36
絵 葛原進 平山公香

tai histry walking

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tai histry walking2012\6-4

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Page 1: tai histry walking

絵 葛原進 平山公香

Page 2: tai histry walking

1

ままままえがきえがきえがきえがき

田井

た い

歴史

れきし

研究会

けんきゅうかい

は、本

ほん

研究会

けんきゅうかい

の前

ぜん

会長

かいちょう

でもある宮田邦

みやたくに

蔵さん

ぞう

が趣味

しゅみ

でおこなっ

ていた、田井

た い

の史跡

しせき

調査

ちょうさ

に感銘

かんめい

を受けた

うけ

田井

た い

の住 民

じゅうみん

有志

ゆ う し

により発

ほっ

そく

しました。

研 究 会

けんきゅうかい

参加者

さんかしゃ

は、長年

ながねん

んでいる田井

た い

地区

ち く

には、どのような文化

ぶんか

・歴史

れきし

があったの

かを、史跡

し せ き

を通して

とお

探る

さぐ

ことにしました。「歴史

れきし

ウォーキング

う ぉ ー き ん ぐ

」と称し

しょう

、日頃

ひ ご ろ

から目

するものから、廃

すた

れてしまったものまで、現地

げんち

を歩きながら

ある

調査

ちょうさ

をしました。

本書

ほんしょ

は、玉野市

たまのし

の補助

ほじょ

きん

を受け

、調査

ちょうさ

結果

けっか

をまとめたものです。本書

ほんしょ

をご覧

らん

にな

った皆

みな

さまに、田井

た い

地区

ち く

の歴史

れきし

を感じる

かん

とともに、機会

きかい

があれば訪れて

おとず

いただき、ひ

っそりとたたずむ史跡

しせき

から、古

じん

の息吹

いぶき

を感じて

かん

いただければ幸い

さいわ

です。

田井

た い

歴史

れ き し

研究会

けんきゅうかい

目目目目

もく

次次次次

1. 梶原

かじわら

・尾坂

お さ か

地区

ち く

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… 2

2. 正しょう

かみ

から寺

てら

ぐろ

地区

ち く

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………8

3. 先丁場

さきちょうば

から木之崎

き の さ き

地区

ち く

………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… 14

4. 谷たに

西

にし

から野々

の の

はま

地区

ち く

…………………………………………………………………… 19

5. 十じゅう

禅寺

ぜ ん じ

から梶原

かじわら

地区

ち く

………………………………………………………………… 26

6. 田井

た い

の人物

じんぶつ

……………………………………………………………………………… 31

7. あとがき……………………………………………………………………………………35

Page 3: tai histry walking

2

1. 梶原梶原梶原梶原

かじわら

・・・・尾坂尾坂尾坂尾坂

お さ か

地区地区地区地区

ち く

①①①① 桜桜桜桜

さくら

のののの木木木木

のののの側側側側

そば

のののの六地蔵六地蔵六地蔵六地蔵

ろくじぞう

尊尊尊尊

そん

はじ

めに行

ったところは、

梶原

かじわら

方面

ほうめん

の東 側

ひがしがわ

入口

いりぐち

にあ

る六地蔵

ろくじぞう

そん

です。すぐ横

よこ

は屋根

や ね

つきの地蔵

じぞう

そん

があり

ます。

②②②② 桜桜桜桜

さくら

のののの木木木木

のののの側側側側

そば

のののの地蔵地蔵地蔵地蔵

じ ぞ う

尊尊尊尊

そん

この地蔵

じぞう

そん

の横

よこ

には樹齢

じゅれい

60

ねん

の 桜

さくら

の木

があります。

③③③③ 定岡定岡定岡定岡

さだおか

池池池池

いけ

のののの下下下下

した

にあるにあるにあるにある六六六六

ろく

地地地地

蔵蔵蔵蔵

ぞう

尊尊尊尊

そん

ここには六

むっ

つのお地蔵

じぞう

さまが祀

まつ

られています。これは六地蔵

ろくじぞう

といって仏 教

ぶっきょう

の世界

せかい

で6体

たい

のお地蔵

じぞう

さまがみんなの苦

くる

しみ

を救

すく

ってくれるという

おし

えから、全国

ぜんこく

いろい

ろなところでまつられ

ています。

Page 4: tai histry walking

3

④④④④ 地蔵地蔵地蔵地蔵

じ ぞ う

尊尊尊尊

そん

道 標

みちしるべ

のあるところにまつら

れていたお地蔵

じぞう

さま

です。

土居ノ内町内

どいのうちちょうない

のお地蔵

じぞう

さま

として地域

ちいき

の人たちが大切

たいせつ

におまつりしています。その

よこ

に、道 標

みちしるべ

があり、そこに

は、「ここから 東 方 面

ひがしほうめん

小串

こぐし

・西大寺

さいだいじ

、西方面

にしほうめん

は 秀

しゅう

てん

・味

あじ

、北方面

きたほうめん

は八浜

はちはま

・岡山

おかやま

、南 方 面

みなみほうめん

は日比港

ひ び こ う

と記

しる

されています。

【玉野市史

た ま の し し

】より

明治

めいじ

二十九年

にじゅうきゅうねん

に建

てられた梶原

かじわら

の道 標

みちしるべ

は「 南

みなみ

日比港

ひ び こ う

、北八浜

きたはちはま

、岡山

おかやま

どう

、東

ひがし

小串

こぐし

、西大寺

さいだいじ

どう

、西味

にしあじ

野道

のどう

」と記

しる

されており八浜港

はちはまこう

の役割

やくわり

を如

にょ

じつ

に物語

ものがた

っている。

⑤⑤⑤⑤ 駿河駿河駿河駿河

す る が

池池池池

いけ

のののの 東東東東

ひがし

にあるにあるにあるにある地蔵地蔵地蔵地蔵

じ ぞ う

尊尊尊尊

そん

駿河

するが

いけ

の東 側

ひがしがわ

にあるお地蔵

じぞう

さまです。お地蔵

じぞう

さまには赤

あか

い前垂

まえだ

れがかけら

れています。これにはいろいろ

ないわれがあるそうです。 昔

むかし

は子

どもたちが、麻疹

はしか

や水疱瘡

みずぼうそう

などで沢山

たくさん

なくなっていたそ

うです。「悪

わる

い病気

びょうき

をもってく

る疫

えき

がみ

は、赤

あか

い色

いろ

が嫌

きら

いだっ

たので子

どもの守

まも

り神

かみ

である

お地蔵

じぞう

さまに前

まえ

だれをかけて

どもたちに近

ちか

づかないよう

にした。」とか、逆

ぎゃく

に「疫

えき

がみ

赤色

あかいろ

が好

すき

きなのでお地蔵

じぞう

さまに赤

あか

い前垂

まえだ

れをかけて、子

どもたちに近

ちか

づかな

いようにと身代

み が

わりになってもらった。」とも言

われているそうです。

Page 5: tai histry walking

4

⑥⑥⑥⑥ 駿河駿河駿河駿河

す る が

池池池池

いけ

のののの西側西側西側西側

にしがわ

にあるにあるにあるにある荒神社荒神社荒神社荒神社

こうじんじゃ

梶原

かじわら

地区

ち く

の人

ひと

たちが、「安全

あんぜん

で 豊

ゆたか

かな

生活

せいかつ

が、おくれますように。」と願

ねが

って

おまつりしていたそうです。

荒神社

こうじんじゃ

とは、かまどや牛馬

ぎゅうば

の安全

あんぜん

をつ

かさどる守護

しゅご

しん

です。

⑦⑦⑦⑦ 駿河駿河駿河駿河

す る が

池池池池

いけ

のののの側側側側

そば

にあるにあるにあるにある金毘羅宮金毘羅宮金毘羅宮金毘羅宮

こ ん ぴ ら ぐ う

のののの鳥居鳥居鳥居鳥居

と り い

金毘羅宮

こんぴらぐう

の建物

たてもの

は残

のこ

っていませんが、

鳥居

とりい

だけは残

のこ

っています。この横

よこ

には

三里

さんり

十 八 丁

じゅうはっちょう

といって深山

みやま

の池

いけ

から

ここまで水

みず

を引

いてきた水路

すいろ

があり

ます。

⑧⑧⑧⑧ 駿駿駿駿

する

河河河河

山山山山

やま

城城城城

じょう

址址址址

むかし

、梶原

かじわら

という豪族

ごうぞく

がここにお

しろ

を構

かま

えていました。

現在

げんざい

は鳥居

とりい

と 祠

ほこら

が3つ残

のこ

ってい

ます。

⑨⑨⑨⑨ 長宮長宮長宮長宮

ながみや

大徳大徳大徳大徳

だいとく

ののののおおおお墓墓墓墓

はか

駿河

するが

いけ

の土手

ど て

の下

した

に民家

みんか

が 1軒

けん

ありま

す。その家

いえ

の横

よこ

を通

とお

って裏手

うらて

に回

まわ

ると

長宮

ながみや

大徳

だいとく

のお墓

はか

があります。

長宮

ながみや

大徳

だいとく

という人は海運業

かいうんぎょう

で財

ざい

なした人

ひと

だそうです。

Page 6: tai histry walking

5

⑩⑩⑩⑩ 蓮華蓮華蓮華蓮華

れ ん げ

庵庵庵庵

あん

児島

こじま

霊 場

れいじょう

八十八ヶ所

はちじゅうはっかしょ

第十四番

だいじゅうよんばん

札所

ふだしょ

です。こ

こには、十一面

じゅういちめん

観音

かんのん

さま

がまつられています。こ

の観音

かんのん

さま

はこの世

で 十

じゅっ

種類

しゅるい

のご利益

りやく

と次

つぎ

の世

つの 幸

しあわせ

せをくださる

といわれています。

1.人

ひと

に愛

あい

されること

2.人

ひと

にほめられること

3.人

ひと

の役

やく

に立

つこと

4.人

ひと

にひつようとされること

⑪⑪⑪⑪ 厨子型厨子型厨子型厨子型

ず し が た

石塔石塔石塔石塔

せきとう

玉野市史

た ま の し し

に記載

きさい

されている写真

しゃしん

です。尾坂

おさか

トンネル

と ん ね る

の手前

てまえ

左 側

ひだりがわ

に、多

おお

くの石塔

せきとう

や五輪塔

ごりんとう

がありま

す。今

いま

も塀

へい

の 下

した

の葦

よし

の中

なか

厨子型

ず し が た

石塔

せきとう

が三塔

さんとう

あります。

玉野市

た ま の し

では 珍

めずら

しく、重 要

じゅうよう

な文化

ぶんか

ざい

です。

全高

ぜんこう

157 センチ、屋根

や ね

の幅

はば

111

センチ

せ ん ち

、扉

とびら

一枚

いちまい

70センチ

せ ん ち

、横

よこ

38

センチ

せ ん ち

、6センチ

せ ん ち

と 7センチ

せ ん ち

の厚

あつ

の二段

にだん

の台

だい

の上

うえ

に乗

っています。

右側

みぎがわ

の文字

も じ

は「寛永

かんえい

じゅう

■丑

うし

どし

左 側

ひだりがわ

に「三月

さんがつ

■五日

いつか

」と記

しる

され

ています。 正 面

しょうめん

に書

かれた

戒 名

かいみょう

は、右側

みぎがわ

に「岳月妙慶逆修」左 側

ひだりがわ

に「心覚常慶逆修」と記

しる

されてい

ます。

※ ■は、石碑

せきひ

が古

ふる

くて文字

も じ

が読

み取

れませんでした。

Page 7: tai histry walking

6

⑫⑫⑫⑫ 地蔵地蔵地蔵地蔵

じ ぞ う

尊尊尊尊

そん

梶原

かじわら

・尾

坂 東

さかひがし

地区

ち く

にあるお地蔵

じぞう

さまです。これらも地元

じもと

の人

ひと

たち

に大切

たいせつ

におまつりされています。

⑬⑬⑬⑬ 尾尾尾尾

坂西坂西坂西坂西

さかにし

地区地区地区地区

ち く

にあるにあるにあるにある地蔵地蔵地蔵地蔵

じ ぞ う

尊尊尊尊

そん

現在

げんざい

は、このように家

いえ

の塀

へい

した

におまつりされています。こ

こも六体

ろくたい

地蔵

じぞう

です。

六地蔵

ろくじぞう

とは、 仏 教

ぶっきょう

の教

おし

えで

六道

ろくどう

輪廻

りんね

の思想

しそう

(すべての

生命体

せいめいたい

は6種類

しゅるい

の世界

せかい

に生

れ変

わりを繰

り返

かえ

す)に基

もと

づき、

獄道

ごくどう

、餓鬼

が き

どう

、畜生

ちくしょう

どう

、修羅

し ゅ ら

どう

、人道

じんどう

、天道

てんどう

の 順

じゅん

に金剛

こんごう

がん

地蔵

じぞう

、金剛

こんごう

ほう

地蔵

じぞう

、金剛悲

こんごうひ

地蔵

じぞう

、金剛憧

こんごうどう

地蔵

じぞう

放光

ほうこう

おう

地蔵

じぞう

、預

てん

ぞう

といいます。

⑭⑭⑭⑭ 尾尾尾尾

坂西坂西坂西坂西

さかにし

地区地区地区地区

ち く

のののの 集集集集

しゅう

会所会所会所会所

かいじょ

にあるにあるにあるにある不動不動不動不動

ふ ど う

尊尊尊尊

そん

「お不動

ふどう

さん」と呼

れ部

らく

の人

ひと

に親

した

しま

れ 、 地区

ち く

の 鎮守

ちんじゅ

神様

かみさま

としてまつられ

ています。

地区

ち く

の 集会所

しゅうかいじょ

裏手

うらて

にあります。

Page 8: tai histry walking

7

⑮⑮⑮⑮ 尾坂尾坂尾坂尾坂

お さ か

金松金松金松金松

かねまつ

地区地区地区地区

ち く

にあるにあるにあるにある地蔵地蔵地蔵地蔵

じ ぞ う

尊尊尊尊

そん

この辺

あた

りでは、小

ちい

さな集 落

しゅうらく

ごと

にお地蔵

じぞう

さまをおまつりしてい

ます。

⑯⑯⑯⑯ 梶原梶原梶原梶原

かじわら

一族一族一族一族

いちぞく

のおのおのおのお墓墓墓墓

はか

ここには、 源 義 経

みなもとのよしつね

を追

つい

ほう

たといわれている梶原

かじわら

三郎

さぶろう

後裔

こうえい

が眠

ねむ

っているといわれてい

ます。梶原家

かじわらけ

は、駿河山

するがやま

にあっ

た駿河

するが

山 城

やまじょう

の 城 主

じょうしゅ

だったそ

うです。このあたりには 昔

むかし

、源

げん

・源

げん

太坂

たざか

の地名

ちめい

があり、また、

この五輪塔

ごりんとう

を地主

じぬし

さまとしてま

つっていることから、ここに梶原

かじわら

一族

いちぞく

がまつられていると 考

かんが

えられるので

す。

【参考地図】【参考地図】【参考地図】【参考地図】

Page 9: tai histry walking

8

2. 正ノ上正ノ上正ノ上正ノ上

しょうのかみ

からからからから寺寺寺寺

てら

畔畔畔畔

ぐろ

地区地区地区地区

ち く

①①①① 正ノ上正ノ上正ノ上正ノ上

しょうのかみ

のののの六地蔵六地蔵六地蔵六地蔵

ろくじぞう

尊尊尊尊

そん

由来

ゆらい

不詳

ふしょう

ですが、

正ノ上

しょうのかみ

の人

ひと

たち

が大事

だいじ

におまつ

りしています。

②②②② 正ノ上正ノ上正ノ上正ノ上

しょうのかみ

地区地区地区地区

ち く

のののの

天満宮天満宮天満宮天満宮

てんまんぐう

勧 請

かんじょう

年月日

ねんがっぴ

不詳

ふしょう

。 正ノ上

しょうのかみ

丸山

まるやま

(西佐古田

に し さ こ だ

やぶ

だに

の 間

あいだ

小高

こだか

い峰

みね

)にまつ

ってありました

が寛

かん

ぽう

3年

ねん

(1743)

6月

がつ

現在

げんざい

の位置

い ち

に移

うつ

し、勉学

べんがく

かみ

としてまつっ

ています。

祭神

さいじん

は菅原道真

すがわらのみちざね

こう

で祭日

さいじつ

は旧 暦

きゅうれき

8月

がつ

24日

にち

~25日

にち

です。

③③③③ 天満宮天満宮天満宮天満宮

てんまんぐう

のののの裏裏裏裏

うら

にあるにあるにあるにある建石建石建石建石

たていし

神社神社神社神社

じんじゃ

以前

いぜん

は別

べつ

のところにありましたが、現在

げんざい

は天満宮

てんまんぐう

の裏

うら

に鎮座

ちんざ

しています。

毎年

まいとし

田井

た い

八幡宮

はちまんぐう

の宮司

ぐうじ

による

おまつりをしています。天明

てんめい

4年ねん

(1784)、上道郡

じょうどうぐん

澤田

さわだ

建石

たていし

神社

じんじゃ

より勧 請

かんじょう

、安政

あんせい

7年ねん

(1860)に

拝殿

はいでん

を建 立

こんりゅう

していました。今

いま

でも大切

たいせつ

にまつられています。

Page 10: tai histry walking

9

④④④④ 建石建石建石建石

たていし

神社神社神社神社

じんじゃ

のののの 左左左左

ひだり

上上上上

うえ

ににににあるあるあるある五五五五

角形角形角形角形

かっけい

のののの石碑石碑石碑石碑

せ き ひ

(詳 細

しょうさい

不明

ふめい

農 業

のうぎょう

に関係深

かんけいぶか

い5つの地神

ぢかみ

さま

が5

角形

がっけい

の面

めん

に記

しる

されてまつられています。

※巻末34ページ地神様の説明を記載していま

す。

⑤⑤⑤⑤ 秋葉山秋葉山秋葉山秋葉山

あきばさん

大権現大権現大権現大権現

だいごんげん

幕末

ばくまつ

から明治

めいじ

かけて、正ノ上

しょうのかみ

の部落

ぶらく

では、な

ぜか火災

かさい

が多

おお

く、

「田井

た い

の火事

か じ

い う と 正ノ上

しょうのかみ

だ。」と言

われる

ほどでした。そ

こで、明治

めいじ

41

ねん

11月

がつ

、部落

ぶらく

の代 表

だいひょう

として三宅定四郎

みやけさだしろう

、藤原

ふじわら

まん

きち

らが、はるばる 遠

とおとう

の国

くに

(静岡県

しずおかけん

)まで出

かけ、秋葉

あきば

大権現

だいごんげん

を勧 請

かんじょう

(かんじょう=神 仏

しんぶつ

の霊

れい

けてもらってまつること)して部落

ぶらく

にまつりました。

不思議

ふ し ぎ

なことにそれ以来

い ら い

、あれほど頻発

ひんぱつ

していた火事

か じ

がぴたりと止

まり、部落

ぶらく

の人々

ひとびと

は安心

あんしん

するとともに秋葉

あきば

さま

の霊験

れいけん

を信

しん

じ、尊崇

そんすう

しておまつりしてい

ます。この秋葉

あきば

神社

じんじゃ

というのは静岡県

しずおかけん

周智郡

しゅうちぐん

春野町

はるのちょう

にあり天竜川

てんりゅうがわ

の東岸

とうがん

秋葉山

あきばさん

にある元

もと

の県社

けんしゃ

で、祭神

さいじん

はホ

かみ

です。 昔

むかし

から火

せの

かみ

として全国的

ぜんこくてき

な信仰

しんこう

を集

あつ

め、一般

いっぱん

には羽

はね

の生

えた天狗

てんぐ

の 姿

すがた

を秋葉

あきば

大権現

だいごんげん

とよんで各地

かくち

にまつられています。ここの秋葉

あきば

さま

も権現

ごんげん

けい

で鳥居

とりい

はあ

りますがそのおまつりには金剛寺

こんごうじ

の 住 職

じゅうしょく

が奉仕

ほうし

し、仏式

ぶっしき

による祭典

さいてん

が行

おこな

われています。このことは神仏

しんぶつ

混淆

こんこう

の 姿

すがた

を残

のこ

している 珍

めずら

しい例

れい

です。

【玉野市史

た ま の し し

続編

ぞくへん

より】

⑥⑥⑥⑥ 小池小池小池小池

こ い け

のののの地蔵地蔵地蔵地蔵

じ ぞ う

尊尊尊尊

そん

じぇい

あーる

えき

まえ

にまつられていま

す。 昔

むかし

は、一

いち

ねん

に一度

いちど

この前

まえ

でそ

の年

とし

に亡

くなった霊

れい

を 弔

とむら

っていた

そうです。

Page 11: tai histry walking

10

⑦⑦⑦⑦ 小池小池小池小池

こ い け

のののの薬師堂薬師堂薬師堂薬師堂

やくしどう

薬師

やくし

如来

にょらい

は、大 乗

だいじょう

仏 教

ぶっきょう

では病気

びょうき

平癒

へいゆ

など

現世

げんせい

利益

りやく

に貢献

こうけん

のある 仏

ほとけ

さま

として信仰

しんこう

され

ています。

アジア

あ じ あ

仏 教圏

ぶっきょうけん

の中

なか

でも

とく

に日本

にほん

で広

ひろ

く信仰

しんこう

を集

あつ

めている 仏

ほとけ

さま

です。

⑧⑧⑧⑧ 孫座孫座孫座孫座

ま ご ざ

地区地区地区地区

ち く

にあるにあるにあるにある孫座孫座孫座孫座

ま ご ざ

古墳古墳古墳古墳

こ ふ ん

田井孫座

た い ま ご ざ

の山 頂

さんちょう

にあります。埋葬

まいそう

のしかたは横穴式

よこあなしき

石室

せきしつ

です。

形式

けいしき

:円墳

えんぷん

規模

き ぼ

直 径

ちょっけい

:17 m

めーとる

はば

:2.7 m

めーとる

たか

さ:1.8 m

めーとる

築造

ちくぞう

:[中期

ちゅうき

以降

いこう

]

てつ

格子

ごうし

で古墳

こふん

の洞窟

どうくつ

が 獣

けもの

から守

まも

られて

います。

石室

せきしつ

の中

なか

の品々

しなじな

は、

玉野市

た ま の し

総合

そうごう

文化

ぶんか

センター

せ ん た ー

の資料室

しりょうしつ

に展示

てんじ

されています。

⑨⑨⑨⑨ 田田田田

井井井井

新新新新

しん

左左左左

衛衛衛衛

門門門門

もん

のののの墓墓墓墓

はか

以前

いぜん

は中原

なかはら

地区

ち く

あったそうですが、

区画

くかく

整理

せいり

により、

福原

ふくはら

地区

ち く

地蔵堂

じぞうどう

境内

けいだい

に移

うつ

されてい

ます。

Page 12: tai histry walking

11

⑩⑩⑩⑩ 福福福福

ふく

原原原原

はら

地区地区地区地区

ち く

の3つのの3つのの3つのの3つの石碑石碑石碑石碑

せ き ひ

ひだり

は、田

しん

もん

、中 央

ちゅうおう

は地

がみ

さま

、右

みぎ

は渡辺家

わたなべけ

の先祖

せんぞ

ばか

です。

⑪⑪⑪⑪ 福福福福

ふく

原原原原

はら

地区地区地区地区

ち く

のののの六地蔵六地蔵六地蔵六地蔵

ろくじぞう

尊尊尊尊

そん

ここの六地蔵

ろくじぞう

そん

は少

すこ

し古

ふる

く、部落

ぶらく

の人々

ひとびと

に大切

たいせつ

まつられていま

す。

⑫⑫⑫⑫ 福原福原福原福原

ふくはら

地区地区地区地区

ち く

のののの和霊和霊和霊和霊

わ れ い

神社神社神社神社

じんじゃ

和霊

われい

さま

という

神様

かみさま

は、これを

おまつりしてい

れば、船

ふね

を難破

なんぱ

ら救

すく

う、あるいは、

漁 業

ぎょぎょう

や生産

せいさん

さか

んにするもの

として信仰

しんこう

され

ています。特

とく

海 上

かいじょう

生活者

せいかつしゃ

おお

い瀬戸内海

せとないかい

沿岸

えんがん

地方

ちほう

では広

ひろ

くまつられている神様

かみさま

です。

Page 13: tai histry walking

12

市内

しない

でも各地

かくち

にまつられていますが、田井

た い

の福原

ふくはら

にある和霊

われい

神社

じんじゃ

は、小

ちい

さい

ながらも社殿

しゃでん

を構

かま

えて例祭

れいさい

(決

まった日

に 行

おこな

われる祭

まつ

り)も 行

おこな

われていて、

この近郷

きんごう

では 最

もっと

も大

おお

きく有名

ゆうめい

な和霊

われい

さま

です。

明治

めいじ

35年

ねん

、福原

ふくはら

の藤

ふじ

原石

わらいし

太郎

たろう

、石田

いしだ

よね

ろう

などが伊予

い よ

から勧 請

かんじょう

し、

向 山

むかいやま

に社殿

しゃでん

を造営

ぞうえい

して以来

いらい

、例祭

れいさい

には近郷

きんごう

近在

きんざい

の人

ひと

たちが参詣

さんけい

するよう

になり、沿道

えんどう

から社地

しゃち

まで露天商

ろてんしょう

が並

なら

び、うちわ片手

かたて

に浴衣

ゆかた

がけという

老 若

ろうにゃく

男女

なんにょ

が山

やま

の上

うえ

まで続

つづ

いていました。また、部落

ぶらく

では家々

いえいえ

に祭り

まつり

提 灯

ちょうちん

つるして親戚

しんせき

知人

ちじん

を招

まね

き、一夜

いちや

を明

かす習 慣

しゅうかん

もありました。また日比

ひ び

そん

も明治

めいじ

の中

なか

ごろ

に宇和島

う わ じ ま

から和霊

われい

神社

じんじゃ

の分霊

ぶんれい

を勧 請

かんじょう

してまつっていました

が、この方

ほう

は社殿

しゃでん

もなく、小

ちい

さな 祠

ほこら

にまつり新

しん

と云

われる色街

いろまち

の中

なか

でお

まつ

りが行

おこな

われていました。港

みなと

であり上

のぼ

り下

くだ

りの船

ふな

びと

も多

おお

い土地柄

と ち が ら

でもあっ

て、旧 暦

きゅうれき

6月

がつ

23日

にち

の夜

よる

、紅灯

こうとう

のなかで夜通

よどお

し行

おこ

われるこの 祭

まつり

は、面白

おもしろ

習 慣

しゅうかん

となっていましたが、今

いま

はもうまったく 行

おこな

われていません。

この和霊

われい

神社

じんじゃ

は、伊予

い よ

の宇和島

う わ じ ま

で山家公頼

やんべきんより

の徳

とく

を慕

した

い、この人

ひと

を神様

かみさま

とし

てまつったものです。山

やん

きん

より

は伊

宇和島藩

うわじまはん

の家老

かろう

で、主君

しゅくん

伊達家

だ て け

の安泰

あんたい

と発展

はってん

をはかるため、まず武備

ぶ び

の充 実

じゅうじつ

をはかり、その反面

はんめん

、租税

そぜい

の軽減

けいげん

民 力

みんりょく

の休 養

きゅうよう

をはかる方針

ほうしん

を立

て、そのためには積極的

せっきょくてき

な藩

はん

財政

ざいせい

の節約

せつやく

が必要

ひつよう

であるとして家臣

かしん

の俸禄

ほうろく

を減

らしたのです。このため公頼

きんより

を恨む

うらむ

藩士

はんし

も多

おお

かったのでしょう、元和

げんな

6年

ねん

(1620)6月

がつ

23日

にち

の深更

しんこう

(深夜

しんや

)、蚊帳

か や

なか

で寝

ていた公頼

きんより

は突然

とつぜん

刺客

しかく

に襲

おそ

われたのでした。武芸

ぶげい

のたしなみも深

ふか

公頼

きんより

ではありましたが、暗

くら

がりではあり、しかも公頼

きんより

の腕前

うでまえ

を知

る刺客

しかく

が、

まず蚊帳

か や

の吊

り手

を切

り落

として蚊帳

か や

をかぶせたので、蚊帳

か や

にからまれた

公頼

きんより

は 刀

かたな

を使

つか

うこともできず、「この蚊帳

か や

さえなければ」と、恨

うら

みをのんで

非業

ひごう

の死

をとげたのです。

それから何年

なんねん

かたった後

のち

、宇和島藩

うわじまはん

の 百 姓

ひゃくしょう

町 人

ちょうにん

たちの中

なか

から公頼

きんより

の徳

とく

した

う声

こえ

がおこり、その霊

れい

をまつって建 立

こんりゅう

したのが和霊

われい

神社

じんじゃ

であり、その

命日

めいにち

である6月

がつ

23日

にち

の夜

よる

、宇和島

う わ じ ま

では、一晩

ひとばん

中蚊帳

じゅうかや

を吊

らないでお祭

まつ

をしていたのです。各地

か く ち

の和霊

わ れ い

まつ

りもこれを伝承

でんしょう

して、この晩

ばん

、蚊帳

か や

を吊

ないのがこのお祭

まつ

りの習 俗

しゅうぞく

となっています。

⑬⑬⑬⑬ 寺寺寺寺

てら

畔畔畔畔

ぐろ

のののの北向北向北向北向

きたむき

地蔵地蔵地蔵地蔵

じ ぞ う

区画

くかく

整理

せいり

で移転

いてん

して現在

げんざい

の位置

い ち

なりました。お地蔵

じぞう

さま

は菩薩

ぼさつ

の一種

いっしゅ

です。神様

かみさま

は 南

みなみ

きに立

てられて

います。拝

おが

む人

ひと

は北向

きたむ

きになります。

本来

ほんらい

お地蔵

じぞう

さま

はお釈迦

しゃか

さま

の修 行

しゅぎょう

時代

じだい

の 姿

すがた

をされています。如来

にょらい

さま

になっ

Page 14: tai histry walking

13

ていない状 態

じょうたい

です。北

きた

を向

くということは民 衆

みんしゅう

と同

おな

じで、民 衆

みんしゅう

と一緒

いっしょ

いるのが、お地蔵

じぞう

さま

です。したがってお地

ぞう

さま

は本来

ほんらい

北向

きたむ

きでなければなり

ませんが、日本

にほん

全国

ぜんこく

では約

やく

400体

たい

しかないようです。北向

きたむ

きが 珍

めずら

しいという

ことで、大変

たいへん

ご利益

りやく

があるとか。

⑭⑭⑭⑭ 寺寺寺寺

てら

畔畔畔畔

ぐろ

のののの荒荒荒荒

こう

神宮神宮神宮神宮

じんぐう

荒神

こうじん

は 、 三宝

さんぼう

荒神

こうじん

の 略

りゃく

ぶっ

・法

ぽう

・僧

そう

の三宝

さんぽう

を守

まも

るという神

かみ

です。かまどを

まも

る神

かみ

です。寺

てら

ぐろ

部落

ぶらく

で 大切

たいせつ

にまつられてい

ます。 社

やしろ

の裏

うら

には巨大

きょだい

な岩

いわ

があり祠

ほこら

がまつられています。

⑮⑮⑮⑮ 大山大山大山大山

だいせん

神社神社神社神社

じんじゃ

国道

こくどう

30号

ごう

せん

田井

た い

ら槌

つち

はら

へ越

す賽

さい

とうげ

、ちょうどバイパス

ば い ぱ す

入口

いりぐち

の三叉

さんさ

、北側

きたがわ

小高

こ だか

い山

やま

にある小

ちい

さな

やしろ

が大山

だいせん

神社

じんじゃ

です。こ

の神社

じんじゃ

は農 業

のうぎょう

の神様

かみさま

として非常

ひじょう

に古

ふる

くから

この付近

ふきん

の農民

のうみん

の信仰

しんこう

を集

あつ

め、一般

いっぱん

には牛

うし

まつった神様

かみさま

だと言

れているが祭神

さいじん

は大山祇

おおやまづみ

のみこと

です。

もともとこの辺

あた

りは、深山

みやま

地区

ち く

と同じ

お な

ような状 態

じょうたい

で、弥生

やよい

時代

じだい

の農耕

のうこう

民族

みんぞく

み、僅

わず

かな谷間

たにま

の平坦

へいたん

な場所

ばしょ

で稲

いね

を作

つく

り、採取

さいしゅ

と狩 猟

しゅりょう

の生活

せいかつ

をしていま

した。われわれの遠い

とお

遠い

とお

祖先

そせん

が穴

あな

を掘

って藁

わら

屋根

やね

を掛

け、住み着いた

す つ

とこ

Page 15: tai histry walking

14

ろということができます。古墳

こふん

時代

じだい

になって農耕

のうこう

技術

ぎじゅつ

も進

すす

み人間

にんげん

もおおくな

るにしたがって、稲

いね

づくりは谷

たに

あいの湿田

しつでん

からしだいに平地

へいち

に広

ひろ

い面

めん

せき

水田

すいでん

が開墾

かいこん

されていきましたが、現在

げんざい

の梶原

かじわら

、正ノ上

しょうのかみ

という部落

ぶらく

の発 祥

はっしょう

この辺

あた

りであると言

われています。したがってこのお宮

みや

は、その古い

ふる

集落

しゅうらく

あとに建

てたものであるといわれ、田井

た い

地区

ち く

では最

もっと

も古

ふる

い神社

じんじゃ

です。

以前

い ぜん

は正ノ上

しょうのかみ

地区

ち く

の人

ひと

でおまつりしていましたが、神社

じんじゃ

があまり遠く

とお

てお

まつりを続

つづ

けることができなくなったので平成

へいせい

16年

ねん

に、田井

たい

八幡宮

はちまんぐう

の宮司

ぐうじ

んにより、御

たま

げを行

おこな

っていただき、勧

かん

じょう

した鳥取県

とっとりけん

の大山

だいせん

神社

じんじゃ

へ御

たま

を納

おさ

めて、廃社

はいしゃ

にしています。

【参考地図】【参考地図】【参考地図】【参考地図】

3. 丁丁丁丁

ちょう

場場場場

からからからから木木木木

之之之之

崎崎崎崎

さき

地地地地

区区区区

①①①① 前丁場前丁場前丁場前丁場

まえちょうば

のののの建建建建

たて

部部部部

神神神神

じん

社社社社

じゃ

たて

神社

じんじゃ

は前

まえ

ちょう

らく

にあり、不

どう

みょう

おう

こう

ぼう

だい

をまつり部

らく

の鎮守

ちんじゅ

です。勧

かん

じょう

ねん

がっ

は不

しょう

。部

らく

の 中

ちゅう

おう

にある宮田

みやた

ぜん

助所有

すけしょゆう

の「岩石

がんせき

を重

ちょう

じょう

して峨

たる巌

いわお

やま

(石切り場山

いしき ばやま

)」という山頂

さんちょう

に不動明王

ふどうみょうおう

Page 16: tai histry walking

15

中 段

ちゅうだん

に建部

たてべ

神社

じんじゃ

、下部

か ぶ

に弘法大師

こうぼうだいし

をまつっていましたが、明治

めいじ

20年

ねん

ごろ

いま

の地

遷座

せんざ

しました。

②②②② 建部建部建部建部

た て べ

神社神社神社神社

じんじゃ

境内境内境内境内

けいだい

にあるにあるにあるにある稲荷宮稲荷宮稲荷宮稲荷宮

いなりぐう

境内

けいだい

の中 央

ちゅうおう

みぎ

にあ

ります。

部落

ぶらく

の 人々

ひとびと

が 大切

たいせつ

におまつりしていま

す。

③③③③ 建部建部建部建部

た て べ

神社神社神社神社

じんじゃ

のののの奥奥奥奥

おく

のののの院院院院

いん

にあるにあるにあるにある不動不動不動不動

ふ ど う

尊尊尊尊

そん

建部

た て べ

神社

じんじゃ

の境内

けいだい

の裏手

うらて

から山道

やまみち

を少し

すこ

登る

のぼ

と小

たか

い狭

せま

いところに不

どう

そん

がまつられています。

ここから丁場

ちょうば

が一望

いちぼう

できる眺め

なが

のよいところで

す。

④④④④ 道一道一道一道一

みちいち

地蔵地蔵地蔵地蔵

じ ぞ う

尊尊尊尊

そん

むかし

、真珠

しんじゅ

を養殖

ようしょく

ていた人

ひと

が、台風

たいふう

でそ

の筏

いかだ

を流され

なが

、責任

せきにん

をとってこの山

やま

の上

うえ

で命

いのち

を断

ち、それを

まつったのが始

はじ

まり

だそうです。

Page 17: tai histry walking

16

⑤⑤⑤⑤ 六道六道六道六道

ろくどう

稲荷稲荷稲荷稲荷

い な り

とととと石塔石塔石塔石塔

せきとう

177177177177人人人人

にん

道一

みちいち

地蔵

じぞう

そん

のすぐ 左

ひだり

に「177人」と記されて

いる石

せき

があります。

台風

たいふう

の犠牲者

ぎせいしゃ

をまつっ

たもののようです。

⑥⑥⑥⑥ 先丁場先丁場先丁場先丁場

さきちょうば

のののの山山山山

やま

のののの手手手手

にあるにあるにあるにある稲荷宮稲荷宮稲荷宮稲荷宮

いなりのみや

本尊本尊本尊本尊

ほんぞん

さき

ちょう

にある稲

なり

じん

じゃ

は寛永

かんえい

年間

ねんかん

(1600年代

ねんだい

)より勧

かん

じょう

たものであり、先丁場

さきちょうば

部落

ぶらく

鎮守

ちんじゅ

するものです。今

いま

でも、地区

ち く

で大切

たいせつ

におまつりされています。

鳥居

とりい

などの文

は読取

よ み と

ません。

⑦⑦⑦⑦ 先丁場先丁場先丁場先丁場

さきちょうば

にあるにあるにあるにある稲荷宮稲荷宮稲荷宮稲荷宮

いなりぐう

ご本尊

ほんぞん

はこの建物

たてもの

の裏側

うらがわ

にまつられています。

現在

げんざい

は部落

ぶらく

の避難所

ひなんじょ

にも

なっています。

Page 18: tai histry walking

17

⑧⑧⑧⑧ 先丁場先丁場先丁場先丁場

さきちょうば

のののの民家民家民家民家

み ん か

のののの敷地内敷地内敷地内敷地内

しきちない

にあるにあるにあるにある地蔵地蔵地蔵地蔵

じ ぞ う

尊尊尊尊

そん

地域

ちいき

の人

ひと

たちに大切

たいせつ

におま

つりされています。

⑨⑨⑨⑨ 木木木木

のののの崎崎崎崎

さき

にあるにあるにあるにある金比金比金比金比

こ ん ぴ

羅宮羅宮羅宮羅宮

ら ぐ う

この地区

ちく

には昔

むかし

、海運業

かいうんぎょう

ひと

たちがいて、海

うみ

の神様

かみさま

であ

る金比

こんぴ

羅宮

らぐう

を勧請

かんじょう

したと

伝え

つた

られています。

⑩⑩⑩⑩ 玉井宮玉井宮玉井宮玉井宮

たまいぐう

((((井井井井

頓頓頓頓

どん

堂堂堂堂

どう

))))

おか

ばな

部落

ぶ ら く

の鎮守

ちんじゅ

さま

です。勸 請

かんじょう

年月

ねんげつ

は不明

ふめい

。木

さき

やま

の 麓

ふもと

あります。岡山県

おかやまけん

神 社庁

じんじゃちょう

によ

ると、「本社

ほんしゃ

は元児島郡

もとこじまぐん

小串

こぐし

光明崎

こうめいざき

(今

いま

は米崎

よねざき

)に鎮座

ちんざ

して

い た が 、 応

おう

とく

2年

ねん

(1085)

岡山市

おかやまし

東 山

ひがしやま

に遷座

せんざ

して玉井宮

たまいぐう

Page 19: tai histry walking

18

と称せられる

しょう

。その後

、正保

しょうほう

2年

ねん

(1645)藩主

はんしゅ

池田

いけだ

光政

みつまさ

の命

めい

によりこの地

東照宮

とうしょうぐう

を勸

かん

じょう

するにあたり玉井宮

たまいぐう

は下

した

の広場

ひろば

に遷座

せんざ

され国

こく

ない

べっ

かく

しゃ

の一

いっ

しゃ

に列された

れっ

。明治

め い じ

14年

ねん

玉井宮

たまいぐう

と東照宮

とうしょうぐう

は合祀

ごうし

され玉井宮

たまいぐう

東照宮

とうしょうぐう

として県社

けんしゃ

に列格

れっかく

した。安産

あんざん

の神様

かみさま

としても崇敬

すうけい

を集めて

あつ

きた。」と記さ

しる

れています。

⑪⑪⑪⑪ 塩釜塩釜塩釜塩釜

しおがま

神社神社神社神社

じんじゃ

西浜

にしはま

公園前

こうえんまえ

に弁財天

べんざいてん

と塩釜

しおがま

神社

じんじゃ

がありま

す。

その敷地

しきち

の南側

みなみがわ

鳥居

とりい

があり「梶原

かじわら

と記されて

しる

います。

むかし

こ の あ た り は

前潟

まえがた

塩田

えんでん

でした。

天保

てんぽう

6年

ねん

(1835)に

勧請

かんじょう

されています。元

もと

の場所

ばしょ

は旧

きゅう

えん

でん

わき

にあったそうです。

⑫⑫⑫⑫ 弁才天弁才天弁才天弁才天

べんざいてん

塩釜

しおがま

神社

じんじゃ

の横

よこ

に鎮

ちん

ています。もともとは

北側

きたがわ

の西浜

にしはま

公園

こうえん

にあり

ました。その場

しょ

は、

「弁天

べんてん

」と言われて

いま

したが、都

けい

かく

により

公園

こうえん

になったため、現在

げんざい

の位

に遷

せん

しました。

Page 20: tai histry walking

19

【参考地図】【参考地図】【参考地図】【参考地図】

4. 谷谷谷谷

たに

西西西西

にし

からからからから野々野々野々野々

の の

浜浜浜浜

はま

地区地区地区地区

ち く

①①①① 田井田井田井田井

た い

八幡八幡八幡八幡

はちまん

宮参宮参宮参宮参

ぐうさん

道道道道

どう

にあるにあるにあるにある常夜灯常夜灯常夜灯常夜灯

じょうやとう

田井

た い

八幡宮

はちまんぐう

の大

おお

とり

を登る

のぼ

と、中腹

ちゅうふく

あた

りの右側

みぎがわ

にあります。

ない

かい

を往来

おうらい

する船

ふね

の灯台

とうだい

の役目

やくめ

をしていました。

②②②② 谷谷谷谷

たに

西西西西

にし

部部部部

落落落落

らく

にあるにあるにあるにある金金金金

こん

比比比比

羅羅羅羅

宮宮宮宮

ぐう

はち

まん

ぐう

さん

どう

より少し

すこ

ひだり

に入った

はい

ところに

こん

ぐう

がまつられています。

Page 21: tai histry walking

20

③③③③ 佐々木佐々木佐々木佐々木

さ さ き

久久久久

ひさ

信信信信

のぶ

のののの墓墓墓墓

はか

さい

のペ

に田

の人物

じんぶつ

を詳しく

くわ

掲載

けいさい

ていますが、田

はち

まん

ぐう

の棟

むな

ふだ

に書

かれて

いる名

まえ

、佐

ひさ

のぶ

のお墓

は か

です。

現在は、民家の敷地内にあり正面から見るこ

とは出来ません。

④④④④ 谷谷谷谷

たに

東部落東部落東部落東部落

ひがしぶらく

にあるにあるにあるにある太子堂太子堂太子堂太子堂

たいしどう

聖徳太子

しょうとくたいし

をまつって

いるお堂

どう

です。

⑤⑤⑤⑤ 田井田井田井田井

た い

八幡宮八幡宮八幡宮八幡宮

はちまんぐう

田井

た い

八幡宮

はちまんぐう

は、玉

たま

おの

うえ

じゅう

ぜん

山南

やまなん

ろく

の内海

ないかい

を眼下

がんか

見渡せる

みわた

静寂

せいじゃく

な処

ところ

に鎮座

ちんざ

し田

・築

ちっ

こう

いち

えん

を氏子

うじこ

として

いる。

もともと、田

は早く

はや

から

Page 22: tai histry walking

21

開けた

ひら

土地

と ち

で、古く

ふる

から神社

じんじゃ

があったと口碑

こうひ

されているが、創建

そうけん

年代

ねんだい

は不

しょう

御神

ご し ん

とく

は「厄除け

やくよ

」とされている。室町

むろまち

時代

じだい

の豪族

ごうぞく

、田

しん

もん

のぶ

たか

(南北

なんぼく

ちょう

時代

じだい

の人

ひと

)の後裔

こうえい

佐々木

さ さ き

筑前

ちくぜんの

かみ

ひさ

のぶ

が三度

さんど

も夢

ゆめ

で八幡

はちまん

さま

のお告げ

を受け

うけ

、この地

1

宇佐

う さ

八幡宮

はちまんぐう

より勧請

かんじょう

し神社

じんじゃ

を再建

さいけん

し、神像

しんぞう

を作り

つく

奉納

ほうのう

した。

ご神

しん

たい

の胎内

たいない

に、文

ぶん

正元年

せいがんねん

(1466)丙

ひのえ

いぬ

11月

がつ

15日

にち

願主

がんしゅ

:佐々木

さ さ き

筑 前

ちくぜんの

かみ

みなもと

ひさ

のぶ

の墨

ぼく

しょ

めい

のある神

しん

ぞう

を安置

あ ん ち

し、一族

いちぞく

の繁

はん

えい

と地

いき

の発

はっ

てん

を祈

がん

したと伝えら

つた

れる。 その後

、棟

むな

ふだ

によると寛

かん

ぶん

がん

ねん

(1661)に本

ほん

殿

でん

が改築

かいちく

され、続いて

つづ

元禄

げんろく

12年

ねん

(1699)幣

へい

殿

でん

、拝殿

はいでん

、釣

つり

殿

でん

が改築

かいちく

された。

ほん

殿

でん

は万延

まんえん

元年

がんねん

(1860)に入

いり

づく

り檜

わだ

きに改築

かいちく

され、さらに昭和

しょうわ

61年

ねん

(1986)銅版

どうばん

葺き

に改築

かいちく

され、現在

げんざい

に至

いた

っている。

拝殿

はいでん

は明

めい

2年

ねん

(1899)に建

こん

りゅう

され、その後

ない

の補

しゅう

が 行

おこな

われている。

ずい

しん

もん

は明

めい

18年

ねん

(1885)の建

こん

りゅう

で、屋

がわら

の補修

ほしゅう

が 行

おこな

われているものの、

とう

のままの 状

じょう

たい

が保たれて

たも

いる。

ほん

殿

でん

や幣

へい

殿

でん

、拝殿

はいでん

の回り

まわ

は大

だい

しょう

さま

ざま

な木

に囲まれ

かこ

、荘厳

そうごん

な雰

ふん

が漂

ただよ

い、

はい

殿

でん

ひがし

には根

まわ

り約

やく

6メートル

め ー と る

、樹

じゅ

れい

700年

ねん

と推定

すいてい

される樟

くす

のき

がそびえ立ち

しん

とされ、天

てん

ねん

ねん

ぶつ

に価する

あたい

と言

われている。

現在

げんざい

、拝殿

はいでん

ななめ前

まえ

に社務所

しゃむしょ

を建築

けんちく

している。 正

しょう

がつ

・節分

せつぶん

・輪くぐり

・大祭

たいさい

しち

さん

とう

の祭礼

さいれい

には参

さん

ぱい

しゃ

も多く

おお

賑やか

にぎ

で、とりわけ子

ども

たちが団体

だんたい

でお詣

まい

する「節分

せつぶん

さい

・七五三

しちごさん

」は、田井

た い

地区

ち く

の風物詩

ふうぶつし

にもなっている。

【玉

たま

ぞく

へん

より】

⑥⑥⑥⑥ 道道道道

みち

上上上上

かみ

にあるにあるにあるにある地蔵地蔵地蔵地蔵

じ ぞ う

尊尊尊尊

そん

弘法大師

こうぼうだいし

をおまつりしています。

道上

みちがみ

は見

のう

地区

ち く

の中

なか

にあり、道上

みちがみ

部落

ぶ らく

の人

ひと

が大切

たいせつ

におまつりしています。

1

宇佐神宮は全国に 4 万社あまりある八幡様の総本宮です。

八幡大神(応神天皇)・比売大神・神功皇后をご祭神にお祀りし、725 年に創建されました。皇室

も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟(そうびょう)として御崇敬になり、一般の人々にも鎮守の神とし

て古来より広く親しまれてきました。

Page 23: tai histry walking

22

⑦⑦⑦⑦ 八重八重八重八重

や え

垣垣垣垣

がき

神社神社神社神社

じんじゃ

の 十

じゅう

ぜん

やま

2合

ごう

の祇

おん

ぐち

うえ

にある小さな

ちい

お宮

みや

です。もとも

とこの 社

やしろ

は宮山

みややま

東端

とうたん

の山

さん

ちょう

あったが、風害

ふうがい

が激しい

はげ

ところか

ら天

てん

ぽう

7年

ねん

(1836)現在地

げんざいち

に遷

せん

ておまつりしたものです。その時

とき

の棟

むな

ふだ

によると、名

ぬし

・宮

みや

しゃ

ひょう

、5人

にん

ぐみ

がしら

・井上与四郎

いのうえよしろう

判頭

ばんとう

・宮田

みやた

喜三郎

き さぶろう

の発願

ほつがん

で祠

かん

こん

どう

豊前の名

が見えている。この八

がき

じん

じゃ

いう名称

めいしょう

が何

付けられた

のか明ら

あき

かではないが、見

のう

という部落

ぶらく

の人

ひと

たちに

よってまつられており通

つう

しょう

「ぎおんさま」と呼ば

れる神様

かみさま

で、祭神

さいじん

はいうまで

もなく素

さの

おの

みこと

です。鳥居

とりい

には文政

ぶんせい

6年

ねん

(1823)4月

がつ

吉日

きちじつ

とあり、美

わか

れん

ちゅう

の寄

しん

です。鳥居

とりい

から急

きゅう

な坂

さか

を2・3百

びゃく

のぼ

り詰

めたところに社殿

しゃでん

があ

ります。石段

いしだん

の上

うえ

の左

ゆう

に高さ

たか

2.7メ

の大きな

おお

とう

ろう

2基

が弘

こう

2年

ねん

(1845)

きち

じつ

に美

わか

れん

ちゅう

によって奉納

ほうのう

されています。若者

わかもの

の奉納

ほうのう

によるものが

多い

おお

のはなぜでしょうか。このような例

れい

は少

すく

ないのです。

【玉

たま

ぞく

へん

より】

⑧⑧⑧⑧ 三軒屋三軒屋三軒屋三軒屋

さんげんや

・・・・岡岡岡岡

おか

鼻鼻鼻鼻

なば

にあるにあるにあるにある地蔵地蔵地蔵地蔵

じ ぞ う

尊尊尊尊

そん

三軒屋

さんげんや

と道

みち

かみ

・道下

みちした

の間

あいだ

にあり地

いき

の方

かた

が大切

たいせつ

におま

つりしています。

少し東に傾いています。

お地蔵様は左手に杖、右手にあじさいを持っています。

Page 24: tai histry walking

23

⑨⑨⑨⑨ 十十十十

じゅう

禅寺禅寺禅寺禅寺

ぜんじ

自道自道自道自道

じどう

車道車道車道車道

しゃどう

入口入口入口入口

いりぐち

にあるにあるにあるにある地地地地

蔵蔵蔵蔵

ぞう

尊尊尊尊

そん

三軒屋

さんげんや

と野

はま

の境

さかい

にある地

ぞう

そん

です。

⑩⑩⑩⑩ 野野野野

々々々々

浜浜浜浜

はま

会会会会

かい

館館館館

かん

にあるにあるにあるにある恵比寿宮恵比寿宮恵比寿宮恵比寿宮

え び す ぐ う

もと

ぎょ

ぎょう

くみ

あい

(現在は野々浜公民館)の敷

しき

ない

に海

うみ

に向

かってまつってあります。

寿

さま

は、海

かい

じょう

・漁

ぎょ

ぎょう

の神

かみ

さま

です。

⑪⑪⑪⑪ 延命延命延命延命

えんめい

なでなでなでなで地蔵地蔵地蔵地蔵

じぞう

尊尊尊尊

そん

延命

えんめい

なで地蔵

じ ぞう

は、慈

しょう

いん

入口

いりぐち

に鎮座

ちんざ

しています。その横

よこ

にあ

る石

せき

に十四番

じゅうよんばん

札所

ふだしょ

とあるの

は児島

こじま

霊 場

れいじょう

八十八ヶ所

はちじゅうはっかしょ

のうち

の第

だい

じゅう

よん

ばん

ふだ

しょ

のことで蓮華

れんげ

あん

をさしています。山

さん

おう

きゅう

あるのは日

よし

じん

じゃ

のことです。

十二番

じゅうにばん

は後

かん

の清

みず

あん

です。

Page 25: tai histry walking

24

⑫⑫⑫⑫ 慈慈慈慈じ

照院照院照院照院

しょういん

えん

めい

なで地

ぞう

さま

の横

よこ

の道

みち

を登る

のぼ

と児

じま

はち

じゅう

はっ

しょ

じゅう

さん

ばん

れい

じょう

の慈

しょう

いん

がある。この寺

てら

の創立者

そうりつしゃ

でお清

きよ

たい

といわれた平

ひら

せい

の書

き残

のこ

した由

らい

によると、「お清

きよ

という

ひと

は 平

たいら

のり

つね

の後裔

こうえい

、平

ひら

じょう

もん

の娘

むすめ

で、

その先祖

せんぞ

に当

たる平家

へいけ

一門

いちもん

が滅

ほろ

びた時

とき

、田井新左衛門尉信高

た い し ん ざ え も ん い の ぶ た か

を頼

たよ

ってここに住

ついたという。この 常

じょう

もん

という人

ひと

は弘法大師

こうぼうだいし

を深

ふか

く信仰

しんこう

して毎日

まいにち

かさず

観音経

かんのんきょう

3巻

かん

を読

どく

しょう

するという信心

しんじん

ぶりであった。」昭和

しょうわ

17年

ねん

に慈

しょう

あん

見能山

みのうやま

照 院

しょういん

と改

あら

めた。

また、毎年

まいとし

7月

がつ

になると田井

た い

地区

ち く

の小 学

しょうがく

4年生

ねんせい

以上

いじょう

の児童

じ ど う

が地区

ち く

ごとに大

おお

きな

数珠

じ ゅ ず

を持

って集

あつ

まり、虫

むし

ふう

じのお札

ふだ

を受

け、各家

かくいえ

を回

まわ

りお札

ふだ

を一枚

いちまい

づつ配

くば

り田

そのお札

ふだ

を立

て田

の虫

むし

を追

いだしていた。(現在は行われていません)

【玉

たま

ぞく

へん

より】

⑬⑬⑬⑬ 彌太之彌太之彌太之彌太之

や た の

進社進社進社進社

しんやしろ

照 院

しょういん

の境内

けいだい

のすぐ 東

ひがし

にあります。池

いけ

ばたけ

の開拓者

かいたくしゃ

とり

しん

をまつる社

やしろ

です。田

そん

によると長谷

は せ

三郎

さぶろう

、幸蔵

こうぞう

が勧 請

かんじょう

したと記

しる

されています。玉

たま

によると、鳥

とり

しん

は岡山

おかやま

藩士

は ん し

で、貞

てい

きょう

元年

がんねん

(1684)2月

がつ

24日

にち

、田

そん

に移

うつ

り住

んで、田

そん

の 東

ひがし

はし

の海岸

かいがん

を埋

め立

てて山麓

さんろく

を開墾

かいこん

し農耕

のうこう

を楽

たの

しみました。

その後

、元禄

げんろく

2年

ねん

(1689)にその田

はた

を入札

にゅうさつ

により、

長谷井

は せ い

庄之助

しょうのすけ

が落札

らくさつ

し鳥

とり

しん

の霊

れい

を慈

照院

しょういん

のそ

ばにまつり、部

らく

の地

ぬし

がみ

としました。

⑭⑭⑭⑭ 漁業漁業漁業漁業

ぎょぎょう

組合組合組合組合

くみあい

横横横横

よこ

にあるにあるにあるにある恵比寿宮恵比寿宮恵比寿宮恵比寿宮

え び す ぐう

旧 漁 業

きゅうぎょぎょう

組合

くみあい

の事務所

じ む し ょ

移転

いてん

に伴

ともな

い、

恵比寿宮

え び すぐう

が新設

しんせつ

されました。

Page 26: tai histry walking

25

⑮⑮⑮⑮ 童崎童崎童崎童崎

わろうざき

にあるにあるにあるにある塩釜塩釜塩釜塩釜

しおがま

神社神社神社神社

じんじゃ

ふく

から山田

やまだ

方面

ほうめん

に通

つう

ずる道

どう

の左 側

ひだりがわ

にあります。

もともと 童

わろう

ざき

にあったものを

現在

げんざい

の位置

い ち

に遷

せん

しています。

むかし

、このあたりは見

のう

がた

塩田

えんでん

した。

神社

じんじゃ

と厨

がた

ほこら

があります。

⑯⑯⑯⑯ 道道道道

みち

上上上上

かみ

にあるにあるにあるにある地蔵地蔵地蔵地蔵

じ ぞ う

尊尊尊尊

そん

のう

道上

みちがみ

にある地蔵

じ ぞ う

そん

で、地域

ち い き

の方々

かたがた

が大切

たいせつ

にお守

まも

りしています。

【参考地図】【参考地図】【参考地図】【参考地図】

Page 27: tai histry walking

26

5.5.5.5. 十十十十じゅう

禅寺禅寺禅寺禅寺

ぜん じ

からからからから梶原梶原梶原梶原

かじわら

地区地区地区地区

ち く

①①①① 牛牛牛牛

うし

神様神様神様神様

がみさま

じゅう

ぜん

に登る

のぼ

赤坂

あかさか

ぐち

(一合目

いちごうめ

の途

ちゅう

の左 側

ひだりがわ

の堤

つつみ

の上

うえ

にあ

る祠

ほこら

を田

れき

のメ

が登山中

とざんちゅう

に発見

はっけん

しま

した。

そん

を調べました

しら

が掲載

けいさい

れていませんでした。昔

むかし

は牛

うし

はな

ぐりをおまつりしていたよう

です。農耕

のうこう

をする牛

うし

へのお礼

れい

や豊作

ほうさく

を祈

いの

っておまつりしています。

②②②② 民民民民

みん

家家家家

のののの納納納納

屋屋屋屋

現在

げんざい

このエリア

え り あ

には

だれ

も住

んでいません。

いえ

の礎

せき

、ずり落

ちた

おお

、それらの周囲

しゅうい

には生

い茂

しげ

った竹

たけ

ぶばかりがあります。

③③③③ 竹林竹林竹林竹林

ちくりん

とととと道標道標道標道標

みちしるべ

田井

た い

・十

じゅう

禅寺

ぜんじ

から日

よし

じん

じゃ

への参道

さんどう

は、

鬱蒼

うっそう

とした竹林

ちくりん

なか

を通らなければ

とお

りません。

ひと

で行

くには

少し

すこ

さみ

しい参道

さんどう

す。

Page 28: tai histry walking

27

④④④④ 日吉日吉日吉日吉

ひ よし

神社神社神社神社

じんじゃ

【玉野市史

た ま の し し

続編

ぞくへん

・昭

しょう

48年

ねん

はっ

こう

】によると、「田井

た い

じゅう

禅寺山

ぜんじやま

の 頂

ちょう

じょう

を少

すこ

ひがし

に下った

くだ

あざ

深田

ふかだ

というところにある。

もともと 十

じゅう

禅寺

ぜんじ

は比叡山

ひえいざん

延暦寺

えんりゃくじ

末寺

まつでら

として、平安

へいあん

時代

じだい

に山

さん

じょう

らん

建てられ

、現在

げんざい

めい

にあまたの坊

ぼう

の名

を残

のこ

している。

その寺々

てらでら

の鎮守

ちんじゅ

して祀

まつ

られたのが

この日

よし

じん

じゃ

である。伝説

でんせつ

によると元

もと

この神

じん

じゃ

は現

げん

ざい

より北

きた

の大平山

おおひらやま

の山

さん

ちょう

にあったが、この神社

じんじゃ

の見

える 所

ところ

を航海

こうかい

する船

ふね

のすべてが神罰

しんばつ

をうけて

難船

なんせん

するので、海

うみ

から見

えない現

げん

ざい

に移転

いてん

したといわれる。 十

じゅう

禅寺山

ぜんじやま

大平山

おおひらやま

、大 乗

だいじょう

ごん

現山

げんざん

と続く

つづ

東児

ひがしこ

島連

じまれん

ぽう

一帯

いったい

に、平安

へいあん

時代

じだい

の山

さん

じょう

ぶっ

きょう

開けた

ひら

とすれば、大平山

おおひらやま

はその中 間

ちゅうかん

に当る

あ た

、南北

なんぼく

の海

うみ

を見

おろ

す位

にあるか

ら、此所

こ こ

に社

しゃ

があったことはうなずける。しかし、日吉

ひよし

神社

じんじゃ

が航海

こうかい

に害

がい

を及

およ

ぼす神

かみ

になった理

ゆう

はわからないが、由加

ゆ が

大権現

だいごんげん

の鬼

おに

の面

めん

が常山

つねやま

の中 腹

ちゅうふく

であ

る海岸

かいがん

では海

うみ

が恐

おそ

ろしいから、山

やま

の上

うえ

の海

うみ

の見

えぬ所

ところ

へ移

てん

したという伝説

でんせつ

があるところをみると、いつの頃

ころ

か、海 上

かいじょう

から見

える神社

じんじゃ

を恐

おそろ

しがる時

だい

あったのではあるまいか。それはともかく、日

よし

じん

じゃ

は江

だい

から害

がい

ちゅう

の神

かみ

として繁 昌

はんじょう

するようになった。農民

のうみん

は田

うえ

が終

わると一番

いちばん

に当

とう

しゃ

に参詣

さんけい

し、虫

むし

封じ

ふう

のお札

ふだ

を受

け、神社

じんじゃ

境内

けいだい

の砂

すな

をいただいて帰り

かえ

、一枚

いちまい

一枚

いちまい

の田

にそ

のお札

ふだ

を立

て、その砂

すな

で田

の虫

むし

を追いだして

いた。神社

じんじゃ

は一

いち

だん

ひく

い窪

くぼ

にある

が、神社

じんじゃ

の裏

うら

の高台

たかだい

に大きな

おお

とう

ろう

を建て

、この灯

とう

ろう

の明り

あか

の見える

はん

の農民

のうみん

はすべての人

ひと

がこの神

じん

じゃ

にお参り

まい

したので、後

かん

、大藪

おおやぶ

からの参道

さんどう

、八浜

はちはま

方面

ほうめん

からの参道

さんどう

、妹

せの

・早島

はやしま

・興除

こうじょ

・灘崎

なださき

・ 荘

しょう

ない

ほう

めん

から大崎

おおさき

を経

て池

いけ

の内

うち

りの参道

さんどう

、田井

た い

・宇野

う の

・玉野

たまの

方面

ほうめん

から梶原

かじわら

を通る

とお

参道

さんどう

など

があり、今に

いま

みち

しるべ

も多く

おお

残って

のこ

いる。幕末

ばくまつ

から明治

めいじ

・大 正

たいしょう

の末年

まつねん

までが一番

いちばん

盛ん

さか

であったが、次

だい

にさびれて、今

いま

では往

おう

の茶店

ちゃみせ

・料

りょう

の敷

しき

、廃

はい

おく

を残す

のこ

のみとなった。

Page 29: tai histry walking

28

うじ

は 十

じゅう

禅寺

ぜんじ

・元川

もとかわ

・池

いけ

の内

うち

さん

らく

すう

じゅっ

にすぎなかったが、今

いま

に残

のこ

る玉

たま

がき

や灯

とう

ろう

のたたずまいに往

おう

の面影

おもかげ

をしのぶことができる。宝暦

ほうれき

10年

ねん

(1760)の

じん

じゃ

しょ

じょう

ちょう

によると、田

そん

の内

うち

じゅう

ぜん

、一

いっ

しゃ

しゃく

ほう

かわら

ぶき

、祭

さい

れい

ろく

がつ

じゅう

よっ

、御

おん

しょう

いん

じゅう

いち

、御

おん

かん

じょう

ねん

れき

おぼ

え申

もう

す者

もの

く 侯

そうろう

、御

おん

しゃ

いっ

たん

、御

おん

ばやし

く 候

そうろう

、氏

うじ

さん

じゅう

けん

、右

みぎ

山王

さんのう

神職

しんしょく

こん

土佐

ど さ

すけ

と相

あい

神助

しんじょ

にて、

先年

せんねん

より務

つとめ

もうし

そうろう

どころ

小氏

うじ

にて御座

ご ざ

そうろう

ゆえに

近年一

きんねんいっ

年替

ねんがわ

り相

あい

つとめ

もうし

そうろう

神子私妻相勤居申侯、氏子

う じ こ

じゅう

禅寺

ぜ ん じ

・元川

もとかわ

、池

いけ

の内

うち

さん

しょ

、田

そん

ふじ

掃部、神

子同人妻篠女、大

おお

やぶ

むら

ぬし

ろう

、田

そん

にん

ぐみ

がしら

ぜん

もん

とある。田

そん

には祭神

さいじん

大山咋

おおやまくい

みこと

、大己

お お な

むちの

みこと

、恩姫命、菊

くく

ひめ

のかみ

、鴨玉依姫

かもたまよりひめ

、鴨玉依彦

かもたまよりひこの

かみ

わけ

雷 神

いかづちのかみ

、霊像

れいぞう

七基

な な き

なに

時代

じ だ い

か一基

い っ き

不明

ふ め い

とある。ご神体

しんたい

は小

ちい

さい金

こん

銅像

どうぞう

であり、

その製作

せいさく

も古

ふる

い、棟

むな

ふだ

には 貞

じょう

きょう

四年

よねん

(1687)のものと享 保

きょうほう

十 九 年

じゅうきゅうねん

(1734)

のものがあり、 貞

じょう

きょう

のものには備 中

びっちゅう

成羽

なりわ

新町油屋

しんまちあぶらや

藤利右衛門、池

いけ

の内村

うちむら

重兵衛

じゅうべい

が願主

がんしゅ

で改築

かいちく

、享 保

きょうほう

のものは葺

ふき

えであったらしい。現在

げんざい

の本

ほん

殿

でん

は文

ぶん

きゅう

三年

さんねん

(1863)のもの、幣

へい

殿

でん

、拝殿

はいでん

は明治

めいじ

十二年

じゅうにねん

の建築

けんちく

である。現在

げんざい

の本

ほん

殿

でん

一間 社流造

いっけんやしろながれづくり

、桧皮葺

ひ わ だ ぶ き

である。社

やしろ

うら

の大灯

おおとう

ろう

は火

ぶくろ

も大

おお

きく、早

はや

しま

方面

ほうめん

より

もこの明り

あか

が見

えたといわれており高さ

たか

は四

よん

ちか

く、最上段

さいじょうだん

が 瓢

ひょう

たん

み合

あわ

せになった珍らしい

めず

もので明治

めいじ

七年

しちねん

の建設

けんせつ

である。一

いち

の鳥居

とりい

よこ

の神木

しんぼく

樹齢

じゅれい

数百年

すうひゃくねん

の市内

しない

いち

の大杉

おおすぎ

であるが、落雷

らくらい

のため傷んで

いた

いる。

お堂

どう

の中

なか

にはいまでも少

すこ

し残

のこ

っていますが 2 つの乳房

ちぶさ

をぬいぐるみ風

ふう

に作って

つく

奉納

ほうのう

されているのを知

っている方

かた

も大

おお

いるでしょう。これは子供

こ ども

たちを守

まも

てくれる神様

かみさま

としての信仰

しんこう

であり、それは「おかげで乳

ちち

にも不自由

ふ じ ゆ う

はなくこの

は育ちました

そだ

。健やか

すこ

な成

せい

ちょう

をお

まも

り下

くだ

さい。」という意

であり、「次

つぎ

の子

どもも元

げん

で生

まれますように、そしてこの子

ども

も元

げん

で成長

せいちょう

しますように、

それまでお乳

ちち

をおあずけします。」というような意

のお祈

いの

りを込

めて奉納

ほうのう

した

ものである。

⑤⑤⑤⑤ 八浜側八浜側八浜側八浜側

はちはまがわ

のののの日日日日

吉吉吉吉

よし

神神神神

じん

社社社社

じゃ

のののの大鳥居大鳥居大鳥居大鳥居

おおとりい

じゅう

禅寺

ぜんじ

9合目

ごうめ

からの参道

さんどう

に鳥居

とりい

があります。

八浜

はちはま

地区

ち く

の本川

もとかわ

、田井

た い

地区

ち く

の駿河

するが

いけ

、山田

やまだ

地区

ち く

の大藪

おおやぶ

に通

つう

ずる鳥居

とり い

です。

鳥居

とり い

の前

まえ

の石 柱

せきちゅう

には大藪村

おおやぶむら

と記されて

しる

います。

Page 30: tai histry walking

29

⑥⑥⑥⑥ 常夜灯常夜灯常夜灯常夜灯

じょうやとう

早島

はやしま

方面

ほうめん

からもこの

明かり

が見えた

といわ

れており高さ

たか

は四

よん

ちか

く、最

さい

じょう

だん

が瓢

ひょう

たん

の組

くみ

み合

あわ

せに

なった 珍

めずら

しいもので

めい

しち

ねん

の建設

けんせつ

です。

⑦⑦⑦⑦ 金剛金剛金剛金剛

こんごう

峰峰峰峰

ほう

じゅう

禅寺

ぜんじ

の山 頂

さんちょう

三角点

さんかくてん

標 高

ひょうこう

は 236.5メ

ちょう

くさ

を刈った

ばかりの写真

しゃしん

ですが、普

だん

は草

くさ

がぼうぼうでなかなか登れ

のぼ

ないよ

うです。

じゅう

ぜん

やま

は国立

こくりつ

公園

こうえん

に指

てい

され、大

たい

へん

ふう

こう

めい

な場

しょ

でしたが、

保安

ほ あ ん

りん

が 生い茂り

お しげ

現在

げんざい

では眺め

なが

はよく

ないようです。

じゅう

禅寺山

ぜんじやま

の地名

ち めい

は、

天台宗

てんだいしゅう

の守護

しゅご

じん

じゅう

禅師

ぜんし

権現

ごんげん

に由

らい

する

ものと考えられて

かんが

います。平安

へいあん

時代

じだい

には、ここ一帯

いったい

の山上

さんじょう

に寺院

じ いん

が開かれ

ひら

、一時

いちじ

はその数

かず

が 十

じゅう

ぼう

あったと伝えられて

つた

います。

金剛

こんごう

ほう

、不老

ふろう

ほう

、西光

さいこう

ほう

、中 将

ちゅうじょう

ほう

などの峰々

みねみね

の名

は、こ

れらの山 上

さんじょう

伽藍

がらん

び名

に由来

ゆらい

しているそうです。

⑧⑧⑧⑧ 地蔵嵶地蔵嵶地蔵嵶地蔵嵶

じ ぞ う た わ

ににににあるあるあるある六 尺六 尺六 尺六 尺

ろくしゃく

地蔵地蔵地蔵地蔵

じ ぞ う

尊尊尊尊

そん

駿河

するが

いけ

から日

よし

神社

じんじゃ

に登

のぼ

るところに地

ぞう

たわ

があります。

そこには、立派

りっぱ

な御

かげ

石像

いしぞう

があります。

たか

さ 六 尺

ろくしゃく

( 1.818 メートル

め ー と る

) 巾

はば

一 尺

いっしゃく

八寸

はっすん

(54.54

センチメートル

せ ん ち め ー と る

)、総高

そうこう

一 丈

いちじょう

一 尺

いちしゃく

二寸

にすん

(3.39メートル

め ー と る

)。

文化

ぶんか

十一年

じゅういちねん

(1814)七月

しちがつ

に勸 請

かんじょう

(神仏

しんぶつ

の分霊

ぶんれい

を他

の場所

ばしょ

Page 31: tai histry walking

30

に移

うつ

しまつること)で世話人

せ わ に ん

は宮田傅

みやたでん

きち

ほか

十 名

じゅうめい

です。近く

ちか

に 祠

ほこら

と小さな

ちい

地蔵

じ ぞう

そん

あります。【田

そん

より】

【参考地図】【参考地図】【参考地図】【参考地図】

Page 32: tai histry walking

31

6. 田井田井田井田井

た い

のののの人物人物人物人物

じんぶつ

((((江江江江

戸戸戸戸

時時時時

代代代代

だい

以以以以

前前前前

ぜん

)【)【)【)【玉玉玉玉

たま

野野野野

史史史史

誌誌誌誌

続続続続

ぞく

編編編編

へん

よりよりよりより抜抜抜抜

ばっ

粋粋粋粋

すい

】】】】

【【【【田井田井田井田井

た い

新左新左新左新左

しんざ

衛門衛門衛門衛門

えもん

信信信信

のぶ

高高高高

たか

】】】】 備前

びぜん

佐々木

さ さ き

の一族

いちぞく

で、宇多

う た

天皇

てんのう

14代

だい

の後裔

こうえい

、備 中 守 持

びっちゅうのかみもち

うじ

の子

であるといわれ

る。

太平記

たいへいき

によると、建武

けんむ

2年

ねん

(1335)11月

がつ

26日

にち

あく

のぶ

たね

2222

など

と共

とも

に、備 中

びっちゅう

ふく

山 城

やまじょう

り、細川

ほそかわ

定 禅

じょうぜん

3333

の下

もと

に属

ぞく

して南

なん

ちょう

に敵対

てきたい

し、児島

こじま

の豪族

ごうぞく

児島

こじま

高徳

たかのり

に攻

められ

たこともある。

のち

、足利

あしかが

たか

うじ

が 九 州

きゅうしゅう

にのがれた時

とき

は飽

あく

、松田

まつだ

、内藤

ないとう

など

一族

いちぞく

と共

とも

に三石

みついし

じょう

り、官軍

かんぐん

の西下

さいか

を防

ふせ

いだ。それ以後

い ご

の消 息

しょうそく

は不

めい

であるが、田

そん

の豪族

ごうぞく

であ

ったことは事

じつ

のようで、後

こう

せい

までも田

そん

の人々

ひとびと

は新左

しんざ

衛門

えもん

の名

をはばかって、

これを普

つう

の人

ひと

の名前

なまえ

につけない習 慣

しゅうかん

になっている。

の崎

さき

の山 頂

さんちょう

に 塁

とりで

を設け

もう

、本

ほん

じょう

みの

さん

げん

かみ

の、現

げん

に天守

てんしゅ

といわれた付

きん

しろ

を持

っていた一族

いちぞく

であろう。

児島

こじま

4444

屯倉

みやけ

関係

かんけい

の豪族

ごうぞく

か、あるいは藤戸

ふじと

の合戦

かっせん

によって児島

こじま

を領 有

りょうゆう

した佐々木

さ さ き

一族

いちぞく

か、その起源

きげん

は明

あき

らかではないが、文政

ぶんせい

年間

ねんかん

田井

た い

八幡宮

はちまんぐう

のご神像

しんぞう

の銘

めい

「願主

がんしゅ

佐々木

さ さ き

筑 前

ちくぜんの

守 源

かみみなもと

ひさ

のぶ

」とあることからも佐々木

さ さ き

が濃

いようである。

【【【【田井田井田井田井

た い

蔵人蔵人蔵人蔵人

くろうど

大輔大輔大輔大輔

だいすけ

】】】】 田

そん

のひとで田井

た い

新左

しんざ

衛門

えもん

のぶ

たか

の兄

あに

である。太平記

たいへいき

5

に節度使

せ つ ど し

下向

げこう

の人数

にんずう

にて、

新田

にった

よし

さだ

に 従

したが

い関

かん

とう

へ出

る。その後

も義

よし

さだ

に 従

したが

い歴戦

れきせん

したが越前

えちぜん

で戦死

せんし

したと

われている。

きょう

だい

でありながら兄

あに

は南

なん

ちょう

に、弟

おとうと

は北

ほく

ちょう

についているのは当

とう

を反映

はんえい

してい

る。その他

の事

せき

が一

いっ

さい

つた

わっていないのは残念

ざんねん

であるが、田

、三

やけ

と市

ない

2飽浦信胤(あくらのぶたね、生没年不詳)は、南北朝時代の武将。本姓は佐々木で、佐々木信胤、

佐々木三郎左衛門、佐々木薩摩とも呼ばれる。 3細川定禅(ほそかわじょうぜん)は、鎌倉

かまくら

時代

じだい

末期から南 北 朝

なんぼくちょう

時代

じだい

にかけての武将。 細川頼

ほそかわより

さだ

の子で、細川

ほそかわ

あき

うじ

の弟に当たる。 4屯倉(みやけ)とは、ヤマト政権の支配制度の一つ。 全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。

5『太平記』(たいへいき)は日本の古典文学の一つである。 全 40 巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩

壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2 代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318 年(文

保 2 年) - 1368 年(貞治 6 年)頃までの約 50 年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西

源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、

怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。

Page 33: tai histry walking

32

にその血

をひく人

ひと

が多

おお

く残

のこ

っているに違

ちが

いあるまい。郷

きょう

の忘

わす

れられた偉

じん

であ

る。

【【【【梶原梶原梶原梶原

かじわら

三郎三郎三郎三郎

さぶろう

】】】】 源

げん

ぺい

せい

すい

に「6月

がつ

17日

にち

平家

へいけ

の軍

ぐん

ぴょう

など船

ふね

に乗

り摂津

せっつの

くに

6666

福原

ふくはら

の故郷

こきょう

に襲

おそ

い来

る由

よし

、備前

びぜん

のくに

より飛脚

ひきゃく

を以

もっ

て申

もう

し上

げたりければ 都

みやこ

のざわめき斜

なな

めならず

云々

うんぬん

」とある。

とう

、児

じま

における南朝方

なんちょうがた

は児

じま

たか

のり

を中 心

ちゅうしん

とした一族

いちぞく

で、信

のぶ

たか

や田井

た い

北朝方であったが、いつの頃

ころ

、どういう理

ゆう

で南

なん

ちょう

についたかは不

めい

である。太

たい

へい

の文

ぶん

から見

ると飽

くら

のぶ

たね

、梶原

かじわら

三郎

さぶろう

は、南 朝

なんちょう

に転向

てんこう

したことは事

じつ

であ

ろう。

梶原

かじわら

と 称

しょう

するからには、田井

た い

の梶原

かじわら

に居 住

きょじゅう

していたと見

るべきで、駿

する

やま

じょう

しゅ

であったものであろう。

かじ

わら

らく

に源

げん

・源

げん

ざか

という地

めい

があるし、地

がみ

さまのところに大きな

おお

りん

とう

が残

のこ

り、梶原

かじわら

らく

の人

ひと

たちでまつっていたことを 考

かんが

えると、梶原

かじわら

三郎

さぶろう

なる人物

じんぶつ

の後裔

こうえい

の墓

はか

であろうか。

7

梶原景

かじわらかげ

とき

が一時

いちじ

備前

びぜん

にいた事

こと

は太

たい

へい

にも記

しる

されてい

るが、景

かげ

とき

が駿河

するが

のかみ

であったことなどから 考

かんが

えると、一時

いちじ

この地

に景

かげ

とき

もお

り、城

しろ

を駿河

するが

じょう

と 称

しょう

したもので、その後裔

こうえい

が代々

だいだい

この地

に、豪族

ごうぞく

として残

のこ

たものであろう思われる

おも

【【【【佐々木佐々木佐々木佐々木

さ さ き

久久久久

ひさ

信信信信

のぶ

】】】】 田井

た い

八幡宮

はちまんぐう

のご神体

しんたい

に「文

ぶん

正元年

しょうがんねん

(1466年

ねん

)丙

ひのえ

つちのえ

1月

がつ

15日

にち

、願主

がんしゅ

、佐々木

さ さ き

筑 前

ちくぜんの

守 源

かみみなもと

ひさ

のぶ

」という、墨

ぼく

しょ

めい

が記

しる

されている。

伝説

でんせつ

によると田井

た い

新左

しんざ

衛門

えもん

の後裔

こうえい

が、夢

ゆめ

に八幡

はちまん

さま

が枕 元

まくらもと

に立

たれ、「氏神

うじがみ

さま

6

摂津国(せっつのくに)は、かつて日本に設けられた地方行政区分の令制国の一つである。

別称は摂州(せっしゅう)。畿内の一国。『延喜式』での格は上国。

領域は、現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。摂津・河内・和泉の三国の国境は、

現在の堺市の方違神社(三国山・三国丘)にあったが、明治 4 年(1871年)に和泉国との国境は

堺大小路から大和川に改められ、一部が和泉国に編入された。

7

梶原景時(かじわらかげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。

鎌倉幕府の御家人。

石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を

好み、武家百人一首にも選出されている。頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ

本体ノ武士」と称されていた。一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」

と古くから評せられている。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族ととも

に滅ぼされた

Page 34: tai histry walking

33

非常

ひじょう

に荒

れている、速

すみ

やかに再建

さいけん

するように」とのお告

げを受

けたので、早速

さっそく

社殿

しゃでん

を再建

さいけん

し、ご神体

しんたい

も古

くなっていたから、新

あたら

しく彫刻師

ちょうこくし

に依

らい

し、ご神霊

しんれい

を入

れておまつりしたため、 再

ふたた

び田井

た い

は栄

さか

えたといわれている。

児島

こじま

古城記

こじょうき

、常

つね

山 城

やまじょう

見取

み と

り図

の中

なか

に「これより 東

ひがし

いち

、田

そん

の墓

はか

り」と記

しる

されている。

この古墓

こ ぼ

といわれるものらしいものが現在

げんざい

、田

のう

らく

の谷

たに

、三

やけ

寿夫

の宅

たく

の一隅

いちぐう

にある。室

むろ

まち

だい

の五

りん

とう

の残

ざん

けつ

が、積

み重

かさ

ねられており、その数

かず

も定

さだ

かではないが数

すう

のものであることに相

そう

なく、時

だい

てき

にも室町

むろまち

初期

しょき

と思

おも

われ

るものが含

ふく

まれている。

伝 承

でんしょう

によると元

もと

は道端

みちばた

の小

だか

い丘

おか

の上

うえ

にあったが、明治

めいじ

年間

ねんかん

現在

げんざい

のところに

てん

したものだといわれ、明

めい

中頃

なかごろ

まではこの五

りん

は村人

むらびと

に非

じょう

に恐

おそ

れられて

おり、この道

みち

を下肥

しもごえ

を担

かつ

いで通

とお

るときなど用心

ようじん

しないと、少

すこ

しでも下肥

しもごえ

が墓石

はかいし

にかかれば、すぐさま大

たい

りょう

の糞

ふん

尿

にょう

がその身

に跳

はね

ね返る

かえ

といわれたそうだ。

子ども

たちもこの聖

せい

には入

はい

らず、敬遠

けいえん

して近

ちか

づかなかったと古

ろう

は話

はな

していた。

の人

ひと

たちが、この墓

はか

をどれほど尊敬

そんけい

していたかが偲

しの

ばれる。

【参考】【参考】【参考】【参考】

地地地地

じぢ

神神神神

かみ

様様様様

さま

とはとはとはとは……………農

のう

ぎょう

に関

かん

けい

ふか

い次

つぎ

の五

ばしら

の神

かみ

がみ

です。

1. 天あま

てらす

大 神

おおみのかみ

……太

たい

よう

を中

ちゅう

しん

として大

だい

ちゅう

を 司

つかさど

る神

かみ

2. 大 己

おおなむち

ちの

みこと

……大

おお

くに

ぬしの

みこと

のことで農

のう

ぎょう

や縁

えん

むすび

を 司

つかさど

る神

かみ

ばしら

のご祭

さい

じん

のうちの大己

おおなむ

ちの

みこと

は、素

のう

みこと

のご子

そん

(六

ろく

だい

ともいわ

れます)にあたります。因

なば

の白

しろ

うさぎ

のお話

はなし

でご存

ぞん

の方

かた

も多

おお

いでしょう。

えん

むす

びで知

しら

られる出

ずも

たい

しゃ

におまつりされている神

かみ

さま

です。大

おお

くに

ぬしの

みこと

など

おお

くの別

べつ

めい

もお持

ちで、「だいこくさま」などとも呼

ばれ信

しん

こう

されている神

かみ

さま

です。

3. 少すくな

ひこ

のみこと

………医

りょう

や薬

くすり

などを司

つかさ

どる神

かみ

4. 埴はに

やす

ひめの

みこと

…………池

いけ

や土

じょう

を司

つかさ

どる神

かみ

5. 倉う

かの

みたまの

みこと

………食

しょく

もつ

を司

つかさ

どる神

かみ

※各

かく

で五

かっ

けい

の「地

かみ

さま

」が見

られる。5角

かっ

けい

は上

じょう

の5つの神

かみ

さま

の意

です。

じん

じゃ

の境

けい

だい

に 祀

まつら

られていることが多

おお

い。

Page 35: tai histry walking

34

【【【【あとがきあとがきあとがきあとがき】】】】

くるま

が入

はい

れない細

ほそ

い道

みち

を歩

ある

きながら、古

ふる

くからまつられているお寺

てら

や神社

じんじゃ

、そして

お地

ぞう

さま

などに出会

で あ

ったとき、何

なに

か古

ふる

き時

だい

の人々

ひとびと

の 魂

たましい

に触れた

ような気

さえし

ました。

「長

なが

い間

あいだ

田井

た い

に住

んでおりましたが、このような 所

ところ

があるなんて知

らなかった。」

と参加

さんか

した人

ひと

たち

は感動

かんどう

しきりでした。

が集

あつ

まり、同

おな

じ目的

もくてき

をもち手

さぐ

りで進

すす

み、地

いき

の皆様

みなさま

のご協

きょう

りょく

により、

さっ

ができました。内容

ないよう

につきましては、参加者

さんかしゃ

が独

どく

に調

しら

べたものであり、信憑性

しんぴょうせい

を保

しょう

するものではありません。なお、歴史

れきし

についての資

りょう

や地図

ち ず

どをインターネット

い ん た ー ね っ と

に掲載

けいさい

していますので、加

ひつ

・修 正

しゅうせい

がありましたら、ネ

じょう

で随時

ずいじ

変更

へんこう

していただければ 幸

さいわ

いです。若

わか

い世

だい

の皆

みな

さんにネ

じょう

での変更

へんこう

たい

しています。

出 版

しゅっぱん

編 集

へんしゅう

にご参加

さ ん か

いただきました田井

た い

みん

センターの職 員

しょくいん

の皆様

みなさま

、田井

た い

歴史

れきし

研 究 会

けんきゅうかい

の皆様

みなさま

、印刷

いんさつ

にご 協 力

きょうりょく

いただいた N P O

えぬぴーおー

スマイルネット

す ま い る ね っ と

たま

情 協

じょうきょう

の皆様

みなさま

に感謝

かんしゃ

と敬

けい

を 表

ひょう

します。

この冊子

さっし

とウォーキング

う ぉ ー き ん ぐ

地図

ち ず

は印刷

いんさつ

して田

みん

に保

かん

しています。

どうぞご利

よう

ください。

さい

に、この活動

かつどう

に携わり

たずさ

発起人

ほっきにん

でもある会

かい

ちょう

の宮

みや

くに

蔵さん

ぞう

が、平成

へいせい

23年

ねん

11月

がつ

22日

にち

びょう

のため亡

くなられました。ご

ほん

にん

はこの冊

さっ

の完成

かんせい

を何よ

なに

りの楽しみ

たの

されていました。本当

ほんとう

に残念

ざんねん

でなりませんが、故

じん

の思い

おも

が地

いき

の中

なか

での新た

あら

な絆

きずな

なって、世

せい

を越えて

語り継がれます

かた つ

ことを願って

ねが

やみません。 合

がっ

しょう

【参考文献】:玉野市史、玉野市史続編、田井村誌、正ノ上伝説 助言・指導 三宅重孝

田井歴史研究会 (会 長)宮田泰子・(前会長)故 宮田邦蔵

(副会長)岡部成行・伊藤誠子

(会 計)橋本貴美子

(監 査)宮崎興一

(順不同) 谷井宏光・中谷昭子・平山公香・原美智子・村上元子・吉井幸子・竹下幸男・ 竹下智恵子・白井福美・葛原進・萩野昭彦・四宮美江・木村義浩・藤原さとみ

三宅みい子・井上貞女・藤井初子・岡部恵子

編集発行:平成 24年 3月吉日

Page 36: tai histry walking

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