのメインストリートらしかった

その分掲かかげられた看板の数もその

手な色しき彩さいも段だんちがいだ

(この辺なら統制機構の連中もいねぇだろ)

比ひかく的広い通りでもいかにもこの街の住人といった人間ばかりが歩いていて世界虚空情報

統制機構の例の忌いまい々ましい青と白を基調にした制服は見当たらない

ありがたい話だもし見つかれば曲がりなりにもラグナは重大犯

者周囲への配はい慮りよもな

にもなく雨あられと発はつ砲ぽうされ

から

へと集まってくる

士たちと追いかけっこを演じなけ

ればならなくなる

ラグナは左右をきょろきょろと見回しながら腹部に手をやった

疲労より空腹が辛つらいカグツチに入ってからというもの食料品を扱う店に巡り合えず持

第一章 Stratum city 階層都市29

当然最上層を占せん拠きよしているのは管理機

でもある世界虚空情報統制機構だその

連施し

設せつや

係者の住宅が市街のほとんどを占しめている

続いて権力に近く裕ゆう福ふくである者が上層階に住まいそうでない者はその

産や身分に順列を

つけるように下へ下へと下っていく

オリエントタウンに住んでいるのはそういった順列の結果ここまで追いやられてきた人間

たちだった

誰も彼もお世辞にも裕福とは言えない自分と家族それから少しの親しい人間の生活の

ことで精いっぱいで見るからに異質な白髪の男にかかわって余計な面めん倒どうに首を突っ込みたが

る酔すい狂きよ者うものなどほとんどいないのだ

もっともラグナ自身も周囲の人間の様子に気を配っている余よ裕ゆうはあまりなかった

今は使われていないは搬んに入ゆう口からカグツチに侵しん入にゆうしたのが二日前それからずっと人の通ら

ない裏道や廃はい棄きされたエリアを通ってきた図はかったわけでもないのに延々と歩かざるを得なか

った悪路に正直疲ひ労ろうが募つのっている

帰りはもっとまともな道を通ろうそう決めていた

「にしても下層にしちゃ賑にぎやかな街だな」

辺りを見回しラグナはぼやくように率そつ直ちよくな感想を口にした

オリエントタウンは無計画にとにかく乱雑に家を建て並べたことがよくわかる入り組んだ

造りをしていた道は狭くやたらに折れ曲がり家々は今にも密着しそうに身を寄せ合って建

28

「うhelliphellipう」

微かすかに震ふるえる声で呻き少女はゆっくり顔を上げる

ラグナを見上げたフードの中におそらく誰もが想像するであろう少女の顔はなかった

あるのは黒い暗い闇やみを詰め込んだような陰かげその中でへなりと下がった赤い目らしき丸と

白い歯の並ぶ下を向いた三日月形の口だけが浮かんでいる

ぴくぴくと痙けい攣れんするようにフードについている三角の耳が震えた

人間ではないけれど獣のような尻尾や耳を持つ獣じゆ人うじんとも様子が

「もしかしてhelliphellipカカ族か」

このような奇きみ妙ような風ふう貌ぼうの生き物をラグナは過去にも一度見たことがあった確か剣けんの師しし匠よう

を訪ねてきたはずだ同じような黒い顔に実にシンプルな顔のパーツ目の前にいる少女とそ

のとき目にしたカカ族の女は明らかに別人だがこのと特くち徴よう的な容

は他にあるまい

もっとも『カカ族』という名めい称しようを知っているだけでつまりどういう一族なのかをラグナは

知らないのだが

さてこの少女をどうしたものか

わらずに引き返すべきか見なかったことにして先へ

進むか

咄とつ嗟さのことに決めあぐねていると顔だけを起こしたカカ族の少女はその弱り切った様から

は想像もできない俊しゆ敏んびんさで突如ラグナの足にしがみついた

「うおぁっななんだ」

第一章 Stratum city 階層都市31

ち歩いていた保存食も底をつき昨日の夜からなにも食べていないのだそろそろいい加減

限界が近い

いくら下層街でもこの雰ふん囲い気きなら飲食店くらいいくつかあるだろうそう思って雑多な看

板からそれらしい名前を探しているとhelliphellip

なにかやわらかいものを踏ふんだ

「ブニャッ」

同時になにかの鳴き声が足元から

こえた

「げっ」

犬か猫ねこでも踏みつけたかと思ってラグナは慌あわてて足をどける

が見下ろしたそれは予想に反してずいぶんと大きなものだった

というより人だったり両よう腕うで両足を地べたに投げ出し力なく倒れ伏ふしている少女だ全身

をすっぽりと覆おおうフードつきのローブから長い三つ編みの髪とかつ色しよくの肌はだの足が覗のぞき見えてい

るhellip

hellipいや

「なhelliphellipなんだテメェ」

警けい戒かいというより疑問一色の声で問いかけるラグナの視界でひょろりと弱々しく細長い尻しつ尾ぽ

が揺ゆれた

尻尾はその倒れた少女から生えていた

30

「はぁ

おおいどうした大だい丈じよ夫うぶか」

あまりにも切せつ羽ぱ詰つまった声を出すものだからさすがに少し心配になった持ち上げていた足

を下ろして陰を詰めこんだような顔を覗きこむ

まるで黒いお面のような顔は目も口も情けなく下げてラグナを見上げ今にも気を失いそう

な弱さで訴えた

「おhelliphellipお腹なかが空すいたhelliphellipニャス」

黄色いクロスがかけられた丸いテーブルの上にいくつもの皿が並んでいた

揚あげた鶏とり肉にくに薬味だれをたっぷりかけたもの肉団子と色いろ鮮あざやかな野菜の甘あま酢ずあん炒いため四

角く切り分けた豚ぶた肉にくを甘あま辛からく味付けしたこってりとした煮に物ものに山と盛られた炒め飯牛肉と

野菜を濃い味の味み噌そで炒めたもの細切りにした野菜を薄うすい皮で包んだパリパリの春巻きに

挽ひいた肉を包んで蒸むしたふかふかの饅まん頭じゆhellipうhellip

白い湯気と共に胃いぶ袋くろを震わせずにはおかない匂においを放つ数々の料理を三角耳のついたフー

ドの奇妙な少女は椅い子すからずり落ちそうなほど身を乗り出して忙いそがしく口に掻かき込んでいた

「はぐはぐはぐニャスはぐはぐはぐはぐはぐニャスはぐはぐ」

料理を頰ほお張ばる音なのか箸はしをしゃぶる音なのか空気の抜けるような声が絶えず漏もれていた

第一章 Stratum city 階層都市33

「うぅぅニャhelliphellipた助けてhelliphellipニャス」

驚おどろいて足を持ち上げ振ふり払はらおうとしたラグナの足に両腕を絡めてぶら下がり三角耳に尻尾

を生やした少女はあわれっぽく訴うつたえる

しがみつく腕うでをほどこうとラグナは足を大きく上下に振ふりまくるが少女の腕がどういう

わけか一向に離れない

「くっこの離しやがれ

なんなんだよテメェは」

「離さないニャス絶対に離さないニャスぅhelliphellip助けてくれないとこのままオマエの足を食う

ニャスよぉぉhelliphellip」

声だけは弱々しくだが腕は言葉に反して力強くラグナの足を摑つかんで離さない

この騒さわぎでも周囲の人間は奇き怪かいなものでも見るような視線を一いつしゆんくれるだけでそれ以上

わろうとせず通り過ぎて行く

面倒なトラブルに巻き込まれる心配はなかったが少なくとも親切な通行人の手助けは見込

めなさそうだった

何度目かでいい加減に諦あきらめるラグナは足を中ちゆ途うと半はん端ぱに持ち上げたまま縋すがり崩くずれるカカ族

の少女を憔しよ悴うすいの表情で見下ろした

「待て待て待て足を食うなてか意味わかんねぇよ助けるってなんだよ」

「うぅぅhelliphellipよhelliphellipよくぞ

いてくれたニャスタオは今とってもピンチなのネもうhelliphellip

もう限界ニャス」

32

た中皿いっぱいに盛ってあったはずの春巻きはいつの間にか最後のひとつになっていた

「こんなにうまいご飯を

ってくれるなんて白い人はいい人ニャスタオはとぉ〜っても感

謝してるのニャス」

両腕を大きく振り回して少女は喜びの度合いを示そうとするその手は指先まですっぽり

と袖そでの中に隠かくれていて猫の前脚を模したように大きく丸くなっていた

ラグナは春巻きを飲み込んでから尋たずねる

「タオってのはお前の名前か」

「ニャス

タオカカニャス」

大きく頷うなずくと尻尾を持つカカ族の少女タオカカはもう一方の手に持ったままだった肉饅

頭をまた一口で頰張り飲み込こんだ

「タオは村を出て勇ましく旅立ったんニャスがhelliphellipすっかりお腹が空いて動けなくなってたの

ニャあのときいい人が助けてくれなかったらタオは今ごろ干からびてカカの干物になって

たニャスこの『ごおん』は忘れないニャスよ」

勝手に身の上話を始めながらタオカカは味噌炒めの皿を抱かかえて残っていた分を全すべて口の中

に流し込んでしまう

まだそれ食ってなかったんだけどとは言えずラグナは渋じゆ面うめんでその様を見守った仕方な

く肉饅頭をひとつ確保すると呆れを込めてため息に肩かたを落とす

「はいはいなにがご恩だよどうせ飯食ったら忘れるだろお前」

第一章 Stratum city 階層都市35

さっきまで力なく下がっていた目も今はまん丸で口も上向きの三日月形となっている

その様を横目に呆あきれ顔でながめながら向かいの席に座っていたラグナは揚げた鶏肉を口に運

んだ分厚い衣ころもがカリカリとしていてうまい久しぶりに直じか火びで炙あぶっただけでない手の込ん

だ食事だった

「helliphellipうまいか」

料理は凄すさまじい速度で減っていく奇妙な少女が嬉きき々として大量のメニューを注文し始めた

ときはラグナはとてもそんなに食べきれないと青ざめたがそんな心配は無用だったようだ

むしろ今となっては支し払はらいのほうがよほど心配だ

先だけ白くなっている尻尾をふりふりと上じよ機うきげんに揺らす奇妙な少女はふかふかの饅頭を両

手に摑つかんで顔を上げた

「うまいニャス

あれもこれもそれもぜ〜んぶうまうまニャス」

「そうかそうかそらよかったよはぁhelliphellip」

こうも屈くつ託たくなく当然のように貪むさぼられるとこいつの頭に遠えん慮りよという言葉はないのかだとか

そもそもどうして自分が見ず知らずの正体不明な少女に食事をおごっているのかだとかなぜ手

を引かれるままに大人しくこの店まで来てしまったのかだとか尽つきることなく浮うかんでくる

疑問もどうでもよくなってくる

少女はうまそうに肉饅頭を一口で頰張る

あっという間に飲み込む様に思わず苦くし笑ようを漏らしてラグナは春巻きをひとつ箸で取り上げ

34

だが現在はどちらかというと統制機構の手に負えない凶きよ悪うあ犯くはんや行ゆく方えの知れないとう

亡ぼう犯など

にかけられた多額の賞金を得て日ひ銭ぜにを稼ぐ者のことを表している

それが全てというわけではないが多くはまともな

につけなかった荒あらくれが暴力手段で稼

げる口として選ぶ道だ

女の咎追いが珍めずらしいわけではないがこれほど無防

でき緊んち張よう感のない咎追いはラグナは見

たことがなかった

「そうニャス今日からなったニャス」

「今日からかよ」

「そんでこいつを摑まえるのネ」

なぜだか誇ほこらしげにタオカカは皺を伸ばした紙をラグナに差し出した

ラグナは肉団子を野菜と一いつ緒しよに口の中で嚙かみ砕くだきながらそれを受け取る街角などに貼はら

れているような指名手配書だったあまりお目にかかれない気前のいい賞金額と共にひどく

不細工な男の似顔絵が描えがかれている

賞金首の名前はラグナザブラッドエッジ

「ぶはほっ

その名前を見た途と端たんラグナは盛せい大だいに肉団子と野菜を咀そし嚼やくしたものを噴ふき出した

「ぶにゃにゃ

いきなりご飯噴き出すなんていい人ばっちいニャもったいないニャスよ」

横で抗こう議ぎしながら最後の肉饅頭を頰張るタオカカの声も耳に入らないラグナはまじまじ

第一章 Stratum city 階層都市37

「忘れないニャス」

突とつ然ぜんピンと尻尾を真まっ直すぐに立ててタオカカはずいと身を乗り出すとテーブルの上からラ

グナを見上げた瞳どう孔こうのない丸い目ときばを並べた三日月の口がお面のようで不気味だ不気味

であるはずなのにどうしてか見つめられると愛あい嬌きようを感じる

「カカは義ぎ理り堅がたい一族ニャス受けた恩は忘れないのネいつかタオが大金持ちになったら

今度はタオがいい人にご飯を

ってやるニャス」

「大金持ちってhelliphellipお前な腹減りで行き倒だおれてた奴やつがなに言ってんだアテもねえくせに」

「ぬっふふふアテならあるニャスよ」

言ってひょいと肉団子を三つ箸に刺さして口に放ほうるとタオカカは椅子までずりずりと体を下

げて服の中からなにかを取り出した

くしゃくしゃになった一枚の紙だタオカカはそれを丸い手でテーブルの上に広げて皺しわを伸の

ばす

「タオは咎とが追おいニャス悪い奴をとっちめてたくさんお金をもらうのネ」

「咎追いだ」

怪けげんそうにラグナは眉まゆを寄せた

咎追いとはいわば賞金稼かせぎだ

元は大量の魔ま素そによって生態系が乱れ大量の新種生物が発生した

にそれらを討とう伐ばつする

べく統制機構が武装を許可した者たちのことを指した

36

「うニャいいニャスよいい人はタオのおんじんニャスからねどーんと任せておくといい

ニャス」

そう言ってタオカカはニシシと笑うと綺き麗れいに舐めた皿をドンとテーブルに置いた

その目の前に

「お待たせしました〜」

若いウエイトレスが新しくいくつもの皿を並べた

肉味噌ののっためん

とパリパリに揚がった

にたっぷりの野菜が入ったあんをかけたもの

焼き豚ぶたをスライスしたものの盛り合わせエビのすり身やら豚のひき肉と香こう味み野菜やらをもっ

ちりとした皮でくるんだ無数の蒸し物

できたての遠えん慮りよ容よう赦しやのない湯気が豊かな香かおりと一緒に天てん井じようへ上がる

「helliphellipは」

頼たのんだ覚えはないそう抗議しようとして気がついた

あのときhelliphellipラグナが自分の手配書を見ていたときだあのときタオカカが一口で食べた肉

饅頭が皿に残っていた料理の最後だった

その直後そういえばタオカカがメニューへ手を伸ばしていたような気がする

「ひゃほ〜ぅうまそうニャス

秘密の抜け道は危ないところなのネいい人もお腹いっぱ

いにしておかないとお腹空いちゃうニャスよ〜」

悪びれるどころか嬉しそうに蒸し物を引き寄せるタオカカの手をラグナは思い切り摑んだ

第一章 Stratum city 階層都市39

と手にした手配書を見る細かく手が震えた

(なhelliphellipなんっだよこの似顔絵

いくらなんでも似てなさすぎだろ

そもそもよくわかっ

てねぇなら似顔絵なんか載のせんなよ俺がこういう顔だみたいに広めてんじゃねぇよ

まさかこれがカグツチの街中にベタベタ貼ってあるのではないだろうかだとしたら憂ゆう鬱うつだ

この顔が『ラグナザブラッドエッジ』の顔だと思われていることもだがこの額で手配

書が出回っているとなるとずいぶんな数の咎追いがラグナを探しているはずだそういう咎追

いはこのカグツチにも多くたむろしているだろう

(普ふ通つうに街中通ってくのはまずいかhelliphellip)

あの青と白の制服連中に見つかるのも厄やつ介かいだが咎追いに見つかるのも厄介だそれこそこ

っちの都合などお構いなしに街中だろうがどこだろうが構わず『仕事』に取り掛かるに

ない

「helliphellipなあタオカカだっけかお前カグツチの上のほうに行く抜ぬけ道とか知らねぇか」

くしゃくしゃの手配書を返しながらラグナは心持ち身を屈かがめて声を低めたもしあるなら

多少悪路であっても面めん倒どう事ごとを引き起こすよりはずっといい

タオカカは甘酢あんだけが残った肉団子の大皿を舐なめながら答える

「おう秘密の抜け道ネ知ってるニャスよ」

「本当か

そりゃいいなあ飯

ってやる代わりにその抜け道まで案内してくんねぇ

か」

38

の腕うでを摑むとウエイトレスの手を強く払った

荷物でも担かつぐようにタオカカを肩に抱だき上げて弾はじかれたように店を飛び出す

「うニャニャッ

タオのご飯

まだ食べてないニャスよ」

「うるせぇ

それどころじゃねえんだよ」

肩かた口ぐちで

痛な声をあげ追いすがるように手を伸のばすタオカカへラグナは焦あせりのままに声を

荒げた

オリエントタウンの大通りへ出ると人波を掻かき分けて持てるき脚やく力りよくの限界にいど

いで走る

「待て

誰だれか捕まえて食いに

げだよ

後方からウエイトレスの金切り声が追いかけてくる

ぎょっとすることにウエイトレスの足はラグナに負けていなかったしゆ

念うねんのせいかもしれな

いラ

グナは足を動かしながら何度も悪態をついたまさかカグツチにやってきて最初に引き起

こす騒そう動どうが食い

げだとはこの街に上がってきたときには思いもしなかった

担がれたタオカカはしょんぼりと尻しつ尾ぽを垂らしてまだ諦あきらめ切れないのか後方へ向けて空を

掻いていた

「うう〜っタオのご飯がぁhelliphellip」

「いいから抜け道の場所を教えろ

店の奴に摑まってミンチにされてぇのか」

「みんち」

第一章 Stratum city 階層都市41

いのあまり腰こしが浮く

「おおまっなに勝手に追加してんだよ

「ニャ

いい人もうお腹いっぱいニャス

ならタオが全部helliphellip」

「ちげぇよ

こんな山ほど注文されていくらなんでも払はらえるか

俺はそんなに金持って

ねぇんだよ

そもそもラグナは仕事を持っていない時折咎追いの真ま似ねごとや日ひ雇やといの仕事で旅費を稼い

だりもするがそんなものは一時しのぎだ金がなくてまともな宿さえ取れないというのに

さっきまでの注文に加えてまだ追加がくるなんてとても財さい布ふの中身が足りると思えない

息巻くラグナの肩に手を置く者があった

ラグナは一度うるせぇとそれを払い落すだが手はすぐにもう一度ラグナの肩を叩たたき手

の主が低く

後から問うた

「お客さん

今helliphellip金持ってないって」

「helliphellipあ」

言われラグナが振ふり向いた先に立っていたのはラグナよりずっと

の低いウエイトレス

だったにこやかに微笑ほほえんでいるがその目はどこか殺気じみている

「金持ってないって」

ウエイトレスはもう一度問う

その直後ラグナはまるで事態がわかっておらず蒸し物をパクパク口に運んでいたタオカカ

40

2199年12月30日||13時35分

灰色の雲に閉とざされた空を

景に一そう

の船が港に到とう着ちやくした

船といっても海を渡わたる船ではない渡るのは空だ

膨れた腹部に人間や機材といった貨物を詰つめて運び左右に伸びた翼つばさに魔素を取りこみ飛行

する魔操船

当然空飛ぶ魔操船が停てい泊はくする港も相応の造りをしている

第十三階層都市カグツチ第五番ポート他に比べて小さく目立たない造りになっている

そこはある特定の目的に多く使われるポートだった

身を寄せるように入港した暗色の魔操船の重々しい稼か働どう音おんが止まりハッチが開いて細身の

階段が下方へ伸びる

銃じゆうを肩かたに下げた青と白の制服

士が数名

りてきて慌あわただしく持ち場につき無線機で

なにやら報告を交かわす

それから遅れることしばしポートの平たい地面に向かう階段に黒い革かわぐつの足がかけられ

た続いてひょいと細身を覗のぞかせるように現れたのは黒いスーツに身を包んだ

の高い男だ

第一章 Stratum city 階層都市43

「肉だよ肉

さっき並んでた料理になりたくなきゃさっさと教えろ」

なにも本気で店員が自分たちをミンチにすると思って言ったわけではないが遅れて意味を

理解したタオカカは真に受けたらしいびくりと尻尾が飛び上がって警けい戒かいするように太く膨ふく

れる

「お肉にされたらお肉が食べられなくなっちゃうニャス

それはいやニャス」

肩の上で器用に身を捻ひねってラグナの前に着地するとタオカカは獣けもののように両手を地面につ

いて走り出す

「いい人こっちニャス」

「よしわかった」

タオカカが飛び込むようにして細い路地に入るい一つしゆん反応が遅おくれたもののラグナも空の籠かご

をひっくり返しながらそれに続いた

ネオンの看板から遠くなりぐっと辺りが薄うす暗ぐらくなる

走りながらラグナはげんなりと自じちようするように思った

今日の食い

げの分明日から自分にかけられている賞金が増額するかもしれないなhelliphellipと

42

青のブーツで雨水を

ね上げながらハザマのいる管理小屋の前まで行くと軽く息を整えて

を正す

空色の瞳ひとみは凜りんとしており生き真ま面じ目めな表情をしていた

「お待たせしてしまってすみませんでも一声かけてくださればよろしかったのにhelliphellipまだ

中にいらっしゃるのかと思って探しておりました」

「おやおやそれはそれはお手数をおかけしましたツバキヤヨイ少しよ尉うい」

その瞳が示す通りどこまでも生真面目に話す女性をツバキと呼んでハザマは口の端はしを深く

吊つり上げ笑えみを浮うかべた

ツバキヤヨイ少尉彼女はハザマのように諜報部の所属ではなく世界虚空情報統制機構

武装魔ま術じゆ師つし第四師団の所属だった

世界虚空情報統制機構とは国家というがい

念ねんのなくなった現世界においてその代役を担になう重

大にして巨きよ大だいな機

だ帝みかどと呼ばれる絶対的な決定権を持つ存在を頂点に掲かかげ世界中の施し政せい

司法軍事あらゆる社会的基き盤ばんを管理し運営している

それだけに設けられている部署は膨ぼう大だいであり役割の異なる部署が共にひとつの任務に当た

ることはひん

繁ぱんにあることではない

だがツバキとハザマはちが

う部署でありながらとある任務のためにふたりでカグツチへとや

ってきていた

「いやぁしかし生あい憎にくの天気ですねぇこの雨の中広いカグツチでひとりの男を捜そう索さくすると

第一章 Stratum city 階層都市45

った

緑の髪かみにのせた黒い帽ぼう子しを指で押さえて男は尖とがった顎あごを上向かせ空を仰あおぐ目ま深ぶかにかぶっ

た帽子のせいで目元は見えないが薄うすいく唇ちびるは不満そうにへの字に歪ゆがんでいた

「あらま雨ですか」

空一面を埋うめ尽つくすように広がる灰色の雲からは静かな雨が

っていた

もうずいぶん前から

り続いていたようで狭せまい五番ポートはどこもかしこもすっかり濡ぬれ

ている雲に動きもないようだししばらくはこのまま

り続けるだろう

やれやれとうんざりしたようにため息をつくと男は足早に屋根のある場所へと移動した

黒スーツの男は世界虚こ空くう情報統制機構||多くは統制機構とり略やく称しようで呼ぶ機

のち諜よう報ほう部に

在ざい籍せきしている名はハザマ階級は大たい尉い

彼が乗ってきたこの魔操船はその諜報部の名前で使用された船だ

この五番ポートはそういう統制機構の中でも公おおやけにできない任務や用件のときに多く利用さ

れるいわば人目を避さけるためのポートだった

「ハザマ大尉

外にいらしたのですね」

魔操船の階段から女の声がかかりスーツについた水すい滴てきを払っていたハザマは顔を上げた

青と白の制服にそろいのポンチョを羽織った若い女性が足早に階段を駆け下りてきた青の

ベレー帽ぼうをかぶっておりそこから腰をも越こすほど長く伸のばされた鮮やかなカメリアレッド

の髪が流れている

44

視線を上げればここからでも高山の頂上から突つき出るようにそびえる美しく壮そう麗れいな支部の

が見られたただ今日は悪天候のため雨のカーテンが視界を煙けむらせる

霞かすむ支部を見上げてツバキはわずかに眉まゆを寄せた

「helliphellipなぜキサラギ少佐はカグツチなどに」

それはジンのことを知る者なら誰もが抱くような疑問だった

第四師団団長ジンキサラギは

常に冷静な人物だメリットとデメリットを十分分ぶん析せきした

上で行動する思し慮りよ深ぶかさを持っているしなにより突然統制機構に

を向けて己の立場を危あやうく

させるような愚ぐち直よくなタイプではない

こんなことは実に『彼らしくない』行いだ

思い悩なやむようなツバキの

にハザマは少し驚おどろいたように「おや」と言った

「これは意外ですねツバキヤヨイ嬢じよう貴女あなた

ほどの聡そう明めいで優ゆう秀しゆうな方がおわかりにならな

い」

口元に笑みを刻んで問うハザマの試ためすような口調にツバキは小さく胸中がざわつくのを感

じたいや

味みな言い方をする男だ

ツバキはハザマという男をよくは知らないだから彼がどういうつもりでこういった物言い

をするのか

しもつかない

だがこの一言だけで黒いスーツに身を包んだ彼を好ましくないと判断する程度には気に障さわ

る語調だった

第一章 Stratum city 階層都市47

なると中々骨が折れそうです」

また帽子に手をやって雨を

りこぼす曇どん天てんを見上げハザマが今度はどこか愉ゆ快かいそうに言う

彼らの任務は人探しだった誰を探すのかといえば

「それでもなんとしてもキサラギ少しよ佐うさを探しませんとhelliphellip」

ツバキは視線を足元に落とし己おのれに言い

かせるように呟つぶやく

ジンキサラギ少佐それがツバキとハザマが探している男の名前だった

武装魔術師第四師団の団長でありツバキにとっては直属の上司だ彼の秘書官として側そばに

仕え支えてきた

その彼が数日前突とつ然ぜん統制機構の本部から

を消した

任務でもなく届け出もないこれは統制機構において重大な規律い反はんだ

一師団を預かる団長が独断行こう為いにより行ゆく方え不明などという事態は前代未みもんだ部下や他師

団に影えい響きようを与あたえるからと今のところこの一件は公になっていない

だが現状がどこからか漏えいする可能性もあるその前になんとしても連れ戻もどさなければと

ごく秘ひ任務を命じられたのがハザマであり彼が協力者に選んだのがジンキサラギの秘書官で

あるツバキだった

冷たい雨が空気を冷やすそのせいだろうか五番ポートは金属のにおいがたちこめていた

濡れた灰色の階段の向こうに上層階らしい整理された街並みがうかがえる奥へ進んでいくつか

階層を上がれば最上層である世界虚空情報統制機構カグツチ支部だ

46

だがハザマは欠片かけら

も気にした様子なくむしろそれこそ子供の反はん抗こう的な物言いに噴ふき出すよ

うに軽く笑った

「あららそっちでしたかこれは失礼いたしましたツバキヤヨイ少尉」

帽子に手をやりわずかに持ち上げて会えし釈やくしてみせるその間もずっと彼の細い首はくつく

つと喉のどを鳴らすような笑いに震ふるえていた

「少佐がなにをお考えなのかなんて我々にわかるはずもありませんよそれこそご本人を見

つけて直接お尋たずねになってはいかがです」

そうできないから疑問なのだと苦く胸中で思ったもののツバキは余計な言葉を奥にしまい

こんだ今必要なのは疑問でも感情でもないそう自分に言い

かせる

「helliphellip了りよ解うかいしました大尉」

ツバキが生き真ま面じ目めに答えるとハザマはもうひとつ笑ってから切り出した

「さていつまでもおしゃべりしていても仕方ありませんしそろそろお仕事を始めるとし

ますか」

仕事つまりはジンキサラギの捜索だ

ツバキはハザマへのけん

悪お感ではなく任務への使命感に表情を引き締しめる

ハザマは雨に濡れたカグツチの街並みを見やりながらにんまりと唇を引いて言葉を続けた

「まず確かく認にんしておきましょう我々の任務はジンキサラギ少佐を捕ほ獲かくし本部へ強制帰き還かんさ

せることただし少佐の失踪の件は公にされていませんからカグツチの

士たちへは内密に

第一章 Stratum city 階層都市49

小波のような不快感を飲み込んでツバキは

士の顔を取り繕つくろいせ筋すじを伸ばすたとえ好ま

しくなくてもツバキは少尉でハザマは大尉上官だ

「申し訳ありません大尉私にはhelliphellip」

「貴女からの報告にあったではありませんかキサラギ少佐は例の『死神』に

する報告を受

けた翌日に

を消したのだと」

ハザマは両手を軽く広げてみせる

さっきのからかうような物言いのせいだろうかそんな仕草でさえツバキにはどこか

に映る

「報告の中には『死神』つまり指名手配中のラグナザブラッドエッジがカグツチに向か

っているらしいという情報もあったそのうえで少佐がカグツチに向かったのならそれはも

う『死神』を追っての行動だとしか考えられないでしょう」

統制機構を出たジンの行き先がカグツチであるとの情報を持ってきたのはハザマだった

うっかりそんな情報を摑つかんでしまったがためにこんな辺へん鄙ぴな場所への任務を命じられてしま

ったと愚ぐ痴ちめいたことをツバキは魔操船の中で散々

かされていた

「恐おそれながらハザマ大尉それは私にもわかります私が疑問なのはなぜ少佐が統制機構を

飛び出してまで『死神』を追わなければならなかったかです」

いささかむっとしてツバキは言う言ってからすぐ無礼が過ぎたかと危きぐが過よぎった

にあるまじき子供じみた態度だったかもしれない

48

てもらえますか」

「別件ですか」

戸と惑まどうように尋ねたツバキの質問に対しハザマは肩をすくめるような苦くし笑ようだけを返し具

体的な言葉は告げなかった

ハザマの所属は諜報部だ他部署へ言えぬ用事も多かろう見えない目的に少々の怪けげん

さを

感じながらもツバキは配はい慮りよのつもりでそれ以上尋ねるのをやめておいた

「わかりましたでは下層のhelliphellipオリエントタウンの辺りから調査してみます」

「そうですねあそこはカグツチでも一番広いエリアですし身を隠かくすにはうってつけですか

らいいと思いますよ」

うんうんと適当に頷うなずきながらハザマは一歩歩み寄るとわざわざ腰こしを折って下方から覗のぞき込

むようにツバキを見た

帽子のつばで瞳が見えないけれど絡からみつくような視線が確かにこちらを捉とらえているのがわ

かる

子供に言い

かせでもするようにハザマは人差し指を一本立てた

「ただひとつ気を付けてくださいね治安が行き届いていない場所はキサラギ少佐が身を隠

している可能性も高いですが同時にラグナザブラッドエッジがうろついている可能性も

あります万が一おふたりが鉢はち合あわせて戦せん闘とうなんてことになったらもう私たちには手も足も

出せませんから」

第一章 Stratum city 階層都市51

お願いしますよ部外者はもってのほかです」

「はい」

「それから現在カグツチにはラグナザブラッドエッジが潜せん伏ぷくしているとみられますそ

のためD警報が発令されていますのでそのつもりで」

D警報とはつまり統制機構による特別警けい戒かいが行われているという意味だそのためカグツ

チの住民でない者や統制機構とは

係のない他機

がこの都市でなにがしかの活動を行うこ

とを禁止している

「D警報に抵てい触しよくする者と接触した場合はカグツチの支部に連れん絡らくを取ればよろしいのでしょう

かそれともこちらで対処したほうが」

しゃんと

筋を伸ばしハザマを見み据すえて問うツバキの様はどこにでもいる一

士と片付け

るにはいささか毅き然ぜんとしすぎる品をたたえていた

それもそのはずだ彼女は統制機構を創設当初から支え幾いく人にんも重役をはい出しゆつしてきた十二宗家

のひとつヤヨイ家本家の娘むすめなのだから

だがハザマはツバキの纏まとう品もそこからくるどこまでも真面目な性しよ分うぶんもなにもかもが面めん

倒どうくさいと言わんばかりに口元を歪めると実に雑に答えた

「あー適当でいいですよお任せします」

「はhelliphellipはい」

「じゃあ私はちょっと支部に別件の用事があるんで先に下層のほうから捜索を始めておい

50

ハザマの気さくさに引きずられることなくツバキはあくまで部下として返事をすると堅かた

苦くるしく

筋を正した

「それでは大たい尉い私は下層を見て回ってきます」

「ええよろしくお願いしますよ今のカグツチは物ぶつ騒そうですからお気をつけて」

「はい失礼いたします」

腰を折って一礼しツバキは管理小屋の狭せまい軒のき先さきから雨の中へと駆かけ出した小さく水音を

はねさせながらポートから街中へと向かう階段を上がっていく

腰までを覆おおう青いポンチョがカメリアレッドの髪かみと共に躍おどり去っていくのをハザマは管理

小屋の壁かべに寄りかかって見送っていた

やがてひ翻るがえるポンチョの青もツバキが

ね上げる水の音も完全に雨の向こうに消えるとゆっ

くりと身を起こす

「本当にお気をつけて」

低く声を喉のど元もとで濁にごらせるように呟くとハザマもまた雨の中へと悠ゆうゆ々うと踏ふみ出した

第一章 Stratum city 階層都市53

「そうhelliphellipですね」

ツバキは身を引くように俯うつむいて苦々しく答えた

ジンは統制機構でも並ぶ者なしとまで言われる剣けんの使い手だそのうえ約百年前の黒き獣けものと

の戦争『暗黒大戦』で使われたとされている事象兵器

アークエネミー氷ひよ剣うけんユキアネサを所持している

そして『死神』ラグナザブラッドエッジはこれまで数々の統制機構支部をたったひとり

で壊かい滅めつさせてきた相応の力を持った人物

このふたりがもしも刃やいばを交えることになればツバキにもハザマにも止めることはできない

その最大の理由をハザマがなぜか陽気に言い放つ

「いやはやなにせ私も貴女も戦闘は専門外いざ荒あら事ごととなったらからきしですからねぇ」

ツバキは統制機構の士官学校を出ているため最低限の戦闘訓練は経験しているだがそれ

も護身術程度のことだ卒業後はジンの秘書官として日々書類や来客の相手ばかりしてきた

そんな状態で戦闘技術の向上が見込めるわけもない

一方のハザマも自身で言う通りち諜よう報ほう活動にこそスキルはあれど武力をもって事態に当たる

ことは不得手だった

ハザマは武具の似合わない生白い手でひらりと宙を払はらってにんまりとく唇ちびるを引く

「まお互たがい無理せずいきましょう我々のお仕事はキサラギ少佐を連れ帰ることですから

そこをお忘れなく」

「承知いたしました」

52

の声だった

「しhelliphellip失礼いたします」

答える声が震えたドアノブを摑む手はもっと震えていた

転んだりしたらどうしようああどんな顔をしていたらいいだろう顔が赤くなってしま

いそうでそれだけは必死に堪こらえて平静を取り繕って

ツバキは部屋の中へと入る

最初に目に入ったのは机に向かってペンを走らせるひとりの男性の

だった

後にある窓から入り込んだ日の光が掠かすめて彼の美しい金色の髪を煌きらめかせていた長い

睫まつ毛げの向こうで情感薄うすく書面を見下ろしている瞳ひとみは離はなれた部屋の入り口からでもわかる澄す

んだ緑色をしているはずだ

部屋には彼以外誰だれもいなかった

を丁てい寧ねいに閉めると室内にはツバキとふたりきりだ

何事か書き終わったらしく机に向かっていた彼はどこかおっくうそうに顔を上げるそれ

からその目を驚おどろきに見開いた

「ツバキhelliphellip」

呼んでくれた声は

の外で

いた義務的な声とはちが

っていた

感情の温度が灯ともった声こわ色いろは表情と同じように驚いた風でそのせいかさっきより少しだけ上うわ

ずったように音が高い

「どうしてお前がここにhelliphellip」

第一章 Stratum city 階層都市55

helliphellipそれはほんの数年前のけれどかけがえのない数年をさ遡かのぼった

ある日のことだった

世界虚こ空くう情報統制機構統合本部

真まっ直すぐに伸のびる白タイルの床ゆかをツバキは緊きん張ちようの面おも持もちで歩いていた

初めて袖そでを通してまだ日数のたっていない青と白の統制機構

士の制服はまだ体に馴な染じんだ

とは言いがたくて頭に載のせたつばのない帽ぼう子しもコツコツと床を叩たたくブーツもそつなく着

られているか心配で仕方ない

胸に書類のファイルを抱えてこれで何度目になるかわからないけれど最後にもう一度長く

伸ばした髪を指先で整えて

それからツバキは目的地であったとびらを控ひかえ目にノックした

「||入れ」

一いつ拍ぱくの間をおいて

の向こうから声が返ってくる

そのしゆ間んかんツバキの心臓がドキリと大きく

ねた

感情の遠い義務的な声けれどわずかに少年らしい響ひびきの残った声はツバキがよく知る人

54

十二宗家本家の出の者が同様に宗家本家の出であるジンの秘書に着くという事例は稀まれだ

その辺りからツバキの無茶を

したのだろうジンは呆あきれたように苦笑する

思わずツバキは震ふるえる吐と息いきを漏もらした久しぶりに見たジンの笑顔だった

「秘書が来るとは

いていたがまさかお前だったとはなhelliphellipよろしくツバキヤヨイ少

尉」そ

う言ってジンは白い手てぶ袋くろをはめた手を差し出す

ツバキはファイルを小こ脇わきに抱えると見上げてくる綺き麗れいな緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し

ながら差し出された手を握にぎった

この日この時からツバキの師団長秘書としての日々が始まった

を追いかけるばかりだった士官学校での後こうはい時代とは

うとなりに

側そばに立ち

務を支える

時間が始まったのだった

2199年12月30日||17時30分

カグツチの下層へ

りていきながらツバキは注意深く周囲へ視線を向けていた

もう少し先へ行けばオリエントタウンと呼ばれるエリアに入るはずだそこはカグツチの中

第一章 Stratum city 階層都市57

仕事中らしからぬ砕くだけた物もの腰ごしにツバキは強こわ張ばっていた頰ほおを緩ゆるめたすとんと緊張が抜ぬける

「書類は届いているはずですよお読みになっていないんですか」

ツバキはファイルを抱えて机の前まで行くといぶかしげな彼へ敬礼し

筋を伸ばした

「本日付けで武装魔ま術じゆ師つし第四師団団長ジンキサラギ少しよ佐うさの秘書官に任命されましたツバ

キヤヨイ少しよ尉ういであります少佐よろしくお願いいたします」

型通りだけれど昨晩から部屋で何度も練習した言葉だ

ミスなく言えたことにツバキがほっとしているとジンが驚おどろきに持ち上げていた眉まゆをわずか

に怪けげんそうに寄せた

「少しよ尉うい」

問われた理由はツバキにもよくわかる

ツバキは世界虚こ空くう情報統制機構において貴族的地位にある十二宗家の生まれだ十二宗家の

者は統制機構の士官学校卒業後最低でも中ちゆ尉ういの階級を与あたえられる

ツバキも例外ではなく卒業直後は中尉であったそれがなぜ現在少尉なのかというと

重大な理由がある

「それはその」

ツバキは言いにくそうに口ごもった

本来別の配属だったところをどうしてもジンの秘書官になりたいと粘ねばりその要望を通す代

わりに

格となったとは彼の前ではとても言えない

56

かしこも濡れていた

通り過ぎる建物細い横道の向こう物もの陰かげすれ

う人ツバキは視界に映るすべてに神経

を向ける

自然と歩調が速くなるのは募つのる焦あせりゆえだ知らず知らずのうちに手はきつく握られていた

(キサラギ少佐helliphellip)

もう何度心の内で呼びかけたかわからない

唇を固く引き結びまるで縋すがるように視線を左右へ走らせるその表情はただ行方ゆくえ

不明の上

官を探しているだけには留とどまらない深い感情の揺ゆれがあった

(どこにいるんですかhelliphellipジン兄様helliphellip)

ツバキはジンキサラギの秘書官だだがそれ以前からジンはツバキにとって特別な人だ

った

ツバキが十二宗家ヤヨイ家の娘むすめであるならジンは同じく十二宗家キサラギ家の子だ互い

に幼いころから知っていた幼いころから顔を合わせ言葉を交かわし時には子供らしく遊ん

だりもした

ツバキが統制機構の

士を目指して士官学校に入ったのも先に入学し将来は師団長を期待

されていたジンの後を追いかけたかったからだ

ジンは勉強も武術もなんでもできたけれどツバキは運動が苦手だっただからせめて勉強

だけは追いつこうと必死に学んだ学生時代はジンが会長を務める生徒会で共に働いたことも

第一章 Stratum city 階層都市59

でも一ひときわ広く人口の密集したエリアだと

いている

人を探すには不向きな場所だだがだからこそジンが足を向けた可能性はあるとツバキは

考えていた

そこならば容易に人ごみに紛まぎれることができるし入り組んだ路地や階層都市の構造のすき間ま

に身を隠すこともできるなにより下層は統制機構の

士が少なく上層に比べて監かん視しの目が

緩い

統制機構が追手をかけることはジンも十分わかっているだろうならばその目を避さけるのは

当然のことだ

同時に同じように追われる身であるラグナザブラッドエッジが下層を潜せん伏ぷく場所に選ぶ

可能性もジンならば考えたはずだ

硬かたい地面に青いブーツのくつ音おとを響かせてツバキは足早に歩く鮮あざやかな色の髪がしっとり

と雨に濡ぬれる

短い階段を

りるとその先はオリエントタウンの街外れだった

使われているのかいないのかわからない寂さびれた雰ふん囲い気きの倉庫が並びその先にわずかに芝しば生ふ

の植えられた広場のようなものがあるぽつんと佇たたずむ外灯は所々に錆さびの染しみがこびりついてい

た下

層は上層の地盤があるためほとんどが空をさえぎられ屋外でありながら屋内であるかのよう

に天候の影響を受けにくいだがこの辺りはまだ他層より突つき出しているらしく雨でどこも

58

けれど『死神』を統制機構の他

士と同じように考えるのは危険だ

彼は単身で統制機構を相手に反逆行こう為いを繰くり返かえしこれまでただの一度も拘こう束そくされることな

くとう

亡ぼうを続けている並なみ大たい抵ていの力では不可能だということを彼を追うべき立場でもあるツバ

キはよく理解していた

ラグナはおそらくとても強いもしかしたらジン以上に

それになにより恐おそれるべきはそのき凶よう悪あく犯が持つ魔ま導どう書しよだ

||蒼の魔道書

ブレイブルー

かつて黒き獣けものと戦った暗黒大戦時代にある魔ま法ほう使つかいによって術式という技術が開発された

魔法を模したもので魔素を使い火を熾おこしたり水を呼んだりと様々な現象を引き起こすことが

できる技術だ

その術式を扱あつかうために必要な鍵かぎが魔道書だった

蒼の魔道書

ブレイブルー

は世界中に数え切れないほど存在している魔道書の中でも最強と囁かれている

(ジン兄様でも蒼の魔道書

ブレイブルー

を相手にして無傷でいられるはずがない下手をしたらhelliphellip)

そこまで考えてツバキは走った悪お寒かんに身を震ふるわせた

蒼の魔道書

ブレイブルー

は最強とその威いり力よくを絶大に評価されながらも詳くわしいことは知られていないとい

う奇きみ妙ような魔道書でもあった

そもそも魔道書は〞書〝でありながら形状は様々で本の形をしているとは限らない

ラグナザブラッドエッジの蒼の魔道書

ブレイブルー

も彼が持っているという事実は認にん識しきされている

第一章 Stratum city 階層都市61

あった

淡たん白ぱくな物言いをしたり鋭えい利りな目つきをすることがあったから周囲は時折彼のことを冷たい

人だと囁ささやいた

けれどツバキにとってはいついかなるときも彼は優やさしい兄だった

細く美しい金色の髪に涼すずしげな緑色の瞳すらりとした体たい軀くに白い肌はだ整った顔立ちそ

の聡そう明めいな横顔に時々本当に時々だけれどhelliphellip見み惚とれたりもした

頼れるツテというツテを頼ってどうにかジンの秘書官の座を手にしたときはどれほど嬉うれし

かったことか

慕したっていた憧あこがれていた屋や敷しきの奥でひとり毬まりつきをしていた幼子のころから今でもずっ

「ジン兄様helliphellipっ」

急ぎ足だった歩調はいつしか小走りに変わっていた爪つま先さきが小さな水たまりを踏んで水すい滴てきを

ね上げる

一刻も早く見つけ出したかった心臓が軋きしむように胸を打つ

ツバキの頭に浮うかぶ最悪のケースはやはりどこかでジンと『死神』ラグナザブラッド

エッジが遭そう遇ぐうしてしまうということだった

ジンは強い統制機構の中でも彼とまともに剣けんを交えることができるのは数えるほどしか

いないだろう

60

ぎゅっと一ひときわきつくこぶしを

胸むな元もとで握るとツバキは首をふって雑念を払はらった

余計なことを推測している場合ではない今は一刻も早くジンを探すことそれだけを考え

なければ万が一今回の行動のせいでジンが反逆者とみなされたりしたら取り返しがつか

ない

急ごう自分をしつ

咤たするように大きく足を踏ふみ出してなにやら小さく物音の

こえた広場

の裏手へ回ってみる

物置だろうかふたつ並んだ小屋の裏を通り抜けようと狭せまい角を曲がった

その途と端たん目の前に壁かべが現れた

「きゃっ

あまりに突とつ然ぜんのことでとても対処できずツバキは進入した

いそのままに壁に激げき突とつした

だが直後に気付く

壁というにはあまりに分厚く建材にしては感かん触しよくがやわ

らかい

「むhelliphellip」

壁の向こうから声がした腹に響ひびくような低い男の声だ

ツバキの目の前にそびえるそれは壁などではなく見上げるほど巨きよ大だいな男の

中だった

「ああすまなかった怪け我がはないか」

そびえる巨きよ軀くはその異様なまでの圧あつ迫ぱく感に似合わぬ紳しん士し的な物もの腰ごしで語りかけのそりと重く

振ふり返る

第一章 Stratum city 階層都市63

もののそれがどんな形状をしているのかはわかっていない

それどころかいつどこで蒼の魔道書

ブレイブルーが造られその秘ひめたる力はどんなものなのか世界

虚空情報統制機構のち諜よう報ほう部ですら正確には把は握あくしていないという

ただでさえ強い『死神』であるのにそのうえ正体のわからない魔道書まであってどう楽

観視できるというのか単身でいどみかかるなど無茶にもほどがある

(helliphellipジン兄様はラグナザブラッドエッジを捕つかまえるためにひとりでカグツチまで来た

のかしら)

物もの影かげに目を凝こらしながらツバキは独り言のように思った

たとえ独断行動によって強制帰き還かん命令が下されているとしてもジンは統制機構の

士であ

り師団長だ『死神』を追って統制機構を飛び出したのだとしたらその目的は凶悪犯の捕ほ縛ばく

以外に

えられないとツバキは思っていた

けれど本当にそうなのだろうかふとそんな疑念が過よぎる

(でもだってそれならどうして誰にも言わないで出ていく必要があったっていうの私に

もなにも言わないで)

なによりそのことが胸に突き刺ささる

ジンは心根の読めない人だけれどそれでもなにかあったときはいつだって一声かけてくれ

たのに

「ううん理由はジン兄様を見つけてから直接

けばいいことよ」

62

者も多いそのほとんどはべつ

称しようとしての呼称だ

赤鬼と呼ばれた巨きよ漢かんがどんなつもりでその

称を使ったのかはツバキには読めないけれど

好感情でないことは見るからに明らかだった

テイガーは身構えることこそしなかったものの眉み間けんに深い皺しわを刻み厳いかめしい渋じゆ面うめんでツバ

キを見み据すえる

「helliphellipすまん図書館の

士と接せつ触しよくした」

ツバキから視線を逸そらし耳元へ大きな手をやってテイガーが低く何者かへ告げる直後に

ノイズのような音が走った通信だ

「通信を切ってくださいそこを動かないで」

素す早ばやくツバキは護身用に支給されているけん

銃じゆうを腰こしから抜ぬいたしっかりと両手で握にぎり銃口

を赤鬼へ向ける

テイガーはわずかに首を動かしてツバキを見やったもっとも分厚いレンズの丸眼鏡ごし

では奥の眼まな差ざしまではうかがえない

見下ろす威い圧あつ感に気け圧おされそうになりながらもツバキは努めて厳しく赤鬼を睨にらみ据すえた

「現在第十三階層都市カグツチにはD警報が発令されています第七機

を含ふくめ全すべての他機

の介かい入にゆうは禁止です答えなさいここで一体なにをしていたのですか」

「やれやれ銃を下ろせ

士の少女そんな玩おも具ちやのようなものでは私のボディを傷つけるこ

とすらできんぞ」

第一章 Stratum city 階層都市65

異様なのはなにも体の大きさだけではなかった

人の肌にしては赤みの強すぎる肌の色ただでさえ屈くつ強きような太い腕うでに取りつけられたぎ仰ようぎ々ようしい

手て枷かせのようなパーツ引き締しめられたく唇ちびるから上向きに伸のびる白いきば

鬼おに

約百年前に滅ほろびた日本という国の昔話にそんな怪かい物ぶつが登場したはずだツバキは幼いころに

読んだ絵本を思い出す

それと同時に目の前にいる赤い巨きよ人じんが誰だれなのかを思い出した

「貴方あなたhelliphellip第七機

の赤あか鬼おに」

呼ぶと同時にツバキは数歩下がって身構えた

第七機

術式を主体とした統制機構の世界統治に異を唱え術式に頼たよらない世界を作ろう

と企くわだてている外部機

赤鬼はその第七機

に所属する兵士でありその巨軀からも想像できるように圧あつ倒とう的てきな制圧

力を誇ほこる

正式名めい称しようはTR0009アイアンテイガー

第七機

の研究者によって造られたサイボーグだ

向こうもこちらの

に気付いたようでツバキの胴どう回りよりも太そうな足を一歩引いた

「その制服図書館か」

術式の乱用を防ぐために世界中の魔道書を集め管理していることから統制機構をそう呼ぶ

64

きません」

まるでなだめるように語りかけるテイガーの語調が余計にツバキの態度を頑かたくなにさせる

ここで弱よわ腰ごしを見せればそれは統制機構そのものが第七機

に対して弱腰になったとみなさ

れるようなそんな気がしていたそんなことは許されない

世界の秩ちつ序じよを守る統制機構の

士が平和のために戦う武装魔ま術じゆ師つし第四師団の団長秘書が

規律を犯おかした第七機

の兵士と取り引きめいたことをするなんて

銃を構え巨体の赤鬼を見据えたままツバキは手の中に握りこめる小さな通信機を取り

出した

ひとりでは対処しきれない早急に応おう援えんを呼ぶ必要があった

「武装魔術師第四師団所属ツバキヤヨイ少しよ尉ういです現在カグツチ下層オリエントタウンで第

七機

のhelliphellip」

「参ったなできれば穏おん便びんに済ませたかったのだが」

赤鬼が低くなにごとか呟つぶやく

その言葉の意味をツバキが理解するより早くテイガーが大きく前に踏み出した

伸ばされた腕がまたたく

間にツバキに迫せまる軽く握られていた

がツバキの目の前で開かれるや

否いなや

「きゃぁっhelliphellip」

放たれた電でん撃げきが通信機を弾はじき飛ばしツバキに細い

鳴を上げさせた

第一章 Stratum city 階層都市67

「っそんなことは

いていません質問に答えてください」

呆あきれたようなテイガーの物言いに咄とつ嗟さに腕を引き戻もどしそうになったがそれを堪こらえてツバキ

は銃口と眼光を向け続ける

相手はサイボーグだ戦いになったらもちろん勝ち目はないがそれ以上ににげられたらと

ても追いつけない

自分の任務はジンキサラギの捜そう索さくだと重々承しよ知うちしているだが周囲には他に統制機構の

士の

はないここで見みのがせば彼ら第七機

がカグツチと統制機構にどんな混乱をもたら

すかわからないと

えるととても目をつぶることなどできなかった

ザザッと再びノイズが走る

「ああ大だい丈じよ夫うぶだ問題ないすぐに任務に戻る」

通信の相手の声はツバキには

こえないただそれに答えるテイガーの声はあまりに危機感

から遠くすでにツバキとの問題は解決したとでも言うかのようだ

侮ぶじ辱よくされたような思いに駆かられてツバキは鋭するどく声を尖とがらせる

「通信を切りなさい

勝手な行動は許しません」

「そういきり立つな我々はなにも統制機構の業務を妨ぼう害がいするためにカグツチに来たわけでは

ないどうだここはお互たがいかかわらなかったことにしないかこのまま行ってくれれば私は

お前に危害を加えなくてすむ」

「それは反逆の意志ありということですか

どんな目的にせよこの場を見

すわけにはい

66

2199年12月30日||18時00分

幾いくつの路地を抜け幾つの角を曲がっただろう

人のような

をしながら人にあるまじき動きで先導するタオカカがラグナを連れてやってき

たのは外の明かりも差し込まぬ暗い暗い下水道だった

「こっちニャスよいい人〜」

呼びかけタオカカは投とう棄きされたらしい瓦が礫れきやら壊こわれた家具やらの山をひょいとと

び越こえた

外から隔かく離りされた場である上に時間も遅おそいたとえ微かすかなすき

間まがあってもわずかな光さえ

望めない

それなのにラグナやタオカカが問題なく歩けているのは投棄された瓦礫や積み上がったヘ

ドロにこびりついて生えている奇きみ妙ような苔こけのおかげだった

それらがほのかに青緑色の光を帯びているせいで下水道は一寸先も見通せない暗くら闇やみに閉とざ

されずにすんでいる

タオカカを追いかけて粗そ悪あくな足場に多少もたつきながらもラグナが続く

「おい本当にここから上に出られるんだろうな」

第一章 Stratum city 階層都市69

その一撃だけでツバキの意識は遠のいたかくりと膝ひざが折れ力なく崩くずれ落ちる

「っとhelliphellip」

そのたおやかな体が硬かたい地面に倒たおれ伏ふす前についさっきまで電撃を纏まとっていたテイガーの

腕が受け止める

そのまま抱かかえ上げると力なく気を失った青と白の制服の少女を見下ろしテイガーはため息

をついた

「やはりひ戦せん闘とう要員か無茶をする」

『helliphellip言っておくが

わるなよ』

ノイズが走りテイガーの通信機から不ふ愉ゆ快かいそうな女の声が漏もれた

ツバキを抱えたままテイガーは空いていたもう一方の手を耳元にやる上向きの

のよう

な犬歯が突つき出た口元はツバキと対たい峙じしていた先さき程ほどよりもさらに苦々しく歪ゆがんでいた

「雨の中でこんな街外れに放ほうり出すわけにもいかないだろうまだ若い娘むすめだ」

『任務が最優先だ余計な時間はない』

「helliphellip少しの間通信を切るぞココノエ」

『なんだと

おい勝手な真ま似ねはhelliphellip』

装着している本人以外には

こえないであろう小さな音をたてて通信は途と切ぎれた

テイガーは雨

る広場に

を向けて歩き出したその足が向かう先には空を上層の市街に

さえぎられ提ちよ灯うちんの明かりとネオンが煌きらめく薄うす暗ぐらい街オリエントタウンが広がっていた

68

「ニャス」

「かっぱらいじゃねぇか」

張り上げたラグナの声はくわんと寒々しく下水道に響ひびいた

その反はん響きようが

まると今度はまたじめっとした静けさがやってくるどこからか滴したたり落ちて

床では

ねる水の音がいちいち不気味だった

色いろ濃こい影かげの向こうで得体の知れないものが蠢うごめいてこちらを覗のぞきこんでいるような錯さつ覚かくを抱

くぞ

っと走った悪お寒かんにラグナはぶるりと身み震ぶるいし先を行くタオカカの後を追う

がhelliphellipラグナは不意に顔をしかめると足を止めた

(錯覚じゃねえ誰かがこっちを見ていやがる)

淡あわく光る苔が刻んだ色濃い影の奥歪いびつな瓦礫の山のどこか

視線を感じる

いや視線だなんて生易しいものではないもっと根本的なもの存在や意志そのものとい

ったものがこちらを一心不乱に捉とらえているようだ

「いい人〜

どしたニャス」

ラグナがついてこないのを不思議に思ってタオカカが引き返してくる積み上げられたな

にかの残ざん骸がいを軽かろやかに

び越え着地するその小さな足音がきっかけになったのだろうか

「キキキキキキキキキキキキ」

第一章 Stratum city 階層都市71

瓦礫の山から飛び

りた先がオイルかなにかでぬめるラグナは反射的に顔をしかめて三

角耳がぴくつく白いフードの後頭部へ少々の苛いら立だちを込めて問うた

抜け道とは往々にして楽な道ではないとラグナはこれまでの経験で学んでいただがここ

は今まで通って来た『抜け道』と比べても相当な悪路だ

濡ぬれているわけでもないのに床ゆかの壁も天てん井じようもじっとりとしていていやな湿しつ気けが外から入り

込んでいるらしい濃こい魔ま素そと混ざって肌はだと肺にこれでもかと不快感をくれる

一段

りたところには廃はい棄き物ぶつと一体化した汚お水すいが吐はき気けをもよおす悪あく臭しゆうを放ちながら泥どろ水みず

のような重さで流れている

これが街からそう離はなれていない場所を流れ通っているというのに外にはさほどふし臭ゆうが漏れな

いことを思うと階層都市の工事技術はでたらめに見えて意外としっかりしているようだ

もうすっかり馬ば鹿かになった鼻をこすりラグナはぽつりとそんな感想を抱いだいた

「本当ニャスよくここ通って上でパンとかお菓か子しとかもらってくるニャス」

言ってタオカカは下水道の天てん井じようを見上げた黒ずんだ頭上は突つき出た鉄パイプや金属板が

複雑に組み合っておりその奥のずいぶんと高いところに張りついた闇やみのような天井が見てと

れる

さらにずっと向こうに目指している上層の街があるのだろう

つられて見上げてラグナはため息に肩かたを落とした

「もらってくるってまさか店のもん勝手に持ってってるんじゃねぇだろうな」

70

気味の悪さに怖おぞ気けよりもけん

悪お感が走る

影はいやに粘ねん着ちや質くしつな動きでぬめる床に着地するとむくりと上体を起こすような動きを見せ

た判然としないが苔光で浮かび上がる奴やつの足元でなにか小さな生き物が蠢いている気がす

る戸と

惑まどいつつも身構えるラグナのすぐ側そばにタオカカが駆け込んできて頭を低くさせ唸うなった

長い尾おがぴんと立ち上がって毛を逆立て膨ふくれている

「コイツうねうねニャス」

「うねうね

なんだそりゃ」

「悪いヤツなのネ

タオたちの村を襲って小さいカカを食べちゃうのニャス」

さっきまで陽気だった表情を目め尻じりをつり上げた憤ふん怒ぬのそれに変えてタオカカはわんと声を

響かせ威い嚇かくする

その様をあざ

笑わらうかのように白い面を浮かべた影は全身をあわ

立だてるように震ふるわせた

「キヒヒヒいる

いるぞ

るぞ力蠢く醜しゆうな

想を叶かなえ

ために肯

は不可欠

がい

念ねんの否定

閉とざ

た門が招くはずだ

ちが

いギヒヒヒヒヒヒ」

影が震え笑うたびに空気が淀よどむ

ラグナは険しく顔をしかめた

これは魔素だ

外から流れ込んできているのではないこの目の前にわだかまる影からあふ

れ漂ただよい下水道の

第一章 Stratum city 階層都市73

空気を引き裂さくような声と共に突とつ然ぜん影かげから影が飛び出したさらにそこから槍やりのような鋭

い影が無数に飛び出しラグナに襲おそいかかる

「ぅぐぁっ」

あまりに唐とう突とつであまりに周囲に同化した

に反応が遅おくれた分厚く布の裂ける音が散り一いつ

緒しよに皮ひ膚ふと肉をえぐり刺さすように持っていかれる

火がついたように痛む肩を引いてもう一方の腕うでで剣けんを抜き目の前の影を払はらった

手て応ごたえはないまるで本物の影を切り払ったかのようだ

「グギギギhelliphellip真

理へ至

我が

を求

我に求め

真相を

くhelliphellip」

人の声のようなそうでないような奇き怪かいな声こわ色いろで奇怪な言葉を口走りながら影は

び退すさっ

た高質化したヘドロと瓦礫の間でふわりと浮ういてわだかまる

初めラグナはどこからか紛まぎれこんだ魔まじ獣ゆう||高こう濃のう度どの魔素によって歪んだ生態系が生んだ

理性なき凶きよ暴うぼうな獣けものかと思った

だがどうにもちがう不定形なそれは奇妙で歪いびつで不可解で生物とはとても思えぬ

形をして

いた

ぐるりと影が動くとわだかまる闇の内側から面が現れる

白い円形に三つただ孔あなを開けただけの目と口顔のつもりだろうかそれが黒ずんだ不定

形の影の中で唯ゆい一いつの定形であるようだった

「なんhelliphellipなんだこいつは」

72

ふつとい憤きどおりがラグナの腹の底で沸わく

統制機構が大事に大事に抱えて地下深くにしまい込んでいる窯それを統制機構だけでなく

あちこちの機

や研究員学者が欲ほつしている窯を所有するということは窯が繫ぐ境界の一いつ

端たんを所有することと同意だからだ

誰も彼も境界には人じん智ちを超こえる素す晴ばらしい財産が眠ねむっていると信じている人智を超えた

ものなど人間に御ぎよせるはずもないのに

まったくいや

気けが差す頭にくるそんな窯を我が物顔で掻かき回す統制機構もそれを追いか

けるように窯を求める連中もどいつもこいつも

「こうなっちまったらもうどうしようもねえ悪く思うなよhelliphellipもっとも人を怨うらむほどの

理性があればの話だけどよ」

このままこいつをここに放置すればタオカカの言っていた『村』に留とどまらずさっきのオリ

エントタウンや下層の街に出て人を襲うようにもなるだろう

ラグナは剣の切っ先を下方に向けたまま化け物に深く踏ふみ込んだ

カグツチにはなんの思い入れもないがだからといってあからさまな害悪を目の前に置かれ

て放ほうっておけるほど利口でもない

迎むかえ撃うつように身を広げるアラクネの胴どうを||胴らしき部分を横よこ薙なぎに切り払う

「グポポhelliphellip」

「ちぃっ」

第一章 Stratum city 階層都市75

ありとあらゆるものを侵しん食しよくしているのだ

それはこの影のような物体のまとう黒いものが全て魔素であることを意味していたそし

て魔素のか塊たまりであるこの奇怪な化け物がその容

に似合わず人の言葉らしい音を発しているの

はこれが元々人語を解する存在であったことを物語っている

つまり人間だ

タオカカが『うねうね』と呼びオリエントタウンの一部の人はアラクネと呼ぶ黒ずんだ不

定形の化け物はこうなる前人間だった

ラグナはこみ上げてきた

悪感を舌打ちに変えて吐き出した

「こいつ境界に触ふれたなhelliphellip」

ラグナが各地の統制機構支部を回り

々に破は壊かいしている支部地下の『窯かま』その窯によっ

て現世と繫つながれた異界||境界

そこは人知の及およばぬ不定形の場であり中は地表の比ではない濃のう度どの魔素が渦うず巻まいていると

いう

濃い魔素が魔獣を生んだように人もまた高濃度の魔素に触れ続ければ理性が魔素にのみ込

まれやがて境界に引きずり込まれて人でいられなくなる

臭にまみれて粘ねん液えきのような体を蠢かせ奇怪な音で語るこの黒い化け物アラクネは

そうして人でいられなくなった誰だれかのなれの果てだった

「あんなもんに手ぇ出してなにがしたかったのか知らねえがhelliphellipこの馬鹿が」

74

だ身が捻ねじれ後方へべちゃりと倒たおれる

それと同時にタオカカの体がひらりとラグナのとなりに

着地した爪を

めた大きな手をシュッ

と前に突つき出して威嚇する

それを横目にラグナは軽く笑った会って間もないこちらも奇妙な生物だが『うねう

ね』と

ってこいつと並ぶのは悪い気がしない

「何年目じゃなくてここで会ったが百年目な」

「おおんじゃあ百年分ギタギタにしてやるのネ」

「まなんでもいいか」

抜ぬけ落ちるような緊きん迫ぱく感を再び引き寄せてラグナはしっかりと剣を握にぎる

一度は黒い泥溜だまりのようになったアラクネはすぐさま波打つような動きで起き上がると

ごぼりと足元を鳴らし魔素を噴ふき散らす

「ギギギhelliphellipよこ

よこせ

れは我

らう

淵えんがい

見て

目からのが

れな

運命

らはのが

れない」

「なに言ってんのかわけわかんねぇんだよ

楽にしてやるからとっととくたばりやがれ

この生ゴミ野や郎ろう」

ついた魔素を払うように乱暴に剣を振るうとラグナは腹から雄お叫たけびをあげつつ高く得物を

振り上げ魔素に取り込まれた人ならざる者へと叩きつけた

第一章 Stratum city 階層都市77

ごぼごぼと濁にごった音をたててアラクネの体がしゆ時んじにラグナの視界から消える

下だ舌打ちしながら蹴けりつけるラグナの足の下を通ってアラクネは赤いコートの

後で

再び体を持ち上げる

「キサマキサ

くらう

人間であるならあるいは四し肢しを持つ生物であるならおよそあり得ない角度から黒い塊が

ラグナを

ね上げるように突とつ出しゆつする

咄とつ嗟さにラグナはそれを剣で受けた感かん触しよくは重くどろりとしている

さらにもたれかかるように剣の表面を伝う泥どろのような魔素から突とつ然ぜん奇き怪かいな蟲むしが飛び出して

きた見たこともないひたすらに

悪感をあおるような不可解で不ふ愉ゆ快かいな蠢くもの

「うげっ」

吐き気のような

悪感に弾はじかれるようにしてラグナの足が勝手に距きよ離りを空ける

その間に割って入るように鋭するどい爪つめが振ふり下ろされ飛び出した無数の蟲を切り裂いて叩たたき落

とした

勇ましく飛び込んできたのはタオカカだ

「うねうね

ここで会ったが何年目

タオがぎったぎたにしてやるのネ」

爪を振り下ろす動作から着地をはさまず宙で身を捻ひねるとタオカカは反対側の爪でアラクネを

切り裂く

爪はえぐるようにアラクネの顔らしき部分を捉えた陶とう器きが割れるような音をたてて黒ずん

76

双そう眸ぼうは薔

さえ霞かすむ深しん紅くで容

からうかがえ

る幼さには似合わないほどの気品と優美さをたたえ

ていた

少女の名はレイチェルアルカード

十を超えた程度のまだあどけない少女のように見えるがその実約百年を生き続ける吸きゆう

血けつ鬼きだ

千年以上前から続く吸血鬼の一族アルカード家の現当主であり薔

園を見下ろす城の主あるじで

あり

月と夜空と薔

と城を抱いだくこの常夜の空間の主でもある

ここは世界のあらゆる場所から断絶された地点でありながら世界のあらゆる地点へ繫が

る場所

空間と空間の間に漂い世界と世界の狭はざ間まに留とどまる領域

アルカード家の当主が管理する特別な住まいだった

カップを金のスプーンが横たわるソーサーへと戻もどしレイチェルは物もの憂うげに吐と息いきをく唇ちびるから漏も

らした

蔦つた模様に絡からみ合うスチールテーブルの上に飾られた薔

の切り花が微かすかに香かおる

レイチェルは昼の来ない領地での時間をこうして薔

園のテラスで多く過ごした

は好きだ美しいし香りがいいそれになにより遠き日に亡なくなった父が愛した花

だから

第二章 Spiral fate 盤上の駒79

第二章

Spira

l fate

||盤ばん上じようの駒こま

真っ赤な薔ばら

に彩いろどられた見事な庭園を青白い満月が見下ろしていた

静かな夜だった空気は凜りんと冷え夜の帳とばりが世界はここまでだと区切るように色濃く辺り一

帯を包んでいる

園の奥にはおとぎ話の中から抜け出てきたかのような美しく愛らしい城がそびえており

だ橙いだいい色いろをした明かりの揺ゆれる窓が無数の瞳ひとみのようだ

その城を赤薔

の生いけ垣がきの向こうになが

める庭園のテラスでひとりの少女が小さな丸テーブ

ルに向かい優ゆうがにティーカップを傾かたむけていた

月下にありながら眩まぶしいほどに輝かがやく長い金色の髪かみを左右でふたつに結ゆわえ大きなリボンで

飾かざられている華きやしやで小さな体には黒い豪ごうしやなドレスを纏まといそこから伸のびるやはり小さな手

は陶器のように白く滑なめらかだ

カップの中で揺れる紅茶を

めていてもどこか遠く世界の果てを見み据すえているかのような

78

「今夜も見事でしょう

お父様」

ふとわく感傷に任せて呟つぶやいてみて彼の愛した薔

の香りの紅茶を飲むそんなときのほん

の一

レイチェルの心は微かに慰なぐさめられるのだ

夜の終わらないこの城は時間の流れとは無む縁えんだ夜が永遠であるように時間もまた永遠

でありレイチェルの時間もまた永遠であった

それでも退たい屈くつはやってくる時にはこうしていつかの日を想おもいため息でもついてみねば

枯かれることのない薔

のように言葉を忘れてしまいそうだった

「失礼いたしますレイチェル様」

コツと革かわぐつの硬かたい音がテラスの煉れん瓦がタイルを叩きしわがれた声が穏おだやかに呼びかけた

レイチェルを振り向かせることなく乱れない歩調で少女の視界の端はしまでくると声の主白はく

髪はつを

で束ねた長身の老人は胸むな元もとに手をあて浅く腰こしを折る

ヴァルケンハインRヘルシングレイチェルの父クラヴィスアルカードの代からアル

カード家に仕え今はレイチェルと共に在る老しつ事じだ

微びし笑ように皺しわを刻みすきなく佇たたずむ

はレイチェルに劣おとらず品がいい

だが彼もまた人間ではなかった人であり獣けものでありどちらでもありどちらでもないおおかみ

男おとこだ

外見から想像できる重ねた歳としよりずっとたくましい肉体が質のいいバトラースーツの上からで

える

80

つぶらな瞳と口角の上がった口がやはり小さく愛らしい

黒くろ猫ねこのソファはナゴ赤いゴム毬まりはギィ共にレイチェルの使い魔だ

「姫様のお気に入りっすよねー姫様ってああいう男が好みなんすか

意外とダメな男に引ひ

っ掛かかるタイプっすね」

小さな羽を忙いそがしくパタつかせて楽しそうにギィが話すとその

らかな両りよ頰うほhellipおhellipというよ

り頭部を素す早ばやく伸びたレイチェルの手が摑つかみ左右に思い切り引っ張った

「なに

よく

こえなかったわもう一度言ってみてもらえるかしら言えるものならね」

「イデデデデひひめひゃまいひゃいいひゃいれすぅぅぅぅぅ」

「アンタってほんと口で身を滅ほろぼすタイプよねぇ」

通常の二倍に顔を広げたギィを見やってナゴが呆あきれたようにため息を送る

情けない

鳴をひとしきり

いた後にレイチェルはあっさりギィから手を離はなしたバチン

と音がして赤い頰が元の真ん丸い形状に戻る

それを横目にレイチェルはテーブルの上に生けられた赤薔

の花弁へ触ふれた

「彼がそこまで来たのならもうすぐ二一九九年も終わるのね」

「左様でございますな」

どこか歌うように呟くレイチェルへ恭しくヴァルケンハインが返す

「そして世界も」

微かな声で付け足された一言にはヴァルケンハインはなにも返さなかったレイチェルが

第二章 Spiral fate 盤上の駒83

「どうしたのヴァルケンハイン」

白い指先をティーカップの縁ふちで遊ばせレイチェルが赤い瞳を向けて問う

ヴァルケンハインは頭を下げたままう恭やうやしく答えた

「ラグナザブラッドエッジがカグツチに現れたようです」

無む駄だなく必要なだけを伝えるヴァルケンハインの言葉にレイチェルは陶器の縁をなぞる指

先を止めた

そのまま指を小さな取っ手に引っかけ中身の少なくなったカップを持ち上げて一口飲み

それをソーサーに戻してからやっとレイチェルは唇を動かした

「そうhelliphellipもうそんな時間なのね」

独り言のようなレイチェルの呟きに続いて

唐とう突とつにふたつの声がこれまでの静かで密ひそやかだった雰ふん囲い気きを不意に賑にぎやかせた

「あらぁん姫ひめ様ラグナってあの白いツンツン頭のボウヤよね」

「オイラも覚えてるっすよあの生意気なヤツっす」

先にハスキーな猫ねこなで声で言ったのはレイチェルが腰こしかけている椅い子すそのものだった一

見黒いソファに見えたそれはよく見ると

もたれの上部に三角の耳と猫の顔がありその猫の

顔が話していたのだ

続いた甲かん高だかい陽気な声はレイチェルの足元から弾はずんだゴム毬まりのようにとび上がった赤くて

丸い生き物のもの見るからにやわらかそうな体からは小さな手足と小さな羽が突き出ており

82

影の中に浮うかぶ幼児の落書きのような目玉らしき緑色の丸と不気味に裂さけた赤い口が椅

子に腰かけるレイチェルを見つけて気味悪く笑えむ

どこからどう見ても人ではなくましてや吸血鬼でも

男でもない

これは思念だ肉体を持たない意志だけの存在ある男の精神体だった

「よ〜うクソ吸血鬼今回もお供と犬っころ連れてお茶会か

ずいぶんのん

気きなもんだなぁ

オイ」

許可もなく薔

園に踏ふみ入ってきた無作法者の精神体はこもった声でいや

味みに語りかける

とたんにヴァルケンハインが険しく顔をしかめギィは情けない

鳴をあげてそれこそゴ

ム毬のような俊しゆ敏んびんさで主の黒いドレスの

後へと隠かくれた

レイチェルは冷やかに影を見据える

軽く腰を浮かせるとそれまで椅子としてそこにいたナゴが体をくねらせて

を黒い傘かさへと変

えレイチェルはそれを手に立ち上がった

唇にこそ優美な笑みを浮かべていたが少女の深紅の瞳にはただただけん

悪お感かんが塗ぬり固かためられ

ている

を見せるだけでこれほどまで人を不快な気持ちにさせるのはある意味

能ね感心する

わテルミ」

の香りのように

らかにけれど薔

の蔦のように刺とげと々げしくレイチェルは言い放つ

言葉の先にいた精神体の男テルミと呼ばれた影は風にでもあお

られたかのように体を揺らし

第二章 Spiral fate 盤上の駒85

求めていないことを理解していたからだ

代わりに

男の老

事は乱れぬ声こわ色いろで問う

「レイチェル様紅茶を新しいものにお取り換かえいたしましょうか」

「helliphellipそうねお願いしようかしら」

本当は出かける用事ができたところだったけれど今はもう少しだけここでの無益な時間を

浪ろう費ひしたい気分だっただって

(今回もいい結果は期待できそうにないものね)

独り言のような呟きを胸の内でそっとこぼしレイチェルは掠かすれ消えるような吐息をつく

がすぐにその息を

み込むように眼光を鋭くさせた

真紅の視線が見据えるのは延々と続く薔

園のほうだ

「ヴァルケンハイン招いてもいない客が来たようね」

深い緑の葉をざわめかせて風が吹ふく風を招いたのはレイチェルだ涼すずしい夜気に混じって

漂ただよってきたいやな気配をはね退のけるために

円形に整えられたテラスの隅すみのほう薔

の生け垣の前の空間が目め眩まいでも起こしたかのよう

にくらりと歪ゆがむ

そうして現れたのは影かげだった

黒い体に緑色を纏まとわりつかせたような色しき彩さいでぼんやりと漠ばく然ぜんとした人型のなにかがそこに

立っていた

84

敵てき愾がい心しん

「それで一体なんの用

今がどういうじ状よう況きようなのかわかっているのでしょう貴方あなた

だって暇ひま

ではないのではなくて」

ヴァルケンハインほどあからさまな敵意ではないものの突つき放し追い立てるような調子で

レイチェルが言う

テルミはけだるい仕草で首を傾かたむけまたケタケタと不ふめ明いり瞭ような体を揺ゆらすようにして笑った

「別にぃ〜ただそろそろ今回のエンディングも近いわけだしそろそろ一度テメェらの腑ふ抜ぬ

けた面を拝んどこうかと思ってよ」

低めた声は悦えつっぽく笑みを濁にごらせる

レイチェルはその様を無感動に淡たんた々んと赤い瞳ひとみに映した

「懲こりない男ね」

囁ささやくようにレイチェルは告げる冷えた声は空に浮かぶ欠けることのない月の光に似ている

「何度繰くり返したって結果は同じ世界は何度だって巻き戻ってあの日あの時からまた始ま

るだけよ」

ざとレイチェルと影の間を横切るように風が渡わたる薔ばら

の香りがま

う中で幽ゆう鬼きのよう

なテルミの

はあまりに不気味で不似合いだった

場ばちが

いであると思い知らせるかのように濃のう密みつな花の香りを纏う風の中でテルミは深く深

く笑みを浮かべる

第二章 Spiral fate 盤上の駒87

た笑っているのだ

「そいつぁお互たがい様じゃねぇかこっちもテメェのクソむかつく面つら見てると胸むな糞くそ悪くなって

くる」

ユウキテルミそれが影の名前だった

「ならば早々に立ち去るがいいここは貴様のようなやからが気安く踏み入っていい場所ではない

ぞ」重

々しくけれど遠えん慮りよ容よう赦しやのない敵意を込こめてヴァルケンハインが進み出たレイチェルに

対して見せていた穏やかな品の良さは影を潜ひそめ白髪の老人とは思えぬ力強く攻こう撃げき的な眼まな差ざし

で揺れる影を睨にらみ据すえる

途と端たんにテルミは面おも白しろくなさそうに口らしき赤色を歪めた

「はっテメェも相変わらずイラつくなキャンキャン吠ほえてんじゃねぇよボケ犬が殺しち

まうぞあぁ」

「面白い吠えるしか能がないのはどちらか確かめるとしようか

体のない今の貴様に一体

なにができる」

「ちっhelliphellipうぜぇジジイだテメェもあんとき殺しときゃよかったぜ」

「九十年前に反省するべきだったな」

テルミが悪態を吐つけばヴァルケンハインはそれを踏み潰つぶすような敵意を返す

そこには根深い因いん縁ねんの沼ぬまが広がっているかのようだった浮かぶのは憎ぞう悪おでもけん悪おでもなく

86

覗のぞき見えていた

「んじゃなせいぜい高みの見物でもしてろや」

吐き捨てるようにそう言うとテルミは靄もやが空気に溶とけてやがて目視できなくなるように

音もなくその場から消える

あとにはなにも残らないただレイチェルが日々当たり前に

めている真っ赤な薔

が咲さ

き誇ほこる庭園が広がるばかりだ

緩ゆるやかな風が抜ぬけて甘い薔

の香かおりが漂うまるでテルミによって生じた不快感を拭ぬぐい払はら

うように

ヴァルケンハインはそれまでの飛びかかって喉のど笛ぶえでも食い破りそうな敵意を呼吸ひとつのう

ちにしまい込みしつ

事じの顔に戻もどるすき

なく

筋を伸のばしレイチェルへと向き直った

「いかがなさいますかレイチェル様」

主人がすでに決めているであろう腹の内を促うながすように問う

レイチェルは手にしていた傘状のナゴを開いたパラソルでも扱あつかうように肩かたにかけヴァル

ケンハインを見やる

「ヴァルケンハインやっぱりお茶はまたあとでにするわ」

あんなにも単純で粗そ暴ぼうなちよ

発うはつに乗るのは癪しやくだけれどそうとわかっていて顔をそむ

けることを

弱気ゆえと受け取られてはもっと癪だなによりあの男に好き勝手を許すのは面白くない

「ナゴギィ出かけるわよ」

第二章 Spiral fate 盤上の駒89

「そうしたらまた始めるさ」

這はうような声で語る

な気配がレイチェルの誘さそう風さえ汚よごすようだった

「何度でもいいぜ

そのたびに俺はやり直すだけだ何度でも何度でもテメェがいい加減

飽あきてお城から出てこなくなっても何度でも何度でもhelliphellip何度でもなぁ」

「悪あくしゆ味みね」

「テメェが言うかよクソ吸きゆ血うけ鬼つき」

テルミがせせら笑う

深い皺を眉み間けんに刻みい憤きどおりを腹に抱かかえるヴァルケンハイン怯おびえ様子をうかがうナゴとギィ自分

の周りにいる者たちをながめてレイチェルはく唇ちびるを優美なカーブに曲げた

彼の言うことに同意するのは心底不ふ愉ゆ快かいだけれど確かに悪

味なのはレイチェルも同じだ

何度も何度もこんなやりとりを何度もここで行った

繰り返す時間の中で繰り返される会話はいわば一種の通過儀ぎ礼れいだ

これから始まる数時間めまぐるしく運命は交差して離れ剥はがれ崩くずれ乱れるその結末

をし粛ゆくし々ゆくと見届けるためのお決まりの行事

「まいいや俺はそろそろ最後の仕上げの準

しねぇといけねぇから行くわいちいち相手

すんのも面めん倒どうくせぇからテメェらはそこで茶でもしながら終わるのを待ってろよ」

言いながらテルミは一歩大きく退いた

影がぼやけて消えるように彼の

が揺らめく黒い体の向こうには薄うっすらと薔

の赤が

88

城から外へと出ていった

の残り香がが夜気に吸い込まれて消えるまで待ってヴァルケンハインはテラスのテーブ

ルに残されたティーセットをワゴンに載せて片付け始める

せめて今回はあの小さな主人の心が慰なぐさめられるようなそんななにかがあるようにと胸中で

願いながら

2199年12月30日||9時23分

カグツチの朝方普ふ段だんなら東空は陽光の白に輝かがやき地表で淀よどむ魔素の存在など忘れさせてく

れるかのように眩まぶしい

だが今日は生あい憎にく朝早くから分厚い雲が空を覆おおう曇どん天てんだった広がっているのは雨雲だ昼

前には雨が

り出すだろうと湿しめった空気が教えてくれる

第十三階層都市カグツチの外れ都市の一部として建設されたのではなくこの地に流れ着い

た難民が自発的に建設した市街のひとつ浪ろう人にん街

第二章 Spiral fate 盤上の駒91

「はぁ〜い姫様」

「了りよ解うかいっす」

傘のままナゴがしなを作りさっきまでの怯えが噓うそのように元気よくギィが飛び上がる

二匹ひきの使い魔まを従えレイチェルは宙へ手を差し出したすると煉れん瓦がタイルが敷しき詰つめられ

た足元に薔

色の魔法陣じんがほのかな光を宿して浮かび上がる

転移の魔法だ

今の世界の基き盤ばんともいえる術式の元になった太古の技術魔法けれど今はもう使える人間

はほとんどいない失われた技術だ

転移はそんな魔法の中でも特に多くの魔力と集中力を要し特別難解な制せい御ぎよを求められる魔

法だったそれゆえに人類の歴史においても使い手と呼べるほど扱いに長たけた者は数えるほ

どしかいない

転移魔法を自在に扱うレイチェルもまた自分以外にこの魔法を使いこなせている者をひと

りしか知らなかった

「カグツチまで行ってくるわヴァルケンハイン留守をお願いね」

「かしこまりましたお気をつけて行ってらっしゃいませ」

理想的な角度に腰こしを折ってヴァルケンハインは魔法陣の中から語りかける幼い容

の主あるじを

見送る

ふわりと風が

い上がり目眩を誘うほどの薔

の香りを振ふりまいてレイチェルは常夜の居

90

屈くつ強きようで大柄な体たい軀く隠すことなく晒さらされた広い

中顔に刻まれた十字の傷きず跡あとそして首に

巻かれた真っ赤な布その真っ赤な布がけい

谷こくの風に

られたなびくたびに誰だれもが彼を振り返

らずにおかない

なにも衣装の特とく徴ちようが浪人街の人の目を集めるのではない

このマフラーのように巻かれた赤く長い布は目印なのだ

迷える難民をまとめ先頭に立って浪人街を築きこうして日々浪人街を歩いては住民にト

ラブルや困りごとがないか見回るイカルガ忍にん者じやの頭領にして浪人街のヒーローシシガミバ

ングの

「おはようございますバングさん」

「バング殿どの

先日は

げたに鶏わとりの捕ほ獲かくを手伝っていただいてありがとうございます」

「バング様〜

こんにちは〜」

街のあちこちからかかる声に手を挙げて応こたえバングは朗ほがらかな笑え顔がおを返す

「うむおはようでござる

おおそうだ今日は雨が

るだろうから雨あま漏もりする家がある

なら拙せつ者しやに声をかけるでござるよすぐに飛んでいって修理を手伝うでござるからな」

通り中に響くような声で言いながらバングは前へ前へ歩む

天気はよくないがバングの心は今日も晴れやかだった仲間がいて住む場所があるこ

れがどれほど喜ばしいことか数年前までは忍として戦争の裏側を奔ほん走そうしてきたバングは日々

身をもって思い知り嚙かみ締しめていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒93

ここは五年前に終結したイカルガ内戦という戦争の敗者イカルガ連れん邦ぽうに住んでいた者たち

が造り上げた市街だった

内戦によって彼らの故郷は失われた行き場のないイカルガの民たみは世界のあちこちに散り

その中でもカグツチににげ延のびた者たちがここで身を寄せ合って暮らしている

複雑で街を築くのに適しているとはとても言えない地形だカグツチのある高山の下方に

位置しながら辺りは岩だらけで亀き裂れつや絶ぜつ壁ぺきが目立つ

それでもイカルガの難民たちは岩場に足場を組み亀裂に橋をかけ絶壁に階段を作り半

分宙に浮ういているかのような入り組んだ街を作り上げた

小さな街だありあわせの材料を組み合わせてできた粗そ末まつな街だがそれにしては整えられ

たイカルガじ情よう緒ちよ漂ただよう街並みにhelliphellip朗々と男の声が今日も響ひびき渡っていた

「おお皆みなの衆

今日も元気に平和に過ごしておるな

うむうむよきかなよきかながっ

はっはっはっは」

太く伸びやかな声の主はシシガミバング

浪人街の中心である一番開けた通りのど真ん中を歩きながら道行くすべての人に威いせいよく

挨あい拶さつして回っている大おお柄がらな筋肉質の男がそうだ

ぼさついた黒くろ髪かみは高くまとめ深い緑色の独特な装しよ束うぞくを身に着けている着ているのはイカ

ルガ伝統の忍しのびの服だ本来は闇やみに紛まぎれ隠おん密みつにことを済ますのが忍の

だがこのシシガミバ

ングという男はまるで逆にとにかく人の目を引いた

92

カグツチの

士であるならばこんな下層まで

りてくることなどそうそうないし別の支部

士ならばもっと上層からカグツチに入るはず

この街に統制機構の制服はあまりにも不自然だった

金髪の青年はなにも答えず冷ややかな緑の瞳ひとみでバングを

めていたがやがて色の薄うすい唇を

開きぼそりと低く呟つぶやいた

「その服helliphellipイカルガの忍か」

およそ好意的でない声

人によってはその内にさげすみ

やあざけり

いただろうだがバングはそのひどく温度の低い声こわ色いろ

を警けい戒かいゆえと受け取った

身構えるように低くさせていた体を起こしバングは慌あわてて制止するように広げた手を突つき

出だす

「ああいや誤解めされるななにも一戦交えようというわけではござらんぞ確かにここは

イカルガの民が住まう街で拙者はイカルガの忍であった男だが五年前にイカルガ内戦は終

わっておるのだ」

バングは太い腕うでをがっしりと組むと神しん妙みような

顔つきで何度か頷うなずくようにしながら先を続けた

「確かに終戦のきっかけは戦いくさではなく我等の首都イブキドの爆ばく発はつ事故であった」

イカルガ内戦は世界虚空情報統制機構に対し第五階層都市イブキドを首都と掲かかげるイカル

ガ連邦が独立を宣言して始まった内戦だ統制機構は武力でもってそれを制圧しようとしイ

第二章 Spiral fate 盤上の駒95

平和はいい平和の中にこそ愛はあるのだ

「うん」

ふと前を行く

を目に留めてバングがいぶかしげに声を唸うならせた

見慣れない男が歩いている浪人街の住民ではないバングはこの街に住むイカルガの民の

顔と

格好をすべて覚えていた

短い金きん髪ぱつの細身の男だ歩き方からしてまだ若い

なにより気にかかるのはその男が着ている服だ青と白によって構成されたその服はおそ

らく世界虚こ空くう情報統制機構の制服だろう

「そこのお主

待たれい」

叫さけぶように声をかけながらバングは高くとんだ空を駆かけるような長いちよ躍うやくは前を行く金

髪の青年の頭上を越こえて彼の正面へと着地する

行く手を塞ふさがれる形となった見慣れぬ男は足を止めバングの唐とう突とつな登場に戸と惑まどったように

眉まゆを寄せていた

やはり若い男まだ少年の面おも影かげも残した青年だ着ているものも統制機構の制服に間まちがいな

く手には青い鞘さやに

めた刀を一ひと振ふり摑つかんでいる

バングはますます募つのる怪けげんに青年よりも深く眉間に皺しわを刻んだ

「お主我等が街になんの目的で参られた

その服装統制機構の

士であろう」

カグツチの

士だろうかバングは彼に見覚えがない

94

金髪の青年はなにも言わず静かにバングを見み据すえている

なにを考えているのかどこかぼうっとしたようにも見える無表情からは思考どころか感情

さえ読み取れない

話を

いているのだろうかバングは不安に思いながら改めてさっきの質問を繰くり返す

「してお主は一体何者で浪人街になんの用でござるか」

「helliphellip用などない」

ようやく青年がバングの問いにまともに答えた

まともというにはあまりに素っ気なく突き放した物言いだったが返ってきた言葉が思いの

外ほか穏おん便びんでバングは軽く安あん堵どを抱いだく

イカルガの残党狩がりだなどと言われてその手の刀を抜ぬき放たれたら多くの住民が行き交かう

街の中心で大立ち回りを演じなければならなくなるそうなればいくつかの家は巻き添ぞえをく

っただろうし何人かは怪け我がをしたかもしれなかった

青年は変わらず冷たい無表情のままでバングの向こうにそびえる山へ目を向けたこの上

にいくつもの市街が建設され頂上には世界虚空情報統制機構のカグツチ支部が建っている

「貴様たちのことなどに興味もない僕は上へ行きたいだけだ」

「上

というと統制機構の支部でござるか」

「じや

魔まだそこをどけhelliphellipああいや」

冷れい徹てつに言い放ってから青年は思い直したようにけれどそれでも冷ややかに声を低めた

第二章 Spiral fate 盤上の駒97

カルガ連邦も武力でもって抵てい抗こうした

それが四年続いたある日のことだ

イカルガ連邦首都であり指揮系統の中心であった第五階層都市イブキドの地下で突とつ然ぜん原因

不明の大爆発が起こりイブキドは跡あと形かたもなく消しよ滅うめつした

爆発はイカルガ連邦はもちろん交戦の真っ最中であった世界虚空情報統制機構側にも大き

く戦力を損そこなわせる痛手を負わせた戦争を続けるだけの力をイカルガ連邦と統制機構が爆

発事故をきっかけに同時に失ったのだ

結局イカルガ連邦はバラバラとなり最終的には組織としての形を失ったけれど統制機構も

己おのれを立て直すのに手て一いつ杯ぱいで追つい撃げきどころではなく内戦はしぼんで消え入るようにいつの間に

か終わったのだった

「それでも我等は負けたのだその現実を認めずに今ある平和を投げうってまで統制機構に

楯たて突つくつもりはござらんよ」

そう言うとバングは眉み間けんを中心に走る十字傷に分厚い手で触ふれ苦々しくも笑みを浮かべ

たこ

の傷はその爆発事故のときに負ったものだ内戦を終わらせたあの事故が自分にとって幸

であったのか不幸であったのかバングには未いまだわかりかねる

ただイカルガの民はもうじ充ゆう分ぶん戦ったこれからはたとえ楽な生活でなくとも平和に過ご

してほしいとバングは思っている

96

れるだとかそんな幽ゆう霊れい話じみた現象が起こるはずもない

勝手なイメージでそう結論づけるとバングは気を取り直してそのたくまし

い胸むな板いたを張った

まだ浪人街の見回りは途とち中ゆうだ曇天の色はますます濃こくなってきている雨が

り出す前に

修理の必要な家がないかどうか確かく認にんしておかなければならない

「いやぁまったく最近の若者は覇は気きが足らんでござるなぁ

陰いん気きな顔をしていないでも

っと威い風ふう堂どうど々うと力強くそして

くあらねばそうこの愛と正義の忍者シシガミバング

のように」

辺り一帯に響く盛せい大だいな声で笑うとバングは街の見回りを再開させた

これが終わって部下のけい

古こが終わってそれでも時間があったなら憧あこがれの女性が住むオリ

エントタウンまで足を延ばして挨拶に行こうとそう心の中で計画をたてていた

今日も浪ろう人にん街は平和だ

それがなにより素す晴ばらしい

2199年12月30日||18時21分

第二章 Spiral fate 盤上の駒99

「ついでだ貴様カグツチで白い髪かみに赤いコートを着た男を見なかったか」

そう尋たずねる青年の表情はまるで凍こおりついたかのように無表情から動こうとしないだという

のに緑の瞳だけは妙みように楽しげに煌きらめいていたようにバングには見えた

バングは顎あごに手をやり考えこむ

「白い髪に赤いコートhelliphellipふぅむいやこの辺りでは見かけてござらんそれほど目立つ容

ならば一度目にすれば覚えようがhelliphellip」

「そうかならいい」

しゆ時んじにバングからあらゆる興味を失ったように青年は滑すべるような歩みで横を通り抜ける

すれちがう風はいやに冷たいまるで氷でも掠かすめたかのようだ

「ああお主

拙者はシシガミバングと申すお主の名はなんと申す

すたすたと足早に山へ向かう細身の後ろ

へバングは追いかけるように声をかけた

だが青年は振ふり向かないまるでバングの声など耳に入っていないかのような頑かたくなな

中で

なにかに突き動かされるような足取りで歩き去りそのうちに浪人街の外れへと

を消してし

まった

バングは引き止めるように宙へ伸のばした腕もそのままに難しく顔を歪ゆがめて首を捻ひねった

「はてhelliphellip奇きみ妙ような男でござったななんというかこうた魂ましいが抜けているようというかhelliphellipなに

かに取り憑つかれでもしているかのようであったわ」

もっとも今は日もこれから高くなろうという真昼間魂が抜けるだとかなにかに取り憑か

98

形よく張り出した豊かな胸に引き締まった腰こしそこから滑なめらかに続く肉感的な臀でん部ぶと華きやしや

な足首に向かって続く絵に描かいたような曲線

同性の憧れと異性の動どう揺ようを誘さそわずにおれない肢し体たいのシルエットだけでも彼女は道行く人の

視線を釘くぎ付づけにする

そんな麗うるわしき女医ライチがこの街にやってきたのは約一年前のことだ

突然現れ住まいと仕事を求めたライチをこの辺りの住人は快く受け入れた

彼女は自分がどこから来たのかどんな生おい立ちなのかなぜオリエントタウンへひとりで

やってきたのか名前以外のことはなにも話そうとはしなかった

素すじ性ようの知れない女など怪あやしまれて当然だろうけれどライチが出会ったオリエントタウンの

住人は皆みんな彼女が口を閉とざすと深くは追つい及きゆうしようとはしなかった

そのことをライチは一年たった今でも来たばかりのころと変わらず感謝している

こうして日々病院のとびらを

開けなるべく気軽に安価で治ちり療ようが受けられるよう心がけているの

も生活のためというより拒きよ絶ぜつや敬遠ではなく寛かん大だいさと優やさしさをもって自分を迎むかえてくれた

オリエントタウンへの恩返しの意味が強い

「さてと」

少年の

が曲がり角の向こうに消えるとライチは細い肩かたをすとんと落として息をついた

オリエントタウンはすでに夜の闇やみに包まれていてあちこちにぶら下げられた小さな提ちよ灯うちんや

ランプが家々を照らしていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒101

オリエントタウンは第十三階層都市カグツチの下層にこそあれど広く活気にあふれた賑にぎやか

な街だ

限りある土地を時に譲ゆずり合い時に共有して身を寄せ合うように家を建て並べ今にも壁かべが

触れそうなほど密接したりん家かとは家族のように付き合える

誰だれも彼も決して裕ゆう福ふくではないけれど薄うす暗ぐらい路地に不ふ穏おんな影かげが横切ることもあるけれどそ

れでもこの街は温かい

ここオリエントタウンの一角で小さな病院を開いている医者ライチフェイリンは常々

そう感じていた

「痛みが引くまで無理は禁物よいいわね」

階段から落ちて捻ねん挫ざしたという少年を病院の入り口まで見送ってライチは頭を下げる小さ

な彼に笑顔で手を振る

ライチは美しい女性だった

足元まで伸ばした艶つややかな黒くろ髪かみを高く結ゆわえてくるりと巻き大きなアップヘアにまとめて

いる化けし粧ようで飾かざらずとも美しいラインを描えがく眉に伏ふせれば影ができるほどに長い睫まつ毛げ黒い

縁ふちの眼鏡ごしに見える瞳は大きく知的な光を宿しているけれどややつり上がった目元はどこ

か媚び態たいを想像させる色いろ香かを匂わす

美び麗れいなのはなにも容よう貌ぼうだけではない

100

こんなにも温かく名を呼ぶのはひとりだけだhelliphellip今は

両手で二の腕をさすりながら振り返りライチは少し驚おどろいたように目を丸くさせる

そこにいたのはやはり予想通りの人物だったけれど彼の腕には予想とは

うものが抱だき

かかえられていた

声の主の大きな体が建物の色いろ濃こい影の中から出てくるライチとて

の低いほうではないけ

れど彼の

は見上げるほどだ

通常の人間ならありえないほど屈くつ強きような体に赤い肌はだ第七機

の赤あか鬼おにと呼ばれるサイボーグ

の男だった

「テイガーhelliphellip」

ライチが小さな声で名を呼び返すうちにテイガーは周囲に人ひと気けがないことを素早く確認す

ると近くまでやってくる

彼の腕うでにはひとりの少女の

があった気を失っているのかぐったりと力なく体を預け

ている長くやわらかなカメリアレッドの髪に華

な体そして青と白の世界で一番有名な制

服helliphellip統制機構の制服

「テイガーこれはどういうこと

どうしてhelliphellip」

どうして統制機構の

士を抱かかえてこんなところにいるのかそう問おうとしたライチの疑問

をさえぎっ

てテイガーは抱えていた少女の体を託たくすように差し出した

「すまんがこの少女を頼たのめないだろうか訳あって気絶させてしまったのだが放ほうり出すわ

第二章 Spiral fate 盤上の駒103

遠くには雨音が

こえる昼過ぎに

り出してから今までもずっと続いていたのだろう空

を上層に閉とざされたこの辺りもすっかり空気が湿しめっていてずいぶんと冷え込んでいた

ゆったりとした白いブラウスとその上に着込んだロング丈たけの真っ赤なチャイナドレスという

服装はライチのみ惑わく的なボディラインをくっきりと描き出すには適しているけれど寒空の

下に立つにはあまり向いているとはいえない

不意に抜けた冷たい風にぶるりと身み震ぶるいしてライチは豊満な胸元を合わせるように己おのれを抱

いたまとめ上げた髪にしがみつくようにくっついている小さなパンダの髪かみ飾かざりも心なしか寒

そうだ

今夜はきっと冷えるだろうとはいえかつて黒き獣けものが現れ魔ま素そが世界に広がるまでは十二

月といえばもっと寒くこんな薄うす手での服装ではとても外を歩けなかったそうだから当時を思

えば涼すずしい程度の気温なのかもしれない

昔はこの時期この辺りでも雪が

ったらしい魔素が狂くるわせ失わせた冬らしい季節という

ものを少々勿もつ体たい無く思いながらライチは病院へ戻もどるべく踵きびすを返した

だがただでさえ長い脚あしをさらにすらりと見せる踵の尖とがったくつが屋内に踏ふみ入る前に

後か

ら唐とう突とつに声がかかった

「ライチ」

落ち着きのある低い男の声だ

それが誰なのかライチは呼びかける一言でわかった自分のことを呼び捨てる者の中で

102

「お前になら構わんか実はhelliphellip」

『とう

亡ぼうしたサンプルの回

だ』

突とつ然ぜん第三の声が割って入った

「ココノエ

周囲に配はい慮りよしてか声は抑おさえたもののテイガーが驚きにうろたえる

ライチの表情に糸を張るような緊きん張ちようが走った

第三の声はテイガーの耳元から

こえてきたそこには小さな通信機が取り付けられている

その向こうにいるのが声の主でありテイガーの上司にして製作者でありhelliphellip一年前までは

ライチの上司でもあった人物ココノエだった

『なにを驚いている回線に入り込む程度なんでもないわかったら勝手に通信を切るんじ

ゃないいいなテイガー』

テイガーへ向けてだけでなくその周囲にも

こえるよう操作された音声が感情の波を抑え

た低い女声で語る他者の意見をは

ねのけるような語調と声色には有う無むを言わさぬ威い圧あつ感と

神経質さが現れていた

ライチも一年前まではよくこの声にしつ

咤たされたものだ懐なつかしさと一いつ緒しよに苦い思いがこみ

上げてきてライチは声から目をそむ

けるようにテイガーから視線を外す

「ココノエ博士helliphellip」

『久しぶりだなライチお前こそこんなところでなにをしている』

第二章 Spiral fate 盤上の駒105

けにも統制機構に連れん絡らくするわけにもいかなくてな」

ひどく困った様子で懇こん願がんしてくる

そんな顔でそんなことを言われては断ろうにも断れない自分の性格をわかっているくせに

と思いつつもライチはテイガーの腕の中の少女を覗のぞきこんだ

は正常だ外傷は特になく呼吸も安定しているただ単純に強い衝しよ撃うげきで意識がなくなり

そのまま眠ねむり込んでいる状態だろう

「つまり彼女の意識がないのは貴方あなたの仕し業わざってことね」

ちらりと眼鏡のすき間まからテイガーの赤い顔を見上げてライチはほんの少しの小言めいた響ひび

きを込こめて言った

テイガーとこの少女の間にちょっとした荒あら事ごとがあったことは想像に難かたくない

統制機構と第七機

係についてはよく知っているなにせライチはオリエントタウンへ

来る前テイガーと同じ

場で同じ上司の下で働いていたのだから

「helliphellipどうして貴方がカグツチにいるの」

少女の身み柄がらは引き取るそう物もの腰ごしで伝えながらもライチは堅かたい声こわ色いろで尋ねた

テイガーが所属している第七機

はカグツチから離はなれた場所に研究所を構えているカグツ

チへふらりと私用で来るような距きよ離りではない

テイガーは困こん惑わくしたように言葉に迷ったが難しそうな顔をしながらも上向きのきばが覗く

口を動かした

104

「まだわかりません」

ねのけるようにライチは大きく首を振ふった

そこにはオリエントタウンの住人が知る優しく穏おだやかで時々厳しいそんな女医の

はなか

ったあるのはなにかを必死で守ろうとする弱々しい少女のような顔だ大切な宝物を取り上

げられまいと首を振るようなそんな

ライチは厳しく引き締しめた顔でテイガーをその耳元にある通信機を見つめる

「なぜ博士はそう簡単に割り切れるんですか

すべての手を尽つくしたわけではないのにあ

の人はただ少し間まちが

えてしまっただけです少し急ぎすぎただけでそれに彼は貴女あなた

のhelliphellip弟で

子しだった人じゃないですか」

ライチの声は情感に揺ゆれていた震ふるえているといってもいい

解げせない飲み込めない受け入れたくないそんな拒絶が声だけでなく

しげに眉まゆを寄

せた表情にも浮うかんでいる

もう一度通信機からココノエのため息が

こえた今度は呆れているというより苛いら立だっ

たような吐と息いきだった彼女が頭をかきむしる仕草が見えるようだ

「すみません博士helliphellipでも私はhelliphellip諦められません」

ライチはきつく胸の前で手を握にぎり締める

だけど本当はわかっているライチは医者であり一年前までは研究者だっただから自分

でもいや

になるほど冷静で理性的な部分はもうとっくに理解していた

第二章 Spiral fate 盤上の駒107

どんな顔をしていたらいいかわからないライチは寒さではなく別のものから己を守るよう

に身を抱く手に力を込める

知性と理性で研といだココノエの鋭するどく射い貫ぬくような眼まな差ざしが通信越ごしにこちらを見み据すえてい

るのがわかった

「そんなのhelliphellip博士ならもうおわかりでしょう」

なぜライチがカグツチにいるのかもなぜカグツチの中でも下層のオリエントタウンを住ま

いに選んだのかもなぜ第七機

を出たのかも全部全部彼女はお見通しのはずだ今いま更さら説

明しなければならないことなどなにもないのだ

『まだあいつのことを諦あきらめきれんのか』

ほらとライチは思う答えずともココノエはわかっている知っているライチがなにを

考えてここにいるのかを

だからだろうか通信機越しに

こえるかつての師の声はまるで咎とがめ責めているように

こえた

「諦めるだなんてどうしてそんなことができますか」

胸の内から絞しぼり出すようにしてライチは答える

通信機からノイズが漏もれたココノエのため息だろう呆あきれ果てたといったような音だ

『もう一度言うあいつを助けようなどと無む駄だなことを考えるのは止よせあいつはもうどうに

もならんお前の力では助けられない』

106

ライチは顔を上げられなかった愚おろかだと思うのは自分も同じだ反論はない

重苦しい沈ちん黙もくが数秒流れたときだったパタパタと軽やかな足音がライチのいる病院の入り

口へと駆かけてきた

「ただいまhelliphellipってうわデカっ

やってきたのは小こ柄がらな少女だったかつ

色しよくの肌はだに黒くろ髪かみをアップにまとめており動きやすそう

な服を身に着けている

少年とも見まごう細い腕うでと胸には紙かみ袋ぶくろに入った日用品を抱かかえていたが近づいて改めて見上

げたテイガーの巨きよ体たいに思わず驚おどろいてぐしゃりと抱だき潰つぶす

「リンファhelliphellip

おおかえりなさい」

いささか慌あわててライチは向き直った

彼女はリンファライチの病院で助手として手伝いをしている医者志望の少女だ

リンファは大きな黒目をさらに大きく見開いて遠目で見るよりずっと大迫はく力りよくなテイガーを

ぽかんと見上げていた

「たただいま先生えっとhelliphellipこの人誰だれ

お客さん」

「ああそのhelliphellip」

ライチは言葉を濁にごして迷った

リンファは公私ともに支えてくれる頼たのもしい助手だがライチは彼女に自分の過去を教えて

いないし教えるつもりもなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒109

自分にできることなどなにもないのだと

||一年前ライチがココノエやテイガーと共に過ごし研究に励はげんでいた第七機

を飛び出

したのはある人を助けるためだった

その人は魔素とそれを世界にもたらしたとされる境界について研究していた

けれどあるとき彼はおかしくなってしまった常に錯さく乱らんしたようになってやがて人前に

を見せなくなり最終的には人でなくなってしまった

魔素に触ふれ続け境界に近づきすぎたがゆえの結果だった自分と境界の境目がわからなく

なってあるべき形を失った

消化してしまったものを元の食品の形に戻せないように境界に取り込まれて同化したもの

を元の

になど戻せはしない

彼を追ってここカグツチのオリエントタウンまで来てもこの街に留とどまり続けても彼の

噂うわさを耳にしては飛び出し黒く蠢うごめく影かげを探しても魔素や人ならざる種族について研究を重ね

ても彼と同じように境界に手を伸のばしても

なにも変えられない

ライチが探している『あの人』はオリエントタウンから入ることができるカグツチ下層の

下水道をねぐらとして日々ただ本能の赴おもむくままにさまよい続けている

『どいつもこいつも私の弟子は馬ば鹿かばかりだhelliphellip』

ココノエが吐はき捨てるように言う

108

意識のない女

士が身に着けている青と白の制服は苦しい生活や貧しい環かん境きようをもたらした

元げん凶きようをし象よう徴ちようしているようなものだ

その気持ちをわかりながらもライチは

めるように言う

「誰であろうと患かん者じやは患者よリンファベッドの用意をしておいて」

「helliphellipはいライチ先生」

リンファとてライチの言い分はわかっている

もう一度きつく腕の中の紙袋を抱だきしめるとリンファは渋しぶし々ぶ頷うなずきそれでも足早に病院の

奥へと駆けていった

それを横目に見送りながらライチはぐったりとした少女の腕を肩かたに担ぐようにして濡ぬれ

た体を支える

最後にと見上げた知的な瞳ひとみにテイガーは告げた

「ライチこれだけは伝えておきたいココノエはお前が機

に戻もどることを望んでいるお前

にその意思があるならいつでも手を貸すつもりだ」

それこそがわざわざ通信回路をねじ込んでまで口をはさ

んできたココノエが言いたかったこ

とだろうとテイガーは解かい釈しやくしている

あの気難しく神経質な声で話す上司は人に情じよ緒うちよめいたことを伝えるのがとても苦手だ誰よ

りも側でココノエの仕事を手伝ってきたテイガーはそのことを身にしみて実感している

ライチは驚いたような顔を見せそれから頰ほおを緩ゆるめるように力を抜ぬくと

しげに首を横に振ふ

第二章 Spiral fate 盤上の駒111

間まちがってもテイガーやココノエとの会話を

かれるわけにはいかないのだライチは素早く

助けを求めるような視線をテイガーに向ける

だがそのときにはもうすでにテイガーは通信をオフにしていたライチがなにをきらうのか

は見かけによらず理性的な巨きよ漢かんは十分理解している

ただしその代わりにとばかりに抱えていた意識のない少女をライチの腕の中に押し付ける

ように託たくした

「私は任務があるもう行かなければとにかくこの娘むすめを頼む」

テイガーがここを訪れたのはなにもココノエの心情を伝えるためでも上司とライチを口論

させるためでもなくこの赤い髪かみの少女の身の安全のためだ

「わかったわ預かる」

このじ状よう況きようで拒きよ否ひするわけにもいかないライチは素直に少女の身み柄がらを引き受けた

力なくもたれかかる少女の体は決して軽くはないが支えながら引きずってベッドへ運ぶく

らいはできる医者や研究者に相応ふさわしくない程度にはライチは力には自信があった

ライチが受け取った人物の

を見てリンファが不ふ愉ゆ快かいそうに眉まゆを寄せた

「この人図書館の

士じゃんなんでhelliphellip」

なんで

士なんかを預かるのかのみ込まれたリンファの言葉はそう続くはずだった

リンファはオリエントタウンの生まれだ下層の住人の大半がそうであるように彼女もま

た高圧的な統制機構の施し政せいに大いに不満を抱いて生活している

110

雨の中運ばれてきたせいで少女の体はすっかり冷えていた

リンファが整えてくれたベッドまで運ぶと清潔なシーツの上に横たえ

士の制服である青

い帽ぼう子しとブーツを脱ぬがせる指先まですっかり力を失った手を取り手てぶ袋くろと硬かたい金具のついた

袖そでを外した

となりの部屋でリンファが買ってきた日用品の片づけをしている物音を

きながら上等とは言

えない毛布と布団を眠ねむる少女の体にそっとかけてやる

「helliphellip今夜はこれじゃ少し寒いかもしれないわね」

青と白の帽子や袖をたな

へしまいながらライチは声に出して呟つぶやいた

そのしゆ

間んかん目に見えない糸が切れたような不思議な感覚がライチの

筋を掠かすめていったの

だけれど

ライチはそれを冷えてきたがゆえの悪寒だと思って新しい患者にかけてやる毛布を取りに

行くため部屋を出た

この

間ライチの大切なものがひとつ喪うしなわれたと彼女が知ることはなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒113

った

「helliphellip私は戻れないわあの人のことが片付かない限りは」

戻ればきっと後こう悔かいするお門かどちがいにもココノエを恨うらむかもしれない

「そしてもし片が付いて私があそこに戻ろうとしてもそのときは今度は博士が私を受け入れ

ない」

もしあの人を戻せるとしたらその方法が容易たやすくそして人道に則のつとったものであるはずがな

い触ふれてはならないものに触れなければならないだろう見てはならないものを見なければ

ならないだろう知ってはいけないものを知らなければならないだろう

そうなったときココノエが自分をどんな目で見るかライチはあまり想像したくはなか

った

難しそうに唸うなりテイガーが小さく顎あごを引く歪ゆがんだ口元は苦々しい

「そうか難しいことは私にはわからんが」

いつまでも話してばかりはいられないテイガーは広く赤い

中をライチへ向けた

「今はこれで失礼するhelliphellip達者でな」

それだけ告げるとテイガーは後うしろ髪がみを引かれる様子もなく来た道を引き返していった暗

い影かげの中に入るとやがて大きな

中はオリエントタウンの路地裏に消える

ライチもまた立ち去る

を向けて預かった

士の少女を病院の中へと運び込んだ

後ろ手にとびらを閉めればそこはもう慣れ親しんだ小さな自分の病院だ

112

まったくうんざりするこれからこんな風雨の下でひとりで作業しなければならないな

んて

「helliphellipっていつまでもぐちぐち言っていてもしょうがないですか」

自分で自分を哀あわれみながらハザマはスーツの内ポケットから小さな通信機を取り出した

耳に当ててしばらく待つ

とうに日は落ちて辺りは暗くこの分厚い雨雲で月明かりが望めるわけもないハザマの後

方で灯ともる屋上入り口の白々しい明かりがスポットライトのように円形の濡れた屋上を寒々し

く照らしていた

『||私だ』

通信機の向こうから声が応こたえた

男の声だ低く感情らしい響ひびきは一いつ切さいない

ハザマはズボンのポケットに手を突つっ込こむと心持ち

筋を伸ばした

「お疲つかれ様ですハザマですとりあえず現場に到とう着ちやくしましたよ雨ざらしですけど」

『そうかでは始めろ』

「あらら冷たいですねぇねぎらいの言葉もなしですか技術大たい佐さ」

帽子のつばなどまるで意味がない濡れて額にはりつく前まえ髪がみを指先でのけながらハザマは口

角を引いて苦くし笑ようする

もっとも通信機の向こうにいる男にねぎらいの言葉などかけられたらそれはそれで気味

第二章 Spiral fate 盤上の駒115

2199年12月30日||18時21分

雨はまだ

り続いていた

曇どん天てんはますます色いろ濃こくついには強い風まで吹ふき始める

夜ともなれば空気は冷えるただでさえここは高い場所でhelliphellipそう地上から数えればとん

でもなく高い場所でそのうえ風雨をさえぎるものがないというのに

「あーあhelliphellipもう最悪ですね」

世界虚こ空くう情報統制機構カグツチ支部の屋上つまり第十三階層都市カグツチにおいて最も高

い場所に立つハザマは

り止む気配のない雨空を見上げて心底辟へき易えきしていた

制服ではない自前の黒いスーツも雨除よけにはならない帽子も上がってきて数秒でびしょ濡ぬ

れだ

少し待てば雨足も弱まるのではないかと思って無益に潰つぶした時間は一体なんだったのだろ

うか

「これが上官命令でもあの人の言いつけでもなかったら体調不良でも持ちだして即そつ刻こく本部に

帰るところですよ」

114

歩きながらもハザマは笑っていた両手をポケットに突っ込んでいるせいで細い肩が少しだ

け持ち上がって喉のどを鳴らすたびに小刻みに揺ゆれる

誰もいない鳥さえ近づかないカグツチの頂でハザマはどこか摑つかみどころなくにゆ

和うわに笑い

かけた

彼にだけわかる人物へまるでなだめすかすように

「そう急せかさないでくださいよ焦あせらなくてもいずれ取り戻せますって」

||ねえテルミさん

第二章 Spiral fate 盤上の駒117

が悪くてとても仕事どころではないのだけれど

『あまり時間がないさっさとしろ』

「はいはいまったく貴方あなたもあの人も人使いが荒あらいんですから」

ではまた後ほどそう言葉を足して通信を終えるとハザマは手の中に握にぎり込めるくらい

小さな通信機を玩がん具ぐでも扱あつかうように宙へ放ほうり投げキャッチした

雨が冷たい

ハザマは目ま深ぶかにかぶっていた黒の帽子をほんの少しだけ持ち上げた

濡れた髪の向こうから金色の瞳ひとみが覗のぞいていた照明の中でちらつく無数の雨あま粒つぶを鋭えい利りな狡こう猾かつ

さで見み据すえる一いつ緒しよにその向こうで静かに濡れるがらんと空くう虚きよななにもない屋上の空間を

軽く肩をすくめるようにしてハザマが笑えみの息を漏もらしたまるで誰かになにごとか語り

かけられたかのように

「わかっていますよ私だってさっさと片付けたいですからね」

さあさあと雨の音が途切れることなく続いている

そこにハザマ以外の誰かの声はなくもちろんハザマ以外の

はない

暗い夜の屋上は雨あま霧ぎりの中でなにひとつ文句も言えず濡れるばかりでハザマに何事か語りか

けるはずもない

ハザマは通信機をしまうとちょいと帽子を直し屋上の中央に向かって足を踏ふみ出した硬

い革かわぐつが濡れた床ゆかを叩たたいて微かすかな水音を弾はずませる

116

Page 6: t1501 ブレイブルー1 面付BLAZBLUE―ブレイブルー―1 カラミティトリガー 上> 原案・監修 ‥ 森利道(アークシステムワークス) 著‥駒尾真子

「大丈夫だ信じろラグナ」

もう一度獣兵

が拒こばむ少年を説く

その低くたしなめるようでもあった呟つぶやきに小さくシスターが息をのんだ

「helliphellipラグナ」

思わずく唇ちびるからこぼすように呼んだ

その名に弾はじかれたように少年が獣兵

の肩から手を離して腕に抱だく少女を隠すように身を

引いた

まるで怯おびえた子犬のようだ傷ついて空腹で苦しくてだけど自分より小さな者を守らねば

と懸けん命めいに足を踏ん張りきばを剥むくそんないじらしい

にシスターは微笑みを浮かべて温かく

少年を見つめた

「貴方あなたラグナというの」

向けられた視線にか声色にかそれとも言葉にか少年は戸と惑まどったようにうろたえ獣兵

を見てその

の少年と自分の腕の中の少女を見たそれからためらうようにシスターへと

視線を戻もどすとhelliphellip警けい戒かいの針を向けながらも小さく浅く頷うなずく

間シスターは胸に温かなものが灯ともるのを感じた

まだ若かったころ目め尻じりに深い皺もなく髪も白くなかったころ出会いそして別れた人

を思い出す

少年はあの人によく似ているそして記憶の中のあの人もラグナという名前を持っていた

プロローグ11

獣兵

は小さな子供を

負っていた少年だぐったりともたれかかった体は力なく気を

失っているか深く眠ねむっているかのどちらかだろう

後方にはもうひとり少年がいたこちらは獣兵

負われている少年よりもいくつか年上

のようで荒あらい呼吸に

せた肩かたを上下させながらまるで手負いの獣けもののようにシスターを見つ

め睨にらんでいる彼の腕うでの中にももうひとりこちらは小さな少女がやはり意識なく身を預けて

いた

三人の子供よく似ている不健康なほど白い肌はだに薄うす汚よごれた金色の髪かみ瞼まぶたを持ち上げている

のは自分の足で立っている年上の少年だけだったが彼の風ふう貌ぼうからするにきっと三人とも美し

い緑色の瞳を持っているのだろう

「この三人を預かってくれこの教会に置いて育ててやってほしい」

そう言って獣兵

に載のせていた少年をシスターに渡わたそうとする

だがその前に後方にいた少年が自分と同じくらいの位置にある獣兵

の肩を摑つかんだ傷だ

らけの腕で抗こう議ぎするように強く

「心配するなシスターなら大だい丈じよ夫うぶだいやhelliphellipシスターでなければ駄目なんだここ以上に

安全な場所はない」

なだめるように獣兵

が語りかける

だが少年は緑色の瞳を鋭するどく尖とがらせ眠る少年に触れることを許さないとばかりにシスターを

眼光で射い貫ぬいていた

10

「こいつらを頼めるか」

普ふ段だんならば愛らしくもある猫の容

で獣兵

は重く問う

そんな重さをいとも容易たやすく掬すくい上げるようにシスターは軽かろやかに顎あごを引く

「もちろんいいえむしろ私からお願いするわこの子たちの面めん倒どうをみさせて」

ジンの頭をそっと抱き寄よせて乞こうようにシスターは言う

涙なみだが出そうだった溺おぼれるような嬉うれしさゆえだこんな未来がこんな運命が待っているな

んて思ってもみなかった

「この子たちを守る役目を私にちょうだい」

シスターの言葉に獣兵

はため息をついて猫

の肩を落とした安あん堵どの吐と息いきだった

「ラグナ彼女がhelliphellipシスターだ」

彼女の本名を告げるかどうか迷って結局近年呼び慣れた呼こし称ようで紹しよ介うかいすると獣兵

は後方の少年を前へと出した

彼はどうしたらいいのかわからないらしく険しい表情を頑かたくなに守ろうとしながらも困こん惑わくに

瞳を揺ゆらしシスターを見る

その強張った顔にシスターが手を伸のばすと小さなラグナはびくりと肩を飛び上がらせ下が

ろうとした

構わずにシスターは彼の頭へ手を置いたぽんぽんと髪を押さえるように撫なでる

「初めまして貴方たちに会えて嬉しいわようこそ私の教会へ今日からここが貴方たち

プロローグ13

ああまるで魔ま法ほうみたいだそれとも奇き跡せきだろうかシスターは瞼を伏ふせると感謝の祈いのり

を捧ささげた

その瞼が再び持ち上がるのを待って獣兵

が改めて

の少年を下ろしたシスターに差し

出すラグナという名の少年は迷いながらも今度は制止しなかった

眠り続ける細い体を受け止めてシスターは意識のない少年を胸に抱く腕の中の小さな体

の温ぬくもりがシスターの過去の記憶をより鮮せん明めいにさせた

「この少年がジンであいつが抱いている少女がサヤだそれから今も言ったがあいつの名

前がラグナ」

獣兵

が少年たちを順に紹介していく

ジンサヤラグナ

教えられた名前をシスターは胸中で何度も繰くり返した何度も何度も大切なものを包み込

むような温かさで何度も

「ジンにサヤそうこの子たちが貴方のラグナの弟と妹なのね」

「ん

その通りだがhelliphellipシスターどうして知っている」

「だって昔に

いたんだもの大切な弟と妹がいるって」

そうずっと昔にあの人から

いた大事な約束を交かわしたあの人から

義兄はなにかを思い出すような目でどこか遠くを見やり力を抜くように笑む

そうかと低く独りごちるように呟いてから改めてシスターを見た

12

近くに小川が流れすぐ裏手には実り豊かな森がある

そこはかつて大きな戦争があった時代の決戦の地けれど今は誰だれもが忘れた土地

緩やかで草深い草原の中ぽつんと建つ小さな教会で

老いたシスターと三人の子供の慎つつましくも賑にぎやかな生活がこの日始まった

||ねえラグナあなたは私に会えたかな

プロローグ15

の家よ」

温かく話しながらシスターは思う

遠い日に交わした約束それが果たされる日をずっと待っていたこの日が来るのをずっと

ずっと待っていた

ジャムを作らなかったことを頭の隅すみで後こう悔かいするもし作ってあったならこの子たちにお茶

と一いつ緒しよにジャムをたっぷり塗ぬったパンを食べさせてあげられたのに

「お帰りなさいラグナ」

きっと声が震ふるえていたせいだろう

口を結んだまま警戒を緩ゆるめられずにいるラグナの緑色の双そう眸ぼうに一

心配するような色がよ

ぎるから

やっぱり本当は優しい子なのだと思ってしまったから

シスターは目尻から透とう明めいな雫しずくをこぼしながら喜びのままに少女のように微笑ほほえんだ

||ねえ覚えてる

||あの約束を覚えてる

||私は会えたよ

||ねえ貴方は会えた

14

げる

身を隠かくすつもりは毛頭なかったむしろ向こうが見つけて仕し掛かけてくるならその都度叩たたき

のめすのが彼のやり方だ

こそこそやるのは性しように合わないどうせ目立つならできるだけ

手に振る

っていつか自

分の襲しゆ来うらいを

いただけで連中がに

げ出すようになればいいと思う

もっともそんな虫のいい話はないだろうと思ってもいるが

すぐに青と白を基調とした制服に身を包んだ男が五六人銃じゆうを抱かかえて走り込んでくる

こちらの位置に気付いていなかったのかはち合わせた途と端たんに先頭の数名が動どう揺ようして足を止

めた

だが彼は止まらない歩みを疾しつ走そうに変えて一直線に突つっ込こむと手の剣を大きく振ふりかぶっ

「止まれ

止まらなければ撃うつ」

制止の声に意味はない

制服

の男たちがそれぞれに銃を構えた即そく座ざに全員が発はつ砲ぽうするけたたましい発砲音が廊

下に響く

がその直後彼は振りかぶった剣を

いよく薙ないだ

「うらぁぁぁぁぁっ」

剣から黒く禍まがま々がしい揺らめきが放たれて宙を駆かけ迫せまる銃じゆ弾うだんのすべてをの

み込んで掻かき消し

第一章 Stratum city 階層都市17

第一章

Stra

tum city

||階層都市

アーチ状に造られた白く高い天てん井じように慌あわただしい足音がいくつも響ひびいていた

誰もが口々に警戒と攻こう撃げき指示を口にする侵しん入にゆ者うしやを捕つかまえろ殺せこれ以上進ませるな

そう叫さけぶ声はしつ

咤たや激げき励れいというよりもっと

痛な音に引きつっておりひどく追い詰つめられた

状じよう

況きようを如によ実じつに物語っていた

廊ろう下かの先から

こえてくるそれらを

きながら

彼は迷いや躊躇ためら

いなど微み塵じんもなくいっそ悠ゆう然ぜんとした振るま

いで近付いてくる足音のほう

へと進んでいた

白い髪に左が緑で右が赤という左右で色のちが

う瞳ひとみがっしりした体つきに黒い服を纏まとい

その上に目の覚めるような真っ赤なコートを羽織っている

(helliphellip後から後からよく集まってくるもんだ)

ぼやくように思いながら彼はそれまで肩に担いでいた幅はば広びろで分厚い刀身の剣けんを手にぶら下

16

彼はなにもひっそりとここに忍しのび込んだわけではない

を守る警

員を殴なぐり倒して正面

から堂々と侵入したのだ

まるで自分の力と存在を誇こ示じし深く爪つめ痕あとを残すように彼は暴れに暴れて手あたり

第に破

壊し奥へと進んだ立ちはだかるものはなんであろうと斬きり倒すそんな暴力的な歩みで進

んで進んでhelliphellip

そうして彼が到とう達たつしたのは長い長いし昇ようこう装置で

りた先のぽっかりと口を開けたような

地下深い広間だった

helliphellipそこはもうこれまで通ってきた廊下や部屋とは

う世界だった

空気が

う温度が

床ゆかも壁も天井も金属に似た質感の板で覆おおわれており広場を見下ろす位置にガラス張りの小

部屋が設けられているその下にも重じゆ厚うこうな機械類が並んでおりそれらが見み据すえる先で異様に

大きななにかの装置が沈ちん黙もくしていた

人は誰もいないここにいたはずの人間は皆みな襲しゆ撃うげきの知らせを受けて避ひ難なんしたのだろうそ

してここに駆けつけるはずの人間は皆白はく髪はつの侵入者が蹴け散ちらしてしまった後だ

一歩一歩彼は広間の奥に鎮ちん座ざしている巨きよ大だいな装置へと足を進めた

異質さが体にまとわりつくようだった

第一章 Stratum city 階層都市19

てしまう

揺らめきはそのまま炎ほのおの速さで走りじ弾だんを浴びせる制服たちへと迫ると一息に吹ふき飛ばし

たご

うと炎が逆巻くような音が巻き起こり男たちの体は

鳴ごと攫さらわれて壁かべに叩きつけら

れる衝しよ撃うげきに負けて壁に太くヒビが走った

たった一撃それだけで銃を構え勇ましくも侵入者を迎むかえ撃とうとしていた男たちは全員

意識を失い廊下に倒たおれ伏した

「helliphellip倒されるってわかってんだからのこのこ出てくんじゃねぇよ馬ば鹿かが」

あっけないものだ倒れた制服

を横目に見やると大きな剣を携たずさえた彼はすぐさま廊下を

走り出す

いつまでもこんなところで時間を食っている場合ではない

向かうのはこの施し設せつの一番奥最下層だ

また廊下の奥から青と白の制服

が現れる口々に叫びながら銃を構えあるいは剣を抜ぬい

た人

数はさっきよりも多いがだからといって彼のやることに変わりはない

真正面から突っ込んですべてを振り払はらい叩きのめす

々に制服

の力ない体が廊下のあちこちに転がりセキュリティ装置はことごとく破は壊かいさ

れ口を閉とざすとびらすら叩き切られて鉄くずに変えられた

18

この世でありながら別の世であるかのような本能が警告するい和わ感のようなものが空気の

代わりに漂ただよっている

けれど彼には慣れた空気だった

もう幾いく度どもこういうところにはやってきているのだここと同じ構造をして同じ装置を地

下に隠した施設をこれまでいくつ訪ねたかわからない

毎度訪問の目的はひとつ

この巨大な装置の破壊だ

彼は床を踏ふみしめるようにして歩み寄る

これがなんのために存在しているのかここで働いていた者のどれほどが把は握あくしていたのだ

ろう

来るたびに彼は棘とげのような疑問を感じる

これがなにをもたらすと思って毎日毎日こんな陰いん気き臭くさい地下深くまで

りてきて用よう途とも

わからないチカチカ光る計器をいじくり回していたのだろう

縁へりまで来ると彼はそれを睨にらみ据すえる

銀色の金属で組み立てられた装置は見上げるほどに高くそびえ見下ろすほどに深く大き

かった

メインとなる部分は彼が見下ろす円形の部分だ

これは『窯かま』だった

20

第九階層都市アキツ世界虚こ空くう情報統制機構支部

都市の中心に建っていた施設が何者かの襲撃によって崩ほう壊かいしその騒動で都市全体が混乱し

ている中

赤いロングコートを着た白髪の男はひとりひっそりと都市から去ろうとしていた

もうここでやるべきことは終わった長居は無用だ

施設での

手な立ち回りに反して外では人目につかぬよう入り組んだ道を通りできるだ

け薄うす暗ぐらい出口を選んだ

街中で制服を着た

士たちに見つかれば振り払うために戦わねばならないそれが煩わずらわし

い錆さび

臭くさい鉄門をくぐって奥にあるポートへ向かうその脇わきにある通路を下れば外に出られる

はずだ

そのときふと薔ばら

の香かおりが彼の鼻び孔こうをくすぐった

「まるで行き場を失った野の良ら犬みたいね」

淡たんた々んとしたあざけり

の声が

こえ彼は足を止めて振り向いた傍かたわらに佇たたずむ細い外灯を見上げる

先せん端たん

が二ふた股またに分かれたシンプルなそれの上にひとりの少女が立っていた

歳としは十を過ぎて数年といった程度だろうかまだ幼い顔立ちをしながらも足元からの薄暗

い明りに照らされて浮うかぶ赤い瞳は外見の年とし頃ごろに似合わぬ聡そう明めいさをたたえている

第一章 Stratum city 階層都市23

今はいくつもの金属板が折り重なるようにして口を閉ざしているが開けば内は火山の火口

のようになっている炎えん色しよくの溶よう岩がんのようなものが渦うずを巻いて覗のぞき込む者のすべてをのみ込ま

んと燃え盛さかっているのだ

だが中でわだかまっているものは決して溶岩や炎などではない

そこにあるのは異界だ人が本来あるべきではない世界のひずみ走った亀き裂れつの向こう側

見てはいけなかった踏み込んではいけなかった世界のからの外側

彼が見下ろす金属の装置はこの窯を制せい御ぎよしまた窯に干渉するためのものだ

本来及およぶべきものではない異界||境界に触ふれるための装置

彼は世界中に散らばるこの窯を破壊して回っていた

こうして

めてみても今いま更さら感かんがいもない

彼は剣を腰こしに戻もどすと右手を装置へと向けて突き出した何事か呟つぶやくもう何度も繰くり返し

口にしてきた破壊をもたらす言葉

言葉は彼の右みぎ腕うでで眠ねむっていた力を呼び起こし力は彼の右腕に蒼あおい光を生んだ

またたく間に辺りを埋うめ尽つくすほどに増ぞう幅ふくされた光を彼は装置に向けて思い切り放つ

のしゆ間んかん地下深くで口を閉ざしていた異界への門はそれを囲む広大な部屋ごと跡あと形かたもな

く吹き飛んだ

22

別に行き先などどこでもいいカグツチならここアキツからでもそう遠くはない

彼は忌いまい々ましげに少女の消えた辺りを睨みつけると示された

の目的地を目指して歩き出し

た数

日後彼の名は世界中に指名手配犯として公開された

ラグナザブラッドエッジ

それが『死神』の異名を持つ史上最高額の賞金首の名だった

2199年12月30日||13時27分

約百年前世界は一度滅ほろびかけたという

突とつ如じよ現れ世界中を破壊して回った巨大にして異形の怪かい物ぶつhelliphellip『黒き獣けも』の

その圧あつ倒とう的な力に人類は為なす術すべもなくあっという間に世界の人口は半分に減った

ところがそこに六人の勇士が現れた

第一章 Stratum city 階層都市25

下方の彼を見やって少女は薄うすく微笑ほほえんだ

「薄うす汚ぎたない迷子の野良犬さん

に貴方あなたが行くべき場所を教えてあげましょうか」

「helliphellipなに企たくらんでいやがる今まではそんなこと教えなかったじゃねぇか」

吐はき捨てるように彼は低く呻うめいた

少女は呆あきれたように眉まゆ尻じりを下げる

「心外ね教えてきたじゃないhelliphellipもう何度も」

「はぁ

なに言ってんだテメェ」

「覚えていないならいいのよ期待もしていないわ」

指に絡からまった糸くずでも払うように言うと少女はある方向をその白く小さな手で示した

その先に広がるのは暗雲を抱いだく暗い夜空星も月もない夜はまるで不ふ穏おんな予感を掻きたてよ

うとするかのように重苦しく静かだった

「第十三階層都市カグツチ」

そこが貴方が導かれるべき場所よ

そう告げると少女は薔

の香りを漂わせ風が吹き抜けるように

を消した

甘い花の香りが消えると白昼夢から現実に引き戻されたかのようにどこからか金属とくさ

った水の臭においが漂ってくる

気分のいい場所ではない

「カグツチhelliphellipね」

24

た街は山の高度に沿って上下に広がり結果幾いく重えにも市街のプレートが重なった狭せまくも高

い都市が生まれたのだ

ここ第十三階層都市カグツチもまた世界中の都市がそうであるように複雑な多重構造と

なっている都市だった

その中の折り重なった市街のひとつオリエントタウンの入り組んだ細い道を彼は少々ふ

らついた足取りで歩いていた

白い髪かみに左は緑右は赤という左右で色のちが

う瞳ひとみ全身を包む黒い服に目の覚めるよう

な真っ赤なロングコート腰には幅はば広びろで分厚い刀身がと特くち徴よう的な剣けんが下げられている

ラグナザブラッドエッジ

世界虚空情報統制機構の支部を各地で壊かい滅めつさせているSS級の指名手配犯であり史上最高

額の賞金首が彼だ

とはいえ周囲を行き交かう街の住人は誰もラグナを気にしたりはしないどうせまたどこか

らか無法者が入ってきたのだろうそんな程度の視線が時折興味もなさそうに掠かすめては離れ

ていく

ここはオリエントタウンカグツチの下層に位置する街だ

階層都市はその構造上上層の街であるほど魔素から遠く安全で清潔で逆に下層に行くほ

ど管理が行き届かず魔素に近い階層都市において上下は住みやすさだけでなく晒さらされる命

の危険の度合いをも意味している

第一章 Stratum city 階層都市27

彼らは事象兵器

アークエネミーと呼ばれる武器を手に黒き獣にいどみ災さい厄やくの魔ま物ものを倒し人類に未来をもた

らした

六英えい雄ゆうと讃たたえられた彼らは人知れず歴史の海に

を消し行ゆく方え不明となったがそれでも彼ら

の栄光は伝説として語かたり継つがれた

それは近くも遠い昔の話

今の世にかつての黒き獣との戦争||暗黒大戦の誰だれもが知るような名な残ごりがあるとすれば

それは大きく数えてふたつだろう

ひとつは世界虚空情報統制機構

暗黒大戦のとき六英雄と共に戦った世界的な連合軍が母体となった組織であり現在は世界

中をこの組織が統とう括かつしている

そしてもうひとつが魔素

災厄の魔物黒き獣の出現と共に世界中であふれ出した物質で黒き獣が倒たおされた後も依い然ぜんと

して世界の空気中に残り続けた

今では様々なテクノロジーにも利用され人々が暮らしていくうえでなくてはならないもの

となっているがそれでも多量の摂取は人体への危険を伴ともなう

そのため人類は魔素を利用しながらも魔素を避さけて生活しなければならなかった

魔素は地表に近いほど濃こく滞たい留りゆうしているそこで考え出されたのが階層都市だ

高山を基き軸じくにしてそこからプレート状に築いた市街を突つき出させるようにして街を建設し

26

っている

そのうえあちこちの路地を塞ふさぐように木箱やらなにかの詰つまった袋ふくろやらが我が物顔で腰を下

ろしているものだから何気なく入った路地が通り抜ぬけられないこともしばしばある

赤い柱にぎょろついた目玉のついた奇きみ妙ような像街中に小さな明かりの灯った提ちよ灯うちんがぶら下げ

られていてそれ以上におびただしい数の大小の看板が眩まぶしいネオンを輝かがやかせている

普ふ通つう下層の街というのはいくつもある上層の基き盤ばんに陽光をさえぎら

れて昼間でも薄暗く場所に

よっては真っ暗になるものだがここはそんな暗がりとは無む縁えんのようだ

路地を抜けると少し開けた通りへ出た

左右にずらりとなにかの店が並んでいてどうやらこの辺りのメインストリートらしかった

その分掲かかげられた看板の数もその

手な色しき彩さいも段だんちがいだ

(この辺なら統制機構の連中もいねぇだろ)

比ひかく的広い通りでもいかにもこの街の住人といった人間ばかりが歩いていて世界虚空情報

統制機構の例の忌いまい々ましい青と白を基調にした制服は見当たらない

ありがたい話だもし見つかれば曲がりなりにもラグナは重大犯

者周囲への配はい慮りよもな

にもなく雨あられと発はつ砲ぽうされ

から

へと集まってくる

士たちと追いかけっこを演じなけ

ればならなくなる

ラグナは左右をきょろきょろと見回しながら腹部に手をやった

疲労より空腹が辛つらいカグツチに入ってからというもの食料品を扱う店に巡り合えず持

第一章 Stratum city 階層都市29

当然最上層を占せん拠きよしているのは管理機

でもある世界虚空情報統制機構だその

連施し

設せつや

係者の住宅が市街のほとんどを占しめている

続いて権力に近く裕ゆう福ふくである者が上層階に住まいそうでない者はその

産や身分に順列を

つけるように下へ下へと下っていく

オリエントタウンに住んでいるのはそういった順列の結果ここまで追いやられてきた人間

たちだった

誰も彼もお世辞にも裕福とは言えない自分と家族それから少しの親しい人間の生活の

ことで精いっぱいで見るからに異質な白髪の男にかかわって余計な面めん倒どうに首を突っ込みたが

る酔すい狂きよ者うものなどほとんどいないのだ

もっともラグナ自身も周囲の人間の様子に気を配っている余よ裕ゆうはあまりなかった

今は使われていないは搬んに入ゆう口からカグツチに侵しん入にゆうしたのが二日前それからずっと人の通ら

ない裏道や廃はい棄きされたエリアを通ってきた図はかったわけでもないのに延々と歩かざるを得なか

った悪路に正直疲ひ労ろうが募つのっている

帰りはもっとまともな道を通ろうそう決めていた

「にしても下層にしちゃ賑にぎやかな街だな」

辺りを見回しラグナはぼやくように率そつ直ちよくな感想を口にした

オリエントタウンは無計画にとにかく乱雑に家を建て並べたことがよくわかる入り組んだ

造りをしていた道は狭くやたらに折れ曲がり家々は今にも密着しそうに身を寄せ合って建

28

「うhelliphellipう」

微かすかに震ふるえる声で呻き少女はゆっくり顔を上げる

ラグナを見上げたフードの中におそらく誰もが想像するであろう少女の顔はなかった

あるのは黒い暗い闇やみを詰め込んだような陰かげその中でへなりと下がった赤い目らしき丸と

白い歯の並ぶ下を向いた三日月形の口だけが浮かんでいる

ぴくぴくと痙けい攣れんするようにフードについている三角の耳が震えた

人間ではないけれど獣のような尻尾や耳を持つ獣じゆ人うじんとも様子が

「もしかしてhelliphellipカカ族か」

このような奇きみ妙ような風ふう貌ぼうの生き物をラグナは過去にも一度見たことがあった確か剣けんの師しし匠よう

を訪ねてきたはずだ同じような黒い顔に実にシンプルな顔のパーツ目の前にいる少女とそ

のとき目にしたカカ族の女は明らかに別人だがこのと特くち徴よう的な容

は他にあるまい

もっとも『カカ族』という名めい称しようを知っているだけでつまりどういう一族なのかをラグナは

知らないのだが

さてこの少女をどうしたものか

わらずに引き返すべきか見なかったことにして先へ

進むか

咄とつ嗟さのことに決めあぐねていると顔だけを起こしたカカ族の少女はその弱り切った様から

は想像もできない俊しゆ敏んびんさで突如ラグナの足にしがみついた

「うおぁっななんだ」

第一章 Stratum city 階層都市31

ち歩いていた保存食も底をつき昨日の夜からなにも食べていないのだそろそろいい加減

限界が近い

いくら下層街でもこの雰ふん囲い気きなら飲食店くらいいくつかあるだろうそう思って雑多な看

板からそれらしい名前を探しているとhelliphellip

なにかやわらかいものを踏ふんだ

「ブニャッ」

同時になにかの鳴き声が足元から

こえた

「げっ」

犬か猫ねこでも踏みつけたかと思ってラグナは慌あわてて足をどける

が見下ろしたそれは予想に反してずいぶんと大きなものだった

というより人だったり両よう腕うで両足を地べたに投げ出し力なく倒れ伏ふしている少女だ全身

をすっぽりと覆おおうフードつきのローブから長い三つ編みの髪とかつ色しよくの肌はだの足が覗のぞき見えてい

るhellip

hellipいや

「なhelliphellipなんだテメェ」

警けい戒かいというより疑問一色の声で問いかけるラグナの視界でひょろりと弱々しく細長い尻しつ尾ぽ

が揺ゆれた

尻尾はその倒れた少女から生えていた

30

「はぁ

おおいどうした大だい丈じよ夫うぶか」

あまりにも切せつ羽ぱ詰つまった声を出すものだからさすがに少し心配になった持ち上げていた足

を下ろして陰を詰めこんだような顔を覗きこむ

まるで黒いお面のような顔は目も口も情けなく下げてラグナを見上げ今にも気を失いそう

な弱さで訴えた

「おhelliphellipお腹なかが空すいたhelliphellipニャス」

黄色いクロスがかけられた丸いテーブルの上にいくつもの皿が並んでいた

揚あげた鶏とり肉にくに薬味だれをたっぷりかけたもの肉団子と色いろ鮮あざやかな野菜の甘あま酢ずあん炒いため四

角く切り分けた豚ぶた肉にくを甘あま辛からく味付けしたこってりとした煮に物ものに山と盛られた炒め飯牛肉と

野菜を濃い味の味み噌そで炒めたもの細切りにした野菜を薄うすい皮で包んだパリパリの春巻きに

挽ひいた肉を包んで蒸むしたふかふかの饅まん頭じゆhellipうhellip

白い湯気と共に胃いぶ袋くろを震わせずにはおかない匂においを放つ数々の料理を三角耳のついたフー

ドの奇妙な少女は椅い子すからずり落ちそうなほど身を乗り出して忙いそがしく口に掻かき込んでいた

「はぐはぐはぐニャスはぐはぐはぐはぐはぐニャスはぐはぐ」

料理を頰ほお張ばる音なのか箸はしをしゃぶる音なのか空気の抜けるような声が絶えず漏もれていた

第一章 Stratum city 階層都市33

「うぅぅニャhelliphellipた助けてhelliphellipニャス」

驚おどろいて足を持ち上げ振ふり払はらおうとしたラグナの足に両腕を絡めてぶら下がり三角耳に尻尾

を生やした少女はあわれっぽく訴うつたえる

しがみつく腕うでをほどこうとラグナは足を大きく上下に振ふりまくるが少女の腕がどういう

わけか一向に離れない

「くっこの離しやがれ

なんなんだよテメェは」

「離さないニャス絶対に離さないニャスぅhelliphellip助けてくれないとこのままオマエの足を食う

ニャスよぉぉhelliphellip」

声だけは弱々しくだが腕は言葉に反して力強くラグナの足を摑つかんで離さない

この騒さわぎでも周囲の人間は奇き怪かいなものでも見るような視線を一いつしゆんくれるだけでそれ以上

わろうとせず通り過ぎて行く

面倒なトラブルに巻き込まれる心配はなかったが少なくとも親切な通行人の手助けは見込

めなさそうだった

何度目かでいい加減に諦あきらめるラグナは足を中ちゆ途うと半はん端ぱに持ち上げたまま縋すがり崩くずれるカカ族

の少女を憔しよ悴うすいの表情で見下ろした

「待て待て待て足を食うなてか意味わかんねぇよ助けるってなんだよ」

「うぅぅhelliphellipよhelliphellipよくぞ

いてくれたニャスタオは今とってもピンチなのネもうhelliphellip

もう限界ニャス」

32

た中皿いっぱいに盛ってあったはずの春巻きはいつの間にか最後のひとつになっていた

「こんなにうまいご飯を

ってくれるなんて白い人はいい人ニャスタオはとぉ〜っても感

謝してるのニャス」

両腕を大きく振り回して少女は喜びの度合いを示そうとするその手は指先まですっぽり

と袖そでの中に隠かくれていて猫の前脚を模したように大きく丸くなっていた

ラグナは春巻きを飲み込んでから尋たずねる

「タオってのはお前の名前か」

「ニャス

タオカカニャス」

大きく頷うなずくと尻尾を持つカカ族の少女タオカカはもう一方の手に持ったままだった肉饅

頭をまた一口で頰張り飲み込こんだ

「タオは村を出て勇ましく旅立ったんニャスがhelliphellipすっかりお腹が空いて動けなくなってたの

ニャあのときいい人が助けてくれなかったらタオは今ごろ干からびてカカの干物になって

たニャスこの『ごおん』は忘れないニャスよ」

勝手に身の上話を始めながらタオカカは味噌炒めの皿を抱かかえて残っていた分を全すべて口の中

に流し込んでしまう

まだそれ食ってなかったんだけどとは言えずラグナは渋じゆ面うめんでその様を見守った仕方な

く肉饅頭をひとつ確保すると呆れを込めてため息に肩かたを落とす

「はいはいなにがご恩だよどうせ飯食ったら忘れるだろお前」

第一章 Stratum city 階層都市35

さっきまで力なく下がっていた目も今はまん丸で口も上向きの三日月形となっている

その様を横目に呆あきれ顔でながめながら向かいの席に座っていたラグナは揚げた鶏肉を口に運

んだ分厚い衣ころもがカリカリとしていてうまい久しぶりに直じか火びで炙あぶっただけでない手の込ん

だ食事だった

「helliphellipうまいか」

料理は凄すさまじい速度で減っていく奇妙な少女が嬉きき々として大量のメニューを注文し始めた

ときはラグナはとてもそんなに食べきれないと青ざめたがそんな心配は無用だったようだ

むしろ今となっては支し払はらいのほうがよほど心配だ

先だけ白くなっている尻尾をふりふりと上じよ機うきげんに揺らす奇妙な少女はふかふかの饅頭を両

手に摑つかんで顔を上げた

「うまいニャス

あれもこれもそれもぜ〜んぶうまうまニャス」

「そうかそうかそらよかったよはぁhelliphellip」

こうも屈くつ託たくなく当然のように貪むさぼられるとこいつの頭に遠えん慮りよという言葉はないのかだとか

そもそもどうして自分が見ず知らずの正体不明な少女に食事をおごっているのかだとかなぜ手

を引かれるままに大人しくこの店まで来てしまったのかだとか尽つきることなく浮うかんでくる

疑問もどうでもよくなってくる

少女はうまそうに肉饅頭を一口で頰張る

あっという間に飲み込む様に思わず苦くし笑ようを漏らしてラグナは春巻きをひとつ箸で取り上げ

34

だが現在はどちらかというと統制機構の手に負えない凶きよ悪うあ犯くはんや行ゆく方えの知れないとう

亡ぼう犯など

にかけられた多額の賞金を得て日ひ銭ぜにを稼ぐ者のことを表している

それが全てというわけではないが多くはまともな

につけなかった荒あらくれが暴力手段で稼

げる口として選ぶ道だ

女の咎追いが珍めずらしいわけではないがこれほど無防

でき緊んち張よう感のない咎追いはラグナは見

たことがなかった

「そうニャス今日からなったニャス」

「今日からかよ」

「そんでこいつを摑まえるのネ」

なぜだか誇ほこらしげにタオカカは皺を伸ばした紙をラグナに差し出した

ラグナは肉団子を野菜と一いつ緒しよに口の中で嚙かみ砕くだきながらそれを受け取る街角などに貼はら

れているような指名手配書だったあまりお目にかかれない気前のいい賞金額と共にひどく

不細工な男の似顔絵が描えがかれている

賞金首の名前はラグナザブラッドエッジ

「ぶはほっ

その名前を見た途と端たんラグナは盛せい大だいに肉団子と野菜を咀そし嚼やくしたものを噴ふき出した

「ぶにゃにゃ

いきなりご飯噴き出すなんていい人ばっちいニャもったいないニャスよ」

横で抗こう議ぎしながら最後の肉饅頭を頰張るタオカカの声も耳に入らないラグナはまじまじ

第一章 Stratum city 階層都市37

「忘れないニャス」

突とつ然ぜんピンと尻尾を真まっ直すぐに立ててタオカカはずいと身を乗り出すとテーブルの上からラ

グナを見上げた瞳どう孔こうのない丸い目ときばを並べた三日月の口がお面のようで不気味だ不気味

であるはずなのにどうしてか見つめられると愛あい嬌きようを感じる

「カカは義ぎ理り堅がたい一族ニャス受けた恩は忘れないのネいつかタオが大金持ちになったら

今度はタオがいい人にご飯を

ってやるニャス」

「大金持ちってhelliphellipお前な腹減りで行き倒だおれてた奴やつがなに言ってんだアテもねえくせに」

「ぬっふふふアテならあるニャスよ」

言ってひょいと肉団子を三つ箸に刺さして口に放ほうるとタオカカは椅子までずりずりと体を下

げて服の中からなにかを取り出した

くしゃくしゃになった一枚の紙だタオカカはそれを丸い手でテーブルの上に広げて皺しわを伸の

ばす

「タオは咎とが追おいニャス悪い奴をとっちめてたくさんお金をもらうのネ」

「咎追いだ」

怪けげんそうにラグナは眉まゆを寄せた

咎追いとはいわば賞金稼かせぎだ

元は大量の魔ま素そによって生態系が乱れ大量の新種生物が発生した

にそれらを討とう伐ばつする

べく統制機構が武装を許可した者たちのことを指した

36

「うニャいいニャスよいい人はタオのおんじんニャスからねどーんと任せておくといい

ニャス」

そう言ってタオカカはニシシと笑うと綺き麗れいに舐めた皿をドンとテーブルに置いた

その目の前に

「お待たせしました〜」

若いウエイトレスが新しくいくつもの皿を並べた

肉味噌ののっためん

とパリパリに揚がった

にたっぷりの野菜が入ったあんをかけたもの

焼き豚ぶたをスライスしたものの盛り合わせエビのすり身やら豚のひき肉と香こう味み野菜やらをもっ

ちりとした皮でくるんだ無数の蒸し物

できたての遠えん慮りよ容よう赦しやのない湯気が豊かな香かおりと一緒に天てん井じようへ上がる

「helliphellipは」

頼たのんだ覚えはないそう抗議しようとして気がついた

あのときhelliphellipラグナが自分の手配書を見ていたときだあのときタオカカが一口で食べた肉

饅頭が皿に残っていた料理の最後だった

その直後そういえばタオカカがメニューへ手を伸ばしていたような気がする

「ひゃほ〜ぅうまそうニャス

秘密の抜け道は危ないところなのネいい人もお腹いっぱ

いにしておかないとお腹空いちゃうニャスよ〜」

悪びれるどころか嬉しそうに蒸し物を引き寄せるタオカカの手をラグナは思い切り摑んだ

第一章 Stratum city 階層都市39

と手にした手配書を見る細かく手が震えた

(なhelliphellipなんっだよこの似顔絵

いくらなんでも似てなさすぎだろ

そもそもよくわかっ

てねぇなら似顔絵なんか載のせんなよ俺がこういう顔だみたいに広めてんじゃねぇよ

まさかこれがカグツチの街中にベタベタ貼ってあるのではないだろうかだとしたら憂ゆう鬱うつだ

この顔が『ラグナザブラッドエッジ』の顔だと思われていることもだがこの額で手配

書が出回っているとなるとずいぶんな数の咎追いがラグナを探しているはずだそういう咎追

いはこのカグツチにも多くたむろしているだろう

(普ふ通つうに街中通ってくのはまずいかhelliphellip)

あの青と白の制服連中に見つかるのも厄やつ介かいだが咎追いに見つかるのも厄介だそれこそこ

っちの都合などお構いなしに街中だろうがどこだろうが構わず『仕事』に取り掛かるに

ない

「helliphellipなあタオカカだっけかお前カグツチの上のほうに行く抜ぬけ道とか知らねぇか」

くしゃくしゃの手配書を返しながらラグナは心持ち身を屈かがめて声を低めたもしあるなら

多少悪路であっても面めん倒どう事ごとを引き起こすよりはずっといい

タオカカは甘酢あんだけが残った肉団子の大皿を舐なめながら答える

「おう秘密の抜け道ネ知ってるニャスよ」

「本当か

そりゃいいなあ飯

ってやる代わりにその抜け道まで案内してくんねぇ

か」

38

の腕うでを摑むとウエイトレスの手を強く払った

荷物でも担かつぐようにタオカカを肩に抱だき上げて弾はじかれたように店を飛び出す

「うニャニャッ

タオのご飯

まだ食べてないニャスよ」

「うるせぇ

それどころじゃねえんだよ」

肩かた口ぐちで

痛な声をあげ追いすがるように手を伸のばすタオカカへラグナは焦あせりのままに声を

荒げた

オリエントタウンの大通りへ出ると人波を掻かき分けて持てるき脚やく力りよくの限界にいど

いで走る

「待て

誰だれか捕まえて食いに

げだよ

後方からウエイトレスの金切り声が追いかけてくる

ぎょっとすることにウエイトレスの足はラグナに負けていなかったしゆ

念うねんのせいかもしれな

いラ

グナは足を動かしながら何度も悪態をついたまさかカグツチにやってきて最初に引き起

こす騒そう動どうが食い

げだとはこの街に上がってきたときには思いもしなかった

担がれたタオカカはしょんぼりと尻しつ尾ぽを垂らしてまだ諦あきらめ切れないのか後方へ向けて空を

掻いていた

「うう〜っタオのご飯がぁhelliphellip」

「いいから抜け道の場所を教えろ

店の奴に摑まってミンチにされてぇのか」

「みんち」

第一章 Stratum city 階層都市41

いのあまり腰こしが浮く

「おおまっなに勝手に追加してんだよ

「ニャ

いい人もうお腹いっぱいニャス

ならタオが全部helliphellip」

「ちげぇよ

こんな山ほど注文されていくらなんでも払はらえるか

俺はそんなに金持って

ねぇんだよ

そもそもラグナは仕事を持っていない時折咎追いの真ま似ねごとや日ひ雇やといの仕事で旅費を稼い

だりもするがそんなものは一時しのぎだ金がなくてまともな宿さえ取れないというのに

さっきまでの注文に加えてまだ追加がくるなんてとても財さい布ふの中身が足りると思えない

息巻くラグナの肩に手を置く者があった

ラグナは一度うるせぇとそれを払い落すだが手はすぐにもう一度ラグナの肩を叩たたき手

の主が低く

後から問うた

「お客さん

今helliphellip金持ってないって」

「helliphellipあ」

言われラグナが振ふり向いた先に立っていたのはラグナよりずっと

の低いウエイトレス

だったにこやかに微笑ほほえんでいるがその目はどこか殺気じみている

「金持ってないって」

ウエイトレスはもう一度問う

その直後ラグナはまるで事態がわかっておらず蒸し物をパクパク口に運んでいたタオカカ

40

2199年12月30日||13時35分

灰色の雲に閉とざされた空を

景に一そう

の船が港に到とう着ちやくした

船といっても海を渡わたる船ではない渡るのは空だ

膨れた腹部に人間や機材といった貨物を詰つめて運び左右に伸びた翼つばさに魔素を取りこみ飛行

する魔操船

当然空飛ぶ魔操船が停てい泊はくする港も相応の造りをしている

第十三階層都市カグツチ第五番ポート他に比べて小さく目立たない造りになっている

そこはある特定の目的に多く使われるポートだった

身を寄せるように入港した暗色の魔操船の重々しい稼か働どう音おんが止まりハッチが開いて細身の

階段が下方へ伸びる

銃じゆうを肩かたに下げた青と白の制服

士が数名

りてきて慌あわただしく持ち場につき無線機で

なにやら報告を交かわす

それから遅れることしばしポートの平たい地面に向かう階段に黒い革かわぐつの足がかけられ

た続いてひょいと細身を覗のぞかせるように現れたのは黒いスーツに身を包んだ

の高い男だ

第一章 Stratum city 階層都市43

「肉だよ肉

さっき並んでた料理になりたくなきゃさっさと教えろ」

なにも本気で店員が自分たちをミンチにすると思って言ったわけではないが遅れて意味を

理解したタオカカは真に受けたらしいびくりと尻尾が飛び上がって警けい戒かいするように太く膨ふく

れる

「お肉にされたらお肉が食べられなくなっちゃうニャス

それはいやニャス」

肩の上で器用に身を捻ひねってラグナの前に着地するとタオカカは獣けもののように両手を地面につ

いて走り出す

「いい人こっちニャス」

「よしわかった」

タオカカが飛び込むようにして細い路地に入るい一つしゆん反応が遅おくれたもののラグナも空の籠かご

をひっくり返しながらそれに続いた

ネオンの看板から遠くなりぐっと辺りが薄うす暗ぐらくなる

走りながらラグナはげんなりと自じちようするように思った

今日の食い

げの分明日から自分にかけられている賞金が増額するかもしれないなhelliphellipと

42

青のブーツで雨水を

ね上げながらハザマのいる管理小屋の前まで行くと軽く息を整えて

を正す

空色の瞳ひとみは凜りんとしており生き真ま面じ目めな表情をしていた

「お待たせしてしまってすみませんでも一声かけてくださればよろしかったのにhelliphellipまだ

中にいらっしゃるのかと思って探しておりました」

「おやおやそれはそれはお手数をおかけしましたツバキヤヨイ少しよ尉うい」

その瞳が示す通りどこまでも生真面目に話す女性をツバキと呼んでハザマは口の端はしを深く

吊つり上げ笑えみを浮うかべた

ツバキヤヨイ少尉彼女はハザマのように諜報部の所属ではなく世界虚空情報統制機構

武装魔ま術じゆ師つし第四師団の所属だった

世界虚空情報統制機構とは国家というがい

念ねんのなくなった現世界においてその代役を担になう重

大にして巨きよ大だいな機

だ帝みかどと呼ばれる絶対的な決定権を持つ存在を頂点に掲かかげ世界中の施し政せい

司法軍事あらゆる社会的基き盤ばんを管理し運営している

それだけに設けられている部署は膨ぼう大だいであり役割の異なる部署が共にひとつの任務に当た

ることはひん

繁ぱんにあることではない

だがツバキとハザマはちが

う部署でありながらとある任務のためにふたりでカグツチへとや

ってきていた

「いやぁしかし生あい憎にくの天気ですねぇこの雨の中広いカグツチでひとりの男を捜そう索さくすると

第一章 Stratum city 階層都市45

った

緑の髪かみにのせた黒い帽ぼう子しを指で押さえて男は尖とがった顎あごを上向かせ空を仰あおぐ目ま深ぶかにかぶっ

た帽子のせいで目元は見えないが薄うすいく唇ちびるは不満そうにへの字に歪ゆがんでいた

「あらま雨ですか」

空一面を埋うめ尽つくすように広がる灰色の雲からは静かな雨が

っていた

もうずいぶん前から

り続いていたようで狭せまい五番ポートはどこもかしこもすっかり濡ぬれ

ている雲に動きもないようだししばらくはこのまま

り続けるだろう

やれやれとうんざりしたようにため息をつくと男は足早に屋根のある場所へと移動した

黒スーツの男は世界虚こ空くう情報統制機構||多くは統制機構とり略やく称しようで呼ぶ機

のち諜よう報ほう部に

在ざい籍せきしている名はハザマ階級は大たい尉い

彼が乗ってきたこの魔操船はその諜報部の名前で使用された船だ

この五番ポートはそういう統制機構の中でも公おおやけにできない任務や用件のときに多く利用さ

れるいわば人目を避さけるためのポートだった

「ハザマ大尉

外にいらしたのですね」

魔操船の階段から女の声がかかりスーツについた水すい滴てきを払っていたハザマは顔を上げた

青と白の制服にそろいのポンチョを羽織った若い女性が足早に階段を駆け下りてきた青の

ベレー帽ぼうをかぶっておりそこから腰をも越こすほど長く伸のばされた鮮やかなカメリアレッド

の髪が流れている

44

視線を上げればここからでも高山の頂上から突つき出るようにそびえる美しく壮そう麗れいな支部の

が見られたただ今日は悪天候のため雨のカーテンが視界を煙けむらせる

霞かすむ支部を見上げてツバキはわずかに眉まゆを寄せた

「helliphellipなぜキサラギ少佐はカグツチなどに」

それはジンのことを知る者なら誰もが抱くような疑問だった

第四師団団長ジンキサラギは

常に冷静な人物だメリットとデメリットを十分分ぶん析せきした

上で行動する思し慮りよ深ぶかさを持っているしなにより突然統制機構に

を向けて己の立場を危あやうく

させるような愚ぐち直よくなタイプではない

こんなことは実に『彼らしくない』行いだ

思い悩なやむようなツバキの

にハザマは少し驚おどろいたように「おや」と言った

「これは意外ですねツバキヤヨイ嬢じよう貴女あなた

ほどの聡そう明めいで優ゆう秀しゆうな方がおわかりにならな

い」

口元に笑みを刻んで問うハザマの試ためすような口調にツバキは小さく胸中がざわつくのを感

じたいや

味みな言い方をする男だ

ツバキはハザマという男をよくは知らないだから彼がどういうつもりでこういった物言い

をするのか

しもつかない

だがこの一言だけで黒いスーツに身を包んだ彼を好ましくないと判断する程度には気に障さわ

る語調だった

第一章 Stratum city 階層都市47

なると中々骨が折れそうです」

また帽子に手をやって雨を

りこぼす曇どん天てんを見上げハザマが今度はどこか愉ゆ快かいそうに言う

彼らの任務は人探しだった誰を探すのかといえば

「それでもなんとしてもキサラギ少しよ佐うさを探しませんとhelliphellip」

ツバキは視線を足元に落とし己おのれに言い

かせるように呟つぶやく

ジンキサラギ少佐それがツバキとハザマが探している男の名前だった

武装魔術師第四師団の団長でありツバキにとっては直属の上司だ彼の秘書官として側そばに

仕え支えてきた

その彼が数日前突とつ然ぜん統制機構の本部から

を消した

任務でもなく届け出もないこれは統制機構において重大な規律い反はんだ

一師団を預かる団長が独断行こう為いにより行ゆく方え不明などという事態は前代未みもんだ部下や他師

団に影えい響きようを与あたえるからと今のところこの一件は公になっていない

だが現状がどこからか漏えいする可能性もあるその前になんとしても連れ戻もどさなければと

ごく秘ひ任務を命じられたのがハザマであり彼が協力者に選んだのがジンキサラギの秘書官で

あるツバキだった

冷たい雨が空気を冷やすそのせいだろうか五番ポートは金属のにおいがたちこめていた

濡れた灰色の階段の向こうに上層階らしい整理された街並みがうかがえる奥へ進んでいくつか

階層を上がれば最上層である世界虚空情報統制機構カグツチ支部だ

46

だがハザマは欠片かけら

も気にした様子なくむしろそれこそ子供の反はん抗こう的な物言いに噴ふき出すよ

うに軽く笑った

「あららそっちでしたかこれは失礼いたしましたツバキヤヨイ少尉」

帽子に手をやりわずかに持ち上げて会えし釈やくしてみせるその間もずっと彼の細い首はくつく

つと喉のどを鳴らすような笑いに震ふるえていた

「少佐がなにをお考えなのかなんて我々にわかるはずもありませんよそれこそご本人を見

つけて直接お尋たずねになってはいかがです」

そうできないから疑問なのだと苦く胸中で思ったもののツバキは余計な言葉を奥にしまい

こんだ今必要なのは疑問でも感情でもないそう自分に言い

かせる

「helliphellip了りよ解うかいしました大尉」

ツバキが生き真ま面じ目めに答えるとハザマはもうひとつ笑ってから切り出した

「さていつまでもおしゃべりしていても仕方ありませんしそろそろお仕事を始めるとし

ますか」

仕事つまりはジンキサラギの捜索だ

ツバキはハザマへのけん

悪お感ではなく任務への使命感に表情を引き締しめる

ハザマは雨に濡れたカグツチの街並みを見やりながらにんまりと唇を引いて言葉を続けた

「まず確かく認にんしておきましょう我々の任務はジンキサラギ少佐を捕ほ獲かくし本部へ強制帰き還かんさ

せることただし少佐の失踪の件は公にされていませんからカグツチの

士たちへは内密に

第一章 Stratum city 階層都市49

小波のような不快感を飲み込んでツバキは

士の顔を取り繕つくろいせ筋すじを伸ばすたとえ好ま

しくなくてもツバキは少尉でハザマは大尉上官だ

「申し訳ありません大尉私にはhelliphellip」

「貴女からの報告にあったではありませんかキサラギ少佐は例の『死神』に

する報告を受

けた翌日に

を消したのだと」

ハザマは両手を軽く広げてみせる

さっきのからかうような物言いのせいだろうかそんな仕草でさえツバキにはどこか

に映る

「報告の中には『死神』つまり指名手配中のラグナザブラッドエッジがカグツチに向か

っているらしいという情報もあったそのうえで少佐がカグツチに向かったのならそれはも

う『死神』を追っての行動だとしか考えられないでしょう」

統制機構を出たジンの行き先がカグツチであるとの情報を持ってきたのはハザマだった

うっかりそんな情報を摑つかんでしまったがためにこんな辺へん鄙ぴな場所への任務を命じられてしま

ったと愚ぐ痴ちめいたことをツバキは魔操船の中で散々

かされていた

「恐おそれながらハザマ大尉それは私にもわかります私が疑問なのはなぜ少佐が統制機構を

飛び出してまで『死神』を追わなければならなかったかです」

いささかむっとしてツバキは言う言ってからすぐ無礼が過ぎたかと危きぐが過よぎった

にあるまじき子供じみた態度だったかもしれない

48

てもらえますか」

「別件ですか」

戸と惑まどうように尋ねたツバキの質問に対しハザマは肩をすくめるような苦くし笑ようだけを返し具

体的な言葉は告げなかった

ハザマの所属は諜報部だ他部署へ言えぬ用事も多かろう見えない目的に少々の怪けげん

さを

感じながらもツバキは配はい慮りよのつもりでそれ以上尋ねるのをやめておいた

「わかりましたでは下層のhelliphellipオリエントタウンの辺りから調査してみます」

「そうですねあそこはカグツチでも一番広いエリアですし身を隠かくすにはうってつけですか

らいいと思いますよ」

うんうんと適当に頷うなずきながらハザマは一歩歩み寄るとわざわざ腰こしを折って下方から覗のぞき込

むようにツバキを見た

帽子のつばで瞳が見えないけれど絡からみつくような視線が確かにこちらを捉とらえているのがわ

かる

子供に言い

かせでもするようにハザマは人差し指を一本立てた

「ただひとつ気を付けてくださいね治安が行き届いていない場所はキサラギ少佐が身を隠

している可能性も高いですが同時にラグナザブラッドエッジがうろついている可能性も

あります万が一おふたりが鉢はち合あわせて戦せん闘とうなんてことになったらもう私たちには手も足も

出せませんから」

第一章 Stratum city 階層都市51

お願いしますよ部外者はもってのほかです」

「はい」

「それから現在カグツチにはラグナザブラッドエッジが潜せん伏ぷくしているとみられますそ

のためD警報が発令されていますのでそのつもりで」

D警報とはつまり統制機構による特別警けい戒かいが行われているという意味だそのためカグツ

チの住民でない者や統制機構とは

係のない他機

がこの都市でなにがしかの活動を行うこ

とを禁止している

「D警報に抵てい触しよくする者と接触した場合はカグツチの支部に連れん絡らくを取ればよろしいのでしょう

かそれともこちらで対処したほうが」

しゃんと

筋を伸ばしハザマを見み据すえて問うツバキの様はどこにでもいる一

士と片付け

るにはいささか毅き然ぜんとしすぎる品をたたえていた

それもそのはずだ彼女は統制機構を創設当初から支え幾いく人にんも重役をはい出しゆつしてきた十二宗家

のひとつヤヨイ家本家の娘むすめなのだから

だがハザマはツバキの纏まとう品もそこからくるどこまでも真面目な性しよ分うぶんもなにもかもが面めん

倒どうくさいと言わんばかりに口元を歪めると実に雑に答えた

「あー適当でいいですよお任せします」

「はhelliphellipはい」

「じゃあ私はちょっと支部に別件の用事があるんで先に下層のほうから捜索を始めておい

50

ハザマの気さくさに引きずられることなくツバキはあくまで部下として返事をすると堅かた

苦くるしく

筋を正した

「それでは大たい尉い私は下層を見て回ってきます」

「ええよろしくお願いしますよ今のカグツチは物ぶつ騒そうですからお気をつけて」

「はい失礼いたします」

腰を折って一礼しツバキは管理小屋の狭せまい軒のき先さきから雨の中へと駆かけ出した小さく水音を

はねさせながらポートから街中へと向かう階段を上がっていく

腰までを覆おおう青いポンチョがカメリアレッドの髪かみと共に躍おどり去っていくのをハザマは管理

小屋の壁かべに寄りかかって見送っていた

やがてひ翻るがえるポンチョの青もツバキが

ね上げる水の音も完全に雨の向こうに消えるとゆっ

くりと身を起こす

「本当にお気をつけて」

低く声を喉のど元もとで濁にごらせるように呟くとハザマもまた雨の中へと悠ゆうゆ々うと踏ふみ出した

第一章 Stratum city 階層都市53

「そうhelliphellipですね」

ツバキは身を引くように俯うつむいて苦々しく答えた

ジンは統制機構でも並ぶ者なしとまで言われる剣けんの使い手だそのうえ約百年前の黒き獣けものと

の戦争『暗黒大戦』で使われたとされている事象兵器

アークエネミー氷ひよ剣うけんユキアネサを所持している

そして『死神』ラグナザブラッドエッジはこれまで数々の統制機構支部をたったひとり

で壊かい滅めつさせてきた相応の力を持った人物

このふたりがもしも刃やいばを交えることになればツバキにもハザマにも止めることはできない

その最大の理由をハザマがなぜか陽気に言い放つ

「いやはやなにせ私も貴女も戦闘は専門外いざ荒あら事ごととなったらからきしですからねぇ」

ツバキは統制機構の士官学校を出ているため最低限の戦闘訓練は経験しているだがそれ

も護身術程度のことだ卒業後はジンの秘書官として日々書類や来客の相手ばかりしてきた

そんな状態で戦闘技術の向上が見込めるわけもない

一方のハザマも自身で言う通りち諜よう報ほう活動にこそスキルはあれど武力をもって事態に当たる

ことは不得手だった

ハザマは武具の似合わない生白い手でひらりと宙を払はらってにんまりとく唇ちびるを引く

「まお互たがい無理せずいきましょう我々のお仕事はキサラギ少佐を連れ帰ることですから

そこをお忘れなく」

「承知いたしました」

52

の声だった

「しhelliphellip失礼いたします」

答える声が震えたドアノブを摑む手はもっと震えていた

転んだりしたらどうしようああどんな顔をしていたらいいだろう顔が赤くなってしま

いそうでそれだけは必死に堪こらえて平静を取り繕って

ツバキは部屋の中へと入る

最初に目に入ったのは机に向かってペンを走らせるひとりの男性の

だった

後にある窓から入り込んだ日の光が掠かすめて彼の美しい金色の髪を煌きらめかせていた長い

睫まつ毛げの向こうで情感薄うすく書面を見下ろしている瞳ひとみは離はなれた部屋の入り口からでもわかる澄す

んだ緑色をしているはずだ

部屋には彼以外誰だれもいなかった

を丁てい寧ねいに閉めると室内にはツバキとふたりきりだ

何事か書き終わったらしく机に向かっていた彼はどこかおっくうそうに顔を上げるそれ

からその目を驚おどろきに見開いた

「ツバキhelliphellip」

呼んでくれた声は

の外で

いた義務的な声とはちが

っていた

感情の温度が灯ともった声こわ色いろは表情と同じように驚いた風でそのせいかさっきより少しだけ上うわ

ずったように音が高い

「どうしてお前がここにhelliphellip」

第一章 Stratum city 階層都市55

helliphellipそれはほんの数年前のけれどかけがえのない数年をさ遡かのぼった

ある日のことだった

世界虚こ空くう情報統制機構統合本部

真まっ直すぐに伸のびる白タイルの床ゆかをツバキは緊きん張ちようの面おも持もちで歩いていた

初めて袖そでを通してまだ日数のたっていない青と白の統制機構

士の制服はまだ体に馴な染じんだ

とは言いがたくて頭に載のせたつばのない帽ぼう子しもコツコツと床を叩たたくブーツもそつなく着

られているか心配で仕方ない

胸に書類のファイルを抱えてこれで何度目になるかわからないけれど最後にもう一度長く

伸ばした髪を指先で整えて

それからツバキは目的地であったとびらを控ひかえ目にノックした

「||入れ」

一いつ拍ぱくの間をおいて

の向こうから声が返ってくる

そのしゆ間んかんツバキの心臓がドキリと大きく

ねた

感情の遠い義務的な声けれどわずかに少年らしい響ひびきの残った声はツバキがよく知る人

54

十二宗家本家の出の者が同様に宗家本家の出であるジンの秘書に着くという事例は稀まれだ

その辺りからツバキの無茶を

したのだろうジンは呆あきれたように苦笑する

思わずツバキは震ふるえる吐と息いきを漏もらした久しぶりに見たジンの笑顔だった

「秘書が来るとは

いていたがまさかお前だったとはなhelliphellipよろしくツバキヤヨイ少

尉」そ

う言ってジンは白い手てぶ袋くろをはめた手を差し出す

ツバキはファイルを小こ脇わきに抱えると見上げてくる綺き麗れいな緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し

ながら差し出された手を握にぎった

この日この時からツバキの師団長秘書としての日々が始まった

を追いかけるばかりだった士官学校での後こうはい時代とは

うとなりに

側そばに立ち

務を支える

時間が始まったのだった

2199年12月30日||17時30分

カグツチの下層へ

りていきながらツバキは注意深く周囲へ視線を向けていた

もう少し先へ行けばオリエントタウンと呼ばれるエリアに入るはずだそこはカグツチの中

第一章 Stratum city 階層都市57

仕事中らしからぬ砕くだけた物もの腰ごしにツバキは強こわ張ばっていた頰ほおを緩ゆるめたすとんと緊張が抜ぬける

「書類は届いているはずですよお読みになっていないんですか」

ツバキはファイルを抱えて机の前まで行くといぶかしげな彼へ敬礼し

筋を伸ばした

「本日付けで武装魔ま術じゆ師つし第四師団団長ジンキサラギ少しよ佐うさの秘書官に任命されましたツバ

キヤヨイ少しよ尉ういであります少佐よろしくお願いいたします」

型通りだけれど昨晩から部屋で何度も練習した言葉だ

ミスなく言えたことにツバキがほっとしているとジンが驚おどろきに持ち上げていた眉まゆをわずか

に怪けげんそうに寄せた

「少しよ尉うい」

問われた理由はツバキにもよくわかる

ツバキは世界虚こ空くう情報統制機構において貴族的地位にある十二宗家の生まれだ十二宗家の

者は統制機構の士官学校卒業後最低でも中ちゆ尉ういの階級を与あたえられる

ツバキも例外ではなく卒業直後は中尉であったそれがなぜ現在少尉なのかというと

重大な理由がある

「それはその」

ツバキは言いにくそうに口ごもった

本来別の配属だったところをどうしてもジンの秘書官になりたいと粘ねばりその要望を通す代

わりに

格となったとは彼の前ではとても言えない

56

かしこも濡れていた

通り過ぎる建物細い横道の向こう物もの陰かげすれ

う人ツバキは視界に映るすべてに神経

を向ける

自然と歩調が速くなるのは募つのる焦あせりゆえだ知らず知らずのうちに手はきつく握られていた

(キサラギ少佐helliphellip)

もう何度心の内で呼びかけたかわからない

唇を固く引き結びまるで縋すがるように視線を左右へ走らせるその表情はただ行方ゆくえ

不明の上

官を探しているだけには留とどまらない深い感情の揺ゆれがあった

(どこにいるんですかhelliphellipジン兄様helliphellip)

ツバキはジンキサラギの秘書官だだがそれ以前からジンはツバキにとって特別な人だ

った

ツバキが十二宗家ヤヨイ家の娘むすめであるならジンは同じく十二宗家キサラギ家の子だ互い

に幼いころから知っていた幼いころから顔を合わせ言葉を交かわし時には子供らしく遊ん

だりもした

ツバキが統制機構の

士を目指して士官学校に入ったのも先に入学し将来は師団長を期待

されていたジンの後を追いかけたかったからだ

ジンは勉強も武術もなんでもできたけれどツバキは運動が苦手だっただからせめて勉強

だけは追いつこうと必死に学んだ学生時代はジンが会長を務める生徒会で共に働いたことも

第一章 Stratum city 階層都市59

でも一ひときわ広く人口の密集したエリアだと

いている

人を探すには不向きな場所だだがだからこそジンが足を向けた可能性はあるとツバキは

考えていた

そこならば容易に人ごみに紛まぎれることができるし入り組んだ路地や階層都市の構造のすき間ま

に身を隠すこともできるなにより下層は統制機構の

士が少なく上層に比べて監かん視しの目が

緩い

統制機構が追手をかけることはジンも十分わかっているだろうならばその目を避さけるのは

当然のことだ

同時に同じように追われる身であるラグナザブラッドエッジが下層を潜せん伏ぷく場所に選ぶ

可能性もジンならば考えたはずだ

硬かたい地面に青いブーツのくつ音おとを響かせてツバキは足早に歩く鮮あざやかな色の髪がしっとり

と雨に濡ぬれる

短い階段を

りるとその先はオリエントタウンの街外れだった

使われているのかいないのかわからない寂さびれた雰ふん囲い気きの倉庫が並びその先にわずかに芝しば生ふ

の植えられた広場のようなものがあるぽつんと佇たたずむ外灯は所々に錆さびの染しみがこびりついてい

た下

層は上層の地盤があるためほとんどが空をさえぎられ屋外でありながら屋内であるかのよう

に天候の影響を受けにくいだがこの辺りはまだ他層より突つき出しているらしく雨でどこも

58

けれど『死神』を統制機構の他

士と同じように考えるのは危険だ

彼は単身で統制機構を相手に反逆行こう為いを繰くり返かえしこれまでただの一度も拘こう束そくされることな

くとう

亡ぼうを続けている並なみ大たい抵ていの力では不可能だということを彼を追うべき立場でもあるツバ

キはよく理解していた

ラグナはおそらくとても強いもしかしたらジン以上に

それになにより恐おそれるべきはそのき凶よう悪あく犯が持つ魔ま導どう書しよだ

||蒼の魔道書

ブレイブルー

かつて黒き獣けものと戦った暗黒大戦時代にある魔ま法ほう使つかいによって術式という技術が開発された

魔法を模したもので魔素を使い火を熾おこしたり水を呼んだりと様々な現象を引き起こすことが

できる技術だ

その術式を扱あつかうために必要な鍵かぎが魔道書だった

蒼の魔道書

ブレイブルー

は世界中に数え切れないほど存在している魔道書の中でも最強と囁かれている

(ジン兄様でも蒼の魔道書

ブレイブルー

を相手にして無傷でいられるはずがない下手をしたらhelliphellip)

そこまで考えてツバキは走った悪お寒かんに身を震ふるわせた

蒼の魔道書

ブレイブルー

は最強とその威いり力よくを絶大に評価されながらも詳くわしいことは知られていないとい

う奇きみ妙ような魔道書でもあった

そもそも魔道書は〞書〝でありながら形状は様々で本の形をしているとは限らない

ラグナザブラッドエッジの蒼の魔道書

ブレイブルー

も彼が持っているという事実は認にん識しきされている

第一章 Stratum city 階層都市61

あった

淡たん白ぱくな物言いをしたり鋭えい利りな目つきをすることがあったから周囲は時折彼のことを冷たい

人だと囁ささやいた

けれどツバキにとってはいついかなるときも彼は優やさしい兄だった

細く美しい金色の髪に涼すずしげな緑色の瞳すらりとした体たい軀くに白い肌はだ整った顔立ちそ

の聡そう明めいな横顔に時々本当に時々だけれどhelliphellip見み惚とれたりもした

頼れるツテというツテを頼ってどうにかジンの秘書官の座を手にしたときはどれほど嬉うれし

かったことか

慕したっていた憧あこがれていた屋や敷しきの奥でひとり毬まりつきをしていた幼子のころから今でもずっ

「ジン兄様helliphellipっ」

急ぎ足だった歩調はいつしか小走りに変わっていた爪つま先さきが小さな水たまりを踏んで水すい滴てきを

ね上げる

一刻も早く見つけ出したかった心臓が軋きしむように胸を打つ

ツバキの頭に浮うかぶ最悪のケースはやはりどこかでジンと『死神』ラグナザブラッド

エッジが遭そう遇ぐうしてしまうということだった

ジンは強い統制機構の中でも彼とまともに剣けんを交えることができるのは数えるほどしか

いないだろう

60

ぎゅっと一ひときわきつくこぶしを

胸むな元もとで握るとツバキは首をふって雑念を払はらった

余計なことを推測している場合ではない今は一刻も早くジンを探すことそれだけを考え

なければ万が一今回の行動のせいでジンが反逆者とみなされたりしたら取り返しがつか

ない

急ごう自分をしつ

咤たするように大きく足を踏ふみ出してなにやら小さく物音の

こえた広場

の裏手へ回ってみる

物置だろうかふたつ並んだ小屋の裏を通り抜けようと狭せまい角を曲がった

その途と端たん目の前に壁かべが現れた

「きゃっ

あまりに突とつ然ぜんのことでとても対処できずツバキは進入した

いそのままに壁に激げき突とつした

だが直後に気付く

壁というにはあまりに分厚く建材にしては感かん触しよくがやわ

らかい

「むhelliphellip」

壁の向こうから声がした腹に響ひびくような低い男の声だ

ツバキの目の前にそびえるそれは壁などではなく見上げるほど巨きよ大だいな男の

中だった

「ああすまなかった怪け我がはないか」

そびえる巨きよ軀くはその異様なまでの圧あつ迫ぱく感に似合わぬ紳しん士し的な物もの腰ごしで語りかけのそりと重く

振ふり返る

第一章 Stratum city 階層都市63

もののそれがどんな形状をしているのかはわかっていない

それどころかいつどこで蒼の魔道書

ブレイブルーが造られその秘ひめたる力はどんなものなのか世界

虚空情報統制機構のち諜よう報ほう部ですら正確には把は握あくしていないという

ただでさえ強い『死神』であるのにそのうえ正体のわからない魔道書まであってどう楽

観視できるというのか単身でいどみかかるなど無茶にもほどがある

(helliphellipジン兄様はラグナザブラッドエッジを捕つかまえるためにひとりでカグツチまで来た

のかしら)

物もの影かげに目を凝こらしながらツバキは独り言のように思った

たとえ独断行動によって強制帰き還かん命令が下されているとしてもジンは統制機構の

士であ

り師団長だ『死神』を追って統制機構を飛び出したのだとしたらその目的は凶悪犯の捕ほ縛ばく

以外に

えられないとツバキは思っていた

けれど本当にそうなのだろうかふとそんな疑念が過よぎる

(でもだってそれならどうして誰にも言わないで出ていく必要があったっていうの私に

もなにも言わないで)

なによりそのことが胸に突き刺ささる

ジンは心根の読めない人だけれどそれでもなにかあったときはいつだって一声かけてくれ

たのに

「ううん理由はジン兄様を見つけてから直接

けばいいことよ」

62

者も多いそのほとんどはべつ

称しようとしての呼称だ

赤鬼と呼ばれた巨きよ漢かんがどんなつもりでその

称を使ったのかはツバキには読めないけれど

好感情でないことは見るからに明らかだった

テイガーは身構えることこそしなかったものの眉み間けんに深い皺しわを刻み厳いかめしい渋じゆ面うめんでツバ

キを見み据すえる

「helliphellipすまん図書館の

士と接せつ触しよくした」

ツバキから視線を逸そらし耳元へ大きな手をやってテイガーが低く何者かへ告げる直後に

ノイズのような音が走った通信だ

「通信を切ってくださいそこを動かないで」

素す早ばやくツバキは護身用に支給されているけん

銃じゆうを腰こしから抜ぬいたしっかりと両手で握にぎり銃口

を赤鬼へ向ける

テイガーはわずかに首を動かしてツバキを見やったもっとも分厚いレンズの丸眼鏡ごし

では奥の眼まな差ざしまではうかがえない

見下ろす威い圧あつ感に気け圧おされそうになりながらもツバキは努めて厳しく赤鬼を睨にらみ据すえた

「現在第十三階層都市カグツチにはD警報が発令されています第七機

を含ふくめ全すべての他機

の介かい入にゆうは禁止です答えなさいここで一体なにをしていたのですか」

「やれやれ銃を下ろせ

士の少女そんな玩おも具ちやのようなものでは私のボディを傷つけるこ

とすらできんぞ」

第一章 Stratum city 階層都市65

異様なのはなにも体の大きさだけではなかった

人の肌にしては赤みの強すぎる肌の色ただでさえ屈くつ強きような太い腕うでに取りつけられたぎ仰ようぎ々ようしい

手て枷かせのようなパーツ引き締しめられたく唇ちびるから上向きに伸のびる白いきば

鬼おに

約百年前に滅ほろびた日本という国の昔話にそんな怪かい物ぶつが登場したはずだツバキは幼いころに

読んだ絵本を思い出す

それと同時に目の前にいる赤い巨きよ人じんが誰だれなのかを思い出した

「貴方あなたhelliphellip第七機

の赤あか鬼おに」

呼ぶと同時にツバキは数歩下がって身構えた

第七機

術式を主体とした統制機構の世界統治に異を唱え術式に頼たよらない世界を作ろう

と企くわだてている外部機

赤鬼はその第七機

に所属する兵士でありその巨軀からも想像できるように圧あつ倒とう的てきな制圧

力を誇ほこる

正式名めい称しようはTR0009アイアンテイガー

第七機

の研究者によって造られたサイボーグだ

向こうもこちらの

に気付いたようでツバキの胴どう回りよりも太そうな足を一歩引いた

「その制服図書館か」

術式の乱用を防ぐために世界中の魔道書を集め管理していることから統制機構をそう呼ぶ

64

きません」

まるでなだめるように語りかけるテイガーの語調が余計にツバキの態度を頑かたくなにさせる

ここで弱よわ腰ごしを見せればそれは統制機構そのものが第七機

に対して弱腰になったとみなさ

れるようなそんな気がしていたそんなことは許されない

世界の秩ちつ序じよを守る統制機構の

士が平和のために戦う武装魔ま術じゆ師つし第四師団の団長秘書が

規律を犯おかした第七機

の兵士と取り引きめいたことをするなんて

銃を構え巨体の赤鬼を見据えたままツバキは手の中に握りこめる小さな通信機を取り

出した

ひとりでは対処しきれない早急に応おう援えんを呼ぶ必要があった

「武装魔術師第四師団所属ツバキヤヨイ少しよ尉ういです現在カグツチ下層オリエントタウンで第

七機

のhelliphellip」

「参ったなできれば穏おん便びんに済ませたかったのだが」

赤鬼が低くなにごとか呟つぶやく

その言葉の意味をツバキが理解するより早くテイガーが大きく前に踏み出した

伸ばされた腕がまたたく

間にツバキに迫せまる軽く握られていた

がツバキの目の前で開かれるや

否いなや

「きゃぁっhelliphellip」

放たれた電でん撃げきが通信機を弾はじき飛ばしツバキに細い

鳴を上げさせた

第一章 Stratum city 階層都市67

「っそんなことは

いていません質問に答えてください」

呆あきれたようなテイガーの物言いに咄とつ嗟さに腕を引き戻もどしそうになったがそれを堪こらえてツバキ

は銃口と眼光を向け続ける

相手はサイボーグだ戦いになったらもちろん勝ち目はないがそれ以上ににげられたらと

ても追いつけない

自分の任務はジンキサラギの捜そう索さくだと重々承しよ知うちしているだが周囲には他に統制機構の

士の

はないここで見みのがせば彼ら第七機

がカグツチと統制機構にどんな混乱をもたら

すかわからないと

えるととても目をつぶることなどできなかった

ザザッと再びノイズが走る

「ああ大だい丈じよ夫うぶだ問題ないすぐに任務に戻る」

通信の相手の声はツバキには

こえないただそれに答えるテイガーの声はあまりに危機感

から遠くすでにツバキとの問題は解決したとでも言うかのようだ

侮ぶじ辱よくされたような思いに駆かられてツバキは鋭するどく声を尖とがらせる

「通信を切りなさい

勝手な行動は許しません」

「そういきり立つな我々はなにも統制機構の業務を妨ぼう害がいするためにカグツチに来たわけでは

ないどうだここはお互たがいかかわらなかったことにしないかこのまま行ってくれれば私は

お前に危害を加えなくてすむ」

「それは反逆の意志ありということですか

どんな目的にせよこの場を見

すわけにはい

66

2199年12月30日||18時00分

幾いくつの路地を抜け幾つの角を曲がっただろう

人のような

をしながら人にあるまじき動きで先導するタオカカがラグナを連れてやってき

たのは外の明かりも差し込まぬ暗い暗い下水道だった

「こっちニャスよいい人〜」

呼びかけタオカカは投とう棄きされたらしい瓦が礫れきやら壊こわれた家具やらの山をひょいとと

び越こえた

外から隔かく離りされた場である上に時間も遅おそいたとえ微かすかなすき

間まがあってもわずかな光さえ

望めない

それなのにラグナやタオカカが問題なく歩けているのは投棄された瓦礫や積み上がったヘ

ドロにこびりついて生えている奇きみ妙ような苔こけのおかげだった

それらがほのかに青緑色の光を帯びているせいで下水道は一寸先も見通せない暗くら闇やみに閉とざ

されずにすんでいる

タオカカを追いかけて粗そ悪あくな足場に多少もたつきながらもラグナが続く

「おい本当にここから上に出られるんだろうな」

第一章 Stratum city 階層都市69

その一撃だけでツバキの意識は遠のいたかくりと膝ひざが折れ力なく崩くずれ落ちる

「っとhelliphellip」

そのたおやかな体が硬かたい地面に倒たおれ伏ふす前についさっきまで電撃を纏まとっていたテイガーの

腕が受け止める

そのまま抱かかえ上げると力なく気を失った青と白の制服の少女を見下ろしテイガーはため息

をついた

「やはりひ戦せん闘とう要員か無茶をする」

『helliphellip言っておくが

わるなよ』

ノイズが走りテイガーの通信機から不ふ愉ゆ快かいそうな女の声が漏もれた

ツバキを抱えたままテイガーは空いていたもう一方の手を耳元にやる上向きの

のよう

な犬歯が突つき出た口元はツバキと対たい峙じしていた先さき程ほどよりもさらに苦々しく歪ゆがんでいた

「雨の中でこんな街外れに放ほうり出すわけにもいかないだろうまだ若い娘むすめだ」

『任務が最優先だ余計な時間はない』

「helliphellip少しの間通信を切るぞココノエ」

『なんだと

おい勝手な真ま似ねはhelliphellip』

装着している本人以外には

こえないであろう小さな音をたてて通信は途と切ぎれた

テイガーは雨

る広場に

を向けて歩き出したその足が向かう先には空を上層の市街に

さえぎられ提ちよ灯うちんの明かりとネオンが煌きらめく薄うす暗ぐらい街オリエントタウンが広がっていた

68

「ニャス」

「かっぱらいじゃねぇか」

張り上げたラグナの声はくわんと寒々しく下水道に響ひびいた

その反はん響きようが

まると今度はまたじめっとした静けさがやってくるどこからか滴したたり落ちて

床では

ねる水の音がいちいち不気味だった

色いろ濃こい影かげの向こうで得体の知れないものが蠢うごめいてこちらを覗のぞきこんでいるような錯さつ覚かくを抱

くぞ

っと走った悪お寒かんにラグナはぶるりと身み震ぶるいし先を行くタオカカの後を追う

がhelliphellipラグナは不意に顔をしかめると足を止めた

(錯覚じゃねえ誰かがこっちを見ていやがる)

淡あわく光る苔が刻んだ色濃い影の奥歪いびつな瓦礫の山のどこか

視線を感じる

いや視線だなんて生易しいものではないもっと根本的なもの存在や意志そのものとい

ったものがこちらを一心不乱に捉とらえているようだ

「いい人〜

どしたニャス」

ラグナがついてこないのを不思議に思ってタオカカが引き返してくる積み上げられたな

にかの残ざん骸がいを軽かろやかに

び越え着地するその小さな足音がきっかけになったのだろうか

「キキキキキキキキキキキキ」

第一章 Stratum city 階層都市71

瓦礫の山から飛び

りた先がオイルかなにかでぬめるラグナは反射的に顔をしかめて三

角耳がぴくつく白いフードの後頭部へ少々の苛いら立だちを込めて問うた

抜け道とは往々にして楽な道ではないとラグナはこれまでの経験で学んでいただがここ

は今まで通って来た『抜け道』と比べても相当な悪路だ

濡ぬれているわけでもないのに床ゆかの壁も天てん井じようもじっとりとしていていやな湿しつ気けが外から入り

込んでいるらしい濃こい魔ま素そと混ざって肌はだと肺にこれでもかと不快感をくれる

一段

りたところには廃はい棄き物ぶつと一体化した汚お水すいが吐はき気けをもよおす悪あく臭しゆうを放ちながら泥どろ水みず

のような重さで流れている

これが街からそう離はなれていない場所を流れ通っているというのに外にはさほどふし臭ゆうが漏れな

いことを思うと階層都市の工事技術はでたらめに見えて意外としっかりしているようだ

もうすっかり馬ば鹿かになった鼻をこすりラグナはぽつりとそんな感想を抱いだいた

「本当ニャスよくここ通って上でパンとかお菓か子しとかもらってくるニャス」

言ってタオカカは下水道の天てん井じようを見上げた黒ずんだ頭上は突つき出た鉄パイプや金属板が

複雑に組み合っておりその奥のずいぶんと高いところに張りついた闇やみのような天井が見てと

れる

さらにずっと向こうに目指している上層の街があるのだろう

つられて見上げてラグナはため息に肩かたを落とした

「もらってくるってまさか店のもん勝手に持ってってるんじゃねぇだろうな」

70

気味の悪さに怖おぞ気けよりもけん

悪お感が走る

影はいやに粘ねん着ちや質くしつな動きでぬめる床に着地するとむくりと上体を起こすような動きを見せ

た判然としないが苔光で浮かび上がる奴やつの足元でなにか小さな生き物が蠢いている気がす

る戸と

惑まどいつつも身構えるラグナのすぐ側そばにタオカカが駆け込んできて頭を低くさせ唸うなった

長い尾おがぴんと立ち上がって毛を逆立て膨ふくれている

「コイツうねうねニャス」

「うねうね

なんだそりゃ」

「悪いヤツなのネ

タオたちの村を襲って小さいカカを食べちゃうのニャス」

さっきまで陽気だった表情を目め尻じりをつり上げた憤ふん怒ぬのそれに変えてタオカカはわんと声を

響かせ威い嚇かくする

その様をあざ

笑わらうかのように白い面を浮かべた影は全身をあわ

立だてるように震ふるわせた

「キヒヒヒいる

いるぞ

るぞ力蠢く醜しゆうな

想を叶かなえ

ために肯

は不可欠

がい

念ねんの否定

閉とざ

た門が招くはずだ

ちが

いギヒヒヒヒヒヒ」

影が震え笑うたびに空気が淀よどむ

ラグナは険しく顔をしかめた

これは魔素だ

外から流れ込んできているのではないこの目の前にわだかまる影からあふ

れ漂ただよい下水道の

第一章 Stratum city 階層都市73

空気を引き裂さくような声と共に突とつ然ぜん影かげから影が飛び出したさらにそこから槍やりのような鋭

い影が無数に飛び出しラグナに襲おそいかかる

「ぅぐぁっ」

あまりに唐とう突とつであまりに周囲に同化した

に反応が遅おくれた分厚く布の裂ける音が散り一いつ

緒しよに皮ひ膚ふと肉をえぐり刺さすように持っていかれる

火がついたように痛む肩を引いてもう一方の腕うでで剣けんを抜き目の前の影を払はらった

手て応ごたえはないまるで本物の影を切り払ったかのようだ

「グギギギhelliphellip真

理へ至

我が

を求

我に求め

真相を

くhelliphellip」

人の声のようなそうでないような奇き怪かいな声こわ色いろで奇怪な言葉を口走りながら影は

び退すさっ

た高質化したヘドロと瓦礫の間でふわりと浮ういてわだかまる

初めラグナはどこからか紛まぎれこんだ魔まじ獣ゆう||高こう濃のう度どの魔素によって歪んだ生態系が生んだ

理性なき凶きよ暴うぼうな獣けものかと思った

だがどうにもちがう不定形なそれは奇妙で歪いびつで不可解で生物とはとても思えぬ

形をして

いた

ぐるりと影が動くとわだかまる闇の内側から面が現れる

白い円形に三つただ孔あなを開けただけの目と口顔のつもりだろうかそれが黒ずんだ不定

形の影の中で唯ゆい一いつの定形であるようだった

「なんhelliphellipなんだこいつは」

72

ふつとい憤きどおりがラグナの腹の底で沸わく

統制機構が大事に大事に抱えて地下深くにしまい込んでいる窯それを統制機構だけでなく

あちこちの機

や研究員学者が欲ほつしている窯を所有するということは窯が繫ぐ境界の一いつ

端たんを所有することと同意だからだ

誰も彼も境界には人じん智ちを超こえる素す晴ばらしい財産が眠ねむっていると信じている人智を超えた

ものなど人間に御ぎよせるはずもないのに

まったくいや

気けが差す頭にくるそんな窯を我が物顔で掻かき回す統制機構もそれを追いか

けるように窯を求める連中もどいつもこいつも

「こうなっちまったらもうどうしようもねえ悪く思うなよhelliphellipもっとも人を怨うらむほどの

理性があればの話だけどよ」

このままこいつをここに放置すればタオカカの言っていた『村』に留とどまらずさっきのオリ

エントタウンや下層の街に出て人を襲うようにもなるだろう

ラグナは剣の切っ先を下方に向けたまま化け物に深く踏ふみ込んだ

カグツチにはなんの思い入れもないがだからといってあからさまな害悪を目の前に置かれ

て放ほうっておけるほど利口でもない

迎むかえ撃うつように身を広げるアラクネの胴どうを||胴らしき部分を横よこ薙なぎに切り払う

「グポポhelliphellip」

「ちぃっ」

第一章 Stratum city 階層都市75

ありとあらゆるものを侵しん食しよくしているのだ

それはこの影のような物体のまとう黒いものが全て魔素であることを意味していたそし

て魔素のか塊たまりであるこの奇怪な化け物がその容

に似合わず人の言葉らしい音を発しているの

はこれが元々人語を解する存在であったことを物語っている

つまり人間だ

タオカカが『うねうね』と呼びオリエントタウンの一部の人はアラクネと呼ぶ黒ずんだ不

定形の化け物はこうなる前人間だった

ラグナはこみ上げてきた

悪感を舌打ちに変えて吐き出した

「こいつ境界に触ふれたなhelliphellip」

ラグナが各地の統制機構支部を回り

々に破は壊かいしている支部地下の『窯かま』その窯によっ

て現世と繫つながれた異界||境界

そこは人知の及およばぬ不定形の場であり中は地表の比ではない濃のう度どの魔素が渦うず巻まいていると

いう

濃い魔素が魔獣を生んだように人もまた高濃度の魔素に触れ続ければ理性が魔素にのみ込

まれやがて境界に引きずり込まれて人でいられなくなる

臭にまみれて粘ねん液えきのような体を蠢かせ奇怪な音で語るこの黒い化け物アラクネは

そうして人でいられなくなった誰だれかのなれの果てだった

「あんなもんに手ぇ出してなにがしたかったのか知らねえがhelliphellipこの馬鹿が」

74

だ身が捻ねじれ後方へべちゃりと倒たおれる

それと同時にタオカカの体がひらりとラグナのとなりに

着地した爪を

めた大きな手をシュッ

と前に突つき出して威嚇する

それを横目にラグナは軽く笑った会って間もないこちらも奇妙な生物だが『うねう

ね』と

ってこいつと並ぶのは悪い気がしない

「何年目じゃなくてここで会ったが百年目な」

「おおんじゃあ百年分ギタギタにしてやるのネ」

「まなんでもいいか」

抜ぬけ落ちるような緊きん迫ぱく感を再び引き寄せてラグナはしっかりと剣を握にぎる

一度は黒い泥溜だまりのようになったアラクネはすぐさま波打つような動きで起き上がると

ごぼりと足元を鳴らし魔素を噴ふき散らす

「ギギギhelliphellipよこ

よこせ

れは我

らう

淵えんがい

見て

目からのが

れな

運命

らはのが

れない」

「なに言ってんのかわけわかんねぇんだよ

楽にしてやるからとっととくたばりやがれ

この生ゴミ野や郎ろう」

ついた魔素を払うように乱暴に剣を振るうとラグナは腹から雄お叫たけびをあげつつ高く得物を

振り上げ魔素に取り込まれた人ならざる者へと叩きつけた

第一章 Stratum city 階層都市77

ごぼごぼと濁にごった音をたててアラクネの体がしゆ時んじにラグナの視界から消える

下だ舌打ちしながら蹴けりつけるラグナの足の下を通ってアラクネは赤いコートの

後で

再び体を持ち上げる

「キサマキサ

くらう

人間であるならあるいは四し肢しを持つ生物であるならおよそあり得ない角度から黒い塊が

ラグナを

ね上げるように突とつ出しゆつする

咄とつ嗟さにラグナはそれを剣で受けた感かん触しよくは重くどろりとしている

さらにもたれかかるように剣の表面を伝う泥どろのような魔素から突とつ然ぜん奇き怪かいな蟲むしが飛び出して

きた見たこともないひたすらに

悪感をあおるような不可解で不ふ愉ゆ快かいな蠢くもの

「うげっ」

吐き気のような

悪感に弾はじかれるようにしてラグナの足が勝手に距きよ離りを空ける

その間に割って入るように鋭するどい爪つめが振ふり下ろされ飛び出した無数の蟲を切り裂いて叩たたき落

とした

勇ましく飛び込んできたのはタオカカだ

「うねうね

ここで会ったが何年目

タオがぎったぎたにしてやるのネ」

爪を振り下ろす動作から着地をはさまず宙で身を捻ひねるとタオカカは反対側の爪でアラクネを

切り裂く

爪はえぐるようにアラクネの顔らしき部分を捉えた陶とう器きが割れるような音をたてて黒ずん

76

双そう眸ぼうは薔

さえ霞かすむ深しん紅くで容

からうかがえ

る幼さには似合わないほどの気品と優美さをたたえ

ていた

少女の名はレイチェルアルカード

十を超えた程度のまだあどけない少女のように見えるがその実約百年を生き続ける吸きゆう

血けつ鬼きだ

千年以上前から続く吸血鬼の一族アルカード家の現当主であり薔

園を見下ろす城の主あるじで

あり

月と夜空と薔

と城を抱いだくこの常夜の空間の主でもある

ここは世界のあらゆる場所から断絶された地点でありながら世界のあらゆる地点へ繫が

る場所

空間と空間の間に漂い世界と世界の狭はざ間まに留とどまる領域

アルカード家の当主が管理する特別な住まいだった

カップを金のスプーンが横たわるソーサーへと戻もどしレイチェルは物もの憂うげに吐と息いきをく唇ちびるから漏も

らした

蔦つた模様に絡からみ合うスチールテーブルの上に飾られた薔

の切り花が微かすかに香かおる

レイチェルは昼の来ない領地での時間をこうして薔

園のテラスで多く過ごした

は好きだ美しいし香りがいいそれになにより遠き日に亡なくなった父が愛した花

だから

第二章 Spiral fate 盤上の駒79

第二章

Spira

l fate

||盤ばん上じようの駒こま

真っ赤な薔ばら

に彩いろどられた見事な庭園を青白い満月が見下ろしていた

静かな夜だった空気は凜りんと冷え夜の帳とばりが世界はここまでだと区切るように色濃く辺り一

帯を包んでいる

園の奥にはおとぎ話の中から抜け出てきたかのような美しく愛らしい城がそびえており

だ橙いだいい色いろをした明かりの揺ゆれる窓が無数の瞳ひとみのようだ

その城を赤薔

の生いけ垣がきの向こうになが

める庭園のテラスでひとりの少女が小さな丸テーブ

ルに向かい優ゆうがにティーカップを傾かたむけていた

月下にありながら眩まぶしいほどに輝かがやく長い金色の髪かみを左右でふたつに結ゆわえ大きなリボンで

飾かざられている華きやしやで小さな体には黒い豪ごうしやなドレスを纏まといそこから伸のびるやはり小さな手

は陶器のように白く滑なめらかだ

カップの中で揺れる紅茶を

めていてもどこか遠く世界の果てを見み据すえているかのような

78

「今夜も見事でしょう

お父様」

ふとわく感傷に任せて呟つぶやいてみて彼の愛した薔

の香りの紅茶を飲むそんなときのほん

の一

レイチェルの心は微かに慰なぐさめられるのだ

夜の終わらないこの城は時間の流れとは無む縁えんだ夜が永遠であるように時間もまた永遠

でありレイチェルの時間もまた永遠であった

それでも退たい屈くつはやってくる時にはこうしていつかの日を想おもいため息でもついてみねば

枯かれることのない薔

のように言葉を忘れてしまいそうだった

「失礼いたしますレイチェル様」

コツと革かわぐつの硬かたい音がテラスの煉れん瓦がタイルを叩きしわがれた声が穏おだやかに呼びかけた

レイチェルを振り向かせることなく乱れない歩調で少女の視界の端はしまでくると声の主白はく

髪はつを

で束ねた長身の老人は胸むな元もとに手をあて浅く腰こしを折る

ヴァルケンハインRヘルシングレイチェルの父クラヴィスアルカードの代からアル

カード家に仕え今はレイチェルと共に在る老しつ事じだ

微びし笑ように皺しわを刻みすきなく佇たたずむ

はレイチェルに劣おとらず品がいい

だが彼もまた人間ではなかった人であり獣けものでありどちらでもありどちらでもないおおかみ

男おとこだ

外見から想像できる重ねた歳としよりずっとたくましい肉体が質のいいバトラースーツの上からで

える

80

つぶらな瞳と口角の上がった口がやはり小さく愛らしい

黒くろ猫ねこのソファはナゴ赤いゴム毬まりはギィ共にレイチェルの使い魔だ

「姫様のお気に入りっすよねー姫様ってああいう男が好みなんすか

意外とダメな男に引ひ

っ掛かかるタイプっすね」

小さな羽を忙いそがしくパタつかせて楽しそうにギィが話すとその

らかな両りよ頰うほhellipおhellipというよ

り頭部を素す早ばやく伸びたレイチェルの手が摑つかみ左右に思い切り引っ張った

「なに

よく

こえなかったわもう一度言ってみてもらえるかしら言えるものならね」

「イデデデデひひめひゃまいひゃいいひゃいれすぅぅぅぅぅ」

「アンタってほんと口で身を滅ほろぼすタイプよねぇ」

通常の二倍に顔を広げたギィを見やってナゴが呆あきれたようにため息を送る

情けない

鳴をひとしきり

いた後にレイチェルはあっさりギィから手を離はなしたバチン

と音がして赤い頰が元の真ん丸い形状に戻る

それを横目にレイチェルはテーブルの上に生けられた赤薔

の花弁へ触ふれた

「彼がそこまで来たのならもうすぐ二一九九年も終わるのね」

「左様でございますな」

どこか歌うように呟くレイチェルへ恭しくヴァルケンハインが返す

「そして世界も」

微かな声で付け足された一言にはヴァルケンハインはなにも返さなかったレイチェルが

第二章 Spiral fate 盤上の駒83

「どうしたのヴァルケンハイン」

白い指先をティーカップの縁ふちで遊ばせレイチェルが赤い瞳を向けて問う

ヴァルケンハインは頭を下げたままう恭やうやしく答えた

「ラグナザブラッドエッジがカグツチに現れたようです」

無む駄だなく必要なだけを伝えるヴァルケンハインの言葉にレイチェルは陶器の縁をなぞる指

先を止めた

そのまま指を小さな取っ手に引っかけ中身の少なくなったカップを持ち上げて一口飲み

それをソーサーに戻してからやっとレイチェルは唇を動かした

「そうhelliphellipもうそんな時間なのね」

独り言のようなレイチェルの呟きに続いて

唐とう突とつにふたつの声がこれまでの静かで密ひそやかだった雰ふん囲い気きを不意に賑にぎやかせた

「あらぁん姫ひめ様ラグナってあの白いツンツン頭のボウヤよね」

「オイラも覚えてるっすよあの生意気なヤツっす」

先にハスキーな猫ねこなで声で言ったのはレイチェルが腰こしかけている椅い子すそのものだった一

見黒いソファに見えたそれはよく見ると

もたれの上部に三角の耳と猫の顔がありその猫の

顔が話していたのだ

続いた甲かん高だかい陽気な声はレイチェルの足元から弾はずんだゴム毬まりのようにとび上がった赤くて

丸い生き物のもの見るからにやわらかそうな体からは小さな手足と小さな羽が突き出ており

82

影の中に浮うかぶ幼児の落書きのような目玉らしき緑色の丸と不気味に裂さけた赤い口が椅

子に腰かけるレイチェルを見つけて気味悪く笑えむ

どこからどう見ても人ではなくましてや吸血鬼でも

男でもない

これは思念だ肉体を持たない意志だけの存在ある男の精神体だった

「よ〜うクソ吸血鬼今回もお供と犬っころ連れてお茶会か

ずいぶんのん

気きなもんだなぁ

オイ」

許可もなく薔

園に踏ふみ入ってきた無作法者の精神体はこもった声でいや

味みに語りかける

とたんにヴァルケンハインが険しく顔をしかめギィは情けない

鳴をあげてそれこそゴ

ム毬のような俊しゆ敏んびんさで主の黒いドレスの

後へと隠かくれた

レイチェルは冷やかに影を見据える

軽く腰を浮かせるとそれまで椅子としてそこにいたナゴが体をくねらせて

を黒い傘かさへと変

えレイチェルはそれを手に立ち上がった

唇にこそ優美な笑みを浮かべていたが少女の深紅の瞳にはただただけん

悪お感かんが塗ぬり固かためられ

ている

を見せるだけでこれほどまで人を不快な気持ちにさせるのはある意味

能ね感心する

わテルミ」

の香りのように

らかにけれど薔

の蔦のように刺とげと々げしくレイチェルは言い放つ

言葉の先にいた精神体の男テルミと呼ばれた影は風にでもあお

られたかのように体を揺らし

第二章 Spiral fate 盤上の駒85

求めていないことを理解していたからだ

代わりに

男の老

事は乱れぬ声こわ色いろで問う

「レイチェル様紅茶を新しいものにお取り換かえいたしましょうか」

「helliphellipそうねお願いしようかしら」

本当は出かける用事ができたところだったけれど今はもう少しだけここでの無益な時間を

浪ろう費ひしたい気分だっただって

(今回もいい結果は期待できそうにないものね)

独り言のような呟きを胸の内でそっとこぼしレイチェルは掠かすれ消えるような吐息をつく

がすぐにその息を

み込むように眼光を鋭くさせた

真紅の視線が見据えるのは延々と続く薔

園のほうだ

「ヴァルケンハイン招いてもいない客が来たようね」

深い緑の葉をざわめかせて風が吹ふく風を招いたのはレイチェルだ涼すずしい夜気に混じって

漂ただよってきたいやな気配をはね退のけるために

円形に整えられたテラスの隅すみのほう薔

の生け垣の前の空間が目め眩まいでも起こしたかのよう

にくらりと歪ゆがむ

そうして現れたのは影かげだった

黒い体に緑色を纏まとわりつかせたような色しき彩さいでぼんやりと漠ばく然ぜんとした人型のなにかがそこに

立っていた

84

敵てき愾がい心しん

「それで一体なんの用

今がどういうじ状よう況きようなのかわかっているのでしょう貴方あなた

だって暇ひま

ではないのではなくて」

ヴァルケンハインほどあからさまな敵意ではないものの突つき放し追い立てるような調子で

レイチェルが言う

テルミはけだるい仕草で首を傾かたむけまたケタケタと不ふめ明いり瞭ような体を揺ゆらすようにして笑った

「別にぃ〜ただそろそろ今回のエンディングも近いわけだしそろそろ一度テメェらの腑ふ抜ぬ

けた面を拝んどこうかと思ってよ」

低めた声は悦えつっぽく笑みを濁にごらせる

レイチェルはその様を無感動に淡たんた々んと赤い瞳ひとみに映した

「懲こりない男ね」

囁ささやくようにレイチェルは告げる冷えた声は空に浮かぶ欠けることのない月の光に似ている

「何度繰くり返したって結果は同じ世界は何度だって巻き戻ってあの日あの時からまた始ま

るだけよ」

ざとレイチェルと影の間を横切るように風が渡わたる薔ばら

の香りがま

う中で幽ゆう鬼きのよう

なテルミの

はあまりに不気味で不似合いだった

場ばちが

いであると思い知らせるかのように濃のう密みつな花の香りを纏う風の中でテルミは深く深

く笑みを浮かべる

第二章 Spiral fate 盤上の駒87

た笑っているのだ

「そいつぁお互たがい様じゃねぇかこっちもテメェのクソむかつく面つら見てると胸むな糞くそ悪くなって

くる」

ユウキテルミそれが影の名前だった

「ならば早々に立ち去るがいいここは貴様のようなやからが気安く踏み入っていい場所ではない

ぞ」重

々しくけれど遠えん慮りよ容よう赦しやのない敵意を込こめてヴァルケンハインが進み出たレイチェルに

対して見せていた穏やかな品の良さは影を潜ひそめ白髪の老人とは思えぬ力強く攻こう撃げき的な眼まな差ざし

で揺れる影を睨にらみ据すえる

途と端たんにテルミは面おも白しろくなさそうに口らしき赤色を歪めた

「はっテメェも相変わらずイラつくなキャンキャン吠ほえてんじゃねぇよボケ犬が殺しち

まうぞあぁ」

「面白い吠えるしか能がないのはどちらか確かめるとしようか

体のない今の貴様に一体

なにができる」

「ちっhelliphellipうぜぇジジイだテメェもあんとき殺しときゃよかったぜ」

「九十年前に反省するべきだったな」

テルミが悪態を吐つけばヴァルケンハインはそれを踏み潰つぶすような敵意を返す

そこには根深い因いん縁ねんの沼ぬまが広がっているかのようだった浮かぶのは憎ぞう悪おでもけん悪おでもなく

86

覗のぞき見えていた

「んじゃなせいぜい高みの見物でもしてろや」

吐き捨てるようにそう言うとテルミは靄もやが空気に溶とけてやがて目視できなくなるように

音もなくその場から消える

あとにはなにも残らないただレイチェルが日々当たり前に

めている真っ赤な薔

が咲さ

き誇ほこる庭園が広がるばかりだ

緩ゆるやかな風が抜ぬけて甘い薔

の香かおりが漂うまるでテルミによって生じた不快感を拭ぬぐい払はら

うように

ヴァルケンハインはそれまでの飛びかかって喉のど笛ぶえでも食い破りそうな敵意を呼吸ひとつのう

ちにしまい込みしつ

事じの顔に戻もどるすき

なく

筋を伸のばしレイチェルへと向き直った

「いかがなさいますかレイチェル様」

主人がすでに決めているであろう腹の内を促うながすように問う

レイチェルは手にしていた傘状のナゴを開いたパラソルでも扱あつかうように肩かたにかけヴァル

ケンハインを見やる

「ヴァルケンハインやっぱりお茶はまたあとでにするわ」

あんなにも単純で粗そ暴ぼうなちよ

発うはつに乗るのは癪しやくだけれどそうとわかっていて顔をそむ

けることを

弱気ゆえと受け取られてはもっと癪だなによりあの男に好き勝手を許すのは面白くない

「ナゴギィ出かけるわよ」

第二章 Spiral fate 盤上の駒89

「そうしたらまた始めるさ」

這はうような声で語る

な気配がレイチェルの誘さそう風さえ汚よごすようだった

「何度でもいいぜ

そのたびに俺はやり直すだけだ何度でも何度でもテメェがいい加減

飽あきてお城から出てこなくなっても何度でも何度でもhelliphellip何度でもなぁ」

「悪あくしゆ味みね」

「テメェが言うかよクソ吸きゆ血うけ鬼つき」

テルミがせせら笑う

深い皺を眉み間けんに刻みい憤きどおりを腹に抱かかえるヴァルケンハイン怯おびえ様子をうかがうナゴとギィ自分

の周りにいる者たちをながめてレイチェルはく唇ちびるを優美なカーブに曲げた

彼の言うことに同意するのは心底不ふ愉ゆ快かいだけれど確かに悪

味なのはレイチェルも同じだ

何度も何度もこんなやりとりを何度もここで行った

繰り返す時間の中で繰り返される会話はいわば一種の通過儀ぎ礼れいだ

これから始まる数時間めまぐるしく運命は交差して離れ剥はがれ崩くずれ乱れるその結末

をし粛ゆくし々ゆくと見届けるためのお決まりの行事

「まいいや俺はそろそろ最後の仕上げの準

しねぇといけねぇから行くわいちいち相手

すんのも面めん倒どうくせぇからテメェらはそこで茶でもしながら終わるのを待ってろよ」

言いながらテルミは一歩大きく退いた

影がぼやけて消えるように彼の

が揺らめく黒い体の向こうには薄うっすらと薔

の赤が

88

城から外へと出ていった

の残り香がが夜気に吸い込まれて消えるまで待ってヴァルケンハインはテラスのテーブ

ルに残されたティーセットをワゴンに載せて片付け始める

せめて今回はあの小さな主人の心が慰なぐさめられるようなそんななにかがあるようにと胸中で

願いながら

2199年12月30日||9時23分

カグツチの朝方普ふ段だんなら東空は陽光の白に輝かがやき地表で淀よどむ魔素の存在など忘れさせてく

れるかのように眩まぶしい

だが今日は生あい憎にく朝早くから分厚い雲が空を覆おおう曇どん天てんだった広がっているのは雨雲だ昼

前には雨が

り出すだろうと湿しめった空気が教えてくれる

第十三階層都市カグツチの外れ都市の一部として建設されたのではなくこの地に流れ着い

た難民が自発的に建設した市街のひとつ浪ろう人にん街

第二章 Spiral fate 盤上の駒91

「はぁ〜い姫様」

「了りよ解うかいっす」

傘のままナゴがしなを作りさっきまでの怯えが噓うそのように元気よくギィが飛び上がる

二匹ひきの使い魔まを従えレイチェルは宙へ手を差し出したすると煉れん瓦がタイルが敷しき詰つめられ

た足元に薔

色の魔法陣じんがほのかな光を宿して浮かび上がる

転移の魔法だ

今の世界の基き盤ばんともいえる術式の元になった太古の技術魔法けれど今はもう使える人間

はほとんどいない失われた技術だ

転移はそんな魔法の中でも特に多くの魔力と集中力を要し特別難解な制せい御ぎよを求められる魔

法だったそれゆえに人類の歴史においても使い手と呼べるほど扱いに長たけた者は数えるほ

どしかいない

転移魔法を自在に扱うレイチェルもまた自分以外にこの魔法を使いこなせている者をひと

りしか知らなかった

「カグツチまで行ってくるわヴァルケンハイン留守をお願いね」

「かしこまりましたお気をつけて行ってらっしゃいませ」

理想的な角度に腰こしを折ってヴァルケンハインは魔法陣の中から語りかける幼い容

の主あるじを

見送る

ふわりと風が

い上がり目眩を誘うほどの薔

の香りを振ふりまいてレイチェルは常夜の居

90

屈くつ強きようで大柄な体たい軀く隠すことなく晒さらされた広い

中顔に刻まれた十字の傷きず跡あとそして首に

巻かれた真っ赤な布その真っ赤な布がけい

谷こくの風に

られたなびくたびに誰だれもが彼を振り返

らずにおかない

なにも衣装の特とく徴ちようが浪人街の人の目を集めるのではない

このマフラーのように巻かれた赤く長い布は目印なのだ

迷える難民をまとめ先頭に立って浪人街を築きこうして日々浪人街を歩いては住民にト

ラブルや困りごとがないか見回るイカルガ忍にん者じやの頭領にして浪人街のヒーローシシガミバ

ングの

「おはようございますバングさん」

「バング殿どの

先日は

げたに鶏わとりの捕ほ獲かくを手伝っていただいてありがとうございます」

「バング様〜

こんにちは〜」

街のあちこちからかかる声に手を挙げて応こたえバングは朗ほがらかな笑え顔がおを返す

「うむおはようでござる

おおそうだ今日は雨が

るだろうから雨あま漏もりする家がある

なら拙せつ者しやに声をかけるでござるよすぐに飛んでいって修理を手伝うでござるからな」

通り中に響くような声で言いながらバングは前へ前へ歩む

天気はよくないがバングの心は今日も晴れやかだった仲間がいて住む場所があるこ

れがどれほど喜ばしいことか数年前までは忍として戦争の裏側を奔ほん走そうしてきたバングは日々

身をもって思い知り嚙かみ締しめていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒93

ここは五年前に終結したイカルガ内戦という戦争の敗者イカルガ連れん邦ぽうに住んでいた者たち

が造り上げた市街だった

内戦によって彼らの故郷は失われた行き場のないイカルガの民たみは世界のあちこちに散り

その中でもカグツチににげ延のびた者たちがここで身を寄せ合って暮らしている

複雑で街を築くのに適しているとはとても言えない地形だカグツチのある高山の下方に

位置しながら辺りは岩だらけで亀き裂れつや絶ぜつ壁ぺきが目立つ

それでもイカルガの難民たちは岩場に足場を組み亀裂に橋をかけ絶壁に階段を作り半

分宙に浮ういているかのような入り組んだ街を作り上げた

小さな街だありあわせの材料を組み合わせてできた粗そ末まつな街だがそれにしては整えられ

たイカルガじ情よう緒ちよ漂ただよう街並みにhelliphellip朗々と男の声が今日も響ひびき渡っていた

「おお皆みなの衆

今日も元気に平和に過ごしておるな

うむうむよきかなよきかながっ

はっはっはっは」

太く伸びやかな声の主はシシガミバング

浪人街の中心である一番開けた通りのど真ん中を歩きながら道行くすべての人に威いせいよく

挨あい拶さつして回っている大おお柄がらな筋肉質の男がそうだ

ぼさついた黒くろ髪かみは高くまとめ深い緑色の独特な装しよ束うぞくを身に着けている着ているのはイカ

ルガ伝統の忍しのびの服だ本来は闇やみに紛まぎれ隠おん密みつにことを済ますのが忍の

だがこのシシガミバ

ングという男はまるで逆にとにかく人の目を引いた

92

カグツチの

士であるならばこんな下層まで

りてくることなどそうそうないし別の支部

士ならばもっと上層からカグツチに入るはず

この街に統制機構の制服はあまりにも不自然だった

金髪の青年はなにも答えず冷ややかな緑の瞳ひとみでバングを

めていたがやがて色の薄うすい唇を

開きぼそりと低く呟つぶやいた

「その服helliphellipイカルガの忍か」

およそ好意的でない声

人によってはその内にさげすみ

やあざけり

いただろうだがバングはそのひどく温度の低い声こわ色いろ

を警けい戒かいゆえと受け取った

身構えるように低くさせていた体を起こしバングは慌あわてて制止するように広げた手を突つき

出だす

「ああいや誤解めされるななにも一戦交えようというわけではござらんぞ確かにここは

イカルガの民が住まう街で拙者はイカルガの忍であった男だが五年前にイカルガ内戦は終

わっておるのだ」

バングは太い腕うでをがっしりと組むと神しん妙みような

顔つきで何度か頷うなずくようにしながら先を続けた

「確かに終戦のきっかけは戦いくさではなく我等の首都イブキドの爆ばく発はつ事故であった」

イカルガ内戦は世界虚空情報統制機構に対し第五階層都市イブキドを首都と掲かかげるイカル

ガ連邦が独立を宣言して始まった内戦だ統制機構は武力でもってそれを制圧しようとしイ

第二章 Spiral fate 盤上の駒95

平和はいい平和の中にこそ愛はあるのだ

「うん」

ふと前を行く

を目に留めてバングがいぶかしげに声を唸うならせた

見慣れない男が歩いている浪人街の住民ではないバングはこの街に住むイカルガの民の

顔と

格好をすべて覚えていた

短い金きん髪ぱつの細身の男だ歩き方からしてまだ若い

なにより気にかかるのはその男が着ている服だ青と白によって構成されたその服はおそ

らく世界虚こ空くう情報統制機構の制服だろう

「そこのお主

待たれい」

叫さけぶように声をかけながらバングは高くとんだ空を駆かけるような長いちよ躍うやくは前を行く金

髪の青年の頭上を越こえて彼の正面へと着地する

行く手を塞ふさがれる形となった見慣れぬ男は足を止めバングの唐とう突とつな登場に戸と惑まどったように

眉まゆを寄せていた

やはり若い男まだ少年の面おも影かげも残した青年だ着ているものも統制機構の制服に間まちがいな

く手には青い鞘さやに

めた刀を一ひと振ふり摑つかんでいる

バングはますます募つのる怪けげんに青年よりも深く眉間に皺しわを刻んだ

「お主我等が街になんの目的で参られた

その服装統制機構の

士であろう」

カグツチの

士だろうかバングは彼に見覚えがない

94

金髪の青年はなにも言わず静かにバングを見み据すえている

なにを考えているのかどこかぼうっとしたようにも見える無表情からは思考どころか感情

さえ読み取れない

話を

いているのだろうかバングは不安に思いながら改めてさっきの質問を繰くり返す

「してお主は一体何者で浪人街になんの用でござるか」

「helliphellip用などない」

ようやく青年がバングの問いにまともに答えた

まともというにはあまりに素っ気なく突き放した物言いだったが返ってきた言葉が思いの

外ほか穏おん便びんでバングは軽く安あん堵どを抱いだく

イカルガの残党狩がりだなどと言われてその手の刀を抜ぬき放たれたら多くの住民が行き交かう

街の中心で大立ち回りを演じなければならなくなるそうなればいくつかの家は巻き添ぞえをく

っただろうし何人かは怪け我がをしたかもしれなかった

青年は変わらず冷たい無表情のままでバングの向こうにそびえる山へ目を向けたこの上

にいくつもの市街が建設され頂上には世界虚空情報統制機構のカグツチ支部が建っている

「貴様たちのことなどに興味もない僕は上へ行きたいだけだ」

「上

というと統制機構の支部でござるか」

「じや

魔まだそこをどけhelliphellipああいや」

冷れい徹てつに言い放ってから青年は思い直したようにけれどそれでも冷ややかに声を低めた

第二章 Spiral fate 盤上の駒97

カルガ連邦も武力でもって抵てい抗こうした

それが四年続いたある日のことだ

イカルガ連邦首都であり指揮系統の中心であった第五階層都市イブキドの地下で突とつ然ぜん原因

不明の大爆発が起こりイブキドは跡あと形かたもなく消しよ滅うめつした

爆発はイカルガ連邦はもちろん交戦の真っ最中であった世界虚空情報統制機構側にも大き

く戦力を損そこなわせる痛手を負わせた戦争を続けるだけの力をイカルガ連邦と統制機構が爆

発事故をきっかけに同時に失ったのだ

結局イカルガ連邦はバラバラとなり最終的には組織としての形を失ったけれど統制機構も

己おのれを立て直すのに手て一いつ杯ぱいで追つい撃げきどころではなく内戦はしぼんで消え入るようにいつの間に

か終わったのだった

「それでも我等は負けたのだその現実を認めずに今ある平和を投げうってまで統制機構に

楯たて突つくつもりはござらんよ」

そう言うとバングは眉み間けんを中心に走る十字傷に分厚い手で触ふれ苦々しくも笑みを浮かべ

たこ

の傷はその爆発事故のときに負ったものだ内戦を終わらせたあの事故が自分にとって幸

であったのか不幸であったのかバングには未いまだわかりかねる

ただイカルガの民はもうじ充ゆう分ぶん戦ったこれからはたとえ楽な生活でなくとも平和に過ご

してほしいとバングは思っている

96

れるだとかそんな幽ゆう霊れい話じみた現象が起こるはずもない

勝手なイメージでそう結論づけるとバングは気を取り直してそのたくまし

い胸むな板いたを張った

まだ浪人街の見回りは途とち中ゆうだ曇天の色はますます濃こくなってきている雨が

り出す前に

修理の必要な家がないかどうか確かく認にんしておかなければならない

「いやぁまったく最近の若者は覇は気きが足らんでござるなぁ

陰いん気きな顔をしていないでも

っと威い風ふう堂どうど々うと力強くそして

くあらねばそうこの愛と正義の忍者シシガミバング

のように」

辺り一帯に響く盛せい大だいな声で笑うとバングは街の見回りを再開させた

これが終わって部下のけい

古こが終わってそれでも時間があったなら憧あこがれの女性が住むオリ

エントタウンまで足を延ばして挨拶に行こうとそう心の中で計画をたてていた

今日も浪ろう人にん街は平和だ

それがなにより素す晴ばらしい

2199年12月30日||18時21分

第二章 Spiral fate 盤上の駒99

「ついでだ貴様カグツチで白い髪かみに赤いコートを着た男を見なかったか」

そう尋たずねる青年の表情はまるで凍こおりついたかのように無表情から動こうとしないだという

のに緑の瞳だけは妙みように楽しげに煌きらめいていたようにバングには見えた

バングは顎あごに手をやり考えこむ

「白い髪に赤いコートhelliphellipふぅむいやこの辺りでは見かけてござらんそれほど目立つ容

ならば一度目にすれば覚えようがhelliphellip」

「そうかならいい」

しゆ時んじにバングからあらゆる興味を失ったように青年は滑すべるような歩みで横を通り抜ける

すれちがう風はいやに冷たいまるで氷でも掠かすめたかのようだ

「ああお主

拙者はシシガミバングと申すお主の名はなんと申す

すたすたと足早に山へ向かう細身の後ろ

へバングは追いかけるように声をかけた

だが青年は振ふり向かないまるでバングの声など耳に入っていないかのような頑かたくなな

中で

なにかに突き動かされるような足取りで歩き去りそのうちに浪人街の外れへと

を消してし

まった

バングは引き止めるように宙へ伸のばした腕もそのままに難しく顔を歪ゆがめて首を捻ひねった

「はてhelliphellip奇きみ妙ような男でござったななんというかこうた魂ましいが抜けているようというかhelliphellipなに

かに取り憑つかれでもしているかのようであったわ」

もっとも今は日もこれから高くなろうという真昼間魂が抜けるだとかなにかに取り憑か

98

形よく張り出した豊かな胸に引き締まった腰こしそこから滑なめらかに続く肉感的な臀でん部ぶと華きやしや

な足首に向かって続く絵に描かいたような曲線

同性の憧れと異性の動どう揺ようを誘さそわずにおれない肢し体たいのシルエットだけでも彼女は道行く人の

視線を釘くぎ付づけにする

そんな麗うるわしき女医ライチがこの街にやってきたのは約一年前のことだ

突然現れ住まいと仕事を求めたライチをこの辺りの住人は快く受け入れた

彼女は自分がどこから来たのかどんな生おい立ちなのかなぜオリエントタウンへひとりで

やってきたのか名前以外のことはなにも話そうとはしなかった

素すじ性ようの知れない女など怪あやしまれて当然だろうけれどライチが出会ったオリエントタウンの

住人は皆みんな彼女が口を閉とざすと深くは追つい及きゆうしようとはしなかった

そのことをライチは一年たった今でも来たばかりのころと変わらず感謝している

こうして日々病院のとびらを

開けなるべく気軽に安価で治ちり療ようが受けられるよう心がけているの

も生活のためというより拒きよ絶ぜつや敬遠ではなく寛かん大だいさと優やさしさをもって自分を迎むかえてくれた

オリエントタウンへの恩返しの意味が強い

「さてと」

少年の

が曲がり角の向こうに消えるとライチは細い肩かたをすとんと落として息をついた

オリエントタウンはすでに夜の闇やみに包まれていてあちこちにぶら下げられた小さな提ちよ灯うちんや

ランプが家々を照らしていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒101

オリエントタウンは第十三階層都市カグツチの下層にこそあれど広く活気にあふれた賑にぎやか

な街だ

限りある土地を時に譲ゆずり合い時に共有して身を寄せ合うように家を建て並べ今にも壁かべが

触れそうなほど密接したりん家かとは家族のように付き合える

誰だれも彼も決して裕ゆう福ふくではないけれど薄うす暗ぐらい路地に不ふ穏おんな影かげが横切ることもあるけれどそ

れでもこの街は温かい

ここオリエントタウンの一角で小さな病院を開いている医者ライチフェイリンは常々

そう感じていた

「痛みが引くまで無理は禁物よいいわね」

階段から落ちて捻ねん挫ざしたという少年を病院の入り口まで見送ってライチは頭を下げる小さ

な彼に笑顔で手を振る

ライチは美しい女性だった

足元まで伸ばした艶つややかな黒くろ髪かみを高く結ゆわえてくるりと巻き大きなアップヘアにまとめて

いる化けし粧ようで飾かざらずとも美しいラインを描えがく眉に伏ふせれば影ができるほどに長い睫まつ毛げ黒い

縁ふちの眼鏡ごしに見える瞳は大きく知的な光を宿しているけれどややつり上がった目元はどこ

か媚び態たいを想像させる色いろ香かを匂わす

美び麗れいなのはなにも容よう貌ぼうだけではない

100

こんなにも温かく名を呼ぶのはひとりだけだhelliphellip今は

両手で二の腕をさすりながら振り返りライチは少し驚おどろいたように目を丸くさせる

そこにいたのはやはり予想通りの人物だったけれど彼の腕には予想とは

うものが抱だき

かかえられていた

声の主の大きな体が建物の色いろ濃こい影の中から出てくるライチとて

の低いほうではないけ

れど彼の

は見上げるほどだ

通常の人間ならありえないほど屈くつ強きような体に赤い肌はだ第七機

の赤あか鬼おにと呼ばれるサイボーグ

の男だった

「テイガーhelliphellip」

ライチが小さな声で名を呼び返すうちにテイガーは周囲に人ひと気けがないことを素早く確認す

ると近くまでやってくる

彼の腕うでにはひとりの少女の

があった気を失っているのかぐったりと力なく体を預け

ている長くやわらかなカメリアレッドの髪に華

な体そして青と白の世界で一番有名な制

服helliphellip統制機構の制服

「テイガーこれはどういうこと

どうしてhelliphellip」

どうして統制機構の

士を抱かかえてこんなところにいるのかそう問おうとしたライチの疑問

をさえぎっ

てテイガーは抱えていた少女の体を託たくすように差し出した

「すまんがこの少女を頼たのめないだろうか訳あって気絶させてしまったのだが放ほうり出すわ

第二章 Spiral fate 盤上の駒103

遠くには雨音が

こえる昼過ぎに

り出してから今までもずっと続いていたのだろう空

を上層に閉とざされたこの辺りもすっかり空気が湿しめっていてずいぶんと冷え込んでいた

ゆったりとした白いブラウスとその上に着込んだロング丈たけの真っ赤なチャイナドレスという

服装はライチのみ惑わく的なボディラインをくっきりと描き出すには適しているけれど寒空の

下に立つにはあまり向いているとはいえない

不意に抜けた冷たい風にぶるりと身み震ぶるいしてライチは豊満な胸元を合わせるように己おのれを抱

いたまとめ上げた髪にしがみつくようにくっついている小さなパンダの髪かみ飾かざりも心なしか寒

そうだ

今夜はきっと冷えるだろうとはいえかつて黒き獣けものが現れ魔ま素そが世界に広がるまでは十二

月といえばもっと寒くこんな薄うす手での服装ではとても外を歩けなかったそうだから当時を思

えば涼すずしい程度の気温なのかもしれない

昔はこの時期この辺りでも雪が

ったらしい魔素が狂くるわせ失わせた冬らしい季節という

ものを少々勿もつ体たい無く思いながらライチは病院へ戻もどるべく踵きびすを返した

だがただでさえ長い脚あしをさらにすらりと見せる踵の尖とがったくつが屋内に踏ふみ入る前に

後か

ら唐とう突とつに声がかかった

「ライチ」

落ち着きのある低い男の声だ

それが誰なのかライチは呼びかける一言でわかった自分のことを呼び捨てる者の中で

102

「お前になら構わんか実はhelliphellip」

『とう

亡ぼうしたサンプルの回

だ』

突とつ然ぜん第三の声が割って入った

「ココノエ

周囲に配はい慮りよしてか声は抑おさえたもののテイガーが驚きにうろたえる

ライチの表情に糸を張るような緊きん張ちようが走った

第三の声はテイガーの耳元から

こえてきたそこには小さな通信機が取り付けられている

その向こうにいるのが声の主でありテイガーの上司にして製作者でありhelliphellip一年前までは

ライチの上司でもあった人物ココノエだった

『なにを驚いている回線に入り込む程度なんでもないわかったら勝手に通信を切るんじ

ゃないいいなテイガー』

テイガーへ向けてだけでなくその周囲にも

こえるよう操作された音声が感情の波を抑え

た低い女声で語る他者の意見をは

ねのけるような語調と声色には有う無むを言わさぬ威い圧あつ感と

神経質さが現れていた

ライチも一年前まではよくこの声にしつ

咤たされたものだ懐なつかしさと一いつ緒しよに苦い思いがこみ

上げてきてライチは声から目をそむ

けるようにテイガーから視線を外す

「ココノエ博士helliphellip」

『久しぶりだなライチお前こそこんなところでなにをしている』

第二章 Spiral fate 盤上の駒105

けにも統制機構に連れん絡らくするわけにもいかなくてな」

ひどく困った様子で懇こん願がんしてくる

そんな顔でそんなことを言われては断ろうにも断れない自分の性格をわかっているくせに

と思いつつもライチはテイガーの腕の中の少女を覗のぞきこんだ

は正常だ外傷は特になく呼吸も安定しているただ単純に強い衝しよ撃うげきで意識がなくなり

そのまま眠ねむり込んでいる状態だろう

「つまり彼女の意識がないのは貴方あなたの仕し業わざってことね」

ちらりと眼鏡のすき間まからテイガーの赤い顔を見上げてライチはほんの少しの小言めいた響ひび

きを込こめて言った

テイガーとこの少女の間にちょっとした荒あら事ごとがあったことは想像に難かたくない

統制機構と第七機

係についてはよく知っているなにせライチはオリエントタウンへ

来る前テイガーと同じ

場で同じ上司の下で働いていたのだから

「helliphellipどうして貴方がカグツチにいるの」

少女の身み柄がらは引き取るそう物もの腰ごしで伝えながらもライチは堅かたい声こわ色いろで尋ねた

テイガーが所属している第七機

はカグツチから離はなれた場所に研究所を構えているカグツ

チへふらりと私用で来るような距きよ離りではない

テイガーは困こん惑わくしたように言葉に迷ったが難しそうな顔をしながらも上向きのきばが覗く

口を動かした

104

「まだわかりません」

ねのけるようにライチは大きく首を振ふった

そこにはオリエントタウンの住人が知る優しく穏おだやかで時々厳しいそんな女医の

はなか

ったあるのはなにかを必死で守ろうとする弱々しい少女のような顔だ大切な宝物を取り上

げられまいと首を振るようなそんな

ライチは厳しく引き締しめた顔でテイガーをその耳元にある通信機を見つめる

「なぜ博士はそう簡単に割り切れるんですか

すべての手を尽つくしたわけではないのにあ

の人はただ少し間まちが

えてしまっただけです少し急ぎすぎただけでそれに彼は貴女あなた

のhelliphellip弟で

子しだった人じゃないですか」

ライチの声は情感に揺ゆれていた震ふるえているといってもいい

解げせない飲み込めない受け入れたくないそんな拒絶が声だけでなく

しげに眉まゆを寄

せた表情にも浮うかんでいる

もう一度通信機からココノエのため息が

こえた今度は呆れているというより苛いら立だっ

たような吐と息いきだった彼女が頭をかきむしる仕草が見えるようだ

「すみません博士helliphellipでも私はhelliphellip諦められません」

ライチはきつく胸の前で手を握にぎり締める

だけど本当はわかっているライチは医者であり一年前までは研究者だっただから自分

でもいや

になるほど冷静で理性的な部分はもうとっくに理解していた

第二章 Spiral fate 盤上の駒107

どんな顔をしていたらいいかわからないライチは寒さではなく別のものから己を守るよう

に身を抱く手に力を込める

知性と理性で研といだココノエの鋭するどく射い貫ぬくような眼まな差ざしが通信越ごしにこちらを見み据すえてい

るのがわかった

「そんなのhelliphellip博士ならもうおわかりでしょう」

なぜライチがカグツチにいるのかもなぜカグツチの中でも下層のオリエントタウンを住ま

いに選んだのかもなぜ第七機

を出たのかも全部全部彼女はお見通しのはずだ今いま更さら説

明しなければならないことなどなにもないのだ

『まだあいつのことを諦あきらめきれんのか』

ほらとライチは思う答えずともココノエはわかっている知っているライチがなにを

考えてここにいるのかを

だからだろうか通信機越しに

こえるかつての師の声はまるで咎とがめ責めているように

こえた

「諦めるだなんてどうしてそんなことができますか」

胸の内から絞しぼり出すようにしてライチは答える

通信機からノイズが漏もれたココノエのため息だろう呆あきれ果てたといったような音だ

『もう一度言うあいつを助けようなどと無む駄だなことを考えるのは止よせあいつはもうどうに

もならんお前の力では助けられない』

106

ライチは顔を上げられなかった愚おろかだと思うのは自分も同じだ反論はない

重苦しい沈ちん黙もくが数秒流れたときだったパタパタと軽やかな足音がライチのいる病院の入り

口へと駆かけてきた

「ただいまhelliphellipってうわデカっ

やってきたのは小こ柄がらな少女だったかつ

色しよくの肌はだに黒くろ髪かみをアップにまとめており動きやすそう

な服を身に着けている

少年とも見まごう細い腕うでと胸には紙かみ袋ぶくろに入った日用品を抱かかえていたが近づいて改めて見上

げたテイガーの巨きよ体たいに思わず驚おどろいてぐしゃりと抱だき潰つぶす

「リンファhelliphellip

おおかえりなさい」

いささか慌あわててライチは向き直った

彼女はリンファライチの病院で助手として手伝いをしている医者志望の少女だ

リンファは大きな黒目をさらに大きく見開いて遠目で見るよりずっと大迫はく力りよくなテイガーを

ぽかんと見上げていた

「たただいま先生えっとhelliphellipこの人誰だれ

お客さん」

「ああそのhelliphellip」

ライチは言葉を濁にごして迷った

リンファは公私ともに支えてくれる頼たのもしい助手だがライチは彼女に自分の過去を教えて

いないし教えるつもりもなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒109

自分にできることなどなにもないのだと

||一年前ライチがココノエやテイガーと共に過ごし研究に励はげんでいた第七機

を飛び出

したのはある人を助けるためだった

その人は魔素とそれを世界にもたらしたとされる境界について研究していた

けれどあるとき彼はおかしくなってしまった常に錯さく乱らんしたようになってやがて人前に

を見せなくなり最終的には人でなくなってしまった

魔素に触ふれ続け境界に近づきすぎたがゆえの結果だった自分と境界の境目がわからなく

なってあるべき形を失った

消化してしまったものを元の食品の形に戻せないように境界に取り込まれて同化したもの

を元の

になど戻せはしない

彼を追ってここカグツチのオリエントタウンまで来てもこの街に留とどまり続けても彼の

噂うわさを耳にしては飛び出し黒く蠢うごめく影かげを探しても魔素や人ならざる種族について研究を重ね

ても彼と同じように境界に手を伸のばしても

なにも変えられない

ライチが探している『あの人』はオリエントタウンから入ることができるカグツチ下層の

下水道をねぐらとして日々ただ本能の赴おもむくままにさまよい続けている

『どいつもこいつも私の弟子は馬ば鹿かばかりだhelliphellip』

ココノエが吐はき捨てるように言う

108

意識のない女

士が身に着けている青と白の制服は苦しい生活や貧しい環かん境きようをもたらした

元げん凶きようをし象よう徴ちようしているようなものだ

その気持ちをわかりながらもライチは

めるように言う

「誰であろうと患かん者じやは患者よリンファベッドの用意をしておいて」

「helliphellipはいライチ先生」

リンファとてライチの言い分はわかっている

もう一度きつく腕の中の紙袋を抱だきしめるとリンファは渋しぶし々ぶ頷うなずきそれでも足早に病院の

奥へと駆けていった

それを横目に見送りながらライチはぐったりとした少女の腕を肩かたに担ぐようにして濡ぬれ

た体を支える

最後にと見上げた知的な瞳ひとみにテイガーは告げた

「ライチこれだけは伝えておきたいココノエはお前が機

に戻もどることを望んでいるお前

にその意思があるならいつでも手を貸すつもりだ」

それこそがわざわざ通信回路をねじ込んでまで口をはさ

んできたココノエが言いたかったこ

とだろうとテイガーは解かい釈しやくしている

あの気難しく神経質な声で話す上司は人に情じよ緒うちよめいたことを伝えるのがとても苦手だ誰よ

りも側でココノエの仕事を手伝ってきたテイガーはそのことを身にしみて実感している

ライチは驚いたような顔を見せそれから頰ほおを緩ゆるめるように力を抜ぬくと

しげに首を横に振ふ

第二章 Spiral fate 盤上の駒111

間まちがってもテイガーやココノエとの会話を

かれるわけにはいかないのだライチは素早く

助けを求めるような視線をテイガーに向ける

だがそのときにはもうすでにテイガーは通信をオフにしていたライチがなにをきらうのか

は見かけによらず理性的な巨きよ漢かんは十分理解している

ただしその代わりにとばかりに抱えていた意識のない少女をライチの腕の中に押し付ける

ように託たくした

「私は任務があるもう行かなければとにかくこの娘むすめを頼む」

テイガーがここを訪れたのはなにもココノエの心情を伝えるためでも上司とライチを口論

させるためでもなくこの赤い髪かみの少女の身の安全のためだ

「わかったわ預かる」

このじ状よう況きようで拒きよ否ひするわけにもいかないライチは素直に少女の身み柄がらを引き受けた

力なくもたれかかる少女の体は決して軽くはないが支えながら引きずってベッドへ運ぶく

らいはできる医者や研究者に相応ふさわしくない程度にはライチは力には自信があった

ライチが受け取った人物の

を見てリンファが不ふ愉ゆ快かいそうに眉まゆを寄せた

「この人図書館の

士じゃんなんでhelliphellip」

なんで

士なんかを預かるのかのみ込まれたリンファの言葉はそう続くはずだった

リンファはオリエントタウンの生まれだ下層の住人の大半がそうであるように彼女もま

た高圧的な統制機構の施し政せいに大いに不満を抱いて生活している

110

雨の中運ばれてきたせいで少女の体はすっかり冷えていた

リンファが整えてくれたベッドまで運ぶと清潔なシーツの上に横たえ

士の制服である青

い帽ぼう子しとブーツを脱ぬがせる指先まですっかり力を失った手を取り手てぶ袋くろと硬かたい金具のついた

袖そでを外した

となりの部屋でリンファが買ってきた日用品の片づけをしている物音を

きながら上等とは言

えない毛布と布団を眠ねむる少女の体にそっとかけてやる

「helliphellip今夜はこれじゃ少し寒いかもしれないわね」

青と白の帽子や袖をたな

へしまいながらライチは声に出して呟つぶやいた

そのしゆ

間んかん目に見えない糸が切れたような不思議な感覚がライチの

筋を掠かすめていったの

だけれど

ライチはそれを冷えてきたがゆえの悪寒だと思って新しい患者にかけてやる毛布を取りに

行くため部屋を出た

この

間ライチの大切なものがひとつ喪うしなわれたと彼女が知ることはなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒113

った

「helliphellip私は戻れないわあの人のことが片付かない限りは」

戻ればきっと後こう悔かいするお門かどちがいにもココノエを恨うらむかもしれない

「そしてもし片が付いて私があそこに戻ろうとしてもそのときは今度は博士が私を受け入れ

ない」

もしあの人を戻せるとしたらその方法が容易たやすくそして人道に則のつとったものであるはずがな

い触ふれてはならないものに触れなければならないだろう見てはならないものを見なければ

ならないだろう知ってはいけないものを知らなければならないだろう

そうなったときココノエが自分をどんな目で見るかライチはあまり想像したくはなか

った

難しそうに唸うなりテイガーが小さく顎あごを引く歪ゆがんだ口元は苦々しい

「そうか難しいことは私にはわからんが」

いつまでも話してばかりはいられないテイガーは広く赤い

中をライチへ向けた

「今はこれで失礼するhelliphellip達者でな」

それだけ告げるとテイガーは後うしろ髪がみを引かれる様子もなく来た道を引き返していった暗

い影かげの中に入るとやがて大きな

中はオリエントタウンの路地裏に消える

ライチもまた立ち去る

を向けて預かった

士の少女を病院の中へと運び込んだ

後ろ手にとびらを閉めればそこはもう慣れ親しんだ小さな自分の病院だ

112

まったくうんざりするこれからこんな風雨の下でひとりで作業しなければならないな

んて

「helliphellipっていつまでもぐちぐち言っていてもしょうがないですか」

自分で自分を哀あわれみながらハザマはスーツの内ポケットから小さな通信機を取り出した

耳に当ててしばらく待つ

とうに日は落ちて辺りは暗くこの分厚い雨雲で月明かりが望めるわけもないハザマの後

方で灯ともる屋上入り口の白々しい明かりがスポットライトのように円形の濡れた屋上を寒々し

く照らしていた

『||私だ』

通信機の向こうから声が応こたえた

男の声だ低く感情らしい響ひびきは一いつ切さいない

ハザマはズボンのポケットに手を突つっ込こむと心持ち

筋を伸ばした

「お疲つかれ様ですハザマですとりあえず現場に到とう着ちやくしましたよ雨ざらしですけど」

『そうかでは始めろ』

「あらら冷たいですねぇねぎらいの言葉もなしですか技術大たい佐さ」

帽子のつばなどまるで意味がない濡れて額にはりつく前まえ髪がみを指先でのけながらハザマは口

角を引いて苦くし笑ようする

もっとも通信機の向こうにいる男にねぎらいの言葉などかけられたらそれはそれで気味

第二章 Spiral fate 盤上の駒115

2199年12月30日||18時21分

雨はまだ

り続いていた

曇どん天てんはますます色いろ濃こくついには強い風まで吹ふき始める

夜ともなれば空気は冷えるただでさえここは高い場所でhelliphellipそう地上から数えればとん

でもなく高い場所でそのうえ風雨をさえぎるものがないというのに

「あーあhelliphellipもう最悪ですね」

世界虚こ空くう情報統制機構カグツチ支部の屋上つまり第十三階層都市カグツチにおいて最も高

い場所に立つハザマは

り止む気配のない雨空を見上げて心底辟へき易えきしていた

制服ではない自前の黒いスーツも雨除よけにはならない帽子も上がってきて数秒でびしょ濡ぬ

れだ

少し待てば雨足も弱まるのではないかと思って無益に潰つぶした時間は一体なんだったのだろ

うか

「これが上官命令でもあの人の言いつけでもなかったら体調不良でも持ちだして即そつ刻こく本部に

帰るところですよ」

114

歩きながらもハザマは笑っていた両手をポケットに突っ込んでいるせいで細い肩が少しだ

け持ち上がって喉のどを鳴らすたびに小刻みに揺ゆれる

誰もいない鳥さえ近づかないカグツチの頂でハザマはどこか摑つかみどころなくにゆ

和うわに笑い

かけた

彼にだけわかる人物へまるでなだめすかすように

「そう急せかさないでくださいよ焦あせらなくてもいずれ取り戻せますって」

||ねえテルミさん

第二章 Spiral fate 盤上の駒117

が悪くてとても仕事どころではないのだけれど

『あまり時間がないさっさとしろ』

「はいはいまったく貴方あなたもあの人も人使いが荒あらいんですから」

ではまた後ほどそう言葉を足して通信を終えるとハザマは手の中に握にぎり込めるくらい

小さな通信機を玩がん具ぐでも扱あつかうように宙へ放ほうり投げキャッチした

雨が冷たい

ハザマは目ま深ぶかにかぶっていた黒の帽子をほんの少しだけ持ち上げた

濡れた髪の向こうから金色の瞳ひとみが覗のぞいていた照明の中でちらつく無数の雨あま粒つぶを鋭えい利りな狡こう猾かつ

さで見み据すえる一いつ緒しよにその向こうで静かに濡れるがらんと空くう虚きよななにもない屋上の空間を

軽く肩をすくめるようにしてハザマが笑えみの息を漏もらしたまるで誰かになにごとか語り

かけられたかのように

「わかっていますよ私だってさっさと片付けたいですからね」

さあさあと雨の音が途切れることなく続いている

そこにハザマ以外の誰かの声はなくもちろんハザマ以外の

はない

暗い夜の屋上は雨あま霧ぎりの中でなにひとつ文句も言えず濡れるばかりでハザマに何事か語りか

けるはずもない

ハザマは通信機をしまうとちょいと帽子を直し屋上の中央に向かって足を踏ふみ出した硬

い革かわぐつが濡れた床ゆかを叩たたいて微かすかな水音を弾はずませる

116

Page 7: t1501 ブレイブルー1 面付BLAZBLUE―ブレイブルー―1 カラミティトリガー 上> 原案・監修 ‥ 森利道(アークシステムワークス) 著‥駒尾真子

「こいつらを頼めるか」

普ふ段だんならば愛らしくもある猫の容

で獣兵

は重く問う

そんな重さをいとも容易たやすく掬すくい上げるようにシスターは軽かろやかに顎あごを引く

「もちろんいいえむしろ私からお願いするわこの子たちの面めん倒どうをみさせて」

ジンの頭をそっと抱き寄よせて乞こうようにシスターは言う

涙なみだが出そうだった溺おぼれるような嬉うれしさゆえだこんな未来がこんな運命が待っているな

んて思ってもみなかった

「この子たちを守る役目を私にちょうだい」

シスターの言葉に獣兵

はため息をついて猫

の肩を落とした安あん堵どの吐と息いきだった

「ラグナ彼女がhelliphellipシスターだ」

彼女の本名を告げるかどうか迷って結局近年呼び慣れた呼こし称ようで紹しよ介うかいすると獣兵

は後方の少年を前へと出した

彼はどうしたらいいのかわからないらしく険しい表情を頑かたくなに守ろうとしながらも困こん惑わくに

瞳を揺ゆらしシスターを見る

その強張った顔にシスターが手を伸のばすと小さなラグナはびくりと肩を飛び上がらせ下が

ろうとした

構わずにシスターは彼の頭へ手を置いたぽんぽんと髪を押さえるように撫なでる

「初めまして貴方たちに会えて嬉しいわようこそ私の教会へ今日からここが貴方たち

プロローグ13

ああまるで魔ま法ほうみたいだそれとも奇き跡せきだろうかシスターは瞼を伏ふせると感謝の祈いのり

を捧ささげた

その瞼が再び持ち上がるのを待って獣兵

が改めて

の少年を下ろしたシスターに差し

出すラグナという名の少年は迷いながらも今度は制止しなかった

眠り続ける細い体を受け止めてシスターは意識のない少年を胸に抱く腕の中の小さな体

の温ぬくもりがシスターの過去の記憶をより鮮せん明めいにさせた

「この少年がジンであいつが抱いている少女がサヤだそれから今も言ったがあいつの名

前がラグナ」

獣兵

が少年たちを順に紹介していく

ジンサヤラグナ

教えられた名前をシスターは胸中で何度も繰くり返した何度も何度も大切なものを包み込

むような温かさで何度も

「ジンにサヤそうこの子たちが貴方のラグナの弟と妹なのね」

「ん

その通りだがhelliphellipシスターどうして知っている」

「だって昔に

いたんだもの大切な弟と妹がいるって」

そうずっと昔にあの人から

いた大事な約束を交かわしたあの人から

義兄はなにかを思い出すような目でどこか遠くを見やり力を抜くように笑む

そうかと低く独りごちるように呟いてから改めてシスターを見た

12

近くに小川が流れすぐ裏手には実り豊かな森がある

そこはかつて大きな戦争があった時代の決戦の地けれど今は誰だれもが忘れた土地

緩やかで草深い草原の中ぽつんと建つ小さな教会で

老いたシスターと三人の子供の慎つつましくも賑にぎやかな生活がこの日始まった

||ねえラグナあなたは私に会えたかな

プロローグ15

の家よ」

温かく話しながらシスターは思う

遠い日に交わした約束それが果たされる日をずっと待っていたこの日が来るのをずっと

ずっと待っていた

ジャムを作らなかったことを頭の隅すみで後こう悔かいするもし作ってあったならこの子たちにお茶

と一いつ緒しよにジャムをたっぷり塗ぬったパンを食べさせてあげられたのに

「お帰りなさいラグナ」

きっと声が震ふるえていたせいだろう

口を結んだまま警戒を緩ゆるめられずにいるラグナの緑色の双そう眸ぼうに一

心配するような色がよ

ぎるから

やっぱり本当は優しい子なのだと思ってしまったから

シスターは目尻から透とう明めいな雫しずくをこぼしながら喜びのままに少女のように微笑ほほえんだ

||ねえ覚えてる

||あの約束を覚えてる

||私は会えたよ

||ねえ貴方は会えた

14

げる

身を隠かくすつもりは毛頭なかったむしろ向こうが見つけて仕し掛かけてくるならその都度叩たたき

のめすのが彼のやり方だ

こそこそやるのは性しように合わないどうせ目立つならできるだけ

手に振る

っていつか自

分の襲しゆ来うらいを

いただけで連中がに

げ出すようになればいいと思う

もっともそんな虫のいい話はないだろうと思ってもいるが

すぐに青と白を基調とした制服に身を包んだ男が五六人銃じゆうを抱かかえて走り込んでくる

こちらの位置に気付いていなかったのかはち合わせた途と端たんに先頭の数名が動どう揺ようして足を止

めた

だが彼は止まらない歩みを疾しつ走そうに変えて一直線に突つっ込こむと手の剣を大きく振ふりかぶっ

「止まれ

止まらなければ撃うつ」

制止の声に意味はない

制服

の男たちがそれぞれに銃を構えた即そく座ざに全員が発はつ砲ぽうするけたたましい発砲音が廊

下に響く

がその直後彼は振りかぶった剣を

いよく薙ないだ

「うらぁぁぁぁぁっ」

剣から黒く禍まがま々がしい揺らめきが放たれて宙を駆かけ迫せまる銃じゆ弾うだんのすべてをの

み込んで掻かき消し

第一章 Stratum city 階層都市17

第一章

Stra

tum city

||階層都市

アーチ状に造られた白く高い天てん井じように慌あわただしい足音がいくつも響ひびいていた

誰もが口々に警戒と攻こう撃げき指示を口にする侵しん入にゆ者うしやを捕つかまえろ殺せこれ以上進ませるな

そう叫さけぶ声はしつ

咤たや激げき励れいというよりもっと

痛な音に引きつっておりひどく追い詰つめられた

状じよう

況きようを如によ実じつに物語っていた

廊ろう下かの先から

こえてくるそれらを

きながら

彼は迷いや躊躇ためら

いなど微み塵じんもなくいっそ悠ゆう然ぜんとした振るま

いで近付いてくる足音のほう

へと進んでいた

白い髪に左が緑で右が赤という左右で色のちが

う瞳ひとみがっしりした体つきに黒い服を纏まとい

その上に目の覚めるような真っ赤なコートを羽織っている

(helliphellip後から後からよく集まってくるもんだ)

ぼやくように思いながら彼はそれまで肩に担いでいた幅はば広びろで分厚い刀身の剣けんを手にぶら下

16

彼はなにもひっそりとここに忍しのび込んだわけではない

を守る警

員を殴なぐり倒して正面

から堂々と侵入したのだ

まるで自分の力と存在を誇こ示じし深く爪つめ痕あとを残すように彼は暴れに暴れて手あたり

第に破

壊し奥へと進んだ立ちはだかるものはなんであろうと斬きり倒すそんな暴力的な歩みで進

んで進んでhelliphellip

そうして彼が到とう達たつしたのは長い長いし昇ようこう装置で

りた先のぽっかりと口を開けたような

地下深い広間だった

helliphellipそこはもうこれまで通ってきた廊下や部屋とは

う世界だった

空気が

う温度が

床ゆかも壁も天井も金属に似た質感の板で覆おおわれており広場を見下ろす位置にガラス張りの小

部屋が設けられているその下にも重じゆ厚うこうな機械類が並んでおりそれらが見み据すえる先で異様に

大きななにかの装置が沈ちん黙もくしていた

人は誰もいないここにいたはずの人間は皆みな襲しゆ撃うげきの知らせを受けて避ひ難なんしたのだろうそ

してここに駆けつけるはずの人間は皆白はく髪はつの侵入者が蹴け散ちらしてしまった後だ

一歩一歩彼は広間の奥に鎮ちん座ざしている巨きよ大だいな装置へと足を進めた

異質さが体にまとわりつくようだった

第一章 Stratum city 階層都市19

てしまう

揺らめきはそのまま炎ほのおの速さで走りじ弾だんを浴びせる制服たちへと迫ると一息に吹ふき飛ばし

たご

うと炎が逆巻くような音が巻き起こり男たちの体は

鳴ごと攫さらわれて壁かべに叩きつけら

れる衝しよ撃うげきに負けて壁に太くヒビが走った

たった一撃それだけで銃を構え勇ましくも侵入者を迎むかえ撃とうとしていた男たちは全員

意識を失い廊下に倒たおれ伏した

「helliphellip倒されるってわかってんだからのこのこ出てくんじゃねぇよ馬ば鹿かが」

あっけないものだ倒れた制服

を横目に見やると大きな剣を携たずさえた彼はすぐさま廊下を

走り出す

いつまでもこんなところで時間を食っている場合ではない

向かうのはこの施し設せつの一番奥最下層だ

また廊下の奥から青と白の制服

が現れる口々に叫びながら銃を構えあるいは剣を抜ぬい

た人

数はさっきよりも多いがだからといって彼のやることに変わりはない

真正面から突っ込んですべてを振り払はらい叩きのめす

々に制服

の力ない体が廊下のあちこちに転がりセキュリティ装置はことごとく破は壊かいさ

れ口を閉とざすとびらすら叩き切られて鉄くずに変えられた

18

この世でありながら別の世であるかのような本能が警告するい和わ感のようなものが空気の

代わりに漂ただよっている

けれど彼には慣れた空気だった

もう幾いく度どもこういうところにはやってきているのだここと同じ構造をして同じ装置を地

下に隠した施設をこれまでいくつ訪ねたかわからない

毎度訪問の目的はひとつ

この巨大な装置の破壊だ

彼は床を踏ふみしめるようにして歩み寄る

これがなんのために存在しているのかここで働いていた者のどれほどが把は握あくしていたのだ

ろう

来るたびに彼は棘とげのような疑問を感じる

これがなにをもたらすと思って毎日毎日こんな陰いん気き臭くさい地下深くまで

りてきて用よう途とも

わからないチカチカ光る計器をいじくり回していたのだろう

縁へりまで来ると彼はそれを睨にらみ据すえる

銀色の金属で組み立てられた装置は見上げるほどに高くそびえ見下ろすほどに深く大き

かった

メインとなる部分は彼が見下ろす円形の部分だ

これは『窯かま』だった

20

第九階層都市アキツ世界虚こ空くう情報統制機構支部

都市の中心に建っていた施設が何者かの襲撃によって崩ほう壊かいしその騒動で都市全体が混乱し

ている中

赤いロングコートを着た白髪の男はひとりひっそりと都市から去ろうとしていた

もうここでやるべきことは終わった長居は無用だ

施設での

手な立ち回りに反して外では人目につかぬよう入り組んだ道を通りできるだ

け薄うす暗ぐらい出口を選んだ

街中で制服を着た

士たちに見つかれば振り払うために戦わねばならないそれが煩わずらわし

い錆さび

臭くさい鉄門をくぐって奥にあるポートへ向かうその脇わきにある通路を下れば外に出られる

はずだ

そのときふと薔ばら

の香かおりが彼の鼻び孔こうをくすぐった

「まるで行き場を失った野の良ら犬みたいね」

淡たんた々んとしたあざけり

の声が

こえ彼は足を止めて振り向いた傍かたわらに佇たたずむ細い外灯を見上げる

先せん端たん

が二ふた股またに分かれたシンプルなそれの上にひとりの少女が立っていた

歳としは十を過ぎて数年といった程度だろうかまだ幼い顔立ちをしながらも足元からの薄暗

い明りに照らされて浮うかぶ赤い瞳は外見の年とし頃ごろに似合わぬ聡そう明めいさをたたえている

第一章 Stratum city 階層都市23

今はいくつもの金属板が折り重なるようにして口を閉ざしているが開けば内は火山の火口

のようになっている炎えん色しよくの溶よう岩がんのようなものが渦うずを巻いて覗のぞき込む者のすべてをのみ込ま

んと燃え盛さかっているのだ

だが中でわだかまっているものは決して溶岩や炎などではない

そこにあるのは異界だ人が本来あるべきではない世界のひずみ走った亀き裂れつの向こう側

見てはいけなかった踏み込んではいけなかった世界のからの外側

彼が見下ろす金属の装置はこの窯を制せい御ぎよしまた窯に干渉するためのものだ

本来及およぶべきものではない異界||境界に触ふれるための装置

彼は世界中に散らばるこの窯を破壊して回っていた

こうして

めてみても今いま更さら感かんがいもない

彼は剣を腰こしに戻もどすと右手を装置へと向けて突き出した何事か呟つぶやくもう何度も繰くり返し

口にしてきた破壊をもたらす言葉

言葉は彼の右みぎ腕うでで眠ねむっていた力を呼び起こし力は彼の右腕に蒼あおい光を生んだ

またたく間に辺りを埋うめ尽つくすほどに増ぞう幅ふくされた光を彼は装置に向けて思い切り放つ

のしゆ間んかん地下深くで口を閉ざしていた異界への門はそれを囲む広大な部屋ごと跡あと形かたもな

く吹き飛んだ

22

別に行き先などどこでもいいカグツチならここアキツからでもそう遠くはない

彼は忌いまい々ましげに少女の消えた辺りを睨みつけると示された

の目的地を目指して歩き出し

た数

日後彼の名は世界中に指名手配犯として公開された

ラグナザブラッドエッジ

それが『死神』の異名を持つ史上最高額の賞金首の名だった

2199年12月30日||13時27分

約百年前世界は一度滅ほろびかけたという

突とつ如じよ現れ世界中を破壊して回った巨大にして異形の怪かい物ぶつhelliphellip『黒き獣けも』の

その圧あつ倒とう的な力に人類は為なす術すべもなくあっという間に世界の人口は半分に減った

ところがそこに六人の勇士が現れた

第一章 Stratum city 階層都市25

下方の彼を見やって少女は薄うすく微笑ほほえんだ

「薄うす汚ぎたない迷子の野良犬さん

に貴方あなたが行くべき場所を教えてあげましょうか」

「helliphellipなに企たくらんでいやがる今まではそんなこと教えなかったじゃねぇか」

吐はき捨てるように彼は低く呻うめいた

少女は呆あきれたように眉まゆ尻じりを下げる

「心外ね教えてきたじゃないhelliphellipもう何度も」

「はぁ

なに言ってんだテメェ」

「覚えていないならいいのよ期待もしていないわ」

指に絡からまった糸くずでも払うように言うと少女はある方向をその白く小さな手で示した

その先に広がるのは暗雲を抱いだく暗い夜空星も月もない夜はまるで不ふ穏おんな予感を掻きたてよ

うとするかのように重苦しく静かだった

「第十三階層都市カグツチ」

そこが貴方が導かれるべき場所よ

そう告げると少女は薔

の香りを漂わせ風が吹き抜けるように

を消した

甘い花の香りが消えると白昼夢から現実に引き戻されたかのようにどこからか金属とくさ

った水の臭においが漂ってくる

気分のいい場所ではない

「カグツチhelliphellipね」

24

た街は山の高度に沿って上下に広がり結果幾いく重えにも市街のプレートが重なった狭せまくも高

い都市が生まれたのだ

ここ第十三階層都市カグツチもまた世界中の都市がそうであるように複雑な多重構造と

なっている都市だった

その中の折り重なった市街のひとつオリエントタウンの入り組んだ細い道を彼は少々ふ

らついた足取りで歩いていた

白い髪かみに左は緑右は赤という左右で色のちが

う瞳ひとみ全身を包む黒い服に目の覚めるよう

な真っ赤なロングコート腰には幅はば広びろで分厚い刀身がと特くち徴よう的な剣けんが下げられている

ラグナザブラッドエッジ

世界虚空情報統制機構の支部を各地で壊かい滅めつさせているSS級の指名手配犯であり史上最高

額の賞金首が彼だ

とはいえ周囲を行き交かう街の住人は誰もラグナを気にしたりはしないどうせまたどこか

らか無法者が入ってきたのだろうそんな程度の視線が時折興味もなさそうに掠かすめては離れ

ていく

ここはオリエントタウンカグツチの下層に位置する街だ

階層都市はその構造上上層の街であるほど魔素から遠く安全で清潔で逆に下層に行くほ

ど管理が行き届かず魔素に近い階層都市において上下は住みやすさだけでなく晒さらされる命

の危険の度合いをも意味している

第一章 Stratum city 階層都市27

彼らは事象兵器

アークエネミーと呼ばれる武器を手に黒き獣にいどみ災さい厄やくの魔ま物ものを倒し人類に未来をもた

らした

六英えい雄ゆうと讃たたえられた彼らは人知れず歴史の海に

を消し行ゆく方え不明となったがそれでも彼ら

の栄光は伝説として語かたり継つがれた

それは近くも遠い昔の話

今の世にかつての黒き獣との戦争||暗黒大戦の誰だれもが知るような名な残ごりがあるとすれば

それは大きく数えてふたつだろう

ひとつは世界虚空情報統制機構

暗黒大戦のとき六英雄と共に戦った世界的な連合軍が母体となった組織であり現在は世界

中をこの組織が統とう括かつしている

そしてもうひとつが魔素

災厄の魔物黒き獣の出現と共に世界中であふれ出した物質で黒き獣が倒たおされた後も依い然ぜんと

して世界の空気中に残り続けた

今では様々なテクノロジーにも利用され人々が暮らしていくうえでなくてはならないもの

となっているがそれでも多量の摂取は人体への危険を伴ともなう

そのため人類は魔素を利用しながらも魔素を避さけて生活しなければならなかった

魔素は地表に近いほど濃こく滞たい留りゆうしているそこで考え出されたのが階層都市だ

高山を基き軸じくにしてそこからプレート状に築いた市街を突つき出させるようにして街を建設し

26

っている

そのうえあちこちの路地を塞ふさぐように木箱やらなにかの詰つまった袋ふくろやらが我が物顔で腰を下

ろしているものだから何気なく入った路地が通り抜ぬけられないこともしばしばある

赤い柱にぎょろついた目玉のついた奇きみ妙ような像街中に小さな明かりの灯った提ちよ灯うちんがぶら下げ

られていてそれ以上におびただしい数の大小の看板が眩まぶしいネオンを輝かがやかせている

普ふ通つう下層の街というのはいくつもある上層の基き盤ばんに陽光をさえぎら

れて昼間でも薄暗く場所に

よっては真っ暗になるものだがここはそんな暗がりとは無む縁えんのようだ

路地を抜けると少し開けた通りへ出た

左右にずらりとなにかの店が並んでいてどうやらこの辺りのメインストリートらしかった

その分掲かかげられた看板の数もその

手な色しき彩さいも段だんちがいだ

(この辺なら統制機構の連中もいねぇだろ)

比ひかく的広い通りでもいかにもこの街の住人といった人間ばかりが歩いていて世界虚空情報

統制機構の例の忌いまい々ましい青と白を基調にした制服は見当たらない

ありがたい話だもし見つかれば曲がりなりにもラグナは重大犯

者周囲への配はい慮りよもな

にもなく雨あられと発はつ砲ぽうされ

から

へと集まってくる

士たちと追いかけっこを演じなけ

ればならなくなる

ラグナは左右をきょろきょろと見回しながら腹部に手をやった

疲労より空腹が辛つらいカグツチに入ってからというもの食料品を扱う店に巡り合えず持

第一章 Stratum city 階層都市29

当然最上層を占せん拠きよしているのは管理機

でもある世界虚空情報統制機構だその

連施し

設せつや

係者の住宅が市街のほとんどを占しめている

続いて権力に近く裕ゆう福ふくである者が上層階に住まいそうでない者はその

産や身分に順列を

つけるように下へ下へと下っていく

オリエントタウンに住んでいるのはそういった順列の結果ここまで追いやられてきた人間

たちだった

誰も彼もお世辞にも裕福とは言えない自分と家族それから少しの親しい人間の生活の

ことで精いっぱいで見るからに異質な白髪の男にかかわって余計な面めん倒どうに首を突っ込みたが

る酔すい狂きよ者うものなどほとんどいないのだ

もっともラグナ自身も周囲の人間の様子に気を配っている余よ裕ゆうはあまりなかった

今は使われていないは搬んに入ゆう口からカグツチに侵しん入にゆうしたのが二日前それからずっと人の通ら

ない裏道や廃はい棄きされたエリアを通ってきた図はかったわけでもないのに延々と歩かざるを得なか

った悪路に正直疲ひ労ろうが募つのっている

帰りはもっとまともな道を通ろうそう決めていた

「にしても下層にしちゃ賑にぎやかな街だな」

辺りを見回しラグナはぼやくように率そつ直ちよくな感想を口にした

オリエントタウンは無計画にとにかく乱雑に家を建て並べたことがよくわかる入り組んだ

造りをしていた道は狭くやたらに折れ曲がり家々は今にも密着しそうに身を寄せ合って建

28

「うhelliphellipう」

微かすかに震ふるえる声で呻き少女はゆっくり顔を上げる

ラグナを見上げたフードの中におそらく誰もが想像するであろう少女の顔はなかった

あるのは黒い暗い闇やみを詰め込んだような陰かげその中でへなりと下がった赤い目らしき丸と

白い歯の並ぶ下を向いた三日月形の口だけが浮かんでいる

ぴくぴくと痙けい攣れんするようにフードについている三角の耳が震えた

人間ではないけれど獣のような尻尾や耳を持つ獣じゆ人うじんとも様子が

「もしかしてhelliphellipカカ族か」

このような奇きみ妙ような風ふう貌ぼうの生き物をラグナは過去にも一度見たことがあった確か剣けんの師しし匠よう

を訪ねてきたはずだ同じような黒い顔に実にシンプルな顔のパーツ目の前にいる少女とそ

のとき目にしたカカ族の女は明らかに別人だがこのと特くち徴よう的な容

は他にあるまい

もっとも『カカ族』という名めい称しようを知っているだけでつまりどういう一族なのかをラグナは

知らないのだが

さてこの少女をどうしたものか

わらずに引き返すべきか見なかったことにして先へ

進むか

咄とつ嗟さのことに決めあぐねていると顔だけを起こしたカカ族の少女はその弱り切った様から

は想像もできない俊しゆ敏んびんさで突如ラグナの足にしがみついた

「うおぁっななんだ」

第一章 Stratum city 階層都市31

ち歩いていた保存食も底をつき昨日の夜からなにも食べていないのだそろそろいい加減

限界が近い

いくら下層街でもこの雰ふん囲い気きなら飲食店くらいいくつかあるだろうそう思って雑多な看

板からそれらしい名前を探しているとhelliphellip

なにかやわらかいものを踏ふんだ

「ブニャッ」

同時になにかの鳴き声が足元から

こえた

「げっ」

犬か猫ねこでも踏みつけたかと思ってラグナは慌あわてて足をどける

が見下ろしたそれは予想に反してずいぶんと大きなものだった

というより人だったり両よう腕うで両足を地べたに投げ出し力なく倒れ伏ふしている少女だ全身

をすっぽりと覆おおうフードつきのローブから長い三つ編みの髪とかつ色しよくの肌はだの足が覗のぞき見えてい

るhellip

hellipいや

「なhelliphellipなんだテメェ」

警けい戒かいというより疑問一色の声で問いかけるラグナの視界でひょろりと弱々しく細長い尻しつ尾ぽ

が揺ゆれた

尻尾はその倒れた少女から生えていた

30

「はぁ

おおいどうした大だい丈じよ夫うぶか」

あまりにも切せつ羽ぱ詰つまった声を出すものだからさすがに少し心配になった持ち上げていた足

を下ろして陰を詰めこんだような顔を覗きこむ

まるで黒いお面のような顔は目も口も情けなく下げてラグナを見上げ今にも気を失いそう

な弱さで訴えた

「おhelliphellipお腹なかが空すいたhelliphellipニャス」

黄色いクロスがかけられた丸いテーブルの上にいくつもの皿が並んでいた

揚あげた鶏とり肉にくに薬味だれをたっぷりかけたもの肉団子と色いろ鮮あざやかな野菜の甘あま酢ずあん炒いため四

角く切り分けた豚ぶた肉にくを甘あま辛からく味付けしたこってりとした煮に物ものに山と盛られた炒め飯牛肉と

野菜を濃い味の味み噌そで炒めたもの細切りにした野菜を薄うすい皮で包んだパリパリの春巻きに

挽ひいた肉を包んで蒸むしたふかふかの饅まん頭じゆhellipうhellip

白い湯気と共に胃いぶ袋くろを震わせずにはおかない匂においを放つ数々の料理を三角耳のついたフー

ドの奇妙な少女は椅い子すからずり落ちそうなほど身を乗り出して忙いそがしく口に掻かき込んでいた

「はぐはぐはぐニャスはぐはぐはぐはぐはぐニャスはぐはぐ」

料理を頰ほお張ばる音なのか箸はしをしゃぶる音なのか空気の抜けるような声が絶えず漏もれていた

第一章 Stratum city 階層都市33

「うぅぅニャhelliphellipた助けてhelliphellipニャス」

驚おどろいて足を持ち上げ振ふり払はらおうとしたラグナの足に両腕を絡めてぶら下がり三角耳に尻尾

を生やした少女はあわれっぽく訴うつたえる

しがみつく腕うでをほどこうとラグナは足を大きく上下に振ふりまくるが少女の腕がどういう

わけか一向に離れない

「くっこの離しやがれ

なんなんだよテメェは」

「離さないニャス絶対に離さないニャスぅhelliphellip助けてくれないとこのままオマエの足を食う

ニャスよぉぉhelliphellip」

声だけは弱々しくだが腕は言葉に反して力強くラグナの足を摑つかんで離さない

この騒さわぎでも周囲の人間は奇き怪かいなものでも見るような視線を一いつしゆんくれるだけでそれ以上

わろうとせず通り過ぎて行く

面倒なトラブルに巻き込まれる心配はなかったが少なくとも親切な通行人の手助けは見込

めなさそうだった

何度目かでいい加減に諦あきらめるラグナは足を中ちゆ途うと半はん端ぱに持ち上げたまま縋すがり崩くずれるカカ族

の少女を憔しよ悴うすいの表情で見下ろした

「待て待て待て足を食うなてか意味わかんねぇよ助けるってなんだよ」

「うぅぅhelliphellipよhelliphellipよくぞ

いてくれたニャスタオは今とってもピンチなのネもうhelliphellip

もう限界ニャス」

32

た中皿いっぱいに盛ってあったはずの春巻きはいつの間にか最後のひとつになっていた

「こんなにうまいご飯を

ってくれるなんて白い人はいい人ニャスタオはとぉ〜っても感

謝してるのニャス」

両腕を大きく振り回して少女は喜びの度合いを示そうとするその手は指先まですっぽり

と袖そでの中に隠かくれていて猫の前脚を模したように大きく丸くなっていた

ラグナは春巻きを飲み込んでから尋たずねる

「タオってのはお前の名前か」

「ニャス

タオカカニャス」

大きく頷うなずくと尻尾を持つカカ族の少女タオカカはもう一方の手に持ったままだった肉饅

頭をまた一口で頰張り飲み込こんだ

「タオは村を出て勇ましく旅立ったんニャスがhelliphellipすっかりお腹が空いて動けなくなってたの

ニャあのときいい人が助けてくれなかったらタオは今ごろ干からびてカカの干物になって

たニャスこの『ごおん』は忘れないニャスよ」

勝手に身の上話を始めながらタオカカは味噌炒めの皿を抱かかえて残っていた分を全すべて口の中

に流し込んでしまう

まだそれ食ってなかったんだけどとは言えずラグナは渋じゆ面うめんでその様を見守った仕方な

く肉饅頭をひとつ確保すると呆れを込めてため息に肩かたを落とす

「はいはいなにがご恩だよどうせ飯食ったら忘れるだろお前」

第一章 Stratum city 階層都市35

さっきまで力なく下がっていた目も今はまん丸で口も上向きの三日月形となっている

その様を横目に呆あきれ顔でながめながら向かいの席に座っていたラグナは揚げた鶏肉を口に運

んだ分厚い衣ころもがカリカリとしていてうまい久しぶりに直じか火びで炙あぶっただけでない手の込ん

だ食事だった

「helliphellipうまいか」

料理は凄すさまじい速度で減っていく奇妙な少女が嬉きき々として大量のメニューを注文し始めた

ときはラグナはとてもそんなに食べきれないと青ざめたがそんな心配は無用だったようだ

むしろ今となっては支し払はらいのほうがよほど心配だ

先だけ白くなっている尻尾をふりふりと上じよ機うきげんに揺らす奇妙な少女はふかふかの饅頭を両

手に摑つかんで顔を上げた

「うまいニャス

あれもこれもそれもぜ〜んぶうまうまニャス」

「そうかそうかそらよかったよはぁhelliphellip」

こうも屈くつ託たくなく当然のように貪むさぼられるとこいつの頭に遠えん慮りよという言葉はないのかだとか

そもそもどうして自分が見ず知らずの正体不明な少女に食事をおごっているのかだとかなぜ手

を引かれるままに大人しくこの店まで来てしまったのかだとか尽つきることなく浮うかんでくる

疑問もどうでもよくなってくる

少女はうまそうに肉饅頭を一口で頰張る

あっという間に飲み込む様に思わず苦くし笑ようを漏らしてラグナは春巻きをひとつ箸で取り上げ

34

だが現在はどちらかというと統制機構の手に負えない凶きよ悪うあ犯くはんや行ゆく方えの知れないとう

亡ぼう犯など

にかけられた多額の賞金を得て日ひ銭ぜにを稼ぐ者のことを表している

それが全てというわけではないが多くはまともな

につけなかった荒あらくれが暴力手段で稼

げる口として選ぶ道だ

女の咎追いが珍めずらしいわけではないがこれほど無防

でき緊んち張よう感のない咎追いはラグナは見

たことがなかった

「そうニャス今日からなったニャス」

「今日からかよ」

「そんでこいつを摑まえるのネ」

なぜだか誇ほこらしげにタオカカは皺を伸ばした紙をラグナに差し出した

ラグナは肉団子を野菜と一いつ緒しよに口の中で嚙かみ砕くだきながらそれを受け取る街角などに貼はら

れているような指名手配書だったあまりお目にかかれない気前のいい賞金額と共にひどく

不細工な男の似顔絵が描えがかれている

賞金首の名前はラグナザブラッドエッジ

「ぶはほっ

その名前を見た途と端たんラグナは盛せい大だいに肉団子と野菜を咀そし嚼やくしたものを噴ふき出した

「ぶにゃにゃ

いきなりご飯噴き出すなんていい人ばっちいニャもったいないニャスよ」

横で抗こう議ぎしながら最後の肉饅頭を頰張るタオカカの声も耳に入らないラグナはまじまじ

第一章 Stratum city 階層都市37

「忘れないニャス」

突とつ然ぜんピンと尻尾を真まっ直すぐに立ててタオカカはずいと身を乗り出すとテーブルの上からラ

グナを見上げた瞳どう孔こうのない丸い目ときばを並べた三日月の口がお面のようで不気味だ不気味

であるはずなのにどうしてか見つめられると愛あい嬌きようを感じる

「カカは義ぎ理り堅がたい一族ニャス受けた恩は忘れないのネいつかタオが大金持ちになったら

今度はタオがいい人にご飯を

ってやるニャス」

「大金持ちってhelliphellipお前な腹減りで行き倒だおれてた奴やつがなに言ってんだアテもねえくせに」

「ぬっふふふアテならあるニャスよ」

言ってひょいと肉団子を三つ箸に刺さして口に放ほうるとタオカカは椅子までずりずりと体を下

げて服の中からなにかを取り出した

くしゃくしゃになった一枚の紙だタオカカはそれを丸い手でテーブルの上に広げて皺しわを伸の

ばす

「タオは咎とが追おいニャス悪い奴をとっちめてたくさんお金をもらうのネ」

「咎追いだ」

怪けげんそうにラグナは眉まゆを寄せた

咎追いとはいわば賞金稼かせぎだ

元は大量の魔ま素そによって生態系が乱れ大量の新種生物が発生した

にそれらを討とう伐ばつする

べく統制機構が武装を許可した者たちのことを指した

36

「うニャいいニャスよいい人はタオのおんじんニャスからねどーんと任せておくといい

ニャス」

そう言ってタオカカはニシシと笑うと綺き麗れいに舐めた皿をドンとテーブルに置いた

その目の前に

「お待たせしました〜」

若いウエイトレスが新しくいくつもの皿を並べた

肉味噌ののっためん

とパリパリに揚がった

にたっぷりの野菜が入ったあんをかけたもの

焼き豚ぶたをスライスしたものの盛り合わせエビのすり身やら豚のひき肉と香こう味み野菜やらをもっ

ちりとした皮でくるんだ無数の蒸し物

できたての遠えん慮りよ容よう赦しやのない湯気が豊かな香かおりと一緒に天てん井じようへ上がる

「helliphellipは」

頼たのんだ覚えはないそう抗議しようとして気がついた

あのときhelliphellipラグナが自分の手配書を見ていたときだあのときタオカカが一口で食べた肉

饅頭が皿に残っていた料理の最後だった

その直後そういえばタオカカがメニューへ手を伸ばしていたような気がする

「ひゃほ〜ぅうまそうニャス

秘密の抜け道は危ないところなのネいい人もお腹いっぱ

いにしておかないとお腹空いちゃうニャスよ〜」

悪びれるどころか嬉しそうに蒸し物を引き寄せるタオカカの手をラグナは思い切り摑んだ

第一章 Stratum city 階層都市39

と手にした手配書を見る細かく手が震えた

(なhelliphellipなんっだよこの似顔絵

いくらなんでも似てなさすぎだろ

そもそもよくわかっ

てねぇなら似顔絵なんか載のせんなよ俺がこういう顔だみたいに広めてんじゃねぇよ

まさかこれがカグツチの街中にベタベタ貼ってあるのではないだろうかだとしたら憂ゆう鬱うつだ

この顔が『ラグナザブラッドエッジ』の顔だと思われていることもだがこの額で手配

書が出回っているとなるとずいぶんな数の咎追いがラグナを探しているはずだそういう咎追

いはこのカグツチにも多くたむろしているだろう

(普ふ通つうに街中通ってくのはまずいかhelliphellip)

あの青と白の制服連中に見つかるのも厄やつ介かいだが咎追いに見つかるのも厄介だそれこそこ

っちの都合などお構いなしに街中だろうがどこだろうが構わず『仕事』に取り掛かるに

ない

「helliphellipなあタオカカだっけかお前カグツチの上のほうに行く抜ぬけ道とか知らねぇか」

くしゃくしゃの手配書を返しながらラグナは心持ち身を屈かがめて声を低めたもしあるなら

多少悪路であっても面めん倒どう事ごとを引き起こすよりはずっといい

タオカカは甘酢あんだけが残った肉団子の大皿を舐なめながら答える

「おう秘密の抜け道ネ知ってるニャスよ」

「本当か

そりゃいいなあ飯

ってやる代わりにその抜け道まで案内してくんねぇ

か」

38

の腕うでを摑むとウエイトレスの手を強く払った

荷物でも担かつぐようにタオカカを肩に抱だき上げて弾はじかれたように店を飛び出す

「うニャニャッ

タオのご飯

まだ食べてないニャスよ」

「うるせぇ

それどころじゃねえんだよ」

肩かた口ぐちで

痛な声をあげ追いすがるように手を伸のばすタオカカへラグナは焦あせりのままに声を

荒げた

オリエントタウンの大通りへ出ると人波を掻かき分けて持てるき脚やく力りよくの限界にいど

いで走る

「待て

誰だれか捕まえて食いに

げだよ

後方からウエイトレスの金切り声が追いかけてくる

ぎょっとすることにウエイトレスの足はラグナに負けていなかったしゆ

念うねんのせいかもしれな

いラ

グナは足を動かしながら何度も悪態をついたまさかカグツチにやってきて最初に引き起

こす騒そう動どうが食い

げだとはこの街に上がってきたときには思いもしなかった

担がれたタオカカはしょんぼりと尻しつ尾ぽを垂らしてまだ諦あきらめ切れないのか後方へ向けて空を

掻いていた

「うう〜っタオのご飯がぁhelliphellip」

「いいから抜け道の場所を教えろ

店の奴に摑まってミンチにされてぇのか」

「みんち」

第一章 Stratum city 階層都市41

いのあまり腰こしが浮く

「おおまっなに勝手に追加してんだよ

「ニャ

いい人もうお腹いっぱいニャス

ならタオが全部helliphellip」

「ちげぇよ

こんな山ほど注文されていくらなんでも払はらえるか

俺はそんなに金持って

ねぇんだよ

そもそもラグナは仕事を持っていない時折咎追いの真ま似ねごとや日ひ雇やといの仕事で旅費を稼い

だりもするがそんなものは一時しのぎだ金がなくてまともな宿さえ取れないというのに

さっきまでの注文に加えてまだ追加がくるなんてとても財さい布ふの中身が足りると思えない

息巻くラグナの肩に手を置く者があった

ラグナは一度うるせぇとそれを払い落すだが手はすぐにもう一度ラグナの肩を叩たたき手

の主が低く

後から問うた

「お客さん

今helliphellip金持ってないって」

「helliphellipあ」

言われラグナが振ふり向いた先に立っていたのはラグナよりずっと

の低いウエイトレス

だったにこやかに微笑ほほえんでいるがその目はどこか殺気じみている

「金持ってないって」

ウエイトレスはもう一度問う

その直後ラグナはまるで事態がわかっておらず蒸し物をパクパク口に運んでいたタオカカ

40

2199年12月30日||13時35分

灰色の雲に閉とざされた空を

景に一そう

の船が港に到とう着ちやくした

船といっても海を渡わたる船ではない渡るのは空だ

膨れた腹部に人間や機材といった貨物を詰つめて運び左右に伸びた翼つばさに魔素を取りこみ飛行

する魔操船

当然空飛ぶ魔操船が停てい泊はくする港も相応の造りをしている

第十三階層都市カグツチ第五番ポート他に比べて小さく目立たない造りになっている

そこはある特定の目的に多く使われるポートだった

身を寄せるように入港した暗色の魔操船の重々しい稼か働どう音おんが止まりハッチが開いて細身の

階段が下方へ伸びる

銃じゆうを肩かたに下げた青と白の制服

士が数名

りてきて慌あわただしく持ち場につき無線機で

なにやら報告を交かわす

それから遅れることしばしポートの平たい地面に向かう階段に黒い革かわぐつの足がかけられ

た続いてひょいと細身を覗のぞかせるように現れたのは黒いスーツに身を包んだ

の高い男だ

第一章 Stratum city 階層都市43

「肉だよ肉

さっき並んでた料理になりたくなきゃさっさと教えろ」

なにも本気で店員が自分たちをミンチにすると思って言ったわけではないが遅れて意味を

理解したタオカカは真に受けたらしいびくりと尻尾が飛び上がって警けい戒かいするように太く膨ふく

れる

「お肉にされたらお肉が食べられなくなっちゃうニャス

それはいやニャス」

肩の上で器用に身を捻ひねってラグナの前に着地するとタオカカは獣けもののように両手を地面につ

いて走り出す

「いい人こっちニャス」

「よしわかった」

タオカカが飛び込むようにして細い路地に入るい一つしゆん反応が遅おくれたもののラグナも空の籠かご

をひっくり返しながらそれに続いた

ネオンの看板から遠くなりぐっと辺りが薄うす暗ぐらくなる

走りながらラグナはげんなりと自じちようするように思った

今日の食い

げの分明日から自分にかけられている賞金が増額するかもしれないなhelliphellipと

42

青のブーツで雨水を

ね上げながらハザマのいる管理小屋の前まで行くと軽く息を整えて

を正す

空色の瞳ひとみは凜りんとしており生き真ま面じ目めな表情をしていた

「お待たせしてしまってすみませんでも一声かけてくださればよろしかったのにhelliphellipまだ

中にいらっしゃるのかと思って探しておりました」

「おやおやそれはそれはお手数をおかけしましたツバキヤヨイ少しよ尉うい」

その瞳が示す通りどこまでも生真面目に話す女性をツバキと呼んでハザマは口の端はしを深く

吊つり上げ笑えみを浮うかべた

ツバキヤヨイ少尉彼女はハザマのように諜報部の所属ではなく世界虚空情報統制機構

武装魔ま術じゆ師つし第四師団の所属だった

世界虚空情報統制機構とは国家というがい

念ねんのなくなった現世界においてその代役を担になう重

大にして巨きよ大だいな機

だ帝みかどと呼ばれる絶対的な決定権を持つ存在を頂点に掲かかげ世界中の施し政せい

司法軍事あらゆる社会的基き盤ばんを管理し運営している

それだけに設けられている部署は膨ぼう大だいであり役割の異なる部署が共にひとつの任務に当た

ることはひん

繁ぱんにあることではない

だがツバキとハザマはちが

う部署でありながらとある任務のためにふたりでカグツチへとや

ってきていた

「いやぁしかし生あい憎にくの天気ですねぇこの雨の中広いカグツチでひとりの男を捜そう索さくすると

第一章 Stratum city 階層都市45

った

緑の髪かみにのせた黒い帽ぼう子しを指で押さえて男は尖とがった顎あごを上向かせ空を仰あおぐ目ま深ぶかにかぶっ

た帽子のせいで目元は見えないが薄うすいく唇ちびるは不満そうにへの字に歪ゆがんでいた

「あらま雨ですか」

空一面を埋うめ尽つくすように広がる灰色の雲からは静かな雨が

っていた

もうずいぶん前から

り続いていたようで狭せまい五番ポートはどこもかしこもすっかり濡ぬれ

ている雲に動きもないようだししばらくはこのまま

り続けるだろう

やれやれとうんざりしたようにため息をつくと男は足早に屋根のある場所へと移動した

黒スーツの男は世界虚こ空くう情報統制機構||多くは統制機構とり略やく称しようで呼ぶ機

のち諜よう報ほう部に

在ざい籍せきしている名はハザマ階級は大たい尉い

彼が乗ってきたこの魔操船はその諜報部の名前で使用された船だ

この五番ポートはそういう統制機構の中でも公おおやけにできない任務や用件のときに多く利用さ

れるいわば人目を避さけるためのポートだった

「ハザマ大尉

外にいらしたのですね」

魔操船の階段から女の声がかかりスーツについた水すい滴てきを払っていたハザマは顔を上げた

青と白の制服にそろいのポンチョを羽織った若い女性が足早に階段を駆け下りてきた青の

ベレー帽ぼうをかぶっておりそこから腰をも越こすほど長く伸のばされた鮮やかなカメリアレッド

の髪が流れている

44

視線を上げればここからでも高山の頂上から突つき出るようにそびえる美しく壮そう麗れいな支部の

が見られたただ今日は悪天候のため雨のカーテンが視界を煙けむらせる

霞かすむ支部を見上げてツバキはわずかに眉まゆを寄せた

「helliphellipなぜキサラギ少佐はカグツチなどに」

それはジンのことを知る者なら誰もが抱くような疑問だった

第四師団団長ジンキサラギは

常に冷静な人物だメリットとデメリットを十分分ぶん析せきした

上で行動する思し慮りよ深ぶかさを持っているしなにより突然統制機構に

を向けて己の立場を危あやうく

させるような愚ぐち直よくなタイプではない

こんなことは実に『彼らしくない』行いだ

思い悩なやむようなツバキの

にハザマは少し驚おどろいたように「おや」と言った

「これは意外ですねツバキヤヨイ嬢じよう貴女あなた

ほどの聡そう明めいで優ゆう秀しゆうな方がおわかりにならな

い」

口元に笑みを刻んで問うハザマの試ためすような口調にツバキは小さく胸中がざわつくのを感

じたいや

味みな言い方をする男だ

ツバキはハザマという男をよくは知らないだから彼がどういうつもりでこういった物言い

をするのか

しもつかない

だがこの一言だけで黒いスーツに身を包んだ彼を好ましくないと判断する程度には気に障さわ

る語調だった

第一章 Stratum city 階層都市47

なると中々骨が折れそうです」

また帽子に手をやって雨を

りこぼす曇どん天てんを見上げハザマが今度はどこか愉ゆ快かいそうに言う

彼らの任務は人探しだった誰を探すのかといえば

「それでもなんとしてもキサラギ少しよ佐うさを探しませんとhelliphellip」

ツバキは視線を足元に落とし己おのれに言い

かせるように呟つぶやく

ジンキサラギ少佐それがツバキとハザマが探している男の名前だった

武装魔術師第四師団の団長でありツバキにとっては直属の上司だ彼の秘書官として側そばに

仕え支えてきた

その彼が数日前突とつ然ぜん統制機構の本部から

を消した

任務でもなく届け出もないこれは統制機構において重大な規律い反はんだ

一師団を預かる団長が独断行こう為いにより行ゆく方え不明などという事態は前代未みもんだ部下や他師

団に影えい響きようを与あたえるからと今のところこの一件は公になっていない

だが現状がどこからか漏えいする可能性もあるその前になんとしても連れ戻もどさなければと

ごく秘ひ任務を命じられたのがハザマであり彼が協力者に選んだのがジンキサラギの秘書官で

あるツバキだった

冷たい雨が空気を冷やすそのせいだろうか五番ポートは金属のにおいがたちこめていた

濡れた灰色の階段の向こうに上層階らしい整理された街並みがうかがえる奥へ進んでいくつか

階層を上がれば最上層である世界虚空情報統制機構カグツチ支部だ

46

だがハザマは欠片かけら

も気にした様子なくむしろそれこそ子供の反はん抗こう的な物言いに噴ふき出すよ

うに軽く笑った

「あららそっちでしたかこれは失礼いたしましたツバキヤヨイ少尉」

帽子に手をやりわずかに持ち上げて会えし釈やくしてみせるその間もずっと彼の細い首はくつく

つと喉のどを鳴らすような笑いに震ふるえていた

「少佐がなにをお考えなのかなんて我々にわかるはずもありませんよそれこそご本人を見

つけて直接お尋たずねになってはいかがです」

そうできないから疑問なのだと苦く胸中で思ったもののツバキは余計な言葉を奥にしまい

こんだ今必要なのは疑問でも感情でもないそう自分に言い

かせる

「helliphellip了りよ解うかいしました大尉」

ツバキが生き真ま面じ目めに答えるとハザマはもうひとつ笑ってから切り出した

「さていつまでもおしゃべりしていても仕方ありませんしそろそろお仕事を始めるとし

ますか」

仕事つまりはジンキサラギの捜索だ

ツバキはハザマへのけん

悪お感ではなく任務への使命感に表情を引き締しめる

ハザマは雨に濡れたカグツチの街並みを見やりながらにんまりと唇を引いて言葉を続けた

「まず確かく認にんしておきましょう我々の任務はジンキサラギ少佐を捕ほ獲かくし本部へ強制帰き還かんさ

せることただし少佐の失踪の件は公にされていませんからカグツチの

士たちへは内密に

第一章 Stratum city 階層都市49

小波のような不快感を飲み込んでツバキは

士の顔を取り繕つくろいせ筋すじを伸ばすたとえ好ま

しくなくてもツバキは少尉でハザマは大尉上官だ

「申し訳ありません大尉私にはhelliphellip」

「貴女からの報告にあったではありませんかキサラギ少佐は例の『死神』に

する報告を受

けた翌日に

を消したのだと」

ハザマは両手を軽く広げてみせる

さっきのからかうような物言いのせいだろうかそんな仕草でさえツバキにはどこか

に映る

「報告の中には『死神』つまり指名手配中のラグナザブラッドエッジがカグツチに向か

っているらしいという情報もあったそのうえで少佐がカグツチに向かったのならそれはも

う『死神』を追っての行動だとしか考えられないでしょう」

統制機構を出たジンの行き先がカグツチであるとの情報を持ってきたのはハザマだった

うっかりそんな情報を摑つかんでしまったがためにこんな辺へん鄙ぴな場所への任務を命じられてしま

ったと愚ぐ痴ちめいたことをツバキは魔操船の中で散々

かされていた

「恐おそれながらハザマ大尉それは私にもわかります私が疑問なのはなぜ少佐が統制機構を

飛び出してまで『死神』を追わなければならなかったかです」

いささかむっとしてツバキは言う言ってからすぐ無礼が過ぎたかと危きぐが過よぎった

にあるまじき子供じみた態度だったかもしれない

48

てもらえますか」

「別件ですか」

戸と惑まどうように尋ねたツバキの質問に対しハザマは肩をすくめるような苦くし笑ようだけを返し具

体的な言葉は告げなかった

ハザマの所属は諜報部だ他部署へ言えぬ用事も多かろう見えない目的に少々の怪けげん

さを

感じながらもツバキは配はい慮りよのつもりでそれ以上尋ねるのをやめておいた

「わかりましたでは下層のhelliphellipオリエントタウンの辺りから調査してみます」

「そうですねあそこはカグツチでも一番広いエリアですし身を隠かくすにはうってつけですか

らいいと思いますよ」

うんうんと適当に頷うなずきながらハザマは一歩歩み寄るとわざわざ腰こしを折って下方から覗のぞき込

むようにツバキを見た

帽子のつばで瞳が見えないけれど絡からみつくような視線が確かにこちらを捉とらえているのがわ

かる

子供に言い

かせでもするようにハザマは人差し指を一本立てた

「ただひとつ気を付けてくださいね治安が行き届いていない場所はキサラギ少佐が身を隠

している可能性も高いですが同時にラグナザブラッドエッジがうろついている可能性も

あります万が一おふたりが鉢はち合あわせて戦せん闘とうなんてことになったらもう私たちには手も足も

出せませんから」

第一章 Stratum city 階層都市51

お願いしますよ部外者はもってのほかです」

「はい」

「それから現在カグツチにはラグナザブラッドエッジが潜せん伏ぷくしているとみられますそ

のためD警報が発令されていますのでそのつもりで」

D警報とはつまり統制機構による特別警けい戒かいが行われているという意味だそのためカグツ

チの住民でない者や統制機構とは

係のない他機

がこの都市でなにがしかの活動を行うこ

とを禁止している

「D警報に抵てい触しよくする者と接触した場合はカグツチの支部に連れん絡らくを取ればよろしいのでしょう

かそれともこちらで対処したほうが」

しゃんと

筋を伸ばしハザマを見み据すえて問うツバキの様はどこにでもいる一

士と片付け

るにはいささか毅き然ぜんとしすぎる品をたたえていた

それもそのはずだ彼女は統制機構を創設当初から支え幾いく人にんも重役をはい出しゆつしてきた十二宗家

のひとつヤヨイ家本家の娘むすめなのだから

だがハザマはツバキの纏まとう品もそこからくるどこまでも真面目な性しよ分うぶんもなにもかもが面めん

倒どうくさいと言わんばかりに口元を歪めると実に雑に答えた

「あー適当でいいですよお任せします」

「はhelliphellipはい」

「じゃあ私はちょっと支部に別件の用事があるんで先に下層のほうから捜索を始めておい

50

ハザマの気さくさに引きずられることなくツバキはあくまで部下として返事をすると堅かた

苦くるしく

筋を正した

「それでは大たい尉い私は下層を見て回ってきます」

「ええよろしくお願いしますよ今のカグツチは物ぶつ騒そうですからお気をつけて」

「はい失礼いたします」

腰を折って一礼しツバキは管理小屋の狭せまい軒のき先さきから雨の中へと駆かけ出した小さく水音を

はねさせながらポートから街中へと向かう階段を上がっていく

腰までを覆おおう青いポンチョがカメリアレッドの髪かみと共に躍おどり去っていくのをハザマは管理

小屋の壁かべに寄りかかって見送っていた

やがてひ翻るがえるポンチョの青もツバキが

ね上げる水の音も完全に雨の向こうに消えるとゆっ

くりと身を起こす

「本当にお気をつけて」

低く声を喉のど元もとで濁にごらせるように呟くとハザマもまた雨の中へと悠ゆうゆ々うと踏ふみ出した

第一章 Stratum city 階層都市53

「そうhelliphellipですね」

ツバキは身を引くように俯うつむいて苦々しく答えた

ジンは統制機構でも並ぶ者なしとまで言われる剣けんの使い手だそのうえ約百年前の黒き獣けものと

の戦争『暗黒大戦』で使われたとされている事象兵器

アークエネミー氷ひよ剣うけんユキアネサを所持している

そして『死神』ラグナザブラッドエッジはこれまで数々の統制機構支部をたったひとり

で壊かい滅めつさせてきた相応の力を持った人物

このふたりがもしも刃やいばを交えることになればツバキにもハザマにも止めることはできない

その最大の理由をハザマがなぜか陽気に言い放つ

「いやはやなにせ私も貴女も戦闘は専門外いざ荒あら事ごととなったらからきしですからねぇ」

ツバキは統制機構の士官学校を出ているため最低限の戦闘訓練は経験しているだがそれ

も護身術程度のことだ卒業後はジンの秘書官として日々書類や来客の相手ばかりしてきた

そんな状態で戦闘技術の向上が見込めるわけもない

一方のハザマも自身で言う通りち諜よう報ほう活動にこそスキルはあれど武力をもって事態に当たる

ことは不得手だった

ハザマは武具の似合わない生白い手でひらりと宙を払はらってにんまりとく唇ちびるを引く

「まお互たがい無理せずいきましょう我々のお仕事はキサラギ少佐を連れ帰ることですから

そこをお忘れなく」

「承知いたしました」

52

の声だった

「しhelliphellip失礼いたします」

答える声が震えたドアノブを摑む手はもっと震えていた

転んだりしたらどうしようああどんな顔をしていたらいいだろう顔が赤くなってしま

いそうでそれだけは必死に堪こらえて平静を取り繕って

ツバキは部屋の中へと入る

最初に目に入ったのは机に向かってペンを走らせるひとりの男性の

だった

後にある窓から入り込んだ日の光が掠かすめて彼の美しい金色の髪を煌きらめかせていた長い

睫まつ毛げの向こうで情感薄うすく書面を見下ろしている瞳ひとみは離はなれた部屋の入り口からでもわかる澄す

んだ緑色をしているはずだ

部屋には彼以外誰だれもいなかった

を丁てい寧ねいに閉めると室内にはツバキとふたりきりだ

何事か書き終わったらしく机に向かっていた彼はどこかおっくうそうに顔を上げるそれ

からその目を驚おどろきに見開いた

「ツバキhelliphellip」

呼んでくれた声は

の外で

いた義務的な声とはちが

っていた

感情の温度が灯ともった声こわ色いろは表情と同じように驚いた風でそのせいかさっきより少しだけ上うわ

ずったように音が高い

「どうしてお前がここにhelliphellip」

第一章 Stratum city 階層都市55

helliphellipそれはほんの数年前のけれどかけがえのない数年をさ遡かのぼった

ある日のことだった

世界虚こ空くう情報統制機構統合本部

真まっ直すぐに伸のびる白タイルの床ゆかをツバキは緊きん張ちようの面おも持もちで歩いていた

初めて袖そでを通してまだ日数のたっていない青と白の統制機構

士の制服はまだ体に馴な染じんだ

とは言いがたくて頭に載のせたつばのない帽ぼう子しもコツコツと床を叩たたくブーツもそつなく着

られているか心配で仕方ない

胸に書類のファイルを抱えてこれで何度目になるかわからないけれど最後にもう一度長く

伸ばした髪を指先で整えて

それからツバキは目的地であったとびらを控ひかえ目にノックした

「||入れ」

一いつ拍ぱくの間をおいて

の向こうから声が返ってくる

そのしゆ間んかんツバキの心臓がドキリと大きく

ねた

感情の遠い義務的な声けれどわずかに少年らしい響ひびきの残った声はツバキがよく知る人

54

十二宗家本家の出の者が同様に宗家本家の出であるジンの秘書に着くという事例は稀まれだ

その辺りからツバキの無茶を

したのだろうジンは呆あきれたように苦笑する

思わずツバキは震ふるえる吐と息いきを漏もらした久しぶりに見たジンの笑顔だった

「秘書が来るとは

いていたがまさかお前だったとはなhelliphellipよろしくツバキヤヨイ少

尉」そ

う言ってジンは白い手てぶ袋くろをはめた手を差し出す

ツバキはファイルを小こ脇わきに抱えると見上げてくる綺き麗れいな緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し

ながら差し出された手を握にぎった

この日この時からツバキの師団長秘書としての日々が始まった

を追いかけるばかりだった士官学校での後こうはい時代とは

うとなりに

側そばに立ち

務を支える

時間が始まったのだった

2199年12月30日||17時30分

カグツチの下層へ

りていきながらツバキは注意深く周囲へ視線を向けていた

もう少し先へ行けばオリエントタウンと呼ばれるエリアに入るはずだそこはカグツチの中

第一章 Stratum city 階層都市57

仕事中らしからぬ砕くだけた物もの腰ごしにツバキは強こわ張ばっていた頰ほおを緩ゆるめたすとんと緊張が抜ぬける

「書類は届いているはずですよお読みになっていないんですか」

ツバキはファイルを抱えて机の前まで行くといぶかしげな彼へ敬礼し

筋を伸ばした

「本日付けで武装魔ま術じゆ師つし第四師団団長ジンキサラギ少しよ佐うさの秘書官に任命されましたツバ

キヤヨイ少しよ尉ういであります少佐よろしくお願いいたします」

型通りだけれど昨晩から部屋で何度も練習した言葉だ

ミスなく言えたことにツバキがほっとしているとジンが驚おどろきに持ち上げていた眉まゆをわずか

に怪けげんそうに寄せた

「少しよ尉うい」

問われた理由はツバキにもよくわかる

ツバキは世界虚こ空くう情報統制機構において貴族的地位にある十二宗家の生まれだ十二宗家の

者は統制機構の士官学校卒業後最低でも中ちゆ尉ういの階級を与あたえられる

ツバキも例外ではなく卒業直後は中尉であったそれがなぜ現在少尉なのかというと

重大な理由がある

「それはその」

ツバキは言いにくそうに口ごもった

本来別の配属だったところをどうしてもジンの秘書官になりたいと粘ねばりその要望を通す代

わりに

格となったとは彼の前ではとても言えない

56

かしこも濡れていた

通り過ぎる建物細い横道の向こう物もの陰かげすれ

う人ツバキは視界に映るすべてに神経

を向ける

自然と歩調が速くなるのは募つのる焦あせりゆえだ知らず知らずのうちに手はきつく握られていた

(キサラギ少佐helliphellip)

もう何度心の内で呼びかけたかわからない

唇を固く引き結びまるで縋すがるように視線を左右へ走らせるその表情はただ行方ゆくえ

不明の上

官を探しているだけには留とどまらない深い感情の揺ゆれがあった

(どこにいるんですかhelliphellipジン兄様helliphellip)

ツバキはジンキサラギの秘書官だだがそれ以前からジンはツバキにとって特別な人だ

った

ツバキが十二宗家ヤヨイ家の娘むすめであるならジンは同じく十二宗家キサラギ家の子だ互い

に幼いころから知っていた幼いころから顔を合わせ言葉を交かわし時には子供らしく遊ん

だりもした

ツバキが統制機構の

士を目指して士官学校に入ったのも先に入学し将来は師団長を期待

されていたジンの後を追いかけたかったからだ

ジンは勉強も武術もなんでもできたけれどツバキは運動が苦手だっただからせめて勉強

だけは追いつこうと必死に学んだ学生時代はジンが会長を務める生徒会で共に働いたことも

第一章 Stratum city 階層都市59

でも一ひときわ広く人口の密集したエリアだと

いている

人を探すには不向きな場所だだがだからこそジンが足を向けた可能性はあるとツバキは

考えていた

そこならば容易に人ごみに紛まぎれることができるし入り組んだ路地や階層都市の構造のすき間ま

に身を隠すこともできるなにより下層は統制機構の

士が少なく上層に比べて監かん視しの目が

緩い

統制機構が追手をかけることはジンも十分わかっているだろうならばその目を避さけるのは

当然のことだ

同時に同じように追われる身であるラグナザブラッドエッジが下層を潜せん伏ぷく場所に選ぶ

可能性もジンならば考えたはずだ

硬かたい地面に青いブーツのくつ音おとを響かせてツバキは足早に歩く鮮あざやかな色の髪がしっとり

と雨に濡ぬれる

短い階段を

りるとその先はオリエントタウンの街外れだった

使われているのかいないのかわからない寂さびれた雰ふん囲い気きの倉庫が並びその先にわずかに芝しば生ふ

の植えられた広場のようなものがあるぽつんと佇たたずむ外灯は所々に錆さびの染しみがこびりついてい

た下

層は上層の地盤があるためほとんどが空をさえぎられ屋外でありながら屋内であるかのよう

に天候の影響を受けにくいだがこの辺りはまだ他層より突つき出しているらしく雨でどこも

58

けれど『死神』を統制機構の他

士と同じように考えるのは危険だ

彼は単身で統制機構を相手に反逆行こう為いを繰くり返かえしこれまでただの一度も拘こう束そくされることな

くとう

亡ぼうを続けている並なみ大たい抵ていの力では不可能だということを彼を追うべき立場でもあるツバ

キはよく理解していた

ラグナはおそらくとても強いもしかしたらジン以上に

それになにより恐おそれるべきはそのき凶よう悪あく犯が持つ魔ま導どう書しよだ

||蒼の魔道書

ブレイブルー

かつて黒き獣けものと戦った暗黒大戦時代にある魔ま法ほう使つかいによって術式という技術が開発された

魔法を模したもので魔素を使い火を熾おこしたり水を呼んだりと様々な現象を引き起こすことが

できる技術だ

その術式を扱あつかうために必要な鍵かぎが魔道書だった

蒼の魔道書

ブレイブルー

は世界中に数え切れないほど存在している魔道書の中でも最強と囁かれている

(ジン兄様でも蒼の魔道書

ブレイブルー

を相手にして無傷でいられるはずがない下手をしたらhelliphellip)

そこまで考えてツバキは走った悪お寒かんに身を震ふるわせた

蒼の魔道書

ブレイブルー

は最強とその威いり力よくを絶大に評価されながらも詳くわしいことは知られていないとい

う奇きみ妙ような魔道書でもあった

そもそも魔道書は〞書〝でありながら形状は様々で本の形をしているとは限らない

ラグナザブラッドエッジの蒼の魔道書

ブレイブルー

も彼が持っているという事実は認にん識しきされている

第一章 Stratum city 階層都市61

あった

淡たん白ぱくな物言いをしたり鋭えい利りな目つきをすることがあったから周囲は時折彼のことを冷たい

人だと囁ささやいた

けれどツバキにとってはいついかなるときも彼は優やさしい兄だった

細く美しい金色の髪に涼すずしげな緑色の瞳すらりとした体たい軀くに白い肌はだ整った顔立ちそ

の聡そう明めいな横顔に時々本当に時々だけれどhelliphellip見み惚とれたりもした

頼れるツテというツテを頼ってどうにかジンの秘書官の座を手にしたときはどれほど嬉うれし

かったことか

慕したっていた憧あこがれていた屋や敷しきの奥でひとり毬まりつきをしていた幼子のころから今でもずっ

「ジン兄様helliphellipっ」

急ぎ足だった歩調はいつしか小走りに変わっていた爪つま先さきが小さな水たまりを踏んで水すい滴てきを

ね上げる

一刻も早く見つけ出したかった心臓が軋きしむように胸を打つ

ツバキの頭に浮うかぶ最悪のケースはやはりどこかでジンと『死神』ラグナザブラッド

エッジが遭そう遇ぐうしてしまうということだった

ジンは強い統制機構の中でも彼とまともに剣けんを交えることができるのは数えるほどしか

いないだろう

60

ぎゅっと一ひときわきつくこぶしを

胸むな元もとで握るとツバキは首をふって雑念を払はらった

余計なことを推測している場合ではない今は一刻も早くジンを探すことそれだけを考え

なければ万が一今回の行動のせいでジンが反逆者とみなされたりしたら取り返しがつか

ない

急ごう自分をしつ

咤たするように大きく足を踏ふみ出してなにやら小さく物音の

こえた広場

の裏手へ回ってみる

物置だろうかふたつ並んだ小屋の裏を通り抜けようと狭せまい角を曲がった

その途と端たん目の前に壁かべが現れた

「きゃっ

あまりに突とつ然ぜんのことでとても対処できずツバキは進入した

いそのままに壁に激げき突とつした

だが直後に気付く

壁というにはあまりに分厚く建材にしては感かん触しよくがやわ

らかい

「むhelliphellip」

壁の向こうから声がした腹に響ひびくような低い男の声だ

ツバキの目の前にそびえるそれは壁などではなく見上げるほど巨きよ大だいな男の

中だった

「ああすまなかった怪け我がはないか」

そびえる巨きよ軀くはその異様なまでの圧あつ迫ぱく感に似合わぬ紳しん士し的な物もの腰ごしで語りかけのそりと重く

振ふり返る

第一章 Stratum city 階層都市63

もののそれがどんな形状をしているのかはわかっていない

それどころかいつどこで蒼の魔道書

ブレイブルーが造られその秘ひめたる力はどんなものなのか世界

虚空情報統制機構のち諜よう報ほう部ですら正確には把は握あくしていないという

ただでさえ強い『死神』であるのにそのうえ正体のわからない魔道書まであってどう楽

観視できるというのか単身でいどみかかるなど無茶にもほどがある

(helliphellipジン兄様はラグナザブラッドエッジを捕つかまえるためにひとりでカグツチまで来た

のかしら)

物もの影かげに目を凝こらしながらツバキは独り言のように思った

たとえ独断行動によって強制帰き還かん命令が下されているとしてもジンは統制機構の

士であ

り師団長だ『死神』を追って統制機構を飛び出したのだとしたらその目的は凶悪犯の捕ほ縛ばく

以外に

えられないとツバキは思っていた

けれど本当にそうなのだろうかふとそんな疑念が過よぎる

(でもだってそれならどうして誰にも言わないで出ていく必要があったっていうの私に

もなにも言わないで)

なによりそのことが胸に突き刺ささる

ジンは心根の読めない人だけれどそれでもなにかあったときはいつだって一声かけてくれ

たのに

「ううん理由はジン兄様を見つけてから直接

けばいいことよ」

62

者も多いそのほとんどはべつ

称しようとしての呼称だ

赤鬼と呼ばれた巨きよ漢かんがどんなつもりでその

称を使ったのかはツバキには読めないけれど

好感情でないことは見るからに明らかだった

テイガーは身構えることこそしなかったものの眉み間けんに深い皺しわを刻み厳いかめしい渋じゆ面うめんでツバ

キを見み据すえる

「helliphellipすまん図書館の

士と接せつ触しよくした」

ツバキから視線を逸そらし耳元へ大きな手をやってテイガーが低く何者かへ告げる直後に

ノイズのような音が走った通信だ

「通信を切ってくださいそこを動かないで」

素す早ばやくツバキは護身用に支給されているけん

銃じゆうを腰こしから抜ぬいたしっかりと両手で握にぎり銃口

を赤鬼へ向ける

テイガーはわずかに首を動かしてツバキを見やったもっとも分厚いレンズの丸眼鏡ごし

では奥の眼まな差ざしまではうかがえない

見下ろす威い圧あつ感に気け圧おされそうになりながらもツバキは努めて厳しく赤鬼を睨にらみ据すえた

「現在第十三階層都市カグツチにはD警報が発令されています第七機

を含ふくめ全すべての他機

の介かい入にゆうは禁止です答えなさいここで一体なにをしていたのですか」

「やれやれ銃を下ろせ

士の少女そんな玩おも具ちやのようなものでは私のボディを傷つけるこ

とすらできんぞ」

第一章 Stratum city 階層都市65

異様なのはなにも体の大きさだけではなかった

人の肌にしては赤みの強すぎる肌の色ただでさえ屈くつ強きような太い腕うでに取りつけられたぎ仰ようぎ々ようしい

手て枷かせのようなパーツ引き締しめられたく唇ちびるから上向きに伸のびる白いきば

鬼おに

約百年前に滅ほろびた日本という国の昔話にそんな怪かい物ぶつが登場したはずだツバキは幼いころに

読んだ絵本を思い出す

それと同時に目の前にいる赤い巨きよ人じんが誰だれなのかを思い出した

「貴方あなたhelliphellip第七機

の赤あか鬼おに」

呼ぶと同時にツバキは数歩下がって身構えた

第七機

術式を主体とした統制機構の世界統治に異を唱え術式に頼たよらない世界を作ろう

と企くわだてている外部機

赤鬼はその第七機

に所属する兵士でありその巨軀からも想像できるように圧あつ倒とう的てきな制圧

力を誇ほこる

正式名めい称しようはTR0009アイアンテイガー

第七機

の研究者によって造られたサイボーグだ

向こうもこちらの

に気付いたようでツバキの胴どう回りよりも太そうな足を一歩引いた

「その制服図書館か」

術式の乱用を防ぐために世界中の魔道書を集め管理していることから統制機構をそう呼ぶ

64

きません」

まるでなだめるように語りかけるテイガーの語調が余計にツバキの態度を頑かたくなにさせる

ここで弱よわ腰ごしを見せればそれは統制機構そのものが第七機

に対して弱腰になったとみなさ

れるようなそんな気がしていたそんなことは許されない

世界の秩ちつ序じよを守る統制機構の

士が平和のために戦う武装魔ま術じゆ師つし第四師団の団長秘書が

規律を犯おかした第七機

の兵士と取り引きめいたことをするなんて

銃を構え巨体の赤鬼を見据えたままツバキは手の中に握りこめる小さな通信機を取り

出した

ひとりでは対処しきれない早急に応おう援えんを呼ぶ必要があった

「武装魔術師第四師団所属ツバキヤヨイ少しよ尉ういです現在カグツチ下層オリエントタウンで第

七機

のhelliphellip」

「参ったなできれば穏おん便びんに済ませたかったのだが」

赤鬼が低くなにごとか呟つぶやく

その言葉の意味をツバキが理解するより早くテイガーが大きく前に踏み出した

伸ばされた腕がまたたく

間にツバキに迫せまる軽く握られていた

がツバキの目の前で開かれるや

否いなや

「きゃぁっhelliphellip」

放たれた電でん撃げきが通信機を弾はじき飛ばしツバキに細い

鳴を上げさせた

第一章 Stratum city 階層都市67

「っそんなことは

いていません質問に答えてください」

呆あきれたようなテイガーの物言いに咄とつ嗟さに腕を引き戻もどしそうになったがそれを堪こらえてツバキ

は銃口と眼光を向け続ける

相手はサイボーグだ戦いになったらもちろん勝ち目はないがそれ以上ににげられたらと

ても追いつけない

自分の任務はジンキサラギの捜そう索さくだと重々承しよ知うちしているだが周囲には他に統制機構の

士の

はないここで見みのがせば彼ら第七機

がカグツチと統制機構にどんな混乱をもたら

すかわからないと

えるととても目をつぶることなどできなかった

ザザッと再びノイズが走る

「ああ大だい丈じよ夫うぶだ問題ないすぐに任務に戻る」

通信の相手の声はツバキには

こえないただそれに答えるテイガーの声はあまりに危機感

から遠くすでにツバキとの問題は解決したとでも言うかのようだ

侮ぶじ辱よくされたような思いに駆かられてツバキは鋭するどく声を尖とがらせる

「通信を切りなさい

勝手な行動は許しません」

「そういきり立つな我々はなにも統制機構の業務を妨ぼう害がいするためにカグツチに来たわけでは

ないどうだここはお互たがいかかわらなかったことにしないかこのまま行ってくれれば私は

お前に危害を加えなくてすむ」

「それは反逆の意志ありということですか

どんな目的にせよこの場を見

すわけにはい

66

2199年12月30日||18時00分

幾いくつの路地を抜け幾つの角を曲がっただろう

人のような

をしながら人にあるまじき動きで先導するタオカカがラグナを連れてやってき

たのは外の明かりも差し込まぬ暗い暗い下水道だった

「こっちニャスよいい人〜」

呼びかけタオカカは投とう棄きされたらしい瓦が礫れきやら壊こわれた家具やらの山をひょいとと

び越こえた

外から隔かく離りされた場である上に時間も遅おそいたとえ微かすかなすき

間まがあってもわずかな光さえ

望めない

それなのにラグナやタオカカが問題なく歩けているのは投棄された瓦礫や積み上がったヘ

ドロにこびりついて生えている奇きみ妙ような苔こけのおかげだった

それらがほのかに青緑色の光を帯びているせいで下水道は一寸先も見通せない暗くら闇やみに閉とざ

されずにすんでいる

タオカカを追いかけて粗そ悪あくな足場に多少もたつきながらもラグナが続く

「おい本当にここから上に出られるんだろうな」

第一章 Stratum city 階層都市69

その一撃だけでツバキの意識は遠のいたかくりと膝ひざが折れ力なく崩くずれ落ちる

「っとhelliphellip」

そのたおやかな体が硬かたい地面に倒たおれ伏ふす前についさっきまで電撃を纏まとっていたテイガーの

腕が受け止める

そのまま抱かかえ上げると力なく気を失った青と白の制服の少女を見下ろしテイガーはため息

をついた

「やはりひ戦せん闘とう要員か無茶をする」

『helliphellip言っておくが

わるなよ』

ノイズが走りテイガーの通信機から不ふ愉ゆ快かいそうな女の声が漏もれた

ツバキを抱えたままテイガーは空いていたもう一方の手を耳元にやる上向きの

のよう

な犬歯が突つき出た口元はツバキと対たい峙じしていた先さき程ほどよりもさらに苦々しく歪ゆがんでいた

「雨の中でこんな街外れに放ほうり出すわけにもいかないだろうまだ若い娘むすめだ」

『任務が最優先だ余計な時間はない』

「helliphellip少しの間通信を切るぞココノエ」

『なんだと

おい勝手な真ま似ねはhelliphellip』

装着している本人以外には

こえないであろう小さな音をたてて通信は途と切ぎれた

テイガーは雨

る広場に

を向けて歩き出したその足が向かう先には空を上層の市街に

さえぎられ提ちよ灯うちんの明かりとネオンが煌きらめく薄うす暗ぐらい街オリエントタウンが広がっていた

68

「ニャス」

「かっぱらいじゃねぇか」

張り上げたラグナの声はくわんと寒々しく下水道に響ひびいた

その反はん響きようが

まると今度はまたじめっとした静けさがやってくるどこからか滴したたり落ちて

床では

ねる水の音がいちいち不気味だった

色いろ濃こい影かげの向こうで得体の知れないものが蠢うごめいてこちらを覗のぞきこんでいるような錯さつ覚かくを抱

くぞ

っと走った悪お寒かんにラグナはぶるりと身み震ぶるいし先を行くタオカカの後を追う

がhelliphellipラグナは不意に顔をしかめると足を止めた

(錯覚じゃねえ誰かがこっちを見ていやがる)

淡あわく光る苔が刻んだ色濃い影の奥歪いびつな瓦礫の山のどこか

視線を感じる

いや視線だなんて生易しいものではないもっと根本的なもの存在や意志そのものとい

ったものがこちらを一心不乱に捉とらえているようだ

「いい人〜

どしたニャス」

ラグナがついてこないのを不思議に思ってタオカカが引き返してくる積み上げられたな

にかの残ざん骸がいを軽かろやかに

び越え着地するその小さな足音がきっかけになったのだろうか

「キキキキキキキキキキキキ」

第一章 Stratum city 階層都市71

瓦礫の山から飛び

りた先がオイルかなにかでぬめるラグナは反射的に顔をしかめて三

角耳がぴくつく白いフードの後頭部へ少々の苛いら立だちを込めて問うた

抜け道とは往々にして楽な道ではないとラグナはこれまでの経験で学んでいただがここ

は今まで通って来た『抜け道』と比べても相当な悪路だ

濡ぬれているわけでもないのに床ゆかの壁も天てん井じようもじっとりとしていていやな湿しつ気けが外から入り

込んでいるらしい濃こい魔ま素そと混ざって肌はだと肺にこれでもかと不快感をくれる

一段

りたところには廃はい棄き物ぶつと一体化した汚お水すいが吐はき気けをもよおす悪あく臭しゆうを放ちながら泥どろ水みず

のような重さで流れている

これが街からそう離はなれていない場所を流れ通っているというのに外にはさほどふし臭ゆうが漏れな

いことを思うと階層都市の工事技術はでたらめに見えて意外としっかりしているようだ

もうすっかり馬ば鹿かになった鼻をこすりラグナはぽつりとそんな感想を抱いだいた

「本当ニャスよくここ通って上でパンとかお菓か子しとかもらってくるニャス」

言ってタオカカは下水道の天てん井じようを見上げた黒ずんだ頭上は突つき出た鉄パイプや金属板が

複雑に組み合っておりその奥のずいぶんと高いところに張りついた闇やみのような天井が見てと

れる

さらにずっと向こうに目指している上層の街があるのだろう

つられて見上げてラグナはため息に肩かたを落とした

「もらってくるってまさか店のもん勝手に持ってってるんじゃねぇだろうな」

70

気味の悪さに怖おぞ気けよりもけん

悪お感が走る

影はいやに粘ねん着ちや質くしつな動きでぬめる床に着地するとむくりと上体を起こすような動きを見せ

た判然としないが苔光で浮かび上がる奴やつの足元でなにか小さな生き物が蠢いている気がす

る戸と

惑まどいつつも身構えるラグナのすぐ側そばにタオカカが駆け込んできて頭を低くさせ唸うなった

長い尾おがぴんと立ち上がって毛を逆立て膨ふくれている

「コイツうねうねニャス」

「うねうね

なんだそりゃ」

「悪いヤツなのネ

タオたちの村を襲って小さいカカを食べちゃうのニャス」

さっきまで陽気だった表情を目め尻じりをつり上げた憤ふん怒ぬのそれに変えてタオカカはわんと声を

響かせ威い嚇かくする

その様をあざ

笑わらうかのように白い面を浮かべた影は全身をあわ

立だてるように震ふるわせた

「キヒヒヒいる

いるぞ

るぞ力蠢く醜しゆうな

想を叶かなえ

ために肯

は不可欠

がい

念ねんの否定

閉とざ

た門が招くはずだ

ちが

いギヒヒヒヒヒヒ」

影が震え笑うたびに空気が淀よどむ

ラグナは険しく顔をしかめた

これは魔素だ

外から流れ込んできているのではないこの目の前にわだかまる影からあふ

れ漂ただよい下水道の

第一章 Stratum city 階層都市73

空気を引き裂さくような声と共に突とつ然ぜん影かげから影が飛び出したさらにそこから槍やりのような鋭

い影が無数に飛び出しラグナに襲おそいかかる

「ぅぐぁっ」

あまりに唐とう突とつであまりに周囲に同化した

に反応が遅おくれた分厚く布の裂ける音が散り一いつ

緒しよに皮ひ膚ふと肉をえぐり刺さすように持っていかれる

火がついたように痛む肩を引いてもう一方の腕うでで剣けんを抜き目の前の影を払はらった

手て応ごたえはないまるで本物の影を切り払ったかのようだ

「グギギギhelliphellip真

理へ至

我が

を求

我に求め

真相を

くhelliphellip」

人の声のようなそうでないような奇き怪かいな声こわ色いろで奇怪な言葉を口走りながら影は

び退すさっ

た高質化したヘドロと瓦礫の間でふわりと浮ういてわだかまる

初めラグナはどこからか紛まぎれこんだ魔まじ獣ゆう||高こう濃のう度どの魔素によって歪んだ生態系が生んだ

理性なき凶きよ暴うぼうな獣けものかと思った

だがどうにもちがう不定形なそれは奇妙で歪いびつで不可解で生物とはとても思えぬ

形をして

いた

ぐるりと影が動くとわだかまる闇の内側から面が現れる

白い円形に三つただ孔あなを開けただけの目と口顔のつもりだろうかそれが黒ずんだ不定

形の影の中で唯ゆい一いつの定形であるようだった

「なんhelliphellipなんだこいつは」

72

ふつとい憤きどおりがラグナの腹の底で沸わく

統制機構が大事に大事に抱えて地下深くにしまい込んでいる窯それを統制機構だけでなく

あちこちの機

や研究員学者が欲ほつしている窯を所有するということは窯が繫ぐ境界の一いつ

端たんを所有することと同意だからだ

誰も彼も境界には人じん智ちを超こえる素す晴ばらしい財産が眠ねむっていると信じている人智を超えた

ものなど人間に御ぎよせるはずもないのに

まったくいや

気けが差す頭にくるそんな窯を我が物顔で掻かき回す統制機構もそれを追いか

けるように窯を求める連中もどいつもこいつも

「こうなっちまったらもうどうしようもねえ悪く思うなよhelliphellipもっとも人を怨うらむほどの

理性があればの話だけどよ」

このままこいつをここに放置すればタオカカの言っていた『村』に留とどまらずさっきのオリ

エントタウンや下層の街に出て人を襲うようにもなるだろう

ラグナは剣の切っ先を下方に向けたまま化け物に深く踏ふみ込んだ

カグツチにはなんの思い入れもないがだからといってあからさまな害悪を目の前に置かれ

て放ほうっておけるほど利口でもない

迎むかえ撃うつように身を広げるアラクネの胴どうを||胴らしき部分を横よこ薙なぎに切り払う

「グポポhelliphellip」

「ちぃっ」

第一章 Stratum city 階層都市75

ありとあらゆるものを侵しん食しよくしているのだ

それはこの影のような物体のまとう黒いものが全て魔素であることを意味していたそし

て魔素のか塊たまりであるこの奇怪な化け物がその容

に似合わず人の言葉らしい音を発しているの

はこれが元々人語を解する存在であったことを物語っている

つまり人間だ

タオカカが『うねうね』と呼びオリエントタウンの一部の人はアラクネと呼ぶ黒ずんだ不

定形の化け物はこうなる前人間だった

ラグナはこみ上げてきた

悪感を舌打ちに変えて吐き出した

「こいつ境界に触ふれたなhelliphellip」

ラグナが各地の統制機構支部を回り

々に破は壊かいしている支部地下の『窯かま』その窯によっ

て現世と繫つながれた異界||境界

そこは人知の及およばぬ不定形の場であり中は地表の比ではない濃のう度どの魔素が渦うず巻まいていると

いう

濃い魔素が魔獣を生んだように人もまた高濃度の魔素に触れ続ければ理性が魔素にのみ込

まれやがて境界に引きずり込まれて人でいられなくなる

臭にまみれて粘ねん液えきのような体を蠢かせ奇怪な音で語るこの黒い化け物アラクネは

そうして人でいられなくなった誰だれかのなれの果てだった

「あんなもんに手ぇ出してなにがしたかったのか知らねえがhelliphellipこの馬鹿が」

74

だ身が捻ねじれ後方へべちゃりと倒たおれる

それと同時にタオカカの体がひらりとラグナのとなりに

着地した爪を

めた大きな手をシュッ

と前に突つき出して威嚇する

それを横目にラグナは軽く笑った会って間もないこちらも奇妙な生物だが『うねう

ね』と

ってこいつと並ぶのは悪い気がしない

「何年目じゃなくてここで会ったが百年目な」

「おおんじゃあ百年分ギタギタにしてやるのネ」

「まなんでもいいか」

抜ぬけ落ちるような緊きん迫ぱく感を再び引き寄せてラグナはしっかりと剣を握にぎる

一度は黒い泥溜だまりのようになったアラクネはすぐさま波打つような動きで起き上がると

ごぼりと足元を鳴らし魔素を噴ふき散らす

「ギギギhelliphellipよこ

よこせ

れは我

らう

淵えんがい

見て

目からのが

れな

運命

らはのが

れない」

「なに言ってんのかわけわかんねぇんだよ

楽にしてやるからとっととくたばりやがれ

この生ゴミ野や郎ろう」

ついた魔素を払うように乱暴に剣を振るうとラグナは腹から雄お叫たけびをあげつつ高く得物を

振り上げ魔素に取り込まれた人ならざる者へと叩きつけた

第一章 Stratum city 階層都市77

ごぼごぼと濁にごった音をたててアラクネの体がしゆ時んじにラグナの視界から消える

下だ舌打ちしながら蹴けりつけるラグナの足の下を通ってアラクネは赤いコートの

後で

再び体を持ち上げる

「キサマキサ

くらう

人間であるならあるいは四し肢しを持つ生物であるならおよそあり得ない角度から黒い塊が

ラグナを

ね上げるように突とつ出しゆつする

咄とつ嗟さにラグナはそれを剣で受けた感かん触しよくは重くどろりとしている

さらにもたれかかるように剣の表面を伝う泥どろのような魔素から突とつ然ぜん奇き怪かいな蟲むしが飛び出して

きた見たこともないひたすらに

悪感をあおるような不可解で不ふ愉ゆ快かいな蠢くもの

「うげっ」

吐き気のような

悪感に弾はじかれるようにしてラグナの足が勝手に距きよ離りを空ける

その間に割って入るように鋭するどい爪つめが振ふり下ろされ飛び出した無数の蟲を切り裂いて叩たたき落

とした

勇ましく飛び込んできたのはタオカカだ

「うねうね

ここで会ったが何年目

タオがぎったぎたにしてやるのネ」

爪を振り下ろす動作から着地をはさまず宙で身を捻ひねるとタオカカは反対側の爪でアラクネを

切り裂く

爪はえぐるようにアラクネの顔らしき部分を捉えた陶とう器きが割れるような音をたてて黒ずん

76

双そう眸ぼうは薔

さえ霞かすむ深しん紅くで容

からうかがえ

る幼さには似合わないほどの気品と優美さをたたえ

ていた

少女の名はレイチェルアルカード

十を超えた程度のまだあどけない少女のように見えるがその実約百年を生き続ける吸きゆう

血けつ鬼きだ

千年以上前から続く吸血鬼の一族アルカード家の現当主であり薔

園を見下ろす城の主あるじで

あり

月と夜空と薔

と城を抱いだくこの常夜の空間の主でもある

ここは世界のあらゆる場所から断絶された地点でありながら世界のあらゆる地点へ繫が

る場所

空間と空間の間に漂い世界と世界の狭はざ間まに留とどまる領域

アルカード家の当主が管理する特別な住まいだった

カップを金のスプーンが横たわるソーサーへと戻もどしレイチェルは物もの憂うげに吐と息いきをく唇ちびるから漏も

らした

蔦つた模様に絡からみ合うスチールテーブルの上に飾られた薔

の切り花が微かすかに香かおる

レイチェルは昼の来ない領地での時間をこうして薔

園のテラスで多く過ごした

は好きだ美しいし香りがいいそれになにより遠き日に亡なくなった父が愛した花

だから

第二章 Spiral fate 盤上の駒79

第二章

Spira

l fate

||盤ばん上じようの駒こま

真っ赤な薔ばら

に彩いろどられた見事な庭園を青白い満月が見下ろしていた

静かな夜だった空気は凜りんと冷え夜の帳とばりが世界はここまでだと区切るように色濃く辺り一

帯を包んでいる

園の奥にはおとぎ話の中から抜け出てきたかのような美しく愛らしい城がそびえており

だ橙いだいい色いろをした明かりの揺ゆれる窓が無数の瞳ひとみのようだ

その城を赤薔

の生いけ垣がきの向こうになが

める庭園のテラスでひとりの少女が小さな丸テーブ

ルに向かい優ゆうがにティーカップを傾かたむけていた

月下にありながら眩まぶしいほどに輝かがやく長い金色の髪かみを左右でふたつに結ゆわえ大きなリボンで

飾かざられている華きやしやで小さな体には黒い豪ごうしやなドレスを纏まといそこから伸のびるやはり小さな手

は陶器のように白く滑なめらかだ

カップの中で揺れる紅茶を

めていてもどこか遠く世界の果てを見み据すえているかのような

78

「今夜も見事でしょう

お父様」

ふとわく感傷に任せて呟つぶやいてみて彼の愛した薔

の香りの紅茶を飲むそんなときのほん

の一

レイチェルの心は微かに慰なぐさめられるのだ

夜の終わらないこの城は時間の流れとは無む縁えんだ夜が永遠であるように時間もまた永遠

でありレイチェルの時間もまた永遠であった

それでも退たい屈くつはやってくる時にはこうしていつかの日を想おもいため息でもついてみねば

枯かれることのない薔

のように言葉を忘れてしまいそうだった

「失礼いたしますレイチェル様」

コツと革かわぐつの硬かたい音がテラスの煉れん瓦がタイルを叩きしわがれた声が穏おだやかに呼びかけた

レイチェルを振り向かせることなく乱れない歩調で少女の視界の端はしまでくると声の主白はく

髪はつを

で束ねた長身の老人は胸むな元もとに手をあて浅く腰こしを折る

ヴァルケンハインRヘルシングレイチェルの父クラヴィスアルカードの代からアル

カード家に仕え今はレイチェルと共に在る老しつ事じだ

微びし笑ように皺しわを刻みすきなく佇たたずむ

はレイチェルに劣おとらず品がいい

だが彼もまた人間ではなかった人であり獣けものでありどちらでもありどちらでもないおおかみ

男おとこだ

外見から想像できる重ねた歳としよりずっとたくましい肉体が質のいいバトラースーツの上からで

える

80

つぶらな瞳と口角の上がった口がやはり小さく愛らしい

黒くろ猫ねこのソファはナゴ赤いゴム毬まりはギィ共にレイチェルの使い魔だ

「姫様のお気に入りっすよねー姫様ってああいう男が好みなんすか

意外とダメな男に引ひ

っ掛かかるタイプっすね」

小さな羽を忙いそがしくパタつかせて楽しそうにギィが話すとその

らかな両りよ頰うほhellipおhellipというよ

り頭部を素す早ばやく伸びたレイチェルの手が摑つかみ左右に思い切り引っ張った

「なに

よく

こえなかったわもう一度言ってみてもらえるかしら言えるものならね」

「イデデデデひひめひゃまいひゃいいひゃいれすぅぅぅぅぅ」

「アンタってほんと口で身を滅ほろぼすタイプよねぇ」

通常の二倍に顔を広げたギィを見やってナゴが呆あきれたようにため息を送る

情けない

鳴をひとしきり

いた後にレイチェルはあっさりギィから手を離はなしたバチン

と音がして赤い頰が元の真ん丸い形状に戻る

それを横目にレイチェルはテーブルの上に生けられた赤薔

の花弁へ触ふれた

「彼がそこまで来たのならもうすぐ二一九九年も終わるのね」

「左様でございますな」

どこか歌うように呟くレイチェルへ恭しくヴァルケンハインが返す

「そして世界も」

微かな声で付け足された一言にはヴァルケンハインはなにも返さなかったレイチェルが

第二章 Spiral fate 盤上の駒83

「どうしたのヴァルケンハイン」

白い指先をティーカップの縁ふちで遊ばせレイチェルが赤い瞳を向けて問う

ヴァルケンハインは頭を下げたままう恭やうやしく答えた

「ラグナザブラッドエッジがカグツチに現れたようです」

無む駄だなく必要なだけを伝えるヴァルケンハインの言葉にレイチェルは陶器の縁をなぞる指

先を止めた

そのまま指を小さな取っ手に引っかけ中身の少なくなったカップを持ち上げて一口飲み

それをソーサーに戻してからやっとレイチェルは唇を動かした

「そうhelliphellipもうそんな時間なのね」

独り言のようなレイチェルの呟きに続いて

唐とう突とつにふたつの声がこれまでの静かで密ひそやかだった雰ふん囲い気きを不意に賑にぎやかせた

「あらぁん姫ひめ様ラグナってあの白いツンツン頭のボウヤよね」

「オイラも覚えてるっすよあの生意気なヤツっす」

先にハスキーな猫ねこなで声で言ったのはレイチェルが腰こしかけている椅い子すそのものだった一

見黒いソファに見えたそれはよく見ると

もたれの上部に三角の耳と猫の顔がありその猫の

顔が話していたのだ

続いた甲かん高だかい陽気な声はレイチェルの足元から弾はずんだゴム毬まりのようにとび上がった赤くて

丸い生き物のもの見るからにやわらかそうな体からは小さな手足と小さな羽が突き出ており

82

影の中に浮うかぶ幼児の落書きのような目玉らしき緑色の丸と不気味に裂さけた赤い口が椅

子に腰かけるレイチェルを見つけて気味悪く笑えむ

どこからどう見ても人ではなくましてや吸血鬼でも

男でもない

これは思念だ肉体を持たない意志だけの存在ある男の精神体だった

「よ〜うクソ吸血鬼今回もお供と犬っころ連れてお茶会か

ずいぶんのん

気きなもんだなぁ

オイ」

許可もなく薔

園に踏ふみ入ってきた無作法者の精神体はこもった声でいや

味みに語りかける

とたんにヴァルケンハインが険しく顔をしかめギィは情けない

鳴をあげてそれこそゴ

ム毬のような俊しゆ敏んびんさで主の黒いドレスの

後へと隠かくれた

レイチェルは冷やかに影を見据える

軽く腰を浮かせるとそれまで椅子としてそこにいたナゴが体をくねらせて

を黒い傘かさへと変

えレイチェルはそれを手に立ち上がった

唇にこそ優美な笑みを浮かべていたが少女の深紅の瞳にはただただけん

悪お感かんが塗ぬり固かためられ

ている

を見せるだけでこれほどまで人を不快な気持ちにさせるのはある意味

能ね感心する

わテルミ」

の香りのように

らかにけれど薔

の蔦のように刺とげと々げしくレイチェルは言い放つ

言葉の先にいた精神体の男テルミと呼ばれた影は風にでもあお

られたかのように体を揺らし

第二章 Spiral fate 盤上の駒85

求めていないことを理解していたからだ

代わりに

男の老

事は乱れぬ声こわ色いろで問う

「レイチェル様紅茶を新しいものにお取り換かえいたしましょうか」

「helliphellipそうねお願いしようかしら」

本当は出かける用事ができたところだったけれど今はもう少しだけここでの無益な時間を

浪ろう費ひしたい気分だっただって

(今回もいい結果は期待できそうにないものね)

独り言のような呟きを胸の内でそっとこぼしレイチェルは掠かすれ消えるような吐息をつく

がすぐにその息を

み込むように眼光を鋭くさせた

真紅の視線が見据えるのは延々と続く薔

園のほうだ

「ヴァルケンハイン招いてもいない客が来たようね」

深い緑の葉をざわめかせて風が吹ふく風を招いたのはレイチェルだ涼すずしい夜気に混じって

漂ただよってきたいやな気配をはね退のけるために

円形に整えられたテラスの隅すみのほう薔

の生け垣の前の空間が目め眩まいでも起こしたかのよう

にくらりと歪ゆがむ

そうして現れたのは影かげだった

黒い体に緑色を纏まとわりつかせたような色しき彩さいでぼんやりと漠ばく然ぜんとした人型のなにかがそこに

立っていた

84

敵てき愾がい心しん

「それで一体なんの用

今がどういうじ状よう況きようなのかわかっているのでしょう貴方あなた

だって暇ひま

ではないのではなくて」

ヴァルケンハインほどあからさまな敵意ではないものの突つき放し追い立てるような調子で

レイチェルが言う

テルミはけだるい仕草で首を傾かたむけまたケタケタと不ふめ明いり瞭ような体を揺ゆらすようにして笑った

「別にぃ〜ただそろそろ今回のエンディングも近いわけだしそろそろ一度テメェらの腑ふ抜ぬ

けた面を拝んどこうかと思ってよ」

低めた声は悦えつっぽく笑みを濁にごらせる

レイチェルはその様を無感動に淡たんた々んと赤い瞳ひとみに映した

「懲こりない男ね」

囁ささやくようにレイチェルは告げる冷えた声は空に浮かぶ欠けることのない月の光に似ている

「何度繰くり返したって結果は同じ世界は何度だって巻き戻ってあの日あの時からまた始ま

るだけよ」

ざとレイチェルと影の間を横切るように風が渡わたる薔ばら

の香りがま

う中で幽ゆう鬼きのよう

なテルミの

はあまりに不気味で不似合いだった

場ばちが

いであると思い知らせるかのように濃のう密みつな花の香りを纏う風の中でテルミは深く深

く笑みを浮かべる

第二章 Spiral fate 盤上の駒87

た笑っているのだ

「そいつぁお互たがい様じゃねぇかこっちもテメェのクソむかつく面つら見てると胸むな糞くそ悪くなって

くる」

ユウキテルミそれが影の名前だった

「ならば早々に立ち去るがいいここは貴様のようなやからが気安く踏み入っていい場所ではない

ぞ」重

々しくけれど遠えん慮りよ容よう赦しやのない敵意を込こめてヴァルケンハインが進み出たレイチェルに

対して見せていた穏やかな品の良さは影を潜ひそめ白髪の老人とは思えぬ力強く攻こう撃げき的な眼まな差ざし

で揺れる影を睨にらみ据すえる

途と端たんにテルミは面おも白しろくなさそうに口らしき赤色を歪めた

「はっテメェも相変わらずイラつくなキャンキャン吠ほえてんじゃねぇよボケ犬が殺しち

まうぞあぁ」

「面白い吠えるしか能がないのはどちらか確かめるとしようか

体のない今の貴様に一体

なにができる」

「ちっhelliphellipうぜぇジジイだテメェもあんとき殺しときゃよかったぜ」

「九十年前に反省するべきだったな」

テルミが悪態を吐つけばヴァルケンハインはそれを踏み潰つぶすような敵意を返す

そこには根深い因いん縁ねんの沼ぬまが広がっているかのようだった浮かぶのは憎ぞう悪おでもけん悪おでもなく

86

覗のぞき見えていた

「んじゃなせいぜい高みの見物でもしてろや」

吐き捨てるようにそう言うとテルミは靄もやが空気に溶とけてやがて目視できなくなるように

音もなくその場から消える

あとにはなにも残らないただレイチェルが日々当たり前に

めている真っ赤な薔

が咲さ

き誇ほこる庭園が広がるばかりだ

緩ゆるやかな風が抜ぬけて甘い薔

の香かおりが漂うまるでテルミによって生じた不快感を拭ぬぐい払はら

うように

ヴァルケンハインはそれまでの飛びかかって喉のど笛ぶえでも食い破りそうな敵意を呼吸ひとつのう

ちにしまい込みしつ

事じの顔に戻もどるすき

なく

筋を伸のばしレイチェルへと向き直った

「いかがなさいますかレイチェル様」

主人がすでに決めているであろう腹の内を促うながすように問う

レイチェルは手にしていた傘状のナゴを開いたパラソルでも扱あつかうように肩かたにかけヴァル

ケンハインを見やる

「ヴァルケンハインやっぱりお茶はまたあとでにするわ」

あんなにも単純で粗そ暴ぼうなちよ

発うはつに乗るのは癪しやくだけれどそうとわかっていて顔をそむ

けることを

弱気ゆえと受け取られてはもっと癪だなによりあの男に好き勝手を許すのは面白くない

「ナゴギィ出かけるわよ」

第二章 Spiral fate 盤上の駒89

「そうしたらまた始めるさ」

這はうような声で語る

な気配がレイチェルの誘さそう風さえ汚よごすようだった

「何度でもいいぜ

そのたびに俺はやり直すだけだ何度でも何度でもテメェがいい加減

飽あきてお城から出てこなくなっても何度でも何度でもhelliphellip何度でもなぁ」

「悪あくしゆ味みね」

「テメェが言うかよクソ吸きゆ血うけ鬼つき」

テルミがせせら笑う

深い皺を眉み間けんに刻みい憤きどおりを腹に抱かかえるヴァルケンハイン怯おびえ様子をうかがうナゴとギィ自分

の周りにいる者たちをながめてレイチェルはく唇ちびるを優美なカーブに曲げた

彼の言うことに同意するのは心底不ふ愉ゆ快かいだけれど確かに悪

味なのはレイチェルも同じだ

何度も何度もこんなやりとりを何度もここで行った

繰り返す時間の中で繰り返される会話はいわば一種の通過儀ぎ礼れいだ

これから始まる数時間めまぐるしく運命は交差して離れ剥はがれ崩くずれ乱れるその結末

をし粛ゆくし々ゆくと見届けるためのお決まりの行事

「まいいや俺はそろそろ最後の仕上げの準

しねぇといけねぇから行くわいちいち相手

すんのも面めん倒どうくせぇからテメェらはそこで茶でもしながら終わるのを待ってろよ」

言いながらテルミは一歩大きく退いた

影がぼやけて消えるように彼の

が揺らめく黒い体の向こうには薄うっすらと薔

の赤が

88

城から外へと出ていった

の残り香がが夜気に吸い込まれて消えるまで待ってヴァルケンハインはテラスのテーブ

ルに残されたティーセットをワゴンに載せて片付け始める

せめて今回はあの小さな主人の心が慰なぐさめられるようなそんななにかがあるようにと胸中で

願いながら

2199年12月30日||9時23分

カグツチの朝方普ふ段だんなら東空は陽光の白に輝かがやき地表で淀よどむ魔素の存在など忘れさせてく

れるかのように眩まぶしい

だが今日は生あい憎にく朝早くから分厚い雲が空を覆おおう曇どん天てんだった広がっているのは雨雲だ昼

前には雨が

り出すだろうと湿しめった空気が教えてくれる

第十三階層都市カグツチの外れ都市の一部として建設されたのではなくこの地に流れ着い

た難民が自発的に建設した市街のひとつ浪ろう人にん街

第二章 Spiral fate 盤上の駒91

「はぁ〜い姫様」

「了りよ解うかいっす」

傘のままナゴがしなを作りさっきまでの怯えが噓うそのように元気よくギィが飛び上がる

二匹ひきの使い魔まを従えレイチェルは宙へ手を差し出したすると煉れん瓦がタイルが敷しき詰つめられ

た足元に薔

色の魔法陣じんがほのかな光を宿して浮かび上がる

転移の魔法だ

今の世界の基き盤ばんともいえる術式の元になった太古の技術魔法けれど今はもう使える人間

はほとんどいない失われた技術だ

転移はそんな魔法の中でも特に多くの魔力と集中力を要し特別難解な制せい御ぎよを求められる魔

法だったそれゆえに人類の歴史においても使い手と呼べるほど扱いに長たけた者は数えるほ

どしかいない

転移魔法を自在に扱うレイチェルもまた自分以外にこの魔法を使いこなせている者をひと

りしか知らなかった

「カグツチまで行ってくるわヴァルケンハイン留守をお願いね」

「かしこまりましたお気をつけて行ってらっしゃいませ」

理想的な角度に腰こしを折ってヴァルケンハインは魔法陣の中から語りかける幼い容

の主あるじを

見送る

ふわりと風が

い上がり目眩を誘うほどの薔

の香りを振ふりまいてレイチェルは常夜の居

90

屈くつ強きようで大柄な体たい軀く隠すことなく晒さらされた広い

中顔に刻まれた十字の傷きず跡あとそして首に

巻かれた真っ赤な布その真っ赤な布がけい

谷こくの風に

られたなびくたびに誰だれもが彼を振り返

らずにおかない

なにも衣装の特とく徴ちようが浪人街の人の目を集めるのではない

このマフラーのように巻かれた赤く長い布は目印なのだ

迷える難民をまとめ先頭に立って浪人街を築きこうして日々浪人街を歩いては住民にト

ラブルや困りごとがないか見回るイカルガ忍にん者じやの頭領にして浪人街のヒーローシシガミバ

ングの

「おはようございますバングさん」

「バング殿どの

先日は

げたに鶏わとりの捕ほ獲かくを手伝っていただいてありがとうございます」

「バング様〜

こんにちは〜」

街のあちこちからかかる声に手を挙げて応こたえバングは朗ほがらかな笑え顔がおを返す

「うむおはようでござる

おおそうだ今日は雨が

るだろうから雨あま漏もりする家がある

なら拙せつ者しやに声をかけるでござるよすぐに飛んでいって修理を手伝うでござるからな」

通り中に響くような声で言いながらバングは前へ前へ歩む

天気はよくないがバングの心は今日も晴れやかだった仲間がいて住む場所があるこ

れがどれほど喜ばしいことか数年前までは忍として戦争の裏側を奔ほん走そうしてきたバングは日々

身をもって思い知り嚙かみ締しめていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒93

ここは五年前に終結したイカルガ内戦という戦争の敗者イカルガ連れん邦ぽうに住んでいた者たち

が造り上げた市街だった

内戦によって彼らの故郷は失われた行き場のないイカルガの民たみは世界のあちこちに散り

その中でもカグツチににげ延のびた者たちがここで身を寄せ合って暮らしている

複雑で街を築くのに適しているとはとても言えない地形だカグツチのある高山の下方に

位置しながら辺りは岩だらけで亀き裂れつや絶ぜつ壁ぺきが目立つ

それでもイカルガの難民たちは岩場に足場を組み亀裂に橋をかけ絶壁に階段を作り半

分宙に浮ういているかのような入り組んだ街を作り上げた

小さな街だありあわせの材料を組み合わせてできた粗そ末まつな街だがそれにしては整えられ

たイカルガじ情よう緒ちよ漂ただよう街並みにhelliphellip朗々と男の声が今日も響ひびき渡っていた

「おお皆みなの衆

今日も元気に平和に過ごしておるな

うむうむよきかなよきかながっ

はっはっはっは」

太く伸びやかな声の主はシシガミバング

浪人街の中心である一番開けた通りのど真ん中を歩きながら道行くすべての人に威いせいよく

挨あい拶さつして回っている大おお柄がらな筋肉質の男がそうだ

ぼさついた黒くろ髪かみは高くまとめ深い緑色の独特な装しよ束うぞくを身に着けている着ているのはイカ

ルガ伝統の忍しのびの服だ本来は闇やみに紛まぎれ隠おん密みつにことを済ますのが忍の

だがこのシシガミバ

ングという男はまるで逆にとにかく人の目を引いた

92

カグツチの

士であるならばこんな下層まで

りてくることなどそうそうないし別の支部

士ならばもっと上層からカグツチに入るはず

この街に統制機構の制服はあまりにも不自然だった

金髪の青年はなにも答えず冷ややかな緑の瞳ひとみでバングを

めていたがやがて色の薄うすい唇を

開きぼそりと低く呟つぶやいた

「その服helliphellipイカルガの忍か」

およそ好意的でない声

人によってはその内にさげすみ

やあざけり

いただろうだがバングはそのひどく温度の低い声こわ色いろ

を警けい戒かいゆえと受け取った

身構えるように低くさせていた体を起こしバングは慌あわてて制止するように広げた手を突つき

出だす

「ああいや誤解めされるななにも一戦交えようというわけではござらんぞ確かにここは

イカルガの民が住まう街で拙者はイカルガの忍であった男だが五年前にイカルガ内戦は終

わっておるのだ」

バングは太い腕うでをがっしりと組むと神しん妙みような

顔つきで何度か頷うなずくようにしながら先を続けた

「確かに終戦のきっかけは戦いくさではなく我等の首都イブキドの爆ばく発はつ事故であった」

イカルガ内戦は世界虚空情報統制機構に対し第五階層都市イブキドを首都と掲かかげるイカル

ガ連邦が独立を宣言して始まった内戦だ統制機構は武力でもってそれを制圧しようとしイ

第二章 Spiral fate 盤上の駒95

平和はいい平和の中にこそ愛はあるのだ

「うん」

ふと前を行く

を目に留めてバングがいぶかしげに声を唸うならせた

見慣れない男が歩いている浪人街の住民ではないバングはこの街に住むイカルガの民の

顔と

格好をすべて覚えていた

短い金きん髪ぱつの細身の男だ歩き方からしてまだ若い

なにより気にかかるのはその男が着ている服だ青と白によって構成されたその服はおそ

らく世界虚こ空くう情報統制機構の制服だろう

「そこのお主

待たれい」

叫さけぶように声をかけながらバングは高くとんだ空を駆かけるような長いちよ躍うやくは前を行く金

髪の青年の頭上を越こえて彼の正面へと着地する

行く手を塞ふさがれる形となった見慣れぬ男は足を止めバングの唐とう突とつな登場に戸と惑まどったように

眉まゆを寄せていた

やはり若い男まだ少年の面おも影かげも残した青年だ着ているものも統制機構の制服に間まちがいな

く手には青い鞘さやに

めた刀を一ひと振ふり摑つかんでいる

バングはますます募つのる怪けげんに青年よりも深く眉間に皺しわを刻んだ

「お主我等が街になんの目的で参られた

その服装統制機構の

士であろう」

カグツチの

士だろうかバングは彼に見覚えがない

94

金髪の青年はなにも言わず静かにバングを見み据すえている

なにを考えているのかどこかぼうっとしたようにも見える無表情からは思考どころか感情

さえ読み取れない

話を

いているのだろうかバングは不安に思いながら改めてさっきの質問を繰くり返す

「してお主は一体何者で浪人街になんの用でござるか」

「helliphellip用などない」

ようやく青年がバングの問いにまともに答えた

まともというにはあまりに素っ気なく突き放した物言いだったが返ってきた言葉が思いの

外ほか穏おん便びんでバングは軽く安あん堵どを抱いだく

イカルガの残党狩がりだなどと言われてその手の刀を抜ぬき放たれたら多くの住民が行き交かう

街の中心で大立ち回りを演じなければならなくなるそうなればいくつかの家は巻き添ぞえをく

っただろうし何人かは怪け我がをしたかもしれなかった

青年は変わらず冷たい無表情のままでバングの向こうにそびえる山へ目を向けたこの上

にいくつもの市街が建設され頂上には世界虚空情報統制機構のカグツチ支部が建っている

「貴様たちのことなどに興味もない僕は上へ行きたいだけだ」

「上

というと統制機構の支部でござるか」

「じや

魔まだそこをどけhelliphellipああいや」

冷れい徹てつに言い放ってから青年は思い直したようにけれどそれでも冷ややかに声を低めた

第二章 Spiral fate 盤上の駒97

カルガ連邦も武力でもって抵てい抗こうした

それが四年続いたある日のことだ

イカルガ連邦首都であり指揮系統の中心であった第五階層都市イブキドの地下で突とつ然ぜん原因

不明の大爆発が起こりイブキドは跡あと形かたもなく消しよ滅うめつした

爆発はイカルガ連邦はもちろん交戦の真っ最中であった世界虚空情報統制機構側にも大き

く戦力を損そこなわせる痛手を負わせた戦争を続けるだけの力をイカルガ連邦と統制機構が爆

発事故をきっかけに同時に失ったのだ

結局イカルガ連邦はバラバラとなり最終的には組織としての形を失ったけれど統制機構も

己おのれを立て直すのに手て一いつ杯ぱいで追つい撃げきどころではなく内戦はしぼんで消え入るようにいつの間に

か終わったのだった

「それでも我等は負けたのだその現実を認めずに今ある平和を投げうってまで統制機構に

楯たて突つくつもりはござらんよ」

そう言うとバングは眉み間けんを中心に走る十字傷に分厚い手で触ふれ苦々しくも笑みを浮かべ

たこ

の傷はその爆発事故のときに負ったものだ内戦を終わらせたあの事故が自分にとって幸

であったのか不幸であったのかバングには未いまだわかりかねる

ただイカルガの民はもうじ充ゆう分ぶん戦ったこれからはたとえ楽な生活でなくとも平和に過ご

してほしいとバングは思っている

96

れるだとかそんな幽ゆう霊れい話じみた現象が起こるはずもない

勝手なイメージでそう結論づけるとバングは気を取り直してそのたくまし

い胸むな板いたを張った

まだ浪人街の見回りは途とち中ゆうだ曇天の色はますます濃こくなってきている雨が

り出す前に

修理の必要な家がないかどうか確かく認にんしておかなければならない

「いやぁまったく最近の若者は覇は気きが足らんでござるなぁ

陰いん気きな顔をしていないでも

っと威い風ふう堂どうど々うと力強くそして

くあらねばそうこの愛と正義の忍者シシガミバング

のように」

辺り一帯に響く盛せい大だいな声で笑うとバングは街の見回りを再開させた

これが終わって部下のけい

古こが終わってそれでも時間があったなら憧あこがれの女性が住むオリ

エントタウンまで足を延ばして挨拶に行こうとそう心の中で計画をたてていた

今日も浪ろう人にん街は平和だ

それがなにより素す晴ばらしい

2199年12月30日||18時21分

第二章 Spiral fate 盤上の駒99

「ついでだ貴様カグツチで白い髪かみに赤いコートを着た男を見なかったか」

そう尋たずねる青年の表情はまるで凍こおりついたかのように無表情から動こうとしないだという

のに緑の瞳だけは妙みように楽しげに煌きらめいていたようにバングには見えた

バングは顎あごに手をやり考えこむ

「白い髪に赤いコートhelliphellipふぅむいやこの辺りでは見かけてござらんそれほど目立つ容

ならば一度目にすれば覚えようがhelliphellip」

「そうかならいい」

しゆ時んじにバングからあらゆる興味を失ったように青年は滑すべるような歩みで横を通り抜ける

すれちがう風はいやに冷たいまるで氷でも掠かすめたかのようだ

「ああお主

拙者はシシガミバングと申すお主の名はなんと申す

すたすたと足早に山へ向かう細身の後ろ

へバングは追いかけるように声をかけた

だが青年は振ふり向かないまるでバングの声など耳に入っていないかのような頑かたくなな

中で

なにかに突き動かされるような足取りで歩き去りそのうちに浪人街の外れへと

を消してし

まった

バングは引き止めるように宙へ伸のばした腕もそのままに難しく顔を歪ゆがめて首を捻ひねった

「はてhelliphellip奇きみ妙ような男でござったななんというかこうた魂ましいが抜けているようというかhelliphellipなに

かに取り憑つかれでもしているかのようであったわ」

もっとも今は日もこれから高くなろうという真昼間魂が抜けるだとかなにかに取り憑か

98

形よく張り出した豊かな胸に引き締まった腰こしそこから滑なめらかに続く肉感的な臀でん部ぶと華きやしや

な足首に向かって続く絵に描かいたような曲線

同性の憧れと異性の動どう揺ようを誘さそわずにおれない肢し体たいのシルエットだけでも彼女は道行く人の

視線を釘くぎ付づけにする

そんな麗うるわしき女医ライチがこの街にやってきたのは約一年前のことだ

突然現れ住まいと仕事を求めたライチをこの辺りの住人は快く受け入れた

彼女は自分がどこから来たのかどんな生おい立ちなのかなぜオリエントタウンへひとりで

やってきたのか名前以外のことはなにも話そうとはしなかった

素すじ性ようの知れない女など怪あやしまれて当然だろうけれどライチが出会ったオリエントタウンの

住人は皆みんな彼女が口を閉とざすと深くは追つい及きゆうしようとはしなかった

そのことをライチは一年たった今でも来たばかりのころと変わらず感謝している

こうして日々病院のとびらを

開けなるべく気軽に安価で治ちり療ようが受けられるよう心がけているの

も生活のためというより拒きよ絶ぜつや敬遠ではなく寛かん大だいさと優やさしさをもって自分を迎むかえてくれた

オリエントタウンへの恩返しの意味が強い

「さてと」

少年の

が曲がり角の向こうに消えるとライチは細い肩かたをすとんと落として息をついた

オリエントタウンはすでに夜の闇やみに包まれていてあちこちにぶら下げられた小さな提ちよ灯うちんや

ランプが家々を照らしていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒101

オリエントタウンは第十三階層都市カグツチの下層にこそあれど広く活気にあふれた賑にぎやか

な街だ

限りある土地を時に譲ゆずり合い時に共有して身を寄せ合うように家を建て並べ今にも壁かべが

触れそうなほど密接したりん家かとは家族のように付き合える

誰だれも彼も決して裕ゆう福ふくではないけれど薄うす暗ぐらい路地に不ふ穏おんな影かげが横切ることもあるけれどそ

れでもこの街は温かい

ここオリエントタウンの一角で小さな病院を開いている医者ライチフェイリンは常々

そう感じていた

「痛みが引くまで無理は禁物よいいわね」

階段から落ちて捻ねん挫ざしたという少年を病院の入り口まで見送ってライチは頭を下げる小さ

な彼に笑顔で手を振る

ライチは美しい女性だった

足元まで伸ばした艶つややかな黒くろ髪かみを高く結ゆわえてくるりと巻き大きなアップヘアにまとめて

いる化けし粧ようで飾かざらずとも美しいラインを描えがく眉に伏ふせれば影ができるほどに長い睫まつ毛げ黒い

縁ふちの眼鏡ごしに見える瞳は大きく知的な光を宿しているけれどややつり上がった目元はどこ

か媚び態たいを想像させる色いろ香かを匂わす

美び麗れいなのはなにも容よう貌ぼうだけではない

100

こんなにも温かく名を呼ぶのはひとりだけだhelliphellip今は

両手で二の腕をさすりながら振り返りライチは少し驚おどろいたように目を丸くさせる

そこにいたのはやはり予想通りの人物だったけれど彼の腕には予想とは

うものが抱だき

かかえられていた

声の主の大きな体が建物の色いろ濃こい影の中から出てくるライチとて

の低いほうではないけ

れど彼の

は見上げるほどだ

通常の人間ならありえないほど屈くつ強きような体に赤い肌はだ第七機

の赤あか鬼おにと呼ばれるサイボーグ

の男だった

「テイガーhelliphellip」

ライチが小さな声で名を呼び返すうちにテイガーは周囲に人ひと気けがないことを素早く確認す

ると近くまでやってくる

彼の腕うでにはひとりの少女の

があった気を失っているのかぐったりと力なく体を預け

ている長くやわらかなカメリアレッドの髪に華

な体そして青と白の世界で一番有名な制

服helliphellip統制機構の制服

「テイガーこれはどういうこと

どうしてhelliphellip」

どうして統制機構の

士を抱かかえてこんなところにいるのかそう問おうとしたライチの疑問

をさえぎっ

てテイガーは抱えていた少女の体を託たくすように差し出した

「すまんがこの少女を頼たのめないだろうか訳あって気絶させてしまったのだが放ほうり出すわ

第二章 Spiral fate 盤上の駒103

遠くには雨音が

こえる昼過ぎに

り出してから今までもずっと続いていたのだろう空

を上層に閉とざされたこの辺りもすっかり空気が湿しめっていてずいぶんと冷え込んでいた

ゆったりとした白いブラウスとその上に着込んだロング丈たけの真っ赤なチャイナドレスという

服装はライチのみ惑わく的なボディラインをくっきりと描き出すには適しているけれど寒空の

下に立つにはあまり向いているとはいえない

不意に抜けた冷たい風にぶるりと身み震ぶるいしてライチは豊満な胸元を合わせるように己おのれを抱

いたまとめ上げた髪にしがみつくようにくっついている小さなパンダの髪かみ飾かざりも心なしか寒

そうだ

今夜はきっと冷えるだろうとはいえかつて黒き獣けものが現れ魔ま素そが世界に広がるまでは十二

月といえばもっと寒くこんな薄うす手での服装ではとても外を歩けなかったそうだから当時を思

えば涼すずしい程度の気温なのかもしれない

昔はこの時期この辺りでも雪が

ったらしい魔素が狂くるわせ失わせた冬らしい季節という

ものを少々勿もつ体たい無く思いながらライチは病院へ戻もどるべく踵きびすを返した

だがただでさえ長い脚あしをさらにすらりと見せる踵の尖とがったくつが屋内に踏ふみ入る前に

後か

ら唐とう突とつに声がかかった

「ライチ」

落ち着きのある低い男の声だ

それが誰なのかライチは呼びかける一言でわかった自分のことを呼び捨てる者の中で

102

「お前になら構わんか実はhelliphellip」

『とう

亡ぼうしたサンプルの回

だ』

突とつ然ぜん第三の声が割って入った

「ココノエ

周囲に配はい慮りよしてか声は抑おさえたもののテイガーが驚きにうろたえる

ライチの表情に糸を張るような緊きん張ちようが走った

第三の声はテイガーの耳元から

こえてきたそこには小さな通信機が取り付けられている

その向こうにいるのが声の主でありテイガーの上司にして製作者でありhelliphellip一年前までは

ライチの上司でもあった人物ココノエだった

『なにを驚いている回線に入り込む程度なんでもないわかったら勝手に通信を切るんじ

ゃないいいなテイガー』

テイガーへ向けてだけでなくその周囲にも

こえるよう操作された音声が感情の波を抑え

た低い女声で語る他者の意見をは

ねのけるような語調と声色には有う無むを言わさぬ威い圧あつ感と

神経質さが現れていた

ライチも一年前まではよくこの声にしつ

咤たされたものだ懐なつかしさと一いつ緒しよに苦い思いがこみ

上げてきてライチは声から目をそむ

けるようにテイガーから視線を外す

「ココノエ博士helliphellip」

『久しぶりだなライチお前こそこんなところでなにをしている』

第二章 Spiral fate 盤上の駒105

けにも統制機構に連れん絡らくするわけにもいかなくてな」

ひどく困った様子で懇こん願がんしてくる

そんな顔でそんなことを言われては断ろうにも断れない自分の性格をわかっているくせに

と思いつつもライチはテイガーの腕の中の少女を覗のぞきこんだ

は正常だ外傷は特になく呼吸も安定しているただ単純に強い衝しよ撃うげきで意識がなくなり

そのまま眠ねむり込んでいる状態だろう

「つまり彼女の意識がないのは貴方あなたの仕し業わざってことね」

ちらりと眼鏡のすき間まからテイガーの赤い顔を見上げてライチはほんの少しの小言めいた響ひび

きを込こめて言った

テイガーとこの少女の間にちょっとした荒あら事ごとがあったことは想像に難かたくない

統制機構と第七機

係についてはよく知っているなにせライチはオリエントタウンへ

来る前テイガーと同じ

場で同じ上司の下で働いていたのだから

「helliphellipどうして貴方がカグツチにいるの」

少女の身み柄がらは引き取るそう物もの腰ごしで伝えながらもライチは堅かたい声こわ色いろで尋ねた

テイガーが所属している第七機

はカグツチから離はなれた場所に研究所を構えているカグツ

チへふらりと私用で来るような距きよ離りではない

テイガーは困こん惑わくしたように言葉に迷ったが難しそうな顔をしながらも上向きのきばが覗く

口を動かした

104

「まだわかりません」

ねのけるようにライチは大きく首を振ふった

そこにはオリエントタウンの住人が知る優しく穏おだやかで時々厳しいそんな女医の

はなか

ったあるのはなにかを必死で守ろうとする弱々しい少女のような顔だ大切な宝物を取り上

げられまいと首を振るようなそんな

ライチは厳しく引き締しめた顔でテイガーをその耳元にある通信機を見つめる

「なぜ博士はそう簡単に割り切れるんですか

すべての手を尽つくしたわけではないのにあ

の人はただ少し間まちが

えてしまっただけです少し急ぎすぎただけでそれに彼は貴女あなた

のhelliphellip弟で

子しだった人じゃないですか」

ライチの声は情感に揺ゆれていた震ふるえているといってもいい

解げせない飲み込めない受け入れたくないそんな拒絶が声だけでなく

しげに眉まゆを寄

せた表情にも浮うかんでいる

もう一度通信機からココノエのため息が

こえた今度は呆れているというより苛いら立だっ

たような吐と息いきだった彼女が頭をかきむしる仕草が見えるようだ

「すみません博士helliphellipでも私はhelliphellip諦められません」

ライチはきつく胸の前で手を握にぎり締める

だけど本当はわかっているライチは医者であり一年前までは研究者だっただから自分

でもいや

になるほど冷静で理性的な部分はもうとっくに理解していた

第二章 Spiral fate 盤上の駒107

どんな顔をしていたらいいかわからないライチは寒さではなく別のものから己を守るよう

に身を抱く手に力を込める

知性と理性で研といだココノエの鋭するどく射い貫ぬくような眼まな差ざしが通信越ごしにこちらを見み据すえてい

るのがわかった

「そんなのhelliphellip博士ならもうおわかりでしょう」

なぜライチがカグツチにいるのかもなぜカグツチの中でも下層のオリエントタウンを住ま

いに選んだのかもなぜ第七機

を出たのかも全部全部彼女はお見通しのはずだ今いま更さら説

明しなければならないことなどなにもないのだ

『まだあいつのことを諦あきらめきれんのか』

ほらとライチは思う答えずともココノエはわかっている知っているライチがなにを

考えてここにいるのかを

だからだろうか通信機越しに

こえるかつての師の声はまるで咎とがめ責めているように

こえた

「諦めるだなんてどうしてそんなことができますか」

胸の内から絞しぼり出すようにしてライチは答える

通信機からノイズが漏もれたココノエのため息だろう呆あきれ果てたといったような音だ

『もう一度言うあいつを助けようなどと無む駄だなことを考えるのは止よせあいつはもうどうに

もならんお前の力では助けられない』

106

ライチは顔を上げられなかった愚おろかだと思うのは自分も同じだ反論はない

重苦しい沈ちん黙もくが数秒流れたときだったパタパタと軽やかな足音がライチのいる病院の入り

口へと駆かけてきた

「ただいまhelliphellipってうわデカっ

やってきたのは小こ柄がらな少女だったかつ

色しよくの肌はだに黒くろ髪かみをアップにまとめており動きやすそう

な服を身に着けている

少年とも見まごう細い腕うでと胸には紙かみ袋ぶくろに入った日用品を抱かかえていたが近づいて改めて見上

げたテイガーの巨きよ体たいに思わず驚おどろいてぐしゃりと抱だき潰つぶす

「リンファhelliphellip

おおかえりなさい」

いささか慌あわててライチは向き直った

彼女はリンファライチの病院で助手として手伝いをしている医者志望の少女だ

リンファは大きな黒目をさらに大きく見開いて遠目で見るよりずっと大迫はく力りよくなテイガーを

ぽかんと見上げていた

「たただいま先生えっとhelliphellipこの人誰だれ

お客さん」

「ああそのhelliphellip」

ライチは言葉を濁にごして迷った

リンファは公私ともに支えてくれる頼たのもしい助手だがライチは彼女に自分の過去を教えて

いないし教えるつもりもなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒109

自分にできることなどなにもないのだと

||一年前ライチがココノエやテイガーと共に過ごし研究に励はげんでいた第七機

を飛び出

したのはある人を助けるためだった

その人は魔素とそれを世界にもたらしたとされる境界について研究していた

けれどあるとき彼はおかしくなってしまった常に錯さく乱らんしたようになってやがて人前に

を見せなくなり最終的には人でなくなってしまった

魔素に触ふれ続け境界に近づきすぎたがゆえの結果だった自分と境界の境目がわからなく

なってあるべき形を失った

消化してしまったものを元の食品の形に戻せないように境界に取り込まれて同化したもの

を元の

になど戻せはしない

彼を追ってここカグツチのオリエントタウンまで来てもこの街に留とどまり続けても彼の

噂うわさを耳にしては飛び出し黒く蠢うごめく影かげを探しても魔素や人ならざる種族について研究を重ね

ても彼と同じように境界に手を伸のばしても

なにも変えられない

ライチが探している『あの人』はオリエントタウンから入ることができるカグツチ下層の

下水道をねぐらとして日々ただ本能の赴おもむくままにさまよい続けている

『どいつもこいつも私の弟子は馬ば鹿かばかりだhelliphellip』

ココノエが吐はき捨てるように言う

108

意識のない女

士が身に着けている青と白の制服は苦しい生活や貧しい環かん境きようをもたらした

元げん凶きようをし象よう徴ちようしているようなものだ

その気持ちをわかりながらもライチは

めるように言う

「誰であろうと患かん者じやは患者よリンファベッドの用意をしておいて」

「helliphellipはいライチ先生」

リンファとてライチの言い分はわかっている

もう一度きつく腕の中の紙袋を抱だきしめるとリンファは渋しぶし々ぶ頷うなずきそれでも足早に病院の

奥へと駆けていった

それを横目に見送りながらライチはぐったりとした少女の腕を肩かたに担ぐようにして濡ぬれ

た体を支える

最後にと見上げた知的な瞳ひとみにテイガーは告げた

「ライチこれだけは伝えておきたいココノエはお前が機

に戻もどることを望んでいるお前

にその意思があるならいつでも手を貸すつもりだ」

それこそがわざわざ通信回路をねじ込んでまで口をはさ

んできたココノエが言いたかったこ

とだろうとテイガーは解かい釈しやくしている

あの気難しく神経質な声で話す上司は人に情じよ緒うちよめいたことを伝えるのがとても苦手だ誰よ

りも側でココノエの仕事を手伝ってきたテイガーはそのことを身にしみて実感している

ライチは驚いたような顔を見せそれから頰ほおを緩ゆるめるように力を抜ぬくと

しげに首を横に振ふ

第二章 Spiral fate 盤上の駒111

間まちがってもテイガーやココノエとの会話を

かれるわけにはいかないのだライチは素早く

助けを求めるような視線をテイガーに向ける

だがそのときにはもうすでにテイガーは通信をオフにしていたライチがなにをきらうのか

は見かけによらず理性的な巨きよ漢かんは十分理解している

ただしその代わりにとばかりに抱えていた意識のない少女をライチの腕の中に押し付ける

ように託たくした

「私は任務があるもう行かなければとにかくこの娘むすめを頼む」

テイガーがここを訪れたのはなにもココノエの心情を伝えるためでも上司とライチを口論

させるためでもなくこの赤い髪かみの少女の身の安全のためだ

「わかったわ預かる」

このじ状よう況きようで拒きよ否ひするわけにもいかないライチは素直に少女の身み柄がらを引き受けた

力なくもたれかかる少女の体は決して軽くはないが支えながら引きずってベッドへ運ぶく

らいはできる医者や研究者に相応ふさわしくない程度にはライチは力には自信があった

ライチが受け取った人物の

を見てリンファが不ふ愉ゆ快かいそうに眉まゆを寄せた

「この人図書館の

士じゃんなんでhelliphellip」

なんで

士なんかを預かるのかのみ込まれたリンファの言葉はそう続くはずだった

リンファはオリエントタウンの生まれだ下層の住人の大半がそうであるように彼女もま

た高圧的な統制機構の施し政せいに大いに不満を抱いて生活している

110

雨の中運ばれてきたせいで少女の体はすっかり冷えていた

リンファが整えてくれたベッドまで運ぶと清潔なシーツの上に横たえ

士の制服である青

い帽ぼう子しとブーツを脱ぬがせる指先まですっかり力を失った手を取り手てぶ袋くろと硬かたい金具のついた

袖そでを外した

となりの部屋でリンファが買ってきた日用品の片づけをしている物音を

きながら上等とは言

えない毛布と布団を眠ねむる少女の体にそっとかけてやる

「helliphellip今夜はこれじゃ少し寒いかもしれないわね」

青と白の帽子や袖をたな

へしまいながらライチは声に出して呟つぶやいた

そのしゆ

間んかん目に見えない糸が切れたような不思議な感覚がライチの

筋を掠かすめていったの

だけれど

ライチはそれを冷えてきたがゆえの悪寒だと思って新しい患者にかけてやる毛布を取りに

行くため部屋を出た

この

間ライチの大切なものがひとつ喪うしなわれたと彼女が知ることはなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒113

った

「helliphellip私は戻れないわあの人のことが片付かない限りは」

戻ればきっと後こう悔かいするお門かどちがいにもココノエを恨うらむかもしれない

「そしてもし片が付いて私があそこに戻ろうとしてもそのときは今度は博士が私を受け入れ

ない」

もしあの人を戻せるとしたらその方法が容易たやすくそして人道に則のつとったものであるはずがな

い触ふれてはならないものに触れなければならないだろう見てはならないものを見なければ

ならないだろう知ってはいけないものを知らなければならないだろう

そうなったときココノエが自分をどんな目で見るかライチはあまり想像したくはなか

った

難しそうに唸うなりテイガーが小さく顎あごを引く歪ゆがんだ口元は苦々しい

「そうか難しいことは私にはわからんが」

いつまでも話してばかりはいられないテイガーは広く赤い

中をライチへ向けた

「今はこれで失礼するhelliphellip達者でな」

それだけ告げるとテイガーは後うしろ髪がみを引かれる様子もなく来た道を引き返していった暗

い影かげの中に入るとやがて大きな

中はオリエントタウンの路地裏に消える

ライチもまた立ち去る

を向けて預かった

士の少女を病院の中へと運び込んだ

後ろ手にとびらを閉めればそこはもう慣れ親しんだ小さな自分の病院だ

112

まったくうんざりするこれからこんな風雨の下でひとりで作業しなければならないな

んて

「helliphellipっていつまでもぐちぐち言っていてもしょうがないですか」

自分で自分を哀あわれみながらハザマはスーツの内ポケットから小さな通信機を取り出した

耳に当ててしばらく待つ

とうに日は落ちて辺りは暗くこの分厚い雨雲で月明かりが望めるわけもないハザマの後

方で灯ともる屋上入り口の白々しい明かりがスポットライトのように円形の濡れた屋上を寒々し

く照らしていた

『||私だ』

通信機の向こうから声が応こたえた

男の声だ低く感情らしい響ひびきは一いつ切さいない

ハザマはズボンのポケットに手を突つっ込こむと心持ち

筋を伸ばした

「お疲つかれ様ですハザマですとりあえず現場に到とう着ちやくしましたよ雨ざらしですけど」

『そうかでは始めろ』

「あらら冷たいですねぇねぎらいの言葉もなしですか技術大たい佐さ」

帽子のつばなどまるで意味がない濡れて額にはりつく前まえ髪がみを指先でのけながらハザマは口

角を引いて苦くし笑ようする

もっとも通信機の向こうにいる男にねぎらいの言葉などかけられたらそれはそれで気味

第二章 Spiral fate 盤上の駒115

2199年12月30日||18時21分

雨はまだ

り続いていた

曇どん天てんはますます色いろ濃こくついには強い風まで吹ふき始める

夜ともなれば空気は冷えるただでさえここは高い場所でhelliphellipそう地上から数えればとん

でもなく高い場所でそのうえ風雨をさえぎるものがないというのに

「あーあhelliphellipもう最悪ですね」

世界虚こ空くう情報統制機構カグツチ支部の屋上つまり第十三階層都市カグツチにおいて最も高

い場所に立つハザマは

り止む気配のない雨空を見上げて心底辟へき易えきしていた

制服ではない自前の黒いスーツも雨除よけにはならない帽子も上がってきて数秒でびしょ濡ぬ

れだ

少し待てば雨足も弱まるのではないかと思って無益に潰つぶした時間は一体なんだったのだろ

うか

「これが上官命令でもあの人の言いつけでもなかったら体調不良でも持ちだして即そつ刻こく本部に

帰るところですよ」

114

歩きながらもハザマは笑っていた両手をポケットに突っ込んでいるせいで細い肩が少しだ

け持ち上がって喉のどを鳴らすたびに小刻みに揺ゆれる

誰もいない鳥さえ近づかないカグツチの頂でハザマはどこか摑つかみどころなくにゆ

和うわに笑い

かけた

彼にだけわかる人物へまるでなだめすかすように

「そう急せかさないでくださいよ焦あせらなくてもいずれ取り戻せますって」

||ねえテルミさん

第二章 Spiral fate 盤上の駒117

が悪くてとても仕事どころではないのだけれど

『あまり時間がないさっさとしろ』

「はいはいまったく貴方あなたもあの人も人使いが荒あらいんですから」

ではまた後ほどそう言葉を足して通信を終えるとハザマは手の中に握にぎり込めるくらい

小さな通信機を玩がん具ぐでも扱あつかうように宙へ放ほうり投げキャッチした

雨が冷たい

ハザマは目ま深ぶかにかぶっていた黒の帽子をほんの少しだけ持ち上げた

濡れた髪の向こうから金色の瞳ひとみが覗のぞいていた照明の中でちらつく無数の雨あま粒つぶを鋭えい利りな狡こう猾かつ

さで見み据すえる一いつ緒しよにその向こうで静かに濡れるがらんと空くう虚きよななにもない屋上の空間を

軽く肩をすくめるようにしてハザマが笑えみの息を漏もらしたまるで誰かになにごとか語り

かけられたかのように

「わかっていますよ私だってさっさと片付けたいですからね」

さあさあと雨の音が途切れることなく続いている

そこにハザマ以外の誰かの声はなくもちろんハザマ以外の

はない

暗い夜の屋上は雨あま霧ぎりの中でなにひとつ文句も言えず濡れるばかりでハザマに何事か語りか

けるはずもない

ハザマは通信機をしまうとちょいと帽子を直し屋上の中央に向かって足を踏ふみ出した硬

い革かわぐつが濡れた床ゆかを叩たたいて微かすかな水音を弾はずませる

116

Page 8: t1501 ブレイブルー1 面付BLAZBLUE―ブレイブルー―1 カラミティトリガー 上> 原案・監修 ‥ 森利道(アークシステムワークス) 著‥駒尾真子

近くに小川が流れすぐ裏手には実り豊かな森がある

そこはかつて大きな戦争があった時代の決戦の地けれど今は誰だれもが忘れた土地

緩やかで草深い草原の中ぽつんと建つ小さな教会で

老いたシスターと三人の子供の慎つつましくも賑にぎやかな生活がこの日始まった

||ねえラグナあなたは私に会えたかな

プロローグ15

の家よ」

温かく話しながらシスターは思う

遠い日に交わした約束それが果たされる日をずっと待っていたこの日が来るのをずっと

ずっと待っていた

ジャムを作らなかったことを頭の隅すみで後こう悔かいするもし作ってあったならこの子たちにお茶

と一いつ緒しよにジャムをたっぷり塗ぬったパンを食べさせてあげられたのに

「お帰りなさいラグナ」

きっと声が震ふるえていたせいだろう

口を結んだまま警戒を緩ゆるめられずにいるラグナの緑色の双そう眸ぼうに一

心配するような色がよ

ぎるから

やっぱり本当は優しい子なのだと思ってしまったから

シスターは目尻から透とう明めいな雫しずくをこぼしながら喜びのままに少女のように微笑ほほえんだ

||ねえ覚えてる

||あの約束を覚えてる

||私は会えたよ

||ねえ貴方は会えた

14

げる

身を隠かくすつもりは毛頭なかったむしろ向こうが見つけて仕し掛かけてくるならその都度叩たたき

のめすのが彼のやり方だ

こそこそやるのは性しように合わないどうせ目立つならできるだけ

手に振る

っていつか自

分の襲しゆ来うらいを

いただけで連中がに

げ出すようになればいいと思う

もっともそんな虫のいい話はないだろうと思ってもいるが

すぐに青と白を基調とした制服に身を包んだ男が五六人銃じゆうを抱かかえて走り込んでくる

こちらの位置に気付いていなかったのかはち合わせた途と端たんに先頭の数名が動どう揺ようして足を止

めた

だが彼は止まらない歩みを疾しつ走そうに変えて一直線に突つっ込こむと手の剣を大きく振ふりかぶっ

「止まれ

止まらなければ撃うつ」

制止の声に意味はない

制服

の男たちがそれぞれに銃を構えた即そく座ざに全員が発はつ砲ぽうするけたたましい発砲音が廊

下に響く

がその直後彼は振りかぶった剣を

いよく薙ないだ

「うらぁぁぁぁぁっ」

剣から黒く禍まがま々がしい揺らめきが放たれて宙を駆かけ迫せまる銃じゆ弾うだんのすべてをの

み込んで掻かき消し

第一章 Stratum city 階層都市17

第一章

Stra

tum city

||階層都市

アーチ状に造られた白く高い天てん井じように慌あわただしい足音がいくつも響ひびいていた

誰もが口々に警戒と攻こう撃げき指示を口にする侵しん入にゆ者うしやを捕つかまえろ殺せこれ以上進ませるな

そう叫さけぶ声はしつ

咤たや激げき励れいというよりもっと

痛な音に引きつっておりひどく追い詰つめられた

状じよう

況きようを如によ実じつに物語っていた

廊ろう下かの先から

こえてくるそれらを

きながら

彼は迷いや躊躇ためら

いなど微み塵じんもなくいっそ悠ゆう然ぜんとした振るま

いで近付いてくる足音のほう

へと進んでいた

白い髪に左が緑で右が赤という左右で色のちが

う瞳ひとみがっしりした体つきに黒い服を纏まとい

その上に目の覚めるような真っ赤なコートを羽織っている

(helliphellip後から後からよく集まってくるもんだ)

ぼやくように思いながら彼はそれまで肩に担いでいた幅はば広びろで分厚い刀身の剣けんを手にぶら下

16

彼はなにもひっそりとここに忍しのび込んだわけではない

を守る警

員を殴なぐり倒して正面

から堂々と侵入したのだ

まるで自分の力と存在を誇こ示じし深く爪つめ痕あとを残すように彼は暴れに暴れて手あたり

第に破

壊し奥へと進んだ立ちはだかるものはなんであろうと斬きり倒すそんな暴力的な歩みで進

んで進んでhelliphellip

そうして彼が到とう達たつしたのは長い長いし昇ようこう装置で

りた先のぽっかりと口を開けたような

地下深い広間だった

helliphellipそこはもうこれまで通ってきた廊下や部屋とは

う世界だった

空気が

う温度が

床ゆかも壁も天井も金属に似た質感の板で覆おおわれており広場を見下ろす位置にガラス張りの小

部屋が設けられているその下にも重じゆ厚うこうな機械類が並んでおりそれらが見み据すえる先で異様に

大きななにかの装置が沈ちん黙もくしていた

人は誰もいないここにいたはずの人間は皆みな襲しゆ撃うげきの知らせを受けて避ひ難なんしたのだろうそ

してここに駆けつけるはずの人間は皆白はく髪はつの侵入者が蹴け散ちらしてしまった後だ

一歩一歩彼は広間の奥に鎮ちん座ざしている巨きよ大だいな装置へと足を進めた

異質さが体にまとわりつくようだった

第一章 Stratum city 階層都市19

てしまう

揺らめきはそのまま炎ほのおの速さで走りじ弾だんを浴びせる制服たちへと迫ると一息に吹ふき飛ばし

たご

うと炎が逆巻くような音が巻き起こり男たちの体は

鳴ごと攫さらわれて壁かべに叩きつけら

れる衝しよ撃うげきに負けて壁に太くヒビが走った

たった一撃それだけで銃を構え勇ましくも侵入者を迎むかえ撃とうとしていた男たちは全員

意識を失い廊下に倒たおれ伏した

「helliphellip倒されるってわかってんだからのこのこ出てくんじゃねぇよ馬ば鹿かが」

あっけないものだ倒れた制服

を横目に見やると大きな剣を携たずさえた彼はすぐさま廊下を

走り出す

いつまでもこんなところで時間を食っている場合ではない

向かうのはこの施し設せつの一番奥最下層だ

また廊下の奥から青と白の制服

が現れる口々に叫びながら銃を構えあるいは剣を抜ぬい

た人

数はさっきよりも多いがだからといって彼のやることに変わりはない

真正面から突っ込んですべてを振り払はらい叩きのめす

々に制服

の力ない体が廊下のあちこちに転がりセキュリティ装置はことごとく破は壊かいさ

れ口を閉とざすとびらすら叩き切られて鉄くずに変えられた

18

この世でありながら別の世であるかのような本能が警告するい和わ感のようなものが空気の

代わりに漂ただよっている

けれど彼には慣れた空気だった

もう幾いく度どもこういうところにはやってきているのだここと同じ構造をして同じ装置を地

下に隠した施設をこれまでいくつ訪ねたかわからない

毎度訪問の目的はひとつ

この巨大な装置の破壊だ

彼は床を踏ふみしめるようにして歩み寄る

これがなんのために存在しているのかここで働いていた者のどれほどが把は握あくしていたのだ

ろう

来るたびに彼は棘とげのような疑問を感じる

これがなにをもたらすと思って毎日毎日こんな陰いん気き臭くさい地下深くまで

りてきて用よう途とも

わからないチカチカ光る計器をいじくり回していたのだろう

縁へりまで来ると彼はそれを睨にらみ据すえる

銀色の金属で組み立てられた装置は見上げるほどに高くそびえ見下ろすほどに深く大き

かった

メインとなる部分は彼が見下ろす円形の部分だ

これは『窯かま』だった

20

第九階層都市アキツ世界虚こ空くう情報統制機構支部

都市の中心に建っていた施設が何者かの襲撃によって崩ほう壊かいしその騒動で都市全体が混乱し

ている中

赤いロングコートを着た白髪の男はひとりひっそりと都市から去ろうとしていた

もうここでやるべきことは終わった長居は無用だ

施設での

手な立ち回りに反して外では人目につかぬよう入り組んだ道を通りできるだ

け薄うす暗ぐらい出口を選んだ

街中で制服を着た

士たちに見つかれば振り払うために戦わねばならないそれが煩わずらわし

い錆さび

臭くさい鉄門をくぐって奥にあるポートへ向かうその脇わきにある通路を下れば外に出られる

はずだ

そのときふと薔ばら

の香かおりが彼の鼻び孔こうをくすぐった

「まるで行き場を失った野の良ら犬みたいね」

淡たんた々んとしたあざけり

の声が

こえ彼は足を止めて振り向いた傍かたわらに佇たたずむ細い外灯を見上げる

先せん端たん

が二ふた股またに分かれたシンプルなそれの上にひとりの少女が立っていた

歳としは十を過ぎて数年といった程度だろうかまだ幼い顔立ちをしながらも足元からの薄暗

い明りに照らされて浮うかぶ赤い瞳は外見の年とし頃ごろに似合わぬ聡そう明めいさをたたえている

第一章 Stratum city 階層都市23

今はいくつもの金属板が折り重なるようにして口を閉ざしているが開けば内は火山の火口

のようになっている炎えん色しよくの溶よう岩がんのようなものが渦うずを巻いて覗のぞき込む者のすべてをのみ込ま

んと燃え盛さかっているのだ

だが中でわだかまっているものは決して溶岩や炎などではない

そこにあるのは異界だ人が本来あるべきではない世界のひずみ走った亀き裂れつの向こう側

見てはいけなかった踏み込んではいけなかった世界のからの外側

彼が見下ろす金属の装置はこの窯を制せい御ぎよしまた窯に干渉するためのものだ

本来及およぶべきものではない異界||境界に触ふれるための装置

彼は世界中に散らばるこの窯を破壊して回っていた

こうして

めてみても今いま更さら感かんがいもない

彼は剣を腰こしに戻もどすと右手を装置へと向けて突き出した何事か呟つぶやくもう何度も繰くり返し

口にしてきた破壊をもたらす言葉

言葉は彼の右みぎ腕うでで眠ねむっていた力を呼び起こし力は彼の右腕に蒼あおい光を生んだ

またたく間に辺りを埋うめ尽つくすほどに増ぞう幅ふくされた光を彼は装置に向けて思い切り放つ

のしゆ間んかん地下深くで口を閉ざしていた異界への門はそれを囲む広大な部屋ごと跡あと形かたもな

く吹き飛んだ

22

別に行き先などどこでもいいカグツチならここアキツからでもそう遠くはない

彼は忌いまい々ましげに少女の消えた辺りを睨みつけると示された

の目的地を目指して歩き出し

た数

日後彼の名は世界中に指名手配犯として公開された

ラグナザブラッドエッジ

それが『死神』の異名を持つ史上最高額の賞金首の名だった

2199年12月30日||13時27分

約百年前世界は一度滅ほろびかけたという

突とつ如じよ現れ世界中を破壊して回った巨大にして異形の怪かい物ぶつhelliphellip『黒き獣けも』の

その圧あつ倒とう的な力に人類は為なす術すべもなくあっという間に世界の人口は半分に減った

ところがそこに六人の勇士が現れた

第一章 Stratum city 階層都市25

下方の彼を見やって少女は薄うすく微笑ほほえんだ

「薄うす汚ぎたない迷子の野良犬さん

に貴方あなたが行くべき場所を教えてあげましょうか」

「helliphellipなに企たくらんでいやがる今まではそんなこと教えなかったじゃねぇか」

吐はき捨てるように彼は低く呻うめいた

少女は呆あきれたように眉まゆ尻じりを下げる

「心外ね教えてきたじゃないhelliphellipもう何度も」

「はぁ

なに言ってんだテメェ」

「覚えていないならいいのよ期待もしていないわ」

指に絡からまった糸くずでも払うように言うと少女はある方向をその白く小さな手で示した

その先に広がるのは暗雲を抱いだく暗い夜空星も月もない夜はまるで不ふ穏おんな予感を掻きたてよ

うとするかのように重苦しく静かだった

「第十三階層都市カグツチ」

そこが貴方が導かれるべき場所よ

そう告げると少女は薔

の香りを漂わせ風が吹き抜けるように

を消した

甘い花の香りが消えると白昼夢から現実に引き戻されたかのようにどこからか金属とくさ

った水の臭においが漂ってくる

気分のいい場所ではない

「カグツチhelliphellipね」

24

た街は山の高度に沿って上下に広がり結果幾いく重えにも市街のプレートが重なった狭せまくも高

い都市が生まれたのだ

ここ第十三階層都市カグツチもまた世界中の都市がそうであるように複雑な多重構造と

なっている都市だった

その中の折り重なった市街のひとつオリエントタウンの入り組んだ細い道を彼は少々ふ

らついた足取りで歩いていた

白い髪かみに左は緑右は赤という左右で色のちが

う瞳ひとみ全身を包む黒い服に目の覚めるよう

な真っ赤なロングコート腰には幅はば広びろで分厚い刀身がと特くち徴よう的な剣けんが下げられている

ラグナザブラッドエッジ

世界虚空情報統制機構の支部を各地で壊かい滅めつさせているSS級の指名手配犯であり史上最高

額の賞金首が彼だ

とはいえ周囲を行き交かう街の住人は誰もラグナを気にしたりはしないどうせまたどこか

らか無法者が入ってきたのだろうそんな程度の視線が時折興味もなさそうに掠かすめては離れ

ていく

ここはオリエントタウンカグツチの下層に位置する街だ

階層都市はその構造上上層の街であるほど魔素から遠く安全で清潔で逆に下層に行くほ

ど管理が行き届かず魔素に近い階層都市において上下は住みやすさだけでなく晒さらされる命

の危険の度合いをも意味している

第一章 Stratum city 階層都市27

彼らは事象兵器

アークエネミーと呼ばれる武器を手に黒き獣にいどみ災さい厄やくの魔ま物ものを倒し人類に未来をもた

らした

六英えい雄ゆうと讃たたえられた彼らは人知れず歴史の海に

を消し行ゆく方え不明となったがそれでも彼ら

の栄光は伝説として語かたり継つがれた

それは近くも遠い昔の話

今の世にかつての黒き獣との戦争||暗黒大戦の誰だれもが知るような名な残ごりがあるとすれば

それは大きく数えてふたつだろう

ひとつは世界虚空情報統制機構

暗黒大戦のとき六英雄と共に戦った世界的な連合軍が母体となった組織であり現在は世界

中をこの組織が統とう括かつしている

そしてもうひとつが魔素

災厄の魔物黒き獣の出現と共に世界中であふれ出した物質で黒き獣が倒たおされた後も依い然ぜんと

して世界の空気中に残り続けた

今では様々なテクノロジーにも利用され人々が暮らしていくうえでなくてはならないもの

となっているがそれでも多量の摂取は人体への危険を伴ともなう

そのため人類は魔素を利用しながらも魔素を避さけて生活しなければならなかった

魔素は地表に近いほど濃こく滞たい留りゆうしているそこで考え出されたのが階層都市だ

高山を基き軸じくにしてそこからプレート状に築いた市街を突つき出させるようにして街を建設し

26

っている

そのうえあちこちの路地を塞ふさぐように木箱やらなにかの詰つまった袋ふくろやらが我が物顔で腰を下

ろしているものだから何気なく入った路地が通り抜ぬけられないこともしばしばある

赤い柱にぎょろついた目玉のついた奇きみ妙ような像街中に小さな明かりの灯った提ちよ灯うちんがぶら下げ

られていてそれ以上におびただしい数の大小の看板が眩まぶしいネオンを輝かがやかせている

普ふ通つう下層の街というのはいくつもある上層の基き盤ばんに陽光をさえぎら

れて昼間でも薄暗く場所に

よっては真っ暗になるものだがここはそんな暗がりとは無む縁えんのようだ

路地を抜けると少し開けた通りへ出た

左右にずらりとなにかの店が並んでいてどうやらこの辺りのメインストリートらしかった

その分掲かかげられた看板の数もその

手な色しき彩さいも段だんちがいだ

(この辺なら統制機構の連中もいねぇだろ)

比ひかく的広い通りでもいかにもこの街の住人といった人間ばかりが歩いていて世界虚空情報

統制機構の例の忌いまい々ましい青と白を基調にした制服は見当たらない

ありがたい話だもし見つかれば曲がりなりにもラグナは重大犯

者周囲への配はい慮りよもな

にもなく雨あられと発はつ砲ぽうされ

から

へと集まってくる

士たちと追いかけっこを演じなけ

ればならなくなる

ラグナは左右をきょろきょろと見回しながら腹部に手をやった

疲労より空腹が辛つらいカグツチに入ってからというもの食料品を扱う店に巡り合えず持

第一章 Stratum city 階層都市29

当然最上層を占せん拠きよしているのは管理機

でもある世界虚空情報統制機構だその

連施し

設せつや

係者の住宅が市街のほとんどを占しめている

続いて権力に近く裕ゆう福ふくである者が上層階に住まいそうでない者はその

産や身分に順列を

つけるように下へ下へと下っていく

オリエントタウンに住んでいるのはそういった順列の結果ここまで追いやられてきた人間

たちだった

誰も彼もお世辞にも裕福とは言えない自分と家族それから少しの親しい人間の生活の

ことで精いっぱいで見るからに異質な白髪の男にかかわって余計な面めん倒どうに首を突っ込みたが

る酔すい狂きよ者うものなどほとんどいないのだ

もっともラグナ自身も周囲の人間の様子に気を配っている余よ裕ゆうはあまりなかった

今は使われていないは搬んに入ゆう口からカグツチに侵しん入にゆうしたのが二日前それからずっと人の通ら

ない裏道や廃はい棄きされたエリアを通ってきた図はかったわけでもないのに延々と歩かざるを得なか

った悪路に正直疲ひ労ろうが募つのっている

帰りはもっとまともな道を通ろうそう決めていた

「にしても下層にしちゃ賑にぎやかな街だな」

辺りを見回しラグナはぼやくように率そつ直ちよくな感想を口にした

オリエントタウンは無計画にとにかく乱雑に家を建て並べたことがよくわかる入り組んだ

造りをしていた道は狭くやたらに折れ曲がり家々は今にも密着しそうに身を寄せ合って建

28

「うhelliphellipう」

微かすかに震ふるえる声で呻き少女はゆっくり顔を上げる

ラグナを見上げたフードの中におそらく誰もが想像するであろう少女の顔はなかった

あるのは黒い暗い闇やみを詰め込んだような陰かげその中でへなりと下がった赤い目らしき丸と

白い歯の並ぶ下を向いた三日月形の口だけが浮かんでいる

ぴくぴくと痙けい攣れんするようにフードについている三角の耳が震えた

人間ではないけれど獣のような尻尾や耳を持つ獣じゆ人うじんとも様子が

「もしかしてhelliphellipカカ族か」

このような奇きみ妙ような風ふう貌ぼうの生き物をラグナは過去にも一度見たことがあった確か剣けんの師しし匠よう

を訪ねてきたはずだ同じような黒い顔に実にシンプルな顔のパーツ目の前にいる少女とそ

のとき目にしたカカ族の女は明らかに別人だがこのと特くち徴よう的な容

は他にあるまい

もっとも『カカ族』という名めい称しようを知っているだけでつまりどういう一族なのかをラグナは

知らないのだが

さてこの少女をどうしたものか

わらずに引き返すべきか見なかったことにして先へ

進むか

咄とつ嗟さのことに決めあぐねていると顔だけを起こしたカカ族の少女はその弱り切った様から

は想像もできない俊しゆ敏んびんさで突如ラグナの足にしがみついた

「うおぁっななんだ」

第一章 Stratum city 階層都市31

ち歩いていた保存食も底をつき昨日の夜からなにも食べていないのだそろそろいい加減

限界が近い

いくら下層街でもこの雰ふん囲い気きなら飲食店くらいいくつかあるだろうそう思って雑多な看

板からそれらしい名前を探しているとhelliphellip

なにかやわらかいものを踏ふんだ

「ブニャッ」

同時になにかの鳴き声が足元から

こえた

「げっ」

犬か猫ねこでも踏みつけたかと思ってラグナは慌あわてて足をどける

が見下ろしたそれは予想に反してずいぶんと大きなものだった

というより人だったり両よう腕うで両足を地べたに投げ出し力なく倒れ伏ふしている少女だ全身

をすっぽりと覆おおうフードつきのローブから長い三つ編みの髪とかつ色しよくの肌はだの足が覗のぞき見えてい

るhellip

hellipいや

「なhelliphellipなんだテメェ」

警けい戒かいというより疑問一色の声で問いかけるラグナの視界でひょろりと弱々しく細長い尻しつ尾ぽ

が揺ゆれた

尻尾はその倒れた少女から生えていた

30

「はぁ

おおいどうした大だい丈じよ夫うぶか」

あまりにも切せつ羽ぱ詰つまった声を出すものだからさすがに少し心配になった持ち上げていた足

を下ろして陰を詰めこんだような顔を覗きこむ

まるで黒いお面のような顔は目も口も情けなく下げてラグナを見上げ今にも気を失いそう

な弱さで訴えた

「おhelliphellipお腹なかが空すいたhelliphellipニャス」

黄色いクロスがかけられた丸いテーブルの上にいくつもの皿が並んでいた

揚あげた鶏とり肉にくに薬味だれをたっぷりかけたもの肉団子と色いろ鮮あざやかな野菜の甘あま酢ずあん炒いため四

角く切り分けた豚ぶた肉にくを甘あま辛からく味付けしたこってりとした煮に物ものに山と盛られた炒め飯牛肉と

野菜を濃い味の味み噌そで炒めたもの細切りにした野菜を薄うすい皮で包んだパリパリの春巻きに

挽ひいた肉を包んで蒸むしたふかふかの饅まん頭じゆhellipうhellip

白い湯気と共に胃いぶ袋くろを震わせずにはおかない匂においを放つ数々の料理を三角耳のついたフー

ドの奇妙な少女は椅い子すからずり落ちそうなほど身を乗り出して忙いそがしく口に掻かき込んでいた

「はぐはぐはぐニャスはぐはぐはぐはぐはぐニャスはぐはぐ」

料理を頰ほお張ばる音なのか箸はしをしゃぶる音なのか空気の抜けるような声が絶えず漏もれていた

第一章 Stratum city 階層都市33

「うぅぅニャhelliphellipた助けてhelliphellipニャス」

驚おどろいて足を持ち上げ振ふり払はらおうとしたラグナの足に両腕を絡めてぶら下がり三角耳に尻尾

を生やした少女はあわれっぽく訴うつたえる

しがみつく腕うでをほどこうとラグナは足を大きく上下に振ふりまくるが少女の腕がどういう

わけか一向に離れない

「くっこの離しやがれ

なんなんだよテメェは」

「離さないニャス絶対に離さないニャスぅhelliphellip助けてくれないとこのままオマエの足を食う

ニャスよぉぉhelliphellip」

声だけは弱々しくだが腕は言葉に反して力強くラグナの足を摑つかんで離さない

この騒さわぎでも周囲の人間は奇き怪かいなものでも見るような視線を一いつしゆんくれるだけでそれ以上

わろうとせず通り過ぎて行く

面倒なトラブルに巻き込まれる心配はなかったが少なくとも親切な通行人の手助けは見込

めなさそうだった

何度目かでいい加減に諦あきらめるラグナは足を中ちゆ途うと半はん端ぱに持ち上げたまま縋すがり崩くずれるカカ族

の少女を憔しよ悴うすいの表情で見下ろした

「待て待て待て足を食うなてか意味わかんねぇよ助けるってなんだよ」

「うぅぅhelliphellipよhelliphellipよくぞ

いてくれたニャスタオは今とってもピンチなのネもうhelliphellip

もう限界ニャス」

32

た中皿いっぱいに盛ってあったはずの春巻きはいつの間にか最後のひとつになっていた

「こんなにうまいご飯を

ってくれるなんて白い人はいい人ニャスタオはとぉ〜っても感

謝してるのニャス」

両腕を大きく振り回して少女は喜びの度合いを示そうとするその手は指先まですっぽり

と袖そでの中に隠かくれていて猫の前脚を模したように大きく丸くなっていた

ラグナは春巻きを飲み込んでから尋たずねる

「タオってのはお前の名前か」

「ニャス

タオカカニャス」

大きく頷うなずくと尻尾を持つカカ族の少女タオカカはもう一方の手に持ったままだった肉饅

頭をまた一口で頰張り飲み込こんだ

「タオは村を出て勇ましく旅立ったんニャスがhelliphellipすっかりお腹が空いて動けなくなってたの

ニャあのときいい人が助けてくれなかったらタオは今ごろ干からびてカカの干物になって

たニャスこの『ごおん』は忘れないニャスよ」

勝手に身の上話を始めながらタオカカは味噌炒めの皿を抱かかえて残っていた分を全すべて口の中

に流し込んでしまう

まだそれ食ってなかったんだけどとは言えずラグナは渋じゆ面うめんでその様を見守った仕方な

く肉饅頭をひとつ確保すると呆れを込めてため息に肩かたを落とす

「はいはいなにがご恩だよどうせ飯食ったら忘れるだろお前」

第一章 Stratum city 階層都市35

さっきまで力なく下がっていた目も今はまん丸で口も上向きの三日月形となっている

その様を横目に呆あきれ顔でながめながら向かいの席に座っていたラグナは揚げた鶏肉を口に運

んだ分厚い衣ころもがカリカリとしていてうまい久しぶりに直じか火びで炙あぶっただけでない手の込ん

だ食事だった

「helliphellipうまいか」

料理は凄すさまじい速度で減っていく奇妙な少女が嬉きき々として大量のメニューを注文し始めた

ときはラグナはとてもそんなに食べきれないと青ざめたがそんな心配は無用だったようだ

むしろ今となっては支し払はらいのほうがよほど心配だ

先だけ白くなっている尻尾をふりふりと上じよ機うきげんに揺らす奇妙な少女はふかふかの饅頭を両

手に摑つかんで顔を上げた

「うまいニャス

あれもこれもそれもぜ〜んぶうまうまニャス」

「そうかそうかそらよかったよはぁhelliphellip」

こうも屈くつ託たくなく当然のように貪むさぼられるとこいつの頭に遠えん慮りよという言葉はないのかだとか

そもそもどうして自分が見ず知らずの正体不明な少女に食事をおごっているのかだとかなぜ手

を引かれるままに大人しくこの店まで来てしまったのかだとか尽つきることなく浮うかんでくる

疑問もどうでもよくなってくる

少女はうまそうに肉饅頭を一口で頰張る

あっという間に飲み込む様に思わず苦くし笑ようを漏らしてラグナは春巻きをひとつ箸で取り上げ

34

だが現在はどちらかというと統制機構の手に負えない凶きよ悪うあ犯くはんや行ゆく方えの知れないとう

亡ぼう犯など

にかけられた多額の賞金を得て日ひ銭ぜにを稼ぐ者のことを表している

それが全てというわけではないが多くはまともな

につけなかった荒あらくれが暴力手段で稼

げる口として選ぶ道だ

女の咎追いが珍めずらしいわけではないがこれほど無防

でき緊んち張よう感のない咎追いはラグナは見

たことがなかった

「そうニャス今日からなったニャス」

「今日からかよ」

「そんでこいつを摑まえるのネ」

なぜだか誇ほこらしげにタオカカは皺を伸ばした紙をラグナに差し出した

ラグナは肉団子を野菜と一いつ緒しよに口の中で嚙かみ砕くだきながらそれを受け取る街角などに貼はら

れているような指名手配書だったあまりお目にかかれない気前のいい賞金額と共にひどく

不細工な男の似顔絵が描えがかれている

賞金首の名前はラグナザブラッドエッジ

「ぶはほっ

その名前を見た途と端たんラグナは盛せい大だいに肉団子と野菜を咀そし嚼やくしたものを噴ふき出した

「ぶにゃにゃ

いきなりご飯噴き出すなんていい人ばっちいニャもったいないニャスよ」

横で抗こう議ぎしながら最後の肉饅頭を頰張るタオカカの声も耳に入らないラグナはまじまじ

第一章 Stratum city 階層都市37

「忘れないニャス」

突とつ然ぜんピンと尻尾を真まっ直すぐに立ててタオカカはずいと身を乗り出すとテーブルの上からラ

グナを見上げた瞳どう孔こうのない丸い目ときばを並べた三日月の口がお面のようで不気味だ不気味

であるはずなのにどうしてか見つめられると愛あい嬌きようを感じる

「カカは義ぎ理り堅がたい一族ニャス受けた恩は忘れないのネいつかタオが大金持ちになったら

今度はタオがいい人にご飯を

ってやるニャス」

「大金持ちってhelliphellipお前な腹減りで行き倒だおれてた奴やつがなに言ってんだアテもねえくせに」

「ぬっふふふアテならあるニャスよ」

言ってひょいと肉団子を三つ箸に刺さして口に放ほうるとタオカカは椅子までずりずりと体を下

げて服の中からなにかを取り出した

くしゃくしゃになった一枚の紙だタオカカはそれを丸い手でテーブルの上に広げて皺しわを伸の

ばす

「タオは咎とが追おいニャス悪い奴をとっちめてたくさんお金をもらうのネ」

「咎追いだ」

怪けげんそうにラグナは眉まゆを寄せた

咎追いとはいわば賞金稼かせぎだ

元は大量の魔ま素そによって生態系が乱れ大量の新種生物が発生した

にそれらを討とう伐ばつする

べく統制機構が武装を許可した者たちのことを指した

36

「うニャいいニャスよいい人はタオのおんじんニャスからねどーんと任せておくといい

ニャス」

そう言ってタオカカはニシシと笑うと綺き麗れいに舐めた皿をドンとテーブルに置いた

その目の前に

「お待たせしました〜」

若いウエイトレスが新しくいくつもの皿を並べた

肉味噌ののっためん

とパリパリに揚がった

にたっぷりの野菜が入ったあんをかけたもの

焼き豚ぶたをスライスしたものの盛り合わせエビのすり身やら豚のひき肉と香こう味み野菜やらをもっ

ちりとした皮でくるんだ無数の蒸し物

できたての遠えん慮りよ容よう赦しやのない湯気が豊かな香かおりと一緒に天てん井じようへ上がる

「helliphellipは」

頼たのんだ覚えはないそう抗議しようとして気がついた

あのときhelliphellipラグナが自分の手配書を見ていたときだあのときタオカカが一口で食べた肉

饅頭が皿に残っていた料理の最後だった

その直後そういえばタオカカがメニューへ手を伸ばしていたような気がする

「ひゃほ〜ぅうまそうニャス

秘密の抜け道は危ないところなのネいい人もお腹いっぱ

いにしておかないとお腹空いちゃうニャスよ〜」

悪びれるどころか嬉しそうに蒸し物を引き寄せるタオカカの手をラグナは思い切り摑んだ

第一章 Stratum city 階層都市39

と手にした手配書を見る細かく手が震えた

(なhelliphellipなんっだよこの似顔絵

いくらなんでも似てなさすぎだろ

そもそもよくわかっ

てねぇなら似顔絵なんか載のせんなよ俺がこういう顔だみたいに広めてんじゃねぇよ

まさかこれがカグツチの街中にベタベタ貼ってあるのではないだろうかだとしたら憂ゆう鬱うつだ

この顔が『ラグナザブラッドエッジ』の顔だと思われていることもだがこの額で手配

書が出回っているとなるとずいぶんな数の咎追いがラグナを探しているはずだそういう咎追

いはこのカグツチにも多くたむろしているだろう

(普ふ通つうに街中通ってくのはまずいかhelliphellip)

あの青と白の制服連中に見つかるのも厄やつ介かいだが咎追いに見つかるのも厄介だそれこそこ

っちの都合などお構いなしに街中だろうがどこだろうが構わず『仕事』に取り掛かるに

ない

「helliphellipなあタオカカだっけかお前カグツチの上のほうに行く抜ぬけ道とか知らねぇか」

くしゃくしゃの手配書を返しながらラグナは心持ち身を屈かがめて声を低めたもしあるなら

多少悪路であっても面めん倒どう事ごとを引き起こすよりはずっといい

タオカカは甘酢あんだけが残った肉団子の大皿を舐なめながら答える

「おう秘密の抜け道ネ知ってるニャスよ」

「本当か

そりゃいいなあ飯

ってやる代わりにその抜け道まで案内してくんねぇ

か」

38

の腕うでを摑むとウエイトレスの手を強く払った

荷物でも担かつぐようにタオカカを肩に抱だき上げて弾はじかれたように店を飛び出す

「うニャニャッ

タオのご飯

まだ食べてないニャスよ」

「うるせぇ

それどころじゃねえんだよ」

肩かた口ぐちで

痛な声をあげ追いすがるように手を伸のばすタオカカへラグナは焦あせりのままに声を

荒げた

オリエントタウンの大通りへ出ると人波を掻かき分けて持てるき脚やく力りよくの限界にいど

いで走る

「待て

誰だれか捕まえて食いに

げだよ

後方からウエイトレスの金切り声が追いかけてくる

ぎょっとすることにウエイトレスの足はラグナに負けていなかったしゆ

念うねんのせいかもしれな

いラ

グナは足を動かしながら何度も悪態をついたまさかカグツチにやってきて最初に引き起

こす騒そう動どうが食い

げだとはこの街に上がってきたときには思いもしなかった

担がれたタオカカはしょんぼりと尻しつ尾ぽを垂らしてまだ諦あきらめ切れないのか後方へ向けて空を

掻いていた

「うう〜っタオのご飯がぁhelliphellip」

「いいから抜け道の場所を教えろ

店の奴に摑まってミンチにされてぇのか」

「みんち」

第一章 Stratum city 階層都市41

いのあまり腰こしが浮く

「おおまっなに勝手に追加してんだよ

「ニャ

いい人もうお腹いっぱいニャス

ならタオが全部helliphellip」

「ちげぇよ

こんな山ほど注文されていくらなんでも払はらえるか

俺はそんなに金持って

ねぇんだよ

そもそもラグナは仕事を持っていない時折咎追いの真ま似ねごとや日ひ雇やといの仕事で旅費を稼い

だりもするがそんなものは一時しのぎだ金がなくてまともな宿さえ取れないというのに

さっきまでの注文に加えてまだ追加がくるなんてとても財さい布ふの中身が足りると思えない

息巻くラグナの肩に手を置く者があった

ラグナは一度うるせぇとそれを払い落すだが手はすぐにもう一度ラグナの肩を叩たたき手

の主が低く

後から問うた

「お客さん

今helliphellip金持ってないって」

「helliphellipあ」

言われラグナが振ふり向いた先に立っていたのはラグナよりずっと

の低いウエイトレス

だったにこやかに微笑ほほえんでいるがその目はどこか殺気じみている

「金持ってないって」

ウエイトレスはもう一度問う

その直後ラグナはまるで事態がわかっておらず蒸し物をパクパク口に運んでいたタオカカ

40

2199年12月30日||13時35分

灰色の雲に閉とざされた空を

景に一そう

の船が港に到とう着ちやくした

船といっても海を渡わたる船ではない渡るのは空だ

膨れた腹部に人間や機材といった貨物を詰つめて運び左右に伸びた翼つばさに魔素を取りこみ飛行

する魔操船

当然空飛ぶ魔操船が停てい泊はくする港も相応の造りをしている

第十三階層都市カグツチ第五番ポート他に比べて小さく目立たない造りになっている

そこはある特定の目的に多く使われるポートだった

身を寄せるように入港した暗色の魔操船の重々しい稼か働どう音おんが止まりハッチが開いて細身の

階段が下方へ伸びる

銃じゆうを肩かたに下げた青と白の制服

士が数名

りてきて慌あわただしく持ち場につき無線機で

なにやら報告を交かわす

それから遅れることしばしポートの平たい地面に向かう階段に黒い革かわぐつの足がかけられ

た続いてひょいと細身を覗のぞかせるように現れたのは黒いスーツに身を包んだ

の高い男だ

第一章 Stratum city 階層都市43

「肉だよ肉

さっき並んでた料理になりたくなきゃさっさと教えろ」

なにも本気で店員が自分たちをミンチにすると思って言ったわけではないが遅れて意味を

理解したタオカカは真に受けたらしいびくりと尻尾が飛び上がって警けい戒かいするように太く膨ふく

れる

「お肉にされたらお肉が食べられなくなっちゃうニャス

それはいやニャス」

肩の上で器用に身を捻ひねってラグナの前に着地するとタオカカは獣けもののように両手を地面につ

いて走り出す

「いい人こっちニャス」

「よしわかった」

タオカカが飛び込むようにして細い路地に入るい一つしゆん反応が遅おくれたもののラグナも空の籠かご

をひっくり返しながらそれに続いた

ネオンの看板から遠くなりぐっと辺りが薄うす暗ぐらくなる

走りながらラグナはげんなりと自じちようするように思った

今日の食い

げの分明日から自分にかけられている賞金が増額するかもしれないなhelliphellipと

42

青のブーツで雨水を

ね上げながらハザマのいる管理小屋の前まで行くと軽く息を整えて

を正す

空色の瞳ひとみは凜りんとしており生き真ま面じ目めな表情をしていた

「お待たせしてしまってすみませんでも一声かけてくださればよろしかったのにhelliphellipまだ

中にいらっしゃるのかと思って探しておりました」

「おやおやそれはそれはお手数をおかけしましたツバキヤヨイ少しよ尉うい」

その瞳が示す通りどこまでも生真面目に話す女性をツバキと呼んでハザマは口の端はしを深く

吊つり上げ笑えみを浮うかべた

ツバキヤヨイ少尉彼女はハザマのように諜報部の所属ではなく世界虚空情報統制機構

武装魔ま術じゆ師つし第四師団の所属だった

世界虚空情報統制機構とは国家というがい

念ねんのなくなった現世界においてその代役を担になう重

大にして巨きよ大だいな機

だ帝みかどと呼ばれる絶対的な決定権を持つ存在を頂点に掲かかげ世界中の施し政せい

司法軍事あらゆる社会的基き盤ばんを管理し運営している

それだけに設けられている部署は膨ぼう大だいであり役割の異なる部署が共にひとつの任務に当た

ることはひん

繁ぱんにあることではない

だがツバキとハザマはちが

う部署でありながらとある任務のためにふたりでカグツチへとや

ってきていた

「いやぁしかし生あい憎にくの天気ですねぇこの雨の中広いカグツチでひとりの男を捜そう索さくすると

第一章 Stratum city 階層都市45

った

緑の髪かみにのせた黒い帽ぼう子しを指で押さえて男は尖とがった顎あごを上向かせ空を仰あおぐ目ま深ぶかにかぶっ

た帽子のせいで目元は見えないが薄うすいく唇ちびるは不満そうにへの字に歪ゆがんでいた

「あらま雨ですか」

空一面を埋うめ尽つくすように広がる灰色の雲からは静かな雨が

っていた

もうずいぶん前から

り続いていたようで狭せまい五番ポートはどこもかしこもすっかり濡ぬれ

ている雲に動きもないようだししばらくはこのまま

り続けるだろう

やれやれとうんざりしたようにため息をつくと男は足早に屋根のある場所へと移動した

黒スーツの男は世界虚こ空くう情報統制機構||多くは統制機構とり略やく称しようで呼ぶ機

のち諜よう報ほう部に

在ざい籍せきしている名はハザマ階級は大たい尉い

彼が乗ってきたこの魔操船はその諜報部の名前で使用された船だ

この五番ポートはそういう統制機構の中でも公おおやけにできない任務や用件のときに多く利用さ

れるいわば人目を避さけるためのポートだった

「ハザマ大尉

外にいらしたのですね」

魔操船の階段から女の声がかかりスーツについた水すい滴てきを払っていたハザマは顔を上げた

青と白の制服にそろいのポンチョを羽織った若い女性が足早に階段を駆け下りてきた青の

ベレー帽ぼうをかぶっておりそこから腰をも越こすほど長く伸のばされた鮮やかなカメリアレッド

の髪が流れている

44

視線を上げればここからでも高山の頂上から突つき出るようにそびえる美しく壮そう麗れいな支部の

が見られたただ今日は悪天候のため雨のカーテンが視界を煙けむらせる

霞かすむ支部を見上げてツバキはわずかに眉まゆを寄せた

「helliphellipなぜキサラギ少佐はカグツチなどに」

それはジンのことを知る者なら誰もが抱くような疑問だった

第四師団団長ジンキサラギは

常に冷静な人物だメリットとデメリットを十分分ぶん析せきした

上で行動する思し慮りよ深ぶかさを持っているしなにより突然統制機構に

を向けて己の立場を危あやうく

させるような愚ぐち直よくなタイプではない

こんなことは実に『彼らしくない』行いだ

思い悩なやむようなツバキの

にハザマは少し驚おどろいたように「おや」と言った

「これは意外ですねツバキヤヨイ嬢じよう貴女あなた

ほどの聡そう明めいで優ゆう秀しゆうな方がおわかりにならな

い」

口元に笑みを刻んで問うハザマの試ためすような口調にツバキは小さく胸中がざわつくのを感

じたいや

味みな言い方をする男だ

ツバキはハザマという男をよくは知らないだから彼がどういうつもりでこういった物言い

をするのか

しもつかない

だがこの一言だけで黒いスーツに身を包んだ彼を好ましくないと判断する程度には気に障さわ

る語調だった

第一章 Stratum city 階層都市47

なると中々骨が折れそうです」

また帽子に手をやって雨を

りこぼす曇どん天てんを見上げハザマが今度はどこか愉ゆ快かいそうに言う

彼らの任務は人探しだった誰を探すのかといえば

「それでもなんとしてもキサラギ少しよ佐うさを探しませんとhelliphellip」

ツバキは視線を足元に落とし己おのれに言い

かせるように呟つぶやく

ジンキサラギ少佐それがツバキとハザマが探している男の名前だった

武装魔術師第四師団の団長でありツバキにとっては直属の上司だ彼の秘書官として側そばに

仕え支えてきた

その彼が数日前突とつ然ぜん統制機構の本部から

を消した

任務でもなく届け出もないこれは統制機構において重大な規律い反はんだ

一師団を預かる団長が独断行こう為いにより行ゆく方え不明などという事態は前代未みもんだ部下や他師

団に影えい響きようを与あたえるからと今のところこの一件は公になっていない

だが現状がどこからか漏えいする可能性もあるその前になんとしても連れ戻もどさなければと

ごく秘ひ任務を命じられたのがハザマであり彼が協力者に選んだのがジンキサラギの秘書官で

あるツバキだった

冷たい雨が空気を冷やすそのせいだろうか五番ポートは金属のにおいがたちこめていた

濡れた灰色の階段の向こうに上層階らしい整理された街並みがうかがえる奥へ進んでいくつか

階層を上がれば最上層である世界虚空情報統制機構カグツチ支部だ

46

だがハザマは欠片かけら

も気にした様子なくむしろそれこそ子供の反はん抗こう的な物言いに噴ふき出すよ

うに軽く笑った

「あららそっちでしたかこれは失礼いたしましたツバキヤヨイ少尉」

帽子に手をやりわずかに持ち上げて会えし釈やくしてみせるその間もずっと彼の細い首はくつく

つと喉のどを鳴らすような笑いに震ふるえていた

「少佐がなにをお考えなのかなんて我々にわかるはずもありませんよそれこそご本人を見

つけて直接お尋たずねになってはいかがです」

そうできないから疑問なのだと苦く胸中で思ったもののツバキは余計な言葉を奥にしまい

こんだ今必要なのは疑問でも感情でもないそう自分に言い

かせる

「helliphellip了りよ解うかいしました大尉」

ツバキが生き真ま面じ目めに答えるとハザマはもうひとつ笑ってから切り出した

「さていつまでもおしゃべりしていても仕方ありませんしそろそろお仕事を始めるとし

ますか」

仕事つまりはジンキサラギの捜索だ

ツバキはハザマへのけん

悪お感ではなく任務への使命感に表情を引き締しめる

ハザマは雨に濡れたカグツチの街並みを見やりながらにんまりと唇を引いて言葉を続けた

「まず確かく認にんしておきましょう我々の任務はジンキサラギ少佐を捕ほ獲かくし本部へ強制帰き還かんさ

せることただし少佐の失踪の件は公にされていませんからカグツチの

士たちへは内密に

第一章 Stratum city 階層都市49

小波のような不快感を飲み込んでツバキは

士の顔を取り繕つくろいせ筋すじを伸ばすたとえ好ま

しくなくてもツバキは少尉でハザマは大尉上官だ

「申し訳ありません大尉私にはhelliphellip」

「貴女からの報告にあったではありませんかキサラギ少佐は例の『死神』に

する報告を受

けた翌日に

を消したのだと」

ハザマは両手を軽く広げてみせる

さっきのからかうような物言いのせいだろうかそんな仕草でさえツバキにはどこか

に映る

「報告の中には『死神』つまり指名手配中のラグナザブラッドエッジがカグツチに向か

っているらしいという情報もあったそのうえで少佐がカグツチに向かったのならそれはも

う『死神』を追っての行動だとしか考えられないでしょう」

統制機構を出たジンの行き先がカグツチであるとの情報を持ってきたのはハザマだった

うっかりそんな情報を摑つかんでしまったがためにこんな辺へん鄙ぴな場所への任務を命じられてしま

ったと愚ぐ痴ちめいたことをツバキは魔操船の中で散々

かされていた

「恐おそれながらハザマ大尉それは私にもわかります私が疑問なのはなぜ少佐が統制機構を

飛び出してまで『死神』を追わなければならなかったかです」

いささかむっとしてツバキは言う言ってからすぐ無礼が過ぎたかと危きぐが過よぎった

にあるまじき子供じみた態度だったかもしれない

48

てもらえますか」

「別件ですか」

戸と惑まどうように尋ねたツバキの質問に対しハザマは肩をすくめるような苦くし笑ようだけを返し具

体的な言葉は告げなかった

ハザマの所属は諜報部だ他部署へ言えぬ用事も多かろう見えない目的に少々の怪けげん

さを

感じながらもツバキは配はい慮りよのつもりでそれ以上尋ねるのをやめておいた

「わかりましたでは下層のhelliphellipオリエントタウンの辺りから調査してみます」

「そうですねあそこはカグツチでも一番広いエリアですし身を隠かくすにはうってつけですか

らいいと思いますよ」

うんうんと適当に頷うなずきながらハザマは一歩歩み寄るとわざわざ腰こしを折って下方から覗のぞき込

むようにツバキを見た

帽子のつばで瞳が見えないけれど絡からみつくような視線が確かにこちらを捉とらえているのがわ

かる

子供に言い

かせでもするようにハザマは人差し指を一本立てた

「ただひとつ気を付けてくださいね治安が行き届いていない場所はキサラギ少佐が身を隠

している可能性も高いですが同時にラグナザブラッドエッジがうろついている可能性も

あります万が一おふたりが鉢はち合あわせて戦せん闘とうなんてことになったらもう私たちには手も足も

出せませんから」

第一章 Stratum city 階層都市51

お願いしますよ部外者はもってのほかです」

「はい」

「それから現在カグツチにはラグナザブラッドエッジが潜せん伏ぷくしているとみられますそ

のためD警報が発令されていますのでそのつもりで」

D警報とはつまり統制機構による特別警けい戒かいが行われているという意味だそのためカグツ

チの住民でない者や統制機構とは

係のない他機

がこの都市でなにがしかの活動を行うこ

とを禁止している

「D警報に抵てい触しよくする者と接触した場合はカグツチの支部に連れん絡らくを取ればよろしいのでしょう

かそれともこちらで対処したほうが」

しゃんと

筋を伸ばしハザマを見み据すえて問うツバキの様はどこにでもいる一

士と片付け

るにはいささか毅き然ぜんとしすぎる品をたたえていた

それもそのはずだ彼女は統制機構を創設当初から支え幾いく人にんも重役をはい出しゆつしてきた十二宗家

のひとつヤヨイ家本家の娘むすめなのだから

だがハザマはツバキの纏まとう品もそこからくるどこまでも真面目な性しよ分うぶんもなにもかもが面めん

倒どうくさいと言わんばかりに口元を歪めると実に雑に答えた

「あー適当でいいですよお任せします」

「はhelliphellipはい」

「じゃあ私はちょっと支部に別件の用事があるんで先に下層のほうから捜索を始めておい

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ハザマの気さくさに引きずられることなくツバキはあくまで部下として返事をすると堅かた

苦くるしく

筋を正した

「それでは大たい尉い私は下層を見て回ってきます」

「ええよろしくお願いしますよ今のカグツチは物ぶつ騒そうですからお気をつけて」

「はい失礼いたします」

腰を折って一礼しツバキは管理小屋の狭せまい軒のき先さきから雨の中へと駆かけ出した小さく水音を

はねさせながらポートから街中へと向かう階段を上がっていく

腰までを覆おおう青いポンチョがカメリアレッドの髪かみと共に躍おどり去っていくのをハザマは管理

小屋の壁かべに寄りかかって見送っていた

やがてひ翻るがえるポンチョの青もツバキが

ね上げる水の音も完全に雨の向こうに消えるとゆっ

くりと身を起こす

「本当にお気をつけて」

低く声を喉のど元もとで濁にごらせるように呟くとハザマもまた雨の中へと悠ゆうゆ々うと踏ふみ出した

第一章 Stratum city 階層都市53

「そうhelliphellipですね」

ツバキは身を引くように俯うつむいて苦々しく答えた

ジンは統制機構でも並ぶ者なしとまで言われる剣けんの使い手だそのうえ約百年前の黒き獣けものと

の戦争『暗黒大戦』で使われたとされている事象兵器

アークエネミー氷ひよ剣うけんユキアネサを所持している

そして『死神』ラグナザブラッドエッジはこれまで数々の統制機構支部をたったひとり

で壊かい滅めつさせてきた相応の力を持った人物

このふたりがもしも刃やいばを交えることになればツバキにもハザマにも止めることはできない

その最大の理由をハザマがなぜか陽気に言い放つ

「いやはやなにせ私も貴女も戦闘は専門外いざ荒あら事ごととなったらからきしですからねぇ」

ツバキは統制機構の士官学校を出ているため最低限の戦闘訓練は経験しているだがそれ

も護身術程度のことだ卒業後はジンの秘書官として日々書類や来客の相手ばかりしてきた

そんな状態で戦闘技術の向上が見込めるわけもない

一方のハザマも自身で言う通りち諜よう報ほう活動にこそスキルはあれど武力をもって事態に当たる

ことは不得手だった

ハザマは武具の似合わない生白い手でひらりと宙を払はらってにんまりとく唇ちびるを引く

「まお互たがい無理せずいきましょう我々のお仕事はキサラギ少佐を連れ帰ることですから

そこをお忘れなく」

「承知いたしました」

52

の声だった

「しhelliphellip失礼いたします」

答える声が震えたドアノブを摑む手はもっと震えていた

転んだりしたらどうしようああどんな顔をしていたらいいだろう顔が赤くなってしま

いそうでそれだけは必死に堪こらえて平静を取り繕って

ツバキは部屋の中へと入る

最初に目に入ったのは机に向かってペンを走らせるひとりの男性の

だった

後にある窓から入り込んだ日の光が掠かすめて彼の美しい金色の髪を煌きらめかせていた長い

睫まつ毛げの向こうで情感薄うすく書面を見下ろしている瞳ひとみは離はなれた部屋の入り口からでもわかる澄す

んだ緑色をしているはずだ

部屋には彼以外誰だれもいなかった

を丁てい寧ねいに閉めると室内にはツバキとふたりきりだ

何事か書き終わったらしく机に向かっていた彼はどこかおっくうそうに顔を上げるそれ

からその目を驚おどろきに見開いた

「ツバキhelliphellip」

呼んでくれた声は

の外で

いた義務的な声とはちが

っていた

感情の温度が灯ともった声こわ色いろは表情と同じように驚いた風でそのせいかさっきより少しだけ上うわ

ずったように音が高い

「どうしてお前がここにhelliphellip」

第一章 Stratum city 階層都市55

helliphellipそれはほんの数年前のけれどかけがえのない数年をさ遡かのぼった

ある日のことだった

世界虚こ空くう情報統制機構統合本部

真まっ直すぐに伸のびる白タイルの床ゆかをツバキは緊きん張ちようの面おも持もちで歩いていた

初めて袖そでを通してまだ日数のたっていない青と白の統制機構

士の制服はまだ体に馴な染じんだ

とは言いがたくて頭に載のせたつばのない帽ぼう子しもコツコツと床を叩たたくブーツもそつなく着

られているか心配で仕方ない

胸に書類のファイルを抱えてこれで何度目になるかわからないけれど最後にもう一度長く

伸ばした髪を指先で整えて

それからツバキは目的地であったとびらを控ひかえ目にノックした

「||入れ」

一いつ拍ぱくの間をおいて

の向こうから声が返ってくる

そのしゆ間んかんツバキの心臓がドキリと大きく

ねた

感情の遠い義務的な声けれどわずかに少年らしい響ひびきの残った声はツバキがよく知る人

54

十二宗家本家の出の者が同様に宗家本家の出であるジンの秘書に着くという事例は稀まれだ

その辺りからツバキの無茶を

したのだろうジンは呆あきれたように苦笑する

思わずツバキは震ふるえる吐と息いきを漏もらした久しぶりに見たジンの笑顔だった

「秘書が来るとは

いていたがまさかお前だったとはなhelliphellipよろしくツバキヤヨイ少

尉」そ

う言ってジンは白い手てぶ袋くろをはめた手を差し出す

ツバキはファイルを小こ脇わきに抱えると見上げてくる綺き麗れいな緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し

ながら差し出された手を握にぎった

この日この時からツバキの師団長秘書としての日々が始まった

を追いかけるばかりだった士官学校での後こうはい時代とは

うとなりに

側そばに立ち

務を支える

時間が始まったのだった

2199年12月30日||17時30分

カグツチの下層へ

りていきながらツバキは注意深く周囲へ視線を向けていた

もう少し先へ行けばオリエントタウンと呼ばれるエリアに入るはずだそこはカグツチの中

第一章 Stratum city 階層都市57

仕事中らしからぬ砕くだけた物もの腰ごしにツバキは強こわ張ばっていた頰ほおを緩ゆるめたすとんと緊張が抜ぬける

「書類は届いているはずですよお読みになっていないんですか」

ツバキはファイルを抱えて机の前まで行くといぶかしげな彼へ敬礼し

筋を伸ばした

「本日付けで武装魔ま術じゆ師つし第四師団団長ジンキサラギ少しよ佐うさの秘書官に任命されましたツバ

キヤヨイ少しよ尉ういであります少佐よろしくお願いいたします」

型通りだけれど昨晩から部屋で何度も練習した言葉だ

ミスなく言えたことにツバキがほっとしているとジンが驚おどろきに持ち上げていた眉まゆをわずか

に怪けげんそうに寄せた

「少しよ尉うい」

問われた理由はツバキにもよくわかる

ツバキは世界虚こ空くう情報統制機構において貴族的地位にある十二宗家の生まれだ十二宗家の

者は統制機構の士官学校卒業後最低でも中ちゆ尉ういの階級を与あたえられる

ツバキも例外ではなく卒業直後は中尉であったそれがなぜ現在少尉なのかというと

重大な理由がある

「それはその」

ツバキは言いにくそうに口ごもった

本来別の配属だったところをどうしてもジンの秘書官になりたいと粘ねばりその要望を通す代

わりに

格となったとは彼の前ではとても言えない

56

かしこも濡れていた

通り過ぎる建物細い横道の向こう物もの陰かげすれ

う人ツバキは視界に映るすべてに神経

を向ける

自然と歩調が速くなるのは募つのる焦あせりゆえだ知らず知らずのうちに手はきつく握られていた

(キサラギ少佐helliphellip)

もう何度心の内で呼びかけたかわからない

唇を固く引き結びまるで縋すがるように視線を左右へ走らせるその表情はただ行方ゆくえ

不明の上

官を探しているだけには留とどまらない深い感情の揺ゆれがあった

(どこにいるんですかhelliphellipジン兄様helliphellip)

ツバキはジンキサラギの秘書官だだがそれ以前からジンはツバキにとって特別な人だ

った

ツバキが十二宗家ヤヨイ家の娘むすめであるならジンは同じく十二宗家キサラギ家の子だ互い

に幼いころから知っていた幼いころから顔を合わせ言葉を交かわし時には子供らしく遊ん

だりもした

ツバキが統制機構の

士を目指して士官学校に入ったのも先に入学し将来は師団長を期待

されていたジンの後を追いかけたかったからだ

ジンは勉強も武術もなんでもできたけれどツバキは運動が苦手だっただからせめて勉強

だけは追いつこうと必死に学んだ学生時代はジンが会長を務める生徒会で共に働いたことも

第一章 Stratum city 階層都市59

でも一ひときわ広く人口の密集したエリアだと

いている

人を探すには不向きな場所だだがだからこそジンが足を向けた可能性はあるとツバキは

考えていた

そこならば容易に人ごみに紛まぎれることができるし入り組んだ路地や階層都市の構造のすき間ま

に身を隠すこともできるなにより下層は統制機構の

士が少なく上層に比べて監かん視しの目が

緩い

統制機構が追手をかけることはジンも十分わかっているだろうならばその目を避さけるのは

当然のことだ

同時に同じように追われる身であるラグナザブラッドエッジが下層を潜せん伏ぷく場所に選ぶ

可能性もジンならば考えたはずだ

硬かたい地面に青いブーツのくつ音おとを響かせてツバキは足早に歩く鮮あざやかな色の髪がしっとり

と雨に濡ぬれる

短い階段を

りるとその先はオリエントタウンの街外れだった

使われているのかいないのかわからない寂さびれた雰ふん囲い気きの倉庫が並びその先にわずかに芝しば生ふ

の植えられた広場のようなものがあるぽつんと佇たたずむ外灯は所々に錆さびの染しみがこびりついてい

た下

層は上層の地盤があるためほとんどが空をさえぎられ屋外でありながら屋内であるかのよう

に天候の影響を受けにくいだがこの辺りはまだ他層より突つき出しているらしく雨でどこも

58

けれど『死神』を統制機構の他

士と同じように考えるのは危険だ

彼は単身で統制機構を相手に反逆行こう為いを繰くり返かえしこれまでただの一度も拘こう束そくされることな

くとう

亡ぼうを続けている並なみ大たい抵ていの力では不可能だということを彼を追うべき立場でもあるツバ

キはよく理解していた

ラグナはおそらくとても強いもしかしたらジン以上に

それになにより恐おそれるべきはそのき凶よう悪あく犯が持つ魔ま導どう書しよだ

||蒼の魔道書

ブレイブルー

かつて黒き獣けものと戦った暗黒大戦時代にある魔ま法ほう使つかいによって術式という技術が開発された

魔法を模したもので魔素を使い火を熾おこしたり水を呼んだりと様々な現象を引き起こすことが

できる技術だ

その術式を扱あつかうために必要な鍵かぎが魔道書だった

蒼の魔道書

ブレイブルー

は世界中に数え切れないほど存在している魔道書の中でも最強と囁かれている

(ジン兄様でも蒼の魔道書

ブレイブルー

を相手にして無傷でいられるはずがない下手をしたらhelliphellip)

そこまで考えてツバキは走った悪お寒かんに身を震ふるわせた

蒼の魔道書

ブレイブルー

は最強とその威いり力よくを絶大に評価されながらも詳くわしいことは知られていないとい

う奇きみ妙ような魔道書でもあった

そもそも魔道書は〞書〝でありながら形状は様々で本の形をしているとは限らない

ラグナザブラッドエッジの蒼の魔道書

ブレイブルー

も彼が持っているという事実は認にん識しきされている

第一章 Stratum city 階層都市61

あった

淡たん白ぱくな物言いをしたり鋭えい利りな目つきをすることがあったから周囲は時折彼のことを冷たい

人だと囁ささやいた

けれどツバキにとってはいついかなるときも彼は優やさしい兄だった

細く美しい金色の髪に涼すずしげな緑色の瞳すらりとした体たい軀くに白い肌はだ整った顔立ちそ

の聡そう明めいな横顔に時々本当に時々だけれどhelliphellip見み惚とれたりもした

頼れるツテというツテを頼ってどうにかジンの秘書官の座を手にしたときはどれほど嬉うれし

かったことか

慕したっていた憧あこがれていた屋や敷しきの奥でひとり毬まりつきをしていた幼子のころから今でもずっ

「ジン兄様helliphellipっ」

急ぎ足だった歩調はいつしか小走りに変わっていた爪つま先さきが小さな水たまりを踏んで水すい滴てきを

ね上げる

一刻も早く見つけ出したかった心臓が軋きしむように胸を打つ

ツバキの頭に浮うかぶ最悪のケースはやはりどこかでジンと『死神』ラグナザブラッド

エッジが遭そう遇ぐうしてしまうということだった

ジンは強い統制機構の中でも彼とまともに剣けんを交えることができるのは数えるほどしか

いないだろう

60

ぎゅっと一ひときわきつくこぶしを

胸むな元もとで握るとツバキは首をふって雑念を払はらった

余計なことを推測している場合ではない今は一刻も早くジンを探すことそれだけを考え

なければ万が一今回の行動のせいでジンが反逆者とみなされたりしたら取り返しがつか

ない

急ごう自分をしつ

咤たするように大きく足を踏ふみ出してなにやら小さく物音の

こえた広場

の裏手へ回ってみる

物置だろうかふたつ並んだ小屋の裏を通り抜けようと狭せまい角を曲がった

その途と端たん目の前に壁かべが現れた

「きゃっ

あまりに突とつ然ぜんのことでとても対処できずツバキは進入した

いそのままに壁に激げき突とつした

だが直後に気付く

壁というにはあまりに分厚く建材にしては感かん触しよくがやわ

らかい

「むhelliphellip」

壁の向こうから声がした腹に響ひびくような低い男の声だ

ツバキの目の前にそびえるそれは壁などではなく見上げるほど巨きよ大だいな男の

中だった

「ああすまなかった怪け我がはないか」

そびえる巨きよ軀くはその異様なまでの圧あつ迫ぱく感に似合わぬ紳しん士し的な物もの腰ごしで語りかけのそりと重く

振ふり返る

第一章 Stratum city 階層都市63

もののそれがどんな形状をしているのかはわかっていない

それどころかいつどこで蒼の魔道書

ブレイブルーが造られその秘ひめたる力はどんなものなのか世界

虚空情報統制機構のち諜よう報ほう部ですら正確には把は握あくしていないという

ただでさえ強い『死神』であるのにそのうえ正体のわからない魔道書まであってどう楽

観視できるというのか単身でいどみかかるなど無茶にもほどがある

(helliphellipジン兄様はラグナザブラッドエッジを捕つかまえるためにひとりでカグツチまで来た

のかしら)

物もの影かげに目を凝こらしながらツバキは独り言のように思った

たとえ独断行動によって強制帰き還かん命令が下されているとしてもジンは統制機構の

士であ

り師団長だ『死神』を追って統制機構を飛び出したのだとしたらその目的は凶悪犯の捕ほ縛ばく

以外に

えられないとツバキは思っていた

けれど本当にそうなのだろうかふとそんな疑念が過よぎる

(でもだってそれならどうして誰にも言わないで出ていく必要があったっていうの私に

もなにも言わないで)

なによりそのことが胸に突き刺ささる

ジンは心根の読めない人だけれどそれでもなにかあったときはいつだって一声かけてくれ

たのに

「ううん理由はジン兄様を見つけてから直接

けばいいことよ」

62

者も多いそのほとんどはべつ

称しようとしての呼称だ

赤鬼と呼ばれた巨きよ漢かんがどんなつもりでその

称を使ったのかはツバキには読めないけれど

好感情でないことは見るからに明らかだった

テイガーは身構えることこそしなかったものの眉み間けんに深い皺しわを刻み厳いかめしい渋じゆ面うめんでツバ

キを見み据すえる

「helliphellipすまん図書館の

士と接せつ触しよくした」

ツバキから視線を逸そらし耳元へ大きな手をやってテイガーが低く何者かへ告げる直後に

ノイズのような音が走った通信だ

「通信を切ってくださいそこを動かないで」

素す早ばやくツバキは護身用に支給されているけん

銃じゆうを腰こしから抜ぬいたしっかりと両手で握にぎり銃口

を赤鬼へ向ける

テイガーはわずかに首を動かしてツバキを見やったもっとも分厚いレンズの丸眼鏡ごし

では奥の眼まな差ざしまではうかがえない

見下ろす威い圧あつ感に気け圧おされそうになりながらもツバキは努めて厳しく赤鬼を睨にらみ据すえた

「現在第十三階層都市カグツチにはD警報が発令されています第七機

を含ふくめ全すべての他機

の介かい入にゆうは禁止です答えなさいここで一体なにをしていたのですか」

「やれやれ銃を下ろせ

士の少女そんな玩おも具ちやのようなものでは私のボディを傷つけるこ

とすらできんぞ」

第一章 Stratum city 階層都市65

異様なのはなにも体の大きさだけではなかった

人の肌にしては赤みの強すぎる肌の色ただでさえ屈くつ強きような太い腕うでに取りつけられたぎ仰ようぎ々ようしい

手て枷かせのようなパーツ引き締しめられたく唇ちびるから上向きに伸のびる白いきば

鬼おに

約百年前に滅ほろびた日本という国の昔話にそんな怪かい物ぶつが登場したはずだツバキは幼いころに

読んだ絵本を思い出す

それと同時に目の前にいる赤い巨きよ人じんが誰だれなのかを思い出した

「貴方あなたhelliphellip第七機

の赤あか鬼おに」

呼ぶと同時にツバキは数歩下がって身構えた

第七機

術式を主体とした統制機構の世界統治に異を唱え術式に頼たよらない世界を作ろう

と企くわだてている外部機

赤鬼はその第七機

に所属する兵士でありその巨軀からも想像できるように圧あつ倒とう的てきな制圧

力を誇ほこる

正式名めい称しようはTR0009アイアンテイガー

第七機

の研究者によって造られたサイボーグだ

向こうもこちらの

に気付いたようでツバキの胴どう回りよりも太そうな足を一歩引いた

「その制服図書館か」

術式の乱用を防ぐために世界中の魔道書を集め管理していることから統制機構をそう呼ぶ

64

きません」

まるでなだめるように語りかけるテイガーの語調が余計にツバキの態度を頑かたくなにさせる

ここで弱よわ腰ごしを見せればそれは統制機構そのものが第七機

に対して弱腰になったとみなさ

れるようなそんな気がしていたそんなことは許されない

世界の秩ちつ序じよを守る統制機構の

士が平和のために戦う武装魔ま術じゆ師つし第四師団の団長秘書が

規律を犯おかした第七機

の兵士と取り引きめいたことをするなんて

銃を構え巨体の赤鬼を見据えたままツバキは手の中に握りこめる小さな通信機を取り

出した

ひとりでは対処しきれない早急に応おう援えんを呼ぶ必要があった

「武装魔術師第四師団所属ツバキヤヨイ少しよ尉ういです現在カグツチ下層オリエントタウンで第

七機

のhelliphellip」

「参ったなできれば穏おん便びんに済ませたかったのだが」

赤鬼が低くなにごとか呟つぶやく

その言葉の意味をツバキが理解するより早くテイガーが大きく前に踏み出した

伸ばされた腕がまたたく

間にツバキに迫せまる軽く握られていた

がツバキの目の前で開かれるや

否いなや

「きゃぁっhelliphellip」

放たれた電でん撃げきが通信機を弾はじき飛ばしツバキに細い

鳴を上げさせた

第一章 Stratum city 階層都市67

「っそんなことは

いていません質問に答えてください」

呆あきれたようなテイガーの物言いに咄とつ嗟さに腕を引き戻もどしそうになったがそれを堪こらえてツバキ

は銃口と眼光を向け続ける

相手はサイボーグだ戦いになったらもちろん勝ち目はないがそれ以上ににげられたらと

ても追いつけない

自分の任務はジンキサラギの捜そう索さくだと重々承しよ知うちしているだが周囲には他に統制機構の

士の

はないここで見みのがせば彼ら第七機

がカグツチと統制機構にどんな混乱をもたら

すかわからないと

えるととても目をつぶることなどできなかった

ザザッと再びノイズが走る

「ああ大だい丈じよ夫うぶだ問題ないすぐに任務に戻る」

通信の相手の声はツバキには

こえないただそれに答えるテイガーの声はあまりに危機感

から遠くすでにツバキとの問題は解決したとでも言うかのようだ

侮ぶじ辱よくされたような思いに駆かられてツバキは鋭するどく声を尖とがらせる

「通信を切りなさい

勝手な行動は許しません」

「そういきり立つな我々はなにも統制機構の業務を妨ぼう害がいするためにカグツチに来たわけでは

ないどうだここはお互たがいかかわらなかったことにしないかこのまま行ってくれれば私は

お前に危害を加えなくてすむ」

「それは反逆の意志ありということですか

どんな目的にせよこの場を見

すわけにはい

66

2199年12月30日||18時00分

幾いくつの路地を抜け幾つの角を曲がっただろう

人のような

をしながら人にあるまじき動きで先導するタオカカがラグナを連れてやってき

たのは外の明かりも差し込まぬ暗い暗い下水道だった

「こっちニャスよいい人〜」

呼びかけタオカカは投とう棄きされたらしい瓦が礫れきやら壊こわれた家具やらの山をひょいとと

び越こえた

外から隔かく離りされた場である上に時間も遅おそいたとえ微かすかなすき

間まがあってもわずかな光さえ

望めない

それなのにラグナやタオカカが問題なく歩けているのは投棄された瓦礫や積み上がったヘ

ドロにこびりついて生えている奇きみ妙ような苔こけのおかげだった

それらがほのかに青緑色の光を帯びているせいで下水道は一寸先も見通せない暗くら闇やみに閉とざ

されずにすんでいる

タオカカを追いかけて粗そ悪あくな足場に多少もたつきながらもラグナが続く

「おい本当にここから上に出られるんだろうな」

第一章 Stratum city 階層都市69

その一撃だけでツバキの意識は遠のいたかくりと膝ひざが折れ力なく崩くずれ落ちる

「っとhelliphellip」

そのたおやかな体が硬かたい地面に倒たおれ伏ふす前についさっきまで電撃を纏まとっていたテイガーの

腕が受け止める

そのまま抱かかえ上げると力なく気を失った青と白の制服の少女を見下ろしテイガーはため息

をついた

「やはりひ戦せん闘とう要員か無茶をする」

『helliphellip言っておくが

わるなよ』

ノイズが走りテイガーの通信機から不ふ愉ゆ快かいそうな女の声が漏もれた

ツバキを抱えたままテイガーは空いていたもう一方の手を耳元にやる上向きの

のよう

な犬歯が突つき出た口元はツバキと対たい峙じしていた先さき程ほどよりもさらに苦々しく歪ゆがんでいた

「雨の中でこんな街外れに放ほうり出すわけにもいかないだろうまだ若い娘むすめだ」

『任務が最優先だ余計な時間はない』

「helliphellip少しの間通信を切るぞココノエ」

『なんだと

おい勝手な真ま似ねはhelliphellip』

装着している本人以外には

こえないであろう小さな音をたてて通信は途と切ぎれた

テイガーは雨

る広場に

を向けて歩き出したその足が向かう先には空を上層の市街に

さえぎられ提ちよ灯うちんの明かりとネオンが煌きらめく薄うす暗ぐらい街オリエントタウンが広がっていた

68

「ニャス」

「かっぱらいじゃねぇか」

張り上げたラグナの声はくわんと寒々しく下水道に響ひびいた

その反はん響きようが

まると今度はまたじめっとした静けさがやってくるどこからか滴したたり落ちて

床では

ねる水の音がいちいち不気味だった

色いろ濃こい影かげの向こうで得体の知れないものが蠢うごめいてこちらを覗のぞきこんでいるような錯さつ覚かくを抱

くぞ

っと走った悪お寒かんにラグナはぶるりと身み震ぶるいし先を行くタオカカの後を追う

がhelliphellipラグナは不意に顔をしかめると足を止めた

(錯覚じゃねえ誰かがこっちを見ていやがる)

淡あわく光る苔が刻んだ色濃い影の奥歪いびつな瓦礫の山のどこか

視線を感じる

いや視線だなんて生易しいものではないもっと根本的なもの存在や意志そのものとい

ったものがこちらを一心不乱に捉とらえているようだ

「いい人〜

どしたニャス」

ラグナがついてこないのを不思議に思ってタオカカが引き返してくる積み上げられたな

にかの残ざん骸がいを軽かろやかに

び越え着地するその小さな足音がきっかけになったのだろうか

「キキキキキキキキキキキキ」

第一章 Stratum city 階層都市71

瓦礫の山から飛び

りた先がオイルかなにかでぬめるラグナは反射的に顔をしかめて三

角耳がぴくつく白いフードの後頭部へ少々の苛いら立だちを込めて問うた

抜け道とは往々にして楽な道ではないとラグナはこれまでの経験で学んでいただがここ

は今まで通って来た『抜け道』と比べても相当な悪路だ

濡ぬれているわけでもないのに床ゆかの壁も天てん井じようもじっとりとしていていやな湿しつ気けが外から入り

込んでいるらしい濃こい魔ま素そと混ざって肌はだと肺にこれでもかと不快感をくれる

一段

りたところには廃はい棄き物ぶつと一体化した汚お水すいが吐はき気けをもよおす悪あく臭しゆうを放ちながら泥どろ水みず

のような重さで流れている

これが街からそう離はなれていない場所を流れ通っているというのに外にはさほどふし臭ゆうが漏れな

いことを思うと階層都市の工事技術はでたらめに見えて意外としっかりしているようだ

もうすっかり馬ば鹿かになった鼻をこすりラグナはぽつりとそんな感想を抱いだいた

「本当ニャスよくここ通って上でパンとかお菓か子しとかもらってくるニャス」

言ってタオカカは下水道の天てん井じようを見上げた黒ずんだ頭上は突つき出た鉄パイプや金属板が

複雑に組み合っておりその奥のずいぶんと高いところに張りついた闇やみのような天井が見てと

れる

さらにずっと向こうに目指している上層の街があるのだろう

つられて見上げてラグナはため息に肩かたを落とした

「もらってくるってまさか店のもん勝手に持ってってるんじゃねぇだろうな」

70

気味の悪さに怖おぞ気けよりもけん

悪お感が走る

影はいやに粘ねん着ちや質くしつな動きでぬめる床に着地するとむくりと上体を起こすような動きを見せ

た判然としないが苔光で浮かび上がる奴やつの足元でなにか小さな生き物が蠢いている気がす

る戸と

惑まどいつつも身構えるラグナのすぐ側そばにタオカカが駆け込んできて頭を低くさせ唸うなった

長い尾おがぴんと立ち上がって毛を逆立て膨ふくれている

「コイツうねうねニャス」

「うねうね

なんだそりゃ」

「悪いヤツなのネ

タオたちの村を襲って小さいカカを食べちゃうのニャス」

さっきまで陽気だった表情を目め尻じりをつり上げた憤ふん怒ぬのそれに変えてタオカカはわんと声を

響かせ威い嚇かくする

その様をあざ

笑わらうかのように白い面を浮かべた影は全身をあわ

立だてるように震ふるわせた

「キヒヒヒいる

いるぞ

るぞ力蠢く醜しゆうな

想を叶かなえ

ために肯

は不可欠

がい

念ねんの否定

閉とざ

た門が招くはずだ

ちが

いギヒヒヒヒヒヒ」

影が震え笑うたびに空気が淀よどむ

ラグナは険しく顔をしかめた

これは魔素だ

外から流れ込んできているのではないこの目の前にわだかまる影からあふ

れ漂ただよい下水道の

第一章 Stratum city 階層都市73

空気を引き裂さくような声と共に突とつ然ぜん影かげから影が飛び出したさらにそこから槍やりのような鋭

い影が無数に飛び出しラグナに襲おそいかかる

「ぅぐぁっ」

あまりに唐とう突とつであまりに周囲に同化した

に反応が遅おくれた分厚く布の裂ける音が散り一いつ

緒しよに皮ひ膚ふと肉をえぐり刺さすように持っていかれる

火がついたように痛む肩を引いてもう一方の腕うでで剣けんを抜き目の前の影を払はらった

手て応ごたえはないまるで本物の影を切り払ったかのようだ

「グギギギhelliphellip真

理へ至

我が

を求

我に求め

真相を

くhelliphellip」

人の声のようなそうでないような奇き怪かいな声こわ色いろで奇怪な言葉を口走りながら影は

び退すさっ

た高質化したヘドロと瓦礫の間でふわりと浮ういてわだかまる

初めラグナはどこからか紛まぎれこんだ魔まじ獣ゆう||高こう濃のう度どの魔素によって歪んだ生態系が生んだ

理性なき凶きよ暴うぼうな獣けものかと思った

だがどうにもちがう不定形なそれは奇妙で歪いびつで不可解で生物とはとても思えぬ

形をして

いた

ぐるりと影が動くとわだかまる闇の内側から面が現れる

白い円形に三つただ孔あなを開けただけの目と口顔のつもりだろうかそれが黒ずんだ不定

形の影の中で唯ゆい一いつの定形であるようだった

「なんhelliphellipなんだこいつは」

72

ふつとい憤きどおりがラグナの腹の底で沸わく

統制機構が大事に大事に抱えて地下深くにしまい込んでいる窯それを統制機構だけでなく

あちこちの機

や研究員学者が欲ほつしている窯を所有するということは窯が繫ぐ境界の一いつ

端たんを所有することと同意だからだ

誰も彼も境界には人じん智ちを超こえる素す晴ばらしい財産が眠ねむっていると信じている人智を超えた

ものなど人間に御ぎよせるはずもないのに

まったくいや

気けが差す頭にくるそんな窯を我が物顔で掻かき回す統制機構もそれを追いか

けるように窯を求める連中もどいつもこいつも

「こうなっちまったらもうどうしようもねえ悪く思うなよhelliphellipもっとも人を怨うらむほどの

理性があればの話だけどよ」

このままこいつをここに放置すればタオカカの言っていた『村』に留とどまらずさっきのオリ

エントタウンや下層の街に出て人を襲うようにもなるだろう

ラグナは剣の切っ先を下方に向けたまま化け物に深く踏ふみ込んだ

カグツチにはなんの思い入れもないがだからといってあからさまな害悪を目の前に置かれ

て放ほうっておけるほど利口でもない

迎むかえ撃うつように身を広げるアラクネの胴どうを||胴らしき部分を横よこ薙なぎに切り払う

「グポポhelliphellip」

「ちぃっ」

第一章 Stratum city 階層都市75

ありとあらゆるものを侵しん食しよくしているのだ

それはこの影のような物体のまとう黒いものが全て魔素であることを意味していたそし

て魔素のか塊たまりであるこの奇怪な化け物がその容

に似合わず人の言葉らしい音を発しているの

はこれが元々人語を解する存在であったことを物語っている

つまり人間だ

タオカカが『うねうね』と呼びオリエントタウンの一部の人はアラクネと呼ぶ黒ずんだ不

定形の化け物はこうなる前人間だった

ラグナはこみ上げてきた

悪感を舌打ちに変えて吐き出した

「こいつ境界に触ふれたなhelliphellip」

ラグナが各地の統制機構支部を回り

々に破は壊かいしている支部地下の『窯かま』その窯によっ

て現世と繫つながれた異界||境界

そこは人知の及およばぬ不定形の場であり中は地表の比ではない濃のう度どの魔素が渦うず巻まいていると

いう

濃い魔素が魔獣を生んだように人もまた高濃度の魔素に触れ続ければ理性が魔素にのみ込

まれやがて境界に引きずり込まれて人でいられなくなる

臭にまみれて粘ねん液えきのような体を蠢かせ奇怪な音で語るこの黒い化け物アラクネは

そうして人でいられなくなった誰だれかのなれの果てだった

「あんなもんに手ぇ出してなにがしたかったのか知らねえがhelliphellipこの馬鹿が」

74

だ身が捻ねじれ後方へべちゃりと倒たおれる

それと同時にタオカカの体がひらりとラグナのとなりに

着地した爪を

めた大きな手をシュッ

と前に突つき出して威嚇する

それを横目にラグナは軽く笑った会って間もないこちらも奇妙な生物だが『うねう

ね』と

ってこいつと並ぶのは悪い気がしない

「何年目じゃなくてここで会ったが百年目な」

「おおんじゃあ百年分ギタギタにしてやるのネ」

「まなんでもいいか」

抜ぬけ落ちるような緊きん迫ぱく感を再び引き寄せてラグナはしっかりと剣を握にぎる

一度は黒い泥溜だまりのようになったアラクネはすぐさま波打つような動きで起き上がると

ごぼりと足元を鳴らし魔素を噴ふき散らす

「ギギギhelliphellipよこ

よこせ

れは我

らう

淵えんがい

見て

目からのが

れな

運命

らはのが

れない」

「なに言ってんのかわけわかんねぇんだよ

楽にしてやるからとっととくたばりやがれ

この生ゴミ野や郎ろう」

ついた魔素を払うように乱暴に剣を振るうとラグナは腹から雄お叫たけびをあげつつ高く得物を

振り上げ魔素に取り込まれた人ならざる者へと叩きつけた

第一章 Stratum city 階層都市77

ごぼごぼと濁にごった音をたててアラクネの体がしゆ時んじにラグナの視界から消える

下だ舌打ちしながら蹴けりつけるラグナの足の下を通ってアラクネは赤いコートの

後で

再び体を持ち上げる

「キサマキサ

くらう

人間であるならあるいは四し肢しを持つ生物であるならおよそあり得ない角度から黒い塊が

ラグナを

ね上げるように突とつ出しゆつする

咄とつ嗟さにラグナはそれを剣で受けた感かん触しよくは重くどろりとしている

さらにもたれかかるように剣の表面を伝う泥どろのような魔素から突とつ然ぜん奇き怪かいな蟲むしが飛び出して

きた見たこともないひたすらに

悪感をあおるような不可解で不ふ愉ゆ快かいな蠢くもの

「うげっ」

吐き気のような

悪感に弾はじかれるようにしてラグナの足が勝手に距きよ離りを空ける

その間に割って入るように鋭するどい爪つめが振ふり下ろされ飛び出した無数の蟲を切り裂いて叩たたき落

とした

勇ましく飛び込んできたのはタオカカだ

「うねうね

ここで会ったが何年目

タオがぎったぎたにしてやるのネ」

爪を振り下ろす動作から着地をはさまず宙で身を捻ひねるとタオカカは反対側の爪でアラクネを

切り裂く

爪はえぐるようにアラクネの顔らしき部分を捉えた陶とう器きが割れるような音をたてて黒ずん

76

双そう眸ぼうは薔

さえ霞かすむ深しん紅くで容

からうかがえ

る幼さには似合わないほどの気品と優美さをたたえ

ていた

少女の名はレイチェルアルカード

十を超えた程度のまだあどけない少女のように見えるがその実約百年を生き続ける吸きゆう

血けつ鬼きだ

千年以上前から続く吸血鬼の一族アルカード家の現当主であり薔

園を見下ろす城の主あるじで

あり

月と夜空と薔

と城を抱いだくこの常夜の空間の主でもある

ここは世界のあらゆる場所から断絶された地点でありながら世界のあらゆる地点へ繫が

る場所

空間と空間の間に漂い世界と世界の狭はざ間まに留とどまる領域

アルカード家の当主が管理する特別な住まいだった

カップを金のスプーンが横たわるソーサーへと戻もどしレイチェルは物もの憂うげに吐と息いきをく唇ちびるから漏も

らした

蔦つた模様に絡からみ合うスチールテーブルの上に飾られた薔

の切り花が微かすかに香かおる

レイチェルは昼の来ない領地での時間をこうして薔

園のテラスで多く過ごした

は好きだ美しいし香りがいいそれになにより遠き日に亡なくなった父が愛した花

だから

第二章 Spiral fate 盤上の駒79

第二章

Spira

l fate

||盤ばん上じようの駒こま

真っ赤な薔ばら

に彩いろどられた見事な庭園を青白い満月が見下ろしていた

静かな夜だった空気は凜りんと冷え夜の帳とばりが世界はここまでだと区切るように色濃く辺り一

帯を包んでいる

園の奥にはおとぎ話の中から抜け出てきたかのような美しく愛らしい城がそびえており

だ橙いだいい色いろをした明かりの揺ゆれる窓が無数の瞳ひとみのようだ

その城を赤薔

の生いけ垣がきの向こうになが

める庭園のテラスでひとりの少女が小さな丸テーブ

ルに向かい優ゆうがにティーカップを傾かたむけていた

月下にありながら眩まぶしいほどに輝かがやく長い金色の髪かみを左右でふたつに結ゆわえ大きなリボンで

飾かざられている華きやしやで小さな体には黒い豪ごうしやなドレスを纏まといそこから伸のびるやはり小さな手

は陶器のように白く滑なめらかだ

カップの中で揺れる紅茶を

めていてもどこか遠く世界の果てを見み据すえているかのような

78

「今夜も見事でしょう

お父様」

ふとわく感傷に任せて呟つぶやいてみて彼の愛した薔

の香りの紅茶を飲むそんなときのほん

の一

レイチェルの心は微かに慰なぐさめられるのだ

夜の終わらないこの城は時間の流れとは無む縁えんだ夜が永遠であるように時間もまた永遠

でありレイチェルの時間もまた永遠であった

それでも退たい屈くつはやってくる時にはこうしていつかの日を想おもいため息でもついてみねば

枯かれることのない薔

のように言葉を忘れてしまいそうだった

「失礼いたしますレイチェル様」

コツと革かわぐつの硬かたい音がテラスの煉れん瓦がタイルを叩きしわがれた声が穏おだやかに呼びかけた

レイチェルを振り向かせることなく乱れない歩調で少女の視界の端はしまでくると声の主白はく

髪はつを

で束ねた長身の老人は胸むな元もとに手をあて浅く腰こしを折る

ヴァルケンハインRヘルシングレイチェルの父クラヴィスアルカードの代からアル

カード家に仕え今はレイチェルと共に在る老しつ事じだ

微びし笑ように皺しわを刻みすきなく佇たたずむ

はレイチェルに劣おとらず品がいい

だが彼もまた人間ではなかった人であり獣けものでありどちらでもありどちらでもないおおかみ

男おとこだ

外見から想像できる重ねた歳としよりずっとたくましい肉体が質のいいバトラースーツの上からで

える

80

つぶらな瞳と口角の上がった口がやはり小さく愛らしい

黒くろ猫ねこのソファはナゴ赤いゴム毬まりはギィ共にレイチェルの使い魔だ

「姫様のお気に入りっすよねー姫様ってああいう男が好みなんすか

意外とダメな男に引ひ

っ掛かかるタイプっすね」

小さな羽を忙いそがしくパタつかせて楽しそうにギィが話すとその

らかな両りよ頰うほhellipおhellipというよ

り頭部を素す早ばやく伸びたレイチェルの手が摑つかみ左右に思い切り引っ張った

「なに

よく

こえなかったわもう一度言ってみてもらえるかしら言えるものならね」

「イデデデデひひめひゃまいひゃいいひゃいれすぅぅぅぅぅ」

「アンタってほんと口で身を滅ほろぼすタイプよねぇ」

通常の二倍に顔を広げたギィを見やってナゴが呆あきれたようにため息を送る

情けない

鳴をひとしきり

いた後にレイチェルはあっさりギィから手を離はなしたバチン

と音がして赤い頰が元の真ん丸い形状に戻る

それを横目にレイチェルはテーブルの上に生けられた赤薔

の花弁へ触ふれた

「彼がそこまで来たのならもうすぐ二一九九年も終わるのね」

「左様でございますな」

どこか歌うように呟くレイチェルへ恭しくヴァルケンハインが返す

「そして世界も」

微かな声で付け足された一言にはヴァルケンハインはなにも返さなかったレイチェルが

第二章 Spiral fate 盤上の駒83

「どうしたのヴァルケンハイン」

白い指先をティーカップの縁ふちで遊ばせレイチェルが赤い瞳を向けて問う

ヴァルケンハインは頭を下げたままう恭やうやしく答えた

「ラグナザブラッドエッジがカグツチに現れたようです」

無む駄だなく必要なだけを伝えるヴァルケンハインの言葉にレイチェルは陶器の縁をなぞる指

先を止めた

そのまま指を小さな取っ手に引っかけ中身の少なくなったカップを持ち上げて一口飲み

それをソーサーに戻してからやっとレイチェルは唇を動かした

「そうhelliphellipもうそんな時間なのね」

独り言のようなレイチェルの呟きに続いて

唐とう突とつにふたつの声がこれまでの静かで密ひそやかだった雰ふん囲い気きを不意に賑にぎやかせた

「あらぁん姫ひめ様ラグナってあの白いツンツン頭のボウヤよね」

「オイラも覚えてるっすよあの生意気なヤツっす」

先にハスキーな猫ねこなで声で言ったのはレイチェルが腰こしかけている椅い子すそのものだった一

見黒いソファに見えたそれはよく見ると

もたれの上部に三角の耳と猫の顔がありその猫の

顔が話していたのだ

続いた甲かん高だかい陽気な声はレイチェルの足元から弾はずんだゴム毬まりのようにとび上がった赤くて

丸い生き物のもの見るからにやわらかそうな体からは小さな手足と小さな羽が突き出ており

82

影の中に浮うかぶ幼児の落書きのような目玉らしき緑色の丸と不気味に裂さけた赤い口が椅

子に腰かけるレイチェルを見つけて気味悪く笑えむ

どこからどう見ても人ではなくましてや吸血鬼でも

男でもない

これは思念だ肉体を持たない意志だけの存在ある男の精神体だった

「よ〜うクソ吸血鬼今回もお供と犬っころ連れてお茶会か

ずいぶんのん

気きなもんだなぁ

オイ」

許可もなく薔

園に踏ふみ入ってきた無作法者の精神体はこもった声でいや

味みに語りかける

とたんにヴァルケンハインが険しく顔をしかめギィは情けない

鳴をあげてそれこそゴ

ム毬のような俊しゆ敏んびんさで主の黒いドレスの

後へと隠かくれた

レイチェルは冷やかに影を見据える

軽く腰を浮かせるとそれまで椅子としてそこにいたナゴが体をくねらせて

を黒い傘かさへと変

えレイチェルはそれを手に立ち上がった

唇にこそ優美な笑みを浮かべていたが少女の深紅の瞳にはただただけん

悪お感かんが塗ぬり固かためられ

ている

を見せるだけでこれほどまで人を不快な気持ちにさせるのはある意味

能ね感心する

わテルミ」

の香りのように

らかにけれど薔

の蔦のように刺とげと々げしくレイチェルは言い放つ

言葉の先にいた精神体の男テルミと呼ばれた影は風にでもあお

られたかのように体を揺らし

第二章 Spiral fate 盤上の駒85

求めていないことを理解していたからだ

代わりに

男の老

事は乱れぬ声こわ色いろで問う

「レイチェル様紅茶を新しいものにお取り換かえいたしましょうか」

「helliphellipそうねお願いしようかしら」

本当は出かける用事ができたところだったけれど今はもう少しだけここでの無益な時間を

浪ろう費ひしたい気分だっただって

(今回もいい結果は期待できそうにないものね)

独り言のような呟きを胸の内でそっとこぼしレイチェルは掠かすれ消えるような吐息をつく

がすぐにその息を

み込むように眼光を鋭くさせた

真紅の視線が見据えるのは延々と続く薔

園のほうだ

「ヴァルケンハイン招いてもいない客が来たようね」

深い緑の葉をざわめかせて風が吹ふく風を招いたのはレイチェルだ涼すずしい夜気に混じって

漂ただよってきたいやな気配をはね退のけるために

円形に整えられたテラスの隅すみのほう薔

の生け垣の前の空間が目め眩まいでも起こしたかのよう

にくらりと歪ゆがむ

そうして現れたのは影かげだった

黒い体に緑色を纏まとわりつかせたような色しき彩さいでぼんやりと漠ばく然ぜんとした人型のなにかがそこに

立っていた

84

敵てき愾がい心しん

「それで一体なんの用

今がどういうじ状よう況きようなのかわかっているのでしょう貴方あなた

だって暇ひま

ではないのではなくて」

ヴァルケンハインほどあからさまな敵意ではないものの突つき放し追い立てるような調子で

レイチェルが言う

テルミはけだるい仕草で首を傾かたむけまたケタケタと不ふめ明いり瞭ような体を揺ゆらすようにして笑った

「別にぃ〜ただそろそろ今回のエンディングも近いわけだしそろそろ一度テメェらの腑ふ抜ぬ

けた面を拝んどこうかと思ってよ」

低めた声は悦えつっぽく笑みを濁にごらせる

レイチェルはその様を無感動に淡たんた々んと赤い瞳ひとみに映した

「懲こりない男ね」

囁ささやくようにレイチェルは告げる冷えた声は空に浮かぶ欠けることのない月の光に似ている

「何度繰くり返したって結果は同じ世界は何度だって巻き戻ってあの日あの時からまた始ま

るだけよ」

ざとレイチェルと影の間を横切るように風が渡わたる薔ばら

の香りがま

う中で幽ゆう鬼きのよう

なテルミの

はあまりに不気味で不似合いだった

場ばちが

いであると思い知らせるかのように濃のう密みつな花の香りを纏う風の中でテルミは深く深

く笑みを浮かべる

第二章 Spiral fate 盤上の駒87

た笑っているのだ

「そいつぁお互たがい様じゃねぇかこっちもテメェのクソむかつく面つら見てると胸むな糞くそ悪くなって

くる」

ユウキテルミそれが影の名前だった

「ならば早々に立ち去るがいいここは貴様のようなやからが気安く踏み入っていい場所ではない

ぞ」重

々しくけれど遠えん慮りよ容よう赦しやのない敵意を込こめてヴァルケンハインが進み出たレイチェルに

対して見せていた穏やかな品の良さは影を潜ひそめ白髪の老人とは思えぬ力強く攻こう撃げき的な眼まな差ざし

で揺れる影を睨にらみ据すえる

途と端たんにテルミは面おも白しろくなさそうに口らしき赤色を歪めた

「はっテメェも相変わらずイラつくなキャンキャン吠ほえてんじゃねぇよボケ犬が殺しち

まうぞあぁ」

「面白い吠えるしか能がないのはどちらか確かめるとしようか

体のない今の貴様に一体

なにができる」

「ちっhelliphellipうぜぇジジイだテメェもあんとき殺しときゃよかったぜ」

「九十年前に反省するべきだったな」

テルミが悪態を吐つけばヴァルケンハインはそれを踏み潰つぶすような敵意を返す

そこには根深い因いん縁ねんの沼ぬまが広がっているかのようだった浮かぶのは憎ぞう悪おでもけん悪おでもなく

86

覗のぞき見えていた

「んじゃなせいぜい高みの見物でもしてろや」

吐き捨てるようにそう言うとテルミは靄もやが空気に溶とけてやがて目視できなくなるように

音もなくその場から消える

あとにはなにも残らないただレイチェルが日々当たり前に

めている真っ赤な薔

が咲さ

き誇ほこる庭園が広がるばかりだ

緩ゆるやかな風が抜ぬけて甘い薔

の香かおりが漂うまるでテルミによって生じた不快感を拭ぬぐい払はら

うように

ヴァルケンハインはそれまでの飛びかかって喉のど笛ぶえでも食い破りそうな敵意を呼吸ひとつのう

ちにしまい込みしつ

事じの顔に戻もどるすき

なく

筋を伸のばしレイチェルへと向き直った

「いかがなさいますかレイチェル様」

主人がすでに決めているであろう腹の内を促うながすように問う

レイチェルは手にしていた傘状のナゴを開いたパラソルでも扱あつかうように肩かたにかけヴァル

ケンハインを見やる

「ヴァルケンハインやっぱりお茶はまたあとでにするわ」

あんなにも単純で粗そ暴ぼうなちよ

発うはつに乗るのは癪しやくだけれどそうとわかっていて顔をそむ

けることを

弱気ゆえと受け取られてはもっと癪だなによりあの男に好き勝手を許すのは面白くない

「ナゴギィ出かけるわよ」

第二章 Spiral fate 盤上の駒89

「そうしたらまた始めるさ」

這はうような声で語る

な気配がレイチェルの誘さそう風さえ汚よごすようだった

「何度でもいいぜ

そのたびに俺はやり直すだけだ何度でも何度でもテメェがいい加減

飽あきてお城から出てこなくなっても何度でも何度でもhelliphellip何度でもなぁ」

「悪あくしゆ味みね」

「テメェが言うかよクソ吸きゆ血うけ鬼つき」

テルミがせせら笑う

深い皺を眉み間けんに刻みい憤きどおりを腹に抱かかえるヴァルケンハイン怯おびえ様子をうかがうナゴとギィ自分

の周りにいる者たちをながめてレイチェルはく唇ちびるを優美なカーブに曲げた

彼の言うことに同意するのは心底不ふ愉ゆ快かいだけれど確かに悪

味なのはレイチェルも同じだ

何度も何度もこんなやりとりを何度もここで行った

繰り返す時間の中で繰り返される会話はいわば一種の通過儀ぎ礼れいだ

これから始まる数時間めまぐるしく運命は交差して離れ剥はがれ崩くずれ乱れるその結末

をし粛ゆくし々ゆくと見届けるためのお決まりの行事

「まいいや俺はそろそろ最後の仕上げの準

しねぇといけねぇから行くわいちいち相手

すんのも面めん倒どうくせぇからテメェらはそこで茶でもしながら終わるのを待ってろよ」

言いながらテルミは一歩大きく退いた

影がぼやけて消えるように彼の

が揺らめく黒い体の向こうには薄うっすらと薔

の赤が

88

城から外へと出ていった

の残り香がが夜気に吸い込まれて消えるまで待ってヴァルケンハインはテラスのテーブ

ルに残されたティーセットをワゴンに載せて片付け始める

せめて今回はあの小さな主人の心が慰なぐさめられるようなそんななにかがあるようにと胸中で

願いながら

2199年12月30日||9時23分

カグツチの朝方普ふ段だんなら東空は陽光の白に輝かがやき地表で淀よどむ魔素の存在など忘れさせてく

れるかのように眩まぶしい

だが今日は生あい憎にく朝早くから分厚い雲が空を覆おおう曇どん天てんだった広がっているのは雨雲だ昼

前には雨が

り出すだろうと湿しめった空気が教えてくれる

第十三階層都市カグツチの外れ都市の一部として建設されたのではなくこの地に流れ着い

た難民が自発的に建設した市街のひとつ浪ろう人にん街

第二章 Spiral fate 盤上の駒91

「はぁ〜い姫様」

「了りよ解うかいっす」

傘のままナゴがしなを作りさっきまでの怯えが噓うそのように元気よくギィが飛び上がる

二匹ひきの使い魔まを従えレイチェルは宙へ手を差し出したすると煉れん瓦がタイルが敷しき詰つめられ

た足元に薔

色の魔法陣じんがほのかな光を宿して浮かび上がる

転移の魔法だ

今の世界の基き盤ばんともいえる術式の元になった太古の技術魔法けれど今はもう使える人間

はほとんどいない失われた技術だ

転移はそんな魔法の中でも特に多くの魔力と集中力を要し特別難解な制せい御ぎよを求められる魔

法だったそれゆえに人類の歴史においても使い手と呼べるほど扱いに長たけた者は数えるほ

どしかいない

転移魔法を自在に扱うレイチェルもまた自分以外にこの魔法を使いこなせている者をひと

りしか知らなかった

「カグツチまで行ってくるわヴァルケンハイン留守をお願いね」

「かしこまりましたお気をつけて行ってらっしゃいませ」

理想的な角度に腰こしを折ってヴァルケンハインは魔法陣の中から語りかける幼い容

の主あるじを

見送る

ふわりと風が

い上がり目眩を誘うほどの薔

の香りを振ふりまいてレイチェルは常夜の居

90

屈くつ強きようで大柄な体たい軀く隠すことなく晒さらされた広い

中顔に刻まれた十字の傷きず跡あとそして首に

巻かれた真っ赤な布その真っ赤な布がけい

谷こくの風に

られたなびくたびに誰だれもが彼を振り返

らずにおかない

なにも衣装の特とく徴ちようが浪人街の人の目を集めるのではない

このマフラーのように巻かれた赤く長い布は目印なのだ

迷える難民をまとめ先頭に立って浪人街を築きこうして日々浪人街を歩いては住民にト

ラブルや困りごとがないか見回るイカルガ忍にん者じやの頭領にして浪人街のヒーローシシガミバ

ングの

「おはようございますバングさん」

「バング殿どの

先日は

げたに鶏わとりの捕ほ獲かくを手伝っていただいてありがとうございます」

「バング様〜

こんにちは〜」

街のあちこちからかかる声に手を挙げて応こたえバングは朗ほがらかな笑え顔がおを返す

「うむおはようでござる

おおそうだ今日は雨が

るだろうから雨あま漏もりする家がある

なら拙せつ者しやに声をかけるでござるよすぐに飛んでいって修理を手伝うでござるからな」

通り中に響くような声で言いながらバングは前へ前へ歩む

天気はよくないがバングの心は今日も晴れやかだった仲間がいて住む場所があるこ

れがどれほど喜ばしいことか数年前までは忍として戦争の裏側を奔ほん走そうしてきたバングは日々

身をもって思い知り嚙かみ締しめていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒93

ここは五年前に終結したイカルガ内戦という戦争の敗者イカルガ連れん邦ぽうに住んでいた者たち

が造り上げた市街だった

内戦によって彼らの故郷は失われた行き場のないイカルガの民たみは世界のあちこちに散り

その中でもカグツチににげ延のびた者たちがここで身を寄せ合って暮らしている

複雑で街を築くのに適しているとはとても言えない地形だカグツチのある高山の下方に

位置しながら辺りは岩だらけで亀き裂れつや絶ぜつ壁ぺきが目立つ

それでもイカルガの難民たちは岩場に足場を組み亀裂に橋をかけ絶壁に階段を作り半

分宙に浮ういているかのような入り組んだ街を作り上げた

小さな街だありあわせの材料を組み合わせてできた粗そ末まつな街だがそれにしては整えられ

たイカルガじ情よう緒ちよ漂ただよう街並みにhelliphellip朗々と男の声が今日も響ひびき渡っていた

「おお皆みなの衆

今日も元気に平和に過ごしておるな

うむうむよきかなよきかながっ

はっはっはっは」

太く伸びやかな声の主はシシガミバング

浪人街の中心である一番開けた通りのど真ん中を歩きながら道行くすべての人に威いせいよく

挨あい拶さつして回っている大おお柄がらな筋肉質の男がそうだ

ぼさついた黒くろ髪かみは高くまとめ深い緑色の独特な装しよ束うぞくを身に着けている着ているのはイカ

ルガ伝統の忍しのびの服だ本来は闇やみに紛まぎれ隠おん密みつにことを済ますのが忍の

だがこのシシガミバ

ングという男はまるで逆にとにかく人の目を引いた

92

カグツチの

士であるならばこんな下層まで

りてくることなどそうそうないし別の支部

士ならばもっと上層からカグツチに入るはず

この街に統制機構の制服はあまりにも不自然だった

金髪の青年はなにも答えず冷ややかな緑の瞳ひとみでバングを

めていたがやがて色の薄うすい唇を

開きぼそりと低く呟つぶやいた

「その服helliphellipイカルガの忍か」

およそ好意的でない声

人によってはその内にさげすみ

やあざけり

いただろうだがバングはそのひどく温度の低い声こわ色いろ

を警けい戒かいゆえと受け取った

身構えるように低くさせていた体を起こしバングは慌あわてて制止するように広げた手を突つき

出だす

「ああいや誤解めされるななにも一戦交えようというわけではござらんぞ確かにここは

イカルガの民が住まう街で拙者はイカルガの忍であった男だが五年前にイカルガ内戦は終

わっておるのだ」

バングは太い腕うでをがっしりと組むと神しん妙みような

顔つきで何度か頷うなずくようにしながら先を続けた

「確かに終戦のきっかけは戦いくさではなく我等の首都イブキドの爆ばく発はつ事故であった」

イカルガ内戦は世界虚空情報統制機構に対し第五階層都市イブキドを首都と掲かかげるイカル

ガ連邦が独立を宣言して始まった内戦だ統制機構は武力でもってそれを制圧しようとしイ

第二章 Spiral fate 盤上の駒95

平和はいい平和の中にこそ愛はあるのだ

「うん」

ふと前を行く

を目に留めてバングがいぶかしげに声を唸うならせた

見慣れない男が歩いている浪人街の住民ではないバングはこの街に住むイカルガの民の

顔と

格好をすべて覚えていた

短い金きん髪ぱつの細身の男だ歩き方からしてまだ若い

なにより気にかかるのはその男が着ている服だ青と白によって構成されたその服はおそ

らく世界虚こ空くう情報統制機構の制服だろう

「そこのお主

待たれい」

叫さけぶように声をかけながらバングは高くとんだ空を駆かけるような長いちよ躍うやくは前を行く金

髪の青年の頭上を越こえて彼の正面へと着地する

行く手を塞ふさがれる形となった見慣れぬ男は足を止めバングの唐とう突とつな登場に戸と惑まどったように

眉まゆを寄せていた

やはり若い男まだ少年の面おも影かげも残した青年だ着ているものも統制機構の制服に間まちがいな

く手には青い鞘さやに

めた刀を一ひと振ふり摑つかんでいる

バングはますます募つのる怪けげんに青年よりも深く眉間に皺しわを刻んだ

「お主我等が街になんの目的で参られた

その服装統制機構の

士であろう」

カグツチの

士だろうかバングは彼に見覚えがない

94

金髪の青年はなにも言わず静かにバングを見み据すえている

なにを考えているのかどこかぼうっとしたようにも見える無表情からは思考どころか感情

さえ読み取れない

話を

いているのだろうかバングは不安に思いながら改めてさっきの質問を繰くり返す

「してお主は一体何者で浪人街になんの用でござるか」

「helliphellip用などない」

ようやく青年がバングの問いにまともに答えた

まともというにはあまりに素っ気なく突き放した物言いだったが返ってきた言葉が思いの

外ほか穏おん便びんでバングは軽く安あん堵どを抱いだく

イカルガの残党狩がりだなどと言われてその手の刀を抜ぬき放たれたら多くの住民が行き交かう

街の中心で大立ち回りを演じなければならなくなるそうなればいくつかの家は巻き添ぞえをく

っただろうし何人かは怪け我がをしたかもしれなかった

青年は変わらず冷たい無表情のままでバングの向こうにそびえる山へ目を向けたこの上

にいくつもの市街が建設され頂上には世界虚空情報統制機構のカグツチ支部が建っている

「貴様たちのことなどに興味もない僕は上へ行きたいだけだ」

「上

というと統制機構の支部でござるか」

「じや

魔まだそこをどけhelliphellipああいや」

冷れい徹てつに言い放ってから青年は思い直したようにけれどそれでも冷ややかに声を低めた

第二章 Spiral fate 盤上の駒97

カルガ連邦も武力でもって抵てい抗こうした

それが四年続いたある日のことだ

イカルガ連邦首都であり指揮系統の中心であった第五階層都市イブキドの地下で突とつ然ぜん原因

不明の大爆発が起こりイブキドは跡あと形かたもなく消しよ滅うめつした

爆発はイカルガ連邦はもちろん交戦の真っ最中であった世界虚空情報統制機構側にも大き

く戦力を損そこなわせる痛手を負わせた戦争を続けるだけの力をイカルガ連邦と統制機構が爆

発事故をきっかけに同時に失ったのだ

結局イカルガ連邦はバラバラとなり最終的には組織としての形を失ったけれど統制機構も

己おのれを立て直すのに手て一いつ杯ぱいで追つい撃げきどころではなく内戦はしぼんで消え入るようにいつの間に

か終わったのだった

「それでも我等は負けたのだその現実を認めずに今ある平和を投げうってまで統制機構に

楯たて突つくつもりはござらんよ」

そう言うとバングは眉み間けんを中心に走る十字傷に分厚い手で触ふれ苦々しくも笑みを浮かべ

たこ

の傷はその爆発事故のときに負ったものだ内戦を終わらせたあの事故が自分にとって幸

であったのか不幸であったのかバングには未いまだわかりかねる

ただイカルガの民はもうじ充ゆう分ぶん戦ったこれからはたとえ楽な生活でなくとも平和に過ご

してほしいとバングは思っている

96

れるだとかそんな幽ゆう霊れい話じみた現象が起こるはずもない

勝手なイメージでそう結論づけるとバングは気を取り直してそのたくまし

い胸むな板いたを張った

まだ浪人街の見回りは途とち中ゆうだ曇天の色はますます濃こくなってきている雨が

り出す前に

修理の必要な家がないかどうか確かく認にんしておかなければならない

「いやぁまったく最近の若者は覇は気きが足らんでござるなぁ

陰いん気きな顔をしていないでも

っと威い風ふう堂どうど々うと力強くそして

くあらねばそうこの愛と正義の忍者シシガミバング

のように」

辺り一帯に響く盛せい大だいな声で笑うとバングは街の見回りを再開させた

これが終わって部下のけい

古こが終わってそれでも時間があったなら憧あこがれの女性が住むオリ

エントタウンまで足を延ばして挨拶に行こうとそう心の中で計画をたてていた

今日も浪ろう人にん街は平和だ

それがなにより素す晴ばらしい

2199年12月30日||18時21分

第二章 Spiral fate 盤上の駒99

「ついでだ貴様カグツチで白い髪かみに赤いコートを着た男を見なかったか」

そう尋たずねる青年の表情はまるで凍こおりついたかのように無表情から動こうとしないだという

のに緑の瞳だけは妙みように楽しげに煌きらめいていたようにバングには見えた

バングは顎あごに手をやり考えこむ

「白い髪に赤いコートhelliphellipふぅむいやこの辺りでは見かけてござらんそれほど目立つ容

ならば一度目にすれば覚えようがhelliphellip」

「そうかならいい」

しゆ時んじにバングからあらゆる興味を失ったように青年は滑すべるような歩みで横を通り抜ける

すれちがう風はいやに冷たいまるで氷でも掠かすめたかのようだ

「ああお主

拙者はシシガミバングと申すお主の名はなんと申す

すたすたと足早に山へ向かう細身の後ろ

へバングは追いかけるように声をかけた

だが青年は振ふり向かないまるでバングの声など耳に入っていないかのような頑かたくなな

中で

なにかに突き動かされるような足取りで歩き去りそのうちに浪人街の外れへと

を消してし

まった

バングは引き止めるように宙へ伸のばした腕もそのままに難しく顔を歪ゆがめて首を捻ひねった

「はてhelliphellip奇きみ妙ような男でござったななんというかこうた魂ましいが抜けているようというかhelliphellipなに

かに取り憑つかれでもしているかのようであったわ」

もっとも今は日もこれから高くなろうという真昼間魂が抜けるだとかなにかに取り憑か

98

形よく張り出した豊かな胸に引き締まった腰こしそこから滑なめらかに続く肉感的な臀でん部ぶと華きやしや

な足首に向かって続く絵に描かいたような曲線

同性の憧れと異性の動どう揺ようを誘さそわずにおれない肢し体たいのシルエットだけでも彼女は道行く人の

視線を釘くぎ付づけにする

そんな麗うるわしき女医ライチがこの街にやってきたのは約一年前のことだ

突然現れ住まいと仕事を求めたライチをこの辺りの住人は快く受け入れた

彼女は自分がどこから来たのかどんな生おい立ちなのかなぜオリエントタウンへひとりで

やってきたのか名前以外のことはなにも話そうとはしなかった

素すじ性ようの知れない女など怪あやしまれて当然だろうけれどライチが出会ったオリエントタウンの

住人は皆みんな彼女が口を閉とざすと深くは追つい及きゆうしようとはしなかった

そのことをライチは一年たった今でも来たばかりのころと変わらず感謝している

こうして日々病院のとびらを

開けなるべく気軽に安価で治ちり療ようが受けられるよう心がけているの

も生活のためというより拒きよ絶ぜつや敬遠ではなく寛かん大だいさと優やさしさをもって自分を迎むかえてくれた

オリエントタウンへの恩返しの意味が強い

「さてと」

少年の

が曲がり角の向こうに消えるとライチは細い肩かたをすとんと落として息をついた

オリエントタウンはすでに夜の闇やみに包まれていてあちこちにぶら下げられた小さな提ちよ灯うちんや

ランプが家々を照らしていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒101

オリエントタウンは第十三階層都市カグツチの下層にこそあれど広く活気にあふれた賑にぎやか

な街だ

限りある土地を時に譲ゆずり合い時に共有して身を寄せ合うように家を建て並べ今にも壁かべが

触れそうなほど密接したりん家かとは家族のように付き合える

誰だれも彼も決して裕ゆう福ふくではないけれど薄うす暗ぐらい路地に不ふ穏おんな影かげが横切ることもあるけれどそ

れでもこの街は温かい

ここオリエントタウンの一角で小さな病院を開いている医者ライチフェイリンは常々

そう感じていた

「痛みが引くまで無理は禁物よいいわね」

階段から落ちて捻ねん挫ざしたという少年を病院の入り口まで見送ってライチは頭を下げる小さ

な彼に笑顔で手を振る

ライチは美しい女性だった

足元まで伸ばした艶つややかな黒くろ髪かみを高く結ゆわえてくるりと巻き大きなアップヘアにまとめて

いる化けし粧ようで飾かざらずとも美しいラインを描えがく眉に伏ふせれば影ができるほどに長い睫まつ毛げ黒い

縁ふちの眼鏡ごしに見える瞳は大きく知的な光を宿しているけれどややつり上がった目元はどこ

か媚び態たいを想像させる色いろ香かを匂わす

美び麗れいなのはなにも容よう貌ぼうだけではない

100

こんなにも温かく名を呼ぶのはひとりだけだhelliphellip今は

両手で二の腕をさすりながら振り返りライチは少し驚おどろいたように目を丸くさせる

そこにいたのはやはり予想通りの人物だったけれど彼の腕には予想とは

うものが抱だき

かかえられていた

声の主の大きな体が建物の色いろ濃こい影の中から出てくるライチとて

の低いほうではないけ

れど彼の

は見上げるほどだ

通常の人間ならありえないほど屈くつ強きような体に赤い肌はだ第七機

の赤あか鬼おにと呼ばれるサイボーグ

の男だった

「テイガーhelliphellip」

ライチが小さな声で名を呼び返すうちにテイガーは周囲に人ひと気けがないことを素早く確認す

ると近くまでやってくる

彼の腕うでにはひとりの少女の

があった気を失っているのかぐったりと力なく体を預け

ている長くやわらかなカメリアレッドの髪に華

な体そして青と白の世界で一番有名な制

服helliphellip統制機構の制服

「テイガーこれはどういうこと

どうしてhelliphellip」

どうして統制機構の

士を抱かかえてこんなところにいるのかそう問おうとしたライチの疑問

をさえぎっ

てテイガーは抱えていた少女の体を託たくすように差し出した

「すまんがこの少女を頼たのめないだろうか訳あって気絶させてしまったのだが放ほうり出すわ

第二章 Spiral fate 盤上の駒103

遠くには雨音が

こえる昼過ぎに

り出してから今までもずっと続いていたのだろう空

を上層に閉とざされたこの辺りもすっかり空気が湿しめっていてずいぶんと冷え込んでいた

ゆったりとした白いブラウスとその上に着込んだロング丈たけの真っ赤なチャイナドレスという

服装はライチのみ惑わく的なボディラインをくっきりと描き出すには適しているけれど寒空の

下に立つにはあまり向いているとはいえない

不意に抜けた冷たい風にぶるりと身み震ぶるいしてライチは豊満な胸元を合わせるように己おのれを抱

いたまとめ上げた髪にしがみつくようにくっついている小さなパンダの髪かみ飾かざりも心なしか寒

そうだ

今夜はきっと冷えるだろうとはいえかつて黒き獣けものが現れ魔ま素そが世界に広がるまでは十二

月といえばもっと寒くこんな薄うす手での服装ではとても外を歩けなかったそうだから当時を思

えば涼すずしい程度の気温なのかもしれない

昔はこの時期この辺りでも雪が

ったらしい魔素が狂くるわせ失わせた冬らしい季節という

ものを少々勿もつ体たい無く思いながらライチは病院へ戻もどるべく踵きびすを返した

だがただでさえ長い脚あしをさらにすらりと見せる踵の尖とがったくつが屋内に踏ふみ入る前に

後か

ら唐とう突とつに声がかかった

「ライチ」

落ち着きのある低い男の声だ

それが誰なのかライチは呼びかける一言でわかった自分のことを呼び捨てる者の中で

102

「お前になら構わんか実はhelliphellip」

『とう

亡ぼうしたサンプルの回

だ』

突とつ然ぜん第三の声が割って入った

「ココノエ

周囲に配はい慮りよしてか声は抑おさえたもののテイガーが驚きにうろたえる

ライチの表情に糸を張るような緊きん張ちようが走った

第三の声はテイガーの耳元から

こえてきたそこには小さな通信機が取り付けられている

その向こうにいるのが声の主でありテイガーの上司にして製作者でありhelliphellip一年前までは

ライチの上司でもあった人物ココノエだった

『なにを驚いている回線に入り込む程度なんでもないわかったら勝手に通信を切るんじ

ゃないいいなテイガー』

テイガーへ向けてだけでなくその周囲にも

こえるよう操作された音声が感情の波を抑え

た低い女声で語る他者の意見をは

ねのけるような語調と声色には有う無むを言わさぬ威い圧あつ感と

神経質さが現れていた

ライチも一年前まではよくこの声にしつ

咤たされたものだ懐なつかしさと一いつ緒しよに苦い思いがこみ

上げてきてライチは声から目をそむ

けるようにテイガーから視線を外す

「ココノエ博士helliphellip」

『久しぶりだなライチお前こそこんなところでなにをしている』

第二章 Spiral fate 盤上の駒105

けにも統制機構に連れん絡らくするわけにもいかなくてな」

ひどく困った様子で懇こん願がんしてくる

そんな顔でそんなことを言われては断ろうにも断れない自分の性格をわかっているくせに

と思いつつもライチはテイガーの腕の中の少女を覗のぞきこんだ

は正常だ外傷は特になく呼吸も安定しているただ単純に強い衝しよ撃うげきで意識がなくなり

そのまま眠ねむり込んでいる状態だろう

「つまり彼女の意識がないのは貴方あなたの仕し業わざってことね」

ちらりと眼鏡のすき間まからテイガーの赤い顔を見上げてライチはほんの少しの小言めいた響ひび

きを込こめて言った

テイガーとこの少女の間にちょっとした荒あら事ごとがあったことは想像に難かたくない

統制機構と第七機

係についてはよく知っているなにせライチはオリエントタウンへ

来る前テイガーと同じ

場で同じ上司の下で働いていたのだから

「helliphellipどうして貴方がカグツチにいるの」

少女の身み柄がらは引き取るそう物もの腰ごしで伝えながらもライチは堅かたい声こわ色いろで尋ねた

テイガーが所属している第七機

はカグツチから離はなれた場所に研究所を構えているカグツ

チへふらりと私用で来るような距きよ離りではない

テイガーは困こん惑わくしたように言葉に迷ったが難しそうな顔をしながらも上向きのきばが覗く

口を動かした

104

「まだわかりません」

ねのけるようにライチは大きく首を振ふった

そこにはオリエントタウンの住人が知る優しく穏おだやかで時々厳しいそんな女医の

はなか

ったあるのはなにかを必死で守ろうとする弱々しい少女のような顔だ大切な宝物を取り上

げられまいと首を振るようなそんな

ライチは厳しく引き締しめた顔でテイガーをその耳元にある通信機を見つめる

「なぜ博士はそう簡単に割り切れるんですか

すべての手を尽つくしたわけではないのにあ

の人はただ少し間まちが

えてしまっただけです少し急ぎすぎただけでそれに彼は貴女あなた

のhelliphellip弟で

子しだった人じゃないですか」

ライチの声は情感に揺ゆれていた震ふるえているといってもいい

解げせない飲み込めない受け入れたくないそんな拒絶が声だけでなく

しげに眉まゆを寄

せた表情にも浮うかんでいる

もう一度通信機からココノエのため息が

こえた今度は呆れているというより苛いら立だっ

たような吐と息いきだった彼女が頭をかきむしる仕草が見えるようだ

「すみません博士helliphellipでも私はhelliphellip諦められません」

ライチはきつく胸の前で手を握にぎり締める

だけど本当はわかっているライチは医者であり一年前までは研究者だっただから自分

でもいや

になるほど冷静で理性的な部分はもうとっくに理解していた

第二章 Spiral fate 盤上の駒107

どんな顔をしていたらいいかわからないライチは寒さではなく別のものから己を守るよう

に身を抱く手に力を込める

知性と理性で研といだココノエの鋭するどく射い貫ぬくような眼まな差ざしが通信越ごしにこちらを見み据すえてい

るのがわかった

「そんなのhelliphellip博士ならもうおわかりでしょう」

なぜライチがカグツチにいるのかもなぜカグツチの中でも下層のオリエントタウンを住ま

いに選んだのかもなぜ第七機

を出たのかも全部全部彼女はお見通しのはずだ今いま更さら説

明しなければならないことなどなにもないのだ

『まだあいつのことを諦あきらめきれんのか』

ほらとライチは思う答えずともココノエはわかっている知っているライチがなにを

考えてここにいるのかを

だからだろうか通信機越しに

こえるかつての師の声はまるで咎とがめ責めているように

こえた

「諦めるだなんてどうしてそんなことができますか」

胸の内から絞しぼり出すようにしてライチは答える

通信機からノイズが漏もれたココノエのため息だろう呆あきれ果てたといったような音だ

『もう一度言うあいつを助けようなどと無む駄だなことを考えるのは止よせあいつはもうどうに

もならんお前の力では助けられない』

106

ライチは顔を上げられなかった愚おろかだと思うのは自分も同じだ反論はない

重苦しい沈ちん黙もくが数秒流れたときだったパタパタと軽やかな足音がライチのいる病院の入り

口へと駆かけてきた

「ただいまhelliphellipってうわデカっ

やってきたのは小こ柄がらな少女だったかつ

色しよくの肌はだに黒くろ髪かみをアップにまとめており動きやすそう

な服を身に着けている

少年とも見まごう細い腕うでと胸には紙かみ袋ぶくろに入った日用品を抱かかえていたが近づいて改めて見上

げたテイガーの巨きよ体たいに思わず驚おどろいてぐしゃりと抱だき潰つぶす

「リンファhelliphellip

おおかえりなさい」

いささか慌あわててライチは向き直った

彼女はリンファライチの病院で助手として手伝いをしている医者志望の少女だ

リンファは大きな黒目をさらに大きく見開いて遠目で見るよりずっと大迫はく力りよくなテイガーを

ぽかんと見上げていた

「たただいま先生えっとhelliphellipこの人誰だれ

お客さん」

「ああそのhelliphellip」

ライチは言葉を濁にごして迷った

リンファは公私ともに支えてくれる頼たのもしい助手だがライチは彼女に自分の過去を教えて

いないし教えるつもりもなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒109

自分にできることなどなにもないのだと

||一年前ライチがココノエやテイガーと共に過ごし研究に励はげんでいた第七機

を飛び出

したのはある人を助けるためだった

その人は魔素とそれを世界にもたらしたとされる境界について研究していた

けれどあるとき彼はおかしくなってしまった常に錯さく乱らんしたようになってやがて人前に

を見せなくなり最終的には人でなくなってしまった

魔素に触ふれ続け境界に近づきすぎたがゆえの結果だった自分と境界の境目がわからなく

なってあるべき形を失った

消化してしまったものを元の食品の形に戻せないように境界に取り込まれて同化したもの

を元の

になど戻せはしない

彼を追ってここカグツチのオリエントタウンまで来てもこの街に留とどまり続けても彼の

噂うわさを耳にしては飛び出し黒く蠢うごめく影かげを探しても魔素や人ならざる種族について研究を重ね

ても彼と同じように境界に手を伸のばしても

なにも変えられない

ライチが探している『あの人』はオリエントタウンから入ることができるカグツチ下層の

下水道をねぐらとして日々ただ本能の赴おもむくままにさまよい続けている

『どいつもこいつも私の弟子は馬ば鹿かばかりだhelliphellip』

ココノエが吐はき捨てるように言う

108

意識のない女

士が身に着けている青と白の制服は苦しい生活や貧しい環かん境きようをもたらした

元げん凶きようをし象よう徴ちようしているようなものだ

その気持ちをわかりながらもライチは

めるように言う

「誰であろうと患かん者じやは患者よリンファベッドの用意をしておいて」

「helliphellipはいライチ先生」

リンファとてライチの言い分はわかっている

もう一度きつく腕の中の紙袋を抱だきしめるとリンファは渋しぶし々ぶ頷うなずきそれでも足早に病院の

奥へと駆けていった

それを横目に見送りながらライチはぐったりとした少女の腕を肩かたに担ぐようにして濡ぬれ

た体を支える

最後にと見上げた知的な瞳ひとみにテイガーは告げた

「ライチこれだけは伝えておきたいココノエはお前が機

に戻もどることを望んでいるお前

にその意思があるならいつでも手を貸すつもりだ」

それこそがわざわざ通信回路をねじ込んでまで口をはさ

んできたココノエが言いたかったこ

とだろうとテイガーは解かい釈しやくしている

あの気難しく神経質な声で話す上司は人に情じよ緒うちよめいたことを伝えるのがとても苦手だ誰よ

りも側でココノエの仕事を手伝ってきたテイガーはそのことを身にしみて実感している

ライチは驚いたような顔を見せそれから頰ほおを緩ゆるめるように力を抜ぬくと

しげに首を横に振ふ

第二章 Spiral fate 盤上の駒111

間まちがってもテイガーやココノエとの会話を

かれるわけにはいかないのだライチは素早く

助けを求めるような視線をテイガーに向ける

だがそのときにはもうすでにテイガーは通信をオフにしていたライチがなにをきらうのか

は見かけによらず理性的な巨きよ漢かんは十分理解している

ただしその代わりにとばかりに抱えていた意識のない少女をライチの腕の中に押し付ける

ように託たくした

「私は任務があるもう行かなければとにかくこの娘むすめを頼む」

テイガーがここを訪れたのはなにもココノエの心情を伝えるためでも上司とライチを口論

させるためでもなくこの赤い髪かみの少女の身の安全のためだ

「わかったわ預かる」

このじ状よう況きようで拒きよ否ひするわけにもいかないライチは素直に少女の身み柄がらを引き受けた

力なくもたれかかる少女の体は決して軽くはないが支えながら引きずってベッドへ運ぶく

らいはできる医者や研究者に相応ふさわしくない程度にはライチは力には自信があった

ライチが受け取った人物の

を見てリンファが不ふ愉ゆ快かいそうに眉まゆを寄せた

「この人図書館の

士じゃんなんでhelliphellip」

なんで

士なんかを預かるのかのみ込まれたリンファの言葉はそう続くはずだった

リンファはオリエントタウンの生まれだ下層の住人の大半がそうであるように彼女もま

た高圧的な統制機構の施し政せいに大いに不満を抱いて生活している

110

雨の中運ばれてきたせいで少女の体はすっかり冷えていた

リンファが整えてくれたベッドまで運ぶと清潔なシーツの上に横たえ

士の制服である青

い帽ぼう子しとブーツを脱ぬがせる指先まですっかり力を失った手を取り手てぶ袋くろと硬かたい金具のついた

袖そでを外した

となりの部屋でリンファが買ってきた日用品の片づけをしている物音を

きながら上等とは言

えない毛布と布団を眠ねむる少女の体にそっとかけてやる

「helliphellip今夜はこれじゃ少し寒いかもしれないわね」

青と白の帽子や袖をたな

へしまいながらライチは声に出して呟つぶやいた

そのしゆ

間んかん目に見えない糸が切れたような不思議な感覚がライチの

筋を掠かすめていったの

だけれど

ライチはそれを冷えてきたがゆえの悪寒だと思って新しい患者にかけてやる毛布を取りに

行くため部屋を出た

この

間ライチの大切なものがひとつ喪うしなわれたと彼女が知ることはなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒113

った

「helliphellip私は戻れないわあの人のことが片付かない限りは」

戻ればきっと後こう悔かいするお門かどちがいにもココノエを恨うらむかもしれない

「そしてもし片が付いて私があそこに戻ろうとしてもそのときは今度は博士が私を受け入れ

ない」

もしあの人を戻せるとしたらその方法が容易たやすくそして人道に則のつとったものであるはずがな

い触ふれてはならないものに触れなければならないだろう見てはならないものを見なければ

ならないだろう知ってはいけないものを知らなければならないだろう

そうなったときココノエが自分をどんな目で見るかライチはあまり想像したくはなか

った

難しそうに唸うなりテイガーが小さく顎あごを引く歪ゆがんだ口元は苦々しい

「そうか難しいことは私にはわからんが」

いつまでも話してばかりはいられないテイガーは広く赤い

中をライチへ向けた

「今はこれで失礼するhelliphellip達者でな」

それだけ告げるとテイガーは後うしろ髪がみを引かれる様子もなく来た道を引き返していった暗

い影かげの中に入るとやがて大きな

中はオリエントタウンの路地裏に消える

ライチもまた立ち去る

を向けて預かった

士の少女を病院の中へと運び込んだ

後ろ手にとびらを閉めればそこはもう慣れ親しんだ小さな自分の病院だ

112

まったくうんざりするこれからこんな風雨の下でひとりで作業しなければならないな

んて

「helliphellipっていつまでもぐちぐち言っていてもしょうがないですか」

自分で自分を哀あわれみながらハザマはスーツの内ポケットから小さな通信機を取り出した

耳に当ててしばらく待つ

とうに日は落ちて辺りは暗くこの分厚い雨雲で月明かりが望めるわけもないハザマの後

方で灯ともる屋上入り口の白々しい明かりがスポットライトのように円形の濡れた屋上を寒々し

く照らしていた

『||私だ』

通信機の向こうから声が応こたえた

男の声だ低く感情らしい響ひびきは一いつ切さいない

ハザマはズボンのポケットに手を突つっ込こむと心持ち

筋を伸ばした

「お疲つかれ様ですハザマですとりあえず現場に到とう着ちやくしましたよ雨ざらしですけど」

『そうかでは始めろ』

「あらら冷たいですねぇねぎらいの言葉もなしですか技術大たい佐さ」

帽子のつばなどまるで意味がない濡れて額にはりつく前まえ髪がみを指先でのけながらハザマは口

角を引いて苦くし笑ようする

もっとも通信機の向こうにいる男にねぎらいの言葉などかけられたらそれはそれで気味

第二章 Spiral fate 盤上の駒115

2199年12月30日||18時21分

雨はまだ

り続いていた

曇どん天てんはますます色いろ濃こくついには強い風まで吹ふき始める

夜ともなれば空気は冷えるただでさえここは高い場所でhelliphellipそう地上から数えればとん

でもなく高い場所でそのうえ風雨をさえぎるものがないというのに

「あーあhelliphellipもう最悪ですね」

世界虚こ空くう情報統制機構カグツチ支部の屋上つまり第十三階層都市カグツチにおいて最も高

い場所に立つハザマは

り止む気配のない雨空を見上げて心底辟へき易えきしていた

制服ではない自前の黒いスーツも雨除よけにはならない帽子も上がってきて数秒でびしょ濡ぬ

れだ

少し待てば雨足も弱まるのではないかと思って無益に潰つぶした時間は一体なんだったのだろ

うか

「これが上官命令でもあの人の言いつけでもなかったら体調不良でも持ちだして即そつ刻こく本部に

帰るところですよ」

114

歩きながらもハザマは笑っていた両手をポケットに突っ込んでいるせいで細い肩が少しだ

け持ち上がって喉のどを鳴らすたびに小刻みに揺ゆれる

誰もいない鳥さえ近づかないカグツチの頂でハザマはどこか摑つかみどころなくにゆ

和うわに笑い

かけた

彼にだけわかる人物へまるでなだめすかすように

「そう急せかさないでくださいよ焦あせらなくてもいずれ取り戻せますって」

||ねえテルミさん

第二章 Spiral fate 盤上の駒117

が悪くてとても仕事どころではないのだけれど

『あまり時間がないさっさとしろ』

「はいはいまったく貴方あなたもあの人も人使いが荒あらいんですから」

ではまた後ほどそう言葉を足して通信を終えるとハザマは手の中に握にぎり込めるくらい

小さな通信機を玩がん具ぐでも扱あつかうように宙へ放ほうり投げキャッチした

雨が冷たい

ハザマは目ま深ぶかにかぶっていた黒の帽子をほんの少しだけ持ち上げた

濡れた髪の向こうから金色の瞳ひとみが覗のぞいていた照明の中でちらつく無数の雨あま粒つぶを鋭えい利りな狡こう猾かつ

さで見み据すえる一いつ緒しよにその向こうで静かに濡れるがらんと空くう虚きよななにもない屋上の空間を

軽く肩をすくめるようにしてハザマが笑えみの息を漏もらしたまるで誰かになにごとか語り

かけられたかのように

「わかっていますよ私だってさっさと片付けたいですからね」

さあさあと雨の音が途切れることなく続いている

そこにハザマ以外の誰かの声はなくもちろんハザマ以外の

はない

暗い夜の屋上は雨あま霧ぎりの中でなにひとつ文句も言えず濡れるばかりでハザマに何事か語りか

けるはずもない

ハザマは通信機をしまうとちょいと帽子を直し屋上の中央に向かって足を踏ふみ出した硬

い革かわぐつが濡れた床ゆかを叩たたいて微かすかな水音を弾はずませる

116

Page 9: t1501 ブレイブルー1 面付BLAZBLUE―ブレイブルー―1 カラミティトリガー 上> 原案・監修 ‥ 森利道(アークシステムワークス) 著‥駒尾真子

げる

身を隠かくすつもりは毛頭なかったむしろ向こうが見つけて仕し掛かけてくるならその都度叩たたき

のめすのが彼のやり方だ

こそこそやるのは性しように合わないどうせ目立つならできるだけ

手に振る

っていつか自

分の襲しゆ来うらいを

いただけで連中がに

げ出すようになればいいと思う

もっともそんな虫のいい話はないだろうと思ってもいるが

すぐに青と白を基調とした制服に身を包んだ男が五六人銃じゆうを抱かかえて走り込んでくる

こちらの位置に気付いていなかったのかはち合わせた途と端たんに先頭の数名が動どう揺ようして足を止

めた

だが彼は止まらない歩みを疾しつ走そうに変えて一直線に突つっ込こむと手の剣を大きく振ふりかぶっ

「止まれ

止まらなければ撃うつ」

制止の声に意味はない

制服

の男たちがそれぞれに銃を構えた即そく座ざに全員が発はつ砲ぽうするけたたましい発砲音が廊

下に響く

がその直後彼は振りかぶった剣を

いよく薙ないだ

「うらぁぁぁぁぁっ」

剣から黒く禍まがま々がしい揺らめきが放たれて宙を駆かけ迫せまる銃じゆ弾うだんのすべてをの

み込んで掻かき消し

第一章 Stratum city 階層都市17

第一章

Stra

tum city

||階層都市

アーチ状に造られた白く高い天てん井じように慌あわただしい足音がいくつも響ひびいていた

誰もが口々に警戒と攻こう撃げき指示を口にする侵しん入にゆ者うしやを捕つかまえろ殺せこれ以上進ませるな

そう叫さけぶ声はしつ

咤たや激げき励れいというよりもっと

痛な音に引きつっておりひどく追い詰つめられた

状じよう

況きようを如によ実じつに物語っていた

廊ろう下かの先から

こえてくるそれらを

きながら

彼は迷いや躊躇ためら

いなど微み塵じんもなくいっそ悠ゆう然ぜんとした振るま

いで近付いてくる足音のほう

へと進んでいた

白い髪に左が緑で右が赤という左右で色のちが

う瞳ひとみがっしりした体つきに黒い服を纏まとい

その上に目の覚めるような真っ赤なコートを羽織っている

(helliphellip後から後からよく集まってくるもんだ)

ぼやくように思いながら彼はそれまで肩に担いでいた幅はば広びろで分厚い刀身の剣けんを手にぶら下

16

彼はなにもひっそりとここに忍しのび込んだわけではない

を守る警

員を殴なぐり倒して正面

から堂々と侵入したのだ

まるで自分の力と存在を誇こ示じし深く爪つめ痕あとを残すように彼は暴れに暴れて手あたり

第に破

壊し奥へと進んだ立ちはだかるものはなんであろうと斬きり倒すそんな暴力的な歩みで進

んで進んでhelliphellip

そうして彼が到とう達たつしたのは長い長いし昇ようこう装置で

りた先のぽっかりと口を開けたような

地下深い広間だった

helliphellipそこはもうこれまで通ってきた廊下や部屋とは

う世界だった

空気が

う温度が

床ゆかも壁も天井も金属に似た質感の板で覆おおわれており広場を見下ろす位置にガラス張りの小

部屋が設けられているその下にも重じゆ厚うこうな機械類が並んでおりそれらが見み据すえる先で異様に

大きななにかの装置が沈ちん黙もくしていた

人は誰もいないここにいたはずの人間は皆みな襲しゆ撃うげきの知らせを受けて避ひ難なんしたのだろうそ

してここに駆けつけるはずの人間は皆白はく髪はつの侵入者が蹴け散ちらしてしまった後だ

一歩一歩彼は広間の奥に鎮ちん座ざしている巨きよ大だいな装置へと足を進めた

異質さが体にまとわりつくようだった

第一章 Stratum city 階層都市19

てしまう

揺らめきはそのまま炎ほのおの速さで走りじ弾だんを浴びせる制服たちへと迫ると一息に吹ふき飛ばし

たご

うと炎が逆巻くような音が巻き起こり男たちの体は

鳴ごと攫さらわれて壁かべに叩きつけら

れる衝しよ撃うげきに負けて壁に太くヒビが走った

たった一撃それだけで銃を構え勇ましくも侵入者を迎むかえ撃とうとしていた男たちは全員

意識を失い廊下に倒たおれ伏した

「helliphellip倒されるってわかってんだからのこのこ出てくんじゃねぇよ馬ば鹿かが」

あっけないものだ倒れた制服

を横目に見やると大きな剣を携たずさえた彼はすぐさま廊下を

走り出す

いつまでもこんなところで時間を食っている場合ではない

向かうのはこの施し設せつの一番奥最下層だ

また廊下の奥から青と白の制服

が現れる口々に叫びながら銃を構えあるいは剣を抜ぬい

た人

数はさっきよりも多いがだからといって彼のやることに変わりはない

真正面から突っ込んですべてを振り払はらい叩きのめす

々に制服

の力ない体が廊下のあちこちに転がりセキュリティ装置はことごとく破は壊かいさ

れ口を閉とざすとびらすら叩き切られて鉄くずに変えられた

18

この世でありながら別の世であるかのような本能が警告するい和わ感のようなものが空気の

代わりに漂ただよっている

けれど彼には慣れた空気だった

もう幾いく度どもこういうところにはやってきているのだここと同じ構造をして同じ装置を地

下に隠した施設をこれまでいくつ訪ねたかわからない

毎度訪問の目的はひとつ

この巨大な装置の破壊だ

彼は床を踏ふみしめるようにして歩み寄る

これがなんのために存在しているのかここで働いていた者のどれほどが把は握あくしていたのだ

ろう

来るたびに彼は棘とげのような疑問を感じる

これがなにをもたらすと思って毎日毎日こんな陰いん気き臭くさい地下深くまで

りてきて用よう途とも

わからないチカチカ光る計器をいじくり回していたのだろう

縁へりまで来ると彼はそれを睨にらみ据すえる

銀色の金属で組み立てられた装置は見上げるほどに高くそびえ見下ろすほどに深く大き

かった

メインとなる部分は彼が見下ろす円形の部分だ

これは『窯かま』だった

20

第九階層都市アキツ世界虚こ空くう情報統制機構支部

都市の中心に建っていた施設が何者かの襲撃によって崩ほう壊かいしその騒動で都市全体が混乱し

ている中

赤いロングコートを着た白髪の男はひとりひっそりと都市から去ろうとしていた

もうここでやるべきことは終わった長居は無用だ

施設での

手な立ち回りに反して外では人目につかぬよう入り組んだ道を通りできるだ

け薄うす暗ぐらい出口を選んだ

街中で制服を着た

士たちに見つかれば振り払うために戦わねばならないそれが煩わずらわし

い錆さび

臭くさい鉄門をくぐって奥にあるポートへ向かうその脇わきにある通路を下れば外に出られる

はずだ

そのときふと薔ばら

の香かおりが彼の鼻び孔こうをくすぐった

「まるで行き場を失った野の良ら犬みたいね」

淡たんた々んとしたあざけり

の声が

こえ彼は足を止めて振り向いた傍かたわらに佇たたずむ細い外灯を見上げる

先せん端たん

が二ふた股またに分かれたシンプルなそれの上にひとりの少女が立っていた

歳としは十を過ぎて数年といった程度だろうかまだ幼い顔立ちをしながらも足元からの薄暗

い明りに照らされて浮うかぶ赤い瞳は外見の年とし頃ごろに似合わぬ聡そう明めいさをたたえている

第一章 Stratum city 階層都市23

今はいくつもの金属板が折り重なるようにして口を閉ざしているが開けば内は火山の火口

のようになっている炎えん色しよくの溶よう岩がんのようなものが渦うずを巻いて覗のぞき込む者のすべてをのみ込ま

んと燃え盛さかっているのだ

だが中でわだかまっているものは決して溶岩や炎などではない

そこにあるのは異界だ人が本来あるべきではない世界のひずみ走った亀き裂れつの向こう側

見てはいけなかった踏み込んではいけなかった世界のからの外側

彼が見下ろす金属の装置はこの窯を制せい御ぎよしまた窯に干渉するためのものだ

本来及およぶべきものではない異界||境界に触ふれるための装置

彼は世界中に散らばるこの窯を破壊して回っていた

こうして

めてみても今いま更さら感かんがいもない

彼は剣を腰こしに戻もどすと右手を装置へと向けて突き出した何事か呟つぶやくもう何度も繰くり返し

口にしてきた破壊をもたらす言葉

言葉は彼の右みぎ腕うでで眠ねむっていた力を呼び起こし力は彼の右腕に蒼あおい光を生んだ

またたく間に辺りを埋うめ尽つくすほどに増ぞう幅ふくされた光を彼は装置に向けて思い切り放つ

のしゆ間んかん地下深くで口を閉ざしていた異界への門はそれを囲む広大な部屋ごと跡あと形かたもな

く吹き飛んだ

22

別に行き先などどこでもいいカグツチならここアキツからでもそう遠くはない

彼は忌いまい々ましげに少女の消えた辺りを睨みつけると示された

の目的地を目指して歩き出し

た数

日後彼の名は世界中に指名手配犯として公開された

ラグナザブラッドエッジ

それが『死神』の異名を持つ史上最高額の賞金首の名だった

2199年12月30日||13時27分

約百年前世界は一度滅ほろびかけたという

突とつ如じよ現れ世界中を破壊して回った巨大にして異形の怪かい物ぶつhelliphellip『黒き獣けも』の

その圧あつ倒とう的な力に人類は為なす術すべもなくあっという間に世界の人口は半分に減った

ところがそこに六人の勇士が現れた

第一章 Stratum city 階層都市25

下方の彼を見やって少女は薄うすく微笑ほほえんだ

「薄うす汚ぎたない迷子の野良犬さん

に貴方あなたが行くべき場所を教えてあげましょうか」

「helliphellipなに企たくらんでいやがる今まではそんなこと教えなかったじゃねぇか」

吐はき捨てるように彼は低く呻うめいた

少女は呆あきれたように眉まゆ尻じりを下げる

「心外ね教えてきたじゃないhelliphellipもう何度も」

「はぁ

なに言ってんだテメェ」

「覚えていないならいいのよ期待もしていないわ」

指に絡からまった糸くずでも払うように言うと少女はある方向をその白く小さな手で示した

その先に広がるのは暗雲を抱いだく暗い夜空星も月もない夜はまるで不ふ穏おんな予感を掻きたてよ

うとするかのように重苦しく静かだった

「第十三階層都市カグツチ」

そこが貴方が導かれるべき場所よ

そう告げると少女は薔

の香りを漂わせ風が吹き抜けるように

を消した

甘い花の香りが消えると白昼夢から現実に引き戻されたかのようにどこからか金属とくさ

った水の臭においが漂ってくる

気分のいい場所ではない

「カグツチhelliphellipね」

24

た街は山の高度に沿って上下に広がり結果幾いく重えにも市街のプレートが重なった狭せまくも高

い都市が生まれたのだ

ここ第十三階層都市カグツチもまた世界中の都市がそうであるように複雑な多重構造と

なっている都市だった

その中の折り重なった市街のひとつオリエントタウンの入り組んだ細い道を彼は少々ふ

らついた足取りで歩いていた

白い髪かみに左は緑右は赤という左右で色のちが

う瞳ひとみ全身を包む黒い服に目の覚めるよう

な真っ赤なロングコート腰には幅はば広びろで分厚い刀身がと特くち徴よう的な剣けんが下げられている

ラグナザブラッドエッジ

世界虚空情報統制機構の支部を各地で壊かい滅めつさせているSS級の指名手配犯であり史上最高

額の賞金首が彼だ

とはいえ周囲を行き交かう街の住人は誰もラグナを気にしたりはしないどうせまたどこか

らか無法者が入ってきたのだろうそんな程度の視線が時折興味もなさそうに掠かすめては離れ

ていく

ここはオリエントタウンカグツチの下層に位置する街だ

階層都市はその構造上上層の街であるほど魔素から遠く安全で清潔で逆に下層に行くほ

ど管理が行き届かず魔素に近い階層都市において上下は住みやすさだけでなく晒さらされる命

の危険の度合いをも意味している

第一章 Stratum city 階層都市27

彼らは事象兵器

アークエネミーと呼ばれる武器を手に黒き獣にいどみ災さい厄やくの魔ま物ものを倒し人類に未来をもた

らした

六英えい雄ゆうと讃たたえられた彼らは人知れず歴史の海に

を消し行ゆく方え不明となったがそれでも彼ら

の栄光は伝説として語かたり継つがれた

それは近くも遠い昔の話

今の世にかつての黒き獣との戦争||暗黒大戦の誰だれもが知るような名な残ごりがあるとすれば

それは大きく数えてふたつだろう

ひとつは世界虚空情報統制機構

暗黒大戦のとき六英雄と共に戦った世界的な連合軍が母体となった組織であり現在は世界

中をこの組織が統とう括かつしている

そしてもうひとつが魔素

災厄の魔物黒き獣の出現と共に世界中であふれ出した物質で黒き獣が倒たおされた後も依い然ぜんと

して世界の空気中に残り続けた

今では様々なテクノロジーにも利用され人々が暮らしていくうえでなくてはならないもの

となっているがそれでも多量の摂取は人体への危険を伴ともなう

そのため人類は魔素を利用しながらも魔素を避さけて生活しなければならなかった

魔素は地表に近いほど濃こく滞たい留りゆうしているそこで考え出されたのが階層都市だ

高山を基き軸じくにしてそこからプレート状に築いた市街を突つき出させるようにして街を建設し

26

っている

そのうえあちこちの路地を塞ふさぐように木箱やらなにかの詰つまった袋ふくろやらが我が物顔で腰を下

ろしているものだから何気なく入った路地が通り抜ぬけられないこともしばしばある

赤い柱にぎょろついた目玉のついた奇きみ妙ような像街中に小さな明かりの灯った提ちよ灯うちんがぶら下げ

られていてそれ以上におびただしい数の大小の看板が眩まぶしいネオンを輝かがやかせている

普ふ通つう下層の街というのはいくつもある上層の基き盤ばんに陽光をさえぎら

れて昼間でも薄暗く場所に

よっては真っ暗になるものだがここはそんな暗がりとは無む縁えんのようだ

路地を抜けると少し開けた通りへ出た

左右にずらりとなにかの店が並んでいてどうやらこの辺りのメインストリートらしかった

その分掲かかげられた看板の数もその

手な色しき彩さいも段だんちがいだ

(この辺なら統制機構の連中もいねぇだろ)

比ひかく的広い通りでもいかにもこの街の住人といった人間ばかりが歩いていて世界虚空情報

統制機構の例の忌いまい々ましい青と白を基調にした制服は見当たらない

ありがたい話だもし見つかれば曲がりなりにもラグナは重大犯

者周囲への配はい慮りよもな

にもなく雨あられと発はつ砲ぽうされ

から

へと集まってくる

士たちと追いかけっこを演じなけ

ればならなくなる

ラグナは左右をきょろきょろと見回しながら腹部に手をやった

疲労より空腹が辛つらいカグツチに入ってからというもの食料品を扱う店に巡り合えず持

第一章 Stratum city 階層都市29

当然最上層を占せん拠きよしているのは管理機

でもある世界虚空情報統制機構だその

連施し

設せつや

係者の住宅が市街のほとんどを占しめている

続いて権力に近く裕ゆう福ふくである者が上層階に住まいそうでない者はその

産や身分に順列を

つけるように下へ下へと下っていく

オリエントタウンに住んでいるのはそういった順列の結果ここまで追いやられてきた人間

たちだった

誰も彼もお世辞にも裕福とは言えない自分と家族それから少しの親しい人間の生活の

ことで精いっぱいで見るからに異質な白髪の男にかかわって余計な面めん倒どうに首を突っ込みたが

る酔すい狂きよ者うものなどほとんどいないのだ

もっともラグナ自身も周囲の人間の様子に気を配っている余よ裕ゆうはあまりなかった

今は使われていないは搬んに入ゆう口からカグツチに侵しん入にゆうしたのが二日前それからずっと人の通ら

ない裏道や廃はい棄きされたエリアを通ってきた図はかったわけでもないのに延々と歩かざるを得なか

った悪路に正直疲ひ労ろうが募つのっている

帰りはもっとまともな道を通ろうそう決めていた

「にしても下層にしちゃ賑にぎやかな街だな」

辺りを見回しラグナはぼやくように率そつ直ちよくな感想を口にした

オリエントタウンは無計画にとにかく乱雑に家を建て並べたことがよくわかる入り組んだ

造りをしていた道は狭くやたらに折れ曲がり家々は今にも密着しそうに身を寄せ合って建

28

「うhelliphellipう」

微かすかに震ふるえる声で呻き少女はゆっくり顔を上げる

ラグナを見上げたフードの中におそらく誰もが想像するであろう少女の顔はなかった

あるのは黒い暗い闇やみを詰め込んだような陰かげその中でへなりと下がった赤い目らしき丸と

白い歯の並ぶ下を向いた三日月形の口だけが浮かんでいる

ぴくぴくと痙けい攣れんするようにフードについている三角の耳が震えた

人間ではないけれど獣のような尻尾や耳を持つ獣じゆ人うじんとも様子が

「もしかしてhelliphellipカカ族か」

このような奇きみ妙ような風ふう貌ぼうの生き物をラグナは過去にも一度見たことがあった確か剣けんの師しし匠よう

を訪ねてきたはずだ同じような黒い顔に実にシンプルな顔のパーツ目の前にいる少女とそ

のとき目にしたカカ族の女は明らかに別人だがこのと特くち徴よう的な容

は他にあるまい

もっとも『カカ族』という名めい称しようを知っているだけでつまりどういう一族なのかをラグナは

知らないのだが

さてこの少女をどうしたものか

わらずに引き返すべきか見なかったことにして先へ

進むか

咄とつ嗟さのことに決めあぐねていると顔だけを起こしたカカ族の少女はその弱り切った様から

は想像もできない俊しゆ敏んびんさで突如ラグナの足にしがみついた

「うおぁっななんだ」

第一章 Stratum city 階層都市31

ち歩いていた保存食も底をつき昨日の夜からなにも食べていないのだそろそろいい加減

限界が近い

いくら下層街でもこの雰ふん囲い気きなら飲食店くらいいくつかあるだろうそう思って雑多な看

板からそれらしい名前を探しているとhelliphellip

なにかやわらかいものを踏ふんだ

「ブニャッ」

同時になにかの鳴き声が足元から

こえた

「げっ」

犬か猫ねこでも踏みつけたかと思ってラグナは慌あわてて足をどける

が見下ろしたそれは予想に反してずいぶんと大きなものだった

というより人だったり両よう腕うで両足を地べたに投げ出し力なく倒れ伏ふしている少女だ全身

をすっぽりと覆おおうフードつきのローブから長い三つ編みの髪とかつ色しよくの肌はだの足が覗のぞき見えてい

るhellip

hellipいや

「なhelliphellipなんだテメェ」

警けい戒かいというより疑問一色の声で問いかけるラグナの視界でひょろりと弱々しく細長い尻しつ尾ぽ

が揺ゆれた

尻尾はその倒れた少女から生えていた

30

「はぁ

おおいどうした大だい丈じよ夫うぶか」

あまりにも切せつ羽ぱ詰つまった声を出すものだからさすがに少し心配になった持ち上げていた足

を下ろして陰を詰めこんだような顔を覗きこむ

まるで黒いお面のような顔は目も口も情けなく下げてラグナを見上げ今にも気を失いそう

な弱さで訴えた

「おhelliphellipお腹なかが空すいたhelliphellipニャス」

黄色いクロスがかけられた丸いテーブルの上にいくつもの皿が並んでいた

揚あげた鶏とり肉にくに薬味だれをたっぷりかけたもの肉団子と色いろ鮮あざやかな野菜の甘あま酢ずあん炒いため四

角く切り分けた豚ぶた肉にくを甘あま辛からく味付けしたこってりとした煮に物ものに山と盛られた炒め飯牛肉と

野菜を濃い味の味み噌そで炒めたもの細切りにした野菜を薄うすい皮で包んだパリパリの春巻きに

挽ひいた肉を包んで蒸むしたふかふかの饅まん頭じゆhellipうhellip

白い湯気と共に胃いぶ袋くろを震わせずにはおかない匂においを放つ数々の料理を三角耳のついたフー

ドの奇妙な少女は椅い子すからずり落ちそうなほど身を乗り出して忙いそがしく口に掻かき込んでいた

「はぐはぐはぐニャスはぐはぐはぐはぐはぐニャスはぐはぐ」

料理を頰ほお張ばる音なのか箸はしをしゃぶる音なのか空気の抜けるような声が絶えず漏もれていた

第一章 Stratum city 階層都市33

「うぅぅニャhelliphellipた助けてhelliphellipニャス」

驚おどろいて足を持ち上げ振ふり払はらおうとしたラグナの足に両腕を絡めてぶら下がり三角耳に尻尾

を生やした少女はあわれっぽく訴うつたえる

しがみつく腕うでをほどこうとラグナは足を大きく上下に振ふりまくるが少女の腕がどういう

わけか一向に離れない

「くっこの離しやがれ

なんなんだよテメェは」

「離さないニャス絶対に離さないニャスぅhelliphellip助けてくれないとこのままオマエの足を食う

ニャスよぉぉhelliphellip」

声だけは弱々しくだが腕は言葉に反して力強くラグナの足を摑つかんで離さない

この騒さわぎでも周囲の人間は奇き怪かいなものでも見るような視線を一いつしゆんくれるだけでそれ以上

わろうとせず通り過ぎて行く

面倒なトラブルに巻き込まれる心配はなかったが少なくとも親切な通行人の手助けは見込

めなさそうだった

何度目かでいい加減に諦あきらめるラグナは足を中ちゆ途うと半はん端ぱに持ち上げたまま縋すがり崩くずれるカカ族

の少女を憔しよ悴うすいの表情で見下ろした

「待て待て待て足を食うなてか意味わかんねぇよ助けるってなんだよ」

「うぅぅhelliphellipよhelliphellipよくぞ

いてくれたニャスタオは今とってもピンチなのネもうhelliphellip

もう限界ニャス」

32

た中皿いっぱいに盛ってあったはずの春巻きはいつの間にか最後のひとつになっていた

「こんなにうまいご飯を

ってくれるなんて白い人はいい人ニャスタオはとぉ〜っても感

謝してるのニャス」

両腕を大きく振り回して少女は喜びの度合いを示そうとするその手は指先まですっぽり

と袖そでの中に隠かくれていて猫の前脚を模したように大きく丸くなっていた

ラグナは春巻きを飲み込んでから尋たずねる

「タオってのはお前の名前か」

「ニャス

タオカカニャス」

大きく頷うなずくと尻尾を持つカカ族の少女タオカカはもう一方の手に持ったままだった肉饅

頭をまた一口で頰張り飲み込こんだ

「タオは村を出て勇ましく旅立ったんニャスがhelliphellipすっかりお腹が空いて動けなくなってたの

ニャあのときいい人が助けてくれなかったらタオは今ごろ干からびてカカの干物になって

たニャスこの『ごおん』は忘れないニャスよ」

勝手に身の上話を始めながらタオカカは味噌炒めの皿を抱かかえて残っていた分を全すべて口の中

に流し込んでしまう

まだそれ食ってなかったんだけどとは言えずラグナは渋じゆ面うめんでその様を見守った仕方な

く肉饅頭をひとつ確保すると呆れを込めてため息に肩かたを落とす

「はいはいなにがご恩だよどうせ飯食ったら忘れるだろお前」

第一章 Stratum city 階層都市35

さっきまで力なく下がっていた目も今はまん丸で口も上向きの三日月形となっている

その様を横目に呆あきれ顔でながめながら向かいの席に座っていたラグナは揚げた鶏肉を口に運

んだ分厚い衣ころもがカリカリとしていてうまい久しぶりに直じか火びで炙あぶっただけでない手の込ん

だ食事だった

「helliphellipうまいか」

料理は凄すさまじい速度で減っていく奇妙な少女が嬉きき々として大量のメニューを注文し始めた

ときはラグナはとてもそんなに食べきれないと青ざめたがそんな心配は無用だったようだ

むしろ今となっては支し払はらいのほうがよほど心配だ

先だけ白くなっている尻尾をふりふりと上じよ機うきげんに揺らす奇妙な少女はふかふかの饅頭を両

手に摑つかんで顔を上げた

「うまいニャス

あれもこれもそれもぜ〜んぶうまうまニャス」

「そうかそうかそらよかったよはぁhelliphellip」

こうも屈くつ託たくなく当然のように貪むさぼられるとこいつの頭に遠えん慮りよという言葉はないのかだとか

そもそもどうして自分が見ず知らずの正体不明な少女に食事をおごっているのかだとかなぜ手

を引かれるままに大人しくこの店まで来てしまったのかだとか尽つきることなく浮うかんでくる

疑問もどうでもよくなってくる

少女はうまそうに肉饅頭を一口で頰張る

あっという間に飲み込む様に思わず苦くし笑ようを漏らしてラグナは春巻きをひとつ箸で取り上げ

34

だが現在はどちらかというと統制機構の手に負えない凶きよ悪うあ犯くはんや行ゆく方えの知れないとう

亡ぼう犯など

にかけられた多額の賞金を得て日ひ銭ぜにを稼ぐ者のことを表している

それが全てというわけではないが多くはまともな

につけなかった荒あらくれが暴力手段で稼

げる口として選ぶ道だ

女の咎追いが珍めずらしいわけではないがこれほど無防

でき緊んち張よう感のない咎追いはラグナは見

たことがなかった

「そうニャス今日からなったニャス」

「今日からかよ」

「そんでこいつを摑まえるのネ」

なぜだか誇ほこらしげにタオカカは皺を伸ばした紙をラグナに差し出した

ラグナは肉団子を野菜と一いつ緒しよに口の中で嚙かみ砕くだきながらそれを受け取る街角などに貼はら

れているような指名手配書だったあまりお目にかかれない気前のいい賞金額と共にひどく

不細工な男の似顔絵が描えがかれている

賞金首の名前はラグナザブラッドエッジ

「ぶはほっ

その名前を見た途と端たんラグナは盛せい大だいに肉団子と野菜を咀そし嚼やくしたものを噴ふき出した

「ぶにゃにゃ

いきなりご飯噴き出すなんていい人ばっちいニャもったいないニャスよ」

横で抗こう議ぎしながら最後の肉饅頭を頰張るタオカカの声も耳に入らないラグナはまじまじ

第一章 Stratum city 階層都市37

「忘れないニャス」

突とつ然ぜんピンと尻尾を真まっ直すぐに立ててタオカカはずいと身を乗り出すとテーブルの上からラ

グナを見上げた瞳どう孔こうのない丸い目ときばを並べた三日月の口がお面のようで不気味だ不気味

であるはずなのにどうしてか見つめられると愛あい嬌きようを感じる

「カカは義ぎ理り堅がたい一族ニャス受けた恩は忘れないのネいつかタオが大金持ちになったら

今度はタオがいい人にご飯を

ってやるニャス」

「大金持ちってhelliphellipお前な腹減りで行き倒だおれてた奴やつがなに言ってんだアテもねえくせに」

「ぬっふふふアテならあるニャスよ」

言ってひょいと肉団子を三つ箸に刺さして口に放ほうるとタオカカは椅子までずりずりと体を下

げて服の中からなにかを取り出した

くしゃくしゃになった一枚の紙だタオカカはそれを丸い手でテーブルの上に広げて皺しわを伸の

ばす

「タオは咎とが追おいニャス悪い奴をとっちめてたくさんお金をもらうのネ」

「咎追いだ」

怪けげんそうにラグナは眉まゆを寄せた

咎追いとはいわば賞金稼かせぎだ

元は大量の魔ま素そによって生態系が乱れ大量の新種生物が発生した

にそれらを討とう伐ばつする

べく統制機構が武装を許可した者たちのことを指した

36

「うニャいいニャスよいい人はタオのおんじんニャスからねどーんと任せておくといい

ニャス」

そう言ってタオカカはニシシと笑うと綺き麗れいに舐めた皿をドンとテーブルに置いた

その目の前に

「お待たせしました〜」

若いウエイトレスが新しくいくつもの皿を並べた

肉味噌ののっためん

とパリパリに揚がった

にたっぷりの野菜が入ったあんをかけたもの

焼き豚ぶたをスライスしたものの盛り合わせエビのすり身やら豚のひき肉と香こう味み野菜やらをもっ

ちりとした皮でくるんだ無数の蒸し物

できたての遠えん慮りよ容よう赦しやのない湯気が豊かな香かおりと一緒に天てん井じようへ上がる

「helliphellipは」

頼たのんだ覚えはないそう抗議しようとして気がついた

あのときhelliphellipラグナが自分の手配書を見ていたときだあのときタオカカが一口で食べた肉

饅頭が皿に残っていた料理の最後だった

その直後そういえばタオカカがメニューへ手を伸ばしていたような気がする

「ひゃほ〜ぅうまそうニャス

秘密の抜け道は危ないところなのネいい人もお腹いっぱ

いにしておかないとお腹空いちゃうニャスよ〜」

悪びれるどころか嬉しそうに蒸し物を引き寄せるタオカカの手をラグナは思い切り摑んだ

第一章 Stratum city 階層都市39

と手にした手配書を見る細かく手が震えた

(なhelliphellipなんっだよこの似顔絵

いくらなんでも似てなさすぎだろ

そもそもよくわかっ

てねぇなら似顔絵なんか載のせんなよ俺がこういう顔だみたいに広めてんじゃねぇよ

まさかこれがカグツチの街中にベタベタ貼ってあるのではないだろうかだとしたら憂ゆう鬱うつだ

この顔が『ラグナザブラッドエッジ』の顔だと思われていることもだがこの額で手配

書が出回っているとなるとずいぶんな数の咎追いがラグナを探しているはずだそういう咎追

いはこのカグツチにも多くたむろしているだろう

(普ふ通つうに街中通ってくのはまずいかhelliphellip)

あの青と白の制服連中に見つかるのも厄やつ介かいだが咎追いに見つかるのも厄介だそれこそこ

っちの都合などお構いなしに街中だろうがどこだろうが構わず『仕事』に取り掛かるに

ない

「helliphellipなあタオカカだっけかお前カグツチの上のほうに行く抜ぬけ道とか知らねぇか」

くしゃくしゃの手配書を返しながらラグナは心持ち身を屈かがめて声を低めたもしあるなら

多少悪路であっても面めん倒どう事ごとを引き起こすよりはずっといい

タオカカは甘酢あんだけが残った肉団子の大皿を舐なめながら答える

「おう秘密の抜け道ネ知ってるニャスよ」

「本当か

そりゃいいなあ飯

ってやる代わりにその抜け道まで案内してくんねぇ

か」

38

の腕うでを摑むとウエイトレスの手を強く払った

荷物でも担かつぐようにタオカカを肩に抱だき上げて弾はじかれたように店を飛び出す

「うニャニャッ

タオのご飯

まだ食べてないニャスよ」

「うるせぇ

それどころじゃねえんだよ」

肩かた口ぐちで

痛な声をあげ追いすがるように手を伸のばすタオカカへラグナは焦あせりのままに声を

荒げた

オリエントタウンの大通りへ出ると人波を掻かき分けて持てるき脚やく力りよくの限界にいど

いで走る

「待て

誰だれか捕まえて食いに

げだよ

後方からウエイトレスの金切り声が追いかけてくる

ぎょっとすることにウエイトレスの足はラグナに負けていなかったしゆ

念うねんのせいかもしれな

いラ

グナは足を動かしながら何度も悪態をついたまさかカグツチにやってきて最初に引き起

こす騒そう動どうが食い

げだとはこの街に上がってきたときには思いもしなかった

担がれたタオカカはしょんぼりと尻しつ尾ぽを垂らしてまだ諦あきらめ切れないのか後方へ向けて空を

掻いていた

「うう〜っタオのご飯がぁhelliphellip」

「いいから抜け道の場所を教えろ

店の奴に摑まってミンチにされてぇのか」

「みんち」

第一章 Stratum city 階層都市41

いのあまり腰こしが浮く

「おおまっなに勝手に追加してんだよ

「ニャ

いい人もうお腹いっぱいニャス

ならタオが全部helliphellip」

「ちげぇよ

こんな山ほど注文されていくらなんでも払はらえるか

俺はそんなに金持って

ねぇんだよ

そもそもラグナは仕事を持っていない時折咎追いの真ま似ねごとや日ひ雇やといの仕事で旅費を稼い

だりもするがそんなものは一時しのぎだ金がなくてまともな宿さえ取れないというのに

さっきまでの注文に加えてまだ追加がくるなんてとても財さい布ふの中身が足りると思えない

息巻くラグナの肩に手を置く者があった

ラグナは一度うるせぇとそれを払い落すだが手はすぐにもう一度ラグナの肩を叩たたき手

の主が低く

後から問うた

「お客さん

今helliphellip金持ってないって」

「helliphellipあ」

言われラグナが振ふり向いた先に立っていたのはラグナよりずっと

の低いウエイトレス

だったにこやかに微笑ほほえんでいるがその目はどこか殺気じみている

「金持ってないって」

ウエイトレスはもう一度問う

その直後ラグナはまるで事態がわかっておらず蒸し物をパクパク口に運んでいたタオカカ

40

2199年12月30日||13時35分

灰色の雲に閉とざされた空を

景に一そう

の船が港に到とう着ちやくした

船といっても海を渡わたる船ではない渡るのは空だ

膨れた腹部に人間や機材といった貨物を詰つめて運び左右に伸びた翼つばさに魔素を取りこみ飛行

する魔操船

当然空飛ぶ魔操船が停てい泊はくする港も相応の造りをしている

第十三階層都市カグツチ第五番ポート他に比べて小さく目立たない造りになっている

そこはある特定の目的に多く使われるポートだった

身を寄せるように入港した暗色の魔操船の重々しい稼か働どう音おんが止まりハッチが開いて細身の

階段が下方へ伸びる

銃じゆうを肩かたに下げた青と白の制服

士が数名

りてきて慌あわただしく持ち場につき無線機で

なにやら報告を交かわす

それから遅れることしばしポートの平たい地面に向かう階段に黒い革かわぐつの足がかけられ

た続いてひょいと細身を覗のぞかせるように現れたのは黒いスーツに身を包んだ

の高い男だ

第一章 Stratum city 階層都市43

「肉だよ肉

さっき並んでた料理になりたくなきゃさっさと教えろ」

なにも本気で店員が自分たちをミンチにすると思って言ったわけではないが遅れて意味を

理解したタオカカは真に受けたらしいびくりと尻尾が飛び上がって警けい戒かいするように太く膨ふく

れる

「お肉にされたらお肉が食べられなくなっちゃうニャス

それはいやニャス」

肩の上で器用に身を捻ひねってラグナの前に着地するとタオカカは獣けもののように両手を地面につ

いて走り出す

「いい人こっちニャス」

「よしわかった」

タオカカが飛び込むようにして細い路地に入るい一つしゆん反応が遅おくれたもののラグナも空の籠かご

をひっくり返しながらそれに続いた

ネオンの看板から遠くなりぐっと辺りが薄うす暗ぐらくなる

走りながらラグナはげんなりと自じちようするように思った

今日の食い

げの分明日から自分にかけられている賞金が増額するかもしれないなhelliphellipと

42

青のブーツで雨水を

ね上げながらハザマのいる管理小屋の前まで行くと軽く息を整えて

を正す

空色の瞳ひとみは凜りんとしており生き真ま面じ目めな表情をしていた

「お待たせしてしまってすみませんでも一声かけてくださればよろしかったのにhelliphellipまだ

中にいらっしゃるのかと思って探しておりました」

「おやおやそれはそれはお手数をおかけしましたツバキヤヨイ少しよ尉うい」

その瞳が示す通りどこまでも生真面目に話す女性をツバキと呼んでハザマは口の端はしを深く

吊つり上げ笑えみを浮うかべた

ツバキヤヨイ少尉彼女はハザマのように諜報部の所属ではなく世界虚空情報統制機構

武装魔ま術じゆ師つし第四師団の所属だった

世界虚空情報統制機構とは国家というがい

念ねんのなくなった現世界においてその代役を担になう重

大にして巨きよ大だいな機

だ帝みかどと呼ばれる絶対的な決定権を持つ存在を頂点に掲かかげ世界中の施し政せい

司法軍事あらゆる社会的基き盤ばんを管理し運営している

それだけに設けられている部署は膨ぼう大だいであり役割の異なる部署が共にひとつの任務に当た

ることはひん

繁ぱんにあることではない

だがツバキとハザマはちが

う部署でありながらとある任務のためにふたりでカグツチへとや

ってきていた

「いやぁしかし生あい憎にくの天気ですねぇこの雨の中広いカグツチでひとりの男を捜そう索さくすると

第一章 Stratum city 階層都市45

った

緑の髪かみにのせた黒い帽ぼう子しを指で押さえて男は尖とがった顎あごを上向かせ空を仰あおぐ目ま深ぶかにかぶっ

た帽子のせいで目元は見えないが薄うすいく唇ちびるは不満そうにへの字に歪ゆがんでいた

「あらま雨ですか」

空一面を埋うめ尽つくすように広がる灰色の雲からは静かな雨が

っていた

もうずいぶん前から

り続いていたようで狭せまい五番ポートはどこもかしこもすっかり濡ぬれ

ている雲に動きもないようだししばらくはこのまま

り続けるだろう

やれやれとうんざりしたようにため息をつくと男は足早に屋根のある場所へと移動した

黒スーツの男は世界虚こ空くう情報統制機構||多くは統制機構とり略やく称しようで呼ぶ機

のち諜よう報ほう部に

在ざい籍せきしている名はハザマ階級は大たい尉い

彼が乗ってきたこの魔操船はその諜報部の名前で使用された船だ

この五番ポートはそういう統制機構の中でも公おおやけにできない任務や用件のときに多く利用さ

れるいわば人目を避さけるためのポートだった

「ハザマ大尉

外にいらしたのですね」

魔操船の階段から女の声がかかりスーツについた水すい滴てきを払っていたハザマは顔を上げた

青と白の制服にそろいのポンチョを羽織った若い女性が足早に階段を駆け下りてきた青の

ベレー帽ぼうをかぶっておりそこから腰をも越こすほど長く伸のばされた鮮やかなカメリアレッド

の髪が流れている

44

視線を上げればここからでも高山の頂上から突つき出るようにそびえる美しく壮そう麗れいな支部の

が見られたただ今日は悪天候のため雨のカーテンが視界を煙けむらせる

霞かすむ支部を見上げてツバキはわずかに眉まゆを寄せた

「helliphellipなぜキサラギ少佐はカグツチなどに」

それはジンのことを知る者なら誰もが抱くような疑問だった

第四師団団長ジンキサラギは

常に冷静な人物だメリットとデメリットを十分分ぶん析せきした

上で行動する思し慮りよ深ぶかさを持っているしなにより突然統制機構に

を向けて己の立場を危あやうく

させるような愚ぐち直よくなタイプではない

こんなことは実に『彼らしくない』行いだ

思い悩なやむようなツバキの

にハザマは少し驚おどろいたように「おや」と言った

「これは意外ですねツバキヤヨイ嬢じよう貴女あなた

ほどの聡そう明めいで優ゆう秀しゆうな方がおわかりにならな

い」

口元に笑みを刻んで問うハザマの試ためすような口調にツバキは小さく胸中がざわつくのを感

じたいや

味みな言い方をする男だ

ツバキはハザマという男をよくは知らないだから彼がどういうつもりでこういった物言い

をするのか

しもつかない

だがこの一言だけで黒いスーツに身を包んだ彼を好ましくないと判断する程度には気に障さわ

る語調だった

第一章 Stratum city 階層都市47

なると中々骨が折れそうです」

また帽子に手をやって雨を

りこぼす曇どん天てんを見上げハザマが今度はどこか愉ゆ快かいそうに言う

彼らの任務は人探しだった誰を探すのかといえば

「それでもなんとしてもキサラギ少しよ佐うさを探しませんとhelliphellip」

ツバキは視線を足元に落とし己おのれに言い

かせるように呟つぶやく

ジンキサラギ少佐それがツバキとハザマが探している男の名前だった

武装魔術師第四師団の団長でありツバキにとっては直属の上司だ彼の秘書官として側そばに

仕え支えてきた

その彼が数日前突とつ然ぜん統制機構の本部から

を消した

任務でもなく届け出もないこれは統制機構において重大な規律い反はんだ

一師団を預かる団長が独断行こう為いにより行ゆく方え不明などという事態は前代未みもんだ部下や他師

団に影えい響きようを与あたえるからと今のところこの一件は公になっていない

だが現状がどこからか漏えいする可能性もあるその前になんとしても連れ戻もどさなければと

ごく秘ひ任務を命じられたのがハザマであり彼が協力者に選んだのがジンキサラギの秘書官で

あるツバキだった

冷たい雨が空気を冷やすそのせいだろうか五番ポートは金属のにおいがたちこめていた

濡れた灰色の階段の向こうに上層階らしい整理された街並みがうかがえる奥へ進んでいくつか

階層を上がれば最上層である世界虚空情報統制機構カグツチ支部だ

46

だがハザマは欠片かけら

も気にした様子なくむしろそれこそ子供の反はん抗こう的な物言いに噴ふき出すよ

うに軽く笑った

「あららそっちでしたかこれは失礼いたしましたツバキヤヨイ少尉」

帽子に手をやりわずかに持ち上げて会えし釈やくしてみせるその間もずっと彼の細い首はくつく

つと喉のどを鳴らすような笑いに震ふるえていた

「少佐がなにをお考えなのかなんて我々にわかるはずもありませんよそれこそご本人を見

つけて直接お尋たずねになってはいかがです」

そうできないから疑問なのだと苦く胸中で思ったもののツバキは余計な言葉を奥にしまい

こんだ今必要なのは疑問でも感情でもないそう自分に言い

かせる

「helliphellip了りよ解うかいしました大尉」

ツバキが生き真ま面じ目めに答えるとハザマはもうひとつ笑ってから切り出した

「さていつまでもおしゃべりしていても仕方ありませんしそろそろお仕事を始めるとし

ますか」

仕事つまりはジンキサラギの捜索だ

ツバキはハザマへのけん

悪お感ではなく任務への使命感に表情を引き締しめる

ハザマは雨に濡れたカグツチの街並みを見やりながらにんまりと唇を引いて言葉を続けた

「まず確かく認にんしておきましょう我々の任務はジンキサラギ少佐を捕ほ獲かくし本部へ強制帰き還かんさ

せることただし少佐の失踪の件は公にされていませんからカグツチの

士たちへは内密に

第一章 Stratum city 階層都市49

小波のような不快感を飲み込んでツバキは

士の顔を取り繕つくろいせ筋すじを伸ばすたとえ好ま

しくなくてもツバキは少尉でハザマは大尉上官だ

「申し訳ありません大尉私にはhelliphellip」

「貴女からの報告にあったではありませんかキサラギ少佐は例の『死神』に

する報告を受

けた翌日に

を消したのだと」

ハザマは両手を軽く広げてみせる

さっきのからかうような物言いのせいだろうかそんな仕草でさえツバキにはどこか

に映る

「報告の中には『死神』つまり指名手配中のラグナザブラッドエッジがカグツチに向か

っているらしいという情報もあったそのうえで少佐がカグツチに向かったのならそれはも

う『死神』を追っての行動だとしか考えられないでしょう」

統制機構を出たジンの行き先がカグツチであるとの情報を持ってきたのはハザマだった

うっかりそんな情報を摑つかんでしまったがためにこんな辺へん鄙ぴな場所への任務を命じられてしま

ったと愚ぐ痴ちめいたことをツバキは魔操船の中で散々

かされていた

「恐おそれながらハザマ大尉それは私にもわかります私が疑問なのはなぜ少佐が統制機構を

飛び出してまで『死神』を追わなければならなかったかです」

いささかむっとしてツバキは言う言ってからすぐ無礼が過ぎたかと危きぐが過よぎった

にあるまじき子供じみた態度だったかもしれない

48

てもらえますか」

「別件ですか」

戸と惑まどうように尋ねたツバキの質問に対しハザマは肩をすくめるような苦くし笑ようだけを返し具

体的な言葉は告げなかった

ハザマの所属は諜報部だ他部署へ言えぬ用事も多かろう見えない目的に少々の怪けげん

さを

感じながらもツバキは配はい慮りよのつもりでそれ以上尋ねるのをやめておいた

「わかりましたでは下層のhelliphellipオリエントタウンの辺りから調査してみます」

「そうですねあそこはカグツチでも一番広いエリアですし身を隠かくすにはうってつけですか

らいいと思いますよ」

うんうんと適当に頷うなずきながらハザマは一歩歩み寄るとわざわざ腰こしを折って下方から覗のぞき込

むようにツバキを見た

帽子のつばで瞳が見えないけれど絡からみつくような視線が確かにこちらを捉とらえているのがわ

かる

子供に言い

かせでもするようにハザマは人差し指を一本立てた

「ただひとつ気を付けてくださいね治安が行き届いていない場所はキサラギ少佐が身を隠

している可能性も高いですが同時にラグナザブラッドエッジがうろついている可能性も

あります万が一おふたりが鉢はち合あわせて戦せん闘とうなんてことになったらもう私たちには手も足も

出せませんから」

第一章 Stratum city 階層都市51

お願いしますよ部外者はもってのほかです」

「はい」

「それから現在カグツチにはラグナザブラッドエッジが潜せん伏ぷくしているとみられますそ

のためD警報が発令されていますのでそのつもりで」

D警報とはつまり統制機構による特別警けい戒かいが行われているという意味だそのためカグツ

チの住民でない者や統制機構とは

係のない他機

がこの都市でなにがしかの活動を行うこ

とを禁止している

「D警報に抵てい触しよくする者と接触した場合はカグツチの支部に連れん絡らくを取ればよろしいのでしょう

かそれともこちらで対処したほうが」

しゃんと

筋を伸ばしハザマを見み据すえて問うツバキの様はどこにでもいる一

士と片付け

るにはいささか毅き然ぜんとしすぎる品をたたえていた

それもそのはずだ彼女は統制機構を創設当初から支え幾いく人にんも重役をはい出しゆつしてきた十二宗家

のひとつヤヨイ家本家の娘むすめなのだから

だがハザマはツバキの纏まとう品もそこからくるどこまでも真面目な性しよ分うぶんもなにもかもが面めん

倒どうくさいと言わんばかりに口元を歪めると実に雑に答えた

「あー適当でいいですよお任せします」

「はhelliphellipはい」

「じゃあ私はちょっと支部に別件の用事があるんで先に下層のほうから捜索を始めておい

50

ハザマの気さくさに引きずられることなくツバキはあくまで部下として返事をすると堅かた

苦くるしく

筋を正した

「それでは大たい尉い私は下層を見て回ってきます」

「ええよろしくお願いしますよ今のカグツチは物ぶつ騒そうですからお気をつけて」

「はい失礼いたします」

腰を折って一礼しツバキは管理小屋の狭せまい軒のき先さきから雨の中へと駆かけ出した小さく水音を

はねさせながらポートから街中へと向かう階段を上がっていく

腰までを覆おおう青いポンチョがカメリアレッドの髪かみと共に躍おどり去っていくのをハザマは管理

小屋の壁かべに寄りかかって見送っていた

やがてひ翻るがえるポンチョの青もツバキが

ね上げる水の音も完全に雨の向こうに消えるとゆっ

くりと身を起こす

「本当にお気をつけて」

低く声を喉のど元もとで濁にごらせるように呟くとハザマもまた雨の中へと悠ゆうゆ々うと踏ふみ出した

第一章 Stratum city 階層都市53

「そうhelliphellipですね」

ツバキは身を引くように俯うつむいて苦々しく答えた

ジンは統制機構でも並ぶ者なしとまで言われる剣けんの使い手だそのうえ約百年前の黒き獣けものと

の戦争『暗黒大戦』で使われたとされている事象兵器

アークエネミー氷ひよ剣うけんユキアネサを所持している

そして『死神』ラグナザブラッドエッジはこれまで数々の統制機構支部をたったひとり

で壊かい滅めつさせてきた相応の力を持った人物

このふたりがもしも刃やいばを交えることになればツバキにもハザマにも止めることはできない

その最大の理由をハザマがなぜか陽気に言い放つ

「いやはやなにせ私も貴女も戦闘は専門外いざ荒あら事ごととなったらからきしですからねぇ」

ツバキは統制機構の士官学校を出ているため最低限の戦闘訓練は経験しているだがそれ

も護身術程度のことだ卒業後はジンの秘書官として日々書類や来客の相手ばかりしてきた

そんな状態で戦闘技術の向上が見込めるわけもない

一方のハザマも自身で言う通りち諜よう報ほう活動にこそスキルはあれど武力をもって事態に当たる

ことは不得手だった

ハザマは武具の似合わない生白い手でひらりと宙を払はらってにんまりとく唇ちびるを引く

「まお互たがい無理せずいきましょう我々のお仕事はキサラギ少佐を連れ帰ることですから

そこをお忘れなく」

「承知いたしました」

52

の声だった

「しhelliphellip失礼いたします」

答える声が震えたドアノブを摑む手はもっと震えていた

転んだりしたらどうしようああどんな顔をしていたらいいだろう顔が赤くなってしま

いそうでそれだけは必死に堪こらえて平静を取り繕って

ツバキは部屋の中へと入る

最初に目に入ったのは机に向かってペンを走らせるひとりの男性の

だった

後にある窓から入り込んだ日の光が掠かすめて彼の美しい金色の髪を煌きらめかせていた長い

睫まつ毛げの向こうで情感薄うすく書面を見下ろしている瞳ひとみは離はなれた部屋の入り口からでもわかる澄す

んだ緑色をしているはずだ

部屋には彼以外誰だれもいなかった

を丁てい寧ねいに閉めると室内にはツバキとふたりきりだ

何事か書き終わったらしく机に向かっていた彼はどこかおっくうそうに顔を上げるそれ

からその目を驚おどろきに見開いた

「ツバキhelliphellip」

呼んでくれた声は

の外で

いた義務的な声とはちが

っていた

感情の温度が灯ともった声こわ色いろは表情と同じように驚いた風でそのせいかさっきより少しだけ上うわ

ずったように音が高い

「どうしてお前がここにhelliphellip」

第一章 Stratum city 階層都市55

helliphellipそれはほんの数年前のけれどかけがえのない数年をさ遡かのぼった

ある日のことだった

世界虚こ空くう情報統制機構統合本部

真まっ直すぐに伸のびる白タイルの床ゆかをツバキは緊きん張ちようの面おも持もちで歩いていた

初めて袖そでを通してまだ日数のたっていない青と白の統制機構

士の制服はまだ体に馴な染じんだ

とは言いがたくて頭に載のせたつばのない帽ぼう子しもコツコツと床を叩たたくブーツもそつなく着

られているか心配で仕方ない

胸に書類のファイルを抱えてこれで何度目になるかわからないけれど最後にもう一度長く

伸ばした髪を指先で整えて

それからツバキは目的地であったとびらを控ひかえ目にノックした

「||入れ」

一いつ拍ぱくの間をおいて

の向こうから声が返ってくる

そのしゆ間んかんツバキの心臓がドキリと大きく

ねた

感情の遠い義務的な声けれどわずかに少年らしい響ひびきの残った声はツバキがよく知る人

54

十二宗家本家の出の者が同様に宗家本家の出であるジンの秘書に着くという事例は稀まれだ

その辺りからツバキの無茶を

したのだろうジンは呆あきれたように苦笑する

思わずツバキは震ふるえる吐と息いきを漏もらした久しぶりに見たジンの笑顔だった

「秘書が来るとは

いていたがまさかお前だったとはなhelliphellipよろしくツバキヤヨイ少

尉」そ

う言ってジンは白い手てぶ袋くろをはめた手を差し出す

ツバキはファイルを小こ脇わきに抱えると見上げてくる綺き麗れいな緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し

ながら差し出された手を握にぎった

この日この時からツバキの師団長秘書としての日々が始まった

を追いかけるばかりだった士官学校での後こうはい時代とは

うとなりに

側そばに立ち

務を支える

時間が始まったのだった

2199年12月30日||17時30分

カグツチの下層へ

りていきながらツバキは注意深く周囲へ視線を向けていた

もう少し先へ行けばオリエントタウンと呼ばれるエリアに入るはずだそこはカグツチの中

第一章 Stratum city 階層都市57

仕事中らしからぬ砕くだけた物もの腰ごしにツバキは強こわ張ばっていた頰ほおを緩ゆるめたすとんと緊張が抜ぬける

「書類は届いているはずですよお読みになっていないんですか」

ツバキはファイルを抱えて机の前まで行くといぶかしげな彼へ敬礼し

筋を伸ばした

「本日付けで武装魔ま術じゆ師つし第四師団団長ジンキサラギ少しよ佐うさの秘書官に任命されましたツバ

キヤヨイ少しよ尉ういであります少佐よろしくお願いいたします」

型通りだけれど昨晩から部屋で何度も練習した言葉だ

ミスなく言えたことにツバキがほっとしているとジンが驚おどろきに持ち上げていた眉まゆをわずか

に怪けげんそうに寄せた

「少しよ尉うい」

問われた理由はツバキにもよくわかる

ツバキは世界虚こ空くう情報統制機構において貴族的地位にある十二宗家の生まれだ十二宗家の

者は統制機構の士官学校卒業後最低でも中ちゆ尉ういの階級を与あたえられる

ツバキも例外ではなく卒業直後は中尉であったそれがなぜ現在少尉なのかというと

重大な理由がある

「それはその」

ツバキは言いにくそうに口ごもった

本来別の配属だったところをどうしてもジンの秘書官になりたいと粘ねばりその要望を通す代

わりに

格となったとは彼の前ではとても言えない

56

かしこも濡れていた

通り過ぎる建物細い横道の向こう物もの陰かげすれ

う人ツバキは視界に映るすべてに神経

を向ける

自然と歩調が速くなるのは募つのる焦あせりゆえだ知らず知らずのうちに手はきつく握られていた

(キサラギ少佐helliphellip)

もう何度心の内で呼びかけたかわからない

唇を固く引き結びまるで縋すがるように視線を左右へ走らせるその表情はただ行方ゆくえ

不明の上

官を探しているだけには留とどまらない深い感情の揺ゆれがあった

(どこにいるんですかhelliphellipジン兄様helliphellip)

ツバキはジンキサラギの秘書官だだがそれ以前からジンはツバキにとって特別な人だ

った

ツバキが十二宗家ヤヨイ家の娘むすめであるならジンは同じく十二宗家キサラギ家の子だ互い

に幼いころから知っていた幼いころから顔を合わせ言葉を交かわし時には子供らしく遊ん

だりもした

ツバキが統制機構の

士を目指して士官学校に入ったのも先に入学し将来は師団長を期待

されていたジンの後を追いかけたかったからだ

ジンは勉強も武術もなんでもできたけれどツバキは運動が苦手だっただからせめて勉強

だけは追いつこうと必死に学んだ学生時代はジンが会長を務める生徒会で共に働いたことも

第一章 Stratum city 階層都市59

でも一ひときわ広く人口の密集したエリアだと

いている

人を探すには不向きな場所だだがだからこそジンが足を向けた可能性はあるとツバキは

考えていた

そこならば容易に人ごみに紛まぎれることができるし入り組んだ路地や階層都市の構造のすき間ま

に身を隠すこともできるなにより下層は統制機構の

士が少なく上層に比べて監かん視しの目が

緩い

統制機構が追手をかけることはジンも十分わかっているだろうならばその目を避さけるのは

当然のことだ

同時に同じように追われる身であるラグナザブラッドエッジが下層を潜せん伏ぷく場所に選ぶ

可能性もジンならば考えたはずだ

硬かたい地面に青いブーツのくつ音おとを響かせてツバキは足早に歩く鮮あざやかな色の髪がしっとり

と雨に濡ぬれる

短い階段を

りるとその先はオリエントタウンの街外れだった

使われているのかいないのかわからない寂さびれた雰ふん囲い気きの倉庫が並びその先にわずかに芝しば生ふ

の植えられた広場のようなものがあるぽつんと佇たたずむ外灯は所々に錆さびの染しみがこびりついてい

た下

層は上層の地盤があるためほとんどが空をさえぎられ屋外でありながら屋内であるかのよう

に天候の影響を受けにくいだがこの辺りはまだ他層より突つき出しているらしく雨でどこも

58

けれど『死神』を統制機構の他

士と同じように考えるのは危険だ

彼は単身で統制機構を相手に反逆行こう為いを繰くり返かえしこれまでただの一度も拘こう束そくされることな

くとう

亡ぼうを続けている並なみ大たい抵ていの力では不可能だということを彼を追うべき立場でもあるツバ

キはよく理解していた

ラグナはおそらくとても強いもしかしたらジン以上に

それになにより恐おそれるべきはそのき凶よう悪あく犯が持つ魔ま導どう書しよだ

||蒼の魔道書

ブレイブルー

かつて黒き獣けものと戦った暗黒大戦時代にある魔ま法ほう使つかいによって術式という技術が開発された

魔法を模したもので魔素を使い火を熾おこしたり水を呼んだりと様々な現象を引き起こすことが

できる技術だ

その術式を扱あつかうために必要な鍵かぎが魔道書だった

蒼の魔道書

ブレイブルー

は世界中に数え切れないほど存在している魔道書の中でも最強と囁かれている

(ジン兄様でも蒼の魔道書

ブレイブルー

を相手にして無傷でいられるはずがない下手をしたらhelliphellip)

そこまで考えてツバキは走った悪お寒かんに身を震ふるわせた

蒼の魔道書

ブレイブルー

は最強とその威いり力よくを絶大に評価されながらも詳くわしいことは知られていないとい

う奇きみ妙ような魔道書でもあった

そもそも魔道書は〞書〝でありながら形状は様々で本の形をしているとは限らない

ラグナザブラッドエッジの蒼の魔道書

ブレイブルー

も彼が持っているという事実は認にん識しきされている

第一章 Stratum city 階層都市61

あった

淡たん白ぱくな物言いをしたり鋭えい利りな目つきをすることがあったから周囲は時折彼のことを冷たい

人だと囁ささやいた

けれどツバキにとってはいついかなるときも彼は優やさしい兄だった

細く美しい金色の髪に涼すずしげな緑色の瞳すらりとした体たい軀くに白い肌はだ整った顔立ちそ

の聡そう明めいな横顔に時々本当に時々だけれどhelliphellip見み惚とれたりもした

頼れるツテというツテを頼ってどうにかジンの秘書官の座を手にしたときはどれほど嬉うれし

かったことか

慕したっていた憧あこがれていた屋や敷しきの奥でひとり毬まりつきをしていた幼子のころから今でもずっ

「ジン兄様helliphellipっ」

急ぎ足だった歩調はいつしか小走りに変わっていた爪つま先さきが小さな水たまりを踏んで水すい滴てきを

ね上げる

一刻も早く見つけ出したかった心臓が軋きしむように胸を打つ

ツバキの頭に浮うかぶ最悪のケースはやはりどこかでジンと『死神』ラグナザブラッド

エッジが遭そう遇ぐうしてしまうということだった

ジンは強い統制機構の中でも彼とまともに剣けんを交えることができるのは数えるほどしか

いないだろう

60

ぎゅっと一ひときわきつくこぶしを

胸むな元もとで握るとツバキは首をふって雑念を払はらった

余計なことを推測している場合ではない今は一刻も早くジンを探すことそれだけを考え

なければ万が一今回の行動のせいでジンが反逆者とみなされたりしたら取り返しがつか

ない

急ごう自分をしつ

咤たするように大きく足を踏ふみ出してなにやら小さく物音の

こえた広場

の裏手へ回ってみる

物置だろうかふたつ並んだ小屋の裏を通り抜けようと狭せまい角を曲がった

その途と端たん目の前に壁かべが現れた

「きゃっ

あまりに突とつ然ぜんのことでとても対処できずツバキは進入した

いそのままに壁に激げき突とつした

だが直後に気付く

壁というにはあまりに分厚く建材にしては感かん触しよくがやわ

らかい

「むhelliphellip」

壁の向こうから声がした腹に響ひびくような低い男の声だ

ツバキの目の前にそびえるそれは壁などではなく見上げるほど巨きよ大だいな男の

中だった

「ああすまなかった怪け我がはないか」

そびえる巨きよ軀くはその異様なまでの圧あつ迫ぱく感に似合わぬ紳しん士し的な物もの腰ごしで語りかけのそりと重く

振ふり返る

第一章 Stratum city 階層都市63

もののそれがどんな形状をしているのかはわかっていない

それどころかいつどこで蒼の魔道書

ブレイブルーが造られその秘ひめたる力はどんなものなのか世界

虚空情報統制機構のち諜よう報ほう部ですら正確には把は握あくしていないという

ただでさえ強い『死神』であるのにそのうえ正体のわからない魔道書まであってどう楽

観視できるというのか単身でいどみかかるなど無茶にもほどがある

(helliphellipジン兄様はラグナザブラッドエッジを捕つかまえるためにひとりでカグツチまで来た

のかしら)

物もの影かげに目を凝こらしながらツバキは独り言のように思った

たとえ独断行動によって強制帰き還かん命令が下されているとしてもジンは統制機構の

士であ

り師団長だ『死神』を追って統制機構を飛び出したのだとしたらその目的は凶悪犯の捕ほ縛ばく

以外に

えられないとツバキは思っていた

けれど本当にそうなのだろうかふとそんな疑念が過よぎる

(でもだってそれならどうして誰にも言わないで出ていく必要があったっていうの私に

もなにも言わないで)

なによりそのことが胸に突き刺ささる

ジンは心根の読めない人だけれどそれでもなにかあったときはいつだって一声かけてくれ

たのに

「ううん理由はジン兄様を見つけてから直接

けばいいことよ」

62

者も多いそのほとんどはべつ

称しようとしての呼称だ

赤鬼と呼ばれた巨きよ漢かんがどんなつもりでその

称を使ったのかはツバキには読めないけれど

好感情でないことは見るからに明らかだった

テイガーは身構えることこそしなかったものの眉み間けんに深い皺しわを刻み厳いかめしい渋じゆ面うめんでツバ

キを見み据すえる

「helliphellipすまん図書館の

士と接せつ触しよくした」

ツバキから視線を逸そらし耳元へ大きな手をやってテイガーが低く何者かへ告げる直後に

ノイズのような音が走った通信だ

「通信を切ってくださいそこを動かないで」

素す早ばやくツバキは護身用に支給されているけん

銃じゆうを腰こしから抜ぬいたしっかりと両手で握にぎり銃口

を赤鬼へ向ける

テイガーはわずかに首を動かしてツバキを見やったもっとも分厚いレンズの丸眼鏡ごし

では奥の眼まな差ざしまではうかがえない

見下ろす威い圧あつ感に気け圧おされそうになりながらもツバキは努めて厳しく赤鬼を睨にらみ据すえた

「現在第十三階層都市カグツチにはD警報が発令されています第七機

を含ふくめ全すべての他機

の介かい入にゆうは禁止です答えなさいここで一体なにをしていたのですか」

「やれやれ銃を下ろせ

士の少女そんな玩おも具ちやのようなものでは私のボディを傷つけるこ

とすらできんぞ」

第一章 Stratum city 階層都市65

異様なのはなにも体の大きさだけではなかった

人の肌にしては赤みの強すぎる肌の色ただでさえ屈くつ強きような太い腕うでに取りつけられたぎ仰ようぎ々ようしい

手て枷かせのようなパーツ引き締しめられたく唇ちびるから上向きに伸のびる白いきば

鬼おに

約百年前に滅ほろびた日本という国の昔話にそんな怪かい物ぶつが登場したはずだツバキは幼いころに

読んだ絵本を思い出す

それと同時に目の前にいる赤い巨きよ人じんが誰だれなのかを思い出した

「貴方あなたhelliphellip第七機

の赤あか鬼おに」

呼ぶと同時にツバキは数歩下がって身構えた

第七機

術式を主体とした統制機構の世界統治に異を唱え術式に頼たよらない世界を作ろう

と企くわだてている外部機

赤鬼はその第七機

に所属する兵士でありその巨軀からも想像できるように圧あつ倒とう的てきな制圧

力を誇ほこる

正式名めい称しようはTR0009アイアンテイガー

第七機

の研究者によって造られたサイボーグだ

向こうもこちらの

に気付いたようでツバキの胴どう回りよりも太そうな足を一歩引いた

「その制服図書館か」

術式の乱用を防ぐために世界中の魔道書を集め管理していることから統制機構をそう呼ぶ

64

きません」

まるでなだめるように語りかけるテイガーの語調が余計にツバキの態度を頑かたくなにさせる

ここで弱よわ腰ごしを見せればそれは統制機構そのものが第七機

に対して弱腰になったとみなさ

れるようなそんな気がしていたそんなことは許されない

世界の秩ちつ序じよを守る統制機構の

士が平和のために戦う武装魔ま術じゆ師つし第四師団の団長秘書が

規律を犯おかした第七機

の兵士と取り引きめいたことをするなんて

銃を構え巨体の赤鬼を見据えたままツバキは手の中に握りこめる小さな通信機を取り

出した

ひとりでは対処しきれない早急に応おう援えんを呼ぶ必要があった

「武装魔術師第四師団所属ツバキヤヨイ少しよ尉ういです現在カグツチ下層オリエントタウンで第

七機

のhelliphellip」

「参ったなできれば穏おん便びんに済ませたかったのだが」

赤鬼が低くなにごとか呟つぶやく

その言葉の意味をツバキが理解するより早くテイガーが大きく前に踏み出した

伸ばされた腕がまたたく

間にツバキに迫せまる軽く握られていた

がツバキの目の前で開かれるや

否いなや

「きゃぁっhelliphellip」

放たれた電でん撃げきが通信機を弾はじき飛ばしツバキに細い

鳴を上げさせた

第一章 Stratum city 階層都市67

「っそんなことは

いていません質問に答えてください」

呆あきれたようなテイガーの物言いに咄とつ嗟さに腕を引き戻もどしそうになったがそれを堪こらえてツバキ

は銃口と眼光を向け続ける

相手はサイボーグだ戦いになったらもちろん勝ち目はないがそれ以上ににげられたらと

ても追いつけない

自分の任務はジンキサラギの捜そう索さくだと重々承しよ知うちしているだが周囲には他に統制機構の

士の

はないここで見みのがせば彼ら第七機

がカグツチと統制機構にどんな混乱をもたら

すかわからないと

えるととても目をつぶることなどできなかった

ザザッと再びノイズが走る

「ああ大だい丈じよ夫うぶだ問題ないすぐに任務に戻る」

通信の相手の声はツバキには

こえないただそれに答えるテイガーの声はあまりに危機感

から遠くすでにツバキとの問題は解決したとでも言うかのようだ

侮ぶじ辱よくされたような思いに駆かられてツバキは鋭するどく声を尖とがらせる

「通信を切りなさい

勝手な行動は許しません」

「そういきり立つな我々はなにも統制機構の業務を妨ぼう害がいするためにカグツチに来たわけでは

ないどうだここはお互たがいかかわらなかったことにしないかこのまま行ってくれれば私は

お前に危害を加えなくてすむ」

「それは反逆の意志ありということですか

どんな目的にせよこの場を見

すわけにはい

66

2199年12月30日||18時00分

幾いくつの路地を抜け幾つの角を曲がっただろう

人のような

をしながら人にあるまじき動きで先導するタオカカがラグナを連れてやってき

たのは外の明かりも差し込まぬ暗い暗い下水道だった

「こっちニャスよいい人〜」

呼びかけタオカカは投とう棄きされたらしい瓦が礫れきやら壊こわれた家具やらの山をひょいとと

び越こえた

外から隔かく離りされた場である上に時間も遅おそいたとえ微かすかなすき

間まがあってもわずかな光さえ

望めない

それなのにラグナやタオカカが問題なく歩けているのは投棄された瓦礫や積み上がったヘ

ドロにこびりついて生えている奇きみ妙ような苔こけのおかげだった

それらがほのかに青緑色の光を帯びているせいで下水道は一寸先も見通せない暗くら闇やみに閉とざ

されずにすんでいる

タオカカを追いかけて粗そ悪あくな足場に多少もたつきながらもラグナが続く

「おい本当にここから上に出られるんだろうな」

第一章 Stratum city 階層都市69

その一撃だけでツバキの意識は遠のいたかくりと膝ひざが折れ力なく崩くずれ落ちる

「っとhelliphellip」

そのたおやかな体が硬かたい地面に倒たおれ伏ふす前についさっきまで電撃を纏まとっていたテイガーの

腕が受け止める

そのまま抱かかえ上げると力なく気を失った青と白の制服の少女を見下ろしテイガーはため息

をついた

「やはりひ戦せん闘とう要員か無茶をする」

『helliphellip言っておくが

わるなよ』

ノイズが走りテイガーの通信機から不ふ愉ゆ快かいそうな女の声が漏もれた

ツバキを抱えたままテイガーは空いていたもう一方の手を耳元にやる上向きの

のよう

な犬歯が突つき出た口元はツバキと対たい峙じしていた先さき程ほどよりもさらに苦々しく歪ゆがんでいた

「雨の中でこんな街外れに放ほうり出すわけにもいかないだろうまだ若い娘むすめだ」

『任務が最優先だ余計な時間はない』

「helliphellip少しの間通信を切るぞココノエ」

『なんだと

おい勝手な真ま似ねはhelliphellip』

装着している本人以外には

こえないであろう小さな音をたてて通信は途と切ぎれた

テイガーは雨

る広場に

を向けて歩き出したその足が向かう先には空を上層の市街に

さえぎられ提ちよ灯うちんの明かりとネオンが煌きらめく薄うす暗ぐらい街オリエントタウンが広がっていた

68

「ニャス」

「かっぱらいじゃねぇか」

張り上げたラグナの声はくわんと寒々しく下水道に響ひびいた

その反はん響きようが

まると今度はまたじめっとした静けさがやってくるどこからか滴したたり落ちて

床では

ねる水の音がいちいち不気味だった

色いろ濃こい影かげの向こうで得体の知れないものが蠢うごめいてこちらを覗のぞきこんでいるような錯さつ覚かくを抱

くぞ

っと走った悪お寒かんにラグナはぶるりと身み震ぶるいし先を行くタオカカの後を追う

がhelliphellipラグナは不意に顔をしかめると足を止めた

(錯覚じゃねえ誰かがこっちを見ていやがる)

淡あわく光る苔が刻んだ色濃い影の奥歪いびつな瓦礫の山のどこか

視線を感じる

いや視線だなんて生易しいものではないもっと根本的なもの存在や意志そのものとい

ったものがこちらを一心不乱に捉とらえているようだ

「いい人〜

どしたニャス」

ラグナがついてこないのを不思議に思ってタオカカが引き返してくる積み上げられたな

にかの残ざん骸がいを軽かろやかに

び越え着地するその小さな足音がきっかけになったのだろうか

「キキキキキキキキキキキキ」

第一章 Stratum city 階層都市71

瓦礫の山から飛び

りた先がオイルかなにかでぬめるラグナは反射的に顔をしかめて三

角耳がぴくつく白いフードの後頭部へ少々の苛いら立だちを込めて問うた

抜け道とは往々にして楽な道ではないとラグナはこれまでの経験で学んでいただがここ

は今まで通って来た『抜け道』と比べても相当な悪路だ

濡ぬれているわけでもないのに床ゆかの壁も天てん井じようもじっとりとしていていやな湿しつ気けが外から入り

込んでいるらしい濃こい魔ま素そと混ざって肌はだと肺にこれでもかと不快感をくれる

一段

りたところには廃はい棄き物ぶつと一体化した汚お水すいが吐はき気けをもよおす悪あく臭しゆうを放ちながら泥どろ水みず

のような重さで流れている

これが街からそう離はなれていない場所を流れ通っているというのに外にはさほどふし臭ゆうが漏れな

いことを思うと階層都市の工事技術はでたらめに見えて意外としっかりしているようだ

もうすっかり馬ば鹿かになった鼻をこすりラグナはぽつりとそんな感想を抱いだいた

「本当ニャスよくここ通って上でパンとかお菓か子しとかもらってくるニャス」

言ってタオカカは下水道の天てん井じようを見上げた黒ずんだ頭上は突つき出た鉄パイプや金属板が

複雑に組み合っておりその奥のずいぶんと高いところに張りついた闇やみのような天井が見てと

れる

さらにずっと向こうに目指している上層の街があるのだろう

つられて見上げてラグナはため息に肩かたを落とした

「もらってくるってまさか店のもん勝手に持ってってるんじゃねぇだろうな」

70

気味の悪さに怖おぞ気けよりもけん

悪お感が走る

影はいやに粘ねん着ちや質くしつな動きでぬめる床に着地するとむくりと上体を起こすような動きを見せ

た判然としないが苔光で浮かび上がる奴やつの足元でなにか小さな生き物が蠢いている気がす

る戸と

惑まどいつつも身構えるラグナのすぐ側そばにタオカカが駆け込んできて頭を低くさせ唸うなった

長い尾おがぴんと立ち上がって毛を逆立て膨ふくれている

「コイツうねうねニャス」

「うねうね

なんだそりゃ」

「悪いヤツなのネ

タオたちの村を襲って小さいカカを食べちゃうのニャス」

さっきまで陽気だった表情を目め尻じりをつり上げた憤ふん怒ぬのそれに変えてタオカカはわんと声を

響かせ威い嚇かくする

その様をあざ

笑わらうかのように白い面を浮かべた影は全身をあわ

立だてるように震ふるわせた

「キヒヒヒいる

いるぞ

るぞ力蠢く醜しゆうな

想を叶かなえ

ために肯

は不可欠

がい

念ねんの否定

閉とざ

た門が招くはずだ

ちが

いギヒヒヒヒヒヒ」

影が震え笑うたびに空気が淀よどむ

ラグナは険しく顔をしかめた

これは魔素だ

外から流れ込んできているのではないこの目の前にわだかまる影からあふ

れ漂ただよい下水道の

第一章 Stratum city 階層都市73

空気を引き裂さくような声と共に突とつ然ぜん影かげから影が飛び出したさらにそこから槍やりのような鋭

い影が無数に飛び出しラグナに襲おそいかかる

「ぅぐぁっ」

あまりに唐とう突とつであまりに周囲に同化した

に反応が遅おくれた分厚く布の裂ける音が散り一いつ

緒しよに皮ひ膚ふと肉をえぐり刺さすように持っていかれる

火がついたように痛む肩を引いてもう一方の腕うでで剣けんを抜き目の前の影を払はらった

手て応ごたえはないまるで本物の影を切り払ったかのようだ

「グギギギhelliphellip真

理へ至

我が

を求

我に求め

真相を

くhelliphellip」

人の声のようなそうでないような奇き怪かいな声こわ色いろで奇怪な言葉を口走りながら影は

び退すさっ

た高質化したヘドロと瓦礫の間でふわりと浮ういてわだかまる

初めラグナはどこからか紛まぎれこんだ魔まじ獣ゆう||高こう濃のう度どの魔素によって歪んだ生態系が生んだ

理性なき凶きよ暴うぼうな獣けものかと思った

だがどうにもちがう不定形なそれは奇妙で歪いびつで不可解で生物とはとても思えぬ

形をして

いた

ぐるりと影が動くとわだかまる闇の内側から面が現れる

白い円形に三つただ孔あなを開けただけの目と口顔のつもりだろうかそれが黒ずんだ不定

形の影の中で唯ゆい一いつの定形であるようだった

「なんhelliphellipなんだこいつは」

72

ふつとい憤きどおりがラグナの腹の底で沸わく

統制機構が大事に大事に抱えて地下深くにしまい込んでいる窯それを統制機構だけでなく

あちこちの機

や研究員学者が欲ほつしている窯を所有するということは窯が繫ぐ境界の一いつ

端たんを所有することと同意だからだ

誰も彼も境界には人じん智ちを超こえる素す晴ばらしい財産が眠ねむっていると信じている人智を超えた

ものなど人間に御ぎよせるはずもないのに

まったくいや

気けが差す頭にくるそんな窯を我が物顔で掻かき回す統制機構もそれを追いか

けるように窯を求める連中もどいつもこいつも

「こうなっちまったらもうどうしようもねえ悪く思うなよhelliphellipもっとも人を怨うらむほどの

理性があればの話だけどよ」

このままこいつをここに放置すればタオカカの言っていた『村』に留とどまらずさっきのオリ

エントタウンや下層の街に出て人を襲うようにもなるだろう

ラグナは剣の切っ先を下方に向けたまま化け物に深く踏ふみ込んだ

カグツチにはなんの思い入れもないがだからといってあからさまな害悪を目の前に置かれ

て放ほうっておけるほど利口でもない

迎むかえ撃うつように身を広げるアラクネの胴どうを||胴らしき部分を横よこ薙なぎに切り払う

「グポポhelliphellip」

「ちぃっ」

第一章 Stratum city 階層都市75

ありとあらゆるものを侵しん食しよくしているのだ

それはこの影のような物体のまとう黒いものが全て魔素であることを意味していたそし

て魔素のか塊たまりであるこの奇怪な化け物がその容

に似合わず人の言葉らしい音を発しているの

はこれが元々人語を解する存在であったことを物語っている

つまり人間だ

タオカカが『うねうね』と呼びオリエントタウンの一部の人はアラクネと呼ぶ黒ずんだ不

定形の化け物はこうなる前人間だった

ラグナはこみ上げてきた

悪感を舌打ちに変えて吐き出した

「こいつ境界に触ふれたなhelliphellip」

ラグナが各地の統制機構支部を回り

々に破は壊かいしている支部地下の『窯かま』その窯によっ

て現世と繫つながれた異界||境界

そこは人知の及およばぬ不定形の場であり中は地表の比ではない濃のう度どの魔素が渦うず巻まいていると

いう

濃い魔素が魔獣を生んだように人もまた高濃度の魔素に触れ続ければ理性が魔素にのみ込

まれやがて境界に引きずり込まれて人でいられなくなる

臭にまみれて粘ねん液えきのような体を蠢かせ奇怪な音で語るこの黒い化け物アラクネは

そうして人でいられなくなった誰だれかのなれの果てだった

「あんなもんに手ぇ出してなにがしたかったのか知らねえがhelliphellipこの馬鹿が」

74

だ身が捻ねじれ後方へべちゃりと倒たおれる

それと同時にタオカカの体がひらりとラグナのとなりに

着地した爪を

めた大きな手をシュッ

と前に突つき出して威嚇する

それを横目にラグナは軽く笑った会って間もないこちらも奇妙な生物だが『うねう

ね』と

ってこいつと並ぶのは悪い気がしない

「何年目じゃなくてここで会ったが百年目な」

「おおんじゃあ百年分ギタギタにしてやるのネ」

「まなんでもいいか」

抜ぬけ落ちるような緊きん迫ぱく感を再び引き寄せてラグナはしっかりと剣を握にぎる

一度は黒い泥溜だまりのようになったアラクネはすぐさま波打つような動きで起き上がると

ごぼりと足元を鳴らし魔素を噴ふき散らす

「ギギギhelliphellipよこ

よこせ

れは我

らう

淵えんがい

見て

目からのが

れな

運命

らはのが

れない」

「なに言ってんのかわけわかんねぇんだよ

楽にしてやるからとっととくたばりやがれ

この生ゴミ野や郎ろう」

ついた魔素を払うように乱暴に剣を振るうとラグナは腹から雄お叫たけびをあげつつ高く得物を

振り上げ魔素に取り込まれた人ならざる者へと叩きつけた

第一章 Stratum city 階層都市77

ごぼごぼと濁にごった音をたててアラクネの体がしゆ時んじにラグナの視界から消える

下だ舌打ちしながら蹴けりつけるラグナの足の下を通ってアラクネは赤いコートの

後で

再び体を持ち上げる

「キサマキサ

くらう

人間であるならあるいは四し肢しを持つ生物であるならおよそあり得ない角度から黒い塊が

ラグナを

ね上げるように突とつ出しゆつする

咄とつ嗟さにラグナはそれを剣で受けた感かん触しよくは重くどろりとしている

さらにもたれかかるように剣の表面を伝う泥どろのような魔素から突とつ然ぜん奇き怪かいな蟲むしが飛び出して

きた見たこともないひたすらに

悪感をあおるような不可解で不ふ愉ゆ快かいな蠢くもの

「うげっ」

吐き気のような

悪感に弾はじかれるようにしてラグナの足が勝手に距きよ離りを空ける

その間に割って入るように鋭するどい爪つめが振ふり下ろされ飛び出した無数の蟲を切り裂いて叩たたき落

とした

勇ましく飛び込んできたのはタオカカだ

「うねうね

ここで会ったが何年目

タオがぎったぎたにしてやるのネ」

爪を振り下ろす動作から着地をはさまず宙で身を捻ひねるとタオカカは反対側の爪でアラクネを

切り裂く

爪はえぐるようにアラクネの顔らしき部分を捉えた陶とう器きが割れるような音をたてて黒ずん

76

双そう眸ぼうは薔

さえ霞かすむ深しん紅くで容

からうかがえ

る幼さには似合わないほどの気品と優美さをたたえ

ていた

少女の名はレイチェルアルカード

十を超えた程度のまだあどけない少女のように見えるがその実約百年を生き続ける吸きゆう

血けつ鬼きだ

千年以上前から続く吸血鬼の一族アルカード家の現当主であり薔

園を見下ろす城の主あるじで

あり

月と夜空と薔

と城を抱いだくこの常夜の空間の主でもある

ここは世界のあらゆる場所から断絶された地点でありながら世界のあらゆる地点へ繫が

る場所

空間と空間の間に漂い世界と世界の狭はざ間まに留とどまる領域

アルカード家の当主が管理する特別な住まいだった

カップを金のスプーンが横たわるソーサーへと戻もどしレイチェルは物もの憂うげに吐と息いきをく唇ちびるから漏も

らした

蔦つた模様に絡からみ合うスチールテーブルの上に飾られた薔

の切り花が微かすかに香かおる

レイチェルは昼の来ない領地での時間をこうして薔

園のテラスで多く過ごした

は好きだ美しいし香りがいいそれになにより遠き日に亡なくなった父が愛した花

だから

第二章 Spiral fate 盤上の駒79

第二章

Spira

l fate

||盤ばん上じようの駒こま

真っ赤な薔ばら

に彩いろどられた見事な庭園を青白い満月が見下ろしていた

静かな夜だった空気は凜りんと冷え夜の帳とばりが世界はここまでだと区切るように色濃く辺り一

帯を包んでいる

園の奥にはおとぎ話の中から抜け出てきたかのような美しく愛らしい城がそびえており

だ橙いだいい色いろをした明かりの揺ゆれる窓が無数の瞳ひとみのようだ

その城を赤薔

の生いけ垣がきの向こうになが

める庭園のテラスでひとりの少女が小さな丸テーブ

ルに向かい優ゆうがにティーカップを傾かたむけていた

月下にありながら眩まぶしいほどに輝かがやく長い金色の髪かみを左右でふたつに結ゆわえ大きなリボンで

飾かざられている華きやしやで小さな体には黒い豪ごうしやなドレスを纏まといそこから伸のびるやはり小さな手

は陶器のように白く滑なめらかだ

カップの中で揺れる紅茶を

めていてもどこか遠く世界の果てを見み据すえているかのような

78

「今夜も見事でしょう

お父様」

ふとわく感傷に任せて呟つぶやいてみて彼の愛した薔

の香りの紅茶を飲むそんなときのほん

の一

レイチェルの心は微かに慰なぐさめられるのだ

夜の終わらないこの城は時間の流れとは無む縁えんだ夜が永遠であるように時間もまた永遠

でありレイチェルの時間もまた永遠であった

それでも退たい屈くつはやってくる時にはこうしていつかの日を想おもいため息でもついてみねば

枯かれることのない薔

のように言葉を忘れてしまいそうだった

「失礼いたしますレイチェル様」

コツと革かわぐつの硬かたい音がテラスの煉れん瓦がタイルを叩きしわがれた声が穏おだやかに呼びかけた

レイチェルを振り向かせることなく乱れない歩調で少女の視界の端はしまでくると声の主白はく

髪はつを

で束ねた長身の老人は胸むな元もとに手をあて浅く腰こしを折る

ヴァルケンハインRヘルシングレイチェルの父クラヴィスアルカードの代からアル

カード家に仕え今はレイチェルと共に在る老しつ事じだ

微びし笑ように皺しわを刻みすきなく佇たたずむ

はレイチェルに劣おとらず品がいい

だが彼もまた人間ではなかった人であり獣けものでありどちらでもありどちらでもないおおかみ

男おとこだ

外見から想像できる重ねた歳としよりずっとたくましい肉体が質のいいバトラースーツの上からで

える

80

つぶらな瞳と口角の上がった口がやはり小さく愛らしい

黒くろ猫ねこのソファはナゴ赤いゴム毬まりはギィ共にレイチェルの使い魔だ

「姫様のお気に入りっすよねー姫様ってああいう男が好みなんすか

意外とダメな男に引ひ

っ掛かかるタイプっすね」

小さな羽を忙いそがしくパタつかせて楽しそうにギィが話すとその

らかな両りよ頰うほhellipおhellipというよ

り頭部を素す早ばやく伸びたレイチェルの手が摑つかみ左右に思い切り引っ張った

「なに

よく

こえなかったわもう一度言ってみてもらえるかしら言えるものならね」

「イデデデデひひめひゃまいひゃいいひゃいれすぅぅぅぅぅ」

「アンタってほんと口で身を滅ほろぼすタイプよねぇ」

通常の二倍に顔を広げたギィを見やってナゴが呆あきれたようにため息を送る

情けない

鳴をひとしきり

いた後にレイチェルはあっさりギィから手を離はなしたバチン

と音がして赤い頰が元の真ん丸い形状に戻る

それを横目にレイチェルはテーブルの上に生けられた赤薔

の花弁へ触ふれた

「彼がそこまで来たのならもうすぐ二一九九年も終わるのね」

「左様でございますな」

どこか歌うように呟くレイチェルへ恭しくヴァルケンハインが返す

「そして世界も」

微かな声で付け足された一言にはヴァルケンハインはなにも返さなかったレイチェルが

第二章 Spiral fate 盤上の駒83

「どうしたのヴァルケンハイン」

白い指先をティーカップの縁ふちで遊ばせレイチェルが赤い瞳を向けて問う

ヴァルケンハインは頭を下げたままう恭やうやしく答えた

「ラグナザブラッドエッジがカグツチに現れたようです」

無む駄だなく必要なだけを伝えるヴァルケンハインの言葉にレイチェルは陶器の縁をなぞる指

先を止めた

そのまま指を小さな取っ手に引っかけ中身の少なくなったカップを持ち上げて一口飲み

それをソーサーに戻してからやっとレイチェルは唇を動かした

「そうhelliphellipもうそんな時間なのね」

独り言のようなレイチェルの呟きに続いて

唐とう突とつにふたつの声がこれまでの静かで密ひそやかだった雰ふん囲い気きを不意に賑にぎやかせた

「あらぁん姫ひめ様ラグナってあの白いツンツン頭のボウヤよね」

「オイラも覚えてるっすよあの生意気なヤツっす」

先にハスキーな猫ねこなで声で言ったのはレイチェルが腰こしかけている椅い子すそのものだった一

見黒いソファに見えたそれはよく見ると

もたれの上部に三角の耳と猫の顔がありその猫の

顔が話していたのだ

続いた甲かん高だかい陽気な声はレイチェルの足元から弾はずんだゴム毬まりのようにとび上がった赤くて

丸い生き物のもの見るからにやわらかそうな体からは小さな手足と小さな羽が突き出ており

82

影の中に浮うかぶ幼児の落書きのような目玉らしき緑色の丸と不気味に裂さけた赤い口が椅

子に腰かけるレイチェルを見つけて気味悪く笑えむ

どこからどう見ても人ではなくましてや吸血鬼でも

男でもない

これは思念だ肉体を持たない意志だけの存在ある男の精神体だった

「よ〜うクソ吸血鬼今回もお供と犬っころ連れてお茶会か

ずいぶんのん

気きなもんだなぁ

オイ」

許可もなく薔

園に踏ふみ入ってきた無作法者の精神体はこもった声でいや

味みに語りかける

とたんにヴァルケンハインが険しく顔をしかめギィは情けない

鳴をあげてそれこそゴ

ム毬のような俊しゆ敏んびんさで主の黒いドレスの

後へと隠かくれた

レイチェルは冷やかに影を見据える

軽く腰を浮かせるとそれまで椅子としてそこにいたナゴが体をくねらせて

を黒い傘かさへと変

えレイチェルはそれを手に立ち上がった

唇にこそ優美な笑みを浮かべていたが少女の深紅の瞳にはただただけん

悪お感かんが塗ぬり固かためられ

ている

を見せるだけでこれほどまで人を不快な気持ちにさせるのはある意味

能ね感心する

わテルミ」

の香りのように

らかにけれど薔

の蔦のように刺とげと々げしくレイチェルは言い放つ

言葉の先にいた精神体の男テルミと呼ばれた影は風にでもあお

られたかのように体を揺らし

第二章 Spiral fate 盤上の駒85

求めていないことを理解していたからだ

代わりに

男の老

事は乱れぬ声こわ色いろで問う

「レイチェル様紅茶を新しいものにお取り換かえいたしましょうか」

「helliphellipそうねお願いしようかしら」

本当は出かける用事ができたところだったけれど今はもう少しだけここでの無益な時間を

浪ろう費ひしたい気分だっただって

(今回もいい結果は期待できそうにないものね)

独り言のような呟きを胸の内でそっとこぼしレイチェルは掠かすれ消えるような吐息をつく

がすぐにその息を

み込むように眼光を鋭くさせた

真紅の視線が見据えるのは延々と続く薔

園のほうだ

「ヴァルケンハイン招いてもいない客が来たようね」

深い緑の葉をざわめかせて風が吹ふく風を招いたのはレイチェルだ涼すずしい夜気に混じって

漂ただよってきたいやな気配をはね退のけるために

円形に整えられたテラスの隅すみのほう薔

の生け垣の前の空間が目め眩まいでも起こしたかのよう

にくらりと歪ゆがむ

そうして現れたのは影かげだった

黒い体に緑色を纏まとわりつかせたような色しき彩さいでぼんやりと漠ばく然ぜんとした人型のなにかがそこに

立っていた

84

敵てき愾がい心しん

「それで一体なんの用

今がどういうじ状よう況きようなのかわかっているのでしょう貴方あなた

だって暇ひま

ではないのではなくて」

ヴァルケンハインほどあからさまな敵意ではないものの突つき放し追い立てるような調子で

レイチェルが言う

テルミはけだるい仕草で首を傾かたむけまたケタケタと不ふめ明いり瞭ような体を揺ゆらすようにして笑った

「別にぃ〜ただそろそろ今回のエンディングも近いわけだしそろそろ一度テメェらの腑ふ抜ぬ

けた面を拝んどこうかと思ってよ」

低めた声は悦えつっぽく笑みを濁にごらせる

レイチェルはその様を無感動に淡たんた々んと赤い瞳ひとみに映した

「懲こりない男ね」

囁ささやくようにレイチェルは告げる冷えた声は空に浮かぶ欠けることのない月の光に似ている

「何度繰くり返したって結果は同じ世界は何度だって巻き戻ってあの日あの時からまた始ま

るだけよ」

ざとレイチェルと影の間を横切るように風が渡わたる薔ばら

の香りがま

う中で幽ゆう鬼きのよう

なテルミの

はあまりに不気味で不似合いだった

場ばちが

いであると思い知らせるかのように濃のう密みつな花の香りを纏う風の中でテルミは深く深

く笑みを浮かべる

第二章 Spiral fate 盤上の駒87

た笑っているのだ

「そいつぁお互たがい様じゃねぇかこっちもテメェのクソむかつく面つら見てると胸むな糞くそ悪くなって

くる」

ユウキテルミそれが影の名前だった

「ならば早々に立ち去るがいいここは貴様のようなやからが気安く踏み入っていい場所ではない

ぞ」重

々しくけれど遠えん慮りよ容よう赦しやのない敵意を込こめてヴァルケンハインが進み出たレイチェルに

対して見せていた穏やかな品の良さは影を潜ひそめ白髪の老人とは思えぬ力強く攻こう撃げき的な眼まな差ざし

で揺れる影を睨にらみ据すえる

途と端たんにテルミは面おも白しろくなさそうに口らしき赤色を歪めた

「はっテメェも相変わらずイラつくなキャンキャン吠ほえてんじゃねぇよボケ犬が殺しち

まうぞあぁ」

「面白い吠えるしか能がないのはどちらか確かめるとしようか

体のない今の貴様に一体

なにができる」

「ちっhelliphellipうぜぇジジイだテメェもあんとき殺しときゃよかったぜ」

「九十年前に反省するべきだったな」

テルミが悪態を吐つけばヴァルケンハインはそれを踏み潰つぶすような敵意を返す

そこには根深い因いん縁ねんの沼ぬまが広がっているかのようだった浮かぶのは憎ぞう悪おでもけん悪おでもなく

86

覗のぞき見えていた

「んじゃなせいぜい高みの見物でもしてろや」

吐き捨てるようにそう言うとテルミは靄もやが空気に溶とけてやがて目視できなくなるように

音もなくその場から消える

あとにはなにも残らないただレイチェルが日々当たり前に

めている真っ赤な薔

が咲さ

き誇ほこる庭園が広がるばかりだ

緩ゆるやかな風が抜ぬけて甘い薔

の香かおりが漂うまるでテルミによって生じた不快感を拭ぬぐい払はら

うように

ヴァルケンハインはそれまでの飛びかかって喉のど笛ぶえでも食い破りそうな敵意を呼吸ひとつのう

ちにしまい込みしつ

事じの顔に戻もどるすき

なく

筋を伸のばしレイチェルへと向き直った

「いかがなさいますかレイチェル様」

主人がすでに決めているであろう腹の内を促うながすように問う

レイチェルは手にしていた傘状のナゴを開いたパラソルでも扱あつかうように肩かたにかけヴァル

ケンハインを見やる

「ヴァルケンハインやっぱりお茶はまたあとでにするわ」

あんなにも単純で粗そ暴ぼうなちよ

発うはつに乗るのは癪しやくだけれどそうとわかっていて顔をそむ

けることを

弱気ゆえと受け取られてはもっと癪だなによりあの男に好き勝手を許すのは面白くない

「ナゴギィ出かけるわよ」

第二章 Spiral fate 盤上の駒89

「そうしたらまた始めるさ」

這はうような声で語る

な気配がレイチェルの誘さそう風さえ汚よごすようだった

「何度でもいいぜ

そのたびに俺はやり直すだけだ何度でも何度でもテメェがいい加減

飽あきてお城から出てこなくなっても何度でも何度でもhelliphellip何度でもなぁ」

「悪あくしゆ味みね」

「テメェが言うかよクソ吸きゆ血うけ鬼つき」

テルミがせせら笑う

深い皺を眉み間けんに刻みい憤きどおりを腹に抱かかえるヴァルケンハイン怯おびえ様子をうかがうナゴとギィ自分

の周りにいる者たちをながめてレイチェルはく唇ちびるを優美なカーブに曲げた

彼の言うことに同意するのは心底不ふ愉ゆ快かいだけれど確かに悪

味なのはレイチェルも同じだ

何度も何度もこんなやりとりを何度もここで行った

繰り返す時間の中で繰り返される会話はいわば一種の通過儀ぎ礼れいだ

これから始まる数時間めまぐるしく運命は交差して離れ剥はがれ崩くずれ乱れるその結末

をし粛ゆくし々ゆくと見届けるためのお決まりの行事

「まいいや俺はそろそろ最後の仕上げの準

しねぇといけねぇから行くわいちいち相手

すんのも面めん倒どうくせぇからテメェらはそこで茶でもしながら終わるのを待ってろよ」

言いながらテルミは一歩大きく退いた

影がぼやけて消えるように彼の

が揺らめく黒い体の向こうには薄うっすらと薔

の赤が

88

城から外へと出ていった

の残り香がが夜気に吸い込まれて消えるまで待ってヴァルケンハインはテラスのテーブ

ルに残されたティーセットをワゴンに載せて片付け始める

せめて今回はあの小さな主人の心が慰なぐさめられるようなそんななにかがあるようにと胸中で

願いながら

2199年12月30日||9時23分

カグツチの朝方普ふ段だんなら東空は陽光の白に輝かがやき地表で淀よどむ魔素の存在など忘れさせてく

れるかのように眩まぶしい

だが今日は生あい憎にく朝早くから分厚い雲が空を覆おおう曇どん天てんだった広がっているのは雨雲だ昼

前には雨が

り出すだろうと湿しめった空気が教えてくれる

第十三階層都市カグツチの外れ都市の一部として建設されたのではなくこの地に流れ着い

た難民が自発的に建設した市街のひとつ浪ろう人にん街

第二章 Spiral fate 盤上の駒91

「はぁ〜い姫様」

「了りよ解うかいっす」

傘のままナゴがしなを作りさっきまでの怯えが噓うそのように元気よくギィが飛び上がる

二匹ひきの使い魔まを従えレイチェルは宙へ手を差し出したすると煉れん瓦がタイルが敷しき詰つめられ

た足元に薔

色の魔法陣じんがほのかな光を宿して浮かび上がる

転移の魔法だ

今の世界の基き盤ばんともいえる術式の元になった太古の技術魔法けれど今はもう使える人間

はほとんどいない失われた技術だ

転移はそんな魔法の中でも特に多くの魔力と集中力を要し特別難解な制せい御ぎよを求められる魔

法だったそれゆえに人類の歴史においても使い手と呼べるほど扱いに長たけた者は数えるほ

どしかいない

転移魔法を自在に扱うレイチェルもまた自分以外にこの魔法を使いこなせている者をひと

りしか知らなかった

「カグツチまで行ってくるわヴァルケンハイン留守をお願いね」

「かしこまりましたお気をつけて行ってらっしゃいませ」

理想的な角度に腰こしを折ってヴァルケンハインは魔法陣の中から語りかける幼い容

の主あるじを

見送る

ふわりと風が

い上がり目眩を誘うほどの薔

の香りを振ふりまいてレイチェルは常夜の居

90

屈くつ強きようで大柄な体たい軀く隠すことなく晒さらされた広い

中顔に刻まれた十字の傷きず跡あとそして首に

巻かれた真っ赤な布その真っ赤な布がけい

谷こくの風に

られたなびくたびに誰だれもが彼を振り返

らずにおかない

なにも衣装の特とく徴ちようが浪人街の人の目を集めるのではない

このマフラーのように巻かれた赤く長い布は目印なのだ

迷える難民をまとめ先頭に立って浪人街を築きこうして日々浪人街を歩いては住民にト

ラブルや困りごとがないか見回るイカルガ忍にん者じやの頭領にして浪人街のヒーローシシガミバ

ングの

「おはようございますバングさん」

「バング殿どの

先日は

げたに鶏わとりの捕ほ獲かくを手伝っていただいてありがとうございます」

「バング様〜

こんにちは〜」

街のあちこちからかかる声に手を挙げて応こたえバングは朗ほがらかな笑え顔がおを返す

「うむおはようでござる

おおそうだ今日は雨が

るだろうから雨あま漏もりする家がある

なら拙せつ者しやに声をかけるでござるよすぐに飛んでいって修理を手伝うでござるからな」

通り中に響くような声で言いながらバングは前へ前へ歩む

天気はよくないがバングの心は今日も晴れやかだった仲間がいて住む場所があるこ

れがどれほど喜ばしいことか数年前までは忍として戦争の裏側を奔ほん走そうしてきたバングは日々

身をもって思い知り嚙かみ締しめていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒93

ここは五年前に終結したイカルガ内戦という戦争の敗者イカルガ連れん邦ぽうに住んでいた者たち

が造り上げた市街だった

内戦によって彼らの故郷は失われた行き場のないイカルガの民たみは世界のあちこちに散り

その中でもカグツチににげ延のびた者たちがここで身を寄せ合って暮らしている

複雑で街を築くのに適しているとはとても言えない地形だカグツチのある高山の下方に

位置しながら辺りは岩だらけで亀き裂れつや絶ぜつ壁ぺきが目立つ

それでもイカルガの難民たちは岩場に足場を組み亀裂に橋をかけ絶壁に階段を作り半

分宙に浮ういているかのような入り組んだ街を作り上げた

小さな街だありあわせの材料を組み合わせてできた粗そ末まつな街だがそれにしては整えられ

たイカルガじ情よう緒ちよ漂ただよう街並みにhelliphellip朗々と男の声が今日も響ひびき渡っていた

「おお皆みなの衆

今日も元気に平和に過ごしておるな

うむうむよきかなよきかながっ

はっはっはっは」

太く伸びやかな声の主はシシガミバング

浪人街の中心である一番開けた通りのど真ん中を歩きながら道行くすべての人に威いせいよく

挨あい拶さつして回っている大おお柄がらな筋肉質の男がそうだ

ぼさついた黒くろ髪かみは高くまとめ深い緑色の独特な装しよ束うぞくを身に着けている着ているのはイカ

ルガ伝統の忍しのびの服だ本来は闇やみに紛まぎれ隠おん密みつにことを済ますのが忍の

だがこのシシガミバ

ングという男はまるで逆にとにかく人の目を引いた

92

カグツチの

士であるならばこんな下層まで

りてくることなどそうそうないし別の支部

士ならばもっと上層からカグツチに入るはず

この街に統制機構の制服はあまりにも不自然だった

金髪の青年はなにも答えず冷ややかな緑の瞳ひとみでバングを

めていたがやがて色の薄うすい唇を

開きぼそりと低く呟つぶやいた

「その服helliphellipイカルガの忍か」

およそ好意的でない声

人によってはその内にさげすみ

やあざけり

いただろうだがバングはそのひどく温度の低い声こわ色いろ

を警けい戒かいゆえと受け取った

身構えるように低くさせていた体を起こしバングは慌あわてて制止するように広げた手を突つき

出だす

「ああいや誤解めされるななにも一戦交えようというわけではござらんぞ確かにここは

イカルガの民が住まう街で拙者はイカルガの忍であった男だが五年前にイカルガ内戦は終

わっておるのだ」

バングは太い腕うでをがっしりと組むと神しん妙みような

顔つきで何度か頷うなずくようにしながら先を続けた

「確かに終戦のきっかけは戦いくさではなく我等の首都イブキドの爆ばく発はつ事故であった」

イカルガ内戦は世界虚空情報統制機構に対し第五階層都市イブキドを首都と掲かかげるイカル

ガ連邦が独立を宣言して始まった内戦だ統制機構は武力でもってそれを制圧しようとしイ

第二章 Spiral fate 盤上の駒95

平和はいい平和の中にこそ愛はあるのだ

「うん」

ふと前を行く

を目に留めてバングがいぶかしげに声を唸うならせた

見慣れない男が歩いている浪人街の住民ではないバングはこの街に住むイカルガの民の

顔と

格好をすべて覚えていた

短い金きん髪ぱつの細身の男だ歩き方からしてまだ若い

なにより気にかかるのはその男が着ている服だ青と白によって構成されたその服はおそ

らく世界虚こ空くう情報統制機構の制服だろう

「そこのお主

待たれい」

叫さけぶように声をかけながらバングは高くとんだ空を駆かけるような長いちよ躍うやくは前を行く金

髪の青年の頭上を越こえて彼の正面へと着地する

行く手を塞ふさがれる形となった見慣れぬ男は足を止めバングの唐とう突とつな登場に戸と惑まどったように

眉まゆを寄せていた

やはり若い男まだ少年の面おも影かげも残した青年だ着ているものも統制機構の制服に間まちがいな

く手には青い鞘さやに

めた刀を一ひと振ふり摑つかんでいる

バングはますます募つのる怪けげんに青年よりも深く眉間に皺しわを刻んだ

「お主我等が街になんの目的で参られた

その服装統制機構の

士であろう」

カグツチの

士だろうかバングは彼に見覚えがない

94

金髪の青年はなにも言わず静かにバングを見み据すえている

なにを考えているのかどこかぼうっとしたようにも見える無表情からは思考どころか感情

さえ読み取れない

話を

いているのだろうかバングは不安に思いながら改めてさっきの質問を繰くり返す

「してお主は一体何者で浪人街になんの用でござるか」

「helliphellip用などない」

ようやく青年がバングの問いにまともに答えた

まともというにはあまりに素っ気なく突き放した物言いだったが返ってきた言葉が思いの

外ほか穏おん便びんでバングは軽く安あん堵どを抱いだく

イカルガの残党狩がりだなどと言われてその手の刀を抜ぬき放たれたら多くの住民が行き交かう

街の中心で大立ち回りを演じなければならなくなるそうなればいくつかの家は巻き添ぞえをく

っただろうし何人かは怪け我がをしたかもしれなかった

青年は変わらず冷たい無表情のままでバングの向こうにそびえる山へ目を向けたこの上

にいくつもの市街が建設され頂上には世界虚空情報統制機構のカグツチ支部が建っている

「貴様たちのことなどに興味もない僕は上へ行きたいだけだ」

「上

というと統制機構の支部でござるか」

「じや

魔まだそこをどけhelliphellipああいや」

冷れい徹てつに言い放ってから青年は思い直したようにけれどそれでも冷ややかに声を低めた

第二章 Spiral fate 盤上の駒97

カルガ連邦も武力でもって抵てい抗こうした

それが四年続いたある日のことだ

イカルガ連邦首都であり指揮系統の中心であった第五階層都市イブキドの地下で突とつ然ぜん原因

不明の大爆発が起こりイブキドは跡あと形かたもなく消しよ滅うめつした

爆発はイカルガ連邦はもちろん交戦の真っ最中であった世界虚空情報統制機構側にも大き

く戦力を損そこなわせる痛手を負わせた戦争を続けるだけの力をイカルガ連邦と統制機構が爆

発事故をきっかけに同時に失ったのだ

結局イカルガ連邦はバラバラとなり最終的には組織としての形を失ったけれど統制機構も

己おのれを立て直すのに手て一いつ杯ぱいで追つい撃げきどころではなく内戦はしぼんで消え入るようにいつの間に

か終わったのだった

「それでも我等は負けたのだその現実を認めずに今ある平和を投げうってまで統制機構に

楯たて突つくつもりはござらんよ」

そう言うとバングは眉み間けんを中心に走る十字傷に分厚い手で触ふれ苦々しくも笑みを浮かべ

たこ

の傷はその爆発事故のときに負ったものだ内戦を終わらせたあの事故が自分にとって幸

であったのか不幸であったのかバングには未いまだわかりかねる

ただイカルガの民はもうじ充ゆう分ぶん戦ったこれからはたとえ楽な生活でなくとも平和に過ご

してほしいとバングは思っている

96

れるだとかそんな幽ゆう霊れい話じみた現象が起こるはずもない

勝手なイメージでそう結論づけるとバングは気を取り直してそのたくまし

い胸むな板いたを張った

まだ浪人街の見回りは途とち中ゆうだ曇天の色はますます濃こくなってきている雨が

り出す前に

修理の必要な家がないかどうか確かく認にんしておかなければならない

「いやぁまったく最近の若者は覇は気きが足らんでござるなぁ

陰いん気きな顔をしていないでも

っと威い風ふう堂どうど々うと力強くそして

くあらねばそうこの愛と正義の忍者シシガミバング

のように」

辺り一帯に響く盛せい大だいな声で笑うとバングは街の見回りを再開させた

これが終わって部下のけい

古こが終わってそれでも時間があったなら憧あこがれの女性が住むオリ

エントタウンまで足を延ばして挨拶に行こうとそう心の中で計画をたてていた

今日も浪ろう人にん街は平和だ

それがなにより素す晴ばらしい

2199年12月30日||18時21分

第二章 Spiral fate 盤上の駒99

「ついでだ貴様カグツチで白い髪かみに赤いコートを着た男を見なかったか」

そう尋たずねる青年の表情はまるで凍こおりついたかのように無表情から動こうとしないだという

のに緑の瞳だけは妙みように楽しげに煌きらめいていたようにバングには見えた

バングは顎あごに手をやり考えこむ

「白い髪に赤いコートhelliphellipふぅむいやこの辺りでは見かけてござらんそれほど目立つ容

ならば一度目にすれば覚えようがhelliphellip」

「そうかならいい」

しゆ時んじにバングからあらゆる興味を失ったように青年は滑すべるような歩みで横を通り抜ける

すれちがう風はいやに冷たいまるで氷でも掠かすめたかのようだ

「ああお主

拙者はシシガミバングと申すお主の名はなんと申す

すたすたと足早に山へ向かう細身の後ろ

へバングは追いかけるように声をかけた

だが青年は振ふり向かないまるでバングの声など耳に入っていないかのような頑かたくなな

中で

なにかに突き動かされるような足取りで歩き去りそのうちに浪人街の外れへと

を消してし

まった

バングは引き止めるように宙へ伸のばした腕もそのままに難しく顔を歪ゆがめて首を捻ひねった

「はてhelliphellip奇きみ妙ような男でござったななんというかこうた魂ましいが抜けているようというかhelliphellipなに

かに取り憑つかれでもしているかのようであったわ」

もっとも今は日もこれから高くなろうという真昼間魂が抜けるだとかなにかに取り憑か

98

形よく張り出した豊かな胸に引き締まった腰こしそこから滑なめらかに続く肉感的な臀でん部ぶと華きやしや

な足首に向かって続く絵に描かいたような曲線

同性の憧れと異性の動どう揺ようを誘さそわずにおれない肢し体たいのシルエットだけでも彼女は道行く人の

視線を釘くぎ付づけにする

そんな麗うるわしき女医ライチがこの街にやってきたのは約一年前のことだ

突然現れ住まいと仕事を求めたライチをこの辺りの住人は快く受け入れた

彼女は自分がどこから来たのかどんな生おい立ちなのかなぜオリエントタウンへひとりで

やってきたのか名前以外のことはなにも話そうとはしなかった

素すじ性ようの知れない女など怪あやしまれて当然だろうけれどライチが出会ったオリエントタウンの

住人は皆みんな彼女が口を閉とざすと深くは追つい及きゆうしようとはしなかった

そのことをライチは一年たった今でも来たばかりのころと変わらず感謝している

こうして日々病院のとびらを

開けなるべく気軽に安価で治ちり療ようが受けられるよう心がけているの

も生活のためというより拒きよ絶ぜつや敬遠ではなく寛かん大だいさと優やさしさをもって自分を迎むかえてくれた

オリエントタウンへの恩返しの意味が強い

「さてと」

少年の

が曲がり角の向こうに消えるとライチは細い肩かたをすとんと落として息をついた

オリエントタウンはすでに夜の闇やみに包まれていてあちこちにぶら下げられた小さな提ちよ灯うちんや

ランプが家々を照らしていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒101

オリエントタウンは第十三階層都市カグツチの下層にこそあれど広く活気にあふれた賑にぎやか

な街だ

限りある土地を時に譲ゆずり合い時に共有して身を寄せ合うように家を建て並べ今にも壁かべが

触れそうなほど密接したりん家かとは家族のように付き合える

誰だれも彼も決して裕ゆう福ふくではないけれど薄うす暗ぐらい路地に不ふ穏おんな影かげが横切ることもあるけれどそ

れでもこの街は温かい

ここオリエントタウンの一角で小さな病院を開いている医者ライチフェイリンは常々

そう感じていた

「痛みが引くまで無理は禁物よいいわね」

階段から落ちて捻ねん挫ざしたという少年を病院の入り口まで見送ってライチは頭を下げる小さ

な彼に笑顔で手を振る

ライチは美しい女性だった

足元まで伸ばした艶つややかな黒くろ髪かみを高く結ゆわえてくるりと巻き大きなアップヘアにまとめて

いる化けし粧ようで飾かざらずとも美しいラインを描えがく眉に伏ふせれば影ができるほどに長い睫まつ毛げ黒い

縁ふちの眼鏡ごしに見える瞳は大きく知的な光を宿しているけれどややつり上がった目元はどこ

か媚び態たいを想像させる色いろ香かを匂わす

美び麗れいなのはなにも容よう貌ぼうだけではない

100

こんなにも温かく名を呼ぶのはひとりだけだhelliphellip今は

両手で二の腕をさすりながら振り返りライチは少し驚おどろいたように目を丸くさせる

そこにいたのはやはり予想通りの人物だったけれど彼の腕には予想とは

うものが抱だき

かかえられていた

声の主の大きな体が建物の色いろ濃こい影の中から出てくるライチとて

の低いほうではないけ

れど彼の

は見上げるほどだ

通常の人間ならありえないほど屈くつ強きような体に赤い肌はだ第七機

の赤あか鬼おにと呼ばれるサイボーグ

の男だった

「テイガーhelliphellip」

ライチが小さな声で名を呼び返すうちにテイガーは周囲に人ひと気けがないことを素早く確認す

ると近くまでやってくる

彼の腕うでにはひとりの少女の

があった気を失っているのかぐったりと力なく体を預け

ている長くやわらかなカメリアレッドの髪に華

な体そして青と白の世界で一番有名な制

服helliphellip統制機構の制服

「テイガーこれはどういうこと

どうしてhelliphellip」

どうして統制機構の

士を抱かかえてこんなところにいるのかそう問おうとしたライチの疑問

をさえぎっ

てテイガーは抱えていた少女の体を託たくすように差し出した

「すまんがこの少女を頼たのめないだろうか訳あって気絶させてしまったのだが放ほうり出すわ

第二章 Spiral fate 盤上の駒103

遠くには雨音が

こえる昼過ぎに

り出してから今までもずっと続いていたのだろう空

を上層に閉とざされたこの辺りもすっかり空気が湿しめっていてずいぶんと冷え込んでいた

ゆったりとした白いブラウスとその上に着込んだロング丈たけの真っ赤なチャイナドレスという

服装はライチのみ惑わく的なボディラインをくっきりと描き出すには適しているけれど寒空の

下に立つにはあまり向いているとはいえない

不意に抜けた冷たい風にぶるりと身み震ぶるいしてライチは豊満な胸元を合わせるように己おのれを抱

いたまとめ上げた髪にしがみつくようにくっついている小さなパンダの髪かみ飾かざりも心なしか寒

そうだ

今夜はきっと冷えるだろうとはいえかつて黒き獣けものが現れ魔ま素そが世界に広がるまでは十二

月といえばもっと寒くこんな薄うす手での服装ではとても外を歩けなかったそうだから当時を思

えば涼すずしい程度の気温なのかもしれない

昔はこの時期この辺りでも雪が

ったらしい魔素が狂くるわせ失わせた冬らしい季節という

ものを少々勿もつ体たい無く思いながらライチは病院へ戻もどるべく踵きびすを返した

だがただでさえ長い脚あしをさらにすらりと見せる踵の尖とがったくつが屋内に踏ふみ入る前に

後か

ら唐とう突とつに声がかかった

「ライチ」

落ち着きのある低い男の声だ

それが誰なのかライチは呼びかける一言でわかった自分のことを呼び捨てる者の中で

102

「お前になら構わんか実はhelliphellip」

『とう

亡ぼうしたサンプルの回

だ』

突とつ然ぜん第三の声が割って入った

「ココノエ

周囲に配はい慮りよしてか声は抑おさえたもののテイガーが驚きにうろたえる

ライチの表情に糸を張るような緊きん張ちようが走った

第三の声はテイガーの耳元から

こえてきたそこには小さな通信機が取り付けられている

その向こうにいるのが声の主でありテイガーの上司にして製作者でありhelliphellip一年前までは

ライチの上司でもあった人物ココノエだった

『なにを驚いている回線に入り込む程度なんでもないわかったら勝手に通信を切るんじ

ゃないいいなテイガー』

テイガーへ向けてだけでなくその周囲にも

こえるよう操作された音声が感情の波を抑え

た低い女声で語る他者の意見をは

ねのけるような語調と声色には有う無むを言わさぬ威い圧あつ感と

神経質さが現れていた

ライチも一年前まではよくこの声にしつ

咤たされたものだ懐なつかしさと一いつ緒しよに苦い思いがこみ

上げてきてライチは声から目をそむ

けるようにテイガーから視線を外す

「ココノエ博士helliphellip」

『久しぶりだなライチお前こそこんなところでなにをしている』

第二章 Spiral fate 盤上の駒105

けにも統制機構に連れん絡らくするわけにもいかなくてな」

ひどく困った様子で懇こん願がんしてくる

そんな顔でそんなことを言われては断ろうにも断れない自分の性格をわかっているくせに

と思いつつもライチはテイガーの腕の中の少女を覗のぞきこんだ

は正常だ外傷は特になく呼吸も安定しているただ単純に強い衝しよ撃うげきで意識がなくなり

そのまま眠ねむり込んでいる状態だろう

「つまり彼女の意識がないのは貴方あなたの仕し業わざってことね」

ちらりと眼鏡のすき間まからテイガーの赤い顔を見上げてライチはほんの少しの小言めいた響ひび

きを込こめて言った

テイガーとこの少女の間にちょっとした荒あら事ごとがあったことは想像に難かたくない

統制機構と第七機

係についてはよく知っているなにせライチはオリエントタウンへ

来る前テイガーと同じ

場で同じ上司の下で働いていたのだから

「helliphellipどうして貴方がカグツチにいるの」

少女の身み柄がらは引き取るそう物もの腰ごしで伝えながらもライチは堅かたい声こわ色いろで尋ねた

テイガーが所属している第七機

はカグツチから離はなれた場所に研究所を構えているカグツ

チへふらりと私用で来るような距きよ離りではない

テイガーは困こん惑わくしたように言葉に迷ったが難しそうな顔をしながらも上向きのきばが覗く

口を動かした

104

「まだわかりません」

ねのけるようにライチは大きく首を振ふった

そこにはオリエントタウンの住人が知る優しく穏おだやかで時々厳しいそんな女医の

はなか

ったあるのはなにかを必死で守ろうとする弱々しい少女のような顔だ大切な宝物を取り上

げられまいと首を振るようなそんな

ライチは厳しく引き締しめた顔でテイガーをその耳元にある通信機を見つめる

「なぜ博士はそう簡単に割り切れるんですか

すべての手を尽つくしたわけではないのにあ

の人はただ少し間まちが

えてしまっただけです少し急ぎすぎただけでそれに彼は貴女あなた

のhelliphellip弟で

子しだった人じゃないですか」

ライチの声は情感に揺ゆれていた震ふるえているといってもいい

解げせない飲み込めない受け入れたくないそんな拒絶が声だけでなく

しげに眉まゆを寄

せた表情にも浮うかんでいる

もう一度通信機からココノエのため息が

こえた今度は呆れているというより苛いら立だっ

たような吐と息いきだった彼女が頭をかきむしる仕草が見えるようだ

「すみません博士helliphellipでも私はhelliphellip諦められません」

ライチはきつく胸の前で手を握にぎり締める

だけど本当はわかっているライチは医者であり一年前までは研究者だっただから自分

でもいや

になるほど冷静で理性的な部分はもうとっくに理解していた

第二章 Spiral fate 盤上の駒107

どんな顔をしていたらいいかわからないライチは寒さではなく別のものから己を守るよう

に身を抱く手に力を込める

知性と理性で研といだココノエの鋭するどく射い貫ぬくような眼まな差ざしが通信越ごしにこちらを見み据すえてい

るのがわかった

「そんなのhelliphellip博士ならもうおわかりでしょう」

なぜライチがカグツチにいるのかもなぜカグツチの中でも下層のオリエントタウンを住ま

いに選んだのかもなぜ第七機

を出たのかも全部全部彼女はお見通しのはずだ今いま更さら説

明しなければならないことなどなにもないのだ

『まだあいつのことを諦あきらめきれんのか』

ほらとライチは思う答えずともココノエはわかっている知っているライチがなにを

考えてここにいるのかを

だからだろうか通信機越しに

こえるかつての師の声はまるで咎とがめ責めているように

こえた

「諦めるだなんてどうしてそんなことができますか」

胸の内から絞しぼり出すようにしてライチは答える

通信機からノイズが漏もれたココノエのため息だろう呆あきれ果てたといったような音だ

『もう一度言うあいつを助けようなどと無む駄だなことを考えるのは止よせあいつはもうどうに

もならんお前の力では助けられない』

106

ライチは顔を上げられなかった愚おろかだと思うのは自分も同じだ反論はない

重苦しい沈ちん黙もくが数秒流れたときだったパタパタと軽やかな足音がライチのいる病院の入り

口へと駆かけてきた

「ただいまhelliphellipってうわデカっ

やってきたのは小こ柄がらな少女だったかつ

色しよくの肌はだに黒くろ髪かみをアップにまとめており動きやすそう

な服を身に着けている

少年とも見まごう細い腕うでと胸には紙かみ袋ぶくろに入った日用品を抱かかえていたが近づいて改めて見上

げたテイガーの巨きよ体たいに思わず驚おどろいてぐしゃりと抱だき潰つぶす

「リンファhelliphellip

おおかえりなさい」

いささか慌あわててライチは向き直った

彼女はリンファライチの病院で助手として手伝いをしている医者志望の少女だ

リンファは大きな黒目をさらに大きく見開いて遠目で見るよりずっと大迫はく力りよくなテイガーを

ぽかんと見上げていた

「たただいま先生えっとhelliphellipこの人誰だれ

お客さん」

「ああそのhelliphellip」

ライチは言葉を濁にごして迷った

リンファは公私ともに支えてくれる頼たのもしい助手だがライチは彼女に自分の過去を教えて

いないし教えるつもりもなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒109

自分にできることなどなにもないのだと

||一年前ライチがココノエやテイガーと共に過ごし研究に励はげんでいた第七機

を飛び出

したのはある人を助けるためだった

その人は魔素とそれを世界にもたらしたとされる境界について研究していた

けれどあるとき彼はおかしくなってしまった常に錯さく乱らんしたようになってやがて人前に

を見せなくなり最終的には人でなくなってしまった

魔素に触ふれ続け境界に近づきすぎたがゆえの結果だった自分と境界の境目がわからなく

なってあるべき形を失った

消化してしまったものを元の食品の形に戻せないように境界に取り込まれて同化したもの

を元の

になど戻せはしない

彼を追ってここカグツチのオリエントタウンまで来てもこの街に留とどまり続けても彼の

噂うわさを耳にしては飛び出し黒く蠢うごめく影かげを探しても魔素や人ならざる種族について研究を重ね

ても彼と同じように境界に手を伸のばしても

なにも変えられない

ライチが探している『あの人』はオリエントタウンから入ることができるカグツチ下層の

下水道をねぐらとして日々ただ本能の赴おもむくままにさまよい続けている

『どいつもこいつも私の弟子は馬ば鹿かばかりだhelliphellip』

ココノエが吐はき捨てるように言う

108

意識のない女

士が身に着けている青と白の制服は苦しい生活や貧しい環かん境きようをもたらした

元げん凶きようをし象よう徴ちようしているようなものだ

その気持ちをわかりながらもライチは

めるように言う

「誰であろうと患かん者じやは患者よリンファベッドの用意をしておいて」

「helliphellipはいライチ先生」

リンファとてライチの言い分はわかっている

もう一度きつく腕の中の紙袋を抱だきしめるとリンファは渋しぶし々ぶ頷うなずきそれでも足早に病院の

奥へと駆けていった

それを横目に見送りながらライチはぐったりとした少女の腕を肩かたに担ぐようにして濡ぬれ

た体を支える

最後にと見上げた知的な瞳ひとみにテイガーは告げた

「ライチこれだけは伝えておきたいココノエはお前が機

に戻もどることを望んでいるお前

にその意思があるならいつでも手を貸すつもりだ」

それこそがわざわざ通信回路をねじ込んでまで口をはさ

んできたココノエが言いたかったこ

とだろうとテイガーは解かい釈しやくしている

あの気難しく神経質な声で話す上司は人に情じよ緒うちよめいたことを伝えるのがとても苦手だ誰よ

りも側でココノエの仕事を手伝ってきたテイガーはそのことを身にしみて実感している

ライチは驚いたような顔を見せそれから頰ほおを緩ゆるめるように力を抜ぬくと

しげに首を横に振ふ

第二章 Spiral fate 盤上の駒111

間まちがってもテイガーやココノエとの会話を

かれるわけにはいかないのだライチは素早く

助けを求めるような視線をテイガーに向ける

だがそのときにはもうすでにテイガーは通信をオフにしていたライチがなにをきらうのか

は見かけによらず理性的な巨きよ漢かんは十分理解している

ただしその代わりにとばかりに抱えていた意識のない少女をライチの腕の中に押し付ける

ように託たくした

「私は任務があるもう行かなければとにかくこの娘むすめを頼む」

テイガーがここを訪れたのはなにもココノエの心情を伝えるためでも上司とライチを口論

させるためでもなくこの赤い髪かみの少女の身の安全のためだ

「わかったわ預かる」

このじ状よう況きようで拒きよ否ひするわけにもいかないライチは素直に少女の身み柄がらを引き受けた

力なくもたれかかる少女の体は決して軽くはないが支えながら引きずってベッドへ運ぶく

らいはできる医者や研究者に相応ふさわしくない程度にはライチは力には自信があった

ライチが受け取った人物の

を見てリンファが不ふ愉ゆ快かいそうに眉まゆを寄せた

「この人図書館の

士じゃんなんでhelliphellip」

なんで

士なんかを預かるのかのみ込まれたリンファの言葉はそう続くはずだった

リンファはオリエントタウンの生まれだ下層の住人の大半がそうであるように彼女もま

た高圧的な統制機構の施し政せいに大いに不満を抱いて生活している

110

雨の中運ばれてきたせいで少女の体はすっかり冷えていた

リンファが整えてくれたベッドまで運ぶと清潔なシーツの上に横たえ

士の制服である青

い帽ぼう子しとブーツを脱ぬがせる指先まですっかり力を失った手を取り手てぶ袋くろと硬かたい金具のついた

袖そでを外した

となりの部屋でリンファが買ってきた日用品の片づけをしている物音を

きながら上等とは言

えない毛布と布団を眠ねむる少女の体にそっとかけてやる

「helliphellip今夜はこれじゃ少し寒いかもしれないわね」

青と白の帽子や袖をたな

へしまいながらライチは声に出して呟つぶやいた

そのしゆ

間んかん目に見えない糸が切れたような不思議な感覚がライチの

筋を掠かすめていったの

だけれど

ライチはそれを冷えてきたがゆえの悪寒だと思って新しい患者にかけてやる毛布を取りに

行くため部屋を出た

この

間ライチの大切なものがひとつ喪うしなわれたと彼女が知ることはなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒113

った

「helliphellip私は戻れないわあの人のことが片付かない限りは」

戻ればきっと後こう悔かいするお門かどちがいにもココノエを恨うらむかもしれない

「そしてもし片が付いて私があそこに戻ろうとしてもそのときは今度は博士が私を受け入れ

ない」

もしあの人を戻せるとしたらその方法が容易たやすくそして人道に則のつとったものであるはずがな

い触ふれてはならないものに触れなければならないだろう見てはならないものを見なければ

ならないだろう知ってはいけないものを知らなければならないだろう

そうなったときココノエが自分をどんな目で見るかライチはあまり想像したくはなか

った

難しそうに唸うなりテイガーが小さく顎あごを引く歪ゆがんだ口元は苦々しい

「そうか難しいことは私にはわからんが」

いつまでも話してばかりはいられないテイガーは広く赤い

中をライチへ向けた

「今はこれで失礼するhelliphellip達者でな」

それだけ告げるとテイガーは後うしろ髪がみを引かれる様子もなく来た道を引き返していった暗

い影かげの中に入るとやがて大きな

中はオリエントタウンの路地裏に消える

ライチもまた立ち去る

を向けて預かった

士の少女を病院の中へと運び込んだ

後ろ手にとびらを閉めればそこはもう慣れ親しんだ小さな自分の病院だ

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まったくうんざりするこれからこんな風雨の下でひとりで作業しなければならないな

んて

「helliphellipっていつまでもぐちぐち言っていてもしょうがないですか」

自分で自分を哀あわれみながらハザマはスーツの内ポケットから小さな通信機を取り出した

耳に当ててしばらく待つ

とうに日は落ちて辺りは暗くこの分厚い雨雲で月明かりが望めるわけもないハザマの後

方で灯ともる屋上入り口の白々しい明かりがスポットライトのように円形の濡れた屋上を寒々し

く照らしていた

『||私だ』

通信機の向こうから声が応こたえた

男の声だ低く感情らしい響ひびきは一いつ切さいない

ハザマはズボンのポケットに手を突つっ込こむと心持ち

筋を伸ばした

「お疲つかれ様ですハザマですとりあえず現場に到とう着ちやくしましたよ雨ざらしですけど」

『そうかでは始めろ』

「あらら冷たいですねぇねぎらいの言葉もなしですか技術大たい佐さ」

帽子のつばなどまるで意味がない濡れて額にはりつく前まえ髪がみを指先でのけながらハザマは口

角を引いて苦くし笑ようする

もっとも通信機の向こうにいる男にねぎらいの言葉などかけられたらそれはそれで気味

第二章 Spiral fate 盤上の駒115

2199年12月30日||18時21分

雨はまだ

り続いていた

曇どん天てんはますます色いろ濃こくついには強い風まで吹ふき始める

夜ともなれば空気は冷えるただでさえここは高い場所でhelliphellipそう地上から数えればとん

でもなく高い場所でそのうえ風雨をさえぎるものがないというのに

「あーあhelliphellipもう最悪ですね」

世界虚こ空くう情報統制機構カグツチ支部の屋上つまり第十三階層都市カグツチにおいて最も高

い場所に立つハザマは

り止む気配のない雨空を見上げて心底辟へき易えきしていた

制服ではない自前の黒いスーツも雨除よけにはならない帽子も上がってきて数秒でびしょ濡ぬ

れだ

少し待てば雨足も弱まるのではないかと思って無益に潰つぶした時間は一体なんだったのだろ

うか

「これが上官命令でもあの人の言いつけでもなかったら体調不良でも持ちだして即そつ刻こく本部に

帰るところですよ」

114

歩きながらもハザマは笑っていた両手をポケットに突っ込んでいるせいで細い肩が少しだ

け持ち上がって喉のどを鳴らすたびに小刻みに揺ゆれる

誰もいない鳥さえ近づかないカグツチの頂でハザマはどこか摑つかみどころなくにゆ

和うわに笑い

かけた

彼にだけわかる人物へまるでなだめすかすように

「そう急せかさないでくださいよ焦あせらなくてもいずれ取り戻せますって」

||ねえテルミさん

第二章 Spiral fate 盤上の駒117

が悪くてとても仕事どころではないのだけれど

『あまり時間がないさっさとしろ』

「はいはいまったく貴方あなたもあの人も人使いが荒あらいんですから」

ではまた後ほどそう言葉を足して通信を終えるとハザマは手の中に握にぎり込めるくらい

小さな通信機を玩がん具ぐでも扱あつかうように宙へ放ほうり投げキャッチした

雨が冷たい

ハザマは目ま深ぶかにかぶっていた黒の帽子をほんの少しだけ持ち上げた

濡れた髪の向こうから金色の瞳ひとみが覗のぞいていた照明の中でちらつく無数の雨あま粒つぶを鋭えい利りな狡こう猾かつ

さで見み据すえる一いつ緒しよにその向こうで静かに濡れるがらんと空くう虚きよななにもない屋上の空間を

軽く肩をすくめるようにしてハザマが笑えみの息を漏もらしたまるで誰かになにごとか語り

かけられたかのように

「わかっていますよ私だってさっさと片付けたいですからね」

さあさあと雨の音が途切れることなく続いている

そこにハザマ以外の誰かの声はなくもちろんハザマ以外の

はない

暗い夜の屋上は雨あま霧ぎりの中でなにひとつ文句も言えず濡れるばかりでハザマに何事か語りか

けるはずもない

ハザマは通信機をしまうとちょいと帽子を直し屋上の中央に向かって足を踏ふみ出した硬

い革かわぐつが濡れた床ゆかを叩たたいて微かすかな水音を弾はずませる

116

Page 10: t1501 ブレイブルー1 面付BLAZBLUE―ブレイブルー―1 カラミティトリガー 上> 原案・監修 ‥ 森利道(アークシステムワークス) 著‥駒尾真子

彼はなにもひっそりとここに忍しのび込んだわけではない

を守る警

員を殴なぐり倒して正面

から堂々と侵入したのだ

まるで自分の力と存在を誇こ示じし深く爪つめ痕あとを残すように彼は暴れに暴れて手あたり

第に破

壊し奥へと進んだ立ちはだかるものはなんであろうと斬きり倒すそんな暴力的な歩みで進

んで進んでhelliphellip

そうして彼が到とう達たつしたのは長い長いし昇ようこう装置で

りた先のぽっかりと口を開けたような

地下深い広間だった

helliphellipそこはもうこれまで通ってきた廊下や部屋とは

う世界だった

空気が

う温度が

床ゆかも壁も天井も金属に似た質感の板で覆おおわれており広場を見下ろす位置にガラス張りの小

部屋が設けられているその下にも重じゆ厚うこうな機械類が並んでおりそれらが見み据すえる先で異様に

大きななにかの装置が沈ちん黙もくしていた

人は誰もいないここにいたはずの人間は皆みな襲しゆ撃うげきの知らせを受けて避ひ難なんしたのだろうそ

してここに駆けつけるはずの人間は皆白はく髪はつの侵入者が蹴け散ちらしてしまった後だ

一歩一歩彼は広間の奥に鎮ちん座ざしている巨きよ大だいな装置へと足を進めた

異質さが体にまとわりつくようだった

第一章 Stratum city 階層都市19

てしまう

揺らめきはそのまま炎ほのおの速さで走りじ弾だんを浴びせる制服たちへと迫ると一息に吹ふき飛ばし

たご

うと炎が逆巻くような音が巻き起こり男たちの体は

鳴ごと攫さらわれて壁かべに叩きつけら

れる衝しよ撃うげきに負けて壁に太くヒビが走った

たった一撃それだけで銃を構え勇ましくも侵入者を迎むかえ撃とうとしていた男たちは全員

意識を失い廊下に倒たおれ伏した

「helliphellip倒されるってわかってんだからのこのこ出てくんじゃねぇよ馬ば鹿かが」

あっけないものだ倒れた制服

を横目に見やると大きな剣を携たずさえた彼はすぐさま廊下を

走り出す

いつまでもこんなところで時間を食っている場合ではない

向かうのはこの施し設せつの一番奥最下層だ

また廊下の奥から青と白の制服

が現れる口々に叫びながら銃を構えあるいは剣を抜ぬい

た人

数はさっきよりも多いがだからといって彼のやることに変わりはない

真正面から突っ込んですべてを振り払はらい叩きのめす

々に制服

の力ない体が廊下のあちこちに転がりセキュリティ装置はことごとく破は壊かいさ

れ口を閉とざすとびらすら叩き切られて鉄くずに変えられた

18

この世でありながら別の世であるかのような本能が警告するい和わ感のようなものが空気の

代わりに漂ただよっている

けれど彼には慣れた空気だった

もう幾いく度どもこういうところにはやってきているのだここと同じ構造をして同じ装置を地

下に隠した施設をこれまでいくつ訪ねたかわからない

毎度訪問の目的はひとつ

この巨大な装置の破壊だ

彼は床を踏ふみしめるようにして歩み寄る

これがなんのために存在しているのかここで働いていた者のどれほどが把は握あくしていたのだ

ろう

来るたびに彼は棘とげのような疑問を感じる

これがなにをもたらすと思って毎日毎日こんな陰いん気き臭くさい地下深くまで

りてきて用よう途とも

わからないチカチカ光る計器をいじくり回していたのだろう

縁へりまで来ると彼はそれを睨にらみ据すえる

銀色の金属で組み立てられた装置は見上げるほどに高くそびえ見下ろすほどに深く大き

かった

メインとなる部分は彼が見下ろす円形の部分だ

これは『窯かま』だった

20

第九階層都市アキツ世界虚こ空くう情報統制機構支部

都市の中心に建っていた施設が何者かの襲撃によって崩ほう壊かいしその騒動で都市全体が混乱し

ている中

赤いロングコートを着た白髪の男はひとりひっそりと都市から去ろうとしていた

もうここでやるべきことは終わった長居は無用だ

施設での

手な立ち回りに反して外では人目につかぬよう入り組んだ道を通りできるだ

け薄うす暗ぐらい出口を選んだ

街中で制服を着た

士たちに見つかれば振り払うために戦わねばならないそれが煩わずらわし

い錆さび

臭くさい鉄門をくぐって奥にあるポートへ向かうその脇わきにある通路を下れば外に出られる

はずだ

そのときふと薔ばら

の香かおりが彼の鼻び孔こうをくすぐった

「まるで行き場を失った野の良ら犬みたいね」

淡たんた々んとしたあざけり

の声が

こえ彼は足を止めて振り向いた傍かたわらに佇たたずむ細い外灯を見上げる

先せん端たん

が二ふた股またに分かれたシンプルなそれの上にひとりの少女が立っていた

歳としは十を過ぎて数年といった程度だろうかまだ幼い顔立ちをしながらも足元からの薄暗

い明りに照らされて浮うかぶ赤い瞳は外見の年とし頃ごろに似合わぬ聡そう明めいさをたたえている

第一章 Stratum city 階層都市23

今はいくつもの金属板が折り重なるようにして口を閉ざしているが開けば内は火山の火口

のようになっている炎えん色しよくの溶よう岩がんのようなものが渦うずを巻いて覗のぞき込む者のすべてをのみ込ま

んと燃え盛さかっているのだ

だが中でわだかまっているものは決して溶岩や炎などではない

そこにあるのは異界だ人が本来あるべきではない世界のひずみ走った亀き裂れつの向こう側

見てはいけなかった踏み込んではいけなかった世界のからの外側

彼が見下ろす金属の装置はこの窯を制せい御ぎよしまた窯に干渉するためのものだ

本来及およぶべきものではない異界||境界に触ふれるための装置

彼は世界中に散らばるこの窯を破壊して回っていた

こうして

めてみても今いま更さら感かんがいもない

彼は剣を腰こしに戻もどすと右手を装置へと向けて突き出した何事か呟つぶやくもう何度も繰くり返し

口にしてきた破壊をもたらす言葉

言葉は彼の右みぎ腕うでで眠ねむっていた力を呼び起こし力は彼の右腕に蒼あおい光を生んだ

またたく間に辺りを埋うめ尽つくすほどに増ぞう幅ふくされた光を彼は装置に向けて思い切り放つ

のしゆ間んかん地下深くで口を閉ざしていた異界への門はそれを囲む広大な部屋ごと跡あと形かたもな

く吹き飛んだ

22

別に行き先などどこでもいいカグツチならここアキツからでもそう遠くはない

彼は忌いまい々ましげに少女の消えた辺りを睨みつけると示された

の目的地を目指して歩き出し

た数

日後彼の名は世界中に指名手配犯として公開された

ラグナザブラッドエッジ

それが『死神』の異名を持つ史上最高額の賞金首の名だった

2199年12月30日||13時27分

約百年前世界は一度滅ほろびかけたという

突とつ如じよ現れ世界中を破壊して回った巨大にして異形の怪かい物ぶつhelliphellip『黒き獣けも』の

その圧あつ倒とう的な力に人類は為なす術すべもなくあっという間に世界の人口は半分に減った

ところがそこに六人の勇士が現れた

第一章 Stratum city 階層都市25

下方の彼を見やって少女は薄うすく微笑ほほえんだ

「薄うす汚ぎたない迷子の野良犬さん

に貴方あなたが行くべき場所を教えてあげましょうか」

「helliphellipなに企たくらんでいやがる今まではそんなこと教えなかったじゃねぇか」

吐はき捨てるように彼は低く呻うめいた

少女は呆あきれたように眉まゆ尻じりを下げる

「心外ね教えてきたじゃないhelliphellipもう何度も」

「はぁ

なに言ってんだテメェ」

「覚えていないならいいのよ期待もしていないわ」

指に絡からまった糸くずでも払うように言うと少女はある方向をその白く小さな手で示した

その先に広がるのは暗雲を抱いだく暗い夜空星も月もない夜はまるで不ふ穏おんな予感を掻きたてよ

うとするかのように重苦しく静かだった

「第十三階層都市カグツチ」

そこが貴方が導かれるべき場所よ

そう告げると少女は薔

の香りを漂わせ風が吹き抜けるように

を消した

甘い花の香りが消えると白昼夢から現実に引き戻されたかのようにどこからか金属とくさ

った水の臭においが漂ってくる

気分のいい場所ではない

「カグツチhelliphellipね」

24

た街は山の高度に沿って上下に広がり結果幾いく重えにも市街のプレートが重なった狭せまくも高

い都市が生まれたのだ

ここ第十三階層都市カグツチもまた世界中の都市がそうであるように複雑な多重構造と

なっている都市だった

その中の折り重なった市街のひとつオリエントタウンの入り組んだ細い道を彼は少々ふ

らついた足取りで歩いていた

白い髪かみに左は緑右は赤という左右で色のちが

う瞳ひとみ全身を包む黒い服に目の覚めるよう

な真っ赤なロングコート腰には幅はば広びろで分厚い刀身がと特くち徴よう的な剣けんが下げられている

ラグナザブラッドエッジ

世界虚空情報統制機構の支部を各地で壊かい滅めつさせているSS級の指名手配犯であり史上最高

額の賞金首が彼だ

とはいえ周囲を行き交かう街の住人は誰もラグナを気にしたりはしないどうせまたどこか

らか無法者が入ってきたのだろうそんな程度の視線が時折興味もなさそうに掠かすめては離れ

ていく

ここはオリエントタウンカグツチの下層に位置する街だ

階層都市はその構造上上層の街であるほど魔素から遠く安全で清潔で逆に下層に行くほ

ど管理が行き届かず魔素に近い階層都市において上下は住みやすさだけでなく晒さらされる命

の危険の度合いをも意味している

第一章 Stratum city 階層都市27

彼らは事象兵器

アークエネミーと呼ばれる武器を手に黒き獣にいどみ災さい厄やくの魔ま物ものを倒し人類に未来をもた

らした

六英えい雄ゆうと讃たたえられた彼らは人知れず歴史の海に

を消し行ゆく方え不明となったがそれでも彼ら

の栄光は伝説として語かたり継つがれた

それは近くも遠い昔の話

今の世にかつての黒き獣との戦争||暗黒大戦の誰だれもが知るような名な残ごりがあるとすれば

それは大きく数えてふたつだろう

ひとつは世界虚空情報統制機構

暗黒大戦のとき六英雄と共に戦った世界的な連合軍が母体となった組織であり現在は世界

中をこの組織が統とう括かつしている

そしてもうひとつが魔素

災厄の魔物黒き獣の出現と共に世界中であふれ出した物質で黒き獣が倒たおされた後も依い然ぜんと

して世界の空気中に残り続けた

今では様々なテクノロジーにも利用され人々が暮らしていくうえでなくてはならないもの

となっているがそれでも多量の摂取は人体への危険を伴ともなう

そのため人類は魔素を利用しながらも魔素を避さけて生活しなければならなかった

魔素は地表に近いほど濃こく滞たい留りゆうしているそこで考え出されたのが階層都市だ

高山を基き軸じくにしてそこからプレート状に築いた市街を突つき出させるようにして街を建設し

26

っている

そのうえあちこちの路地を塞ふさぐように木箱やらなにかの詰つまった袋ふくろやらが我が物顔で腰を下

ろしているものだから何気なく入った路地が通り抜ぬけられないこともしばしばある

赤い柱にぎょろついた目玉のついた奇きみ妙ような像街中に小さな明かりの灯った提ちよ灯うちんがぶら下げ

られていてそれ以上におびただしい数の大小の看板が眩まぶしいネオンを輝かがやかせている

普ふ通つう下層の街というのはいくつもある上層の基き盤ばんに陽光をさえぎら

れて昼間でも薄暗く場所に

よっては真っ暗になるものだがここはそんな暗がりとは無む縁えんのようだ

路地を抜けると少し開けた通りへ出た

左右にずらりとなにかの店が並んでいてどうやらこの辺りのメインストリートらしかった

その分掲かかげられた看板の数もその

手な色しき彩さいも段だんちがいだ

(この辺なら統制機構の連中もいねぇだろ)

比ひかく的広い通りでもいかにもこの街の住人といった人間ばかりが歩いていて世界虚空情報

統制機構の例の忌いまい々ましい青と白を基調にした制服は見当たらない

ありがたい話だもし見つかれば曲がりなりにもラグナは重大犯

者周囲への配はい慮りよもな

にもなく雨あられと発はつ砲ぽうされ

から

へと集まってくる

士たちと追いかけっこを演じなけ

ればならなくなる

ラグナは左右をきょろきょろと見回しながら腹部に手をやった

疲労より空腹が辛つらいカグツチに入ってからというもの食料品を扱う店に巡り合えず持

第一章 Stratum city 階層都市29

当然最上層を占せん拠きよしているのは管理機

でもある世界虚空情報統制機構だその

連施し

設せつや

係者の住宅が市街のほとんどを占しめている

続いて権力に近く裕ゆう福ふくである者が上層階に住まいそうでない者はその

産や身分に順列を

つけるように下へ下へと下っていく

オリエントタウンに住んでいるのはそういった順列の結果ここまで追いやられてきた人間

たちだった

誰も彼もお世辞にも裕福とは言えない自分と家族それから少しの親しい人間の生活の

ことで精いっぱいで見るからに異質な白髪の男にかかわって余計な面めん倒どうに首を突っ込みたが

る酔すい狂きよ者うものなどほとんどいないのだ

もっともラグナ自身も周囲の人間の様子に気を配っている余よ裕ゆうはあまりなかった

今は使われていないは搬んに入ゆう口からカグツチに侵しん入にゆうしたのが二日前それからずっと人の通ら

ない裏道や廃はい棄きされたエリアを通ってきた図はかったわけでもないのに延々と歩かざるを得なか

った悪路に正直疲ひ労ろうが募つのっている

帰りはもっとまともな道を通ろうそう決めていた

「にしても下層にしちゃ賑にぎやかな街だな」

辺りを見回しラグナはぼやくように率そつ直ちよくな感想を口にした

オリエントタウンは無計画にとにかく乱雑に家を建て並べたことがよくわかる入り組んだ

造りをしていた道は狭くやたらに折れ曲がり家々は今にも密着しそうに身を寄せ合って建

28

「うhelliphellipう」

微かすかに震ふるえる声で呻き少女はゆっくり顔を上げる

ラグナを見上げたフードの中におそらく誰もが想像するであろう少女の顔はなかった

あるのは黒い暗い闇やみを詰め込んだような陰かげその中でへなりと下がった赤い目らしき丸と

白い歯の並ぶ下を向いた三日月形の口だけが浮かんでいる

ぴくぴくと痙けい攣れんするようにフードについている三角の耳が震えた

人間ではないけれど獣のような尻尾や耳を持つ獣じゆ人うじんとも様子が

「もしかしてhelliphellipカカ族か」

このような奇きみ妙ような風ふう貌ぼうの生き物をラグナは過去にも一度見たことがあった確か剣けんの師しし匠よう

を訪ねてきたはずだ同じような黒い顔に実にシンプルな顔のパーツ目の前にいる少女とそ

のとき目にしたカカ族の女は明らかに別人だがこのと特くち徴よう的な容

は他にあるまい

もっとも『カカ族』という名めい称しようを知っているだけでつまりどういう一族なのかをラグナは

知らないのだが

さてこの少女をどうしたものか

わらずに引き返すべきか見なかったことにして先へ

進むか

咄とつ嗟さのことに決めあぐねていると顔だけを起こしたカカ族の少女はその弱り切った様から

は想像もできない俊しゆ敏んびんさで突如ラグナの足にしがみついた

「うおぁっななんだ」

第一章 Stratum city 階層都市31

ち歩いていた保存食も底をつき昨日の夜からなにも食べていないのだそろそろいい加減

限界が近い

いくら下層街でもこの雰ふん囲い気きなら飲食店くらいいくつかあるだろうそう思って雑多な看

板からそれらしい名前を探しているとhelliphellip

なにかやわらかいものを踏ふんだ

「ブニャッ」

同時になにかの鳴き声が足元から

こえた

「げっ」

犬か猫ねこでも踏みつけたかと思ってラグナは慌あわてて足をどける

が見下ろしたそれは予想に反してずいぶんと大きなものだった

というより人だったり両よう腕うで両足を地べたに投げ出し力なく倒れ伏ふしている少女だ全身

をすっぽりと覆おおうフードつきのローブから長い三つ編みの髪とかつ色しよくの肌はだの足が覗のぞき見えてい

るhellip

hellipいや

「なhelliphellipなんだテメェ」

警けい戒かいというより疑問一色の声で問いかけるラグナの視界でひょろりと弱々しく細長い尻しつ尾ぽ

が揺ゆれた

尻尾はその倒れた少女から生えていた

30

「はぁ

おおいどうした大だい丈じよ夫うぶか」

あまりにも切せつ羽ぱ詰つまった声を出すものだからさすがに少し心配になった持ち上げていた足

を下ろして陰を詰めこんだような顔を覗きこむ

まるで黒いお面のような顔は目も口も情けなく下げてラグナを見上げ今にも気を失いそう

な弱さで訴えた

「おhelliphellipお腹なかが空すいたhelliphellipニャス」

黄色いクロスがかけられた丸いテーブルの上にいくつもの皿が並んでいた

揚あげた鶏とり肉にくに薬味だれをたっぷりかけたもの肉団子と色いろ鮮あざやかな野菜の甘あま酢ずあん炒いため四

角く切り分けた豚ぶた肉にくを甘あま辛からく味付けしたこってりとした煮に物ものに山と盛られた炒め飯牛肉と

野菜を濃い味の味み噌そで炒めたもの細切りにした野菜を薄うすい皮で包んだパリパリの春巻きに

挽ひいた肉を包んで蒸むしたふかふかの饅まん頭じゆhellipうhellip

白い湯気と共に胃いぶ袋くろを震わせずにはおかない匂においを放つ数々の料理を三角耳のついたフー

ドの奇妙な少女は椅い子すからずり落ちそうなほど身を乗り出して忙いそがしく口に掻かき込んでいた

「はぐはぐはぐニャスはぐはぐはぐはぐはぐニャスはぐはぐ」

料理を頰ほお張ばる音なのか箸はしをしゃぶる音なのか空気の抜けるような声が絶えず漏もれていた

第一章 Stratum city 階層都市33

「うぅぅニャhelliphellipた助けてhelliphellipニャス」

驚おどろいて足を持ち上げ振ふり払はらおうとしたラグナの足に両腕を絡めてぶら下がり三角耳に尻尾

を生やした少女はあわれっぽく訴うつたえる

しがみつく腕うでをほどこうとラグナは足を大きく上下に振ふりまくるが少女の腕がどういう

わけか一向に離れない

「くっこの離しやがれ

なんなんだよテメェは」

「離さないニャス絶対に離さないニャスぅhelliphellip助けてくれないとこのままオマエの足を食う

ニャスよぉぉhelliphellip」

声だけは弱々しくだが腕は言葉に反して力強くラグナの足を摑つかんで離さない

この騒さわぎでも周囲の人間は奇き怪かいなものでも見るような視線を一いつしゆんくれるだけでそれ以上

わろうとせず通り過ぎて行く

面倒なトラブルに巻き込まれる心配はなかったが少なくとも親切な通行人の手助けは見込

めなさそうだった

何度目かでいい加減に諦あきらめるラグナは足を中ちゆ途うと半はん端ぱに持ち上げたまま縋すがり崩くずれるカカ族

の少女を憔しよ悴うすいの表情で見下ろした

「待て待て待て足を食うなてか意味わかんねぇよ助けるってなんだよ」

「うぅぅhelliphellipよhelliphellipよくぞ

いてくれたニャスタオは今とってもピンチなのネもうhelliphellip

もう限界ニャス」

32

た中皿いっぱいに盛ってあったはずの春巻きはいつの間にか最後のひとつになっていた

「こんなにうまいご飯を

ってくれるなんて白い人はいい人ニャスタオはとぉ〜っても感

謝してるのニャス」

両腕を大きく振り回して少女は喜びの度合いを示そうとするその手は指先まですっぽり

と袖そでの中に隠かくれていて猫の前脚を模したように大きく丸くなっていた

ラグナは春巻きを飲み込んでから尋たずねる

「タオってのはお前の名前か」

「ニャス

タオカカニャス」

大きく頷うなずくと尻尾を持つカカ族の少女タオカカはもう一方の手に持ったままだった肉饅

頭をまた一口で頰張り飲み込こんだ

「タオは村を出て勇ましく旅立ったんニャスがhelliphellipすっかりお腹が空いて動けなくなってたの

ニャあのときいい人が助けてくれなかったらタオは今ごろ干からびてカカの干物になって

たニャスこの『ごおん』は忘れないニャスよ」

勝手に身の上話を始めながらタオカカは味噌炒めの皿を抱かかえて残っていた分を全すべて口の中

に流し込んでしまう

まだそれ食ってなかったんだけどとは言えずラグナは渋じゆ面うめんでその様を見守った仕方な

く肉饅頭をひとつ確保すると呆れを込めてため息に肩かたを落とす

「はいはいなにがご恩だよどうせ飯食ったら忘れるだろお前」

第一章 Stratum city 階層都市35

さっきまで力なく下がっていた目も今はまん丸で口も上向きの三日月形となっている

その様を横目に呆あきれ顔でながめながら向かいの席に座っていたラグナは揚げた鶏肉を口に運

んだ分厚い衣ころもがカリカリとしていてうまい久しぶりに直じか火びで炙あぶっただけでない手の込ん

だ食事だった

「helliphellipうまいか」

料理は凄すさまじい速度で減っていく奇妙な少女が嬉きき々として大量のメニューを注文し始めた

ときはラグナはとてもそんなに食べきれないと青ざめたがそんな心配は無用だったようだ

むしろ今となっては支し払はらいのほうがよほど心配だ

先だけ白くなっている尻尾をふりふりと上じよ機うきげんに揺らす奇妙な少女はふかふかの饅頭を両

手に摑つかんで顔を上げた

「うまいニャス

あれもこれもそれもぜ〜んぶうまうまニャス」

「そうかそうかそらよかったよはぁhelliphellip」

こうも屈くつ託たくなく当然のように貪むさぼられるとこいつの頭に遠えん慮りよという言葉はないのかだとか

そもそもどうして自分が見ず知らずの正体不明な少女に食事をおごっているのかだとかなぜ手

を引かれるままに大人しくこの店まで来てしまったのかだとか尽つきることなく浮うかんでくる

疑問もどうでもよくなってくる

少女はうまそうに肉饅頭を一口で頰張る

あっという間に飲み込む様に思わず苦くし笑ようを漏らしてラグナは春巻きをひとつ箸で取り上げ

34

だが現在はどちらかというと統制機構の手に負えない凶きよ悪うあ犯くはんや行ゆく方えの知れないとう

亡ぼう犯など

にかけられた多額の賞金を得て日ひ銭ぜにを稼ぐ者のことを表している

それが全てというわけではないが多くはまともな

につけなかった荒あらくれが暴力手段で稼

げる口として選ぶ道だ

女の咎追いが珍めずらしいわけではないがこれほど無防

でき緊んち張よう感のない咎追いはラグナは見

たことがなかった

「そうニャス今日からなったニャス」

「今日からかよ」

「そんでこいつを摑まえるのネ」

なぜだか誇ほこらしげにタオカカは皺を伸ばした紙をラグナに差し出した

ラグナは肉団子を野菜と一いつ緒しよに口の中で嚙かみ砕くだきながらそれを受け取る街角などに貼はら

れているような指名手配書だったあまりお目にかかれない気前のいい賞金額と共にひどく

不細工な男の似顔絵が描えがかれている

賞金首の名前はラグナザブラッドエッジ

「ぶはほっ

その名前を見た途と端たんラグナは盛せい大だいに肉団子と野菜を咀そし嚼やくしたものを噴ふき出した

「ぶにゃにゃ

いきなりご飯噴き出すなんていい人ばっちいニャもったいないニャスよ」

横で抗こう議ぎしながら最後の肉饅頭を頰張るタオカカの声も耳に入らないラグナはまじまじ

第一章 Stratum city 階層都市37

「忘れないニャス」

突とつ然ぜんピンと尻尾を真まっ直すぐに立ててタオカカはずいと身を乗り出すとテーブルの上からラ

グナを見上げた瞳どう孔こうのない丸い目ときばを並べた三日月の口がお面のようで不気味だ不気味

であるはずなのにどうしてか見つめられると愛あい嬌きようを感じる

「カカは義ぎ理り堅がたい一族ニャス受けた恩は忘れないのネいつかタオが大金持ちになったら

今度はタオがいい人にご飯を

ってやるニャス」

「大金持ちってhelliphellipお前な腹減りで行き倒だおれてた奴やつがなに言ってんだアテもねえくせに」

「ぬっふふふアテならあるニャスよ」

言ってひょいと肉団子を三つ箸に刺さして口に放ほうるとタオカカは椅子までずりずりと体を下

げて服の中からなにかを取り出した

くしゃくしゃになった一枚の紙だタオカカはそれを丸い手でテーブルの上に広げて皺しわを伸の

ばす

「タオは咎とが追おいニャス悪い奴をとっちめてたくさんお金をもらうのネ」

「咎追いだ」

怪けげんそうにラグナは眉まゆを寄せた

咎追いとはいわば賞金稼かせぎだ

元は大量の魔ま素そによって生態系が乱れ大量の新種生物が発生した

にそれらを討とう伐ばつする

べく統制機構が武装を許可した者たちのことを指した

36

「うニャいいニャスよいい人はタオのおんじんニャスからねどーんと任せておくといい

ニャス」

そう言ってタオカカはニシシと笑うと綺き麗れいに舐めた皿をドンとテーブルに置いた

その目の前に

「お待たせしました〜」

若いウエイトレスが新しくいくつもの皿を並べた

肉味噌ののっためん

とパリパリに揚がった

にたっぷりの野菜が入ったあんをかけたもの

焼き豚ぶたをスライスしたものの盛り合わせエビのすり身やら豚のひき肉と香こう味み野菜やらをもっ

ちりとした皮でくるんだ無数の蒸し物

できたての遠えん慮りよ容よう赦しやのない湯気が豊かな香かおりと一緒に天てん井じようへ上がる

「helliphellipは」

頼たのんだ覚えはないそう抗議しようとして気がついた

あのときhelliphellipラグナが自分の手配書を見ていたときだあのときタオカカが一口で食べた肉

饅頭が皿に残っていた料理の最後だった

その直後そういえばタオカカがメニューへ手を伸ばしていたような気がする

「ひゃほ〜ぅうまそうニャス

秘密の抜け道は危ないところなのネいい人もお腹いっぱ

いにしておかないとお腹空いちゃうニャスよ〜」

悪びれるどころか嬉しそうに蒸し物を引き寄せるタオカカの手をラグナは思い切り摑んだ

第一章 Stratum city 階層都市39

と手にした手配書を見る細かく手が震えた

(なhelliphellipなんっだよこの似顔絵

いくらなんでも似てなさすぎだろ

そもそもよくわかっ

てねぇなら似顔絵なんか載のせんなよ俺がこういう顔だみたいに広めてんじゃねぇよ

まさかこれがカグツチの街中にベタベタ貼ってあるのではないだろうかだとしたら憂ゆう鬱うつだ

この顔が『ラグナザブラッドエッジ』の顔だと思われていることもだがこの額で手配

書が出回っているとなるとずいぶんな数の咎追いがラグナを探しているはずだそういう咎追

いはこのカグツチにも多くたむろしているだろう

(普ふ通つうに街中通ってくのはまずいかhelliphellip)

あの青と白の制服連中に見つかるのも厄やつ介かいだが咎追いに見つかるのも厄介だそれこそこ

っちの都合などお構いなしに街中だろうがどこだろうが構わず『仕事』に取り掛かるに

ない

「helliphellipなあタオカカだっけかお前カグツチの上のほうに行く抜ぬけ道とか知らねぇか」

くしゃくしゃの手配書を返しながらラグナは心持ち身を屈かがめて声を低めたもしあるなら

多少悪路であっても面めん倒どう事ごとを引き起こすよりはずっといい

タオカカは甘酢あんだけが残った肉団子の大皿を舐なめながら答える

「おう秘密の抜け道ネ知ってるニャスよ」

「本当か

そりゃいいなあ飯

ってやる代わりにその抜け道まで案内してくんねぇ

か」

38

の腕うでを摑むとウエイトレスの手を強く払った

荷物でも担かつぐようにタオカカを肩に抱だき上げて弾はじかれたように店を飛び出す

「うニャニャッ

タオのご飯

まだ食べてないニャスよ」

「うるせぇ

それどころじゃねえんだよ」

肩かた口ぐちで

痛な声をあげ追いすがるように手を伸のばすタオカカへラグナは焦あせりのままに声を

荒げた

オリエントタウンの大通りへ出ると人波を掻かき分けて持てるき脚やく力りよくの限界にいど

いで走る

「待て

誰だれか捕まえて食いに

げだよ

後方からウエイトレスの金切り声が追いかけてくる

ぎょっとすることにウエイトレスの足はラグナに負けていなかったしゆ

念うねんのせいかもしれな

いラ

グナは足を動かしながら何度も悪態をついたまさかカグツチにやってきて最初に引き起

こす騒そう動どうが食い

げだとはこの街に上がってきたときには思いもしなかった

担がれたタオカカはしょんぼりと尻しつ尾ぽを垂らしてまだ諦あきらめ切れないのか後方へ向けて空を

掻いていた

「うう〜っタオのご飯がぁhelliphellip」

「いいから抜け道の場所を教えろ

店の奴に摑まってミンチにされてぇのか」

「みんち」

第一章 Stratum city 階層都市41

いのあまり腰こしが浮く

「おおまっなに勝手に追加してんだよ

「ニャ

いい人もうお腹いっぱいニャス

ならタオが全部helliphellip」

「ちげぇよ

こんな山ほど注文されていくらなんでも払はらえるか

俺はそんなに金持って

ねぇんだよ

そもそもラグナは仕事を持っていない時折咎追いの真ま似ねごとや日ひ雇やといの仕事で旅費を稼い

だりもするがそんなものは一時しのぎだ金がなくてまともな宿さえ取れないというのに

さっきまでの注文に加えてまだ追加がくるなんてとても財さい布ふの中身が足りると思えない

息巻くラグナの肩に手を置く者があった

ラグナは一度うるせぇとそれを払い落すだが手はすぐにもう一度ラグナの肩を叩たたき手

の主が低く

後から問うた

「お客さん

今helliphellip金持ってないって」

「helliphellipあ」

言われラグナが振ふり向いた先に立っていたのはラグナよりずっと

の低いウエイトレス

だったにこやかに微笑ほほえんでいるがその目はどこか殺気じみている

「金持ってないって」

ウエイトレスはもう一度問う

その直後ラグナはまるで事態がわかっておらず蒸し物をパクパク口に運んでいたタオカカ

40

2199年12月30日||13時35分

灰色の雲に閉とざされた空を

景に一そう

の船が港に到とう着ちやくした

船といっても海を渡わたる船ではない渡るのは空だ

膨れた腹部に人間や機材といった貨物を詰つめて運び左右に伸びた翼つばさに魔素を取りこみ飛行

する魔操船

当然空飛ぶ魔操船が停てい泊はくする港も相応の造りをしている

第十三階層都市カグツチ第五番ポート他に比べて小さく目立たない造りになっている

そこはある特定の目的に多く使われるポートだった

身を寄せるように入港した暗色の魔操船の重々しい稼か働どう音おんが止まりハッチが開いて細身の

階段が下方へ伸びる

銃じゆうを肩かたに下げた青と白の制服

士が数名

りてきて慌あわただしく持ち場につき無線機で

なにやら報告を交かわす

それから遅れることしばしポートの平たい地面に向かう階段に黒い革かわぐつの足がかけられ

た続いてひょいと細身を覗のぞかせるように現れたのは黒いスーツに身を包んだ

の高い男だ

第一章 Stratum city 階層都市43

「肉だよ肉

さっき並んでた料理になりたくなきゃさっさと教えろ」

なにも本気で店員が自分たちをミンチにすると思って言ったわけではないが遅れて意味を

理解したタオカカは真に受けたらしいびくりと尻尾が飛び上がって警けい戒かいするように太く膨ふく

れる

「お肉にされたらお肉が食べられなくなっちゃうニャス

それはいやニャス」

肩の上で器用に身を捻ひねってラグナの前に着地するとタオカカは獣けもののように両手を地面につ

いて走り出す

「いい人こっちニャス」

「よしわかった」

タオカカが飛び込むようにして細い路地に入るい一つしゆん反応が遅おくれたもののラグナも空の籠かご

をひっくり返しながらそれに続いた

ネオンの看板から遠くなりぐっと辺りが薄うす暗ぐらくなる

走りながらラグナはげんなりと自じちようするように思った

今日の食い

げの分明日から自分にかけられている賞金が増額するかもしれないなhelliphellipと

42

青のブーツで雨水を

ね上げながらハザマのいる管理小屋の前まで行くと軽く息を整えて

を正す

空色の瞳ひとみは凜りんとしており生き真ま面じ目めな表情をしていた

「お待たせしてしまってすみませんでも一声かけてくださればよろしかったのにhelliphellipまだ

中にいらっしゃるのかと思って探しておりました」

「おやおやそれはそれはお手数をおかけしましたツバキヤヨイ少しよ尉うい」

その瞳が示す通りどこまでも生真面目に話す女性をツバキと呼んでハザマは口の端はしを深く

吊つり上げ笑えみを浮うかべた

ツバキヤヨイ少尉彼女はハザマのように諜報部の所属ではなく世界虚空情報統制機構

武装魔ま術じゆ師つし第四師団の所属だった

世界虚空情報統制機構とは国家というがい

念ねんのなくなった現世界においてその代役を担になう重

大にして巨きよ大だいな機

だ帝みかどと呼ばれる絶対的な決定権を持つ存在を頂点に掲かかげ世界中の施し政せい

司法軍事あらゆる社会的基き盤ばんを管理し運営している

それだけに設けられている部署は膨ぼう大だいであり役割の異なる部署が共にひとつの任務に当た

ることはひん

繁ぱんにあることではない

だがツバキとハザマはちが

う部署でありながらとある任務のためにふたりでカグツチへとや

ってきていた

「いやぁしかし生あい憎にくの天気ですねぇこの雨の中広いカグツチでひとりの男を捜そう索さくすると

第一章 Stratum city 階層都市45

った

緑の髪かみにのせた黒い帽ぼう子しを指で押さえて男は尖とがった顎あごを上向かせ空を仰あおぐ目ま深ぶかにかぶっ

た帽子のせいで目元は見えないが薄うすいく唇ちびるは不満そうにへの字に歪ゆがんでいた

「あらま雨ですか」

空一面を埋うめ尽つくすように広がる灰色の雲からは静かな雨が

っていた

もうずいぶん前から

り続いていたようで狭せまい五番ポートはどこもかしこもすっかり濡ぬれ

ている雲に動きもないようだししばらくはこのまま

り続けるだろう

やれやれとうんざりしたようにため息をつくと男は足早に屋根のある場所へと移動した

黒スーツの男は世界虚こ空くう情報統制機構||多くは統制機構とり略やく称しようで呼ぶ機

のち諜よう報ほう部に

在ざい籍せきしている名はハザマ階級は大たい尉い

彼が乗ってきたこの魔操船はその諜報部の名前で使用された船だ

この五番ポートはそういう統制機構の中でも公おおやけにできない任務や用件のときに多く利用さ

れるいわば人目を避さけるためのポートだった

「ハザマ大尉

外にいらしたのですね」

魔操船の階段から女の声がかかりスーツについた水すい滴てきを払っていたハザマは顔を上げた

青と白の制服にそろいのポンチョを羽織った若い女性が足早に階段を駆け下りてきた青の

ベレー帽ぼうをかぶっておりそこから腰をも越こすほど長く伸のばされた鮮やかなカメリアレッド

の髪が流れている

44

視線を上げればここからでも高山の頂上から突つき出るようにそびえる美しく壮そう麗れいな支部の

が見られたただ今日は悪天候のため雨のカーテンが視界を煙けむらせる

霞かすむ支部を見上げてツバキはわずかに眉まゆを寄せた

「helliphellipなぜキサラギ少佐はカグツチなどに」

それはジンのことを知る者なら誰もが抱くような疑問だった

第四師団団長ジンキサラギは

常に冷静な人物だメリットとデメリットを十分分ぶん析せきした

上で行動する思し慮りよ深ぶかさを持っているしなにより突然統制機構に

を向けて己の立場を危あやうく

させるような愚ぐち直よくなタイプではない

こんなことは実に『彼らしくない』行いだ

思い悩なやむようなツバキの

にハザマは少し驚おどろいたように「おや」と言った

「これは意外ですねツバキヤヨイ嬢じよう貴女あなた

ほどの聡そう明めいで優ゆう秀しゆうな方がおわかりにならな

い」

口元に笑みを刻んで問うハザマの試ためすような口調にツバキは小さく胸中がざわつくのを感

じたいや

味みな言い方をする男だ

ツバキはハザマという男をよくは知らないだから彼がどういうつもりでこういった物言い

をするのか

しもつかない

だがこの一言だけで黒いスーツに身を包んだ彼を好ましくないと判断する程度には気に障さわ

る語調だった

第一章 Stratum city 階層都市47

なると中々骨が折れそうです」

また帽子に手をやって雨を

りこぼす曇どん天てんを見上げハザマが今度はどこか愉ゆ快かいそうに言う

彼らの任務は人探しだった誰を探すのかといえば

「それでもなんとしてもキサラギ少しよ佐うさを探しませんとhelliphellip」

ツバキは視線を足元に落とし己おのれに言い

かせるように呟つぶやく

ジンキサラギ少佐それがツバキとハザマが探している男の名前だった

武装魔術師第四師団の団長でありツバキにとっては直属の上司だ彼の秘書官として側そばに

仕え支えてきた

その彼が数日前突とつ然ぜん統制機構の本部から

を消した

任務でもなく届け出もないこれは統制機構において重大な規律い反はんだ

一師団を預かる団長が独断行こう為いにより行ゆく方え不明などという事態は前代未みもんだ部下や他師

団に影えい響きようを与あたえるからと今のところこの一件は公になっていない

だが現状がどこからか漏えいする可能性もあるその前になんとしても連れ戻もどさなければと

ごく秘ひ任務を命じられたのがハザマであり彼が協力者に選んだのがジンキサラギの秘書官で

あるツバキだった

冷たい雨が空気を冷やすそのせいだろうか五番ポートは金属のにおいがたちこめていた

濡れた灰色の階段の向こうに上層階らしい整理された街並みがうかがえる奥へ進んでいくつか

階層を上がれば最上層である世界虚空情報統制機構カグツチ支部だ

46

だがハザマは欠片かけら

も気にした様子なくむしろそれこそ子供の反はん抗こう的な物言いに噴ふき出すよ

うに軽く笑った

「あららそっちでしたかこれは失礼いたしましたツバキヤヨイ少尉」

帽子に手をやりわずかに持ち上げて会えし釈やくしてみせるその間もずっと彼の細い首はくつく

つと喉のどを鳴らすような笑いに震ふるえていた

「少佐がなにをお考えなのかなんて我々にわかるはずもありませんよそれこそご本人を見

つけて直接お尋たずねになってはいかがです」

そうできないから疑問なのだと苦く胸中で思ったもののツバキは余計な言葉を奥にしまい

こんだ今必要なのは疑問でも感情でもないそう自分に言い

かせる

「helliphellip了りよ解うかいしました大尉」

ツバキが生き真ま面じ目めに答えるとハザマはもうひとつ笑ってから切り出した

「さていつまでもおしゃべりしていても仕方ありませんしそろそろお仕事を始めるとし

ますか」

仕事つまりはジンキサラギの捜索だ

ツバキはハザマへのけん

悪お感ではなく任務への使命感に表情を引き締しめる

ハザマは雨に濡れたカグツチの街並みを見やりながらにんまりと唇を引いて言葉を続けた

「まず確かく認にんしておきましょう我々の任務はジンキサラギ少佐を捕ほ獲かくし本部へ強制帰き還かんさ

せることただし少佐の失踪の件は公にされていませんからカグツチの

士たちへは内密に

第一章 Stratum city 階層都市49

小波のような不快感を飲み込んでツバキは

士の顔を取り繕つくろいせ筋すじを伸ばすたとえ好ま

しくなくてもツバキは少尉でハザマは大尉上官だ

「申し訳ありません大尉私にはhelliphellip」

「貴女からの報告にあったではありませんかキサラギ少佐は例の『死神』に

する報告を受

けた翌日に

を消したのだと」

ハザマは両手を軽く広げてみせる

さっきのからかうような物言いのせいだろうかそんな仕草でさえツバキにはどこか

に映る

「報告の中には『死神』つまり指名手配中のラグナザブラッドエッジがカグツチに向か

っているらしいという情報もあったそのうえで少佐がカグツチに向かったのならそれはも

う『死神』を追っての行動だとしか考えられないでしょう」

統制機構を出たジンの行き先がカグツチであるとの情報を持ってきたのはハザマだった

うっかりそんな情報を摑つかんでしまったがためにこんな辺へん鄙ぴな場所への任務を命じられてしま

ったと愚ぐ痴ちめいたことをツバキは魔操船の中で散々

かされていた

「恐おそれながらハザマ大尉それは私にもわかります私が疑問なのはなぜ少佐が統制機構を

飛び出してまで『死神』を追わなければならなかったかです」

いささかむっとしてツバキは言う言ってからすぐ無礼が過ぎたかと危きぐが過よぎった

にあるまじき子供じみた態度だったかもしれない

48

てもらえますか」

「別件ですか」

戸と惑まどうように尋ねたツバキの質問に対しハザマは肩をすくめるような苦くし笑ようだけを返し具

体的な言葉は告げなかった

ハザマの所属は諜報部だ他部署へ言えぬ用事も多かろう見えない目的に少々の怪けげん

さを

感じながらもツバキは配はい慮りよのつもりでそれ以上尋ねるのをやめておいた

「わかりましたでは下層のhelliphellipオリエントタウンの辺りから調査してみます」

「そうですねあそこはカグツチでも一番広いエリアですし身を隠かくすにはうってつけですか

らいいと思いますよ」

うんうんと適当に頷うなずきながらハザマは一歩歩み寄るとわざわざ腰こしを折って下方から覗のぞき込

むようにツバキを見た

帽子のつばで瞳が見えないけれど絡からみつくような視線が確かにこちらを捉とらえているのがわ

かる

子供に言い

かせでもするようにハザマは人差し指を一本立てた

「ただひとつ気を付けてくださいね治安が行き届いていない場所はキサラギ少佐が身を隠

している可能性も高いですが同時にラグナザブラッドエッジがうろついている可能性も

あります万が一おふたりが鉢はち合あわせて戦せん闘とうなんてことになったらもう私たちには手も足も

出せませんから」

第一章 Stratum city 階層都市51

お願いしますよ部外者はもってのほかです」

「はい」

「それから現在カグツチにはラグナザブラッドエッジが潜せん伏ぷくしているとみられますそ

のためD警報が発令されていますのでそのつもりで」

D警報とはつまり統制機構による特別警けい戒かいが行われているという意味だそのためカグツ

チの住民でない者や統制機構とは

係のない他機

がこの都市でなにがしかの活動を行うこ

とを禁止している

「D警報に抵てい触しよくする者と接触した場合はカグツチの支部に連れん絡らくを取ればよろしいのでしょう

かそれともこちらで対処したほうが」

しゃんと

筋を伸ばしハザマを見み据すえて問うツバキの様はどこにでもいる一

士と片付け

るにはいささか毅き然ぜんとしすぎる品をたたえていた

それもそのはずだ彼女は統制機構を創設当初から支え幾いく人にんも重役をはい出しゆつしてきた十二宗家

のひとつヤヨイ家本家の娘むすめなのだから

だがハザマはツバキの纏まとう品もそこからくるどこまでも真面目な性しよ分うぶんもなにもかもが面めん

倒どうくさいと言わんばかりに口元を歪めると実に雑に答えた

「あー適当でいいですよお任せします」

「はhelliphellipはい」

「じゃあ私はちょっと支部に別件の用事があるんで先に下層のほうから捜索を始めておい

50

ハザマの気さくさに引きずられることなくツバキはあくまで部下として返事をすると堅かた

苦くるしく

筋を正した

「それでは大たい尉い私は下層を見て回ってきます」

「ええよろしくお願いしますよ今のカグツチは物ぶつ騒そうですからお気をつけて」

「はい失礼いたします」

腰を折って一礼しツバキは管理小屋の狭せまい軒のき先さきから雨の中へと駆かけ出した小さく水音を

はねさせながらポートから街中へと向かう階段を上がっていく

腰までを覆おおう青いポンチョがカメリアレッドの髪かみと共に躍おどり去っていくのをハザマは管理

小屋の壁かべに寄りかかって見送っていた

やがてひ翻るがえるポンチョの青もツバキが

ね上げる水の音も完全に雨の向こうに消えるとゆっ

くりと身を起こす

「本当にお気をつけて」

低く声を喉のど元もとで濁にごらせるように呟くとハザマもまた雨の中へと悠ゆうゆ々うと踏ふみ出した

第一章 Stratum city 階層都市53

「そうhelliphellipですね」

ツバキは身を引くように俯うつむいて苦々しく答えた

ジンは統制機構でも並ぶ者なしとまで言われる剣けんの使い手だそのうえ約百年前の黒き獣けものと

の戦争『暗黒大戦』で使われたとされている事象兵器

アークエネミー氷ひよ剣うけんユキアネサを所持している

そして『死神』ラグナザブラッドエッジはこれまで数々の統制機構支部をたったひとり

で壊かい滅めつさせてきた相応の力を持った人物

このふたりがもしも刃やいばを交えることになればツバキにもハザマにも止めることはできない

その最大の理由をハザマがなぜか陽気に言い放つ

「いやはやなにせ私も貴女も戦闘は専門外いざ荒あら事ごととなったらからきしですからねぇ」

ツバキは統制機構の士官学校を出ているため最低限の戦闘訓練は経験しているだがそれ

も護身術程度のことだ卒業後はジンの秘書官として日々書類や来客の相手ばかりしてきた

そんな状態で戦闘技術の向上が見込めるわけもない

一方のハザマも自身で言う通りち諜よう報ほう活動にこそスキルはあれど武力をもって事態に当たる

ことは不得手だった

ハザマは武具の似合わない生白い手でひらりと宙を払はらってにんまりとく唇ちびるを引く

「まお互たがい無理せずいきましょう我々のお仕事はキサラギ少佐を連れ帰ることですから

そこをお忘れなく」

「承知いたしました」

52

の声だった

「しhelliphellip失礼いたします」

答える声が震えたドアノブを摑む手はもっと震えていた

転んだりしたらどうしようああどんな顔をしていたらいいだろう顔が赤くなってしま

いそうでそれだけは必死に堪こらえて平静を取り繕って

ツバキは部屋の中へと入る

最初に目に入ったのは机に向かってペンを走らせるひとりの男性の

だった

後にある窓から入り込んだ日の光が掠かすめて彼の美しい金色の髪を煌きらめかせていた長い

睫まつ毛げの向こうで情感薄うすく書面を見下ろしている瞳ひとみは離はなれた部屋の入り口からでもわかる澄す

んだ緑色をしているはずだ

部屋には彼以外誰だれもいなかった

を丁てい寧ねいに閉めると室内にはツバキとふたりきりだ

何事か書き終わったらしく机に向かっていた彼はどこかおっくうそうに顔を上げるそれ

からその目を驚おどろきに見開いた

「ツバキhelliphellip」

呼んでくれた声は

の外で

いた義務的な声とはちが

っていた

感情の温度が灯ともった声こわ色いろは表情と同じように驚いた風でそのせいかさっきより少しだけ上うわ

ずったように音が高い

「どうしてお前がここにhelliphellip」

第一章 Stratum city 階層都市55

helliphellipそれはほんの数年前のけれどかけがえのない数年をさ遡かのぼった

ある日のことだった

世界虚こ空くう情報統制機構統合本部

真まっ直すぐに伸のびる白タイルの床ゆかをツバキは緊きん張ちようの面おも持もちで歩いていた

初めて袖そでを通してまだ日数のたっていない青と白の統制機構

士の制服はまだ体に馴な染じんだ

とは言いがたくて頭に載のせたつばのない帽ぼう子しもコツコツと床を叩たたくブーツもそつなく着

られているか心配で仕方ない

胸に書類のファイルを抱えてこれで何度目になるかわからないけれど最後にもう一度長く

伸ばした髪を指先で整えて

それからツバキは目的地であったとびらを控ひかえ目にノックした

「||入れ」

一いつ拍ぱくの間をおいて

の向こうから声が返ってくる

そのしゆ間んかんツバキの心臓がドキリと大きく

ねた

感情の遠い義務的な声けれどわずかに少年らしい響ひびきの残った声はツバキがよく知る人

54

十二宗家本家の出の者が同様に宗家本家の出であるジンの秘書に着くという事例は稀まれだ

その辺りからツバキの無茶を

したのだろうジンは呆あきれたように苦笑する

思わずツバキは震ふるえる吐と息いきを漏もらした久しぶりに見たジンの笑顔だった

「秘書が来るとは

いていたがまさかお前だったとはなhelliphellipよろしくツバキヤヨイ少

尉」そ

う言ってジンは白い手てぶ袋くろをはめた手を差し出す

ツバキはファイルを小こ脇わきに抱えると見上げてくる綺き麗れいな緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し

ながら差し出された手を握にぎった

この日この時からツバキの師団長秘書としての日々が始まった

を追いかけるばかりだった士官学校での後こうはい時代とは

うとなりに

側そばに立ち

務を支える

時間が始まったのだった

2199年12月30日||17時30分

カグツチの下層へ

りていきながらツバキは注意深く周囲へ視線を向けていた

もう少し先へ行けばオリエントタウンと呼ばれるエリアに入るはずだそこはカグツチの中

第一章 Stratum city 階層都市57

仕事中らしからぬ砕くだけた物もの腰ごしにツバキは強こわ張ばっていた頰ほおを緩ゆるめたすとんと緊張が抜ぬける

「書類は届いているはずですよお読みになっていないんですか」

ツバキはファイルを抱えて机の前まで行くといぶかしげな彼へ敬礼し

筋を伸ばした

「本日付けで武装魔ま術じゆ師つし第四師団団長ジンキサラギ少しよ佐うさの秘書官に任命されましたツバ

キヤヨイ少しよ尉ういであります少佐よろしくお願いいたします」

型通りだけれど昨晩から部屋で何度も練習した言葉だ

ミスなく言えたことにツバキがほっとしているとジンが驚おどろきに持ち上げていた眉まゆをわずか

に怪けげんそうに寄せた

「少しよ尉うい」

問われた理由はツバキにもよくわかる

ツバキは世界虚こ空くう情報統制機構において貴族的地位にある十二宗家の生まれだ十二宗家の

者は統制機構の士官学校卒業後最低でも中ちゆ尉ういの階級を与あたえられる

ツバキも例外ではなく卒業直後は中尉であったそれがなぜ現在少尉なのかというと

重大な理由がある

「それはその」

ツバキは言いにくそうに口ごもった

本来別の配属だったところをどうしてもジンの秘書官になりたいと粘ねばりその要望を通す代

わりに

格となったとは彼の前ではとても言えない

56

かしこも濡れていた

通り過ぎる建物細い横道の向こう物もの陰かげすれ

う人ツバキは視界に映るすべてに神経

を向ける

自然と歩調が速くなるのは募つのる焦あせりゆえだ知らず知らずのうちに手はきつく握られていた

(キサラギ少佐helliphellip)

もう何度心の内で呼びかけたかわからない

唇を固く引き結びまるで縋すがるように視線を左右へ走らせるその表情はただ行方ゆくえ

不明の上

官を探しているだけには留とどまらない深い感情の揺ゆれがあった

(どこにいるんですかhelliphellipジン兄様helliphellip)

ツバキはジンキサラギの秘書官だだがそれ以前からジンはツバキにとって特別な人だ

った

ツバキが十二宗家ヤヨイ家の娘むすめであるならジンは同じく十二宗家キサラギ家の子だ互い

に幼いころから知っていた幼いころから顔を合わせ言葉を交かわし時には子供らしく遊ん

だりもした

ツバキが統制機構の

士を目指して士官学校に入ったのも先に入学し将来は師団長を期待

されていたジンの後を追いかけたかったからだ

ジンは勉強も武術もなんでもできたけれどツバキは運動が苦手だっただからせめて勉強

だけは追いつこうと必死に学んだ学生時代はジンが会長を務める生徒会で共に働いたことも

第一章 Stratum city 階層都市59

でも一ひときわ広く人口の密集したエリアだと

いている

人を探すには不向きな場所だだがだからこそジンが足を向けた可能性はあるとツバキは

考えていた

そこならば容易に人ごみに紛まぎれることができるし入り組んだ路地や階層都市の構造のすき間ま

に身を隠すこともできるなにより下層は統制機構の

士が少なく上層に比べて監かん視しの目が

緩い

統制機構が追手をかけることはジンも十分わかっているだろうならばその目を避さけるのは

当然のことだ

同時に同じように追われる身であるラグナザブラッドエッジが下層を潜せん伏ぷく場所に選ぶ

可能性もジンならば考えたはずだ

硬かたい地面に青いブーツのくつ音おとを響かせてツバキは足早に歩く鮮あざやかな色の髪がしっとり

と雨に濡ぬれる

短い階段を

りるとその先はオリエントタウンの街外れだった

使われているのかいないのかわからない寂さびれた雰ふん囲い気きの倉庫が並びその先にわずかに芝しば生ふ

の植えられた広場のようなものがあるぽつんと佇たたずむ外灯は所々に錆さびの染しみがこびりついてい

た下

層は上層の地盤があるためほとんどが空をさえぎられ屋外でありながら屋内であるかのよう

に天候の影響を受けにくいだがこの辺りはまだ他層より突つき出しているらしく雨でどこも

58

けれど『死神』を統制機構の他

士と同じように考えるのは危険だ

彼は単身で統制機構を相手に反逆行こう為いを繰くり返かえしこれまでただの一度も拘こう束そくされることな

くとう

亡ぼうを続けている並なみ大たい抵ていの力では不可能だということを彼を追うべき立場でもあるツバ

キはよく理解していた

ラグナはおそらくとても強いもしかしたらジン以上に

それになにより恐おそれるべきはそのき凶よう悪あく犯が持つ魔ま導どう書しよだ

||蒼の魔道書

ブレイブルー

かつて黒き獣けものと戦った暗黒大戦時代にある魔ま法ほう使つかいによって術式という技術が開発された

魔法を模したもので魔素を使い火を熾おこしたり水を呼んだりと様々な現象を引き起こすことが

できる技術だ

その術式を扱あつかうために必要な鍵かぎが魔道書だった

蒼の魔道書

ブレイブルー

は世界中に数え切れないほど存在している魔道書の中でも最強と囁かれている

(ジン兄様でも蒼の魔道書

ブレイブルー

を相手にして無傷でいられるはずがない下手をしたらhelliphellip)

そこまで考えてツバキは走った悪お寒かんに身を震ふるわせた

蒼の魔道書

ブレイブルー

は最強とその威いり力よくを絶大に評価されながらも詳くわしいことは知られていないとい

う奇きみ妙ような魔道書でもあった

そもそも魔道書は〞書〝でありながら形状は様々で本の形をしているとは限らない

ラグナザブラッドエッジの蒼の魔道書

ブレイブルー

も彼が持っているという事実は認にん識しきされている

第一章 Stratum city 階層都市61

あった

淡たん白ぱくな物言いをしたり鋭えい利りな目つきをすることがあったから周囲は時折彼のことを冷たい

人だと囁ささやいた

けれどツバキにとってはいついかなるときも彼は優やさしい兄だった

細く美しい金色の髪に涼すずしげな緑色の瞳すらりとした体たい軀くに白い肌はだ整った顔立ちそ

の聡そう明めいな横顔に時々本当に時々だけれどhelliphellip見み惚とれたりもした

頼れるツテというツテを頼ってどうにかジンの秘書官の座を手にしたときはどれほど嬉うれし

かったことか

慕したっていた憧あこがれていた屋や敷しきの奥でひとり毬まりつきをしていた幼子のころから今でもずっ

「ジン兄様helliphellipっ」

急ぎ足だった歩調はいつしか小走りに変わっていた爪つま先さきが小さな水たまりを踏んで水すい滴てきを

ね上げる

一刻も早く見つけ出したかった心臓が軋きしむように胸を打つ

ツバキの頭に浮うかぶ最悪のケースはやはりどこかでジンと『死神』ラグナザブラッド

エッジが遭そう遇ぐうしてしまうということだった

ジンは強い統制機構の中でも彼とまともに剣けんを交えることができるのは数えるほどしか

いないだろう

60

ぎゅっと一ひときわきつくこぶしを

胸むな元もとで握るとツバキは首をふって雑念を払はらった

余計なことを推測している場合ではない今は一刻も早くジンを探すことそれだけを考え

なければ万が一今回の行動のせいでジンが反逆者とみなされたりしたら取り返しがつか

ない

急ごう自分をしつ

咤たするように大きく足を踏ふみ出してなにやら小さく物音の

こえた広場

の裏手へ回ってみる

物置だろうかふたつ並んだ小屋の裏を通り抜けようと狭せまい角を曲がった

その途と端たん目の前に壁かべが現れた

「きゃっ

あまりに突とつ然ぜんのことでとても対処できずツバキは進入した

いそのままに壁に激げき突とつした

だが直後に気付く

壁というにはあまりに分厚く建材にしては感かん触しよくがやわ

らかい

「むhelliphellip」

壁の向こうから声がした腹に響ひびくような低い男の声だ

ツバキの目の前にそびえるそれは壁などではなく見上げるほど巨きよ大だいな男の

中だった

「ああすまなかった怪け我がはないか」

そびえる巨きよ軀くはその異様なまでの圧あつ迫ぱく感に似合わぬ紳しん士し的な物もの腰ごしで語りかけのそりと重く

振ふり返る

第一章 Stratum city 階層都市63

もののそれがどんな形状をしているのかはわかっていない

それどころかいつどこで蒼の魔道書

ブレイブルーが造られその秘ひめたる力はどんなものなのか世界

虚空情報統制機構のち諜よう報ほう部ですら正確には把は握あくしていないという

ただでさえ強い『死神』であるのにそのうえ正体のわからない魔道書まであってどう楽

観視できるというのか単身でいどみかかるなど無茶にもほどがある

(helliphellipジン兄様はラグナザブラッドエッジを捕つかまえるためにひとりでカグツチまで来た

のかしら)

物もの影かげに目を凝こらしながらツバキは独り言のように思った

たとえ独断行動によって強制帰き還かん命令が下されているとしてもジンは統制機構の

士であ

り師団長だ『死神』を追って統制機構を飛び出したのだとしたらその目的は凶悪犯の捕ほ縛ばく

以外に

えられないとツバキは思っていた

けれど本当にそうなのだろうかふとそんな疑念が過よぎる

(でもだってそれならどうして誰にも言わないで出ていく必要があったっていうの私に

もなにも言わないで)

なによりそのことが胸に突き刺ささる

ジンは心根の読めない人だけれどそれでもなにかあったときはいつだって一声かけてくれ

たのに

「ううん理由はジン兄様を見つけてから直接

けばいいことよ」

62

者も多いそのほとんどはべつ

称しようとしての呼称だ

赤鬼と呼ばれた巨きよ漢かんがどんなつもりでその

称を使ったのかはツバキには読めないけれど

好感情でないことは見るからに明らかだった

テイガーは身構えることこそしなかったものの眉み間けんに深い皺しわを刻み厳いかめしい渋じゆ面うめんでツバ

キを見み据すえる

「helliphellipすまん図書館の

士と接せつ触しよくした」

ツバキから視線を逸そらし耳元へ大きな手をやってテイガーが低く何者かへ告げる直後に

ノイズのような音が走った通信だ

「通信を切ってくださいそこを動かないで」

素す早ばやくツバキは護身用に支給されているけん

銃じゆうを腰こしから抜ぬいたしっかりと両手で握にぎり銃口

を赤鬼へ向ける

テイガーはわずかに首を動かしてツバキを見やったもっとも分厚いレンズの丸眼鏡ごし

では奥の眼まな差ざしまではうかがえない

見下ろす威い圧あつ感に気け圧おされそうになりながらもツバキは努めて厳しく赤鬼を睨にらみ据すえた

「現在第十三階層都市カグツチにはD警報が発令されています第七機

を含ふくめ全すべての他機

の介かい入にゆうは禁止です答えなさいここで一体なにをしていたのですか」

「やれやれ銃を下ろせ

士の少女そんな玩おも具ちやのようなものでは私のボディを傷つけるこ

とすらできんぞ」

第一章 Stratum city 階層都市65

異様なのはなにも体の大きさだけではなかった

人の肌にしては赤みの強すぎる肌の色ただでさえ屈くつ強きような太い腕うでに取りつけられたぎ仰ようぎ々ようしい

手て枷かせのようなパーツ引き締しめられたく唇ちびるから上向きに伸のびる白いきば

鬼おに

約百年前に滅ほろびた日本という国の昔話にそんな怪かい物ぶつが登場したはずだツバキは幼いころに

読んだ絵本を思い出す

それと同時に目の前にいる赤い巨きよ人じんが誰だれなのかを思い出した

「貴方あなたhelliphellip第七機

の赤あか鬼おに」

呼ぶと同時にツバキは数歩下がって身構えた

第七機

術式を主体とした統制機構の世界統治に異を唱え術式に頼たよらない世界を作ろう

と企くわだてている外部機

赤鬼はその第七機

に所属する兵士でありその巨軀からも想像できるように圧あつ倒とう的てきな制圧

力を誇ほこる

正式名めい称しようはTR0009アイアンテイガー

第七機

の研究者によって造られたサイボーグだ

向こうもこちらの

に気付いたようでツバキの胴どう回りよりも太そうな足を一歩引いた

「その制服図書館か」

術式の乱用を防ぐために世界中の魔道書を集め管理していることから統制機構をそう呼ぶ

64

きません」

まるでなだめるように語りかけるテイガーの語調が余計にツバキの態度を頑かたくなにさせる

ここで弱よわ腰ごしを見せればそれは統制機構そのものが第七機

に対して弱腰になったとみなさ

れるようなそんな気がしていたそんなことは許されない

世界の秩ちつ序じよを守る統制機構の

士が平和のために戦う武装魔ま術じゆ師つし第四師団の団長秘書が

規律を犯おかした第七機

の兵士と取り引きめいたことをするなんて

銃を構え巨体の赤鬼を見据えたままツバキは手の中に握りこめる小さな通信機を取り

出した

ひとりでは対処しきれない早急に応おう援えんを呼ぶ必要があった

「武装魔術師第四師団所属ツバキヤヨイ少しよ尉ういです現在カグツチ下層オリエントタウンで第

七機

のhelliphellip」

「参ったなできれば穏おん便びんに済ませたかったのだが」

赤鬼が低くなにごとか呟つぶやく

その言葉の意味をツバキが理解するより早くテイガーが大きく前に踏み出した

伸ばされた腕がまたたく

間にツバキに迫せまる軽く握られていた

がツバキの目の前で開かれるや

否いなや

「きゃぁっhelliphellip」

放たれた電でん撃げきが通信機を弾はじき飛ばしツバキに細い

鳴を上げさせた

第一章 Stratum city 階層都市67

「っそんなことは

いていません質問に答えてください」

呆あきれたようなテイガーの物言いに咄とつ嗟さに腕を引き戻もどしそうになったがそれを堪こらえてツバキ

は銃口と眼光を向け続ける

相手はサイボーグだ戦いになったらもちろん勝ち目はないがそれ以上ににげられたらと

ても追いつけない

自分の任務はジンキサラギの捜そう索さくだと重々承しよ知うちしているだが周囲には他に統制機構の

士の

はないここで見みのがせば彼ら第七機

がカグツチと統制機構にどんな混乱をもたら

すかわからないと

えるととても目をつぶることなどできなかった

ザザッと再びノイズが走る

「ああ大だい丈じよ夫うぶだ問題ないすぐに任務に戻る」

通信の相手の声はツバキには

こえないただそれに答えるテイガーの声はあまりに危機感

から遠くすでにツバキとの問題は解決したとでも言うかのようだ

侮ぶじ辱よくされたような思いに駆かられてツバキは鋭するどく声を尖とがらせる

「通信を切りなさい

勝手な行動は許しません」

「そういきり立つな我々はなにも統制機構の業務を妨ぼう害がいするためにカグツチに来たわけでは

ないどうだここはお互たがいかかわらなかったことにしないかこのまま行ってくれれば私は

お前に危害を加えなくてすむ」

「それは反逆の意志ありということですか

どんな目的にせよこの場を見

すわけにはい

66

2199年12月30日||18時00分

幾いくつの路地を抜け幾つの角を曲がっただろう

人のような

をしながら人にあるまじき動きで先導するタオカカがラグナを連れてやってき

たのは外の明かりも差し込まぬ暗い暗い下水道だった

「こっちニャスよいい人〜」

呼びかけタオカカは投とう棄きされたらしい瓦が礫れきやら壊こわれた家具やらの山をひょいとと

び越こえた

外から隔かく離りされた場である上に時間も遅おそいたとえ微かすかなすき

間まがあってもわずかな光さえ

望めない

それなのにラグナやタオカカが問題なく歩けているのは投棄された瓦礫や積み上がったヘ

ドロにこびりついて生えている奇きみ妙ような苔こけのおかげだった

それらがほのかに青緑色の光を帯びているせいで下水道は一寸先も見通せない暗くら闇やみに閉とざ

されずにすんでいる

タオカカを追いかけて粗そ悪あくな足場に多少もたつきながらもラグナが続く

「おい本当にここから上に出られるんだろうな」

第一章 Stratum city 階層都市69

その一撃だけでツバキの意識は遠のいたかくりと膝ひざが折れ力なく崩くずれ落ちる

「っとhelliphellip」

そのたおやかな体が硬かたい地面に倒たおれ伏ふす前についさっきまで電撃を纏まとっていたテイガーの

腕が受け止める

そのまま抱かかえ上げると力なく気を失った青と白の制服の少女を見下ろしテイガーはため息

をついた

「やはりひ戦せん闘とう要員か無茶をする」

『helliphellip言っておくが

わるなよ』

ノイズが走りテイガーの通信機から不ふ愉ゆ快かいそうな女の声が漏もれた

ツバキを抱えたままテイガーは空いていたもう一方の手を耳元にやる上向きの

のよう

な犬歯が突つき出た口元はツバキと対たい峙じしていた先さき程ほどよりもさらに苦々しく歪ゆがんでいた

「雨の中でこんな街外れに放ほうり出すわけにもいかないだろうまだ若い娘むすめだ」

『任務が最優先だ余計な時間はない』

「helliphellip少しの間通信を切るぞココノエ」

『なんだと

おい勝手な真ま似ねはhelliphellip』

装着している本人以外には

こえないであろう小さな音をたてて通信は途と切ぎれた

テイガーは雨

る広場に

を向けて歩き出したその足が向かう先には空を上層の市街に

さえぎられ提ちよ灯うちんの明かりとネオンが煌きらめく薄うす暗ぐらい街オリエントタウンが広がっていた

68

「ニャス」

「かっぱらいじゃねぇか」

張り上げたラグナの声はくわんと寒々しく下水道に響ひびいた

その反はん響きようが

まると今度はまたじめっとした静けさがやってくるどこからか滴したたり落ちて

床では

ねる水の音がいちいち不気味だった

色いろ濃こい影かげの向こうで得体の知れないものが蠢うごめいてこちらを覗のぞきこんでいるような錯さつ覚かくを抱

くぞ

っと走った悪お寒かんにラグナはぶるりと身み震ぶるいし先を行くタオカカの後を追う

がhelliphellipラグナは不意に顔をしかめると足を止めた

(錯覚じゃねえ誰かがこっちを見ていやがる)

淡あわく光る苔が刻んだ色濃い影の奥歪いびつな瓦礫の山のどこか

視線を感じる

いや視線だなんて生易しいものではないもっと根本的なもの存在や意志そのものとい

ったものがこちらを一心不乱に捉とらえているようだ

「いい人〜

どしたニャス」

ラグナがついてこないのを不思議に思ってタオカカが引き返してくる積み上げられたな

にかの残ざん骸がいを軽かろやかに

び越え着地するその小さな足音がきっかけになったのだろうか

「キキキキキキキキキキキキ」

第一章 Stratum city 階層都市71

瓦礫の山から飛び

りた先がオイルかなにかでぬめるラグナは反射的に顔をしかめて三

角耳がぴくつく白いフードの後頭部へ少々の苛いら立だちを込めて問うた

抜け道とは往々にして楽な道ではないとラグナはこれまでの経験で学んでいただがここ

は今まで通って来た『抜け道』と比べても相当な悪路だ

濡ぬれているわけでもないのに床ゆかの壁も天てん井じようもじっとりとしていていやな湿しつ気けが外から入り

込んでいるらしい濃こい魔ま素そと混ざって肌はだと肺にこれでもかと不快感をくれる

一段

りたところには廃はい棄き物ぶつと一体化した汚お水すいが吐はき気けをもよおす悪あく臭しゆうを放ちながら泥どろ水みず

のような重さで流れている

これが街からそう離はなれていない場所を流れ通っているというのに外にはさほどふし臭ゆうが漏れな

いことを思うと階層都市の工事技術はでたらめに見えて意外としっかりしているようだ

もうすっかり馬ば鹿かになった鼻をこすりラグナはぽつりとそんな感想を抱いだいた

「本当ニャスよくここ通って上でパンとかお菓か子しとかもらってくるニャス」

言ってタオカカは下水道の天てん井じようを見上げた黒ずんだ頭上は突つき出た鉄パイプや金属板が

複雑に組み合っておりその奥のずいぶんと高いところに張りついた闇やみのような天井が見てと

れる

さらにずっと向こうに目指している上層の街があるのだろう

つられて見上げてラグナはため息に肩かたを落とした

「もらってくるってまさか店のもん勝手に持ってってるんじゃねぇだろうな」

70

気味の悪さに怖おぞ気けよりもけん

悪お感が走る

影はいやに粘ねん着ちや質くしつな動きでぬめる床に着地するとむくりと上体を起こすような動きを見せ

た判然としないが苔光で浮かび上がる奴やつの足元でなにか小さな生き物が蠢いている気がす

る戸と

惑まどいつつも身構えるラグナのすぐ側そばにタオカカが駆け込んできて頭を低くさせ唸うなった

長い尾おがぴんと立ち上がって毛を逆立て膨ふくれている

「コイツうねうねニャス」

「うねうね

なんだそりゃ」

「悪いヤツなのネ

タオたちの村を襲って小さいカカを食べちゃうのニャス」

さっきまで陽気だった表情を目め尻じりをつり上げた憤ふん怒ぬのそれに変えてタオカカはわんと声を

響かせ威い嚇かくする

その様をあざ

笑わらうかのように白い面を浮かべた影は全身をあわ

立だてるように震ふるわせた

「キヒヒヒいる

いるぞ

るぞ力蠢く醜しゆうな

想を叶かなえ

ために肯

は不可欠

がい

念ねんの否定

閉とざ

た門が招くはずだ

ちが

いギヒヒヒヒヒヒ」

影が震え笑うたびに空気が淀よどむ

ラグナは険しく顔をしかめた

これは魔素だ

外から流れ込んできているのではないこの目の前にわだかまる影からあふ

れ漂ただよい下水道の

第一章 Stratum city 階層都市73

空気を引き裂さくような声と共に突とつ然ぜん影かげから影が飛び出したさらにそこから槍やりのような鋭

い影が無数に飛び出しラグナに襲おそいかかる

「ぅぐぁっ」

あまりに唐とう突とつであまりに周囲に同化した

に反応が遅おくれた分厚く布の裂ける音が散り一いつ

緒しよに皮ひ膚ふと肉をえぐり刺さすように持っていかれる

火がついたように痛む肩を引いてもう一方の腕うでで剣けんを抜き目の前の影を払はらった

手て応ごたえはないまるで本物の影を切り払ったかのようだ

「グギギギhelliphellip真

理へ至

我が

を求

我に求め

真相を

くhelliphellip」

人の声のようなそうでないような奇き怪かいな声こわ色いろで奇怪な言葉を口走りながら影は

び退すさっ

た高質化したヘドロと瓦礫の間でふわりと浮ういてわだかまる

初めラグナはどこからか紛まぎれこんだ魔まじ獣ゆう||高こう濃のう度どの魔素によって歪んだ生態系が生んだ

理性なき凶きよ暴うぼうな獣けものかと思った

だがどうにもちがう不定形なそれは奇妙で歪いびつで不可解で生物とはとても思えぬ

形をして

いた

ぐるりと影が動くとわだかまる闇の内側から面が現れる

白い円形に三つただ孔あなを開けただけの目と口顔のつもりだろうかそれが黒ずんだ不定

形の影の中で唯ゆい一いつの定形であるようだった

「なんhelliphellipなんだこいつは」

72

ふつとい憤きどおりがラグナの腹の底で沸わく

統制機構が大事に大事に抱えて地下深くにしまい込んでいる窯それを統制機構だけでなく

あちこちの機

や研究員学者が欲ほつしている窯を所有するということは窯が繫ぐ境界の一いつ

端たんを所有することと同意だからだ

誰も彼も境界には人じん智ちを超こえる素す晴ばらしい財産が眠ねむっていると信じている人智を超えた

ものなど人間に御ぎよせるはずもないのに

まったくいや

気けが差す頭にくるそんな窯を我が物顔で掻かき回す統制機構もそれを追いか

けるように窯を求める連中もどいつもこいつも

「こうなっちまったらもうどうしようもねえ悪く思うなよhelliphellipもっとも人を怨うらむほどの

理性があればの話だけどよ」

このままこいつをここに放置すればタオカカの言っていた『村』に留とどまらずさっきのオリ

エントタウンや下層の街に出て人を襲うようにもなるだろう

ラグナは剣の切っ先を下方に向けたまま化け物に深く踏ふみ込んだ

カグツチにはなんの思い入れもないがだからといってあからさまな害悪を目の前に置かれ

て放ほうっておけるほど利口でもない

迎むかえ撃うつように身を広げるアラクネの胴どうを||胴らしき部分を横よこ薙なぎに切り払う

「グポポhelliphellip」

「ちぃっ」

第一章 Stratum city 階層都市75

ありとあらゆるものを侵しん食しよくしているのだ

それはこの影のような物体のまとう黒いものが全て魔素であることを意味していたそし

て魔素のか塊たまりであるこの奇怪な化け物がその容

に似合わず人の言葉らしい音を発しているの

はこれが元々人語を解する存在であったことを物語っている

つまり人間だ

タオカカが『うねうね』と呼びオリエントタウンの一部の人はアラクネと呼ぶ黒ずんだ不

定形の化け物はこうなる前人間だった

ラグナはこみ上げてきた

悪感を舌打ちに変えて吐き出した

「こいつ境界に触ふれたなhelliphellip」

ラグナが各地の統制機構支部を回り

々に破は壊かいしている支部地下の『窯かま』その窯によっ

て現世と繫つながれた異界||境界

そこは人知の及およばぬ不定形の場であり中は地表の比ではない濃のう度どの魔素が渦うず巻まいていると

いう

濃い魔素が魔獣を生んだように人もまた高濃度の魔素に触れ続ければ理性が魔素にのみ込

まれやがて境界に引きずり込まれて人でいられなくなる

臭にまみれて粘ねん液えきのような体を蠢かせ奇怪な音で語るこの黒い化け物アラクネは

そうして人でいられなくなった誰だれかのなれの果てだった

「あんなもんに手ぇ出してなにがしたかったのか知らねえがhelliphellipこの馬鹿が」

74

だ身が捻ねじれ後方へべちゃりと倒たおれる

それと同時にタオカカの体がひらりとラグナのとなりに

着地した爪を

めた大きな手をシュッ

と前に突つき出して威嚇する

それを横目にラグナは軽く笑った会って間もないこちらも奇妙な生物だが『うねう

ね』と

ってこいつと並ぶのは悪い気がしない

「何年目じゃなくてここで会ったが百年目な」

「おおんじゃあ百年分ギタギタにしてやるのネ」

「まなんでもいいか」

抜ぬけ落ちるような緊きん迫ぱく感を再び引き寄せてラグナはしっかりと剣を握にぎる

一度は黒い泥溜だまりのようになったアラクネはすぐさま波打つような動きで起き上がると

ごぼりと足元を鳴らし魔素を噴ふき散らす

「ギギギhelliphellipよこ

よこせ

れは我

らう

淵えんがい

見て

目からのが

れな

運命

らはのが

れない」

「なに言ってんのかわけわかんねぇんだよ

楽にしてやるからとっととくたばりやがれ

この生ゴミ野や郎ろう」

ついた魔素を払うように乱暴に剣を振るうとラグナは腹から雄お叫たけびをあげつつ高く得物を

振り上げ魔素に取り込まれた人ならざる者へと叩きつけた

第一章 Stratum city 階層都市77

ごぼごぼと濁にごった音をたててアラクネの体がしゆ時んじにラグナの視界から消える

下だ舌打ちしながら蹴けりつけるラグナの足の下を通ってアラクネは赤いコートの

後で

再び体を持ち上げる

「キサマキサ

くらう

人間であるならあるいは四し肢しを持つ生物であるならおよそあり得ない角度から黒い塊が

ラグナを

ね上げるように突とつ出しゆつする

咄とつ嗟さにラグナはそれを剣で受けた感かん触しよくは重くどろりとしている

さらにもたれかかるように剣の表面を伝う泥どろのような魔素から突とつ然ぜん奇き怪かいな蟲むしが飛び出して

きた見たこともないひたすらに

悪感をあおるような不可解で不ふ愉ゆ快かいな蠢くもの

「うげっ」

吐き気のような

悪感に弾はじかれるようにしてラグナの足が勝手に距きよ離りを空ける

その間に割って入るように鋭するどい爪つめが振ふり下ろされ飛び出した無数の蟲を切り裂いて叩たたき落

とした

勇ましく飛び込んできたのはタオカカだ

「うねうね

ここで会ったが何年目

タオがぎったぎたにしてやるのネ」

爪を振り下ろす動作から着地をはさまず宙で身を捻ひねるとタオカカは反対側の爪でアラクネを

切り裂く

爪はえぐるようにアラクネの顔らしき部分を捉えた陶とう器きが割れるような音をたてて黒ずん

76

双そう眸ぼうは薔

さえ霞かすむ深しん紅くで容

からうかがえ

る幼さには似合わないほどの気品と優美さをたたえ

ていた

少女の名はレイチェルアルカード

十を超えた程度のまだあどけない少女のように見えるがその実約百年を生き続ける吸きゆう

血けつ鬼きだ

千年以上前から続く吸血鬼の一族アルカード家の現当主であり薔

園を見下ろす城の主あるじで

あり

月と夜空と薔

と城を抱いだくこの常夜の空間の主でもある

ここは世界のあらゆる場所から断絶された地点でありながら世界のあらゆる地点へ繫が

る場所

空間と空間の間に漂い世界と世界の狭はざ間まに留とどまる領域

アルカード家の当主が管理する特別な住まいだった

カップを金のスプーンが横たわるソーサーへと戻もどしレイチェルは物もの憂うげに吐と息いきをく唇ちびるから漏も

らした

蔦つた模様に絡からみ合うスチールテーブルの上に飾られた薔

の切り花が微かすかに香かおる

レイチェルは昼の来ない領地での時間をこうして薔

園のテラスで多く過ごした

は好きだ美しいし香りがいいそれになにより遠き日に亡なくなった父が愛した花

だから

第二章 Spiral fate 盤上の駒79

第二章

Spira

l fate

||盤ばん上じようの駒こま

真っ赤な薔ばら

に彩いろどられた見事な庭園を青白い満月が見下ろしていた

静かな夜だった空気は凜りんと冷え夜の帳とばりが世界はここまでだと区切るように色濃く辺り一

帯を包んでいる

園の奥にはおとぎ話の中から抜け出てきたかのような美しく愛らしい城がそびえており

だ橙いだいい色いろをした明かりの揺ゆれる窓が無数の瞳ひとみのようだ

その城を赤薔

の生いけ垣がきの向こうになが

める庭園のテラスでひとりの少女が小さな丸テーブ

ルに向かい優ゆうがにティーカップを傾かたむけていた

月下にありながら眩まぶしいほどに輝かがやく長い金色の髪かみを左右でふたつに結ゆわえ大きなリボンで

飾かざられている華きやしやで小さな体には黒い豪ごうしやなドレスを纏まといそこから伸のびるやはり小さな手

は陶器のように白く滑なめらかだ

カップの中で揺れる紅茶を

めていてもどこか遠く世界の果てを見み据すえているかのような

78

「今夜も見事でしょう

お父様」

ふとわく感傷に任せて呟つぶやいてみて彼の愛した薔

の香りの紅茶を飲むそんなときのほん

の一

レイチェルの心は微かに慰なぐさめられるのだ

夜の終わらないこの城は時間の流れとは無む縁えんだ夜が永遠であるように時間もまた永遠

でありレイチェルの時間もまた永遠であった

それでも退たい屈くつはやってくる時にはこうしていつかの日を想おもいため息でもついてみねば

枯かれることのない薔

のように言葉を忘れてしまいそうだった

「失礼いたしますレイチェル様」

コツと革かわぐつの硬かたい音がテラスの煉れん瓦がタイルを叩きしわがれた声が穏おだやかに呼びかけた

レイチェルを振り向かせることなく乱れない歩調で少女の視界の端はしまでくると声の主白はく

髪はつを

で束ねた長身の老人は胸むな元もとに手をあて浅く腰こしを折る

ヴァルケンハインRヘルシングレイチェルの父クラヴィスアルカードの代からアル

カード家に仕え今はレイチェルと共に在る老しつ事じだ

微びし笑ように皺しわを刻みすきなく佇たたずむ

はレイチェルに劣おとらず品がいい

だが彼もまた人間ではなかった人であり獣けものでありどちらでもありどちらでもないおおかみ

男おとこだ

外見から想像できる重ねた歳としよりずっとたくましい肉体が質のいいバトラースーツの上からで

える

80

つぶらな瞳と口角の上がった口がやはり小さく愛らしい

黒くろ猫ねこのソファはナゴ赤いゴム毬まりはギィ共にレイチェルの使い魔だ

「姫様のお気に入りっすよねー姫様ってああいう男が好みなんすか

意外とダメな男に引ひ

っ掛かかるタイプっすね」

小さな羽を忙いそがしくパタつかせて楽しそうにギィが話すとその

らかな両りよ頰うほhellipおhellipというよ

り頭部を素す早ばやく伸びたレイチェルの手が摑つかみ左右に思い切り引っ張った

「なに

よく

こえなかったわもう一度言ってみてもらえるかしら言えるものならね」

「イデデデデひひめひゃまいひゃいいひゃいれすぅぅぅぅぅ」

「アンタってほんと口で身を滅ほろぼすタイプよねぇ」

通常の二倍に顔を広げたギィを見やってナゴが呆あきれたようにため息を送る

情けない

鳴をひとしきり

いた後にレイチェルはあっさりギィから手を離はなしたバチン

と音がして赤い頰が元の真ん丸い形状に戻る

それを横目にレイチェルはテーブルの上に生けられた赤薔

の花弁へ触ふれた

「彼がそこまで来たのならもうすぐ二一九九年も終わるのね」

「左様でございますな」

どこか歌うように呟くレイチェルへ恭しくヴァルケンハインが返す

「そして世界も」

微かな声で付け足された一言にはヴァルケンハインはなにも返さなかったレイチェルが

第二章 Spiral fate 盤上の駒83

「どうしたのヴァルケンハイン」

白い指先をティーカップの縁ふちで遊ばせレイチェルが赤い瞳を向けて問う

ヴァルケンハインは頭を下げたままう恭やうやしく答えた

「ラグナザブラッドエッジがカグツチに現れたようです」

無む駄だなく必要なだけを伝えるヴァルケンハインの言葉にレイチェルは陶器の縁をなぞる指

先を止めた

そのまま指を小さな取っ手に引っかけ中身の少なくなったカップを持ち上げて一口飲み

それをソーサーに戻してからやっとレイチェルは唇を動かした

「そうhelliphellipもうそんな時間なのね」

独り言のようなレイチェルの呟きに続いて

唐とう突とつにふたつの声がこれまでの静かで密ひそやかだった雰ふん囲い気きを不意に賑にぎやかせた

「あらぁん姫ひめ様ラグナってあの白いツンツン頭のボウヤよね」

「オイラも覚えてるっすよあの生意気なヤツっす」

先にハスキーな猫ねこなで声で言ったのはレイチェルが腰こしかけている椅い子すそのものだった一

見黒いソファに見えたそれはよく見ると

もたれの上部に三角の耳と猫の顔がありその猫の

顔が話していたのだ

続いた甲かん高だかい陽気な声はレイチェルの足元から弾はずんだゴム毬まりのようにとび上がった赤くて

丸い生き物のもの見るからにやわらかそうな体からは小さな手足と小さな羽が突き出ており

82

影の中に浮うかぶ幼児の落書きのような目玉らしき緑色の丸と不気味に裂さけた赤い口が椅

子に腰かけるレイチェルを見つけて気味悪く笑えむ

どこからどう見ても人ではなくましてや吸血鬼でも

男でもない

これは思念だ肉体を持たない意志だけの存在ある男の精神体だった

「よ〜うクソ吸血鬼今回もお供と犬っころ連れてお茶会か

ずいぶんのん

気きなもんだなぁ

オイ」

許可もなく薔

園に踏ふみ入ってきた無作法者の精神体はこもった声でいや

味みに語りかける

とたんにヴァルケンハインが険しく顔をしかめギィは情けない

鳴をあげてそれこそゴ

ム毬のような俊しゆ敏んびんさで主の黒いドレスの

後へと隠かくれた

レイチェルは冷やかに影を見据える

軽く腰を浮かせるとそれまで椅子としてそこにいたナゴが体をくねらせて

を黒い傘かさへと変

えレイチェルはそれを手に立ち上がった

唇にこそ優美な笑みを浮かべていたが少女の深紅の瞳にはただただけん

悪お感かんが塗ぬり固かためられ

ている

を見せるだけでこれほどまで人を不快な気持ちにさせるのはある意味

能ね感心する

わテルミ」

の香りのように

らかにけれど薔

の蔦のように刺とげと々げしくレイチェルは言い放つ

言葉の先にいた精神体の男テルミと呼ばれた影は風にでもあお

られたかのように体を揺らし

第二章 Spiral fate 盤上の駒85

求めていないことを理解していたからだ

代わりに

男の老

事は乱れぬ声こわ色いろで問う

「レイチェル様紅茶を新しいものにお取り換かえいたしましょうか」

「helliphellipそうねお願いしようかしら」

本当は出かける用事ができたところだったけれど今はもう少しだけここでの無益な時間を

浪ろう費ひしたい気分だっただって

(今回もいい結果は期待できそうにないものね)

独り言のような呟きを胸の内でそっとこぼしレイチェルは掠かすれ消えるような吐息をつく

がすぐにその息を

み込むように眼光を鋭くさせた

真紅の視線が見据えるのは延々と続く薔

園のほうだ

「ヴァルケンハイン招いてもいない客が来たようね」

深い緑の葉をざわめかせて風が吹ふく風を招いたのはレイチェルだ涼すずしい夜気に混じって

漂ただよってきたいやな気配をはね退のけるために

円形に整えられたテラスの隅すみのほう薔

の生け垣の前の空間が目め眩まいでも起こしたかのよう

にくらりと歪ゆがむ

そうして現れたのは影かげだった

黒い体に緑色を纏まとわりつかせたような色しき彩さいでぼんやりと漠ばく然ぜんとした人型のなにかがそこに

立っていた

84

敵てき愾がい心しん

「それで一体なんの用

今がどういうじ状よう況きようなのかわかっているのでしょう貴方あなた

だって暇ひま

ではないのではなくて」

ヴァルケンハインほどあからさまな敵意ではないものの突つき放し追い立てるような調子で

レイチェルが言う

テルミはけだるい仕草で首を傾かたむけまたケタケタと不ふめ明いり瞭ような体を揺ゆらすようにして笑った

「別にぃ〜ただそろそろ今回のエンディングも近いわけだしそろそろ一度テメェらの腑ふ抜ぬ

けた面を拝んどこうかと思ってよ」

低めた声は悦えつっぽく笑みを濁にごらせる

レイチェルはその様を無感動に淡たんた々んと赤い瞳ひとみに映した

「懲こりない男ね」

囁ささやくようにレイチェルは告げる冷えた声は空に浮かぶ欠けることのない月の光に似ている

「何度繰くり返したって結果は同じ世界は何度だって巻き戻ってあの日あの時からまた始ま

るだけよ」

ざとレイチェルと影の間を横切るように風が渡わたる薔ばら

の香りがま

う中で幽ゆう鬼きのよう

なテルミの

はあまりに不気味で不似合いだった

場ばちが

いであると思い知らせるかのように濃のう密みつな花の香りを纏う風の中でテルミは深く深

く笑みを浮かべる

第二章 Spiral fate 盤上の駒87

た笑っているのだ

「そいつぁお互たがい様じゃねぇかこっちもテメェのクソむかつく面つら見てると胸むな糞くそ悪くなって

くる」

ユウキテルミそれが影の名前だった

「ならば早々に立ち去るがいいここは貴様のようなやからが気安く踏み入っていい場所ではない

ぞ」重

々しくけれど遠えん慮りよ容よう赦しやのない敵意を込こめてヴァルケンハインが進み出たレイチェルに

対して見せていた穏やかな品の良さは影を潜ひそめ白髪の老人とは思えぬ力強く攻こう撃げき的な眼まな差ざし

で揺れる影を睨にらみ据すえる

途と端たんにテルミは面おも白しろくなさそうに口らしき赤色を歪めた

「はっテメェも相変わらずイラつくなキャンキャン吠ほえてんじゃねぇよボケ犬が殺しち

まうぞあぁ」

「面白い吠えるしか能がないのはどちらか確かめるとしようか

体のない今の貴様に一体

なにができる」

「ちっhelliphellipうぜぇジジイだテメェもあんとき殺しときゃよかったぜ」

「九十年前に反省するべきだったな」

テルミが悪態を吐つけばヴァルケンハインはそれを踏み潰つぶすような敵意を返す

そこには根深い因いん縁ねんの沼ぬまが広がっているかのようだった浮かぶのは憎ぞう悪おでもけん悪おでもなく

86

覗のぞき見えていた

「んじゃなせいぜい高みの見物でもしてろや」

吐き捨てるようにそう言うとテルミは靄もやが空気に溶とけてやがて目視できなくなるように

音もなくその場から消える

あとにはなにも残らないただレイチェルが日々当たり前に

めている真っ赤な薔

が咲さ

き誇ほこる庭園が広がるばかりだ

緩ゆるやかな風が抜ぬけて甘い薔

の香かおりが漂うまるでテルミによって生じた不快感を拭ぬぐい払はら

うように

ヴァルケンハインはそれまでの飛びかかって喉のど笛ぶえでも食い破りそうな敵意を呼吸ひとつのう

ちにしまい込みしつ

事じの顔に戻もどるすき

なく

筋を伸のばしレイチェルへと向き直った

「いかがなさいますかレイチェル様」

主人がすでに決めているであろう腹の内を促うながすように問う

レイチェルは手にしていた傘状のナゴを開いたパラソルでも扱あつかうように肩かたにかけヴァル

ケンハインを見やる

「ヴァルケンハインやっぱりお茶はまたあとでにするわ」

あんなにも単純で粗そ暴ぼうなちよ

発うはつに乗るのは癪しやくだけれどそうとわかっていて顔をそむ

けることを

弱気ゆえと受け取られてはもっと癪だなによりあの男に好き勝手を許すのは面白くない

「ナゴギィ出かけるわよ」

第二章 Spiral fate 盤上の駒89

「そうしたらまた始めるさ」

這はうような声で語る

な気配がレイチェルの誘さそう風さえ汚よごすようだった

「何度でもいいぜ

そのたびに俺はやり直すだけだ何度でも何度でもテメェがいい加減

飽あきてお城から出てこなくなっても何度でも何度でもhelliphellip何度でもなぁ」

「悪あくしゆ味みね」

「テメェが言うかよクソ吸きゆ血うけ鬼つき」

テルミがせせら笑う

深い皺を眉み間けんに刻みい憤きどおりを腹に抱かかえるヴァルケンハイン怯おびえ様子をうかがうナゴとギィ自分

の周りにいる者たちをながめてレイチェルはく唇ちびるを優美なカーブに曲げた

彼の言うことに同意するのは心底不ふ愉ゆ快かいだけれど確かに悪

味なのはレイチェルも同じだ

何度も何度もこんなやりとりを何度もここで行った

繰り返す時間の中で繰り返される会話はいわば一種の通過儀ぎ礼れいだ

これから始まる数時間めまぐるしく運命は交差して離れ剥はがれ崩くずれ乱れるその結末

をし粛ゆくし々ゆくと見届けるためのお決まりの行事

「まいいや俺はそろそろ最後の仕上げの準

しねぇといけねぇから行くわいちいち相手

すんのも面めん倒どうくせぇからテメェらはそこで茶でもしながら終わるのを待ってろよ」

言いながらテルミは一歩大きく退いた

影がぼやけて消えるように彼の

が揺らめく黒い体の向こうには薄うっすらと薔

の赤が

88

城から外へと出ていった

の残り香がが夜気に吸い込まれて消えるまで待ってヴァルケンハインはテラスのテーブ

ルに残されたティーセットをワゴンに載せて片付け始める

せめて今回はあの小さな主人の心が慰なぐさめられるようなそんななにかがあるようにと胸中で

願いながら

2199年12月30日||9時23分

カグツチの朝方普ふ段だんなら東空は陽光の白に輝かがやき地表で淀よどむ魔素の存在など忘れさせてく

れるかのように眩まぶしい

だが今日は生あい憎にく朝早くから分厚い雲が空を覆おおう曇どん天てんだった広がっているのは雨雲だ昼

前には雨が

り出すだろうと湿しめった空気が教えてくれる

第十三階層都市カグツチの外れ都市の一部として建設されたのではなくこの地に流れ着い

た難民が自発的に建設した市街のひとつ浪ろう人にん街

第二章 Spiral fate 盤上の駒91

「はぁ〜い姫様」

「了りよ解うかいっす」

傘のままナゴがしなを作りさっきまでの怯えが噓うそのように元気よくギィが飛び上がる

二匹ひきの使い魔まを従えレイチェルは宙へ手を差し出したすると煉れん瓦がタイルが敷しき詰つめられ

た足元に薔

色の魔法陣じんがほのかな光を宿して浮かび上がる

転移の魔法だ

今の世界の基き盤ばんともいえる術式の元になった太古の技術魔法けれど今はもう使える人間

はほとんどいない失われた技術だ

転移はそんな魔法の中でも特に多くの魔力と集中力を要し特別難解な制せい御ぎよを求められる魔

法だったそれゆえに人類の歴史においても使い手と呼べるほど扱いに長たけた者は数えるほ

どしかいない

転移魔法を自在に扱うレイチェルもまた自分以外にこの魔法を使いこなせている者をひと

りしか知らなかった

「カグツチまで行ってくるわヴァルケンハイン留守をお願いね」

「かしこまりましたお気をつけて行ってらっしゃいませ」

理想的な角度に腰こしを折ってヴァルケンハインは魔法陣の中から語りかける幼い容

の主あるじを

見送る

ふわりと風が

い上がり目眩を誘うほどの薔

の香りを振ふりまいてレイチェルは常夜の居

90

屈くつ強きようで大柄な体たい軀く隠すことなく晒さらされた広い

中顔に刻まれた十字の傷きず跡あとそして首に

巻かれた真っ赤な布その真っ赤な布がけい

谷こくの風に

られたなびくたびに誰だれもが彼を振り返

らずにおかない

なにも衣装の特とく徴ちようが浪人街の人の目を集めるのではない

このマフラーのように巻かれた赤く長い布は目印なのだ

迷える難民をまとめ先頭に立って浪人街を築きこうして日々浪人街を歩いては住民にト

ラブルや困りごとがないか見回るイカルガ忍にん者じやの頭領にして浪人街のヒーローシシガミバ

ングの

「おはようございますバングさん」

「バング殿どの

先日は

げたに鶏わとりの捕ほ獲かくを手伝っていただいてありがとうございます」

「バング様〜

こんにちは〜」

街のあちこちからかかる声に手を挙げて応こたえバングは朗ほがらかな笑え顔がおを返す

「うむおはようでござる

おおそうだ今日は雨が

るだろうから雨あま漏もりする家がある

なら拙せつ者しやに声をかけるでござるよすぐに飛んでいって修理を手伝うでござるからな」

通り中に響くような声で言いながらバングは前へ前へ歩む

天気はよくないがバングの心は今日も晴れやかだった仲間がいて住む場所があるこ

れがどれほど喜ばしいことか数年前までは忍として戦争の裏側を奔ほん走そうしてきたバングは日々

身をもって思い知り嚙かみ締しめていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒93

ここは五年前に終結したイカルガ内戦という戦争の敗者イカルガ連れん邦ぽうに住んでいた者たち

が造り上げた市街だった

内戦によって彼らの故郷は失われた行き場のないイカルガの民たみは世界のあちこちに散り

その中でもカグツチににげ延のびた者たちがここで身を寄せ合って暮らしている

複雑で街を築くのに適しているとはとても言えない地形だカグツチのある高山の下方に

位置しながら辺りは岩だらけで亀き裂れつや絶ぜつ壁ぺきが目立つ

それでもイカルガの難民たちは岩場に足場を組み亀裂に橋をかけ絶壁に階段を作り半

分宙に浮ういているかのような入り組んだ街を作り上げた

小さな街だありあわせの材料を組み合わせてできた粗そ末まつな街だがそれにしては整えられ

たイカルガじ情よう緒ちよ漂ただよう街並みにhelliphellip朗々と男の声が今日も響ひびき渡っていた

「おお皆みなの衆

今日も元気に平和に過ごしておるな

うむうむよきかなよきかながっ

はっはっはっは」

太く伸びやかな声の主はシシガミバング

浪人街の中心である一番開けた通りのど真ん中を歩きながら道行くすべての人に威いせいよく

挨あい拶さつして回っている大おお柄がらな筋肉質の男がそうだ

ぼさついた黒くろ髪かみは高くまとめ深い緑色の独特な装しよ束うぞくを身に着けている着ているのはイカ

ルガ伝統の忍しのびの服だ本来は闇やみに紛まぎれ隠おん密みつにことを済ますのが忍の

だがこのシシガミバ

ングという男はまるで逆にとにかく人の目を引いた

92

カグツチの

士であるならばこんな下層まで

りてくることなどそうそうないし別の支部

士ならばもっと上層からカグツチに入るはず

この街に統制機構の制服はあまりにも不自然だった

金髪の青年はなにも答えず冷ややかな緑の瞳ひとみでバングを

めていたがやがて色の薄うすい唇を

開きぼそりと低く呟つぶやいた

「その服helliphellipイカルガの忍か」

およそ好意的でない声

人によってはその内にさげすみ

やあざけり

いただろうだがバングはそのひどく温度の低い声こわ色いろ

を警けい戒かいゆえと受け取った

身構えるように低くさせていた体を起こしバングは慌あわてて制止するように広げた手を突つき

出だす

「ああいや誤解めされるななにも一戦交えようというわけではござらんぞ確かにここは

イカルガの民が住まう街で拙者はイカルガの忍であった男だが五年前にイカルガ内戦は終

わっておるのだ」

バングは太い腕うでをがっしりと組むと神しん妙みような

顔つきで何度か頷うなずくようにしながら先を続けた

「確かに終戦のきっかけは戦いくさではなく我等の首都イブキドの爆ばく発はつ事故であった」

イカルガ内戦は世界虚空情報統制機構に対し第五階層都市イブキドを首都と掲かかげるイカル

ガ連邦が独立を宣言して始まった内戦だ統制機構は武力でもってそれを制圧しようとしイ

第二章 Spiral fate 盤上の駒95

平和はいい平和の中にこそ愛はあるのだ

「うん」

ふと前を行く

を目に留めてバングがいぶかしげに声を唸うならせた

見慣れない男が歩いている浪人街の住民ではないバングはこの街に住むイカルガの民の

顔と

格好をすべて覚えていた

短い金きん髪ぱつの細身の男だ歩き方からしてまだ若い

なにより気にかかるのはその男が着ている服だ青と白によって構成されたその服はおそ

らく世界虚こ空くう情報統制機構の制服だろう

「そこのお主

待たれい」

叫さけぶように声をかけながらバングは高くとんだ空を駆かけるような長いちよ躍うやくは前を行く金

髪の青年の頭上を越こえて彼の正面へと着地する

行く手を塞ふさがれる形となった見慣れぬ男は足を止めバングの唐とう突とつな登場に戸と惑まどったように

眉まゆを寄せていた

やはり若い男まだ少年の面おも影かげも残した青年だ着ているものも統制機構の制服に間まちがいな

く手には青い鞘さやに

めた刀を一ひと振ふり摑つかんでいる

バングはますます募つのる怪けげんに青年よりも深く眉間に皺しわを刻んだ

「お主我等が街になんの目的で参られた

その服装統制機構の

士であろう」

カグツチの

士だろうかバングは彼に見覚えがない

94

金髪の青年はなにも言わず静かにバングを見み据すえている

なにを考えているのかどこかぼうっとしたようにも見える無表情からは思考どころか感情

さえ読み取れない

話を

いているのだろうかバングは不安に思いながら改めてさっきの質問を繰くり返す

「してお主は一体何者で浪人街になんの用でござるか」

「helliphellip用などない」

ようやく青年がバングの問いにまともに答えた

まともというにはあまりに素っ気なく突き放した物言いだったが返ってきた言葉が思いの

外ほか穏おん便びんでバングは軽く安あん堵どを抱いだく

イカルガの残党狩がりだなどと言われてその手の刀を抜ぬき放たれたら多くの住民が行き交かう

街の中心で大立ち回りを演じなければならなくなるそうなればいくつかの家は巻き添ぞえをく

っただろうし何人かは怪け我がをしたかもしれなかった

青年は変わらず冷たい無表情のままでバングの向こうにそびえる山へ目を向けたこの上

にいくつもの市街が建設され頂上には世界虚空情報統制機構のカグツチ支部が建っている

「貴様たちのことなどに興味もない僕は上へ行きたいだけだ」

「上

というと統制機構の支部でござるか」

「じや

魔まだそこをどけhelliphellipああいや」

冷れい徹てつに言い放ってから青年は思い直したようにけれどそれでも冷ややかに声を低めた

第二章 Spiral fate 盤上の駒97

カルガ連邦も武力でもって抵てい抗こうした

それが四年続いたある日のことだ

イカルガ連邦首都であり指揮系統の中心であった第五階層都市イブキドの地下で突とつ然ぜん原因

不明の大爆発が起こりイブキドは跡あと形かたもなく消しよ滅うめつした

爆発はイカルガ連邦はもちろん交戦の真っ最中であった世界虚空情報統制機構側にも大き

く戦力を損そこなわせる痛手を負わせた戦争を続けるだけの力をイカルガ連邦と統制機構が爆

発事故をきっかけに同時に失ったのだ

結局イカルガ連邦はバラバラとなり最終的には組織としての形を失ったけれど統制機構も

己おのれを立て直すのに手て一いつ杯ぱいで追つい撃げきどころではなく内戦はしぼんで消え入るようにいつの間に

か終わったのだった

「それでも我等は負けたのだその現実を認めずに今ある平和を投げうってまで統制機構に

楯たて突つくつもりはござらんよ」

そう言うとバングは眉み間けんを中心に走る十字傷に分厚い手で触ふれ苦々しくも笑みを浮かべ

たこ

の傷はその爆発事故のときに負ったものだ内戦を終わらせたあの事故が自分にとって幸

であったのか不幸であったのかバングには未いまだわかりかねる

ただイカルガの民はもうじ充ゆう分ぶん戦ったこれからはたとえ楽な生活でなくとも平和に過ご

してほしいとバングは思っている

96

れるだとかそんな幽ゆう霊れい話じみた現象が起こるはずもない

勝手なイメージでそう結論づけるとバングは気を取り直してそのたくまし

い胸むな板いたを張った

まだ浪人街の見回りは途とち中ゆうだ曇天の色はますます濃こくなってきている雨が

り出す前に

修理の必要な家がないかどうか確かく認にんしておかなければならない

「いやぁまったく最近の若者は覇は気きが足らんでござるなぁ

陰いん気きな顔をしていないでも

っと威い風ふう堂どうど々うと力強くそして

くあらねばそうこの愛と正義の忍者シシガミバング

のように」

辺り一帯に響く盛せい大だいな声で笑うとバングは街の見回りを再開させた

これが終わって部下のけい

古こが終わってそれでも時間があったなら憧あこがれの女性が住むオリ

エントタウンまで足を延ばして挨拶に行こうとそう心の中で計画をたてていた

今日も浪ろう人にん街は平和だ

それがなにより素す晴ばらしい

2199年12月30日||18時21分

第二章 Spiral fate 盤上の駒99

「ついでだ貴様カグツチで白い髪かみに赤いコートを着た男を見なかったか」

そう尋たずねる青年の表情はまるで凍こおりついたかのように無表情から動こうとしないだという

のに緑の瞳だけは妙みように楽しげに煌きらめいていたようにバングには見えた

バングは顎あごに手をやり考えこむ

「白い髪に赤いコートhelliphellipふぅむいやこの辺りでは見かけてござらんそれほど目立つ容

ならば一度目にすれば覚えようがhelliphellip」

「そうかならいい」

しゆ時んじにバングからあらゆる興味を失ったように青年は滑すべるような歩みで横を通り抜ける

すれちがう風はいやに冷たいまるで氷でも掠かすめたかのようだ

「ああお主

拙者はシシガミバングと申すお主の名はなんと申す

すたすたと足早に山へ向かう細身の後ろ

へバングは追いかけるように声をかけた

だが青年は振ふり向かないまるでバングの声など耳に入っていないかのような頑かたくなな

中で

なにかに突き動かされるような足取りで歩き去りそのうちに浪人街の外れへと

を消してし

まった

バングは引き止めるように宙へ伸のばした腕もそのままに難しく顔を歪ゆがめて首を捻ひねった

「はてhelliphellip奇きみ妙ような男でござったななんというかこうた魂ましいが抜けているようというかhelliphellipなに

かに取り憑つかれでもしているかのようであったわ」

もっとも今は日もこれから高くなろうという真昼間魂が抜けるだとかなにかに取り憑か

98

形よく張り出した豊かな胸に引き締まった腰こしそこから滑なめらかに続く肉感的な臀でん部ぶと華きやしや

な足首に向かって続く絵に描かいたような曲線

同性の憧れと異性の動どう揺ようを誘さそわずにおれない肢し体たいのシルエットだけでも彼女は道行く人の

視線を釘くぎ付づけにする

そんな麗うるわしき女医ライチがこの街にやってきたのは約一年前のことだ

突然現れ住まいと仕事を求めたライチをこの辺りの住人は快く受け入れた

彼女は自分がどこから来たのかどんな生おい立ちなのかなぜオリエントタウンへひとりで

やってきたのか名前以外のことはなにも話そうとはしなかった

素すじ性ようの知れない女など怪あやしまれて当然だろうけれどライチが出会ったオリエントタウンの

住人は皆みんな彼女が口を閉とざすと深くは追つい及きゆうしようとはしなかった

そのことをライチは一年たった今でも来たばかりのころと変わらず感謝している

こうして日々病院のとびらを

開けなるべく気軽に安価で治ちり療ようが受けられるよう心がけているの

も生活のためというより拒きよ絶ぜつや敬遠ではなく寛かん大だいさと優やさしさをもって自分を迎むかえてくれた

オリエントタウンへの恩返しの意味が強い

「さてと」

少年の

が曲がり角の向こうに消えるとライチは細い肩かたをすとんと落として息をついた

オリエントタウンはすでに夜の闇やみに包まれていてあちこちにぶら下げられた小さな提ちよ灯うちんや

ランプが家々を照らしていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒101

オリエントタウンは第十三階層都市カグツチの下層にこそあれど広く活気にあふれた賑にぎやか

な街だ

限りある土地を時に譲ゆずり合い時に共有して身を寄せ合うように家を建て並べ今にも壁かべが

触れそうなほど密接したりん家かとは家族のように付き合える

誰だれも彼も決して裕ゆう福ふくではないけれど薄うす暗ぐらい路地に不ふ穏おんな影かげが横切ることもあるけれどそ

れでもこの街は温かい

ここオリエントタウンの一角で小さな病院を開いている医者ライチフェイリンは常々

そう感じていた

「痛みが引くまで無理は禁物よいいわね」

階段から落ちて捻ねん挫ざしたという少年を病院の入り口まで見送ってライチは頭を下げる小さ

な彼に笑顔で手を振る

ライチは美しい女性だった

足元まで伸ばした艶つややかな黒くろ髪かみを高く結ゆわえてくるりと巻き大きなアップヘアにまとめて

いる化けし粧ようで飾かざらずとも美しいラインを描えがく眉に伏ふせれば影ができるほどに長い睫まつ毛げ黒い

縁ふちの眼鏡ごしに見える瞳は大きく知的な光を宿しているけれどややつり上がった目元はどこ

か媚び態たいを想像させる色いろ香かを匂わす

美び麗れいなのはなにも容よう貌ぼうだけではない

100

こんなにも温かく名を呼ぶのはひとりだけだhelliphellip今は

両手で二の腕をさすりながら振り返りライチは少し驚おどろいたように目を丸くさせる

そこにいたのはやはり予想通りの人物だったけれど彼の腕には予想とは

うものが抱だき

かかえられていた

声の主の大きな体が建物の色いろ濃こい影の中から出てくるライチとて

の低いほうではないけ

れど彼の

は見上げるほどだ

通常の人間ならありえないほど屈くつ強きような体に赤い肌はだ第七機

の赤あか鬼おにと呼ばれるサイボーグ

の男だった

「テイガーhelliphellip」

ライチが小さな声で名を呼び返すうちにテイガーは周囲に人ひと気けがないことを素早く確認す

ると近くまでやってくる

彼の腕うでにはひとりの少女の

があった気を失っているのかぐったりと力なく体を預け

ている長くやわらかなカメリアレッドの髪に華

な体そして青と白の世界で一番有名な制

服helliphellip統制機構の制服

「テイガーこれはどういうこと

どうしてhelliphellip」

どうして統制機構の

士を抱かかえてこんなところにいるのかそう問おうとしたライチの疑問

をさえぎっ

てテイガーは抱えていた少女の体を託たくすように差し出した

「すまんがこの少女を頼たのめないだろうか訳あって気絶させてしまったのだが放ほうり出すわ

第二章 Spiral fate 盤上の駒103

遠くには雨音が

こえる昼過ぎに

り出してから今までもずっと続いていたのだろう空

を上層に閉とざされたこの辺りもすっかり空気が湿しめっていてずいぶんと冷え込んでいた

ゆったりとした白いブラウスとその上に着込んだロング丈たけの真っ赤なチャイナドレスという

服装はライチのみ惑わく的なボディラインをくっきりと描き出すには適しているけれど寒空の

下に立つにはあまり向いているとはいえない

不意に抜けた冷たい風にぶるりと身み震ぶるいしてライチは豊満な胸元を合わせるように己おのれを抱

いたまとめ上げた髪にしがみつくようにくっついている小さなパンダの髪かみ飾かざりも心なしか寒

そうだ

今夜はきっと冷えるだろうとはいえかつて黒き獣けものが現れ魔ま素そが世界に広がるまでは十二

月といえばもっと寒くこんな薄うす手での服装ではとても外を歩けなかったそうだから当時を思

えば涼すずしい程度の気温なのかもしれない

昔はこの時期この辺りでも雪が

ったらしい魔素が狂くるわせ失わせた冬らしい季節という

ものを少々勿もつ体たい無く思いながらライチは病院へ戻もどるべく踵きびすを返した

だがただでさえ長い脚あしをさらにすらりと見せる踵の尖とがったくつが屋内に踏ふみ入る前に

後か

ら唐とう突とつに声がかかった

「ライチ」

落ち着きのある低い男の声だ

それが誰なのかライチは呼びかける一言でわかった自分のことを呼び捨てる者の中で

102

「お前になら構わんか実はhelliphellip」

『とう

亡ぼうしたサンプルの回

だ』

突とつ然ぜん第三の声が割って入った

「ココノエ

周囲に配はい慮りよしてか声は抑おさえたもののテイガーが驚きにうろたえる

ライチの表情に糸を張るような緊きん張ちようが走った

第三の声はテイガーの耳元から

こえてきたそこには小さな通信機が取り付けられている

その向こうにいるのが声の主でありテイガーの上司にして製作者でありhelliphellip一年前までは

ライチの上司でもあった人物ココノエだった

『なにを驚いている回線に入り込む程度なんでもないわかったら勝手に通信を切るんじ

ゃないいいなテイガー』

テイガーへ向けてだけでなくその周囲にも

こえるよう操作された音声が感情の波を抑え

た低い女声で語る他者の意見をは

ねのけるような語調と声色には有う無むを言わさぬ威い圧あつ感と

神経質さが現れていた

ライチも一年前まではよくこの声にしつ

咤たされたものだ懐なつかしさと一いつ緒しよに苦い思いがこみ

上げてきてライチは声から目をそむ

けるようにテイガーから視線を外す

「ココノエ博士helliphellip」

『久しぶりだなライチお前こそこんなところでなにをしている』

第二章 Spiral fate 盤上の駒105

けにも統制機構に連れん絡らくするわけにもいかなくてな」

ひどく困った様子で懇こん願がんしてくる

そんな顔でそんなことを言われては断ろうにも断れない自分の性格をわかっているくせに

と思いつつもライチはテイガーの腕の中の少女を覗のぞきこんだ

は正常だ外傷は特になく呼吸も安定しているただ単純に強い衝しよ撃うげきで意識がなくなり

そのまま眠ねむり込んでいる状態だろう

「つまり彼女の意識がないのは貴方あなたの仕し業わざってことね」

ちらりと眼鏡のすき間まからテイガーの赤い顔を見上げてライチはほんの少しの小言めいた響ひび

きを込こめて言った

テイガーとこの少女の間にちょっとした荒あら事ごとがあったことは想像に難かたくない

統制機構と第七機

係についてはよく知っているなにせライチはオリエントタウンへ

来る前テイガーと同じ

場で同じ上司の下で働いていたのだから

「helliphellipどうして貴方がカグツチにいるの」

少女の身み柄がらは引き取るそう物もの腰ごしで伝えながらもライチは堅かたい声こわ色いろで尋ねた

テイガーが所属している第七機

はカグツチから離はなれた場所に研究所を構えているカグツ

チへふらりと私用で来るような距きよ離りではない

テイガーは困こん惑わくしたように言葉に迷ったが難しそうな顔をしながらも上向きのきばが覗く

口を動かした

104

「まだわかりません」

ねのけるようにライチは大きく首を振ふった

そこにはオリエントタウンの住人が知る優しく穏おだやかで時々厳しいそんな女医の

はなか

ったあるのはなにかを必死で守ろうとする弱々しい少女のような顔だ大切な宝物を取り上

げられまいと首を振るようなそんな

ライチは厳しく引き締しめた顔でテイガーをその耳元にある通信機を見つめる

「なぜ博士はそう簡単に割り切れるんですか

すべての手を尽つくしたわけではないのにあ

の人はただ少し間まちが

えてしまっただけです少し急ぎすぎただけでそれに彼は貴女あなた

のhelliphellip弟で

子しだった人じゃないですか」

ライチの声は情感に揺ゆれていた震ふるえているといってもいい

解げせない飲み込めない受け入れたくないそんな拒絶が声だけでなく

しげに眉まゆを寄

せた表情にも浮うかんでいる

もう一度通信機からココノエのため息が

こえた今度は呆れているというより苛いら立だっ

たような吐と息いきだった彼女が頭をかきむしる仕草が見えるようだ

「すみません博士helliphellipでも私はhelliphellip諦められません」

ライチはきつく胸の前で手を握にぎり締める

だけど本当はわかっているライチは医者であり一年前までは研究者だっただから自分

でもいや

になるほど冷静で理性的な部分はもうとっくに理解していた

第二章 Spiral fate 盤上の駒107

どんな顔をしていたらいいかわからないライチは寒さではなく別のものから己を守るよう

に身を抱く手に力を込める

知性と理性で研といだココノエの鋭するどく射い貫ぬくような眼まな差ざしが通信越ごしにこちらを見み据すえてい

るのがわかった

「そんなのhelliphellip博士ならもうおわかりでしょう」

なぜライチがカグツチにいるのかもなぜカグツチの中でも下層のオリエントタウンを住ま

いに選んだのかもなぜ第七機

を出たのかも全部全部彼女はお見通しのはずだ今いま更さら説

明しなければならないことなどなにもないのだ

『まだあいつのことを諦あきらめきれんのか』

ほらとライチは思う答えずともココノエはわかっている知っているライチがなにを

考えてここにいるのかを

だからだろうか通信機越しに

こえるかつての師の声はまるで咎とがめ責めているように

こえた

「諦めるだなんてどうしてそんなことができますか」

胸の内から絞しぼり出すようにしてライチは答える

通信機からノイズが漏もれたココノエのため息だろう呆あきれ果てたといったような音だ

『もう一度言うあいつを助けようなどと無む駄だなことを考えるのは止よせあいつはもうどうに

もならんお前の力では助けられない』

106

ライチは顔を上げられなかった愚おろかだと思うのは自分も同じだ反論はない

重苦しい沈ちん黙もくが数秒流れたときだったパタパタと軽やかな足音がライチのいる病院の入り

口へと駆かけてきた

「ただいまhelliphellipってうわデカっ

やってきたのは小こ柄がらな少女だったかつ

色しよくの肌はだに黒くろ髪かみをアップにまとめており動きやすそう

な服を身に着けている

少年とも見まごう細い腕うでと胸には紙かみ袋ぶくろに入った日用品を抱かかえていたが近づいて改めて見上

げたテイガーの巨きよ体たいに思わず驚おどろいてぐしゃりと抱だき潰つぶす

「リンファhelliphellip

おおかえりなさい」

いささか慌あわててライチは向き直った

彼女はリンファライチの病院で助手として手伝いをしている医者志望の少女だ

リンファは大きな黒目をさらに大きく見開いて遠目で見るよりずっと大迫はく力りよくなテイガーを

ぽかんと見上げていた

「たただいま先生えっとhelliphellipこの人誰だれ

お客さん」

「ああそのhelliphellip」

ライチは言葉を濁にごして迷った

リンファは公私ともに支えてくれる頼たのもしい助手だがライチは彼女に自分の過去を教えて

いないし教えるつもりもなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒109

自分にできることなどなにもないのだと

||一年前ライチがココノエやテイガーと共に過ごし研究に励はげんでいた第七機

を飛び出

したのはある人を助けるためだった

その人は魔素とそれを世界にもたらしたとされる境界について研究していた

けれどあるとき彼はおかしくなってしまった常に錯さく乱らんしたようになってやがて人前に

を見せなくなり最終的には人でなくなってしまった

魔素に触ふれ続け境界に近づきすぎたがゆえの結果だった自分と境界の境目がわからなく

なってあるべき形を失った

消化してしまったものを元の食品の形に戻せないように境界に取り込まれて同化したもの

を元の

になど戻せはしない

彼を追ってここカグツチのオリエントタウンまで来てもこの街に留とどまり続けても彼の

噂うわさを耳にしては飛び出し黒く蠢うごめく影かげを探しても魔素や人ならざる種族について研究を重ね

ても彼と同じように境界に手を伸のばしても

なにも変えられない

ライチが探している『あの人』はオリエントタウンから入ることができるカグツチ下層の

下水道をねぐらとして日々ただ本能の赴おもむくままにさまよい続けている

『どいつもこいつも私の弟子は馬ば鹿かばかりだhelliphellip』

ココノエが吐はき捨てるように言う

108

意識のない女

士が身に着けている青と白の制服は苦しい生活や貧しい環かん境きようをもたらした

元げん凶きようをし象よう徴ちようしているようなものだ

その気持ちをわかりながらもライチは

めるように言う

「誰であろうと患かん者じやは患者よリンファベッドの用意をしておいて」

「helliphellipはいライチ先生」

リンファとてライチの言い分はわかっている

もう一度きつく腕の中の紙袋を抱だきしめるとリンファは渋しぶし々ぶ頷うなずきそれでも足早に病院の

奥へと駆けていった

それを横目に見送りながらライチはぐったりとした少女の腕を肩かたに担ぐようにして濡ぬれ

た体を支える

最後にと見上げた知的な瞳ひとみにテイガーは告げた

「ライチこれだけは伝えておきたいココノエはお前が機

に戻もどることを望んでいるお前

にその意思があるならいつでも手を貸すつもりだ」

それこそがわざわざ通信回路をねじ込んでまで口をはさ

んできたココノエが言いたかったこ

とだろうとテイガーは解かい釈しやくしている

あの気難しく神経質な声で話す上司は人に情じよ緒うちよめいたことを伝えるのがとても苦手だ誰よ

りも側でココノエの仕事を手伝ってきたテイガーはそのことを身にしみて実感している

ライチは驚いたような顔を見せそれから頰ほおを緩ゆるめるように力を抜ぬくと

しげに首を横に振ふ

第二章 Spiral fate 盤上の駒111

間まちがってもテイガーやココノエとの会話を

かれるわけにはいかないのだライチは素早く

助けを求めるような視線をテイガーに向ける

だがそのときにはもうすでにテイガーは通信をオフにしていたライチがなにをきらうのか

は見かけによらず理性的な巨きよ漢かんは十分理解している

ただしその代わりにとばかりに抱えていた意識のない少女をライチの腕の中に押し付ける

ように託たくした

「私は任務があるもう行かなければとにかくこの娘むすめを頼む」

テイガーがここを訪れたのはなにもココノエの心情を伝えるためでも上司とライチを口論

させるためでもなくこの赤い髪かみの少女の身の安全のためだ

「わかったわ預かる」

このじ状よう況きようで拒きよ否ひするわけにもいかないライチは素直に少女の身み柄がらを引き受けた

力なくもたれかかる少女の体は決して軽くはないが支えながら引きずってベッドへ運ぶく

らいはできる医者や研究者に相応ふさわしくない程度にはライチは力には自信があった

ライチが受け取った人物の

を見てリンファが不ふ愉ゆ快かいそうに眉まゆを寄せた

「この人図書館の

士じゃんなんでhelliphellip」

なんで

士なんかを預かるのかのみ込まれたリンファの言葉はそう続くはずだった

リンファはオリエントタウンの生まれだ下層の住人の大半がそうであるように彼女もま

た高圧的な統制機構の施し政せいに大いに不満を抱いて生活している

110

雨の中運ばれてきたせいで少女の体はすっかり冷えていた

リンファが整えてくれたベッドまで運ぶと清潔なシーツの上に横たえ

士の制服である青

い帽ぼう子しとブーツを脱ぬがせる指先まですっかり力を失った手を取り手てぶ袋くろと硬かたい金具のついた

袖そでを外した

となりの部屋でリンファが買ってきた日用品の片づけをしている物音を

きながら上等とは言

えない毛布と布団を眠ねむる少女の体にそっとかけてやる

「helliphellip今夜はこれじゃ少し寒いかもしれないわね」

青と白の帽子や袖をたな

へしまいながらライチは声に出して呟つぶやいた

そのしゆ

間んかん目に見えない糸が切れたような不思議な感覚がライチの

筋を掠かすめていったの

だけれど

ライチはそれを冷えてきたがゆえの悪寒だと思って新しい患者にかけてやる毛布を取りに

行くため部屋を出た

この

間ライチの大切なものがひとつ喪うしなわれたと彼女が知ることはなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒113

った

「helliphellip私は戻れないわあの人のことが片付かない限りは」

戻ればきっと後こう悔かいするお門かどちがいにもココノエを恨うらむかもしれない

「そしてもし片が付いて私があそこに戻ろうとしてもそのときは今度は博士が私を受け入れ

ない」

もしあの人を戻せるとしたらその方法が容易たやすくそして人道に則のつとったものであるはずがな

い触ふれてはならないものに触れなければならないだろう見てはならないものを見なければ

ならないだろう知ってはいけないものを知らなければならないだろう

そうなったときココノエが自分をどんな目で見るかライチはあまり想像したくはなか

った

難しそうに唸うなりテイガーが小さく顎あごを引く歪ゆがんだ口元は苦々しい

「そうか難しいことは私にはわからんが」

いつまでも話してばかりはいられないテイガーは広く赤い

中をライチへ向けた

「今はこれで失礼するhelliphellip達者でな」

それだけ告げるとテイガーは後うしろ髪がみを引かれる様子もなく来た道を引き返していった暗

い影かげの中に入るとやがて大きな

中はオリエントタウンの路地裏に消える

ライチもまた立ち去る

を向けて預かった

士の少女を病院の中へと運び込んだ

後ろ手にとびらを閉めればそこはもう慣れ親しんだ小さな自分の病院だ

112

まったくうんざりするこれからこんな風雨の下でひとりで作業しなければならないな

んて

「helliphellipっていつまでもぐちぐち言っていてもしょうがないですか」

自分で自分を哀あわれみながらハザマはスーツの内ポケットから小さな通信機を取り出した

耳に当ててしばらく待つ

とうに日は落ちて辺りは暗くこの分厚い雨雲で月明かりが望めるわけもないハザマの後

方で灯ともる屋上入り口の白々しい明かりがスポットライトのように円形の濡れた屋上を寒々し

く照らしていた

『||私だ』

通信機の向こうから声が応こたえた

男の声だ低く感情らしい響ひびきは一いつ切さいない

ハザマはズボンのポケットに手を突つっ込こむと心持ち

筋を伸ばした

「お疲つかれ様ですハザマですとりあえず現場に到とう着ちやくしましたよ雨ざらしですけど」

『そうかでは始めろ』

「あらら冷たいですねぇねぎらいの言葉もなしですか技術大たい佐さ」

帽子のつばなどまるで意味がない濡れて額にはりつく前まえ髪がみを指先でのけながらハザマは口

角を引いて苦くし笑ようする

もっとも通信機の向こうにいる男にねぎらいの言葉などかけられたらそれはそれで気味

第二章 Spiral fate 盤上の駒115

2199年12月30日||18時21分

雨はまだ

り続いていた

曇どん天てんはますます色いろ濃こくついには強い風まで吹ふき始める

夜ともなれば空気は冷えるただでさえここは高い場所でhelliphellipそう地上から数えればとん

でもなく高い場所でそのうえ風雨をさえぎるものがないというのに

「あーあhelliphellipもう最悪ですね」

世界虚こ空くう情報統制機構カグツチ支部の屋上つまり第十三階層都市カグツチにおいて最も高

い場所に立つハザマは

り止む気配のない雨空を見上げて心底辟へき易えきしていた

制服ではない自前の黒いスーツも雨除よけにはならない帽子も上がってきて数秒でびしょ濡ぬ

れだ

少し待てば雨足も弱まるのではないかと思って無益に潰つぶした時間は一体なんだったのだろ

うか

「これが上官命令でもあの人の言いつけでもなかったら体調不良でも持ちだして即そつ刻こく本部に

帰るところですよ」

114

歩きながらもハザマは笑っていた両手をポケットに突っ込んでいるせいで細い肩が少しだ

け持ち上がって喉のどを鳴らすたびに小刻みに揺ゆれる

誰もいない鳥さえ近づかないカグツチの頂でハザマはどこか摑つかみどころなくにゆ

和うわに笑い

かけた

彼にだけわかる人物へまるでなだめすかすように

「そう急せかさないでくださいよ焦あせらなくてもいずれ取り戻せますって」

||ねえテルミさん

第二章 Spiral fate 盤上の駒117

が悪くてとても仕事どころではないのだけれど

『あまり時間がないさっさとしろ』

「はいはいまったく貴方あなたもあの人も人使いが荒あらいんですから」

ではまた後ほどそう言葉を足して通信を終えるとハザマは手の中に握にぎり込めるくらい

小さな通信機を玩がん具ぐでも扱あつかうように宙へ放ほうり投げキャッチした

雨が冷たい

ハザマは目ま深ぶかにかぶっていた黒の帽子をほんの少しだけ持ち上げた

濡れた髪の向こうから金色の瞳ひとみが覗のぞいていた照明の中でちらつく無数の雨あま粒つぶを鋭えい利りな狡こう猾かつ

さで見み据すえる一いつ緒しよにその向こうで静かに濡れるがらんと空くう虚きよななにもない屋上の空間を

軽く肩をすくめるようにしてハザマが笑えみの息を漏もらしたまるで誰かになにごとか語り

かけられたかのように

「わかっていますよ私だってさっさと片付けたいですからね」

さあさあと雨の音が途切れることなく続いている

そこにハザマ以外の誰かの声はなくもちろんハザマ以外の

はない

暗い夜の屋上は雨あま霧ぎりの中でなにひとつ文句も言えず濡れるばかりでハザマに何事か語りか

けるはずもない

ハザマは通信機をしまうとちょいと帽子を直し屋上の中央に向かって足を踏ふみ出した硬

い革かわぐつが濡れた床ゆかを叩たたいて微かすかな水音を弾はずませる

116

Page 11: t1501 ブレイブルー1 面付BLAZBLUE―ブレイブルー―1 カラミティトリガー 上> 原案・監修 ‥ 森利道(アークシステムワークス) 著‥駒尾真子

この世でありながら別の世であるかのような本能が警告するい和わ感のようなものが空気の

代わりに漂ただよっている

けれど彼には慣れた空気だった

もう幾いく度どもこういうところにはやってきているのだここと同じ構造をして同じ装置を地

下に隠した施設をこれまでいくつ訪ねたかわからない

毎度訪問の目的はひとつ

この巨大な装置の破壊だ

彼は床を踏ふみしめるようにして歩み寄る

これがなんのために存在しているのかここで働いていた者のどれほどが把は握あくしていたのだ

ろう

来るたびに彼は棘とげのような疑問を感じる

これがなにをもたらすと思って毎日毎日こんな陰いん気き臭くさい地下深くまで

りてきて用よう途とも

わからないチカチカ光る計器をいじくり回していたのだろう

縁へりまで来ると彼はそれを睨にらみ据すえる

銀色の金属で組み立てられた装置は見上げるほどに高くそびえ見下ろすほどに深く大き

かった

メインとなる部分は彼が見下ろす円形の部分だ

これは『窯かま』だった

20

第九階層都市アキツ世界虚こ空くう情報統制機構支部

都市の中心に建っていた施設が何者かの襲撃によって崩ほう壊かいしその騒動で都市全体が混乱し

ている中

赤いロングコートを着た白髪の男はひとりひっそりと都市から去ろうとしていた

もうここでやるべきことは終わった長居は無用だ

施設での

手な立ち回りに反して外では人目につかぬよう入り組んだ道を通りできるだ

け薄うす暗ぐらい出口を選んだ

街中で制服を着た

士たちに見つかれば振り払うために戦わねばならないそれが煩わずらわし

い錆さび

臭くさい鉄門をくぐって奥にあるポートへ向かうその脇わきにある通路を下れば外に出られる

はずだ

そのときふと薔ばら

の香かおりが彼の鼻び孔こうをくすぐった

「まるで行き場を失った野の良ら犬みたいね」

淡たんた々んとしたあざけり

の声が

こえ彼は足を止めて振り向いた傍かたわらに佇たたずむ細い外灯を見上げる

先せん端たん

が二ふた股またに分かれたシンプルなそれの上にひとりの少女が立っていた

歳としは十を過ぎて数年といった程度だろうかまだ幼い顔立ちをしながらも足元からの薄暗

い明りに照らされて浮うかぶ赤い瞳は外見の年とし頃ごろに似合わぬ聡そう明めいさをたたえている

第一章 Stratum city 階層都市23

今はいくつもの金属板が折り重なるようにして口を閉ざしているが開けば内は火山の火口

のようになっている炎えん色しよくの溶よう岩がんのようなものが渦うずを巻いて覗のぞき込む者のすべてをのみ込ま

んと燃え盛さかっているのだ

だが中でわだかまっているものは決して溶岩や炎などではない

そこにあるのは異界だ人が本来あるべきではない世界のひずみ走った亀き裂れつの向こう側

見てはいけなかった踏み込んではいけなかった世界のからの外側

彼が見下ろす金属の装置はこの窯を制せい御ぎよしまた窯に干渉するためのものだ

本来及およぶべきものではない異界||境界に触ふれるための装置

彼は世界中に散らばるこの窯を破壊して回っていた

こうして

めてみても今いま更さら感かんがいもない

彼は剣を腰こしに戻もどすと右手を装置へと向けて突き出した何事か呟つぶやくもう何度も繰くり返し

口にしてきた破壊をもたらす言葉

言葉は彼の右みぎ腕うでで眠ねむっていた力を呼び起こし力は彼の右腕に蒼あおい光を生んだ

またたく間に辺りを埋うめ尽つくすほどに増ぞう幅ふくされた光を彼は装置に向けて思い切り放つ

のしゆ間んかん地下深くで口を閉ざしていた異界への門はそれを囲む広大な部屋ごと跡あと形かたもな

く吹き飛んだ

22

別に行き先などどこでもいいカグツチならここアキツからでもそう遠くはない

彼は忌いまい々ましげに少女の消えた辺りを睨みつけると示された

の目的地を目指して歩き出し

た数

日後彼の名は世界中に指名手配犯として公開された

ラグナザブラッドエッジ

それが『死神』の異名を持つ史上最高額の賞金首の名だった

2199年12月30日||13時27分

約百年前世界は一度滅ほろびかけたという

突とつ如じよ現れ世界中を破壊して回った巨大にして異形の怪かい物ぶつhelliphellip『黒き獣けも』の

その圧あつ倒とう的な力に人類は為なす術すべもなくあっという間に世界の人口は半分に減った

ところがそこに六人の勇士が現れた

第一章 Stratum city 階層都市25

下方の彼を見やって少女は薄うすく微笑ほほえんだ

「薄うす汚ぎたない迷子の野良犬さん

に貴方あなたが行くべき場所を教えてあげましょうか」

「helliphellipなに企たくらんでいやがる今まではそんなこと教えなかったじゃねぇか」

吐はき捨てるように彼は低く呻うめいた

少女は呆あきれたように眉まゆ尻じりを下げる

「心外ね教えてきたじゃないhelliphellipもう何度も」

「はぁ

なに言ってんだテメェ」

「覚えていないならいいのよ期待もしていないわ」

指に絡からまった糸くずでも払うように言うと少女はある方向をその白く小さな手で示した

その先に広がるのは暗雲を抱いだく暗い夜空星も月もない夜はまるで不ふ穏おんな予感を掻きたてよ

うとするかのように重苦しく静かだった

「第十三階層都市カグツチ」

そこが貴方が導かれるべき場所よ

そう告げると少女は薔

の香りを漂わせ風が吹き抜けるように

を消した

甘い花の香りが消えると白昼夢から現実に引き戻されたかのようにどこからか金属とくさ

った水の臭においが漂ってくる

気分のいい場所ではない

「カグツチhelliphellipね」

24

た街は山の高度に沿って上下に広がり結果幾いく重えにも市街のプレートが重なった狭せまくも高

い都市が生まれたのだ

ここ第十三階層都市カグツチもまた世界中の都市がそうであるように複雑な多重構造と

なっている都市だった

その中の折り重なった市街のひとつオリエントタウンの入り組んだ細い道を彼は少々ふ

らついた足取りで歩いていた

白い髪かみに左は緑右は赤という左右で色のちが

う瞳ひとみ全身を包む黒い服に目の覚めるよう

な真っ赤なロングコート腰には幅はば広びろで分厚い刀身がと特くち徴よう的な剣けんが下げられている

ラグナザブラッドエッジ

世界虚空情報統制機構の支部を各地で壊かい滅めつさせているSS級の指名手配犯であり史上最高

額の賞金首が彼だ

とはいえ周囲を行き交かう街の住人は誰もラグナを気にしたりはしないどうせまたどこか

らか無法者が入ってきたのだろうそんな程度の視線が時折興味もなさそうに掠かすめては離れ

ていく

ここはオリエントタウンカグツチの下層に位置する街だ

階層都市はその構造上上層の街であるほど魔素から遠く安全で清潔で逆に下層に行くほ

ど管理が行き届かず魔素に近い階層都市において上下は住みやすさだけでなく晒さらされる命

の危険の度合いをも意味している

第一章 Stratum city 階層都市27

彼らは事象兵器

アークエネミーと呼ばれる武器を手に黒き獣にいどみ災さい厄やくの魔ま物ものを倒し人類に未来をもた

らした

六英えい雄ゆうと讃たたえられた彼らは人知れず歴史の海に

を消し行ゆく方え不明となったがそれでも彼ら

の栄光は伝説として語かたり継つがれた

それは近くも遠い昔の話

今の世にかつての黒き獣との戦争||暗黒大戦の誰だれもが知るような名な残ごりがあるとすれば

それは大きく数えてふたつだろう

ひとつは世界虚空情報統制機構

暗黒大戦のとき六英雄と共に戦った世界的な連合軍が母体となった組織であり現在は世界

中をこの組織が統とう括かつしている

そしてもうひとつが魔素

災厄の魔物黒き獣の出現と共に世界中であふれ出した物質で黒き獣が倒たおされた後も依い然ぜんと

して世界の空気中に残り続けた

今では様々なテクノロジーにも利用され人々が暮らしていくうえでなくてはならないもの

となっているがそれでも多量の摂取は人体への危険を伴ともなう

そのため人類は魔素を利用しながらも魔素を避さけて生活しなければならなかった

魔素は地表に近いほど濃こく滞たい留りゆうしているそこで考え出されたのが階層都市だ

高山を基き軸じくにしてそこからプレート状に築いた市街を突つき出させるようにして街を建設し

26

っている

そのうえあちこちの路地を塞ふさぐように木箱やらなにかの詰つまった袋ふくろやらが我が物顔で腰を下

ろしているものだから何気なく入った路地が通り抜ぬけられないこともしばしばある

赤い柱にぎょろついた目玉のついた奇きみ妙ような像街中に小さな明かりの灯った提ちよ灯うちんがぶら下げ

られていてそれ以上におびただしい数の大小の看板が眩まぶしいネオンを輝かがやかせている

普ふ通つう下層の街というのはいくつもある上層の基き盤ばんに陽光をさえぎら

れて昼間でも薄暗く場所に

よっては真っ暗になるものだがここはそんな暗がりとは無む縁えんのようだ

路地を抜けると少し開けた通りへ出た

左右にずらりとなにかの店が並んでいてどうやらこの辺りのメインストリートらしかった

その分掲かかげられた看板の数もその

手な色しき彩さいも段だんちがいだ

(この辺なら統制機構の連中もいねぇだろ)

比ひかく的広い通りでもいかにもこの街の住人といった人間ばかりが歩いていて世界虚空情報

統制機構の例の忌いまい々ましい青と白を基調にした制服は見当たらない

ありがたい話だもし見つかれば曲がりなりにもラグナは重大犯

者周囲への配はい慮りよもな

にもなく雨あられと発はつ砲ぽうされ

から

へと集まってくる

士たちと追いかけっこを演じなけ

ればならなくなる

ラグナは左右をきょろきょろと見回しながら腹部に手をやった

疲労より空腹が辛つらいカグツチに入ってからというもの食料品を扱う店に巡り合えず持

第一章 Stratum city 階層都市29

当然最上層を占せん拠きよしているのは管理機

でもある世界虚空情報統制機構だその

連施し

設せつや

係者の住宅が市街のほとんどを占しめている

続いて権力に近く裕ゆう福ふくである者が上層階に住まいそうでない者はその

産や身分に順列を

つけるように下へ下へと下っていく

オリエントタウンに住んでいるのはそういった順列の結果ここまで追いやられてきた人間

たちだった

誰も彼もお世辞にも裕福とは言えない自分と家族それから少しの親しい人間の生活の

ことで精いっぱいで見るからに異質な白髪の男にかかわって余計な面めん倒どうに首を突っ込みたが

る酔すい狂きよ者うものなどほとんどいないのだ

もっともラグナ自身も周囲の人間の様子に気を配っている余よ裕ゆうはあまりなかった

今は使われていないは搬んに入ゆう口からカグツチに侵しん入にゆうしたのが二日前それからずっと人の通ら

ない裏道や廃はい棄きされたエリアを通ってきた図はかったわけでもないのに延々と歩かざるを得なか

った悪路に正直疲ひ労ろうが募つのっている

帰りはもっとまともな道を通ろうそう決めていた

「にしても下層にしちゃ賑にぎやかな街だな」

辺りを見回しラグナはぼやくように率そつ直ちよくな感想を口にした

オリエントタウンは無計画にとにかく乱雑に家を建て並べたことがよくわかる入り組んだ

造りをしていた道は狭くやたらに折れ曲がり家々は今にも密着しそうに身を寄せ合って建

28

「うhelliphellipう」

微かすかに震ふるえる声で呻き少女はゆっくり顔を上げる

ラグナを見上げたフードの中におそらく誰もが想像するであろう少女の顔はなかった

あるのは黒い暗い闇やみを詰め込んだような陰かげその中でへなりと下がった赤い目らしき丸と

白い歯の並ぶ下を向いた三日月形の口だけが浮かんでいる

ぴくぴくと痙けい攣れんするようにフードについている三角の耳が震えた

人間ではないけれど獣のような尻尾や耳を持つ獣じゆ人うじんとも様子が

「もしかしてhelliphellipカカ族か」

このような奇きみ妙ような風ふう貌ぼうの生き物をラグナは過去にも一度見たことがあった確か剣けんの師しし匠よう

を訪ねてきたはずだ同じような黒い顔に実にシンプルな顔のパーツ目の前にいる少女とそ

のとき目にしたカカ族の女は明らかに別人だがこのと特くち徴よう的な容

は他にあるまい

もっとも『カカ族』という名めい称しようを知っているだけでつまりどういう一族なのかをラグナは

知らないのだが

さてこの少女をどうしたものか

わらずに引き返すべきか見なかったことにして先へ

進むか

咄とつ嗟さのことに決めあぐねていると顔だけを起こしたカカ族の少女はその弱り切った様から

は想像もできない俊しゆ敏んびんさで突如ラグナの足にしがみついた

「うおぁっななんだ」

第一章 Stratum city 階層都市31

ち歩いていた保存食も底をつき昨日の夜からなにも食べていないのだそろそろいい加減

限界が近い

いくら下層街でもこの雰ふん囲い気きなら飲食店くらいいくつかあるだろうそう思って雑多な看

板からそれらしい名前を探しているとhelliphellip

なにかやわらかいものを踏ふんだ

「ブニャッ」

同時になにかの鳴き声が足元から

こえた

「げっ」

犬か猫ねこでも踏みつけたかと思ってラグナは慌あわてて足をどける

が見下ろしたそれは予想に反してずいぶんと大きなものだった

というより人だったり両よう腕うで両足を地べたに投げ出し力なく倒れ伏ふしている少女だ全身

をすっぽりと覆おおうフードつきのローブから長い三つ編みの髪とかつ色しよくの肌はだの足が覗のぞき見えてい

るhellip

hellipいや

「なhelliphellipなんだテメェ」

警けい戒かいというより疑問一色の声で問いかけるラグナの視界でひょろりと弱々しく細長い尻しつ尾ぽ

が揺ゆれた

尻尾はその倒れた少女から生えていた

30

「はぁ

おおいどうした大だい丈じよ夫うぶか」

あまりにも切せつ羽ぱ詰つまった声を出すものだからさすがに少し心配になった持ち上げていた足

を下ろして陰を詰めこんだような顔を覗きこむ

まるで黒いお面のような顔は目も口も情けなく下げてラグナを見上げ今にも気を失いそう

な弱さで訴えた

「おhelliphellipお腹なかが空すいたhelliphellipニャス」

黄色いクロスがかけられた丸いテーブルの上にいくつもの皿が並んでいた

揚あげた鶏とり肉にくに薬味だれをたっぷりかけたもの肉団子と色いろ鮮あざやかな野菜の甘あま酢ずあん炒いため四

角く切り分けた豚ぶた肉にくを甘あま辛からく味付けしたこってりとした煮に物ものに山と盛られた炒め飯牛肉と

野菜を濃い味の味み噌そで炒めたもの細切りにした野菜を薄うすい皮で包んだパリパリの春巻きに

挽ひいた肉を包んで蒸むしたふかふかの饅まん頭じゆhellipうhellip

白い湯気と共に胃いぶ袋くろを震わせずにはおかない匂においを放つ数々の料理を三角耳のついたフー

ドの奇妙な少女は椅い子すからずり落ちそうなほど身を乗り出して忙いそがしく口に掻かき込んでいた

「はぐはぐはぐニャスはぐはぐはぐはぐはぐニャスはぐはぐ」

料理を頰ほお張ばる音なのか箸はしをしゃぶる音なのか空気の抜けるような声が絶えず漏もれていた

第一章 Stratum city 階層都市33

「うぅぅニャhelliphellipた助けてhelliphellipニャス」

驚おどろいて足を持ち上げ振ふり払はらおうとしたラグナの足に両腕を絡めてぶら下がり三角耳に尻尾

を生やした少女はあわれっぽく訴うつたえる

しがみつく腕うでをほどこうとラグナは足を大きく上下に振ふりまくるが少女の腕がどういう

わけか一向に離れない

「くっこの離しやがれ

なんなんだよテメェは」

「離さないニャス絶対に離さないニャスぅhelliphellip助けてくれないとこのままオマエの足を食う

ニャスよぉぉhelliphellip」

声だけは弱々しくだが腕は言葉に反して力強くラグナの足を摑つかんで離さない

この騒さわぎでも周囲の人間は奇き怪かいなものでも見るような視線を一いつしゆんくれるだけでそれ以上

わろうとせず通り過ぎて行く

面倒なトラブルに巻き込まれる心配はなかったが少なくとも親切な通行人の手助けは見込

めなさそうだった

何度目かでいい加減に諦あきらめるラグナは足を中ちゆ途うと半はん端ぱに持ち上げたまま縋すがり崩くずれるカカ族

の少女を憔しよ悴うすいの表情で見下ろした

「待て待て待て足を食うなてか意味わかんねぇよ助けるってなんだよ」

「うぅぅhelliphellipよhelliphellipよくぞ

いてくれたニャスタオは今とってもピンチなのネもうhelliphellip

もう限界ニャス」

32

た中皿いっぱいに盛ってあったはずの春巻きはいつの間にか最後のひとつになっていた

「こんなにうまいご飯を

ってくれるなんて白い人はいい人ニャスタオはとぉ〜っても感

謝してるのニャス」

両腕を大きく振り回して少女は喜びの度合いを示そうとするその手は指先まですっぽり

と袖そでの中に隠かくれていて猫の前脚を模したように大きく丸くなっていた

ラグナは春巻きを飲み込んでから尋たずねる

「タオってのはお前の名前か」

「ニャス

タオカカニャス」

大きく頷うなずくと尻尾を持つカカ族の少女タオカカはもう一方の手に持ったままだった肉饅

頭をまた一口で頰張り飲み込こんだ

「タオは村を出て勇ましく旅立ったんニャスがhelliphellipすっかりお腹が空いて動けなくなってたの

ニャあのときいい人が助けてくれなかったらタオは今ごろ干からびてカカの干物になって

たニャスこの『ごおん』は忘れないニャスよ」

勝手に身の上話を始めながらタオカカは味噌炒めの皿を抱かかえて残っていた分を全すべて口の中

に流し込んでしまう

まだそれ食ってなかったんだけどとは言えずラグナは渋じゆ面うめんでその様を見守った仕方な

く肉饅頭をひとつ確保すると呆れを込めてため息に肩かたを落とす

「はいはいなにがご恩だよどうせ飯食ったら忘れるだろお前」

第一章 Stratum city 階層都市35

さっきまで力なく下がっていた目も今はまん丸で口も上向きの三日月形となっている

その様を横目に呆あきれ顔でながめながら向かいの席に座っていたラグナは揚げた鶏肉を口に運

んだ分厚い衣ころもがカリカリとしていてうまい久しぶりに直じか火びで炙あぶっただけでない手の込ん

だ食事だった

「helliphellipうまいか」

料理は凄すさまじい速度で減っていく奇妙な少女が嬉きき々として大量のメニューを注文し始めた

ときはラグナはとてもそんなに食べきれないと青ざめたがそんな心配は無用だったようだ

むしろ今となっては支し払はらいのほうがよほど心配だ

先だけ白くなっている尻尾をふりふりと上じよ機うきげんに揺らす奇妙な少女はふかふかの饅頭を両

手に摑つかんで顔を上げた

「うまいニャス

あれもこれもそれもぜ〜んぶうまうまニャス」

「そうかそうかそらよかったよはぁhelliphellip」

こうも屈くつ託たくなく当然のように貪むさぼられるとこいつの頭に遠えん慮りよという言葉はないのかだとか

そもそもどうして自分が見ず知らずの正体不明な少女に食事をおごっているのかだとかなぜ手

を引かれるままに大人しくこの店まで来てしまったのかだとか尽つきることなく浮うかんでくる

疑問もどうでもよくなってくる

少女はうまそうに肉饅頭を一口で頰張る

あっという間に飲み込む様に思わず苦くし笑ようを漏らしてラグナは春巻きをひとつ箸で取り上げ

34

だが現在はどちらかというと統制機構の手に負えない凶きよ悪うあ犯くはんや行ゆく方えの知れないとう

亡ぼう犯など

にかけられた多額の賞金を得て日ひ銭ぜにを稼ぐ者のことを表している

それが全てというわけではないが多くはまともな

につけなかった荒あらくれが暴力手段で稼

げる口として選ぶ道だ

女の咎追いが珍めずらしいわけではないがこれほど無防

でき緊んち張よう感のない咎追いはラグナは見

たことがなかった

「そうニャス今日からなったニャス」

「今日からかよ」

「そんでこいつを摑まえるのネ」

なぜだか誇ほこらしげにタオカカは皺を伸ばした紙をラグナに差し出した

ラグナは肉団子を野菜と一いつ緒しよに口の中で嚙かみ砕くだきながらそれを受け取る街角などに貼はら

れているような指名手配書だったあまりお目にかかれない気前のいい賞金額と共にひどく

不細工な男の似顔絵が描えがかれている

賞金首の名前はラグナザブラッドエッジ

「ぶはほっ

その名前を見た途と端たんラグナは盛せい大だいに肉団子と野菜を咀そし嚼やくしたものを噴ふき出した

「ぶにゃにゃ

いきなりご飯噴き出すなんていい人ばっちいニャもったいないニャスよ」

横で抗こう議ぎしながら最後の肉饅頭を頰張るタオカカの声も耳に入らないラグナはまじまじ

第一章 Stratum city 階層都市37

「忘れないニャス」

突とつ然ぜんピンと尻尾を真まっ直すぐに立ててタオカカはずいと身を乗り出すとテーブルの上からラ

グナを見上げた瞳どう孔こうのない丸い目ときばを並べた三日月の口がお面のようで不気味だ不気味

であるはずなのにどうしてか見つめられると愛あい嬌きようを感じる

「カカは義ぎ理り堅がたい一族ニャス受けた恩は忘れないのネいつかタオが大金持ちになったら

今度はタオがいい人にご飯を

ってやるニャス」

「大金持ちってhelliphellipお前な腹減りで行き倒だおれてた奴やつがなに言ってんだアテもねえくせに」

「ぬっふふふアテならあるニャスよ」

言ってひょいと肉団子を三つ箸に刺さして口に放ほうるとタオカカは椅子までずりずりと体を下

げて服の中からなにかを取り出した

くしゃくしゃになった一枚の紙だタオカカはそれを丸い手でテーブルの上に広げて皺しわを伸の

ばす

「タオは咎とが追おいニャス悪い奴をとっちめてたくさんお金をもらうのネ」

「咎追いだ」

怪けげんそうにラグナは眉まゆを寄せた

咎追いとはいわば賞金稼かせぎだ

元は大量の魔ま素そによって生態系が乱れ大量の新種生物が発生した

にそれらを討とう伐ばつする

べく統制機構が武装を許可した者たちのことを指した

36

「うニャいいニャスよいい人はタオのおんじんニャスからねどーんと任せておくといい

ニャス」

そう言ってタオカカはニシシと笑うと綺き麗れいに舐めた皿をドンとテーブルに置いた

その目の前に

「お待たせしました〜」

若いウエイトレスが新しくいくつもの皿を並べた

肉味噌ののっためん

とパリパリに揚がった

にたっぷりの野菜が入ったあんをかけたもの

焼き豚ぶたをスライスしたものの盛り合わせエビのすり身やら豚のひき肉と香こう味み野菜やらをもっ

ちりとした皮でくるんだ無数の蒸し物

できたての遠えん慮りよ容よう赦しやのない湯気が豊かな香かおりと一緒に天てん井じようへ上がる

「helliphellipは」

頼たのんだ覚えはないそう抗議しようとして気がついた

あのときhelliphellipラグナが自分の手配書を見ていたときだあのときタオカカが一口で食べた肉

饅頭が皿に残っていた料理の最後だった

その直後そういえばタオカカがメニューへ手を伸ばしていたような気がする

「ひゃほ〜ぅうまそうニャス

秘密の抜け道は危ないところなのネいい人もお腹いっぱ

いにしておかないとお腹空いちゃうニャスよ〜」

悪びれるどころか嬉しそうに蒸し物を引き寄せるタオカカの手をラグナは思い切り摑んだ

第一章 Stratum city 階層都市39

と手にした手配書を見る細かく手が震えた

(なhelliphellipなんっだよこの似顔絵

いくらなんでも似てなさすぎだろ

そもそもよくわかっ

てねぇなら似顔絵なんか載のせんなよ俺がこういう顔だみたいに広めてんじゃねぇよ

まさかこれがカグツチの街中にベタベタ貼ってあるのではないだろうかだとしたら憂ゆう鬱うつだ

この顔が『ラグナザブラッドエッジ』の顔だと思われていることもだがこの額で手配

書が出回っているとなるとずいぶんな数の咎追いがラグナを探しているはずだそういう咎追

いはこのカグツチにも多くたむろしているだろう

(普ふ通つうに街中通ってくのはまずいかhelliphellip)

あの青と白の制服連中に見つかるのも厄やつ介かいだが咎追いに見つかるのも厄介だそれこそこ

っちの都合などお構いなしに街中だろうがどこだろうが構わず『仕事』に取り掛かるに

ない

「helliphellipなあタオカカだっけかお前カグツチの上のほうに行く抜ぬけ道とか知らねぇか」

くしゃくしゃの手配書を返しながらラグナは心持ち身を屈かがめて声を低めたもしあるなら

多少悪路であっても面めん倒どう事ごとを引き起こすよりはずっといい

タオカカは甘酢あんだけが残った肉団子の大皿を舐なめながら答える

「おう秘密の抜け道ネ知ってるニャスよ」

「本当か

そりゃいいなあ飯

ってやる代わりにその抜け道まで案内してくんねぇ

か」

38

の腕うでを摑むとウエイトレスの手を強く払った

荷物でも担かつぐようにタオカカを肩に抱だき上げて弾はじかれたように店を飛び出す

「うニャニャッ

タオのご飯

まだ食べてないニャスよ」

「うるせぇ

それどころじゃねえんだよ」

肩かた口ぐちで

痛な声をあげ追いすがるように手を伸のばすタオカカへラグナは焦あせりのままに声を

荒げた

オリエントタウンの大通りへ出ると人波を掻かき分けて持てるき脚やく力りよくの限界にいど

いで走る

「待て

誰だれか捕まえて食いに

げだよ

後方からウエイトレスの金切り声が追いかけてくる

ぎょっとすることにウエイトレスの足はラグナに負けていなかったしゆ

念うねんのせいかもしれな

いラ

グナは足を動かしながら何度も悪態をついたまさかカグツチにやってきて最初に引き起

こす騒そう動どうが食い

げだとはこの街に上がってきたときには思いもしなかった

担がれたタオカカはしょんぼりと尻しつ尾ぽを垂らしてまだ諦あきらめ切れないのか後方へ向けて空を

掻いていた

「うう〜っタオのご飯がぁhelliphellip」

「いいから抜け道の場所を教えろ

店の奴に摑まってミンチにされてぇのか」

「みんち」

第一章 Stratum city 階層都市41

いのあまり腰こしが浮く

「おおまっなに勝手に追加してんだよ

「ニャ

いい人もうお腹いっぱいニャス

ならタオが全部helliphellip」

「ちげぇよ

こんな山ほど注文されていくらなんでも払はらえるか

俺はそんなに金持って

ねぇんだよ

そもそもラグナは仕事を持っていない時折咎追いの真ま似ねごとや日ひ雇やといの仕事で旅費を稼い

だりもするがそんなものは一時しのぎだ金がなくてまともな宿さえ取れないというのに

さっきまでの注文に加えてまだ追加がくるなんてとても財さい布ふの中身が足りると思えない

息巻くラグナの肩に手を置く者があった

ラグナは一度うるせぇとそれを払い落すだが手はすぐにもう一度ラグナの肩を叩たたき手

の主が低く

後から問うた

「お客さん

今helliphellip金持ってないって」

「helliphellipあ」

言われラグナが振ふり向いた先に立っていたのはラグナよりずっと

の低いウエイトレス

だったにこやかに微笑ほほえんでいるがその目はどこか殺気じみている

「金持ってないって」

ウエイトレスはもう一度問う

その直後ラグナはまるで事態がわかっておらず蒸し物をパクパク口に運んでいたタオカカ

40

2199年12月30日||13時35分

灰色の雲に閉とざされた空を

景に一そう

の船が港に到とう着ちやくした

船といっても海を渡わたる船ではない渡るのは空だ

膨れた腹部に人間や機材といった貨物を詰つめて運び左右に伸びた翼つばさに魔素を取りこみ飛行

する魔操船

当然空飛ぶ魔操船が停てい泊はくする港も相応の造りをしている

第十三階層都市カグツチ第五番ポート他に比べて小さく目立たない造りになっている

そこはある特定の目的に多く使われるポートだった

身を寄せるように入港した暗色の魔操船の重々しい稼か働どう音おんが止まりハッチが開いて細身の

階段が下方へ伸びる

銃じゆうを肩かたに下げた青と白の制服

士が数名

りてきて慌あわただしく持ち場につき無線機で

なにやら報告を交かわす

それから遅れることしばしポートの平たい地面に向かう階段に黒い革かわぐつの足がかけられ

た続いてひょいと細身を覗のぞかせるように現れたのは黒いスーツに身を包んだ

の高い男だ

第一章 Stratum city 階層都市43

「肉だよ肉

さっき並んでた料理になりたくなきゃさっさと教えろ」

なにも本気で店員が自分たちをミンチにすると思って言ったわけではないが遅れて意味を

理解したタオカカは真に受けたらしいびくりと尻尾が飛び上がって警けい戒かいするように太く膨ふく

れる

「お肉にされたらお肉が食べられなくなっちゃうニャス

それはいやニャス」

肩の上で器用に身を捻ひねってラグナの前に着地するとタオカカは獣けもののように両手を地面につ

いて走り出す

「いい人こっちニャス」

「よしわかった」

タオカカが飛び込むようにして細い路地に入るい一つしゆん反応が遅おくれたもののラグナも空の籠かご

をひっくり返しながらそれに続いた

ネオンの看板から遠くなりぐっと辺りが薄うす暗ぐらくなる

走りながらラグナはげんなりと自じちようするように思った

今日の食い

げの分明日から自分にかけられている賞金が増額するかもしれないなhelliphellipと

42

青のブーツで雨水を

ね上げながらハザマのいる管理小屋の前まで行くと軽く息を整えて

を正す

空色の瞳ひとみは凜りんとしており生き真ま面じ目めな表情をしていた

「お待たせしてしまってすみませんでも一声かけてくださればよろしかったのにhelliphellipまだ

中にいらっしゃるのかと思って探しておりました」

「おやおやそれはそれはお手数をおかけしましたツバキヤヨイ少しよ尉うい」

その瞳が示す通りどこまでも生真面目に話す女性をツバキと呼んでハザマは口の端はしを深く

吊つり上げ笑えみを浮うかべた

ツバキヤヨイ少尉彼女はハザマのように諜報部の所属ではなく世界虚空情報統制機構

武装魔ま術じゆ師つし第四師団の所属だった

世界虚空情報統制機構とは国家というがい

念ねんのなくなった現世界においてその代役を担になう重

大にして巨きよ大だいな機

だ帝みかどと呼ばれる絶対的な決定権を持つ存在を頂点に掲かかげ世界中の施し政せい

司法軍事あらゆる社会的基き盤ばんを管理し運営している

それだけに設けられている部署は膨ぼう大だいであり役割の異なる部署が共にひとつの任務に当た

ることはひん

繁ぱんにあることではない

だがツバキとハザマはちが

う部署でありながらとある任務のためにふたりでカグツチへとや

ってきていた

「いやぁしかし生あい憎にくの天気ですねぇこの雨の中広いカグツチでひとりの男を捜そう索さくすると

第一章 Stratum city 階層都市45

った

緑の髪かみにのせた黒い帽ぼう子しを指で押さえて男は尖とがった顎あごを上向かせ空を仰あおぐ目ま深ぶかにかぶっ

た帽子のせいで目元は見えないが薄うすいく唇ちびるは不満そうにへの字に歪ゆがんでいた

「あらま雨ですか」

空一面を埋うめ尽つくすように広がる灰色の雲からは静かな雨が

っていた

もうずいぶん前から

り続いていたようで狭せまい五番ポートはどこもかしこもすっかり濡ぬれ

ている雲に動きもないようだししばらくはこのまま

り続けるだろう

やれやれとうんざりしたようにため息をつくと男は足早に屋根のある場所へと移動した

黒スーツの男は世界虚こ空くう情報統制機構||多くは統制機構とり略やく称しようで呼ぶ機

のち諜よう報ほう部に

在ざい籍せきしている名はハザマ階級は大たい尉い

彼が乗ってきたこの魔操船はその諜報部の名前で使用された船だ

この五番ポートはそういう統制機構の中でも公おおやけにできない任務や用件のときに多く利用さ

れるいわば人目を避さけるためのポートだった

「ハザマ大尉

外にいらしたのですね」

魔操船の階段から女の声がかかりスーツについた水すい滴てきを払っていたハザマは顔を上げた

青と白の制服にそろいのポンチョを羽織った若い女性が足早に階段を駆け下りてきた青の

ベレー帽ぼうをかぶっておりそこから腰をも越こすほど長く伸のばされた鮮やかなカメリアレッド

の髪が流れている

44

視線を上げればここからでも高山の頂上から突つき出るようにそびえる美しく壮そう麗れいな支部の

が見られたただ今日は悪天候のため雨のカーテンが視界を煙けむらせる

霞かすむ支部を見上げてツバキはわずかに眉まゆを寄せた

「helliphellipなぜキサラギ少佐はカグツチなどに」

それはジンのことを知る者なら誰もが抱くような疑問だった

第四師団団長ジンキサラギは

常に冷静な人物だメリットとデメリットを十分分ぶん析せきした

上で行動する思し慮りよ深ぶかさを持っているしなにより突然統制機構に

を向けて己の立場を危あやうく

させるような愚ぐち直よくなタイプではない

こんなことは実に『彼らしくない』行いだ

思い悩なやむようなツバキの

にハザマは少し驚おどろいたように「おや」と言った

「これは意外ですねツバキヤヨイ嬢じよう貴女あなた

ほどの聡そう明めいで優ゆう秀しゆうな方がおわかりにならな

い」

口元に笑みを刻んで問うハザマの試ためすような口調にツバキは小さく胸中がざわつくのを感

じたいや

味みな言い方をする男だ

ツバキはハザマという男をよくは知らないだから彼がどういうつもりでこういった物言い

をするのか

しもつかない

だがこの一言だけで黒いスーツに身を包んだ彼を好ましくないと判断する程度には気に障さわ

る語調だった

第一章 Stratum city 階層都市47

なると中々骨が折れそうです」

また帽子に手をやって雨を

りこぼす曇どん天てんを見上げハザマが今度はどこか愉ゆ快かいそうに言う

彼らの任務は人探しだった誰を探すのかといえば

「それでもなんとしてもキサラギ少しよ佐うさを探しませんとhelliphellip」

ツバキは視線を足元に落とし己おのれに言い

かせるように呟つぶやく

ジンキサラギ少佐それがツバキとハザマが探している男の名前だった

武装魔術師第四師団の団長でありツバキにとっては直属の上司だ彼の秘書官として側そばに

仕え支えてきた

その彼が数日前突とつ然ぜん統制機構の本部から

を消した

任務でもなく届け出もないこれは統制機構において重大な規律い反はんだ

一師団を預かる団長が独断行こう為いにより行ゆく方え不明などという事態は前代未みもんだ部下や他師

団に影えい響きようを与あたえるからと今のところこの一件は公になっていない

だが現状がどこからか漏えいする可能性もあるその前になんとしても連れ戻もどさなければと

ごく秘ひ任務を命じられたのがハザマであり彼が協力者に選んだのがジンキサラギの秘書官で

あるツバキだった

冷たい雨が空気を冷やすそのせいだろうか五番ポートは金属のにおいがたちこめていた

濡れた灰色の階段の向こうに上層階らしい整理された街並みがうかがえる奥へ進んでいくつか

階層を上がれば最上層である世界虚空情報統制機構カグツチ支部だ

46

だがハザマは欠片かけら

も気にした様子なくむしろそれこそ子供の反はん抗こう的な物言いに噴ふき出すよ

うに軽く笑った

「あららそっちでしたかこれは失礼いたしましたツバキヤヨイ少尉」

帽子に手をやりわずかに持ち上げて会えし釈やくしてみせるその間もずっと彼の細い首はくつく

つと喉のどを鳴らすような笑いに震ふるえていた

「少佐がなにをお考えなのかなんて我々にわかるはずもありませんよそれこそご本人を見

つけて直接お尋たずねになってはいかがです」

そうできないから疑問なのだと苦く胸中で思ったもののツバキは余計な言葉を奥にしまい

こんだ今必要なのは疑問でも感情でもないそう自分に言い

かせる

「helliphellip了りよ解うかいしました大尉」

ツバキが生き真ま面じ目めに答えるとハザマはもうひとつ笑ってから切り出した

「さていつまでもおしゃべりしていても仕方ありませんしそろそろお仕事を始めるとし

ますか」

仕事つまりはジンキサラギの捜索だ

ツバキはハザマへのけん

悪お感ではなく任務への使命感に表情を引き締しめる

ハザマは雨に濡れたカグツチの街並みを見やりながらにんまりと唇を引いて言葉を続けた

「まず確かく認にんしておきましょう我々の任務はジンキサラギ少佐を捕ほ獲かくし本部へ強制帰き還かんさ

せることただし少佐の失踪の件は公にされていませんからカグツチの

士たちへは内密に

第一章 Stratum city 階層都市49

小波のような不快感を飲み込んでツバキは

士の顔を取り繕つくろいせ筋すじを伸ばすたとえ好ま

しくなくてもツバキは少尉でハザマは大尉上官だ

「申し訳ありません大尉私にはhelliphellip」

「貴女からの報告にあったではありませんかキサラギ少佐は例の『死神』に

する報告を受

けた翌日に

を消したのだと」

ハザマは両手を軽く広げてみせる

さっきのからかうような物言いのせいだろうかそんな仕草でさえツバキにはどこか

に映る

「報告の中には『死神』つまり指名手配中のラグナザブラッドエッジがカグツチに向か

っているらしいという情報もあったそのうえで少佐がカグツチに向かったのならそれはも

う『死神』を追っての行動だとしか考えられないでしょう」

統制機構を出たジンの行き先がカグツチであるとの情報を持ってきたのはハザマだった

うっかりそんな情報を摑つかんでしまったがためにこんな辺へん鄙ぴな場所への任務を命じられてしま

ったと愚ぐ痴ちめいたことをツバキは魔操船の中で散々

かされていた

「恐おそれながらハザマ大尉それは私にもわかります私が疑問なのはなぜ少佐が統制機構を

飛び出してまで『死神』を追わなければならなかったかです」

いささかむっとしてツバキは言う言ってからすぐ無礼が過ぎたかと危きぐが過よぎった

にあるまじき子供じみた態度だったかもしれない

48

てもらえますか」

「別件ですか」

戸と惑まどうように尋ねたツバキの質問に対しハザマは肩をすくめるような苦くし笑ようだけを返し具

体的な言葉は告げなかった

ハザマの所属は諜報部だ他部署へ言えぬ用事も多かろう見えない目的に少々の怪けげん

さを

感じながらもツバキは配はい慮りよのつもりでそれ以上尋ねるのをやめておいた

「わかりましたでは下層のhelliphellipオリエントタウンの辺りから調査してみます」

「そうですねあそこはカグツチでも一番広いエリアですし身を隠かくすにはうってつけですか

らいいと思いますよ」

うんうんと適当に頷うなずきながらハザマは一歩歩み寄るとわざわざ腰こしを折って下方から覗のぞき込

むようにツバキを見た

帽子のつばで瞳が見えないけれど絡からみつくような視線が確かにこちらを捉とらえているのがわ

かる

子供に言い

かせでもするようにハザマは人差し指を一本立てた

「ただひとつ気を付けてくださいね治安が行き届いていない場所はキサラギ少佐が身を隠

している可能性も高いですが同時にラグナザブラッドエッジがうろついている可能性も

あります万が一おふたりが鉢はち合あわせて戦せん闘とうなんてことになったらもう私たちには手も足も

出せませんから」

第一章 Stratum city 階層都市51

お願いしますよ部外者はもってのほかです」

「はい」

「それから現在カグツチにはラグナザブラッドエッジが潜せん伏ぷくしているとみられますそ

のためD警報が発令されていますのでそのつもりで」

D警報とはつまり統制機構による特別警けい戒かいが行われているという意味だそのためカグツ

チの住民でない者や統制機構とは

係のない他機

がこの都市でなにがしかの活動を行うこ

とを禁止している

「D警報に抵てい触しよくする者と接触した場合はカグツチの支部に連れん絡らくを取ればよろしいのでしょう

かそれともこちらで対処したほうが」

しゃんと

筋を伸ばしハザマを見み据すえて問うツバキの様はどこにでもいる一

士と片付け

るにはいささか毅き然ぜんとしすぎる品をたたえていた

それもそのはずだ彼女は統制機構を創設当初から支え幾いく人にんも重役をはい出しゆつしてきた十二宗家

のひとつヤヨイ家本家の娘むすめなのだから

だがハザマはツバキの纏まとう品もそこからくるどこまでも真面目な性しよ分うぶんもなにもかもが面めん

倒どうくさいと言わんばかりに口元を歪めると実に雑に答えた

「あー適当でいいですよお任せします」

「はhelliphellipはい」

「じゃあ私はちょっと支部に別件の用事があるんで先に下層のほうから捜索を始めておい

50

ハザマの気さくさに引きずられることなくツバキはあくまで部下として返事をすると堅かた

苦くるしく

筋を正した

「それでは大たい尉い私は下層を見て回ってきます」

「ええよろしくお願いしますよ今のカグツチは物ぶつ騒そうですからお気をつけて」

「はい失礼いたします」

腰を折って一礼しツバキは管理小屋の狭せまい軒のき先さきから雨の中へと駆かけ出した小さく水音を

はねさせながらポートから街中へと向かう階段を上がっていく

腰までを覆おおう青いポンチョがカメリアレッドの髪かみと共に躍おどり去っていくのをハザマは管理

小屋の壁かべに寄りかかって見送っていた

やがてひ翻るがえるポンチョの青もツバキが

ね上げる水の音も完全に雨の向こうに消えるとゆっ

くりと身を起こす

「本当にお気をつけて」

低く声を喉のど元もとで濁にごらせるように呟くとハザマもまた雨の中へと悠ゆうゆ々うと踏ふみ出した

第一章 Stratum city 階層都市53

「そうhelliphellipですね」

ツバキは身を引くように俯うつむいて苦々しく答えた

ジンは統制機構でも並ぶ者なしとまで言われる剣けんの使い手だそのうえ約百年前の黒き獣けものと

の戦争『暗黒大戦』で使われたとされている事象兵器

アークエネミー氷ひよ剣うけんユキアネサを所持している

そして『死神』ラグナザブラッドエッジはこれまで数々の統制機構支部をたったひとり

で壊かい滅めつさせてきた相応の力を持った人物

このふたりがもしも刃やいばを交えることになればツバキにもハザマにも止めることはできない

その最大の理由をハザマがなぜか陽気に言い放つ

「いやはやなにせ私も貴女も戦闘は専門外いざ荒あら事ごととなったらからきしですからねぇ」

ツバキは統制機構の士官学校を出ているため最低限の戦闘訓練は経験しているだがそれ

も護身術程度のことだ卒業後はジンの秘書官として日々書類や来客の相手ばかりしてきた

そんな状態で戦闘技術の向上が見込めるわけもない

一方のハザマも自身で言う通りち諜よう報ほう活動にこそスキルはあれど武力をもって事態に当たる

ことは不得手だった

ハザマは武具の似合わない生白い手でひらりと宙を払はらってにんまりとく唇ちびるを引く

「まお互たがい無理せずいきましょう我々のお仕事はキサラギ少佐を連れ帰ることですから

そこをお忘れなく」

「承知いたしました」

52

の声だった

「しhelliphellip失礼いたします」

答える声が震えたドアノブを摑む手はもっと震えていた

転んだりしたらどうしようああどんな顔をしていたらいいだろう顔が赤くなってしま

いそうでそれだけは必死に堪こらえて平静を取り繕って

ツバキは部屋の中へと入る

最初に目に入ったのは机に向かってペンを走らせるひとりの男性の

だった

後にある窓から入り込んだ日の光が掠かすめて彼の美しい金色の髪を煌きらめかせていた長い

睫まつ毛げの向こうで情感薄うすく書面を見下ろしている瞳ひとみは離はなれた部屋の入り口からでもわかる澄す

んだ緑色をしているはずだ

部屋には彼以外誰だれもいなかった

を丁てい寧ねいに閉めると室内にはツバキとふたりきりだ

何事か書き終わったらしく机に向かっていた彼はどこかおっくうそうに顔を上げるそれ

からその目を驚おどろきに見開いた

「ツバキhelliphellip」

呼んでくれた声は

の外で

いた義務的な声とはちが

っていた

感情の温度が灯ともった声こわ色いろは表情と同じように驚いた風でそのせいかさっきより少しだけ上うわ

ずったように音が高い

「どうしてお前がここにhelliphellip」

第一章 Stratum city 階層都市55

helliphellipそれはほんの数年前のけれどかけがえのない数年をさ遡かのぼった

ある日のことだった

世界虚こ空くう情報統制機構統合本部

真まっ直すぐに伸のびる白タイルの床ゆかをツバキは緊きん張ちようの面おも持もちで歩いていた

初めて袖そでを通してまだ日数のたっていない青と白の統制機構

士の制服はまだ体に馴な染じんだ

とは言いがたくて頭に載のせたつばのない帽ぼう子しもコツコツと床を叩たたくブーツもそつなく着

られているか心配で仕方ない

胸に書類のファイルを抱えてこれで何度目になるかわからないけれど最後にもう一度長く

伸ばした髪を指先で整えて

それからツバキは目的地であったとびらを控ひかえ目にノックした

「||入れ」

一いつ拍ぱくの間をおいて

の向こうから声が返ってくる

そのしゆ間んかんツバキの心臓がドキリと大きく

ねた

感情の遠い義務的な声けれどわずかに少年らしい響ひびきの残った声はツバキがよく知る人

54

十二宗家本家の出の者が同様に宗家本家の出であるジンの秘書に着くという事例は稀まれだ

その辺りからツバキの無茶を

したのだろうジンは呆あきれたように苦笑する

思わずツバキは震ふるえる吐と息いきを漏もらした久しぶりに見たジンの笑顔だった

「秘書が来るとは

いていたがまさかお前だったとはなhelliphellipよろしくツバキヤヨイ少

尉」そ

う言ってジンは白い手てぶ袋くろをはめた手を差し出す

ツバキはファイルを小こ脇わきに抱えると見上げてくる綺き麗れいな緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し

ながら差し出された手を握にぎった

この日この時からツバキの師団長秘書としての日々が始まった

を追いかけるばかりだった士官学校での後こうはい時代とは

うとなりに

側そばに立ち

務を支える

時間が始まったのだった

2199年12月30日||17時30分

カグツチの下層へ

りていきながらツバキは注意深く周囲へ視線を向けていた

もう少し先へ行けばオリエントタウンと呼ばれるエリアに入るはずだそこはカグツチの中

第一章 Stratum city 階層都市57

仕事中らしからぬ砕くだけた物もの腰ごしにツバキは強こわ張ばっていた頰ほおを緩ゆるめたすとんと緊張が抜ぬける

「書類は届いているはずですよお読みになっていないんですか」

ツバキはファイルを抱えて机の前まで行くといぶかしげな彼へ敬礼し

筋を伸ばした

「本日付けで武装魔ま術じゆ師つし第四師団団長ジンキサラギ少しよ佐うさの秘書官に任命されましたツバ

キヤヨイ少しよ尉ういであります少佐よろしくお願いいたします」

型通りだけれど昨晩から部屋で何度も練習した言葉だ

ミスなく言えたことにツバキがほっとしているとジンが驚おどろきに持ち上げていた眉まゆをわずか

に怪けげんそうに寄せた

「少しよ尉うい」

問われた理由はツバキにもよくわかる

ツバキは世界虚こ空くう情報統制機構において貴族的地位にある十二宗家の生まれだ十二宗家の

者は統制機構の士官学校卒業後最低でも中ちゆ尉ういの階級を与あたえられる

ツバキも例外ではなく卒業直後は中尉であったそれがなぜ現在少尉なのかというと

重大な理由がある

「それはその」

ツバキは言いにくそうに口ごもった

本来別の配属だったところをどうしてもジンの秘書官になりたいと粘ねばりその要望を通す代

わりに

格となったとは彼の前ではとても言えない

56

かしこも濡れていた

通り過ぎる建物細い横道の向こう物もの陰かげすれ

う人ツバキは視界に映るすべてに神経

を向ける

自然と歩調が速くなるのは募つのる焦あせりゆえだ知らず知らずのうちに手はきつく握られていた

(キサラギ少佐helliphellip)

もう何度心の内で呼びかけたかわからない

唇を固く引き結びまるで縋すがるように視線を左右へ走らせるその表情はただ行方ゆくえ

不明の上

官を探しているだけには留とどまらない深い感情の揺ゆれがあった

(どこにいるんですかhelliphellipジン兄様helliphellip)

ツバキはジンキサラギの秘書官だだがそれ以前からジンはツバキにとって特別な人だ

った

ツバキが十二宗家ヤヨイ家の娘むすめであるならジンは同じく十二宗家キサラギ家の子だ互い

に幼いころから知っていた幼いころから顔を合わせ言葉を交かわし時には子供らしく遊ん

だりもした

ツバキが統制機構の

士を目指して士官学校に入ったのも先に入学し将来は師団長を期待

されていたジンの後を追いかけたかったからだ

ジンは勉強も武術もなんでもできたけれどツバキは運動が苦手だっただからせめて勉強

だけは追いつこうと必死に学んだ学生時代はジンが会長を務める生徒会で共に働いたことも

第一章 Stratum city 階層都市59

でも一ひときわ広く人口の密集したエリアだと

いている

人を探すには不向きな場所だだがだからこそジンが足を向けた可能性はあるとツバキは

考えていた

そこならば容易に人ごみに紛まぎれることができるし入り組んだ路地や階層都市の構造のすき間ま

に身を隠すこともできるなにより下層は統制機構の

士が少なく上層に比べて監かん視しの目が

緩い

統制機構が追手をかけることはジンも十分わかっているだろうならばその目を避さけるのは

当然のことだ

同時に同じように追われる身であるラグナザブラッドエッジが下層を潜せん伏ぷく場所に選ぶ

可能性もジンならば考えたはずだ

硬かたい地面に青いブーツのくつ音おとを響かせてツバキは足早に歩く鮮あざやかな色の髪がしっとり

と雨に濡ぬれる

短い階段を

りるとその先はオリエントタウンの街外れだった

使われているのかいないのかわからない寂さびれた雰ふん囲い気きの倉庫が並びその先にわずかに芝しば生ふ

の植えられた広場のようなものがあるぽつんと佇たたずむ外灯は所々に錆さびの染しみがこびりついてい

た下

層は上層の地盤があるためほとんどが空をさえぎられ屋外でありながら屋内であるかのよう

に天候の影響を受けにくいだがこの辺りはまだ他層より突つき出しているらしく雨でどこも

58

けれど『死神』を統制機構の他

士と同じように考えるのは危険だ

彼は単身で統制機構を相手に反逆行こう為いを繰くり返かえしこれまでただの一度も拘こう束そくされることな

くとう

亡ぼうを続けている並なみ大たい抵ていの力では不可能だということを彼を追うべき立場でもあるツバ

キはよく理解していた

ラグナはおそらくとても強いもしかしたらジン以上に

それになにより恐おそれるべきはそのき凶よう悪あく犯が持つ魔ま導どう書しよだ

||蒼の魔道書

ブレイブルー

かつて黒き獣けものと戦った暗黒大戦時代にある魔ま法ほう使つかいによって術式という技術が開発された

魔法を模したもので魔素を使い火を熾おこしたり水を呼んだりと様々な現象を引き起こすことが

できる技術だ

その術式を扱あつかうために必要な鍵かぎが魔道書だった

蒼の魔道書

ブレイブルー

は世界中に数え切れないほど存在している魔道書の中でも最強と囁かれている

(ジン兄様でも蒼の魔道書

ブレイブルー

を相手にして無傷でいられるはずがない下手をしたらhelliphellip)

そこまで考えてツバキは走った悪お寒かんに身を震ふるわせた

蒼の魔道書

ブレイブルー

は最強とその威いり力よくを絶大に評価されながらも詳くわしいことは知られていないとい

う奇きみ妙ような魔道書でもあった

そもそも魔道書は〞書〝でありながら形状は様々で本の形をしているとは限らない

ラグナザブラッドエッジの蒼の魔道書

ブレイブルー

も彼が持っているという事実は認にん識しきされている

第一章 Stratum city 階層都市61

あった

淡たん白ぱくな物言いをしたり鋭えい利りな目つきをすることがあったから周囲は時折彼のことを冷たい

人だと囁ささやいた

けれどツバキにとってはいついかなるときも彼は優やさしい兄だった

細く美しい金色の髪に涼すずしげな緑色の瞳すらりとした体たい軀くに白い肌はだ整った顔立ちそ

の聡そう明めいな横顔に時々本当に時々だけれどhelliphellip見み惚とれたりもした

頼れるツテというツテを頼ってどうにかジンの秘書官の座を手にしたときはどれほど嬉うれし

かったことか

慕したっていた憧あこがれていた屋や敷しきの奥でひとり毬まりつきをしていた幼子のころから今でもずっ

「ジン兄様helliphellipっ」

急ぎ足だった歩調はいつしか小走りに変わっていた爪つま先さきが小さな水たまりを踏んで水すい滴てきを

ね上げる

一刻も早く見つけ出したかった心臓が軋きしむように胸を打つ

ツバキの頭に浮うかぶ最悪のケースはやはりどこかでジンと『死神』ラグナザブラッド

エッジが遭そう遇ぐうしてしまうということだった

ジンは強い統制機構の中でも彼とまともに剣けんを交えることができるのは数えるほどしか

いないだろう

60

ぎゅっと一ひときわきつくこぶしを

胸むな元もとで握るとツバキは首をふって雑念を払はらった

余計なことを推測している場合ではない今は一刻も早くジンを探すことそれだけを考え

なければ万が一今回の行動のせいでジンが反逆者とみなされたりしたら取り返しがつか

ない

急ごう自分をしつ

咤たするように大きく足を踏ふみ出してなにやら小さく物音の

こえた広場

の裏手へ回ってみる

物置だろうかふたつ並んだ小屋の裏を通り抜けようと狭せまい角を曲がった

その途と端たん目の前に壁かべが現れた

「きゃっ

あまりに突とつ然ぜんのことでとても対処できずツバキは進入した

いそのままに壁に激げき突とつした

だが直後に気付く

壁というにはあまりに分厚く建材にしては感かん触しよくがやわ

らかい

「むhelliphellip」

壁の向こうから声がした腹に響ひびくような低い男の声だ

ツバキの目の前にそびえるそれは壁などではなく見上げるほど巨きよ大だいな男の

中だった

「ああすまなかった怪け我がはないか」

そびえる巨きよ軀くはその異様なまでの圧あつ迫ぱく感に似合わぬ紳しん士し的な物もの腰ごしで語りかけのそりと重く

振ふり返る

第一章 Stratum city 階層都市63

もののそれがどんな形状をしているのかはわかっていない

それどころかいつどこで蒼の魔道書

ブレイブルーが造られその秘ひめたる力はどんなものなのか世界

虚空情報統制機構のち諜よう報ほう部ですら正確には把は握あくしていないという

ただでさえ強い『死神』であるのにそのうえ正体のわからない魔道書まであってどう楽

観視できるというのか単身でいどみかかるなど無茶にもほどがある

(helliphellipジン兄様はラグナザブラッドエッジを捕つかまえるためにひとりでカグツチまで来た

のかしら)

物もの影かげに目を凝こらしながらツバキは独り言のように思った

たとえ独断行動によって強制帰き還かん命令が下されているとしてもジンは統制機構の

士であ

り師団長だ『死神』を追って統制機構を飛び出したのだとしたらその目的は凶悪犯の捕ほ縛ばく

以外に

えられないとツバキは思っていた

けれど本当にそうなのだろうかふとそんな疑念が過よぎる

(でもだってそれならどうして誰にも言わないで出ていく必要があったっていうの私に

もなにも言わないで)

なによりそのことが胸に突き刺ささる

ジンは心根の読めない人だけれどそれでもなにかあったときはいつだって一声かけてくれ

たのに

「ううん理由はジン兄様を見つけてから直接

けばいいことよ」

62

者も多いそのほとんどはべつ

称しようとしての呼称だ

赤鬼と呼ばれた巨きよ漢かんがどんなつもりでその

称を使ったのかはツバキには読めないけれど

好感情でないことは見るからに明らかだった

テイガーは身構えることこそしなかったものの眉み間けんに深い皺しわを刻み厳いかめしい渋じゆ面うめんでツバ

キを見み据すえる

「helliphellipすまん図書館の

士と接せつ触しよくした」

ツバキから視線を逸そらし耳元へ大きな手をやってテイガーが低く何者かへ告げる直後に

ノイズのような音が走った通信だ

「通信を切ってくださいそこを動かないで」

素す早ばやくツバキは護身用に支給されているけん

銃じゆうを腰こしから抜ぬいたしっかりと両手で握にぎり銃口

を赤鬼へ向ける

テイガーはわずかに首を動かしてツバキを見やったもっとも分厚いレンズの丸眼鏡ごし

では奥の眼まな差ざしまではうかがえない

見下ろす威い圧あつ感に気け圧おされそうになりながらもツバキは努めて厳しく赤鬼を睨にらみ据すえた

「現在第十三階層都市カグツチにはD警報が発令されています第七機

を含ふくめ全すべての他機

の介かい入にゆうは禁止です答えなさいここで一体なにをしていたのですか」

「やれやれ銃を下ろせ

士の少女そんな玩おも具ちやのようなものでは私のボディを傷つけるこ

とすらできんぞ」

第一章 Stratum city 階層都市65

異様なのはなにも体の大きさだけではなかった

人の肌にしては赤みの強すぎる肌の色ただでさえ屈くつ強きような太い腕うでに取りつけられたぎ仰ようぎ々ようしい

手て枷かせのようなパーツ引き締しめられたく唇ちびるから上向きに伸のびる白いきば

鬼おに

約百年前に滅ほろびた日本という国の昔話にそんな怪かい物ぶつが登場したはずだツバキは幼いころに

読んだ絵本を思い出す

それと同時に目の前にいる赤い巨きよ人じんが誰だれなのかを思い出した

「貴方あなたhelliphellip第七機

の赤あか鬼おに」

呼ぶと同時にツバキは数歩下がって身構えた

第七機

術式を主体とした統制機構の世界統治に異を唱え術式に頼たよらない世界を作ろう

と企くわだてている外部機

赤鬼はその第七機

に所属する兵士でありその巨軀からも想像できるように圧あつ倒とう的てきな制圧

力を誇ほこる

正式名めい称しようはTR0009アイアンテイガー

第七機

の研究者によって造られたサイボーグだ

向こうもこちらの

に気付いたようでツバキの胴どう回りよりも太そうな足を一歩引いた

「その制服図書館か」

術式の乱用を防ぐために世界中の魔道書を集め管理していることから統制機構をそう呼ぶ

64

きません」

まるでなだめるように語りかけるテイガーの語調が余計にツバキの態度を頑かたくなにさせる

ここで弱よわ腰ごしを見せればそれは統制機構そのものが第七機

に対して弱腰になったとみなさ

れるようなそんな気がしていたそんなことは許されない

世界の秩ちつ序じよを守る統制機構の

士が平和のために戦う武装魔ま術じゆ師つし第四師団の団長秘書が

規律を犯おかした第七機

の兵士と取り引きめいたことをするなんて

銃を構え巨体の赤鬼を見据えたままツバキは手の中に握りこめる小さな通信機を取り

出した

ひとりでは対処しきれない早急に応おう援えんを呼ぶ必要があった

「武装魔術師第四師団所属ツバキヤヨイ少しよ尉ういです現在カグツチ下層オリエントタウンで第

七機

のhelliphellip」

「参ったなできれば穏おん便びんに済ませたかったのだが」

赤鬼が低くなにごとか呟つぶやく

その言葉の意味をツバキが理解するより早くテイガーが大きく前に踏み出した

伸ばされた腕がまたたく

間にツバキに迫せまる軽く握られていた

がツバキの目の前で開かれるや

否いなや

「きゃぁっhelliphellip」

放たれた電でん撃げきが通信機を弾はじき飛ばしツバキに細い

鳴を上げさせた

第一章 Stratum city 階層都市67

「っそんなことは

いていません質問に答えてください」

呆あきれたようなテイガーの物言いに咄とつ嗟さに腕を引き戻もどしそうになったがそれを堪こらえてツバキ

は銃口と眼光を向け続ける

相手はサイボーグだ戦いになったらもちろん勝ち目はないがそれ以上ににげられたらと

ても追いつけない

自分の任務はジンキサラギの捜そう索さくだと重々承しよ知うちしているだが周囲には他に統制機構の

士の

はないここで見みのがせば彼ら第七機

がカグツチと統制機構にどんな混乱をもたら

すかわからないと

えるととても目をつぶることなどできなかった

ザザッと再びノイズが走る

「ああ大だい丈じよ夫うぶだ問題ないすぐに任務に戻る」

通信の相手の声はツバキには

こえないただそれに答えるテイガーの声はあまりに危機感

から遠くすでにツバキとの問題は解決したとでも言うかのようだ

侮ぶじ辱よくされたような思いに駆かられてツバキは鋭するどく声を尖とがらせる

「通信を切りなさい

勝手な行動は許しません」

「そういきり立つな我々はなにも統制機構の業務を妨ぼう害がいするためにカグツチに来たわけでは

ないどうだここはお互たがいかかわらなかったことにしないかこのまま行ってくれれば私は

お前に危害を加えなくてすむ」

「それは反逆の意志ありということですか

どんな目的にせよこの場を見

すわけにはい

66

2199年12月30日||18時00分

幾いくつの路地を抜け幾つの角を曲がっただろう

人のような

をしながら人にあるまじき動きで先導するタオカカがラグナを連れてやってき

たのは外の明かりも差し込まぬ暗い暗い下水道だった

「こっちニャスよいい人〜」

呼びかけタオカカは投とう棄きされたらしい瓦が礫れきやら壊こわれた家具やらの山をひょいとと

び越こえた

外から隔かく離りされた場である上に時間も遅おそいたとえ微かすかなすき

間まがあってもわずかな光さえ

望めない

それなのにラグナやタオカカが問題なく歩けているのは投棄された瓦礫や積み上がったヘ

ドロにこびりついて生えている奇きみ妙ような苔こけのおかげだった

それらがほのかに青緑色の光を帯びているせいで下水道は一寸先も見通せない暗くら闇やみに閉とざ

されずにすんでいる

タオカカを追いかけて粗そ悪あくな足場に多少もたつきながらもラグナが続く

「おい本当にここから上に出られるんだろうな」

第一章 Stratum city 階層都市69

その一撃だけでツバキの意識は遠のいたかくりと膝ひざが折れ力なく崩くずれ落ちる

「っとhelliphellip」

そのたおやかな体が硬かたい地面に倒たおれ伏ふす前についさっきまで電撃を纏まとっていたテイガーの

腕が受け止める

そのまま抱かかえ上げると力なく気を失った青と白の制服の少女を見下ろしテイガーはため息

をついた

「やはりひ戦せん闘とう要員か無茶をする」

『helliphellip言っておくが

わるなよ』

ノイズが走りテイガーの通信機から不ふ愉ゆ快かいそうな女の声が漏もれた

ツバキを抱えたままテイガーは空いていたもう一方の手を耳元にやる上向きの

のよう

な犬歯が突つき出た口元はツバキと対たい峙じしていた先さき程ほどよりもさらに苦々しく歪ゆがんでいた

「雨の中でこんな街外れに放ほうり出すわけにもいかないだろうまだ若い娘むすめだ」

『任務が最優先だ余計な時間はない』

「helliphellip少しの間通信を切るぞココノエ」

『なんだと

おい勝手な真ま似ねはhelliphellip』

装着している本人以外には

こえないであろう小さな音をたてて通信は途と切ぎれた

テイガーは雨

る広場に

を向けて歩き出したその足が向かう先には空を上層の市街に

さえぎられ提ちよ灯うちんの明かりとネオンが煌きらめく薄うす暗ぐらい街オリエントタウンが広がっていた

68

「ニャス」

「かっぱらいじゃねぇか」

張り上げたラグナの声はくわんと寒々しく下水道に響ひびいた

その反はん響きようが

まると今度はまたじめっとした静けさがやってくるどこからか滴したたり落ちて

床では

ねる水の音がいちいち不気味だった

色いろ濃こい影かげの向こうで得体の知れないものが蠢うごめいてこちらを覗のぞきこんでいるような錯さつ覚かくを抱

くぞ

っと走った悪お寒かんにラグナはぶるりと身み震ぶるいし先を行くタオカカの後を追う

がhelliphellipラグナは不意に顔をしかめると足を止めた

(錯覚じゃねえ誰かがこっちを見ていやがる)

淡あわく光る苔が刻んだ色濃い影の奥歪いびつな瓦礫の山のどこか

視線を感じる

いや視線だなんて生易しいものではないもっと根本的なもの存在や意志そのものとい

ったものがこちらを一心不乱に捉とらえているようだ

「いい人〜

どしたニャス」

ラグナがついてこないのを不思議に思ってタオカカが引き返してくる積み上げられたな

にかの残ざん骸がいを軽かろやかに

び越え着地するその小さな足音がきっかけになったのだろうか

「キキキキキキキキキキキキ」

第一章 Stratum city 階層都市71

瓦礫の山から飛び

りた先がオイルかなにかでぬめるラグナは反射的に顔をしかめて三

角耳がぴくつく白いフードの後頭部へ少々の苛いら立だちを込めて問うた

抜け道とは往々にして楽な道ではないとラグナはこれまでの経験で学んでいただがここ

は今まで通って来た『抜け道』と比べても相当な悪路だ

濡ぬれているわけでもないのに床ゆかの壁も天てん井じようもじっとりとしていていやな湿しつ気けが外から入り

込んでいるらしい濃こい魔ま素そと混ざって肌はだと肺にこれでもかと不快感をくれる

一段

りたところには廃はい棄き物ぶつと一体化した汚お水すいが吐はき気けをもよおす悪あく臭しゆうを放ちながら泥どろ水みず

のような重さで流れている

これが街からそう離はなれていない場所を流れ通っているというのに外にはさほどふし臭ゆうが漏れな

いことを思うと階層都市の工事技術はでたらめに見えて意外としっかりしているようだ

もうすっかり馬ば鹿かになった鼻をこすりラグナはぽつりとそんな感想を抱いだいた

「本当ニャスよくここ通って上でパンとかお菓か子しとかもらってくるニャス」

言ってタオカカは下水道の天てん井じようを見上げた黒ずんだ頭上は突つき出た鉄パイプや金属板が

複雑に組み合っておりその奥のずいぶんと高いところに張りついた闇やみのような天井が見てと

れる

さらにずっと向こうに目指している上層の街があるのだろう

つられて見上げてラグナはため息に肩かたを落とした

「もらってくるってまさか店のもん勝手に持ってってるんじゃねぇだろうな」

70

気味の悪さに怖おぞ気けよりもけん

悪お感が走る

影はいやに粘ねん着ちや質くしつな動きでぬめる床に着地するとむくりと上体を起こすような動きを見せ

た判然としないが苔光で浮かび上がる奴やつの足元でなにか小さな生き物が蠢いている気がす

る戸と

惑まどいつつも身構えるラグナのすぐ側そばにタオカカが駆け込んできて頭を低くさせ唸うなった

長い尾おがぴんと立ち上がって毛を逆立て膨ふくれている

「コイツうねうねニャス」

「うねうね

なんだそりゃ」

「悪いヤツなのネ

タオたちの村を襲って小さいカカを食べちゃうのニャス」

さっきまで陽気だった表情を目め尻じりをつり上げた憤ふん怒ぬのそれに変えてタオカカはわんと声を

響かせ威い嚇かくする

その様をあざ

笑わらうかのように白い面を浮かべた影は全身をあわ

立だてるように震ふるわせた

「キヒヒヒいる

いるぞ

るぞ力蠢く醜しゆうな

想を叶かなえ

ために肯

は不可欠

がい

念ねんの否定

閉とざ

た門が招くはずだ

ちが

いギヒヒヒヒヒヒ」

影が震え笑うたびに空気が淀よどむ

ラグナは険しく顔をしかめた

これは魔素だ

外から流れ込んできているのではないこの目の前にわだかまる影からあふ

れ漂ただよい下水道の

第一章 Stratum city 階層都市73

空気を引き裂さくような声と共に突とつ然ぜん影かげから影が飛び出したさらにそこから槍やりのような鋭

い影が無数に飛び出しラグナに襲おそいかかる

「ぅぐぁっ」

あまりに唐とう突とつであまりに周囲に同化した

に反応が遅おくれた分厚く布の裂ける音が散り一いつ

緒しよに皮ひ膚ふと肉をえぐり刺さすように持っていかれる

火がついたように痛む肩を引いてもう一方の腕うでで剣けんを抜き目の前の影を払はらった

手て応ごたえはないまるで本物の影を切り払ったかのようだ

「グギギギhelliphellip真

理へ至

我が

を求

我に求め

真相を

くhelliphellip」

人の声のようなそうでないような奇き怪かいな声こわ色いろで奇怪な言葉を口走りながら影は

び退すさっ

た高質化したヘドロと瓦礫の間でふわりと浮ういてわだかまる

初めラグナはどこからか紛まぎれこんだ魔まじ獣ゆう||高こう濃のう度どの魔素によって歪んだ生態系が生んだ

理性なき凶きよ暴うぼうな獣けものかと思った

だがどうにもちがう不定形なそれは奇妙で歪いびつで不可解で生物とはとても思えぬ

形をして

いた

ぐるりと影が動くとわだかまる闇の内側から面が現れる

白い円形に三つただ孔あなを開けただけの目と口顔のつもりだろうかそれが黒ずんだ不定

形の影の中で唯ゆい一いつの定形であるようだった

「なんhelliphellipなんだこいつは」

72

ふつとい憤きどおりがラグナの腹の底で沸わく

統制機構が大事に大事に抱えて地下深くにしまい込んでいる窯それを統制機構だけでなく

あちこちの機

や研究員学者が欲ほつしている窯を所有するということは窯が繫ぐ境界の一いつ

端たんを所有することと同意だからだ

誰も彼も境界には人じん智ちを超こえる素す晴ばらしい財産が眠ねむっていると信じている人智を超えた

ものなど人間に御ぎよせるはずもないのに

まったくいや

気けが差す頭にくるそんな窯を我が物顔で掻かき回す統制機構もそれを追いか

けるように窯を求める連中もどいつもこいつも

「こうなっちまったらもうどうしようもねえ悪く思うなよhelliphellipもっとも人を怨うらむほどの

理性があればの話だけどよ」

このままこいつをここに放置すればタオカカの言っていた『村』に留とどまらずさっきのオリ

エントタウンや下層の街に出て人を襲うようにもなるだろう

ラグナは剣の切っ先を下方に向けたまま化け物に深く踏ふみ込んだ

カグツチにはなんの思い入れもないがだからといってあからさまな害悪を目の前に置かれ

て放ほうっておけるほど利口でもない

迎むかえ撃うつように身を広げるアラクネの胴どうを||胴らしき部分を横よこ薙なぎに切り払う

「グポポhelliphellip」

「ちぃっ」

第一章 Stratum city 階層都市75

ありとあらゆるものを侵しん食しよくしているのだ

それはこの影のような物体のまとう黒いものが全て魔素であることを意味していたそし

て魔素のか塊たまりであるこの奇怪な化け物がその容

に似合わず人の言葉らしい音を発しているの

はこれが元々人語を解する存在であったことを物語っている

つまり人間だ

タオカカが『うねうね』と呼びオリエントタウンの一部の人はアラクネと呼ぶ黒ずんだ不

定形の化け物はこうなる前人間だった

ラグナはこみ上げてきた

悪感を舌打ちに変えて吐き出した

「こいつ境界に触ふれたなhelliphellip」

ラグナが各地の統制機構支部を回り

々に破は壊かいしている支部地下の『窯かま』その窯によっ

て現世と繫つながれた異界||境界

そこは人知の及およばぬ不定形の場であり中は地表の比ではない濃のう度どの魔素が渦うず巻まいていると

いう

濃い魔素が魔獣を生んだように人もまた高濃度の魔素に触れ続ければ理性が魔素にのみ込

まれやがて境界に引きずり込まれて人でいられなくなる

臭にまみれて粘ねん液えきのような体を蠢かせ奇怪な音で語るこの黒い化け物アラクネは

そうして人でいられなくなった誰だれかのなれの果てだった

「あんなもんに手ぇ出してなにがしたかったのか知らねえがhelliphellipこの馬鹿が」

74

だ身が捻ねじれ後方へべちゃりと倒たおれる

それと同時にタオカカの体がひらりとラグナのとなりに

着地した爪を

めた大きな手をシュッ

と前に突つき出して威嚇する

それを横目にラグナは軽く笑った会って間もないこちらも奇妙な生物だが『うねう

ね』と

ってこいつと並ぶのは悪い気がしない

「何年目じゃなくてここで会ったが百年目な」

「おおんじゃあ百年分ギタギタにしてやるのネ」

「まなんでもいいか」

抜ぬけ落ちるような緊きん迫ぱく感を再び引き寄せてラグナはしっかりと剣を握にぎる

一度は黒い泥溜だまりのようになったアラクネはすぐさま波打つような動きで起き上がると

ごぼりと足元を鳴らし魔素を噴ふき散らす

「ギギギhelliphellipよこ

よこせ

れは我

らう

淵えんがい

見て

目からのが

れな

運命

らはのが

れない」

「なに言ってんのかわけわかんねぇんだよ

楽にしてやるからとっととくたばりやがれ

この生ゴミ野や郎ろう」

ついた魔素を払うように乱暴に剣を振るうとラグナは腹から雄お叫たけびをあげつつ高く得物を

振り上げ魔素に取り込まれた人ならざる者へと叩きつけた

第一章 Stratum city 階層都市77

ごぼごぼと濁にごった音をたててアラクネの体がしゆ時んじにラグナの視界から消える

下だ舌打ちしながら蹴けりつけるラグナの足の下を通ってアラクネは赤いコートの

後で

再び体を持ち上げる

「キサマキサ

くらう

人間であるならあるいは四し肢しを持つ生物であるならおよそあり得ない角度から黒い塊が

ラグナを

ね上げるように突とつ出しゆつする

咄とつ嗟さにラグナはそれを剣で受けた感かん触しよくは重くどろりとしている

さらにもたれかかるように剣の表面を伝う泥どろのような魔素から突とつ然ぜん奇き怪かいな蟲むしが飛び出して

きた見たこともないひたすらに

悪感をあおるような不可解で不ふ愉ゆ快かいな蠢くもの

「うげっ」

吐き気のような

悪感に弾はじかれるようにしてラグナの足が勝手に距きよ離りを空ける

その間に割って入るように鋭するどい爪つめが振ふり下ろされ飛び出した無数の蟲を切り裂いて叩たたき落

とした

勇ましく飛び込んできたのはタオカカだ

「うねうね

ここで会ったが何年目

タオがぎったぎたにしてやるのネ」

爪を振り下ろす動作から着地をはさまず宙で身を捻ひねるとタオカカは反対側の爪でアラクネを

切り裂く

爪はえぐるようにアラクネの顔らしき部分を捉えた陶とう器きが割れるような音をたてて黒ずん

76

双そう眸ぼうは薔

さえ霞かすむ深しん紅くで容

からうかがえ

る幼さには似合わないほどの気品と優美さをたたえ

ていた

少女の名はレイチェルアルカード

十を超えた程度のまだあどけない少女のように見えるがその実約百年を生き続ける吸きゆう

血けつ鬼きだ

千年以上前から続く吸血鬼の一族アルカード家の現当主であり薔

園を見下ろす城の主あるじで

あり

月と夜空と薔

と城を抱いだくこの常夜の空間の主でもある

ここは世界のあらゆる場所から断絶された地点でありながら世界のあらゆる地点へ繫が

る場所

空間と空間の間に漂い世界と世界の狭はざ間まに留とどまる領域

アルカード家の当主が管理する特別な住まいだった

カップを金のスプーンが横たわるソーサーへと戻もどしレイチェルは物もの憂うげに吐と息いきをく唇ちびるから漏も

らした

蔦つた模様に絡からみ合うスチールテーブルの上に飾られた薔

の切り花が微かすかに香かおる

レイチェルは昼の来ない領地での時間をこうして薔

園のテラスで多く過ごした

は好きだ美しいし香りがいいそれになにより遠き日に亡なくなった父が愛した花

だから

第二章 Spiral fate 盤上の駒79

第二章

Spira

l fate

||盤ばん上じようの駒こま

真っ赤な薔ばら

に彩いろどられた見事な庭園を青白い満月が見下ろしていた

静かな夜だった空気は凜りんと冷え夜の帳とばりが世界はここまでだと区切るように色濃く辺り一

帯を包んでいる

園の奥にはおとぎ話の中から抜け出てきたかのような美しく愛らしい城がそびえており

だ橙いだいい色いろをした明かりの揺ゆれる窓が無数の瞳ひとみのようだ

その城を赤薔

の生いけ垣がきの向こうになが

める庭園のテラスでひとりの少女が小さな丸テーブ

ルに向かい優ゆうがにティーカップを傾かたむけていた

月下にありながら眩まぶしいほどに輝かがやく長い金色の髪かみを左右でふたつに結ゆわえ大きなリボンで

飾かざられている華きやしやで小さな体には黒い豪ごうしやなドレスを纏まといそこから伸のびるやはり小さな手

は陶器のように白く滑なめらかだ

カップの中で揺れる紅茶を

めていてもどこか遠く世界の果てを見み据すえているかのような

78

「今夜も見事でしょう

お父様」

ふとわく感傷に任せて呟つぶやいてみて彼の愛した薔

の香りの紅茶を飲むそんなときのほん

の一

レイチェルの心は微かに慰なぐさめられるのだ

夜の終わらないこの城は時間の流れとは無む縁えんだ夜が永遠であるように時間もまた永遠

でありレイチェルの時間もまた永遠であった

それでも退たい屈くつはやってくる時にはこうしていつかの日を想おもいため息でもついてみねば

枯かれることのない薔

のように言葉を忘れてしまいそうだった

「失礼いたしますレイチェル様」

コツと革かわぐつの硬かたい音がテラスの煉れん瓦がタイルを叩きしわがれた声が穏おだやかに呼びかけた

レイチェルを振り向かせることなく乱れない歩調で少女の視界の端はしまでくると声の主白はく

髪はつを

で束ねた長身の老人は胸むな元もとに手をあて浅く腰こしを折る

ヴァルケンハインRヘルシングレイチェルの父クラヴィスアルカードの代からアル

カード家に仕え今はレイチェルと共に在る老しつ事じだ

微びし笑ように皺しわを刻みすきなく佇たたずむ

はレイチェルに劣おとらず品がいい

だが彼もまた人間ではなかった人であり獣けものでありどちらでもありどちらでもないおおかみ

男おとこだ

外見から想像できる重ねた歳としよりずっとたくましい肉体が質のいいバトラースーツの上からで

える

80

つぶらな瞳と口角の上がった口がやはり小さく愛らしい

黒くろ猫ねこのソファはナゴ赤いゴム毬まりはギィ共にレイチェルの使い魔だ

「姫様のお気に入りっすよねー姫様ってああいう男が好みなんすか

意外とダメな男に引ひ

っ掛かかるタイプっすね」

小さな羽を忙いそがしくパタつかせて楽しそうにギィが話すとその

らかな両りよ頰うほhellipおhellipというよ

り頭部を素す早ばやく伸びたレイチェルの手が摑つかみ左右に思い切り引っ張った

「なに

よく

こえなかったわもう一度言ってみてもらえるかしら言えるものならね」

「イデデデデひひめひゃまいひゃいいひゃいれすぅぅぅぅぅ」

「アンタってほんと口で身を滅ほろぼすタイプよねぇ」

通常の二倍に顔を広げたギィを見やってナゴが呆あきれたようにため息を送る

情けない

鳴をひとしきり

いた後にレイチェルはあっさりギィから手を離はなしたバチン

と音がして赤い頰が元の真ん丸い形状に戻る

それを横目にレイチェルはテーブルの上に生けられた赤薔

の花弁へ触ふれた

「彼がそこまで来たのならもうすぐ二一九九年も終わるのね」

「左様でございますな」

どこか歌うように呟くレイチェルへ恭しくヴァルケンハインが返す

「そして世界も」

微かな声で付け足された一言にはヴァルケンハインはなにも返さなかったレイチェルが

第二章 Spiral fate 盤上の駒83

「どうしたのヴァルケンハイン」

白い指先をティーカップの縁ふちで遊ばせレイチェルが赤い瞳を向けて問う

ヴァルケンハインは頭を下げたままう恭やうやしく答えた

「ラグナザブラッドエッジがカグツチに現れたようです」

無む駄だなく必要なだけを伝えるヴァルケンハインの言葉にレイチェルは陶器の縁をなぞる指

先を止めた

そのまま指を小さな取っ手に引っかけ中身の少なくなったカップを持ち上げて一口飲み

それをソーサーに戻してからやっとレイチェルは唇を動かした

「そうhelliphellipもうそんな時間なのね」

独り言のようなレイチェルの呟きに続いて

唐とう突とつにふたつの声がこれまでの静かで密ひそやかだった雰ふん囲い気きを不意に賑にぎやかせた

「あらぁん姫ひめ様ラグナってあの白いツンツン頭のボウヤよね」

「オイラも覚えてるっすよあの生意気なヤツっす」

先にハスキーな猫ねこなで声で言ったのはレイチェルが腰こしかけている椅い子すそのものだった一

見黒いソファに見えたそれはよく見ると

もたれの上部に三角の耳と猫の顔がありその猫の

顔が話していたのだ

続いた甲かん高だかい陽気な声はレイチェルの足元から弾はずんだゴム毬まりのようにとび上がった赤くて

丸い生き物のもの見るからにやわらかそうな体からは小さな手足と小さな羽が突き出ており

82

影の中に浮うかぶ幼児の落書きのような目玉らしき緑色の丸と不気味に裂さけた赤い口が椅

子に腰かけるレイチェルを見つけて気味悪く笑えむ

どこからどう見ても人ではなくましてや吸血鬼でも

男でもない

これは思念だ肉体を持たない意志だけの存在ある男の精神体だった

「よ〜うクソ吸血鬼今回もお供と犬っころ連れてお茶会か

ずいぶんのん

気きなもんだなぁ

オイ」

許可もなく薔

園に踏ふみ入ってきた無作法者の精神体はこもった声でいや

味みに語りかける

とたんにヴァルケンハインが険しく顔をしかめギィは情けない

鳴をあげてそれこそゴ

ム毬のような俊しゆ敏んびんさで主の黒いドレスの

後へと隠かくれた

レイチェルは冷やかに影を見据える

軽く腰を浮かせるとそれまで椅子としてそこにいたナゴが体をくねらせて

を黒い傘かさへと変

えレイチェルはそれを手に立ち上がった

唇にこそ優美な笑みを浮かべていたが少女の深紅の瞳にはただただけん

悪お感かんが塗ぬり固かためられ

ている

を見せるだけでこれほどまで人を不快な気持ちにさせるのはある意味

能ね感心する

わテルミ」

の香りのように

らかにけれど薔

の蔦のように刺とげと々げしくレイチェルは言い放つ

言葉の先にいた精神体の男テルミと呼ばれた影は風にでもあお

られたかのように体を揺らし

第二章 Spiral fate 盤上の駒85

求めていないことを理解していたからだ

代わりに

男の老

事は乱れぬ声こわ色いろで問う

「レイチェル様紅茶を新しいものにお取り換かえいたしましょうか」

「helliphellipそうねお願いしようかしら」

本当は出かける用事ができたところだったけれど今はもう少しだけここでの無益な時間を

浪ろう費ひしたい気分だっただって

(今回もいい結果は期待できそうにないものね)

独り言のような呟きを胸の内でそっとこぼしレイチェルは掠かすれ消えるような吐息をつく

がすぐにその息を

み込むように眼光を鋭くさせた

真紅の視線が見据えるのは延々と続く薔

園のほうだ

「ヴァルケンハイン招いてもいない客が来たようね」

深い緑の葉をざわめかせて風が吹ふく風を招いたのはレイチェルだ涼すずしい夜気に混じって

漂ただよってきたいやな気配をはね退のけるために

円形に整えられたテラスの隅すみのほう薔

の生け垣の前の空間が目め眩まいでも起こしたかのよう

にくらりと歪ゆがむ

そうして現れたのは影かげだった

黒い体に緑色を纏まとわりつかせたような色しき彩さいでぼんやりと漠ばく然ぜんとした人型のなにかがそこに

立っていた

84

敵てき愾がい心しん

「それで一体なんの用

今がどういうじ状よう況きようなのかわかっているのでしょう貴方あなた

だって暇ひま

ではないのではなくて」

ヴァルケンハインほどあからさまな敵意ではないものの突つき放し追い立てるような調子で

レイチェルが言う

テルミはけだるい仕草で首を傾かたむけまたケタケタと不ふめ明いり瞭ような体を揺ゆらすようにして笑った

「別にぃ〜ただそろそろ今回のエンディングも近いわけだしそろそろ一度テメェらの腑ふ抜ぬ

けた面を拝んどこうかと思ってよ」

低めた声は悦えつっぽく笑みを濁にごらせる

レイチェルはその様を無感動に淡たんた々んと赤い瞳ひとみに映した

「懲こりない男ね」

囁ささやくようにレイチェルは告げる冷えた声は空に浮かぶ欠けることのない月の光に似ている

「何度繰くり返したって結果は同じ世界は何度だって巻き戻ってあの日あの時からまた始ま

るだけよ」

ざとレイチェルと影の間を横切るように風が渡わたる薔ばら

の香りがま

う中で幽ゆう鬼きのよう

なテルミの

はあまりに不気味で不似合いだった

場ばちが

いであると思い知らせるかのように濃のう密みつな花の香りを纏う風の中でテルミは深く深

く笑みを浮かべる

第二章 Spiral fate 盤上の駒87

た笑っているのだ

「そいつぁお互たがい様じゃねぇかこっちもテメェのクソむかつく面つら見てると胸むな糞くそ悪くなって

くる」

ユウキテルミそれが影の名前だった

「ならば早々に立ち去るがいいここは貴様のようなやからが気安く踏み入っていい場所ではない

ぞ」重

々しくけれど遠えん慮りよ容よう赦しやのない敵意を込こめてヴァルケンハインが進み出たレイチェルに

対して見せていた穏やかな品の良さは影を潜ひそめ白髪の老人とは思えぬ力強く攻こう撃げき的な眼まな差ざし

で揺れる影を睨にらみ据すえる

途と端たんにテルミは面おも白しろくなさそうに口らしき赤色を歪めた

「はっテメェも相変わらずイラつくなキャンキャン吠ほえてんじゃねぇよボケ犬が殺しち

まうぞあぁ」

「面白い吠えるしか能がないのはどちらか確かめるとしようか

体のない今の貴様に一体

なにができる」

「ちっhelliphellipうぜぇジジイだテメェもあんとき殺しときゃよかったぜ」

「九十年前に反省するべきだったな」

テルミが悪態を吐つけばヴァルケンハインはそれを踏み潰つぶすような敵意を返す

そこには根深い因いん縁ねんの沼ぬまが広がっているかのようだった浮かぶのは憎ぞう悪おでもけん悪おでもなく

86

覗のぞき見えていた

「んじゃなせいぜい高みの見物でもしてろや」

吐き捨てるようにそう言うとテルミは靄もやが空気に溶とけてやがて目視できなくなるように

音もなくその場から消える

あとにはなにも残らないただレイチェルが日々当たり前に

めている真っ赤な薔

が咲さ

き誇ほこる庭園が広がるばかりだ

緩ゆるやかな風が抜ぬけて甘い薔

の香かおりが漂うまるでテルミによって生じた不快感を拭ぬぐい払はら

うように

ヴァルケンハインはそれまでの飛びかかって喉のど笛ぶえでも食い破りそうな敵意を呼吸ひとつのう

ちにしまい込みしつ

事じの顔に戻もどるすき

なく

筋を伸のばしレイチェルへと向き直った

「いかがなさいますかレイチェル様」

主人がすでに決めているであろう腹の内を促うながすように問う

レイチェルは手にしていた傘状のナゴを開いたパラソルでも扱あつかうように肩かたにかけヴァル

ケンハインを見やる

「ヴァルケンハインやっぱりお茶はまたあとでにするわ」

あんなにも単純で粗そ暴ぼうなちよ

発うはつに乗るのは癪しやくだけれどそうとわかっていて顔をそむ

けることを

弱気ゆえと受け取られてはもっと癪だなによりあの男に好き勝手を許すのは面白くない

「ナゴギィ出かけるわよ」

第二章 Spiral fate 盤上の駒89

「そうしたらまた始めるさ」

這はうような声で語る

な気配がレイチェルの誘さそう風さえ汚よごすようだった

「何度でもいいぜ

そのたびに俺はやり直すだけだ何度でも何度でもテメェがいい加減

飽あきてお城から出てこなくなっても何度でも何度でもhelliphellip何度でもなぁ」

「悪あくしゆ味みね」

「テメェが言うかよクソ吸きゆ血うけ鬼つき」

テルミがせせら笑う

深い皺を眉み間けんに刻みい憤きどおりを腹に抱かかえるヴァルケンハイン怯おびえ様子をうかがうナゴとギィ自分

の周りにいる者たちをながめてレイチェルはく唇ちびるを優美なカーブに曲げた

彼の言うことに同意するのは心底不ふ愉ゆ快かいだけれど確かに悪

味なのはレイチェルも同じだ

何度も何度もこんなやりとりを何度もここで行った

繰り返す時間の中で繰り返される会話はいわば一種の通過儀ぎ礼れいだ

これから始まる数時間めまぐるしく運命は交差して離れ剥はがれ崩くずれ乱れるその結末

をし粛ゆくし々ゆくと見届けるためのお決まりの行事

「まいいや俺はそろそろ最後の仕上げの準

しねぇといけねぇから行くわいちいち相手

すんのも面めん倒どうくせぇからテメェらはそこで茶でもしながら終わるのを待ってろよ」

言いながらテルミは一歩大きく退いた

影がぼやけて消えるように彼の

が揺らめく黒い体の向こうには薄うっすらと薔

の赤が

88

城から外へと出ていった

の残り香がが夜気に吸い込まれて消えるまで待ってヴァルケンハインはテラスのテーブ

ルに残されたティーセットをワゴンに載せて片付け始める

せめて今回はあの小さな主人の心が慰なぐさめられるようなそんななにかがあるようにと胸中で

願いながら

2199年12月30日||9時23分

カグツチの朝方普ふ段だんなら東空は陽光の白に輝かがやき地表で淀よどむ魔素の存在など忘れさせてく

れるかのように眩まぶしい

だが今日は生あい憎にく朝早くから分厚い雲が空を覆おおう曇どん天てんだった広がっているのは雨雲だ昼

前には雨が

り出すだろうと湿しめった空気が教えてくれる

第十三階層都市カグツチの外れ都市の一部として建設されたのではなくこの地に流れ着い

た難民が自発的に建設した市街のひとつ浪ろう人にん街

第二章 Spiral fate 盤上の駒91

「はぁ〜い姫様」

「了りよ解うかいっす」

傘のままナゴがしなを作りさっきまでの怯えが噓うそのように元気よくギィが飛び上がる

二匹ひきの使い魔まを従えレイチェルは宙へ手を差し出したすると煉れん瓦がタイルが敷しき詰つめられ

た足元に薔

色の魔法陣じんがほのかな光を宿して浮かび上がる

転移の魔法だ

今の世界の基き盤ばんともいえる術式の元になった太古の技術魔法けれど今はもう使える人間

はほとんどいない失われた技術だ

転移はそんな魔法の中でも特に多くの魔力と集中力を要し特別難解な制せい御ぎよを求められる魔

法だったそれゆえに人類の歴史においても使い手と呼べるほど扱いに長たけた者は数えるほ

どしかいない

転移魔法を自在に扱うレイチェルもまた自分以外にこの魔法を使いこなせている者をひと

りしか知らなかった

「カグツチまで行ってくるわヴァルケンハイン留守をお願いね」

「かしこまりましたお気をつけて行ってらっしゃいませ」

理想的な角度に腰こしを折ってヴァルケンハインは魔法陣の中から語りかける幼い容

の主あるじを

見送る

ふわりと風が

い上がり目眩を誘うほどの薔

の香りを振ふりまいてレイチェルは常夜の居

90

屈くつ強きようで大柄な体たい軀く隠すことなく晒さらされた広い

中顔に刻まれた十字の傷きず跡あとそして首に

巻かれた真っ赤な布その真っ赤な布がけい

谷こくの風に

られたなびくたびに誰だれもが彼を振り返

らずにおかない

なにも衣装の特とく徴ちようが浪人街の人の目を集めるのではない

このマフラーのように巻かれた赤く長い布は目印なのだ

迷える難民をまとめ先頭に立って浪人街を築きこうして日々浪人街を歩いては住民にト

ラブルや困りごとがないか見回るイカルガ忍にん者じやの頭領にして浪人街のヒーローシシガミバ

ングの

「おはようございますバングさん」

「バング殿どの

先日は

げたに鶏わとりの捕ほ獲かくを手伝っていただいてありがとうございます」

「バング様〜

こんにちは〜」

街のあちこちからかかる声に手を挙げて応こたえバングは朗ほがらかな笑え顔がおを返す

「うむおはようでござる

おおそうだ今日は雨が

るだろうから雨あま漏もりする家がある

なら拙せつ者しやに声をかけるでござるよすぐに飛んでいって修理を手伝うでござるからな」

通り中に響くような声で言いながらバングは前へ前へ歩む

天気はよくないがバングの心は今日も晴れやかだった仲間がいて住む場所があるこ

れがどれほど喜ばしいことか数年前までは忍として戦争の裏側を奔ほん走そうしてきたバングは日々

身をもって思い知り嚙かみ締しめていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒93

ここは五年前に終結したイカルガ内戦という戦争の敗者イカルガ連れん邦ぽうに住んでいた者たち

が造り上げた市街だった

内戦によって彼らの故郷は失われた行き場のないイカルガの民たみは世界のあちこちに散り

その中でもカグツチににげ延のびた者たちがここで身を寄せ合って暮らしている

複雑で街を築くのに適しているとはとても言えない地形だカグツチのある高山の下方に

位置しながら辺りは岩だらけで亀き裂れつや絶ぜつ壁ぺきが目立つ

それでもイカルガの難民たちは岩場に足場を組み亀裂に橋をかけ絶壁に階段を作り半

分宙に浮ういているかのような入り組んだ街を作り上げた

小さな街だありあわせの材料を組み合わせてできた粗そ末まつな街だがそれにしては整えられ

たイカルガじ情よう緒ちよ漂ただよう街並みにhelliphellip朗々と男の声が今日も響ひびき渡っていた

「おお皆みなの衆

今日も元気に平和に過ごしておるな

うむうむよきかなよきかながっ

はっはっはっは」

太く伸びやかな声の主はシシガミバング

浪人街の中心である一番開けた通りのど真ん中を歩きながら道行くすべての人に威いせいよく

挨あい拶さつして回っている大おお柄がらな筋肉質の男がそうだ

ぼさついた黒くろ髪かみは高くまとめ深い緑色の独特な装しよ束うぞくを身に着けている着ているのはイカ

ルガ伝統の忍しのびの服だ本来は闇やみに紛まぎれ隠おん密みつにことを済ますのが忍の

だがこのシシガミバ

ングという男はまるで逆にとにかく人の目を引いた

92

カグツチの

士であるならばこんな下層まで

りてくることなどそうそうないし別の支部

士ならばもっと上層からカグツチに入るはず

この街に統制機構の制服はあまりにも不自然だった

金髪の青年はなにも答えず冷ややかな緑の瞳ひとみでバングを

めていたがやがて色の薄うすい唇を

開きぼそりと低く呟つぶやいた

「その服helliphellipイカルガの忍か」

およそ好意的でない声

人によってはその内にさげすみ

やあざけり

いただろうだがバングはそのひどく温度の低い声こわ色いろ

を警けい戒かいゆえと受け取った

身構えるように低くさせていた体を起こしバングは慌あわてて制止するように広げた手を突つき

出だす

「ああいや誤解めされるななにも一戦交えようというわけではござらんぞ確かにここは

イカルガの民が住まう街で拙者はイカルガの忍であった男だが五年前にイカルガ内戦は終

わっておるのだ」

バングは太い腕うでをがっしりと組むと神しん妙みような

顔つきで何度か頷うなずくようにしながら先を続けた

「確かに終戦のきっかけは戦いくさではなく我等の首都イブキドの爆ばく発はつ事故であった」

イカルガ内戦は世界虚空情報統制機構に対し第五階層都市イブキドを首都と掲かかげるイカル

ガ連邦が独立を宣言して始まった内戦だ統制機構は武力でもってそれを制圧しようとしイ

第二章 Spiral fate 盤上の駒95

平和はいい平和の中にこそ愛はあるのだ

「うん」

ふと前を行く

を目に留めてバングがいぶかしげに声を唸うならせた

見慣れない男が歩いている浪人街の住民ではないバングはこの街に住むイカルガの民の

顔と

格好をすべて覚えていた

短い金きん髪ぱつの細身の男だ歩き方からしてまだ若い

なにより気にかかるのはその男が着ている服だ青と白によって構成されたその服はおそ

らく世界虚こ空くう情報統制機構の制服だろう

「そこのお主

待たれい」

叫さけぶように声をかけながらバングは高くとんだ空を駆かけるような長いちよ躍うやくは前を行く金

髪の青年の頭上を越こえて彼の正面へと着地する

行く手を塞ふさがれる形となった見慣れぬ男は足を止めバングの唐とう突とつな登場に戸と惑まどったように

眉まゆを寄せていた

やはり若い男まだ少年の面おも影かげも残した青年だ着ているものも統制機構の制服に間まちがいな

く手には青い鞘さやに

めた刀を一ひと振ふり摑つかんでいる

バングはますます募つのる怪けげんに青年よりも深く眉間に皺しわを刻んだ

「お主我等が街になんの目的で参られた

その服装統制機構の

士であろう」

カグツチの

士だろうかバングは彼に見覚えがない

94

金髪の青年はなにも言わず静かにバングを見み据すえている

なにを考えているのかどこかぼうっとしたようにも見える無表情からは思考どころか感情

さえ読み取れない

話を

いているのだろうかバングは不安に思いながら改めてさっきの質問を繰くり返す

「してお主は一体何者で浪人街になんの用でござるか」

「helliphellip用などない」

ようやく青年がバングの問いにまともに答えた

まともというにはあまりに素っ気なく突き放した物言いだったが返ってきた言葉が思いの

外ほか穏おん便びんでバングは軽く安あん堵どを抱いだく

イカルガの残党狩がりだなどと言われてその手の刀を抜ぬき放たれたら多くの住民が行き交かう

街の中心で大立ち回りを演じなければならなくなるそうなればいくつかの家は巻き添ぞえをく

っただろうし何人かは怪け我がをしたかもしれなかった

青年は変わらず冷たい無表情のままでバングの向こうにそびえる山へ目を向けたこの上

にいくつもの市街が建設され頂上には世界虚空情報統制機構のカグツチ支部が建っている

「貴様たちのことなどに興味もない僕は上へ行きたいだけだ」

「上

というと統制機構の支部でござるか」

「じや

魔まだそこをどけhelliphellipああいや」

冷れい徹てつに言い放ってから青年は思い直したようにけれどそれでも冷ややかに声を低めた

第二章 Spiral fate 盤上の駒97

カルガ連邦も武力でもって抵てい抗こうした

それが四年続いたある日のことだ

イカルガ連邦首都であり指揮系統の中心であった第五階層都市イブキドの地下で突とつ然ぜん原因

不明の大爆発が起こりイブキドは跡あと形かたもなく消しよ滅うめつした

爆発はイカルガ連邦はもちろん交戦の真っ最中であった世界虚空情報統制機構側にも大き

く戦力を損そこなわせる痛手を負わせた戦争を続けるだけの力をイカルガ連邦と統制機構が爆

発事故をきっかけに同時に失ったのだ

結局イカルガ連邦はバラバラとなり最終的には組織としての形を失ったけれど統制機構も

己おのれを立て直すのに手て一いつ杯ぱいで追つい撃げきどころではなく内戦はしぼんで消え入るようにいつの間に

か終わったのだった

「それでも我等は負けたのだその現実を認めずに今ある平和を投げうってまで統制機構に

楯たて突つくつもりはござらんよ」

そう言うとバングは眉み間けんを中心に走る十字傷に分厚い手で触ふれ苦々しくも笑みを浮かべ

たこ

の傷はその爆発事故のときに負ったものだ内戦を終わらせたあの事故が自分にとって幸

であったのか不幸であったのかバングには未いまだわかりかねる

ただイカルガの民はもうじ充ゆう分ぶん戦ったこれからはたとえ楽な生活でなくとも平和に過ご

してほしいとバングは思っている

96

れるだとかそんな幽ゆう霊れい話じみた現象が起こるはずもない

勝手なイメージでそう結論づけるとバングは気を取り直してそのたくまし

い胸むな板いたを張った

まだ浪人街の見回りは途とち中ゆうだ曇天の色はますます濃こくなってきている雨が

り出す前に

修理の必要な家がないかどうか確かく認にんしておかなければならない

「いやぁまったく最近の若者は覇は気きが足らんでござるなぁ

陰いん気きな顔をしていないでも

っと威い風ふう堂どうど々うと力強くそして

くあらねばそうこの愛と正義の忍者シシガミバング

のように」

辺り一帯に響く盛せい大だいな声で笑うとバングは街の見回りを再開させた

これが終わって部下のけい

古こが終わってそれでも時間があったなら憧あこがれの女性が住むオリ

エントタウンまで足を延ばして挨拶に行こうとそう心の中で計画をたてていた

今日も浪ろう人にん街は平和だ

それがなにより素す晴ばらしい

2199年12月30日||18時21分

第二章 Spiral fate 盤上の駒99

「ついでだ貴様カグツチで白い髪かみに赤いコートを着た男を見なかったか」

そう尋たずねる青年の表情はまるで凍こおりついたかのように無表情から動こうとしないだという

のに緑の瞳だけは妙みように楽しげに煌きらめいていたようにバングには見えた

バングは顎あごに手をやり考えこむ

「白い髪に赤いコートhelliphellipふぅむいやこの辺りでは見かけてござらんそれほど目立つ容

ならば一度目にすれば覚えようがhelliphellip」

「そうかならいい」

しゆ時んじにバングからあらゆる興味を失ったように青年は滑すべるような歩みで横を通り抜ける

すれちがう風はいやに冷たいまるで氷でも掠かすめたかのようだ

「ああお主

拙者はシシガミバングと申すお主の名はなんと申す

すたすたと足早に山へ向かう細身の後ろ

へバングは追いかけるように声をかけた

だが青年は振ふり向かないまるでバングの声など耳に入っていないかのような頑かたくなな

中で

なにかに突き動かされるような足取りで歩き去りそのうちに浪人街の外れへと

を消してし

まった

バングは引き止めるように宙へ伸のばした腕もそのままに難しく顔を歪ゆがめて首を捻ひねった

「はてhelliphellip奇きみ妙ような男でござったななんというかこうた魂ましいが抜けているようというかhelliphellipなに

かに取り憑つかれでもしているかのようであったわ」

もっとも今は日もこれから高くなろうという真昼間魂が抜けるだとかなにかに取り憑か

98

形よく張り出した豊かな胸に引き締まった腰こしそこから滑なめらかに続く肉感的な臀でん部ぶと華きやしや

な足首に向かって続く絵に描かいたような曲線

同性の憧れと異性の動どう揺ようを誘さそわずにおれない肢し体たいのシルエットだけでも彼女は道行く人の

視線を釘くぎ付づけにする

そんな麗うるわしき女医ライチがこの街にやってきたのは約一年前のことだ

突然現れ住まいと仕事を求めたライチをこの辺りの住人は快く受け入れた

彼女は自分がどこから来たのかどんな生おい立ちなのかなぜオリエントタウンへひとりで

やってきたのか名前以外のことはなにも話そうとはしなかった

素すじ性ようの知れない女など怪あやしまれて当然だろうけれどライチが出会ったオリエントタウンの

住人は皆みんな彼女が口を閉とざすと深くは追つい及きゆうしようとはしなかった

そのことをライチは一年たった今でも来たばかりのころと変わらず感謝している

こうして日々病院のとびらを

開けなるべく気軽に安価で治ちり療ようが受けられるよう心がけているの

も生活のためというより拒きよ絶ぜつや敬遠ではなく寛かん大だいさと優やさしさをもって自分を迎むかえてくれた

オリエントタウンへの恩返しの意味が強い

「さてと」

少年の

が曲がり角の向こうに消えるとライチは細い肩かたをすとんと落として息をついた

オリエントタウンはすでに夜の闇やみに包まれていてあちこちにぶら下げられた小さな提ちよ灯うちんや

ランプが家々を照らしていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒101

オリエントタウンは第十三階層都市カグツチの下層にこそあれど広く活気にあふれた賑にぎやか

な街だ

限りある土地を時に譲ゆずり合い時に共有して身を寄せ合うように家を建て並べ今にも壁かべが

触れそうなほど密接したりん家かとは家族のように付き合える

誰だれも彼も決して裕ゆう福ふくではないけれど薄うす暗ぐらい路地に不ふ穏おんな影かげが横切ることもあるけれどそ

れでもこの街は温かい

ここオリエントタウンの一角で小さな病院を開いている医者ライチフェイリンは常々

そう感じていた

「痛みが引くまで無理は禁物よいいわね」

階段から落ちて捻ねん挫ざしたという少年を病院の入り口まで見送ってライチは頭を下げる小さ

な彼に笑顔で手を振る

ライチは美しい女性だった

足元まで伸ばした艶つややかな黒くろ髪かみを高く結ゆわえてくるりと巻き大きなアップヘアにまとめて

いる化けし粧ようで飾かざらずとも美しいラインを描えがく眉に伏ふせれば影ができるほどに長い睫まつ毛げ黒い

縁ふちの眼鏡ごしに見える瞳は大きく知的な光を宿しているけれどややつり上がった目元はどこ

か媚び態たいを想像させる色いろ香かを匂わす

美び麗れいなのはなにも容よう貌ぼうだけではない

100

こんなにも温かく名を呼ぶのはひとりだけだhelliphellip今は

両手で二の腕をさすりながら振り返りライチは少し驚おどろいたように目を丸くさせる

そこにいたのはやはり予想通りの人物だったけれど彼の腕には予想とは

うものが抱だき

かかえられていた

声の主の大きな体が建物の色いろ濃こい影の中から出てくるライチとて

の低いほうではないけ

れど彼の

は見上げるほどだ

通常の人間ならありえないほど屈くつ強きような体に赤い肌はだ第七機

の赤あか鬼おにと呼ばれるサイボーグ

の男だった

「テイガーhelliphellip」

ライチが小さな声で名を呼び返すうちにテイガーは周囲に人ひと気けがないことを素早く確認す

ると近くまでやってくる

彼の腕うでにはひとりの少女の

があった気を失っているのかぐったりと力なく体を預け

ている長くやわらかなカメリアレッドの髪に華

な体そして青と白の世界で一番有名な制

服helliphellip統制機構の制服

「テイガーこれはどういうこと

どうしてhelliphellip」

どうして統制機構の

士を抱かかえてこんなところにいるのかそう問おうとしたライチの疑問

をさえぎっ

てテイガーは抱えていた少女の体を託たくすように差し出した

「すまんがこの少女を頼たのめないだろうか訳あって気絶させてしまったのだが放ほうり出すわ

第二章 Spiral fate 盤上の駒103

遠くには雨音が

こえる昼過ぎに

り出してから今までもずっと続いていたのだろう空

を上層に閉とざされたこの辺りもすっかり空気が湿しめっていてずいぶんと冷え込んでいた

ゆったりとした白いブラウスとその上に着込んだロング丈たけの真っ赤なチャイナドレスという

服装はライチのみ惑わく的なボディラインをくっきりと描き出すには適しているけれど寒空の

下に立つにはあまり向いているとはいえない

不意に抜けた冷たい風にぶるりと身み震ぶるいしてライチは豊満な胸元を合わせるように己おのれを抱

いたまとめ上げた髪にしがみつくようにくっついている小さなパンダの髪かみ飾かざりも心なしか寒

そうだ

今夜はきっと冷えるだろうとはいえかつて黒き獣けものが現れ魔ま素そが世界に広がるまでは十二

月といえばもっと寒くこんな薄うす手での服装ではとても外を歩けなかったそうだから当時を思

えば涼すずしい程度の気温なのかもしれない

昔はこの時期この辺りでも雪が

ったらしい魔素が狂くるわせ失わせた冬らしい季節という

ものを少々勿もつ体たい無く思いながらライチは病院へ戻もどるべく踵きびすを返した

だがただでさえ長い脚あしをさらにすらりと見せる踵の尖とがったくつが屋内に踏ふみ入る前に

後か

ら唐とう突とつに声がかかった

「ライチ」

落ち着きのある低い男の声だ

それが誰なのかライチは呼びかける一言でわかった自分のことを呼び捨てる者の中で

102

「お前になら構わんか実はhelliphellip」

『とう

亡ぼうしたサンプルの回

だ』

突とつ然ぜん第三の声が割って入った

「ココノエ

周囲に配はい慮りよしてか声は抑おさえたもののテイガーが驚きにうろたえる

ライチの表情に糸を張るような緊きん張ちようが走った

第三の声はテイガーの耳元から

こえてきたそこには小さな通信機が取り付けられている

その向こうにいるのが声の主でありテイガーの上司にして製作者でありhelliphellip一年前までは

ライチの上司でもあった人物ココノエだった

『なにを驚いている回線に入り込む程度なんでもないわかったら勝手に通信を切るんじ

ゃないいいなテイガー』

テイガーへ向けてだけでなくその周囲にも

こえるよう操作された音声が感情の波を抑え

た低い女声で語る他者の意見をは

ねのけるような語調と声色には有う無むを言わさぬ威い圧あつ感と

神経質さが現れていた

ライチも一年前まではよくこの声にしつ

咤たされたものだ懐なつかしさと一いつ緒しよに苦い思いがこみ

上げてきてライチは声から目をそむ

けるようにテイガーから視線を外す

「ココノエ博士helliphellip」

『久しぶりだなライチお前こそこんなところでなにをしている』

第二章 Spiral fate 盤上の駒105

けにも統制機構に連れん絡らくするわけにもいかなくてな」

ひどく困った様子で懇こん願がんしてくる

そんな顔でそんなことを言われては断ろうにも断れない自分の性格をわかっているくせに

と思いつつもライチはテイガーの腕の中の少女を覗のぞきこんだ

は正常だ外傷は特になく呼吸も安定しているただ単純に強い衝しよ撃うげきで意識がなくなり

そのまま眠ねむり込んでいる状態だろう

「つまり彼女の意識がないのは貴方あなたの仕し業わざってことね」

ちらりと眼鏡のすき間まからテイガーの赤い顔を見上げてライチはほんの少しの小言めいた響ひび

きを込こめて言った

テイガーとこの少女の間にちょっとした荒あら事ごとがあったことは想像に難かたくない

統制機構と第七機

係についてはよく知っているなにせライチはオリエントタウンへ

来る前テイガーと同じ

場で同じ上司の下で働いていたのだから

「helliphellipどうして貴方がカグツチにいるの」

少女の身み柄がらは引き取るそう物もの腰ごしで伝えながらもライチは堅かたい声こわ色いろで尋ねた

テイガーが所属している第七機

はカグツチから離はなれた場所に研究所を構えているカグツ

チへふらりと私用で来るような距きよ離りではない

テイガーは困こん惑わくしたように言葉に迷ったが難しそうな顔をしながらも上向きのきばが覗く

口を動かした

104

「まだわかりません」

ねのけるようにライチは大きく首を振ふった

そこにはオリエントタウンの住人が知る優しく穏おだやかで時々厳しいそんな女医の

はなか

ったあるのはなにかを必死で守ろうとする弱々しい少女のような顔だ大切な宝物を取り上

げられまいと首を振るようなそんな

ライチは厳しく引き締しめた顔でテイガーをその耳元にある通信機を見つめる

「なぜ博士はそう簡単に割り切れるんですか

すべての手を尽つくしたわけではないのにあ

の人はただ少し間まちが

えてしまっただけです少し急ぎすぎただけでそれに彼は貴女あなた

のhelliphellip弟で

子しだった人じゃないですか」

ライチの声は情感に揺ゆれていた震ふるえているといってもいい

解げせない飲み込めない受け入れたくないそんな拒絶が声だけでなく

しげに眉まゆを寄

せた表情にも浮うかんでいる

もう一度通信機からココノエのため息が

こえた今度は呆れているというより苛いら立だっ

たような吐と息いきだった彼女が頭をかきむしる仕草が見えるようだ

「すみません博士helliphellipでも私はhelliphellip諦められません」

ライチはきつく胸の前で手を握にぎり締める

だけど本当はわかっているライチは医者であり一年前までは研究者だっただから自分

でもいや

になるほど冷静で理性的な部分はもうとっくに理解していた

第二章 Spiral fate 盤上の駒107

どんな顔をしていたらいいかわからないライチは寒さではなく別のものから己を守るよう

に身を抱く手に力を込める

知性と理性で研といだココノエの鋭するどく射い貫ぬくような眼まな差ざしが通信越ごしにこちらを見み据すえてい

るのがわかった

「そんなのhelliphellip博士ならもうおわかりでしょう」

なぜライチがカグツチにいるのかもなぜカグツチの中でも下層のオリエントタウンを住ま

いに選んだのかもなぜ第七機

を出たのかも全部全部彼女はお見通しのはずだ今いま更さら説

明しなければならないことなどなにもないのだ

『まだあいつのことを諦あきらめきれんのか』

ほらとライチは思う答えずともココノエはわかっている知っているライチがなにを

考えてここにいるのかを

だからだろうか通信機越しに

こえるかつての師の声はまるで咎とがめ責めているように

こえた

「諦めるだなんてどうしてそんなことができますか」

胸の内から絞しぼり出すようにしてライチは答える

通信機からノイズが漏もれたココノエのため息だろう呆あきれ果てたといったような音だ

『もう一度言うあいつを助けようなどと無む駄だなことを考えるのは止よせあいつはもうどうに

もならんお前の力では助けられない』

106

ライチは顔を上げられなかった愚おろかだと思うのは自分も同じだ反論はない

重苦しい沈ちん黙もくが数秒流れたときだったパタパタと軽やかな足音がライチのいる病院の入り

口へと駆かけてきた

「ただいまhelliphellipってうわデカっ

やってきたのは小こ柄がらな少女だったかつ

色しよくの肌はだに黒くろ髪かみをアップにまとめており動きやすそう

な服を身に着けている

少年とも見まごう細い腕うでと胸には紙かみ袋ぶくろに入った日用品を抱かかえていたが近づいて改めて見上

げたテイガーの巨きよ体たいに思わず驚おどろいてぐしゃりと抱だき潰つぶす

「リンファhelliphellip

おおかえりなさい」

いささか慌あわててライチは向き直った

彼女はリンファライチの病院で助手として手伝いをしている医者志望の少女だ

リンファは大きな黒目をさらに大きく見開いて遠目で見るよりずっと大迫はく力りよくなテイガーを

ぽかんと見上げていた

「たただいま先生えっとhelliphellipこの人誰だれ

お客さん」

「ああそのhelliphellip」

ライチは言葉を濁にごして迷った

リンファは公私ともに支えてくれる頼たのもしい助手だがライチは彼女に自分の過去を教えて

いないし教えるつもりもなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒109

自分にできることなどなにもないのだと

||一年前ライチがココノエやテイガーと共に過ごし研究に励はげんでいた第七機

を飛び出

したのはある人を助けるためだった

その人は魔素とそれを世界にもたらしたとされる境界について研究していた

けれどあるとき彼はおかしくなってしまった常に錯さく乱らんしたようになってやがて人前に

を見せなくなり最終的には人でなくなってしまった

魔素に触ふれ続け境界に近づきすぎたがゆえの結果だった自分と境界の境目がわからなく

なってあるべき形を失った

消化してしまったものを元の食品の形に戻せないように境界に取り込まれて同化したもの

を元の

になど戻せはしない

彼を追ってここカグツチのオリエントタウンまで来てもこの街に留とどまり続けても彼の

噂うわさを耳にしては飛び出し黒く蠢うごめく影かげを探しても魔素や人ならざる種族について研究を重ね

ても彼と同じように境界に手を伸のばしても

なにも変えられない

ライチが探している『あの人』はオリエントタウンから入ることができるカグツチ下層の

下水道をねぐらとして日々ただ本能の赴おもむくままにさまよい続けている

『どいつもこいつも私の弟子は馬ば鹿かばかりだhelliphellip』

ココノエが吐はき捨てるように言う

108

意識のない女

士が身に着けている青と白の制服は苦しい生活や貧しい環かん境きようをもたらした

元げん凶きようをし象よう徴ちようしているようなものだ

その気持ちをわかりながらもライチは

めるように言う

「誰であろうと患かん者じやは患者よリンファベッドの用意をしておいて」

「helliphellipはいライチ先生」

リンファとてライチの言い分はわかっている

もう一度きつく腕の中の紙袋を抱だきしめるとリンファは渋しぶし々ぶ頷うなずきそれでも足早に病院の

奥へと駆けていった

それを横目に見送りながらライチはぐったりとした少女の腕を肩かたに担ぐようにして濡ぬれ

た体を支える

最後にと見上げた知的な瞳ひとみにテイガーは告げた

「ライチこれだけは伝えておきたいココノエはお前が機

に戻もどることを望んでいるお前

にその意思があるならいつでも手を貸すつもりだ」

それこそがわざわざ通信回路をねじ込んでまで口をはさ

んできたココノエが言いたかったこ

とだろうとテイガーは解かい釈しやくしている

あの気難しく神経質な声で話す上司は人に情じよ緒うちよめいたことを伝えるのがとても苦手だ誰よ

りも側でココノエの仕事を手伝ってきたテイガーはそのことを身にしみて実感している

ライチは驚いたような顔を見せそれから頰ほおを緩ゆるめるように力を抜ぬくと

しげに首を横に振ふ

第二章 Spiral fate 盤上の駒111

間まちがってもテイガーやココノエとの会話を

かれるわけにはいかないのだライチは素早く

助けを求めるような視線をテイガーに向ける

だがそのときにはもうすでにテイガーは通信をオフにしていたライチがなにをきらうのか

は見かけによらず理性的な巨きよ漢かんは十分理解している

ただしその代わりにとばかりに抱えていた意識のない少女をライチの腕の中に押し付ける

ように託たくした

「私は任務があるもう行かなければとにかくこの娘むすめを頼む」

テイガーがここを訪れたのはなにもココノエの心情を伝えるためでも上司とライチを口論

させるためでもなくこの赤い髪かみの少女の身の安全のためだ

「わかったわ預かる」

このじ状よう況きようで拒きよ否ひするわけにもいかないライチは素直に少女の身み柄がらを引き受けた

力なくもたれかかる少女の体は決して軽くはないが支えながら引きずってベッドへ運ぶく

らいはできる医者や研究者に相応ふさわしくない程度にはライチは力には自信があった

ライチが受け取った人物の

を見てリンファが不ふ愉ゆ快かいそうに眉まゆを寄せた

「この人図書館の

士じゃんなんでhelliphellip」

なんで

士なんかを預かるのかのみ込まれたリンファの言葉はそう続くはずだった

リンファはオリエントタウンの生まれだ下層の住人の大半がそうであるように彼女もま

た高圧的な統制機構の施し政せいに大いに不満を抱いて生活している

110

雨の中運ばれてきたせいで少女の体はすっかり冷えていた

リンファが整えてくれたベッドまで運ぶと清潔なシーツの上に横たえ

士の制服である青

い帽ぼう子しとブーツを脱ぬがせる指先まですっかり力を失った手を取り手てぶ袋くろと硬かたい金具のついた

袖そでを外した

となりの部屋でリンファが買ってきた日用品の片づけをしている物音を

きながら上等とは言

えない毛布と布団を眠ねむる少女の体にそっとかけてやる

「helliphellip今夜はこれじゃ少し寒いかもしれないわね」

青と白の帽子や袖をたな

へしまいながらライチは声に出して呟つぶやいた

そのしゆ

間んかん目に見えない糸が切れたような不思議な感覚がライチの

筋を掠かすめていったの

だけれど

ライチはそれを冷えてきたがゆえの悪寒だと思って新しい患者にかけてやる毛布を取りに

行くため部屋を出た

この

間ライチの大切なものがひとつ喪うしなわれたと彼女が知ることはなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒113

った

「helliphellip私は戻れないわあの人のことが片付かない限りは」

戻ればきっと後こう悔かいするお門かどちがいにもココノエを恨うらむかもしれない

「そしてもし片が付いて私があそこに戻ろうとしてもそのときは今度は博士が私を受け入れ

ない」

もしあの人を戻せるとしたらその方法が容易たやすくそして人道に則のつとったものであるはずがな

い触ふれてはならないものに触れなければならないだろう見てはならないものを見なければ

ならないだろう知ってはいけないものを知らなければならないだろう

そうなったときココノエが自分をどんな目で見るかライチはあまり想像したくはなか

った

難しそうに唸うなりテイガーが小さく顎あごを引く歪ゆがんだ口元は苦々しい

「そうか難しいことは私にはわからんが」

いつまでも話してばかりはいられないテイガーは広く赤い

中をライチへ向けた

「今はこれで失礼するhelliphellip達者でな」

それだけ告げるとテイガーは後うしろ髪がみを引かれる様子もなく来た道を引き返していった暗

い影かげの中に入るとやがて大きな

中はオリエントタウンの路地裏に消える

ライチもまた立ち去る

を向けて預かった

士の少女を病院の中へと運び込んだ

後ろ手にとびらを閉めればそこはもう慣れ親しんだ小さな自分の病院だ

112

まったくうんざりするこれからこんな風雨の下でひとりで作業しなければならないな

んて

「helliphellipっていつまでもぐちぐち言っていてもしょうがないですか」

自分で自分を哀あわれみながらハザマはスーツの内ポケットから小さな通信機を取り出した

耳に当ててしばらく待つ

とうに日は落ちて辺りは暗くこの分厚い雨雲で月明かりが望めるわけもないハザマの後

方で灯ともる屋上入り口の白々しい明かりがスポットライトのように円形の濡れた屋上を寒々し

く照らしていた

『||私だ』

通信機の向こうから声が応こたえた

男の声だ低く感情らしい響ひびきは一いつ切さいない

ハザマはズボンのポケットに手を突つっ込こむと心持ち

筋を伸ばした

「お疲つかれ様ですハザマですとりあえず現場に到とう着ちやくしましたよ雨ざらしですけど」

『そうかでは始めろ』

「あらら冷たいですねぇねぎらいの言葉もなしですか技術大たい佐さ」

帽子のつばなどまるで意味がない濡れて額にはりつく前まえ髪がみを指先でのけながらハザマは口

角を引いて苦くし笑ようする

もっとも通信機の向こうにいる男にねぎらいの言葉などかけられたらそれはそれで気味

第二章 Spiral fate 盤上の駒115

2199年12月30日||18時21分

雨はまだ

り続いていた

曇どん天てんはますます色いろ濃こくついには強い風まで吹ふき始める

夜ともなれば空気は冷えるただでさえここは高い場所でhelliphellipそう地上から数えればとん

でもなく高い場所でそのうえ風雨をさえぎるものがないというのに

「あーあhelliphellipもう最悪ですね」

世界虚こ空くう情報統制機構カグツチ支部の屋上つまり第十三階層都市カグツチにおいて最も高

い場所に立つハザマは

り止む気配のない雨空を見上げて心底辟へき易えきしていた

制服ではない自前の黒いスーツも雨除よけにはならない帽子も上がってきて数秒でびしょ濡ぬ

れだ

少し待てば雨足も弱まるのではないかと思って無益に潰つぶした時間は一体なんだったのだろ

うか

「これが上官命令でもあの人の言いつけでもなかったら体調不良でも持ちだして即そつ刻こく本部に

帰るところですよ」

114

歩きながらもハザマは笑っていた両手をポケットに突っ込んでいるせいで細い肩が少しだ

け持ち上がって喉のどを鳴らすたびに小刻みに揺ゆれる

誰もいない鳥さえ近づかないカグツチの頂でハザマはどこか摑つかみどころなくにゆ

和うわに笑い

かけた

彼にだけわかる人物へまるでなだめすかすように

「そう急せかさないでくださいよ焦あせらなくてもいずれ取り戻せますって」

||ねえテルミさん

第二章 Spiral fate 盤上の駒117

が悪くてとても仕事どころではないのだけれど

『あまり時間がないさっさとしろ』

「はいはいまったく貴方あなたもあの人も人使いが荒あらいんですから」

ではまた後ほどそう言葉を足して通信を終えるとハザマは手の中に握にぎり込めるくらい

小さな通信機を玩がん具ぐでも扱あつかうように宙へ放ほうり投げキャッチした

雨が冷たい

ハザマは目ま深ぶかにかぶっていた黒の帽子をほんの少しだけ持ち上げた

濡れた髪の向こうから金色の瞳ひとみが覗のぞいていた照明の中でちらつく無数の雨あま粒つぶを鋭えい利りな狡こう猾かつ

さで見み据すえる一いつ緒しよにその向こうで静かに濡れるがらんと空くう虚きよななにもない屋上の空間を

軽く肩をすくめるようにしてハザマが笑えみの息を漏もらしたまるで誰かになにごとか語り

かけられたかのように

「わかっていますよ私だってさっさと片付けたいですからね」

さあさあと雨の音が途切れることなく続いている

そこにハザマ以外の誰かの声はなくもちろんハザマ以外の

はない

暗い夜の屋上は雨あま霧ぎりの中でなにひとつ文句も言えず濡れるばかりでハザマに何事か語りか

けるはずもない

ハザマは通信機をしまうとちょいと帽子を直し屋上の中央に向かって足を踏ふみ出した硬

い革かわぐつが濡れた床ゆかを叩たたいて微かすかな水音を弾はずませる

116

Page 12: t1501 ブレイブルー1 面付BLAZBLUE―ブレイブルー―1 カラミティトリガー 上> 原案・監修 ‥ 森利道(アークシステムワークス) 著‥駒尾真子

第九階層都市アキツ世界虚こ空くう情報統制機構支部

都市の中心に建っていた施設が何者かの襲撃によって崩ほう壊かいしその騒動で都市全体が混乱し

ている中

赤いロングコートを着た白髪の男はひとりひっそりと都市から去ろうとしていた

もうここでやるべきことは終わった長居は無用だ

施設での

手な立ち回りに反して外では人目につかぬよう入り組んだ道を通りできるだ

け薄うす暗ぐらい出口を選んだ

街中で制服を着た

士たちに見つかれば振り払うために戦わねばならないそれが煩わずらわし

い錆さび

臭くさい鉄門をくぐって奥にあるポートへ向かうその脇わきにある通路を下れば外に出られる

はずだ

そのときふと薔ばら

の香かおりが彼の鼻び孔こうをくすぐった

「まるで行き場を失った野の良ら犬みたいね」

淡たんた々んとしたあざけり

の声が

こえ彼は足を止めて振り向いた傍かたわらに佇たたずむ細い外灯を見上げる

先せん端たん

が二ふた股またに分かれたシンプルなそれの上にひとりの少女が立っていた

歳としは十を過ぎて数年といった程度だろうかまだ幼い顔立ちをしながらも足元からの薄暗

い明りに照らされて浮うかぶ赤い瞳は外見の年とし頃ごろに似合わぬ聡そう明めいさをたたえている

第一章 Stratum city 階層都市23

今はいくつもの金属板が折り重なるようにして口を閉ざしているが開けば内は火山の火口

のようになっている炎えん色しよくの溶よう岩がんのようなものが渦うずを巻いて覗のぞき込む者のすべてをのみ込ま

んと燃え盛さかっているのだ

だが中でわだかまっているものは決して溶岩や炎などではない

そこにあるのは異界だ人が本来あるべきではない世界のひずみ走った亀き裂れつの向こう側

見てはいけなかった踏み込んではいけなかった世界のからの外側

彼が見下ろす金属の装置はこの窯を制せい御ぎよしまた窯に干渉するためのものだ

本来及およぶべきものではない異界||境界に触ふれるための装置

彼は世界中に散らばるこの窯を破壊して回っていた

こうして

めてみても今いま更さら感かんがいもない

彼は剣を腰こしに戻もどすと右手を装置へと向けて突き出した何事か呟つぶやくもう何度も繰くり返し

口にしてきた破壊をもたらす言葉

言葉は彼の右みぎ腕うでで眠ねむっていた力を呼び起こし力は彼の右腕に蒼あおい光を生んだ

またたく間に辺りを埋うめ尽つくすほどに増ぞう幅ふくされた光を彼は装置に向けて思い切り放つ

のしゆ間んかん地下深くで口を閉ざしていた異界への門はそれを囲む広大な部屋ごと跡あと形かたもな

く吹き飛んだ

22

別に行き先などどこでもいいカグツチならここアキツからでもそう遠くはない

彼は忌いまい々ましげに少女の消えた辺りを睨みつけると示された

の目的地を目指して歩き出し

た数

日後彼の名は世界中に指名手配犯として公開された

ラグナザブラッドエッジ

それが『死神』の異名を持つ史上最高額の賞金首の名だった

2199年12月30日||13時27分

約百年前世界は一度滅ほろびかけたという

突とつ如じよ現れ世界中を破壊して回った巨大にして異形の怪かい物ぶつhelliphellip『黒き獣けも』の

その圧あつ倒とう的な力に人類は為なす術すべもなくあっという間に世界の人口は半分に減った

ところがそこに六人の勇士が現れた

第一章 Stratum city 階層都市25

下方の彼を見やって少女は薄うすく微笑ほほえんだ

「薄うす汚ぎたない迷子の野良犬さん

に貴方あなたが行くべき場所を教えてあげましょうか」

「helliphellipなに企たくらんでいやがる今まではそんなこと教えなかったじゃねぇか」

吐はき捨てるように彼は低く呻うめいた

少女は呆あきれたように眉まゆ尻じりを下げる

「心外ね教えてきたじゃないhelliphellipもう何度も」

「はぁ

なに言ってんだテメェ」

「覚えていないならいいのよ期待もしていないわ」

指に絡からまった糸くずでも払うように言うと少女はある方向をその白く小さな手で示した

その先に広がるのは暗雲を抱いだく暗い夜空星も月もない夜はまるで不ふ穏おんな予感を掻きたてよ

うとするかのように重苦しく静かだった

「第十三階層都市カグツチ」

そこが貴方が導かれるべき場所よ

そう告げると少女は薔

の香りを漂わせ風が吹き抜けるように

を消した

甘い花の香りが消えると白昼夢から現実に引き戻されたかのようにどこからか金属とくさ

った水の臭においが漂ってくる

気分のいい場所ではない

「カグツチhelliphellipね」

24

た街は山の高度に沿って上下に広がり結果幾いく重えにも市街のプレートが重なった狭せまくも高

い都市が生まれたのだ

ここ第十三階層都市カグツチもまた世界中の都市がそうであるように複雑な多重構造と

なっている都市だった

その中の折り重なった市街のひとつオリエントタウンの入り組んだ細い道を彼は少々ふ

らついた足取りで歩いていた

白い髪かみに左は緑右は赤という左右で色のちが

う瞳ひとみ全身を包む黒い服に目の覚めるよう

な真っ赤なロングコート腰には幅はば広びろで分厚い刀身がと特くち徴よう的な剣けんが下げられている

ラグナザブラッドエッジ

世界虚空情報統制機構の支部を各地で壊かい滅めつさせているSS級の指名手配犯であり史上最高

額の賞金首が彼だ

とはいえ周囲を行き交かう街の住人は誰もラグナを気にしたりはしないどうせまたどこか

らか無法者が入ってきたのだろうそんな程度の視線が時折興味もなさそうに掠かすめては離れ

ていく

ここはオリエントタウンカグツチの下層に位置する街だ

階層都市はその構造上上層の街であるほど魔素から遠く安全で清潔で逆に下層に行くほ

ど管理が行き届かず魔素に近い階層都市において上下は住みやすさだけでなく晒さらされる命

の危険の度合いをも意味している

第一章 Stratum city 階層都市27

彼らは事象兵器

アークエネミーと呼ばれる武器を手に黒き獣にいどみ災さい厄やくの魔ま物ものを倒し人類に未来をもた

らした

六英えい雄ゆうと讃たたえられた彼らは人知れず歴史の海に

を消し行ゆく方え不明となったがそれでも彼ら

の栄光は伝説として語かたり継つがれた

それは近くも遠い昔の話

今の世にかつての黒き獣との戦争||暗黒大戦の誰だれもが知るような名な残ごりがあるとすれば

それは大きく数えてふたつだろう

ひとつは世界虚空情報統制機構

暗黒大戦のとき六英雄と共に戦った世界的な連合軍が母体となった組織であり現在は世界

中をこの組織が統とう括かつしている

そしてもうひとつが魔素

災厄の魔物黒き獣の出現と共に世界中であふれ出した物質で黒き獣が倒たおされた後も依い然ぜんと

して世界の空気中に残り続けた

今では様々なテクノロジーにも利用され人々が暮らしていくうえでなくてはならないもの

となっているがそれでも多量の摂取は人体への危険を伴ともなう

そのため人類は魔素を利用しながらも魔素を避さけて生活しなければならなかった

魔素は地表に近いほど濃こく滞たい留りゆうしているそこで考え出されたのが階層都市だ

高山を基き軸じくにしてそこからプレート状に築いた市街を突つき出させるようにして街を建設し

26

っている

そのうえあちこちの路地を塞ふさぐように木箱やらなにかの詰つまった袋ふくろやらが我が物顔で腰を下

ろしているものだから何気なく入った路地が通り抜ぬけられないこともしばしばある

赤い柱にぎょろついた目玉のついた奇きみ妙ような像街中に小さな明かりの灯った提ちよ灯うちんがぶら下げ

られていてそれ以上におびただしい数の大小の看板が眩まぶしいネオンを輝かがやかせている

普ふ通つう下層の街というのはいくつもある上層の基き盤ばんに陽光をさえぎら

れて昼間でも薄暗く場所に

よっては真っ暗になるものだがここはそんな暗がりとは無む縁えんのようだ

路地を抜けると少し開けた通りへ出た

左右にずらりとなにかの店が並んでいてどうやらこの辺りのメインストリートらしかった

その分掲かかげられた看板の数もその

手な色しき彩さいも段だんちがいだ

(この辺なら統制機構の連中もいねぇだろ)

比ひかく的広い通りでもいかにもこの街の住人といった人間ばかりが歩いていて世界虚空情報

統制機構の例の忌いまい々ましい青と白を基調にした制服は見当たらない

ありがたい話だもし見つかれば曲がりなりにもラグナは重大犯

者周囲への配はい慮りよもな

にもなく雨あられと発はつ砲ぽうされ

から

へと集まってくる

士たちと追いかけっこを演じなけ

ればならなくなる

ラグナは左右をきょろきょろと見回しながら腹部に手をやった

疲労より空腹が辛つらいカグツチに入ってからというもの食料品を扱う店に巡り合えず持

第一章 Stratum city 階層都市29

当然最上層を占せん拠きよしているのは管理機

でもある世界虚空情報統制機構だその

連施し

設せつや

係者の住宅が市街のほとんどを占しめている

続いて権力に近く裕ゆう福ふくである者が上層階に住まいそうでない者はその

産や身分に順列を

つけるように下へ下へと下っていく

オリエントタウンに住んでいるのはそういった順列の結果ここまで追いやられてきた人間

たちだった

誰も彼もお世辞にも裕福とは言えない自分と家族それから少しの親しい人間の生活の

ことで精いっぱいで見るからに異質な白髪の男にかかわって余計な面めん倒どうに首を突っ込みたが

る酔すい狂きよ者うものなどほとんどいないのだ

もっともラグナ自身も周囲の人間の様子に気を配っている余よ裕ゆうはあまりなかった

今は使われていないは搬んに入ゆう口からカグツチに侵しん入にゆうしたのが二日前それからずっと人の通ら

ない裏道や廃はい棄きされたエリアを通ってきた図はかったわけでもないのに延々と歩かざるを得なか

った悪路に正直疲ひ労ろうが募つのっている

帰りはもっとまともな道を通ろうそう決めていた

「にしても下層にしちゃ賑にぎやかな街だな」

辺りを見回しラグナはぼやくように率そつ直ちよくな感想を口にした

オリエントタウンは無計画にとにかく乱雑に家を建て並べたことがよくわかる入り組んだ

造りをしていた道は狭くやたらに折れ曲がり家々は今にも密着しそうに身を寄せ合って建

28

「うhelliphellipう」

微かすかに震ふるえる声で呻き少女はゆっくり顔を上げる

ラグナを見上げたフードの中におそらく誰もが想像するであろう少女の顔はなかった

あるのは黒い暗い闇やみを詰め込んだような陰かげその中でへなりと下がった赤い目らしき丸と

白い歯の並ぶ下を向いた三日月形の口だけが浮かんでいる

ぴくぴくと痙けい攣れんするようにフードについている三角の耳が震えた

人間ではないけれど獣のような尻尾や耳を持つ獣じゆ人うじんとも様子が

「もしかしてhelliphellipカカ族か」

このような奇きみ妙ような風ふう貌ぼうの生き物をラグナは過去にも一度見たことがあった確か剣けんの師しし匠よう

を訪ねてきたはずだ同じような黒い顔に実にシンプルな顔のパーツ目の前にいる少女とそ

のとき目にしたカカ族の女は明らかに別人だがこのと特くち徴よう的な容

は他にあるまい

もっとも『カカ族』という名めい称しようを知っているだけでつまりどういう一族なのかをラグナは

知らないのだが

さてこの少女をどうしたものか

わらずに引き返すべきか見なかったことにして先へ

進むか

咄とつ嗟さのことに決めあぐねていると顔だけを起こしたカカ族の少女はその弱り切った様から

は想像もできない俊しゆ敏んびんさで突如ラグナの足にしがみついた

「うおぁっななんだ」

第一章 Stratum city 階層都市31

ち歩いていた保存食も底をつき昨日の夜からなにも食べていないのだそろそろいい加減

限界が近い

いくら下層街でもこの雰ふん囲い気きなら飲食店くらいいくつかあるだろうそう思って雑多な看

板からそれらしい名前を探しているとhelliphellip

なにかやわらかいものを踏ふんだ

「ブニャッ」

同時になにかの鳴き声が足元から

こえた

「げっ」

犬か猫ねこでも踏みつけたかと思ってラグナは慌あわてて足をどける

が見下ろしたそれは予想に反してずいぶんと大きなものだった

というより人だったり両よう腕うで両足を地べたに投げ出し力なく倒れ伏ふしている少女だ全身

をすっぽりと覆おおうフードつきのローブから長い三つ編みの髪とかつ色しよくの肌はだの足が覗のぞき見えてい

るhellip

hellipいや

「なhelliphellipなんだテメェ」

警けい戒かいというより疑問一色の声で問いかけるラグナの視界でひょろりと弱々しく細長い尻しつ尾ぽ

が揺ゆれた

尻尾はその倒れた少女から生えていた

30

「はぁ

おおいどうした大だい丈じよ夫うぶか」

あまりにも切せつ羽ぱ詰つまった声を出すものだからさすがに少し心配になった持ち上げていた足

を下ろして陰を詰めこんだような顔を覗きこむ

まるで黒いお面のような顔は目も口も情けなく下げてラグナを見上げ今にも気を失いそう

な弱さで訴えた

「おhelliphellipお腹なかが空すいたhelliphellipニャス」

黄色いクロスがかけられた丸いテーブルの上にいくつもの皿が並んでいた

揚あげた鶏とり肉にくに薬味だれをたっぷりかけたもの肉団子と色いろ鮮あざやかな野菜の甘あま酢ずあん炒いため四

角く切り分けた豚ぶた肉にくを甘あま辛からく味付けしたこってりとした煮に物ものに山と盛られた炒め飯牛肉と

野菜を濃い味の味み噌そで炒めたもの細切りにした野菜を薄うすい皮で包んだパリパリの春巻きに

挽ひいた肉を包んで蒸むしたふかふかの饅まん頭じゆhellipうhellip

白い湯気と共に胃いぶ袋くろを震わせずにはおかない匂においを放つ数々の料理を三角耳のついたフー

ドの奇妙な少女は椅い子すからずり落ちそうなほど身を乗り出して忙いそがしく口に掻かき込んでいた

「はぐはぐはぐニャスはぐはぐはぐはぐはぐニャスはぐはぐ」

料理を頰ほお張ばる音なのか箸はしをしゃぶる音なのか空気の抜けるような声が絶えず漏もれていた

第一章 Stratum city 階層都市33

「うぅぅニャhelliphellipた助けてhelliphellipニャス」

驚おどろいて足を持ち上げ振ふり払はらおうとしたラグナの足に両腕を絡めてぶら下がり三角耳に尻尾

を生やした少女はあわれっぽく訴うつたえる

しがみつく腕うでをほどこうとラグナは足を大きく上下に振ふりまくるが少女の腕がどういう

わけか一向に離れない

「くっこの離しやがれ

なんなんだよテメェは」

「離さないニャス絶対に離さないニャスぅhelliphellip助けてくれないとこのままオマエの足を食う

ニャスよぉぉhelliphellip」

声だけは弱々しくだが腕は言葉に反して力強くラグナの足を摑つかんで離さない

この騒さわぎでも周囲の人間は奇き怪かいなものでも見るような視線を一いつしゆんくれるだけでそれ以上

わろうとせず通り過ぎて行く

面倒なトラブルに巻き込まれる心配はなかったが少なくとも親切な通行人の手助けは見込

めなさそうだった

何度目かでいい加減に諦あきらめるラグナは足を中ちゆ途うと半はん端ぱに持ち上げたまま縋すがり崩くずれるカカ族

の少女を憔しよ悴うすいの表情で見下ろした

「待て待て待て足を食うなてか意味わかんねぇよ助けるってなんだよ」

「うぅぅhelliphellipよhelliphellipよくぞ

いてくれたニャスタオは今とってもピンチなのネもうhelliphellip

もう限界ニャス」

32

た中皿いっぱいに盛ってあったはずの春巻きはいつの間にか最後のひとつになっていた

「こんなにうまいご飯を

ってくれるなんて白い人はいい人ニャスタオはとぉ〜っても感

謝してるのニャス」

両腕を大きく振り回して少女は喜びの度合いを示そうとするその手は指先まですっぽり

と袖そでの中に隠かくれていて猫の前脚を模したように大きく丸くなっていた

ラグナは春巻きを飲み込んでから尋たずねる

「タオってのはお前の名前か」

「ニャス

タオカカニャス」

大きく頷うなずくと尻尾を持つカカ族の少女タオカカはもう一方の手に持ったままだった肉饅

頭をまた一口で頰張り飲み込こんだ

「タオは村を出て勇ましく旅立ったんニャスがhelliphellipすっかりお腹が空いて動けなくなってたの

ニャあのときいい人が助けてくれなかったらタオは今ごろ干からびてカカの干物になって

たニャスこの『ごおん』は忘れないニャスよ」

勝手に身の上話を始めながらタオカカは味噌炒めの皿を抱かかえて残っていた分を全すべて口の中

に流し込んでしまう

まだそれ食ってなかったんだけどとは言えずラグナは渋じゆ面うめんでその様を見守った仕方な

く肉饅頭をひとつ確保すると呆れを込めてため息に肩かたを落とす

「はいはいなにがご恩だよどうせ飯食ったら忘れるだろお前」

第一章 Stratum city 階層都市35

さっきまで力なく下がっていた目も今はまん丸で口も上向きの三日月形となっている

その様を横目に呆あきれ顔でながめながら向かいの席に座っていたラグナは揚げた鶏肉を口に運

んだ分厚い衣ころもがカリカリとしていてうまい久しぶりに直じか火びで炙あぶっただけでない手の込ん

だ食事だった

「helliphellipうまいか」

料理は凄すさまじい速度で減っていく奇妙な少女が嬉きき々として大量のメニューを注文し始めた

ときはラグナはとてもそんなに食べきれないと青ざめたがそんな心配は無用だったようだ

むしろ今となっては支し払はらいのほうがよほど心配だ

先だけ白くなっている尻尾をふりふりと上じよ機うきげんに揺らす奇妙な少女はふかふかの饅頭を両

手に摑つかんで顔を上げた

「うまいニャス

あれもこれもそれもぜ〜んぶうまうまニャス」

「そうかそうかそらよかったよはぁhelliphellip」

こうも屈くつ託たくなく当然のように貪むさぼられるとこいつの頭に遠えん慮りよという言葉はないのかだとか

そもそもどうして自分が見ず知らずの正体不明な少女に食事をおごっているのかだとかなぜ手

を引かれるままに大人しくこの店まで来てしまったのかだとか尽つきることなく浮うかんでくる

疑問もどうでもよくなってくる

少女はうまそうに肉饅頭を一口で頰張る

あっという間に飲み込む様に思わず苦くし笑ようを漏らしてラグナは春巻きをひとつ箸で取り上げ

34

だが現在はどちらかというと統制機構の手に負えない凶きよ悪うあ犯くはんや行ゆく方えの知れないとう

亡ぼう犯など

にかけられた多額の賞金を得て日ひ銭ぜにを稼ぐ者のことを表している

それが全てというわけではないが多くはまともな

につけなかった荒あらくれが暴力手段で稼

げる口として選ぶ道だ

女の咎追いが珍めずらしいわけではないがこれほど無防

でき緊んち張よう感のない咎追いはラグナは見

たことがなかった

「そうニャス今日からなったニャス」

「今日からかよ」

「そんでこいつを摑まえるのネ」

なぜだか誇ほこらしげにタオカカは皺を伸ばした紙をラグナに差し出した

ラグナは肉団子を野菜と一いつ緒しよに口の中で嚙かみ砕くだきながらそれを受け取る街角などに貼はら

れているような指名手配書だったあまりお目にかかれない気前のいい賞金額と共にひどく

不細工な男の似顔絵が描えがかれている

賞金首の名前はラグナザブラッドエッジ

「ぶはほっ

その名前を見た途と端たんラグナは盛せい大だいに肉団子と野菜を咀そし嚼やくしたものを噴ふき出した

「ぶにゃにゃ

いきなりご飯噴き出すなんていい人ばっちいニャもったいないニャスよ」

横で抗こう議ぎしながら最後の肉饅頭を頰張るタオカカの声も耳に入らないラグナはまじまじ

第一章 Stratum city 階層都市37

「忘れないニャス」

突とつ然ぜんピンと尻尾を真まっ直すぐに立ててタオカカはずいと身を乗り出すとテーブルの上からラ

グナを見上げた瞳どう孔こうのない丸い目ときばを並べた三日月の口がお面のようで不気味だ不気味

であるはずなのにどうしてか見つめられると愛あい嬌きようを感じる

「カカは義ぎ理り堅がたい一族ニャス受けた恩は忘れないのネいつかタオが大金持ちになったら

今度はタオがいい人にご飯を

ってやるニャス」

「大金持ちってhelliphellipお前な腹減りで行き倒だおれてた奴やつがなに言ってんだアテもねえくせに」

「ぬっふふふアテならあるニャスよ」

言ってひょいと肉団子を三つ箸に刺さして口に放ほうるとタオカカは椅子までずりずりと体を下

げて服の中からなにかを取り出した

くしゃくしゃになった一枚の紙だタオカカはそれを丸い手でテーブルの上に広げて皺しわを伸の

ばす

「タオは咎とが追おいニャス悪い奴をとっちめてたくさんお金をもらうのネ」

「咎追いだ」

怪けげんそうにラグナは眉まゆを寄せた

咎追いとはいわば賞金稼かせぎだ

元は大量の魔ま素そによって生態系が乱れ大量の新種生物が発生した

にそれらを討とう伐ばつする

べく統制機構が武装を許可した者たちのことを指した

36

「うニャいいニャスよいい人はタオのおんじんニャスからねどーんと任せておくといい

ニャス」

そう言ってタオカカはニシシと笑うと綺き麗れいに舐めた皿をドンとテーブルに置いた

その目の前に

「お待たせしました〜」

若いウエイトレスが新しくいくつもの皿を並べた

肉味噌ののっためん

とパリパリに揚がった

にたっぷりの野菜が入ったあんをかけたもの

焼き豚ぶたをスライスしたものの盛り合わせエビのすり身やら豚のひき肉と香こう味み野菜やらをもっ

ちりとした皮でくるんだ無数の蒸し物

できたての遠えん慮りよ容よう赦しやのない湯気が豊かな香かおりと一緒に天てん井じようへ上がる

「helliphellipは」

頼たのんだ覚えはないそう抗議しようとして気がついた

あのときhelliphellipラグナが自分の手配書を見ていたときだあのときタオカカが一口で食べた肉

饅頭が皿に残っていた料理の最後だった

その直後そういえばタオカカがメニューへ手を伸ばしていたような気がする

「ひゃほ〜ぅうまそうニャス

秘密の抜け道は危ないところなのネいい人もお腹いっぱ

いにしておかないとお腹空いちゃうニャスよ〜」

悪びれるどころか嬉しそうに蒸し物を引き寄せるタオカカの手をラグナは思い切り摑んだ

第一章 Stratum city 階層都市39

と手にした手配書を見る細かく手が震えた

(なhelliphellipなんっだよこの似顔絵

いくらなんでも似てなさすぎだろ

そもそもよくわかっ

てねぇなら似顔絵なんか載のせんなよ俺がこういう顔だみたいに広めてんじゃねぇよ

まさかこれがカグツチの街中にベタベタ貼ってあるのではないだろうかだとしたら憂ゆう鬱うつだ

この顔が『ラグナザブラッドエッジ』の顔だと思われていることもだがこの額で手配

書が出回っているとなるとずいぶんな数の咎追いがラグナを探しているはずだそういう咎追

いはこのカグツチにも多くたむろしているだろう

(普ふ通つうに街中通ってくのはまずいかhelliphellip)

あの青と白の制服連中に見つかるのも厄やつ介かいだが咎追いに見つかるのも厄介だそれこそこ

っちの都合などお構いなしに街中だろうがどこだろうが構わず『仕事』に取り掛かるに

ない

「helliphellipなあタオカカだっけかお前カグツチの上のほうに行く抜ぬけ道とか知らねぇか」

くしゃくしゃの手配書を返しながらラグナは心持ち身を屈かがめて声を低めたもしあるなら

多少悪路であっても面めん倒どう事ごとを引き起こすよりはずっといい

タオカカは甘酢あんだけが残った肉団子の大皿を舐なめながら答える

「おう秘密の抜け道ネ知ってるニャスよ」

「本当か

そりゃいいなあ飯

ってやる代わりにその抜け道まで案内してくんねぇ

か」

38

の腕うでを摑むとウエイトレスの手を強く払った

荷物でも担かつぐようにタオカカを肩に抱だき上げて弾はじかれたように店を飛び出す

「うニャニャッ

タオのご飯

まだ食べてないニャスよ」

「うるせぇ

それどころじゃねえんだよ」

肩かた口ぐちで

痛な声をあげ追いすがるように手を伸のばすタオカカへラグナは焦あせりのままに声を

荒げた

オリエントタウンの大通りへ出ると人波を掻かき分けて持てるき脚やく力りよくの限界にいど

いで走る

「待て

誰だれか捕まえて食いに

げだよ

後方からウエイトレスの金切り声が追いかけてくる

ぎょっとすることにウエイトレスの足はラグナに負けていなかったしゆ

念うねんのせいかもしれな

いラ

グナは足を動かしながら何度も悪態をついたまさかカグツチにやってきて最初に引き起

こす騒そう動どうが食い

げだとはこの街に上がってきたときには思いもしなかった

担がれたタオカカはしょんぼりと尻しつ尾ぽを垂らしてまだ諦あきらめ切れないのか後方へ向けて空を

掻いていた

「うう〜っタオのご飯がぁhelliphellip」

「いいから抜け道の場所を教えろ

店の奴に摑まってミンチにされてぇのか」

「みんち」

第一章 Stratum city 階層都市41

いのあまり腰こしが浮く

「おおまっなに勝手に追加してんだよ

「ニャ

いい人もうお腹いっぱいニャス

ならタオが全部helliphellip」

「ちげぇよ

こんな山ほど注文されていくらなんでも払はらえるか

俺はそんなに金持って

ねぇんだよ

そもそもラグナは仕事を持っていない時折咎追いの真ま似ねごとや日ひ雇やといの仕事で旅費を稼い

だりもするがそんなものは一時しのぎだ金がなくてまともな宿さえ取れないというのに

さっきまでの注文に加えてまだ追加がくるなんてとても財さい布ふの中身が足りると思えない

息巻くラグナの肩に手を置く者があった

ラグナは一度うるせぇとそれを払い落すだが手はすぐにもう一度ラグナの肩を叩たたき手

の主が低く

後から問うた

「お客さん

今helliphellip金持ってないって」

「helliphellipあ」

言われラグナが振ふり向いた先に立っていたのはラグナよりずっと

の低いウエイトレス

だったにこやかに微笑ほほえんでいるがその目はどこか殺気じみている

「金持ってないって」

ウエイトレスはもう一度問う

その直後ラグナはまるで事態がわかっておらず蒸し物をパクパク口に運んでいたタオカカ

40

2199年12月30日||13時35分

灰色の雲に閉とざされた空を

景に一そう

の船が港に到とう着ちやくした

船といっても海を渡わたる船ではない渡るのは空だ

膨れた腹部に人間や機材といった貨物を詰つめて運び左右に伸びた翼つばさに魔素を取りこみ飛行

する魔操船

当然空飛ぶ魔操船が停てい泊はくする港も相応の造りをしている

第十三階層都市カグツチ第五番ポート他に比べて小さく目立たない造りになっている

そこはある特定の目的に多く使われるポートだった

身を寄せるように入港した暗色の魔操船の重々しい稼か働どう音おんが止まりハッチが開いて細身の

階段が下方へ伸びる

銃じゆうを肩かたに下げた青と白の制服

士が数名

りてきて慌あわただしく持ち場につき無線機で

なにやら報告を交かわす

それから遅れることしばしポートの平たい地面に向かう階段に黒い革かわぐつの足がかけられ

た続いてひょいと細身を覗のぞかせるように現れたのは黒いスーツに身を包んだ

の高い男だ

第一章 Stratum city 階層都市43

「肉だよ肉

さっき並んでた料理になりたくなきゃさっさと教えろ」

なにも本気で店員が自分たちをミンチにすると思って言ったわけではないが遅れて意味を

理解したタオカカは真に受けたらしいびくりと尻尾が飛び上がって警けい戒かいするように太く膨ふく

れる

「お肉にされたらお肉が食べられなくなっちゃうニャス

それはいやニャス」

肩の上で器用に身を捻ひねってラグナの前に着地するとタオカカは獣けもののように両手を地面につ

いて走り出す

「いい人こっちニャス」

「よしわかった」

タオカカが飛び込むようにして細い路地に入るい一つしゆん反応が遅おくれたもののラグナも空の籠かご

をひっくり返しながらそれに続いた

ネオンの看板から遠くなりぐっと辺りが薄うす暗ぐらくなる

走りながらラグナはげんなりと自じちようするように思った

今日の食い

げの分明日から自分にかけられている賞金が増額するかもしれないなhelliphellipと

42

青のブーツで雨水を

ね上げながらハザマのいる管理小屋の前まで行くと軽く息を整えて

を正す

空色の瞳ひとみは凜りんとしており生き真ま面じ目めな表情をしていた

「お待たせしてしまってすみませんでも一声かけてくださればよろしかったのにhelliphellipまだ

中にいらっしゃるのかと思って探しておりました」

「おやおやそれはそれはお手数をおかけしましたツバキヤヨイ少しよ尉うい」

その瞳が示す通りどこまでも生真面目に話す女性をツバキと呼んでハザマは口の端はしを深く

吊つり上げ笑えみを浮うかべた

ツバキヤヨイ少尉彼女はハザマのように諜報部の所属ではなく世界虚空情報統制機構

武装魔ま術じゆ師つし第四師団の所属だった

世界虚空情報統制機構とは国家というがい

念ねんのなくなった現世界においてその代役を担になう重

大にして巨きよ大だいな機

だ帝みかどと呼ばれる絶対的な決定権を持つ存在を頂点に掲かかげ世界中の施し政せい

司法軍事あらゆる社会的基き盤ばんを管理し運営している

それだけに設けられている部署は膨ぼう大だいであり役割の異なる部署が共にひとつの任務に当た

ることはひん

繁ぱんにあることではない

だがツバキとハザマはちが

う部署でありながらとある任務のためにふたりでカグツチへとや

ってきていた

「いやぁしかし生あい憎にくの天気ですねぇこの雨の中広いカグツチでひとりの男を捜そう索さくすると

第一章 Stratum city 階層都市45

った

緑の髪かみにのせた黒い帽ぼう子しを指で押さえて男は尖とがった顎あごを上向かせ空を仰あおぐ目ま深ぶかにかぶっ

た帽子のせいで目元は見えないが薄うすいく唇ちびるは不満そうにへの字に歪ゆがんでいた

「あらま雨ですか」

空一面を埋うめ尽つくすように広がる灰色の雲からは静かな雨が

っていた

もうずいぶん前から

り続いていたようで狭せまい五番ポートはどこもかしこもすっかり濡ぬれ

ている雲に動きもないようだししばらくはこのまま

り続けるだろう

やれやれとうんざりしたようにため息をつくと男は足早に屋根のある場所へと移動した

黒スーツの男は世界虚こ空くう情報統制機構||多くは統制機構とり略やく称しようで呼ぶ機

のち諜よう報ほう部に

在ざい籍せきしている名はハザマ階級は大たい尉い

彼が乗ってきたこの魔操船はその諜報部の名前で使用された船だ

この五番ポートはそういう統制機構の中でも公おおやけにできない任務や用件のときに多く利用さ

れるいわば人目を避さけるためのポートだった

「ハザマ大尉

外にいらしたのですね」

魔操船の階段から女の声がかかりスーツについた水すい滴てきを払っていたハザマは顔を上げた

青と白の制服にそろいのポンチョを羽織った若い女性が足早に階段を駆け下りてきた青の

ベレー帽ぼうをかぶっておりそこから腰をも越こすほど長く伸のばされた鮮やかなカメリアレッド

の髪が流れている

44

視線を上げればここからでも高山の頂上から突つき出るようにそびえる美しく壮そう麗れいな支部の

が見られたただ今日は悪天候のため雨のカーテンが視界を煙けむらせる

霞かすむ支部を見上げてツバキはわずかに眉まゆを寄せた

「helliphellipなぜキサラギ少佐はカグツチなどに」

それはジンのことを知る者なら誰もが抱くような疑問だった

第四師団団長ジンキサラギは

常に冷静な人物だメリットとデメリットを十分分ぶん析せきした

上で行動する思し慮りよ深ぶかさを持っているしなにより突然統制機構に

を向けて己の立場を危あやうく

させるような愚ぐち直よくなタイプではない

こんなことは実に『彼らしくない』行いだ

思い悩なやむようなツバキの

にハザマは少し驚おどろいたように「おや」と言った

「これは意外ですねツバキヤヨイ嬢じよう貴女あなた

ほどの聡そう明めいで優ゆう秀しゆうな方がおわかりにならな

い」

口元に笑みを刻んで問うハザマの試ためすような口調にツバキは小さく胸中がざわつくのを感

じたいや

味みな言い方をする男だ

ツバキはハザマという男をよくは知らないだから彼がどういうつもりでこういった物言い

をするのか

しもつかない

だがこの一言だけで黒いスーツに身を包んだ彼を好ましくないと判断する程度には気に障さわ

る語調だった

第一章 Stratum city 階層都市47

なると中々骨が折れそうです」

また帽子に手をやって雨を

りこぼす曇どん天てんを見上げハザマが今度はどこか愉ゆ快かいそうに言う

彼らの任務は人探しだった誰を探すのかといえば

「それでもなんとしてもキサラギ少しよ佐うさを探しませんとhelliphellip」

ツバキは視線を足元に落とし己おのれに言い

かせるように呟つぶやく

ジンキサラギ少佐それがツバキとハザマが探している男の名前だった

武装魔術師第四師団の団長でありツバキにとっては直属の上司だ彼の秘書官として側そばに

仕え支えてきた

その彼が数日前突とつ然ぜん統制機構の本部から

を消した

任務でもなく届け出もないこれは統制機構において重大な規律い反はんだ

一師団を預かる団長が独断行こう為いにより行ゆく方え不明などという事態は前代未みもんだ部下や他師

団に影えい響きようを与あたえるからと今のところこの一件は公になっていない

だが現状がどこからか漏えいする可能性もあるその前になんとしても連れ戻もどさなければと

ごく秘ひ任務を命じられたのがハザマであり彼が協力者に選んだのがジンキサラギの秘書官で

あるツバキだった

冷たい雨が空気を冷やすそのせいだろうか五番ポートは金属のにおいがたちこめていた

濡れた灰色の階段の向こうに上層階らしい整理された街並みがうかがえる奥へ進んでいくつか

階層を上がれば最上層である世界虚空情報統制機構カグツチ支部だ

46

だがハザマは欠片かけら

も気にした様子なくむしろそれこそ子供の反はん抗こう的な物言いに噴ふき出すよ

うに軽く笑った

「あららそっちでしたかこれは失礼いたしましたツバキヤヨイ少尉」

帽子に手をやりわずかに持ち上げて会えし釈やくしてみせるその間もずっと彼の細い首はくつく

つと喉のどを鳴らすような笑いに震ふるえていた

「少佐がなにをお考えなのかなんて我々にわかるはずもありませんよそれこそご本人を見

つけて直接お尋たずねになってはいかがです」

そうできないから疑問なのだと苦く胸中で思ったもののツバキは余計な言葉を奥にしまい

こんだ今必要なのは疑問でも感情でもないそう自分に言い

かせる

「helliphellip了りよ解うかいしました大尉」

ツバキが生き真ま面じ目めに答えるとハザマはもうひとつ笑ってから切り出した

「さていつまでもおしゃべりしていても仕方ありませんしそろそろお仕事を始めるとし

ますか」

仕事つまりはジンキサラギの捜索だ

ツバキはハザマへのけん

悪お感ではなく任務への使命感に表情を引き締しめる

ハザマは雨に濡れたカグツチの街並みを見やりながらにんまりと唇を引いて言葉を続けた

「まず確かく認にんしておきましょう我々の任務はジンキサラギ少佐を捕ほ獲かくし本部へ強制帰き還かんさ

せることただし少佐の失踪の件は公にされていませんからカグツチの

士たちへは内密に

第一章 Stratum city 階層都市49

小波のような不快感を飲み込んでツバキは

士の顔を取り繕つくろいせ筋すじを伸ばすたとえ好ま

しくなくてもツバキは少尉でハザマは大尉上官だ

「申し訳ありません大尉私にはhelliphellip」

「貴女からの報告にあったではありませんかキサラギ少佐は例の『死神』に

する報告を受

けた翌日に

を消したのだと」

ハザマは両手を軽く広げてみせる

さっきのからかうような物言いのせいだろうかそんな仕草でさえツバキにはどこか

に映る

「報告の中には『死神』つまり指名手配中のラグナザブラッドエッジがカグツチに向か

っているらしいという情報もあったそのうえで少佐がカグツチに向かったのならそれはも

う『死神』を追っての行動だとしか考えられないでしょう」

統制機構を出たジンの行き先がカグツチであるとの情報を持ってきたのはハザマだった

うっかりそんな情報を摑つかんでしまったがためにこんな辺へん鄙ぴな場所への任務を命じられてしま

ったと愚ぐ痴ちめいたことをツバキは魔操船の中で散々

かされていた

「恐おそれながらハザマ大尉それは私にもわかります私が疑問なのはなぜ少佐が統制機構を

飛び出してまで『死神』を追わなければならなかったかです」

いささかむっとしてツバキは言う言ってからすぐ無礼が過ぎたかと危きぐが過よぎった

にあるまじき子供じみた態度だったかもしれない

48

てもらえますか」

「別件ですか」

戸と惑まどうように尋ねたツバキの質問に対しハザマは肩をすくめるような苦くし笑ようだけを返し具

体的な言葉は告げなかった

ハザマの所属は諜報部だ他部署へ言えぬ用事も多かろう見えない目的に少々の怪けげん

さを

感じながらもツバキは配はい慮りよのつもりでそれ以上尋ねるのをやめておいた

「わかりましたでは下層のhelliphellipオリエントタウンの辺りから調査してみます」

「そうですねあそこはカグツチでも一番広いエリアですし身を隠かくすにはうってつけですか

らいいと思いますよ」

うんうんと適当に頷うなずきながらハザマは一歩歩み寄るとわざわざ腰こしを折って下方から覗のぞき込

むようにツバキを見た

帽子のつばで瞳が見えないけれど絡からみつくような視線が確かにこちらを捉とらえているのがわ

かる

子供に言い

かせでもするようにハザマは人差し指を一本立てた

「ただひとつ気を付けてくださいね治安が行き届いていない場所はキサラギ少佐が身を隠

している可能性も高いですが同時にラグナザブラッドエッジがうろついている可能性も

あります万が一おふたりが鉢はち合あわせて戦せん闘とうなんてことになったらもう私たちには手も足も

出せませんから」

第一章 Stratum city 階層都市51

お願いしますよ部外者はもってのほかです」

「はい」

「それから現在カグツチにはラグナザブラッドエッジが潜せん伏ぷくしているとみられますそ

のためD警報が発令されていますのでそのつもりで」

D警報とはつまり統制機構による特別警けい戒かいが行われているという意味だそのためカグツ

チの住民でない者や統制機構とは

係のない他機

がこの都市でなにがしかの活動を行うこ

とを禁止している

「D警報に抵てい触しよくする者と接触した場合はカグツチの支部に連れん絡らくを取ればよろしいのでしょう

かそれともこちらで対処したほうが」

しゃんと

筋を伸ばしハザマを見み据すえて問うツバキの様はどこにでもいる一

士と片付け

るにはいささか毅き然ぜんとしすぎる品をたたえていた

それもそのはずだ彼女は統制機構を創設当初から支え幾いく人にんも重役をはい出しゆつしてきた十二宗家

のひとつヤヨイ家本家の娘むすめなのだから

だがハザマはツバキの纏まとう品もそこからくるどこまでも真面目な性しよ分うぶんもなにもかもが面めん

倒どうくさいと言わんばかりに口元を歪めると実に雑に答えた

「あー適当でいいですよお任せします」

「はhelliphellipはい」

「じゃあ私はちょっと支部に別件の用事があるんで先に下層のほうから捜索を始めておい

50

ハザマの気さくさに引きずられることなくツバキはあくまで部下として返事をすると堅かた

苦くるしく

筋を正した

「それでは大たい尉い私は下層を見て回ってきます」

「ええよろしくお願いしますよ今のカグツチは物ぶつ騒そうですからお気をつけて」

「はい失礼いたします」

腰を折って一礼しツバキは管理小屋の狭せまい軒のき先さきから雨の中へと駆かけ出した小さく水音を

はねさせながらポートから街中へと向かう階段を上がっていく

腰までを覆おおう青いポンチョがカメリアレッドの髪かみと共に躍おどり去っていくのをハザマは管理

小屋の壁かべに寄りかかって見送っていた

やがてひ翻るがえるポンチョの青もツバキが

ね上げる水の音も完全に雨の向こうに消えるとゆっ

くりと身を起こす

「本当にお気をつけて」

低く声を喉のど元もとで濁にごらせるように呟くとハザマもまた雨の中へと悠ゆうゆ々うと踏ふみ出した

第一章 Stratum city 階層都市53

「そうhelliphellipですね」

ツバキは身を引くように俯うつむいて苦々しく答えた

ジンは統制機構でも並ぶ者なしとまで言われる剣けんの使い手だそのうえ約百年前の黒き獣けものと

の戦争『暗黒大戦』で使われたとされている事象兵器

アークエネミー氷ひよ剣うけんユキアネサを所持している

そして『死神』ラグナザブラッドエッジはこれまで数々の統制機構支部をたったひとり

で壊かい滅めつさせてきた相応の力を持った人物

このふたりがもしも刃やいばを交えることになればツバキにもハザマにも止めることはできない

その最大の理由をハザマがなぜか陽気に言い放つ

「いやはやなにせ私も貴女も戦闘は専門外いざ荒あら事ごととなったらからきしですからねぇ」

ツバキは統制機構の士官学校を出ているため最低限の戦闘訓練は経験しているだがそれ

も護身術程度のことだ卒業後はジンの秘書官として日々書類や来客の相手ばかりしてきた

そんな状態で戦闘技術の向上が見込めるわけもない

一方のハザマも自身で言う通りち諜よう報ほう活動にこそスキルはあれど武力をもって事態に当たる

ことは不得手だった

ハザマは武具の似合わない生白い手でひらりと宙を払はらってにんまりとく唇ちびるを引く

「まお互たがい無理せずいきましょう我々のお仕事はキサラギ少佐を連れ帰ることですから

そこをお忘れなく」

「承知いたしました」

52

の声だった

「しhelliphellip失礼いたします」

答える声が震えたドアノブを摑む手はもっと震えていた

転んだりしたらどうしようああどんな顔をしていたらいいだろう顔が赤くなってしま

いそうでそれだけは必死に堪こらえて平静を取り繕って

ツバキは部屋の中へと入る

最初に目に入ったのは机に向かってペンを走らせるひとりの男性の

だった

後にある窓から入り込んだ日の光が掠かすめて彼の美しい金色の髪を煌きらめかせていた長い

睫まつ毛げの向こうで情感薄うすく書面を見下ろしている瞳ひとみは離はなれた部屋の入り口からでもわかる澄す

んだ緑色をしているはずだ

部屋には彼以外誰だれもいなかった

を丁てい寧ねいに閉めると室内にはツバキとふたりきりだ

何事か書き終わったらしく机に向かっていた彼はどこかおっくうそうに顔を上げるそれ

からその目を驚おどろきに見開いた

「ツバキhelliphellip」

呼んでくれた声は

の外で

いた義務的な声とはちが

っていた

感情の温度が灯ともった声こわ色いろは表情と同じように驚いた風でそのせいかさっきより少しだけ上うわ

ずったように音が高い

「どうしてお前がここにhelliphellip」

第一章 Stratum city 階層都市55

helliphellipそれはほんの数年前のけれどかけがえのない数年をさ遡かのぼった

ある日のことだった

世界虚こ空くう情報統制機構統合本部

真まっ直すぐに伸のびる白タイルの床ゆかをツバキは緊きん張ちようの面おも持もちで歩いていた

初めて袖そでを通してまだ日数のたっていない青と白の統制機構

士の制服はまだ体に馴な染じんだ

とは言いがたくて頭に載のせたつばのない帽ぼう子しもコツコツと床を叩たたくブーツもそつなく着

られているか心配で仕方ない

胸に書類のファイルを抱えてこれで何度目になるかわからないけれど最後にもう一度長く

伸ばした髪を指先で整えて

それからツバキは目的地であったとびらを控ひかえ目にノックした

「||入れ」

一いつ拍ぱくの間をおいて

の向こうから声が返ってくる

そのしゆ間んかんツバキの心臓がドキリと大きく

ねた

感情の遠い義務的な声けれどわずかに少年らしい響ひびきの残った声はツバキがよく知る人

54

十二宗家本家の出の者が同様に宗家本家の出であるジンの秘書に着くという事例は稀まれだ

その辺りからツバキの無茶を

したのだろうジンは呆あきれたように苦笑する

思わずツバキは震ふるえる吐と息いきを漏もらした久しぶりに見たジンの笑顔だった

「秘書が来るとは

いていたがまさかお前だったとはなhelliphellipよろしくツバキヤヨイ少

尉」そ

う言ってジンは白い手てぶ袋くろをはめた手を差し出す

ツバキはファイルを小こ脇わきに抱えると見上げてくる綺き麗れいな緑色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し

ながら差し出された手を握にぎった

この日この時からツバキの師団長秘書としての日々が始まった

を追いかけるばかりだった士官学校での後こうはい時代とは

うとなりに

側そばに立ち

務を支える

時間が始まったのだった

2199年12月30日||17時30分

カグツチの下層へ

りていきながらツバキは注意深く周囲へ視線を向けていた

もう少し先へ行けばオリエントタウンと呼ばれるエリアに入るはずだそこはカグツチの中

第一章 Stratum city 階層都市57

仕事中らしからぬ砕くだけた物もの腰ごしにツバキは強こわ張ばっていた頰ほおを緩ゆるめたすとんと緊張が抜ぬける

「書類は届いているはずですよお読みになっていないんですか」

ツバキはファイルを抱えて机の前まで行くといぶかしげな彼へ敬礼し

筋を伸ばした

「本日付けで武装魔ま術じゆ師つし第四師団団長ジンキサラギ少しよ佐うさの秘書官に任命されましたツバ

キヤヨイ少しよ尉ういであります少佐よろしくお願いいたします」

型通りだけれど昨晩から部屋で何度も練習した言葉だ

ミスなく言えたことにツバキがほっとしているとジンが驚おどろきに持ち上げていた眉まゆをわずか

に怪けげんそうに寄せた

「少しよ尉うい」

問われた理由はツバキにもよくわかる

ツバキは世界虚こ空くう情報統制機構において貴族的地位にある十二宗家の生まれだ十二宗家の

者は統制機構の士官学校卒業後最低でも中ちゆ尉ういの階級を与あたえられる

ツバキも例外ではなく卒業直後は中尉であったそれがなぜ現在少尉なのかというと

重大な理由がある

「それはその」

ツバキは言いにくそうに口ごもった

本来別の配属だったところをどうしてもジンの秘書官になりたいと粘ねばりその要望を通す代

わりに

格となったとは彼の前ではとても言えない

56

かしこも濡れていた

通り過ぎる建物細い横道の向こう物もの陰かげすれ

う人ツバキは視界に映るすべてに神経

を向ける

自然と歩調が速くなるのは募つのる焦あせりゆえだ知らず知らずのうちに手はきつく握られていた

(キサラギ少佐helliphellip)

もう何度心の内で呼びかけたかわからない

唇を固く引き結びまるで縋すがるように視線を左右へ走らせるその表情はただ行方ゆくえ

不明の上

官を探しているだけには留とどまらない深い感情の揺ゆれがあった

(どこにいるんですかhelliphellipジン兄様helliphellip)

ツバキはジンキサラギの秘書官だだがそれ以前からジンはツバキにとって特別な人だ

った

ツバキが十二宗家ヤヨイ家の娘むすめであるならジンは同じく十二宗家キサラギ家の子だ互い

に幼いころから知っていた幼いころから顔を合わせ言葉を交かわし時には子供らしく遊ん

だりもした

ツバキが統制機構の

士を目指して士官学校に入ったのも先に入学し将来は師団長を期待

されていたジンの後を追いかけたかったからだ

ジンは勉強も武術もなんでもできたけれどツバキは運動が苦手だっただからせめて勉強

だけは追いつこうと必死に学んだ学生時代はジンが会長を務める生徒会で共に働いたことも

第一章 Stratum city 階層都市59

でも一ひときわ広く人口の密集したエリアだと

いている

人を探すには不向きな場所だだがだからこそジンが足を向けた可能性はあるとツバキは

考えていた

そこならば容易に人ごみに紛まぎれることができるし入り組んだ路地や階層都市の構造のすき間ま

に身を隠すこともできるなにより下層は統制機構の

士が少なく上層に比べて監かん視しの目が

緩い

統制機構が追手をかけることはジンも十分わかっているだろうならばその目を避さけるのは

当然のことだ

同時に同じように追われる身であるラグナザブラッドエッジが下層を潜せん伏ぷく場所に選ぶ

可能性もジンならば考えたはずだ

硬かたい地面に青いブーツのくつ音おとを響かせてツバキは足早に歩く鮮あざやかな色の髪がしっとり

と雨に濡ぬれる

短い階段を

りるとその先はオリエントタウンの街外れだった

使われているのかいないのかわからない寂さびれた雰ふん囲い気きの倉庫が並びその先にわずかに芝しば生ふ

の植えられた広場のようなものがあるぽつんと佇たたずむ外灯は所々に錆さびの染しみがこびりついてい

た下

層は上層の地盤があるためほとんどが空をさえぎられ屋外でありながら屋内であるかのよう

に天候の影響を受けにくいだがこの辺りはまだ他層より突つき出しているらしく雨でどこも

58

けれど『死神』を統制機構の他

士と同じように考えるのは危険だ

彼は単身で統制機構を相手に反逆行こう為いを繰くり返かえしこれまでただの一度も拘こう束そくされることな

くとう

亡ぼうを続けている並なみ大たい抵ていの力では不可能だということを彼を追うべき立場でもあるツバ

キはよく理解していた

ラグナはおそらくとても強いもしかしたらジン以上に

それになにより恐おそれるべきはそのき凶よう悪あく犯が持つ魔ま導どう書しよだ

||蒼の魔道書

ブレイブルー

かつて黒き獣けものと戦った暗黒大戦時代にある魔ま法ほう使つかいによって術式という技術が開発された

魔法を模したもので魔素を使い火を熾おこしたり水を呼んだりと様々な現象を引き起こすことが

できる技術だ

その術式を扱あつかうために必要な鍵かぎが魔道書だった

蒼の魔道書

ブレイブルー

は世界中に数え切れないほど存在している魔道書の中でも最強と囁かれている

(ジン兄様でも蒼の魔道書

ブレイブルー

を相手にして無傷でいられるはずがない下手をしたらhelliphellip)

そこまで考えてツバキは走った悪お寒かんに身を震ふるわせた

蒼の魔道書

ブレイブルー

は最強とその威いり力よくを絶大に評価されながらも詳くわしいことは知られていないとい

う奇きみ妙ような魔道書でもあった

そもそも魔道書は〞書〝でありながら形状は様々で本の形をしているとは限らない

ラグナザブラッドエッジの蒼の魔道書

ブレイブルー

も彼が持っているという事実は認にん識しきされている

第一章 Stratum city 階層都市61

あった

淡たん白ぱくな物言いをしたり鋭えい利りな目つきをすることがあったから周囲は時折彼のことを冷たい

人だと囁ささやいた

けれどツバキにとってはいついかなるときも彼は優やさしい兄だった

細く美しい金色の髪に涼すずしげな緑色の瞳すらりとした体たい軀くに白い肌はだ整った顔立ちそ

の聡そう明めいな横顔に時々本当に時々だけれどhelliphellip見み惚とれたりもした

頼れるツテというツテを頼ってどうにかジンの秘書官の座を手にしたときはどれほど嬉うれし

かったことか

慕したっていた憧あこがれていた屋や敷しきの奥でひとり毬まりつきをしていた幼子のころから今でもずっ

「ジン兄様helliphellipっ」

急ぎ足だった歩調はいつしか小走りに変わっていた爪つま先さきが小さな水たまりを踏んで水すい滴てきを

ね上げる

一刻も早く見つけ出したかった心臓が軋きしむように胸を打つ

ツバキの頭に浮うかぶ最悪のケースはやはりどこかでジンと『死神』ラグナザブラッド

エッジが遭そう遇ぐうしてしまうということだった

ジンは強い統制機構の中でも彼とまともに剣けんを交えることができるのは数えるほどしか

いないだろう

60

ぎゅっと一ひときわきつくこぶしを

胸むな元もとで握るとツバキは首をふって雑念を払はらった

余計なことを推測している場合ではない今は一刻も早くジンを探すことそれだけを考え

なければ万が一今回の行動のせいでジンが反逆者とみなされたりしたら取り返しがつか

ない

急ごう自分をしつ

咤たするように大きく足を踏ふみ出してなにやら小さく物音の

こえた広場

の裏手へ回ってみる

物置だろうかふたつ並んだ小屋の裏を通り抜けようと狭せまい角を曲がった

その途と端たん目の前に壁かべが現れた

「きゃっ

あまりに突とつ然ぜんのことでとても対処できずツバキは進入した

いそのままに壁に激げき突とつした

だが直後に気付く

壁というにはあまりに分厚く建材にしては感かん触しよくがやわ

らかい

「むhelliphellip」

壁の向こうから声がした腹に響ひびくような低い男の声だ

ツバキの目の前にそびえるそれは壁などではなく見上げるほど巨きよ大だいな男の

中だった

「ああすまなかった怪け我がはないか」

そびえる巨きよ軀くはその異様なまでの圧あつ迫ぱく感に似合わぬ紳しん士し的な物もの腰ごしで語りかけのそりと重く

振ふり返る

第一章 Stratum city 階層都市63

もののそれがどんな形状をしているのかはわかっていない

それどころかいつどこで蒼の魔道書

ブレイブルーが造られその秘ひめたる力はどんなものなのか世界

虚空情報統制機構のち諜よう報ほう部ですら正確には把は握あくしていないという

ただでさえ強い『死神』であるのにそのうえ正体のわからない魔道書まであってどう楽

観視できるというのか単身でいどみかかるなど無茶にもほどがある

(helliphellipジン兄様はラグナザブラッドエッジを捕つかまえるためにひとりでカグツチまで来た

のかしら)

物もの影かげに目を凝こらしながらツバキは独り言のように思った

たとえ独断行動によって強制帰き還かん命令が下されているとしてもジンは統制機構の

士であ

り師団長だ『死神』を追って統制機構を飛び出したのだとしたらその目的は凶悪犯の捕ほ縛ばく

以外に

えられないとツバキは思っていた

けれど本当にそうなのだろうかふとそんな疑念が過よぎる

(でもだってそれならどうして誰にも言わないで出ていく必要があったっていうの私に

もなにも言わないで)

なによりそのことが胸に突き刺ささる

ジンは心根の読めない人だけれどそれでもなにかあったときはいつだって一声かけてくれ

たのに

「ううん理由はジン兄様を見つけてから直接

けばいいことよ」

62

者も多いそのほとんどはべつ

称しようとしての呼称だ

赤鬼と呼ばれた巨きよ漢かんがどんなつもりでその

称を使ったのかはツバキには読めないけれど

好感情でないことは見るからに明らかだった

テイガーは身構えることこそしなかったものの眉み間けんに深い皺しわを刻み厳いかめしい渋じゆ面うめんでツバ

キを見み据すえる

「helliphellipすまん図書館の

士と接せつ触しよくした」

ツバキから視線を逸そらし耳元へ大きな手をやってテイガーが低く何者かへ告げる直後に

ノイズのような音が走った通信だ

「通信を切ってくださいそこを動かないで」

素す早ばやくツバキは護身用に支給されているけん

銃じゆうを腰こしから抜ぬいたしっかりと両手で握にぎり銃口

を赤鬼へ向ける

テイガーはわずかに首を動かしてツバキを見やったもっとも分厚いレンズの丸眼鏡ごし

では奥の眼まな差ざしまではうかがえない

見下ろす威い圧あつ感に気け圧おされそうになりながらもツバキは努めて厳しく赤鬼を睨にらみ据すえた

「現在第十三階層都市カグツチにはD警報が発令されています第七機

を含ふくめ全すべての他機

の介かい入にゆうは禁止です答えなさいここで一体なにをしていたのですか」

「やれやれ銃を下ろせ

士の少女そんな玩おも具ちやのようなものでは私のボディを傷つけるこ

とすらできんぞ」

第一章 Stratum city 階層都市65

異様なのはなにも体の大きさだけではなかった

人の肌にしては赤みの強すぎる肌の色ただでさえ屈くつ強きような太い腕うでに取りつけられたぎ仰ようぎ々ようしい

手て枷かせのようなパーツ引き締しめられたく唇ちびるから上向きに伸のびる白いきば

鬼おに

約百年前に滅ほろびた日本という国の昔話にそんな怪かい物ぶつが登場したはずだツバキは幼いころに

読んだ絵本を思い出す

それと同時に目の前にいる赤い巨きよ人じんが誰だれなのかを思い出した

「貴方あなたhelliphellip第七機

の赤あか鬼おに」

呼ぶと同時にツバキは数歩下がって身構えた

第七機

術式を主体とした統制機構の世界統治に異を唱え術式に頼たよらない世界を作ろう

と企くわだてている外部機

赤鬼はその第七機

に所属する兵士でありその巨軀からも想像できるように圧あつ倒とう的てきな制圧

力を誇ほこる

正式名めい称しようはTR0009アイアンテイガー

第七機

の研究者によって造られたサイボーグだ

向こうもこちらの

に気付いたようでツバキの胴どう回りよりも太そうな足を一歩引いた

「その制服図書館か」

術式の乱用を防ぐために世界中の魔道書を集め管理していることから統制機構をそう呼ぶ

64

きません」

まるでなだめるように語りかけるテイガーの語調が余計にツバキの態度を頑かたくなにさせる

ここで弱よわ腰ごしを見せればそれは統制機構そのものが第七機

に対して弱腰になったとみなさ

れるようなそんな気がしていたそんなことは許されない

世界の秩ちつ序じよを守る統制機構の

士が平和のために戦う武装魔ま術じゆ師つし第四師団の団長秘書が

規律を犯おかした第七機

の兵士と取り引きめいたことをするなんて

銃を構え巨体の赤鬼を見据えたままツバキは手の中に握りこめる小さな通信機を取り

出した

ひとりでは対処しきれない早急に応おう援えんを呼ぶ必要があった

「武装魔術師第四師団所属ツバキヤヨイ少しよ尉ういです現在カグツチ下層オリエントタウンで第

七機

のhelliphellip」

「参ったなできれば穏おん便びんに済ませたかったのだが」

赤鬼が低くなにごとか呟つぶやく

その言葉の意味をツバキが理解するより早くテイガーが大きく前に踏み出した

伸ばされた腕がまたたく

間にツバキに迫せまる軽く握られていた

がツバキの目の前で開かれるや

否いなや

「きゃぁっhelliphellip」

放たれた電でん撃げきが通信機を弾はじき飛ばしツバキに細い

鳴を上げさせた

第一章 Stratum city 階層都市67

「っそんなことは

いていません質問に答えてください」

呆あきれたようなテイガーの物言いに咄とつ嗟さに腕を引き戻もどしそうになったがそれを堪こらえてツバキ

は銃口と眼光を向け続ける

相手はサイボーグだ戦いになったらもちろん勝ち目はないがそれ以上ににげられたらと

ても追いつけない

自分の任務はジンキサラギの捜そう索さくだと重々承しよ知うちしているだが周囲には他に統制機構の

士の

はないここで見みのがせば彼ら第七機

がカグツチと統制機構にどんな混乱をもたら

すかわからないと

えるととても目をつぶることなどできなかった

ザザッと再びノイズが走る

「ああ大だい丈じよ夫うぶだ問題ないすぐに任務に戻る」

通信の相手の声はツバキには

こえないただそれに答えるテイガーの声はあまりに危機感

から遠くすでにツバキとの問題は解決したとでも言うかのようだ

侮ぶじ辱よくされたような思いに駆かられてツバキは鋭するどく声を尖とがらせる

「通信を切りなさい

勝手な行動は許しません」

「そういきり立つな我々はなにも統制機構の業務を妨ぼう害がいするためにカグツチに来たわけでは

ないどうだここはお互たがいかかわらなかったことにしないかこのまま行ってくれれば私は

お前に危害を加えなくてすむ」

「それは反逆の意志ありということですか

どんな目的にせよこの場を見

すわけにはい

66

2199年12月30日||18時00分

幾いくつの路地を抜け幾つの角を曲がっただろう

人のような

をしながら人にあるまじき動きで先導するタオカカがラグナを連れてやってき

たのは外の明かりも差し込まぬ暗い暗い下水道だった

「こっちニャスよいい人〜」

呼びかけタオカカは投とう棄きされたらしい瓦が礫れきやら壊こわれた家具やらの山をひょいとと

び越こえた

外から隔かく離りされた場である上に時間も遅おそいたとえ微かすかなすき

間まがあってもわずかな光さえ

望めない

それなのにラグナやタオカカが問題なく歩けているのは投棄された瓦礫や積み上がったヘ

ドロにこびりついて生えている奇きみ妙ような苔こけのおかげだった

それらがほのかに青緑色の光を帯びているせいで下水道は一寸先も見通せない暗くら闇やみに閉とざ

されずにすんでいる

タオカカを追いかけて粗そ悪あくな足場に多少もたつきながらもラグナが続く

「おい本当にここから上に出られるんだろうな」

第一章 Stratum city 階層都市69

その一撃だけでツバキの意識は遠のいたかくりと膝ひざが折れ力なく崩くずれ落ちる

「っとhelliphellip」

そのたおやかな体が硬かたい地面に倒たおれ伏ふす前についさっきまで電撃を纏まとっていたテイガーの

腕が受け止める

そのまま抱かかえ上げると力なく気を失った青と白の制服の少女を見下ろしテイガーはため息

をついた

「やはりひ戦せん闘とう要員か無茶をする」

『helliphellip言っておくが

わるなよ』

ノイズが走りテイガーの通信機から不ふ愉ゆ快かいそうな女の声が漏もれた

ツバキを抱えたままテイガーは空いていたもう一方の手を耳元にやる上向きの

のよう

な犬歯が突つき出た口元はツバキと対たい峙じしていた先さき程ほどよりもさらに苦々しく歪ゆがんでいた

「雨の中でこんな街外れに放ほうり出すわけにもいかないだろうまだ若い娘むすめだ」

『任務が最優先だ余計な時間はない』

「helliphellip少しの間通信を切るぞココノエ」

『なんだと

おい勝手な真ま似ねはhelliphellip』

装着している本人以外には

こえないであろう小さな音をたてて通信は途と切ぎれた

テイガーは雨

る広場に

を向けて歩き出したその足が向かう先には空を上層の市街に

さえぎられ提ちよ灯うちんの明かりとネオンが煌きらめく薄うす暗ぐらい街オリエントタウンが広がっていた

68

「ニャス」

「かっぱらいじゃねぇか」

張り上げたラグナの声はくわんと寒々しく下水道に響ひびいた

その反はん響きようが

まると今度はまたじめっとした静けさがやってくるどこからか滴したたり落ちて

床では

ねる水の音がいちいち不気味だった

色いろ濃こい影かげの向こうで得体の知れないものが蠢うごめいてこちらを覗のぞきこんでいるような錯さつ覚かくを抱

くぞ

っと走った悪お寒かんにラグナはぶるりと身み震ぶるいし先を行くタオカカの後を追う

がhelliphellipラグナは不意に顔をしかめると足を止めた

(錯覚じゃねえ誰かがこっちを見ていやがる)

淡あわく光る苔が刻んだ色濃い影の奥歪いびつな瓦礫の山のどこか

視線を感じる

いや視線だなんて生易しいものではないもっと根本的なもの存在や意志そのものとい

ったものがこちらを一心不乱に捉とらえているようだ

「いい人〜

どしたニャス」

ラグナがついてこないのを不思議に思ってタオカカが引き返してくる積み上げられたな

にかの残ざん骸がいを軽かろやかに

び越え着地するその小さな足音がきっかけになったのだろうか

「キキキキキキキキキキキキ」

第一章 Stratum city 階層都市71

瓦礫の山から飛び

りた先がオイルかなにかでぬめるラグナは反射的に顔をしかめて三

角耳がぴくつく白いフードの後頭部へ少々の苛いら立だちを込めて問うた

抜け道とは往々にして楽な道ではないとラグナはこれまでの経験で学んでいただがここ

は今まで通って来た『抜け道』と比べても相当な悪路だ

濡ぬれているわけでもないのに床ゆかの壁も天てん井じようもじっとりとしていていやな湿しつ気けが外から入り

込んでいるらしい濃こい魔ま素そと混ざって肌はだと肺にこれでもかと不快感をくれる

一段

りたところには廃はい棄き物ぶつと一体化した汚お水すいが吐はき気けをもよおす悪あく臭しゆうを放ちながら泥どろ水みず

のような重さで流れている

これが街からそう離はなれていない場所を流れ通っているというのに外にはさほどふし臭ゆうが漏れな

いことを思うと階層都市の工事技術はでたらめに見えて意外としっかりしているようだ

もうすっかり馬ば鹿かになった鼻をこすりラグナはぽつりとそんな感想を抱いだいた

「本当ニャスよくここ通って上でパンとかお菓か子しとかもらってくるニャス」

言ってタオカカは下水道の天てん井じようを見上げた黒ずんだ頭上は突つき出た鉄パイプや金属板が

複雑に組み合っておりその奥のずいぶんと高いところに張りついた闇やみのような天井が見てと

れる

さらにずっと向こうに目指している上層の街があるのだろう

つられて見上げてラグナはため息に肩かたを落とした

「もらってくるってまさか店のもん勝手に持ってってるんじゃねぇだろうな」

70

気味の悪さに怖おぞ気けよりもけん

悪お感が走る

影はいやに粘ねん着ちや質くしつな動きでぬめる床に着地するとむくりと上体を起こすような動きを見せ

た判然としないが苔光で浮かび上がる奴やつの足元でなにか小さな生き物が蠢いている気がす

る戸と

惑まどいつつも身構えるラグナのすぐ側そばにタオカカが駆け込んできて頭を低くさせ唸うなった

長い尾おがぴんと立ち上がって毛を逆立て膨ふくれている

「コイツうねうねニャス」

「うねうね

なんだそりゃ」

「悪いヤツなのネ

タオたちの村を襲って小さいカカを食べちゃうのニャス」

さっきまで陽気だった表情を目め尻じりをつり上げた憤ふん怒ぬのそれに変えてタオカカはわんと声を

響かせ威い嚇かくする

その様をあざ

笑わらうかのように白い面を浮かべた影は全身をあわ

立だてるように震ふるわせた

「キヒヒヒいる

いるぞ

るぞ力蠢く醜しゆうな

想を叶かなえ

ために肯

は不可欠

がい

念ねんの否定

閉とざ

た門が招くはずだ

ちが

いギヒヒヒヒヒヒ」

影が震え笑うたびに空気が淀よどむ

ラグナは険しく顔をしかめた

これは魔素だ

外から流れ込んできているのではないこの目の前にわだかまる影からあふ

れ漂ただよい下水道の

第一章 Stratum city 階層都市73

空気を引き裂さくような声と共に突とつ然ぜん影かげから影が飛び出したさらにそこから槍やりのような鋭

い影が無数に飛び出しラグナに襲おそいかかる

「ぅぐぁっ」

あまりに唐とう突とつであまりに周囲に同化した

に反応が遅おくれた分厚く布の裂ける音が散り一いつ

緒しよに皮ひ膚ふと肉をえぐり刺さすように持っていかれる

火がついたように痛む肩を引いてもう一方の腕うでで剣けんを抜き目の前の影を払はらった

手て応ごたえはないまるで本物の影を切り払ったかのようだ

「グギギギhelliphellip真

理へ至

我が

を求

我に求め

真相を

くhelliphellip」

人の声のようなそうでないような奇き怪かいな声こわ色いろで奇怪な言葉を口走りながら影は

び退すさっ

た高質化したヘドロと瓦礫の間でふわりと浮ういてわだかまる

初めラグナはどこからか紛まぎれこんだ魔まじ獣ゆう||高こう濃のう度どの魔素によって歪んだ生態系が生んだ

理性なき凶きよ暴うぼうな獣けものかと思った

だがどうにもちがう不定形なそれは奇妙で歪いびつで不可解で生物とはとても思えぬ

形をして

いた

ぐるりと影が動くとわだかまる闇の内側から面が現れる

白い円形に三つただ孔あなを開けただけの目と口顔のつもりだろうかそれが黒ずんだ不定

形の影の中で唯ゆい一いつの定形であるようだった

「なんhelliphellipなんだこいつは」

72

ふつとい憤きどおりがラグナの腹の底で沸わく

統制機構が大事に大事に抱えて地下深くにしまい込んでいる窯それを統制機構だけでなく

あちこちの機

や研究員学者が欲ほつしている窯を所有するということは窯が繫ぐ境界の一いつ

端たんを所有することと同意だからだ

誰も彼も境界には人じん智ちを超こえる素す晴ばらしい財産が眠ねむっていると信じている人智を超えた

ものなど人間に御ぎよせるはずもないのに

まったくいや

気けが差す頭にくるそんな窯を我が物顔で掻かき回す統制機構もそれを追いか

けるように窯を求める連中もどいつもこいつも

「こうなっちまったらもうどうしようもねえ悪く思うなよhelliphellipもっとも人を怨うらむほどの

理性があればの話だけどよ」

このままこいつをここに放置すればタオカカの言っていた『村』に留とどまらずさっきのオリ

エントタウンや下層の街に出て人を襲うようにもなるだろう

ラグナは剣の切っ先を下方に向けたまま化け物に深く踏ふみ込んだ

カグツチにはなんの思い入れもないがだからといってあからさまな害悪を目の前に置かれ

て放ほうっておけるほど利口でもない

迎むかえ撃うつように身を広げるアラクネの胴どうを||胴らしき部分を横よこ薙なぎに切り払う

「グポポhelliphellip」

「ちぃっ」

第一章 Stratum city 階層都市75

ありとあらゆるものを侵しん食しよくしているのだ

それはこの影のような物体のまとう黒いものが全て魔素であることを意味していたそし

て魔素のか塊たまりであるこの奇怪な化け物がその容

に似合わず人の言葉らしい音を発しているの

はこれが元々人語を解する存在であったことを物語っている

つまり人間だ

タオカカが『うねうね』と呼びオリエントタウンの一部の人はアラクネと呼ぶ黒ずんだ不

定形の化け物はこうなる前人間だった

ラグナはこみ上げてきた

悪感を舌打ちに変えて吐き出した

「こいつ境界に触ふれたなhelliphellip」

ラグナが各地の統制機構支部を回り

々に破は壊かいしている支部地下の『窯かま』その窯によっ

て現世と繫つながれた異界||境界

そこは人知の及およばぬ不定形の場であり中は地表の比ではない濃のう度どの魔素が渦うず巻まいていると

いう

濃い魔素が魔獣を生んだように人もまた高濃度の魔素に触れ続ければ理性が魔素にのみ込

まれやがて境界に引きずり込まれて人でいられなくなる

臭にまみれて粘ねん液えきのような体を蠢かせ奇怪な音で語るこの黒い化け物アラクネは

そうして人でいられなくなった誰だれかのなれの果てだった

「あんなもんに手ぇ出してなにがしたかったのか知らねえがhelliphellipこの馬鹿が」

74

だ身が捻ねじれ後方へべちゃりと倒たおれる

それと同時にタオカカの体がひらりとラグナのとなりに

着地した爪を

めた大きな手をシュッ

と前に突つき出して威嚇する

それを横目にラグナは軽く笑った会って間もないこちらも奇妙な生物だが『うねう

ね』と

ってこいつと並ぶのは悪い気がしない

「何年目じゃなくてここで会ったが百年目な」

「おおんじゃあ百年分ギタギタにしてやるのネ」

「まなんでもいいか」

抜ぬけ落ちるような緊きん迫ぱく感を再び引き寄せてラグナはしっかりと剣を握にぎる

一度は黒い泥溜だまりのようになったアラクネはすぐさま波打つような動きで起き上がると

ごぼりと足元を鳴らし魔素を噴ふき散らす

「ギギギhelliphellipよこ

よこせ

れは我

らう

淵えんがい

見て

目からのが

れな

運命

らはのが

れない」

「なに言ってんのかわけわかんねぇんだよ

楽にしてやるからとっととくたばりやがれ

この生ゴミ野や郎ろう」

ついた魔素を払うように乱暴に剣を振るうとラグナは腹から雄お叫たけびをあげつつ高く得物を

振り上げ魔素に取り込まれた人ならざる者へと叩きつけた

第一章 Stratum city 階層都市77

ごぼごぼと濁にごった音をたててアラクネの体がしゆ時んじにラグナの視界から消える

下だ舌打ちしながら蹴けりつけるラグナの足の下を通ってアラクネは赤いコートの

後で

再び体を持ち上げる

「キサマキサ

くらう

人間であるならあるいは四し肢しを持つ生物であるならおよそあり得ない角度から黒い塊が

ラグナを

ね上げるように突とつ出しゆつする

咄とつ嗟さにラグナはそれを剣で受けた感かん触しよくは重くどろりとしている

さらにもたれかかるように剣の表面を伝う泥どろのような魔素から突とつ然ぜん奇き怪かいな蟲むしが飛び出して

きた見たこともないひたすらに

悪感をあおるような不可解で不ふ愉ゆ快かいな蠢くもの

「うげっ」

吐き気のような

悪感に弾はじかれるようにしてラグナの足が勝手に距きよ離りを空ける

その間に割って入るように鋭するどい爪つめが振ふり下ろされ飛び出した無数の蟲を切り裂いて叩たたき落

とした

勇ましく飛び込んできたのはタオカカだ

「うねうね

ここで会ったが何年目

タオがぎったぎたにしてやるのネ」

爪を振り下ろす動作から着地をはさまず宙で身を捻ひねるとタオカカは反対側の爪でアラクネを

切り裂く

爪はえぐるようにアラクネの顔らしき部分を捉えた陶とう器きが割れるような音をたてて黒ずん

76

双そう眸ぼうは薔

さえ霞かすむ深しん紅くで容

からうかがえ

る幼さには似合わないほどの気品と優美さをたたえ

ていた

少女の名はレイチェルアルカード

十を超えた程度のまだあどけない少女のように見えるがその実約百年を生き続ける吸きゆう

血けつ鬼きだ

千年以上前から続く吸血鬼の一族アルカード家の現当主であり薔

園を見下ろす城の主あるじで

あり

月と夜空と薔

と城を抱いだくこの常夜の空間の主でもある

ここは世界のあらゆる場所から断絶された地点でありながら世界のあらゆる地点へ繫が

る場所

空間と空間の間に漂い世界と世界の狭はざ間まに留とどまる領域

アルカード家の当主が管理する特別な住まいだった

カップを金のスプーンが横たわるソーサーへと戻もどしレイチェルは物もの憂うげに吐と息いきをく唇ちびるから漏も

らした

蔦つた模様に絡からみ合うスチールテーブルの上に飾られた薔

の切り花が微かすかに香かおる

レイチェルは昼の来ない領地での時間をこうして薔

園のテラスで多く過ごした

は好きだ美しいし香りがいいそれになにより遠き日に亡なくなった父が愛した花

だから

第二章 Spiral fate 盤上の駒79

第二章

Spira

l fate

||盤ばん上じようの駒こま

真っ赤な薔ばら

に彩いろどられた見事な庭園を青白い満月が見下ろしていた

静かな夜だった空気は凜りんと冷え夜の帳とばりが世界はここまでだと区切るように色濃く辺り一

帯を包んでいる

園の奥にはおとぎ話の中から抜け出てきたかのような美しく愛らしい城がそびえており

だ橙いだいい色いろをした明かりの揺ゆれる窓が無数の瞳ひとみのようだ

その城を赤薔

の生いけ垣がきの向こうになが

める庭園のテラスでひとりの少女が小さな丸テーブ

ルに向かい優ゆうがにティーカップを傾かたむけていた

月下にありながら眩まぶしいほどに輝かがやく長い金色の髪かみを左右でふたつに結ゆわえ大きなリボンで

飾かざられている華きやしやで小さな体には黒い豪ごうしやなドレスを纏まといそこから伸のびるやはり小さな手

は陶器のように白く滑なめらかだ

カップの中で揺れる紅茶を

めていてもどこか遠く世界の果てを見み据すえているかのような

78

「今夜も見事でしょう

お父様」

ふとわく感傷に任せて呟つぶやいてみて彼の愛した薔

の香りの紅茶を飲むそんなときのほん

の一

レイチェルの心は微かに慰なぐさめられるのだ

夜の終わらないこの城は時間の流れとは無む縁えんだ夜が永遠であるように時間もまた永遠

でありレイチェルの時間もまた永遠であった

それでも退たい屈くつはやってくる時にはこうしていつかの日を想おもいため息でもついてみねば

枯かれることのない薔

のように言葉を忘れてしまいそうだった

「失礼いたしますレイチェル様」

コツと革かわぐつの硬かたい音がテラスの煉れん瓦がタイルを叩きしわがれた声が穏おだやかに呼びかけた

レイチェルを振り向かせることなく乱れない歩調で少女の視界の端はしまでくると声の主白はく

髪はつを

で束ねた長身の老人は胸むな元もとに手をあて浅く腰こしを折る

ヴァルケンハインRヘルシングレイチェルの父クラヴィスアルカードの代からアル

カード家に仕え今はレイチェルと共に在る老しつ事じだ

微びし笑ように皺しわを刻みすきなく佇たたずむ

はレイチェルに劣おとらず品がいい

だが彼もまた人間ではなかった人であり獣けものでありどちらでもありどちらでもないおおかみ

男おとこだ

外見から想像できる重ねた歳としよりずっとたくましい肉体が質のいいバトラースーツの上からで

える

80

つぶらな瞳と口角の上がった口がやはり小さく愛らしい

黒くろ猫ねこのソファはナゴ赤いゴム毬まりはギィ共にレイチェルの使い魔だ

「姫様のお気に入りっすよねー姫様ってああいう男が好みなんすか

意外とダメな男に引ひ

っ掛かかるタイプっすね」

小さな羽を忙いそがしくパタつかせて楽しそうにギィが話すとその

らかな両りよ頰うほhellipおhellipというよ

り頭部を素す早ばやく伸びたレイチェルの手が摑つかみ左右に思い切り引っ張った

「なに

よく

こえなかったわもう一度言ってみてもらえるかしら言えるものならね」

「イデデデデひひめひゃまいひゃいいひゃいれすぅぅぅぅぅ」

「アンタってほんと口で身を滅ほろぼすタイプよねぇ」

通常の二倍に顔を広げたギィを見やってナゴが呆あきれたようにため息を送る

情けない

鳴をひとしきり

いた後にレイチェルはあっさりギィから手を離はなしたバチン

と音がして赤い頰が元の真ん丸い形状に戻る

それを横目にレイチェルはテーブルの上に生けられた赤薔

の花弁へ触ふれた

「彼がそこまで来たのならもうすぐ二一九九年も終わるのね」

「左様でございますな」

どこか歌うように呟くレイチェルへ恭しくヴァルケンハインが返す

「そして世界も」

微かな声で付け足された一言にはヴァルケンハインはなにも返さなかったレイチェルが

第二章 Spiral fate 盤上の駒83

「どうしたのヴァルケンハイン」

白い指先をティーカップの縁ふちで遊ばせレイチェルが赤い瞳を向けて問う

ヴァルケンハインは頭を下げたままう恭やうやしく答えた

「ラグナザブラッドエッジがカグツチに現れたようです」

無む駄だなく必要なだけを伝えるヴァルケンハインの言葉にレイチェルは陶器の縁をなぞる指

先を止めた

そのまま指を小さな取っ手に引っかけ中身の少なくなったカップを持ち上げて一口飲み

それをソーサーに戻してからやっとレイチェルは唇を動かした

「そうhelliphellipもうそんな時間なのね」

独り言のようなレイチェルの呟きに続いて

唐とう突とつにふたつの声がこれまでの静かで密ひそやかだった雰ふん囲い気きを不意に賑にぎやかせた

「あらぁん姫ひめ様ラグナってあの白いツンツン頭のボウヤよね」

「オイラも覚えてるっすよあの生意気なヤツっす」

先にハスキーな猫ねこなで声で言ったのはレイチェルが腰こしかけている椅い子すそのものだった一

見黒いソファに見えたそれはよく見ると

もたれの上部に三角の耳と猫の顔がありその猫の

顔が話していたのだ

続いた甲かん高だかい陽気な声はレイチェルの足元から弾はずんだゴム毬まりのようにとび上がった赤くて

丸い生き物のもの見るからにやわらかそうな体からは小さな手足と小さな羽が突き出ており

82

影の中に浮うかぶ幼児の落書きのような目玉らしき緑色の丸と不気味に裂さけた赤い口が椅

子に腰かけるレイチェルを見つけて気味悪く笑えむ

どこからどう見ても人ではなくましてや吸血鬼でも

男でもない

これは思念だ肉体を持たない意志だけの存在ある男の精神体だった

「よ〜うクソ吸血鬼今回もお供と犬っころ連れてお茶会か

ずいぶんのん

気きなもんだなぁ

オイ」

許可もなく薔

園に踏ふみ入ってきた無作法者の精神体はこもった声でいや

味みに語りかける

とたんにヴァルケンハインが険しく顔をしかめギィは情けない

鳴をあげてそれこそゴ

ム毬のような俊しゆ敏んびんさで主の黒いドレスの

後へと隠かくれた

レイチェルは冷やかに影を見据える

軽く腰を浮かせるとそれまで椅子としてそこにいたナゴが体をくねらせて

を黒い傘かさへと変

えレイチェルはそれを手に立ち上がった

唇にこそ優美な笑みを浮かべていたが少女の深紅の瞳にはただただけん

悪お感かんが塗ぬり固かためられ

ている

を見せるだけでこれほどまで人を不快な気持ちにさせるのはある意味

能ね感心する

わテルミ」

の香りのように

らかにけれど薔

の蔦のように刺とげと々げしくレイチェルは言い放つ

言葉の先にいた精神体の男テルミと呼ばれた影は風にでもあお

られたかのように体を揺らし

第二章 Spiral fate 盤上の駒85

求めていないことを理解していたからだ

代わりに

男の老

事は乱れぬ声こわ色いろで問う

「レイチェル様紅茶を新しいものにお取り換かえいたしましょうか」

「helliphellipそうねお願いしようかしら」

本当は出かける用事ができたところだったけれど今はもう少しだけここでの無益な時間を

浪ろう費ひしたい気分だっただって

(今回もいい結果は期待できそうにないものね)

独り言のような呟きを胸の内でそっとこぼしレイチェルは掠かすれ消えるような吐息をつく

がすぐにその息を

み込むように眼光を鋭くさせた

真紅の視線が見据えるのは延々と続く薔

園のほうだ

「ヴァルケンハイン招いてもいない客が来たようね」

深い緑の葉をざわめかせて風が吹ふく風を招いたのはレイチェルだ涼すずしい夜気に混じって

漂ただよってきたいやな気配をはね退のけるために

円形に整えられたテラスの隅すみのほう薔

の生け垣の前の空間が目め眩まいでも起こしたかのよう

にくらりと歪ゆがむ

そうして現れたのは影かげだった

黒い体に緑色を纏まとわりつかせたような色しき彩さいでぼんやりと漠ばく然ぜんとした人型のなにかがそこに

立っていた

84

敵てき愾がい心しん

「それで一体なんの用

今がどういうじ状よう況きようなのかわかっているのでしょう貴方あなた

だって暇ひま

ではないのではなくて」

ヴァルケンハインほどあからさまな敵意ではないものの突つき放し追い立てるような調子で

レイチェルが言う

テルミはけだるい仕草で首を傾かたむけまたケタケタと不ふめ明いり瞭ような体を揺ゆらすようにして笑った

「別にぃ〜ただそろそろ今回のエンディングも近いわけだしそろそろ一度テメェらの腑ふ抜ぬ

けた面を拝んどこうかと思ってよ」

低めた声は悦えつっぽく笑みを濁にごらせる

レイチェルはその様を無感動に淡たんた々んと赤い瞳ひとみに映した

「懲こりない男ね」

囁ささやくようにレイチェルは告げる冷えた声は空に浮かぶ欠けることのない月の光に似ている

「何度繰くり返したって結果は同じ世界は何度だって巻き戻ってあの日あの時からまた始ま

るだけよ」

ざとレイチェルと影の間を横切るように風が渡わたる薔ばら

の香りがま

う中で幽ゆう鬼きのよう

なテルミの

はあまりに不気味で不似合いだった

場ばちが

いであると思い知らせるかのように濃のう密みつな花の香りを纏う風の中でテルミは深く深

く笑みを浮かべる

第二章 Spiral fate 盤上の駒87

た笑っているのだ

「そいつぁお互たがい様じゃねぇかこっちもテメェのクソむかつく面つら見てると胸むな糞くそ悪くなって

くる」

ユウキテルミそれが影の名前だった

「ならば早々に立ち去るがいいここは貴様のようなやからが気安く踏み入っていい場所ではない

ぞ」重

々しくけれど遠えん慮りよ容よう赦しやのない敵意を込こめてヴァルケンハインが進み出たレイチェルに

対して見せていた穏やかな品の良さは影を潜ひそめ白髪の老人とは思えぬ力強く攻こう撃げき的な眼まな差ざし

で揺れる影を睨にらみ据すえる

途と端たんにテルミは面おも白しろくなさそうに口らしき赤色を歪めた

「はっテメェも相変わらずイラつくなキャンキャン吠ほえてんじゃねぇよボケ犬が殺しち

まうぞあぁ」

「面白い吠えるしか能がないのはどちらか確かめるとしようか

体のない今の貴様に一体

なにができる」

「ちっhelliphellipうぜぇジジイだテメェもあんとき殺しときゃよかったぜ」

「九十年前に反省するべきだったな」

テルミが悪態を吐つけばヴァルケンハインはそれを踏み潰つぶすような敵意を返す

そこには根深い因いん縁ねんの沼ぬまが広がっているかのようだった浮かぶのは憎ぞう悪おでもけん悪おでもなく

86

覗のぞき見えていた

「んじゃなせいぜい高みの見物でもしてろや」

吐き捨てるようにそう言うとテルミは靄もやが空気に溶とけてやがて目視できなくなるように

音もなくその場から消える

あとにはなにも残らないただレイチェルが日々当たり前に

めている真っ赤な薔

が咲さ

き誇ほこる庭園が広がるばかりだ

緩ゆるやかな風が抜ぬけて甘い薔

の香かおりが漂うまるでテルミによって生じた不快感を拭ぬぐい払はら

うように

ヴァルケンハインはそれまでの飛びかかって喉のど笛ぶえでも食い破りそうな敵意を呼吸ひとつのう

ちにしまい込みしつ

事じの顔に戻もどるすき

なく

筋を伸のばしレイチェルへと向き直った

「いかがなさいますかレイチェル様」

主人がすでに決めているであろう腹の内を促うながすように問う

レイチェルは手にしていた傘状のナゴを開いたパラソルでも扱あつかうように肩かたにかけヴァル

ケンハインを見やる

「ヴァルケンハインやっぱりお茶はまたあとでにするわ」

あんなにも単純で粗そ暴ぼうなちよ

発うはつに乗るのは癪しやくだけれどそうとわかっていて顔をそむ

けることを

弱気ゆえと受け取られてはもっと癪だなによりあの男に好き勝手を許すのは面白くない

「ナゴギィ出かけるわよ」

第二章 Spiral fate 盤上の駒89

「そうしたらまた始めるさ」

這はうような声で語る

な気配がレイチェルの誘さそう風さえ汚よごすようだった

「何度でもいいぜ

そのたびに俺はやり直すだけだ何度でも何度でもテメェがいい加減

飽あきてお城から出てこなくなっても何度でも何度でもhelliphellip何度でもなぁ」

「悪あくしゆ味みね」

「テメェが言うかよクソ吸きゆ血うけ鬼つき」

テルミがせせら笑う

深い皺を眉み間けんに刻みい憤きどおりを腹に抱かかえるヴァルケンハイン怯おびえ様子をうかがうナゴとギィ自分

の周りにいる者たちをながめてレイチェルはく唇ちびるを優美なカーブに曲げた

彼の言うことに同意するのは心底不ふ愉ゆ快かいだけれど確かに悪

味なのはレイチェルも同じだ

何度も何度もこんなやりとりを何度もここで行った

繰り返す時間の中で繰り返される会話はいわば一種の通過儀ぎ礼れいだ

これから始まる数時間めまぐるしく運命は交差して離れ剥はがれ崩くずれ乱れるその結末

をし粛ゆくし々ゆくと見届けるためのお決まりの行事

「まいいや俺はそろそろ最後の仕上げの準

しねぇといけねぇから行くわいちいち相手

すんのも面めん倒どうくせぇからテメェらはそこで茶でもしながら終わるのを待ってろよ」

言いながらテルミは一歩大きく退いた

影がぼやけて消えるように彼の

が揺らめく黒い体の向こうには薄うっすらと薔

の赤が

88

城から外へと出ていった

の残り香がが夜気に吸い込まれて消えるまで待ってヴァルケンハインはテラスのテーブ

ルに残されたティーセットをワゴンに載せて片付け始める

せめて今回はあの小さな主人の心が慰なぐさめられるようなそんななにかがあるようにと胸中で

願いながら

2199年12月30日||9時23分

カグツチの朝方普ふ段だんなら東空は陽光の白に輝かがやき地表で淀よどむ魔素の存在など忘れさせてく

れるかのように眩まぶしい

だが今日は生あい憎にく朝早くから分厚い雲が空を覆おおう曇どん天てんだった広がっているのは雨雲だ昼

前には雨が

り出すだろうと湿しめった空気が教えてくれる

第十三階層都市カグツチの外れ都市の一部として建設されたのではなくこの地に流れ着い

た難民が自発的に建設した市街のひとつ浪ろう人にん街

第二章 Spiral fate 盤上の駒91

「はぁ〜い姫様」

「了りよ解うかいっす」

傘のままナゴがしなを作りさっきまでの怯えが噓うそのように元気よくギィが飛び上がる

二匹ひきの使い魔まを従えレイチェルは宙へ手を差し出したすると煉れん瓦がタイルが敷しき詰つめられ

た足元に薔

色の魔法陣じんがほのかな光を宿して浮かび上がる

転移の魔法だ

今の世界の基き盤ばんともいえる術式の元になった太古の技術魔法けれど今はもう使える人間

はほとんどいない失われた技術だ

転移はそんな魔法の中でも特に多くの魔力と集中力を要し特別難解な制せい御ぎよを求められる魔

法だったそれゆえに人類の歴史においても使い手と呼べるほど扱いに長たけた者は数えるほ

どしかいない

転移魔法を自在に扱うレイチェルもまた自分以外にこの魔法を使いこなせている者をひと

りしか知らなかった

「カグツチまで行ってくるわヴァルケンハイン留守をお願いね」

「かしこまりましたお気をつけて行ってらっしゃいませ」

理想的な角度に腰こしを折ってヴァルケンハインは魔法陣の中から語りかける幼い容

の主あるじを

見送る

ふわりと風が

い上がり目眩を誘うほどの薔

の香りを振ふりまいてレイチェルは常夜の居

90

屈くつ強きようで大柄な体たい軀く隠すことなく晒さらされた広い

中顔に刻まれた十字の傷きず跡あとそして首に

巻かれた真っ赤な布その真っ赤な布がけい

谷こくの風に

られたなびくたびに誰だれもが彼を振り返

らずにおかない

なにも衣装の特とく徴ちようが浪人街の人の目を集めるのではない

このマフラーのように巻かれた赤く長い布は目印なのだ

迷える難民をまとめ先頭に立って浪人街を築きこうして日々浪人街を歩いては住民にト

ラブルや困りごとがないか見回るイカルガ忍にん者じやの頭領にして浪人街のヒーローシシガミバ

ングの

「おはようございますバングさん」

「バング殿どの

先日は

げたに鶏わとりの捕ほ獲かくを手伝っていただいてありがとうございます」

「バング様〜

こんにちは〜」

街のあちこちからかかる声に手を挙げて応こたえバングは朗ほがらかな笑え顔がおを返す

「うむおはようでござる

おおそうだ今日は雨が

るだろうから雨あま漏もりする家がある

なら拙せつ者しやに声をかけるでござるよすぐに飛んでいって修理を手伝うでござるからな」

通り中に響くような声で言いながらバングは前へ前へ歩む

天気はよくないがバングの心は今日も晴れやかだった仲間がいて住む場所があるこ

れがどれほど喜ばしいことか数年前までは忍として戦争の裏側を奔ほん走そうしてきたバングは日々

身をもって思い知り嚙かみ締しめていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒93

ここは五年前に終結したイカルガ内戦という戦争の敗者イカルガ連れん邦ぽうに住んでいた者たち

が造り上げた市街だった

内戦によって彼らの故郷は失われた行き場のないイカルガの民たみは世界のあちこちに散り

その中でもカグツチににげ延のびた者たちがここで身を寄せ合って暮らしている

複雑で街を築くのに適しているとはとても言えない地形だカグツチのある高山の下方に

位置しながら辺りは岩だらけで亀き裂れつや絶ぜつ壁ぺきが目立つ

それでもイカルガの難民たちは岩場に足場を組み亀裂に橋をかけ絶壁に階段を作り半

分宙に浮ういているかのような入り組んだ街を作り上げた

小さな街だありあわせの材料を組み合わせてできた粗そ末まつな街だがそれにしては整えられ

たイカルガじ情よう緒ちよ漂ただよう街並みにhelliphellip朗々と男の声が今日も響ひびき渡っていた

「おお皆みなの衆

今日も元気に平和に過ごしておるな

うむうむよきかなよきかながっ

はっはっはっは」

太く伸びやかな声の主はシシガミバング

浪人街の中心である一番開けた通りのど真ん中を歩きながら道行くすべての人に威いせいよく

挨あい拶さつして回っている大おお柄がらな筋肉質の男がそうだ

ぼさついた黒くろ髪かみは高くまとめ深い緑色の独特な装しよ束うぞくを身に着けている着ているのはイカ

ルガ伝統の忍しのびの服だ本来は闇やみに紛まぎれ隠おん密みつにことを済ますのが忍の

だがこのシシガミバ

ングという男はまるで逆にとにかく人の目を引いた

92

カグツチの

士であるならばこんな下層まで

りてくることなどそうそうないし別の支部

士ならばもっと上層からカグツチに入るはず

この街に統制機構の制服はあまりにも不自然だった

金髪の青年はなにも答えず冷ややかな緑の瞳ひとみでバングを

めていたがやがて色の薄うすい唇を

開きぼそりと低く呟つぶやいた

「その服helliphellipイカルガの忍か」

およそ好意的でない声

人によってはその内にさげすみ

やあざけり

いただろうだがバングはそのひどく温度の低い声こわ色いろ

を警けい戒かいゆえと受け取った

身構えるように低くさせていた体を起こしバングは慌あわてて制止するように広げた手を突つき

出だす

「ああいや誤解めされるななにも一戦交えようというわけではござらんぞ確かにここは

イカルガの民が住まう街で拙者はイカルガの忍であった男だが五年前にイカルガ内戦は終

わっておるのだ」

バングは太い腕うでをがっしりと組むと神しん妙みような

顔つきで何度か頷うなずくようにしながら先を続けた

「確かに終戦のきっかけは戦いくさではなく我等の首都イブキドの爆ばく発はつ事故であった」

イカルガ内戦は世界虚空情報統制機構に対し第五階層都市イブキドを首都と掲かかげるイカル

ガ連邦が独立を宣言して始まった内戦だ統制機構は武力でもってそれを制圧しようとしイ

第二章 Spiral fate 盤上の駒95

平和はいい平和の中にこそ愛はあるのだ

「うん」

ふと前を行く

を目に留めてバングがいぶかしげに声を唸うならせた

見慣れない男が歩いている浪人街の住民ではないバングはこの街に住むイカルガの民の

顔と

格好をすべて覚えていた

短い金きん髪ぱつの細身の男だ歩き方からしてまだ若い

なにより気にかかるのはその男が着ている服だ青と白によって構成されたその服はおそ

らく世界虚こ空くう情報統制機構の制服だろう

「そこのお主

待たれい」

叫さけぶように声をかけながらバングは高くとんだ空を駆かけるような長いちよ躍うやくは前を行く金

髪の青年の頭上を越こえて彼の正面へと着地する

行く手を塞ふさがれる形となった見慣れぬ男は足を止めバングの唐とう突とつな登場に戸と惑まどったように

眉まゆを寄せていた

やはり若い男まだ少年の面おも影かげも残した青年だ着ているものも統制機構の制服に間まちがいな

く手には青い鞘さやに

めた刀を一ひと振ふり摑つかんでいる

バングはますます募つのる怪けげんに青年よりも深く眉間に皺しわを刻んだ

「お主我等が街になんの目的で参られた

その服装統制機構の

士であろう」

カグツチの

士だろうかバングは彼に見覚えがない

94

金髪の青年はなにも言わず静かにバングを見み据すえている

なにを考えているのかどこかぼうっとしたようにも見える無表情からは思考どころか感情

さえ読み取れない

話を

いているのだろうかバングは不安に思いながら改めてさっきの質問を繰くり返す

「してお主は一体何者で浪人街になんの用でござるか」

「helliphellip用などない」

ようやく青年がバングの問いにまともに答えた

まともというにはあまりに素っ気なく突き放した物言いだったが返ってきた言葉が思いの

外ほか穏おん便びんでバングは軽く安あん堵どを抱いだく

イカルガの残党狩がりだなどと言われてその手の刀を抜ぬき放たれたら多くの住民が行き交かう

街の中心で大立ち回りを演じなければならなくなるそうなればいくつかの家は巻き添ぞえをく

っただろうし何人かは怪け我がをしたかもしれなかった

青年は変わらず冷たい無表情のままでバングの向こうにそびえる山へ目を向けたこの上

にいくつもの市街が建設され頂上には世界虚空情報統制機構のカグツチ支部が建っている

「貴様たちのことなどに興味もない僕は上へ行きたいだけだ」

「上

というと統制機構の支部でござるか」

「じや

魔まだそこをどけhelliphellipああいや」

冷れい徹てつに言い放ってから青年は思い直したようにけれどそれでも冷ややかに声を低めた

第二章 Spiral fate 盤上の駒97

カルガ連邦も武力でもって抵てい抗こうした

それが四年続いたある日のことだ

イカルガ連邦首都であり指揮系統の中心であった第五階層都市イブキドの地下で突とつ然ぜん原因

不明の大爆発が起こりイブキドは跡あと形かたもなく消しよ滅うめつした

爆発はイカルガ連邦はもちろん交戦の真っ最中であった世界虚空情報統制機構側にも大き

く戦力を損そこなわせる痛手を負わせた戦争を続けるだけの力をイカルガ連邦と統制機構が爆

発事故をきっかけに同時に失ったのだ

結局イカルガ連邦はバラバラとなり最終的には組織としての形を失ったけれど統制機構も

己おのれを立て直すのに手て一いつ杯ぱいで追つい撃げきどころではなく内戦はしぼんで消え入るようにいつの間に

か終わったのだった

「それでも我等は負けたのだその現実を認めずに今ある平和を投げうってまで統制機構に

楯たて突つくつもりはござらんよ」

そう言うとバングは眉み間けんを中心に走る十字傷に分厚い手で触ふれ苦々しくも笑みを浮かべ

たこ

の傷はその爆発事故のときに負ったものだ内戦を終わらせたあの事故が自分にとって幸

であったのか不幸であったのかバングには未いまだわかりかねる

ただイカルガの民はもうじ充ゆう分ぶん戦ったこれからはたとえ楽な生活でなくとも平和に過ご

してほしいとバングは思っている

96

れるだとかそんな幽ゆう霊れい話じみた現象が起こるはずもない

勝手なイメージでそう結論づけるとバングは気を取り直してそのたくまし

い胸むな板いたを張った

まだ浪人街の見回りは途とち中ゆうだ曇天の色はますます濃こくなってきている雨が

り出す前に

修理の必要な家がないかどうか確かく認にんしておかなければならない

「いやぁまったく最近の若者は覇は気きが足らんでござるなぁ

陰いん気きな顔をしていないでも

っと威い風ふう堂どうど々うと力強くそして

くあらねばそうこの愛と正義の忍者シシガミバング

のように」

辺り一帯に響く盛せい大だいな声で笑うとバングは街の見回りを再開させた

これが終わって部下のけい

古こが終わってそれでも時間があったなら憧あこがれの女性が住むオリ

エントタウンまで足を延ばして挨拶に行こうとそう心の中で計画をたてていた

今日も浪ろう人にん街は平和だ

それがなにより素す晴ばらしい

2199年12月30日||18時21分

第二章 Spiral fate 盤上の駒99

「ついでだ貴様カグツチで白い髪かみに赤いコートを着た男を見なかったか」

そう尋たずねる青年の表情はまるで凍こおりついたかのように無表情から動こうとしないだという

のに緑の瞳だけは妙みように楽しげに煌きらめいていたようにバングには見えた

バングは顎あごに手をやり考えこむ

「白い髪に赤いコートhelliphellipふぅむいやこの辺りでは見かけてござらんそれほど目立つ容

ならば一度目にすれば覚えようがhelliphellip」

「そうかならいい」

しゆ時んじにバングからあらゆる興味を失ったように青年は滑すべるような歩みで横を通り抜ける

すれちがう風はいやに冷たいまるで氷でも掠かすめたかのようだ

「ああお主

拙者はシシガミバングと申すお主の名はなんと申す

すたすたと足早に山へ向かう細身の後ろ

へバングは追いかけるように声をかけた

だが青年は振ふり向かないまるでバングの声など耳に入っていないかのような頑かたくなな

中で

なにかに突き動かされるような足取りで歩き去りそのうちに浪人街の外れへと

を消してし

まった

バングは引き止めるように宙へ伸のばした腕もそのままに難しく顔を歪ゆがめて首を捻ひねった

「はてhelliphellip奇きみ妙ような男でござったななんというかこうた魂ましいが抜けているようというかhelliphellipなに

かに取り憑つかれでもしているかのようであったわ」

もっとも今は日もこれから高くなろうという真昼間魂が抜けるだとかなにかに取り憑か

98

形よく張り出した豊かな胸に引き締まった腰こしそこから滑なめらかに続く肉感的な臀でん部ぶと華きやしや

な足首に向かって続く絵に描かいたような曲線

同性の憧れと異性の動どう揺ようを誘さそわずにおれない肢し体たいのシルエットだけでも彼女は道行く人の

視線を釘くぎ付づけにする

そんな麗うるわしき女医ライチがこの街にやってきたのは約一年前のことだ

突然現れ住まいと仕事を求めたライチをこの辺りの住人は快く受け入れた

彼女は自分がどこから来たのかどんな生おい立ちなのかなぜオリエントタウンへひとりで

やってきたのか名前以外のことはなにも話そうとはしなかった

素すじ性ようの知れない女など怪あやしまれて当然だろうけれどライチが出会ったオリエントタウンの

住人は皆みんな彼女が口を閉とざすと深くは追つい及きゆうしようとはしなかった

そのことをライチは一年たった今でも来たばかりのころと変わらず感謝している

こうして日々病院のとびらを

開けなるべく気軽に安価で治ちり療ようが受けられるよう心がけているの

も生活のためというより拒きよ絶ぜつや敬遠ではなく寛かん大だいさと優やさしさをもって自分を迎むかえてくれた

オリエントタウンへの恩返しの意味が強い

「さてと」

少年の

が曲がり角の向こうに消えるとライチは細い肩かたをすとんと落として息をついた

オリエントタウンはすでに夜の闇やみに包まれていてあちこちにぶら下げられた小さな提ちよ灯うちんや

ランプが家々を照らしていた

第二章 Spiral fate 盤上の駒101

オリエントタウンは第十三階層都市カグツチの下層にこそあれど広く活気にあふれた賑にぎやか

な街だ

限りある土地を時に譲ゆずり合い時に共有して身を寄せ合うように家を建て並べ今にも壁かべが

触れそうなほど密接したりん家かとは家族のように付き合える

誰だれも彼も決して裕ゆう福ふくではないけれど薄うす暗ぐらい路地に不ふ穏おんな影かげが横切ることもあるけれどそ

れでもこの街は温かい

ここオリエントタウンの一角で小さな病院を開いている医者ライチフェイリンは常々

そう感じていた

「痛みが引くまで無理は禁物よいいわね」

階段から落ちて捻ねん挫ざしたという少年を病院の入り口まで見送ってライチは頭を下げる小さ

な彼に笑顔で手を振る

ライチは美しい女性だった

足元まで伸ばした艶つややかな黒くろ髪かみを高く結ゆわえてくるりと巻き大きなアップヘアにまとめて

いる化けし粧ようで飾かざらずとも美しいラインを描えがく眉に伏ふせれば影ができるほどに長い睫まつ毛げ黒い

縁ふちの眼鏡ごしに見える瞳は大きく知的な光を宿しているけれどややつり上がった目元はどこ

か媚び態たいを想像させる色いろ香かを匂わす

美び麗れいなのはなにも容よう貌ぼうだけではない

100

こんなにも温かく名を呼ぶのはひとりだけだhelliphellip今は

両手で二の腕をさすりながら振り返りライチは少し驚おどろいたように目を丸くさせる

そこにいたのはやはり予想通りの人物だったけれど彼の腕には予想とは

うものが抱だき

かかえられていた

声の主の大きな体が建物の色いろ濃こい影の中から出てくるライチとて

の低いほうではないけ

れど彼の

は見上げるほどだ

通常の人間ならありえないほど屈くつ強きような体に赤い肌はだ第七機

の赤あか鬼おにと呼ばれるサイボーグ

の男だった

「テイガーhelliphellip」

ライチが小さな声で名を呼び返すうちにテイガーは周囲に人ひと気けがないことを素早く確認す

ると近くまでやってくる

彼の腕うでにはひとりの少女の

があった気を失っているのかぐったりと力なく体を預け

ている長くやわらかなカメリアレッドの髪に華

な体そして青と白の世界で一番有名な制

服helliphellip統制機構の制服

「テイガーこれはどういうこと

どうしてhelliphellip」

どうして統制機構の

士を抱かかえてこんなところにいるのかそう問おうとしたライチの疑問

をさえぎっ

てテイガーは抱えていた少女の体を託たくすように差し出した

「すまんがこの少女を頼たのめないだろうか訳あって気絶させてしまったのだが放ほうり出すわ

第二章 Spiral fate 盤上の駒103

遠くには雨音が

こえる昼過ぎに

り出してから今までもずっと続いていたのだろう空

を上層に閉とざされたこの辺りもすっかり空気が湿しめっていてずいぶんと冷え込んでいた

ゆったりとした白いブラウスとその上に着込んだロング丈たけの真っ赤なチャイナドレスという

服装はライチのみ惑わく的なボディラインをくっきりと描き出すには適しているけれど寒空の

下に立つにはあまり向いているとはいえない

不意に抜けた冷たい風にぶるりと身み震ぶるいしてライチは豊満な胸元を合わせるように己おのれを抱

いたまとめ上げた髪にしがみつくようにくっついている小さなパンダの髪かみ飾かざりも心なしか寒

そうだ

今夜はきっと冷えるだろうとはいえかつて黒き獣けものが現れ魔ま素そが世界に広がるまでは十二

月といえばもっと寒くこんな薄うす手での服装ではとても外を歩けなかったそうだから当時を思

えば涼すずしい程度の気温なのかもしれない

昔はこの時期この辺りでも雪が

ったらしい魔素が狂くるわせ失わせた冬らしい季節という

ものを少々勿もつ体たい無く思いながらライチは病院へ戻もどるべく踵きびすを返した

だがただでさえ長い脚あしをさらにすらりと見せる踵の尖とがったくつが屋内に踏ふみ入る前に

後か

ら唐とう突とつに声がかかった

「ライチ」

落ち着きのある低い男の声だ

それが誰なのかライチは呼びかける一言でわかった自分のことを呼び捨てる者の中で

102

「お前になら構わんか実はhelliphellip」

『とう

亡ぼうしたサンプルの回

だ』

突とつ然ぜん第三の声が割って入った

「ココノエ

周囲に配はい慮りよしてか声は抑おさえたもののテイガーが驚きにうろたえる

ライチの表情に糸を張るような緊きん張ちようが走った

第三の声はテイガーの耳元から

こえてきたそこには小さな通信機が取り付けられている

その向こうにいるのが声の主でありテイガーの上司にして製作者でありhelliphellip一年前までは

ライチの上司でもあった人物ココノエだった

『なにを驚いている回線に入り込む程度なんでもないわかったら勝手に通信を切るんじ

ゃないいいなテイガー』

テイガーへ向けてだけでなくその周囲にも

こえるよう操作された音声が感情の波を抑え

た低い女声で語る他者の意見をは

ねのけるような語調と声色には有う無むを言わさぬ威い圧あつ感と

神経質さが現れていた

ライチも一年前まではよくこの声にしつ

咤たされたものだ懐なつかしさと一いつ緒しよに苦い思いがこみ

上げてきてライチは声から目をそむ

けるようにテイガーから視線を外す

「ココノエ博士helliphellip」

『久しぶりだなライチお前こそこんなところでなにをしている』

第二章 Spiral fate 盤上の駒105

けにも統制機構に連れん絡らくするわけにもいかなくてな」

ひどく困った様子で懇こん願がんしてくる

そんな顔でそんなことを言われては断ろうにも断れない自分の性格をわかっているくせに

と思いつつもライチはテイガーの腕の中の少女を覗のぞきこんだ

は正常だ外傷は特になく呼吸も安定しているただ単純に強い衝しよ撃うげきで意識がなくなり

そのまま眠ねむり込んでいる状態だろう

「つまり彼女の意識がないのは貴方あなたの仕し業わざってことね」

ちらりと眼鏡のすき間まからテイガーの赤い顔を見上げてライチはほんの少しの小言めいた響ひび

きを込こめて言った

テイガーとこの少女の間にちょっとした荒あら事ごとがあったことは想像に難かたくない

統制機構と第七機

係についてはよく知っているなにせライチはオリエントタウンへ

来る前テイガーと同じ

場で同じ上司の下で働いていたのだから

「helliphellipどうして貴方がカグツチにいるの」

少女の身み柄がらは引き取るそう物もの腰ごしで伝えながらもライチは堅かたい声こわ色いろで尋ねた

テイガーが所属している第七機

はカグツチから離はなれた場所に研究所を構えているカグツ

チへふらりと私用で来るような距きよ離りではない

テイガーは困こん惑わくしたように言葉に迷ったが難しそうな顔をしながらも上向きのきばが覗く

口を動かした

104

「まだわかりません」

ねのけるようにライチは大きく首を振ふった

そこにはオリエントタウンの住人が知る優しく穏おだやかで時々厳しいそんな女医の

はなか

ったあるのはなにかを必死で守ろうとする弱々しい少女のような顔だ大切な宝物を取り上

げられまいと首を振るようなそんな

ライチは厳しく引き締しめた顔でテイガーをその耳元にある通信機を見つめる

「なぜ博士はそう簡単に割り切れるんですか

すべての手を尽つくしたわけではないのにあ

の人はただ少し間まちが

えてしまっただけです少し急ぎすぎただけでそれに彼は貴女あなた

のhelliphellip弟で

子しだった人じゃないですか」

ライチの声は情感に揺ゆれていた震ふるえているといってもいい

解げせない飲み込めない受け入れたくないそんな拒絶が声だけでなく

しげに眉まゆを寄

せた表情にも浮うかんでいる

もう一度通信機からココノエのため息が

こえた今度は呆れているというより苛いら立だっ

たような吐と息いきだった彼女が頭をかきむしる仕草が見えるようだ

「すみません博士helliphellipでも私はhelliphellip諦められません」

ライチはきつく胸の前で手を握にぎり締める

だけど本当はわかっているライチは医者であり一年前までは研究者だっただから自分

でもいや

になるほど冷静で理性的な部分はもうとっくに理解していた

第二章 Spiral fate 盤上の駒107

どんな顔をしていたらいいかわからないライチは寒さではなく別のものから己を守るよう

に身を抱く手に力を込める

知性と理性で研といだココノエの鋭するどく射い貫ぬくような眼まな差ざしが通信越ごしにこちらを見み据すえてい

るのがわかった

「そんなのhelliphellip博士ならもうおわかりでしょう」

なぜライチがカグツチにいるのかもなぜカグツチの中でも下層のオリエントタウンを住ま

いに選んだのかもなぜ第七機

を出たのかも全部全部彼女はお見通しのはずだ今いま更さら説

明しなければならないことなどなにもないのだ

『まだあいつのことを諦あきらめきれんのか』

ほらとライチは思う答えずともココノエはわかっている知っているライチがなにを

考えてここにいるのかを

だからだろうか通信機越しに

こえるかつての師の声はまるで咎とがめ責めているように

こえた

「諦めるだなんてどうしてそんなことができますか」

胸の内から絞しぼり出すようにしてライチは答える

通信機からノイズが漏もれたココノエのため息だろう呆あきれ果てたといったような音だ

『もう一度言うあいつを助けようなどと無む駄だなことを考えるのは止よせあいつはもうどうに

もならんお前の力では助けられない』

106

ライチは顔を上げられなかった愚おろかだと思うのは自分も同じだ反論はない

重苦しい沈ちん黙もくが数秒流れたときだったパタパタと軽やかな足音がライチのいる病院の入り

口へと駆かけてきた

「ただいまhelliphellipってうわデカっ

やってきたのは小こ柄がらな少女だったかつ

色しよくの肌はだに黒くろ髪かみをアップにまとめており動きやすそう

な服を身に着けている

少年とも見まごう細い腕うでと胸には紙かみ袋ぶくろに入った日用品を抱かかえていたが近づいて改めて見上

げたテイガーの巨きよ体たいに思わず驚おどろいてぐしゃりと抱だき潰つぶす

「リンファhelliphellip

おおかえりなさい」

いささか慌あわててライチは向き直った

彼女はリンファライチの病院で助手として手伝いをしている医者志望の少女だ

リンファは大きな黒目をさらに大きく見開いて遠目で見るよりずっと大迫はく力りよくなテイガーを

ぽかんと見上げていた

「たただいま先生えっとhelliphellipこの人誰だれ

お客さん」

「ああそのhelliphellip」

ライチは言葉を濁にごして迷った

リンファは公私ともに支えてくれる頼たのもしい助手だがライチは彼女に自分の過去を教えて

いないし教えるつもりもなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒109

自分にできることなどなにもないのだと

||一年前ライチがココノエやテイガーと共に過ごし研究に励はげんでいた第七機

を飛び出

したのはある人を助けるためだった

その人は魔素とそれを世界にもたらしたとされる境界について研究していた

けれどあるとき彼はおかしくなってしまった常に錯さく乱らんしたようになってやがて人前に

を見せなくなり最終的には人でなくなってしまった

魔素に触ふれ続け境界に近づきすぎたがゆえの結果だった自分と境界の境目がわからなく

なってあるべき形を失った

消化してしまったものを元の食品の形に戻せないように境界に取り込まれて同化したもの

を元の

になど戻せはしない

彼を追ってここカグツチのオリエントタウンまで来てもこの街に留とどまり続けても彼の

噂うわさを耳にしては飛び出し黒く蠢うごめく影かげを探しても魔素や人ならざる種族について研究を重ね

ても彼と同じように境界に手を伸のばしても

なにも変えられない

ライチが探している『あの人』はオリエントタウンから入ることができるカグツチ下層の

下水道をねぐらとして日々ただ本能の赴おもむくままにさまよい続けている

『どいつもこいつも私の弟子は馬ば鹿かばかりだhelliphellip』

ココノエが吐はき捨てるように言う

108

意識のない女

士が身に着けている青と白の制服は苦しい生活や貧しい環かん境きようをもたらした

元げん凶きようをし象よう徴ちようしているようなものだ

その気持ちをわかりながらもライチは

めるように言う

「誰であろうと患かん者じやは患者よリンファベッドの用意をしておいて」

「helliphellipはいライチ先生」

リンファとてライチの言い分はわかっている

もう一度きつく腕の中の紙袋を抱だきしめるとリンファは渋しぶし々ぶ頷うなずきそれでも足早に病院の

奥へと駆けていった

それを横目に見送りながらライチはぐったりとした少女の腕を肩かたに担ぐようにして濡ぬれ

た体を支える

最後にと見上げた知的な瞳ひとみにテイガーは告げた

「ライチこれだけは伝えておきたいココノエはお前が機

に戻もどることを望んでいるお前

にその意思があるならいつでも手を貸すつもりだ」

それこそがわざわざ通信回路をねじ込んでまで口をはさ

んできたココノエが言いたかったこ

とだろうとテイガーは解かい釈しやくしている

あの気難しく神経質な声で話す上司は人に情じよ緒うちよめいたことを伝えるのがとても苦手だ誰よ

りも側でココノエの仕事を手伝ってきたテイガーはそのことを身にしみて実感している

ライチは驚いたような顔を見せそれから頰ほおを緩ゆるめるように力を抜ぬくと

しげに首を横に振ふ

第二章 Spiral fate 盤上の駒111

間まちがってもテイガーやココノエとの会話を

かれるわけにはいかないのだライチは素早く

助けを求めるような視線をテイガーに向ける

だがそのときにはもうすでにテイガーは通信をオフにしていたライチがなにをきらうのか

は見かけによらず理性的な巨きよ漢かんは十分理解している

ただしその代わりにとばかりに抱えていた意識のない少女をライチの腕の中に押し付ける

ように託たくした

「私は任務があるもう行かなければとにかくこの娘むすめを頼む」

テイガーがここを訪れたのはなにもココノエの心情を伝えるためでも上司とライチを口論

させるためでもなくこの赤い髪かみの少女の身の安全のためだ

「わかったわ預かる」

このじ状よう況きようで拒きよ否ひするわけにもいかないライチは素直に少女の身み柄がらを引き受けた

力なくもたれかかる少女の体は決して軽くはないが支えながら引きずってベッドへ運ぶく

らいはできる医者や研究者に相応ふさわしくない程度にはライチは力には自信があった

ライチが受け取った人物の

を見てリンファが不ふ愉ゆ快かいそうに眉まゆを寄せた

「この人図書館の

士じゃんなんでhelliphellip」

なんで

士なんかを預かるのかのみ込まれたリンファの言葉はそう続くはずだった

リンファはオリエントタウンの生まれだ下層の住人の大半がそうであるように彼女もま

た高圧的な統制機構の施し政せいに大いに不満を抱いて生活している

110

雨の中運ばれてきたせいで少女の体はすっかり冷えていた

リンファが整えてくれたベッドまで運ぶと清潔なシーツの上に横たえ

士の制服である青

い帽ぼう子しとブーツを脱ぬがせる指先まですっかり力を失った手を取り手てぶ袋くろと硬かたい金具のついた

袖そでを外した

となりの部屋でリンファが買ってきた日用品の片づけをしている物音を

きながら上等とは言

えない毛布と布団を眠ねむる少女の体にそっとかけてやる

「helliphellip今夜はこれじゃ少し寒いかもしれないわね」

青と白の帽子や袖をたな

へしまいながらライチは声に出して呟つぶやいた

そのしゆ

間んかん目に見えない糸が切れたような不思議な感覚がライチの

筋を掠かすめていったの

だけれど

ライチはそれを冷えてきたがゆえの悪寒だと思って新しい患者にかけてやる毛布を取りに

行くため部屋を出た

この

間ライチの大切なものがひとつ喪うしなわれたと彼女が知ることはなかった

第二章 Spiral fate 盤上の駒113

った

「helliphellip私は戻れないわあの人のことが片付かない限りは」

戻ればきっと後こう悔かいするお門かどちがいにもココノエを恨うらむかもしれない

「そしてもし片が付いて私があそこに戻ろうとしてもそのときは今度は博士が私を受け入れ

ない」

もしあの人を戻せるとしたらその方法が容易たやすくそして人道に則のつとったものであるはずがな

い触ふれてはならないものに触れなければならないだろう見てはならないものを見なければ

ならないだろう知ってはいけないものを知らなければならないだろう

そうなったときココノエが自分をどんな目で見るかライチはあまり想像したくはなか

った

難しそうに唸うなりテイガーが小さく顎あごを引く歪ゆがんだ口元は苦々しい

「そうか難しいことは私にはわからんが」

いつまでも話してばかりはいられないテイガーは広く赤い

中をライチへ向けた

「今はこれで失礼するhelliphellip達者でな」

それだけ告げるとテイガーは後うしろ髪がみを引かれる様子もなく来た道を引き返していった暗

い影かげの中に入るとやがて大きな

中はオリエントタウンの路地裏に消える

ライチもまた立ち去る

を向けて預かった

士の少女を病院の中へと運び込んだ

後ろ手にとびらを閉めればそこはもう慣れ親しんだ小さな自分の病院だ

112

まったくうんざりするこれからこんな風雨の下でひとりで作業しなければならないな

んて

「helliphellipっていつまでもぐちぐち言っていてもしょうがないですか」

自分で自分を哀あわれみながらハザマはスーツの内ポケットから小さな通信機を取り出した

耳に当ててしばらく待つ

とうに日は落ちて辺りは暗くこの分厚い雨雲で月明かりが望めるわけもないハザマの後

方で灯ともる屋上入り口の白々しい明かりがスポットライトのように円形の濡れた屋上を寒々し

く照らしていた

『||私だ』

通信機の向こうから声が応こたえた

男の声だ低く感情らしい響ひびきは一いつ切さいない

ハザマはズボンのポケットに手を突つっ込こむと心持ち

筋を伸ばした

「お疲つかれ様ですハザマですとりあえず現場に到とう着ちやくしましたよ雨ざらしですけど」

『そうかでは始めろ』

「あらら冷たいですねぇねぎらいの言葉もなしですか技術大たい佐さ」

帽子のつばなどまるで意味がない濡れて額にはりつく前まえ髪がみを指先でのけながらハザマは口

角を引いて苦くし笑ようする

もっとも通信機の向こうにいる男にねぎらいの言葉などかけられたらそれはそれで気味

第二章 Spiral fate 盤上の駒115

2199年12月30日||18時21分

雨はまだ

り続いていた

曇どん天てんはますます色いろ濃こくついには強い風まで吹ふき始める

夜ともなれば空気は冷えるただでさえここは高い場所でhelliphellipそう地上から数えればとん

でもなく高い場所でそのうえ風雨をさえぎるものがないというのに

「あーあhelliphellipもう最悪ですね」

世界虚こ空くう情報統制機構カグツチ支部の屋上つまり第十三階層都市カグツチにおいて最も高

い場所に立つハザマは

り止む気配のない雨空を見上げて心底辟へき易えきしていた

制服ではない自前の黒いスーツも雨除よけにはならない帽子も上がってきて数秒でびしょ濡ぬ

れだ

少し待てば雨足も弱まるのではないかと思って無益に潰つぶした時間は一体なんだったのだろ

うか

「これが上官命令でもあの人の言いつけでもなかったら体調不良でも持ちだして即そつ刻こく本部に

帰るところですよ」

114

歩きながらもハザマは笑っていた両手をポケットに突っ込んでいるせいで細い肩が少しだ

け持ち上がって喉のどを鳴らすたびに小刻みに揺ゆれる

誰もいない鳥さえ近づかないカグツチの頂でハザマはどこか摑つかみどころなくにゆ

和うわに笑い

かけた

彼にだけわかる人物へまるでなだめすかすように

「そう急せかさないでくださいよ焦あせらなくてもいずれ取り戻せますって」

||ねえテルミさん

第二章 Spiral fate 盤上の駒117

が悪くてとても仕事どころではないのだけれど

『あまり時間がないさっさとしろ』

「はいはいまったく貴方あなたもあの人も人使いが荒あらいんですから」

ではまた後ほどそう言葉を足して通信を終えるとハザマは手の中に握にぎり込めるくらい

小さな通信機を玩がん具ぐでも扱あつかうように宙へ放ほうり投げキャッチした

雨が冷たい

ハザマは目ま深ぶかにかぶっていた黒の帽子をほんの少しだけ持ち上げた

濡れた髪の向こうから金色の瞳ひとみが覗のぞいていた照明の中でちらつく無数の雨あま粒つぶを鋭えい利りな狡こう猾かつ

さで見み据すえる一いつ緒しよにその向こうで静かに濡れるがらんと空くう虚きよななにもない屋上の空間を

軽く肩をすくめるようにしてハザマが笑えみの息を漏もらしたまるで誰かになにごとか語り

かけられたかのように

「わかっていますよ私だってさっさと片付けたいですからね」

さあさあと雨の音が途切れることなく続いている

そこにハザマ以外の誰かの声はなくもちろんハザマ以外の

はない

暗い夜の屋上は雨あま霧ぎりの中でなにひとつ文句も言えず濡れるばかりでハザマに何事か語りか

けるはずもない

ハザマは通信機をしまうとちょいと帽子を直し屋上の中央に向かって足を踏ふみ出した硬

い革かわぐつが濡れた床ゆかを叩たたいて微かすかな水音を弾はずませる

116

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